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『インドで呼吸し、考える2011』(11)ラダック 奇跡の虹を見た

7月17日(日)
11.ラダック7日目
奇跡の虹
朝、ぼーっと目覚める。今日は早くから尼僧たちの声が弾んでいる。確かイギリスの高校生との交流会がある日なのだ。そう思って気にしないでいると、一人が部屋へ飛び込んできて、「大変だ、こっちだ、空が・・」と言うではないか。慌てて外へ飛び出すと晴天の中、小雨が落ち、そして山のあたりにきれいな虹が架かっていた。

しかもその場所はこの2日間訪れたあのスピトク寺院。これは何か特別なサインだと誰にでも分かる。何しろ降水量の少ないラダックで虹は珍しい。2階に上がるとP師が既にカメラを構えていた。「本当に稀なこと。今回スピトクの法会が成功したと言う意味だ」とこの時ばかりは宗教的に言う。確か今日は1年一度ご開帳されていた曼荼羅絵を仕舞う日。

私は昨日よりリンポチェの転生のことなど考えており、ちょっと不謹慎な思考も混ざっていた。特に人々が6歳の子供を生まれ代わりとして崇める姿にはかなりの違和感があった。しかしこの特別の日に目の前でこういうものを見せられると、考えを変えざるを得ない。「ラダックに行けば何かが見られる」と誰かに言われたが、これだったのだろうか。

ただ後で聞くと別の意見もあった「昨年の大洪水も稀なことであった。雨が降ることはよいことだが、また昨年同様の災害に見舞われるのではないかと危惧している人々もいる。虹が出たことが全て良いこととは言い切れない」果たしてこの虹は何を意味するのか。日本ではよく奇跡を扱う番組があり、素直には信じられないが、今回の虹、私は吉兆と信じたい。こんな所から信心とは生まれるのかもしれない。

脈診で分かる「考え過ぎ」
8時前、P師より声が掛かる。LNA関連の資料とDVDを貸してもらう。そしてとうとう脈を診てもらった。P師はチベット伝承医学を納めており、この地方は勿論日本にも診てもらいたがっている人々がいる。今回特別の計らいで実現。そして気になる結果は「身体機能には異状なし。但し考え過ぎ」とのお見立て。

彼女から色々とアドバイスを貰ったが、その後本当の患者が待つクリニックへ出掛けて行った。朝食は食べたのだろうか、凄い人だ、本当に。私の朝食はちゃんと残されていた。今日は珍しく揚げパン。何もつけなくても美味しい。もしこれに砂糖が付いていれば、小学校の給食で食べたあの揚げパンそのものだ。3枚も食べてしまう。

パンを食べながら考える。「考え過ぎ」とは何だろうか。中国でも他のアジアでも「日本人は細かいことを考え過ぎ」とはよく言われた。「重箱の隅をつつく」とも言われた。北京の脚マッサージのお姐さんからも「あなたは一日中頭を働かせている。頭も休めないと使い物にならないよ」と言われたことなども思い出す。

確かに我々は「隙のない生活」を目指しているのかもしれない。そして他人を指して「どうしてあんな簡単なことに気が付かないのだろう」などと思う。日本社会の縛りの構図のような気がする。

P師の言った考え過ぎとは恐らくはもっと大きな意味だろう。「アジアのことを考え、日本のことを考え、家族のことを考え、そして自分のことも考える」それでは疲れてしまうだろう。オンとオフをはっきりさせて、休む時は休む、他人に任せる時は任せる、そんな生活を送れ、と言われたようだ。が、まだ判然としない。

イギリス人高校生来訪
9時過ぎにイギリス人高校生がやって来た。皆準備に余念がなく、胸に名前を張ったりして、緊張の中で実に嬉しそうだった。到着した高校生の荷物を嬉々として運んでいた。グループワークも楽しそうにしていた。正直色々と環境が違う彼女ら。実際はどう思っているのかちょっと関心がある。ハーディは大活躍。受け入れ側代表であり、全体のコーディネーターとして走り回る。庭には特設テントも設置され、調理の補助として何故か男子3名がやって来てテントに泊まるらしい。

交流は順調だったようで、グループワークでは仲良く作業していた。午後も歌やパフォーマンスがあり、尼僧たち、とくに幼い子達は大喜びではしゃいでいた。ただ昼ごはんの時に高校生は先に食べ始め、尼僧たちは結局場所が狭すぎると言うことで、外で食べることになってしまったのは、双方に取り残念なことであった。夜も交代で食べる。

先進国で何不自由なく育ってきたと思われる10代のイギリス人が、突然何もない環境に放り込まれる。「World Challenge Program」というイギリスベースの高校生プログラムだと言うが、イギリスは思い切ったことをする。日本なら「もし何かあったらどうするんだ」と責任論だけが先行し、学校もリスクを取らず、結局このような有意義な体験を得ることは出来ないであろう。イギリス教育の奥深さを感じる。

宿泊などの環境は体験できても、さすがに食事は共有できないとのことで、ケータリングチームが派遣された。彼らはトレッキングのガイドなのだろうか、素早いさばきで食事を作り上げる。その味は肉や魚は使っていないが、西洋人好みに出来ていて驚く。

実は私は外国人扱いで、結局食事はイギリス人と食べる。というよりも彼女らが連れてきたコックが作る料理のご相伴に預かる感じ。クリームスープはとても濃厚、ベジカレーは最高に美味しく感じられた。ようは僧院の食事は基本的に刺激、味付けが酷く抑えられていると言うことなのだ。どちらが良いと言う問題ではなく、美味しいものをたまに食べるのは幸せな気分。しかし考えてみれば、私は彼女らの施しで食事をしていることになる。恥ずかしいような気もするが、ここにいれば、それも良しを思える。

驚いたことにあの新入り少女はまだ馴染めずにはいたが、何とハーディと英語で不自由なく会話していた。そういえばさっき会計係であるソーナムと調理者とのミーティングにも首を突っ込んでいた。彼女はソーナムの親戚だと聞いているが、難しい話もある程度分かっているのだろう。ハーディの好きな食べ物はとの英語の問い掛けに、にカリフラワー、好きな動物はホッキョクグマと答えるあたり、只者ではないかもしれない。ただハーディが敢えて「昔の良い思い出は」と聞いたのに対して、明確に答えなかった。それが彼女のポイントなのだろうか。



『インドで呼吸し、考える2011』(10)ラダック 犬と会話できないのは人間の問題

レイの街 現代は刺激があり過ぎる
午後はフリーなので、ゆっくりしてから、レイの街へ出掛けてみた。これまでの経験では空港道路まで出て、タクシーを拾うのだが、ちょっと道を間違えたところ、ちょうど村々を通り、レイに向かう道に遭遇したため、歩いて行くことにした。その道は村人が通る道であり、実に穏やかで風情があった。大木もあり、立派な家もあり、木の橋もあった。天気も良く、背後の青空もあり、写真映えがした。

上りということもあり、かなり歩いてようやく車が通るような広い道に出た。しかしそこは舗装工事中で歩きにくく、難儀した。自分が子供の頃、よく道の舗装が行われていたことを思い出す。経済成長期に見られる現象。あの独特のにおいすら懐かしく感じられる。

少し歩いて行くとようやくレイの街の端に到着。そこから道を上がると、ゲストハウスや土産物屋がどんどん出て来た。どうやら外国人観光客向けの通りに出たようだ。店の前に皆出ていて、盛んに声を掛けてくる。あー、俗世だ。と言っても先進国の大都会から見れば、鄙びた街なのであるが。

世俗に触れ、刺激を受けて、急に冷たい飲み物が飲みたくなる。無ければ我慢できるが、あるのに買わないと後に残ると考え、店に入る。冷蔵庫があり、中にコーラがあった。思わず手を伸ばして飲む。ウマい。25rpでこんなに感激するか。更に少し行くとパン屋があり、チョコクロワッサンが売っていた。これもご馳走と衝動的に買い、店の中庭で食べる。これも美味い。不思議なくらいうまいのである。やはり普段とかけ離れた食生活にはそれだけ負荷が掛かっているかもしれない。まだまだ修行が足りない。

今回の滞在で感じたことは「現代の人間はあまりにも心身に刺激を与え過ぎている」ということ。尼僧院生活の基本は「如何に刺激を与えないか」であろう。食べ物にスパイスを利かせない、飲み物はお茶でも緑茶などを避けている。しかしブッダもそうであったようだが、全く世俗から離れて山籠もりするのは仏教では意味がない。世俗と程よい距離に居て、初めて宗教に意味が見出せるのかもしれない。

オールドパレス 人と人の間
何だか目的を果たしたような気分になる。そして見上げるとオールドパレスが幽霊棟のように聳えているのが見える。一度登ってみるかと思い、道を探す。ようやく細い道に入り上り始めると向こうから降りてくる人が。また会ったね。昨日ストゥーパで急な階段を一緒に登った日本人、実は今朝もスピトクですれ違っていた。2日間で3度目の遭遇。これは偶然ではないかもしれない。彼もそう思ったのか、いきなり道端に腰を掛け、話を始める。

彼はこれまで彫刻の修行をしており、それを終え、独立して仕事を始める前の最後のバックパック旅行とのこと。約2か月間放浪するらしい。彫刻の仕事の足しにするかと思うが、仏像はやはり日本が一番美しいと感じている。ラダックなどチベット系では壁画に魅力があると言う。

昔は神社の修復、家の欄間の作成など、仕事は沢山あった。今は先ずお祭りの神輿の製作・修理とか。将来日本でどんな仕事をするのだろうか。実に爽やかで有為な若者、何だか楽しみである。

さて、再び上り始める。少し急な階段があったが、昨日のシャンティの経験があり、むしろ楽に感じられる。人間とは「人と人の間」という意味だが、実は人と自然の調和ではないかと思う。標高3500mの高地では、自然、環境に順応しないと生きていけない。現在の我々が言う人間社会はまさに人と人とが徐々に順応できなくなってきているような気がしてならない。

オールドパレス、というより王宮跡。建物は市内を一望できる場所にあるが、今や無人で何もない。ところがこんな場所でも外国人料金100rpを取ると言う。この辺りが街である。何層にもなっており、上へ上へ上るだけ。疲れて来る。しかも基本的に風景は同じ。

こんな急な場所で荷物を担いで登るおばさん達がいた。彼女達は建築中の新しい部分へ材料や水を運んでいた。さすがにきついらしく、はーはー息をしている。これだけの重労働をして一体いくらもらえるのだろうか。しかしインドへ来ると女性が重労働に従事している所によく出くわす。そういうものなのだろうか。

ここには寺院が2つあった。ツォモ寺院には僧は常駐していないとあったが、ちょうど一人の僧が中へ入り、太鼓をたたき始める。その様子を入り口から眺めていたら、僧も私に気が付いたが、何分一人。私への対応は出来そうもなかったので、離れる。

もう一つはソマ。こちらはこじんまりしていて、建物の2階、テラス部分に仏像が安置されていた。あまりに小さいので、入るのを躊躇っていると、右手をかなり怪我している少年が、チケットを出してきたので、思わず20rp支払う。中には小さいが壁画もあり、意外やよい感じであった。よく見ると建物の外側にも壁画が描かれていたので、これだけ見ればよかったようだ。

犬と会話できないのは人間の問題
降りて来てメインバザールを歩く。ここは一昨日も通っているので、帰り道に迷う恐れもない。電気屋があったので覗く。洗濯機や冷蔵庫は基本的にサムソンかLGの韓国製。テレビは東芝に液晶なども見られたが、やはり韓国勢が強い。携帯は普通の所ではインド製らしい。ちょっと良さそうな店へ行くとノキアなども置いている。兎に角街中にAirtelの広告がある。今や携帯は普及品であろうか。

そこからバスターミナルを通り、延々と歩いた。夕陽がきれいであり、かなりの写真を撮った。本当に美しい景色が何度も出現した。ただどこにも電線があり、少し興ざめするのだが。牛が道路を渡る様子など、ユニークであった。しかし下り坂なのに一向に到着しない。何と戻るのに1時間以上を要した。かなり疲れた。

疲れをとり、汚れを取ろうとシャワーを使おうとしたら、急に電気が落ちた。こうなれば諦めよう。そういうものだ。しかし暗くなって気が付くと、何と他の部屋には電気が来ていた。あれ、と思ったが、ここで皆に電気のことを聞く気にはなれなかった。無ければないでよいのだ。しかし尼僧たちもこの件には気が付いたようで、騒ぎ出し、結局ブレーカーが落ちていたのを直してくれた。それでもシャワーは浴びなかった。

夕飯にチーズのような、ヨーグルトのような物をパンに付けて食べる食べ物が出た。しかし私の前だけにはうどんが椀に入って出された。どうやらチーズやバターは苦手ということが伝わり、配慮があったようだ。有難い。

部屋に戻ると犬が鳴き出した。何か大きな車が入ってきたのだ。そうれは給水車であった。真っ暗な中で、何人かが作業を始め、水を貰っていた。水は本当に貴重な物なのだ。

因みにこの僧院には何匹かの犬がいる。その中でサンとムーンと言う2匹が可愛がられている。P師は私への講話の中で、「サンやムーンも我々とコミュニケートしようとしている。我々が彼らの言葉を理解できないのだ。」と言っていたが、確かにこの2匹は時々私の所へやって来て、異様なまでに絡み付いたり、手を舐めたりする。それは何故なのか、私には理解できないが何らかの合図である。




『インドで呼吸し、考える2011』(9)ラダック 6歳のリンポチェ登場

6歳のリンポチェ登場
昨日も入った新しいお堂で、既に祈祷が行われていた。ソーナムは私を例の曼荼羅の所へ連れて行き、説明してくれた。その後私の座る場所を示し、どこかへ行ってしまう。見ると既に数人の観光客が座っていた。祈りを聞いていると言うよりは写真を撮ることに夢中で、中にはシャッターの音を大きく響かせ、僧侶が振り向くなど、顰蹙を買うような行為も見られた。ただ彼らは10分ぐらいで、出て行ってしまう観光客。その後も何人もの観光客が入ってきて、写真を撮っていたが、僧侶からすれば儀式を公開することが望ましいのか、疑問に思えた。

私が入って直ぐに、若い僧侶が床に手を着き、3回お辞儀をした。その後音曲が鳴り響き、読経と合わせて、騒がしくなる。そして何故か僧侶の食事の時間となる。各人配給されたご飯とおかずを手かスプーンで食べている。雑談も始まり、休憩といった雰囲気。観光客は一斉に引き上げる。私はこの機会に再度堂内を一周。因みに私にはバター茶が振舞われた。今回P師が飲んでいたのを一度頂いたが、比べても遥かに濃厚。正直これは飲めなかった。24年前のラサではバター茶が飲めないだけでなく、寺院にバターの臭いが付いていて、閉口した記憶がある。

何となく食事の時間に僧侶が増えたのはご愛嬌か。突然ちょっと緊張した雰囲気となる。見ると小さな男の子が僧侶に囲まれ、堂内に入ってきた。あれがリンポチェである。カメラを構えると、ちょうど私の居た方に歩いてきたが、写真は上手く撮れなかった。

リンポチェは転生によって引き継がれていく。先代、いや彼の前世は、ラダックに教育制度を導入したとして高く評価されている。その生まれ変わりには正直興味が沸く。ただ私の座っている方からは全く見えない高い所に座っており、その素顔は見えない。

すると地元の女性が布施でも申し出たのか、彼の前に行き、シルクの布を渡される。その光景を見た観光客が静かに近づき、写真を撮る。私も静かに行って写真を撮ってみたが、フラッシュなしでは写りが悪い。仕方なく、彼が見える位置に移動してそこに腰を落ち着け、かなり長く見てみた。

正直僅か6歳の子が読経中にジッとして居られるはずはないのだが、やはり彼も手を動かしたり、こちらを見たりと、落ち着きはなかった。お付が一人横に座っているが、そちらに向かって何か話したりしている。お付がバター茶を差し出すと嫌がっており、可笑しい。代わりに自分でジュースをストローで飲んでいた。それでも信者が近づくと、男性の頭には手をやり、女性には触らないなど、それなりのルールは身に着けている。

この光景を見て考える。我々から見ると僅か6歳の子供を祭り上げる意味があるのだろうかと。周囲には大勢の老僧がおり、読経を繰り返す。何だか、日本でいえば戦国時代のお世継ぎのようである。しかし違うとすれば、お世継ぎは勢力が無くなれば追い出されるが、彼の体や行為が如何に子供でも、魂は尊敬すべき対象だろう。全く不勉強なので機会があれば是非調べてみたい。

私もドネーションをして、リンポチェに頭を触ってもらおうと思い、僧侶に声を掛けると何を勘違いしたのか、領収書を書いてくれたが、貰ったのはシルクの白い布のみ。やはり信心が足りないと言うことか。神妙な顔で読経に参加しているソーナムに手で合図を送り、お堂を後にする。本来は最後まで居ればソーナムが送ってくれる手筈であったが、自分で帰ることにした。

帰ると言っても昨日から気に入っている徒歩を選択。道は空港の滑走路横の一本道。迷う心配もないし、それほど遠くもない。兎に角この辺り、軍関係の施設ばかり。いや、昨日の道も同じ。軍が膨大な土地を抑えている。と思いながら歩いていると「軍事文化博物館」という建物が見える。入り口は工事中。そこで2人の幼子を遊ばせながら、シャベルで土を掘り返す女性がいた。彼女も出稼ぎだろうか。インドならカーストの問題かと思うが、ここでは別問題のような気もする。それにしても一日いくらの稼ぎもない、この仕事をして子供を育てていくのは大変なことだろう。

真のリーダーとは 情けは人の為ならず
戻ってみると昼前なのに皆が外でお茶を飲みながらパンをかじっていた。P師に聞くと、改修に関わる建材などの整理だと言う。それにしてもその後の作業を見ると、大きな石を担いだり、砂利を袋詰めして運んだり、かなりのハードワーク。しかもP師が陣頭に立って自らやっているから凄い。これでなければ人は動かない、リーダーの典型のような感じだが、本人に寄れば「土曜日の午前は休日なの。それで普段不足している運動をしていただけ。」と平然と答える。

真のリーダーとはそういうものかもしれない。不言実行、彼女は誰かに指示を出す前に自ら何も言わずに作業を始めることがある。するとそれを見た人々が自然と後から付いてくる。そうして皆の作業が始まると、彼女はあれこれ指示を出す。

日本で会社に行くと、何でも「やらされている感」が強い。まあ、殆どの人はそれを言い訳にしながら黙々と与えられた仕事をこなしていく。ここではそんな感覚はない。自ら動いて行くように仕向け、自ら考えさせ、そして作業効率などを最終的に指導する。

そして自らは「自分は誰かの為ではなく、自分の為にやっている」と言い切れることが重要。ここに仏教の強さがあり、P師の揺るぎのない強さが感じられる。世俗では、「人の為にボランティアをする」などと言っているが、その考え方自体が既におかしいのかもしれない。「情けは人の為ならず」である。因みに最近このことわざの意味を「人の為にならないから情けは掛けない」と解釈する人が多いと聞く。真に世も末である。

博物館に入ろうとすると軍服を着た男性に呼び止められる。60rpだという。何故そんなに高いのか聞くと入場料は10rpで写真代が50rpだと言う。どう見ても写真を撮りそうになかったので、10だけ払う。チケットは当然くれない。中に入るとチケットを売るテーブルがあったが、私をチェックする人間はいなかった。そして展示物は軍の功労者と戦役の展示ばかり。60払わないでよかった。

また雨が落ちてきた。昨日も歩いていると雨が降ってきた。雨が少ないレイでは非常に稀なことではないのか。私は実は雨男?いずれにしてもそれ程強く降ることもなく、45分で辿りつく。



『インドで呼吸し、考える2011』(8)ラダック エゴを消し去るとは

7月15日(金)
9.ラダック5日目
日本の寺が建てたシャンティ・ストゥーパ
朝起きると、原稿を一つ書いた。兎に角電気が来ていることが嬉しく、何かやろうと言う気になる。その内にP師の声がしたと思ったら、車で出て行ってしまい、本日の予定もまた分からない。P師一行はどうやら重要な礼拝に呼ばれて行ったようだ。そんな重要な用事とは何だろうか。

朝食の時、ハーディから「P師は午後戻ってくるので、午後外出」との伝言を受け取り、午前はフリーなのだからどこかへ自分で行って見ることにした。ハーディはシャンティ・ストゥーパがいい、というので従う。

道はこの建物の横をひたすら北へ真っ直ぐとか。陽も出ていないので、歩いても行けそうな雰囲気。もし途中でヒッチできればと思いながら、行動を開始した。若干の上り坂である。意外ときつい。途中車は通ったが、軍関係が多く、停まらない。

道は少しずつくねっており、面白い。ちょっとした村を通り過ぎると、左手の山の上に寺院が見えた。あれに違いない、と思うものの、あとどれくらいで着くのかわかない。レイの街は右へ、と表示があり、その先にバスストップがあった。大勢が待っていたが、私が行く方ではなかった。その先で一台の小型車が停まった。場所を告げると、すぐそこだよ、言いながらも乗せてくれた。

3分後の車を降り、麓に向かって歩き出す。ようやく到着すると、急な階段を上から僧侶が降りてきた。「この道がショートカットだ」と教えてくれたので、上り始める。しかしそこは想像を絶する急さで(いや実際には見えていたのだが、想像が働かない)、少し上ると息切れする。振り向けば雄大な眺めが見られるのだが、欠点である高所恐怖症が顔を出し、階段をじっと眺めて耐える。もし日差しがあれば遮るものもなく、熱にやられたかもしれないが、幸い今日は相当に涼しく、何とか堪える。

すると後ろから若者が一人上ってきた。日本人だった。彫刻で独立する前の旅行だと言う。彼と話して何とか元気を取り戻し、上へたどり着いた。しかし一時は呼吸困難も予想され、その場合どうなったかはあまり想像したくない。

小さな寺院へ入ると仏像が安置されていた。更に少し上ると大型の仏像が置かれていた。ローマ字で南妙法蓮華教と書かれていた。横に太鼓があり、妙法寺なる字が見えたので、これが妙法寺と言うお寺が建てた寺院、シャンティストゥーパのご本尊だと分かる。またこの上にストゥーパがあるのだが、これは東南アジアスタイルで、日本的ではないが、確かに日本の寺院が建立したものらしい。

帰りは安全策でメインの道をゆっくり降りる。途中から何故か雨が降り出す。ここラダックで雨とは貴重な体験だ。と言ってもホンのパラパラだが。麓にはいくつかゲストハウスもあり、エコを謳っているものまである。如何にも西洋人が好きそうに作られている。街より値段も安いのだろうか。日本人はこういう所で一日ぼーっと過ごすことは耐え難い。

道を歩いていると反対側から車が通り過ぎた。どうやらタクシーだったようで、停まる。場所を告げると150rpなら行くと言う。悪そうでもないし、道も知っているし、何より疲れたので、送ってもらう。僅か10分で我が苦難の巡礼の道は逆戻りできてしまった。何とも言えない、いやそれが人生である。

スピトク寺院
昼はカリフラワー炒め。これは美味しいが午後の外出に備え控えめに食べる。しかしその後何のお呼びもなく、時間が過ぎていく。P師は相当に忙しいようだ。3時頃P師から声が掛かり、残りの質問をする時間を得た。「敵は自らの内にある」「如何にエゴを消し去るか、人間の体をした野獣であることを捨て、平和に生きられるか」など、心に残る話がいくつも出て来た。

4時になり、昨日の2人、ツォモとスタンジン、そしてハーディも参加して、スピトク寺院へ向かう。この寺院は明日朝大きな礼拝があり、特別に私も参加できるように取り計らってくれている場所。ゆっくり写真を撮る暇はない、ということで、下見のように出掛ける。

先ずは歩いて空港道路へ。しかし昨日とは違い先ず南へ下り、殆ど2つの道路が交わるあたりでバスを待つ。ミニバスがすぐやって来たが席はなく、立っていく。それでも10分ほどで到着。バスを降りると寺院が岩陰に見える。あまり高い所ではないようで、安心して上る。

このお寺もかなり古いようで、15世紀にはできている。その際にはチベットのツォンカパからも贈り物がもたらされたと言う由緒正しい所。入り口には何故か日本語での説明もある。その建物の天井が既に壁画であり、何故か凶暴な鳩?がこれを守るように構えていた。

上ると景色は美しい。この付近には畑もあり、緑豊かな風景となる。反対側には空港の滑走路が見えると言う何となくアンバランスな感じはあるが。本堂は閉まっていた。実はここにはリンポチェが住んでおり、先程彼の乗った車とすれ違っていた。どうやら踊りが下であるらしい。

このリンポチェは前世がラダックに教育をもたらしたとして評価が高い方の転生。僅か6歳だと言う。一番新しい建物に入ると、2人の写真(前世と現世)が飾られている。祈りが行われる場所として壁画もあり、仏像も置かれている。この寺院は歴史が古いのみならず、この辺りの中心的な寺であることが分かる。

景色に見とれていると、昨年ここで外国人が転落死したと伝えられ、ちょっと緊張する。頂上には本当に古い部屋がある。ここは撮影禁止。壁画もかなり傷んでいた。しかし中に置かれていた仏像を見てびっくり。物凄い形相、忿怒尊像と言う名前らしいが、数体安置されている。どんな意味があるのだろうか。

更にここから階段が無い岩肌をつたわり、ブッタ像のある場所へ移動。これが結構難儀。昨日買ったばかりのサンダルを適当に履いており、もし滑ると一巻の終わりという場所もあり緊張。しかしその場所から撮った景色は偶然かもしれないが、実に雲と風景がマッチしていてよかった。

帰りはバスを待つがなかなか来ない。ようやくやって来たバスを見てびっくり。誰一人乗っていなかったのだ。これはラダックでは滅多にない僥倖だろう。おまけに降りるときにツォモが支払いをしようとしたが、運転手は受け取らなかった。これこそ有難いことである。

夕方あの新入り少女がしょんぼりしていた。泣いていたかもしれない。誰かと軽い諍いがあったかもしれない。そういう時は年上のお姉さん尼が間に入り、話を聞いている。基本的には我々が想像するような修行の場と言う厳しさはないが、返って人間的な修行になるような気がした。

夕飯は何故かいつもより人数が多かった。既にここを巣立った、またここから別の場所へ派遣されている尼僧が数人戻ってきているようだ。今日は特別な日であるらしい。そういえば日本でもお盆というのがあるが、旧暦でその時季なのだろうか。夕食後直ぐに特別のミーティングも開かれ、夜遅くまでP師の講話があったようだ。

7月16日(土)
10.ラダック6日目

エゴを消し去る
朝5時過ぎに鐘が鳴った。通常よりかなり早い。外もまだ暗い。昨日の話ではヨーガがあるとのことであったが、よく分からない。何か特殊な体操があったのだろうか。今日はことのほか、涼しい。気温は10度台であろう。

ここに来てから、簡単な3度の食事、勿論肉や魚はなく、また間食も殆どしない。以前のヨーガ合宿のように毎日何かプログラムがあるわけでもない。しかし自らの心がかなり落ち着いてきていることが分かる。それは食事だけの問題はなく、この尼僧院の雰囲気、周囲の自然、などが大きく影響している。

日本は相当暑いだろうな、節電、節電で。こちらはクーラーなしで十分に過ごせる。人間の欲望の一部を自然にそぎ落としてくれるようだ。これがレイの街のゲストハウスで西洋人や日本人といれば、ラダックに居ても、また違ったであろう。私が極めて得難い体験をしていることを実感してきている。

それにしても「エゴを消し去る」とはどうやってやるのだろうか。エゴのルートを分析する、と言っていたがこれはなかなか難しい。怒りの転換、確かの全ての人が同じ境地に入れば、恐らく問題はないが・・・。いや、これは他人の問題ではないのだ、自分の問題として一つずつ解決していくべきことなのであろう。

朝9時前に声が掛かり、尼僧の一人ナムの運転する車で私だけが再度スピトク寺院へ運ばれていった。ラモは北部ヌブラの出身で、2007年までバラナシ(ベナレス)で勉強していたが、卒業して戻ってきたと言う。僧院生活は楽しいのだと。10分程度で到着。ラモは携帯電話を取出し誰かを呼び出す。

彼女は「ラマ ソーナムが迎えに来ます」と言い残して帰ってしまう。あれ、どうすれば、と思っていると、頭上のマニ車の横で手を振る僧がいた。上がっていくと流暢な英語で話す。ここに定住している僧は32人、昨日今日明日は特別のプージャ。昨日見た綺麗な曼陀羅を一年に一回クリーニングし、明日には閉まってしまうと言う。所謂ご開陳に遭遇したらしい。



『インドで呼吸し、考える2011』(7)ラダック バスでパゴダへ

ティクセ
我々がやって来たのはティクセという寺院。15世紀の半ば、ツォンカパの予言によりこの地に建てられたというから、歴史は古い。そして何と言っても実に雄大な景色が見える。ラサのポタラ宮に似せられて作られたとも言う。確かにそんな感じはあるが、24年前のラサ訪問の記憶は薄い。

雄大であるが、当然ながら上りはきつい。流石にポタラ宮ほどではないが、二人の尼僧の後を少し遅れ気味に付いていく。ゆっくり歩くと景色が眺められる。寺院も雄大なら、付近の風景もまた雄大。やっとお寺の入り口に到着したところ、スーザンとレイで同じ宿だと言う日本人に出くわした。

このTさん、奥さんがタイ人。アメリカ方面で30年仕事をした後、50歳でリタイアし、タイのチェンマイに移り住んだと言う。こんなところでロングステイの大先輩に会うとは。Tさんはロングステイではなく、永住するとのことだが、既に10年をチェンマイで過ごし、かなり気に入っている様子。チェンマイに来ればと誘ってくれる。これは面白い。

Tさん夫妻は奥さんが仏教徒。毎年ネパールやインドなどを訪ね歩いていると言う。何か月も前から飛行機を予約、相当安い費用で来ている。今日もこの寺院に泊まり、明日朝の大礼拝を見学するのだとか。なかなか面白い。奥さんはまだ若く、英語も日本語もできる。今は日本人にタイ語を教えていると言う。

この寺院の拝観料は30rp。一番の見所はチャンパ大仏像。1階2階吹き抜け、2階で見るとお顔だけが出ている。高さ15mはラダック最大。2人のガイド役は尼僧であり、当然熱心に祈りを捧げる。そしてどんな時でも右から回り、全ての仏像には礼拝する。T夫人はタイ式の祈りを捧げる。色々と違いがあって面白い。Tさんと私は何もせず、不信心が暴露される。

他にも壁画などがあり、西洋人観光客がガイドの案内を聞いている。アジア系では韓国人は見掛けたが、日本人と会うことはなかった。日本人は関心が無いのだろうか。簡単な博物館があり、バター茶を作る機器などが展示されていた。ツァモとスタンジンには写真を一緒にと言うオファーがいくつもあり、人気者に。尼僧が珍しく、かつチベット的だと受け止められている証拠だ。でもインド人が少し偉そうに写真を撮っていると何だか少しムッと来てしまうのは何故であろうか。

ティクセに分かれを告げて、またバスを待つ。シェイに行くらしい。シェイと言えば、今回色々とアレンジしてくれたSMさんのご主人の故郷であり、現在娘さんが当地に滞在していると聞いていた。今度はバスもすぐにやって来て、しかも席に余裕があった。ラッキー。ラダックの交通はよく分からない。

シェイからヒッチハイク



シェイまで15分程度。バス代も10rp。シェイパレスと書かれた看板の所からマニ車を押しながら上る。10-15世紀までこの地がラダックの都であったが、何故か王宮は1600年代に出来、1800年代に王族が転居するまで使われたらしい。現在王宮に住人はなく、荒れていて見学は出来なかった。

しかし周囲の景色は素晴らしい。圧倒されてシャッターを切る。珍しく雨が降りそうで、風も強くなり、その気候の変化が美しい景色を生み出している。寺院の方にはこちらも2階建ての仏像が安置されている。

下に降りるとスーザンがティクセに戻り、泊まると言い出す。確かさっきTさんが明日の朝大きな礼拝があると言っていたが、彼女はそれに関心を持ち、戻ることに決めた様だ。それにしても何という柔軟性。やりたいことは直ぐに行動に移す。この行動力は今の日本に欲しい。

それにしても問題はバス。来た時のあの混みようで、スーザンは無事降りられるのだろうか、いや乗ることが出来るのだろうか。まあ1度行った場所なので、大丈夫だろう。バスは来なかったが手を挙げると小型トラックが停まり、彼女は急いで荷台に駆け上がる。凄い。

レイに戻る我々の方も一向にバスが来ない。他にも数人がバス待ちしている。すると突然スーザンがさっき乗ったものと同じ小型トラックが停まり、皆が駆け出す。私と西洋人男女は荷台に駆け上がり、ツァモとスタンジンは何とか後部座席に収まった。

夕方の風に吹かれながら、荷台にいる気分は最高であった。フランス人とオランダ人の男女も気分は同じだったようで、妙にはしゃぐ。道はレイに近づくにつれて、平らになり特に苦痛もない。陸軍の演習場や監獄なども見え、これまでと違った風景を目に出来た。

トラックが急ブレーキを掛けた。危うく前にぶつかりそうになった。見ると男性が車道をゆっくり歩いている。車にも全く反応せず、殆ど轢かれそうになっても歩みを止めなかった。恐らく精神的な病だと思うが、少し驚く。

レイの街
レイの街に入り、メインバザールで降りる。10rp払ったそうだ。ヒッチハイクは安い、それとも彼女たちが尼僧だからか。メインバザールを歩く。サンダルと帽子を調達するためだ。サンダルは至る所で売っていたが、ちょっと良さそうなのを700rpで、帽子は300rpで購入した。いずれも小さな店。2人が簡単な値引き交渉はしたようなので、そのまま言い値で払う。尼さんの前でお金の話はどうかと思う自らの心境が新鮮。

レイ・ジョカンと言う寺院に入る。僧侶にとって寺院は基本。お堂がかなり広く、レイで僧侶が一堂に集まる場所だそうだ。但し尼僧は建物の外で祈るらしい。尼僧の地位向上の道のりは長い。

帰りに彼女達がパン屋に寄る。クッキーを売っていたので、1㎏買って皆へのお土産にする。2人は別にケーキを買っていた。レイの街中には同じ年ごろの女性が着飾り、髪の毛も伸ばして、おしゃれをしており、2人の気持ちがかなり気になっていたが、ケーキを選び姿を見て、やはり女の子であると少し安心した。

帰りはタクシーを交渉。130rpとなった。10分ほどで帰還。1時半に出発して7時に到着したのだから結構長旅。今日は楽しかった、と素直に言える旅であった。

夕飯後、ハーディと話す。彼女はインドの女性問題を学ぼうと思ったが、西洋人は受け入れられないと考え、ボランティアで英語教師をしながらインド各地を歩いている。2年間はインド国内に留まる予定。アメリカ人は5年間有効ビザが貰えるが、6か月ごとに更新する必要がある。一度国外へ出てしまうと2か月間は再入国不可と言う例のルールにより、インドに戻れなくなる。

彼女は報酬が無いのだからかなり質素な生活をしており、ヒッチハイクもよくやるとか。タクシーは高いから乗らないなど、外見からは想像できないほど、タフである。その夜は一晩中電気が来ており、初めてシャワーを浴び、洗濯した。しかしほとんどお湯は出なかった。それでも3日ぶりのシャワーは、体を元気にしたようだ。

『インドで呼吸し、考える2011』(6)ラダック 食べることに集中せよ

尼僧による改修工事
午後ネットを1時間半使う。これはここでは最高に贅沢なこと。今日はブロードバンドの機嫌が良い。昨日の分までアップしたり、メールに返事する。8月の新疆行きのためのパスポートコピーを送れずに困る。

その間に午後の予定であったハーブ園訪問に置いて行かれる。特に不満もなく、1時間午睡。4時過ぎに読書していると、改装中の2階から落としていた大量の木材処理が始まる。初めはワーカーの女性が一人で大きな丸太を担ぎ出す。すると尼僧たちが少しずつ作業に参加し始める。しかも皆やらされていると言った感じは全くなく、楽しそうに遊びながら運んでいく。この分け隔てのない感覚、日本は忘れている。共同作業は清々しく終了。

因みに改修現場のワーカーたちはネパール人。一人がヒンディー語で話し掛けてきたが対応できなかった。彼らも故郷を離れて出稼ぎ中。特に若い女性は顔にスカーフを巻き、重労働を強いられているのは、厳しい。と言ってもここの尼僧さん達も同じような作業を手伝ったわけだから、驚くことではないかもしれない。それにしても経済的な理由だと思うが、彼女らの心情を推し量ることは出来ない。

P師が戻る。午後急患が発生し、外出していたらしい。それで置いて行かれたのかもしれない。P師によれば、昨年の洪水でここの建物も1階はほぼ浸水、2階は屋根の構造が弱く、上から大量の水が振り込んだと言う。子供たちは1階の瞑想室に一塊で寝て、年長組は夜通し、水を排除したらしい。その際、中央の建物が大きく破損し、今回の改修となった。これには日本からも援助者がいるらしい。

この建物、折角改修するのだからということで、ここの2階をコミュニティホールにすると言う。昨年の水害で、LNAはいち早く被災地にクリニックを設置(2年間)、薬と安らぎを提供した。特に精神的に大きなトラウマを負った人々の話を聞き、癒しを与えたという。その関係を切ってはいけない、その発想からコミュニティホールを作り、日頃から接触しようとしている。この辺りは日本でも見習うことが出来ると思う。

その他通常活動の一環として100以上グループを訪問。「信じる心」を説いて回る。心が良くなると体の回復は格段に速い。例えば人生に絶望して自殺しても精神は残るもの。ラダックは山間地帯であり、規模も小さくこのような考え方をシェアするのは容易。生活をスローにして、平和的に送ること。これが理解されれば、回復は早いとのこと。

初日から注目していた少女が服を着替えていた。水やりの役割が与えられたようで、少しずつ馴染み始めている。そして作業には参加しないが、年下の子達と「せっせっせのよいよいよい」と言った感じの遊びに加わった。P師によれば、精神的に少し障害を持っている。まだ皆には馴染めないが、ここに居ればいずれはよくなる日が来る、と思える。

作業は総出で終了。するとご褒美なのか、チャイとパンが提供され、皆で食べる。この雰囲気がまたよい。皆で分け合う。私は作業していないが、分けられる。いま日本の少女たちにこのような作業を命じれば大変なことになるだろう。「なんで私がこんなこと・・」とのフレーズが出て来るに違いない。では「なぜするのか」説明できれば彼女らはするだろうか。「人を殺してはいけない理由」を説明できず立ち往生する大人とどこか似ており、日本はどこか空しい。

夕飯前にスープが配れる。これを食べれば夕飯不要と思える。今日は皆作業があり、お祈りの時間が遅れたようで、夕飯は9時ごろとなった。P師は忙しそうに明日の予定を告げて出て行った。彼女は夕飯を食べる時間があるのか、頭が下がる。

夕飯はダース・トックと呼ばれる雑炊。夜は消化に良いものを食べて早く寝るのだ。チャイも出ない。理に適っている。1椀で十分だが、代わる代わるもう1杯食べないかと聞きに来てくれる。これも一つの奉仕なのだろうか。皆何となく楽しそうに食べる。変な言い方だが、日本でこの粗食を楽しそうに食べられる家庭は真に幸せなのだろう。今日は夜9時半でも電気がある。実に有難いことである。

7月14日(木)
8.ラダック4日目
食べることに集中せよ
朝目覚めるとまた少し頭が重い。しかし既に経験済みなので特に心配もせずに体を横たえる。7時前にお湯が運ばれて来て起き上がる。お湯を飲んでトイレに入るが、なぜかうまく出ない。何となく水分が足りていないように感じる。ここラダックは年間降水量が84mと極端な乾燥地帯である。バター茶などを頻繁飲むのも乾燥から身を守るため。東京ではリップクリームを持っていくようアドバイスされたが、普段つけ慣れないものをここで使用するのは少し怖い。

8時前に朝食。今日はチャパティとカブの煮込み。カブは葉っぱもしっかり入っており、健康食という感じがする。この食べ物、昔おばあちゃんが作ってくれた味に似ていて、驚く。ラダックは何となく日本に近い。そんなことを考えていると、当然一人の男性が腰を低くしてP師に近づいてきた。こちらが目を疑うほどに、その男性は日本のおじさんだった。しかし次の瞬間ラダック語が発せられ、間違いであることに気が付いた。おじさんは恭しくP師の横に座る。P師は彼の脈を取る。これはチベット伝承医学の手法と聞いている。そしてあとは一緒に食事をし、少し話して薬を貰って帰って行った。聞けば数年前、体が全く動かなくなる重度の障害に見舞われたが、今基本動作は正常に戻っていると言う。

ハーディと話をした。彼女は携帯も持たず、ネットも時々チェックするのみ。現代は忙し過ぎる、携帯やネットから解放されて初めて、こちらでの生活をエンジョイできると言う。全くその通りで、Social Networkと称される電子媒体が疑似世界を作りだし、人々はその中で、何かを埋めて生きている。ここラダックでは全てがリアル、である。一つ一つの生活、例えば食べるとか、寝るとか、そのような行為に集中できることがより重要であると思える。疑似的な行為はどうしても注意が散漫になる。これが心のバランスを不安定にしているような気がしてならない。

P師は朝から忙しい。皆に指示を出し、ネットを何とか繋げて、どこかへ返信している。私は彼女の時間が空くのを気長に待つ身である。するとオランダ人のスーザンなる女性が入ってきた。彼女は日本の状況を熱心に聞いてきた。弟が原子力関連の教授とかで、色々な情報が入ってきているようだ。スーザンに私の時間を譲り、退散。読書に励む。

あの新入り少女の表情が少しずつ変わっているのが見て取れる。今朝はついに彼女が笑顔で「おはよう」と言ってくれた。それでもチャイを入れたカップを持つと一番端に行き、相変わらず雪を頂く、山を眺めている。どこか私の子供の頃を思い出させて、やるせない気分になる。

昼前にネットを少し触り、ご飯へ。今日は豆煮込みをご飯にかけて食べる。これはかなりいい味だが、午後の外出に備えて控えめに食べる。スーザンとハーディは楽しそうに話している。彼らが話している方が英語らしく、聞き取りやすいのは不思議。

初めてのローカルバス 
昼ご飯後すぐにP師から「今すぐ出発」と言う指令を受ける。ツァモとスタンジンと言う2人の若手尼が同行。スーザンも同行することになる。この2人は8月頃からダラムサラの学校へ入り、6年間医学を勉強するらしい。6年間は帰られないつもりで一生懸命勉強して、チベット伝承医学をマスターしてくると言う言葉に胸を打たれる。明治青年の志のようではないか。

先ずは歩きで空港道路へ。10分近く歩いてようやく売店があり、水を調達。1ℓ15rp。店の前に車が止まり直ぐに乗り込む。これがタクシーか。座席は対面の4人乗り。いすゞ製。10分ほどでバスターミナルに到着。ターミナルと言っても広場にバスが数台停まっているだけで、行先も分からない。一人で来たらとてもバスを探せないだろう。彼女達も懸命にバスを探しているがちょうどよいのが無いらしい。

仕方なく1台に乗り込む。運よく席はあった。しかし隣のおばさんはかなりの巨体。何とかしりを突っ込むとおばさんも嫌な顔をしながら笑い出す。こちらも申し訳ないので席を立とうかと思ったが、どうやら席は確保しておいた方がよさそうな雰囲気でそのまま大人しく座っている。

ところがバスはいつまで経っても発車しない。運転手も来ない。この際修行だと思って黙って座っている。こんな時は非常に暑く感じられる。時々風が吹き込まなければ気分が悪くなっていたかもしれない。スーザンは前の方で地図を広げ、何やら地元民と話をしている。西洋人はこういう時に有利だと感じる。そうこうするうちに運転手がやってきて、そして駆け込みで乗り込む乗客ですし詰めになって発車した。しかし直ぐまたバス停があり、乗って来るので、本当にギューギュー詰めになる。確かに今や隣のおばさんのプレッシャーの方がかなりマシになってきた。

バスは途中で何度も停まり、客が何とか降りていく。しかし不思議なのはどうやって料金を払っているのか。人が多過ぎて見えない。郊外に出ると一面の原野と爽やかに聳える多くの山々。風景を楽しみたいがその隙間は少ない。とうとう降りるとの声がかり、客を押しのけて下車。すると若者が車掌として集金している。なるほど、いや当たり前か。

 

『インドで呼吸し、考える2011』(5)ラダック チベット仏教

7月12日(火)
6.ラダック2日目
高山病寸前
6時前に起きたが、体調がすぐれない。7時になると小さな子達(6-8歳ぐらい)4人が教科書を持って2階に行く。ハーディの部屋で朝のイングリッシュレッスンだった。これだけ小さい時から英語をネイティブから習う機会があるのはよいことだ。朝ごはんはチャパティにラダックのベリージャムやピーナッツジャムを付けて食べた。美味しかったが、その後体が重くなり、少し頭が痛い。うーん、来るものが来たのか。

今回は特に予防もせず自然体でやって来た。P師の診断を受ければよい、ぐらいの軽い気持ちで来たがP師はまだ戻っていない。どんどん体が重くなり、寝込む。本を読む気力もない。PCに触る気も起らない。昨日読んだ五木の本にあった「人生の苦しみ」を味わい始めた気分。兎に角ひたすら寝る。ランチも取らず、お湯も飲まず。日中6時間も寝たのは久しぶり。それでも回復せず、難渋する。

夕方ようやく起き出し、チャイを飲む。そこへとうとうP師が帰ってきた。南部へ行っており、車で1日12時間掛かるところを8時間で止めて1泊したため、遅れたと言う。それにしても車の荷台から大量の物資が降ろされる。何か調達したのかと思ったが、ガスボンベに鍋釜を見るとそれが野宿のための必需品であることが分かる。

今回は各地で宿泊先を提供してもらえた、というが、南部の山間部がどんなところか、およその想像はつく。それでも彼女たちは活動を続けている。これは凄いことではないか、と思う。そしてこれだけの困難なことをしながら、私のような者にも気を配ってくれるP師の本当に凄さを少しずつ感じ始めた。

本日ネットは繋がらず、P師も困った様子。私も何か重要な連絡でもあればと気をもむところだが、今はいつでもポジティブ。明日にしよう。相変わらず食欲はなかったが、スープは飲むよう言われ、無理やり口に入れる。そして夕飯も食べずに寝入ってしまう。

そういえばお土産に渡したヨックモックのお菓子が私の元にも回ってきた。見るとビニールの包みがパンパンに膨らんでいる。私の体もパンパンなのであろうか。やはり気圧が違うことを実感した。

7月13日(水)
7.ラダック3日目
ラダック尼僧協会(LNA)とP師
朝は無理せず、ゆっくり起きる。食欲もあり、チャパティと白身の卵焼きを頂く(基本的に卵の黄身は食べない)。頭痛は殆ど消えていた。体調が良くなると少し乾きが出て来た。ここで普通ならば冷たい水が飲みたいところだが、ここにはボイルウオーターしかない。チャイもあまり沢山飲めない。電気も来ておらず、唯一ある洗濯機も使えない。数人が手で洗濯を始める。

午前8時半にP師からお声が掛かる。P師の歩みやラダック尼僧協会(LNA http://www.ladakhnunsassociation.org/)設立の経緯などを伺う。1996年に設立された協会は尼僧の減少に危機感を覚えたP師らが政府や社会に働き掛け、尼僧の地位向上、社会への貢献を掲げて理解を得た。海外のNPO団体の支持も仰いだ。

現在ラダックには1500人ほどの尼僧がおり、協会には28の尼僧院が所属している。基本的には30歳以下の尼僧が多く、小学校から高校まで学校に通うもの、田舎で学校に行けない場合は尼僧院での勉強、そして希望者にはインド各地での勉強の機会が与えられている。実際私がお世話になっている尼僧院でも高校に行くものが5人、結構遠くまで通っている。小学生、中学生も時間になるとバスに乗って通学している。

話の中で特に興味深かったことは、P師が幼い時から尼僧を目指したこと。父親の死で医学に目覚め、ダラムサラの学校に入ったこと。当時ラダックでは尼僧になることは家事労働者や奴隷のようになることを意味しており、決して普通は勧められる境遇ではなかった。それを彼女達は変革した。この尼僧院の土地も政府から提供され、援助も受けている。徐々に周囲の認知度も上がり、今では女の子の一人は尼僧にしてもよいと言う家も出て来た。実際LNAに来る子達は、貧しくて養えないからと親に送られるわけでもなく、ある程度の年齢であれば自発的にやって来ると言う。これはミャンマーなどで聞いた話とは大部異なり、意外な感じがした。

チベット伝承医学も治めたP師は近くにクリニックも開き、人々のために尽くしている。薬は自分たちで作っている。実は私がこの尼僧院に到着してからずっと響いていた音がある。見ると老人がひたすら穀物を砕いているように見えた。それが実は薬草づくり。目が悪いその老人にも役割を与えている。その作業は実に大変なものだと思うが、老人は一心不乱に行っている。そのような生き方もあるのだろう。4時のお茶で音が停まった。恐らく彼の今日の仕事は終わったのだろう。でもその仕事は永遠に続く、まるで自分の人生を打ち付けるかのように。

日本の仏教は我々の考える仏教ではない
途中で2人もお客さんが来訪。その忙しさが分かる。そして私はキーワードを尋ねる。茶については、チャイはチベット発祥。インド人が言っているチャイとは英国風ミルクティ。こちらでは刺激の強い紅茶葉は使わず、しかもミルクとバターを半々に入れる。バターには心を落ち着かせる作用があり、効果的。但し一日に何杯も飲むのはよいとは言えない。

ロングスティについては、確かにラダック人にとってこの地は平和であり、来世を考えるのに最適。しかし外国人に対してはビザが出ないので、定住は不可能。タイあたりに定住し、時々来るのが良いのではないか。

また昨年当地を襲った洪水では、多くの人が一瞬にして家族が流され、家や財産をすべて失い、相当な肉体的、精神的なダメージを蒙った。今も復興に取り組んでいるが、仏教がベースにあるため、全体の80%の人が今回の水害をポジティブに捉えており、今後の生き方を見直す良い機会だと言っていると言う。これは凄いことだ。

P師は日本に2度行ったことがあるが、日本の仏教にはかなりのショックを受けており、「あれは我々の仏教とは違う。中国・韓国経由でもたらされた別の物だと思っている。前世や来世を考えない生き方は我々とは明らかに違う。」と述べている。

確かに5年前に東京で会った時にも「日本のお坊さんの仕事は我々とは違う。彼らは人が死んでから葬儀に出掛ける。我々は日頃から人々と接し、病があればその治癒に務め、もし死が近づけば駆けつけ、最高の状態で次の世へ送り出すのが仕事だ。」と述べており、強い印象を受けている。日本人が今求めているのはこのような宗教ではないだろうか。

また「メディアは最悪。皆に見ないように伝えている。自分も10年は見ていない。」とキッパリ。ニュースになっているのは、殺人や政治、金儲けなど、自分たちの生活には関係がない。ニュースを見なければ1日8時間修練できる時間が増える。もしニュースを見るなら、それは「痛みを感じるため」。

ラダックの良い所はインドでありながら仏教がメジャーであること、最近はカーストの概念もなくなったこと。

昼になる。ナスを煮たものとご飯。味付けは美味しいが、枝が付いている物が入っており、取り除いて少しずつ食べる。これも天然の果実であろうか。

『インドで呼吸し、考える2011』(4)ラダック 尼僧院に宿泊して

ラダック1日目
出迎え
空港は周囲に何もなく、ただ銃を持った警備員が警備しているのが目に付いた。外国人だけが登録書を書かされているが、それも直ぐに終わる。特に緊張はない。空気が希薄との印象も受けない。荷物はすべて手作業であり、なかなか時間が掛かった。そして荷物を持って外に出る際、再度チェックがあり、番号の確認が行われた。一応の警戒があるようだ。

外に出ると迎えの紙を持った人々が幾人も立っていたが私の名前は見えない。普段なら慌てるだろうが、朝の10時でもあり、その内来るさ、と言った気楽さがある。ただ紫外線が予想以上に強く、帽子を忘れて難儀だな、と思っていると、尼僧が2人近づいてきた。そうだ、私は尼僧院にお世話になるのだから、彼女らを見付けるのは簡単だったのだ。

尼僧の一人が運転する車で出発。ドライバーは男との固定概念がいけないのだ。そして驚いたことに道を二つ曲がったところで到着してしまった。空港から近いとは聞いていたが、歩いても行けそうな距離だ。

尼僧院に迎えられる
そこには門があり、中はコの字型に建物があったが、真中は工事中。私は何処に泊まるのかと思う間もなく、荷物が部屋に運び込まれる。チェックインなどない。ベットが2つあり、絨毯が敷かれていた。シャワーとトイレもあり快適。

女性しかいない所にいいのだろうか、などと思うこともなく、尼僧さん達も笑顔で「ジュレ(ラダック語でこんにちは、有難う等の意味)と挨拶してくれる。直ぐに部屋にチャイとビスケットが運ばれる。歓迎されている。チャイは美味しい。チベットと言えば、バター茶だが、あれはちょっと苦手。最近はラダックでもインド化してチャイを飲むらしい。ビスケットも素朴で美味しい。しかし食べ過ぎは禁物。高山病対策を取る必要はある。

誰かが挨拶や説明に来ることもなく時が流れる。電気も来ていないので充電もできない。こうなれば休むしかない。それでいい、と体が言っている。横になるとすぐに寝られた。外の強烈な太陽とは異なり、意外と部屋は涼しく、掛け布団を掛ける。1時間ほど寝るともう12時、ランチはあるのかどうかも分からないが、それもそれでいい。

1時頃、当然尼僧さんが一人部屋に入ってきて(これまでもノックなどはなく、皆入ってくる)、ランチを告げる。行ってみると部屋に鍋が2つ。一つにご飯、もう一つにおかず。実にシンプルだが、それでいい。おかずはキャベツを煮たようなもの。これが実にあっさりしていて美味しい。高山病警戒で量を少なくしたが、後悔。

尼僧さん達は外国人に慣れているようで、英語で話し掛けてくる。英語教育がなされているようで、かなり流暢な子もいる。中には「日本は落ち着いた?」などと聞いてくる子もいる。 一人小学生ぐらいの子が混ざっている。服装からして最近来たらしい。どこか動作がぎこちない。恐らくは事情があってここにやって来たのだろう。一人が言う「私達は一生ここにいるだろう」と。

子供達
午後はコックのおばさんの子供(幼稚園生ぐらいの男の子)と遊ぶ。階段も上ったが特に呼吸が荒くなることもない。尼僧さん達も時々心配して声を掛けてくれる。さっき気になった新入りの子にも時々誰かが声を掛けている。やはり事情がありそうだ。今の日本に必要なのはこのさり気無い声掛けだと気付く。

4時頃お茶の時間となり、再びチャイが配られた。高地でかつ乾燥地帯であるラダックでは水分補給は重要。外では子供の声が増えている。学校からでも戻ったのだろうか?ということは子供と一緒に尼僧院に入った女性もいるということか。30名ほどが滞在していると聞いたが、その実情は全く分からなかった。

後で聞くと親子はあのコックの女性と男の子だけ。しかも子供も全員女の子と聞き驚く。6-8歳で頭を坊主にしていると男女の区別はつき難いが、彼女達には日本の女の子のような女の子っぽい仕草がないことに気付く。それでも実に可愛らしい。日本でいえば、昔の、自分が子供の頃の子供なのだ。今の日本では子供らしさ、可愛らしさも、作り物のように思えてくる。

1日目、何のプランもなく、何の働き掛けもない。頼みのP師はどこかへ出掛けて戻ってきていないが、急ぐことは何もない。既に自分の心が実にゆったりとしていることに自分ながら、驚く。

夕方7時でも外は明るい。そろそろ夕飯だろうかと思っていると尼さんがスープを持ってきてくれた。廊下に椅子を出し、風に吹かれながら飲んだ。豆が少しだけ入っているこの1杯は至極の味。もう夕飯は要らない気分。

電気が無ければ寝てしまう
椅子を外に出して五木寛之の「海外版 百寺巡礼 インド2」(講談社文庫)を読む。この本は成田で偶然目の前に飛び込んできた。上巻があるとは知らず下巻のみ購入。ブッダ最後の旅を五木が辿る物語だが、何となく胸に響くものがある。このままここで風に吹かれながら、一生を過ごしてもよいのではないかという気にさせる本。

少しして部屋に入ると電気が来ていた。この尼僧院では通常電気は一日に数時間のみ配電される。基本的には朝と夜。昼間に電気があれば嬉しい。ネットもブロードバンドの機嫌が良ければつながる状態。日本では考えられない。しかし電気が無い、携帯やネットが繋がらなければ、それは仕方がないこと。日本の電力不足、節電とは何か、再度考えてしまう。

それでも悲しいかな、電気が来れば途端に俗世に引き戻される。PCの充電を開始。デジカメの電気を使ってしまおうと外に出て、真っ青な空の写真を撮っていると尼僧のソーナムが走ってきて、携帯を渡す。何と日本のSMさんが無事を確認するため電話してくれたのだ。電気が無い、この状況での電話は天からの声にも聞こえ、有難い。

7時半に鐘が鳴る。比較的小さい子達が一室に集まり、お祈りを始める。外から覗いていると中へ入れと言われ、端に座る。年かさの一人が小型マイクで祈りを捧げ、残りの子たちが付いていく。この音楽のようなメロディーは頭に残る。小さい子供は着いて行けず、そしてまた一から繰り返す。

途中で電気が切れた。ここでは電気はいつ切れるかは分からない。それでも自家発電もあり、ロウソクも付けて続けられる。計画停電などという言葉が頭をよぎったが、ここでは似つかわしくない。一人が皆にお経の書かれた大きな紙を配る。各自練習するようだ。小さい子は2人で1枚の紙を見て、相互に学んでいる。

8時半、夕飯。チベット風うどんというものだろうか。どちらかというとすいとんを思い出す。実に美味しく、2杯も食べてしまう。

ここにはアメリカ人英語教師のハーデイがいる。彼女はダラムサラにもいたようで、2年間をインドで過ごす予定とか。インドスタイルの服装をしており、非常に目立つ存在。もっと彼女に話を聞こうとしたが、その時再度停電。

部屋に戻ったが、灯りはなく、自らの荷物すら分からないほどの暗闇の中に呆然と立つ。東京ではあの地震の際でも、こんなに暗いことはなかった。歯を磨くこともできず、着替えることもできず、ただベッドを探り当てて横になる。朝の光が起こしてくれるだろう。電気が来なければ寝てしまえばよい。




『インドで呼吸し、考える2011』(3)インドでは怒った方が負け

病は気から
車はタタ製。走り出すと空港の敷地が広大であることが分かる。何しろホテルは空港のすぐ隣という位置なのに何と20分も掛かった。特に道が悪いわけでもなく渋滞もないのに。ホテルに着くと門番が門を開ける。なかなか綺麗なホテルであった。既に時間は夜の10時、しかし航空機の離発着の音が響く。部屋はきれいで広く、これまでの貧乏旅行が板についた身としてはかなりの贅沢。

フロントでネットが繋がると確認していたが、上手くできずに電話する。そんなはずはないと言うが、ボーイがやってきてネットカードを持参し、これがないと繋がらないと言う。あーこれはチップを貰う手口かと思い、諦めて操作してもらう。特にインドの携帯を持っていないとID番号が取れないことが分かり、ボーイが自分の携帯でやってくれた。いくらチップを弾もうかと考えていると、彼は作業終了と同時にあっと言う間に部屋から消えていた。何だか申し訳ない気分になる。

ただ問題は電源。香港空港でソケットを買おうとしたが、インドに合うものが分からず、断念。結局ホテルでも日本製のコンセントは入らずに充電できず。余程ホテルに借りようかと思ったが、夜も更けて来ており、明日早いことを考えて寝る。

7月11日(月)
ふかふかのベットでぐっすり眠り、体調はかなりいい状態。取り敢えずホテル内を散歩。ここにはインドの喧騒は全くなく、涼しくて気持ちが良い。今日は3500mの高地に行くのだから体調だけは整えなければ。と言いながら朝ごはんを食べておこう。出発は7時だが、朝食は6時半から。微妙な時間帯だが、一番に乗り込み食べる。何だかインドに居ることも忘れ、マンゴジュースを飲み、マンゴのカットフルーツを頬張る。普通の日本人なら一番気を付けていることを平気で無意識にやっている。その自然体が重要だ。基本的に私はインドでこれまで中ったことはない。「病は気から」ではないだろうか。

インドで水を飲んだり、食べ物を食べると中る、という話はよく聞くが、日本におけるインド情報はつい最近まで「バックパッカー情報」が主だったことを思い出そう。彼らは敢えてインドの下層階級の暮らしを志向しているのであり、中流以上のインド人に言わせても「それを飲めば私も中る」ということになる。

また気候の違いも大きい。非常に暑い中を、日本人感覚でいくつもの観光地巡りをしたり、ビジネスに励めば、当然疲れ、消化力も落ち、体調不良になる。だから、私の旅は極めてゆっくり無理をしない。今回も空港で一夜を明かすこともできたが、敢えてホテルを取った。心のゆとりは大きい。

インドでは怒った方が負け
7時前にチェックアウトし、空港へ。昨晩20分掛かった所が本日は10分。ようは道の車線の関係などで行きは大回りしていただけであった。空港ではキングフィッシャーのチェックインにかなりの行列。主要都市行きもレイ行きも全て同じカウンターで行っている。昔ならイライラしただろうが、今は平然と順番を待つ。特にインドでは中国のような混乱はないので、待てば必ず順番が来る。

後ろの中国人はかなりイライラしており、しきりに係員に働き掛け、とうとう優先的にカウンターに進んだ。彼を見ていて昔の自分に重ねる。彼は相当のエネルギーを使って一見勝利を得た様だが、実は相当の疲労と興奮で、次にステップで躓きそうに見える。インドでは「怒った方が負け」「イライラした方が疲れるだけ」という感覚を彼から学ぶ。

チェックイン後の荷物検査はかなり厳重であったが、何故か水は取られなかった。空港内では香港と異なり、至る所に電源があり、座ってPCを打ちながら充電で来た。但し充電のスピードは遅く、半分しかできなかったが。電気店でソケットを購入。これがあればコンセント違いの心配なく、充電できるだろう、ラダックでも。尚ネットは無線を登録すれば使えた様だが、携帯番号が必要。私が持つ中国携帯はデリーでは繋がらず、登録は出来なかった。

天候によっては飛行機がディレーし、最悪翌日回しになることもある、と脅かされたレイ行きの飛行機も呆気ないほど順調に、定刻通り飛んだ。飛行機は昨晩同様キングフィッシャー。こちらは座席が昨日よりゆったりしていた。乗客は西洋人が多く、定員の半分程度であったので、特にゆったり出来た。それにしてもガイドブックなどには「この時期、レイ行きの国内線は予約が取りにくく・・」などとの解説があったが、なんだっただろうか。レイの街でも航空券を格安で販売している所もあった。

40分ほどでレイの上空へ。窓の外は素晴らしい景色になっていた。雪を頂き聳える山々、低い山には雪がなく、木々も見られない。その横に斜面にへばりつくように家々が点々と見える。うねるような大地に這うように生きる人間たち。不思議な感じがした。

『インドで呼吸し、考える2011』(2)キングフィッシュ―でデリーへ

3.キングフィッシャーで行く
今回の旅のルートを決めるのに意外と手間取った。これまでであればバンコック経由にして、バンコックに滞在し、知り合いに会うなどしていたから。しかし今回は料金を重視した。何しろ燃油チャージが相当上がり、しかも夏なので、以前聞いていたような値段ではとても取れない。

我がオフィスは旅行のプロが多数おり、どうやって安く上げるか聞いた所、「電話を掛け捲る」との答えだったので、取り敢えずHISあたりに掛けてみた。すると香港経由が安いと判明。ちょうど香港に行く用事があり、願ったり叶ったり。しかも香港まではJAL+ジェットエアーというから何となく安い。しかし念の為、インド関係の旅行社に問い合わせたところ、何とキャセイ+キングフィッシャーが更に安いと言う。

キングフィッシャーと自席で叫んだ瞬間、前の席に座る旅行お絵かき作家女史が「それだ、それに乗れ」とのたまう。聞けば前回インド行で乗ったそうで、そのCAの颯爽とした姿、機内食の美味さ、など申し分がなかったらしい。しかも何故か格安航空のジェットより安いとなれば、これで決まりだ。

因みにキングフィッシャーはビール会社が航空業界に参入したものだが、ビールでもアジアでは相当美味しいらしい。

7月10日(日)

香港で毎日たらふく食い、人と会い、そして節電日本にはない強烈な冷房のシャワーを浴び、満喫した雰囲気で空港へ。第2ターミナルは初めての経験。行ってみるとかなり空いており、キングフィッシャーのカウンターにはかなり列があったものの、デリーとムンバイ行は専用カウンターで直ぐにチェックイン完了。しかし何故かこのターミナルのイミグレが閉鎖されており、第1へ行き、そこから搭乗する。

キングフィッシャーは新参者のせいか、ゲートは空港の一番端に固まっている。機体はなかなか格好の良い鳥が描かれており、合格。CAはうーん、赤い服で颯爽としている感じはあるが。

機内に入ると後ろの方の座席のシートがおかしい。私の所から急に4席が3席になり、座席と前のシートがずれている。片足は椅子に下からはみ出すわけで、時々CAに踏まれる。隣に座った若者はインド人だがオーストラリアのボーイングで働いていた。彼曰く「やっぱりおかしい」。

乗客は満員で半数以上はインド人。中には飛行機に乗るのが初めてかと思うほど、はしゃいでおり、昔の中国を思い出した。騒がしい機内だったので、早々にインド音楽など聞く。気分は盛り上がる。

食事の時間となる。ところがこれが非常に効率の悪いもので、私の所に食事が来た時はもう片側は全員食事が終了していた。これは慣れていない証拠。食事の味はまあいいか。しかしコーヒーを頼んでももらえず、インド人達は盛んにボタンを押して要求を告げる。気の弱い私は仕方なく、後方へ行き、CAに頼むことに。

CAも如何にもビール会社のコンパニオン的な人もいるが、私のあたりの担当は韓国人かな、とにかくバタバタしていた。男性はCAきちんと服を着こなし、まあまあか。6時間近いフライトでこれだけバタバタするのは珍しい。どうやらこの航空会社、私には合わない。そして、帰り便のデリーで問題が発生する。

4.デリーの一夜
デリー空港
デリー空港に到着したのは定刻より30分以上早かった。さあいよいよインドだ、という気負いもなく、前回のムンバイ空港同様に淡々と進む。デリー空港はかなり大きな空港で、キングフィッシャーは相当端に停留するため、かなり長い時間を歩いてようやくイミグレへたどり着く。他の空港なら電車を走らせていることだろう。

イミグレは空いていて、直ぐに係官へ書類を渡す。ところが彼はパスポートと睨めっこで一向に進まない。昔中国や東南アジアでよくあった光景だが、最近は見慣れない。ようやく口を開いた言葉が「このビザで初めてインドに来たんだな」。何でそんなこと聞くの?と思わず言いそうになったが、さらに時間が掛かるのを恐れて、神妙に頷く。それでもまた書類に目を通し始め、進まず。次の質問は「どこに泊まるんだ」。既に書類に書き込まれているのだが、「読めない」と言う。結局暇潰しだったようで、次のお客がやってきたら直ぐに解放された。

イミグレの次に普通はバッゲージクレームがあるはずだが、この空港は何と免税店がいくつもある。その向こうで荷物を受け取り、出口となっている。北京などでも、ひっそりと免税店が置かれていたりはするが、この空港はちょっと異常。ここで買い物をするのはインド人であろうか。であればインドの商業化の象徴か。

イミグレを出るとホテルやレンタカーの運転手がきちんと待っており、混乱はない。予約したドライバーも直ぐに見つかる。出口付近の両替所で両替。日本円4万円を出すと「5万円なら免税だぞ」と言われて、あわてて1万円追加した。何でも免税?前回はA師の手配で両替をせずに100p札を大量にもらって便利だったが、今回は500p札を大量にもらう。今後使えるか心配である。空港内にはCitibankのATMがあり、カードがあれば、現金なしでもルピーを調達できそうだ。次回はチャレンジしよう。

車は4階建ての駐車場ビルにあり、大勢の人々がエレベータに乗る。この光景はムンバイと同じだ。少し前のインド、デリー空港を知る人からすると相当の進歩を遂げているらしい。我々は自分の持つインドのイメージを変える必要があるのではないか。