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コルカタ散歩2011(1)ドルガプージャの夜

《コルカタ散歩》 2011年10月6日-9日

10月6日(木)
1. エア・アジアでコルカタへ

どうにか飛行機には乗った。が、いまだに信じられない。私は本当にコルカタ行に乗ったのだろうか。慌ててジャカルタ行に乗ってしまったのではないか。バックを忘れたように何か大きな忘れ物、勘違いはないのだろうか。

そんなことにはお構いなく、飛行機は雨の中を離陸し、そして何ごともなかったように水平飛行に入った。今回は何故か窓側の席しかなく、不慣れな席で小さくなっていた。隣はマレーシアのパスポートを持つインド系カップル。早々に注文しておいた機内食が来て、食べ始めた。何だか美味しそう。カレーか。でも、不慣れな席から不慣れな注文は出来ない。じっと我慢する。

その内にそのカップルは不意に居なくなり、そのまま帰ってこなかった。どこかにもっといい席を見付けたのだろう。そうなれば、3席を独り占め。そしてCAにメニューにあったチキンライスを注文する。さっき空港で食べたばかりだが、何度でも食べたい。ところがこれは売り切れ、仕方なく別のチキンを頼むがこれが予想外に美味しい。今度は事前に予約しよう。そうすれば少し安くなる。

4時間ほどして、飛行機は高度を下げた。コルカタが近づく。窓から外を見たが、暗くてよく見えない。インドの大地はそう簡単には姿を現さない。さて、どうなるのだろうか。

2. コルカタ (1) クラシックタクシーで

今回ビザを取ろうと茗荷谷のインドビザセンターに出頭すると「あなたのビザはマルチですから必要ありませんよ」と言われる。え、7月のラダック行きに取ったビザは何とまだ有効であった。2か月間入国禁止が頭にあり、混同する。

それでも何となく、入国時には緊張する。何か間違いがあって入国できない、ということはないだろうか。心配性なのである。今回も直ぐに飛行機を降り、真っ先にイミグレに進む。イミグレの係官は「このビザを使うのだな」と念を押す。緊張が走る。そして呆気ないほど簡単にスタンプが押される。荷物も簡単に出て来る。

さて、心の準備が出来ていない。こんなに早く出て来るとは。これからどうやって、街へ行くのか。確か旅行社のセットさんのメールでは誰かが来るようなことが書いてあったが、どうやって会うのだろうか。

出口を探していると、一般ゲートよりだいぶ前にミニゲートがあり、そこに目をやると一人の男性が立っていた。彼は慌てて紙を上げる。そこには私の名前があった。迎えがあった。旅行社の人だから中まで入れたようだ。「タクシーチケットを買って」と言われ、横を見るとプリペイドタクシーの窓口があった。しかしどこへ行くのか分からない。ホテルの名前すら知らないのだ。

その男性はとうとう中に入ってきて、代わりに処理してくれた。本当はいけないことのようだが、外国人だし仕方ない、と警備員も諦め顔。そして2人で外へ出ると、特に秩序だって待っている訳ではないタクシーの方に近づき、何か言うと、極めてクラシックなタクシーに乗り込む。私一人ではとても対応できなかった感じ。何しろ暗い。

そうして、タクシーが走りだし、市内へ。市内に向かう道も何となくクラシックなイメージ。何故だろうか、その時音楽が聞こえ、何かが押し寄せてきた。

(2) ドルガプージャの夜

窓から外を見ると、何かが煌めく。人が大勢で、人形のようなものを山車に載せて、行進している。太鼓が叩かれ、所謂お祭り騒ぎだ。これは何だろうか。隣の男性は「今日はドルガプージャの最終日で盛り上がっています」という。人形はドルガであるわけだ。ドルガプージャは、ベンガルの1年に1度のお祭り、その最終日の夜ともなれば、相当の盛り上がり。

道には大勢の見物人が出ていて、凄い状態。交通は遮断されるし、タクシーの奪い合い、バスやリキシャーには人が詰め込まれている。これは本当のお祭り騒ぎだ。そして我がタクシーも何とか喧騒を抜ける。ホテルはどこだろう、いやここはどこだろうか。それから長い時間タクシーに乗っていた。さっき見たのは市内ではなく、郊外だったのだ。

市内中心に入ると、やはりライトアップされている。それは何とも言えない、不思議な空間。まるで映画のセットに紛れ込んだような錯覚を覚える。この街は何と古めかしい、とても素晴らしい、植民地時代の建物を残した街であった。かなり細い道を何度か通り、ようやくホテルに着いた時には結構疲れていた。

それでもホテルをすぐに出て、お祭りを探す。この辺は繁華街なのか、人通りは多いが、お祭りは見られない。兎に角暑くて、のどが渇く。冷たい飲み物を買おうとしたが、なかなか見つからない。冷蔵庫を使う所は多くない。大通りに出て、何とか冷蔵庫を発見、自らスプライトを取り出す。お爺さんに渡すがいくらか分からず、100rpを差し出す。おつりが来た。30rpだったようだ。

スプライトを飲み始めると急に腹が減る。明るくはないコルカタの街に徐々に慣れている。チキンエッグロールと英語で書かれた店の前で止まる。これなら食べられそうだ。息子が卵を溶き、大きな鉄板に敷き、そして後は親父がひっくり返す。ようはクレープだ。出来上がるとそこにチキンを混ぜて丸める。一口食べると周りの卵の温かさと中のチキンがマッチしている。まあ、親子丼と同じ発想か。35rp。

マクドナルドでは多くの若者がハンバーガーを頬張り、ポテトをつまむ。外では老婆がそのような金持ちに小銭をせびる。最後に路地に入ると、テントが張られ、中にドルガが祭られていた。写真を撮らせてもらったが、何だか人形劇の舞台のよう。インドは多様だ。

(3) お湯が出なくても

ホテルは小さな門を潜って中に入った。門番がちゃんといる。建物は結構きれいで安堵。最近出来たと思われる。部屋もそこそこ広くOK。天井に大きな扇風機があり、早速回す。懸案のネットは「部屋で使うなら、一日500rp。だけど、ロビーならタダ。」というので、この狭いロビーでやってみる。机が一つだけあり、そこを使うと電源も確保できて、すぐに繋がった。これはいい。

このホテル、外国人の団体が多い。フランス、イタリアあたりか。やはりそれなりにきれいだからだろう。また博物館に近いという利点もあるかもしれない。ネットしながら見ていると、様々な人種の人が出入りしていた。

部屋に戻り、シャワーを浴びようとしたが、何故かお湯が出ない。結構暑かったので、そのまま水浴び。ちょうど良かったが、湯が出ないのはちょっと。TVは壁に掛かっているサムソンの大型。これで衛星放送を見る。インドに来たのだからとこの日から、毎日クリケットを見て勉強した。ムンバイインディアンズが強くて人気のあるチームだと分かる。

因みにその後もシャワーのお湯は出なかった。フロントに文句を言うとその度に「必ず出ます」と言うのだが。3日目には泥水まで出て来た。何か修理はしたのだが裏目に出たようだ。まあラダックでのホームステイ体験などで、お湯が出来ることが必須ではなくなっていたので、我慢する。サラリーマン時代の私なら、切れて大変だったことだろう。自分を冷静に見つめられるようになったことは進歩か。




『インドで呼吸し、考える2011』(20)デリー 全ては安全上の理由から

世界遺産へ行き損ねる
地下鉄に乗って市内に戻る途中寄り道する。高架から立派な遺跡のようなものが目に入る。チャタプールと言う駅で下車。駅のすぐ近くに何やら像が立っていたので行って見ると、何とテーマパークのような場所。ここで降りたインド人達は次々と乗合タクシーやリキシャ-に乗っていくが、私は行先が不明?のため、徒歩で目指すことにした。

途中かなり大きなイスラム寺院があり、多くの人が入って行ったが、靴を脱ぐのが億劫で入るのを断念。ここを過ぎると歩く人もまばらとなり、目的地の方角も定かでなくなる。駅から見えた遺跡がそんなに遠いわけがない、とは思ったが、歩いても、歩いても見えてこない。

タクシーもリキシャ-すらも通らなくなり、諦める。しかしどうやって戻るか、目的地に着けなかった落胆も含め、曇りの天気にも拘らず、相当の疲労感がある。今来た道を戻るのは本当にしんどい。前をよく見ると高架が見える。ここは地下鉄の次の駅へ向かう道のようだ。それから20分ほど歩いて、ようやくクタミラーと言う駅に着き、地下鉄で戻る。

この寄り道は一体なんだったのだろうか。あまりにも計画性がない旅を戒められたのだろうか。兎に角近くまで行きながらチャルタプールと言う世界遺産を見逃したことには違いはない。

全ては安全上の理由で
YMCAに戻り、シャワーをたっぷり浴び、通いなれた1階のビジネスセンターへ行く。今回は1日2回ここでメールチェックなどを行っており、すっかり顔なじみに。何だかデリーも名残惜しい。

最近出来たと言うエアポートエクスプレスに乗れば、ニューデリー駅から空港まで僅か18分、しかも駅でチェックインもできると言うので、早めにYMCAを出る。これまた顔なじみになりながら一度も使わなかったリキシャ-のターバンおじさんが待っていた。「最後ぐらい乗れよ。駅まで30rpで行くよ」と言われたが、今回は地下鉄で通そうと思い、断る。

大きな荷物を持って、地下鉄へ。何だかこの格好でいるとちょっとインドに入り込んだ気がする。地元の人と一緒に危ない道を急いで渡り、地下鉄の荷物検査に耐える。インドに居ると時々顔を出す「俺はいったいなぜここに居るんだ、何しているんだ」という思いが出て来る。

ようやくエクスプレスのチェックインカウンターへ。ところが・・・。国際線のカウンターが何処にもない。聞けば「ここでチェックインできるのは国内線のみ」と言う。ここまで重い荷物を運んできた疲れからか急に怒りがこみ上げる。「広告のどこにも書いていないと」と責めると、「その通り、我々も不思議に思っている、全ては安全上の理由だ」と。

エクスプレスの職員はそれでも私の荷物を見て気の毒に思い、「先ずは空港に行ってくれ」と自ら荷物を持って切符売り場で切符を買ってくれた。空港まで何と65rp。空港から来たプリペイドタクシーが320rpだったから、格安ではある。

実は計画ではチェックイン後に夕食を市内で食べ、悠々と空港へ向かはずだった。しかしこうなれば仕方がない。空港へ向かう。ホームに降りるとすぐに列車が来た。見た感じは香港のエアポートエクスプレスと同じ。記念に写真を撮ろうとすると・・。

係員が飛んできて「写真不可」を言い渡す。思わず「何で!」と大声になる。「安全上の理由で」との答えに納得できない。どこにも禁止の表示はない。すると一旦列車に乗ったインド人の品のいい紳士が降りて来て「どうした」と聞く。彼に理由を話せば、この理不尽な対応に何か言ってくれると期待したが、彼の口から出た言葉は「すべては安全上の理由です。我慢してください」というもの。確かに先月もムンバイでテロがあったばかり。しかし・・・すべて安全上の理由で片づけられては。

デリー空港で一波乱
エクスプレスは確かに18分で着いてしまった。しかし私にはまだ出発まで4時間半もの時間が残されている。先ずはチェックインが出来るかどうか。恐る恐るカウンターへ向かうとチェックインはいとも簡単にできた。そこでつい、「何故市内でチェックイン出来ないのか」と聞いてしまった。

職員は誇らしげに「それはインターナショナル・ルールだから」と答える。これまで大抵のことには我慢できていたが、この近代的な空港でインドのことしか知らないにいちゃんにインターナショナル・ルールを持ち出されるとちょっと怒る。香港だって、他のアジアの都市だって、市内でチェックインできるぞ、と言い返すと、彼も本気で応戦してきた。

とその時、後ろに一人だけいたインド人のおばさんが「そうよ、香港ではチェックインできたわ」と助太刀してくれる。職員もおばさんの勢いに押されて私にボーディングパスを渡す。しかし更におばさんが「あんた、香港人?香港はひどいわね、英語が全く通じない、何アレ」と怒りの矛先を私に向けて来た。確かにおばさんのインド英語は相当凄まじく、ほとんど聞き取れない、香港人も参ったことだろう。早々に退散する。

イミグレは結構並んでいたので、早めに通過しようと列に並ぶ。後ろに中国人の団体が20人ほど並び、口々に「インドって、なんでこんなに遅いんだ」と北京語でまくしたてる。私にしてみれば10-20年前、あんたの国もこれと同じくらい遅かったんだと言いたくなる。

30分ほどしてようやくイミグレを通過、ホッとして荷物検査を通過しようとすると、お姐さんが「タッグが無い」とつぶやく。そして私に目配せして、「キングフィッシャーのオフィスへ行け」と小声で言う。私は意味が分からず、何言っているんだ、と聞き返すと、万事休す、といった表情になる。彼女の上司がやって来ていきなり、「タッグが無いなら航空会社カウンターへ戻れ」と叫ぶ。一瞬何が起こったか理解できない。説明を求めてもおじさんは私のボーディングパスに押された2つのハンコにバツ印を付け、イミグレを指さす。しかしここから戻る方法すら分からない。どうするんだ、途方に暮れる。

仕方なく、イミグレへ向かうと銃を持ったおじさんが「なんだ」と怖い顔でにらむ。検査台を指して、訴えるとそのおじさんが、検査台で状況を確認して、ちょっと来い、と手で合図する。とうとう一からやり直しか、はたまた賄賂でも要求されるかと思っていると、おじさんは自分の席から何かをポーンと投げてよこした。見るとタッグである。それを持って検査台へ行くと、何事もなかったかのように通過できた。一体今のナンだったのだろうか。しかもよく見るとそのタッグは私の搭乗するキングフィッシャーではなく、エアアジアのものであった。これがインドの柔軟性か。

中に入ると、そこはインドではなかった。高級車の展示あり、マックやビザ屋あり、広々とした空間で人々が飛行機を待っていた。「インドは一度トラブルと大変なんです」と言われていたが、厳しくもあり、また楽しくもある場所である。それにしてもあのタッグはカウンター職員がドサクサに紛れて、わざと渡さなかったのだろう。それでも何とかなってしまう所がやはりインド、ということか。今回もまた大いに勉強になり、人生を考える上で大きな意味があった、と思う。




『インドで呼吸し、考える2011』(19)デリー いくつもの顔があるデリー

インドの価格差とは
メインバザールをずっと歩いて行くと地下鉄アシュラムマグ駅に到着する。地下鉄と言っても高架であるが。午後は博物館に行きたいと思っていたので、セントラルセクリアット駅へ向かう。駅から地上に上がったが、広大な場所であり、どこへ行ってよいか分からない。とても立派な建物が見えたのでそちらへ。そこは国会議事堂と官庁街であった。建物の一つは財務省、つかつか入っていくと警備員は建物の前まではノーチェック。入り口で初めてチェックが掛かったが、実に丁重な英語で入館を断られる。とても不思議な感じだ。

反対側の遥か遠くにインド門が見える。あそこまでオートリキシャーで行きたいが、流しが走っていない。皆チャーターしている。またクラシックカーかと思う立派な車で来ている者もいる。仕方なく、とぼとぼ歩く。途中まで来ると突然流しのリキシャ-が大量にいる。そうか、流しは入れないのか。しかし彼らは私の(疲れている)足元を見て50rpだ、100rpだと法外な料金を要求する。行先は見えているのだから、彼らの足元を逆に見て、メーターの最低料金である20rpを下回る10rpを提示。誰も受けないと見るとさっさと歩きだす。すると、1台が追いかけて来て、10rpでいいから乗れ、と合図する。とうとうインド人に打ち勝った気分。しかしそれは僅か1㎞の距離であり、当然の値段。

インド門を一周して、博物館が何処にあるかよく分からないまま再び歩き出す。またさっきのリキシャ-が来て、10rpで乗れと言う。何となく癪で歩き出す。のどが渇いた。道端のスタンドでスプライトを1つ買おうとすると何と150rpだという。あまりに高いので驚いて見せると120rpになったが、買わずに離れる。そしてすぐ隣のスタンドで同じ物を買うと何と30rp。それでも普通の店より高いが、この価格差には唖然とする。何でもアリだな、この国は。

博物館をようやく見付けて、見学する。なかなか雰囲気のある仏像が多数あり、見とれる。そして出口の門から外へ出ると、クラシックカータクシーが目の前に登場。これまでなら無視してやり過ごすが、面白そうだし、疲れているので乗ってみることに。料金はメーター通り50rp。それほど高くない。

運転手は私が香港から来た、と告げると最近中国人観光客が多いと言い、自分の知る限りの中国語を話しだす。ちょっとビックリ。そして仕切りに以後の私の予定を知りたがる。車をチャーターしてもらいたいのがありあり。その手に乗らずかわしていると、最後は50rpを受け取り素直に分かれた。リキシャ-から1㎞100rpと言われたり、タクシーが数キロ走って50rpだったり、何とも分かり難い国である。

7月23日(土)
17.デリー3日目
隠れ家的日本人経営の宿
デリー3日目、今日は観光ではなく、街歩き。先ずはデリーで日本人が経営している宿を訪ねる。今回出発前に何人かに聞いたり、ネットで見たりしたのだが、デリーの日本人経営宿は見付からなかった。ところが昨日日本語のフリーペーパーを発見し、見ていると、広告が出ていたので行って見ることに。

リキシャーで来るように言われたが、例のごとく地下鉄で。昨日も行ったセントラルセクリアットでバイオレットラインに乗り換え、カイラスコロニーで下車。5分ぐらい歩いて行くと高級住宅街に入る。ところが住居表示が非常に分かり難く目的地になかなか着けない。最後はまたまた携帯で電話してようやく到着。

ここサプナ(http://sapna.exblog.jp/10136506/)は「デリーの小さな宿、日本人のためのゲストハウス」と言う謳い文句とはちょっと様子が違う。高級住宅の貸部屋。中に入ると日本人の中年男性が3人、PCを触りながら朝ごはんを食べていた。その光景はゲストハウスではなく、高級下宿。

朝食付きで1泊7,500円からというのは頷ける。朝食は和洋印から選べ、広々としたリビングで取る。インドの住宅は各部屋にバストイレが併設されており、宿泊者はトイレで悩むこともない。非常に清潔感があり、またゆったり感がある。

店主の日本人女性Mさんにお話を伺うと「初めは自分が食べていければよいと開始、近所に有名な女性向けファッション・雑貨市場があるので、女性の一人旅などで泊まって欲しかったが、実際には企業駐在出来た人々の始業時の宿となっている」とのこと。現在N-34に3部屋、N-22に6部屋を有する。Mさんはデリー滞在15年、働かないで暮らすつもりだったが、その後自分にできることとして7年前にこのゲストハウスを開業。インド人パートナーもなく、数人のインド人従業員を使って運営している。

お話の端々に「デリーには建築上の高さ制限あるが、最近は1階に駐車スペースを作れば4階まで可」「グルカオンは別の州で制限がなく、日系企業もかなり引っ越した」「インド人は土地を分割しない。銀行の抵当品でも内部で購入してしまう」など、インド事情が溢れだす。Mさんはお母さんのような存在であろうか。

デリーに行ったら、インド人の高級家庭を体験する意味でも、決まりきったコースを外れてこのような宿に泊まってみるのも面白い。周辺にはブティックやレストランなどもあり、観光では見られないデリーの一面に触れる機会にもなる。

インドの中産階級を見るグルガオン
午後は地下鉄でグルガオンへ。先日会ったM先生からも「インドの発展を見るのであればグルガオンへ行け」と言われたので、訪ねた。デリー中心からほぼ1時間、地下鉄が高架に変わっている駅に前には、大きなショッピングモールがいくつも見える。グルガオンのどこへ行くかではなく、その辺に行けば分かる、と言われた意味が分かる。

MGロードと言う駅で降りてみる。駅前にはCitibankや携帯のサムソンの大きな看板がかかるショッピングモールが見える。本日は休日と言うこともあり、大勢の人が中へ吸い込まれていく。

中へ入ると作りは日本のデパートとほぼ同じ。1階の化粧品コーナー、2階の婦人服と続いていたが、その人の多さは私が子供の頃体験したデパートを想起させる。そして来ているだけではなく、大量に買い込んでいる。ちょうどバーゲンだったのだろうか。

値段は物にもよるが、中国並み。インドの中産階級と言われる人々のバーゲニングパワーを見る思いだ。正直あまりに人が多く、そして勢いがあるので、こちらは何となく気圧されて外へ出る。押し出される感覚だ。外には駐車場を求めて車が殺到する。

どのショッピングモールにも、マックやピザ屋が付いており、ここも家族連れなどで超満員。また映画館併設のシネコンもあり、ボリウッド映画も上映されている。ここはある意味ではインドではない。資本主義に刺激された人々が増えるにつれて、インドも内面から変化していくのであろうか。




『インドで呼吸し、考える2011』(18)デリー 生きてると感じられる場所

リキシャーの後姿
チャンドニーチョックで降り、上に上がるとデリー駅がある。ここはコロニアル風の駅。雰囲気は良い。しかし人は多い。トイレはデラックストイレ、などという有料トイレが見られる。駅前の雑踏にはリキシャーがたむろし、チャパティなど朝ごはんを売る屋台が沢山出ている。しかしいくら探しても、ラール・キラーへ行く道を示す表示はない。

この辺が中国同様親切ではない。むしろわざと分からなくしており、リキシャーなどに乗せる作戦・・とも思えない。分からない場所に行くのに値段交渉も怖い。リキシャーと言っても昨日のオートと違い、自転車を足で漕ぐ、サイクルリキシャ-が多く見られる。ということは目標物は近いと判断できる?

一台のリキシャ-が近づいてきた。値段を聞くと20rpという。首を振るとすぐに次がやって来た。乗る気のない振りをしながら近づき、15rpで妥結した。動き出すとなかなか快適。しかし坂道では登りきらず、自ら押して動かしている。これは結構な労力。これで15rpはきつい労働だ。

運転するにいさんの後姿を見ながら、彼の人生を考える。今の日本ならとてもやってられないようなこの仕事、彼はどう考えているのだろうか。ここで数年頑張れば、オートリキシャーが買え、それからは楽な生活が出来る、などとはとても思えない。恐らくは一生涯、サイクルリキシャ-ではないだろうか。何だか老舎の「駱駝祥子」の祥子を思い出す。「現世は前世のカルマによりこんな人生だが、来世は違うぜ」などと思っているのだろうか。

10分ほどで、ラール・キラーに到着。にいさんは決められた15rpを受け取ると文句も言わずにさっさと立ち去る。代わりにおじさんが地図を売りに来た。普通なら見向きもしないのだが、地図が欲しかったので、買うことに。ところがそのおじさんの持っている地図は何とホテルなどで無料で配られる物。それに40-50rpの値段を付けている。信じられない。交渉により20rpまで下がったが買う気もなく、立ち去る。すると後ろからおじさんが10rpでいい、手間賃だ、という。確かに無料の物でもここまで持ってくるのだから、それぐらいはと支払う。

それを見ていたゲートの警備員が「お前、気を付けろよ。財布取られるぞ」と忠告してくれた。確かにそうかもしれない。ラダックでの生活から完全に抜け切れていない。誰が良い人で誰が悪い人が全く区別できない。中国ではなかった混沌を肌で感じる。

生きていると感じられる場所



広大なラール・キラーをだらだらと見学し、外へ出た。さてこれからどうしようかと思っていると沢山のリキシャ-が近寄ってくる。面倒なので適当に歩き出す。少し歩くとジャマ-・マスジットという大きなイスラム寺院が目に入る。中に入り階段から上を見上げて写真を撮っていると、おじさんが「今日は金曜日の礼拝。午前中は入ってはいけない」と注意しに来た。

しかしこのおじさん、それから「どこから来たのか」「何日滞在するのか」「午後まで案内してやる」などとまるでガイドのように声を掛けて来る。いや、ガイドのようにではなく、ガイドなのだ。観光客目当てのこんなガイドに引っ掛かっても仕方がないと思い、振り切って外へ。

この寺院の裏手は人ごみがすごかった。そろそろ疲れて来たので、リキシャ-に乗ろうとしたが、全く動きそうもない。取り敢えず適当に歩き出す。デリーでもオールドデリーと言われるこの付近は、私の思い描いていたインドの雑踏。細い道の両脇には昔ながらの2階建て商店が並び、鋼材や木材、胡椒などを扱っている。問屋街であろうか。道にはリキシャ-や自動車から大八車までがひしめき合い、まさに全く動かない状況。インドの喧騒。

私はどこへ向かって歩いて行くのか、何をしているのか、なぜこんな所に居るのか、しばしば立ち止まって考える。しかし考えても、何も出てこない。ただ一つわかることは「生きている感じがする」ということ。東京を思い返すと「あの震災ですらが、何だか他人ごとであり、テレビドラマのように現実味がない」のである。日本の暮らしは便利であり、不自由はないが、しかし生きている実感は掴めない。震災のような大災害時にはっと目を覚ますものの、またすぐに夢の中へ埋没する。

このデリーの古い町は全てオールドファッション。しかし人々の生み出す活力、むせ返る熱、漲る汗、作り出される喧噪が、古い映画の一場面のようでいて、しかし生きている。歩き疲れ、幻想を見ているかのようでいて、しかし生きている。不思議な空間だった。歩いていたのは15分か、20分。もう耐えられないと思った瞬間、目の前に地下鉄チャウリバザールの駅が出現した。科学技術の進歩は人を救うのか、それとも退化させるのか。

日本の原発がこんな所に影響?
チャウリバザールから地下鉄で一駅、ニューデリー駅で下車。バックパッカーが良く泊まると言う安宿が多いメインバザールを目指す。ところが・・、そこはニューデリー駅のちょうど反対側にあり、駅を突き抜けようとするとセキュリティが厳しく、相当遠回りすることになる。しかし駅構内を通過するため、何故か切符もないのにホームに降りられ、インド鉄道の車両を写真に納める。何だか仕組みはよく分からない。

ようやく反対側に辿りつくと、そこには両側に商店、両替屋、安宿が連なる道があった。欧米人の姿が多く見られ、安物を買い込んでいる。ここがメインバザール。昼時になったので、レストランを探す。すると一軒のお茶屋が見えた。

ホワイトティー、シナモンティー、バニラティー、など多彩な紅茶が並んでいる。とても興味があったが、空腹でお茶を飲むのは堪えると思い、話だけ聞く。しかしこのお茶が何処で採れ、どのように運ばれてきたかは分からない。

お茶屋のおじさんに美味しいレストランを聞くと「そこに日本人がやっているのがある。日本食も食えるぞ」と言ったので、行って見る。クラブインディア、は目の前の建物の3階にあった。お客は韓国人の若者。音楽も若者向け。ここはバックパッカーのたまり場なのだろう。後で見ると地球の歩き方にも一番先に載っている。

メニューを見ると確かにさるそば、唐揚げ、オムライスなど日本食が並ぶ。インド料理、ウエスタンもある。折角なのでチキンカツ丼を注文したが、答えは「ない」。注文を取りに来たおじさんによれば、そばもうどんも、そして白米もすべて日本から輸入していたが、震災原発後はその輸入を止められ、日本食は作れなくなっていた。

おじさんは最初英語で話していたが、私が日本人と分かると(普通は日本人と分からないらしい)、流暢な日本語で説明してくれる。店の壁には日本語で「病気などのお手伝いします」といった張り紙もある。インドで苦労しているバックパッカーの見方であろう。おじさんから「震災、原発大丈夫か」と聞かれた。ラダックでは震災を考えることもあったが、デリーでは日本のことなど忘れていた。突然現実に引き戻された気分。結局カレーとナンを食べた。



『インドで呼吸し、考える2011』(17)デリー 日本企業の問題点とは

デリーのケンタッキーで
Nさんのお店を辞して、ホテルへ戻る。今度はリキシャーに乗り、黙ってメーターで行く。80rp。私は少しデリーに身構えていた。デリーはある意味では普通の都市になっていた。ホテル近くで降りる。コンノートプレースを歩く。

横断歩道を渡っていると「危ないぞ」と声を掛けてきた若者がいた。少し話していると、友人と称して、日本人から金を貰おうと言う輩だと気が付いた。かなりしつこかった。ようやく我を振り払うとまた別の人間がやって来る。皆が私に声を掛けて来る錯覚に陥る。必ず国籍を聞いてくるので思い付きで「香港から来た」というと、彼らの態度が全く違うものになったのには、驚いた。日本人は本当に御しやすいカモなのだ。

お腹が空いたのでどこかに入ろうとして、ケンタッキーの前で足が止まった。ラダックでは考えられないこのジャンクフードの店で。この店、なかなかハイカラなのである。マックカフェを模したケンタッキーカフェがあり、若者が楽しそうにおしゃべりしている。

しかし注文しようにもシステム的にずさんでなかなかオーダーを聞いてもらえない。順番を無視する客についに声を荒げてしまう。ラダックの魔法はここで解けてしまったようだ。ようやく席について周囲を見ると、デートに使っているカップルが多い。隣は韓国人と日本人、そして西洋人が怠惰な姿勢でだらだら話している。これはインドか??

ホテルの周囲を歩いてみたが、近代的なビルが立ち並び、地下鉄もあり、車も多い。人がインド人であることを除けば、ここはインドか、首を傾げるほど、私の想像していた街とは異なっている。

インド人が指摘する日本企業の問題点
夜はデリーの大学教授M先生のお話を伺った。M先生は日本語の教師と言うことで紹介を受けていたが、お会いしてみると、日本語は実に堪能であり、かつ専攻は近代日本史、特に明治末の思想。また最近に日本企業のグローバル化を研究しているとのこと。

昨日日本から戻ったばかりだとは聞いていたが、某大学に客員教授として呼ばれ、何と2か月半も日本に滞在していた。何という偶然か、まさにドンピシャなタイミングでお会いできたわけだ。しかもわざわざホテルまで迎えに来てくれ、そしてご自宅に招いてくれた。

以下M先生の言葉。
「日本企業のトップは分かっているが、下が着いて行かない」
「雇用を維持して日本の技術の良さを出すためには、日本国内で薄利多売生産しかない」「日本人は日本が必ず再生すると信じている。しかし誰がやるかは明確ではない」
「あと10年すれば日本の技術の優位性はなくなる。その時中国・韓国には勝てない」
「タタの会長は来年引退。海外利益が65%の企業グループ、当然次期会長は海外から招へい。現在今後20年できる人を募集中。日系企業は・・」
「日本企業の研究拠点は本社中心。グローバル企業は世界の数拠点で並行して開発を行っており、ニーズの取り込みのスピードが違う」
「韓国企業は技術的に優れているとは思わないが、冷蔵庫、洗濯機のインド市場を独占した。日本企業に出来な訳はない」

至極もっともなお話ばかり。先生は日本滞在中に何度も企業経営者などを前に講演したと言うが、反応ははかばかしい物ではなかったらしい。「分かってはいるけれど、出来ない」ということが、日本には多過ぎると感じられた。

厳しい話ばかり書いてきたが、先生は実に温和な方で、話し方は上品。夕食も私の為に、奥様が家庭料理を作ってくれた。それにしてもインド人から「明治末の思想」「水平社」「幸徳秋水」などの言葉が出る度、正直唖然となる。今や日本人でこのあたりを語れる人はどれほどいるのだろうか。文化人と称している人でも難しいのではないだろうか。

そばでは先生の愛犬が常に吠えていた。2か月半も留守にして、更に今日もおれを構わないのか、といった不満が爆発していた。そういう意味では奥様や息子さんも同じだったはずで、その中を招いて頂いたことには実に感謝したい。

7月22日(金)
16.デリー2日目
地下鉄 
朝ホテルで朝食を取り、その足で地下鉄へ。デリーは2002年の開設以来、地下鉄の整備が進み、現在6路線が運行。街のかなりの部分がカバーされてきている。ただ外国人にはちと分かり難い。例えば私が泊まっているコンノートプレースは地下鉄名ではラジブチョックという名前であり、知らなければピンとこない。

今回初めてのデリーながら、「進化するデリーと進化しないデリー」をテーマに動いてみた。一番良いのは地下鉄に乗り、観光地や繁華街などいくつかの場所に行って見ることだと思い、実行する。

ラジブチョック駅はYMCAから徒歩5分ぐらい。地下に潜ると荷物検査があり、大勢の人々が足止めされる。そしてチケット売り場はかなりの混雑。私も観光地カールキラーに行くための路線を窓口で聞いたが、英語がよく分からず、窓口で時間をかなり使った。耳寄りの情報があった。それは3日間乗り放題のトラベルパスが300rp(50rpはデポジット)販売されており、いちいち行列しなくてよいこと。但し1回の料金は15-25rp程度。とても使い切れるものではない。結局余ることを覚悟の上で、購入。

因みに駅には飲み物などを売るキヨスク、書店、そしてCitibankのATMもあった。この辺は現代的で違和感はない。

ここの地下鉄は色で分けられている。私はイエローラインに乗り、チャンドニーチョックへ向かう。ここはデリー駅(ニューデリー駅とは別)であるが、駅名はチャンドニーチョック。何でだ?地下鉄の車両はきれいだが、混雑しており、中国同様?降りる人に譲る姿勢はない。インド人の風貌からして、どいてくれないと結構痺れ、怖い感じがする。これはやはり「他人に隙を見せない」ためであろうか。

この地下鉄、日本のODAで作られたと聞いていたが、車両は韓国製とか。車内には携帯やPC用の電源も備わっており、良い。が、いつも混んでいる車内で充電している人を見かけることはなかった。

 

『インドで呼吸し、考える2011』(16)デリー インドは生きているだけで価値がある

空港のセキュリティ
空港までは僅かな時間、沈黙が流れる。突然インドの空港ではチケットがいることを思い出す。Eチケットに慣れた我々は直ぐに忘れてしまうが、チケットなしでは空港入り口すらクリアーできない。慌てて鍵を開けようとしたが、間に合わず入り口到着。しかし何故か車はフリーパスで侵入。ここではお坊さんは信用がある、ということ。

そしてターミナル入口。P師が付いてきてくれたが、ここまで。有難う、すら言えない内に中に引きこまれる。何だか全てが終わったような気分になる。気を取り直して、チェックインへ。多くの人が並んでいる。カウンターは2つしかない。ここでP師の言葉が頭をよぎる。「急ぐ必要なんかない。ゆっくりやりなさい」

いつもなら、どちらのカウンターが早いとか、イライラして待つのだが、今日は完全に無の境地?もう一つのカウンターが相当早く手続き出来ているのを見てもゆっくり待っていた。そうしたら何とチェックイン最後の1名になってしまった。だが、カウンターの女性が「ビジネスクラスにアップグレードします」というではないか。何だかいきなりのご利益に仰天。

今回は比較のため、ジェットエアーを選んでいた。好感度は急上昇。というか、いつものようにちょろちょろせずにいたことが、この結果か。そして手荷物チェックを経て、待合室へ。出発時間より早く何回かアナウンスがあったが、気にせずにいる。しかしどうも変だと思い、係員の居る外へ出てみた。するとそこには何とさっきチェックインした私の荷物が2つ、取り残されていた。何かまずい物でも入っているのだろうか?

係員がチケットを確認、そして荷物に印をつけて終了。ようするにチェックインした荷物が本当に搭乗する人の物か再チェックしていたのだ。そこまでするか、と思うと同時に、やはりここは国境紛争地帯の一つなのだと再認識。これまでの穏やかな生活の陰で、全く危険が無いとはいない状況もあると言うこと。

更に搭乗時には再度手荷物検査、バスで移動する際にもボーディングパスの検査。そして搭乗時にも再検査と、都合5回のチェックがあった。いや、空港入り口で検査が2回あったから、合計7回ものチェックを潜る。国内線でここまでやる地域は珍しい。

座席は一番前の窓際。離陸時からラダックの余韻に浸る。上空でもあそこが、スピトクなどと地名を思い出し、何故か感激。ジェットエアーは格安航空会社ではあるが、キングフィッシャーより何となく雰囲気が良く、CAも美人ぞろい。段々俗世に引き戻される。

隣のインド人が話し掛けてくる。「お前の持っている本は中国語か、日本語か」何故そんなことを聞くのかと思えば、彼は中国語を半年勉強したのだと言う。それで本の漢字に反応したらしい。ラダックにオフィスがある、と言っていたが、何の会社だろうか。中国語学習は仕事ではなく遊びだと言っていたが、本当だろうか。インド人にも中国語ブームが来たのだろうか。

飛行機はあっと言う間に下界に降りてしまった。僅か50分で、私のラダックは全く視界から消え去った。

【デリー編】
15.デリー1日目
携帯とプリペイドタクシー
2度目のデリー空港。何となく慣れた気分で荷物が出て来るのを待つ。怖い物が無くなったような気分。今日のホテルは予約されているし、交通手段はプリペイドタクシーを使えば、安全とのこと。何の問題もない。

ただラダックで果たせなかった携帯のSimカードを購入してみたいと強く思う。空港を出た所に携帯会社のカウンターがあった。試に聞いてみると「買える」との答え。半信半疑ながら手続きを進める。係員はジョークなど交えて非常に愛想がよい。

「写真持ってる?」と聞かれ、困る。持ってないと答えると何と自分の携帯で私の写真を撮り、処理してくれた。実に臨機応変、この機敏さが日本に欲しい。結局20分ほど掛けて書類に5枚ほどサインして、手続き完了。しかし料金は1000rp。カードは10年有効だが、3か月に一度チャージしないと、無効になる。3日の為には高過ぎたかもしれないが、これが危機を救うことに。

携帯ブースの隣にプリペイドタクシーカウンターあり。この場所は分かり難い。何故もっと分かり易くしないのか。何となく既得権益のにおいがする。市内YMCAまで320rp。タクシー番号が指定され、白黒のタクシーを探せと言う。正直初めての人間には不親切か。

ようやくタクシー乗り場を見付けると、係員が愛想よくレシートを受け取り、誘導してくれる。と思うと、彼は実は運転手で、番号の違う自分のタクシーに乗せようとする。流石、インド。その手には乗らずに、番号の所へ。この運転手はなかなか真面目そう。

クラシックカーのようなタクシーに乗る。料金所まで来ると誰かがいきなり乗り込んできた。「いいか」と聞かれたので、素直に首を縦に振る。中国ではこれは危険な行為。助手席に乗り込んだ人間がグルで、法外な料金を取られる可能性もある。しかしこの時はまだラダックの慈悲の心が残っていた。結局運転手とその男は楽しそうにお話、彼は途中で降りて行った。何度も私に感謝していた。不思議なものだ。

エレベーターに閉じ込められて
難なくYMCAに到着。タクシーンの運ちゃんは結局よい人だった。まだ午前中ではあるが、チェックイン可能とのことで待つ。これも普段であればかなりイライラしてしまう所だが、ただジッと待つことはが出来るようになっている。

ようやくチェックインがやって来て、非常に厳格なフロントのおじさんから内容を聞く。ところが、宿泊価格が2倍になっている。その点を指摘するとそのおじさんは、リストを指さし、「お前はこれだろう」と全く違う名前を指す。よく見るとその下が私。単に一段違っていただけ。おじさんはニコリともせず、謝ることもなく、金額を半分にして、再度最初から説明を始めた。これは一つのインドだな、と思いながら、この説明を楽しむ余裕がある。

そして客室へ向かう。エレベーターに乗り込み、3階のボタンを押す。ところがどうしたわけか動かない。少し慌ててドアを開くボタンを押すがやはり反応が無い。流石に慌ててベルを押す。昼間だし、警備員も居たし、誰か気が付くだろうと心に余裕はある。しかしエレベーター内の扇風機も停まってしまい、ちょっと息苦しくなる。

そこへ外から音がした。手でドアを開けている。よかった、とその助けに来てくれたスタッフを見て、ビックリ。どう見ても日本人に見える。まさか日本人エンジニア?彼は英語で大丈夫かといい、エレベーター内を点検、3階のボタンが反応していないだけだと言う。そして私に乗れと言う。嫌だったが、言う通りすると、何の問題もなく動き出す。彼は一体何者?

部屋は広かったが、ドアのカギは壊れそう。値段が半分なのは、実はトイレとシャワーが共同だから。ということはイチイチトイレに行くのに鍵を掛けることに。本当にシャワーを浴びたかったが、約束があり、直ぐにホテルを飛び出す。

インドでは生きているだけで価値がある
今回紹介されたNさん、日本食スーパーを経営されている。電話で確認し、オートリキシャーで来るようにと言われる。ホテルの外へ出ると、待ってましたとばかり、ターバンを巻いたおじちゃんが近づいてくる。どうみても、観光客向けの客待ち。この手には乗らない。さっと身をかわし、通りかかったリキシャ‐に飛び乗る。

Nさんから100rpあれば行けると聞いていたので、100rpで行くかと聞くと、首を縦に振り、しかも横についていたメーターを作動させる。場所も何回も確認していた。これはいい運転手だと・・。

30分ぐらい走っただろうか、結構遠いなと思っていると、いきなりここだと言われ、有無を言わせず降ろされる。メーターでは70rpだったが、100rpの支払いを要求される。確かに私も口にした数字だからまあいいかと支払って。ところが・・・。指定された場所はどこにもない。周囲の人に聞くと「ここから2㎞は離れている」と言う。何ということか。

そこからお店を探すのに悪戦苦闘した。人に聞くと皆答えてくれるが土地勘がないので正しいかどうか皆目わからない。とうとう例の携帯電話を取出し、確認する羽目に。それでも携帯があったのでよかった。もしなければ、途方に暮れていかもしれない。

ようやくお店に着き、延着を詫びるとインド在住20年を超えるNさんは一言、「インドは生きているだけで価値があるんです」非常に納得。そして「インドは発展していくが、その変化は100年、1000年単位で見て行かなければならない。自分の目の黒い内に大きく発展することはない。来世で見られるかな」「インドは変化していくが、変化しない頑固さもある」などと。うーん、これは奥が深い。

元々お坊さんであったNさん、仏教界への意見は厳しい。「日本の仏教界は既に死んでいる。 仏教がビジネスになっている」「ラダックの仏教は生きている。洪水に遭っても、皆が理解できるベースがある」「世界は今末世であり、この状態は一万年続く」「戦後アメリカの愚民政策により、日本は仏教を捨てた。基地問題など、アメリカ依存を捨てない限り、日本は立ち直れない」と次々私がラダックで考えていたようなことが飛び出す。

また教育では「子供はインドの環境で育てるのが正解。英語力やインドの泥臭さ、人間臭さが身に付けば、世界で怖い所はない」とも。また「日本人は英語は上手いが、執念が無いので韓国企業に負ける。韓国人は物怖じしないし、インドに合わせた商品を用意する」と日本企業の弱点もズバリ。インドで最近成功しているピザのようにインド人好みに合った商品提供が必要のようだ。



『インドで呼吸し、考える2011』(15)ラダック 今までの生活は一体何だったんだ

7月20日(水)
14.ラダック10日目
今までの生活は一体なんだったのか
朝起きると外が騒がしい。どうやら女子高校生がピクニックに行くらしい。私は相当に寝坊したらしい。一緒に連れて行ってくれるのかと思ったが、あっと言う間に置いて行かれる。P師一行も講義に出掛けて行き、更に学校に行く尼僧たちも出て行ってしまった。こうなるとこの尼僧院は静まり返る。

唯一物音を立てているのが、あのおじさん。朝から夕方までひたすら何かを砕いている。穀物だと思っていたが、どうやらそれは医療で使う薬草を砕いていることが分かる。きっとハーブ園から採って来た物だろう。それにしてもお寺の鐘の音のように音が響き渡るが、誰も反応しない。そしてそれは果てしなく続く。

お昼になっても状況は全く変わらず、おまけに電気も来ていないので、PC使用も控える。そうなると読書しかなく、3冊の本を並行して読んだりしている。初めて完全に時間を持て余す。

2時頃、おばさんが食事を運んできた。私のために例のクッキングチームが作ったスパゲティとサラダ。物凄い量だが、ペロッと平らげる。それはラダックで初めて感じたストレスのせいだろう。やはり人間、ストレスがあると食べる。誰にも構われない生活は理想的とも言えるが、そばに誰もいない生活はストレスになると言うことか。

自ら色々なことを考え出す。ここでは朝お湯が配られて目覚め、シンプルではあるが実に満ち足りた食事を三食頂き、電気がある時はPCに向かい、無い時は読書。ネットが繋がる時は1時間ほど、メールなどをチェックするのみ。そして尼僧より昨年当地を襲った洪水の様子とその後の人々のポジティブな対応を聞く。話の中で何度も「Positive」「Improve」という言葉があり、我々にも何かを訴えかけて来ている。「各人がエゴを消し去ることが大切」、実に難しいこと。

ここにいると、今までの生活は一体なんだったのか、と思ってしまう。電気が無ければ寝てしまう、車が無ければ歩いて行く、シンプルライフを実行する方法はないのだろうか。「エゴ」を少しずつ消していけば、何かが変わるのだろうか。

最後の晩 
昼寝をしている内に皆帰ってくる。何となく安心。ここの生活も10日になり、かなり馴染んでしまっている。日本では、誰かが帰ってこなくても、一人の生活でも特に気にも掛けないが、ここでは家族の帰宅を待つ気持ちが出る。日本と言う社会が、まさに「関係」を失った孤独な社会に見えてくる。

実は私にとって最後の晩は、イギリスの女子高校生の最後の晩と偶然重なっていた。お別れ会があるというので、皆ウキウキしたり、緊張したりしていた。何だか自分まで緊張していた。

P師が私の部屋の前の椅子に座っていた。彼女は決して「今晩が最後の夜ですね」などとは言わない。実にさりげなく会話を始めた。「あなたの子供達はもう十分に分別がある歳。あなたが家族に対して全責任を負う役割は終わった」。会社を辞めたことに対する回答だった。

「日本で仏教を学ぶのは難しい。環境的に整っていない。もし本当に勉強するならインドへ来なさい。でもダラムサラのように西洋化された場所はよくない。バラナシなど、仏教の聖地に可能性がある」「不必要な情報は捨てなさい。これまでのご縁を整理するのもいいでしょう。でも無理にやってはいけない。離れていく人とは自然と離れて行くもの」

「日本も今回の震災を契機に少しずつ変わっていくでしょう。でも、急激な変化、目に見える変化だけを追い求めてはいけない。精神的な構造変化はそんな簡単には起こらない」

こんな話を聞いている内に、夜が更け、お別れ会が始まった。尼僧たちは、英語で司会を務める子、歌を歌う子、踊る子など、一生懸命、エンターテイナーになろうとしていた。正直決して上手くはないが、それはある種の感動だった。

P師が言う。「尼僧がここで踊りを踊ることなどありません。でも彼女達は自分が楽しみ、相手を楽しませるために、一生懸命やっています」何だか、楽しいはずが泣けて来た。

7月21日(木)
別れの朝
朝が来た。ラダックに来てから11日目。とうとうこの地を離れる日が来てしまった。昨日の送別会の余韻もなく、僧院の朝は淡々としている。尼僧は夜が明けるとお湯を持ってきてくれる。その後、熱いチャイも運ばれてくる。これはもう毎日の日課である。それが今日で途切れることには、大いなる感慨がある。

朝ごはんの支度が出来た、と呼ばれる。まだ6時過ぎだ。僧院の朝ごはんは8時からだが、私のために特別に用意してくれていた。しかも食堂には既にP師が座っていた。私に付き合うために来てくれていた。

ここの生活が非常に気に入ったことなどを伝えると、「いつでも来たければ来ればいい」と言ってくれる。そしてここで得た生活体験をこれからの生活に生かしたいと言うと「それは難しいこと。都市生活者に戻れば、すぐに元に戻ってしまう。それでもここの生活を忘れないようにすることは大切」と助言してくれた。

実際にデリーに行き、そして香港に行く頃には、この生活は思い出すものの、素食や自然な睡眠、安定した心など、全く顧みられなくなっていた。人間、そう簡単に変化できるものではなく、また簡単に安きに流れる物。恐ろしい。

出発の時間が来た。車で空港まで送ってくれる。皆が集まってきて、さよならを言う。しかし別れを惜しむ時間は殆どなく、車は動き出す。何人に手を振ることが出来ただろうか。いや、仏教は一期一会、会う時は会うし、別れるときは分かれる。




『インドで呼吸し、考える2011』(14)ラダック 真の教育とは

7月19日(火)
13.ラダック9日目
真の教育とは
朝起きるとちょうどP師が女子高生に話をすると言うので行って見た。12人の高校生はジュータンの上に座って、神妙な顔で話を聞いていた。心が原動力となって体を動かすといったメカニズムから、心の平和が重要であること、五感を研ぎ澄まして感じ取ることなど、時折ユーモアを交えた、大変為になる講話であった。

彼女達はWorld Challengeというイギリスベースのプログラムでやって来た学生であるから、普通の若者より意識は高いと思われる。それにしても4日間ここに泊まり込み、尼僧と生活を共にし、理解を深めると言うことは、将来必ず役に立つことだろう。日本の学生にもこのようなプログラムを活用させ、受験に役立つかどうかではなく、真に必要な物事の道理などを世界ベースで体験させるべきである。

「真の教育は」などと言うつもりはない。しかし現在の日本の教育は正直言って教育ではない。ファミレスやコンビニでマニュアル通りことを進めているのと変わりはない。学校も役所もある意味では子供をバカにしている。そして結局自分たちが何をやっているのか分からなくなっている。子供は自分で考えさせる、体験から学ばせる、世界で生きて行ける人材は決して受験勉強からは生まれない。

イギリスの教育システムはよく知らない。それでも高校生をここまで連れてきて、体験させるのは、さすがと言わざるを得ない。日本でこれをやろうとすれば「学校の責任」がまず問われ、学校側もリスクを取らず、実現できる感じはまるでない。

それにしても質問が出なかったのは、流石に内容が十分には理解できなかったのだろうか。それともシャイな一面を見せたのだろうか。それでもこの体験は将来必ずや思い出され、そして彼女らの財産となる。

Simカードとモモを求めて
レイの街に行く。目的は携帯のSimカードを買うことと、チベットの名物料理モモを体験すること。一人で街に行くのはこれが2回目だが、食事を一人で取るのは初めて。前回と同じ道を歩いて行く。2回目となると足取りも軽く、45分でレイの街に到着。

先ずはSimカードを求めて、携帯ショップへ。私は明日デリーに電話し、デリーでのスケジュールを立てなければならないので、携帯が必要なのだが、携帯ショップ2軒で聞いた所、レイで買ったカードでは、デリーに行ってからは使えないとの結論。これは意外な話で、デリーで買った携帯はインド中で使えるので、恐らくはセュリティー上の問題ではないかと勘繰る。実は後にデリーでSimカードを手に入れるのも一苦労。インドでのテロ対策は相当に厳しい。いずれにしてもカードは諦めて、LNAで借りることにした。

昼時となり、レストランを探す。イタリアンなど西洋料理屋が主流。欧米人に合わせている。私が食べたかったのは、モモというチベットを代表する餃子。ようやく見つけた1軒で注文するも、なかなか出てこない。折角なのでベジのモモを食べようとしたが、生憎ホウレンソウチーズモモしかなかったため、チーズを抜いてもらったのがいけなかった。結局出て来た物は、小籠包のようなものだが、流石にホウレンソウだけでは味気ない。失敗に終わる。

レストランのテラスに座り外を眺める。横には小川が流れていたが、一生懸命洗濯に励む男女がいた。どうやら、洗濯屋のようで、次々と洗っていく。これは結構重労働だと思う。一人若い女性が小さな子供を連れてこの作業をしていた。やけにその子が気になってしまった。

お土産と星空
午後はP師の甥が迎えに来て、僧院を離れ、田舎の一夜を過ごせるとずっと待っていたが、何故か彼は来なかった。6時過ぎに講義から戻ったP師も怪訝そうに「まだ来ないのか」と言ったきり黙る。その後は切り替えて作業を始めた。

その作業とは私の部屋の前に干されていた小型ストゥーパの置物の色塗り。P師は本当に何でも自分でやる人だ。既に夜の闇が迫り、見えにくい中、黙々とペイントしている。私はただ黙ってそれを見ていた。一体何のためにこれを作っているのだろうか。何かの資金作りだろうか。

その内、尼僧たちが数人P師を囲み、黙って作業に参加し始める。いよいよ暗くなると灯りを取り出す。「これはね、イギリス人女性高校生へのお土産」P師が呟く。そうか、お土産か。本当に心づくしのお土産である。貰った方はまさかここまで熱心に作っているとは思わないだろう。またそれを知らせるつもりは尼僧にはない。この関係、実に美しい。

突然電気が落ちた。自家発電を除き、一斉に暗闇が広がる。何となく上を見上げると、これまでに見られなかったほどの、夥しい星が空に煌めく。ラダックといえども電気があれば見える星は限られていたのだ。それが暗くなればなるほど、星の数が増す。いや、星の数は元々同じだが、人間がその数をどんどん減らしてきたのだ。

そんなことを考えていると、ふと電気が点いた。空の星は急速に消えていったが、尼僧の作業には何の変化もなく、相変わらず黙々と続いていた。




『インドで呼吸し、考える2011』(13)ラダック インドに全自動はいらない

P師妹宅で昼食
来た道を引き返す。途中道なき道を行く。地元の人がゆっくりとした足取りで歩いて行く。広大な大地を果てしない道のりを彼らは歩いて行く。壮観である。そしてまた舗装された道を行く。サンポーと言う街に入る。

ここにP師の妹さんの嫁ぎ先がある。道の脇、かなり立派な家である。門を入ると2階へ。かなり広い家のようだ。手前の応接室に通される。広い室内にはジュータンが敷かれた場所とソファーが置かれており、チベット式と洋式の折衷である。

直ぐにお茶とチベット式のパンが運ばれてきた。どうやらパンを茶に付けて食べるらしい。ところがこのお茶がバター茶でどうにも受け付けない。パンだけでも十分美味しいのでそのまま食べる。するとそれに気が付いたのか、スプライトとチャイが出て来た。申し訳ない気分。続いてアプリコットを干したものと、生の物と両方出て来た。干したものは固くて噛み切れなかったが、味は美味しい。生の方は久しぶりにフルーツを食べたので、思わず3つも食べてしまう。

ラモはどこかへ行ってしまう。すると代わりにおじさんが入ってきて、ベジカレーを置く。この豆腐カレーは絶品であった。かなりの量があったが、黙々と食べる。やはり刺激が食欲を生む。おじさんはもっと食べるかと聞くが、腹一杯であった。ここに来てから腹一杯食べることなどなかったので、自分でも少し驚く。

このおじさん、P師妹のご主人の兄弟とのこと。聞けば何とバラナシにある日本寺院、法輪寺で働いているらしい。法輪寺はシャンティ・ストゥーパの妙法寺と同系列だとか。バラナシは日本ではベナレスと呼んでいる所。デリーから汽車で半日以上掛かる。何故そんな遠い所へ行ったのか、おじさん曰く、「子供の頃両親に送られた」。事情はあるのだろうが、それは凄い。法輪寺には日本人僧侶が1名常駐しているそうだ。今度機会があれば行って見たい。

えらくご馳走になってしまったが、何もお礼が出来ない。家族写真を撮ることに。P師妹、その息子、おじさん、そしてそのお母さんにラモを加えて撮った。今度写真を送ろう。

アルチへ
アルチに向かう。中学生の息子も夏休みということで、付いてきた。因みにP師妹は高校の教師と言うことで、夏休み中で在宅していたらしい。サンポーからアルチはそれほど遠くなかった。アルチの村に近づくと、小麦が収穫されており、何だかひどく懐かしい田園風景がそこに出現した。

この村はとても小さく、アルチ寺院周辺は狭い道しか通っていない。ところが西洋人を中心に大量の観光客が押し寄せており、車を停めるのすら難儀な状態である。ラモは我々に先に行くように命じ、駐車スペースを探す。中学生の先導で寺院を目指したが、更に狭い道を通って出た所は農家だった。彼もきっと何年も来ていなかったのだろう。頭を搔いて謝る姿が可愛らしい。

ようやく寺院に辿りつくと、ランチタイムの表示。1-2時は閉まっていた。ラモを探すと一番突き当りで我々を待っていたが、どうにも仕方がない。この付近は、これまでの寺院とかなり異なる。先ず規模が小さい。佇まいが古めかしい。これは観光客に好まれそうな雰囲気を持っている。

暇を持て余して座っていると、中学生がアプリコット(私にはプラムに思える)を木からもぎ、くれる。口に入れるとかなり酸っぱい。彼の家で食べたものとは大違いだ。その間にも続々と観光客が集まってきて、2時にはかなりの人数になる。

ラモは混雑するメインを避け、横にある3つの堂からは入ろうとするが、どうやらチケットを買わなければならず、メインに戻って行った。因みに尼僧はどこでも無料のようだ。中学生が先頭で入る。彼はきちんとした礼拝を行っており、流石と思わせる。信心が無ければ、付いては来ないだろう。

このお堂に入って、私は目を見張った。これまでいくつかの寺院へ行き、堂内の壁画を見てきたが、そこには全く異なる壁画が存在した。かなり暗いせいもあるだろうが、相当古いと言うこともあるだろう。そこには渋い曼荼羅が四方にくっきりと描かれていた。これは驚きである。日本のどこかで見たような既視感があったが、分からない。後でP師と話すと比叡山ではないかと言う。彼女も同じ感想を持っていた。

その後も2つの小さな堂に入り、最後にメインを見た。2つの堂の壁画は損傷がかなりあり、保護が必要に思えた。メインの堂は三層になっており、三体の大きな仏像が納められていた。いずれも写真は禁止となっており、自らの頭に刻むしかない。皆がなぜアルチに行け、と言っていたかは、十分に理解できた。

そういえば参観中にも雨が降ってきた。少しずつとはいえ、毎日雨が降るのはよいことだと思ったが、実は異常気象ではないかとの話もあった。昨日虹が出たのも、吉祥とも言えるが、昨年の洪水の再来を恐れる向きもある。自然とは難しいものだ。

P師の話の中にも、「世界中で人間が自然を破壊している。これは恐ろしいことだ。もっと自然と触れ合っていかなければいけない。」とあったが、全くその通りではないか。経済優先、便利さ優先はこの辺りで一先ず考え直さねばならない。

雨が上がると、空は真っ青になった。この景色は24年前にチベットのラサで見たあの青さだ。晴れやかな思いで、アルチを後にする。しかし駐車スペースは更にギューギューになっており、ラモは車を出すことが出来ない。最後は地元の若者が慣れた運転で窮地を脱してくれた。

サンポーで中学生を降ろし、そのまま岐路に着く。石ころだらけの高原や、道路工事の人々、そして相変わらず素晴らしい風景に目を奪われながら、車は進む。ラモは言う「最近ラダックには車が多過ぎる。昔に比べたら景色も損なわれている」と。ガソリン価格は日本より高いらしい。それでも急速に車社会になっていく。と言っても、高原の道に車が全く見えない風景を見ると、先ずは先進国が状況を改善すべきだとつくづく思う。今日の旅はこれまでの最長、8時間を超えて終了した。

インドに全自動はない
かなり疲れた気分だが、一方体が興奮しているのか、何か体を動かしたい気分。と言ってもすることはないので、外で読書。すると向こうの端で一番小さい2人が洗濯機を動かしていた。私も貸してもらうことに。しかしこのサムソン製の洗濯機、今では日本ではお目に掛かれない二層式。どうやって動かすのかすらよく分からない。

子供たちに聞きながら、やってみる。先ずは水を汲んでくる。これだって結構重い。その水を洗濯機に入れ、洗い物と洗剤を入れる。15分の表示の所に回した。しかし15分では不十分のようで、また10分追加した。盥を持ってきて洗濯物を取り出し、隣の脱水に入れる。はずであったが、何とここで停電。仕方なく、洗濯物を自らの手で絞る。まだ終わりではない。洗った水を抜く。その際、ホースを水受けに突っ込み、全て抜き取ったら、その汚水を外に撒きに行く。これも結構重い。最後にもう一度少し水をくみ、洗濯機をきれいに掃除する。

今の我々の全自動では考えられない作業だ。しかもこの電気洗濯機を使っているのは小さい子だけ。大きくなれば、皆手で洗っている。我々はこういった作業を体験し、電気の有難味を感じる必要があるかもしれない。

後日来日中のインド人と電気屋さんに行った際、洗濯機の話をした。「インドには全自動なんて考え方はない。どこまで機械にやらせて、どこから自分でやるかを考える」と聞き、なるほどと思った。我々は機械を使いこなしているようで実は振り回されている。

因みに日本では流行っている「ドラム式洗濯機」を見たインド人は「これはインドでは流行らない。何故なら停電になった時に洗濯物取り出すと洗濯水も一緒にこぼれ出るから」という。確かに本日も途中で停電になった。我々は自ら考えなければならない。




『インドで呼吸し、考える2011』(12)ラダック 行動には基準が必要

P師の故郷マトへ
昼食後直ぐにラモから声が掛かり、彼女が運転するオフィスの車でマトヘ向かう。マトはP師の故郷と聞いており、楽しみだった。途中までティクセに向かう道を通り、そこから山に向かって一直線に行く。更に山と平行な道があり、そこへ。その時向こうから馬の隊列がやって来た。あまりの美しい光景に思わず車を止め、写真を撮る。そこからは四方、どこを見ても素晴らしい景色が続く。雪を頂く山々と雲。

ラダックで車を運転するのはなかなか難儀だ。道が全て平らであれば問題ないが、所々でこぼこの上、対向車が来れば路肩へはみ出す。ラモは相当慣れているようで、スイスイとこなしていく。ほぼティクセと平行ぐらいの場所で、また山に向かう。少し行くと、小川が流れている。そしてマスタードの黄色い花が咲き乱れている。荒涼とした大地で見る花、何だかここだけラダックではないかのようだ。

かなりの坂を車は上る。これは歩いては大変である。その上に寺院は建っていた。そこからの見晴らしは絶景であり、また驚くのは村がそこだけ緑と黄色で鮮やかに見えていること。まるで絵でも描いたかのようだ。

マト寺院は晴天の中、静まり返っていた。誰一人観光客はない。地元民もいない。ただ新しい仏像を安置する場所で作業している人がいるのみ。どうなっているのか。ようやく寝ていた寺男を見付けて、案内を頼む。ここはチケットではなく、ドネーションで領収書を切る。

マト寺院はこの辺り唯一のサイケヤ系寺院。15世紀初頭に王家より土地の寄進を受け創設。16世紀にイスラムの侵攻を受け、寺院は破壊され、王も捕虜となるがその後解放され、再建。僧侶はチベットで伝統と仏典を学び、伝統的チベット仏教が色濃く残る。マトナグランと言う祭りが有名。本堂3階部分にあるゴンカンで僧2人がトランス状態になり、神託が与えられる。3階は女人禁制であるが、ラムは尼僧であり、入室を許された。非常に小さく薄暗い部屋である。

この寺院は2階に小部屋がいくつかあり、同じ形の仏像が21体ある所や、経典が納められている部屋、博物館などがある。また1階端には、かなり新しい仏像が安置されており、色鮮やかである。因みに寺が極めて静かだったのは全ての僧侶がヌブラと言う場所へ出かけて留守だったことが分かる。

それにしてもここからの眺めは実によい。先日のティクセもシェイも一望できる。下を見れば緑が鮮やか。下から寺院を眺めると実に立派。そしてP師の実家の横を通ると、畑があり、ゆったりとした造り。新しいものと古いものの2つが見える。P師のような人物を育むにはこのような環境が大切であるかと思う。

行動には基準が必要
続いて、ストックの博物館へ。先程来た道を戻り、途中でまた山へ向かう。山へ向かい始めてすぐに、高校がある、尼僧院内の5人がここに通っているとのこと。正直毎日ここまでバスで通学するのは大変だと思われるが、これも修行なのだろうか。

ここにはラダック王家が居住しているとのことだが、ある人曰く、現在の王は基本的にデリー滞在。またある人は「奥さんは出身地のヌブラで暮らしている」などよく分からない。ただ王が何となく西洋的であることは、飾られている写真の中にある坂本龍一と肩を組んだツーショットを見れば分かる。

入館料は50rp。徴収しているのは若い娘で、顔だちもよく、服装も可愛らしい。ちょっとしたコンパニオンと言った感じ。但し、その分おしゃべりに夢中だったりして、仕事熱心とは思えない。勿論宗教とは関係ないので信心を持つ必要もないので、仕方がないのかもしれない。展示物で目を引いたのは中国製の茶碗ぐらいか。

ここも眺めはよい。帰り道でも写真を撮る。この辺りは田舎でバスもあまりないようで、皆ヒッチハイクで本道まで出るようだ。ヒッチハイクの合図があっても、ラモはあまり止まらない。それは尼僧であるからであろうか。するとちょうどおじいさんが一人、合図を出した。彼女は直ぐに停まった。何となく基準が分かる。どうしてもこちらが手を差し伸べる必要がある年齢、また障害があれば応じると言うことだろう。

ある程度の柔軟性はあるものの、ある意味で尼僧の基準ははっきりしている。ダメなものはダメ、助けるべきは助ける。それはラダック滞在中、何度も感じ、実際に見た光景からわかる。今の日本にはしっかりした基準がなく、皆が人の顔色を見ながら、おどおどとして暮らしているように見える。

6時頃戻り、お茶を貰いに行くと、何とレモンティが出た。これも高校生効果か。しかしレモンティはアメリカ人でミルクティはイギリス人ではないか。そんなことはどうでもよい。砂糖が入ったレモンティを飲むのは実に久しぶり。とても美味しい。

7月18日(月)
12.ラダック8日目
洪水で破壊された道をリキールへ

翌朝も女子高生と朝食。トーストと卵の白身焼き(卵の黄身は使用しない)。高校生たち、若干のカルチャーショックでよく眠れなかったようであり、中には一口も口に入れず、ただ壁にもたれている子もいた。それはある意味で正常な感覚のような気がした。

食後直ぐにラモの運転でリキール及びアルチへ向かう。今日は今回最長の長旅である。馴染んだスピトク寺院の横を通ると、2人の年配の女性がヒッチハイクで乗ってきた。一路南西に向かう。5㎞も行くと周囲に何もなく、車も全く通らない景色となる。牛がゆっくり歩いてきたりする。実にゆったりした風景。

道は平らであったが、途中かなりの悪路に出会った。どうしてこんなにデコボコになったのか、と思っていると、昨年洪水で道自体が壊されてしまっていたのだ。これは凄まじい。言われてみれば、周囲に建設中の家も多い。皆流された家を再建しているのだ。道路工事も盛んに行われているが、何しろ人海戦術、スピードに限界がある。昨年流された家を今年再建している。それまで住人はどうしていたんだろうか。日本の大震災の情景が重なり、複雑な気分となる。

レイから約60㎞、1時間半でリキールへ到着。なかなか趣のあるゴンパである。横には大きな大仏が座っている。観光客は西洋人とインド人が沢山いたが、アジア系は全く見掛けない。ここの壁画は比較的新しいが、なかなか良い。また入口付近に描かれた壁画にチベット語で何か文字が書かれている珍しい物も見られた。

この寺院は周囲に何もない小高い所に建っており、本当に周囲が良く見渡せる。天気はまさに快晴、暑くもなく本当に気持ちが良い。横の大仏も比較的新しい。見る角度によれば、空中に浮いているようにも見え、遮るものが無い大仏には迫力が感じられた。エアーブッダ。この情景を見ていると、昨年洪水で被害にあった方々も何となく救われるような気になる。人には目を上げて拝む対象が必要ではないだろうか。

寺院を後にするとラモが「バナナ食べる」とバックから取り出す。このバナナ、一体どこから来るのだろうか。小さいが熟していて美味しい。皮はどこへ捨てるのかと聞くと大きなジェスチャーで、外へ放り投げる。私は車からおり、眼下の川めがけて、思いっきり皮を投げる(ペットボトルなどは絶対に投げない)。確かに自然に帰るのだから問題はない。因みにバナナは一本5rp程度らしい。