「アジア旅」カテゴリーアーカイブ

デリー・リシュケシュサバイバル (6)アグラ 土産物屋は日本人経営?

(3) アグラ城

タージマハールを後にして、そのままアグラ城へ向かう。この城はヤムナー対岸にあり、タージマハールから見ることも出来た。タージもアグラ城も世界遺産に登録されている。ムガル帝国第3代アクバルによって建造され、5代シャージャハン時代に白い大理石を使った宮殿が作られた。ところが彼は3男によってここに幽閉され、8年間、亡き妃の為に建てたタージマハールを眺めながら外へ出ることが出来ないまま息を引き取ったという。

そう言われてみれば、何となく物悲し雰囲気があるような気がする。いや、それはシャージャハンのことだけではなく、その後ムガル帝国、インドの歩んだ苦難が反映されているのかもしれない。外側の城壁は赤砂岩でできており赤っぽい。ヤムナー河に2.5㎞に渡り面していると言われ、その規模は壮大。強大な帝国の城、という武骨なイメージが強い。ところが中へ入ると白を基調とした優美な宮殿が続く。そのコントラストが面白い。

城内はかなり広く、日差しも強くなり、歩いていると結構疲れる。モスクに入ると一部は入室禁止。河に面した場所からタージマハールを眺めると、風情が感じられる。城内の一部は後世の反乱などで破壊されており、ムガル帝国のデリー遷都後の衰退の様子が見て取れる。

ここもタージも観光客が多い。特にインド人観光客が増加しているらしい。最近の中産階級の勃興により、国内旅行は花盛りになって来ている。ヒンズー教徒もイスラム教徒も区別なく訪れる。インドの多様性も見えてくる。

(4) ランチと買い物

2つの見学を終え、食事に向かう。レストランは運転手が紹介する。何となく観光地で運転手が紹介すると聞くと、店側とつるんでいるようだが、この運転手はそういうことはないらしい。今回の店もきれいでなかなか良かった。ただ皆そろそろ食欲がなくなっている。インドの料理に飽きてきている。確かにいい料理が出ても、毎回食べるのは辛い。チャイを飲めばそれでよい。

今日宿泊するホテルにチェックインした。ネットで予約していのだが、「予約が無い」などと言い、なかなか進まなかった。部屋は一応綺麗であったが、観光地料金で水準以上に高い。ネットはロビーで辛うじて繋がる。外国人も多く使うホテルなのに、そのあたりの整備が遅れている。

アグラの街に買い物に出た。土産物屋の前に行くと運転手が「この店のオーナーは日本人だ」という。こんな所で日本人が店を開いているのか?と興味を持つと、出てきたオーナーはインド人。聞けば奥さんが日本人で、何と東京の我が家の直ぐ近くでインド雑貨の店をやっているという。

そうなると私は買い物そっちのけで彼と話し込む。彼も奥さんとの馴れ初めから、色々と話し出す。Google Earthで東京の店を見たりする。その間、他のメンバーはお土産を物色。通訳は次男が担当。インド人相手に何とか値切り交渉などしている。その内次男が何故か興奮して服を買いだした。買い物は人を躁状態にするのだろう。

皆さん、それぞれ頼まれ物などがあり、それから何軒もの店を見て歩くがなかなかピッタリくるものが無い。お土産、それは旅の一部だけれど、探して歩くのは本当に大変だ。とうとう夕方まで街を歩く。日が暮れてホテルに戻ると、ロビーでダンスが披露されていた。まさに観光客向け、サービス。私はこういうのに慣れていないと改めて知る。

5.デリー2  (1)土産

デリーでは皆さんの買い物に付き合った。普通の観光旅行をする機会が殆どない私にとっては実に新鮮だった。先ずは土産物を売る高級ショッピングモールへ。外国人が買いそうな、きれいな物がたくさん並んでいたが、値段はかなり高い。ディスカウントも受け付けない。日本的でよいのかもしれないが、インドに来てこれでは詰まらない。

スイーツを売るお店にも行った。こちらは庶民が買いに来るところで、値段も手ごろ。ただどんな味か分からないのでなかなか手が出ない。英国風のクッキーがあったのでちょっと買ってみる。紅茶を飲む上流家庭には美味しいクッキーがあるものだ。そこの2階は簡単なレストランにもなっており、そこでお昼を取る。買い物の時間というものは私にとっては短ければ短いほど良いのだが、女性にとっては長ければ長いほど良いらしい。インドで買い物するのは疲れると思うのだが、皆ランチもそこそこに次へ移動する。

次はこの店の直ぐ近くにあるM教授のご自宅へ。M教授はハリドワールの儀式で喪主を務めた方。忙しく飛び回っている彼は自宅には居なかったが、奥様とお目に掛かる。実は私は1年半前この家に招かれている(http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4583)。

今回は紅茶を頂く。美味しいクッキーも出てくる。「紅茶はやっぱりミルクティがいいわね。砂糖も入れるわね」と言われると、そうだなと思ってしまう。ある意味で紅茶は雰囲気で飲むものなのかもしれない。

紅茶と言えば、日本人女性がデリーで新しく開いたお店、「ハッピーハンター(http://www.makaibari.co.jp/info2013happyhunter/)」にも行った。ここは以前行ったインドダージリンのマカイバリ茶園の紅茶を扱うマカイバリジャパンの姉妹店としてオープン。ファミリーのお嬢さんが切り盛りしている。インドで日本人女性がお店を開く、並大抵の苦労ではないと思うのだが、インドとの付き合いの長い石井さん、か細い雰囲気からは想像もできないほど、バイタリティーのある人なのだろう。きれいな店内には喫茶スペースもあり、紅茶とクッキーをご馳走になる。ここで大量にお土産を買い込んだ人もいた。やはり日本人向きのパッケージ、手頃な量など、ニーズは高い。




何となくプノンペン2014(1)転機となった街を再訪する

《プノンペン散歩2014》  2014年3月13日-16日

 

2011年3月、私は会社を辞めてアジア放浪に出た。その直前の2月初め、冬休みにプノンペンを訪れていた。単にシェムリアップに行くついでに、首都にも寄ろうという考えではなかったかと思う。だがそこで言われた言葉、『もしプノンペンに住むなら、生活費は月5万円もかりませんよ』。この言葉がある意味で、私の意思を固め、その後急速に退職に踏み切ることになった、様に思う。勿論その時はそんなことは考えていなかったが、後から考えると転機だった。

 

しかしその後3年間、プノンペンに行くことはなかった。実はアジアならバンコックでも月5万円で生活することが出来ることに気が付いたからだ。カンボジアならシェムリアップにはアンコールワットがあり、その後も行ったのだが、プノンペンはそれほど魅力的には見えなかった。

 

今回は昨年11月の和僑世界大会で出会った日本人女性のプロジェクトを見に行くという目的が出来、ようやく再訪となった。どれほど変わっているのだろうか。興味津々で出掛けた。そして結構意外な展開が。

 

3月13日(木)

1.コニーバーとサムライカレー

空港から迷う

今回プノンペンに行くにあたり、航空会社を選んでいたら、何とチケットが僅か750バーツというのが目に入る。往復でこんなに安いのだから、一も二もなく購入してしまう。カンボジアアンコール航空、聞いたこともないが大丈夫なのだろうか。勿論燃油サーチャージをしっかりとられ、合計では4000バーツ程度になっているが、それでもエアアジアより十分に安い。

 

このフライト、結論から言えば特に問題はなかった。カンボジア政府がナショナルフラッグを作るため半分を出資、残りはベトナム航空が出資している、と機内誌にも謳われていた。ようはベトナム航空の子会社と同じなのだ。ただ飛行機の使いまわしが激しいのか、飛行機が来るのが遅く、スワナンプーン空港の係員も搭乗口のゲートをなかなか開けなかったが。座席は十分な広さがあり、1時間ちょっとのフライトで水とパンはくれた。ナショナルフラッグだからLCCではないのだ。

DSCN0643m

 

飛行中突然思い出した。カンボジア入国にはビザがいることを。今の今まで忘れていた。さてどうする。確かアライバルビザだったので、写真を探すと何とあった。この辺は旅慣れたな、と自分でも感心する。そして着陸後の空港でのビザ取得は3年前よりさらにスムーズだった。

DSCN0645m

 

空港ではまずは携帯のシムカードを購入。5ドルで50分話せる。十分だ。欧米人は皆これを買って使っている。そしてタクシーを探したが、プリペイドのブースがあり、12ドルで市内へ行ってくれた。近いと9ドルだが、私の行く所は12ドル、ちょっと不安が。まあこれだと交渉の必要がなく楽でよい。

DSCN0649m

 

市内まではそれほど遠くはなかったが、私の目的地まではやはり遠かった。市内を見ていると前回のプノンペンよりかなりきれいになっており、整備も進んでいるように見える。いつもならなかなか着かないことにイライラしたかもしれないが、今はこれをむしろ楽しみ、市内見物している自分がいる。それだけでも3年で進歩があった。

DSCN0654m

 

しかし本当に見つからない。とうとう運転手は電話をかけ、場所を確認した。だがそれでも解決できない。ついには相手を呼び出し、案内させてようやくその場所に着いた。以前だったら、追加料金でも請求されそうだが、今はプリペイドで助かる。

 

目的地はホテルではなかったこともあっただろう。ここは小さなショッピングセンターの脇にあるバー。入っていくと日本人が出てきた。たかやん、と呼ばれている20代の若者、それが私の会う相手だったが、彼は『これから出掛けるので』と言って出て行ってしまう。何だか拍子抜け。

 

デリー・リシュケシュサバイバル (5)アグラ 初めてタージマハールを見る

(10)  デリーへ 車の旅

午後早く、アシュラムを離れる。行きは列車だったが、帰りはA師等と別れ、S氏ご親族一行に便乗し、共に車でデリーを目指す。車はなかなか快適なのだが、何しろ走る道は一般道。道はでこぼこ、対向車は来る、人は横切る、牛も居座るでは、なかなか進まない。屋根に載せた私の荷物は大丈夫だろうか、と心配になる。覚悟はしていたものの、そう簡単に前に行かない。これもまたインドだろう。それにしても聖地への道なのだから整備してもよさそうに思うが、聖地だから簡単には行けないのだろうか。

途中でトイレ休憩する。トイレ探しも一苦労なのかもしれない。そんなにきれいなトイレは見付からない。周囲では色鮮やかな野菜やフルーツを売っている。本当に普通の田舎なのだ。かなり夕陽が西に傾いた頃、きれいなドライブインがあり、本格的に休息した。チャイを飲み、スナックを食べる。車の狭い空間から解放されるとそれだけでうれしい。インドで日差しと言えば灼熱を想像するが、この寒さの中、陽が当たるのもうれしい。段々車に飽きて来たのかもしれない。

デリーが近づくにつれ、マンション・商店建設現場が増えて来た。この辺がインドの経済成長の証拠なのだろう。道もよくなってきている。そしてデリー市内に入ると日も暮れていたが、大渋滞。何とかホテルに到着した時は既に午後の9時近かった。列車の4時間の所を8時間近く掛かったことになる。正直疲れた。

今日のホテルはそれまでのアシュラムとは別世界。次男は目を輝かせて、「素晴らしい」という。厳しい所を経験していれば出る言葉だろう。夕飯はホテルで取るが、イマイチ。ネットも何だか繋がらず。ただいいベッドだったので、ぐっすりと就寝。

4.アグラ   (1)アグラまで

翌朝は早く起き、ホテルをチェックアウト。インド最大の観光名所タージマハールへ向かう。何といってもデリーの渋滞は凄いため、朝6時台には出発。最近出来たという高速道路にスムーズに乗る。朝日が昇る頃、高速には車の影もなく、実に順調に進む。インドでは驚くべき光景だ。これもインドか。朝8時前にきれいなドライブインでチャイを飲み、ホテルで貰って来たサンドイッチや卵などで朝食を取る。この高速は昨年後半オープン、ドライブインは新設で、インドの会社が経営している。

本当にあっと言う間にアグラに着いてしまった。2時間ちょっと、以前友人から「デリー―アグラは悪路で6-7時間はかかる」と言われたことが嘘のようだ。昨年前半に行った人でも「高速で4時間以上掛かった」ようだから、この第2高速?の存在は驚異的だ。運転手によれば、高速料金が少し高いので多くの車は使わないらしい。

アグラの市内は我々が思うインドであった。ただイスラム教徒が多いな、と感じられる。当たり前か、タージマハールだって、イスラム建築なのだし。それにしてもインドはヒンズー教、というステレオタイプな考え方はちょっとな、と思う。

車が停まる。タージマハールに着いたのか。何となく小さいがタージマハールに似た建物が見えた。あれ、と思う。地元ではベビータージと呼ばれる建物。ここには観光客は殆どおらず、ゆっくり見学できる。建物の中に入り、つぶさに柩の周囲も見ることができる。実は本当にタージの内容を確認したければ、ここに来た方が良いらしい。

鮮やかなモザイク、シンプルな壁画。私が思うタージマハールがそこにあった。規模も小さく、それほど疲れずに回れるのも嬉しい。それにしても今日は天気が良い。気温も少し上がり、ちょうど良い。こんなインドもあるんだ、素晴らしい。

(2) タージマハール

そして、そしてついにタージマハールにやって来た。先程のベビータージとは当然ながら規模が全く違う。先ず建物の近くまで車が入れない。大型の駐車場に車を停め、そこから参道のようになっている道を歩く。土産物を売り込む若者がしつこい。その熱意にうちの若者二人はかなり驚く。馬車やミニバンに乗れとの攻勢もすごい。これが観光地だ、そして私の苦手な所だ。

何とか敷地内に入るがそこからもタージマハールまではかなりある。今日は良い天気なので気分よく歩く。サルがいたり、鳥が鳴いたり。そしてあのテレビでもよく見た荘厳な建物が見える。記念写真を撮るインド人がはしゃいでいる。写真スポットだけでも何か所もある。

人々が中央の建物に集まって行く。靴を脱いで上がり、中に入るが人が多く薄暗い。更には柩の付近には行けない。外側から眺めるだけ。ベビータージを見学した後では不満が残るが、本来はこんなものだろう。

左右にも大きなモスクなどがあり、とにかく規模が大きい。横には河が流れ、壮大な感じがする。今日の天気は快晴で、タージマハールが実にくっきり浮かび上がる。こんなタージを見るのは初めて、と何度もここを訪れているSさんがつぶやく。我々は日頃の行いが良いのだろうか、それともこれまでの修行生活のご褒美だろうか。




デリー・リシュケシュサバイバル (4)リシュケシュ 次男と見たインドの散骨儀式

1月8日(火)  (4) ハリドワールはお伊勢参りか

アシュラムでは朝5時から修行が始まるようだが、我々は大事を取り、7時に起床、8時に朝ごはんを食べた。7時半ごろチャイが飲みたかったがなかった。あの寒い中、同行のタイ人は5時に起きて祈祷に参加していたと聞く。余程寒くて眠れなかったのだろうか、それとも熱心なのか。

アシュラムを9時に出発。ハリドワールへ向かう。午前中は観光、ということで、ヒンズー教徒なら必ず行きたいという、寺院を目指す。これはお伊勢参りのノリであろうか。そこにはロープウエイを使わないと行けないらしい。ロープウエイは2か所あり、寺院は数か所あるとか。今日は1つしか動いていなかった。高所恐怖症の私はロープウエイを見て断念。下で待つ。

30分ほどで一陣が戻る。下の景色は霧で見えず、そのまま降りてきた。次男とラトゥール一家はそのまま寺参りに行ったようだ。結構高い所で怖かったとか。ラトゥール家の娘はロッククライミングをやっているとかで、山登りは平気とか。

そしてガンジス河沿いへ出る。橋の袂に立派なホテルがあり、そこが日本人グループの宿泊先だった。これはいいホテル、アシュラムとは大違いだ。そこで合流。一緒に昼食。昼食は簡単にスープとバラタ、それにチャイ。このスープを飲むと次男が「美味い」と一言。アシュラムの食事はスパイスが効いていない、ことを実感できたようだ。

(5) ヴィサールジャン

そして今回のメインイベント、ヴィサールジャンの会場へ移動した。ヴィサールジャンとは死者の骨を河に流す儀式。今回はインドに深くかかわった日本人S氏の供養の儀式となった。S氏はインドの「ラーマーヤナ」をアニメーション化するなど、インドの伝統的な文化を尊重し、多くのインド人と交流を深めた人物。惜しくも昨年84歳で亡くなった。

7年前に奥さんを亡くしたS氏はインドでの供養を行い、自らも死後はその供養を望んでいたようだ。そして今回の儀式に際しては、S氏に世話になったインド人M教授が忙しい中、わざわざ聖地ハリドワールのガンジス河、それもVIP専用ガートを抑えて、日本で言う喪主を買って出た。またインド映画のハリウッドと言われるボリウッドの大物も参列、S氏が如何にインドの人々に愛されていたかを伺わせた。

VIPガートは一般と反対にあり、橋を渡って行く。風は冷たいが、太陽の光は眩しい。ガンジス河と言えば、何となくゆっくりと流れ、淀んで濁っているといったイメージがあるが、ここハリドワールでは濁りは少なく、流れはかなり早い。そんな中でも鳥が河の中の魚をさっと咥えたりしている。

今回の儀式にはS氏の親戚も参列、代表して16歳の高校生がM教授に補助されながら、儀式を務めた。格好の良いバラモンの僧侶が現れ、厳かに儀式を進行していく。頭に白い頭巾を掛けた16歳は緊張した面持ちで、言われた通りにこなしていく。ガンジス川の水もすくって飲んだようだ。M教授が後ろから全てを指示していたが、それでもものすごく緊張したようだ。

全ての儀式は30分以内で終了した。皆で記念写真を撮り、故人の冥福を祈った。太陽が出ており、極寒ではなかったが、やはりこの寒さは故人が「俺のことを忘れるな」と言っていたような気がする。

(6) 市場

アシュラム滞在組は河近くにある市場を見学する。本来は日本からの組もアシュラムへ1泊する予定だったが、あまりの寒さに防寒具が無いこともあり断念して、ハリドワールに残る。

市場は昔ながらの建物が建つ狭い道の両側に店があり、客が道を歩きながら品物を物色する。南のプネーから来ているラトゥール一家はやはりスカーフやセーター、帽子などに目が留まる。タイ人も寒さ対策で買い込んでいる。

寒いせいもあるが、それほどの喧騒もなく、ここがインドかと思うほど穏やかな午後。道を長閑に歩く牛、午後の日差しがその牛を照らすと、寒さが忘れられ、極楽が見えたような気がした。A師がサモサを買い、皆に配ると歓声が上がる。やはり寒さには食べ物だろうか。

(7) 美味しい食事

アシュラムへ帰ると、また寒さが堪える。次男はここの食事に恐怖感が出てきている。あまり好き嫌いの無い子だが、相当食べにくい。やはい味気ないのだろう。そしてここの米は日本人には合わない。

だが、今晩のおかずは何故か我々の口にも合った。ご飯を少ししか貰わなかった次男は後悔し、もう一度並ぼうか迷っていた。インドでは何が起こるか分からない、その時々の自己判断で全てが決まる、ということだ。

部屋では熱いお湯が出る。次男は何とか体を洗おうと試みた様だが、湯を浴びる前に部屋の寒さに耐えきれず、また浴びた後の湯ざめが凄く、「インドに居る間は風呂には入らない」と宣言。ぶるぶる震えていた。それ程に寒かったのだろう。私は最初から諦めていた。寝袋に早々に入り、寝入る。ここでは他に出来ることはない。

1月9日(水) (8) 極寒の中 朝の儀式

前日はサボったので、午前5時の儀式に30分遅れながら参加する。次男は無理そうだったので放置する。河沿いの石造りのお堂の中は、まさに極寒だった。5時からの儀式は特別のようで、真ん中に備えられた像に司祭者が火を近づけたり、カーテンで我々から見えないようにして、中で何かをしていたり、全く内容は分からなかった。年配の女性と男性の二人が祈りを唱え、後の者はただただ祈るのみ。

少しずつ辺りが明るくなるが、濃い霧が立ち込め、荘厳な儀式を彩る。一体私は何故ここで寒さに震えながら、座っているのか、私の存在は何なのか、どうしても考えざるを得ない。目を閉じると眠気が襲うが、寒さがそれをも妨げ、ただただ考えろ、と告げていた。

最後は次男も参加して、儀式を見る。その後また甘い物が出され、そしてチャイを飲みに行く。A師から1時間ほど、様々なレクチャーを受ける。特に次男に対しては「宗教を学ぶというより、先ずは文化人類学の基礎を学べ」など、今後の学習の仕方も教えてもらう。そして朝ごはんも美味しく食べられるようになり、次男の修行も1つの区切りとなった。

(9) バンダーラ

本日は昨日のハリドワールでの供養に続き、アシュラムでバンダーラが行われた。バンダーラはサドゥウと呼ばれる修行者、世捨て人、全てを他者に任せて生きる人々を集めて行われる。日本だったら軽蔑の対象になりそうだが、インドではこのような人々の存在が認められ、一般人は彼らに食べ物を与え、支援する。

今回のバンダーラは、S氏の供養のために行われる。午前11時前、いい感じの日差しの中、次々にサドゥウが集まってきた。確かにきれいとは言えない格好の男たちが招かれて、アシュラムの庭にやってくる。庭にはござが敷かれており、その上に座る。

S氏の親族代表として、昨日も活躍した16歳が一人ずつに、食事を届ける。その父親も加わる。また別の参加者も亡き親族の供養として、食事を配る。暖かい日差しの中、サドゥウが食事をしている姿を私はじっと見ていた。その姿に昔のお坊さんの姿勢を見る。ただサドゥウはもっと欲しければ自ら要求していた。本来お坊さんは要求することができない。施しというものは人のためにするのではなく、自分のためにするものだ、と改めて思う。



デリー・リシュケシュサバイバル (3)リシュケシュ アシュラムに泊り、ガンジスを歩く

3.リシュケシュ  (1)リシュケシュのアシュラム

ハリドワールでガンジス河を見る。イメージしていた大河とは少し異なり、川幅もそれほどない普通の河に見えた。そこから30分、聖地リシュケシュに到着。ダヤナンダアシュラムという場所が宿泊地だった。

ここはアシュラム、修行場であり、ホテルではない。が、施設は予想外に立派。ただ部屋に暖房は全くなく、相当の寒さだ。最初1階の部屋を割り当てられたが、あまりの寒さに2階へ引っ越し。それでも殆んど変わらない。部屋はツインで毛布と掛布団が用意されているが、果たして寝られるだろうか。

直ぐにランチとなる。以前ロナウラのヨーガ学院で食べた方式。プレートを持っていくと、ライスやチャパティ、そしておかずを入れてくれる給食式だ。茹でたカリフラワーとジャガイモも入っており、塩を付けると結構イケタ。おかずは美味しいものとそうでない物が半々。ただ入れられたものは残さずに食べることにする。そしてセルフサービスで食器を自分で洗う。

食後は寒いので部屋に帰らず、陽だまりへ避難。椅子を出してPCで何やら書いているドイツ女性、おしゃべりに励むインド人、色々な人がいる。共通しているのは陽のある所へ行くことだけ。こんなに太陽が有難いと思うことは最近ないなと思う。それ程に部屋は寒い。

このアシュラム、ダヤアナンダという高名なヒンズーの師が寄付で建てた物らしい。ヒンズーの世界では偉い師が登場すると、そこへ信者が殺到し、一代を築くが、彼が死ねば、弟子は分裂し、また新たな師の出現を待つとも聞く。何とも不思議な世界だ。ダヤナンダ師は3-4月頃、ここに来てレクチャーをするようだ。その頃には世界中から人々が集まって来て、宿舎は満員だとか。今月が唯一のオフシーズンらしい。

アシュラムは広い。宿泊施設だけもかなりある。レクチャーホールからダイニングまで、そして何よりガンジス河の流れを直接目にすることができる。その脇には祈りの場もあり、如何にも修行場。

流石にアシュラムにはWIFIはないと思っていたが、何とあった。ただ普通には繋がらず、IPアドレスを入力する途上国によくあるタイプだった。ちょうど詳しい女性がやって来て入力してくれ、無事に繋がった。俗世との糸が微かに見えた。

(2) リシュケシュ散歩

アシュラムの脇を流れるガンジス河沿いを歩いて見る。良く見ると薄い霧の向こうに山影が見える。リシュケシュの河沿いはヒンズー教徒憧れの場所。ここにアシュラムを持つことはステータスであり、ここの土地の価値は想像以上に高い。確かに河沿いには立派なアシュラムや綺麗なホテル、レストランが建っており、建設中の所もある。

河は乾季で水量は少ないが上流にダムが出来、水の量は調節されているようだ。川岸で子供達が元気に遊んでいる。向こうで大人、男性のみが川岸でたき火をしている。しかし近づいてみると、何とそこでは火葬が行われていた。木の枠組みの中に、何となく頭のような物が見えた。火は盛んに燃えているが、全て燃えるまでに半日近く掛かるという。当日は余熱で熱いので、骨は翌日改めて拾いに来るらしい。

インドでは死者の遺体は抜け殻としてすぐに処理される。日本では遺体は非常に重要視されおり、考え方の違いが浮き彫りになる。だが、良く考えてみれば、遺体を単なるモノのように扱うインドで火葬は半日掛かり、一方遺体重視の日本が現在では工場の処理施設のように、僅か45分程度で焼いてしまい、悲しみもそこそこに骨を拾って終了してしまうのは何故だろう。どちらが死者に対して哀悼の意を表しているのだろうか。

更に行くときれいな橋が見える。向こう岸には相当立派な施設も見えてきた。ヨーガで有名なシバナンダのアシュラムもある。リシュケシュは欧米人もヨーガの聖地として崇めている。またビートルズが逗留し、特にジョージ・ハリスンがここの音楽に入れ込んだことで世界的な場所となった。有名人が行って有名になった場所にはロクなことは起こらない、と思っているが、ここはどうだろうか。

(3)アシュラムの儀式

ダヤナンダアシュラムのプージャは午後6時に始まった。私は一番後ろの椅子席に座り、見学する。室内は明るく、怪しげな雰囲気はない。リーダーの声に合わせて経を唱えたりしている。リーダーは時々室内の中心にある囲いの中の像に向かい、火を焚いて近づけている。ナンディと呼ばれる像にも、火が近づけられる。これが儀式だ。本来は護摩壇で火を焚いて行うようようだが、現在では形式を変えている。

20人ほどが参加したプージャ。三々五々人が集まり、途中から入ってきた人は部屋の四方に置かれている像の所で手を合わせ、頭をくっつけ、祈る。そして皆の後ろに座る。夏はヒンヤリして気持が良さそうな床、今は冷たいため、茣蓙が敷かれている。それでも皆、相当の厚着をして出てきている。

終わりの合図もなく、終了。その後皆小さな花が入った入れ物を手に、河へ向かった。実は今日はブラジルから訪問団が来ており、彼らの希望で特別に灯篭流しの原点のような儀式が追加されていた。真っ暗な河の中に、蝋燭に火を点けた花籠を流していく。これは先日タイで経験したロイクロトーンとも共通している、願いを叶えるための儀式だそうで、日本の灯篭流しとは意味合いが違う。

終わると、甘い物が配られ、手で食べる。バナナも出て来たので食後のデザートに取っておく。そのまま食事となるが、相変わらず、美味しいとは言えない。これも修行の内、として飲み込む。

夜は当然ながら冷える。部屋は相当に寒い。ある程度着込んで、毛布をベッドに敷き、寝袋にすっぽりと包まり、その上から掛布団を掛けて寝た。これでようやく凍死せずに寝られた??1年前の香港ラマ島での2週間の寝袋生活が今回生きた。10時間以上ぐっすり眠れた。次男は初めての寝袋であまり眠れなかったようだ。これも全て修行か。




デリー・リシュケシュ サバイバル (2) デリー 44年ぶりの寒波 寒いインド

(4) 次男がやって来た

夕方エンポリアムという場所へ買い物に行った。私とA師は買い物に興味がないのでコーヒーショップで仏教、ヒンズー教談義。その間、タイ人女性が2時間に渡り、スカーフやテーブルクロスなどと格闘し、相当の戦利品を収め、7時の閉店まで頑張っていた。

腹が減ったのでYWCAで簡単に食事を済ませる。今回の旅にはタイ人の他、インドのプネーからラトゥールさん一家も参加していた。彼は私が初めてインドへ行った3年前に案内してくれた人でその後も親交がある。3年前に彼の自宅で会った奥さんとお嬢さんとも再会した。

ラトゥールさんは空港に日本から来る供養の旅一行を出迎えに行く。基本的には昨年亡くなったS氏の親戚及び友人達だが、その一行に我が次男も加わり、初めてインドの地を踏んだ。一行は良いホテルに泊まり、ラトゥールさんが次男を連れてYWCAに来てくれた。そしてこの日から次男との旅が始まった。彼は一体どんな体験をし、どのように感じるのだろうか。興味深い。

先ず試練は東京から来たのに、こちらの方が寒いこと。ヒーターは音ばかり大きく、部屋全体を暖めることはない。我々は寝袋を持参しており、毛布の上から寝袋を掛けて寝る。シャワーは怖くて浴びられない。ニュースではインドに大寒波が来ているという。明日はどうなるのか分からない、それがインドさ。

1月6日(日)  (5)  デリ―観光 午前

本日はデリー観光。インドが初めて、デリーが初めての人もおり、名所へ行く。先ずはラール・キラー。車で行くとすぐに着く。前回はメトロに乗り、デリー駅からリキシャで辿り着くのにずいぶん時間が掛かったものだ( http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4585 )。寒さの為か、観光客は少なめ。帰り掛けにドームのような場所を通った時、何と天井の一部が落ちて来た。幸い誰も下を通っておらず、けが人もなかったが、日本では笹子トンネル崩落事故直後であり、皆青ざめた。神のご加護があったのかもしれない。

ラジブガートというガンジーのお墓のある場所へも行った。ガンジス川のほとりにある静かな場所だったが、表では物乞いをする子供達が沢山おり、次男は目を丸くしていた。結構優しい子なので、心が痛むだろうが、それもまた人間界の試練かもしれない。

昼はインド料理のビュッフェランチを食べる。次男も美味しいと言ってそこそこ食べる。同行者最年少、16歳の男子高校生は大きな皿で三杯食べていた。私が普通に旅行していては有りつけないご馳走だ。日本人はインド料理ではカレーとナン、そしてタンドリーチキンというイメージだろうが、ナンは高級品であり、ベジ料理が好きな私にはチキンも不要だ。

(6)  午後

クブミナールという古い塔がある所へ行った。何だか落ち着いた雰囲気でよい。私は何故かカメラのメモリーが一杯で、しかも予備カメラを忘れたため、写真は撮れなかった。きっとまた来い、という誰かの意思なのだろう。カメラが無いと、それはそれで自由になる。この雰囲気を十分に堪能した。

ロータステンプルにも行った。実は時間がかなり押しており、日本人はここをカットして買い物に行きたかったようだが、インド人母子からどうしてもという希望があり、進む。新興宗教のようだが、大きな蓮の形のドーム型寺院へ行くのに、結構歩き、靴を預け、寺院の前で並ぶ。一体何があるのだろうか。

中に入ると高い天井があり、下には無数の座る場所が。一斉に入場した人々は思い思いの場所に座り、目を閉じる。瞑想に入ったようだ。ここが何らかの精神的な聖地だと思う。だが我々は一瞬座っていたものの、時間がないということで直ぐに外へ。インド人母子は納得しただろうか。同時にタイ人も静かに瞑想に入っていたが、そこを妨げられた。

後で聞くと「タイ人には一日中遊んでいるという感覚があり、時間通りスケジュールをこなす日本人のやり方はつまらないと感じていた」という。確かに自分の気に入った場所でゆっくり過ごすことが私もよいと思う。日本的な旅は果たして面白いのだろうか。中国人観光客の弾丸ツアーを笑うことは出来ない。

昼ごはんの食べ過ぎで、夜はパラタとチャイとで済ませる。次男もパラタのファンになる。特にキャベツパラタは焼き立てだとかなり美味しい。少しお好み焼きを連想した。シャワーは無く、お湯を体に掛けて何とか洗い、就寝。

1月7日(月) (7) インドの鉄道に乗る

今朝は5時に起きて、6時前にYWCAをチェックアウト。あたりはまだ暗く、冷え込みは尋常ではない。後で聞くと昨夜の最低気温は1.5度。デリーでは44年ぶりの寒さだったらしい。それでも寝袋を使うほど部屋は寒くなかった。

車2台でニューデリー駅へ向かう。案の定チェックアウトに手間取り、6時50分発の列車に乗るのにホテルを出たのが、6時15分。10分ほどで駅に着いたが、寒さの為かそれ程混雑していない。それでも広い駅のこと、列車の出発ホームの場所も分からない。皆大きな荷物を持っている。そこへ荷物担ぎのポーターが数人現れ、荷物を頭に乗せ、サッサと進む。そして一番端に停車していた我が列車に乗り込み、荷物を上の台に乗せて行ってくれた。何とも力強い助っ人たちだが、あとで料金のことで相当に揉めたようだ。インドは簡単には行かない。

兎に角列車に乗り込んだ。我々親子は後からチケットを取ってもらったため、別の車両となる。シャダブディ特急、車内は思ったよりきれいで整然としている。この特急列車、普通列車が通常100rp以下で行ける所を450rpするらしい。全席指定、全車両エアコン付き(今はヒーターが欲しい)。そして食事やお茶が無料で提供される。小さなプレートが配られる。ビスケットと飴が乗っている。その他紙の袋に何やら入っている。開けるとティバックと砂糖が入っていた。そこへポットが運ばれてくる。一人1つだ。蓋の部分をカップにして、ティバックを入れ、自分でチャイを作る。これはなかなか優れものだ。

ただ朝食が出ると聞いていただけに、ビスケット2枚は如何にも寂しい。と思っていると乗車から1時間半ほどして、ちゃんと朝食が出てきた。日本風のコロッケが2つ。小さな食パンが2枚、そして先程と同じチャイ。十分な朝ごはんだった。ベジかノンベジかも選べるらしいが、我々にはベジが配られた。これが無料で付いている、ということは如何にこの特急の料金が高いかを物語っている。

車両には日本人も乗っていた。外国人も少し乗っていたが、圧倒的にインド人だった。ある程度上流階級の人が乗るのだろう。車内は子供の泣き声を除き、静かなものだった。新聞が配られ、それを読んでいるか、寝ているか。全席指定、座席は2+3、我々は3席の窓側2つで、隣はドイツ人の女性だった。彼女はインドで2か月ほど何かの勉強をしており、これからインド各地を回るらしい。

本日曇りで、相当深い霧が出ていた。時間が経つにつれて、霧が晴れてきたが、そこに見えた風景は、冬枯れの大地。小麦畑も少しは見えたが、原野も多かった。いくつか駅にも停まったが、如何にも寂しい、プラットホームに人々が寒々と待っていた。

車掌の権限は強いようだ。席は指定だが、その差配も全て彼がしている。我々の所にチケットのチェックに来たが、チケットを出す前に「いいよ」と言って立ち去る。外国人が座っており、特に問題が起きていない、ということで無駄は省かれた。今の日本では何でもマニュアル化され、裁量とか、差配といった概念を持ち込む場がない。それではマネージャーの居る意味はないし、返って円滑な運営を阻害しているケースも多い。

列車は4時間半走り、ほぼ定刻にハリドワールに到着した。ハリドワールは神の入り口、という意味で、聖地への玄関口。駅には迎えが来ており、車に乗り込み簡単に出発した。インドでは簡単に物事が進むだけでうれしい。




デリー・リシュケシュ サバイバル (1) デリー エアポート鉄道は半年も運休?

《デリー・リシュケシュ サバイバル》 2013年1月5日-14日

インドには1年以上行っていないな、と思っていたところへ、私も少し交流のあった日本人の方が亡くなったとの知らせがあり、その供養の儀式が年初インドで行われると聞いた。個人的に自らの死後、遺体をどうするのか、遺骨を墓に入れるのか、などを考え始めていた時であり、供養の旅に参加し、他国の状況を見てみたいと思った。

また私だけが供養の儀式を見ても、私が死んだ後を託せるのは子供、との思いから、今回は初めて次男を帯同した。彼は4か月のアメリカ滞在を終え、少し英語が出来るようになっており、大学も休みのため、いい機会だと思ったのか、参加を表明した。

尚インドビザの取得が非常に厳しく、いつ取れるか分からないとの話もあり、またオンラインで申請するなどルールが変わっているとのことで、一時はインド行を諦めかけたが、どうやらインドは我々を呼んでいた。12月に東京に戻り、インドビザセンターへ行くと、以前と同様の手続きで2日後にはビザが出てきた。因みにオンラインで申請してしまうと、15日は掛かるらしい。これもまたインド。

1月5日(土)  デリーまで

バンコックで久しぶりの早起き。5時過ぎに起きて、タクシーで空港へ向かう。大型のスーツケースを使う羽目となり、バスと電車の組み合わせではちょっと辛い。今回もインドではお気に入りのジェットエアーに乗る。チェックインもスムーズ。一番驚いたのは、何とスターアライアンスメンバーでもないのに、何故かANAとコードシェア便で、ANAマイルが貯まるらしいこと。本当?

昔のスワナンプーン空港の朝は大抵大混雑。特にイミグレは外国人で長蛇の列だったが、今日は空いていた。やはりLCCをドムアン空港に移した影響だろうか?まあ、空いていて嬉しい。時間があるので無料WIFIパスワードを貰い、いつもの場所でネット。1時間はあっという間に過ぎ、気が付くと搭乗時間に。

機内はほぼ満席。ジェットエアーは座席も広めで、CAの対応も悪くない。後にインドで聞くと、民間で航空業界に参入したビール会社はすでに運航を停止したとか。キャンペーンガールのような格好良いお姐さんをCAとして乗せて、インドのイメージを変えようとしたが、上手くいかなかったらしい。

乗客はヨーロッパ人が多い。どうやら休暇で訪れたバンコックから自国へ戻るために、デリー経由のジェットエアーを使っているようだ。きっと安くて良いと評判なのだろう。イミグレカードを貰わない人の方が多かったのがその証拠。食事はオムレツ。悪くはない朝食。4時間、ほぼ定刻にデリー着。

2.デリー  (1) エアポート鉄道は運休中

デリー空港の長い通路を通り、イミグレへ。イミグレでは横から入るネパール人がいても皆気にしない寛容さ。スムーズに通過し、荷物を受け取り、外へ。何と順調なことか。両替でもしようかと思っていたが、これから乗るべき空港鉄道の表示が見当たらない。1年半前、活用して本当に便利だったあの鉄道、今回も宿泊先の直ぐ近くに駅があるため、使うつもりだったのだが。

出口のオジサンに聞くと「何らかのトラブルで動いていない」という。そして目の前のバスを指して「ISBT、あれに乗れ」という。夜だったら迷わずプリペイドタクシーに乗るため空港ターミナルに引き返しただろうが、昼間でもあり、場所も分かっているのでちょっと冒険してみた。

バスは左程込まずに出発したが、直ぐに国内線ターミナルへ寄り、大混雑になる。皆荷物が多い。どうやら一般のインド人が使うバスに乗り込んだようだ。そしてバスは時々停まるものの、そこが何処だかアナウンスはなく、不安な時間を過ごす。途中大統領の所用地と書かれた場所があったが、あまりの広大さに流石はインドと思ってしまう。

30分以上乗っていると、見慣れた風景が出て来て、少し安堵。ところが今日の宿泊先であるYWCAの前を通ったにもかかわらず、また降りる先を運転手と車掌に告げたにもかかわらず、無情にも通り過ぎる。慌てて降りると告げたが、なかなかバスは止まらず、遂にコンノートプレースでようやく下車。前回泊まったYMCAの前を重い荷物を引いて通過し、約1㎞歩いてYWCAへ。

(2)    YWCA

YWCAでは空港鉄道が動いていないことでA師が心配して待っていてくれた。今回の旅はA師の尽力で供養の儀式がなされる。流石インド在住20年。因みに空港鉄道は技術的な問題で何と半年前から運休していた。インドでは前回の経験は生かされないこともある。確認が重要と再認識。

午後2時、ちょうど昼ごはんだというので、参加する。今回A師はタイのヨーガ生徒を連れて来ていた。皆でインドの焼そばを食べる。何だかスパゲッティとの中間のようで・・。タイ人も口に合わないらしい。

YWCAの部屋は簡素だが清潔で広い。ベッドもダブルかと思ったが、2つに分けることが出来て満足。シャワーとトイレも部屋にあり、熱いお湯も出て、問題なかった。都心の一等地にあるが、リーズナブルな料金で泊まれるのは嬉しい。また何より、男性も宿泊可能なのは何とも嬉しい(スリランカのコロンボでは地球の歩き方に宿泊可能と書いてあったが、実際に行くと女性のみと言われた)。

この時期のデリーは完全なオフシーズンなのだろう。デリー到着後、持って来たダウンジャケットを着こむ。インドでダウン、イメージが崩れる。YWCAは普通予約が多く、部屋が取れないこともあるが、今回は宿泊客も多くない。やはり寒さのせいだろうか。部屋には小さなヒーターが一つだけ。これは相当寒い夜になる予感。

(3) シーク寺院 グルドゥワラ

食後、散歩に出る。A師とタイ人の後に従い、先ずは国立ヨーガセンターへ。残念ながら土曜日で閉まっていたが、インドでは近年ヨーガが見直されてきており、国としても様々な研究がなされている。因みにヨーガは以前サドゥウと呼ばれる「外道」の修養として位置づけられており、その手法・技法も口頭での伝承が中心で科学的な研究はなかったという。これはバラモン中心のカースト制度の影響である。近年のヨーガブームはアメリカに渡ったインド人が体操としてヨーガを捉え、健康、ダイエットなど普通の人々のニーズに合わせたもので、本来のヨーガと相容れる所は少ない。

YWCAのすぐ横に、グルドゥワラというシーク寺院があった。実に立派な建物で前回もここを通ったが、何だか怖そうな人々が出入りしており、見学すら躊躇った場所。我々日本人は一般的に思うインド人のイメージは「頭にターバンを巻いている」「インド人嘘つかない」であろうが、それはシーク教徒を指していることが今回分かった。シーク教徒は実に誠実な人々であり、そしてターバンを巻いている。ただインド全体から見ればほんの一握りの人口に過ぎず、何故日本でこのイメージが定着したのか大いに疑問(海外で商売をしているインド人にシーク教徒が多いのため、との説あり)。

A師に率いられて中へ入る。多くの人がお参りに来ている。外国人に対応する場所があり、そこで頭にスカーフを巻いたりして、髪の毛を隠す。これが作法だ。そして裸足で寺院へ。足は非常に冷たくなり、厳しさが突きつけられる。中では熱心に祈る人々の姿があった。一日座っている人もいるようだ。体が引き締まる。

外へ出る。チャイが無料で振舞われていた。これは有難い。この寺院、誰でもやって来た人にはチャイを振舞、食事時は食べ物も無料で提供されるという。ある意味ではそれこそが本来の宗教であろう。タイ人達はタイの仏教寺院で同様の施しがあるので、特別に不思議とは思わないようだが、日本の寺院でこのような場所があることを知らない。因みに私の大学の同級生O君は学生時代、インドを旅して、この寺院に1週間滞在したという。滞在費無料、食事も一日2食無料だったそうだ。頭にはタオルを巻いて、活動していたという。実に懐の深い寺院だ。あまりの美味しさにチャイをお替りした。

O君からのメール。「アムリッツアルの黄金寺院にも一週間いました。その後84年でしたかインディラガンジーさんが黄金寺院を襲撃し、結果として彼女はシーク教徒に暗殺されましたね。今のインドの首相がシーク教徒なのも面白い」




コルカタ散歩2011(4)奇跡のベルルマート

(13) 奇跡のベルルマート

車に戻り、ベルルマートへ出発。ところが・・。何と片道一車線の道が全く動かない。何かが起こっている。運転手も驚いて車から飛び出し、前に見に行く。そして諦めたように「ドルガプージャ」と叫ぶ。このお祭り、もう終わったのではないのか。見ていると、長い長い行列が植物園の方に向かい、歩いてくる。鼓笛隊あり、ドルガの人形の山車あり、大勢が嬉しそうに歩いてくる。これではお手上げである。

この行列が過ぎるのに20分は要した。ここから目的地まではどの程度離れているのか分からない。運転手には敢えて急いでいると告げない。告げるとよくないことが起こりそうだったから。その後車は順調に進んだ。此れなら急がなくても間に合うかもしれない。

しかしインドはそう甘い世界ではなかった。運転手は脇道を進んだが、また車が止まる。今度は踏切だ。まるで障害物競走のようだ。それでも踏切だから数分のことと思ったのが間違い。電車はいつになってもやって来ない。リキャーなどはバーの上から車を越えさせ、通って行く。初めは笑って見ていたが、これが15分も続くと堪らない。それでも私の心境は「なるようにしかならない」というもの。インドで悟りを開いたか。

20分待って列車が行き、ゆっくりと遮断機が上がる。しかし人も車も一斉に進もうとするから、直ぐには動き出せない。物凄い時間のロスであった。それでも何となく楽しい。もうそれほど時間はない。それから車は関を切ったように進む。でも時間が。そして・・。

そして突然、ベルルマートに到着した。何と時間はちょうど5時。これはもう奇跡だ。ぴたりと着けた。何故だろうか。やはりなるようにしかならないことを証明した。車が駐車場に入り、私は入口へ。

ベルルマート、ここはラーマクリシュナ・ミッションという宗教団体の総本山。私は実はこの教団に関して殆ど何も知識はない。では何故やってきたのか、それは同級生のSさんがアポを取ってくれたから。Sさんに「コルカタ行くんだけど」と気軽に言うと、「あそこに泊まれるかもしれない」と日本支部に連絡したところ、ちょうど日本に駐在しているスワミがコルカタに戻っており、「8日の午後5時にベルルマートで待っています」と言われたらしい。

私の旅には何故行くのか、とかどんな意味があるのか、などと言う問い掛けはない。ただ行けと言われれば行き、来いと言われれば行く、意味は後から自然と分かるもの、という考え方がある。そういう意味ではこの訪問には何となく惹かれるものがある。

それにしても想像していたよりもはるかに規模の大きい総本山。しかも何となく荘厳な感じがするのは宗教の聖地だからだろうか。そしてあまりにも多くの人が夕方にも拘らず、寺院内に大挙しており、私はどこへ行けばスワミと会えるのかさえ分からない。兎に角英語は通じるので聞いてみる。

そして3回ほど聞いたところで、柱の陰で信者と話をしている小柄な男性を発見した。スワミ・メダサーナンダ、その人であった。信者との話を遮って声を掛けた。ようやくここまで来たという高揚感がそうさせてしまった。スワミも何かを感じたのか、私を招き入れ、席を開けさせた。そして英語で「どこから来た」と聞く。私が事情を説明すると「どこに泊まっている」と聞くので、私がホテル名ではなく、市内中心部と答えるとスワミは今度は日本語で聞いてくる。彼は日本に十数年住んでいる。

信者がスワミの足を触っている。これは有難味を得るための動作だろうか。皆実に穏やかに、そして有難そうに話をしている。スワミが私の方を向いて「寺院内を誰かに案内させましょう」と言い、一人の男性を連れて来た。そして「また会いましょう」と言う。僅か5分の邂逅であった。殆ど何もしていないのに、実に不思議な体験だった。

案内の男性は非常に上品な英語を使い、物静かに、そして的確に案内役をこなす。聞けば近くの大学の先生らしい。スワミは1994年に日本に来る前、このミッションの学校の校長だったという。その時の生徒。それが今立派な先生になっている。

それにしてもこの総本山の敷地は広い。そして脇にそこそこ大きな川が流れている。夕暮れ時の川を眺めてみると、川風が吹き抜ける。カラスがかなり大きな声で鳴き、木々が揺れ、非常に冷厳な雰囲気を醸し出す。信者はその様子を淡々と眺め、知り合いと神妙に話し合い、益々森厳な意味が見える。

「礼拝に行きましょう」と誘われ、分からぬままに大きな堂に進む。靴を脱ぎ、中へ入ると既に大勢の信者が床に座っていた。その数には圧倒される。壮大である。その信者の中に分け入り、座り込む。床がひんやりする。

時間通りにプージャが始まる。何と皆が歌を歌う。前の方には椅子に座ったスワミ達がいるが、誰も説教などは垂れない。何と何と30分間、歌と言うか、お経と言うか、兎に角ずっと皆腹から力を絞り、何かを高らかに歌う。私も何も分からずに腹に力を入れる。何となく気持ちが良い。確かに腹から声を出すのは体に力が漲る感じがする。

そしてとうとう何の説教もなく、終了。しかし信者の多くは座ったまま、皆話し合ったり、更に祈りのポーズを取ったりしている。私は先に失礼した。周囲は真っ暗になっており、出口すらよく分からない。案内の男性が付き添い、ようやく外へ。トイレに行きたくなり、一息ついてから、車に乗り込む。もし車をチャーターしていなかったら、どうなっていただろうか。

10月9日(日)  (14) 古いコルカタ

今日はついにコルカタを離れ、ダージリンに向かう日。朝起きてメールをチェックするとジェットエアーからフライトが3時間遅れるとの連絡が入っている。これは助かる。空港で待つのはちょっと辛い。

仕方なく、また散歩に出る。ホテルの周りは何回も歩いたが、いつも感じるのは身分の壁。凄い量のゴミを仕分けている女性、そこにものすごい数のカラスが近寄り、餌を漁る。その中で彼女は黙々と作業をする。トイレも道端。壁はあるが、囲いはない。広い道路の高架の下には、家のない人々が寝泊まりしている。その数も相当である。朝晩は結構寒いのか、毛布などもあるが、基本的には殆ど物を持っていない。うーん。

バスターミナルがあった。どのバスも満員。どこから来たのか、古いバスが唸りを上げている。広々としたターミナルに朝日がまぶしい。その道路脇にクラシックタクシーがペチャンコになっていた。交通事故うだろう。この国では、事故は恐ろしい。

トラムも走っていた。車両は年代物。博物館にあってもおかしくない物が現役で走っている。これは古い建物同様、ベンガルのプライドだろうか。しかしこのトラム、どこから乗るのだろうか。乗客はあまりいないが、適当な場所で乗り込んでいるように見える。是非乗ってみたかったが、どこへ行ってしまうか全く不明のため、断念する。

市場もあった。果物があり、横の箱を見ると「山東梨」とか、「おいしい梨」などと書かれている。この梨は中国から来たのか、それとも日本か。いや、箱の上にはハングルも書かれている。いずれにしても、アジアに中国などの果物が流れ込んでいる様子がよく分かる。

そしてホテルに戻ると迎えの車がやって来て、いよいよ出発だ。改めて街の中を通ると、本当に古い町並み。この風景は実に惜しい気がする。

(15) インド 空港の流儀

コルカタ空港に到着する。インドの空港は国内線といえども色々と面倒である。先ずは預ける荷物をX線に通す。ここが混んでいる。何とか2つの荷物を通し、シールを張ってもらう。そしてチェックイン。ここも混んでいる。どうしてインドにはこんなに人がいるのだろうか。これも急速に中産階級が育ち、旅が普通になりつつあるということか。特に今は旅行シーズン。致し方ない。

そして手荷物チェック。ここも長蛇の列だが、先頭までようやく行くと列が違うという。何の表示もなく、指示もない状態では納得できないが、「俺がルールブック」と言う厳めしい係員の顔を見ると並び直さざるを得ない。バックを持っているかどうかで分けるらしい。更にポケットにデジカメが入っていたため、もう一度やり直し。流石に抗議して特別に係員にデジカメを通してもらう。

ここまですればもう問題はないはずだったが。実は搭乗の際、また問題が起こる。手荷物にタッグが付いていないというのだ。確かに前回デリー空港でもあわや出国無効になりかけたのだが、今回は何度もチェックを受けており、問題はないような・・。しかし係官はここでもルールをかざし、何とチェックインカウンターまで戻るよう指示。

慌てて、手荷物チェックをすり抜け、元に戻る。タッグを見付けてまたチェックへ。事情を話し、列を回避し、チェックのX線を通し、スタンプを貰う。そうして急いで2階の出発ゲートへ。えらい疲れた。何でこんな目に遭わなければならないのか。思うに、インドでは分業が進み過ぎ、誰かがタッグが無いことを注意してくれることはない、ということ。これが民主主義?これはインドの弱点であり、日本にとっては要注意点であろう。

まあ兎に角何とか飛行機に乗り込み、無事に出発。




コルカタ散歩2011(3) 廃墟になっていたチャイナタウン

(8) 香港食堂

夜まで休憩した。今回の目的の一つにコルカタの華人の状況を見るというテーマがある。デリーでも、プネーでも中国系を見ることは殆どなかった。インドにはチャイナタウンが無いと言われている。唯一中国系が多いのがコルカタ、と聞いていた。

ホテルの近くをウロウロしたが、中国系は見当たらないし、街中でも中国語の看板を見ることも稀である。一体どこにいるのだろうか。ようやくホテルの近くに1軒の小さな中華料理屋を発見した。先ずは入ってみる。インド人従業員が英語で話し掛けるが、無視して奥に居た中国系とみられるオジサンに北京語を使ってみた。彼はすぐに北京語で反応した。

先祖は南京から来たという。ただ南京などと言う都市はインド人にはわからないので分かり易い「香港食堂」とい名前を付けている。見れば壁には中国の暦が架けられ、商売の神様も祭られている。オジサンはコルカタ生まれ。食堂は小さい頃からやっているという。

「コルカタの華人は10年前には1万人はいたが、今では1000人だよ」と笑う。後の9000人はどこへ行ったのかと聞くと「それはお前、インドで商売するのは大変なんだよ。祖国が貧しい時には我慢していたが、この10年あれだけ発展したんだ。皆中国を目指すよ。と言っても親戚もどうなったか分からないから、直接中国へ行かないで、英連邦の誼でカナダやオーストラリアなど、中国系移民の多い所で商売替えだ」と言う。なるほど、その通りだ。やはりインドは中国人にとってはとても厳しい場所だったのだ。

10人ちょっとで満員になる1階、それに2階もあるが、使われることはないようだ。お客は旅行者が多く、インド人は限られた人しか入ってこない。「値段が高いんだ。インドの食べ物は物凄く安いから」、それもそうだ。チャーハンが50rp、と言えば、低所得にインド人には厳しい。

主人と北京語で話していると3人連れが入ってきた。日本人の若者男女。その一人が私に「ニーハオ」と笑いかける。私が日本語で応じるとかなりびっくりした表情になる。彼らは近くの安宿に泊まっており、カレーばかりのインド料理で体調を崩した仲間の為にここにやって来たらしい。

彼らは学生でもなく、社会人でもない?ように見えた。コルカタでは「マザーテレサの家でボランティア活動をしている」という。彼らの泊まる安宿に居る日本人は大抵がそうだとも言う。確かにマザーテレサの家はこの近くらしい。具体的にどんなボランティアをしているのかと聞くと「用事があれば手伝っている」との答え。そんなに仕事があるのだろうか。後日インド人に聞くと「彼らは毎日テレサの家にたむろしてお茶飲んで話しているだけ」と言われてしまった。それでも彼らには意義があり、楽しいのだろう。ボランティアとは何か、日本の若者が何故海外でボランティアするのか、興味深いテーマのように思えた。

ところでこの食堂の味だが、正直塩辛い。スープも野菜炒めも同じ。これはインド的な味付けなのだろうか。それでも久しぶりにチャーハンなどを食べると何となく嬉しい。インドから中国が駆逐されてしまうとこれも食べられなくなるということだろうか。

お茶も頼んでみたが、烏龍茶が出される。インドに居る中華系は烏龍茶など飲まないだろうが、これもお客を見たのだろうか。オジサンもお客が来ると忙しいので、早々相手はしてもらえない。インド人が一人、フランス人の女性は一人入ってきて、何やら頼んでいたので、店を出た。

10月8日(土) (9) メトロ

朝6時には周囲がうるさくなり、今朝も早起きして散歩に出る。昨晩香港食堂のおじさんから聞いた「中国系が多い場所」の一つBowという所へ向かう。インド博物館の道を北へ真っ直ぐ行くだけなので迷うことはない。しかしコルカタの道には道路標示は殆どないため、どこを歩いているのか不安になる。

途中道路脇の地面に大工道具を前に座っている男性が沢山いた。恐らくここは人材市場なのであろう。雇い主が現れるまで、じっと座っているらしい。更に先へ行くと交差点付近で大勢の人がトラックに向かって手を振っている。どうやらこちらも今日の仕事を求める日雇い労働者の集まる場所らしい。植民地時代の建物を背景に、そして古いトラムが通る横で、繰り広げられる職の争奪戦、また自分の位置が分からなくなる。

それからかなり歩いたが、チャイナタウンも漢字の看板も現れない。コルカタは交差点ごとにインド警察がいるので道は聞きやすい。Bowの場所を聞くと、丁寧に教えてくれた。しかし教えられた場所とは異なる場所で、どう見ても中国人のおじさんが家の前に椅子を出して座っているのが見えた。

しかしそれ以降、歩き回るも中国を示すようなものは何も発見できずに終わる。そしてある道でメトロの駅の入り口を発見し、そのまま地下へ降りていく。地下鉄で帰ることにした。切符はどこで買うのだろうか。ここには自販機はなく、窓口へ。ところがどこまで買ってよいか、駅の名前すら分からない。ホテルの最寄駅を知らなかった。取り敢えず地図を見て、適当な場所を告げると、4rpと言われ、あの昔ながらの固い切符が渡される。懐かしい。

ホームへ降りると何とも暗い。そして人は殆どいない。今日は土曜日だからだろうか。いや、デリーならどんな時でも沢山の人がホームに溢れていた。ここコルカタでは、どうやら地下鉄は認知度が低い。路線が少なく利用価値が無いということだろうか。車両も非常に古い。乗っている人も少なかった。3駅ほど乗って降りる。後で気づけば4駅目がホテルの直ぐ近くだったが、これは仕方がない。それ程、駅は目立たない。

(10) セットさんのセット

ホテルに戻るとセットさんがやってきた。昨日はお爺さんの葬儀があったらしいが、プロとして頼まれた仕事はきちんとこなしていた。私が頼んだ仕事とは、①ダージリンの茶園までの車、②ダージリン・カリンポン・ガントクのホテル手配、③シッキム行きの入境証、である。

彼は手際よく、紙を出し、一つずつ説明を始める。私にはいいか悪いかもわからないので、ただ従う。ついでに明日の空港までの送りの車も用意されていた。それならばと「今日の午後、ベルルマートという所へ行くこと、またタングラと言う場所へも行って見たい」と告げ、車の手配を頼んでしまう。本当は自力で行くべきであるが、既に相当面倒くさくなっている。特にインドでは何をするにも大変だ。そして今はお祭りの直ぐ後、色々とスムーズにはいかないような気がした。この予感は大いに当たる。

セットさんに中国人について聞いてみた。「中国人は金だけしか考えていない。観光客の行儀は悪いし、旅行会社は契約を守らない」と散々な答え。「中国は金持ちかもしれないが、インドは中国なしでも十分やって行ける」と言い切る。今の日本にこの言動が欲しい。そうでなければ対等な交渉などは望むべくもない。

しかしインドにも大いに問題はある。「従業員のストライキ、これは民主主義とはいえ、経営に大きな影響がある」とも言う。実際彼の旅行会社では、以前20-30人いた社員を必要最低限の8人にまで減らし、ガイドその他の多くを契約社員としたらしい。これにより経営上の負担はかなり減ったという。

またコルカタの街について、「何故植民地時代の建造物をそのまま綺麗にせずに残しているのか」と聞くと、「建物を維持・修理する費用がコルカタには無い」と一言。何とも残念は話だが、プライドは非常に高いベンガル人は、それをこともなげに言う。

(11) カルダモン

買い物を一つ忘れていた。Hさんご依頼のカルダモン。料理音痴の私の為に、わざわざサンプルまで授けてくれた。買って帰らない訳にはいかない。カルダモンとは「香りの王様」とも呼ばれるカレーには欠かせないスパイス。きっとこれでHさんが料理すれば美味しいカレーが出来るのだろう。

セットさんに聞くと「その辺でいくらでも売っている」と言うが、そういうのが困る。市場まで行くのだろうか。ホテルを出たあたりのお店では、置いていなかった。直ぐ近くにスーパーが1つあったので、そこで聞く。店員は「イライチか」と聞き返す。その名前は何だろう。ベンガル語らしいので、例のサンプルを取り出すと「イライチ」と再びいう。そして売り場を指す。確かにあるある。

しかしカルダモンと言うものも、ピンからキリまであるらしい。値段が相当に違っている袋がいくつかある。いずれにしても日本円で換算すれば大したことが無いので、髙めの袋を2つ購入してみる。結果はどうだっただろうか。

そのままランチへ行く。スーパーの直ぐ近くにベンガル料理と書かれたレストランがあった。ベンガルに来たのだから一度はベンガル料理をと思うが、メニューを見ても、どれがそれか分からない。ちゃんとしたレストランなので慇懃な態度の店主が大仰に応対してくれる。「魚を食べろ」と言うので注文。出て来た魚は味付けが濃く煮込んであり、うーんそれほど、という味。ライスと魚で70rp以上取られると、髙いと言わざるを得ない。チャイを頼む気にもなれずに早々に退散。

(12) タングラ&植物園

午後は車をチャーターし、観光へ。ところが2時に来るはずの車が全く来ない。それでも慌てることもなく、15分過ぎて電話を掛けて呼び、30分遅れで何事もなかったようにやって来る。これがインド流であり、結構重要な経験。怒ってもいいことはない。

先ずは昨日香港食堂のオジサンから教わった唯一中華料理屋が連なっているタングラと言う場所へ行って見る。ホテルから15分ほど行くと、住宅密集地帯から離れ、高級住宅がある。そのあたりに一軒家がレストランになっている所がいくつかあった。言われなければ通り過ぎたと思うほど、控えめに看板が出ており、よく見ると漢字表記もある。

しかし人通りは殆どなく、お客がいるようにも見えない。勿論時刻は3時前なので仕方がないのか。中には廃墟になっている家もある。中国系の墓も見える。確かにここに中国系が多く住んでいた様子は分かる。そして昨日のオジサンの言葉、「みんな出国した」は事実だったようだ。特に見るべきものもなく去る。

次にコルカタの中心、フーグリー河に掛かる橋を渡り、植物園へ行く。これはセットさんの推薦。5時にベルルマートへ行くには時間が余る。比較的近くて、見るべきものがある場所として選ばれたようだ。4時に出れば余裕で間に合うと言うので、30分ほど、見学する。ここは東インド会社が薬草を集めていた場所だという。興味深い。

しかし入場したもののどこへ行ってよいか分からない。特に掲示板もない。まっすぐ進むと「グレートバヤンツリー」と書かれた林が見える。林だと思ったのは実は間違いで、何と2000本以上の枝に分かれた1本の木だという。信じられない大きさ。ちょっと感動。

この植物園は実に広大な敷地を持つ。とても30分で歩けるものではない。でもせっかくなので出来るだけ歩いて行く。池があり、家族連れがボートに乗っている。カップルが池のほとりで囁きあっている。若者が楽しそうにはしゃいでいる。こんなインドを見るのもよい。どんどん歩いて行くと、戻るのが辛くなった。






コルカタ散歩2011(2) コルカタ街歩き

10月7日(金) (4) 朝からインド

昨日は疲れていたのか、ぐっすり寝る。朝早くから、鳥のさえず、ではなく、カラスの大声で起こされる。コルカタはカラスが多い。取り敢えず散歩に出る。ホテル前の店では、数人の男性がチャイを飲んでいた。私も飲んで見たかったが、その輪に入るにはちょっと勇気が必要だ。遠目に彼らを観察する。チャイを飲む姿が皆実に様になっている。女性は一人もいない。カップは昔の素焼きではなく、プラスティック。カップから湯気が立っている。明らかに常連さんばかりで、お互い何やら話している。

隣の大きな建物から子犬が一匹飛び出してきた。危ないなと思ったが、さっと道路に出て行き、真中を闊歩した。さすがインドの犬は堂々としているなと思った。しかし次の日、同じ場所にこの子犬が横たわっていた。寝ていると思って通り過ぎたが、更にその次の日、この犬の周囲にハエがたかっており、死んでいることが分かる。大きな建物から同じ形の子犬が数匹出て来て、周りを囲む。兄弟だろう。人間は誰もこの死骸を片付けようとはしない。

少し行くとカラスが数十匹も密集している場所がある。よくよく見ると、そこはごみ集積場。そしてそのカラスに埋もれて一人の女性がごみの仕分けをしていた。彼女にとっては日常、私にとっては異常な光景であった。その横には石の塀があったが、男たちがそこへ行くとしゃがむ。どうやらトイレらしい。中国のニーハオトイレより凄い。更に横には水道の蛇口があり、男が裸になり、朝日を浴びながら、石鹸をこすり、水浴びしていた。朝からインドを感じた。

朝食はホテルで。ビュッフェスタイル。トーストは古めかしいパン焼き器に入れ、バターを塗る。ゆで卵を自分で割り、塩を掛ける。フルーツは避け、バナナだけに。食後にチャイを頼むとオジサンが実に丁寧にティパックをカップに入れて、作ってくれた。勿論街中の味ではないが、それも一つのチャイ。

(5) Himarayaを求めて

1時間ほど、ネットで仕事。しかしこれから私はどうしたらよいのだろうか。旅行社のセットさんに電話してみた。彼とは偶然1か月前に代々木公園で紹介され、コルカタまで来て連絡した。「実はお爺さんが亡くなりまして」。セットさんは申し訳なさそうに今日は葬儀に行くという。こちらこそそんな時に電話してしまい、恐縮。でも彼は旅行業。私の希望を聞き、明日の朝までにセットすると言って電話を切る。

では次にすることは。そうだ、事務所のとまこさん(http://tomako.tv/)に頼まれた石鹸を買いに行こう。Himarayaというそのブランドは、とまこさんによれば、品質が素晴らしく、海外からも買いに来る、インドの街ではどこにでもあるという。しかし用心深い私はネットでコルカタのショップを確認していた。4店舗あった。フロントの男性にどれがいちばん近いかと聞くと一番近くても車で15分は掛かると言う。「では歩いて行けるな」と言うと、彼は相当怪訝な顔で、「いつかは着くだろう」と答える、それで十分だ。

ホテル近くの大きな通りを南へ進む。今日は天気がよく、結構暑くなりそう。CitiBankやスタチャンの支店が店を構える。インドにかなり食い込んでいる。途中、セントポールカテドラル、という立派な教会がある。流石植民地、と言わざるを得ない。1847年建造。何と1897年と1934年に大地震があり、崩壊したとある。そうか、この辺には地震があるのか。新たな発見。

中に入ると荘厳な雰囲気が漂う。観光客もいくらかいるが、話声がすると座っているオジサンが鋭い視線を投げる。大きな教会だ。ステンドグラスも大きい。1800年代にカルカッタへやってきて、布教した宣教師たちはどんな気持ちだっただろうか、と考えてしまう。勿論インドにはイエズス会の宣教師が1500年代には来ていたので、それほどの覚悟は要らなかったかもしれないが。

そこから更に歩き出す。しかし目指すお店の場所はトンとわからない。コルカタの街には交差点ごとに警察官詰所?がある。場所を聞くと丁寧に教えてくれる。中には「日本から来て何でそんな所へ行くんだ」と聞いてくるオジサンもいる。英語が分かり難かったのか、私の理解力の問題か、3回ぐらい聞いただろうか、結構歩いた。やはりインドは歩くところではないかもしれないと思い始めた頃、ようやくHimarayaの看板が見えた。小さなお店で、教えられなければ見逃したかもしれない。

店自体は小さいがきれい。お姐さんが一人、客の相手をしていた。私の番になると早速コピーした内容を突き出し、「これをくれ」と言う。先方も心得たもので、どんどん探していく。石鹸、クリーム・・・。ただ無い物もいくつかある。「プージャの翌日で品物は入って来ていない。昨日まで休みだったから」と。そうか、それはラッキー。多少の欠品は我慢しよう。紙袋一杯買った。何とかとまこさんに面目が立ちそうだ。

因みにこのお店には韓国人女性が良く来るという。ここの商品を1度使ったら病み付きになる、とはお店の宣伝であった。

(6) 卵焼きそばと両替

歩いて戻る。途中で道端に人だかりがある。見ると何か焼いている。とてもいい匂いがした。焼きそばらしい。急に腹が減る。確かに昼は過ぎているし、これだけ歩いたのだから、当然か。注文したいと思ったが、狭い道路脇に人が多く、なかなか近づけない。しかも荷物が大きい。

ようやく屋台の前へ出て、「ヌードル」と叫ぶ。おじさんは卵を指す。思わず頷く。卵焼きそばになった。目玉焼きが上に乗る。隣の人を見ると8rp払っているから、10rp出すとダメと言う。16rpらしい。卵が入っただけで値段が倍に。昔中国でも卵は高かったな、と思いながら、列から離れ食べる。うーん、これは中国の焼きそばと大差ない。熱々で美味い。こんなウマい物がこんなに安い。インドは幸せな国である。

ホテルに向かって更に歩く。朝見た銀行スタチャンが見えた。そうだ、ルピーに両替しよう。銀行の建物はかなりのオールドファッション。なかなかムードがある。窓口で聞くとここでは外貨両替はやっていないという。お姐さんは親切に両替できる場所を教えてくれた。トーマスクックだという。

また歩いてトーマスクックを探す。これまた古めかしい建物。中へ入ると実に狭い空間に人が沢山働いていた。警備のおじさんに咎められる。「俺は客だ」と言って見たが、何と英語が通じない。それでもそのおじさんも親切に何かを言っている。どうやら両替はこの場所ではないと言っているようだ。オジサン、紙を取り出し、住所を書く。しかしそれが何処にあるのか、全く分からない。残念ながら両替は諦めて、ホテルへ戻る。

(7) インド博物館

疲れてはいたが、近くのインド博物館へ向かう。朝の散歩で場所は確認済みであり、スムーズに行ける。ガイドブックでもホテルの近くで載っているのはこの博物館のみ。今日は金曜日だが休みではないだろう。

入り口付近は大変な混雑であった。外国人の姿はまばらで、多くはインド人。チケット売り場に殺到している。私は過去のデリーなどでの経験で知っていた。外国人は別料金だから専用窓口で直ぐ買えることを。探すとやはりある。外国人100rp、インド人1rp。何と100倍である。どうしても納得できない。以前中国でもこんな理不尽な価格設定があったが、今や世界でも6-7位の経済大国インドでこのような二重価格が存在するのは許せない。ただ考えてみれば、これは外国人との二重価格ではなく、カーストなどで阻まれた下層者への配慮であるかもしれない。

1814年建造のこの博物館、イギリス植民地時代は何であったのだろうか。相当大きな規模である。裏にはきれいな庭もあるが、参観者は立ち入り禁止である。2階建ての建物は四方を囲み、中庭もある。ドーム型の柱がコロニアルである。

1階の廊下も広く、仏像、彫刻などがずらっと展示されている。ブッダガヤから出土した仏像には、味がある。欧米人も興味深く見つめている。インド人にはあまり関心が無いようだ。インド人にとって、仏教は既に過去の物であり、興味の対象でないことが分かる。

見学は各部屋の展示室に行って見る。ヨーガの原型を描いた絵画があった。ユニーク。原始時代からの模型はどこの博物館でもあるものだった。インド人に一番人気は何と2階にあったミイラの特別展。インド人の頭の中には「体は仮の物。死ねば体は終了するが、心は残り、転生する」と言われているが、そんな人々がミイラを見てどうするのだろうか。何を思うのだろうか。中は押すな押すなの満員で、とても見ることが出来ない。外へ出ようとしても、入口へ人が押し寄せるために、出られない。何とも不思議な光景だった。

帰りは少し回り道して散歩。スチワート・ホッグ市場と言う名のレンガの建物が見える。近づくと物売りか、案内志望か、何人もが声を掛けて来る。構わず中に入ると狭い売り場がひしめき、更に声が掛かる。どうもインドは面倒くさい。かなりしつこい。紅茶屋さんでも探したかったが、諦めて外へ出る。市場の脇ではドルガプージャの余韻か、太鼓が叩かれ、ドルガの前でお祭りが続いている。