「アジア旅」カテゴリーアーカイブ

インド アユルベーダの旅(4)プネー 村の暮らしとガンジー

ミルク農家と年1回の仲直り

さすがにホテルから家までは疲れたのでリキシャで戻る。2匹の犬が我々の帰りをそれはそれは喜んで迎える。こんなに歓迎されるのはかつてない。この犬は人間以上に感情表現があるようだ。夫人は昼寝、ということで私も昼寝した。

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夕方になると夫人が『村を歩こう』と連れ出してくれた。行った所はミルク屋さん。毎日ここからミルクを調達し、チャイを作っているというので行ってみると、何と牛が何頭も飼われていた。やはりここは農村なのだ。今日のミルクで作られたチャイを頂く。夕暮れが妙に似合っていた。

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地主さんの家にも行ってみた。街造り農地を売り、セメント屋を始めたというが、生活に非常にゆとりがあり、裏ではまだ野菜なども植えている。『一番興味があるのはヨーガ』という言葉が印象的。中国の様な金儲け、経済発展とはちょっと違う。これがインド流?

 

帰りがけに声を掛けられて、何やらある家へ。そこには近所の女性数人が集まり、おしゃべりしていたが、この家の女性が全員に何かを配り出した。夫人によれば、『これは年1回の儀式』だそうで、村の中で何かもめても、年1回、手打ちの会を開き、水に流すらしい。この辺も日本の昔の農村にあった習慣ではないだろうか。

 

コラム ⇒ http://www.chatabi.net/colum/379.html

 

カンジーフィロソフィー

その夜、夫人との話の中に『カンジーフィロソフィー』という言葉が出てきた。ガンジーは勿論インド独立の父。彼の考え方を信奉する人々がいるということ。夫人とご主人である教授もこの考え方を取っている。この半農村での生活、文明的な生活を抑制するのもこのためだと思われる。

 

ただガンジーの考えと言っても色々とある。例えば非暴力であり、菜食主義(殺されるのを嫌がっているものは食べない)、禁欲主義などである。この考え方を原則として実践していく、これはかなり大変なことだと思うのだが、道理としては通っている。

 

60数年前に暗殺されたガンジーだが、その思想は今でも広く支持されている。ただ人間の欲望をうまくコントロールして、平和な社会を作ることが如何に難しいかは、現在の国際社会がそのまま証明している。

 

ゴレ家に滞在して、我々は色々なことを考えないといけない、と感じる。今や人間は『自然に生きる』とか『自然と共に生きる』ことが如何に難しいか、言葉で言ってみても始まらない。日本社会がかなり軽く見えた一瞬だったかと思う。

何となくプノンペン2014(5)サービスの良いホテル

3月15日(土)

愛想のいいホテルに移る

既にコニーバーもサムライカレーも見てしまったので、今朝はホテルを移ろうと思った。と言ってもどこへ行ったらよいのか分からない。ネットで適当に検索してみたら、コメントに『フロントの女性がとても親切』というのが見えたので、そこへ予約しないで行ってみることに。

 

ラブホで会計すると2泊で50ドルのはずが40ドルだった。何とラブホなので1泊計算ではなく、時間計算だったらしい。これは合理的で有難い。タクシーを呼んでもらう。プノンペンでは流しのタクシーはあまりない、危ない?とかで、タクシーは呼ぶものと誰かに教わった。

 

タクシーは北上したが、肝心のホテルに行きつかない。『場所が分からない』という運転手。住所もあるのに何で?実はこのホテルオープンしたばかりで前は別の名前だったらしい。それでも何とかたどり着く。プノンペンは道路標示が数字で出ているのだが、それでも意外と探すのが難しい。

 

フロントに行くと、すらっとしたカンボジア女性に本当に良い笑顔で迎えられた。英語も上手い。料金を聞くと80ドルと言われるが、ちょっとまけてというと半額の40ドルになった。オープン記念のようだ。これでネットとほぼ同じ料金。それにしてもコメント通り、実に愛想がよい。ボーイも実に親切に案内してくれる。どのように教育したのだろうか。サービス概念が少し遅れていると思っていたプノンペン、やり方次第だろうか。

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部屋もきれいで、ベッドもフカフカ。とても気持ちの良い環境にいる。思わずベッドに横になり、まどろむ。たまにはこういう気分になるのもよい。軽くエアコンを掛けると本当に快適。このホテル、屋上にプールとレストランがあり、プノンペンが一望できる眺めもあって驚き。ここでダラダラしているのも悪くはない。

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ホテルを北へ歩いて行くと、セントラルマーケットがある。1997年に初めて来た時は薄暗い市場だったが、今やきれいに改修され、こぎれいな観光客向け?市場となっている。貴金属を売る店が多いのは、単価の高い物でないと家賃が払えないのかもしれない。この辺はどんどん変わっている。

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ランチを取る。市場の横のローカルカフェ。値段も安いし、雰囲気は悪くない。英語は片言だが、メニューには写真があり、欧米人も沢山食べている。テーブルの上には無料のお茶が置かれているのもよい。外は蒸し暑いのでここでまたダラダラ過ごす。

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この周辺は昔のプノンペンの雰囲気をかなり残しており、懐かしい感じがする。だが中には中国工商銀行の看板なども見え、中国大陸からの影響も垣間見える。3年前と比べると韓国の勢いは見えにくくなり、中国勢はひたひたと入り込んでいる様子が何となく不気味。

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インド アユルベーダの旅(3)プネー 公共バスで街へ出る

1月16日(木)

朝はチャイ

翌朝もまた日が出る頃に火をおこし、お湯を沸かす。これが一日の生活リズムなのだ。そのお湯でチャイを作る。これは何とも言えず美味い。ゴレ夫人はご主人が長期不在のためか、いい話し相手が来た、という感じで、実に様々な話をしてくれた。

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ここは元々農村だったが、都市化が30年近く前に始まった。一応家は建ったが生活は農村に近い。そして人々の概念も農村に近い。ゴレ夫人は日本で言えば民生委員の様な仕事をしており、近隣の人々の為に様々なアドバイスをしている。このような場所にはゴレ教授夫妻のような知識人はいない。貴重な存在だ。

 

公共バス

今日はどのように過ごそうかと思っていると、夫人が『私はこれから親戚の所へ行くが、一緒に行くか』と聞く。公共バスに乗るというので付いてくことにした。インドでバスに乗ったことが殆どなかったからだ。確かラダックで尼さん達と乗ったきりだ。出掛ける時、2匹の犬は『我々も連れて行け』とばかり、泣き叫ぶ。そして悲しげな目を向ける。

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先ずは近所のパン屋さんを見学。薄暗い場所で朝からパン作りが行われていた。お父さんが始め、今は息子たちが作っているという。インドでは身内しか信じない傾向がある。このような商売も身内のみで経営し、店を広げる場合も兄弟の誰かが行って経営する。あるところに工場を設け、販売店は市内に作る、などという考えはないようだ。作り立てのパンを近所に届ける、これはいい。この辺りにはこのような家内工業的な生産基地が細々と多数存在している。

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街外れの大きな道でバスを待つが、大勢の人が待っている。夫人はリキシャを拾い、バスの始発駅まで行く。インドのバスもいつ来るのか分からないようだ。始発と言っても目的地への直通バスはなく、乗り換えるらしい。バスは古く、きれいとは言えない。車掌が料金を集めに来た。15rだった。バンコック並か。すぐに先ほどのバス停に着いたが、その頃にはバスは超満員になっており、乗り切れなかったかかもしれない。我々はゆっくり座っていけてよかった。

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市内を30分ぐらいで走り、乗り換えた。乗換と言ってもバス停は離れており、人に聞きながら進む。これは普通の外国人では乗るのに無理がある。更にはどのバスに乗るのかは車掌に聞かないと分からない。慣れていないとインド人と言えども一苦労だ。

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ようやく目的地近くでバスを降りたが、これまた訪ね先が分からない。夫人も始めてきたようだ。結局リキシャに乗り、案内を乞う形で、あるアパートに到着。そこには夫人の親族が集まっていた。どうも親族の人が手術をするらしい。その為の祈祷、プージャが奥の部屋で行われていた。それが終わると皆にタピオカご飯が配られ、儀式が済んだ。居間と台所、それに寝室が2つのアパートに10数人が来ていた。ここにもインドの親族主義の一端を見ることが出来た。

 

懐かしのシュレイヤホテルでターリー

夫人は用事を済ますとすぐに部屋を出た。そして『ホテルへ行こう』という。何でホテルへ行くのか分からなかったが、付いて行く。またバスに乗り、どこかわからない場所でおり、それからそのホテルを探し回った。彼女もあまり市内には来ないらしい。

 

人に聞きながら歩いて行くと、何となく懐かしい雰囲気になってきた。この辺りには既視感がある。そして着いたところは、何と5年前私が初めてインドに来て最初に泊まったシュレイヤホテルだった。それにしてもなぜホテルへ?どうやらインドでは宿泊以外でホテルと言えば、レストランへ行くことを指すらしい。

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このホテル、5年前と特に変わっていないように見えた。1階の食堂に入り、ターリーを注文。ターリーは丸いお盆に様々な料理が少しずつ盛られ、食べる。お替り自由でなくなるとボーイがまた入れてくれる。わんこそばの様でもあり、取りにいかないビュッフェともいえる。これは香港のインドランチにもあったが、本当に腹一杯になる。見た目より遥かにボリュームもある。美味しく頂く。どうやらゴレ家はこのホテルと関係があり、わざわざここまでやってきた。『老人には割引があるのよ』と笑いながら支払いをしてくれた。夫人は実に茶目っ気のある人だ。今回の私の訪問を面白がっている。

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何となくプノンペン2014(4)カンボジアを目指す若者たち

王宮など

午後は時間があったので、プノンペンを散策した。メコン川沿いに王宮を目指す。3月のプノンペンの日差しは強い。こんな時期に歩いている人間は少ない。汗がどんどん出る。歩みが自然とゆっくりとなる。それでも前に進む。何をやっているんだろう、などとは思わない。

 

メコン川は風が強いのが救いだ。王宮前の広場には日本、韓国、北朝鮮の国旗が仲良く並んでいた。こんな光景、日本では絶対にないだろうな。それにしても河沿いは気持ちが良いほど、広々としている。

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王宮の入り口が分からず迷う。先ずは昔も行ったことがある博物館を見学した。見学というより休憩だったかもしれない。確かに疲れを覚えていた。中庭が広く、廊下沿いには仏像などが展示されている。そこは風が良く通り、しばし休む。観光客は中国人と韓国人が多い。王宮はよく整備されていてきれいだが、あまり見どころはない。横には仏塔などがあり、ちょっと眺めていたら、のどが渇いた。飲み物を売る人がいたので近づくと何と中国語で話し掛けられ、ビックリ。そのくらい中国人が多いということか。

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王宮を出るとすぐにブルーハウスというカフェが見えた。とまこさんがここのドーナッツが美味しいとメールしてきていたので、入ってみる。とても静かで涼しくてよい。まるでオアシス。小型のドーナッツも美味しく、WIFIも繋がり、気分よく休息。

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それから河沿いのカジノホテルを見学。17年前に初めて来た時は船上カジノを見たが、今はちゃんとホテル内にカジノがある。そこだけがマカオのようになっているが、平日の昼間のせいかお客はあまりいなかった。中国人観光客などがここに出入りしていそうだが、どれほどのお金を落とすのだろうか?

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6月末オープン予定のイオンモールの現場にも行ってみる。だが3か月後のオープンにしてはまだ外壁もちゃんとできていない。これでオープンできるのかちょっと心配。でもカンボジアのこと、何事もスローペースで何とかなるのだろう。カンボジアを生産基地ではなく、消費地として考える、これは間違った選択ではないと思うのだが、果たしてどうだろうか?

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時代屋

歩き過ぎてかなり疲れる。一端ラブホに戻り休息。あまりの熱さの中、3時間も歩いたので、疲労がたまる。熱いシャワーを浴び、エアコンを全開にして、体を冷やす。気持ちは良いが、だれる。

 

2時間以上休んでいると疲れてはいるが腹は減る。昨晩中華レストランが近くにあると聞いたので出掛けてみたが、場所が分からない。もう歩くのは嫌だな、どうしようかと思っていると、『時代屋』という看板が見える。日本飯屋だ。思わず入ってみる。

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店は広かったが、お客は少なかった。日本人従業員がおり、日本的な雰囲気が漂う。どてカツ丼というメニューが目に入り、頼んでみる。なかなかイケル。これは名古屋辺りの食べ物か。ビールを飲んでこれを食べて5ドル。まあまあか。

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お客にはカンボジア人もおり、ビールを飲みながら焼き鳥を頬張っている。カンボジアには貧しい人もいるがかなり裕福な層も結構いることは前回学んだ。彼らがこのような店を支えていくのだろうか。そういえばこのお店、昼間歩いたどこかにもあったような気がする。あとで調べてみると確かにここは2号店。プノンペンでは有名な日本食レストランであった。こんなのがあると住んでいても楽なんだろうな、と思う。

 

たかやん

8時過ぎにコニーバーへ行く。今日はたかやんがいたので、少し話す。彼はプノンペンの日本人、特に若者の間では人気者で、彼を目当てにバーをやってくる人が後を絶たない。カウンターに座ってみていると、何人もの若者が彼に話し掛けている。このバーの目的は日本人の相互交流であるらしい。場所は少々不便だが、確かに打ってつけだ。

 

場所は敢えて不便な所を選んだという。『便利な場所で成功しても当たり前。不便な場所でうまく行ったら、本物』と考えている。その為には色々な工夫が必要だし、現地の仕来りともうまく付き合う必要がある。彼の人柄がそれを乗り越えさせているようだ。このバー以外に焼き鳥屋も開業しているようだ。

 

彼は別にカンボジアだけに興味があるわけではないらしい。自分がしたことがあれば、アフリカへでも行く、という。お客も日本人だけでなく、カンボジア人からも好かれている。このような若者がアジアへ、世界へ出ていくとは良いと思う。口先だけではなく、先ず行動。いいな。

 

最近は日本で若者向けに講演会などもしているらしい。『カンボジアで起業するには』『アジアで働くということは』など、結構人気があり、沢山の若者が関心を持って聞きに来る。日本に閉塞感を持つ者は多い。しかしこれまでは他のオプションがなく、その閉塞感に押しつぶされてきた。これからは時代が変わる。その舞台としてカンボジアは適しているという。確かに自由があり、やろうと思えば何でもできそうな環境がある。

 

たかやんスペシャルという飲み物を作ってもらった。特にレシピもなく、その日の気分と相手を見て適当に作るらしい。この飲み物がこのバーを物語り、たかやんそのものを物語っている。面白い。

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インド アユルベーダの旅(2)プネー たき火を見つめる心

2.プネー1

27年かけて作っている家

本日私はプネー郊外の家にホームステイすることになっている。車はプネー市内から少し外れた道を行く。農村、と聞いていたが、そこには建物が立ち並び、郊外の住宅地のような雰囲気だった。一軒の家の前に停まると、犬が大声で吠え始める。

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ここは大学教授、ゴレ氏の家だった。27年前にここに引っ越してきたという。庭には沢山の木が植わっており、自然の中で生活している。母屋の脇に小さな建物があり、そこが私のねぐらとなったが、ここはこの夫婦が最近自分たちで建て増ししたという。簡易なベッドとトイレもちゃんとついていた。何とも不思議な感覚だ。中国でも農民が自分で家を作るという話は聞いたことがあるが、大学教授が自ら家を作る、何とも変わっている。

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尚ゴレ家はゴレ大学教授と夫人の2人暮らし。息子と娘はアメリカで暮らしており、当日ゴレ教授は息子の所へ行っていて、家には夫人しかいなかった。全く私には縁もゆかりもない所、A師の導きはあるものの、こんな所へホームステイしてよいものなのだろうか。

 

因みに2匹の犬はチャボーとマヌンという名前で、実に忠実に吠える。そして遊んでほしいのか、物凄い勢いで飛んできて、やたらに絡みついてきて困る。ゴレ夫人は容赦なく2匹を一角に閉じ込めて平穏を保つ。これがまた面白い。

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ATMの横にはガードマン

夕方暗くなる前にゴレ家の周囲を探索した。プネーの街の郊外ということだが、農村ではなく、小さな街のようになっており、商店なども立ち並んでいた。先ずはATMを探し、キャッシュカードでインドルピーを引き出すことを試みる。ところが、地元の銀行のATMはいくらでもあるのだが、カードを入れても一向にお金は出て来ない。どこでやっても一緒なので、カードの問題らしいと分かる。

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尚インドのATMの入り口には必ず銃を持ったガードマンが座って見張りをしており、この国の安全には問題があることが分かる。それにしてもこんなに沢山のATMに一人ずつガードマン、ある意味で雇用対策ではないだろうか。

 

街を歩いているとのどが渇き、その辺の屋台でマンゴジュースを飲んだ。10rで冷たいがかなり甘いジュースだった。あとでA師にその話をすると『それはよく中る飲み物だ』と言われたが、私自身はインドで何にも中ったことがなく、今回も問題はなかった。

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またインドでも少しずつペットボトルが普及し始め、その中に見慣れない飲み物があったので買ってみた。ニンブー、というらしい。ようはレモンジュースだ。これも後でA師に聞くと、インドでは家を訪問すると先ず水代わりに出て来るものだそうだ。これがペット飲料になるということは、インドにも変化が出てきているということではないか。

 

コラム ⇒ http://www.chatabi.net/colum/606.html

 

手作りチャパティ

ゴレ家にはWIFIもあり、特に普通と変わらない都会生活のように見えた。だがゴレ夫人は『お茶を淹れよう』と言って外へ出ていき、何と庭に落ちている木々を燃やして、お湯を沸かしてくれた。これがゴレ家の自然な生活だと分かる。夕暮れ時、庭の火を見ていると、幼い頃たき火をしたのを思い出す。あの頃はどこに家でもたき火をしていた。そして焼き芋などもしていた。何とも懐かしい気分になる。人間は火を見つめる時間が必要なのではないだろうか。都会生活では火は使うものの、見つめる時間は殆どない。

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そして夕飯の前に沸かした湯を使って、体を洗った。湯はスイッチをひねったら沸くものではない。沸かした時にできるだけ使うのだ。至極当たり前のことが分からなくなっていた。部屋の奥に体を洗う場所があり、じっくり沸かした湯を大切に使う。世の中では『エコ』などという言葉が氾濫し、何をするにもエコなのだが、本当のエコとは、『人の心が大切に使うことを知る』ことではないだろうか。それを教えてくれるのが、この生活なのである。

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ゴレ夫人がチャパティを作ってくれた。これは台所のガスを使っていた。あとで聞くと普段はあまり食事なども作らないらしい。わざわざ私に家庭生活を見せてくれていた。有難いことだ。インドの食事は如何にチャパティやご飯を美味しく食べるかの為におかずがあることが分かる。とてもシンプルで満足した食事を取り、早めに寝る。

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何となくプノンペン2014(3)カンボジアのポイントは人材

3月14日(金)

2.プノンペン散歩

人材紹介

朝は早くに目覚める。やはり鳥のさえずりが聞こえると起きてしまう。歳のせいだろうか。何となく食事をする気にもなれず、散歩に出る。昨日タクシーで迷って以来、この辺の地形を全く把握していない。どこに何があるのかも分からない。

 

取り敢えず大通りと思われるところまで出る。ちょうど通勤時間帯なのか、かなりの車で渋滞が起こっている。アジアのどこの都市もそうだが、ここプノンペンでも急激なモータリゼーションが起こっており、バイクから車社会へ突き進んでいる。

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プノンペンにコンビニは見当たらないが、ガソリンスタンドにはちょっとした店が併設されている。中に入ると、これから通勤すると思われる若い男女がパンを食べてコーヒーなどを飲んでいる。以前は屋台しかなかったが、既にこのように変化している。それも外国人ではなく、カンボジア人のホワイトカラー、急速に増えている。

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この通りには喫茶店もいつくかあり、お洒落になってきている。サムソンなど携帯を売る店もあり、大きなビルもどんどん建っている。ただ一つ、3年前に工事が止まっていた30階以上の建物はそのまま進んでいなかった。これは権利関係などの問題であろうか。確か韓国系のビルだったと思うのだが。

 

そして9時に紹介してもらった人材紹介会社を訪問。明るい感じのオフィス、朝から職を求めて人が来ている。代表者のNさんはまだ来ていなかったが、日本人女性が対応してくれ、雑談する。日本人はカンボジアにかなり増えつつあるようだ。

 

Nさんは元お役人で、日本のハローワークのシステムをカンボジアに持ち込んだらしい。日本企業の進出も増えており、また日本人の就労希望者も増えているようだ。日本語が堪能なカンボジア人などは引手数多で、給与も高騰している状況とか。如何にも日本企業らしい。

 

カンボジアの動きは非常に早い。半年起業が遅れればビジネスチャンスを逃すこともある。即断即決、そういう人が生き残る。この2年ほどは日本人起業家もかなりの勢いで増えている。手続きやライセンス問題が比較的簡単なこの国では、的確なビジネスモデルで、スピードを持って事業をすれば成功の確率も他国より高いという。ただ不動産価格や事件費の上昇もあり、コストも考えに入れる時代がやってきているようだが。

 

韓国系カフェで

ちょっと時間があったので、知り合いに行ってみるとよいと言われたバンコンケンという所へ行く。『東京で言えば代官山』と言われ、プノンペンにそんな所があるはずはない、と思って行ったが、代官山ほどではないにせよ、かなりお洒落な一角がこの街にできていることを知り驚く。

 

特にカフェがオシャレだ。どうみても欧米人が好きそうな新しいカフェがいくつもある。透明のガラスで店内がきれいに見えるもの、おいしいケーキを売り物しているところ、など、入ってみたくなる店が多い。歩いているのも欧米人が多い。ただ繁盛しているのか、というとどうだろうか。

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早めのランチを取る。3年前に紹介されたTさんと会う。当時Tさんはカンボジア政府の中に居たが、今は独立してカンボジアの為になるプロジェクトをしている。その他、日本からの仕事も請け負い、かなり忙しいようだ。

 

カンボジア人の就業意識が低い、という話をよく聞くがその理由を『カンボジアの歴史には英雄がいないので、手本になるような存在がない』『特にポルポト以降宗教が断絶され、信心がない』ためと、説明してくれた。これは一つの見識だろう。カンボジアの一番の問題は人材だな、と強く感じる。

 

因みに我々が食事をしたレストランはベーカリーでフランス風の名前が付いていたが、よく見ると韓国系だった。この辺、韓国は本当に上手い。イメージを極めて重視した戦略、これもまた重要ではなかろうか。

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インド アユルベーダの旅(1)インドで健康診断?

《インド アユルベーダの旅》 2014年1月15日-29日

 

アジア放浪の旅に出てから、もうすぐ3年が経とうとしていた。我ながらよくこんな旅が続けられている、と思う日々。疲れが溜まってきている気がする。またなぜか最近は腹回りがちゃぷちゃぷしている。その辺をインドの大家A師は見逃さない。2013年初めのインドの旅の頃から『インドでアユルベーダを受けてはどうか』と耳元でささやき始めた。

 

私は拠点を移したバンコックで人間ドックを受けることを検討したので、答えを曖昧にしていた。何しろバンコックの人間ドックは日本語で出来、そして費用も安いらしい。にも拘わらず、A師からのお誘いは続き、バンコック在住の共通の知人数人からもA師の伝言として、アユルベーダという言葉が出てきた。

 

そして11月、バンコック郊外のヨーガキャンプに参加したところ、A師が『今はインドでもネット予約です』と自身のタブレットで予約を始めてしまった。これはもう仕方がないと観念し、インド行を決める。

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12月に東京に戻った際、インドビザを申請した。これまで4回インドを訪問しているが、ビザではトラぶっていた。今回も1年前と申請方法が変更になっており、全てオンライン事前申請、その後茗荷谷のインドビザセンターに書類を持ち込んだ。すると、書類に一点不備があるとして、受理されず、おまけに写真も5×5㎝という特殊サイズしか認めない。やっぱりインドだ、と思うしかない。最終的に2度目の申請後、4営業日でめでたくビザが取得できた。

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1月15日(水)

  1. プネーまで

バンコック封鎖

バンコックは昨年からデモが起こっていた。そして年明けからこれが本格化し、何とスクンビットなど主要道路をデモ隊が封鎖するという暴挙に出た。いくら主張したいことがあると言っても、天下の公道、それも主要道路の真ん中を封鎖してしまう、そしてそれを排除することなく黙認してしまう国、それがタイである。これはこれで凄い。1₋2日はどうなることかと緊張していたが、実際は何も起こらなかった。ただ通勤や通学に大きな影響が出ただけ。

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インドへ行くため、空港へ行かなければならない。果たしてタクシーなど捕まるのだろうかと危惧していたが、我が宿泊先付近は全くの平穏で、ただの日常風景が広がるだけだった。運ちゃんも1₋2日なら仕事も休めるが、稼ぎが無ければ食えない。ほんの一部の場所以外は通常営業だ。このデモ、結局割を食うのは一般庶民という構図。タクシーは簡単に拾え、空港には予想より早く着いた。デモのお蔭で道も空いている。

 

インドのLCC スパイスジェット

今回初めてスパイスジェットというインドのLCCを利用する。これまでプネーに行くにはデリー経由か、ムンバイで降りて車で行くか、どちらにしてもかなり不便だったのだが、バンコック-プネー直行便が就航し、A師などは大喜びだった。

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空港で東京から来るHさんと合流、飛行機に乗り込む。機体は比較的新しく、機内はインド人乗客が多い。LCCと言っても普通の飛行機と変わらず、快適。ただ飲み物は水が配られるだけ。私は好奇心からベジサンドイッチにトライしてみたが、量はほんの少しでその割にはかなり高かった。まあこの飛行機代自体が片道、1.2万日本円程度で格安。やむを得ない。

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飛行時間の4時間はちょっと目をつぶっているとすぐに過ぎた。ちょっと気になったのは意外と空いていることだった。案の定、このフライトは僅か3か月で運行停止となり、プネーからバンコックへ行くのはまた昔の道を辿ることになる。

 

プネー空港はとても小さな空港だった。イミグレもスムーズで荷物も比較的早く出てきた。だが外へ出てみても迎えの姿はない。今日はH師とラトールさんが来てくれているはずだが。Hさんの日本の携帯などを使ってみたが、電話は繋がらず、その辺にいるインド人の携帯を借りて電話してみるも、誰も出ない。これは困った。今は午後1時過ぎだからまあいいが、これが夜ならちょっと心配になるところ。

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どうしようかと相談しているところへ、何事もなかったようにゆっくりとA師が現れた。そしてラトールさんが買った車に乗り込む。聞けば、インドに25年も住んでいるA師でも居留の届けなど、いまだに面倒な手続きをしているらしい。さすがインド。

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何となくプノンペン2014(2)ラブホに泊り、サムライカレーを食う

ラブホに泊まる

そして今晩泊まるところは、何とラブホだった。これはお知り合いのとまこさんからのご紹介。たかやんのバーに行くには便利だと聞き、そして何となく興味本位で行ってみる。本当に直ぐ近くに平屋の建物があった。そこはラブホというより、車で入るモーテル。各部屋の前に駐車スペースがあり、お客さんが入ると、入口の一部が覆われる。

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私が一人でずかずか入っていくと若者が何か言ってくるが言葉が分からない。そこで初めて気が付いた。英語は通じないのだ。これは困ったが、若者は部屋を開け、中を見せる。確かに言葉が通じなくてもやるべきことはこれしかない。その部屋は意外なほどきれいで、何とWIFIも使える。ここに泊まるというと彼はホッとして出て行った。

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ここは一体いくらなんだ。また若者を探して聞くが分からない。すると彼は私を一番手前の建物に連れて行く。そこの若者は英語が通じた。1泊25ドルだという。値下げ交渉を試みたが応じない。仕方なく支払う。

 

そして出掛ける時間になり、また困る。鍵がないのだ。若者は庭の椅子に座っているので、手振りで伝えると、無いという。そうか、ラブホで出入りする人はあまりいない。鍵は渡されず、この若者が管理しているのだ。出掛ける時は彼を呼び、彼に鍵を掛けさせる必要があった。まあ、WIFIは使えるし、熱いお湯も直ぐ出たので、問題はなかった。管理人もいるので物がなくなる心配もなさそうだ。何より静かなのが良い。

 

サムライカレー

私がここに来た理由、それはさきほどのたかやんを紹介されたからだが、実はもう一つあった。あるセミナーで知り合った男、よもけんが、プノンペンでプロジェクトを始めたというので興味を持った。それはサムライカレープロジェクトといい、人材育成を主眼としているが、プノンペンでカレー屋をやることだった。そしてこのカレーのレシピを提供したのが、何ととまこさんだった。人はどこで繋がっているか分からない。

 

そしてよもけんに連絡したところ、サムライカレーはコニーバーという場所を借りてやっているというので、たかやんに『コニーバーというのはどこにあるのか』と尋ねると、なんとなんと、そのコニーバーがたかやんのバーだったと言う訳。もう訳が分からないが、全てが繋がっていた。そういう訳で私はこのコニーバーに行くことになったのだ。

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ちょうどプノンペンに居たよもけんから連絡があり、8時にコニーバーで待っているという。このよもけん、本業は人材育成だが、大のサッカー好きで、世界一蹴なる、サッカーをキーワードに世界を回った男。若いが色々と経験があり、面白い。

 

サムライカレーは基本的に昼間に店を開いており、夜はコニーバーとして使う。だが最近バーでもカレーを出すようになっており、食べてみることが出来た。何とカレーの上になすオクラ納豆がのっていた。これをカンボジア人が喜んで食べるのだろうか?聞けばここのお客は大半が日本人、カンボジア人にはこれから浸透させていく予定とか。意外や美味しく頂く。

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このサムライカレープロジェクト、海外で働きたい若者の研修の為に作られており、実際にここに来て、自らの意志で来た者がカレー屋をやらなければならない。カンボジア人に如何にカレーを食わせるか、どのように経営するか、いくらでも勉強できる、しなければならない環境に置かれる。

 

販売促進のために無料券を配ったり、各イベントに出向いたりと、知名度向上にも努めなければならい。それは大変なことだろうが、自分のこととしてやる分には、遣り甲斐もあるだろう。大学を出てそのまま海外で働きたい、などという学生、海外旅行中にこのプロジェクトに出会った若者など、応募者は絶えないようだ。

 

結局10時過ぎまでコニーバーでよもけんや若者たちと飲んでいたが、たかやんは戻ってこなかった。よもけんとカレー屋の店長(日本の大学を出てすぐの若者)は明日の朝早くシンガポールへ行くらしく、お開きになる。その夜、モーテルに戻り、鍵を開けてもらい、熱いシャワーを浴びて、ぐっすり寝る。

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デリー・リシュケシュサバイバル (8)デリー インドで一番美味かったのは中華丼

(5)日本食

昼には紹介された日本人Uさんと会う。彼は大学の後輩だが、会うのは初めて。学生時代にインドに留学し、その後もインドと関わっている強者。インドと日本の考え方の違い、日本企業のインドでの活動とその弱点、インド生活の楽しみなどについて、たっぷりと話を聞いた。

「インドでビジネスして成功するのは時間が掛かる」「日本的な考えは捨て、インドのビジネスはインド人に任せるべき」「インドで一から日本的ビジネスを追求するほど、日本企業には余裕はないはず」「インドを起点に中東やアフリカを目指す戦略を取るべし」など、成程と思う話満載。

食事は初め、こぎれいなイタリアンへ行ったが、日曜日ということでビュッフェしかなく、その値段は一人当たり日本円で5000円を超えていたので驚く。確かに豊富な食べ物、ワインなどの飲み物、そして爽やかな中庭など、見るべきものはあったが、一体誰が来るのだろうか。マネージャーと交渉したが、少し安くなっただけ。早々退散。

そして今度は日本食レストランへ。日本人が多く訪れる所ということで行って見たが、確かに普通の和食屋。前日の日本食とはかなり違い、豚生姜焼きやかつ丼があり、インドではない感じ。迷わずかつ丼を所望。ご飯が日本的ではなかったが、十分に食べられる水準。これで日本円1000円程度であれば、良いということか。

デリーには本格的な日本レストランが少なく、日本のシェフがいる店も多くない。いても、コストが高いことから、高級となり日本人駐在員は行けず、インド人金持ちの為にインド風に味を変えているらしい。中華は昨晩分かった通り、インド風になっていて、本格中華は街では見掛けないとのこと。

Uさん曰く「この店で一番美味いのは中華丼です」。成程、やはりとろみが無いとインド人には受けないのだろうか、いやインド人が作る場合、一番作り易いメニューなのだろうか。次男は中華丼を頼み、ウマいウマいといいながら、あっと言う間に平らげ、ホッとした表情をしていた。インド料理はそれほどまでに厳しかったのか。私は敢えてかつ丼を食べてみた。肉は若干固かったが、許せる味だった。この店は日本人御用達の老舗、ということで、店内は日本人駐在員とその家族で埋まっていた。ここに来たことは良かった。

(8)    別れ

Uさんに車で送ってもらい、ホテルへ戻る。今晩次男は帰国する。ホテルの部屋をツインからシングルに変更しようとしたが、料金は同じだと言われ、そのまま部屋に残る。次男も中華丼を食べて復活し、元気になる。これなら夜行便でも大丈夫か。夕方Sさんが車で迎えに来てくれた。S氏のご親戚で最後まで残っていた女性と次男は二人、エアインディアで帰国することになった。彼女と次男も相当に打ち解けていたし、何とか飛行機に乗ることはできるだろう。彼女も実は相当に参っており、体調は心配されたが。

車が行ってしまうと、何故か虚脱感がある。私の旅は通常一人、これが普通なのに何故か寂しい。インド最後の晩なのに、食事をとる気もしない。近所でバナナを買い、それで仕舞にした。一人でぐっすりと寝た。翌朝次男から無事東京に着いたとの連絡があった。しかし何故か東京は大雪。今回は最後までイベント続きだったようだ。

1月14日(月)   (9)    霧の空港へ ネットダメ

翌朝は私がバンコックへ戻る日。ホテルのフロントは親切でタクシーを手配してくれた。当初は550rpと言っていたが、当日になり450rpで手配できたという。後はちゃんと来てくれるかどうかだが、これもほぼ定刻に登場。車は霧の深い中を走る。飛行機、大丈夫だろうか、と心配していると僅か30分で空港に着いてしまった。3時間以上前に空港に、これからどうするんだろうか。霧は晴れずに遅延するフライトが出ていた。心配だ。

チェックインもスムーズで出国手続きも直ぐに終わった。この辺はどんどん進化している。仕方なく、土産物を眺めると、至る所で中国語の表示が出ている。あまり見かけなかった中国人観光客、やはりここにも来ているようだ。そしてどうやら大量にみやげを買っている。

空港内には無料WIFIがあったが、そのパスワードを受け取るには携帯電話が必要だった。インドでは基本的に外国人観光客は簡単にシムカードを取得できない。カードを買っても直ぐに使えない事例が今回も出ていた。そんな中で、この対応はアジアの空港の中でもかなり遅れたサービスと言わざるを得ない。仕方なく今回の旅を思い出しながら旅行記を書き始めた。幸いにもフライトは左程遅れずにデリーを離れた。緊張感のあるインドの旅は今回も無事に終わった。

後日次男にインド旅行の感想を聞くと「寒かった」の一言、余程堪えたのだろう。良い経験だったと周囲は言うが、さて、どうなんだろうか。

デリー・リシュケシュサバイバル (7)デリー インドの病院を見学する

(2)ホテルはどこ

ようやく買い物が終了し、ホテルに戻る人、空港に向かう人などに分かれた。我々は今日から皆さんと離れて新たに予約したホテルに向かった、のだが。ネットできちんと予約を入れていたが、何とその地図が間違っており、運転手が幾度も道を聞き、迷い、そして思いもよらない場所に連れて行かれた。地下鉄の近くにしたつもりだったのだが、何と歩いて3㎞の道のり。幹線道路は走っているが、周囲は住宅街でレストランや店すら見当たらない。しかも隣は改修工事中で砂埃が舞い上がる。

しかしフロントの女性は実に気さくで雰囲気は良かった。ファシリティが充実している訳ではなかったが、居心地は悪くない。ネットも何とか繋がった。部屋に荷物を運びこむと、次男がベッドに倒れ込んだ。これまでの緊張と疲労が一気に出たらしい。完全に寝込んでしまった。

夜はリシュケシュで一端別れたラトゥールさんと合流して食事をする。彼は家族を先に返して、日本から来た人々の空港への送りなどを担当していた。いつも律儀な人だ。同窓生Sさんと3人、リキシャでデリーのアメリカ村とも呼ばれるサケットへ向かう。次男は完全にダウンしており、ホテルにおいて行く。

サケットはデリーで最もモダン、アメリカナイズされたショッピングモールでその規模もアメリカ並み。驚くほど大きい。ショップはアジアのショッピングモールに入っているような所ばかり。インド的な部分は殆どない。これが現代インド、ということだろう。食事はフードコートで、タンドリーチキンを食べる。何だかんだ言ってもこれが落ち着く。

1月12日(土)  (3)デリーの病院

今朝も次男は体調不調だった。余程疲れたのだろう。考えてみれば初インドにしてはやはりハードだったのか。特に発熱や下痢はなさそうなので寝かせる。朝食は部屋で食べる仕組み。ところが電話が繋がらない。このホテルにはレストランが無いこと、インドでは基本的に電話で何でも頼むことから、朝は大忙しだ。午前中はゆっくりとネットなどをして過ごす。

昼前に私だけ出掛ける。今日は紹介された外科医を訪ねることになっていた。インドの病院、どんなところなのだろうか、興味が涌く。指定された待ち合わせ場所はYWCAの前。これは私が分かる場所に配慮した措置だが、何とそこに運転手が迎えに行くのでその車に乗るようにとのこと。何となくアクション映画のようだ。

3㎞の道を歩いて地下鉄に乗り、YWCAへ。しかしいくら探しても指定された車は見付からない。10分ほど、周囲を見ていると突然声が掛かる。そして車に誘導されたが、指定とは違う車。どうする、乗るか降りるか。ここは勘に頼るしかなかった。勿論私の名前を知っているのだから、乗るしかないのだが。運転手も気のいい男で問題なさそうだ。彼も一応確認の為お医者さんに電話を入れ、双方了解した。

車はどこをどう走ったのか分からない。途中でデモ隊と遭遇した。昨年末に起こった女性のレイプ事件に端を発した抗議デモ。インドの闇が透けてくる事件だ。抗議者は警察や政府の対応を非難している。宗教的、地域的な要因も孕んでいるのかもしれない。

病院に着いて驚いた。非常に大きい、そして立派。国立病院らしい。GB Pantという名前か。早々に紹介されたアニルさんの部屋へ行く。何とこの病院の外科部長だった。偉い。そして患者や助手などが沢山来ており、とても忙しそう。先に運転手が病院内を案内してくれた。

病院は相当に広く、設備自体の質はは分からないが、何でも揃っており、規模的には日本の大病院だ。中国なら人で溢れて居そうだが、そんなことは無く、入院患者の部屋もゆとりが感じられた。ある一定以上の層しか来ないのかもしれない。アニル先生に聞くと「この病院は誰でも来られる」とのことだったが。今日も天気がよく気温も上がっていた。入院患者に付き添っている人が陽だまりで寝入っていた。

アニル先生はインドで医学をおさめ、その後イギリス、アメリカにも滞在経験があり、今でも海外の学会にも良く出向くという。日本にも何回も行っており、日本びいきだ。部屋には日本の医師から来た手紙や記念の盾など飾られている。インドの医療に関しては「問題ない水準だし、一般市民への医療もかなりカバーされている」という。確かに他のアジアのイメージからすると、インドの医療は都市部では進んでいるのかもしれない。

デリーの中華レストラン

時間は既に午後3時近くなり、慌てて食事に向かう。本当に忙しい中、良く付き合ってくれた。会員制クラブへ行ったが、既にランチは終了しており、近くのレストラン街へ。そこで何と日本食屋へ入る。だが、日本食というか、「タイ、中華、日本食」とあり何でもある。ご飯と中華スープ、点心と野菜炒めを食べたが、これは日本料理ではなく、さりとて中華料理でもない。面白いと思ったが、何とも不思議。店員は全てインド人で中華系も一人もいなかった。食後には別の店でアイスクリームまで買ってくれた。インド的にはデザートは必須なのだろう。そして自ら車を運転してホテルまで送ってくれた。何とも親切な人だった。

夜は少し回復した次男とSさんとで、食事をした。インド料理は食べられないという次男に配慮して中華料理を探す。ホテルで聞いた場所に行ってみたが、なかなか良さそうな店は見付からない。表から中が見えないようにしているレストランがあった。中国なら絶対に入らないような雰囲気があったが、インドが長いSさんは「ここが良い」と言って入る。確かにこぎれいな場所で若い男女が食事をしていた。成程、これは中国とインドの違いか。

しかし出てきた料理はやはり中華ではなかった。野菜炒めがドロドロしていた。「インド人はご飯に掛けておかずを食べるのでとろみが無いと食べにくい」のだという。うーん、その通りだとは思うが、他国の料理を簡単に受け入れないあたりもインドらしい。次男はスープを飲み、何とか料理を口に運んだ。

1月13日(日)  (4)散歩

今朝息子は自分からパラタをたのんで食べた。体調の回復とインドへの微かな思いを感じる。でもコーヒーはミルクなしと注文したが、やはりミルクが入っていた。私はトーストと卵。悪くはない朝食だ。

今日もいい天気だ。初めてデリーに来た時の寒さが嘘のように快適。次男も誘って散歩に出た。ホテルの周囲は巨大な住宅街。相当前に開発された場所のようだ。広い敷地、立派な家々、環境は良い。きっと今ではこの土地、かなりの値段になっていることだろう。地下鉄からは遠いが、幹線道路も近く、車社会となったデリーとしては便利な場所でもあるらしい。

立派な車が沢山駐車され、可愛いペットの犬が大切に飼われている。住人は皆満足そうに陽を浴びている。喧騒のインド、というイメージとは程遠い光景がそこにあった。実に気持ちの良い散歩だった。次男は「インドには貧しい人もいるが、豊かな人もいる」ことを実感したのではないだろうか。この貧富の差、それ無しではアジアは語れない。その中で自分の立ち位置を考え、生きていく必要があるだろう。