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インド アユルベーダの旅(9)ロナワラ 苦痛、疲労からの脱却

苦痛、疲労からの脱却

夕方までボーっと過ごす。今回Hさんが一緒で本当に良かった。彼女がいなかったら孤独にも苛まれていただろう。話し相手がいる、それも経験者と一緒というのは何とも心強い。それにしても頭が痒い。これも偶々今日のトリートメントの順番のせいだと分かると気が楽だ。Hさんは早々にシャワーを浴びている。

 

この研究所、以前はWIFIが宿泊する建物でも接続できたが、今は図書館でしか繋がらない。講義に集中せずにネットばかりしている学生が増加したせいだとか。インドも猛烈な勢いでネット社会に突入している。この不便さのため、PCを持って図書館へ行く回数は自ずと制限される。また図書館の停電、またはWIFIの不調もあり、いつでも接続できるとは限らない。このような環境にあれば、自然とPCから目が離れる。

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実は今回の一番の休息は目だったかもしれない。勿論パンチャカルマ受講者はPCなど無理にやってはいけないと聞いていた。それでもとても暇なのでついつい旅行記などは書いてしまうのだが、自分が書くだけなのと、ネットで物を見るのとでは疲れ方に雲泥の差があることも分かる。『自分を見つめなおす』こと、これは実に重要だ。

 

夕方後5時からはアーサナクラス。今日も昨日と変わらないメニューで腰に張りが出る。先生の英語も聞き取りにくいが、何とかこなしていると『消化力』という言葉が何度も響いてくる。ねじりのポーズが比較的多く、その中で自らの腸の様子が観察できるようになってきた。人間に重要なのは食べたものを消化すること、食べ物の量と消化力のバランスだと分かる。それが体感できるのが良い。ひねりから苦痛が消える。

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続いてプラナヤーマの講義があったが、こちらは殆どが先生の話で、実践は少なくちょっと不満。我々英語が聞き取りにくい人々にとって実際にやってみないことは、苦痛以外の何もでもない。呼吸法は重要だとは分かっていたが、この講義はスキップしたい。

 

夕飯は昨晩と変わらない。ランチがギー入りで食べにくかったので、夜のチャパティが美味しく感じられる。肉や魚のない完全ベジタリアン、ある人曰くの、病院の入院食。体には優しいと思えるようになる。

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食事を終えるとすぐにシャワーに入る。午後7時以降しかダメ、と言われ、今日一日頭のベタベタが苦痛だったが、シャワーを浴びるだけでどれほどスッキリするかが分かる。せっけんやシャンプーも自前の物は使えず、与えられた泡の立たない石鹸で済ませる。とにかく目の前が急に明るくなった感じがした。これも一つの苦行だったのだろうか。

 

夜8時から講義が行われるが、恐らくは聞き取れないだろうこと、そして何よりも睡魔に襲われて講義サボり、すぐに寝る。ギーの匂いが取れない中、ぐっすりと眠る。披露、苦痛から少しずつ脱却していく自分がいた。

 

1月21日(火)

朝の雨

気持ちよく5時半に起床。6時にティを飲みに下りていく。日本人2人がいつものようにやってくる。隣のテーブルには中国人グループが座る。子供も連れている人もいた。旧正月が近いからだろうか。何となく、中国の話題になる。

 

気が付くと外は雨が降っていた。ロナウラは降水量が多い場所とは聞いていたが、この時期に雨が降るのは珍しいらしい。何となく昨晩も涼しかったが、これで一層涼しくなった。自分の体を観察する機会が増えているが、何となく昨日と変化がある。Hさんによれば、『気圧の変化かもしれない』という。日頃気圧の変化を意識して生活することなどないので新鮮。

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アーサナクラスに行くと誰も来ていない。時間を少し過ぎてボチボチ生徒が集まり、それからゆっくりと先生が登場した。中国人なら『雨が降ったので』などと言い訳しながら入って来そうだが、インド人に言い訳など不要のようだ。黙々とスタートした。

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昨日は足の先が非常に冷たかったので、靴下を履かなければと思っていたが、なぜか今朝は暖かい。昨日のオイルの効果が出たのだろうか。だが、途中足を上げる動作をしたところ、また急に冷たくなった。これはどんな変化なのだろうか。足を上げる動作が出来ない。60度ぐらいまでしか行かない。これも50歳を過ぎて筋力の急速な衰えではないかと思われる。普段ヨーガを日常的にやっているHさんでも自覚があるというから、何か運動しないといけない。

 

また膝を胸の所に持ってきて体を丸める動作も出来なくなっていた。頭を維持することが出来ない。これもちょっとショックだ。意識して腹筋を使うようにしないといけない。こんなことを意識させてくれるのがヨーガの良いところかもしれない。それにしても日頃の旅では一体どこの筋肉を使っているんだろう。

 

インド アユルベーダの旅(8)ロナワラ 初めは苦行

1月20日(月)

朝のティ

いよいよ今日からパンチャカルマが始まる。如何にもインドらしいのは朝6時からティタイムがあること。5時半に起きて6時を待ちかねてキッチンへ行く。ちょうど日本からヨーガの6週間コースに来ている2人の日本女性と一緒になり、お茶を飲む。ここには所謂チャイはなく、ハーブティかジンジャーティである。それにジャグリという蜂蜜のようなものを垂らすと美味しい。

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2人は6週間コースなのに、なぜか学院の外に宿泊している。インドにはあまりマネージメントの概念がなく、中国人中心の2週間コースをセットしてしまい、入りきれなくなったようだ。とにかく朝5時50分のバスでホテルからやってきて、夜8時半頃まで帰れないらしい。それは肉体的にも、精神的にかなりの負担、2人は修行だと諦めている。これもまたインドだ。

 

7時からベーシックヨーガコースが始まる。アーサナだ。4年前に一度参加したことがあったが、だいぶん様子が変わっており、きれいなアーサナホールでストレッチ中心に行われた。以前は各人勝手に練習しているような感じだったが、今回はちゃんと先生に合わせて皆が取り組む。久しぶりに筋肉を使い、ちょっと疲れたが、朝からこれをやるとスッキリする。日本でヨーガをやる理由の1つはこのスッキリ感だろう。

 

オイルマッサージ

アーサナが終了するとそのままマンチャカルマが行われるオフィスへ。インド時間でゆっくりかと思いきや、8時半きっかりにマッサージ師がやってきて、小屋のような所に入る。中にはちょっと高いベッドがあり、その上に横たわる。何だか始まるなという緊張感あり。

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全身にハーブをオイルに浸したものを、塗り付けていく。かなりドロドロしている。体の部分1つ1つを叩き、そして塗り込む。ただマッサージという感覚はなく、塗っているだけ。筋肉を押したりはしない。そのまま30分、9時過ぎにはあっけなく終了した。

 

既に朝食の時間は過ぎていたが、我々の為に食事は残されていたので、美味しく頂く。朝5時半から起きて、アーサナをやり、オイルマッサージを受け、ようやく朝ごはん。一日がとてもとても長い。それからはすることもなく、廊下の椅子に座ってボーっと庭を眺める。自分は何をやっているのだろうという思いが頭をよぎるが、このボーっとする時間が必要なのだろうと考えられるようになる。

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ランチにギー登場

ランチの時間がやってきた。中国人グループは11時半には食べ始めていた。やはり中国人に食事をさせないのはダメ、とインド人も分かっているようだ。我々パンチャカルマ組は別メニュー。初日はカウンセラーが食べ方を説明した。各自の名前が付いたプレートが置かれており、薬やギーを食事に混ぜて食べるように指示が出る。私はこのギーが大の苦手。正直ギーを混ぜただけで食事が苦行となった。

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そして1時半より午後のトリートメント。アユルベーダでよく見られる、頭にオイルを垂らし込まれた。ベッドに横になっていると突然頭に降ってきた。結構ビックリしたがすぐに終わったので喜んでいたところ、頭はベタベタ。そして何と午前中のトリートメントの効果の関係で午後7時までは頭を洗ってはいけない、と言われ愕然。頭中にギーの匂いが染みついてきた。担当者は『ギーの匂いは簡単には取れない。1週間同じパンツとTシャツでいろ』とこともなげに言う。後で分かったことだが、本当に何回洗っても落ちなかった。

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何もすることがなく、頭も洗えない。どうしてよいか分からず、無暗に園内を歩き回る。ここは木々に囲まれ、散歩には適しているのだが、気になっていることがあると見える景色も変わる。眠気もあり、意識もうろう状態。何とか3時のティタイムまでこぎつけ、ジンジャーティで眠気を飛ばした。だがパンチャカルマ受診者は、フルーツを食べてはいけないことを知りまた愕然。美味しそうなパパイヤを食べている人を見て、恨めしくなる。

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突然ベトナム中部散歩2011(3)ホイアン ミーソン遺跡インドと中国の文明の融合

(2)空腹に彷徨う

兎に角腹が減る。でもホテルで食べると高そうなので、街に出る。ホテルの向かいから右へ。直ぐに広めの道に出る。そこにバンミーの店が出ていた。思わず飛びつく。15000ドン。ベトナムではどこへ行ってもパンが美味い。助かる。

フォーを食べたいと隣を見てみると、老夫婦が今二人で懸命の鍋を運んできていた。中には何が入っているのか?フォーか、と聞くと首を振る。何だろう、まだ店は開店していない。パンを食べたらフォーも食べたくなる。

川沿いの道に出ると、そこは一変して観光地。レストランも欧米人向けにこぎれいになっており、値段も当然高い。フォーが1杯、40000ドン、日本円ではそれほどでもないが、現地感覚では高い。そこでフォーの屋台を探して歩き回る。

しかしどこを見てもフォーの屋台はない。それどころか、ローカルな店は既に店仕舞いしており、脇にフォーのどんぶりが並んでいるだけ。一体どうなっているのか?ここではフォーは朝食べる物なのか?とうとうフォーにはあり付けず、時間は4時半となった。

ホテルでは宿泊客の為にローカルフードを振舞うと言うのを思い出し、急いでホテルに戻る。庭には小さなテーブルとイスが出ていて、レストラン従業員が俄か売り子になって、ご飯、麺、デザートなどを配っている。まだ空腹だったので、一通り食べて満腹に。

そして昨晩からの長旅の疲れがどっと出て、シャワーを浴びる。しかし何故か水しか出ない。それでも気持ちよく、遂に7時前には眠りに落ちてしまった。

10月31日(月)
(1)ホイアンの朝

朝6時前に小鳥のさえずりとともに起きる。11時間も寝てしまった。快適な朝。早速朝の散歩に出てみる。ホイアンの街は実に落ち着いていて、歩いていても和んでしまう。河沿いに船が浮かぶ。ボーっと眺める。

ところが驚いたことに6時過ぎには街は既に稼働していた。多くの人が路上に出て、小学生も大人も皆、朝ごはんを食べている。昨日はなかった場所にフォーの店もちゃんとあった。後で分かったことだが、中部では人々は朝が飛び切り早い。学校は7時、幼稚園でも7時半には行くらしい。仕事も夕方はきっちり引き上げるそうだ。それにしても朝からみんなが動いている姿はちょっといい感じ。

ホテルの朝食は豪華だと聞いていたので、フォーもあるだろうと思い、ホテルで朝食を。ところが、フォーは何故かなかった。今回はフォーには縁が無いらしい。ベトナムに来てフォーに縁がない??まあその分、確かのこのホテルの朝食は部屋代の割には豪華だ。沢木耕太郎はフォーを食べてからアメリカンブレックファーストを食べたとあるが、フォーの代わりにビーフンを食べてそれに倣う。あー満腹。

(2)ミーソン遺跡

昨日ホテルで予約したツアーに乗ってミーソンへ。今回のハイライトの1つなので気合を入れていく。英語ツアーで一人僅か9ドル。ミーソンの入場料3ドルを含めても12ドルで行って帰れる。更に帰りはボートで。簡単な昼食も付く。こんな料金は日本では考えられない。いや、ベトナムに来る日本人は日本語ツアーで、バカ高い料金を払っているはず。パックツアーなので明細が分からないだけ。そろそろ日本人も目覚めた方が良いと思う。

バスは中型で20人目一杯乗っていた。その構成が面白い。ヨーロッパ人が13人、中国人4人、シンガポール人夫婦2人、そして日本人は私だけ。車内では中国人のリーダー格の男が一人大声で話しており、西洋人はちょっと気分を害している。確かにこれからミーソンの世界遺産を見に行く雰囲気にはそぐわない。

バスは郊外の水田地帯を抜け、小1時間で到着した。深い樹林の中を歩く。そこにミーソン遺跡の象徴と思われる建物が出現した。大きさはやや小ぶりであるが、背後の山にマッチしている。ミーソンとは『美しい山』という意味だそうだ。

外壁にはヒンズー教のヴィシュヌが描かれ、その横にはハスの華の台座がある。確かに仏教徒とヒンズー教、インドと中国の文明の融合が見られる。周囲を山で囲まれ、実に自然で、落ち着いた雰囲気が醸し出される。

ところが中国人4人組は英語が分からないのか、ガイドの説明も聞かずに勝手に話し始め、それが塔内で響き渡り、西洋人から窘められる。周りを見ると北京から来た別の中国人団体観光客もいる。ガイドの女性に聞くと最近中部も中国人観光を奨励しており、どんどん増えている、我々の仕事も増えた、と言うが、その顔は喜んでいるようにも見えない。

ミーソンの遺跡群はアンコールワットから見えれば、とても小さな遺跡に見える。大きく3つの区画に分かれているが、最初に見た場所以外は、建物が破壊されている。米軍による空爆で廃墟と化したと言う。

『廃墟』というには周囲が穏やか過ぎるが、それでも一定の哀愁が漂う。崩れた遺跡に草がぼうぼう生えている、無常。そこへ北京の人々がやって来て『何もない、行こう』と去る。彼らには目の前に見える物しか、興味がないようだ。それは日本人でも同じだが。出来れば目に見えない物を味わう余裕が欲しい。

ゆっくりと2つの廃墟を回る。シンガポール人の夫婦も同じように回っている。ご主人は日系企業に勤めており、実は日本語が出来た。アジアを回っているとこういう人によく出くわす。彼らは廃墟を感じているようだ。

(3)ボートトリップ

ミーソン見学を終わると我々はボートトリップに出掛けた。これはオプション。参加者は中国人4人、シンガポール人夫妻、そして西洋人は4人だけで、形勢は逆転した。ボートは小型だが人数が少なくゆったりと座れた。食事は実に質素なご飯にキャベツなどの野菜炒めを乗せたもの。私などはそれでいいが、西洋人にはちょっと辛そうな食事。

私の前には一人で参加しているフランス美人が座っているが、何かと神経質そうに、いや何かにおびえたような仕草をしている。缶ジュースが開けられず、手伝ってあげるとにっこり笑ったのが印象的。そういえばこのジュース、無料かと思ったら、しっかり20000ドン請求された。そして後から付け足したように無料の水が配られる。これが彼らのかわいい作戦だ。

なかなか出発しないので、おかしいと思っていると、そこへイタリア人の老人6人が乗り込んできた。彼らは非常に陽気で、おしゃべりも盛ん。さっきまで中国人はうるさいな、という雰囲気があったが、イタリア人がうるさい分にはあまり気にならないから不思議。ご飯をパクパク食べながらも、笑い合っている。年頃なのだろうか。

ようやく船が出た。すると待ち構えていたかのように、雨が降り出した。最初は小ぶりで2-3分で止むものと思っていたが、途中から激しい雨となる。べトナムを長く旅している西洋人達は一斉に雨合羽を取り出す。中国と私は慣れていなかったので、傘を取り出したが、屋根があるとはいえ、横風に吹かれた雨は傘では凌げない。諦めて濡れていると、シンガポールが夫婦の合羽の一つを貸してくれた。有難い。

中国人のリーダー格は雨を物ともせずに、いややせ我慢で、立ち上がり、濡れながら写真を撮り出す。するとイタリア人の爺さんも立ち上がり、写真を撮る。とても奇妙な連帯が彼らの間に生まれた。皆笑いながら、見ている。実に不思議な光景であった。一気に場が和んだ。

雨も止み、ホイアン近くまで戻る。本当は村に立ち寄り、その生活を見る予定であったが、雨のために中止して、ホイアンに戻ると、ガイドが告げる。私などは当然かなと思って聞いていたが、イタリア人老人軍団は黙っていなかった。口々に村へ行きたいと叫ぶ。恐らく中国人が文句を言っても押し切ったであろうガイドもこの攻撃には屈し、我々は村へ向かった。老人たちは勝利の雄たけびを上げた。

イタリア人は中国人よりうるさい、と今回は言える。しかし不快ではない。しかもうるさいだけではなく、しっかりとした主張もしていた。これは面白い。





突然ベトナム中部散歩2011(2)ホイアン 一人でリゾートホテルへ 

2.ホーチミン空港 (1)ホーチミン空港で

朝の国際線到着ターミナルは人影もまばら。入国には何とイミグレーションカードも不要。しかし1週間滞在すると言うと『帰りのチケットを見せろ』と言われて、驚く。これまでどこでも一度も要求されたことが無かったので。最近インドへ行く機会が増え、E-チケットでも必ずコンファメーションは印刷して持っている。そうしないとインドでは空港へ入ることが出来ないからだ。今回これで助かった。

国際線から国内線ターミナルへは歩いて5分ほど。南国にまぶしい陽射しが心地よい。国内線はあっけらかんとした所で、皆が楽しそうに朝ごはんを食べている。そう、楽しそうに食べることは実に重要だ。長袖を半袖に着替え、チェックインも簡単に済ませ、軽い気分で進む。

安全検査ではどうやらベトナム人と間違えられ、パスポートを出すまでベトナム語で話し掛けられる。先日はインドでネパール人と思われ、今度はベトナム人。いよいよ日本人色が消えて来たか。でも言葉が通じなくても、何だかお互い笑ってしまう。いいことだ。

国内線待合室にはネット環境が無かった。というか、PCが所々に設置されているものの、日本のメールチェックは重すぎるのか開かない。諦めて電源を探し、充電しながらPCで旅行記を書き始める。

1時間ほどして、私の乗るダナン行きがディレーすると言うアナウンスが。それならその辺でフォーでも食べようかと立ち上がり、一応カウンターで遅れを確認すると何と15分遅れるだけだと言う。ベトナム人は時間に正確だと聞いたことがあるが、15分の遅れを伝えるのは日本とベトナムぐらいでは。そして実際には出発は5分遅れただけだった。私のフォーはお預けとなった。

(2)ダナンへ

ベトナム航空の国内線は先程のTGと違い、満席。子供なども乗っており、泣き声が響く。ベトナム航空に乗るのは実に久しぶり。機内はきれいで特に問題も感じられない。ここにもベトナムの進歩がある。しかし・・?

離陸後すぐにおしぼりが出る。1時間のフライトだが、やはり未だにランチが出るのだろう。そう思って皆がテーブルを出すと、CAがペットボトルの水を配り始める。そしてそれからずーっと待っていたが、遂に・・食事は出なかった。それどころか、スナックの一つも出なかった。

着陸態勢に入り、テーブルを元の位置に戻しながら、隣に座っていたフランス人のおばさんが『アン ビリーバブル!!』と叫ぶ。私にも気持ちはよく分かる。少なくともおしぼりが出て、水しかもらえないと考える外国人は少ない。ちょうど昼時であっただけに、その落胆は大きい。私は既に朝3時と8時に機内で2回の朝食を食べていたが、それでもかなりの空腹を覚えたのは何故だろうか。食に対する空腹ではなく、サービスに対する空腹であろう。

3.ダナン1 (1)マーブルマウンテン

ダナン空港はこじんまりした空港であった。今回ホテルの迎えを用意しており、直ぐに乗り込む。現代の新車だ。運転手の若者は得意げに『新車だ』と言いながら、私の荷物より車に傷が付かないか心配していた。

走り出すと低い建物が続き、開放感がある。と思っていると両脇で結婚式が行われている。この付近、大型結婚式場まであり、まるで結婚ストリートだ。今日は日曜日でもあり、多くの披露宴が行われている。ベトナムもカンボジア同様結婚式には金を掛けるらしい。

15分ぐらい行くと突然運転手が『マーブルマウンテン』と叫ぶ。何だかちょっといい形の山が見える。『ちょっと寄って行かないか』と誘う。この車はホテル直行のはずだが、折角だし時間もあるので寄る。山の反対側には、エレベーターがあり、上には仏像が見える。ここはお寺なのだろうか?

麓にはそこかしこに山から切り出された石?で彫った像を売る店が並ぶ。こんなに店があって売れるのだろうか?運転手はある店の前で車を停め、後は自分で見に行けと言う。しかし今から上に登ってゆっくり見学する気分でもなく、早々に引き上げる。何しろ観光客は私しかいないので、物売りのおばさんがうるさい。車に戻ると店の人が見て行けと言う。運転手がここに駐車した理由が分かる。ちょっと白けてすぐ車に乗る。

4.ホイアン (1)ホテル

ホイアンの街中に入る。ショウジキ小さな街との印象。小さなホテルが並ぶ狭い道を通り、川を越えると本日お泊りのホテルが見えた。でもなんか想像と違う。

ビンフンリゾートは、当たり前だがリゾートホテルであった。私のイメージは中華風の建物であったので、ちょっと驚く。単なる勘違いだったのだが。ホテルの雰囲気はまさにリゾート。これはいい、ちょっとした休日気分。部屋も凝ったつくり。バンガロータイプもある。プールも大きくて2つもある。河沿いにあるため、ちょっとしたビーチ気分にも浸れる。お客は欧米人が圧倒的に多いようだ。

ビンフンを選んだのには理由がある。沢木耕太郎が「国道1号線を北上せよ」と言う本の中で宿泊しているからだ。旅行社からホテルのリストを貰った時、真っ先に閃いてお願いしたのだ。ところが、何とそのホテルは満員だった。ただビンフンリゾートいうホテルが別にあったので、そこでも同じだろうと思い、予約を入れたのだが。

沢木が旅した時にはこのリゾートホテルはあっただろうか。今ではビンフングループはホイアン市内に4つのホテルを構えている。ベトナムの時の流れを感じさせる。





突然ベトナム中部散歩2011(1)タイの洪水騒ぎで急きょベトナムへ

《ベトナム 中部散歩2011》 2011年10月30日-11月6日

1.出発まで 洪水騒ぎで

6月に穂高のヨーガ合宿に参加した。とても気持ちが盛り上がり、次はタイの合宿だ、と意気込む。10月末と11月末の2つのコースがあったが、日程の都合で10月末を選択。ところがこちらは定員に満たずにあえなく中止に。ガッカリしている所へ「10月末に別の場所で少人数コース開催」という喜ばしいお知らせが届く。

このコースは順調に進み、費用の払い込みも済ませて、飛行機の予約も終了。実はダージリンの帰り、コルカタからバンコックへ渡り、そこから往復を買っていた。僅か10日で戻るのだから、それが合理的だと思った。それが・・。

10日前でも既にタイの洪水騒ぎは起こっていた。アユタヤは沈没し、アユタヤ湖と化していると言う。それでも首都バンコックだけは大丈夫だろうと高を括る。しかし情勢は日に日に厳しさを増し、とうとう出発3日前、合宿の延期が通告される。バンコックは今やドムアン空港が水没し、スクンビットにすら、水が迫っていると言う。駐在員の家族の帰国が言われ始める。こうなるとどうしようもない。

航空会社は1回に限りバンコック行きの日程変更を無料で行っていた。私もそれを使おうと思っていた。しかし私はその1週間後に、バンコック発でバングラディシュに行くと言う日程が既に組まれ、航空券は発券されていた。これは行かなければならない。すると選択肢は2つ。11月6日のバングラ行きに合わせてバンコックに来る、か、10月30日にバンコック空港経由で他の場所へ行くか。

突然ベトナムへ

直ぐに浮かんだのはチェンライからメーサローン、またはチェンマイであったが、こちらは既にタイ人の疎開が始まっており、航空券が取れるかどうか分からない。そして夜眠りに着くと同時に「そうだ、ベトナムへ行こう」と突然ひらめく。それはヨーガの師匠がその週、フィールドワークでホイアンとダナンを訪問し、「ここが中国とインド文明の衝突点」とのコメントを出していたから。

ネットでベトナム航空を見るとバンコックーホーチミン便は空いている。これはいけると思い、最近お世話になっているオフィスの関係者でホーチミン在住のNさんに夜中にも拘らずメールする。「歓迎」との回答を得て、一気にベトナムモードが高まる。ところが・・。

翌朝旅行日程を検討していると、昨晩有ったベトナム航空のホーチミン行が全て売り切れている。やはり避難が本格化し、航空券に殺到しているに違いない。しかし既に昨晩バンコック行きのフライトは深夜便に変更してしまった。1度の変更の権利は使われている。さてどうする?ホーチミンのNさんにメールして、関係の旅行社を紹介してもらい、そこから1時間で航空券とホテルを押さえる。何という早業。最近旅行会社の存在意義に少し疑問を持っていただけに、この対応は嬉しかった。勿論ベトナム航空は取れないのでタイ航空となり、価格はかなり上がってしまったが。

そして問題は30日の朝、バンコックの空港が機能しているかに移る。しかしこればかりは心配しても仕方がない。ただここで遅れるとベトナム旅行は全ておじゃんになる。この賭けは正しいのだろうか。事態はどんどん悪化し、日本のマスコミは今にもバンコック全部が沈没するような勢いでその危機を連ねる。本当にこういう時に危機の演出は見事なものだ。一方ツイッター、Facebookで知り合いは「今日も正常、平静。水も来ていない」などの情報を流してくれる。あとは運を天に任せるのみ。


10月30日(日) 1.ホーチミンまで (1) 羽田空港から

29日夜、羽田空港へ向かう。元々のフライトは当日朝の成田発であったが、変更無料の恩恵を得る。ついでに今日は台湾から来た編集長との打ち合わせも出来、返って変更してよかったほどだ。

空港でチェックインしようとして、はたと「私の荷物はどこまで行くの」という疑問につい当たる。前回エアアジアでバンコックに行き、一度入国して、荷物を取り、再度チェックインして、更に出国すると言うとんでもないトランジットを経験したばかり。今回はLCCではないので、荷物はスルーされるはずだが、羽田→バンコック→ホーチミン→ダナン、一日で3回続けてフライトする経験は私にはなかった。

カウンターの若者にもやはりそのよう経験がなく、試行錯誤した。最後はベテランが出て来て、国際線は繋がるが、ホーチミンで入国し、荷物を拾って再度チェックインすることが分かる。このような基礎的なことが分かっていないと慌てる。これは確認してよかった。

羽田空港は深夜にも拘らずいつもの賑わいを見せていたが、0:30出発のバンコック行きの搭乗ゲートはやはり寂しかった。そして日系のエアラインなのにタイ人の姿が目立つ。中には子連れもいる。CAによれば、この便には当初130名の予約があったが、当日30名がキャンセル、搭乗したのは100名で、タイ人比率はかなり高いと言う。「観光で偶々日本に居て帰国する」か「日本在住者が故郷を心配して帰国する」のだそうだ。日本人の観光客らしき家族もいる。出張者もいる。しかし彼らはいずれもバンコックを経由してどこかタイ国内に行くらしい。私のように態々バンコック経由で海外へ行く人間は稀。

そしてもう一つ、バンコックでの乗り継ぎ時間が1時間45分しかないことが気になる。もし何か事故があればベトナムへは行けない。空港の混乱も十分に予想される。ちょっと緊張して、眠りが非常に浅くなる。

(2)スワナプーン空港

その心配は杞憂に終わった。飛行機は順調に飛行を続けて、何と6:00到着予定が4:55に着いてしまったのだ。その理由は「今日から冬時間で表示していたから」という不思議な物。確かに切り替えは必要だが、僅か1日で40分も到着時刻が変わるはずもない。このような対応は乗客の混乱を招く。特にトランジット客には迷惑な話。他社もこのような対応なのだろうか?

飛行機を降りると先ずは外を見る。まだ真っ暗で何も見えないが、特に水があるようにも思えない。ゲートで空港職員に尋ねると『ここには洪水なんか来ないよ』と一笑に付す。確かにこの空港が水没しては、タイもある意味お終いかもしれない。

空港に降りた乗客たちは一斉に空港職員に確認を始める。基本的に少しのタイ人を除き、ここで入国する人はいない。皆タイ国内か国外への乗り継ぎである。その方法と場所を聞いている。私も指示に従い進む。ANA職員は日本大使館のお知らせ、と書かれた紙を手渡す。しかしそれは日本語のみで書かれており、タイ人には読めず、渡してもいない。このような差別的なサービスが国際的な航空会社かどうかを決める。

トランジットにも安全検査がある。時間は朝5時過ぎ、大変な混雑であった。そもそもこの空港はアジアのハブであり、24時間稼働しているのだろうが、この時間のこの混雑はやはり洪水の影響か。そしてその検査は思ったよりも厳しく、ベルト、靴まで全て取っている。

検査を抜けて、トランスファーカウンターへ。羽田で既にホーチミンまでの航空券は確保していたが、念の為、荷物をスルーする確認を取る。混雑時には何が起こるか分からない。しかしそこの対応も極めてノーマル。異常はなかった。

今回はTGのラウンジを使わせてもらった。そこは満員の盛況。欧米人が特に多い。これはヨーロッパからの乗り継ぎなのか、タイからの脱出なのか、見当がつかない。中にタイ人のえらいさんらしき人が護衛を伴ってきていたのが、目を惹く。それでも7時前に次々搭乗口へ向かう。遅れる飛行機は一便もない。

ホーチミン行のTGに搭乗すると何と拍子抜けするほど、ガラガラ。誰が脱出のためこの飛行機に乗るか??悠々とした空の旅。離陸時に外を見ると。10日前に見たのと似たような空港周辺の水田が見えたが、特に水があふれている様子はない。あっと言う間に1時間でホーチミンへ到着。






何となくプノンペン2014(7)プロジェクト反省会で次回に期待

反省会で

それからドリームガールズプロジェクトメンバーの食事会に参加した。日本食レストランからTさん、Kさんに連れてきてもらった。こちらも高級カンボジアレストラン。如何にも外国人が来るようで、雰囲気が良い。ただ既に結構日本食を食べてしまい、それほど食が進まず残念だった。

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この食事会には、他に先ほどプレゼンテーターを務めた胡椒を商うKさん、バッタンバンで地雷除去を行っているTさんも参加。Kさん、Tさん共に在カンボジア10数年、過去から現在までのカンボジアの話題で大いに盛り上がる。

 

Tさんは地雷除去後の土地にキャッサバを植えており、それを使ったキャッサバ焼酎を作っている。数年前にシェムリアップに行った時、ある人に頼まれてこの焼酎を土産に買ったことを思い出した。その時はえらい人がいるものだな、と思ったが、その人が目の前に現れた。これも旅の醍醐味であろう。久しぶりにキャッサバ焼酎を頂く。

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この会は単なる食事会だと思っていたのだが、代表の温井さんは各人に今日のイベントに対する意見を求め、参加者もかなり厳しいコメントを述べるなど、このプロジェクトに賭ける真剣度合いが見て取れた。来年は更なる発展が期待できることだろう。

 

そしてイオンモールにこのプロジェクトから商品化された商品を置く店を出店することについても、参加者から色々とアドバイスが出た。まさに先達は欲しいものである。因みに店長は若干25歳の可愛らしい日本人女性。お父さんが心配して仕方がないとの話が出るほど、か細い印象だが、しっかりと前向きに頑張っている。これからはこのような女性たちがアジアで活躍していくことだろう。

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帰りはホテルの場所も良く分からないのでKさんにトゥクトゥクで送ってもらった。夜のプノンペンはまだまだ明るい所ばかりではない。それでも何かしら可能性を感じさせる街ではある。

 

3月16日(日)

バンコックへ帰る

今日はプノンペン最後の日。本当ならば活発に活動すべきところながら、今日バンコックに戻って、明日の朝から台北へ行くので、色々と雑事があり、ホテルに籠る。このホテルの部屋が快適だったので、作業は余程捗った。朝食が付いていたので、ホテル内で食べる。豪華ではないが、十分な食事を食べて満足する。これが屋上で食べられるともっと良かったのにとは思うが、それは贅沢か。屋上の眺めは本当に良い。

 

空港へ行くタクシーをホテルで拾ってもらって行く。フロントのお姐さんは最後まで愛想がよかった。一人だけではなく、皆一様に笑顔であることからやはり何らかの教育の成果かと思う。きっと海外帰りのカンボジア人か外国人がオーナーであろう。いずれにしても興味深いホテルだった。3日前に空港から来た時のタクシー料金から考えて9ドルぐらいかなと思っていたが、特に渋滞もなく20分で着いたにもかかわらず、12ドルを要求してきたので、黙って10ドルを渡して降りる。運転手は何か言っていたが無視した。この辺はまだまだ途上国だ。

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空港でのチェックイン手続きはスムーズで、特に問題はなかった。フライトも順調でプノンペンの感慨に耽る暇もなく、あっという間にバンコックに戻った。バンコックでは初めてタクシーを使わずに、ミニバスで戻ってみた。時間はちょっとかかるが、わずか30バーツで宿泊先に着いた。すぐに洗濯物を取り出し洗濯し、荷物を詰め直す。また明日から私の旅は続く。

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インド アユルベーダの旅(7)ロナワラ アユルベーダは問診から

5. カイバリヤダーマ

レジストレーション

駅からカイバリアダーマまで歩いても15分だが、荷物があるのでリキシャに乗る。70pは高いが、観光地価格か。あっという間に懐かしい場所に着いた。何となくきれいになっているが、基本は変わらない。

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Hさんはすでに到着しており、合流する。先ずはレジストレーションして、それから支払いを済ませ、部屋が割り当てられた。2階のその部屋は思ったより広く、ベッドも2つある。奥にはシャワーとトイレが付いている。窓もあり、陽が少し差し込む。申し分ない。

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キッチンでランチを取る。4年前は不味いと思ったここの飯だが、今回は美味しかった。4年で私が進化したのか、それとも4年前が何かの間違いだったのか。キッチン自体もかなりきれいになっており、4年前の暗いイメージはない。何がそんなに違うのだろうか。

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再会

ここカイバリアダーマにはヨーガの研究所があり、学院がある。今回我々はそこのヘルスケアセンターにお世話になる。ヨーガを勉強するコースは1年と6週間があり、それ以外に随時2週間なども開催されている。

 

ヨーガを科学的に研究しているカイバリアダーマはある意味でヨーガの聖地だ。インドで皆がヨーガをやっていると思うのは間違いで、元々はサドゥ(外道)の鍛錬方法。バラモン中心のインドでは長く公式には認められてこなかった。それをこの研究所が科学的に証明し、現在ではインド政府もヨーガの重要性に気が付き、支援を始めている。その間にアメリカなどに渡ったインド人がダイエットや健康を目的とした体操としてのヨーガを普及させ、誤解が生じているという。

 

ここには日本人が何人かいる。既に2年目に入り、コーディネーター役も担わされているKさん、6週間コースにはNさんとSさんがいる。Kさんには今回の予約の件でお世話になった。とても聡明な女性で、物事を深く考えている。6週間コースのNさんは仏教に興味を持っている。Sさんは昨年末バンコックのパルモ師講演会で会っていた。とても元気な女性だ。更には1年前にデリー、リシュケシュツアーで一緒だったタイ人のVandaも1年コースに通っていた。彼女の日本語はかなり上達しているので驚いた。好奇心の強い積極的な女性だ。

 

問診

午後1時に問診があった。アユルベーダドクターがあらかじめ記入しておいた質問票を見ながら、顔を見、脈を診て、今後の治療法を決めていく。私が最近少し太って来たことを伝えると、『重いと感じるのだろう』との答え。それが何を意味するのか分からない。

 

そしてドクターは『とても疲れている』とこちらを強調した。確かに3年近くも旅を続けていれば疲れて来るだろう。いや、日本人なら全般的に疲労感はあるだろう。他に特に問題がないなら、かなり健康ではないかと自分なりに思ってしまう。問診はあっという間に終わり、ドクターはさらさらと何かを書いたが、判読できず。ただ明日から朝8時半、午後1時半に治療があること、11時50分にランチがあることが分かった。かなり規則的な生活になりそうだ。

 

午後遅く今日から参加した人々(ここは1週間単位での参加しか認めていない)を対象に講義があった。講義というより、施設案内と各自の紹介だった。相変わらずインド人の先生の言っていることは良く分からない。英語の問題だろうか。それにしても色々な国からここへきている人がいる。ブラジルやフランス、アメリカ、インド人も海外から参加している人がいる。

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夕方ヨーガクラスがあり、参加してみる。久しくやっていないので結構きつい。Hさんによれば、この先生はかなりストレッチ系であり、やるべきかどうか判断を迫られる。私は少しストレッチした方がよさそうだったので、その後も参加を決める。自分の部屋でやると必ずサボってしまいそうだから。

 

夕飯は5年前と同じように見えたが、何とパンチャカルマ受診者は、別メニューになっていた。と言っても初日の夕飯は特に変わりはなかったが。以前はまずいと思っていた食事、3年の放浪を経たせいか、特にまずいとは感じなくなっていた。これも大いなる進歩だろう。明日に備えて早めに寝る。

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インド アユルベーダの旅(6)プネー 若者のバイクで街散策

4.プネー2

1月18日(土)

ダルシャン博物館

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翌日ラトールさんは仕事があり、彼の日本語の生徒の一人がプネーを案内してくれることになる。聞けばまだ20歳の若者。彼のバイクの後ろに乗り、街を走る。最初に行ったのは、ダルシャン博物館。ここはサドゥ・バスワニの活動などを紹介する場所。荷物は全て預け、順路に従って歩く。来場者に展示物をきちんと見てもらえるよう配慮されている。

 

http://www.darshanmuseum.org/flash/index.html

 

内容はインドの伝統的な慣習や貧困との戦いなのだが、何となく居心地が良い。最初はちょっと見て失礼するつもりだったが、気が付けば1時間半もいた。これは何だったのだろうか?何とも不思議な空間だった。帰りがけに、マネージャーの女性が『如何でしたか?』と笑顔で話し掛けてきた。こんな博物館は初めてだった。

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次にお願いしてHSBCの支店に連れて行って貰った。先日ATMでお金が下ろせなかったので、支店に行ってみた。そこのATMを使うとちゃんとルピーが引き出せた。やはりカードに制限が掛かっていたのだろうか?まあ、これで両替をしなくてもよい。安心した。

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お昼は中華レストランにいった。これも私のリクエスト。プネーで老舗の中国料理屋、チャオニーズルームへ。入口が何とも古めかしい。中に入ると思いの外お客がおり、一番入口に近い席しか空いていない。そこに勝手に座ろうとしたが、案内のマネージャーの許可が必要だった。この辺がインドらしい。

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炒飯と焼きそばを頼み、待っていると、なぜかキムチと大根きゅうりの漬物が出てきた。これは中国料理?さらに炒飯には野菜炒めを掛けて食べるのだが、その野菜炒めがどろどろ、あんかけ風なのだ。これは1年前にデリーで体験済み。インドの中華は完全にインド化している。

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最後にネットカフェにつれて行って貰った。カフェと言ってもPCが並んでいるだけだが。先ずは身分証の提示を求められ、若者が自分のを見せる。そして私のPCを繋ごうとしたが、残念ながらそれは出来なかった。インドでは未だに規制が多い。コーヒーを飲むカフェの中にWIFI無料の所があると聞いていたが、若者は知らなかった。

 

代わりに自分のモデムを貸してくれた。繋ぐと確かにネットが出来た。ラトール家で1時間ぐらいメールなどを送信していると、若者は帰ってしまった。その日はこのモデムのお蔭で、大変助かった。ラトール家にもWIFIがあったのだが、そのパスワードが分からなくなっていた。あとでラトールさんが調べてきてくれた。

 

1月19日(日)

ローカル列車でロナウラへ

本日はいよいよ今回のメインイベント、アユルベーダを受けにロナウラへ向かう。A師夫妻が同行してくれるというので心強く出発。一昨日は車で行ったロナウラだが、今日はローカル列車で行く。面白い。

 

ラトールさんの家から彼のバイクの後ろに乗る。これは4年前を思い出させる。前回は彼のバイクでプネー市内の主な観光地を回った。とても印象的だった。それから4年、プネーの交通も激しくなり、危険は高まったように思うが、軽快に飛ばしていく。

 

実は初めてバイクの後ろに乗ったのは20歳の時。同級生の田中のバイクに乗った。茗荷谷にあった彼の学生寮から、神保町の本屋街まで颯爽と飛ばした。正直とても怖かった。私はスピード恐怖症なのだ。だから自分ではその時の経験から一度もバイクを運転していない。車さえも一度も運転していない。その田中君は、5年前にがんで亡くなっていたことが最近分かった。インドの街で突然彼を思い出してしまった。

 

20分ぐらいで駅に着いた。ここはプネー駅の隣の駅。駅舎でA夫妻が切符を買って待っていてくれた。列車の時間まで40分もあり、ホームの端で休息。一人の男が近づいてきて、手を出していたが、無視していたところ、行ってしまった。やれやれと思っているとまた戻ってきて近くに座る。ラトールさんが小銭を上げて退散させたが、インドの乞食は執念深い。

 

列車が来る頃になるとどこからともなく、乗客が現れ、ホームが一杯になった。そして列車が着くとドアに殺到。降りる人とせめぎ合う。我々は後から空いているところに飛び乗ると、そこにはミルク缶が積まれており、においがした。道理で人があまり乗らない。

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次の駅で隣の客車へ移動。混んでいるが、すぐに席が空き、3人掛けの所に割り込んで座る。インドでは座ったもの勝ち、という感じがあるようで、誰も文句も言わない。日本なら大変だ。駅に停まるごとに乗客が下りて行き、空いてきた。同時に窓の外も田舎の風景が見えてきて、それらしくなった。そして1時間半後、ロナウラに到着。ここがこの列車の終点だった。

 

何となくプノンペン2014(6)ドリームガールズプロジェクトを見学する

3.ドリームガールズ

プロジェクトイベントを見学

そして今回の目玉、ドリームガールズプロジェクトへ。会場は老舗ホテル、サンウエー。セントラルマーケットから歩くと10分ぐらい北にあった。ホテルの前まで来るとお知り合いでこのプロジェクトを紹介してくれたKさんと出会う。

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ドリームガールズプロジェクト(http://www.dreamgirlsproject.com/)とは何か。『カンボジアをはじめ、アジア途上国の女性が自分のやりたい職業で自己実現ができるチャンスを創り、成功していく女性をプロデュースするプロジェクト』であり、現在カンボジアではデザインコンテストを開催、デザインを募集し、優秀な作品を商品化、そのロイヤリティーの一部をデザインを描いた女性に還元するというもの。

 

今回はその第4回コンテスト(年1回)の結果発表会に参加するためやってきた。ちょっと早めに着いたと思ったが、既に会場フロアーには100人以上のカンボジア女性が開始を待っていた。その熱気たるや凄い。10代から20代の女性達、そしてその母親などの姿が見られる。既にこのプロジェクトはカンボジアでは相当に認知されている。

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会場に入るとプロジェクト代表の温井さんをはじめ、日本人スタッフとカンボジア人が一生懸命準備していた。温井さんとは昨年11月にバンコックでお会いし、色々と話を聞いていたが、『とてもできると思えないプロジェクトを無謀にも出来ると思い込みやっていく』、その馬力は敬服に値する。

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コンテストが始まると、優秀作品に選ばれたデザインが次々と映し出される。その質は思っていたよりはるかに高い。温井さんは『アンコールワットに行って見た模様から、クメール人にはデザインの才能があると直感した』という。それは事実だったのだろう。勿論かなり初歩的な作品もあったが、デザインというものを理解した人々は、急速に向上してくるらしい。今回は4回目だが、1回目とは全然違う進歩がある。

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そして各賞が発表されるたびに、歓声が響き渡る。受賞者は誇らしげに、また恥ずかしげに賞を受け取る。みんな相当に若い。この各賞はカンボジアに関連した日本人、企業を中心に協賛されており、このスポンサーなしでは成り立たない。プレゼンテーターは各協賛者である。カンボジアではボランティアを行う日本人は多いが、就業機会を与える、お金になる才能を伸ばす活動をしているところはどれほどあるだろうか。

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最優秀作品が発表される頃には、私も彼女たちのデザインに魅了されていた。受賞者の中には涙を流して喜んでいる者もいた。各作品を簡単に紹介する彼女たちは実に誇らしげだった。何だか熱い、会場の熱気だけではない、何らかの思いが感じられた。最初参加者はプノンペンだけだったが、今回はシェムリアップとバッタンバンでも予選を行い、受賞者がここへ来ていた。プノンペンは既にそれなりの都会となっており、地方から来た人たちは一際素朴に見えた。会が終了しても、皆思い思いに話し込み、なかなかお開きにならない。それぞれの思いが交錯していた。

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『デザイナーになるのが夢』などカンボジア女性たちが具体的な目標を持ち始め、その夢を実現できる舞台を整えているところにこのプロジェクトの意義がある。またその基礎として『日本が好き』『日本語の勉強をしている』人々も多く、日本とカンボジア、を考える上でも有意義。

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日本食レストランで

この会に協賛社として参加していたTさんに誘われて、Kさんと一緒に、彼の店へ行く。まだソフトオープンだという日本食レストランはバンケンコンの一等地にある一軒家。かなり立派なロケーションにあった。

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夕方のやや涼しい風が吹く前庭でビールを頂く。これは実にいい気分だった。Tさんは中国でのコンサル業経験もあり、ここ1₋2年はプノンペンのこの店の開業に尽力しているが、その他にもウラジオストックなどへ行くこともあるらしい。私も2月に中ロ国境に入ったので、その話題で盛り上がる。カンボジアでロシアの話が出るとは。こういうのはグローバルというのだろうか。

 

先ほどドリームガールズに参加していたカンボジア女性3人がやってきた。この店もこれから開業だが、もう1つ、6月開業予定のイオンモールへカレー屋を出店するとかで、そのバイトとして声を掛けたのだ。彼女らは日本語学校に通っており、日本への関心は高い。一緒に食事をすることに。

 

実はTさん、彼女らにこの店の料理を食べさせて、カンボジア人の味覚調査を始めていた。ところが・・、彼女らと言葉が通じない。簡単な日本語を話すと言っても、微妙な表現は難しい。ただ『美味しい』と言われても意味はない。3人のうちの一人はかなり普通話が出来たので、いつの間にか私が通訳になってしまった。カンボジアで普通話の通訳、これもまた面白い。

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昨晩食べに行った日本食屋、時代屋。現在プノンペンのカンボジア人に一番有名な店はやはりあそこだった。そして味の基準も時代屋。焼き鳥、お好み焼き、鍋料理、何を食べても時代屋と比べて、薄いとか甘いとか、そのような評価になる。この店の調理人は日本人、微妙な日本の味を分かってもらいたいが、そこまでは難しいようだ。ソースをかける、マヨネーズをかける、そのようなことで、味を調整して食べて貰うしかない。

 

時代屋はその普通のカンボジア人の好みの味を出しているということだ。だがカンボジアの金持や日本人はそれでは物足りないだろう。高級店を目指すこのお店、果たしてどのような路線に行くのだろうか。

 

インド アユルベーダの旅(5)ロナワラ ヨーガコンファレンスに出席

1月17日(金)
3.ロナワラ1

ヨーガコンファレンス

翌日は朝からロナワラのヨーガコンファレンスに出席するため、車で出掛ける。2泊させてもらったゴレ家を後にするのは残念だが、仕方がない。ゴレ家の車に荷物を積み込み、出発。ロナワラへは5年前に行ったことがあるが、私はヨーガを実践している訳ではない。そんな者がヨーガの会議に参加してよいものだろうか。A師夫妻、ゴレ夫人、そしてHさんも参加するので、何となく見に行くことにした。

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場所はロナワラ郊外の立派なリゾートホテル。このコンファレンス、私の予想を遥かに超える大規模なもので、数百人が参加していた。先ずはインド音楽が演奏され、主催者のガローテ氏があいさつした。ガローテ氏の父上はヨーガに関する偉大な研究をした方で、現在は息子がその遺志を継いでいる。

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ヨーガはインドではポピュラーとの誤解が日本にはあるが、僅か80年前までは科学的に研究されることもなく、インドの上流階級で行われることもなかった。ヨーギと呼ばれる修行者が実践する特殊な技法であり、アウトサイダーとして生きてきた。現在米国や日本で行われているヨガの多くは、本来のヨーガとは異なる、または一部だけを切り取った内容であり、かなりかけ離れた存在のようだ。

 

このコンファレンス、登壇者もユニーク。ロシア出身のヨーギが話したり、A師の昔の同窓生が出てきたり。正直言って、専門的な内容、聞いたこともないことも多く、英語であることも含め、話はチンプンカンプン?とにかくこの会場、冷房が効き過ぎて寒かったのはよく覚えている。

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途中にランチがあり、ビュッフェ。大勢の人が一度に屋外で食べる。爽快な感じ。参加者はヨーガを学ぶ学生が多いようで、モリモリ食べていた。また各地から集まったヨーガ関係者はお互いに声を掛けあい情報交換に余念がない。日本に関する興味も高いようで、A師なども声を掛けられていた。因みにこのホテル、夜は結婚式があるようで、豪華なセットが作られていた。インドの結婚式もどんどん派手になっているらしい。

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夜車に乗り、プネーに戻る。今晩からラトールさんの家にお世話になることになっている。ラトールさんの家も5年ぶり。その夜は遅くに帰り、ランチの食べ過ぎで、そのまま寝てしまった。実は夕飯は用意されており、翌朝頂いた。インドの普通の生活パターン、良く分からない所がある。

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