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突然ベトナム中部散歩2011(12)ホーチミン 日本式ホテルに泊まり

8. ホーチミン   (1)   ホーチミンまで

その後早めのランチを取り、Kさんにタクシーを呼んでもらい、ミトーを後にする。昨日はトヨタの商用車でかなり広かったが、今日は小型のタクシーでかなり狭い。座席の位置のせいか、昨日とはかなり異なる風景を眺めながら、ホーチミンを目指す。

言葉が出来ないので、1時間半、じっと無言でいる。昨日もそうだったが、ここで言葉が通じると格段に情報が入るのだが、仕方がない。良さそうな運転手かどうか観察してみるがよく分からない。

1時間を過ぎてホーチミン市内に入ったような気がしたが、そこからが長かった。ホーチミンはやはり大都市だ。おまけに私の宿泊するホテルの場所がかなり入り組んでおり、ミトーのタクシー運転手には難しかったと思う。何度も確認し、人に聞き、ようやくたどり着いた時にはお互いホッとした。一生懸命探してくれ、荷物を持ってくれた運転手は良い人だった。

(2)   ホテル東屋のH君

今回Nさんのご紹介で東屋という宿に宿泊。ここのオーナーは若き青年H君。大学卒業後、LAに留学。そこでフリーペーパー社長と知り合い、そこで働く。その後東南アジアでの起業を思い立ち、ホーチミンへ。きっかけはNさんの雑誌スケッチの広告の多さ。ベトナムにビジネスチャンスがあると感じたという。NさんとLAのフリーペーパー社長が知り合いだったこともご縁。

スケッチでインターン数か月。7月にはホテルを買い取り、9月開業。ホテル経験はまるで無いが、凄いバイタリティー。開業後、問題が色々と出て来ているが、それもチャレンジと笑顔。

このホテルの特徴はターゲットを日本人出張者に絞っていること。日本語で対応してくれ、アジの干物など日本食の朝食が提供される。NHKの衛星放送も映る。そして屋上には何と露天風呂がある。私が入った時は小雨が降っていたが、何となく風情があり入る。

40ドルでこのサービスなら、上手くいけば人気が出るかもしれない。それにしてもH君のバイタリティーあふれる行動には驚いた。そしてこれからはこういう時代なんだ、と肌で感じた。

(3)   ベトナムの問題点

その後3年前にお世話になった日本人Kさん(ホーチミン在住8年)、今回アレンジをお願いしたNさん(ホーチミン在住10年)と会って話を聞いた。共に奥さんはベトナム人。

Kさんは再開発に指定された地域に住んでいいたため、代替マンションに引っ越したばかり。その引っ越しは相当長い間待たされ、そして突然移動させられた。政府が用意した家だが、何と電話もテレビも線がなく、電気水道のみ。子供の学校転入手続きは1か月も掛かった。庶民の生活など全く考えていない政府には怒りを感じている。

老人など転居できない人も続出している。実は子供が補償金持ち逃げしたり、前払い金を使ってしまうなど、家族崩壊も見られる。また老人が郊外に引っ越しても友人がなく、孤独な状態に置かれてしまう。これまで仕事のあった人も引っ越しで近所でのちょっとした仕事がなくなってしまうが、これは補償外。補償金をもらっても家が高くなり過ぎて、ローンを組まないとマンションは買えない。老人などローンが組めない人の中には路上生活者も出る始末。

そもそもホーチミンでは再開発による立ち退きが横行しているが、その理由の一端に日本政府と企業も関与しているという。日本政府はベトナム向けにODAを奮発しているが、地下鉄や道路を作るために追い出される庶民がいることは誰も言わない。ベトナム政府も一部の利権のために、庶民を犠牲にしている。「ベトナムには原発も新幹線もいらないはずなのに」との言葉は重い。

尚昨年外貨政策が変更された。基本的に全てドン表示となり、ドルを受け取ることはライセンスが無ければできなくなった。ホテルなど一部で混乱もあった。ドル金利は下がり、ドンはタイトになっている。

11月6日(日)  (5)   最後の朝

翌朝は早く目覚め、散歩に出る。ところが何故か道に迷ってしまう。一度分からなくなると非常に面倒なホーチミンの小道。何度もグルグル回ってしまったようだ。最後はハノイ教会の警備員に英語で聞いた所、ちゃんと英語で教えてくれて助かった。

ホーチミンにはファミリーマートとサークルKなど日本のコンビニがある。ハノイには未だないようで、何故かと訝る。考えてみれば中国でも上海にはローソンなどが出来たが、北京にセブンイレブンが出来たのは随分後になってからだ。首都でコンビニが認められない理由はあるのだろうか。

東屋自慢の朝ごはんを食べて、車を呼んでもらい、空港へ向かう。Nさんから2回も「空港までのタクシー代は12万ドンです」とアドバイスを受けていたが、大体その通りにはならないだろうと思っていたが、道が空いていたせいか、ぴたり12万ドンで空港に着いてしまった。

空港でのチェックインもスムーズだった。タイエアーのせいかと思っていたが、その後大変な事態がおこってしまったのだが・・。




突然ベトナム中部散歩2011(11)ミトー メコンクルーズ

(2)    ミトーの午後

今回のミトー訪問はお知り合いのKさんに会うためのものだった。Kさんは元ベトナム人で現在は日本政府関連の仕事でミトーに赴任している。Kさんの滞在先ホテルを予約してもらっていたので、そこへ行く。

ホテルは以前の中国国営ホテルを想起させる。部屋は広いが相当古い。このホテルに泊まる外国人は少ないのか、英語も通じにくい。時間は午後1時半、腹が減ったがどこへ行けばよいのだろうか。地図もなく、街に出る。ホテルの前はメインストリート。ここは避けて横へ。日差しが強く、暑い。中部とは違う。

ちょっと歩くと川が見えた。川面を眺めていると、船の方から声が掛かる。メコンクルーズだという。相当暇そうなオジサンがしきりに勧める。40万ドン、髙いのか安いのか分からない。取り敢えずパスして進む。川沿いに歩くと皆、ダラーンと寝そべっている。レストランも見当たらない。もうこの街は午後のお昼寝に入ったらしい。

ようやく外れでレストランを見付け、ご飯にありつく。内臓入り麺と揚げ春巻き。腹が減っているせいか美味しい。のども乾いており、思わず氷入りのお茶をゴクゴク。本来なら体調不良に陥る可能性もある氷入り。でも何となく大丈夫と思うと、大丈夫な物だ。

それから暑い中、街の中を歩き回る。約2時間。立派な教会もあり、中国系の多い場所もあり、池のほとりで蓮を取っている風景あり。何ともホンワカした雰囲気の街である。ちょっと気にいる。

また腹が減り、バンミーを買う。赤ちゃんが茣蓙の上で遊んでいる。可愛らしい。バンミー、1万ドン、この収入で出来る生活には限界があると思うが、このような街では、つつましいが楽しい生活が維持できるのだろう。しかし今後のインフレや都市化、大丈夫だろうか。

(3)    夕飯

ホテルで休息しているとKさんが仕事から戻り、部屋を訪ねてきた。早々にブツを渡す。Kさんから「ぽん酢、レトルトカレー」などを頼まれていたのだ。元ベトナム人と言っても日本に30年、味覚は殆ど日本人である。私が昔、中国滞在中に欲しかったものと同じであったので、何となく懐かしい。ベトナムは発展している、とは言っても、ここミトーではまだまだ厳しい生活が続いているようだ。

夕飯に向かう。ホテル前からタクシーに乗ったが、流しのタクシーは使わない。電話で呼んで乗り込む。「タクシーは選ばないと、ボッタくられる」、Kさんが言うのだから、気は抜けない。

この街ではかなり良いレストランに行く。ガーデン式で開放感が良い。サイゴンビールを飲みながら夜風に吹かれる。極楽。周囲を見渡すと、少しお金のありそうなベトナム人が大騒ぎしながら、飲み食いしている。この辺りのお金はどこから出て来るのだろうか。

貝の炒め物が出る。クリームコロッケのような物が出て来る。うまいー。そして海鮮と野菜たっぷりの鍋を頂く。幸せな夜が過ぎていく。やはり食事は一人より二人が良い。そして地元のことが分かっている人と行くのが良い。

ホテルに戻ると、結婚式の披露宴がお開きを迎えていた。ベトナムでは結婚式に多額の費用を掛け、盛大に行っている。このホテルで行われているということは、地元の有力者の関係だろうか。新郎新婦がお客さんを送って出て来た。「おめでとう」と言いながら、新郎新婦と写真を撮った。彼らはそそくさと会場に戻る。宴はまさに延々と続くらしい。

11月5日(土)  (4)   ボートクルーズ

夜中に雨が降ったらしい。ホテルの裏庭で気持ちの良い朝食を期待していたが、椅子が濡れており、屋内に引っ込む。朝飯はフォー1杯。そしてベトナムコーヒー。このコーヒー、入れる器が面白い。とまこさんから依頼されていたので2つ買った。

天気が良くなったので、メコンクルーズに行くことになる。Kさんも赴任して間もないため、初めての挑戦となる。昨日歩いた川沿いに行き、ボートを探す。昨日声を掛けて来たのは、やはりモグリであり、正規の受付所は別にあった。だがここでも料金はネゴ。結局2人で40万ドンになったようだ。

10人乗りの小型船に乗り込む。ガイドのお姐さんもいる。英語は達者だ。船は川に出ていく。向こうの方に大きな橋が見える。以前は全てが船での往来であったが、今では橋を渡って対岸の島へ行ける。船は観光船となった。15分ほど乗ると対岸へ上陸。

熱帯の島、と言ったイメージ。ヤシの木が生えている。道は順路になっているようで、お姐さんはどんどん歩いて行く。途中にお茶が飲めるコーナーがあり、立ち寄る。お店の人が蜂の巣を見せてくれる。そして蜂蜜入りのベトナム茶を飲む。うーん。

次にキャラメル製作工程を見学。ヤシ入り、マンゴ入りなど沢山ある。お土産にちょっと買う。ガイドのお姐さんはフルーツを買い込んでいる。聞けば、ここのフルーツは新鮮で安いらしい。

また休憩所がありお茶を飲んでいると、突然子供と大人が我々の前に並び、歌を歌ったり踊ったりした。これも観光の一環だろうが、何となくこのような演出は不要と感じる。だが、この島には観光と農業しかないのだから、このようなパフォーマンスで、食い扶持を得る必要もあるのかもしれない。歌い終わった子供たちは元の純朴な顔になり、元気に遊びまわっていた。

帰りは小さなボートに乗ってきた道を帰る。まさにジャングルのボートトリップだ。狭い小川を多くのボートが行きかう。巧みな操縦で、ゆっくり進む。木々が日差しを遮る場所ではそよ風が吹き、実に気持ちが良い。しかし日差しを浴び、結局顔が真っ黒になった気がする。

突然ベトナム中部散歩2011(10)フエ ドネーションとは

(9)   午後は分かれて

午後はボートトリップ。小型の船に乗り込むとお婆さんが直ぐに皆に飲み物を勧め、ついでに土産物を勧める。この辺は抜け目ないというか、人の心理を突くというか、私などには非常に苦手な行為である。欧米人達はこのような行為にかなり慣れており、適当にあしらっていた。うーん。

そして上陸。果樹園に行くような話であったが、どうやら誰かの家の庭を見るらしい。かなり広い邸宅であり、建物も由緒正しそう。案内のおばさんが出て来て、英語で説明する。私に向かって突然「これはイチジク」などと日本語も知っている。フランス語も話す。相当観光客に慣れている。それにしてもこの庭園、実に様々な果物がある。

帰りにちょっとトラブルがあった。ここには入場料がなく、案内人はドネーションを要請。ガイド(お兄ちゃんは別組に参加し、オネエチャン)もドネーションして欲しいと声を出した。我々は適当に支払ったが、フランス人の若いカップルだけがそれを無視して出口へ向かった。

すると案内のおばさんが猛然と支払いを要求、フランス人は「ドネーションは必ず払うものではない」と主張した。さてどうなるかとみていると、何とスペイン人の男性が「いい庭園だったじゃないか、少しは払ってあげたらどうだろう」と宥めるように諭した。その言葉にフランス人も拒否できなくなり、一件落着。

スペイン人は「いつもの癖が出た」と舌を出す。聞けば、国では教師だそうだ。しかも現役。1か月間ベトナムを旅していると聞いていたので、夏休みでもない期間なので不思議に思う。何とスペインには「5年間、給与を85%とすれば、長期休暇を得る機会がある」というのだ。これは素晴らしい。見聞を広めて、教育に生かす。

最後の観光地、ティエンムー寺へ行く。ガイドのお兄さんたちも合流。ここには立派な塔が建っている。高さ21m、七層。慈悲と言う名の塔は格好が良い。1601年に創建されたこの寺はなかなか風情がある。寺には修行僧もいるようで、若い男女が修行を終えたのか、楽しそうに会話していた。

(10)   洗濯トラブル

ツアーを終えて、ホテルに戻る前に、洗濯物を取りに行く。昨日出しておいたものだ。東南アジアではバックパッカー向けに1㎏単位でランドリーが頼める所がある。これは私のような者にも大いに助かる。コインランドリーを自分でやらなくてよい、畳まなくてもよい、という感じだ。

今回は1㎏あたり4万ドン(2ドル)であった。ところが取りに行くとお婆さんが8万ドンを請求してきた。「これは通常のランドリーで洗ったから」などと言い、個別金額を請求してきたのだ。

お婆さんとは昨日も言葉が上手く通じず、横に居た若者に補助を頼んでいたのだが、案の定、通じていなかった。いや、外国人相手の商売だ、わざと分からない振りをして請求しかもしれない。

こちらとしては言われなき請求に応じるのはどうも納得がいかない。そこで昨日の若者を探し出すと、隅の方で小さくなっているのが見えた。トラブルになっていることに気が付いているようだった。彼を引っ張り出し、英語で確認した。彼は素直な性格で直ぐに4万ドンを認めた。

しかし今度はお婆さんが納得しない。とにかく普通に洗濯したのだから、料金を払えという訳だ。こういう時に悩む。料金は正直大したことはない。しかも相手は老人だ。どこまで自分の主張をするべきか。今回はじっと黙ってしまった。テーブルの上には4万ドンが置かれている。暫し無言の時間が流れた。お婆さんが大きなため息をつきながら、4万ドンに手を伸ばし、「お前の顔など見たくない」と言った顔をした。交渉は呆気なく終了した。

夕飯はチキンライスを探した。外国人向けの綺麗なレストランが沢山あり、欧米人がビールを飲みながら、楽しそうにしている中、何となく浮かない気分の私は場末の大衆食堂に入った。食事は美味しかったはずだが、何となく気分的に落ち込んでしまった。

11月4日(金)

7. ミトー   (1)    ミトーまで

翌朝は目覚めも悪かった。こんな日に早起きしなければならなかった。今日はフエからミトーまで行く。先ずはフエの飛行場へ行く。今回は旅行社で乗り合いバスチケットを買った。8万ドン。旅行社の前から出るというので7時半前に到着し、待機した。ところがいつまで経っても来ない。

ようやく来たバスに乗るが、そこからまた別のお客を拾いに行く。しかもゲストハウスから出て来た欧米人がその場で払っている料金は4万ドン。あれ、どうなっているの。昨日の洗濯騒ぎ以降、何だかみんなが自分を騙しているような気分になってしまう。観光地はそのちょっとした印象で全てが変わってしまう。

バスは僅か30分で空港に到着。こんなことならタクシーでもそれほど料金は掛からなかっただろう。後悔。フエの空港はこじんまりしていて、ようは何もない。バスの運転手はそれを知っていて、時間の頃合いを見て到着した感じだ。

それでも国内線のこと、チェックインを済ませても時間が余る。待合ロビーの喫茶コーナーで聞くとWifiが使える。電源もある。1本、4万ドンもするコーラを買い、メールチェックなどを始める。気分が少しまぎれる。あー、何だかネット中毒患者だ。

飛行機は順調にフライトし、あっと言う間にホーチミン空港に到着。数日前ここを出発した時が懐かしく感じられるほど、ホイアン、ダナン、フエの旅は色が濃かった。

そして出口の所でミトーへ行くため、タクシーをチャーター。ここでははじめから100万ドン、と聞いていたので、素直にそれに乗る。一度ホーチミン市内に入ればバスもあるようだが、途轍もなく不便だ。この出費は仕方がない。乗った車はトヨタの新車。ガソリン代はリッター20万ドン、物価から見ると結構高い。

田園風景の中、そしてクリアースカイの中を高速疾走し、1時間ほどでミトーのホテルに着いてしまった。確かにこれは便利だ。

突然ベトナム中部散歩2011(9)フエ 英語ツアーに参加してみると

11月3日(木)

(6)   ガイドのトラブル解決能力

翌朝は6時過ぎには目が覚めてしまい、起床。ホテルでビュッフェを食べる。まだお客は殆どいない。料理も全部で揃っていない。風に吹かれ、川を眺めながら、ゆったりと食べる。これも一つの旅か。

今日は昨日予約したフエ一日観光ツアーに乗る。ホテルにバスが迎えに来るというので待つ。昨日の旅行社のお姐さんがやってきたので、すぐ分かる。既に欧米人がたくさん乗っていた。

ガイドはお兄ちゃん。かなり慣れており、スムーズ。と思っていると、お兄ちゃんが「このツアーには各施設の入場料が含まれていませんので、これから徴収します」と告げた瞬間、最後に乗って来たドイツ人が騒ぎ出す。「俺はそんなことは聞いていない」

さて、ガイドはどうするのかとみていると、「あなたに言いたいことがあるのは分かったが、個々にはツアーを楽しもうとしている人々がいる。基本的にはあなたがこのツアーを頼んだ旅行会社に後で文句を言って欲しい。が、もしどうしても必要なら、後で私が話を聞く」と堂々と告げる。

日本などでは兎に角先ず謝る、とか、お客様第一とか言って、トラブルを助長してしまう傾向があるが、彼には解決能力がある。実際他の欧米人の目もあり、このドイツ人、しぶしぶながらも、入場料を支払っていた。逆に言えば、ベトナムではトラブルが頻発しており、解決能力が鍛えられているということか。

(7)   お墓巡り

バスはフエ郊外の観光地へ向かう。観光地と言ってもグエン王朝時代の皇帝のお墓が2つ。先ずはバスで小1時間行ったところにあったミンマン帝の墓。1840年から3年間かけて作られたという。ここは静かで質素な感じが良い。大きな石碑が建っており、中国と同じ様式。更に広い園内を散策。何年もかけて作られたお墓、その労力は凄い。

いくつかの廟があり、池も配され、そして小山へ。そこがお墓だが、開放されてはいない。非常に枯れた感じが好ましい。何だか日本の古墳を思い出した。

次に向かったのはカイディン帝の墓。1920年帝の生存中に建設が始まり、その死後1931年に完成したという。この墓は先ほどの物とは全く趣が異なる。門が既にバロック様式かと思わせる。ヒンズー的な塔が建っており、仏教的、いや中国的な建物も見える。ここは完全なる混合洋式だ。王朝末期はフランスの植民地となっており、西洋的な要素が入るには当然かと思いうが、それにしてもこの混ざり具合は皇帝の趣味なのか、それとも何か理由があるのか。遺体は何と彼の銅像の下にあるという。ある意味で革新的なお墓だ。

皇帝の写真も残されており、確かに洋風。壁には何故か戦前の日本のビール瓶の破片で作られたモニュメントもあった。ガラスなどが貴重な時代であったろうか。日本は1940年に北部仏印進駐を果たしているが、一体何をしただろうか。

そして何故か、いや観光ツアーだから、少年少女による武芸を見学する。獅子舞のお出迎えを受け、様々な型の武術が披露された。みんな一生懸命やっている。聞けば、この施設はボランティア団体が運営している。この子達も何等か、事情があってここに来ているらしい。

うーん、このようなツアーに組み込まれた施設には何かしら違和感がある。彼らは自分の出番が終わると裏に引っ込み、バナナを食べる者、遊んでいる者もいる。何となく仕事と割り切っている雰囲気。最後にドネーションに依頼があった。欧米人は気軽に応じていたが、どうなんだろうか。

もう一つ帝廟に行ったが、名前は忘れてしまった。正直同じような作りだからだ。ここで気が付いたことは観光客の中に、戦時または戦後ベトナムから亡命したと思われる家族がいたことだ。ガイドは英語のほか、ベトナム語も使っていたが、そのお婆さんやお爺さんの為のものであった。パリから来たという家族は、まさに里帰りと言う雰囲気で、ゆっくりゆっくり祖国を踏みしめているように見えた。

(8)   スペイン語は出来れば

昼は一度市内に戻る。このツアーがやっているカフェでビュッフェのランチ。皆さん、思い思いに席に着き、楽しそうに食べる。意外なほど、豊富なメニュー。私は一人なので、例のガイド氏と食べたいと思ったが、彼はその申し出を巧みにかわした。え、多分、ガイドはお客と一緒に食べてはいけない規則でもあるのだろう。

というのも、彼はガイドの合間に私の所に来て、日本語を聞いていたから。ここ半年間、日本語を独学しているらしい。その語学能力も高そうだ。夜、仕事が終わってから一人黙々と教科書に向かう日々だという。努力している人たちがいる。「日本語が出来れば仕事の幅が広がるから」というが、恐らくは日本人のガイドになった方が実入りが良いのだろう。何しろ日本人は英語ツアーなどには入らず、高いお金を出して日本発のツアーに参加する。チップもくれるだろう。

一人でご飯を食べ終わると、組み分けが行われた。王宮に行く組と行かない組み、私は昨日王宮に行っているので行かない組へ。スペイン人の夫婦とイタリア人の女性と同じテーブルへ。彼らは勿論英語が出来るのだが、話が少し込み入るとスペイン語になる。そして私の方を向き、「どうしてスペイン語を勉強しなかったの」と無邪気に笑いながら聞く。ところが私は内心ドキリ、実は30年前大学の第2外国語で一時スペイン語の勉強をしていたのである。しかし残念なことに、一つの単語も浮かばず、話にもならない。ヨーロッパ勢はいくつかの言語を巧みに操る。羨ましい。

突然ベトナム中部散歩2011(8)フエ 王宮の草むらと夕暮れ

(3)   親切な旅行社

ホテルは川沿いの観光大型ホテル。私の趣味ではないが、まあ仕方がない。とにかく腹が減ったので、食い物を探しに外へ。ホテルの前の道路脇あたりに何かありそうだったが、意外とない。

するとレストランの代わりに旅行会社が目に留まる。中でお姐さんがニコッとしたので釣られて入る。明日のツアーの相談だ。ホイアンでの英語ツアーが快適だったので、ここでもツアーを選択。フエ一日観光して、25万ドン、やはり安い。

そのお姐さんと話していると実に親切にアドバイスしてくれる。愛想もよい。これはベトナムの一つの良さだなと思う。「王宮はツアーではなく、今から自分で行くのがベスト」とアドバイスを受ける。

腹は減ったが、指示には従う、それが私の旅。でもどうやって行くの?と尋ねると、バイクタクシーで行けと言う。仕方なくバイクタクシーを探すと、人のよさそうなオジサンが手招きしたので、それに乗る。バイクは快適だ。夕方のフエの街を疾走する。結構車が多い。

橋を渡り、10分ぐらいで着いた。3万ドン。帰りも乗らないか、というオジサンに別れを告げ、一人王宮に入って行く。何だか見たことがあるような風景だ。

(4)   王宮

広場はないが、ベトナム国旗がはためく。午後の日差しを浴びて立つ石の門はどことなく、天安門を想起させる。門を潜ると2つほど、建物がある。全て平屋で、起伏はあまりない。そこから先は廃墟になる。勿論建物は最近再建されたもので、ここはグエン王朝を偲ぶ廃墟なのである。

グエン王朝、1802年から1945年まで存在した中国傀儡王朝。中国清朝の影響を強く受け、中華風の建物、様式を持つ。何となく、見たことがある風景なわけだ。王宮の門は午門と呼ばれ、北京の故宮では天安門の北側にある。その向こうの建物は大和殿、これも故宮と同じだ。この建物はベトナム戦争中に完全に破壊され、戦後再建されている。この王宮自体が廃墟に見えるのはベトナム戦争の影響大と言うことだ。

「夏草や 兵どもが 夢のあと」、芭蕉のこの句が思い出される。王宮内の真ん中は草むらである。夕陽を浴びる草むらは豪華な建物よりもはるかに旅情を誘う。欧米人も思い思いに座ったり、話し込んだりしている。こんな世界遺産もあってよいと思う。

裏門に近づくと、フランス風の建物が登場。その向こうには王宮を囲むお堀があり、裏から外へ出られる。流石に昼食抜きでここまで走ってきてしまった。門番に一度外へ出て戻って来てもよいかと聞くと、何の問題もない、と首を縦に振る。

外に出ると午後4時、レストランがあった。オジサンが一人、暇そうにしていた。こんな時間にお客があるとは思っていなかったようだ。豚肉、卵、そしてシナチク。ご飯を盛って、食べる。空腹もあぅたが、これは美味い。この味は、特にシナチクの風味が出ている、この味は台湾でよく食べたものだ。大盛りで一気に食べる。僅か3万ドン、安い。

再び王宮に戻り、腹ごなしの散歩としてゆっくり歩く。今度は外周を歩くと、何と向こうから象がやって来る。どうやら、象に乗って王宮を散歩する、というツアーが企画されているらしい。面白い。

午門の上に登る。夕陽がキレイだ。日本人観光客は次の日程に追われ、去って行く。中国人観光客も同じだ。フランス人の若者などは門の上で、様々な議論を交わしている。このような場所では、色々と意見を行って見るのは相応しい行動のように思う。

人がいない反対側(夕陽が見えない側)に行って見ると老夫婦が2人、一段高い場所に腰を下ろし、足をブラブラさせていた。何だか子供の頃に見た光景だ。と思って、近づいてその会話を聞くと、何と日本語であった。このご夫婦、子供の頃の夕暮れを思い出していたのだろう。良い風景だった。

(5)   夕暮れ

良い風景を見た後は心が洗われたのだろうか、王宮付近の夕暮れが一段と映える。帰りは道が分かっていたので、敢えて歩いて戻ることにした。夕方の帰宅ラッシュなのか、大量のバイクが轟音を立てて過ぎ去る。

再度橋を渡る。バイクに乗っていた時とはまるで感じが違う。橋の上は広く、そして川はゆったりと流れる。夕陽が静かに、静かに落ちていく。もうバイクの音は気にならない。完全に自分だけの世界に入っていった。ただただ川を、そして夕陽を眺めるだけ。相当に時間が過ぎていく。

ふと振り返ると、私の後ろにランニング姿の欧米人男女が立っていた。彼らは夕暮れ時を走っていたようだが、何とその目に涙が流れていた。分かるなー、その気持ち。聞けばドイツ人だという。夕陽に関する会話は一言もなかったが、完全にお互いが共有しているものがあった。こんな触れ合いは素晴らしい。

更に河沿いを歩いて行く。低い建物がゆったりと広がっている。ホイアンのような観光風景はなく、ただ古めかしい街、という雰囲気だが、それはまたそれでよい。

ホテルでしばし休息。午後4時に食事をしたので、腹は減らず、そのまま寝ようかと考えたが、早過ぎる。暗くなった周囲を散策。ホテルの対面の道を入って行くと、安宿街があり、その向こうには欧米人が好きそうなバーなどもある。

何となく小腹がすき、屋台でフォーを食べる。ホイアンでは朝しか食べられなかったので、嬉しい。ベトナムではいつでもどこでも美味しく、食事がとれる。素晴らしい。

 

突然ベトナム中部散歩2011(7)ダナン トラブルになり街の顔役登場

(5)  河沿い散歩

博物館を出て、更に散歩。昨日会ったTさんのオフィスを訪ねる。アプサラと言う綺麗なレストランの脇にある。3年前、倉庫のようだったこの場所を自ら掃除してオフィスとしたと聞き、そのバイタリティーに脱帽した。若いということは何でもできるんだな。

オフィスにはベトナムの少数民族、カトゥー族が作った手織りの布が売られていた。なんだかちょっと落ち着く感じの布が並んでいてよい。ベトナムや東南アジアでは、少数民族による織物が残っている。それを支援していくのは大変だとは思うが、お店に並んでいる自分の商品を見たら、織り手も感激するかもしれない。

ダナンの教会は、実に清々しく建っていた。実は昨日も行って見たのだが、道を間違えて裏からしか見なかった。ちょうど工事中で、まさか正面がこんなに立派だとは思いもよらない。それにしてもブルースカイ。

街を歩いていると建設現場によく出くわす。これは中国の都市でいえば90年代だろうか。特に河沿いは建設ラッシュ。高級マンションから、高級ホテルまで。1-2年で風景が一変するのだろうか。

(6)   駅まで大トラブル

ホテルに戻り、チェックアウト。これから列車でフエに行くので、ダナン駅までタクシーで。フロントでタクシー料金を確認したが、客だというのに誰一人タクシー拾ってくれようとはしない。ちょっと嫌な感じがあったので、ホテル前に停まっているタクシーを避け、流しを拾う。

 

ところがホテル前のタクシーが流しに声を掛け、強引に私を乗せる。何故だ?「ダナンステーション」と言ってみたが英語が分からないらしい。それではと降りようとすると、彼は慌てて携帯に電話。英語のできる人間に替わったので目的地を伝え、出発。

 

運転手のニーちゃんは決して人が悪そうには見えない。まあいいか、と乗っていると、どうみても駅を通り越している。英語で伝えるも、「分かっている」と車を停めようとしない。そして・・、到着したのはバスターミナルだった。違うと首を振るとニーちゃんが困ったように携帯に電話する。電話の相手にバスではなく、列車だと伝えると、慌ててニーちゃんと替わり、了解する。が、そこで初めて、ニーちゃんに地図を見せた。だが、良く考えてみれば最初から列車のチケットでも見せればよかったのかもしれない。

 

列車の時間が迫っている。タクシーは滑るように駅に入る。料金メーターはホテルで言われた2倍以上の10万ドンになっていたが、当然5万ドンだけ払い、立ち去ろうとする。ニーちゃんが何か喚いたが、こちらも時間がなく、交渉の余地はないと首を振る。

 

駅に駆け込み、ホームを確認。ちょっと遅れているらしく、列車の姿はまだない。そしてホームへの案内はまだされていない。仕方なく、ベンチに腰を下ろす。と、その瞬間、入り口から数人の男たちが入って来て私の方へ近づく。先頭にはあのニーちゃんが。これはちょっとヤバいかも、と思い、万が一に備えて、駅員の位置を確認する。

 

ニーちゃんが私を指さすと年配の男性が実に流暢な英語で「何があったか話して欲しい」と言う。私が経緯を述べると、年配のおじさんはニーちゃんに向かって、ベトナム語で何かきつい言葉を投げている。

 

そして再度私に向かい、「事情は分かった。確かにこいつが悪い。だがこいつも騙すつもりはなかったんだ。こいつにも生活がある。今回は私の顔に免じてもう少し払ってやってくれまいか」と言うではないか。その堂々とした物腰、物言い、何故か感動してしまった。彼はこの辺りの顔役、やくざなのかも知れないが、その慣れた捌き、流暢な英語に思わず、2万ドン出していた。おじさんは「悪かったな」と再度言い、皆を引き連れ、堂々と駅を去って行った。ベトナムでは兎に角トラブルが多い。当然それを解決する役目を追う人間がいる。ちょっと面白い物を見た。

6. フエ   (1)   フエまでの列車の旅

ダナン駅に列車が入線した。乗客がホームへ入って行く。私も後からついて行くと、何とホームはなかった。ようは列車から地面へ乗り降りするだけ。ただ周囲には食べ物や雑貨を売る店が並んでおり、物売りも多い。

私は兎に角指定された車両へと急ぐ。アナウンスは全てベトナム語で、いつ発車するかもわからない。先ずは乗り込むのが先だ。ようやく車両を見付け、大勢が乗り込む中、車掌さんに切符を見せ、何とか乗る。

車内は90年代の中国の列車と言った雰囲気。人は半分も乗っておらず、これは空いていると適当な場所へ腰を下ろした。ところが横のおばさんがベトナム語で何か言っている。どうも座ってはいけないらしい。今度は自分の座席を探して座る。荷物が多いので何となく狭いが隣が空いていたので、荷物はそこへ。ところが発車が近づくと大勢が乗り込んできて満員に。分かったことは、この駅では20分も停車しており、皆が昼ごはんなどを買いがてら気分転換していたということ。

私はと言えば、いつ出るともわからない車内でジッとして居て、昼ごはんも買い損ねる。唯一車内販売が回ってきたが、それを逃したのが大きい。また来るだろうと思っていたが、その後3時間、フエ到着まで2度と現れなかった。

出発すると乗客は思い思いの行動を取る。本を読んだり音楽を聞いたりするのは一般的だが、何と駅で洗濯したタオルも干す者も。この列車、ホーチミンからハノイまで1日以上は掛かる。皆気だるい雰囲気で、動作も鈍い。

列車の速度はこれまた非常に遅い。時刻表を見た時、何故僅か100㎞行くのに3時間掛かるのか不思議であったが、今は不思議でもなんでもない。時速30-40㎞しか出ていないのではないか。海岸線沿いを走っているせいもあるのか、やたらにカーブが多く、全てがゆっくりである。

    

しかしこのスピードに慣れて来ると、なかなか心地よい。中国のような高速とはかけ離れた世界、時間がまるで止まったような世界を体験できるのは貴重である。車内にいると速ければいいというものではない、と言われているような気になる。

それでもこの列車で一昼夜過ごすのはきつい。日本が新幹線を売り込んでいるようだが、それも必要かもしれない。しかしその結果、このダラリン列車が廃線になるのは悲しい。列車は一つも停車することなく、3時間後フエに到着した。私にはここがフエかさえ分からなかったが、先ずは降りることにした。

(2)   駅前タクシー

フエの駅前は混雑していた。迎えの人々が多く来ていた。私はホテルの予約はされていたが、そこまでどのように行くか考えていなかった。駅の出口を出ると、若者がタクシーと言いながら近づいてきて、荷物を持とうとする。

怪しいと思いながら、着いて行くと、ミニバンに荷物を押し込もうとする。ホテルまでの値段を聞くと30万ドンだと平気で答える。先程揉めたダナン駅でも10万ドンだったのだから、明らかにボッタくりである。

さっと荷物を手にして、早々に逃げ出す。ちょうど目の前にタクシーと書かれた車が通りかかり、エイヤで乗り込む。ホテル名を告げると運転手は頷き、メーターを倒す。道は一本道で、左側に川が見えた。木々もあり、雰囲気の良い街だな、と思っているとホテルに着いてしまった。料金は僅か4万ドン、距離は2㎞ぐらいだろうか。

ベトナムではタクシーには気を付けなくてはいけない。その教訓をよくよく教えられた。でも思い返してみても、運が良かったのかもしれない。



インド アユルベーダの旅(10)ロナワラ 健康的な生活

スチームバス

8時半、昨日とは違うマッサージ師にオフィスの横の部屋に連れて行かれる。今日は所謂オイルマッサージ。これなら中国などでも行っている。だが、脚のふくらはぎを揉まれると足がつりそうになる。この自覚も相当前からあったのだが、バンコックで週1回脚マッサージに行くはずが放置していた。マッサージ師も足の変化に気が付き、緩めにマッサージしてくれる。これでよいのだろうか。

 

『足がつる』という英語を知らない。この単語、20年前、かみさんが次男を出産する時、病院で私に聞いてきた単語。『知らない』というと、『何のために大学行ったのよ』と言われ、慌てて中国語でしびれるという意味の『麻』と言ってみると看護師が理解してくれ、辛うじて面目を保ったことを思い出す。それ以降未だにその単語を知らない。これは怠慢だろうか。

 

そしてそのままスチームバスに入る。まさに首から上だけが外に出ており、頭にタオルをかける。マジックショーを思い出す。だが笑えない。急激にどんどん熱くなる。どこまで辛抱すれば良いのか悩んでいると『熱いのか』と聞いてきたので頷くと、すぐに止めてくれた。体から大量の汗が流れ出ているのが分かる。全身ビシャビシャだ。パンツを穿いたままだったが、そのまま出てきて、ズボンを穿く。うーん。

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朝食から昼食まで

バスから出て外を歩くと何とも爽やかだった。特に今日は雨が降り、空気が澄んでいる。暑くもない。ただパンツが濡れたままで、ちょっと気持ちが悪い。時刻は9時半、朝食はまだあるだろうか。何となく食べなくてもよい気分だが。キッチンに行ってみると、まだ大勢の人が食べていた。インドでは食事の時間に拘りが少ないように思う。日本のように規則正しい時間に食事を取るのではなく、『腹が減ったら食う』という感覚だろうか。本来この方が自然だと感じる。食事は普通の人と同じ。トウモロコシとグリンピースが入っており、美味しい。

 

そのままダラダラとジンジャーティを飲みながらHさんと話し込む。だが10時を過ぎるとキッチンの掃除が始まり、退散。ライブラリーへ行き、ネットをする。ここは人も少なく、静かでよい。本来ライブラリーは学生がヨーガの勉強をするところ。静かなはずだ。

 

11時にはシャワーを浴びてよいと言われているので、部屋に戻り、浴びる。昨日の洗濯物は全然乾いていないので、今日は洗濯しないことに。ただスチームで濡れたズボンはどうするか。

 

ランチは昨日からちょっと恐怖になっていた。ギーはやはり乳製品。私は子供の頃から乳製品は牛乳もチーズも苦手であり、この手の味と匂いに大変弱い。これを毎日強制的に取らされるのは苦痛である。だがこれを取らなければマンチャカルマは始まらない。戦いである。

 

メンバーは12時になっても揃わず、係のお姐さんはイライラしていた。こちらは構わず食事を始める。ギーを料理に掛けるのを減らし、ダルに入れてみたら、意外と食べられた。やはりできるだけ味を消さなければならない。生姜も有効だ。昨日は料理を取り過ぎたが、今日は腹八分目にしたのもよかった。それほど辛くない。

 

横に4か月の赤ちゃんを連れたインド女性が座って食べていたのもよかった。彼女は皆のアイドルになりつつある。インド人の子供は本当にお人形さんのようにかわいい。でもなぜここに赤ちゃん連れで来るのだろうか。謎だ。

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またまた頭へ

午後、自分のブックレット(トリートメンの内容などが書かれている冊子)が無いことに気が付き、ちょっと慌てたが、午前中返してもらっていなことが分かる。やはりボーっとしている。1時半にまた頭にオイルを垂らされた。昨日よりちょっと熱く感じたが、そのうちウトウトしてしまう。やはり眠いのだ。何とも不思議な眠さが襲ってくる。20分ほどで終了。やはり頭はベタベタだが、昨日と違って1時間後には洗ってよいと言われる。どうして人によって違うのだろうか。女性のHさんは2時間だったり、1時間半だったりしている。まあ、これで今日も終わった。

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3時前に頭を洗おうとしたところ、ちょうど部屋の掃除がやってきた。その間は外で待っており、終わったら鍵を閉める。普通のホテルのようにいない時に来て勝手に掃除してくれるわけではない。ドアには大きな錠前がある。鍵の管理は各自の仕事。インド的だ。そのまま3時のお茶に行き、おしゃべり。そしてようやく頭を洗う。貰った粉の石鹸を水で溶いて使うが、良くは落ちない。でも仕方がない。何回もごしごし洗う。ついでに体も洗い流すとスッキリはした。部屋を出て散歩する。風が気持ちよい。

 

5時からアーサナクラス。参加者は減っていく。基本的に朝と同じストレッチ系。私にとっては弱った筋肉の補強に役立つと思い、頑張ってみるが予想以上にきつい。それでも終わってみると体は軽く感じられ、さわやかではある。その後のプラナヤーマコースはパスして部屋で簡単に自習。

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Hさんを誘い夕飯へ。夕飯も美味しく食べられる。特に体に変化はない。アシュラムだと時間が厳しく決まっている食事も、ここでは各コースに合わせて時間にかなり幅がある。中国人コースはやはり?一番早く、既に皆食べている。中国人の習性をよく分かっているコーディネーターの計らいだろうか。

 

夕食後にあるレクチャー、昨日に続きパスした。どうせ眠気が襲うだけ、それなら部屋で静かにしていて寝てしまおうという、横着な考え。結果、9時にはベッドに入り、あっという間に寝てしまう。何と健康的な生活だろうか。

 

突然ベトナム中部散歩2011(6)ダナン 違うパスポートを渡すホテル

5. ダナン2   (1)   再開発の街

ホイアンからダナンまでは先日空港から来た道を逆走するだけ。マーブルマウンテンを通り、リゾートホテル群を抜ける。このダナン郊外のリゾートホテルを拠点にホイアン・フエを観光する人々もいる。ホテルは現在建設中の物もいくつかあり、リゾート開発、投資が盛んな様子が分かる。ダナンと言う街には観光資源はないが、ビーチがあり、近くに観光都市が存在することに価値があるのかもしれない。

一際立派なホテルが見える。クラウンプラザ、インターコンチGの高級ホテルだ。部屋数も500はある。後で聞けば、ここは中国資本が投資しており、週2便、中国各地から観光客向けのチャーター便をダナンまで飛ばし、このホテルに格安で泊めていると言う。中国式観光がここでも始まっていた。

市内に入るが、それほど発達した都市には見えない。人口は90万人。ベトナム第3の都市、というにはハノイ、ホーチミンとは比べ物にはならない。ただ街のそこここで古い家屋を壊し、新しいビルを建てている。そして一部にきれいな、高層ビルが出現。これからの発展が見えるような光景だ。

(2)  最悪のホテル

ホテルは街中のビジネスホテルと言った雰囲気。部屋は広いが、設備は・・。翌朝の朝食を見ても、ホイアンのホテルとは大違い。突然贅沢になってしまっている自分がいた。3年前ホーチミンで泊まったホテルと同じにおいがした。

街へ出ようとして気が付いた。フロントでパスポートを提示したが返してもらっていない。いや、よもや落としたのでは、一瞬嫌な雰囲気となる。急いでフロントへ行くと、何と『パスポートはフロントで預かることにしている』と、特に問題もないように机から取り出す。取り敢えず、そんなものかと思いながら、返してもらう。

※ベトナムではどこのホテルでも身分証を預かることになっているようだ。ということは、中国などとは違い、街中で身分をチェックされることはない、ということだろうか。その昔の社会主義、「外国人の行動は全てわかっている」的な名残なのだろうか。

翌日チェックアウトの時、驚くことがあった。何とフロントが日本人のパスポートを私に渡そうとする。慌てて手を振ると初めて、中を確認して、『あー、違った』と言う顔をする。これはトンデモナイことだ。日本人だからと言って適当に渡す。もし私がそのまま受け取っていたらどうなるのか、また私のパスポートを他人に渡していたらどうなるのか?恐らく日本人は他人にパスポートを必要とする人はいないが、それでも汽車や飛行機の時間に遅れるなどの被害があるはず。こんなホテルには2度と泊まりたくない。

ついでに言うと、ホテルから駅までタクシーで行くようフロントで教えてくれたが、誰もタクシーを拾うのを助けようとしなかった。これが後でトラブルのもとになる。

(3)    カフェ

夜は近所でまた好物のチキンライスを食べる。チキンがどんとのっかている。スープも美味い。生野菜も付いている。いいねえ、本当に。この店は地元民で相当繁盛している。ここも家族経営のようだ。ベトナムはまだまだ家族が力を合わせて生活していく様子が見える。

街をぶらぶら。道は薄暗いが所々におしゃれなカフェがあり、若者が入って行く。クーラーが効いていて内装がきれい。しかしコーヒー1杯、40000ドン、お金のある年配者が昼間に行くガーデンカフェで20000ドンだし、道端カフェなら6000ドンだから相当に高い。

バーやビリヤード場もおしゃれになっている。若者の資金源はどこにあるのだろうか?街の発展はこのようにしてなって行くのだろう。

カフェに入る気はせず、ホテルに戻る。途中にバンミーを売っていたので、買う。これもまた美味し。ベトナムは何を食べても美味い。幸せだ。

11月2日(水)   (4)   チャム彫刻博物館

翌朝はホテルの部屋の窓からいい感じの朝焼けが見えた。このホテルは市内では高い方。周囲が良く見える。ホテルの朝食はホイアンとは異なり、ガッカリ。そそくさと引き上げる。

今日は昼にはフエに行くので、A師より見るように言われているチャム彫刻博物館を朝一に訪れる。この博物館はホテルから歩いて、10分チョイ。河沿いにある。9時前にやっているかと見てみると既に開いていた。やはり中部の朝は早い。

雰囲気の良い中庭、吹き抜けの平屋の建物にヒンズー教の神々、シバやガネーシャなどの石像がいくつも置かれている。チャンパの遺跡から出土したものだという。ベトナムと言えば仏教を思い出すが、以前はチャンパ王国が栄え、ヒンズー教が信奉されていたことがよく分かる。中部ベトナムはやはり仏教とヒンズー教の文明の衝突点である。

裏庭には相当古い樹木がある。その下のベンチに腰を下ろすと、気持ちの良い川風が吹いてくる。チャンパの昔も、こんな風が吹いたのだろうか。



突然ベトナム中部散歩2011(5)ホイアン 日本人が開いたサムライ食堂

(7)サムライ食堂

6時過ぎにホテルに戻る。結構疲れているので早く寝ようかと思いながら、ネットを繋げ、何気なくFacebookを見ると、「今ホイアンに居るのか」と北京のMさんから書き込みがあった。それがどうしたと書き込むと「折角だからゲンタさんの店に行け、名前はサムライ食堂」と返事が来る。

一体、どうなっているのか、ゲンタさんって、誰、サムライ食堂??それでも行けと言われれば行くのが私の旅。今夜の予定は特にないので、急いでサンダルをつっかけて出掛ける。場所は日本橋の北1分、とある。狭い街だ、直ぐに着く。

日本橋とは、日本人町が形成されていた1593年、日本人によって建てられたと言われている橋。木造で少し沿った形は日本的だが、中国風に屋根が付いた橋である。正式名称は来遠橋であり、日本橋は俗称のようだ。

サムライ食堂は橋の袂、川沿いにあり、直ぐに分かった。何だか暖簾が掛かっているが、外から見ても涼しげな佇まい。古い建物を使っているようだ。早い時間でお客は誰もいない。店にも誰もいない。どうしたんだろうか、奥まで入り込む。

裏に事務所スペースがあり、人の気配が。声を掛けるとそこにゲンタさんはいた。Mさんの紹介で突然来たと告げるとかなりビックリしていたが、それでも快く迎えてくれた。お店に座ってお話を聞く。

若い時は大阪のホテルでウエディング関係の業務をやっており、カナダにも1年行った。リーマンショック後退職。日本に違和感を持ち、転職せず。テレビ番組で偶然見たホイアンに一目ぼれ、直ぐにやって来て2週間滞在してステイ決める。ベトナムは初めて、かつ飲食業の経験もなかったが、ホイアンに住みたい一心で両親から日本食のレシピを習い、練習を重ねて、偶然いい人々と出会ったこともあり、お店を出すことになったという。何だか信じられないような話だが、本人が目の前で話している。 

この街にはスペイ人で店を開いている人などもおり、助けてくれるという。ベトナム人の信頼できる人とも出会い、店の場所も決まり、従業員もすぐ見つかった。ただ仕事より家族を大事にする従業員に最初は戸惑いがあったという。私が訪ねた日も急に休みを取ってしまったようで、店にはゲンタさんしかいなかった。従業員には仕事が出来れば10万ドンずつアップするなど、工夫して何とか働かせている。

この街の良さは「景観を大切にする街」だと。実際店の壁の色も決められているそうで、確かに店も街全体も落ち着きを持っている。これは欧米のNPOなどが働き掛けてその環境を守ったそうで、ベトナム人も感謝する必要がありそうだ。

ホイアンには日本人は殆どいない。また日本人観光客は来るが宿泊する人は少ない。では一体誰がお客さんなのか。ベトナム人には日本食は高い、欧米人がやって来る他、中国人なども来る。日本人はダナンから週末来る人もいるし、夕飯をここで取る人もいるようだ。まあ、ボチボチやっているということか。

将来もずっとホイアンに住みたいというゲンタさん。今はベトナム人、出来れば地元の女性と結婚したいとも語る。ホイアンに一目ぼれ、この街の良さは十分に分かるが、このエネルギーは並大抵のものではない。日本人にも様々な人がいると実感できる。紹介者Mさんに感謝せねば。

11月1日(火)   (8)    朝のフォー

翌朝の目覚めもよかった。ホイアン流に6時台に起き出し、直ぐに外へ出た。今日こそは外でフォーを食べよう。ホテルの直ぐに近くに朝だけやっているフォー専門の家族経営の店がある。そこを目指す。

店には既に大勢の人が来ており、朝ごはんを食べていた。家族で朝飯を食べて仕事や学校に行くのだろう。その為にこの店がある。言葉は通じないが指をさしてフォーを頼むとここのおばさんが座れと指示する。面白い。

チキンフォー、いい味だ。香菜の香りが実に清々しい。スープのだしもよく効いている。思わずお替りしようかと思ったが、思い止まる。フォー一杯2万ドン、河沿いのレストラン、外国人料金の半分でこれだけの幸せが得られた。

散歩に出る。河沿いは気持ちが良い。橋を渡ると、旧市街地にはお寺もあるし、教会もある。小さな街を散策するのは何だか楽しい。何でも直ぐに出会えるからだろうか。そして、少し腹が減り、ホテルに戻り、何とまたホテルの朝食を食べてしまった。しかも今日は何故かフォーがあった。

(9)    チケットを買って

朝食後は小雨の降る中、更にホイアン散策に出る。もうすぐこの街を離れると思うと、どうしても歩いておきたくなる。橋の袂のチケットオフィスで通し券を買う。これだと好きな参観場所、5か所を見ることが出来る。

先ずは博物館へ。ここに日本町時代の日本製の茶碗などが展示されている。江戸時代初期、日本からやって来た商人たち、そしてキリシタンたちもここで暮らしたことだろう。船の往来も頻繁で、マニラ、アユタヤと並ぶ3大日本人町が作られていたようだ。幕府の鎖国政策で帰れる者は日本に戻り、帰ることが出来ない者はこの地で果てたであろう。

お寺にも行ったが、何だか観光地化していて面白くない。きれいに修復されており、雰囲気が出ていない。古民家を改造した展示場もあった。漁業の道具などが展示されていたが、あまり興味をそそられない。それよりも、家そのものの古さ、構造、小さな中庭などは、中華風であり、他の東南アジアとの類似点が多く見られた。それでも中国人観光客がホイアンを訪れることは少ないという。中国内でも見られる風景だからだろうか。

日本橋も渡ってみる。日本人の学生かな、団体が日本語ガイドに連れられて来ていたが、何でもかんでもガイドに聞き、その態度があまり宜しくない。そんなことを聞いてどうするのか。日本語が出来る人への対応は日本人一般に横柄な印象があり、言葉が通じないと押し黙ってしまう、中国人も同じだが。

橋の中ほどに廟があり、参拝している人もいる。橋を眺めていると何だかとても形がよく見える。観光客が押し寄せなければ、実によい橋であろう。橋の向こうにも古民家がったが、直ぐに立ち去る。既に相当疲れていた。雨も止まない。

道の外れに誰も来ない廟があった。中国のどこかの同郷会であろうか。何となく入って見ると、オジサンが暇そうに座っていた。北京語で話し掛けると嬉しそうに、色々と説明を始めた。太鼓を敲いて見せてくれたりした。観光地とは思えない場所、そんな所が好きだ。

ホテルに戻り、チェックアウトする。ちょうどこのホテルの支配人がいた。彼は日本語が出来る。ホテルの給仕から始め、日本語、英語を学び、フロント係などの顧客対応を経て、遂には支配人を任されたという。何というサクセスストーリーだろう。「日本語は忘れた」と言いながら、楽しそうに話してくれた。

 

突然ベトナム中部散歩2011(4)ホイアン 田んぼの真ん中にある日本人の墓

(4)日本人墓地

ツアーから戻り、少し休んでから、再度出掛ける。今度は沢木耕太郎がその著書「国道1号線を北上せよ」で偶然辿りついたと述べている400年前にこの地で亡くなった日本人の墓を訪ねる。今や地球の歩き方にもその一つは掲載されているが、詳しい場所は書かれていない。沢木の文章と、簡単な地図を頼りに、歩き始める。

ホイアンの街中を抜ける。沢木が泊まったのはビンフンホテル。今では1泊80ドルもする高級ホテルになっている。そしてビンフン2,3と合計3つある。その3つを次々に通過して、郊外へ。唯一の情報は「広い道の右側の田んぼの中」、それだけで本当に行けるのだろうか。何故か行けるという確信を持つ。

沢木の文章の中には小学生が道案内したとある。きっと誰か道案内が出て来るだろう、そう思う。しかし予想外に郊外への道が発達しており、高級住宅あり、きれいなショップありで、どこまで行っても田んぼが無い。途中鶏肉を美味しそうに焼いている店があった。とても腹が減る。

そして20分も歩いただろうか。道の反対側で自転車を押すオジサンが、こちらに向かって手を振る。そして近づいてきて、「お墓」と一言。これで通じる。彼は着いて来いと言う仕草をして前を進む。1分も行かない内に、道端に表示が。「BANJIRO」と書かれている。

道脇を入るとそこには本当にお墓があった。亀型のこんもりしたお墓。1928年に文学博士、黒板勝美教授の監督のもと、墓の修復がなされた、との表示もある。「1665年この地に永眠した日本商人 蕃 二郎」との表示もまた見える。

このお墓は民家の中にあった。オジサンがお婆さんを呼んできて、線香の用意をした。お参りの準備だ。このお婆さんが毎日お墓を見守っているという。日本人としては感謝せざるを得ない。線香を受け取り、深く手を合わせる。お婆さんとは全く言葉が通じないが、お布施を渡し、墓とお婆さんに手を合わせれば、それでよい。

オジサンは自転車を押して広い道を進む。このホイアンには全部で日本人の墓が3つ残っているらしい。歩いて10分も掛からずに広い水田風景が広がった。そしてオジサンは指さした。その方向に目をやると、確かに田んぼの中に墓らしいものが見える。まるで浮島のようだ。オジサンの横を少年が自転車を走らせる。

「谷 弥次郎兵衛」、何とかそう読めた。1647年、ここに永眠した日本人商人。うっすらと読める。墓はやはり亀型。沖縄や中国南部に見られる囲みが見える。さっきの少年が掃除を始める。彼とオジサンはセットだった。掃除を済ませ、私に線香を渡す。長い時間、祈った。沢木も書いている。こんな環境の墓に入れるならいいな。確かに田んぼの真ん中に遮るものもなく見晴らしが良い。一つの理想の墓と言えるかもしれない。

オジサンと少年にチップを渡し、一人で墓を見ながら去る。細い田んぼの道では何故か突然別のオジサンが、道の修復を始めた。私が脇を通り過ぎると、手でチップをくれ、という仕草をする。如何にも取ってつけたようなその態度には腹が立ち、無視して去る。少し気分が壊れる。

(5) 早い夕食


その帰り道、小雨が降ってきた。ベトナムではにわか雨は日常茶飯なのか、バイクに乗っている皆がさっとカッパを出して着る。何とも用意が良い。そして先程見掛けた焼き鳥がどうにも気になる。雨宿りも兼ねてとうとう寄り道する。店先で焼いているのを見て適当に選ぶ。中で腰かけて待つ。外国人など来ない場所、片言英語でお茶も注文してみる。





どうやら店先で焼いているのは店員、そして奥にはお婆さんとお嫁さん、そして赤ちゃんがいた。お婆さんは何だかとても親切。お茶はどうやら、店では提供していない自分の家で飲むものを出してくれたようだ。実によい香りがした。

焼き鳥も香ばしく、又大好きな内臓系も美味。どんどん箸が進む。お婆さんがご飯はいるかと聞くのでお願いすると、誰かが近所へ買いに行く。面白い分業体制だ。確かにお互いが提供するメニューを絞り、融通しあう、大切なことだ。

5時過ぎだというのに、若者が4人入って来て、大声でビールを飲んで騒ぐ。彼らは働いているようにも見えないが、学生でもなさそう。ベトナムのニートだろうか。何かよい気分だったのを邪魔された感じで店を出る。お婆さんは「また来てね」とほほ笑む。

(6)旅行会社で

市街地に入ると、コンビニがあった。ここでコーラを買う。ベトナムもどんどんこのような形態の店が増え、我々からすると便利になっている。地元の人は便利なのだろうか。店の前の看板をふと見ると、「エアポートまで12.5万ドン」と書かれている。

そうだ、明日はダナンへ行く。さっきホテルで聞いたら、バスはとても面倒で勧められない、タクシーだと30万ドン(1200円)だ、と言われていた。もし空港まで12.5万ドンなら市内でも同じはず。これは安い、と中へ入る。

おばさんに聞くと「2人で乗って、一人12.5万ドンだよ」と言う。そういうことか、相棒がいればな。でもこれならきっと他に安い方法があるに違いないと思い、その店を出て街中を探す。ところが・・2軒ほど聞いてみたが、どこもタクシー1台が30万ドン。それなら最初の店で相棒がいなくても25万ドンだから、それで行こうと戻る。

おばさんはやっぱり帰って来た、という顔で迎える。やはりこの界隈では安いのだろう。ふと壁を見ると、ダナン‐フエの列車の時刻が書かれている。これはダナンで買おうと思っていたチケットだったが、おばさんが席が無くなるかもしれないと脅かすので、購入する。そしてタクシーの方も明日までにもう一人搭乗者が来れば、12.5万ドン、来なくても23万ドンで交渉成立。因みに列車代は12万ドン。しかしダナンからフエまで3時間掛かることになっているが、地図で見る限り、どう見てもそんなにかかるとは思えない。