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インド アユルベーダの旅(17)プネー 南インドの音楽に魅了される

直ぐに出て来ないお茶

4時前にラトールさんにリキシャに乗せてもらい、チャルンシュンギというお寺に向かう。ここでA師夫妻を待ち合わせだ。リキシャはメーターを付けており、これで料金を払うことになっていたが、接触が悪く、途中でランプが消えるなど、不安定だった。それでも何とか持ち直し、100rpちょっとでお寺に着いた。

 

このお寺、かなりの規模があり、門の所には多くの女性が座っていた。奥の方には大きな建物が見え、それを見学に行こうと思ったところへA師がやってきたので、中は見ていない。これからA師のプネー時代の恩師、パルサネ教授の自宅を訪ねることになっていたのだ。自宅は寺のすぐ近くにあった。というか、昔はこのアパートの敷地は寺の地所だったらしい。

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教授は80歳前後、A師が在学した90年代初頭、プネー大学哲学科の主任教授で、師弟関係が出来ている。奥さんを10年前に亡くして一人暮らし。家事などは家政婦さんがやっているらしい。広い自宅は2つのアパートの部屋を繋いで1つにしている。教授は時々詩を書いており、既に本を4冊出した。突然英語で作った詩を朗読してくれた。

 

30分ぐらいお話していたところ、おもむろに『お茶の用意をしよう』と言って立ち上がった。これが伝統的なインドだとA師はいう。我々の世界ではお客が来たら、すぐにお茶を出し、お菓子をだすが、インドでは、先ず世間話をしてから、お茶の用意が始まり、スナックを食べ、最後にチャイを飲むのだという。そしてこのパルサネ家でもそのように事が運んだ。何という違いだろうか。勿論今はインドも忙しい人が多いので、これは時間のあるケースだろう。

 

ただそのスナックというのが相当ヘビーなご飯のようなもので、教授手ずから皿に取ってくれたのだが、相当の量になっていた。お団子のようなものも食べ、腹一杯。更にバナナも渡され、ギブアップ。これは午後のお茶というより、ランチに近い量だ。それからチャイが出た。砂糖は入っていなかったので、そのまま飲んだが、上質のミルクティだった。今朝までの禁欲的な生活がここで一変した。

 

教授の息子がたまたま来ていた。ドキュメンタリー映画の撮影などをやっているという。商業フィルムは撮らず、社会的に意義のあるものを撮っているらしい。さすが教授の息子。俗人とはかなり違う。

 

コンサートに行き南インドの音楽に触れる

教授の家を辞し、リキシャでコンサート会場へ向かう。インドで音楽のコンサート、ちょっとピンと来なかったが、そのようなソサイアティがあり、A師は古くからの会員になっている。バラモンのコミュニティーだそうで、この辺にカーストが見え隠れする。

 

コンサートは既に始まっており、300人ぐらい入りそうな会場が満員になっている。私は会員の友人として、200rpを支払い入場。席は全く空いていなかったので、会場袖の高くなったところに座り込むしかない。そこにも既に人がいるほどの盛況だった。

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南インドの音楽、カルターナト。バイオリンを逆さにして弾くインテリ風、細長いドラムを軽快に敲く髭もじゃ、そして真ん中にはどしっと座った歌姫が、情感たっぷりに歌う。ベースになる(シタール?)は電子音、歌姫が調整している。歌姫は歌う時、右手で膝を叩き、リズムをとる。会場の聴衆も自然に右手が動く。

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歌は延々と続いて行くのに、飽きなかった。むしろどんどん引き込まれていく。これは私にしては珍しい。勿論この演奏家が上手いということもあるのだろうが、このリズムと歌に魅了される。普通は座っていると足も痛くなるのだが、今日はそれもない。これはアーサナのお蔭だろうか。それにしても、歌い続けている。時々バイオリンやドラム独奏もあるが、2時間も続けている。

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A師によれば、この2時間がクライマックスへののどの調整だという。だが残りの1時間も、それほど違わない調子で歌い続けていた。高音で、どこか哀愁があり、しかし暗くはない。南インドは私が知るこれまでのインドとは別世界のようだ。次回は南へ行こう、とこのとき心に固める。

 

8時半過ぎにコンサートが終わると、ラトールさんが待っていてくれた。バイクで帰宅する。明日は6時出発である。ラトールさん夫妻も忙しい。だが夕飯を作ってくれた。これは有難かったが、夜10時半に食べると、もうカイバリアダーマの生活は一気に崩壊し、世俗に戻る。いや、戻るというより、突き抜けた感じだ。

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新疆北路を行く2011(3)トルファン 風力発電とカレーズ

スパゲティーをイタリア人に教えたのは
そのレストランは1階と2階に分かれており、1階は庶民的、2階は豪華な感じであった。我々は真っ直ぐ2階へ。しかし2階ではちょうど従業員のミーティングの最中。開店前に入ってしまったらしい。外国人だからだろうか。

実はこのお店、S氏の知り合いが経営者であった。その経営者はやはりウイグル人で、しかも大阪に留学していたという。帰国後大学で教えていたが、辞めて友人とレストラン経営をはじめた。経営は順調かと聞くと「ボチボチですね」と日本語で答える。実に落ち着いた雰囲気。日本の料理を参考にしたか、と聞くと、サラダにわさびを入れただけとか。このサラダ、後で食べるとなかなか美味しい。

ようやく従業員が動き始めた。先ず大皿にスイカとハミ瓜が運ばれる。このハミ瓜は日本のメロンのようで本当に美味しい。どうしてこれを日本に輸出しないのか、と食べた人は皆思うフルーツ。ハミ瓜にかぶりつく。これは美味い。スイカも大きく切られていて、甘い。取り敢えず料理の前のフルーツ。そしてなぜか主食の麺が登場。

このラグメン、という名前の麺。麺にこしがあり、かつ上にニンジン、トマト、などの具を炒めた物を載せて、かき混ぜてから食べる。実に美味しい。まるでスパゲティーのようだと言うと、J氏が高らかに言う。「スパゲティーをイタリア人に教えたのはウイグル人である」、なに、それは初耳だが、確かにこの麺と具はスパゲティーである。説得力あるなあ。

更にJ氏は続ける。「ピザもイタリア人に教えた!」、えー、それは・・。しかし確かにピザの生地はある意味ではウイグル人がいつも食べるナンである。具もスパゲティーと同じような物か。それにチーズは山羊のチーズを使えば・・、ピザもできるね。これは驚きである。

そしてシシカバブ‐が登場した。このカバブー、羊の肉が実に柔らかい。塩味も程よく聞いている。うーん、この店は実にウマい。東京に出店欲しい、と伝えたがオーナーは、「日本でのビジネスは難しい。材料もない。ウルムチで十分」と断られた。

そして周囲を見てみるとビックリ。いつの間にか日が落ち、お客さんが集まっていた。皆いい服を着て、社交場のように集まっている。女性が多い。S氏によれば、「男性はラマダン中、各人の家に集まり、毎日宴会をしている。女性たちはレストランにやって来て、食べている」うーん、ラマダンのイメージは崩れる。面白い。

外へ出るとまだ完全には暗くなっていなかった。突然大きな音がした。道路を見ると車がぶつかっていた。そのぶつかり方が普通ではない。道のど真ん中で、前の車が急に左に曲がり、後ろの車がその横腹に突っ込んでいる。どうしてこうなるのか。両方の運転手が言い合いをしていたが、何故か警察は来ない。その内話が着いたのか、両車は何事もなかったように走り去った。

ネット騒動
長い一日が終わり、ホテルへ。荷物をM先生の部屋に預けており、それを引き取ってようやく自分に部屋に落ち着く。そして唯一の懸念、インターネット接続を試みる。が、普通ホテルの机の上にあるネットケーブルが出ていない。引出しにも入っていない。どうなっているんだ。ある程度以上のホテルでネットが繋がらないはずはない。

仕方なく、フロントに電話。しかし、「ネットケーブルが無いのなら繋がらないわね」とすげなく電話を切られそうになる。そんな馬鹿な、何とかしてと訴えると、「でもケーブルの予備はない」と言い放つ。訳が分からず食い下がると「じゃあー誰か見に行くから」と如何にも困ったといった感じで答えが来る。

そしてやって来たのはトランシーバーを持った警備のおばさん。私の訴えを聞いても、「なければ仕方がないわね」と帰ろうとする。そんな、何とかしてくれ、と再度叫ぶと「そんなに困っているなら探してきてあげる」と言って出て行った。

一体どうなっているのだろうか。ネットケーブルの予備が無いとは。お客の中にはケーブルを持ち去る人もいるだろう。その予備ぐらいは当然備えていなければいけない。顧客サービスの基本がなっていない。

5分ほどして警備のおばさんが戻ってきた。手にはやけに短いケーブルを持っている。繋いで見てくれというと「あたしは何にも分からない」と答える。じゃあーこのケーブルはどうしたんだ。「予備はないから、オフィスで使っていたケーブルを引き抜いてきてあげた」と言うではないか。これはトンデモナイことだが、私にとっては実に有難いことだ。

その短いケーブルを電話線ジャックに繋ぐと確かに接続できた。但し線が短すぎて机の上にPCを置くことは出来ず、荷物置きの上にPCを備えて何とかメールチェックした。それでもおばさんの行為には懐かしい何かを感じ、無性に感動していた。

8月13日(土)
(3) トルファン
時差の関係から日の出は遅いと思っていたが、北京時間午前7時過ぎには既に明るくなっていた。しかしホテルの朝食は8時から、今日の出発も10時からと基本的には新疆時間感覚で動く。ウルムチは日中の日差しは強いが、朝夕はだいぶ涼しく、気持ちが良い。

10時にJ氏、S氏そしてN嬢が登場した。N嬢は今年の3月まで横浜の大学の大学院に留学していた才媛。正直服装からしても眼鏡一つとってもウイグル人には見えない。彼女自身も「日本ではよく日本人に間違えられた」というぐらい。ウルムチでは目立つ存在か。7月から新疆財経大学に正式の採用になったとか。立派な先生である。

今日は元々列車で夜到着予定が昨日着いてしまったエクストラデー。協議の結果、トルファン日帰り旅行となった。車も急遽手配。観光シーズンで難航したが、何とかJ氏が確保してくれた。そのバンに乗り込んだのだが、S氏は「まだ朝ごはん食べてない」と車を街中に停める。ついでに水も確保して出発。

トルファンの風力発電
トルファンは中国でもっとも標高が低い場所。何と海抜‐154m。ウルムチからだと一気に1000m近く駆け降りることになる。片道2車線の道を車は軽快に飛ばす。天気も良い。絶好のドライブだ。

途中付近一面に巨大な風車のようなものが見えてきた。思わず車が停まる。何だこれは。白い羽がグルグル回っている。風力発電の設備がどうだろうか、数百台設置されている。確かにこの辺りは盆地で風が強い。風力には適しているかもしれないが、これだけの規模とは。流石中国。

現在中国全土には3万4千本の風車があると言う。この5年間で設備容量は20倍に伸び、アメリカを抜いて世界一になっている。しかし中国国内では内モンゴルが約3割のシェアを持ち、新疆は上位5位にも入っていない。恐らくは新疆内の電力は十分足りており、もし内地に電力を送ろうとすれば、送電線の問題があるのだろう。

思い出すのはお知り合いの経済作家黒木亮氏が「排出権商人」(講談社)執筆の為、単身ウルムチに乗り込んだ話。彼が見た風景もこれだったのだとようやく合点がいく。因みにこの本には私も色々と協力している。

観光客が見学するための博物館も建設中だ。これは中国が国家政策として推し進めているプロジェクト。実際に目の前で見ると壮大だ。もしこれで本当に電力が賄えるのであれば原発は不要なのだろうか・・。組み合わせが重要か。

中国人観光客が工事現場に足を踏み入れ、写真を撮っている。私も撮ろうと思い、踏み込むと何とそこは砂漠の砂。一瞬にして足が砂だらけになり、靴に砂が入り込む。これには参った。砂を落とそうにもそう簡単ではない。

カレーズ
180㎞、約2時間のドライブでトルファンに入る。先ず訪れたのが、カレーズ。カレーズとは地下水路のこと。イランでは「カナート」と呼ばれるらしい。トルファン名物のぶどう棚の下を通り、博物館へ。

博物館で一通り説明を見る。そしてそのまま地下へ。カレーズは新疆全体で1700本以上存在するが、トルファンだけで400本を超える。2000年の歴史を持ち、今でも一部農村では飲料、灌漑用水などとして使用されている。

この地下水路、2000年も前にどうやって作ったのだろうか。説明を読むと、勾配を利用していかなる動力も使わず、地下水を地上に組み上げていると言う。「トルファンの母なる川」と評されているが、それは本当にそうであろう。この水が農作物を育て、人々の生命を維持し、オアシスを繋いできたのである。

しかしなぜ地上ではなく地下だったのか。一つは極度の乾燥地帯であるため、地上では砂に水分を吸い取られること、もう一つは地表の塩分を吸った水は農業に適さなかったかららしい。この地区では富がたまれば水主になる、と言われていた。それ程水は重要だったのだ。水枯れはイコール滅亡である。

地下へ降りると、狭い空間があり、柵が施された僅かな合間に水が流れている。我々が狭いと感じるのであるから、この工事をした人々は大変な苦労をしただろう。治水とは命懸けであり、それほどまでに重要である。

上に上がると明るい陽射しに包まれて目がくらむ。外では民族衣装を着た女性がブドウジュースを販売。飲みたかったが・・。ウイグル人にとっては観光地でジュースなど飲みたくないだろうな。駐車場脇に水が流れている。見るときれいな水だ。思わず降りて手を洗う。少し冷たく、そして心が洗われるような気がした。

 

新疆北路を行く2011(2)ウルムチ 楼蘭美女と地下商店街

楼蘭美女は出張中
M先生が博物館に行きたい、ということで、市内中心にある自治区博物館へ。北京時間4時までに入場しないと閉館と聞き、急いで行く。現在中国の博物館はどこも無料。これはとても嬉しいサービスであるが、中には参観者が多過ぎて困る所もある。

ここは閉館間際でもあり比較的空いてはいたが、それでも団体観光客が多数いた。我々は勝手に参観しようと思っていたが、J氏はどこかへ消え、何かを探している。10分ぐらい待つと、何と日本語の若い女性ガイドさんが登場。13の少数民族について詳しく解説を始める。

私が注目したのは中国東北地方から清朝時代に移住させられたシボー(錫伯)族。実は中国では既に満州語は死語となっており、満州語が読み書きできる人々はかなり限られている。満州族はとっくに漢族化してしまったと言うこと。清朝時代の資料もある程度は漢文で書かれているようだが、勿論満州語で書かれている物もあり、現在この資料が読める唯一の民族として、中央政府もシボー族を北京に呼んで、解読に当たらせていると聞いたことがある。何だかとても不思議な話だが、中国の少数民族を考える場合、示唆に富むエピソードかもしれない。

そしてこの博物館のメインは「楼蘭美女」。約3800年前に埋葬された女性のミイラであるが、その保存状態の良さなどは驚くべきものがある。1980年にタクラマカン砂漠の東、楼蘭鉄板河遺跡で発掘され、世界を驚かせた。NHK特集シルクロードでも放映され、鮮烈な印象がある。

ガイド嬢が「楼蘭美女は出張中です」と残念そうに、そしてちょっとユーモアを持って宣言する。中国国内の他の博物館に貸し出されている。しかしこの博物館には他に2つのミイラがある。おばあさんと男性である。楼蘭美女は美女と言うのに、隣はおばあさん、彼女が言うには「楼蘭美女は身分が高い女性、このおばあさんは普通の女性」だそうだ。死んでも身分を問われるとは何となく悲しいが、歴史的な遺産としては大事なこと。男性のミイラは張さんと言うらしい。これはこれで面白い。

このガイド嬢、聞いてみると今年大連外国語学院日本語学科を卒業して、ウルムチにやって来た。小声で「新疆のことはまだよく分かりません」と言うのが初々しい。今日は日本人のお客さんも多く、我々が5組目とか。最後はかなり疲れていたが、元気に手を振って見送ってくれた。それにしても人材不足の新疆、内地(新疆では中国他省をこう呼ぶ)から沢山の若者がやって来ている。

ウルムチの日系地下商店街
ウルムチの市内中心に日本人が作った地下商店街がある、という話は以前より聞いていた。辰野名品広場、新疆人なら誰でも知っている。我々も連れて行ってもらった。1998年に建築面積約3,300平方メートルでオープン、現在では当時の約3倍の11,000平方メートルにまで拡張された。

なぜこんな所に日本企業が?それは大阪の辰野と言う会社の辰野専務による決断だったらしい。ウイグル人留学生の誘いで訪れたウルムチ、そこに可能性を感じたとあるが、それは当時としては凄い決断だろう。この感覚は見事的中し、政情不安などがありながらも、今では辰野の地下街はウルムチの名物。

実際行って見ると、地下商店街という感じではなく、先端ファッションを扱う日本のブティック街。DHCなど日本メーカーも店舗を構えていた。ウイグル人によれば、個々の価格はかなり高いということらしい。

09年ウルムチ暴動があった年、辰野氏は亡くなった。暴動を見ていたらどんな思いだったろうか。名誉市民の称号が与えられている。

堂々とした両替
辰野の地下街に入る所に、中国銀行があった。そこの前にはウイグル人のおじさん達がたむろ。一瞬にして25年前の上海が蘇る。当時外国人はバンドにある中国銀行に口座を開き、送金があるとそこへ手続きに行く。外にはウイグル人が待っており、必ず「チェンジマネー」と声を掛けられる。闇両替はレートが良いとのことだったが、当然違法であり、時々外国人留学生が捕まって、新聞に載ったりしていた。

ウルムチのおじさん達は何と正にその闇両替屋であった。がどうみても闇ではない。実に堂々としており、人民元の札束を手に握りしめ、お客が来ると銀行内に一緒に入り、お客の外貨を確認している。そして何と店内に備えられた現金数え機に自分の人民元の現金を入れて見せ、偽札でないことを証明していた。これは一体何なんだ。銀行も黙認している両替である。

実は北京ではこれほど大胆ではないが、非合法の両替は存在している。そして銀行側も顧客サービスの一環として彼らを紹介していると言われている。中国における外貨両替は一人年間5万米ドルまで。どうしてもその枠をはみ出す人は非合法の手段を使わざるを得ない。それは違法と言うより庶民の知恵のようなものだが、ウルムチのそれはちょっとした知恵の域は遥かに超えている。中国経済の規模が拡大する中、外貨両替枠の拡大があってよいのでは、と思うのだがどうだろうか。

大バザール
車で大バザールに向かう。市内の南、モスクが見える。するとその横の建物に何とカルフールのマークが地味に溶け込んでいた。そういえば、確か以前イスラム社会とカルフールで悶着が起きていた気がする。そうするとこれはカルフールが出来るだけの配慮をした結果なのだろう。中にはケンタッキーもあったのだが、いずれも自らのブランドカラーは消している。商売はお客様次第ということか。

確かに大バザールと言うぐらいだから規模は大きい。何でもイスタンブールに次ぐ規模とか。私のイメージのバザールは屋外だが、ここは屋内。大きな建物が3つほどあり、店舗は中にある。干しブドウが目に入る。名産品である。ジュータンがあり、玉など宝飾品がある。内地から来た観光客が、土産物を買い込んでいる。ここでは基本的に北京語で事が進んでおり、観光客向けの市場である。中東からも多くのバイヤーが来ていると聞いたが、その姿は見られない。

N先生が楽器の前で止まる。ウイグルの民族楽器、タンバリンのような楽器を買う。J氏は折角ウイグルの楽器を買うのだったら、ウイグル人から買って欲しいと言ったそうだ。そのあたりにこの地域の難しさが顔を出す。売り子は少数民族が多い。ベールをすっぽり被っている女性が携帯電話をいじっている姿は何となく微笑ましい。

夕方も6時半を過ぎたが、日の高さから見ても午後の早い時間帯にしか見えない。新疆には新疆時間と言う時差がある。北京とは2時間。まだ4時半と言うことだ。しかもさっき3時前に昼食を取ったばかりだが、レストランに向かう。





インド アユルベーダの旅(16)ロナワラ 娑婆に出た

1月26日(日)

とうとう最終日の朝を迎えた。いつものように6時にキッチンへ行くと誰一人いない。日曜日の朝は寝坊らしい。いつも来る日本人学生2人も今日はホテルで朝飯を食べると言っていた。キッチンスタッフが手持無沙汰に話し掛けて来る。こんなことは初めてだ。ジンジャーティもこれが最後か。でも半分しか飲めない。虫刺されは気になるが、キンカンも忘れてきたらしい。なすがままだ。

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最後の朝のアーサナは先生が違っていた。当然のように行う項目も異なっている。Hさんが言っていた『(いつもの先生は)ストレッチ系が多過ぎ』の意味が分かる。この先生は無理にストレッチをさせず、体と心をほぐすことを重点に行っているようだ。更に心地よい朝となった。

 

朝食をさっさと食べ、最後のジンジャーティを飲み、そして散歩しながら1週間かかわった場所を訪れ、何となく頭を下げた。そんな気持ちだった。9時には部屋に戻り、荷物の整理を終え、少しゆっくりしようとしていると、部屋のドアがノックされ、ドライバーが到着を告げる。ゆっくり荷物を降ろし、オフィスへ行ってチェックアウトしようとしたが、特に何もないと言われ、車手配師のシーク教徒、クックジーの指示で車に乗り込むと、そのまま走り出してしまった。Kさんぐらいには挨拶しようと思っていたが、カイバリアダーマは遠くなっていった。

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 6.プネー2

娑婆に出た

日曜日のせいか、プネーに向かう道路は空いていた。車は思いの外のスピードで進んでいく。周囲は畑や荒れ地もあり、また家が建ち始めているところもあった。この辺りは今後急速に景観を変えていくのかもしれない。話によれば、プネーの空港は今後ロナウラ、プネーの中間あたりに建設されるらしい。いつのことかはわからないが、動きは出て来るだろう。

 

1時間後にはA師の家の近所までやってきたが、運転手が不慣れで、家を探すのに手間取った。この辺り20年前は何もなかった所だったというが、今ではこぎれいなショップが並んでいた。地価が上昇し、元々あった小さな雑貨屋や果物を売る店は立ち退かされ、住むには不便になってきているようだ。

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A師の家は築30年近いアパート。しかし近代化の波は確実に来ており、4Gの接続が昨日終わったのだという。勿論何度も試行錯誤があり、1週間近くかかったようだが。パナソニックのテレビを買い、今日のイベントを見るのだという。インドでは家電はサムソン、LGの韓国勢が圧倒的に強いが、パナソニックも値段を下げて対抗し、健闘しているとのこと。日本製への信頼を武器に、どこまで頑張れるのか。

 

今日のイベント、というのは、ナショナルホリデー。デリーではパレードや式典が催されるが、その主賓は何と安倍首相だという。これにはどんな意味があるのだろうか。日本関係の業務をしているラトールさんなどは、大いに期待を寄せているが、うーん、どうなんだろうか。少なくとも日印関係が良好な証拠には違いないのだが、相手のシン首相も4月に引退することをすでに表明しているので、どの程度の意味合いかはわからない。

 

A師夫妻と共に、プネー大学に寄る。この大学の古い建物はイギリス時代、ボンベイのガバナーの夏のオフィスや宿舎として使われた歴史的なところ。最も象徴的な建物は、長い間保存工事中。また広大な敷地には、ジャングルのような場所もあり、まだまだいくらでも校舎を建てられる余地がある。気象台なども敷地内にある。

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学生が使うカフェに行ってみた。屋外に日差し避けがある程度、お世辞にもきれいとは言えないが、何だかいい雰囲気ではある。ここで1週間ぶりにチャイを飲む。まだ腹に異物を入れる感じは残っているが、美味い。

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そこからラトール家に行き、5階の部屋に行ってみると、ベッドがソファーに替わり、来客があった。日本から来た老人、インドで日本語を教えたことがあり、ラトールさんとも付き合いがある。このあと、一緒にケララ旅行に行くという。A師も交えてしばし歓談。その後A師夫妻は車で空港へ出迎えに行ってしまった。私は勝手知ったる家として、またラトール家に投宿する。

 

腹が減ったような、お腹に入れたくないような、不思議な時間が流れた。3時前にラトールさんがランチを持ってやってきた。実に久しぶりに普通のインドの食事をした。この家の主婦、ビハさんの料理はとにかく美味い。娑婆に出た感じがした。

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インド アユルベーダの旅(15)ロナワラ 尻からオイル漏れ?

1月25日(土)

尻からオイル漏れ?

朝、ジンジャーティをいつものように飲む。ちょっと正常に戻った感じだが、まだ沢山飲むよう状態ではなかった。そして7時過ぎにHさんがムンバイへ向けて出発した。今回はHさんのお蔭で実にスムーズにパンチャカルマに入れた。あまり細かい指示の無いインド、Hさんに聞けば何でも分かったので、大いに助かった。ちょっと寂しい。Kさんも見送りに来ていた。

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そして少し遅れてアーサナクラスへ。途中からアーサナをやると、ちょっとキツイということが分かる。また体力が万全ではないせいかもしれない。今日は土曜日であり、なぜか初めてアーサナをやるようなインド人が何人か来ていた。最後まで真面目に出席していたのは私ぐらいかもしれない。でもアユルベーダとヨーガ、これを組み合わせることがカイバリアダーマの特徴であり、効果を上げるポイントらしい。

 

8時半にいつものようにトリートメントへ行く。今日は全身マッサージ、そしてスチームバス。更に最後に小型注射器で耳にオイルを入れていた。そして綿で耳に蓋をする。2時間は外さないようにと指示が出て、耳が聞こえ難い状態となる。耳にオイルが入っている、何とも不思議な状態だ。

 

9時半に朝ごはん。もうあまり食欲もなく、お粥を食べる。ようは食べたいものがないのだ。そしてすぐにライブラリーへ行き、ネットを繋ぐ。スパイスジェットの予約を今日こそはしなければならない。ところが昨日と別の予約サイトもエラーとなった。これはインドを離れるな、というサインか。この体調と食欲では早くバンコックに戻りたい。その執念が再度スパイスジェット本体の予約画面に入らせ、そして見事に予約できた。でも料金は来た時より1500rpも高かった。まあ仕方がない。LCCなので食事が提供されないため、食事の予約までしてしまう。食べることを渇望している。

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更に予約画面をプリントする必要がある。インドの空港では以前は予約画面や旅行会社の予約を証明できないと空港内に入れないことがあった。今回は大丈夫だと思うが、念のため。ライブラリーはあと5分で午前の閉館となると言われたが、根性でライブラリー備え付けのPCを使いプリントした。その紙はかなり掠れているが、文字は読み取れる。10rpを支払うのに、大仰に領収書が切られる。その為にオジサンが一人座っているのは、如何にもインドだ。

 

ランチにとうとうチャパティが登場した。ほぼ普通の食事に戻っている。ただサラダなどは食べさせてくれない。パンチャカルマ中はサラダとフルーツはご法度のようだ。美味しいはずのチャパティだが、黙々と食べる。今や食べるために物がある感じで決して楽しい食事とはならない。

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直ぐに食べ終わってライブラリーの方へ散歩に行く。日本人のNさんとSさんがいた。Nさんは仏教に興味があるようで、スリランカの話になる。ケララで働いたこともあるという。次回のインド訪問時はケララ州のウーティに行きたいと思っているので話を聞く。そこにニルギリの茶畑があるところのようだ。

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1時半にいよいよ最後のトリートメントがあった。最後は簡単にするのかと思いきや、確かに時間的には短かったが、ちょっと大変なトリートメントだった。先ずは湯たんぽでお腹を温め、それからお尻を温めた。そしてなんと、何の前触れもなく、お尻の穴に棒のようなものを差し込んできた。これには驚く。それから結構な時間、差したままで、そのまま抜いて終了。一体何をしたのか、全く分からなかったが、それからが大変だった。

 

実はお尻の奥にオイルを入れたらしい。それでその後、便意が来るとオイルが穴から逆流するのだ。パンツもズボンもオイルまみれ。オイル漏れとは笑えない。相当長い時間トイレに行き、オイルを洗い流さねばならなかった。外出もできずに困った。

 

マッサージ師は部屋に戻れとしか言わなかった。結局ドクターからの話はないのか、と安堵したが、同時に折角だから聞いてみようという気になる。オフィスへ行くと担当が『え、ドクターとの面談をしていない?それは大変』とドクターに連絡を取っていた。その間にもオイル漏れがあり、部屋に戻る。

 

ドクターが来る前に体重を量ってみた。70.5㎏だった初日から何と3㎏も落ちていた。まあ当然だろう。今後のリバウンドが問題か。ドクターは私のカルテを見て、『健康だ』という。そして食べ物の制限も『生のトマト』の僅か1つ。薬も不要なのでサプルメントを1つ出す、とだけ言う。

 

勿論これからもギーを食べろなどと無理な注文は言ってきたが、基本的に生活に支障はない。これまでの私の旅生活は不健康だと思っていたが、サラリーマン時代よりは余程健康的だったのだろう。ストレスのない生活が健康に一番良いことの証明ではないか。『食べ過ぎに注意』という表現が当たっているようだ。これで気持ちが楽になり、ネットなどをして過ごす。5時からアーサナを行い、6時にはシャワーを浴び、7時過ぎには夕飯を食べる。どう見ても健康的な生活を続ける。

 

だが食事への渇望とは裏腹に、食べる量は多くはならなかった。ライス系は食べず、チャパティ3枚をおかずにつけて食べるだけ。後はお湯を飲む。これでも生きていくには十分の食事量らしい。とすれば、我々は如何に食べ過ぎているのか。食事のバランスと言いながら、品数を増やしているのは、ビジネスの陰謀ではないのか。それでも日本食だったら、たくさん食べられるような気がする。妄想だろうか。

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今日はこれまでのベッドと反対のベッドに寝た。ギーの匂いが染みついたシーツを敬遠したのだが、なぜかこちらには虫がいたらしく、脚を何か所も刺された(実は刺されたのではなく、パンチャカルマにより出てきたものらしい)。そろそろ娑婆が近づいてきている気配がする。夜中に廊下で日本語が聞こえたのも妄想だろうか。それにしても毎日9‐10時間寝ている。ネット接続の短さと茶を飲まない効果だろう。

新疆北路を行く2011(1)ウルムチ ラマダンの食事はフルーツから

《新疆散歩》 2011年8月12-20日

中国の新疆と言えば、シルクロード。ちょうど私が大学に入る頃、NHKが「シルクロード」という番組を放映し、改革開放政策と相俟って、大ヒットを飛ばした。あの喜多郎の雄大な音楽と石坂浩二のナレーションは未だに耳に残っている。中国ブームのはしりだ。

どうしても新疆に行きたい、いやシルクロードを辿ってみたい。その希望は何度も打ち砕かれてきた。1987年上海留学の最後に計画した西安‐カシュガル横断旅行は、仕事でダメになった。2000年、北京在住中には、内モンゴルにはよく行ったが、それより西に行く機会は訪れなかった。

2007年に再度北京に住んでからは、兎に角毎年夏になると計画した。しかしその度に、航空機爆破未遂、ウルムチ暴動などが発生して、旅行は中止になった。辛うじて西安に初めて行き、蘭州にも行った。こんなメジャーな都市にこれまで一度も行かなかったのかと、友人には笑われた。しかし個人的には「新疆は老後の楽しみ」と割り切り始めていた。

今年に入り、お世話になっているA大学のN先生より、「夏の辺境調査は新疆だ」と聞き、俄然行く気になった。幸い会社に行かなくなり、時間は自由になった。この辺境調査、単に辺境に行くだけではない。各地の政府、大学、工業団地、企業などを訪問し、話を聞く。これまで広西壮族自治区、ウランバートル、延辺朝鮮族自治州の調査に同行しており、その有意義な様子は理解している。イメージと違った新疆が見られるかもしれない。

北京からウルムチまで33時間を列車で行く、というN先生に最初から同行することにした。しかし夏の新疆は旅行のハイシーズン。結局列車の切符は取れずに飛行機で行くことに。ちょっと残念でもあり、ホッとした面もある。やはり体力の衰えを自覚し始めている。

 2011年8月12日(金)
1. ウルムチ
(1) ウルムチ行きにテロ警戒の気配なし

北京空港は夏休みのせいか、乗客がいつもより多い。荷物検査も混んでいた。以前成都行きに乗った時、何故か特別検査ゲートを指示されたことがあった。そこでは靴も脱ぎ、ベルトも外して検査する念の入れよう。理由を尋ねたが誰一人答えなかった。後で分かったことはその飛行機が成都経由でチベットのラサ行きであったこと。経由便でもそれほどの警戒があるのであるから、ウルムチ直行便などは当然特別検査対象と思っていたが、結局すんなり通過してしまう。どうなっているのか。

因みにこの時は全ての荷物を機内持ち込みにしたが、何も引っ掛からなかった。ところが最後に北京から東京に帰ろうとした国際線の荷物検査でシャンプーを取り上げられた。係官は「容器が100ml以上の場合、中身が100ml以下でも没収の対象」と説明。何となく納得が行かずにいると係官は対象法令を指さす。そこには「容積が100ml以上・・」とある。容積とは中身ではないのか?しかもこれまで一度も引っ掛からなかったことを主張してみたが、「荷物を預けろ」と言うばかり。これを見ても中国の検査が結構いい加減なことが分かる。テロ対策大丈夫か。

N先生ともう一人M先生と空港内で合流した。M先生も80年代北京に留学したつわもので、毎年中国に学生を連れてやって来ており、今回も北京師範大学に学生を送り込んでこのツアーに参加している。更にはこのツアーの後、モスクワに行く予定もあり、日本に戻るには何と9月下旬という凄いスケジュールの持ち主だ。このように熱心な先生がいるんだなあ、と妙に感心。

3人でコーヒーを飲んで話し込んでいると、出発30分前になる。最近国内線は招集も早く、どんどんドアを閉めて出発する傾向にある。慌ててゲートへ行くと案の定殆どの乗客は既に乗り込み、我々は完全に出遅れていた。客室内は満員、自分の席に行くと、隣の中国人が「友人と席を替わって欲しい」と言う。満員の為一緒の席が取れなかったようだ。替わってあげたが、私の荷物を納める所がなく、苦労する。夏休みで子供の姿も多く、本当に観光シーズンを感じる。日本で言われているテロや暴動を想起させる新疆のイメージは全くない。

国内線で4時間のフライトは初めて。エアーチャイナのサービスにははじめから期待してはいないが、機内食は相変わらず不味い。隣のおじさんはイスラム教徒(回教徒か)らしく、ベジ料理を頼んだが、「予約の時に言ってくれなければ困る」などとCAから言われ、しょぼんとしていた。そうは言っても結局はベジが出て来たところを見ると、やはりこの路線でのニーズは高いらしい。

(2) ラマダン中の食事はフルーツから
午後2時にウルムチ空港に到着。非常に近代的な空港で驚く。何とターミナルが3つあるとか。既に規模は北京並みか。空港内には経済開発区の宣伝や、中欧博覧会の開催を知らせる案内が出ている。ウルムチは政治や民族ではなく、経済都市をアピールしている。外に出ると日差しが強い。

空港には新疆財経大学の副教授J氏とS氏が迎えに来てくれていた。J氏はA大学で博士号を取得、S氏は京大で取得している秀才である。私はS氏が運転する車に乗り込む。空港から市内まで20㎞だが、道は空いており、どんどん進む。「空港に来るときは渋滞があり、かなり時間が掛かった」と言われるがピンとこない。

ウルムチ市の北側、空港から20分ほどでホテルの到着。ここは元々イリのウルムチ駐在員事務所。メインの建物の後ろには新しい建物も建っている。従前の計画では列車で33時間掛けて来る予定であったから、到着は明日。急遽本日のホテルを予約したようだが、メインビルは満室で今日のみ別館に泊まる。

行って見ると部屋はきれいだが、掃除が出来ておらず、荷物だけ置いて昼食へ向かう。既に午後2時半を回っており、どこでご飯を食べるのだろうか、と思っているとホテル横のレストランに。案の定誰もお客はいない。従業員も手持無沙汰。入り口には「安全検査」と書かれた紙がテーブルの上にあったが、誰もバックを開けようとはしない。

このレストランはメニューが壁に写真入りで張り出されており、外地から来た人間にも分かり易い。N先生は兎に角ビール。新疆ビールと書かれた冷蔵庫があったが、それほど冷えてはいない。私は「チャイ」と書かれたお茶を所望。しかし出て来たのは所謂羊のバターを入れたバター茶。S氏いわく「ここは漢族のレストランで美味しくない。本物はまた別の機会に」と。

驚いた事には先ず食事の前に出て来たのがスイカ。私は大好きだし、のども乾いていたので問題ないが、スイカをつまみにビールは大変。何故スイカかと聞くと、「ラマダン中本来日中食事は勿論、水すら飲んではいけない。夜食事の前に先ずは水分を取り、かつ糖分を補給して、胃腸の活動を促すため」という。まさに知恵である。



インド アユルベーダの旅(14)ロナワラ スッキリした朝を迎えたが

1月24日(金)

スッキリと朝を迎えたが

今朝は実にさわやかだった。少し風があるので気持ちが良い。6時にキッチンに下りるが、ティは飲めそうもなく、お湯を飲む。日本人2人から『何だかかなりスッキリした』と言われ、その効果の一端が分かる。確かに顔も心持ち小さくなった気がする。

 

アーサナはお休みして、散歩する。40分もゆっくり歩くとまた疲れる。やはり体力がないのだ。8時半に朝食に行こうとすると、掃除が来た。今日は若者ではなく、おじさんだ。先に朝食を済ませてから掃除を頼む。朝食はSoft Riceと書いてあったが、違うものが出ていた。結局スナックのようなものを渡され、ジンジャーティで流し込んだ。

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この間違って出た物をカンチャパルマと関係ない中国人が取ろうとして、ドイツ人に窘められていた。次々に中国人が取りに来て収拾がつかなくなる。どうやらダルなどは口合わず、胃にも優しいカンチャパルマ用の食事が中国人にはいいらしい。規則に厳格なドイツ人、勿論インド人から見ても、中国人の対応は許せないだろう。『中国人は規則を守らない』とはインド人が良く言うセリフだ。ただ中国人の言い分も分からなくはない。『どうせいつも残っているのだし、自分たちの食事としてこちらの方が相応しい』というのだ。まあルールから見れば中国人に分はないが、そこを中国人は『柔軟性』と呼ぶのだ。

 

掃除してもらっている間、ボーっと外にいると、Hさんが『お先に』という。どこへ行くのかと思いきや、9時半からトリートメントがあることをすっかり忘れていた。既に終わった気分で力が抜けていた。

 

9時半過ぎに急いでいくと、ちょうど担当がやってきて呼ばれる。今日は胸に何かを張り、そこにオイルを垂らした。そのままジッとしている。20分もしていたので、それで終わりかと思うと、今度はメガネのようなものを掛けさせられ、そこにオイルが垂らされる。そして突然『目を開けろ』という。おそるおそる開けてみると、目に軽くオイルが入る。これでクリーニングしているようだ。

 

それが終わると、これから2時間は本を読んだり、画面を見たりせず、ボーっとしているようにとの指示が出る。何となく目がかすんでボーっとなる。しかし部屋ではやることがない。横になって何もしないでいると、『何もしないでいることは本当にできないな』と実感する。瞑想もできない、何もしないでいることが出来ない、確かに体を酷使している。

 

2時間が過ぎ、ランチへ。チャパティは出ないが、おかずは通常に近い。ただどこまで食べてよいか分からず、かなり遠慮気味に食べる。当然後でお腹がすく。そしてまた散歩し、1時半からトリートメント。今回は脚マッサージとフットバス。実は足の裏はかなり汚くなっているのでこれで汚れが取れればと期待したが、無理だった。

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そしてネットへ。今日こそはバンコック行のフライトを予約せねばなるまい。ところが料金も高くなっているうえ、決済に失敗し、予約できず。何故だろうか。3時過ぎにチャイに行くとパパイヤを食べている人がいる。私が今食べたいものはこれであるが、じっと我慢した。バンコックや東京では我慢することが難しいが、ここでは何とか耐えられる。

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そして久しぶりに普通の石鹸で体を洗い、シャンプーで頭を洗った。こんな普通のことで喜ばしくなることが素晴らしい。有難味、というものだろう。食事の前に必ずお祈りするのも素晴らしい。これから私も『頂きます』と祈って食べるようにしよう。

 

5時のアーサナクラスへ行く。今朝と昨日の晩、2回欠席しており、この体調の変化がどう出るか、見たかった。全体的に体は軽くなっている。それで何となく少し体が持ち上がったり、お腹のへこみでひねりが良くなったりしているが、勿論筋力的には良くはならない。体力の問題もあり、途中でやめるものもいくつかあった。本調子とは言えない。

 

トラタカはパスして、休む。どうも体調がすぐれない。食欲はあるが、食べたい日本食などが浮かんでしまい、胃がキューットなる。ただ実際に食べられるわけでもなく、妄想が出る。これは本当に良く無い兆候だと思ったが、後である人に『食べたい物が昨日体から全て排出されたんだ』と言われ、妙に納得。

 

7時半にHさんを誘って夕食へ。もう元気になっているのだから、普通の食事ができると期待していたが、キッチンに行くと何とパンチャカルマ用には、お粥とダルしかない。これにはホトホト失望して、『なんてこった』と思わず声をあげてしまう。隣の親切なインド人のおばさんが、『普通の食事も一部取っていいんだよ』と誘うので、野菜を煮込んだものを取り、食べる。それでも味気ない。これは本当に参った。パンチャカルマはやっている時が大変なのではなく、元に戻す方が余程大変だ、と最初にHさんから言われたが、今この言葉の意味が分かる。

 

その後Hさんと話し込む。Hさんは既にドクターから今後の生活の指示を貰っていたが、それによれば、食べてはいけないものも多く、昼寝もダメ、など、かなり事細かな扱いを要求されていた。私はこんな状態だし、出来ればドクターに会わないで帰ろうと決めた。

インド アユルベーダの旅(13)ロナワラ 一日トイレとお友達

そしていよいよメインイベント。先ずはドクターの診察。血圧は4日前、130/90だったが、今朝は110/80にまで劇的に改善していた。この4日間の生活がいかに快適であったかの証明だろう。Motionという英語が便通であることを知る。

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それからいつものトリートメント小屋に入り、腹と背中を湯たんぽのようなもので温めた。足が冷たかったのだが、やってくれなかった。参加者は皆、ちょっとナーバスになっている。マッサージ師も笑いを取ろうと冗談を言う。

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そしてWaiting ベンチにマッサージ師が4つのコップを持ってきた。これを飲んで部屋に籠るらしい。1つ目は粉を溶かしており、かなり時間をかけて混ぜた。何とも言えない薬草の匂いがしたが、『匂いも味もないから一気に飲め』と言われ、その通りした。2つ目は全く違う種類の薬草らしく、クリーンで飲みやすかったが、味は不味かった。3つ目は一番大きなコップに入っており、かなり長い時間かき混ぜた上、冷めるのを待った。ちょっと違うがコーヒー牛乳の感じで飲みやすく、味も悪くなかった。4つ目は2つ目とほぼ同じ感じですっと飲めた。脅かされていたほど、飲みにくくはなかった。

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部屋へ戻る途中、お腹がかなり張って、チャポチャポしていた。一瞬口から吐きそうな気分になるが、すぐに落ち着いた。部屋に戻るとやることがなかった。今日は寝てもよいと言われたが、既に睡眠は十分すぎる。1時間もしないうちに、便意を催す。通常の便が出た。それから30分ぐらいして、下痢の症状が現れた。これを出して、気持が悪い症状もなくなり、だいぶん楽になった。

 

それから断続的に便意が来た。これは体のパイプ掃除だなと思う。3日間かけて、硬直したパイプを柔らかくし、4日目にどっと洗剤を流し込む。あとは体のメカニズムにより各場所でパイプ掃除が行われ、順次排出されてくる。パンチャカルマの特徴は単に宿便を流すだけではなく、こびり付いた油を取り除くらしい。それはどんな形で現れるのだろうか。

 

因みにインドのトイレには紙はない。基本的に便器の横に付いているホースの先を押して水を出し、流す。これだと今回のように一日何回もお尻を拭く際、とても便利だ。痔にもならないだろう。まあ、日本では皆ウォシュレットに慣れているから、これは使い勝手が良いかもしれない。ただ濡れたお尻をどうするのか、永遠の謎ではある。

 

昼頃部屋のドアがノックされた。開けてみるとランチだと言って、コップ一杯の重湯が配られた。食べてみるとトウモロコシを使った汁のようなものである。正直あまり食べたくはなかったが、全て食べた。するとまた便意を催す。すごい勢いで出た。白湯も飲んだが、また出た。午前中で十分に出切ったと思っていたが、甘かった。

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午後にはドクターの回診もあった。特にお腹が痛いなどの症状はなかったので問題はないと答えた。『とにかく安静にしていろ』というのがドクターの指示。それから2時間ほど、また断続的にトイレに行き続ける。当たり前だが、これは普通の下痢ではないのだ。普通ならとっくに収まっているところだが、全く収まる気配がない。そしていつが終わりなのか、全然わからない。少し出ていた腹も完全に引っ込んだようだ。

 

3時半頃、何となく最後だな、と分かる出方をした。そこで周囲の忠告を無視して、ライブラリーまでネットを繋ぎに行ってみた。便意は催さないのだが、急激に体力が落ちている。僅か200₋300mの距離をノタノタ行く。ようやくたどり着いてネットを見たが、疲れで集中できない。ちょうどライブラリーも閉館となり、逃げるように部屋に帰る。帰るとすぐにベッドに倒れ込み寝てしまった。相当の体力消耗だった。

 

1時間寝ると、完全に元気になっていた。が、そこにまた便意が襲い、トイレへ。まだ掃除は終わっていないらしい。今日のアーサナは禁止されている。部屋でボーっとするしかない。夕方6時半にトラタカッがあり、参加してみる。この蝋燭を見ながら目に涙を流す、という技法、これまで成功したことは一度もない。初めに腹筋を使うカパラバーティを10回もやると、疲れが一気に噴き出す。そしてやはり今日も涙は出なかった。代わりに便が出た。

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トイレから出て来るとちょうどHさんがドアをノックしていた。夕飯だ。あまり気のりはしないが、キッチンへ。そこにあったのはまさにお粥。梅干しが欲しい所。小皿に少し取り、食べるともう要らない。余程胃腸に負担がかかっているらしい。部屋に戻るとすぐにベッドにごろり。そのまま寝入ってしまったが、夜の10時頃、また便意が来た。本当にすごい効果だ。これが一応最後だった。朝6時までぐっすり。

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インド アユルベーダの旅(12)ロナワラ 小学校の行事

小学校の行事

午後はまた頭にオイルを掛けられる。こちらも慣れてきて、眠ってしまう。あっという間に終了。そして先日のように頭のべとべとが気になることもない。人間、慣れとは恐ろしいものだ。何だかどうでもよい感じになっている。

 

あまりに調子が良いので、コラムなども書き始めた。気持ちが乗っていて、最近書いていなかった欲求が出ているのか、スラスラ進んだ。喜ばしい。アッと気が付くともう3時のお茶だ。普通の人はフルーツが食べられるのだが、マンチャカルマの人はお茶しか飲めない。どうしても食べたいわけではないが、人が食べていると何となく欲しくなるのがさもしい。今日はパパイヤ、昨日はマスクメロン。やっぱり食べたい。

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再びライブラリーに行くとネットが繋がっており、1時間ほどブログの更新などを行う。本当にいいんだろうか、こんなことをしていて、と思うだのが、とにかく調子は良い。4時半になると怖いおばさんに『クローズ』と言われ、追い出される。

 

5時からはまたアーサナ。特に代わり映えしないメニューだが、相変わらず腹筋が弱い。今日はなぜか子連れのインド人がいて、その女の子がしきりと咳をする。ここに居たくないというシグナルを出しているのか、風邪をひいているのか。お蔭で講師の言う英語が聞き取れず難儀する。本当の英語力は雑音の中を聞き取ること、とは大学時代言われたことだが、身に染みる。

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それからライブラリーの横まで戻る。小学校の行事が行われているというので見学に行く。広い敷地に特設のステージが出来、可愛い少女たちがドレスを着て何かをしていた。入口で見ていようとすると、係員が中へ入れてくれた。カイバリアダーマのTシャツを着ているからだろうか。それにしても小学校の行事が夕方から行われるというのは日本ではまずない。この辺もお国柄だろうか。成績優秀者の表彰式をやっている。

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涼しくなってきたので、引き上げる。そしてシャワーを浴びる。相変わらず頭のべとべとは取れないが、あまり気にならない。お湯も毎日ちゃんと出るし、満足だ。パンツも洗う。洗濯物は容易には乾かない。2日はみておいた方が良い。昨日洗ったズボンがまだ湿っている。これでも今の季節はかなりいいらしい。雨季の6月頃洗濯物は永遠に乾かないと聞く。アイロンを駆使して何とか乾かすようだ。夕飯もきっちり食べ、講義はパスして今日も9時には寝てしまう。

 

1月23日(木)

いよいよメイントリートメントの日がやってきた。今日も朝から快調だ。6時にお茶に行くと、日本人2人と中国人がお茶を飲んでいた。彼女は遼寧省出身、広州に既に6年おり、そこでヨーガをやっている。弁護士との話であった。

 

『中国では今誰でもヨーガをやっている』という。健康志向の高まりだろう。そうはいってもある程度の収入と教養がある人たちに限られるだろうが。彼女はいつも非常に落ち着いた表情で、淡々と物事をこなしている。2週間コースに団体でやってきた中国人とも少し違う。彼らはいかにもお金がありそうか、教養人ぶった雰囲気を漂わせているが、この女性は極めてナチュラル。

 

コラム ⇒ http://www.chatabi.net/colum/159.html

 

アーサナの前に瞑想した。これもなかなか良いが、未だに瞑想が長くは続かない。常に迷走だ。アーサナをやってよいか分からなかったが、体調が良いので参加する。特にこの3日間、私には特別の変化は起こっていない。これは良い兆候なのだろうか。

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インド アユルベーダの旅(11)ロナワラ アーサナの習慣が身に付く

1月22日(水)

アーサナの習慣が身に付く

今朝も日本人2人と6時からお茶。持参してきた源氏パイを渡す。4年前、ここで食べた源氏パイの味は忘れられない。今回も非常食として持ってきたが、食べてはいけないルールだし、こっそり食べても分かってしまうようだ。そして何より、今回の食事は不味くない。そこで彼女たちにあげてしまった。

 

7時のアーサナクラス。ちょっと違う動作を英語で指示されても、なかなか対応できない。一番後ろに座っているアシスタントの女性が2度ほど、助けてくれて、何とかポーズをとる。動作に関する英語は、英語の学校などに行っていれば簡単なのだろうが、頭で考えながら動かすと、意外とできないものだ。

 

それでも朝からアーサナをやる習慣が付くといいな、と思う。頭の中では既にバンコックで朝6時に起き、アーサナをやり、それから少し走ろうか、などと妄想が膨らむ。過去にもこのようなケースはあったが、実施できた試しはない。環境がさせる、ということもあるのだろう。

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今日は初日のマッサージ師が対応した。部屋の写真を撮らせてもらったが、なぜか1枚目を消去し、取り直せという。何がいけなかったのか分からない。その後は初日と同じで、ハーブオイルで全身を浸す。垂らし込むというより、擦り込む感じか。部屋の隅ではオイルを温めているが、時々パチパチと音がする。まるで天ぷらを揚げるようだ。そう考えるとオイルを塗られている私も、天ぷらにされてしまいそうで怖い(笑い)。

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20分程度で終了。朝食に向かう。朝食は一皿だけだが、これがいつも美味しい。実は朝食が一番美味しいのかもしれない。そして昨日Nさんから聞いていた散歩コース、山歩きに向かう。これまでカイバリアダーマは広いとは聞いていたが、殆どきめられた敷地内しか歩いていない。

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山登り散歩

実はこの施設の敷地内を数年前に高速道路が横切った。ヨーガのような静寂を求める施設の真ん中を高速道路が走る、日本では考えられない。どうしてそのようなことになったのかは不明だが、それがインドの現実だ。

 

出掛けてすぐ、トイレに行きたくなり部屋に戻った。すると掃除人がやってきて掃除が始まる。何となく散歩に行く雰囲気ではなくなり、ライブラリーにネットしに行く。ところが、今日はネットの調子が悪く、繋がらなかった。仕方なくまた散歩に出ることにした。

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高速道路の向こう側に行ったことはなかった。専用のトンネルを潜るとそこには可愛らしい小学校があった。その向こうにはバラック小屋があり、それからは山を見ながら、道が続く。高速近くには結構別荘風の家が建っているが、カイバリアダーマの敷地内には何も建っていない。どうやら今後開発計画があるようだが。

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山登りと聞いていたが、登り口は分からず、どんどん歩いて行く。花が咲いていたりするが、牛のふんも大量に落ちている。今日は昨日と違い、かなり暑い。背中が汗ばんできた。シャワーを夜まで浴びてはいけないのに、ここで汗をかくのは良くない。ましてこれから山を登ると時間的にも厳しいかもしれない。仕方なく、引き返す。

 

戻ってくると部屋のすぐ近くの小ライブラリーの中から中国語が聞こえてくる。何か口論しているようだ。私の部屋の前に座っていたインド人が『あれは喧嘩か』と聞いてきたので『話している、いや議論しているようだ』と答えると、『ずいぶんハードな議論をするんだな』と驚いていた。中国人の通訳と聴講者が内容を巡って激しく言い合っている。特に女性の声が甲高いので、辺りにこだまし、喧嘩のように聞こえる。

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インド人2人は飽きれながら話し掛けてきた。彼らはムンバイに住んでおり、会社の費用で1週間滞在しているという。インドの会社にも福利厚生があるのだろうか。『まあ、帰ったらもっと働けということさ』と笑いながら言う。インド経済は選挙後の新政権次第だが、良くなる方向になるとみている。インドはゆっくりと動き始めている。

 

ランチは相変わらず特別食。先ず薬を飲み、そして料理にギーを混ぜる。3日目ともなるとだいぶ慣れてきて、においも気にならなくなる。勿論美味しいとは言えないが、食べられるレベル。そして基本的にはギーをダルに入れて飲むのが一番味が薄まる。食後気分が悪いということもなく、本を読んだりできている。これは進歩だ。