「アジア旅」カテゴリーアーカイブ

西寧散歩2011(2)青海湖で五体投地

(3) タール寺

車を飛ばして、タール寺へ向かう。先月インドのラダックへ行き、チベット仏教に関心を持った者としては、ぜひ訪れたい場所。タール寺は西寧郊外にあり、車で30分ほど掛かった。ここは西寧最大の観光地らしく、朝から大勢の観光客が訪れており、チケット売り場には長蛇の列。仏塔や建物は見慣れた風景であるが、やはりラダックの静寂はここにはない。というか、漢族の観光客には聖なる場所ではないということか。

それにしても壮大な寺院である。山の斜面には僧院が並んでおり、多くの僧侶がここに滞在し、修行している様子が伺われる。本日は日曜日であり、坊さんたちも外に出て来ている。その袈裟姿は懐かしい。

1560年創建という古いお寺ではあるが、近年改修されたと思われる場所も多く、これは文革の影響なのか、チベット問題と繋がりがあるのか、皆目わからない。ただいくつもの建物を見学でき、そしてどこへ行っても人だらけ、ゆっくり見学する雰囲気もなく、人に押されて通り過ぎて行く。これが今の中国なのだ、宗教も静寂も何もない、ただの見世物なのだ、とがっかりすること仕切り。ラダックを思い出そうとしたが、完全に失敗に終わる。

ただ一か所だけ、若い僧侶が数十人で五体投地をしている場所があった。25年前にチベットのラサの聖地、大昭寺の門前で大勢のチベット人が真っ黒になりながら、一日中これを繰り返していたのを鮮明に思い出す。一体何のためにこれを行っているのか。寺の中であれば修行と割り切れるが、信仰とはすごい力がある。これを見せられると漢族は恐怖を感じるのではないだろうか。

 

(4) 青海湖

そして車は山道へ。両側に建物など何もない高原が続く。ゆっくりゆっくり上って行く。途中で馬の放牧に出会う。何とも言えないのどかな風景。と思っていると運転手が突然一眼レフを構えて車を降りていく。聞けば、彼は写真が趣味で、運転しながらいい風景を撮影しているらしい。彼によれば、この馬の放牧風景はこれまでに見たものの中でもとりわけ美しく、写真を撮りたいという。私も撮影に挑戦したが全く上手く撮れない。これはカメラのせいだけではなさそうだ。

そうこうしている内に、随分高い所まで登ったな、と感じたころ、突然看板が見える。海抜3820m、え、私は知らない内に富士山より高い所へ来ていた。ここでは皆が車から降り、写真撮影などしている。私は高所恐怖症、3820mを見て、急に眩暈が・・。これだけ高い所に来たのは初めてかもしれない。

とてもきれいな山並み、高原、雲、続く。ここはいい。広々として、雲が流れ、山が流れ、そして、羊が。途中急に雨が降り出す。山の気候は変わりやすい。天気は悪いが、何だか救われる思いがする。特に低く垂れこめる雲の形が素晴らしい。この風景も表現が難しい。

1時間近く走って、ようやく青海湖が見えてきた。湖というより海だと思えるほど大きい。そして平たい。湖が近づくと、少数民族が盛んに旗を振り、こちらへ来いと合図する。湖へ続く道を確保し、彼らは独自の場所へ案内するらしい。駱駝などン観光客を乗せて日銭を稼いでいる。

時間は昼を過ぎていた。昼ごはんは湖畔のレストランで。何軒かが並んでいる中の一軒に入る。陳さんは以前もここに来ているようだ。しかし兎に角混んでいる。ひっきりなしに観光客が入ってくる。我々は何とか席を確保したが、注文を聞きに着てくる気配もない。陳さん自ら立ち上がり、オーナーを探しに行く。オーナーは漢族のようで、話がついて、オーダーが通る。

出て来たのは青海湖で取れた魚の甘酢あんかけ。結構大きな魚だ。野菜炒めなどは普通の物。そして白いご飯を魚の汁にかけて食べようと注文したが、なかなか出てこない。催促してようやく出て来たご飯を一口食べて「あれ、」。このご飯、芯がある。どこかで食べたような気がするが、決して美味しいものではない。陳さんは「僕は結構好きだけどね。ここは標高が高く、沸点が低いため、ちゃんと炊くことが出来ない」という。そうだ、それだ。どこで食べたかは忘れたが、何となく懐かしい味がした。

食後、湖面を眺める。湖の直ぐ近くまで車を寄せて、観光客が波打ち際で写真を撮っている。本当に海のようだ。駱駝が「美しい青海」と書かれた看板の前にどん、と構えてお客を待っている。しかしこんな所で駱駝に乗る人間などいるのだろうか。いや、中国人のこと、お調子者は必ずいるということか。

帰りに道路で異様な集団と遭遇。先程タール寺でも若手の僧が行っていたが、五体投地をしている。寺の中でするのは何となく運動という感じであるが、こちらは厳しさがひしひしと伝わってくる。剣でいえば、木刀と真剣の違いか。4人の集団だが、一番前は何と女性。エプロンのような前掛けを掛け?肘をかばい、完全防備で臨んでいる。彼らは一体どこまで行くのだろうか。ラサまでだろうか。この標高の高い大地を一歩一歩、いや一体一体、進めていくことの苦難は想像だに出来ない。凄いとか何とかいう次元ではない。25年前ラサでの大昭寺で見た、あの五体投地、宗教とは何かを再度考えさせられる。

(5) 陳さん

今回案内役を買って出てくれたのは陳さん。彼は私の元部下だった中国人の現在の部下。ある意味業務命令でアテンドしていた。しかしそこは中国、今日は日曜日だが、嫌な顔一つせずに、いや寧ろ楽しんで案内してくれている。これは嬉しい。

彼と一緒に車に乗っていると実に様々な質問が出て来る。「自分たちは日本のアニメやドラマを見て育った世代」として、日本には特別な親近感があるという。ただ自分たちの描いている日本は、経済的にも科学的にも、強い国であるが、昨今の報道を見る限り、それが幻想になりつつあるとのこと。私は何も言い返すことが出来ない。

しかし日本経済だけが心配なのではなく、中国経済も厳しい局面が近づいているという。彼は金融機関職員だが、北京からここ青海に派遣された理由を詳しくは語らないが、不良債権の処理のようだ。これは10年前の私と私の部下が経験したあの状況だ。10年経って後輩がこれに苦しむことになる。金融業は因果な商売なのだろうか。

彼はこの地にあっても、世界の様々な情報に耳を傾けている。本当は海外勤務を希望していたが、残念ながら事情でその道から外れ、国内業務をやっている。日本で仕事をしたかったかと聞くと力なく首を振る。やはり日本は憧れの国であり、現実に行く場所ではないらしい。

(6) 別れは難しい

夕方5時には西寧に戻った。陳さんは車の都合からか、ホテルへ行かずにそのまま夕飯を食べようという。左程お腹は空いていないが、従う。彼が連れて行ったのは火鍋屋。結構大きな店だが、既にお客で満員だ。まだ陽のある時間に、これだけの客が来るとは。勿論日曜日と言う理由もあるだろうが、驚きである。

ようやく一番端に席を確保し、火鍋を頼む。周囲を見渡すと、地元に住む漢族の家族、カップルなどが多い。ビールを飲む人もいるが、いきなり白酒がテーブルの上に載っている所もある。真夏に火鍋、と言うだけでも驚きであるが、これは一体なんであろうか。

気が付くと我々のテーブルにも牛肉、羊肉、きのこ、野菜が所狭しと並べられた。とても食べ切れない。これが昨今の中国である。取り敢えずたくさん頼むのが、礼儀。たれは自分で好きな物を選ぶ。味は中々であったが、何しろ量が多い。まだ昼ごはんから4時間しか経っていないのが残念。最後は陳さんが「寮のおばさんに上げる」と言って打包した。あー良かった。

陳さんは明日朝北京からビックボスがやって来るらしく、済まなそうに明日は付き合えない、という。当方からすれば、既に十分対応してもらい、これ以上彼に付き合わせるのは悪い。食後何をしようかと誘う彼に「今日は原稿書きがあるのでホテルに帰る」と告げ、お別れした。こういう時、日本人なら相手の事情を考えて行動するが、中国人は先ずは自分が十分に誠意を尽くすので、なかなか別れられない。これが恋人なら、と思うだけでも大変なことである。





西寧散歩2011(1)朝から牛肉麺

《西寧散歩》2011年8月20-22日
2011年8月20日(土)
1. 西寧まで (1) ウルムチ空港

西寧行きの飛行機はまだ離陸まで3時間半もあった。遅れるよりはマシであり、感謝しなければならない。南方航空でチェックインできるか心配だったが、簡単にチェックインは出来た。しかし通路側の席を希望すると「既に満員です」との答え。3時間半前に通路側の席が1つもない?一体どんな機体なのだろう。そんなに混んでいるのだろうか。

取り敢えず窓際の席を予約し、ボーディングパスを貰う。しかし時間は余りに余っている。インターネットでもできる所はないかと探すと、PCが置いてある店が目に入る。脚マッサージもあるようだ。聞くと68元もする。しかし他に行く所もなく入り、自分のPCを繋ぐ。70元支払ったが、おつりの代わりにおしぼりを持ってくる。よく見ると2元と書かれている。うーん、こういう所が中国の悪い所だな、と思わずつぶやく。いや、Facebookは中国では繋がらないので、自分でつぶやいただけ。

見ていると若者が何人かネットに向かっている。アニメを見る者、ゲームに興じる者、この値段でよくもこんなことがしていられるなと感心してしまう。その内の一人はこの店のオーナーらしい。遊んで暮らすとはこのことか、このゆるさが良いのかもしれない。

(2) サービスが改善された南方航空

ネットに夢中になり、気が付くと3時間が経過しており、何と私のフライトは搭乗の最終案内になっていた。あれほど時間があったのに、走ってゲートに向かう羽目に。しかもセキュリティ検査が結構厳しく、前の中国人が係官と揉めている。いや、困った。

何とか他の台で検査を終了し、走る。私が飛行機に乗り込むとドアが閉まったので、最終搭乗者だったのだ。自分の席を探すと、ビジネスクラスのすぐ後ろにプレミアエコノミーなる席が4列だけ存在し、私の席はその一番後ろの窓側。ところが窓側には既に先客があり、通路側が空いている。こちらに座っていいかと聞くと、彼も窓側が良いと言い一件落着。

確かに航空券は正規料金を支払ったが、これほど待遇が違うとは思わなかった。席は結構広いし、食事も出た。普通のエコノミークラスは飲み物しか出なかったようだ。中国南方航空と言えば、昔乗った印象は悪い。サービスの概念が無かった気がする。しかし今回乗ってみるとかなりの改善が見られ、エアーチャイナよりいいのでは、と思ってしまう。中国の変化の速さを感じた一瞬であった。

2.西寧
(1)ネットの接続には身分証

西寧の空港に到着したのは、午後10時を過ぎていた。今回は昔北京で働いていた時の部下が西寧のアレンジをしてくれた。彼の部下が西寧に常駐しているのだそうだ。その陳さんが空港に出迎えてくれた。こんな遅い時間に申し訳ない。

陳さんの車でホテルへ。陳さんが恐縮して言う。「実は今西寧ではホテルの部屋を押さえるのが大変である。今日も何軒かを回ったが、一つも部屋が取れなかった」と。そんなに大変な状況なのか、西寧は。

西寧の観光シーズは6-9月、それ以外は殆ど人が来ないため、ホテルは多くない。投資ラッシュと聞いていたが、ホテル投資はないようだ。

20分ぐらい走って到着した所は市内中心部。夜も遅く既にひっそりしていた。南川という川の横のこじんまりしたホテルに入る。陳さんが予約した旨告げたが、「来ないと思っていい部屋は全て埋まってしまった」と言われる。それでも何とか2階の一部屋があてがわれ、陳さんは帰って行った。

しかしここでまたネット問題が発生。無線なのになぜか2階は繋がらないらしい。1階のうるさい部屋なら空いているが、どうかと言われ、即座に部屋を変更。何がうるさいのか分からなかったかが、確かに夜中でも車が通り、少し気になる。

そしてネットを繋ごうとすると、「身分証番号がいる」との表示が出る。外国人が止まることなど想定していないホテルなのだ。外国人である私は身分証を持っていない。どうするかと見ていると、フロントのお姐さんは仕方がない、という仕草をして机の中から1枚の身分証を取り出す。そしてこの番号を入力するようにと言われる。ここでもネットの管理が行われていると同時に、身分証の管理の甘さが、私を救った。「上に政策あれば、下に対策あり」と言う懐かしい言葉を思い出す。

8月21日(日) (2) 大音響で目覚める

翌朝は早く目覚めた。というより昨晩フロントのお姐さんが言っていた通り、外の大音響で叩き起こされた。部屋は道路に面していたが、反対側は川。その川と建物の間に細長い公園がある。そこでは太極拳など、朝早くから老人を中心に活動が行われていたが、近年流行りのおばさんダンス??も行われる。この音楽がでかい。周囲お構いなしだ。

散歩がてら覗いてみると、実に元気の良い女性達が朝から汗をかいて踊っていた。本当に健康そう。どこの国でも女性は強い。それにしても西寧の朝は爽やか、というより、涼しい。昨日までの暑さが嘘のよう。ここは標高2200m、高原の避暑地に来た気分。

陳さんがやって来た。朝ごはんを食べることに。彼も北京の出身であり、ここには数か月の滞在。その中で気に入った朝食は牛肉麺。専門店へ向かう。如何にも昔中国を旅した時に行ったような大衆麺屋。懐かしい。値段も安いし、会計も注文を紙に書いて先に払う。羊肉もあるようだが、彼は牛を選択。ここ西寧の人口は8割が漢族だが、白い帽子を被った回族も多く住んでいる。回族は羊を食べるのだろう。

熱々の麺が運ばれる。ちょっと涼しいこの気候にマッチしている。麺はやや太めながらこしがあり、スープにはコクがある。パラパラと載っているネギが良い。うーん、朝から満足。





インド アユルベーダの旅(18)アーメダナガール バスはハイテンション

1月27日(月)

アーメダナガールへ

その夜はラトールさんの妹が泊まりに来て、ラトールさんと同室で寝る。ただ明日の準備などに忙しい彼は寝る暇もない。そして朝は4時に起きて作業を再開。私も4時半に起きて、シャワーを浴びる。さて、初めてインドで結婚式に出る。

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6時前にチャイを飲み、家を出た。車ですぐ近くに住むラトール兄の家の前に行く。そこに大型バスが待っていた。今日はラトール家にとっては一大行事。長兄の長男が嫁を取る。結婚式は意外にも嫁側の地元で開催されため、新郎側が大挙して出掛けていく。これは面白い。既に半数ほどがバスに乗っていたが、40人乗りのバス2台、大デレゲーションだ。バスは運転席と客席が完全に仕切られており、運転席の後ろにも数人乗れるようになっていた。珍しいタイプだ。

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結局空が明るくなった7時ごろ、バスは出発した。老若男女が乗り込んでいる。途中で更に2か所に停まり、人々を拾う。当初は後から来る予定だったラトールさんの一人娘のナイニーカも乗り込んでいた。試験があるのだが、どうしても抑えきれずにやってきてしまったようだ。

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そしてバスの中が段々騒がしくなってきた。ナイニーカとその従妹の女の子たちが、立ち上がり、おしゃべりを始める。久しぶりに会った親戚と戯れる、何だかとても楽しそうだ。そのうちハイテンションになり、歌い出す。そして狭い通路で踊り出す。しかも若い子がおばさんを挑発し、一緒に歌う。おじさんも茶々を入れる。こんな光景は日本にはないだろう。この一体感は何だろうか。ものすごいパワーが朝から炸裂する。

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2時間ほど走ったところで、バスが停まる。お寺にお参りに行く。婚礼の前には一同でガネーシャにお参りする仕来りだという。靴を預け、裸足で石の床を歩いて行く。大勢が祠の前で頭をつけ、祈る。総勢80人だと時間はかなりかかる。若者の中にはお参りしないで戻る者もいる。これは日本と同じだろう。

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バスはエローラへ向かう道を快適に走る。デカン高原の高低が景観となる。途中にLGの大きな工場が見える。パナソニックもあるらしい。日本ではあまり知られていないが、この辺にも工業団地がある。その近くでバスはドライブインへ入った。そこでも親戚が待ち構えていて、新郎を祝福する。実はその時初めて新郎が誰であるか分かるほど、私はこの結婚式の内容を知らなかった。まずもって関係ない者が行ってよいのか、という疑問があったのだが、朝から色々な人とあいさつすると、長兄の古い友人やら、ラトールさんの高校時代からの友人なども参加していた。そういえば昔日本の結婚式も父の友人を招くなど、よくあったことを思い出す。日本の結婚は本当に変わってしまったのだ。

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そこでチャイとスナックを食べる。朝ごはんを食べずに、さっきもバスの中でスナックを食べた。腹が減っていたのでどんどん食べてしまったが、体にはよくなさそうだ。ロードサイドのチャイは美味い、はここでも生きていた。

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 7.アーメダナガール

結婚式場と宿泊施設

実にラトール家を出てから6時間弱、ついに目的地、アーメダナガールへ到着した。街はこじんまりとした田舎。大きな建物の前でバスが停まり下車。ここが結婚式場らしい。中へ入ると既に大勢の人がおり、並べられた椅子に皆が座る。そして歓迎の儀式が始まった。首に飾り物が掛けられる。新郎には祝福の花輪が。そしてなぜかバスで来た全員に石鹸、シャンプー、歯磨きセットなどの詰め合わせが配られる。これは試供品だろうか、面白い。

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今夜はこの会場の上に泊まるらしい。取り敢えず荷物を持って上へあがる。各部屋には4つのベッドが並べられている。百人以上の宿泊者、どのように部屋割りするのかと見ていると、何のことはない早い者勝ち。皆近親者と同室となる。私とA師はラトールさん、そして奥さんの弟と共に3階の部屋に入る。簡易なベッドだが、寝るのには十分。部屋にはトイレもあり、シャワーも付いていた。

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今後の日程は特に説明されない。インドでは自分から積極的に聞かなければ、何も起こらないことが多い。敢えて部屋で休息。A師と雑談し、次に何が起こるか、完全に待ちの状態でいる。

 

新疆北路を行く2011(10)伊寧 感動の十二ムカム生演奏

(4) 砂絵

かなり暑さを感じる昼前。ウイグル族のやっている画廊を訪問。ここは観光スポットにもなっているようで、漢族の観光客も出たり入ったりしていた。ここでは特殊な絵が作られていると言う。

当地の風景を描いた絵が部屋の壁中に飾られていた。がよく見るとギャラリーに飾られている絵は全て砂で作られていた。タリム盆地の砂だと言う。砂漠の砂を使うあたりはウイグルらしい。この絵は一人の人が作るのではなく、共同作業で製作していくらしい。しかし中には障碍者が作った絵もあり、名前が書かれていた。色々な形態があるのだろうか。

N先生は気に入った絵があるようだが、大き過ぎて荷物として持ち帰るのは辛いらしい。郵送もすると言われるが、妥協して小さな絵を購入。これはよい記念になるのではないだろうか。

それから昨晩行ったレストランにまた行き、今度は屋内で食事をした。ラマダンのため、流石に昼、外で食べさせるのは憚れるのだろう。この日はデザートにアイスクリームが出て来たが、これは非常に濃厚で美味しかった。

バスの駐車している場所まで馬車に乗ることにした。ゆっくりゆっくり進む馬を後ろから眺めていると妙に落ち着く。馬車が日陰には行った時、爽やかな風が通り抜けた。ウイグルを感じた。

(5) 村に出現した巨大工場

午後は伊寧郊外に行く。どこへ行くのだろうか。昨晩もご一緒したS氏の友人を拾い、北西へ車は進む。40分ぐらいすると田舎町が見えた。そしてそこから更に農村部へ。舗装されていない道路をデコボコ進む。

しかしこんな田舎に何の用があるのだろうかと訝り始めたその時、目の前に巨大な門が見えてきた。あれは一体何であろうか。周囲は高原のようになっており、何もない中、その場所の一群だけが、異様な感じで建物が建てられていた。

門を潜ると、左右に平屋だが相当大きな建物がある。正面には更に柱の太い、大きな建物が。ここは何なんであろうか。まるで北京の天安門広場を意識したような造りである。よく見ると看板があり、企業集団と書かれている。この地方の街にこのような巨大な設備を持った工場があるのだろうか。よくよく見ると向こうの方に工場が建設中であることが分かる。正面の建物はオフィスなのだろうか。

中に入るとコンパニオンがマイクを持って、案内に立つ。1階の広いスペースが会社紹介となっていた。皆必死にこの集団が何であるかを確認に走る。この工場が完成すると16,000人の雇用が生まれると言う。当然この村だけでは賄いきれいない。両脇の建物はそのための従業員宿舎。その規模は壮大で信じられない。

ようやく化学プラントであることは分かったが、創業者の名前を聞いてもピンとこない。これは調べないと分からない、と思い、後日検索してみたが、やはりよく分からない。新疆には資源目当ての漢族の投資が次々に投入されているとは聞いていたが、これだけ規模の大きな、何百億元という単位の投資を目の当たりにすると、政府の意図が分かるような気がする。

この工場群の周囲をバスで1周する。途轍もなく広い。更には先ほど入った巨大な建物の裏にもう一つ迎賓館のような建物が見えた。集団総裁の執務室だと言う。一体どんな人間なんだ、こんな所にこんなものを作るのは。基本的には内モンゴルで成功した漢族の投資とのことであったが、その実態は最後まで謎であった。

建設中の工場を眺めながら、銀行時代のプロジェクトファイナンスを思い出す。タイや台湾、韓国などで10年以上前、こんなプロジェクト予定地を視察、数字を弾いて融資するかどうか決めていた若き日の自分を思い出す。あの頃は物事を単純に考えていたな、今ではとてもこのようなプロジェクトに巨額な融資は出来ないな、と感じてしまう。規模が大きければ良いと言う論理と、それを恐れてしまう今の自分、どちらが正しいのだろうか。

(6) 感激のもてなし 十二ムカム

工場のあまりの規模に圧倒され、早く伊寧市に戻りたいと思ったが、前の車が先導してどこかへ行く。確か前には女性が乗っていたような、あれは誰だ。

街中へ行く。ある家の前に車が停まる。何でもモデルハウスだと言う。何のモデルハウスだろう。きれいな庭にきれいな家、貧困の村を救う政府の政策だろうか。説明を聞き損ねたので詳細は分からない。

彼女の正体が分かった。何とこの県政府のトップ常務委員さんだった。まだ30歳代ではないだろうか。ウイグル族出身の彼女は苦労して天津の南開大学に進み、地元に戻ってからは、党学校の教師をしていたらしい。それが先日抜擢されてこの県に赴任してきたとか。新しい力が必要なのであろう。

食事の場所として連れて行ってくれたのは、閑静な庭園を持つ、リゾート風宿舎。池などが配されたその庭を歩いて行くと、大きな屋根の下に桟敷がある。絨毯も敷かれている。この自然空間の中でご飯を食べる、と想像しただけで嬉しくなるような場所であった。更にその桟敷には先客が3人いた。県のお役人だろうか、などと思っていると、常務委員が「彼らはウイグル伝統音楽の奏者です」と紹介。確かに脇には楽器らしきものが置かれていた。

話の中に「十二ムカム」という言葉が出て来た。1547年、音楽と詩歌をこよなく愛するアマンニサと言うウイグル女性が新疆ヤルカンド(現在のカシュガル地区莎車県辺り)にあったヤルカンドハン国の王妃になり、多くの楽師やムカム音楽家を集め、大規模な整理作業を行い、その規範化を実現。歌詞の中にあった難解な外来語や古ウイグル語の単語、さらには古い宮廷詩的修辞などを取り、完全且つ厳密な構造体系を持ち、口語的で分かりやすい全く新しいムカムを誕生させた。

19世紀にはムカムはしだいに12曲の組曲に編成され、一曲ごとの組曲の演奏には約2時間を要した。この洗練されたムカムが『十二ムカム』である。従来は師匠から弟子への口承のみであったが、新中国ではそれを録音するなど保存に努めている。

その演奏は見事であった。日本人と言うことで、すばるや赤い絆など、日本の曲も披露された。やはりプロである。「日本にはもったいない、という精神があると聞いた。コーランの教えにも同じ物がある。相通じる」そして我々の希望を聞き入れ、食事の量を少量にしてくれた常務委員さんの心遣い、とても嬉しくなってしまった。爽やかな風が吹き抜ける桟敷の上で強かに酔ってしまった。

8月20日
(7) 帰路

翌日は朝早く出発した。それは私が青海省へ行くために、飛行機の時間に間に合うように皆さんが協力してくれたせいである。朝7時出発、これはこの地区では驚異的に早い。周囲は真っ暗。それでも漢族観光客は我々より先に出発して行った。彼らの観光は一日いくつ回るかが勝負。すごい。

今日の行程はウルムチ市に戻るだけ。その距離、680㎞。予想時間は10時間。これは長い。朝飯もない。どうなるんだろうか。兎に角先ずは寝る。皆ひたすら寝る。運転手だけが可哀そうに懸命に車を走らせる。

途中朝日が昇る。良い風景だ、西の大地に朝日が昇る。殆ど対向車のない道路をバスはひた走る。2時間半ほどして、最初のトイレ休憩。ガソリンスタンドの後方には4000m級の山がそびえる。今日は天気も良く、実にクリアーである。

またバスに揺られて2時間、高速道路を降りる。昼飯かと期待したが、なかなかレストランに入らない。どうやら当地の名物、大盤鶏という料理のいい店を探しているようだ。この辺のこだわりは凄い。ラマダン中でもあり、中には店を閉めている所もある。ようやくバスが止まり、店に入る。かなり繁盛しているようで、席が外まではみ出している。

その大盤鶏は鶏を一羽潰して、ジャガイモなどの野菜と唐辛子などを煮込んだ物だったが、実に満足できる味だった。食べている時は大粒の汗が出るほど辛いが、これは癖になる。更には残った汁の上から太い麺を掛け、混ぜて食べる。もう堪らない。こんな料理が日本で出せるのであろうか。新疆で食べるから美味しいのであろう。

今月はラマダンのため、午前中しか営業しない、と張り紙があったが、午後2時を過ぎても大繁盛であった。新疆時間ではまだお昼だったか。ここの食事ではビールが進む。久しぶりに昼から酒を飲み、そして大量の汗をかく。バスに乗り込むとすぐに寝る。

次にトイレ休憩があった時、持ち込んでいたスイカが切られた。J氏は器用にナイフを使い、鮮やかに切った。このスイカは酒を飲んだ後で、甘くて美味かった。こんな豪快な食べ方も久しぶりだ。

そして運転手の努力もあり、午後5時にはウイグル市内に入り、空港で降ろしてもらった。私の新疆北路は終了した。





新疆北路を行く2011(9)伊寧 絶品カバブーと羊スープ

4.伊寧
(1) 外国人が泊まれないホテル 

とうとう西の端、伊寧市に到着した。今回の旅は僅か170㎞だったが、時間的には相当に掛かった。道が悪いと言うのは大変なことだ。まだ陽のあるうちに着いたのが救いだった。ホテルには当地の旅行社の人間が来てアレンジをしていたが、我々を見て驚いた顔をした。何故だ。J氏、S氏と旅行社の人間は協議に入った。何か問題が発生したのは確かだ。聞けば、予約したホテルは外国人を泊めることが出来ないと言う。何と時代錯誤な、20年前の中国がそこにあった。

勿論日本人だけではなく、外国人は指定されたホテルに泊まらなければならないらしい。この制度は今年始まったのではなく、3年前からあるそうだ。こちらが予約した際、人数しか言わず、外国人がいることが分からなかったのが原因らしい。それにしても、夏のベストシーズンに、少なくとも我々日本人4人分の部屋がこの時間に確保できるのか、ちょっと心配になる。

30分ぐらい待っていると、J氏が済まなそうにやって来て、「4つ星ホテルの部屋は全て満員で、三ツ星になりました」と言う。こちらは泊まれるかどうかの問題であり、部屋があればそれでよかった。しかしこの辺境の地、それほどに漢民族は少数民族を恐れ、外国勢力との結びつきを恐れているのだろうか。花城賓館という実に昔懐かしい中国のホテルにチェックインした。

特に期待はしていなかったが、残念ながらネットは繋がらなかった。それは設備がなかったからではなく、普通なら線を繋ぐだけで良い所を、複雑な番号を入力しないと繋がらない仕組みになっていたからだ。中国でもこんな番号は見たことが無い。係員を呼んだが、私のPCを見て、日本語は読めないからお手上げ、と言って帰ってしまった。この暗号は何を意味するのか。確か他の国でも情報統制がある場合はこのシステムだったような。そして現在のWindows7というソフトには以前のようにこの暗号を入れる仕組みが見出せない。どうなっているのか??

(2) 気持ちの良い夕食と屋台(子供働く)

ここでもS氏の友人のウイグル人が登場し、我々をレストランに案内してくれた。流石に中国の西の端、まだまだ空は明るい。ラマダン中でもあり、どうかと思ったが、外国人と言うことで、店の外の木の下にある気持ちの良い桟敷に落ち着くことが出来た。但し喫煙は厳しく制限された。外を歩くウイグル人への配慮であろう。

店の外にはカバブーを焼くブースや茶を入れる薬缶が並べられた場所がある。まだ稼働はしていなかったが。我々の目の前には早々にリンゴとプラムが運ばれてくる。これまでのスイカとハミウリの組み合わせから変わった。飲み物はヨーグルト。嬉しい美味しさである。

気持ち良い夕暮れの風が吹く中、外で食べる食事は実に美味しい。カバブーも殊の外柔らかく美味しく感じる。店内でトイレを借りると、この店がとても立派な店であることが分かる。ちょうど日が落ち、沢山のウイグル人が食事を始めたが、食の豊かさが見えていた。

レストランを出てイリ川の橋を渡る。この大河は濁流のように勢いがあると聞いていたが、真っ暗で何も見えない。ただ川の音がするのみ。橋の袂には検問があり、バスはそれを避けて、遠くに駐車する。ここは市内に入る要所であろう。若干緊張感がある。

ホテルに戻り、コーラでも買おうと外へ出るとN先生やJ氏がちょうど、ホテル前の屋台に繰り出すところに出くわし、付き合う。夕方は何もなかった道端に多くの店が出て、いすやテーブルが出され、大勢の人がビールを飲み、カバブーを咥え、夏の夜を謳歌している。

よく見ると店では子供たちが良く働いている。中学生ぐらいのおにいちゃんは既に一人前にカバブーを焼き、小学生ぐらいの女の子は注文を取る。もっと小さい子は片づけをし、皿を洗う。おじいさんの白い帽子は回教徒か。貧しい暮らしなのかもしれないが、それが何故かとても羨ましく見えてしまうのは私だけなのだろうか。

8月19日(金)
(3) ウイグル系市場の豪快な朝食

翌朝、ホテルの朝ごはんも味気ないというN先生の主張が通り、S氏友人の案内で、ウイグル系市場へ向かう。途中歩いた道が北京の胡同のような雰囲気で、何となく好感が持てる。四合院と同じような作りで、中に何家族か暮らしているらしい。やはり古い街なのであろう。

市場の店先には羊が沢山吊るされていたが、人影はまばらでひっそりとしていた。既にひと仕事終わったのだろうか。我々は一軒の店に案内される。店の入り口では大きなドラム缶鍋?に羊の肉と骨がぶち込まれ、豪快に料理されていた。湯がいた骨付き肉は端に出され、そこにナンが並べられる。このエキスをナンに吸わせるのだろう。

そして我々がありついたのが、その骨付き肉。ニンジンなどの野菜も一緒に煮込まれており、大盛りで登場した。この肉は柔らかい。そして臭みなどは全くなく、むしろ甘い。また羊でだしを取ったスープも一口飲んで幸せが感じられる絶品。コクがあるがあっさりしている。これは朝からトンデモナイ物に出会った。

ミルクティーも丼で出て来た。煮出した茶にミルクパウダーを入れ、塩を混ぜる。これは豪快な作り方だ。ヤギの乳があればそれを入れるらしい。味は少ししょっぱいが、味わいがある。

爽やかな朝に爽やかない朝食、これぞウイグル、と言える料理ではなかろうか。肉汁の沁み込んだナンを食べながら、幸せを噛み締めた。




新疆北路を行く2011(8)博楽 アラシャン口岸で行く手を阻まれる

(2) ウイグル人医師の嘆き

ここでもウイグル人にお世話になる。今回はお医者さんだった。日が落ちると市内中心部で食事をした。「ここは小さな街で」と言うが、本当に小さな街だった。小さな店に入り、シシカバブーを頬張り、ラグメンを食べる。既に常態化した美味しい夕食だ。

お医者さんは言う。「地域医療は本当に大変だ。昔に比べて病気になる人が増えている。医師の数は足りない。若者は皆都会に行ってしまう」どこかで聞いた光景である。少数民族も以前とは生活形態が変化し、それに対応できずに病になるのだろう。病の急増は体ばかりではなく、心にも及んでいる。経済が発展すると言うことが本当に人間にとって幸せか、との問いにはっきりした答えが出せない。

「日本にも行って見たいが、忙し過ぎる」というお医者さん、実にしっかりした人物である。聞けば、今日泊まっているホテルで明日地区の共産党会議が開催されるが、そこのメンバーでもある。本当に忙しい中、我々の為に食事を付き合ってくれていたのだ。「明日会いましょう」と言って早々に別れる。その後ろ姿に、疲れと諦めを見たのは私だけだろうか。

8月18日(木)
(3) アラシャン口岸

我々は何故博楽にやって来たのか、正直ここに見るべきものはない。それは今回の調査の主眼である辺境調査、ようは国境へのアクセスの為である。カザフスタンと国境を接するアラシャン口岸は博楽から40㎞の距離。朝からそこを目指して出発する。同行する地元の人も別の車で先導してくれる。

バスは順調に進み、国境近くの検問所にやって来た。流石中国の国境、かなり厳しい検問だなと待っていたが、我々の車だけが一向に通過できない。他の車が去るのを眺めながら嫌な予感が走る。

それから少しして、ようやくバスが動き始めた。よかった、関門を越えたと思ったとたん、道に脇に駐車していた車から若者が手を振り、バスを止めた。バスに乗り込で来た険しい表情の若者は誰であろうか。ウイグル人であるらしく、J氏、S氏とウイグル語で話していたい。途中で急に両者の声が和んだ。何と財経大の卒業生だと言うのだ。

では、これから先は何とかなるのだろうか。そう簡単に事は運ばなかった。我々のバスは若者の先導で、公安に誘導され、そこで「口岸付近を1周すること、駅前広場と土産物売り場への立ち寄り、写真撮影」が許可されただけであった。調査どころではない。というか、こんなに厳しいのに、辺境貿易が正常に行われている訳がない。

土産物売り場にはロシア製品と思われるチョコレートや工芸品、衣服などが置かれていた。売り子の英語は片言。基本は中国語を話したが、お客は殆どいなかった。駅も表示を見るとカザフからの国際列車が一日1-2本通過しているようだが、人気は全くなかった。貨車が中心であろうか。街を1周したが、普通の街と変わりはなかった。ただ人が殆どいなかっただけ。我々は記念写真を撮り、早々に引き揚げた。

最近カシュガルやホータンで、テロ事件が発生していた。この件と関係があるのだろうか。説明は一切ない。兎に角過敏になっていることだけが分かる。この結果、明日行くはずだったもう一つの国境、コルゴスへの訪問も断念した。新疆の厳しいさを見た。

皆ガッカリしながらバスに乗る。近くになった皮革工場にはアポが入っており、案内してもらえた。しかしどのようにしてこの場所を確保できたのかなどの疑問には曖昧な答えのみ。やはり国境には複雑な事情がありそうだ。

(4)涼皮と嵐

今日の目的地、伊寧に向かう。ただ博楽に戻り、また高速に乗るのはつまらないと言うことで、北側を通りサリム湖へ向かう。ここには高速はない。運転手は何となく嫌がっていた。何故か。

昼ごはんは地元の人が教えてくれた麺を食べる。道沿いになかなか味のあるお店。外国人が来ることなど、滅多にないようで、夫婦が大慌てて支度にかかる。涼皮と書かれている。涼皮とは小麦で作る春雨の太いの、というイメージか。上に肉片を乗せ、熱々の涼皮が登場した。スープはコクがあり美味い。付け合せの漬物が絶品。炭火で焼いたナンも焦げ目があって美味しい。やはり地元の人が連れて行く店だけのことはある。

天気が急速に悪化してきた。突然の変化はまるで山の気候。この辺りは4000m級の山が近い。大粒の雨が降り出した。私はトイレに行きたくなり外へ。そこへ凄い突風が吹き、危うく吹き飛ばされるところであった。このあたり、遮るものは何もない。慌てて店に飛び込み、しばらく茶など啜っていると、嘘のように収まり、そして晴れて来た。通り雨にしては激し過ぎる。新疆の気候の恐ろしさを垣間見た。

店を出てバスに乗るが、直ぐにガソリンスタンドへ。そこでは素晴らしく晴れた山並みの景色が見える。驚くほどの変化。その辺に停まっている大型バスは軒並み後ろを開けてオーバーヒートに備えている。雨が降った様子は全くない。我々は幻を見たのだろうか。

(5)サリム湖 馬オジサン

天山山脈の山中にあるサリム湖は標高2000m、新疆で最も高い所にある湖。サリムとはモンゴル語で「屋根の上の湖」という意味らしい。湖は青く澄みきっており、いかにも高地の湖らしい。周辺は牧草地帯、いくつものゲルが見られ、遊牧民が羊を追っていた。

湖の風景も美しい。水も透き通っている。ここには汚染というものが感じられない。バスが止まったので降りる。そこにはモンゴル族と思われるオジサンがただ一人、馬を引いて待っていた。好奇心旺盛のN先生、早速馬に乗る。1周2元とか。こんなので商売になるのだろうか。

オジサンに聞いてみると、昔は多くの観光客が馬に乗り、一日で500元稼いだこともあったそうだ。2元なら、250人が乗った計算になる。最近は商売にも陰りが見えているらしい。実はこの場所は多くのバスが停まる場所ではない。オジサンは賭けに出ていたのだ。競争を排除し、少なくても客を独占する。

N先生とオジサン、意気投合してタバコを分け合う。タバコを吸うオジサンの後姿が実に哀愁を帯びていて、何とも言えない雰囲気がある。この美しいサリム湖とオジサン、そして馬、何とも言えない味わいがある。しかしもう少し経つと道が良くなり、オジサンはいなくなり、この風景も失われてしまうだろうか。寂しさを感じる。

綺麗な湖を後にして、そして我々は苦難にあった。山越えの道が相当に悪いのだ。昔はもっと悪かったといい、現在改修中の場所が多い。それはそれでデコボコなのだ。1時間ぐらい揺られただろうか。平らな道に出た時には腰が相当にいかれていた。

新疆北路を行く2011(7)石河子 新疆兵団の街

8月16日(火)
2.石河子 (1)石河子は80年代の中国

翌日午前中はウルムチ市内の企業を3社回り、そのままウルムチを後にする。いよいよ新疆北路を行く、旅が始まった。この1週間は、小型バスを借り切り、J氏、S氏、そして運転手さんと共に旅を続けることになる。

道は真っ直ぐ西へ延びている。本日の目的地は150㎞離れた石河子市。何でこの街へ行くのだろうか。私は事前に各訪問地に関して何の予備知識も与えられてはいなかった。それが良いと思って敢えて聞くこともなかった。片道2車線の高速道路をバスは疾走する。周囲の風景は原野、といった様相で、砂漠でもなく、耕地でもない。シルクロードと言うイメージからも少し離れている。双方向共に車は多くない。

少し緑が出て来た。水田が見える。空も青い。もうすぐ石河子市だと言う。都市の周囲に緑があるのは、オアシス。やはりここにはシルクロードのイメージがある。2時間弱で市内に入る。街は大きくはないがゆったりしている。どこかで見たような・・。この風景を説明することは難しいのだが、何となくこの街には昔の中国の街のにおいがする。80年代、私が留学していた頃に旅した都市の香りがする。何故かはわからない。そんなことを考えていると、ホテルに到着。

ホテルの周囲も昔の雰囲気だった。冷たいコーラでも買おうと思って歩いたが、冷蔵庫があっても電源が入っていない。店の人もゆったりと構えていた。子供たちが楽しそうに遊んでいる。実に不思議な街だ。

(2)新疆兵団

博物館に向かう。新疆兵団軍墾博物館。新疆兵団とは、日本では馴染みがないが、建国後、新疆での治安維持と開拓を進めるべく、組織された日本でいう屯田兵制度。軍の兵士が帰農し、国境などで変事があれば兵となる。この複雑な国際環境を持つ新疆で、特に建国直後は様々な問題があったであろうから、兵団の意味は大きい。同時に未開の地に、鍬を入れ、開拓した土地もかなりに達している。現在兵団の規模は相当数に達しており、兵団イコール街という図式となっている。

一方ウイグル族など少数民族から見えれば、共産党や兵団が有望な土地を取り上げて開拓した、と見るかもしれない。ある意味ではウイグル族にとっては自分の土地でも、漢族から見えれば未開の土地、という場所が多かったのかもしれない。

この博物館にその歴史がかなり多く展示されており、一般的な博物館より遥かに見ごたえがある。特に何度も起こった少数民族の反乱の歴史が漢民族の立場から語られている。また現在民主活動家として物議を醸しだしている艾未未とその父、詩人の艾青がこの地の労働改造所に送られていたことなども展示されている。

石河子がなぜ80年代の中国の街に見えるか、それはこの街が50年代の人工的に兵団によって作られ、そのままの状態を維持しているからであろう。ある意味では発展から取り残された革命の地、といった雰囲気である。

夏休みということもあり、多くの見学者が押し掛けてきており、入場制限がされていたほど。新疆観光の一つとして、石河子と新疆兵団は一般民衆にとっても欠かせない所らしい。と言っても石河子に宿泊することはなく、バスで通りがてらに立ち寄るだけ。

夜市に行って見た。これまたひどく懐かしい。まるで台湾の夜市と言った雰囲気もあり、娯楽が少ない当地では、相当の人出もある。薄暗い露店では、怪しげな物を売っていたり、親子連れがのんびりと夜景を眺めていたり。

8月17日(水)
(3) 日本人の寄付で出来たジュース

翌日は朝から石河子の招商局へ行き、当地の企業誘致状況を聞く。日系企業の進出はないとの事であったが、何故か「神内」と言う日本的な名前が飛び出す。10数年前、この地を訪れた日本人、神内良一という人が、この地に寄付をして、石河子大学との共同研究を開始。結果として当地で取れるニンジンや桃を使ったジュースが出来上がったと言う。試飲してみたが、なかなか美味しかった。

この興味深い日本人は誰なのか?帰国後ネット検索すると神内良一氏とは消費者金融「プロミス」の創業者、とある。東証一部の上場を果たした翌年1997年に、ご自身は金融から農業へシフトしたとあるから、その頃、何かのご縁でここへ来て農業関連事業に寄付を出したのだろうか。その事業が今も根付いている所が面白いし、素晴らしい。

もう一つ面白いと思ったのは、石河子大学。正直この田舎の大学の研究レベルはどんなものだろうかと思ったが、聞けば、ここは新疆ウイグル自治区でウルムチ大学と並ぶ、全国重点大学。北京大学などから教授が送り込まれ、レベルは相当に高いと言う。これは石河子と言う街が共産党にとって、いかに重要な場所かということを端的に表している。

そして今回我々の案内を買って出てくれた招商局の若者は実は山東省の出身。ウルムチ財経大学で修士を出た後、内地に帰ることをせずに、石河子市に就職した。「内地にチャンスはない。ここはいいですよ」と言い切り、既に住宅も購入、彼女も出来たとのこと。中国は広い、沿海部だけが良いのではない、ということを感じさせる彼であった。

因みに昼は女性招商局長を交えて大宴会となる。彼は飲めないお酒をがむしゃらに飲み、へべれけに酔い、それでも我々のアテンドを続け、最後に我々がバスに乗り込むと、その場にへたり込んでしまった。こんな若者、昔いたような。実に懐かしさを感じさせる漢族の街、それが石河子であった。

3.博楽
(1) 西へ西へ流れ行く

石河子を出発し、一路西へ針路を取る。今日は博楽まで350㎞。いよいよ過酷な車の旅が始まった。昼からお酒を飲んでしまったこともあり、いい気持ちでバスに乗る。天気は上々、空も青い。

片道2車線の高速道路をスイスイ走る。途中路肩に大量のトラックが停まっていた。聞けば、トラックは日中、この道を走ることが出来ないと言う。確かにトラックがいないので、走りやすい。トラックの荷台に目をやるとものすごい数のトマトが積みこまれて、動き出すのを待っていた。このトマトがラグメンの具になるかと思うと、さっき食事をしたばかりなのに、腹が減る。それ程に美味しそうに見えるトマトであった。

道の脇に時々表示が出ている。第XX兵団、この付近も多くは兵団の開拓地のようだ。石河子は大きな街であったが、多くの兵団員は、更に奥地の未開の地を開拓していったのだろうか。そしてそこには少数民族は住んでいなかったのだろうか。バスから眺める限り、何一つ分からない。

ちょうど中間ぐらいでトイレ休憩があった。運転手は他のドライバーと言葉を交わす。どうやらこの先の道路事情を聞いているようだ。こんなにきれいな道路があるのだから、情報など要らなそうに見えるが、そこは昔の伝統か。いや、博楽市はこの幹線から外れた場所にあり、情報は重要だった。

右側に列車の線路が見えたと思ったら、長い長い貨物列車がバスと並行して走っている。この列車は一体どこへ行こうとしているのだろうか。一体何を運んでいるのか。我々もこの列車も何だか、流れに任せて西へ西へ流れていくようだ。

夕方ようやく博楽市に着いた。夕陽が見事に傾いていた。街の外れの立派なホテルにチェックインした。

 



新疆北路を行く2011(6)ウルムチ 踊りの上手いウイグル人

新疆は踊る

夜はJ氏に連れられて、ウルムチの高級レストランへ。ここではウルムチの音楽や踊りが見られると言う。まだ陽が高い7時に到着、続々と観光客が集まってきて、徐々に盛り上がっていく。中国人の団体客が多い。我々は既に慣れた手つきで最初に出て来るスイカを食べながら、ビールを飲む。

ショーは意外に早く始まった。歌あり、踊りあり、楽器ありのエンターテイナーショー。結構迫力があり、面白い。子供の雑技なども披露される。途中から、皆さん踊りましょうと言うことで、フロアーで踊る。我々のテーブルでも遅れて来たN嬢とS氏夫人が大活躍。まるで西洋のようにカップルでフロアーに出ていき、見事に踊る。これは幼少期から事あるごとに踊る習慣があるウイグル族ならでは。N嬢いわく、「ウイグル人なら誰でも踊れます」、凄い。

同時にテーブルには羊から魚まで数々の料理が並んでいる。ビールの後は持ち込んだ白酒を2本開け、大宴会となっていた。まさに飲めや歌えや踊れや、でこれも凄い。飛行機が遅れて途中から登場したN所長などは、訳も分からずこの宴会に巻き込まれ、あわや倒れる寸前に。それにしても全員がしたたか酔い、踊り、実に楽しい宴会であった。新疆の底力を見た気がした。

8月15日(月)
(5) 学院長は36歳

翌朝はJ氏やS氏が所属する新疆某大学にお邪魔した。同大学は1950年に党の幹部学校として設立され、現在は数校が合併、学生数3万人という大きな大学になっている。校内に案内されると流石に広い。立派なグランドは市の競技施設並み。そして学校の北側にはだだっ広い公園があり、これも学校の敷地だと言われて驚く。

経済学院のG学院長と面談。中国の大学は学院毎に分かれており、日本でいえばちょっと違うが学院長は学部長か。いや、学院毎に独立採算性、独自性が求められる中国では、経営者と言えるのではないか。そのG氏、僅か36歳でこのポストに就いた。これはこの大学でも異例らしい。全国の優秀教師にも選ばれている。確かに話し方はしっかりしているし、中国の幹部教育を受けた人、というイメージが強い。勿論漢族である。

大学の校舎内に張り出された紙。よく見ると、漢族とウイグル族の学生が喧嘩したようで、その処分が張られていた。双方ともに退学処分だったが、それが公平な裁きであるかどうかは、部外者には全く分からないが、新疆の複雑さの一端を見る。

学内に大学を紹介する展示室があった。日本の大学にはこのような場所があっただろうか。そこには大学の歴史が書かれていたが、海外の大学で最も早く提携したのは実は日本のA大学であると、式典の写真も掲示されていた。日本は80年代、その経済的な優位性を生かして、様々な活動を行ってきた。しかし経済低迷の今、その多くが忘れ去られている。一方中国では現在経済優先社会となっているが、それでも昔のことを忘れない姿勢はある。日中の基本的な姿勢の違いがすれ違いを生む場合もあると感じる。

(6) フライトチケットネットと電話で

午後はウルムチ市の経済開発区、開発区内企業を訪問。色々と参考になる話があった。尚日系企業の姿はここにはなかった。

実はこの先、新疆北路の旅を終えると、私一人は皆さんと別れて、青海省西寧市へ行くことになっている。全省制覇まであと2つ。いまだ未踏の青海省にはこの機会に行っておこうと思う。幸い元部下の知り合いが西寧に滞在しており、面倒を見てくれることが決定。フライトを取る必要が出て来た。

元々ウルムチ→西寧は一日2本程度しかなく、便がタイトだと聞く。その為、ホテルに入っている旅行社へ行き、急ぎ押さえる。お姐さんが丁寧に調べてくれ、何とか20日の夜便を買う。この時期割引はなく、結構高い。支払いも現金決済。横には札束を握りしめた地元のオッチャン2人が真剣にフライトを探している。高度成長期の雰囲気がある。そして西寧から北京に戻るフライトを聞くと、「夜中の12時に到着する便しかない。まだ十分席はあるから、どうするか考えてから買え」と言われる。確かに北京に夜中到着はきつい。

ところが翌日ネットでこのフライトを検索すると既にすべて売り切れており、22日に北京に戻る便の席は全くなくなっていた。一瞬唖然となる。23日の午後便で東京へ戻らないと、ノービザ期間の15日を過ぎてしまい、オーバーステイとなる。これは何とか避けたい。西寧は諦めて、ウルムチから北京に戻るか。

シートリップ(携程)という旅行サイトを眺めながら、思わず電話をする。事情を説明すると「直行便は満席ですが、西安経由でどうですか、ちょうどいいのがありますよ」と言うではないか。そうか、経由便は思い付かなかった。海外クレジットカードの決済も電話で出来た。料金も西安経由には割引があり、安く上がったし、時間も夕飯頃には北京に着いていた。中国語が出来ることが前提だが、便利になった物だ。既に現金を握りしめて旅行社へ行く時代ではない。




新疆北路を行く2011(5)ウルムチ やっぱりラグメンは美味い!

8月14日(日)  (4) ウルムチ2

毛沢民

翌日は日曜日、夕方まで自由時間となる。N先生、M先生と街の探索に出た。M先生は実は歴史フェチ。タクシーで街の南にある八路軍新疆駐在事務所記念館へ向かう。ホテルからは30分ぐらい掛かった。突然道の脇にレンガ造りの独特な建物が出現。共産党の秘密基地といった雰囲気は全くないモダンな造り。

観光客でここを訪れる中国人はいないようだ。入り口のおじさんも暇そう。「写真は撮らないように」と言って中へ引っ込む。2階建ての建物に入ると意外と展示物が多い。新疆における共産党の歴史がきらびやかに書かれているが、恐らく当時は相当に大変な状態であったはずだ。

同時にここが同盟国ソ連との最前線になっており、何と初代の所長は陳雲。陳雲と言えば改革開放後、鄧小平に対峙した経済理論をもっていた人物。その後も共産党設立メンバーの一人陳潭秋が所長を務め、1942年に逮捕、翌年新疆軍閥の盛世才によって毛沢民・林基路らとともに殺されている。

毛沢民、毛沢東と一字違いのこの人物は実弟である。元々財務金融に明るかったのか、初代国家銀行総裁、経済部長などを務めていたが、1938年に新疆に派遣され、犠牲になっている。毛沢東はこの弟のことをどう思っていたのだろうか。

今の心境の情勢と当時の情勢は全く違っていたかもしれないが、漢民族である共産党がこの地に入り込み、そして制圧していく過程は1つのドラマかもしれない。毛沢民は華やかな共産党の勝利を見ることもなく、ましてや自分が毛沢東の弟として、飾られることなど想像すらしていなかっただろう。

書店の自動保管箱

道を歩いているととても雰囲気のよさそうな茶店があった。入ろうとしたが残念ながらラマダンで休業中。店の入り口からするとトルコチックなお店。どんな茶が出て来たのだろうか。

次に向かったのは新華書店。大学の先生、研究者は常に資料収集を行う。これは意外と大変な作業だと思う。ウルムチ、新疆の資料を探す。ここの新華書店もご多分に漏れず、どこに何があるかは分かり難い。しかしN先生などは初めて来たとは思えないほどの素早い行動力で、次々と関係資料を掘り出している。私が新疆の歴史に関する資料を手にすると「これは日本語版がここにあります」などと教えてくれる。凄い。取り敢えず1冊購入する。

今回驚いたのはバックを預ける保管箱。コインロッカーのようになっており、すべて自動化されている。最近北京に行っても書店に入ることは少ないが、北京や上海もそうなのだろうか。そして一番驚いたのは、取り出す際に預けた時に出て来たシートをかざすだけでロッカーが開いたこと。日本にこんなのあるかな。

また道を歩く。昨日来た大バザールを通過。その先にCDショップあり。いい民族音楽が流れて来て、N先生思わず中へ。「ウイグル音楽で一番人気があるもの」とのリクエストを出すと、CDを掛けて聞かせてくれるから有難い。周囲には物珍しそうに人々が、「こっちの方がいいぞ」などとちゃちゃを入れながら、皆で聞く。

それから民族博物館へ。ところがその場所に博物館はなかった。あったのは大きなビル。中では和田(ホータン)の玉が売られていた。ここは玉の市場かな。新疆民街と書かれており、政府がここを10年前に整備したことは分かったが、その後博物館は閉鎖し、市場になったようだ。

玉と言えば、ホータンの玉の値段はどんどん上がっており、石炭などで巨額の富を得た漢族が高値で買っていくと言う。たった一つの玉を4000万元で売り、その金で市内中心にビルを買った、などという豪勢なエピソードも飛び出す。今や博物館など儲からない、といった雰囲気が漲る。とても残念なことだが、これが現実。

バスとタクシー

先生達はもう一つの新華書店に向かう。不熱心な私はここで別れる。そして折角なので市内のバスに乗ってみる。ところが地図を忘れてしまい、停留所の名前を見ても、どのバスに乗ればよいか分からない。仕方なく適当に乗り込む。1元。

日曜日の昼間、バスは意外と混んでいた。ラマダンの時は家でジッとしているのかと思い込んでいたが、どうやら違うらしい。数駅乗ると紅山公園にやって来たので、ここが市内の中心であると思い、降りる。ところが、この公園は相当の広さの上に高さもある。ここを登るのは大変だと思い、目の前にやって来たタクシーに飛び乗る。

運転手は漢族ではないが、どの民族かは分からない。最近は景気も良いし、給与も上がっていると上機嫌で言う。「ウルムチは田舎だと思ってきただろう」とズバリ言ってのけたりもする。「最近この辺のマンションは8,000元/㎡はするよ。一番高い所は18,000元」街の発展を喜んでいる。「俺たちは民族なんかどうでもいい、平和に暮らせればそれでいいんだよ」とも言う。確かにその通りだ。

 

一人昼飯
ホテルに戻ったが、時刻はまだ2時台。何となく腹も減るが、それほど沢山食べたくもない。そこで麺を食べようとホテル内のレストランへ向かう。ところが・・「四川の担担麺ならあるが、ウイグルのラグメンはない」と言われてビックリ。仕方なく、ラグメンレストランの場所を聞き、向かう。歩いて5分、

店を覗くと沢山の人が食べていた。入り口で先ず食べる物をオーダーし、金を払う。私は迷わずナス肉ラグメンを注文。10元。ついでにシシカバブーも頼んだが、「1本なんて焼けないよ」とお姐さんに冷たく言われる。しかし後ろで順番を待っていた女性が「あたしも食べるんだから、一緒に焼こうね」と実に優しく言ってくれた。これだけも感激。カバブー1元。

昔の学生食堂のように、厨房が見える。自分のオーダーした物をその前で待つ。なかなかいい雰囲気だ。スープ麺もあり、こちらは出て来るのが早い。これも美味そうだが、熱いのだから、汗が出そうだ。10分近く待ってようやく、私の麺が出て来た。

ナスと羊肉の具と麺は皿が分かれていた。具を麺に載せ、思いっきり?かき混ぜる。ナスの香りが飛ぶ。食べなくても、既に美味い。麺は本当にしっかりしており、実に満足できるスパゲッティーである。日本では食べられないのだろうか。カバブーが遅れて到着。こちらも肉が柔らかい。

食事が終わってレストランを出ると、そこは下町の風情。ちょっと散歩。道沿いに木々が緑に映え、その下でカバブーを食べながらビールを飲む人々。昼からビアガーデン状態だ。N先生に早速知らせねば、と思う。

脇道を入ると果物を売っている。スイカにハミウリ、ブドウ、何でもある。一人ではスイカ一つでも多過ぎる。諦める。横を見ると携帯ショップがあった。そうだ、デジカメのカードリーダーを持ってくるのを忘れていた。店で聞くと、おにいさんが親切に私のカードに合うリーダーを探してくれた。価格は僅か10元。何となくその優しさに癒される。

更に歩いて行くと、靴磨きのおばさんと目が合う。そうだ、昨日砂漠に足を突っ込み、靴を汚していた。試に足を出して聞いてみると「これは革靴じゃないから、ちょっと高いよ」と言われる。いくらか聞くと「3元」との答え。磨いてもらう。磨くと言うよりクリームをつけて落とす感じか。

おばさんは河南省から出て来た出稼ぎだった。ここでの生活を聞くと「生活はどこだって同じだよ」と。でもウルムチは景気が良いそうで、商売は繁盛しているとも言う。僅か2-3元の商売だが、彼女は実に明るい。話していてもよく笑う。隣の2人も同郷らしく、話に加わり楽しく過ごした。



 

新疆北路を行く2011(4)トルファン ラマダンにさ迷い歩く

灼熱の交河城址

次に訪れたのが、トルファン市内から西に10㎞、交河城址であった。ここは2つの川の交わるところ、交通要衝の地であった。三蔵法師も訪れたと言う高昌国の隣。現存する城址は唐代以降のものだというが、見ると一面の廃墟。遮るものもまるで無し。今日はそれほど暑くはないと言われたが、それでも38度はある。何故なら夏のトルファンの昼間、38度を下回ることはないらしい。

しかもこの廃墟、説明文はどこにもない。行けども、行けども何もわからない廃墟を歩く。これは1つの修行ではないだろうか。いや、その昔三蔵法師はこのような砂漠を延々と歩いてインドへ行ったと言うことを我々に語っているのだろうか。

何事にも熱心なM先生を除き、皆かなりの疲労を覚え、出口へ向かう。まさに兵どもが夢のあと、といった感じだ。のどの渇きがすごい。この荒涼とした感じは如何にもシルクロードだが、直射日光と乾燥には耐えられない。砂漠を行くとは大変なことだ。

出口の所に博物館がある。中に入るとこの城址の由来その他が説明されており、初めて意味が分かる。我々は順番を間違えた様だ。先にここを見ておけば、あの暑さにも耐えられただろうか。いや、それはないだろう。

交河城とは我々には想像もできないし、現在見てもピンとは来ないが、陳舜臣氏によれば、「彫刻都市」なのだそうだ。交河というぐらいだから、2つの河に挟まれている。しかも20mの絶壁が城壁を作る必要性をなくしている。交河城は上から彫られた世界でも稀にみる都市なのである。上から彫られたと言えば、以前訪れたインドのエローラ石窟を思い出す。

実はトルファンには交河城址の他にもう一つ、高昌古城という場所がある。こちらの方が規模は大きいが、街は殆ど残っていない。理由として交河は日干し煉瓦を殆ど使っていないこと。農民は古い日干し煉瓦が肥料としてよいことを知っており、かなり掘り出して使ってしまったらしい。

尚高昌国は唐の時代、玄奘が立ち寄った場所。国王麴文泰は玄奘を気に入り、この国に留まるよう無理に要請。自ら給仕までしたらしい。天竺行きの使命を帯びる玄奘は4日間絶食し、対抗したという。結局1か月滞在し、国王はじめ300余人に講義をしたと言う。

当時高昌国は唐と突厥に挟まれて、苦しい立場にあった。王はこの難局打開の一つの方策として仏教の導入を進めたのかもしれない。結局麴文泰は玄奘が去って10年後には死を迎え、高昌国は唐に敗れて滅びる。唐は強国といえども、建国直後でまだ勢力が弱いと見ていたところ、それが誤りであったと言うことらしい。玄奘の「大唐西域記」には1か月も滞在したのに、高昌国のことは一言も触れられていないと言う。

交河城には高昌国滅亡後、唐の太宗により安西都護府が置かれ、唐は直接西域経営に乗り出した。玄奘はインドの帰路、この道を通らなかった。因みに後年マルコポーロも南道を通り、トルファンには立ち寄っていない。

ラマダンに彷徨う
既に午後3時、昼食場所へ向かう。J氏の教え子と言う男性が現れ、先導してくれる。先生はいいな、どこにでも教え子がいる。しかし教え子とは言っても堂々とした人。市政府に務めているらしい。

少し郊外の雰囲気のよいレストランに到着。観光客も外で待っている。中に入るとぶどう棚、その下に桟敷?があり、とてもいいムードで食事が出来そうだ。ところがどっこい、追い出される。何とラマダン中で昼間店はクローズ。期待は大きく裏切られる。

ようやく街中のレストランに入ったのは午後4時。しかし新疆時間ではまだ昼ごはん時間だった。地下へ降りていくと数組が食事中。我々のテーブルには薬缶で茶碗にお茶が配られる。冷たい物が飲みたい気分だが、それは仕方がない。ところがもう一つ薬缶が出て来た。白湯かな、と思っていると、冷たい。そして色はお茶のそれだが、何故か泡が立っている。N先生の目が輝いた。外国人待遇が得られたようだ。

腹が減っていたことはあるだろうが、ここのラグメンは本当に美味しかった。ニンジン、ピーマン、キュウリ、インゲンなどの具が程よく上に乗り、麺も細いがしっかりしていて、味わいが深い。思わず、お替り、というか日本のラーメンでいう替え玉を頼む。具は残しておいて、麺を追加する。いくらでも食べられそうな。

火焔山

そして一行は火焔山へ向かった。火焔山と言えば、西遊記が思い出される。山とは言いながら、かなり広い範囲を指すらしい。我々は一路、ベゼクリク千仏洞を目指した。山が傾斜する砂漠に見える。その空が広がる渓谷に千仏洞はあった。

この千仏洞は6世紀の高昌国の時代に作り始められ、9世紀に最盛期を迎えた。13世紀のイスラム侵攻により破壊されたが、現在いくつかの石窟が残っている。しかしその内部は19世紀末にやって来た外国探検隊に殆どをはぎ取られている。正直見学できるいくつかの石窟に入っても、どこに壁画が描かれているのか分からない。係員が下の方を指さし、足の部分だけが辛うじて見えた、と言った状態。また僅かに全景が見える壁画が薄く残っているのみ。

千仏洞の入り口にウイグル人と思われる老人が一人で楽器を弾いていた。その音色がこの風景のマッチしておりなかなか良い。顔も日焼けして如何にもこの辺りの人。音楽好きで大バザールでタンバリンを購入したN先生、老人に近づき、その音楽に合わせてリズムを取り、タンバリンを忘れたことを悔やむ。老人にチップを渡すと、何と「昴」を演奏してくれた。お客の国籍をちゃんと把握している。

外に出ると「火焔山」と書かれた石碑の横に駱駝が待機している。観光客を乗せて、斜面を登るようだ。まるで月の砂漠を想起させる景色。そして火焔山の中心に。トルファンでも最も暑い所であり、50度を超えることもしばしばとか。火焔の由来は砂岩の浸食によりできた山肌の赤とその形状。

そしてウルムチへ。帰りの道路に検問があった。以前は全員の身分証を確認するなど厳しいチェックがあったようだが、今回は運転手だけがチェックされ、後ろのトランクを開けることすらなかった。中国政府はウルムチ市の治安に問題が既に無いことを確認しているようだ。

ネット騒動2

夜、ホテルの部屋を移動した。元々の予約は今日からであったので、予約した部屋に移った。昨夜の騒動もあり、これでネットも繋がるだろうと期待していたが、何と部屋にケーブルが無いばかりか、ケーブルを繋ぐジャックすら見当たらない。またフロントに電話を掛けると、困った声で「没法子」と言う。一体どうなっているのか?

部屋に若いマネージャーがやって来て事情を説明される。そしてやって分かった。このホテルには元々僅か10部屋にしかネット設備が無いのだと。今時中国でこんなホテル、あるのだろうか??昨日の部屋に戻せと言った所で、今日は全室満員で移りようもないとのこと。何でそれを昨日言ってくれないのだ。

マネージャーも困った顔をしていた。彼が悪いんじゃないのだ。自分にそう言い聞かせて寝ようかと思った瞬間、彼が「PCを持って下に来てくれませんか」と小声で言う。何故?よく分からないが、着いて行くことにした。彼は私を1階フロントに案内し、フロントで使用していたPCからケーブルを抜き、「これを使って下さい」と差し出した。呆気にとられたが、折角なのでPCに接続し、メールをチェック。こんな時に意外と大事なメールが入っており、助かった。夜中の人気のないロビーに背を向けてフロントに向き合い座る。何だかとても滑稽だが、ちょっと感動。

部屋に戻ろうと3階でエレベーターを降りると、何故かそこはカラオケ屋。受付の男女スタッフが私を見て「なんでそんな恰好でPC持っているんだ。PCよりカラオケだろう、この時間は」と笑いだす。私は初めて自分が短パンにTシャツの寝姿であることに気が付く。確かに真夜中にPCを持ってこの格好で歩く異邦人は滑稽以外の何物でもない。