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西の果てカシュガルへ行く2012(6)カシュガル 雪で空港閉鎖 極上の羊スープで温まる

杏ジャム工場

午後はジャム工場に行く。これまた広大な敷地だ。何でこんなに広い場所が必要なのだろうか。工場の建屋もいくつか見えるが、やはり新疆では土地が余っているのだろうか。ここは2001年に工場が作られた。中央の大企業、中糧集団に属するようだ。従業員は54人、平均年齢28歳とある。この広さで54人しか働いていない。どうなっているんだ。しかも我々が訪れた時、この敷地内に人の影は全くない。ようやく事務所から漢族の男性が二人出て来た。

話を聞いてまた驚いた。この工場は周辺で採れる杏を原料とした杏ジャムを生産しているが、杏が取れる時期は6月頃で、その時期40日程度でジャムを作り、後は使用していないとう言うではないか。生産したジャムは主にアメリカなどに輸出するとのことであるが、どうしてもっと生産しないのか、と問うと、一言「採算が合わない」。 1年中生産するには原料の杏を貯蔵する必要があり設備に金が掛かる。一方輸出先の需要はそこまで多くはなく、かと言って国内需要などはあまりなく、売るのに苦労する。だが、ここの従業員はどうしているのだろうか。「その時期になったら北からやって来る」と。

ようは、この大集団は従業員を各工場で使い回しているようだ。こんなことが出来るのは漢族だから。従業員も恐らくは漢族で、会社の命でどこでも行き、稼いでいるのだろう。地元を大切にするウイグル族には出来そうもない。そういえば、この敷地も元はどこかの国営工場だろう。それを中糧集団が買い取って、資金効率だけを考えて運営している。ウイグル族に恩恵はない。

大宴会

夜は大宴会となった。明日カシュガルを離れる我々を送別するとして、J教授、S教授の友人、知人が三々五々集まって来て、席に着く。そして恩師の先生を中心に話の輪が咲く。

   

我々は本当にだしに使われているようだ。しかしそれでも良い、何か不思議な雰囲気、連帯感がそこにある。一人ずつ送別の辞を述べる。そうしてお互い抱きあい、強い酒を酌み交わす。実に熱い。

本日は厳しいウイグルの現状を色々と見て来た。だからこそ、この連帯がどれだけ重要か、支え合う必要性の意味を理解できる気がした。だが現実は甘くない。この優秀な人々が、真に笑顔で暮らせる環境は果たして出現するのか、酒をあおりながら考えたが、先は見えない。

2月15日(水)  (5)   5日目

大雪 空港閉鎖 チケット変更

カシュガル最終日。何となく名残惜しいが、こんなに長く一つの街に留まったのも珍しく、そろそろ体が次の街を目指している。先生達は今日はウルムチまで移動して泊まるが、私はカシュガル⇒ウルムチ⇒シンセン⇒香港の長旅となる。と思っているとメールが入ってきた。何と私が乗るはずの午前のウルムチ行き便は午後7時発となるとある。そうなるとウルムチでの乗り継ぎは不可能であり、早々に対策を迫られる。ホテルのロビーに降りていくと、まだ電気も点いていなくて(節電かもしれない)、フロントの女性に事情を話すが、「そんなの自分で電話しろ」といった雰囲気が漂う。

外へ出るとまた雪。しかも昨晩かなり降ったのか、相当積もっており、これによってカシュガル空港が閉鎖に追い込まれたようだ。N教授、J教授に知らせすると、彼らの午後便も夕方まで遅延とのこと。カシュガル空港の再開は午後3時以降らしい。ウルムチ行きに関しては遅延で腹をくくり、今晩はウルムチ泊まりとする。こちらはJ教授などもおり、安心。だが、今日のウルムチ⇒シンセン間のフライトを明日に変更しなければならない。これはどうすればよいのか。しかもこのチケット、香港の友人が代理で買ってくれており、フライト情報は全て彼の方に入る。そしてその彼は台北に出張中。絶望的な距離の隔たり、時間の隔たり。

仕方なく、自分でCAに電話してみる。案の定、電話は全く繋がらない。勿論このホットライン、カシュガルだけでなく、全中国共通だが、電話する人は無尽蔵にいそうで、また絶望感に囚われる。何回かトライするといきなり音声案内になる。先ず言語を選ぶ。中国語、英語、そして、何と4番目ぐらいに日本語、というではないか。思わずこれを押すと、あっと言う間に流暢な日本語で返事が来た。

後はスムーズだった。元々のチケットが格安だったため、明日のフライトに変更すると相当の追加料金が掛かることが分かる。だが先方からアドバイスがあり、明後日なら3000円ぐらいで変更できるという。その丁寧な対応に感激。おまけに変更後再度電話が鳴り、「実は先程の金額がもう少し安くなる。間違えて申しわけない」と。こんなサービス、中国にあったんだ、とこの時ばかりは日本的サービスにグッと来た。

大雪の中で飲む羊スープ

ホテルの部屋から下を見ると隣の学校の校庭も雪一色。子供達が楽しそうに雪遊びに興じていて、何だかホッとする。子供はどこでも子供だな。皆で街を散策する。雪はやんでいたが、足元はかなり滑りやすく、危険。レストランの前でもお店の前でも盛んに雪かきが行われている。カシュガルがこんな大雪になることは滅多になく、皆驚きながらも、ちょっと楽しげ。中国一大きいと言われた毛沢東像も雪に覆われ、雪かきが行われていた。

1軒の地元のレストランの前を通ると、中のダルマストーブの上にホーロー引きのカップが数個置かれて、コトコトと音を立てていた。瞬間的に「これは美味そう」と反応してしま、このスープを飲みたいと主張、聞き入れられて中へ入る。ホーローカップはかなり使いこまれていて、それだけで美味しいと確信できた。地元の人も飲んでいる。ナンも頼む。カップの中には大きな羊肉の塊が入っており、またニンジンや玉ねぎなど野菜もドンドンと入っている。

実に腹に沁みるスープだった。外が寒い分、美味しく感じられるのかもしれないが、やはり羊の味がしみ込んでおり、極上スープが出来ている。カップにスプーンを入れて飲んでいると「違う、違う」と言われ、もう一つの椀にスープを注ぎ、ナンをちぎって入れ、一緒に食べる。至福の時が訪れた。フライトがディレーしていることなど忘れてしまった。





インド アユルベーダの旅(22)プネー インドでコーヒー

インドでコーヒー

ランチが終わると参加者が帰り始めた。ラトールさん達はバスで帰ることになったが、私はA師夫妻と一緒に車でプネーへ戻った。またあのバスの旅をする体力が残っていなかったのである。恐らくはパンチャカルマと結婚式の疲れが出たのであろう。

 

車は一路プネーに向かって走っていたが、すぐに道路脇のコーヒーショップに入る。A師は2月に日本からのヨーガ合宿メンバーの来訪を控え、その準備をしていた。彼らはオプションでエローラの行くことになっており、その下見で休憩場所を確認していた。

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インドのコーヒーショップ、正直あまりピンと来ないは、最近はCoffee Dayというチェー店があちこちにできている。何とのこの辺鄙なドライブインにまで進出していた。一杯100rのコーヒー、これはチャイが道端で5rなのと比べてバカ高い。だがお金を持った若者を中心に結構流行っているから、インドの変化を見るよい例かもしれない。

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ここで働いている人々もほぼ若者の男女。勿論英語も出来るし、接客態度も悪くはない。トイレもきれいだし、休憩場所としては申し分ない。でも何だかインドまで来てコーヒーを飲むのは少しイメージが合わないと考えるのは私が年寄りだからだろうか。

 

それから夕日に向かって車は走った。バスで5時間なら車では4時間ぐらいかと思っていたが、思いの外安全運転だったのと、プネー市内に入ると渋滞がひどく、結局5時間近くかかってしまった。インドでこの渋滞問題の解決が今後の大いなる課題であり、また運転の安全性も実に重要だと分かる。ただ中国に慣れてしまうと、どこの国でも安全だと思ってしまうのは、どうなんだろうか。

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ラトール家に帰りつくと、夕飯が待っていた。ラトールさんが帰宅したのはそれから3時間後、夜中になっていた。結婚式の興奮冷めやらないまま、バスで盛り上がったのだろう。本当に私は良い経験をさせてもらった。感謝。

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1月29日(水)

7.プネー3

とうとうインド最終日が来た。本日ラトールさんは日本から来たお客さんと南インドへ行く。少し早いが私もそれに便乗して空港へ向かう。先ずはお客さんが泊まっているホテルへ迎えに行くため、リキシャに乗り込む。ラトールさんの妹ももう一台のリキシャに乗って我々の後を追う。お客さんの荷物をラトール家で一部預かるためだ。

 

ホテルから空港まではホテルの車を使って移動。今日もいい天気が続いている。平日の午前中だが、思いの外渋滞がある。ラトールさん達のフライトは国内線だが、出発1時間前になっても空港に着かない。私は冷や冷やしたが、ラトールさんは平気な顔をしている。

 

50分前にようやく到着し、彼らは急いでチェックインカウンターへ向かった。私は一人国際線ターミナルに移動したが、私が乗るフライトにはまだ3時間以上あり、チェックインも出来ない。この小さな空港で何をするでもなく、ボーっと過ごす。思えば今回も色々とあった。

 

ようやく2時間少し前にチェックインができたが、今度はセキュリティチェックが開いていない。仕方なくレストランに入り、ヌードルなどを食べる。インド人やタイ人のビジネスマンが入ってきて、食事をしている。プネーという街も少しずつ発展しているように感じられる。

 

LCCスパイスジェットは快適だった。お客もかなり乗っていたが、このバンコック-プネー路線はこの後すぐに廃止になった。とても残念だ。ロナワラでこのフライトを予約した時、腹が減っていたので食事を予約していた。あまり食欲はなかったが、食べてみると案外美味かった。ニンブーも飲んでみた。

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隣のインド人はバンコックに出張だという。何とビール製造機器を売っているらしい。ただ本人は酒も飲まないし、肉も食べないという。相変わらずインド人は面白い。結構話が弾んだところでバンコックに到着した。もうデモの影響もなかった。

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西の果てカシュガルへ行く2012(5)カシュガル 幻の経済特区構想

上島珈琲

夜は連日大宴会なので、今日は軽くすると言われてホッとした。近所の綺麗なレストランで出されたのは、胡椒の効いたスープの中にパスタのような千切れた麺が入っている。胃に易しいし、寒さの中で暖かさが伝わる。

ホテルへ戻ろうとするとN教授が「ちょっと物足りない。ビールが飲みたい」という。確かホテルの横に上島珈琲があったのを思い出し、そこへ入る。上島珈琲、元は日本のUCCであるが、UCCが台湾へ行き、合弁を設立。その後その台湾UCC、上島が中国へ上陸した。今や全中国を網羅するほどの店舗網があり、その勢いは凄い。この中国の果て、カシュガルにまで進出していた。

日本と決定的に違うのは、ここは単なる喫茶店ではなく、ちょっと優雅な会合の場所。そして当然のように酒も提供される。だからN教授にニーズにも、コーヒーを飲みたい我々の要請にも応えてくれる。日本初、台湾で形態を変え、中国で成功した典型例かもしれない。

店内はかなり賑わっている。コーヒー1杯、50元前後だから、スターバックスのラテが30数元と比べても中国的に言えばかなり高い。周囲の客は高そうなワインなどを飲んでおり、コーヒーだけ飲んでいる客は見掛けない。夜は飲み屋なのだろう。

ウエートレスが注文を聞きに来た。彼女、カシュガルの大学に勉強に来た学生アルバイト。だが、そのきびきびとした受け答えはここカシュガルでは極めて新鮮であった。恐らくマニュアルがあり、それを叩きこまれている。これは日本式サービスだろうか。兎に角笑顔ではっきり、このサービスは嬉しい。もし日本発のサービスなら、中国にも十分受け入れられるだろう。

比較しては申し訳ないが、カシュガルのウイグル族の働き方とは全く違う。これは労働概念の違いだろう。ホテルの従業員にも見られたが、サービスという概念があまりないし、必要以上に働くことも、頭にはないだろう。このような点からも、どんどん漢族に仕事を奪われていく。少し考える余地はある。

2月14日(火)   (4)   4日目

特区計画

翌朝は雪になった。雨の少ないカシュガルで雪が降るのか、とも思ったが、先日降ったらしい雪が残っているので、それほど不思議はないのかもしれない。

今日は朝から街中にある「城市企画展示館」を訪ねた。実は昨日一度来たのだが、停電ということで今日になったのだが。この建物は、周囲を池に囲まれた浮島の中にある。ただ現在は零下の世界、池は凍り、そこに雪が降っているので、何が何だか分からない。周辺には旧正月の飾りなどもあり、イベント会場でもあるのだろう。

大雪になっており、館まで歩くのが意外と困難なほど。ようやくたどり着くと担当が待っており招き入れられたが、寒い。しかし中は立派だった。一体何のためにこんな立派な施設を作ったのだろうか。今や中国のどこの都市の施設にもいるコンパニオンが慣れた口調で説明を始める。

特の驚いたのは、2030年のカシュガルの未来予想図。ビデオもあり、素晴らしい未来都市が構想されている。更には3D による360度映像もあり、余計に凄いと思ってしまう。もし本当にこんな都市が出来るのであれば、カシュガルも安泰だと思ってしまう。実はカシュガルは2010年の新疆工作会議で「西のシンセンを目指す」として、カシュガル経済特区構想が示され、報道によれば多くの投資が入り込んでいるという。今回はその確認もテーマであったが、これを見れば順調に進んでいる??

後ろを振り返ったら、数人のウイグル人が冷ややかに我々の様子を見ていた。「素晴らしい計画じゃないか」と話しかけると「計画通りできればね。ここは3-4年でリーダーが変わる。変わる度に新しい計画が出る。そして投資が一部起こるが根本的には何も変わらない」と実に現実的な答えが帰って来た。

展示館を出て、池の周囲の道路を何気なく見た。立派なマンションなどが目に入る。やはり投資は行われているのだ。だが、良く見ると様々な値引き広告が出されている。一時は㎡1万元にもなったというマンションが今や3000-4000元というケースもあるとか。基本的に投資者は中国内地。カシュガルの投資が萎んだのか、中国全体の影響なのか。そのいずれでもあろう。特に金融引き締めの影響は全中国の不動産市場を冷え込ませていることは確かだ。

精米工場

それから精米工場の見学に出掛けた。その敷地は広く、バスは入り口でストップ。雪が積もる中を歩いて向かう。工場内に入ると僅かに残るコメの袋が見えるのみ。やはり冬、今は精米の時期ではないと見える。

社長という女性に事務室に招き入れられる。実に質素な部屋で、だるまストーブが中央にあり、薬缶が上にのり、ボーボーと薪が燃やされる。北国の冬の光景がそこにある。何だか寒々している。ウイグル族の女社長に話を聞いて驚いた。彼女は2008年まで公務員だったが、米精製業の将来性を見込んで、この民間会社の社長に転職。主に中国東北地方から米を輸入し、新疆地区で売り捌いている。09年には数百万元を銀行から借り、事業は順調だったという。ところが・・。

09年にパキスタン、10年にはキルギスへ米を輸出し、その代金が回収できなかったという。そして資金繰りが厳しくなったが、銀行は以前と打って変わって審査が厳しくなり、融資が受けられず、今では原料のコメの輸入がままならない状態だとか。工場に米が無いのは季節要因ではなく、操業停止状態だったことになる。何故輸出したのか、また担保や保証を何故取らなかったのか。「国の指示だから」の一言。中国政府は自然災害のあった友好国のパキスタン、財政の苦しいキルギスへの援助にこのような民間企業も使っていたのだ。「政府との関係が悪くなるのは困るから拒むことは出来ない」のだ。

何故09年は融資が受けられ、最近は受けられないのか。まさにこれは08年の4兆元の景気刺激策と、昨今の金融引き締めの影響がもろに出ている。彼女はウイグル語で話しているのだが、私にはその内容が理解できたような気がする。「単に金融引き締めだけではない。漢族のリーダーは資金を漢族にしか回さないのだ」との叫びが聞こえたような気がする。「我々ウイグルは漢族のように良好な『関係』を金融機関と築けない」

また融資を受けること自体、イスラムの教えに反する部分もある。ウイグル族同志であれば、所謂イスラム金融で貸借を処理するが、殆どの利権を漢族が握る中、ウイグルが資金を得るのは難しいようだ。少数民族が起業して成功するのは、現代中国では容易ではない、という一端を垣間見た。

昼飯 ポーラ

雪はやんだが、路上に大量の積雪がある。路面は凍り、車が立ち往生する事態も出ている。数人の男がトラックを押して、何とか進めている。やはりここは雪国ではない。通常ではない事態が発生しているようだ。

お昼は簡単に、ということで、地元の人が普通に行くポーラの店に入る。昼時はかなり混んでいるが、何とか席を確保して座る。お客さんは何故か女や子供が多い。何故だろうか。

大き目の茶碗にレンガ茶が豪快に淹れられる。外が寒かった分、このお茶の温かさが有難い。続いてスープが登場。シンプルな味。そしてポーラが配られる。ウイグルチャーハンと呼べばよいのか、その上に又豪快に羊肉が乗り、味がしみ込む。一口で、思わず「美味い」と声に出てしまう。皆黙々と食べ、あっと言う間に平らげる。それだけのことではあるが、このランチは嬉しい。





西の果てカシュガルへ行く2012(4)カシュガル 少数民族の悲哀

2月13日(月)

(3)   3日目   カシュガルの小学校

月曜日の朝、ホテルの部屋から外を眺めると、隣の学校で雪の中、朝礼のような物が行われていた。ウイグル族の子が多く見えたが、先生の声は普通話。しかも朝から大声で何か怒鳴っているように聞こえる。

新疆では漢族の学校と少数民族の学校は分かれていると聞く。だが、例えばウイグル族が将来良い職に就くためには、漢族の学校で普通話に慣れて、大学入試試験をパスして、良い大学に行く必要がある。そのため、小学校から成績の良い子、親が将来を考える子は漢族学校へ行く。

最近ではウイグル族の子でもウイグル語が上手く話せない、お爺さんなどとコミュニケーションが取れなくなる子が出て来ているという。経済至上主義で考えればやむを得ないことかもしれないが、少なくとも新疆に住んでいるのに、自らの民族の言葉が不自由というのは、如何なものだろうか。前回の訪問でも聞いたいが、ウイグル族の学校で高校まで過ごした人が、内地の大学に行くには、1-2年の普通話教育を別途受ける必要があるほど、不便ではある。しかし何が幸せであるかは、人により違うのではないだろうか。

カシュガルの高校生

お昼はまた立派なウイグルレストランでたらふく、羊肉とポーラ(ウイグルチャーハン)、ラグメンを頂いた。相変わらず幸せな日々が続いている。人によっては飽きてしまうかもしれないが、私はいくら食べても飽きることが無い。かなり適合している、いや本当に美味い物は飽きないのでは。

この席にはJ教授の同窓生が参加していた。某局課長クラスなど、カシュガルではエリート層だろう。皆慎み深く、我々に配慮して、色々と世話を焼いてくれる。勿論内地では漢族も同じように面倒を見てくれることがあるが、新疆で見られるウイグル族の配慮には更に深い絆のような物が見え隠れする。

その席に何故かウイグルの女子高校生が一人座っていた某課長の娘さんだという。確かに昨日も一部我々に同行していた。彼女は仕切りに隣のA教授と英語で会話している。まるで英語のレッスンのようだな、と思っていると、課長が「娘は最近英語を習い始め、外国人と会う機会が殆どないので、今回同席させた」という。まさにレッスンだった。

彼女は高校卒業後、出来れば海外留学したいという。高校1年生で既にはっきりした意志を感じる。英語を習っているので行先はアメリカかイギリス、はたまた香港かなどと思っていると「行きたい所はフランス」とあっけらかんと答える。その表情が少し子供っぽく、ホッとする。日本の印象を聞いてみると「あまりよくは知らないが、印象は良い」と答えたが、日本への留学はどうかと聞くと、一言のもと、「全く考えられない」とバッサリ。日本の大学の先生達もこの一言にはちょっとショックだったのか、「これが今に日本の大学の現状ですね」としんみり。

故郷である新疆に止まることは、彼ら若者には少し苦痛なのかもしれない。それは今の置かれている現状を見れば、仕方がないことだろう。日本の若者は相当疲弊しているが、まだ余力のある日本と言う国に甘んじているが、もう10年もすれば全く別の行動が出て来るだろうか。

香妃の墓

午後も観光に出た。カシュガル郊外、イスラムスタイルの建築物を目の前にする。なかなか格好が良い建物だ。冬は観光客がいないのか、係員も探さないと出て来ない。アパク・ホージャ一族の墓、15世紀以降、この地を支配した一族の墓と聞き、ちょっと意外な感がある。

1640年、この地の王であったホージャーが創建。建物の外壁は継ぎはぎのように様々な色のレンガで組み立てられており、面白い。1族5代、70人以上が眠ると聞く。建物の入り口には精緻は模様が描かれており、栄華が忍ばれる。

このお墓が注目されるのは、何と言っても清朝の乾隆帝に見初められ、北京に連れて行かれた香妃の墓があるからであろう。香妃は伝説で満ちている。彼女は香水もつけないのに体から花の香が漂っていたので、「香妃」と呼ばれたとか。1760年、乾隆帝の妃に召されるも、皇帝の愛を拒んで自殺したとか、故郷を想うあまり病死したとか、また皇太后に殺されたとも伝えられている。遺体がカシュガルに送られ、この墓に葬られた。また全く別の話としては、香妃は皇帝の愛を受け入れ長く共に暮らし東陵に葬られ、後にカシュガルに移されたとも。真相は不明。

いずれにしても少数民族の悲哀が出ている墓である。現在でも香妃のような女性はいるのだろうか。想像していくとどんどん膨らんでしまうのは、昔の人と同じだろうか。

ハウス栽培農家

カシュガル郊外の村を訪ねた。この付近の村は先進的な取り組みをしているということで出掛けたのが、既にはが一本もない街路樹、冬の冷え冷えとした街道を走った先には思わぬものが待っていた。

雪が残る農地、その一角に不思議な建物があった。低いドーム型、土で固めた外壁、天井はビニールが何重にも巻いているように見える。この付近は風が強いのか、麻袋に土を詰め、重しとして天井から吊るしている。一体これはないんだろうか。村長さんが案内してくれ、中へ入る。何とそこには鮮やかな緑の野菜畑が出現。

この村では2005年から、政府方針である緑化政策に合わせて、野菜の室内栽培を始めた。それまでは冬は農閑期で仕事が無かったが、村長が決断し、政府の補助も受け、自らハウスを建設し、栽培を開始。その成功により、今は数十軒の農家が個々にハウス栽培をしているという。

ハウス内は零下10度の外からすると別世界。少し暑いぐらいの温度に保たれ、野菜が順調に育っている。作物は主に新疆内で消費されるようだが、各都市の消費が上がるにつれ、このような近郊作物栽培も増加していくだろう。





西の果てカシュガルへ行く2012(3)カシュガル 実に楽しい街散歩

最も印象的な市場 シュウフ県

帰りに偶然見付けたカシュガル郊外の市場に寄る。ここは観光客が来るような場所ではなく、全くのローカル市場。それだけに人々の生活が見事に迫ってきた。日差しがあるとはいえ、寒い日、人々はアツアツの羊スープをすする。その美味しそうなこと。どうしても飲んでみたかったが、その後の予定から断念。

焼いた羊肉をグルグル巻きに積み上げた奇妙な食べ物にも出くわした。あれは一体なんだろうか。聞いてもよく分からなかったが、売っている家族の表情が実に明るい。いや、この市場に来ている人々全体が妙に明るい。日曜日に市場に来るのが楽しい、売る方も楽しい、といった雰囲気が流れている。

パンやお菓子や、日用雑貨まで、何でも売っている。ロバに大量の藁を積んで売っているのを見ると、何となく物悲しい気分にもなる。空き地では大勢の人が集まり、何かを取り囲む。見てみると、闘鶏が行われていた。ルールはよく分からないが、白熱している所もあり、賭けが行われているのかもしれない。

羊の売買も盛んに行われていた。羊を引っ張って来て、買い手を探す者。農業車に乗せて見せている者、真剣に羊を点検し、指値する者、流石羊が主食の地域だけあり、その賑わいと緊張感は、冬の大地に響く。

帰り掛けに市場に入り口でヨーグルトを売る女性たちを見掛ける。如何にも美味しいよ、という笑顔で我々に語りかけるが、言葉は通じていない。でも、何となく通じているような気分になり、心が和む。少数民族のローカル市場は何ともいいもんだ。

都市のバザール

お昼はまたいい雰囲気の店でローカルフード。羊肉入り包子。蒸籠の中の包子の上にナンを載せて、その汁を少し吸い取る。その後そのナンはシシカバブーの皿になり、我々の目の前に登場する。このナンの味が忘れられない。ナンには塩気があり、羊肉汁との融合が素晴らしい。しめに小椀のラグメンを食べれば、もう完璧。

午後はカシュガルの街中にあるバザールを見学する。こちらは物凄い人出で、迷子にならないか心配になるほど。先程の穏やかなローカル市場と異なり、人ごみで緊張してしまう。

ここでのお目当ては帽子。カシュガルの男性は皆帽子を被っており、帽子には相当の拘りがあるように見える。私とA教授は冬用の帽子を持っていなかったので、勇んで買いに走る。しかしあまりにも多くて、選ぶことが出来ない。結局私は適当な物を選んでしまったが、A教授は実にハイカラな帽子を購入。早速被って歩き出すと、周囲の人が皆振り返って彼を見る。彼が帽子を指さすと「いいね」という合図で指を立てて来る。これが一人や二人ではないので、驚く。確かによく似合っているのだが、それにしても何かある。

楽器や絨毯を売る店が多い。こちらは観光客もたくさん来るので、日用品と言うよりお土産物が多い。売り子も何となく座っている感じで、先程のローカル市場の楽しそうな明るさは全くない。こちらは仕事場なのである。

カシュガル老城

昨日は気になる一角があった。道沿いに高台があり、古ぼけた建物がいくつも見られる場所。そこはカシュガル老城と呼ばれ、1,000年の歴史を有する古来の街であった。古代カシュガルは疏勒(そろく)国と呼ばれていたが、10世紀に興ったカラハン朝の都がこの場所にあったという。

その王室の末裔たちが住み続け、その間人口も増えて行き、街は迷路のように複雑になっていった。まるで90年代に取り壊されるまで香港に君臨した治外法権後、九龍城を想起させる。現在も2000戸、1万人が暮らしていると説明板にはあるが、日中中に入り込むと人影はまばら。

その迷路を進むと古びたレンガの住居が並ぶ。継ぎはぎだらけの家、通路を挟んだ2つの家を上に板を通して繋いだ家。何となく郷愁をそそられる。家の入り口には木の門があり、その色やデザインは独特である。

偶に行き交う人も、我々を避けるように通り過ぎていく。観光客慣れしているのか、それとも何か訴えたいことがあるのか、その目は何となく沈んでいる。すっぽりベールをかぶった女性が薄暗い通路から出て来ると、アラブの国を歩いている錯覚にもとらわれる。

横を見ると一部取り壊しが始まっている形跡もあり、ここにも政府の意向が垣間見える。確かに耐震性の問題などもあり、建て替えた方が良いのかもしれないが、ここは歴史遺産であるから、本来であればきちんと保護すべきであろう。

街をふらふら散策すれば

その後は市街地を自由散策。ウイグルの街を歩いていると様々な物が目に入り、とても楽しい。ミシンを売っている店がある。今では日本では見ることが出来ない旧式のミシンとミシン台。自分が子供の頃を思い出す。

ケバブの焼き方も豪快で、煙がもうもうと上がって行く。お茶の時間なのか、その脇で老人が格好良い帽子を被り、茶をすする。お茶請けは焼き羊肉まん、肉汁がかなり出ていて、熱々で食べると火傷しそう。ナンを売る老人も格好良い。ナンの種類も豊富で、どれが良いか目移りしてしまう。鍛冶屋の老人が、路上で火をボウボウと燃え盛らせて、何や打っている。この街では老人の姿が多く、しかも元気が良さそうだ。

カシュガルは古来、西域の重要拠点。19世紀にはロシア、イギリスなどがこの地を巡って激しい駆け引きを繰り広げていた。グレート・ゲームと呼ばれている。文献にはロシア領事館、イギリス領事館が非常に立派であり、ここを行き交う旅人達が宿泊したとある。確か大谷探検隊のメンバーも泊まったと記憶する。その領事館は残っていないのか、地元で聞いてみたが、既に取り壊されているという。それでもロシア領事館のあった場所に案内される。今はその敷地を改造し、建物も完全に立て替えて、ホテルになっていた。100年前の外交にひと時、思いを馳せる。

カシュガルではどんなお茶が飲まれているのか、と聞くと、すかさず街中の店に案内される。店先には四角い形の黒茶が並んでいる。これを解して、そのまま飲むか、横にある薬草類を混ぜて薬用茶とするか。新疆では昔から肉を食べた後の消化を助けるほか、ビタミン補給のためにもお茶は欠かせない存在であった。特に薬用茶の効用により、長生きする人が多いとも言われており、単にお茶を飲むのではなく、生活の一部、いや重要な要素として茶を飲む。ただ新疆では茶葉は取れないため、多くは湖南省からの輸入。磚茶と呼ばれるレンガ上の形状は、輸送に便利であったから。尚伏茶の由来は夏の三伏から来ているらしい。

夜はエデンというおしゃれなレストランで食事をする。最近はこのようなおしゃれな高級なレストランが市内に多数オープン、富裕層に人気があるらしい。





西の果てカシュガルへ行く2012(2)カシュガル 奇跡の乗継を経て美味い飯にありつく

(4)   乗継で走る

私は今日中にウルムチからカシュガルに行かなければならない。余裕を持って1時間50分の乗り継ぎ時間を設けたつもりでいたが、その時間は既にシンセン空港の遅れで使い果たしていた。蘭州出発時に遅れは1時間となっていたが、乗り継ぎ時間は50分しかない。通常国内線であれば、50分は十分な時間であるが、ウルムチ空港はターミナルが分かれており、前回の経験から、現在乗っている海南航空は第2、これから乗る南方航空は第3ターミナルとなる。このターミナルは少し離れており、第2を一度出て第3に行くには、少なくとも5-10分は掛かる。

先ずは機内でチーフパーサーに相談した。彼は直ぐに機長に聞いてみると言い、その結果、1時間前に着陸するので大丈夫と回答した。しかしその後、やはり50分前しか着陸できないと分かり、私をエコノミーの一番前に座らせた。その席に居た人間は黙って後ろへ移った。彼は航空会社従業員か、はたまた公安か。

そして着陸後、ビジネスクラスの乗客を飛ばして、私を一番先に降ろす。ところがそこはタラップで、バスが待っていた。地上従業員は一般バスに乗れと指示を出したが、私が日本人と分かると何と日本語で話しだす。時間が無いと告げると、横に来ていたビジネスクラス用のミニバスに私を乗せ、中にいた女性従業員に託した。

バスは直ぐに出発し、直ぐにターミナルへ到着。そして女性と私は走り出す。女性は途中、カウンターで南方航空チェックインの可否を確認、ダメと分かると直ぐにタクシーを拾えと指示する。ターミナルから外へ出ると、タクシーは見付からない。第3ターミナルが遠くに見えたので、取り敢えず走り出す。道は整備されておらず、雪が積もる車道をひた走る。途中から上りになり、相当きつくなるが、がんばる。そしてとうとう第3に到着。時間は4時を過ぎていた。出発階は2階、エスカレーターに乗り、南方航空カウンターへ。

チェックインカウンターには人は殆どいない。しかし係官は悠々と電話している。大声で、便名を叫ぶ。流石に反応した。直ぐにボーディングパスが出て来た。その時、私の便の搭乗アナウンスが流れた。それから荷物検査に進む。ここは混んでいたので、ファーストクラス用を通してもらう。靴を脱ぎながら、カシュガルのN教授に電話。その後、搭乗口まで走り、何とか間に合った。離陸予定時間の15分前であった。ドーッと疲れが出た。奇跡的に乗れた。

3.カシュガル  (1)   一日目夜

カシュガルまでのフライトは1時間45分。食事は出ずに、何と飲み物とパンが1個だけ。近頃の国内線はスリムだ。機体はE190と見慣れないもの。エンブラエルと言う名前らしい。機体は新しく、2人ずつ左右に席がある。私の隣は太ったハイティーンの若者。絶えず、体を動かし、落ち着きがない。一体なぜ乗っているのだろうか両親が横の席に居ることが分かる。

カシュガル空港はこじんまりしていた。着陸後、手荷物で外へ出るとウイグル人のJ教授が待っていてくれた。いや、J教授だけではなく、S教授、そして日本人N教授、A教授、O教授と勢揃いしていた。何だか恐縮。

市内は直ぐに行けるほど近い。ホテルは金座大飯店、名前は立派だ。部屋に入ると、正面道路に面しており、非常にうるさい。先生たちは反対側だったので、私もそちらに移動したいと申し出る。服務員のお姐ちゃんに伝えるが、何だか要領を得ない。何と北京語が通じているのか怪しいことが分かる。言葉が何とか分かるお姐ちゃんが出て来て、他の部屋を見せてもらう。静かな部屋、というと、内側の窓のない部屋に案内される。そこには木の浴槽があり、ちょっと魅力を感じたが、数日間窓のない暮らしはどうかと思い、反対側へ。

そこではちょうどカーテンの取り換え中で、私がこの部屋に泊まれるのか聞いても、返事すらない。とうとう少し大きな声を上げ、回答を促すと、ようやくこの部屋を使えと言う。何ともおおらかなサービス。そして懸案のインターネットがまた繋がらない。しかしそこでカーテンを付けていたニーちゃんは、ITに強く、日本語PCを苦も無く操り、直ぐに繋げてしまった。お見事。この意外性が良い。

夕飯とマッサージ

その日の夜はJ教授、S教授の同窓生、恩師などが数人集まり、宴会となる。ここカシュガルは南新疆最大の都市であり、かつウイグル族の割合が高い地域。ウルムチなどとは違い、街を歩いていても伝統的な帽子をかぶったウイグルの人々が多く見受けられる。我々が思う新疆の様子に非常に近い。

学生時代をウルムチで送った優秀な人材ばかりが集まった宴会。家庭の都合や本人の意思で故郷に戻り、カシュガルの役所や銀行に勤めているという。恩師によれば、「もしあのままウルムチに残って勉強していれば、相当な幹部になっていただろう人材もいる」とのこと。

料理は伝統的なウイグル料理で羊の肉は勿論だが、大豆や野菜など庶民的な料理も並び、実に美味い。カシュガルは不思議なくらい料理が美味い、何故なのだろうか。

食後、数人で脚マッサージに行く。夜は零下10度の街を息を白くしながら歩いて行くと芯まで冷える。香港も寒かったが、ここの寒さは本物だ。マッサージ店は大きかったが、お客が多く、マッサージ師はなかなか来ない。ようやくやって来たマッサージ師は全て漢族で内地からの出稼ぎ。ウイグル族のマッサージ師は珍しいらしい。この辺にも労働概念の違いが出ているようだ。

2月12日(日)   (2)   2日目

ムハマド・カシュガリの墓

朝起きて、ちょっと外を散歩する。相変わらず寒く、日も差さない。正直新疆の冬、というイメージを全く持ち合わせていなかったが、当たり前だが、夏のカラッとした暑さとは異なり、少しジメッとした空気が漂う。

郊外の観光地に行くという。途中で水を買いに寄った商店では、新疆でよく飲まれている湖南省のレンガ茶が沢山売られていた。昔は地味なパッケージだったが、最近は明るい包装なども出て来て少しオシャレになっている。

田舎道を30分ぐらい行くと、モハマド・カシュガリの墓があった。彼はその名の通り、ここカシュガルの地名の由来ともなった人物でウイグル人にとっては偉大な存在のようだ。11世紀に出たウイグルの大学者で「トルコ語辞典」を編纂した。1008年から1105年まで生き、長くバグダッドに滞在し研鑽に励み、1080年にこの地に戻ると、学院を創設。多くの学生を輩出し、ウイグル文化に貢献した。

この地には彼の墓があり、また記念館にもなっている。敷地は広大で、雪が積もる中、歩いて行くのは大変だった。残念ながら観光客の姿は殆どなく、地元の子供が薄着で走り回っている光景が長閑な雰囲気を出していた。





西の果てカシュガルへ行く2012(1)シンセン 香港からカシュガルへの遠い道

《新疆カシュガル散歩》

2012年2月10-15日

昨年8月に初めて行った新疆ウイグル自治区。何となく危険な香りがするその場所に私は嵌ってしまった。美味しい食事、楽天的なウイグル族の人々、美しい風景、どれを取っても、それは素晴らしく、また中国ではなかった。

また行きたい、という思いは直ぐに通じ、A大学N教授より「また行くよ」の一声で私は乗ってしまった。しかも今回はまた未知の世界、カシュガルへ。否が応でも期待は高まる。

しかし、私はその時点で香港に滞在している。お世話になっている大学もある。東京にも用事がある。それをクリアーできるのか。香港から中国に行くことは想定内だが、正直新疆は遠過ぎる。それでも行けるのは運しかない、いや運命しかない。そして運命は私に新疆を指差した。

2012年2月10日(金)

1.シンセン   (1)   シンセンまで

前日午後の飛行機で東京より香港に戻り、ラマ島の自宅に辿りついたのは夜中の12時半。溜まったメールを処理して寝たのは午前2時。そして8時に起床し、準備を整え、重い荷物を持って再びフェリーに乗り、香港大学へ。大学の階段を喘ぎながら進み、そして日本企業研究のゼミに出て、またセントラルへ。そこから九龍駅へ行き、そして。

何とも長い旅をして、初めてシンセン空港行きのバスが出るという九龍駅バスターミナルを探す。そこはイメージしていたターミナルとは異なり、エレメンツと言う綺麗なビルの中に切符売り場があり、あっと言う間にチケットを買い、下に降りると直ぐにバスに乗り込み出発する仕組み。やはり香港の合理的な処理は早い。

バスは普通の大型バスで乗客は7割程度。中国人と香港人は半々、外国人は欧米人の夫婦が2人と私。バスがスーッと出発すると、私も昨晩までの疲れがドッと出て、直ぐにスーッと眠りに着く。どこをどう走ったのか分からず、目を覚ますと国境に着いていた。ここまで約40分。

バスでは何のアナンンスもなく、荷物を持っていくのか、どこへ行くのか、そしてその先でどうするのか、全く分からない。中国人が同じ疑問を聞いてきたが、答えられない。この辺は香港の悪い所。知っている者がどんどん進み、知らない者は確認しないと先に進めない。

取り敢えず荷物を持ってシンセンと書かれた建物に入る。そこは広々とした空間で大量の出国者をてきぱきと捌いていた。ここで数人の日本人がいるのを確認。続いて中国側の入境。ここでは中国人は早いが外国人は相当ゆっくりとなる。またイミグレカードが相変わらず備えられておらず困る。

それでも合計20分で中国側へ出る。ここは一体どこか。ようやく見つけた名前はシンセン湾。これまでのイミグレよりは香港側と中国側の距離が近く、スピードが速い。そしてバスチケットを出してバスを探すと、直ぐに出発。昔は自分が乗って来たバスに乗らなければならず、探すのも大変、誰からイミグレで引っ掛かると待つのも大変だったが、この辺が合理的な運営に変わっていた。

国境から30分弱でシンセン空港に到着。今日は取り敢えず空港ホテルに泊まるのだが、その場所が分からず、また困る。地下鉄駅の方へ行くとその向こう側にホテルがあり、無事に到着。

(2)   シンセン空港周辺

ホテルは外見は古そうだが、内装は立派。最近経営が変わったようだ。英語で話し掛けると一人の女性がきびきびと応対。部屋に入ると結構立派な作りで、驚く。これで2300円。しかし聞いてみるとこの部屋はダブルルームで結構高い。普通のツインならばもう少し安くなるのかもしれない。いや私の予約には朝食が付いていなかったが、朝食付きで同額か。ネットはケーブルで簡単に繋がり、快適。風呂はシャワーしかないが、部屋が暖かめなので、問題はない。ベットもフカフカで久しぶりに快眠できそう。

取り敢えず腹が減ったので外へ出る。外は非常に寒く、新疆行きの服装がそのまま通じる。ホテルの周囲を見渡しても何もなかったが、もう少し入って行くと、そこは昔の中国の街。シンセンも空港を別にすればこの辺りはまだまだ田舎である。

簡単に食べようと思い、探すと、「木桶飯」と言う字が見える。面白そうなので入ってみると、皆米櫃に箸を入れて食べている。回鍋肉飯を頼むとスープと共に米櫃が登場。下は米、上におかずが乗っている。決して質が良いとは言えないが、これで12元なら安いか。一人でご飯を搔き込んでいる人が多い。出稼ぎ者だろうか。

又歩き出す。今度は潮州料理が目に入る。既にお腹は一杯だが、あの潮州料理の鴨肉、内臓系には目が無い。思わず入る。15元で、大盛りの御飯に汁が掛かり、その上に鴨、鳥の内臓、などが乗る。ウマい。が、とても食べ切れない量だ。残念。

この店、店先で肉を切り、鴨や鳥を吊るしている。お客がどんどん入ってくる。繁盛している。小さい女の子がおばさんに絡み付くが、おばさんは忙しい。母親だろうが、構っている暇がない。女の子はいきなり店先に走り出し、しゃがむと、おしっこを始める。そうか、トイレに行きたかったのか。既に街は暗くなっており、公衆トイレに一人ではいけない。すっきりした顔で戻ってきた彼女、うーん、ちょっと寂しい。

その日は翌朝に備えてシャワーを浴び、早く寝ようとしたが、こんな時に原稿の依頼やら、参画しているプロジェクトの案内を出す羽目に。結局11時過ぎに寝る。しかし快適過ぎてか、夜中に起きる。

2月11日(土)

2.カシュガルまで   (1)   空港出発が

朝早く起きた。これからネットが繋がるかどうか不安なので、早朝からメールをやり取りする。気が付くと6時を過ぎて出発の時間に。チェックアウトし、空港までのシャトルバスを待つが、待っていたのは30元で行くVIP車。断って歩き出す。昨日来た道なので慣れた感じ、10分弱で到着。既にかなりの人混みだったが、何故か海南航空の空いているカウンターがあり、直ぐにチェックインできた。荷物検査台では、これまた何故か傘を出すように言われる。分からない振りをしてみたら、「かさ」と日本語で言われる。日本人には傘を出す意味が分からないだろう。

非常に順調に搭乗も出来た。フライトは満席。後は出発を待つのみ。ドアも閉まった、さあ。ところが、出発しなかった。エンジントラブルらしい。一度出掛かった機体は元へ戻る。そして音がしなくなる。不安が過る。機長からアナウンスがあり、当分出ないことが分かる。するとCA達は慣れた様子で、あっと言う間に暑いお茶を配る。そして30分後には機内食も出してしまう。こちらが心配になる素早さである。しかしこれが中国だ、乗客の不満を和らげる一番の方法は先ず口に物を入れること。これは鉄則であろう。実に見事。そして1時間45分後、機体はゆっくり動き出し、離陸した。

私の隣には小学生が二人、折り重なるように寝ている。彼らはどうやら家族でシンガポール旅行へ行った帰りらしい。旧正月の休みは今週までのようだ。周囲に子供たちが多いのはそのせいか。中国の地方都市の人々も海外旅行を楽しむようになってきている。

ジャスト3時間で蘭州に到着。このフライトは安いのだが、その分時間が掛かる。全員が一度飛行機から降ろされ、ターミナルへ。遅れているためか、実に素早い対応で20分後には機内へ戻る。よく見ていないと置いて行かれそうな雰囲気。そして一部乗客が入れ替わって出発。私の横の二人は今度は座っているのに飽きてきて、活発になるが、私に被害はないので好ましく思う。蘭州からウルムチまできっちり2時間掛かった。



インド アユルベーダの旅(20)アーメダナガール 踊り狂う夜のパレード

踊り狂う夜のパレード

そうこうしている内にどんどん時間が経つが、一向に次の行事が始まらない。イベント会場ではなぜか子供が歌ったり、踊ったり。若い女性やおじさんが歌ったり踊ったり。どうなっているのか。近所の人々が見に来ているので、結婚式とは別の行事かと思う。

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あたりが暗くなると、新郎が外へ出た。そこには馬が用意されており、彼はそれに跨る。恐らくは生まれて初めて乗るのだろう。緊張の面持ちだ。もしここで落ちでもしようものなら、末代までの恥、という感じか。日本なら絶対予行演習するだろうに。勿論馬は大人しいし、馬丁も付いているので問題はないが。音楽隊が派手に音を出し始める。よく見ると新婦は後ろの馬車に乗っている。両脇は可愛い子供が乗っている。

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この行事の意味は何だろうと思っていると、ナイニーカなど若者が突然奇声を発して踊り出す。これには驚く。インド映画ではダンスが定番らしいが、こんな場面でなぜ踊り?かなり激しく踊る。夜の闇にその踊りが映し出される。ちょっと神秘的だ。ナイニーカは普段のジーンズと異なり、とてもおしゃれなインドドレスを着ている。それを振り乱して踊る。

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よく考えてみると、朝バスの中でも踊っていた。単なる喜びでハイテンションになっているだけかと思っていたが、どうやらあれはこのための予行演習だったのではないか。そうだとすると合点がいく。この踊りは一族の中で彼女らが与えられた一種の役割だったことになる。インドの結婚では近親者に役割が与えられているようだ。それにしても、少し進んでは何度も繰り返す。気の遠くなるような時間だ。

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そして2時間後、ようやく結婚式場まで馬は引き返してきた。途中新郎は車に乗り換え、お寺へお参りに行ったようだ。新婦は既に戻っていた。ここで新郎が馬から降り、新婦と共に会場へ入場。舞台上では相変わらず女性が歌っていたが、それが祝福に替わり、全てが演出であることが分かった。

 

2人は舞台に上がり、お互いの首に花輪を掛けあう。拍手が沸き上がる中、何と舞台がゴンドラのようにせり上がる。これ80年代日本の玉姫殿系結婚式の演出に似ている。かなり高くまで2人は持ち上げられ、しばらくはそのまま。

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そしてなんとディナーになった。もう食事など要らないほどだが、親族の手前、食べ物を取りに行く。お盆を持たず、トマトスープだけを取り、席へ。それからインド風ピザを頂き、それで仕舞にした。既に夜10時近い。早々に部屋に上がるが、なぜかよく眠れず困る。

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結婚式でお酒が一滴も出ないのは良いが、食べてすぐ寝るなど、正直インドはあまり健康的な生活をしていないように思う。これからこの習慣が変化していくのか、ちょっと興味はあるが、この生活を続けて気にはなれない。

 

西寧散歩2011(3)バブル崩壊?ゴーストタウン

8月22日(月)
(7) 博物館では骨董市が

翌朝も早く起きた。陳さんから朝ごはんの場所も聞いていたが、やはり昨晩の食べ過ぎが効いて、何も食べられない。取り敢えず散歩へ。隣の公園では数人のおじさんが鳥かご持参で集まっていた。皆自慢の鳥を連れているらしく、朝から元気よく批評会をしている。

清真と書かれたレストランの前には長い行列が出来ている。名物の麺でも売っているのだろう。皆立ち食いしているから、余程美味いのだろう。それでも私は近づく気にもなれない。市内は至る所で開発や改修の工事が進められている。6階建てのビルがあり、1階にケンタッキーが見えた。そうだ、ケンタッキーで粥を食べてみようと、中へ入ると従業員が数人こちらを見て、あれ、という顔をした。何か悪い事でもしたかと思っているとマネージャーがやって来て、「今は営業していない」と言う。何故だろうか。

反対側に道を見ると、どこから店の従業員が皆整列し、訓示が行われている。その後突然皆が踊り出す。いや、踊りではなく、朝の体操らしい。中国ではよく見られる光景ではあるが、皆で体操するというのは、日本からでも取り入れたのだろうか。何となく、天下の公道でするようなことではない気がするのだが。これも宣伝?

陳さんから「折角だから博物館へ行け」と言われていたので、博物館を目指す。地図はあるのでその通り行ったつもりだったが、通り過ぎてしまう。図書館はあったが月曜日で休み。何やらいやな予感。ちょうど陳さんから電話があり、再度博物館の場所を聞いて辿りつく。

この博物館、実に立派。しかも前の広場がやけに大きい。これは北京の天安門広場や歴史博物館をイメージして作られたものかもしれない。しかし、入ろうとすると、警備員が「今日は休館日」と冷たく告げる。実は扉は空いていたのだが、何と中では骨董市が開かれていた。骨董市に貸し出したのなら、博物館も開けて欲しい所。しかしやむを得ない。

(8) ゴーストタウン

そのままホテルへ戻ろうかと思ったが、まだ時間もあるし、ということで、気になっていた駅へ行く。駅、ここは青蔵鉄道の起点、一応話題の場所かなと思ってみる。バスで行こうとしたが、よく分からないのでタクシーに乗る。

聞けば、青蔵鉄道の駅は昨年新駅に移ったとか。西寧の市内ではかなり西の方に新しい駅があった。その途中、旧市街から離れると、そこには巨大なマンション群が。新市街地を造成したらしい。運転手によれば、「3年前開発が始まった時は1㎡1,000元だったが、今は6,000元と言われている。基本的に売り出された所は全て売れているはず」と。

それにしても何棟ものマンションがあるのに、人が歩いている気配もない。運転手曰く、「ガスに問題があるとかで、誰もまだ入居していない。今はちょうどいいが、冬にガスが無ければ死んでしまう」と。確かにガスが通っていなければ生活は出来ない。しかしこの巨大なマンション群に誰も住んでいない、しかも今後いつ入居するか分からない、というのは如何にも中国らしい。

帰りはバスに乗ってみたが、いくつもある新区のバス停は全て素通りだった。当たり前か、誰も住んでいないのだから。それにしても、もしこれが不良債権だったら・・・。ちょっと怖くなるゴーストタウンであった。

因みに駅はプレハブの出来合い。取り敢えず新区に合わせて移したのかもしれないが、それは誤算だったかも。ただこの季節、どこへ行く切符もなかなか手に入らないらしい。駅前には乗客以上に多くの人々が切符を買うために並んでいた。そうか、切符を買うために暴動にでもなったら大変なので、人が少ないこの場所に移したのかもしれない。

(9) お気楽タクシー運転手 嘆く

バスで何とかホテルに戻り、チェックアウト。陳さんより「空港へはタクシーで行くように。運転手はメーターは使わないので100元で交渉せよ」と言われていた。ホテルのフロントのお姐さんも「今は観光シーズン、100元では行かないかもね」と脅かす。

本当は空港バスにでも乗って行きたいが、バス乗り場までが離れており、荷物があるからそこまでタクシーで行かねばならない。流石にそれは面倒である。ホテル前でタクシーを探す。午前11時なのに意外と来ない。そんなにタクシーはないのか。

ようやく空車がやって来て、運転手に「空港」と告げるとすかさず、「100元」との答えが返ってきた。想定問答のよう。運転手は話好きでこちらのことなどお構いなしにどんどんしゃべって来る。

「ここいらのタクシーは殆どが自分の車で商売している。だから賃料を払う必要もなく、焦るやつはいない。行きたくない所には行かないから、空港行きは交渉になる」のだそうだ。夏は観光シーズンでかき入れ時だと思うのだが、働きたくなければ家でテレビを見ている、そうで、いい暮らしである。

空港へ行く高速に乗ると「この辺の不動産は高くなったなあ、どんどん再開発しているけど、金は外の省から来るんだ。損しても彼らの金さ」と言い放つ。確かに省都であるし、他の都市と比べて開発が遅れていたのだから、資金が流入する訳だ。投資資金は彼らの金ではあるが、それで潤う地元民もいることは話に出ない。

ただ地方政府の汚職はひどい、と嘆く。「賄賂が横行しているのに、公務員の給料はどんどん上がって行く。民間人は上がらない。どういう訳だ?」と憤慨する。中国の不安が溢れていた。

3. 北京まで  (1) 1杯58元の緑茶でネット接続

僅か20分で空港に到着。やはりこれで100元は高い。特に地方では相当高いのだろう。運転手は満足げに帰って行った。西寧も立派な空港である。冬は殆ど観光客が来ないようで、夏だけの空港という感じもするが、さらに追加の建屋を建造中。一体何に使うのか。

今回は東方航空へチェックイン。今回は特に何もなかった。当たり前か。また空港でネット探し。ウルムチではネット屋さんがあったが、ここではカフェ。コーヒーは飽きたので緑茶を一杯58元も払って、パスワードを教えてもらい、無事接続。

周囲を見ていると、観光客と思しき、男女が高いコーヒーを平然と頼み、リラックスしてお話している。このカフェ、常時ほぼ満員だ。市内で牛肉麺1杯6元なのに、この落差は何だ。空港側も新しい建屋を立てる前に空港のネット環境を整えて欲しいが。いや、商業主義のご時世、それは無理か。

そして遅れることもなく、搭乗が開始され、機内へ。ここもまた満員。この便は北京行でなく、西安行。北京直行便は全て売り切れており、仕方なく、乗継便に乗る。それでも戻れるだけマシ。

(2) 西安空港で
1時間半ほどで西安に到着。預けた荷物をターンテーブルから取り、そのまま2階のトランジットカウンターへ。東方航空から東方航空への国内線乗り継ぎなのに、荷物がスルーされない、何故だろうか。いや、スルーされて無くなるよりマシと考えることに。

しかしカウンターでチェックインする際、一番早い便に乗りたいと告げると「ちょうど今締め切ってしまった。残念」と言われ、本当に残念。やはり荷物を取る時間が命取りに?西安空港で2時間待つ。

西安は大きな空港なので、手持ちの銀行カードで利用できるラウンジがあるはずだと探すが見当たらない。他のラウンジに入って聞くと何と「荷物検査場の外にある」という。そんなー、殺生な。それならトランジットカウンター行かずに、一度外へ出たのに。後の祭り。

そしてまたまたネットを繋ぐためにカフェへ。また58元コーヒーを飲み、電源を確保し、パスワードを教わる。何だかすごく浪費している感じ。ネットなど繋がなくても、空港でボーっとしていればよいのに、と自分でも思う。でもなぜかそれが出来ない。中毒か?

このカフェは搭乗口のすぐ横にあり、ウエートレスが親切に搭乗開始を教えてくれた。こんなちょっとしたサービスが意外と大切。これまた中国の進歩の一つを見た思い。でも私はトイレに行きたくなり、そこから走ってトイレに行ったため、最後尾になってしまったが。

(3) 東方航空
実に久しぶりに東方航空に乗った。自分では先ず選ばないエアラインに乗れることに感謝し、観察しなければならない。南方航空も10年ぶりだったが、東方は記憶にないほど前。当然サービスは大幅改善していると思ったが。

東方のサービスについては、以前より態度が悪い、飯が不味い、などいたって不評。また近年は待遇改善で抗議したパイロットが、飛行中一斉に上海に戻るなど、とんでもない話が横行していた。

西寧‐西安、西安‐北京間、乗ってキョロキョロ見回してみたが、特に目立つ所もなく、目に付くほど悪い所もない。これが中国の標準かと言われると厳しいが、当方の基準も近年大幅にダウンしており、一概に計れない。

まあ、この観光シーズンに定刻に到着すれば御の字か。私の長い長い、新疆・青海の旅は時間に遅れることなく、終わりを告げた。




インド アユルベーダの旅(19)アーメダナガール 結婚式の儀式

スナックとカギは必需品

もう昼過ぎだが、スナックが用意されているという。この辺が日本的感覚では分からない。昼過ぎたらランチだろう。部屋を出る時、ラトールさんが自転車の鍵を取り出した。それで荷物をベッドに括り付ける。更に部屋の外から持参の錠前を掛ける。向かいの部屋の人も同じように錠前を掛けている。インドで旅行する際に、携帯鍵は必需品だった。

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ラトールさんによれば『日本製のカギは軽くて丈夫。インドでは必ず重宝される』とのこと。日本企業でカギを売るところはあるのだろうか。因みに寝台列車などでは盗難防止に特に有用だとか。ちょっとしたビジネスチャンスは色々と転がっている。

 

スナックと言っても、ちゃんとお盆を持ち、取りに行く。かっぱえびせんカレー味のような揚げ菓子にカレーをかけて食べる。これはなかなか香ばしくてイケル。更には煎餅の中が餅のようになっている物もある。これは日本的で一押し。今日は半日以上経ったがスナックしか食べていない。

 

レジストレーションとランチ

 

会場の舞台の上で何かが始まっていた。『レジストレーション』と後ろから声がかかる。結婚登録の儀式のようだ。ヒンズー教の世界では儀式はバラモンが仕切る。先ず花嫁が壇上で何らかの儀式を受けている。バラモン以外に数人の女性が周囲を固めている。新婦側の女性達だろう。

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続いて新郎が入れ替わりに壇上へ。同じ儀式を行う。周囲はこれまたなぜか女性に囲まれている。ナイニーカなど新郎側の女性達だ。何故女性ばかりなのだろう。不思議だ。そして新郎新婦が共に壇上に上がり、指輪の交換が行われ、レジストレーションは完成した。結婚成立のお祝いのランチが始まる。何と男性から先にビュッフェに向かう。男尊女卑?そういえば儀式を見守る多くの人々は、鮮やかに男女に分かれて席に着いていた。昔日本もこうだったのだろう。

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食事は先ほどスナックの食べ過ぎで、あまり食欲がない。それでもお盆を持って並ぶと、どんどん料理を取り分けられてしまう。食べたい物だけ入れて貰い、席を探し座って食べる。多くの人は立って食べるか、先ほどの儀式の会場の方へ行って食べている。時刻は3時を過ぎている。食べ終わると部屋に行き、昼寝をした。

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黄色の儀式

少し経つと黄色の儀式が始まったという。何だそれ?取り敢えず1つの部屋に行ってみると、何とそこには新郎を取り囲む大勢の女性たち。新郎に黄色い粉を塗りつけている。また自分たち同士でも塗っている。とても奇妙な光景だった。聞けば新婦側の女性たちがやっているらしい。

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A師の理解では、『インドでは男性が女性を守る、という概念が強い。これから親戚になる新婦側の女性から、よろしく、という意味合いでこのようなことがされるのだろう』と。それにしても新郎、可哀想。また新郎側の女性たちも参加したかったようで、後で少し揉めたと聞く。伝統的な儀式、仕来りが難しい。

 

因みに新郎側、新婦側などと言ってみたが、実はここに集まっている300人ほどの人々は殆どが同じ性を持つ。要するにもともと親戚なのだ。先祖はラジャラスタンから来たというこの一族、商業系の仕事をしている人が多い。

 

そしてチャイを探す。この結婚式場では意外なほどチャイが出ない。かといってビールなどアルコールも出ない。食事中は水を飲む。水はボーイがしょっちゅう配っている。ジュースやコーラなどソフトドリンクも出ない。これは一体どういうことだろうか?我々外国人に対して新婦側のおじさんなどが良く気配りしてくれた。必要なものはないかと何度も声を掛けてくれる。