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済南を歩く2013(1)山東省の省都は済南だ

《済南を歩く》 2013年7月15-17日

 

東京からバンコックへ戻る途中、北京でストップオーバーした。北京では経済小説家Kさんのお供をしたが、3日ほど時間が取れた。どこへ行こうかと思っていると、最近音沙汰の無かった大学の同級生Oさんから『4月に山東省済南に転勤になりました』というメールを貰ったことを思い出す。何となく寂しそうなメールだったので、激励の意味を込めて行ってみることにした。

7月15日(月)

1. 済南まで

山東省と言えば青島が思い浮かぶ人がいても、省都が内陸部にある済南である、と知っている人は多くはない。最近ではなぜか薄熙来事件の裁判が済南市で行われ、ちょっと注目を集めた程度。私も一度も行ったことはない。ただ27年前、上海に留学してすぐの国慶節に列車で北京へ行った時、通過した記憶がある。この列車は17時間ノンストップで走っていたが、唯一貨物の関係で停車したのが済南だった。

http://hkchazhuang.ciao.jp/asia/china/mukashi01beijing.htm

朝北京南駅へ行く。27年前と違い、北京には駅がいくつもでき、高速鉄道が開通している。今では北京―上海は5時間程度で結ばれている。その中間に位置するのが済南。今回は高速鉄道で行ってみる。南駅までは地下鉄が繋がっているので便利。駅で切符を買うと30分後の列車に乗れる。ああ、何というスピーディーな。中国の進化が実感できる。駅には吉野屋まで出店しており、どんどん日本の駅の風景に近づいているような気がする。


そして高速鉄道に乗りこむ。満員の乗客。これが1時間に何本も走っている。列車は田園風景を見ながら進む。そして2時間強、あっという間に済南に到着する。済南西駅、高速鉄道の為に新たに作られた駅で真新しい。

2.     済南
ホテルまで

駅から市内までかなり距離があると聞いていた。タクシーに乗るほか方法はない。タクシー乗り場へ行くと、何とタクシーが溢れかえっていた。運転手はみんな、移動するのに、自分のタクシーを押している。エンジンをかけずに燃料を節約するためだ。

 

タクシーに乗り込むと、駅の周辺までタクシーだらけ。この街はまだ発展途上だな、と直感する。市内で客を待つよりここで待つ方が距離は稼げる、ということだろう。だがこれだけ多いと、客があるのだろうか。運転手は『正直2₋3時間待って客を乗せられれば良い方』と諦め顔。確かに10数キロ走っても40元程度。これを1日2往復しても商売にならないようだ。

 

市内に入っても高い建物はあまりなく、むしろ昔懐かしい中国の都市、という雰囲気が出ている。街の真ん中のホテルにチェックイン。ロビーはきれいにしているが、部屋は古めかしい。部屋からOさんに電話すると『会社の近くまで来て』と言われる。なぜ会社ではなく、近くなのだろうか?

 街中道路工事

ホテル前からタクシーを拾い、行き先を告げたが、『その道は工事中で行けない』と断られる。Oさんから回り道の方法を聞いていたので、それを告げると『それなら行ける』と。何とか客を運ぼうという考えはないのか?しかし走ってみて分かった。工事だらけで進まない。運転手が『相乗りさせてもいいか、収入が苦しいんだ』という言葉に思わず頷くほど。しかし残念ながら相乗りの客を見つけることもできず、何とか目的地に着いたのだが。

 

そこは大きな道のある交差点。だが、その大きな道、済南市内のメインロードの1つ、は全面改装中で、全く通行できない。山東省の省都が今頃、こんな基本的な工事をしていることが信じられない。中国は広い、そして沿海部と内陸部などという簡単な区分けでは説明がつかないことが多い。高速鉄道が開通して、済南はようやく開発が始まったらしい。『中国には経済の時差がある』を実感する。

 

Oさんが向こうからやってきた。北京で分かれて以来、5年ぶりの再会か。彼のオフィスはこの大通りに面しているが、今は歩いて行くしかない。先ずはランチに行ったが、そこは20年ぐらい前の北京を思わせる社区の中にある小さなレストラン。きつい山東訛りの従業員に餃子を頼む。とてもいい感じだ。餃子もうまい。元々餃子と言えば山東だから。


こんなところに日本通が

オフィスに戻る。ここは地場の旅行会社。日本語が出来る人がいるというので話を聞きに行く。するとこんなところにこんな人がいるのか、と思うほど、日本語が達者で、しかも私より数段日本のことを知っている。写真もプロ並みの腕前で、日本各地で撮った写真を見せてくれるがただただ驚くばかり。この会社の毎年のカレンダーの写真にもなっている。

 

山東のお茶事情も聴く。やはり日照の緑茶が取れる程度。隣の河南省などともあまり関係がないようだ。出してくれたお茶も福建省の紅茶だった。『緑茶は来年の春に日照へ行って飲んだらどうだ』と言われ、もっともだと思う。

 

なんだかんだ話していると夕方になり、Oさんの上司の上海人と一緒に夕飯を食べることになる。この季節はザリガニだろう、と連れて行かれたのは、おしゃれなレストラン。ピアノまで設えてある。外では豚や鳥を焼いているので、そのギャップもまた面白い。済南のエンゲル係数は異常に高い、というのは本当だろう。

 

上海人Lさんも30年にわたって旅行業界で活躍、日本語も達者で『日本と日本企業の弱点』を明快に説明してくれた。特に日本は謝ればよい、すぐに『すみません』というが、それは『中国人には謝っているようには聞こえない』という点が、今の日中の感情的な面を助長しているように思う。

 

そして夜ホテルに戻ると衝撃のメモが置かれていた。済南は面白い。

⇒ http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5810




新疆南路を行く2012(7)ウルムチ・太原 新疆のお茶はどこから

8月22日(水)  (2)遂に羊スープ

翌日N教授一行の帰国を見送り、一人になった。兎に角一人になればやりたいことは1つ。羊スープを飲むことだった。歩いてウイグル人が多く住む地域へ行く。豊富なフルーツを売る店があり、羊が吊るされている肉屋も露天になっていた。何となく近づいてきている。

横道に入ると、ケバブを焼く店があり、ポーラが大鍋で作られている。あったあった、店の前にドラム缶を出し、羊肉を豪快に湯がいていた。そして肉は外へ出し、そのスープを美味しく頂く。

ベーグルのようなナンを頼み、スープに浸して食べる。ウマい。スープは本当にコクがある。肉も柔らかい。幸せだな、と思う。この暑い新疆で熱いスープを飲む。暑い時は熱い物が良いのかもしれない。これで15元はやはり安い。周辺の店の雰囲気も良い。このようなウイグル人居住区はいつまでも残っていて欲しい。

(3)レンガ茶

ウイグル人居住地区にはお茶屋さんもいくつかあった。現在流行っているお茶は雪菊茶。有機とか、高山とかという言葉も踊るが、何となく敬遠してしまう。実はこのお茶、健康に良いという触れ込みで、内地中国人が高値で買っていたようだが、その後価格が30分の1に大暴落したとのニュースが後日あった。お茶の投機とは如何なものだろうか。ただ中国人の健康志向は本物かもしれない。

Oさんと落ち合い、先日閉まっていたレンガ茶の専門店へ向かう。レンガ茶はウイグル人の生活必需品ということで、どこでも売っているのだが、それは廉価な日用品。この店は昨今の黒茶ブームに合わせて、比較的高級な黒茶を販売している。2年前に出来たというから、所得が向上した結果なのだろう。

この店は新疆出身の漢族が経営している。現在新疆において黒茶の販売が伸びていることなどは丁寧に教えてくれたが、一体なぜ新疆でこれだけレンガ茶が飲まれているのか、その歴史について尋ねると「俺たちはこの工場から茶を買っている。詳しいことはそこへ行って聞け」と1枚のパンフレットを渡される。

その工場は何と湖南省にあった。私は9月からバンコック滞在となり、当分中国ともご縁が無いだろうから、行くこともないだろうと思っていたが、実はその2か月後にはその工場を訪問していたのだから、人の運命は分からない。兎に角、新疆でのお茶調査は完全に失敗に終わってしまった。

8月23日(木)   (4)揺れる新疆(心境)

何となく、静かな熱狂?の中、新疆滞在が終了した。今回が3回目の新疆であったが、大学の調査団もこれにて一度終了ということで、今後新疆を再訪する機会があるかどうか分からない。それでもふつうは1度、良くても2度くらいしか行かない地域に3回も来られたことに感謝せねば、と思う。

再び空港へ向かう。前回は大渋滞に巻き込まれ、かなり慌てたので、今回は早めにタクシーに乗る。ところが早めに行動するとなぜかスムーズに行ってしまい、早く到着してしまう。人間のやることは上手く出来てはいない。

セキュリティチェックも、空港内部ももうかなり慣れており、スムーズに運ぶ。ただこの空港ではWIFIが無い。メールチェックなどは出来ない。新疆は相変わらず、揺れている。秋の党大会へ向けて、一層警備は厳しくなるだろう。さよなら、新疆。

【番外編】太原へ行く

ウルムチから飛行機に乗り、真っ直ぐに北京に向かわず、山西省太原へ行った。何故そんな所へ行ったのか。実は中国全省、直轄都市で行っていなかったのが山西省だけだったから。何とも単純な理由だが、取り敢えずこれで所謂全省制覇をしたことになる。思えば1986年9月に留学のために降り立った上海を皮切りに、26年掛かったことになる。

途中まではそれを意識していたが、2000年に北京に駐在していた時、理由もなく各省、都市に行っても意味がない、と思い、茶旅を始めた。茶の産地はある程度南に偏っているため、最後に山西が残った。しかし山西と言えば、北京の直ぐ隣。一度は山西へ行こうと誘われ、長城を超えて、あと一歩の所まで行ったが、何故か戻ってきてしまった。宿泊した都市は正確ではないが、100ぐらいであろう。よくぞ、行ったものだ。

8月23日(木)   太原の空は青かった

山西省と言えば、石炭の産地。成金も一杯いて、お金のある印象がある。同時に大気汚染がひどく、空はいつも澱んでおり、あまり行きたい場所ではない、と思っていた。それが空港に着いて空を見上げると、真っ青な青空だった。タクシーに乗り込み、運転手に聞くと「昔はひどかったが、今はよくなったよ」と簡単に言う。そんな魔法のような話があるのだろうか。中国政府も山西の汚染は看過できずに世銀などの資金も使い、浄化に務めたということだが。百聞は一見に如かず。

そして空港から市内へ入る道路の周囲は、今が開発ラッシュ。新しいマンションがごっそりできており、まだ建設中のものも多く見られる。山西は石炭成金が多く、北京や上海など大都市のマンション、ビルなどをかなり買っていると聞いたが、地元ではこれから不動産ブームが起こるのだろうか。ちょっと意外な気がした。最高級マンションが㎡/2万元、程度とのこと。北京の平均値以下であり、どうなんだろうか。
はたまた不動産価格が上がらない、開発が遅れていたのは、やはり環境汚染のせいなのだろうか。そうであれば、十分に価格上昇の余地があることになるが、投資規制などはよく分からない。

コラム → http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5257




新疆南路を行く2012(6)コルラ 危険なモンゴル宴会と幻のロプノール

6.コルラ   (1)危険なモンゴル流宴会

そしてコルラに到着。コルラ市内はこれまでの新疆の都市と異なり、ウルムチに近い、発達した街だった。KFCなどの外食、ブランドショップなども見え、景気の良さを伺わせた。今日の宿泊先は巴音郭楞(バインゴロン)賓館。何か馴染みのない名称だなと思っていたら、何とここはモンゴル自治州。新疆にもモンゴル族が多数住んでいるのだ。だが、何故モンゴル族多いのだろうか。どうやら新中国後に大量の移住が行われたらしい。

今回のJ教授、S教授のお知り合いは、モンゴル族。お互いが北京に居た時に知り合ったというS教授とモンゴル族幹部。不思議な出会いから、今日があった。面白い。夕食はモンゴル式歓迎宴会。テーブルには豪華な食事が並び、美味しく頂く。そして・・。

モンゴル式の歓迎宴。5人のモンゴル服を着た男女が登場し、歓迎の歌を歌ってくれる。そして踊る、そして酒が入る。白酒だ。一番恐ろしいのは女性三人が金の杯、銀の杯、玉の杯の3つになみなみと白酒を注ぎ、お客に1つずつ渡す。相当の量があるため、お客が途中で杯を返そうとすると、女性はさっと手を開き、受け取ろうとしない。絶対に受けた杯は飲まなければならない。

そしてその儀式は、1人ずつに行われ、全員がへべれけに酔う。A教授は横のソファーに倒れている。まさに飲めや歌えや大宴会。最終的には数人をホテルの部屋にかつぎ込むことになる。実に久しぶりの事態に呆然。

8月20日(月)  (2)コルラ郊外へ

翌朝、頭を抱えて起きて来る人々。昨晩の大変さが分かる。今日は月曜日だが、どうやらラマダン明けの休日らしい。ということで、企業訪問は出来ずに。郊外へ観光に向かう。市内を抜けると、そこには郊外の新しい街がある。どんどん立派になっている。このようなことが、農村の都市化と関連しているように思う。

90㎞近く離れたロプノールのテーマパークへ行く。ここはタクラマカン砂漠の東の端。古代はロプノール人がタリム河河畔に定住し、独特の生活文化を営んでいた。漢の時代には王国があり、シルクロードの楼蘭への道の通過点。確かに今でもタリム河が流れ、タクラマカン砂漠が存在している。

園内にはロプノール人の文化が分かるような住居や結婚式の風景などが展示されている。そしてタリム河を渡り、タクラマカン砂漠ヘと進む。そこには駱駝がいて、観光客を乗せ、俄かキャラバン隊が結成される。

午後は天然の地下渓谷を訪ねる。周囲に全く何もない場所に、突然深い渓谷が現れる。それは一体何なんだろうか、どうして出来たとか、何故あるのか、といった疑問は愚問であり、まさにあるからあるのだとしか言いようがない。

とても不思議な渓谷だ。長さ49㎞、深さは10-30m。2000年以上前に出来たらしい。これが地下になっていて水が流れていたのだろうか。現在全く水はなく、観光客は渓谷内を歩き回る。結構暑い。人は殆どいない。

その日の夜、また宴会をしようという地元幹部を押しとどめて、簡単な夕食をお願いした。が、焼肉屋となり、またたらふく食べる。これでよいのか、これでよいのだ。

8月21日(火)   7.ウルムチ2   (1)ウルムチへ帰る道

一連の南新疆調査を終え、ウルムチへ。毎日のように車に乗って移動していると、もう何日目か分からなくなる。1週間以上が過ぎていた。高速道路で一路ウルムチへ帰る。

途中ガソリンスタンドに寄る。これまで何度となく、ガソリンを入れ、トイレ休憩を取るために、ガソリンスタンドに寄ったが、最近はどこにでもコンビニのような店がある。入って行くとちょうど従業員が集まり、朝礼の真っ最中。これって、日本式か。「顧客第一」など、まさに日本的な指示を責任者が出していた。飲み物も沢山買うと安くなるなど、色々と工夫がなされており、面白かった。

ランチも高速沿いのレストラン。ラグメンを注文したが、ここの麺も美味しく、ついお替り、というか替え玉をお願いしてしまった。本当に幸せな気分だった。このラグメンさえあれば、私は新疆で暮らしていける。

7時間ほど掛けて、ウルムチに到着。先日のホテルにチェックイン。疲れていたが、N教授達は最後のウルムチの夜ということで、J教授一家が参加して、ホテルで晩餐が行われた。特にJ教授は日本でA教授の教え子、ということがあり、実に中国的な師弟関係を築いていた。「先生」と言えば、日本では今や濃い関係は少ないが、中国では先生は絶対の存在であり、生徒は一生先生を尊敬し、尽くしている。




新疆南路を行く2012(5)クチャ バザールの朝食

5.クチャ   (1)   ラマダン明け

クチャに到着。街の中心から少し離れた立派なホテルに泊まる。部屋は綺麗でよい。午後クチャの街に出る。街の中心、バザール付近は車が立ち往生するほどの人々の山。ラマダン明けの熱気を感じる。

そこを通り過ぎ、クチャの王府を見学しようとしたが、残念ながら既に閉館。門の扉は、なかなかいい感じの文様が付けられており、是非は行ってみたかったが、そのご縁は無かった。王府の脇では、既に炭が焼かれ、今にもケバブが焼かれようとしている。腹が減る。王府の前の通りは狭い昔ながらの通りのようだが、各家の扉の文様は独特で興味を引かれた。

クチャのお寺にやって来た。こちらは400年以上の歴史がある。ところがここも既に参観時間を過ぎていた。どうも今日は不都合が多い。ラマダン明けで時間の概念が違うのかもしれない。ほんの少し中へ入れてもらって見たが、正直よく分からない。

その日の夜は、ソーメンのような細いめんを食べる。これも美味しい。これにケバブがあれば、もう十分。熟睡する。

8月19日(日)   (2)   バザールの朝食

翌朝J教授一行はラマダン明けのお祈りの為早くにモスクに出掛けるとのことで、我々はゆっくり起きた。そろそろ旅の疲れもピークに差し掛かり、ちょうど良い休息だった。後で聞くとJ教授達は結局お祈りに行かなかったらしい。それがあまりの人出のせいなのか、または知らない場所のモスクへ行くのではなく自室で祈ったのか、私には分からない。

朝食を取るため、市場へ向かう。昨日はあれだけ混雑していた市場が今朝は閑散としており、その雰囲気がまたよい。朝から果物を売る人はいたが、後はひっそり。市場の食堂だけが辛うじて賑わっていた。

ホテルにもビュッフェスタイルの朝食は付いていたが、やはりJ教授のお父さんもおり、朝食はウイグル式にしたのだろう。私には願ってもないこと。香ばしい焼き立てのナンを頬張り、お茶をすする。少しスパイスが効いたスープ麺も食する。

この食堂、結構広い。ウイグルの人々が幸せそうに朝ごはんを食べている。椅子に座っている人、台座に座りこんでいる人、大人も子供も、特に浮き立つわけではなく、静かに食事をする。この光景を私は幸せと見、彼らは当然日常とする。

 

(3)   ルンタイの街

今日はクチャを離れ、コルラに向かう。高速道路の一本道だと思っていたが、途中で街へ入る。あれ、と思っていると、そこはルンタイ。普通話ではタイヤという意味か。どんな街なんだ。街中へ入ると、漢族中心の街だった。

何と街の真ん中に中国の国有中央企業の巨大なビルが建っていた。説明を聞くと、「この街は実は西気東輸(中国西部の天然ガスを中国東部沿岸地域に輸送する)の西部の出発地点。普通の人はコルラが一大拠点と言っているが、本当はルンタイから」という。工業団地を車で回ってみたが、確かにエネルギー関係の企業が点在している。現在かなりの建設が行われており、将来的には更に大きな施設が出来ていくと思われる。

ここでもJ教授のお知り合いを訪ねた。ウイグル族、地元で働いている。彼の自宅に招かれ、ランチをご馳走になる。我々には同じような肉に見えたが、羊より柔らかく、美味しい。聞けば、「子ヤギの肉」とのこと。この地方ではヤギは子ヤギしか食べないそうで、子ヤギは貴重、贅沢なご馳走だった。有難い。

 
日本経済研究所月報 コラム 「アジアほっつき歩る記」 第8回「南新疆の漢族化」
http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5260

この家は普通の団地の一室。地方政府の役人に割り当てられたもののようだが、十分に広く、周囲には緑も多く、快適な環境であった。ただ漢族の増加がどんどん進んでおり、ウイグル族などにとっては、住環境とは裏腹に住み難いものになっているかもしれない。



新疆南路を行く2012(4)アクス ラマダン明け キジル千仏洞を見る

4.アクス  (1)  アクスで

街中のホテルに入る。アクスの街は正直大きくはない。発展から取り残されていると言ってもいいかもしれない。それでもホテルのロビーにある旅行社の宣伝には「チャーター機で韓国へ行こう」などと書かれている。一体誰が行くのだろうか。

夜はJ教授の知り合いが集まり、きれいなレストランで夕食を取る。そして夜市へ案内される。ホータンといい、アクスといい、残念ながら主要な産業に恵まれない地域は取り残されていく、という印象を持つ。でも、発展すればよいというものではないから、何とも言えないが。

8月17日(金)  (2)   夜の大宴会

翌朝は郊外の農業関係の施設を訪問した。果物に特化して成功しているケースを見た。そして何よりも元々日本の技術が山東に導入され、その技術が更にこちらに入れられて作られていたリンゴがここで開花していた。一部は以下のコラムに書いた。

http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5260

ここで成功した農家が近隣に建てられた別荘のような家を買っているという。銀行から住宅ローンも出るらしい。まさに小さな都市化の表れであろう。

夕方J教授の実家へお邪魔した。J教授のお父さんはやはり大学教授。しかもアクスでは有名な教育者でアクスにある大学の校長も務めていた人物。実家はその大学の敷地内にある。如何にも中国的。小さいが実に雰囲気の良い前庭があり、竈もあった。N教授が理想とする家がそこにある。

本日はラマダン明けということで、家には親戚が詰めかけ、ご馳走が作られ、我々を待っていた。羊肉をナイフで丁寧に切り分け、ポーラの上に載せて食べる。汁麺も出てくる。フルーツもふんだんにある。何だか凄いパーティに紛れ込んだ気分。

8月18日(土)  (3)   アクス郊外

翌朝はクチャに向けて出発。J教授の妹さん一家がアクスからウルムチへ引っ越すこととなっており、その家財道具の一部を積み、またJ教授のお父さん及び妹さんの息子も車に乗り込む。更に面白い旅になりそうだ。

先ずはアクス郊外の遺跡を目指す。ここは数百年前の街のようだが、今は廃墟になっており、砂に埋まっている感じだ。シルクロードの遺跡、という雰囲気が漂う。全く整備されておらず、何が何だか分からないがかなり広い街がそこにあったように思われる。そして周辺の開発は進んでいる。もしやすると開発の過程でこの遺跡が出て来たのかもしれない。保護されるのかどうか、なかなか難しい現実がありそうだ。

(4  )   美味い昼飯

車はクチャを目指すと思ったが、直接クチャへは行かず、A教授の希望で(私の希望でもある)キジル千仏洞へ向かう。普通に行けば高速道路を通り、味気ない景色が流れていくのだが、今回の道は三蔵法師も通ったかと思うほど、新疆南路に相応しい古びた道。

途中でランチを取る。道路沿いの街の何の変哲もないレストラン。ラマダン明けで朝から営業している。いい湯気が立っている。ケバブを焼くいい煙も立っている。餃子も作られている。ラグメンとケバブそして熱々餃子を口に含むと、あまりの絶品に口も驚く。

庶民が食べる何気ない食堂。そこには低価格で美味い物がある。そして一杯のお茶を啜れば、もうそれで満足。J教授のお父さんを見ていると、本当にそう思う。人間には限度がある、各人には分がある、ということを今の資本主義社会は忘れている。

(4)   キジル石窟

高原の何もない味気ない道を行く。拝城県と言う街を通過する。既にかなりの距離を走っているはずだが。ボーっと外を眺めていると、下り坂の向こうに川が見えた。と思っていると何やら門がある。だが追い返される。どこへ来たんだ。バスは来た道をわずかに戻り、また別の門へ。こちらがキジル千仏洞の入り口だった。

J教授が入場券を買い、中へ入る。ところが千仏洞を見学するのはN教授、A教授と私の3人の日本人のみ。最近整備された一つの窟を見学するのに一人800元も取ると言っていたので、そのせいかと思いきや、どうも違うらしい。我々に渡されたチケットは教員割引で35元。

ちょっと躊躇うも、既に目の前の山壁に千仏洞が見えている。これは上るしかない。また目の前には北魏に捉えられた名僧、クマーラージュの像もある。これは行かねばなるまい。恐らくJ教授ほかは皆ウイグル族。ここは仏教遺跡で宗教が異なること、また更に慮れば、この遺跡を破壊したのはイスラム教徒であり、その姿を見るには躊躇いがあるかと思う。

キジル千仏洞、30年前のNHKシルクロードでは「敦煌莫高窟についで、シルクロードに咲いた仏教美術の名花」と表現されている。キジルには236窟あるが、現在その殆どが空の状態だとか。3世紀に始まり、11世紀ごろまで造営された窟は20世紀初頭、ドイツのルコックとヘディンにより、ほぼ重要部分が持ち去られた。窟内の表示にも「この部分はルコックに持ち去られた」と書かれている。大谷探検隊もここへ来たはずだが、泥棒扱いはない。

上に登る階段は急であり、息が上がる。何故か先導には日本語が出来る女性がいる。彼女について最初の窟に入る。かなりコンパクトな部屋だ。正面に安置されていた仏像は破壊されている。壁の壁画も殆どが変色、または剥ぎ取られており、僅かに足の部分が見えたりしている。奥に進むと裏に回る道がある。正面の裏には涅槃物が安置されていたらしい。これも今では想像するしかない。ここに作られた窟には2種類あるという。仏を安置した祈りの場所。ここは僧が閉じこもり、一心に修行する所だっただろう。もう一つは僧が宿泊する場所。こちらは煮炊きする簡単な竈まであったが、煙突は作れず、煙は窓から出していたとか。更にいえば、階段などない時代、上るだけでも大変だったのに、どうやって水など運んだのだろうか。興味深い謎である。ただ外は暑いが、ここに居ると涼しく感じられる。いい風も入ってくる。意外と快適だったかと思う。

最大の見物は第8窟だという。中に入るとガイドが天井を見ろという。見上げるとそこに伎楽天画がきれいに残っていた。ふくよかな女性が五弦琵琶を奏でている図だ。五弦琵琶は中国にはないが、日本の正倉院にはあるという。これが何を意味するのか、古代のロマンを一気に掻き立てられる。

外に出ると、実に見事な風景が目の前に広がる。河があり、山がある。しかしこの風景をカメラに収めることは出来ない。千仏洞はカメラ持ち込み禁止。下の入り口で荷物は全て預けさせられる。これはルコップなどに持ち去られたトラウマだろうか。ルコップが持ち去った品々は今ベルリンに保管され、研究が進んでいるという。世紀の発見か、ただの泥棒か。

尚我々の前後にはほぼ老人の日本人の団体観光客、後ろからは大勢の中国人観光客がどっと押し寄せてきた。ゆっくり眺める暇はない。特に中国人ガイドの解説は窟内に響き渡り、我々の耳を塞いでしまった。それでも土産物屋のおじさんによれば、ここ10年はそれ以前より客が少ない。特にウルムチ暴動以降は減っている。今年も思ったほどは来ていない、と言い、「半額にするから何か買ってよ」と迫ってきた。




新疆南路を行く2012(3)ホータンの玉市場とタクラマカン砂漠縦断

8月15日(水)  (3)   市内視察

本日は朝から市内視察となる。企業訪問が無かったからである。先ずは学校へ。この学校、20年以上前に日本の無償援助で建てられている。何故このような所に学校を建てたのか、不思議ではある。どうやら漢族の子供が通う学校らしい。校庭も広く、建物はかなり立派である。校舎に入ると世界的な科学者などに交じり、歴代国家指導者の肖像画があったりする。そういう所を除けば日本の学校とあまり変わらない。今回の視察団にはTさんの7歳になるお嬢さんが参加しているが、理科室に入るなり、「日本の学校と同じ」と喜んでいたことからも分かる。

ホータン市の博物館へ行く。今日は休みのようだったが、交渉の結果、見学することに。ホータンらしく立派な玉の置物がある。中には砂漠地帯で発見された遺物が展示されている。この博物館に30万円を寄付したという日本人の名前がプレートに書かれていたりする。日本とホータン、特に20-30年前は深い繋がりがあったということか。

玉市場

バスは街の中心から少し離れた河沿いで停車した。建物の方へ歩いて行くと、スーッと男性が近づいてきた。そして右手を差し出す。言葉はなく、何となく不気味。手の中には小さな石が握られていた。玉か、と聞くと黙って頷く。我々めがけて次々に男たちが近づき、手を出す。これは何だ、交易の原点ではないか。

建物の中は玉売り場だった。如何にも観光客向けといった感じで、客は殆どおらず、店員は皆手持無沙汰で。携帯などをいじっている。ウイグル族の先生たちはこんな所に用はないとばかり、外の露店を物色している。我々もそれに従う。小さな玉を買うと、ネックレスにするため、穴をあけ、ひもを通す。その作業を専門にやる人々もいて、如何にも市場らしい。

玉と言えば、思い出すのは完璧の由来。壁とは玉を薄く輪の形に磨き上げたもの。戦国時代に「和氏の壁」と呼ばれる素晴らしい玉を持つ趙に対して、強国秦がそれを要求。趙の使者は巧みな外交手腕を発揮して、壁を失うことなく、帰国。「壁を完(まっと)うして帰る」、完璧である。

尚玉は河原から拾ってくるらしい。市場の横の河でも数人がずっと下を向いて、探している。もし見付かれば、そのままこの市場に持ち込み、黙って客の前に手を出すのだろう。帰り掛けに、数十人が集まっている姿を見る。一人に向かって皆が買い取りを迫っているようだ。これが市場の買い取り人かもしれない。

A教授は「市場で玉を買っても騙される。地元の人が間違いないと言った店で買わないと」と言いながら、1軒の店を目指した。その道も小さな玉の店がずらっと並んでいた。ホータンという所は、至る所に玉の店がある。どうやって成り立つのだろうか。仲買システムなどはどうなっているのか。店のオーナーが少し大きな石を持って来た。懐中電灯で石を透かす。「この玉は100万元以上だな」と事もなげに言う。店には100万元以上の言い値の玉がゴロゴロしていた。一体どうなっているのか、誰が買うのか。地元の金持ちも買うし、北京や上海など大都市の金持ちも買う。ここにある玉はまだ原石。精密な加工はウルムチか、北京、上海などになる。

「玉は金とは違う。金は合理的な価格メカニズムがあるが、玉には全くない。資産価値があるから玉を買う訳ではない」という。であれば、何のために買うのだろうか。「好きだから、自慢したいから」は正しい説明だろうか。

バザール

昼はラグメンを食べる。そして私は昨日来たばかりだが、一行の半分以上が午後帰国の途に就いた。殆ど擦れ違いであったが、驚くような出会いもあった。銀行員時代に香港でお会いした方がそこにおられたのである。また東京の家が歩いて10分というご近所の親子もいた。名物の干しブドウを買い、別れた。

我々はバザールへ向かうことになった。歩くと遠いということでタクシーを使う。3㎞ぐらい離れた所に大きなバザールがあった。しかもラマダン明け直前ということで結構な賑わいを見せていた。気を付けて歩かないとはぐれるほどであった。

食品からスカーフなど衣料品まで実に多くの物が扱われていた。ホータンは絨毯でも有名な街。全て手織りで、精緻な模様は伝承により織られるという。ベテランでも一日に3㎝も進めばよいとか。ちょっとした物でも仕上げるのに半年から1年は掛かる。バザールにも沢山絨毯は売られているが、聞けば多くが内地から来ており、地元の物は殆どない。「機械で織る安い絨毯が入ってきて、地元の産業も廃れた。未だに手で織っている物は、高級品として市場には出回らない」という。シルクも同じだろう。

子供達も働いていた。市場では子供を含めた一家で商売をしている例が多いが、やはり子供の存在は気になる。お婆さんを助ける孫娘、自ら秤を持って商売する男の子、生活とは、学問とは何か、と思ってしまう。表面的には豊かではなくても、心は豊かかもしれない。

羊の丸焼きを見て、「昨日の村の大宴会は凄かった」と皆が言う。村では外国人が珍しかったらしく、羊を潰して歓迎してくれたらしい。そうなれば食べない訳には行かず、勿論飲まない訳にもいかない。これは十分理解できる。しかもラマダン中だ。お祭りのような物だ。私が取り残された理由に納得。

帰りは歩いて行く。N教授はナンを焼く竈に異常に興味を示し、写真を撮り、中を覗かせてもらっている。日本にこの竈を待ちかえり、ナンを焼きたいらしい。ナンはここで食べるから美味しいのではないか、とも思うのだが、ついでにケバブ台も持ち帰り、日本の山の中で暮らしたいという。うーん。

中華宴会

夜はJ教授のお知り合いなどが参加して宴会となる。ただ時期的な問題(ラマダン)もあり、街中のウイグルレストランで派手に宴会するのは憚られる、というので、ホテルの中華宴会となる。普通の中華が並ぶ中、態々取り寄せて食べさせてもらった、羊肉と汁がたっぷり詰まった肉まんは美味だった。私は羊スープが飲みたいと思ったが、出なかった、残念。

8月16日(木)  (4)   砂漠縦断 500㎞

翌朝はホータンを離れ、タクラマカン砂漠を縦断する。朝ごはんはホテルのビュッフェではなく、ウイグル式が良いと主張したが、ラマダン中で空いている所はなく、何とある秘密の場所で食べさせてもらったが、ここでは多くは語らない。ウイグルには秘密にした方が良いことは結構多い。

ホータン市内を抜けて、砂漠高速?に入ると、後はひたすら一本道を行く。通行量は殆どなく、いくらでもスピードを上げられそうだ。だが、砂漠で皆が爆走して事故が起こっても救助が大変、ということで、合計何時間以上で走らなければいけないというルールがあるようだ。イチイチ監視できないので合理的なような気もするがどうだろうか。

一面砂漠の中を走るのは初めてで、最初は物珍しかったが、その内飽きて来る。飽きてきてもどうにもならない。ましてや私以外のメンバー既にこの道を一度通ってホータンに来ている。皆ぐっすりと寝入る。

途中で休憩した。特に休憩所などはなく、砂漠で休むのだ。持ち込んだスイカとメロンを砂漠で切り、豪快に食べる。これは本当に美味い。そして砂漠を探索する。昔のシルクロードの旅人はこの砂漠をよくぞ歩いたものだ。ずっと歩いていたら、気が狂いそうになる。そして変化があるようで、ないような砂漠。道に迷えば絶望的な気持ちになるだろう。

7時間ほど掛かって今日の目的地、アクスへ到着。アクスはJ教授の故郷であり、今回外せない場所であった。




新疆南路を行く2012(2)ホータンで待ちぼうけ 

(4)   渋滞

Oさんと別れてホテルに戻り、チェックアウト。昨日空港に迎えに来てくれた人が空港まで送ってくれることになっていたが、約束の11時になっても来ない。まあ飛行機は13時15分、余裕を持って待つ。11時20分にようやくやって来て乗車。ところが・・・。直ぐに交通渋滞にぶつかる。一時は全く動かずに20分も過ぎていく。こうなると余裕はなくなる。運転手は「この程度の渋滞、ウルムチではよくあることさ」と気にも留めていない。でももし飛行機に乗れなかったら、とても面倒だ。

途中のトンネルまでが激混みだったが、その先は意外とスムーズに行った。出発1時間前には空港に到着、やれやれと思っていると、今度は空港内へ入れない。現在ウルムチはテロへの警戒からか、入り口で荷物検査を実施していた。乗客は私と同様、ぎりぎりで空港に到着している。当然混乱が起きていた。

何とか混乱を掻い潜り、チェックインを済ませてホッとする。ところが、今度は空港内の身分証検査に長い行列が出来ていた。そして出発30分前になり、ようやくそこを通過、しかし更に再度の荷物検査が。もう搭乗時間だ、と慌てる。検査官がこんな時に限って念入りに調べている。私の足をチェックし終わったので、歩き出すと、何と別の検査官に足タックルを受ける。なんだこれは。後で分かったのだが、何と足の裏のチェックが必要だったのだ。手荷物をしっかり押さえられ、何だか犯罪者になった気分。それほどまでに犯罪があるのか、いやそれほどまでにみんな焦っているのだ。

(5)   ホータンへ

何とか飛行機に滑り込む。機内は意外なほど、空いていた。実は2か月前に最初に予約しようとした時は全てが割引運賃なし。ところが3週間前に最終的に予約する時は40%オフになっていた。何故だろうか、どうやら漢族はテロを警戒し、南新疆への旅行を取りやめ、旅行社が大量にキャンセルを出したらしい。やはり危ないのか。そういえば、北京、ウルムチ間の航空運賃も同じようにディスカントになっていた。

ホータンまでは約2時間、同じ新疆内とは思えないほど、遠かった。そういえば前回のカシュガルも1時半半以上掛かった。本当に広い所だ。乗客にはウイグル系が目立っていた。外国人もあまり見かけない。殆ど揺れることもなく、ホータンの空港に定刻に到着した。小さな空港だった。タラップを降りると、周囲には何もなかった。80年代の中国の空港を思い出す。何となく懐かしい雰囲気があった。荷物を取るターンテーブルも小さい。うーん、本当に中国の果ての果てまで来てしまった感じがある。

3.ホータン  (1)   空港から

空港に到着したが、今日は自力でホテルへ入るように言われていた。空港前のタクシーを避け、奥に停まっているタクシーに声を掛ける。「どれに乗っても20元だよ」と言われる。車内で待つが、他の客が来ないと発車しない相乗りのため、一向に出る気配がない。すると他の運ちゃんがやってきて、お客を交換しろ、という。家族4人組が来たので、私がトレードに出され、直ぐ出発する車に乗り換えた。既に3人が乗っていた。何キロも走らない内に街に入り、役所関係者は役所の前で、女性出張者は予約したホテルで降りていった。

私が指定されたホテルはこの街では結構立派なホテルだった。横には大きな広場があり、この辺が街の中心だと思わせるものがあった。ただラマダン中だからか、人影はまばらで、時折観光客が歩いているだけ。何とものんびりとした風情が漂っていた。このホテルでも予約が分からいと言われ、J教授に電話する羽目に。J教授一行は本日ホータンから200㎞離れた街に視察に行っているとのことで、ホテルで待つように指示がある。

(2)   待ちぼうけ

暫くホテルで休んでいたが、ネットが出来ない。聞けば、少し離れたネットカフェなら出来ると言われ、行って見ることに。ショッピングセンターの裏にあったその店は、ネットカフェというより、ゲームセンター。かなり広いスペースにPCが何百台も並び、薄暗い中、昼間から大勢の人たちがヘッドホンをして、何かを見たり、ゲームをしていた。あまり健全な場所と思えなかったが。

どうやってメールチェックが出来るか聞くと、本来は身分証が無いと登録できないらしい。ただ外国人には臨時証を出すとのことで、カードを貰う。何と1時間僅か3元、これなら暇な若者が昼か屯する訳だ。でも自分のPCは全く繋がらない。この辺は管理がきちんとしている。

メールをチェックするとやることもないので(中国ではツイッターもFacebookも見られない)、外へ出る。隣のショッピングセンターへ入ってみると、2階にお茶屋があった。どんなお茶を売っているのか覗いてみると、鉄観音やプーアール茶など、高いお茶ばかりだった。オーナーの女性は安徽省から出て来て、この店を開いた。お客は漢族もいるし、ウイグル族もいるという。

最近はホータンにも金持ちはいる。彼らは普通のお茶には興味がないので、内地で流行りのいいお茶を持ってきて売っている。地元の普通の人はバラ茶かな。結構大きな店構えだが、どの程度売れるのだろうか。

そして腹が減ったので、周囲を見渡すが、午後4時では開いている店も少ない。ようやく1軒、何だか団子スープと読める店が開いていた。団子やネギ、などが入った美味しいスープに蒸しパンを入れて一緒に食べる。これはかなりイケル。15元。

そしてホテルで待つが、いつまで経っても一行は戻らない。新疆時間午後9時、遂に電話してみた。すると・・、村で大宴会が開かれ、皆へべれけに酔っており、私のことなど、完全に頭から飛んでしまっていた。イヤー参った。

仕方なくホテルを出て夕飯を探すが、既に時間も遅く、屋台も店仕舞いしていた。1軒、まだケバブを焼いている店があったので、ナンと一緒に頼み、口に放り込む。肉汁が何ともいえない。腹が減っていたので、数本食べる。これで満足、ホテルへ帰って寝る。深夜隊長のN教授が恐縮してやってきた。こちらは既に夢うつつであった。




新疆南路を行く2012(1)ウルムチ 夜の屋台で新聞を売る少女

《新疆南路を行く》  2012年8月13-23日

大学の先生の調査団に同行して、この1年で2度新疆へ行った。最近の傾向として同じ場所へ何度も行くことが無くなっており、貴重な旅となっている。3回目の旅にもお誘いを頂き、是非行こうと考えた。ところが日程を見ると8月9日出発、私はサラリーマンを辞めた時の夢の一つ、一日中オリンピックを見ながら過ごす、をロンドン五輪で実践することになっていた。

どうしようかと迷ったが、兎に角オリンピックが終わったら、走って行けばよい?という気持ちになり、途中合流を画策。何と合流場所は新疆の果て、南新疆のホータンになった。どうすんだ、大丈夫か。

2012年8月13日(月)  1.ウルムチまで  (1)   北京経由

ロンドンオリンピックの熱戦を家内の実家に泊まり込み、16日間見た。一日16時間、飽きもせず、むしろリズミカルなほどに規則正しく見た。朝6時にゴミだしか洗濯を干し、就寝。午後1時ごろ起床し、食事、買い物、そして午後4時頃から再びテレビを見ていた。

閉会式は12日、日本時間の朝4時頃から始まっていたが、実は競技には興味があるものの、閉会式には何の興味もなく、出来るだけ睡眠を取り、それでも朝6時には家を出た。羽田から朝の便で北京へ向かった。羽田で知り合いの夫婦が仲良くベンチで寝ていた。微笑ましい。

飛行機は満席で、何とビジネスクラスにアップグレードされた。だが眠たくて、殆どビジネスクラスを満喫できずに、時間が過ぎて行った。順調に北京に着いたが、次のフライトが少し遅れた。3時間ほど待って午後4時のフライトで更にウルムチへ向かった。午後8時過ぎにウルムチ到着。だがここ新疆には新疆時間があり、まだ午後6時半だった。何だか一日がとても長い。

(2)   迎えは来ていたが

空港にはJ教授が依頼した迎えが来ているはずだった。だが私の名前を持った人はいない。どうしようか、J教授たちは今、ホータンで活動中である。すると無垢付けきオジサンが私の方にやって来て、私の名前を告げた。何とか助かった。

彼の車に乗り、夕暮れのウルムチ市内へ。夕陽が綺麗だった。日本は蒸し暑かったが、ここ新疆の夕方は結構過ごしやすい。途中日本人女性から携帯に電話がある。北京駐在のMさんの奥さんがちょうどウルムチ旅行中で、気を使って電話をくれた。一人なら一緒に食事を、と言ってくれたが、実は約束があり、ジョインできなかった。残念。

車は若干渋滞があったものの、40分ほどで、ホテルへ。ホテルの名前も良く知らずに来てしまったが、迎えのオジサンは「俺は車から降りないよ」と言って走り去る。あれ、大丈夫かな?

案の定、ホテルでチェックインしようとしたが、誰の名前で予約したか分からないという。私の名前を入れていないのだ。困ってしまいJ教授の名前から、大学名、その他知っていることを全て言ったところ、何とか予約が見付かった。やれやれ。

2.ウルムチ  (1)ホテルのネット

チェックインが済み、部屋に入り、インターネットを接続してみたが繋がらない。新疆では何度もこのネットトラブルに見舞われており、またかと思う。フロントへ行き、事情を話すと、担当が行きます、との答え。部屋で待っていると従業員が二人来て、機械を置いてサル。

ところがこの機械、どう使ってよいのか分からない。何だかガチャガチャやっている内に、何故か繋がった。この機械は不要だった。どうなっているのだろうか。確かにフロントでは、パスワードがあれば繋がると言っていたのだが。それでも私にこの機械が回って来たということは、時々繋がらない、またはある階は繋がらない、ということがあるということか。

このホテルも古いホテルを買い取ってオープンしたのだろう。いくらブランドが新しくても、設備はなかなか改善できない。現在は夏の繁忙期。これでもJ教授はいい所を抑えてくれている。昨年はホテル全体で10室しかネットが繋がらなかったのだから。

http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4614

http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4622
  

まあ、兎に角メールチェックできた。今日はこれで良しとしよう。

(2)   屋台と少女

今回お茶のご縁で、ウルムチ在住のOさんを紹介された。ウルムチに日本人が住んでいるのか、と何故か感心。Oさんは80年代から新疆の良さに惹かれ、今回1年の留学でやってきた。ウイグル語の勉強だそうだ。それはそれで凄い。

ホテルの直ぐ近くの屋台街へ行く。夜も8時過ぎると涼しい風が吹き、雰囲気がある。ラマダン中の今、日暮れ後は大勢の人が出て来て賑わう。ケバブを頬張り、ポーラを味わうと、新疆に戻ってきた感触が出る。

小さな女の子が抱えきれないほどの新聞をもって、テーブルを回っている。こんな夜に新聞を読む人などいるのだろうか、と思ってみていると、恐らくは内地から来た中国人観光客と思われるオジサン、オバサンが結構買っている。それは決して新聞が読みたかった訳ではない。今では豊かになり、新疆旅行に来られる身分になった人々が昔の自分や自分の親族、そして近所の人々のことを思い出して、呼び止めているように見える。ただ新聞を買うだけでなく、何か声を掛けている姿が非常に印象に残る。中国の格差社会はまだまだ続く。

8月14日(火)  (2)   チャイハネ

翌朝も昨晩に引き続き、Oさんにお付き合い頂き、ウルムチのお茶屋さんへ行く。現在ラマダン中でウイグル系のお茶屋さんは皆、日中営業していない。Oさんは態々調べてくれて、回族系なら開いているということで出掛ける。

今日はいい天気だ。市内中央にある広場の近くに、そのチャイハーネはひっそりと営業していた。そこでは朝ごはんを食べる回族の人々の日常があった。我々が入って行くと、ちょっと場違いだぞ、という視線に晒されるが、既に動じるような神経は持ち合わせていない。

油餅やサラダを取り、ミルクティ、チャイを飲む。このチャイ、私には正直飲み難い。元々牛乳やチーズが苦手であるから、仕方がないが、濃いミルクの味はどうにも飲みきれない。

店を出て、Oさんお勧めの湖南省の黒茶専門店へ行く。新疆では湖南省の黒茶、特にレンガ茶と言われている安いお茶が一般的に飲まれている。今回はその歴史を知りたいと思い、やって来たのだが、残念ながら閉まっていた。更にスーパーへ行き、どんなお茶が売られているのか見てみた。

意外や紅茶が並んでいる。レンガ茶も安価なものから少し高級なイメージの物までバリエーションが出て来ていた。それに種類が思いのほか多い。これも経済発展のお蔭だろうか。

途中歩いているとラビア・カーディル女史が所有していたという建物があった。中国政府は彼女を敵と考えて攻撃しているが、建物はそのまま残っているようだ。どういう意図があるのだろうか、良く分からない。ただ新疆でも彼女のことを知らない人が増えているらしい。





西の果てカシュガルへ行く2012(7)ウルムチ 危機一髪の脱出、楼蘭美女と対面

空港大混乱

午後みなと共に空港に向かう。例のカシュガル老城も雪に埋もれていた。空港までの道に問題はなく、3時過ぎには空港に到着。先生たちのフライトは午後4時過ぎと言われ、私のフライトはと、掲示板を探すが見付からない。どうしたんだろう、と見ていると、何と何と「キャンセル」とあるではないか。

さあー、困った。空港は大勢の人で大混雑。先生達はチェックインの列に並んだが、一向に進まない。J教授がカウンターで確認したところ、確かに私のフライトはキャンセルであるが、一緒にチェックインすれば一人ぐらい何とかなるだろうといういい加減な答えを得る。通常ならそれも中国だろうが、皆が乗りた混乱状態でチケットを持たない人間が乗れるのだろうか。仕方がないのでみなと並ぶ。

運命のチェックイン、ところが実にあっさりと私のボーディングパスも出て来てしまった。何の交渉もなかった。狐につつままれる、とはこのような状態だろうか。後で分かったことだが、私の予約は海南航空、皆さんの予約は大新華航空、一見関係ないようだが、何と大新華は海南の子会社だった。親会社のお客だからグループとして入れてくれようだ。それにしても、あの混雑の中、チケットが取れたのは、私が外国人だったからだろうか。

フライトは4時過ぎと聞いていたが、当然のように4時になっても動きはなかった。まだ一機も離陸していない。雪に慣れていないカシュガル空港、相当神経を使って整備しているのだろう。4時半ぐらいから飛行機が飛び始め、我々のフライトは午後6時に飛び立った。私の元のフライトは午後7時だったから、少し早くなってしまった。喜ばしい。

ウルムチでは、予定外だが、みなと同じホテルの宿泊。ただ空港到着後、ホテルには行かずにJ教授宅へ直行。そこにはJ教授夫人とS教授夫人が料理を作って待っていてくれた。これは恩師であるA教授への最大限の配慮である。この師弟関係もすごい。

4.ウルムチ   2月16日(木)

(1)   ウルムチ2日目   ローラン美女と対面

翌朝、北京経由で帰国するN教授を見送る。私は予定外のウルムチとなり、特にすることもないので、ウルムチ観光が初めてのA教授と行動を共にする。J教授はウルムチに戻ると大学の仕事が忙しい。代わって教え子の大学院生がガイド役を務める。実はA教授は日本時代のJ教授の指導教官。中国の大学の子弟関係は日本とは比べ物にならず、何をおいてもA教授への感謝と尊敬は重要である。教え子の彼女から見るとA教授は先生の先生だから、非常に緊張していた。

先ずはウルムチ博物館へ。私は昨年の夏に一度来ているが、是非もう一度行きたいと思っていた。何故なら有名なミイラ、楼蘭美女は昨年「出張中」で会うことが出来なかったから。夏と違って、博物館は空いていた。確かに現在のウルムチは零下15度、観光客はいない。

2階に美女は横たわっていた。1980年ロプノールで発見され、世紀のミイラと騒がれた。ちょうどNHKのシルクロード公開の前後で、余計話題となり、多くの人が古代のロマンに浸った。身長152㎝、血液型O型だそうだ。推定15歳。どんな人生を送った人なのだろうか。髪の毛もあるように見え、体にはセーターのような服をまとっている。3800年前の状態がほぼ残されているようで、信じがたい思いだ。今はケースの中で安らかな眠りに着いているようだが、さっと起き上がっても違和感はない。うーん、不思議だ。

ウルムチ街歩き

博物館見学を終え、バス停に向かった。その途中に、きれいなショッピングモールを抜けた。ここはウルムチとも思えないほど、高級ブティックが並び、ブランド品が溢れる。その横には有名外資系ホテルも開業しており、いよいよウルムチも、普通の街になって来ている。

バスは専用レーンがあり、バス停もキチンと区分けされていた。半年前は工事中だっただけに、そのスピードが今の中国を象徴している。大バザール近くまで乗ったが、漢族もウイグル族も普通に乗っている。今やウルムチは民族混在の都市となっている。この辺はカシュガルとは大いに異なっている。

ホテル付近に戻る。ガイドさんは携帯を見て慌てている。そこへJ教授が登場した。我々には絶妙の連携に見えたのだが、実は彼女が教授からの電話を見落とし、連絡が付かない教授は慌ててホテルにやって来たという訳。この時の彼女の慌てぶり、恐縮ぶりが中国の子弟関係を表していた。

ホテル裏のラグメン屋で昼飯。カシュガルと異なり、時間の流れも速く、レストランも混んでいる。何とか席を確保して、麺を待つ。相変わらずラグメンはどこでも美味い。そしてカバブーも登場し、満足。もっとゆったり出来ればというのは贅沢だ。

午後はホテル裏を散策。この付近はウイグル族が多く住む場所で、興味深い。漢族は零下15度でも帽子を被らないが、ウイグル族の男性は必ず被っている。ただカシュガルほど、格好良い帽子は売っていない。これは何故であろうか。

ナンを売る店では、小さい羊肉まんを焼いている。このカリカン感と中から飛び出るジューシーな汁が堪らない。熱くてやけど寸前だが、果敢に挑戦。マレーシア資本のファーストフード店もある。ここではしっかりとハラールが行われ、安心して食べられるという。そうか、イスラム教国マレーシアを活用した中東ビジネスの余波がこんな所にも来ているのか。

馬肉ソーセージを売る店があった。あまりの大きさに圧倒される。美味しいのだろうか、興味津々ながら、その形状と大きさから、流石にパスする。J教授の出身地、アクスの特産品だとも聞いた。日本では馬刺しを食べるが、こんな大きな馬肉とは。

おしゃれな喫茶店に入る。コーヒーが1杯、40元ぐらいする。夜はレストランのようだ。彼女はパフェのような物に挑戦。我々はコーヒー。だが、注文してもいつまで経っても出て来ない。ちょうど休み時間なのだろうか、3回催促してようやくコーヒー1杯。何回も言うが、サービスの概念はまるでない。折角の雰囲気が台無しだ。

2月17日(金)  (6)   ウルムチ3日目

今朝は寝坊した。外は白いが雪は降っていない。泊まっているホテルはトマリス。ロシア風の建物で、由緒正しそう。昨年夏にウルムチに来た時、このホテルでウイグルショーを見て、皆で踊ったのが懐かしい。今は冬、宿泊客も少ない。

北京時間9時半から朝食のビュッフェがある。ロビー脇の食堂は薄暗く、何となく寂しい。特に美味しい物はないが、一通り揃っており、食後に紅茶を飲むと何となく、ロシアに居るような気分になる。

午後一のフライトでシンセンに向かう。ホテルにはJ教授の弟子がやって来て、タクシーの手配などしてくれる。ところがホテルのボーイはタクシーを手配しようとしない。別に空車はいくらでもあるのでよいのだが、彼女は困っていた。私は道に出て軽く手を上げ、タクシーを止める。

運転手はやはり河南省から来たと言い、近道を知っているからと空港道路を外れる。脇道を何本か通ると空港へ行く道に出た。確かに近かったようだ。彼はウルムチに来て何年にもなるようだ。河南省は中国一人口の多い省。1億人を超える。漢族の流入、と一言では言えない何かがある。

空港では混乱もなく、遅れもない。今回初めて穏やかなフライトとなった。




インド アユルベーダの旅(21)アーメダナガール 州会議員も登場

1月28日(火)

朝瞑想も

翌朝は7時ごろからもそもそ起き出すが、今日のスケジュールも全然知らされず、困る。ラトールさん達はマイペースでシャワーなどを浴び、A師は瞑想に入っている。私も習って目をつぶってみたが、とても集中できない。

 

そこへ同室の男性が入ってきた。かなり眠そうだったが、聞いてみると、何と昨晩片道5時間を車で往復したという。実はラトールさんの奥さんとお嬢さんのナイニーカは所用でプネーに帰ることになっていた。ラトールさんはここを離れるわけにはいかず、車は友人が運転して帰るので問題ないと思っていたが、インドでは何が起こるか分からない。結局奥さんの弟である彼が付き添って行ったのだという。これは現在のインドが置かれている状況を端的に表しているのではないだろうか。最後は頼れるものは身内のみ、だからこの結婚式もインドで生きていくためには非常に重要な物なのだと分かる。

 

チャイを探して下に降りてみると、皆が並んでいる。何と髭剃りをしてくれるらしい。インド人は髭剃りが大事、と誰かが言っていたが、ハレの結婚式、ちゃんと髭を剃るのも礼儀かもしれない。とても面白い光景だ。勧められたが私は遠慮しておいた。

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因みに結婚式の服装も、皆気合が入っている。女性陣はサリーを3枚ぐらいは持ってきて、着替えている。男性も2日目は皆着替えたようだ。ラトールさんもかなり立派な服を着ている。この日の為に新しく新調したようだ。私は結婚式など想定していなかったので、普通のポロシャツなどを着ており、ちょっと恥ずかしいが仕方がない。『昨日と同じものは着ないで』と言われたので、予備のシャツを着ていく。

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何とかチャイを探し、飲んでいると、スナックがあるという。本当にインドではスナックがよく出る。先ずはチャイ、そしてそのお供はスナック。これが意外と行けるので食べてしまうから始末に悪い。

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州議会議員も登場

そうこうしている内に何となく2日目が始まる。先ずは新婦の写真撮影。彼女がどういう人なのかは全く分からないが、23-4才だろうか。ずっと大人しく式に従っている。その写真撮影もまたユニーク。彼女の背景には冷蔵庫やオートバイなど、嫁入り道具?が並んでいる。これは新婦の親族が持参させるために揃えたものだという。インドでは嫁に行く物にどれだけの物を持たせられるかが、とても重要。その証として新婦と共に記念撮影となるようだが、私などの心はとみに複雑になる。

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またプージャが始まった。内容は全く分からないが、新郎新婦が祭壇の周りを回っている。周囲には人が集まり、米粒?を投げかける。これが祝福の仕方のようだ。この儀式を終えて、ハレて夫婦となったらしい。長い長い儀式の終了だった。

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そこへ偉そうな人が入ってきた。州議会議員を長く務めている人だという。この一族の中での出世頭。祝い事があれば出向いてくるのは日本の政治家と変わらない。早々に周囲に人垣ができ、男たちが次々に何か話している。どうやら道路の拡張や商売のことなど、いわば陳情らしい。結婚氏が社交の場、というのは洋の東西を問わない。一気に世俗化した。

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そして新郎新婦の前で彼は祝いのスピーチをするとそそくさと帰って行った。議員はどこでも忙しい。今年は選挙の年、特にかき入れ時なのかもしれない。彼が来たことでこの式に箔が付き、一族の結束も高まるようだ。

 

新郎新婦がひな壇で並んでいる。そこへ人々が次々にお祝いを言いにやってくる。同時にお祝いの品を持参し、見せている。これもまた面白い光景だ。日本なら全て祝いのお金を受付で出すだろうが、こちらは直接本人に渡す。そして品物は見せる。私は勿論品物を持っていなかったので、お金の入った封筒を渡す。ラトールさんから1ルピーコインも必ず入れるように、と言われたので入れた。

 

最後にランチ。さすがに刺激の強い食事はパンチャカルマ後の体には堪えるので、適当に少量を取り、食べた。デザートの代わりに、日本の綿菓子があったので、食べてみた。日本と全く変わらない。インドの子供たちにも大人気。ついでに着ぐるみも登場、どこでも人気があるんだな。

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