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バングラディシュ・スタディツアー2011(5)日本の学生もなかなかやるね

(5)    三日目午後  帰りトラブル

それから豪華な昼ごはんが出た。特に鶏肉が美味しかった。村を走り回っていた地鶏であろう。その後は何となくダラリ。学生達は村中を歩き回り、その後ろをちょこちょこと子供達が着いて行く。村外れの田園風景はキレイだった。

彼らは村の学校に向かった。男子チームは校庭でサッカーを始める。皆暑い中、真剣にボールを蹴る。いいね。女性チームは隣のお寺の境内で、みんなで輪になって踊る。こっちも最初はちょっと恥ずかしそうだったが、直ぐに笑いがこぼれる。何だかとても懐かしい、昔の子供たちを思い出す。

校庭の向こうに校舎があった。そこを訪ねると、プレートが嵌っていた。何とこの校舎、日本政府の寄付だった。しかしその後のケアーがされている様子はない。これが日本の現状だ。やる時はやるがアフターケアーが無い。中国でも他のアジアでもよく聞く。考え方を変えないと支援は逆効果となる。

帰りも分乗して戻る。ところがオートの運転手が途中で燃料を入れにガソリンスタンドへ。そしてその料金を払えと主張し出した。言葉は通じない。ラジョウとの話がどうなっていたのか分からない。携帯もないから連絡も付かない。私は支払いを拒否した。

すると男子チームリーダーS君が『運転手は金が無いからどうにもならないでしょう』と言って、ポンと500タカを渡した。これで運転手もニコニコして走り出す。その後ラジョウには事情を説明したが、その金が戻ったのか、料金はどうなったのか、忘れてしまった。

しかし、中国などで我々がやって来た交渉はこのような場合、決して譲らない。譲れば相手のペースとなる。勿論運転手は悪い人ではないが、こちらを試している、そう見てしまう。しかし若い学生はそんなことに頓着はない。金で何でも解決するのはどうかと思うが、場合によっては見切る、ということも大切かも知れない。学生に教えられたような、ちょっと釈然となしないような、不思議な気分となる。

ネットと髪の毛工場

村から戻る。既に2日以上インターネットに接続しておらず、メールチェックもできていない。何とかしたいと思っているとSさんが『オフィスで出来るのでは』と誘ってくれる。どこのオフィスかよく分からなかったが、あるビルの2階に行くとPCが3台並んでいた。これなら繋がるだろうと期待する。

ところがこれが繋がらない。Sさんはちゃんと繋がる。何が違うのかと見てみると、SさんはWindows XP、私はWindows7という違いだ。私の方が新しいのに繋がらない。パスワードを入れる場所がどうしても見つからないのだ。これは面白い現象で、新しい方が先進的であり、社会も進歩しているという前提で作られる。ところがバングラでは未だにアナログなのである。昔のソフトはそれに対応できるが最新版は既に想定していないらしい。新疆でも一度経験した。これは意外と重要なヒントかもしれない。

仕方なく置いてあるPCを使うが、何とメールチェックするためのパスワードが合わない。こちらは私の記憶の問題か。本当にやむを得ず、仕事中のSさんのPCを借り、メールチェックすることに。恥ずかしい。

ラジョウがこのビルの1階を見学しないかという。なぜだろうと思いながら、中に入って驚いた。だだっ広いフロアーに数人の女性がいたが、彼女たちの前には大量の髪の毛が・・・。それも人の髪の毛だという。

ラジョウが説明する。『これはバングラ内で人から髪の毛を買い、ここで仕分けし、中国に輸出する。最終的には中国で加工され、日本へ輸出される』。一体何??それは何とかつらであった。これは日本との繋がりを示すものではあるが、何となく、微妙な雰囲気になる。かつらの髪の毛はバングラディシュ人の人毛。うーん。

11月9日(水)  (6)   四日目午前   学校①

とうとう今日は学校に生徒が登校してくるらしい。学生たちの主目的である『学校でのボランティア』が実行できる日が来たのだ。朝から何となく、皆ソワソワ、ウキウキ。

S君などは、学校で子供達と遊ぶシャボン玉を取り出し、試に吹いている。家の子供達がなんだなんだとやって来て歓声を上げる。こういうものは万国共通、子供は喜ぶものだ。そのシャボンは家の庭髙く舞い上がり、青空によく映えた。

学校へ向かう。今日もイスラム系の子供達が出迎えたが、適当に挨拶を交わし、学校の中へ入った。学校の子供達は我々日本人に似ていた。積極的に交わって来るイスラム系とは明らかに異なり、ハニカミながらこちらを見ていた。

校長先生が来た。校長室でお話を聞いた。学校は厳しい状況に直面していた。老朽化した校舎を修理する費用はなかった。教師への給与支払いすら苦労していた。18年前にボランティアで始まった学校は転換期に来ているように見えた。

実は今回一人の日本人女性が同行してきていた。Nさん、公務員であったが既に退職しており、縁あってこのプロジェクトに関わっていた。彼女は過去に優秀な生徒がダッカの大学に行く費用を援助したり、この学校ヘも多大な支援をしていた。『未来のある子供達へ支援したい』という熱意があり、この困難な旅も何回か経験していた。

今回も学校で使用するPCを購入し、重いにもかかわらず、携えて来ており、校長に寄贈した。『たまたまご縁があって』というが、一体何がそこまでNさんにさせるのか、気になる所だが、あまり詮索するのも、と思い、聞かずに過ごす。学生代表も使い古したサッカーボールを寄贈。それから各教室に分かれ、子供たちの中に入り、日本語を教えたり、折り紙を折ったり、様々な工夫をして交流を始めた。最初は戸惑う子供もいたが、徐々に慣れ、少しずつ笑顔が出て来る。

そして休み時間にシャボン玉が飛び交い、皆が笑顔になって来た。授業と言いうより交流会。子供達が学生を取り囲み、ワイワイ始まった。こんな時間が嬉しい。

(7)    四日目午後    銀行

学校は午前で終了。午後はSさんと市内の銀行へ行って見た。バングラディシュの銀行と言えば、例のマイクロファイナンスのグラミン銀行ばかりが有名であるが、普通の銀行はどうなのだろうか。とても興味があり、出掛ける。

市内にはいくつかの地場銀行があるようだったが、驚いたのはビルの1階に銀行が無かったこと。2軒行ったが2軒とも2階にあった。これはどうしてであろうか。強盗が多いのだろうか??

1軒目は古い国有銀行とのイメージで、店内は薄暗く、椅子も汚れていた。正直銀行というよりどこかの中堅企業のオフィスに来た感じだ。預金レートや両替レートを聞きたかったが、担当者がいないなどで、なかなか話が進まなかった。この銀行、日本で言えば数十年前の雰囲気か。銀行が床の間を背にお客に対している。資金不足のバングラでは、これが実態だろう。

2軒はすぐ近所になったが、1軒目とは全く異なっていた。明るい雰囲気、きれいなオフィス。最近出来たらしい。担当者は英語を話し、スムーズに応対していた。でも面白いのが、高の預金金利はこの新しい銀行の方が高いということ。新設銀行で信用が不足しているのだろう。やはり国有は強いのか。

タカの金利は年率で10%を超えているようだ。ただ外国人が口座を開設するのはかなり面倒に見えた。昔の中国を想起させる。金は欲しいが、変な金は困るということだろう。因みにどちらの銀行もお客は少なかった。ATMはあったのでそれを使っているのか、それとも銀行に預ける習慣が無いのか。

 

バングラディシュ・スタディツアー2011(4)ボランティアは誰の為に

タナカ

また子供達が庭に遊びに来た。珍しい人間が来たので興味津々なのだろう。学生達はどこかへ行ってしまったので、私が相手をした。バドミントン、もう何十年もやっていない。無理をすればけがをするので、おっかなびっくりだ。でもその内、だんだん真剣になり、そしてとうとうサンダル履きの足がスリップ。危うく肉離れを起こしそうになる。歳だ。

さっきランチを食べたばかりだが、3時のおやつになる。チャイを入れ、ビスケットが出る。インドでも感じたが、この辺のビスケットはかなり美味しい。チャイにも合う。イギリスの影響なのだろうか。

学生のうち2人がいないなと思っていると、何と顔に白い物を塗って登場した。ミャンマーでも見たあのタナカである。木片を臼のようなもので擦り、その汁を塗る。一種の化粧だが、日焼け止めなどにも良いらしい。ラカイン族がバングラディシュとミャンマーに跨って生活してきたことがよく分かる。

学生達はかなり積極的に現地の物にチャレンジしている。でも男子がタナカか、まあいいか、何もしないより。最近日本の若者が海外に行かなくなったと言われて久しい。しかし勿論海外に行く者もおり、そしてそこで何かを得、エンジョイして帰る者もいる。同行している彼らは少数派なのだろうか。

世界一長いビーチ 

夕方Sさんが『ビーチに行こう』というので出掛ける。何と男子は私が昼寝?している間にビーチまで歩いて行き、帰りはリキシャーで帰って来たという。いいね、このバイタリティ。

 

我々は女子チームと一緒にビーチに向かう。ラジョウがいるので、道に迷うこともなく行けるが、男子チームはよく訳も分からず行ったものだ。歩いてもそう遠くはない、ということだったが、結構歩いた。メインの通りをひたすら歩くということだったが、途中でショートカットした。それでも20分以上は掛かったか。

 

ビーチが近づくとホテルなどが見えてきた。Sさんとラジョウはホテルへ向かう。外貨の両替をするためだ。何しろお祭りで銀行も閉まっている。ホテルなら両替してくれるだろうと行ったようだが、結果はダメだった。やはりまだ金融面は相当遅れていると思われる。

 

夕方だから人がいないだろうと思ったが大間違いだった。何とビーチには人が溢れていた。しかもおかしいのは誰も水着を着ていないこと。この国では裸になって海水浴する習慣はないようだ。そうであれば暑い日中より少し涼しい夕方に人が出て来るのは道理。それにしてもどんどん増えて来た。

 

このビーチ、ガイドブックによれば、世界一長いビーチとある。確かに向こうまで繋がっているが、これが120㎞も繋がっていると聞くとちょっと首を傾げたくなる。でも、この国ならば繋がっているような気もする。砂遊びする子供がかわいい。

 

女子チームが写真を撮り始める。すると大勢の視線が一斉に彼女達に注がれる。イスラム圏で肌を露出している女性は極めて珍しい。しかもビーチに居るのは多くが男性。どうしても目立ってしまう。それでも彼女達はめげない。記念写真を撮りまくる。その光景を周囲のバングラ男性が写真に撮る。実に不思議な光景が繰り広げられる。Sさんによれば、毎年の光景だそうだ。

 

とうとう暗くなる。引き上げようとするとお店がいくつか出ていた。女の子たちは土産物を手に取る。その間、私はようやく見つけたTシャツとタオルを物色する。ちょっとゴワゴワしているがしっかりしたタオルだ。Tシャツは何だか英語が書いてある。取り敢えず、必要枚数を買い込む。これで何とか生活できる。

 

帰りは電気自動車に乗る。中国製とかで、小型だ。後ろに漢字が書かれている。中国から中古を輸入したのだろうか。

 

夕飯は魚に鶏肉。豪勢だった。イモの煮込んだ物も美味しい。食事には本当に満足している。シャワーを浴びる。水しか出ないが十分だ。男子チームが次々に入りに来る。私は12時過ぎまで寝られない。

11月8日(火)   (4)  三日目午前    薬

翌朝起きてみると男子チームの一人、T君が何やら顔をしかめている。聞けば、昨晩何かに刺され、右腕が張れ上がるほど、食われている。私も先日インドのデリーで同じような症状になったが、結局何もせずに放置。相当の痒みがあったが、いつしか治っていた。

先生の奥さんが何か塗り薬を持って来た。何かを磨り潰して作った自家製薬かもしれない。かなり毒々しい色の薬を腕に塗られたT君、痛々しい。ただ後で聞くと、かなり良くなったという。ラカイン族の人々の昔からの知恵は偉大であった。

朝ごはんにもち米が出た。実に餅もちしていた。ココナッツをかけた所はミャンマーのシャン州で食べたものと同じだった。

ゴミ拾い

食後、昨日延期したパゴダ周辺のゴミ拾いに出掛けた。今日もいいお天気。お寺を通って学校の前に行くと今日もイスラムの子達が待ち構えていた。学生達が教えた日本語も段々流暢になり、挨拶も『おはよう』になる。

パゴダ周辺のゴミは相当あった。初めはどうするのかと見ていた学生達もバラバラになり、拾い始める。ラジョウが焚き火を始める。拾ったゴミはそこにくべられ、焼かれる。日本では今や焚き火禁止の所が多い。久しぶりに焚き火した。焼き芋したい気分。

燃える火を見ながら、各人考える所があったと思う。しかしこのボランティア、ちょっと空しい物がある。地元の人が殆ど参加していない。地元の人がしないことをしている外国人は自己満足に過ぎないのではないか、私はそんな風に感じた。学生はどうだったろうか。

パルディソ村へ

活動後、昼飯前に出掛ける。パルディソ村というラカイン族しか住まない場所へ行く。オートリキシャーと電気自動車に分乗して行く。コックスバザールの市内を抜け、農村地帯に入った。かなり豊かな田園風景が広がる。風も心地よい。木で作られた素朴な家が続く。

30分ほどで村に到着。そこはこじんまりした、のどかでいい感じの村。ある大きな家に入る。高床式の家の下にテーブルとイスがあり、座る。風が爽やかに吹きすぎる。今日は村のミーティングに参加した。

実は村には以前交通手段がなく、2年前に我々が乗って来たオートリキシャーと電気自動車が買いこまれたが、この運営がなかなか上手くいかない。車の修理費の方が乗車料金よりかさむこともあるようだ。ではどうするか。

我々日本人なら『何とか収入増加の道を探る』『経費節減方法を検討する』などの話が出るだろう。勿論この会議でも出た。だが、村人たちは今一つ煮え切らない。『車が必要か』と聞けば、必要と答えるが、その為に努力するか、と問えば沈黙する。この考え方の違いはビジネス上でも必ず押さえる必要がある。結局結論は出ず、もう少し様子を見るということになる。不思議だが、結論を急がない会議もよいかと思う。

バングラディシュ・スタディツアー2011(3)イスラムの浸食とは

少数派 ラカイン族

そして9時過ぎに集合場所であるお寺へ向かう。お寺は先生の家から歩いて3分ぐらいと近い。実はイスラム教徒が90%を占める国、バングラディシュにおいて、極めて少数派であるラカイン族という仏教徒にお世話になっているのである。先生も、空港に迎えに来てくれて、全てを取り仕切ってくれているラショーもラカイン族なのである。

お寺は外の喧騒から外れており、静かな空間だった。階段で上に上がると、気持ち良い風が流れる一角があり、腰を下ろす。お坊さんがやって来て、中を見せてくれる。これも長年このお寺及び仏教徒に貢献してきたSさんのお蔭だ。

そもそも何故、ラカイン族との接点が出来たのか。それは1990年に森智明さんという現地でマラリアで亡くなったジャーナリストの遺志を継ぎ、友人であったS氏が中心となり、立ち上げたボランティア団体だった。学校の脇には森さんを偲ぶ記念碑が建てられており、長く学校を見守っている。

イスラムの浸食とは

そして今日の活動は学校の横の小山の上にあるパゴダ付近の掃除と決まる。お寺から学校の前を通る。するとどこからともなく、子供たちが出て来て学生の方に近づく。学生たちは学校の生徒だと思い、挨拶をし、交流が始まる。言葉は出来ないが、お互い何となくよい雰囲気になり、笑い声が広がり、学生から離れない子も出て来る。

ところがこの光景を苦々しく見ていたのが、お寺の坊さんと学校の先生。一体何故か。それはこの子供たちがラカイン族ではなく、イスラム教徒、ベンガル人だったからだ。彼らは何らかの理由でよそからこの土地にやって来て、お寺や学校の敷地に勝手に小屋を建て、住み始めていた。当然ラカイン族は面白くはないが、しかし少数派。多数派に押されて、黙っている。

学生たちはとても楽しく、仲よく遊んでいたが、途中でそれを遮られ、訳が分からないという顔をする。仏教徒でもイスラム教徒でも子供は子供。仲良くしてどこが悪いのか、という表情だ。その気持ちは分かる。そして彼らは気が付く。何故宗教間の対立があるのか、何故子供同士が仲良くできないのか。この問いは本来小学生の時にでも考えるべき課題だが、残念ながら日本ではその機会は与えられていない。彼らは突然襲ってきた難問に頭を抱えている。簡単に片づけようとしても出来ないだろう。

結局イスラムの子供たちはそのまま小山の上まで付いてきたが、さすがに仏教徒の大人に阻止され、途中で止まる。もし彼らの侵入を黙認すれば、翌日からどんどん小山に上がり、パゴダが侵食されていくだろう。現に他のパゴダでは、何と小山が削り取られ、とうとうパゴダが倒れた、という信じられない話も出た。まるで砂場の山崩し遊びのようだ。

なぜそのようなことが起こるのか。バングラディシュは国土に比して人口が圧倒的に多い。北海道2つ分に1.5億人、いるというのだ。そして悪いことに洪水も多い。家を失った人々はよそに土地を求めて入り込む。結果として少数民族の土地が侵される。勿論バングラにも法律はあるだろう。不法であることには違いない。しかし土地を失っている人々に配慮して、強制排除などの手段には出ないという。こうして、どんどん浸食が起こる。

パゴダ付近もゴミだらけだ。仏教徒はきっとゴミは散らかさないだろう。実に考えさせられる問題だ。結局この日はイスラムのお祭りの日と言うことか、ゴミ拾いも明日に延期となった。

しかしここで驚くべき事実が。今日はイスラムのお祭りの日であり、学生がボランティア活動をする小学校は休みであることが判明。しかも明日以降も休みかもしれないとのこと。どうなるんだろうか。日本の旅行社主催ツアーなら、ここでクレーム続出かもしれないが、Sさんは少しも慌てず、『こんなことは時々あるんだよね』と言い、学生達もそんなものか、と思っている。それが良い。

衣装作り

パゴダの小山から降り、お寺とお別れ。女子学生達のお楽しみ、地元の人が着る民族衣装を作りに行くというので、見学に行く。朝の散歩でも分かった通り、今日はイスラムのお祭りで通りの店はどこも閉まっている。が、表通りを一本入ったラカイン族のお店は普通にやっていた。

狭い間口の店に一気に10人以上の日本人が押し寄せたので、店内は身動きできなくなる。女の子たちはあっと言う間に生地に手を伸ばし、どれが似合うか、などと始まる。我々は店の人が座っている側にスペースを貰い、茶を飲みながら眺めている。

ラカイン族の民族衣装は何という名前か聞いたような気もするが忘れてしまった。上下セパレートで、同じ柄でも違う柄でも生地を買えば作ってくれるという。この辺の臨機応変さが良い。値段も500-600タカ。しかしそうなると選ぶのに相当な時間が掛かる。選んだ生地は2-3日で仕立てられるという。数日後にファッションショーがあるだろうか。

適当な所で失礼して、先生の家に戻る。昼ごはんの支度が出来ている。野菜とエビの入ったスープが美味い。野菜も軽く炒めている。ラカイン族の食事は実にシンプルで健康的。昔からの伝統が生きているのだろう。

(3)    二日目午後  ココナツオジサン

夕方まで予定はない。そこそこ暑いので昼寝でもするかと思っていると、既にテラスで昼寝している子がいた。先生の息子。何とゆりかごでお休みだ。これはいい。奥さんがゆっくりゆっくり押している。心地よさそうにスヤスヤ眠る。いいね、実に。

すると門からおじさんが一人、するすると入って来て、庭のヤシの木にするすると登って行く。一体誰だ、泥棒か、とも思ったが、白昼ヤシの実泥棒もないだろう。おじさんは実に鮮やかに木に登り、そしてお尻に付けていたロープを使い、ヤシの実をするすると地上に下ろした。

この技術は凄い。慣れているというだけではない、何かがある。そしてまたするすると降りて来て、ヤシの実の束を掴み、するすると門の方へ。門の外にはリキシャーが用意されており、摘みこむとさっと行ってしまった。

これは契約作業なのだろうか。ヤシの実は売れれば先生の家の収入になるのだろうか。家の人は誰一人見ていない、そんな中でこの仕事は信頼で出来ているのだろう。面白い。

 

バングラディシュ・スタディツアー2011(2)コックスバザールでホームステイ

(2)   延々と

それから市内メインの通りに入った。そこには驚くばかりの人、リキシャー(インドと同じでオートと人力)、そして車。空港を出た時は快適だったが、この通りではバスは一向に動かない。Sさんが『これは6時間は掛かるな』とつぶやく。通常3-4時間と聞いていたので、先の長さが思いやられた。

チッタゴンの街はこの通りを中心に延々と続くようだ。何でこんなに道が長いのだろうか。あたりはだんだん暗くなり、バスに薄暗い電燈が点く。何だかとても怖い物を見ているようだ。その中でクラクションと人の叫び声が響く。

学生たちは旅に疲れで寝入る。私はずっと外を見て過ごす。それしかやることがない。道はガタガタで、また車内は暗く本などは読めない。気持ち的には完全にバングラに圧倒された。この渋滞はイスラムの祭りの影響だと聞く。はた迷惑だと一瞬思ったが、ここはイスラム教国。我々は完全なアウエーだ。

市内を抜けバスが漸くスピードを出す。しかしそこからが長かった。3時間以上経ち、そろそろつくかと思うと何と中間の休憩だった。ドライブインとは言い難いが、食堂があり、トイレもある。チャイが出て来て一息つく。正直食欲はない。

一部元気な学生は建物を飛び出し、道の向かい側に見学に行く。そこには様々な食べ物を売っていたが、暗くてよく見えない。焼き鳥のようなものがあった。言葉が通じなくても彼らは積極的に身振りでコミュニケーションを図ろうとしている。だが一部の学生は既にぐったりしてしまい、この先が思いやられた。

(3)   遂にコックスバザールへ

それから夜道を延々と走った。外は暗くよく見えないが、畑らしい。時々村々を通過すると灯りが見えるが、それも直ぐに遠退く。確かに遠くへ来たもんだ。このままずーっと走り続けるような錯覚に陥る。気が滅入るが、感覚もマヒしてきたかもしれない。

突然灯りが見え、バスが街に入った。既に時間は11時近い。チッタゴンの空港を出てから6時間は過ぎている。恐ろしく長い旅は突然に終わる。街には人影もまばらで、店も閉まっている。バスから降りて腰を伸ばす。流石に疲れた。腰も重い。バスの椅子はそれ程に堪えた。

Sさんからの指示で男女が分かれた。私は5人の男子と共に、迎えに来ていた人に連れられて行く。彼が誰かもわからないが、兎に角休みたい気分。バックパックはないので、コロコロを引っ張る。道が悪く、ちょっと苦労する。小道に入り、一軒の家の門の前で止まる。

3.コックスバザール  (1)   一日目夜

ホームステイ
中に入ると広い中庭があり、一段上がった所にテラスがある。私はその脇の部屋を指定される。指示している人は30代の男性、この方がこの家の大黒柱Aさん、通称先生だ。先生は我々が訪ねる学校の先生をしている。流暢な英語を話す。

 

学生5人は2階の一室をあてがわれる。私はチームリーダーのような存在になった。しかし何も分からず、明日の予定すら知らない頼りないリーダーだ。私の部屋には大きなベットがあり、シャワーとトイレが付いていた。有難い。

夕飯

夜11時だというのに、彼らは我々の為に夕飯を用意して待っていてくれた。かなり疲れている学生もいたが、取り敢えず食卓に着く。どんな料理が出るのか興味津々。焼き魚は日本とそれほど変わらず美味しい。きゅうりとトマトのサラダは生野菜だが、特に気にすることなく頂く。これも新鮮。

オクラの煮込み、鶏肉の煮込みもご飯に混ぜて食べると美味しい。初めはおっかなびっくりだった学生も、『これはイケル』とせっせと食べ始める。人間、食事が出来れば幸せな気分になる。

周囲の様子もこの家全体の様子も殆どわからないまま、一日目は終了。疲れていたので、あっと言う間に就寝。

11月7日(月)  (2)   二日目午前
初めての買い物

翌朝は鶏の鳴き声で起きる。快適な朝だ。庭に出ると木造2階建ての家と分かる。ヤシの木などもあり、南国ムード漂うが、朝はそれほど暑くはない。学生たちはまだ寝ているようだ。

散歩に出る。朝7時だが、もし可能であれば買いたいものがいくつかあった。それはバックパックに入っていたものの中で必需品に当たる。Tシャツ、タオル、ビーチサンダル、と数えながら進む。

ところが街の中心と思われる通りを歩いても、店は皆閉まっている。雑貨屋などは早くからやっていてもよさそうなのに。小道に踏み込むと1軒、店が開いていた。それがサンダル屋だった。実に様々な種類のサンダルを売っていた。若い店番に英語で話し掛けると英語で答えが帰って来た。

180タカ、は日本円で180円。この国の物価が高いのか安いのか想像が付かないが、日本的に言えば、問題ない価格だったので、取り敢えず1つ購入。店番は名刺までくれ、兄貴の店だ、としきりに言っていた。何だかいいやつがいる街のようだ。

しかしその後、タオルやシャツを売る店はとうとう見付からなかった。後で聞くと、今日はお祭りらしい。食事を終えて、集合場所に向かう時、牛が捌かれているのを見た。イスラムの世界では、牛を祭りに使うようだ。

朝ごはん

8時頃朝ごはんとなった。パンを軽く揚げた物やピラフのようなあっさりしたご飯が出た。今日も朝から美味しい。学生たちも昨日の疲れが少しずつとれ、緊張もほぐれた様だ。ご飯の時、食べているのは我々だけ。先生の奥さんや妹さんが気を配って、お替りなどをしてくれる。何とも恐縮。

食後、顔合わせという感じで、学生から家人にお土産が渡される。お爺さん、先生、先生の奥さん、妹さん、次々に持って来た物を渡す。こんな交流はちょっと恥ずかしいが、心が通い合う第一歩だ。

外では、親せきの子供だという13歳のチュミちゃんと先生の一人息子が遊んでいた。その内、隣の家から男の子が二人、遊ぼうとばかり侵入。日本では既にないこのような光景が懐かしい。そしてみんなでバドミントを始める。当方の女子もやって来て、バドミントンで盛り上がる。


バングラディシュ・スタディツアー2011(1)預けた荷物紛失 乗るか降りるか

《バングラディシュ・スタディツアー》   2011年11月6日-13日

11月6日(日)
チッタンゴンまで   (1)  TG荷物紛失事件

ホーチミンから無事にバンコックの到着。まだ3時間もあると思い、ゆっくり活動する。ところが、バングラに向かうビーマン航空のトランスファーカウンターが見付からない。結局あの広いスワナンプーンを端から端まで歩いた感じ。そしてトランジットの安全検査を経て、ようやくカウンターに辿りつく。

周囲にカタール航空、トルコ航空、ケニヤ航空などが並ぶカウンター。中東、アフリカ方面を纏めているのかもしれない。私の前で西洋人の女性が一人手続きをしているだけで他には誰もいない。ところが、この一人の手続きに何と10分も費やしている。タイって、こんなに非効率なの?

ようやく私の番が来て、手続きするとやはり10分掛かる。PCに何かを打ち込んでは、トランシーバーでどこかへ連絡する。遊んでいるようにしか見えなかったのだが・・。それが後で問題となる。

ボーディングパスを貰い、安心する。空港内はネットフリーと聞いたので、充電できる場所を探し、繋ぐ。しかし・・・。繋がることはなかった。おまけに30分経って、充電していると思った電気が来ていなかった。踏んだり蹴ったり。結局ネットフリーゾーンにあるPCのネットケーブルを引き抜いてメールをチェック。その横で寝ながら携帯を充電していたにーちゃんにコンセントを分けてもらい、充電。昼飯を食い損ねる。

PGの搭乗時間は何故か出発時間の1時間前。早過ぎると思ったが、行って見ると乗客はそろっていた。そこには今回行動を共にする大学生13人も来ていた。引率者のS氏に挨拶し、話していると、先程カウンターでチェックインをしていた女性が近づいてきた。なぜかとても嫌な予感がした。彼女は私の預けた荷物番号を確認すると戻って行った。これは・・。

案の定、5分で彼女が戻ってきて「あなたの荷物の1つはTGより渡されませんでした」と淡々と告げる。「TGより何の情報もないので、文句があればTGのオフィスに言って欲しい」とも言う。但し出発時間は迫っている。S氏はバンコックの知り合いに確認を依頼してくれている。

またスタッフが来て、「搭乗時間です。乗りますか、荷物を探しますか」と聞く。そんな理不尽なことがあるのだろうか。ここはタイ航空の本拠地。BGが責任を持ってTGと話すべきだろう。しかしそうはなっていない。責任者の男性の所に行っても、埒が明かず、私とS氏以外の全ての搭乗が終わってしまった。「さあ、どうします?」と再度聞かれ、途方に暮れる。

「TGと交渉して、荷物をバンコックのTGオフィスに届けてくれ」と言い残して飛行機に乗るのが精いっぱい。バングラディシュ行きはこうして、行く前に躓いた。

(2)   BG機内で

機内はガラガラだった。3人掛けの深いグリーンのシートに一人で座る。S氏が「今日はなんてラッキーなんだ」と囁くのが聞こえた。このBGのバンコック→チッタゴン線が定刻に飛んだのは、彼の長い経験でも今回が2回目だと言う。遅れるのが当たり前路線だった。私の荷物事件にもかかわらず、十分すぎる余裕時間のせいで本当に定刻にテイクオフした。

機内には我々の一団、日本人が16人。後は西洋人の女性が一人で、残りはバングラ人。日本の大学生は実に積極的にバングラ人との交流を展開。機内は英語と笑い声、そしてカメラのフラッシュに包まれる。

私の横にも一人のバングラ人が「話してもいいか」と英語で言いながら座る。聞けば、チッタゴンの大学の准教授で、バンコックでの会議の帰りとか。このグループは10名。洪水でサファリパークが閉鎖されたなどと言っていたから、観光も入っていたのだろう。

彼によればバングラ経済は急速に成長しており、チッタゴンにも韓国、インド、中国などから投資が入ってきていると言う。その分、物価の上昇も激しく、一般庶民は大変だとも言う。どこの国も同じような状況だということ。

2時間の飛行時間で、1時間が過ぎて、ようやく食事が出た。ベトナム航空国内線のトラウマがあり、食事が出ないものと考えていたが、ありつけた。ベンガル風のチキンカレー。なかなかイケた。CAが持っていた紅茶のポットが古い真鍮であったのが目を惹いた。2時間のフライトはあっという間に過ぎた。私の懸念はチッタゴンの空港で、出て来る荷物が2つの内のどちらかという問題に絞られた。でもきっといい方向に向かう、と信じた。

(3)   入境と両替

チッタゴンの空港は思ったより遥かに立派だった。ちゃんとジャバラでターミナルへ到着。階段を降りるとイミグレがあった。外国人のカウンターは一つしかなく、そこに並ぶと、「台湾人がいるだろう」とイミグレから声が掛かり、彼は先に行く。西洋人の女性も呼ばれ、何か手続きを行っている。結局残ったのは日本人の団体。そして3つのカウンター全ての前に並ぶ。本当に数えるほどしか乗客はいない。しかしその手続きの遅さは20年前の中国を思い出させる。30分ぐらい掛かって半分チョットが出た所で、何と次の便が来て、急に速度が速くなる。ワークシェリング。

荷物は当然全て出ており、私のコロコロも出ていた。助かった。殆どの物がここに入っており、生活への支障が無くなった。因みに無くなったバックパックはパリに飛んだと言う。果たして取り戻せるのだろうか。

両替がターンテーブル脇にある。時間が掛かる、とのことで、私がはじめにトライ。日本円の1万円札を差し出してみると、おにーちゃんはどこかへ電話したが、直ぐに首を横に振る。ニーズがないようだ。仕方なく、40ドルほど両替した。

しかしそれから15人が次々と両替するのである。彼らも現金が足りなくなり、また端数の細かいお金が無くなり、一人ずつ少しずつ違う札、違うレートでの両替となる。何とものんびりした雰囲気。でもにーちゃんたちはとてもフレンドリー。

2.コックスバザールまで  (1)   空港を出ると

ようやく空港の外へ出た。その瞬間、実に多くの出迎えの人々が空港外で待っていた。と思ったが、それはただの見物人だった。学生達は意味が分からず、自分がスターになったような気分になる。

なかなか凄い迎えのバスが到着する。ところが学生たちは気分が高揚してしまい、ライフル銃を持つ警備のおじさんと記念写真を撮り始める。普通だとそっぽを向くだろう警備員が学生の要求に素直に応じるから不思議だ。やはり素直な学生の気持ちが通じるのだろうか。

何とかバスに乗り込む。しかしこのバスは年季が入っている。椅子はガタガタで座れない所もある。天井には扇風機が備えられ、エアコンなどはない。バスが進みだすと、周囲の見物人が手を振る。実に不思議な光景だが、確か中国でも20年以上前にはあったような気がする。

空港を出ると直ぐに港が見えた。バングラディシュ第2の都市、チッタゴンは港町。中心はここだろうか。遥か向こうに『Kafco』の看板が見えた。このバングラディシュ最大の国営肥料会社には、確か銀行員時代に融資したことがある。あれは15年以上前ではないだろうか。こんな所でこの名前に出会えるとは、驚きと感激。

 

 

 

KL散歩2011(4)ロングステイ事情

(6) ロングステイ&生活事情

駅前にはジャスコがあり、その奥のホテルロビーへ。そこにはこれまたご紹介頂いたKさん夫妻が待っていてくれた。Kさんがご主人と一緒に来るとは思っておらず、最初は分からなかった。先方も私が日本人らしくないため、英語で話し掛けて来た(笑い)。

ロビーで1時間ほどお話を聞く。この7月よりKLに越してきたそうだ。ご主人は以前、KL在住経験があり、KさんもNGOなどで東南アジアはお手の物。今回は駐在員とは異なり、自ら商売を始めるという。それでロングステイヤーが多く住む、市内中心部から少し離れたこの駅の近くを自宅に選んだ。ここからバスで10-15分らしい。

ロングステイヤーは以前マレーシアの駐在経験のある人が多く、年金生活者であり、月額10-15万円の生活費を使い、優雅に暮らしている。やはり電車には乗らず、自分で車を運転している人が多い。旦那は週2回ゴルフ、奥さんは習い事をするなど、日本よりよほど快適な生活との声が多い。

英語も通じ、医療水準も高く、問題は少ない?かと思ったが、やはり交通渋滞、大気汚染、などアジア共通の問題点はあるようだ。最近は物価も少しずつ上がり、KLより安い、ペナンやコタキナバルにステイする人も出て来ている。

その後、ジャスコの中を歩く。平日の午前中でもそこそこ客がいて、しかも大量に物を買っていく。カートで駐車場へ行き、そのまま車に乗せる。置いてあるものも、皆5個、10個と纏められて売っている。日本とは感覚が違う。因みに日本食材も一通り揃っていた。

ショッピングモールには日本料理屋もあり、日本が浸透してきている様子が分かる。休日はお客で溢れるモールも今日は閑散としている。本屋に入り、先日羽田で買えなかったインドのガイドブックを探す。英語のガイドブックはとてもとても厚くて持ち歩けそうになかったので、買わず。

HOJO、と書かれたお店があった。何と日本人が出店したお茶屋さんであった。中国茶を中心にして、お土産物と言った感じで、きれいな包装で販売している。店員に北京語で話し掛けると、色々と教えてくれたが、私がKさん達と日本語を使っていると「日本人か」と驚かれる。やはりKLにも北京語を使う日本人は少ないのだろう。このHOJOさん、長野にあるお店で、ご主人はマレーシア在住経験があり、海外が良いということで出店したらしい。お茶を求めてアジア中を歩いている様子が伺える。

Kさん夫妻と別れ、KL駅へ戻る。今後は慣れているので問題ないと思ったが、予定時刻になっても電車が全く来ない。この辺の正確性には問題があるようだ。ちょっと焦る。

(7) 空港へ

KL駅に着くと、今後はエアポート列車に乗る。LCCT行きもあるという。どこが違うのだろう。説明を聞くと空港駅のひとつ前で降り、そこからバスだという。本来なら、下からLCCT行バスに乗ればその方が安いし、楽だが、折角なので、トライする。KLIA(KL国際空港)と書かれた列車に乗る。最近はどこでも同じような車両である。40分ほど乗ると、乗り換え、そこから専用バスで15分ほど。合計時間ではあまりバスと変わらないが、やはり荷物を運んだりして不便。しかも4RMほど高い。

空港に着くと、先ずはランチ。マレーシア名物海南チキンライスを食べていなかったので探す。ようやく1軒、それらしい所があり入る。しかしとても混んでおり、荷物を持って来たことを後悔する。11RMでスープ付。決して安くはないが、まあまあか。

そしてチェックイン。前回羽田でもまごついたが、今回は本当にまごつく。ようやくWebチェックインした人は専用のカウンターに行くことが分かり、荷物を持って進む。ここはさすがに本拠地だけあり、大勢の人が列を作っている。今回は事前に15㎏までの荷物預けを予約。予約だと1,500円で済むからお得。

まだ時間があったので、レストランでネット。コーラ一つを手に奥のテーブルへ。既に先客がいたが、電源も使わせてくれた。どうやら日系企業に勤める華人のようで、携帯で何か国語も使い分けて話している。

周囲に中国人観光客が目立つ。団体で行動し、何か買う物はないかと探している。既にTVなどの電化製品を買い込んでいる人もおり、大きな荷物を抱えている。そうか、日本に今行っても、円高で買えないから、マレーシアで日系企業製品を買っているのか。なるほど。

LCCTはバスターミナル並み

荷物検査が混んでいるとの話だったので、少し前に進む。ここでも中国人が喧嘩していた。手荷物が重量オーバーらしいが、何とか無料で持ち込もうと懸命に言い訳している。しかしここは通常空港ではなく、格安専用ターミナル。見逃すはずはなく、すごすごと引き返させられていた。この辺は融通が利かず、面白い。

出国審査を済ませると、そこは体育館、いや、どこぞのバスターミナルの雰囲気。とても国際線出発ロビーとは思われない。兎に角頻繁に出発があり、人の出入りが激しい。これほど大勢の人が待っているターミナル、LCCの力を感じる。

水を買い忘れて探す。どこも空港価格で高い。ようやく安い所を見付けて、買う。しかしその時、小さなバックを忘れてしまう。最近物忘れが激しくなったとの自覚はあるが、こんな所で忘れるとは。中には手帳や旅行計画、などが入っており慌てて戻る。何とかそのままレジの前に置かれており助かる。

定刻になっても呼び出しはなく、ディレーが告げられる。20分ほど。その間、ネットをやろうと探すと、柱の所に電源がある。ネットは無線でフリーだという。さすがLCC。多くの外国人が皆寄り添ってネットしていた。

ようやく出発のアナウンスが。ところが驚いたことに、ゲートがよく分からない。番号はあるのだが、そこには2つの列が。誰から聞いてきて左の列に並ぶ。右左同時出発だ。本当に驚いたことには、ジャカルタ行とコルカタ行の乗客が一緒に通路を歩いて行き、ある所で別れたこと。セキュリティ、大丈夫か。中には間違える乗客もいるだろうに。これがLCCだ。

何とかコルカタ行の飛行機が見えた。その時急に雨が降り出す。私も他の乗客も一斉に飛行機に向かって走り出す。LCCの搭乗は誠にシンドイ。




KL散歩2011(3)KL不動産事情

(3) KL不動産事情

ホテルまで30RMで戻り、部屋でシャワーを浴び、そして慌ただしく階下へ。2時に約束があった。優雅なKLライフ、どころではなく、東京より忙しい。こんなスケジュールを立てたら、いかん、ディープを見習い、心穏やかな生活をしなければ。

1階ロビーで待っているとEさんはやって来た。彼女は私の昔の知り合いOさんの部下。現在は上海を本拠にKLは出張ベースで来ている。職種は不動産業。Oさんが昨年出した本に、これからはマレーシア不動産投資がお勧め、と書かれていたのを思い出し、案内してもらうことにしたのだ。

最近は日本から小金のある投資家が次々に訪れ、物件を購入しているという。先週も9人が来訪。契約を済ませたらしい。一体どんな物件を買っているのか。現場へ向かう、車はベンツだ、さすが。

1軒目はKL市内中心部の高層マンション。既に日本人も多く購入、入居している。部屋の眺望はよい。東京のマンションよりゆったりと広く、値段は安い。お買い得かも。階下にはプール、ジムが付いており、優雅なKLライフが送れそうだ。

2軒目と3軒目はモデルルームへ。基本的にEさん達が進めている物件はディベロッパーがしっかりしている開発案件。完工後も利回り保証が付くなど、面白い仕組みになっていた。ただ私のような無職の物には銀行融資が付かないので、うーん。兎に角今回見た3物件は住むための物ではなく、金融投資として考えるもの。日本円が高く、国内金利がほぼゼロなら、年率6%で回ると言われれば、考えてみたくもなる。日本人の資産はどんどん海外に流出していく。

因みに大陸中国人の投資はあまり見られず、香港、シンガポールからの投資が多いようだ。大陸では金融投資で6%と言われても、ピンとこないだろう。ついこの間まで20-30%の利回りが不動産の常識であったのだから。

帰り道、夕方のラッシュに捕まり、車は中心部で動かなくなる。KLも車の増加が著しい。

(4) KL旅行業事情

途中で車を降り、次の約束へ向かう。マレーシアと言えば、どうしても旅行を思い出す私としては、旅行の状況を聞いておきたかった。これまたご紹介を頂いたYさんを訪ねる。Yさん、旅行業界は長いが、KLは駐在約1年。

日本人のマレーシアへの観光客は横ばいだという。ただエアアジアの進出によりこの状況が徐々に変わることが期待されている。また日本の高校生の修学旅行が増加しているのが面白い。海外で、英語が通じ、交通・治安が安定している国として、注目されている。現地高校生との交流会なども、開き易い環境。

旅行業としては、マレーシアの駐在員の増加が大きい。製造業・金融業・建築業などが近年マレーシアでの事業を拡大している。経済が順調に伸びているし、チャイナ+ワンの効果もある。駐在員が来れば、家族呼び寄せから観光旅行まで需要が生じる。特に最近はKL在住者のマレーシア国内旅行が伸びている。日帰りのマラッカ、特に鉄道で行くマラッカなどは伸びているそうだ。

最近マレー人の訪日観光にも大きな期待がかかっており、少しずつ増えて来ていたが、今年は震災の影響もあり、止まってしまった。マレーシアはアジアと言うだけではなく、イスラムと言う切り口もあり、重要な拠点であるが、残念ながら日本の旅行業界は対応しきれていないという。

最後にロングステイヤー。駐在員とともに増加傾向にあり、KLに住むロングステイヤーは比較的資金的な余裕があり、旅行などに使うお金も多い。ここに注目すると同時に、新たなステイヤーを捕まえ、その友人たちの旅行を請け負い、幅を広げていくことは重要。

何だかんだで、8時過ぎまでお話を聞く。それから一駅半ほどを歩いて帰る。KLの繁華街、ネオンもきれい。パビリオンと言う名前の巨大モールが目を惹く。東京なら銀座三越、といった感じ。

夕飯はホテル前の小さな中華食堂で。どうしても華やかな繁華街で食べる気になれず、戻ってきてしまった。この食堂はおかずが沢山並んでおり、好きな物を取ってもらい、ご飯とスープを付けて、奥で食べるスタイル。何となく、台湾の自助餐に似ている。中華系らしく、神様も祭られており、皆北京語が通じる。客は9時を過ぎてもひっきりなしに入ってくる。大陸からの観光客もいる。そうか、今は国慶節の7連休、観光客は多いはずだ。

 

10月6日(木)  (5) ミッドバレーまで行く

翌朝はホテルで朝食。2階のレストランは結構立派。食事もまあまあで納得。横には屋外プールもあり、雰囲気も悪くない。これで1泊6,000円は安い。などと思って部屋に戻るとネットが繋がらない。慌ててフロントに電話するが、「そんなはずはない」とすげない答え。再度トライするもダメ。フロントへ行き事情を話すと「今ダウンしている」という。この辺のソフトは??何とか30分で繋がり、メールチェックを終え、チェックアウト。

荷物を持って、駅へ。ここからKL駅まで電車で行って見ることに。KLでは電車は下層階級の乗り物だ、と言われ、日本人の駐在員などは決して乗らないとも聞いた。実際乗ってみるとそんなこともないが、学生なども多く、ビジネスマンなどお金がありそうな人はいない。

地下鉄と異なり、上を通ることから、KLの再開発の状況などが見られて面白かった。料金は勿論安い。ただコミューターと呼ばれる線はKL駅と直接つながっておらず、少し歩いた。

駅ではまずコインロッカーを借り、荷物を放り込む。これは意外と高い。15RMもしたから、空港まで行くバスの2倍だ。観光客向けということだろうか。 それでも当初20RMの所を使おうとすると、係のおじさんが親切にも、安い方を教えてくれた。

そして鉄道に乗り、ミッドバレーへ。ここは9年前にはなかった気がする。チケットは1RM。これを自動販売機で買ったつもりが、チケットは取り忘れ、領収証だけ受け取ってしまった。自動改札が通れずに気が付く。何だかややこしい。窓口で事情を話し、ハンコを貰って何とか通過。

ミッドバレーはKL駅から僅か1駅、とタカを括っていたら、地下鉄などではなく、在来線に乗ることになり、電車がなかなか来なかった。来た電車は大変混んでいて乗れないかと思うほど。乗ったら直ぐに着いてしまったが。そういえば、この電車にも女性専用車両が付いていた。イスラム世界では男女ははっきり分けられている。日本も朝夕などと面倒なことを言わずに、女性車両を増やせばいいと思う。



KL散歩2011(2)インド人ヨーガ講師と華人会計士

(3) 新しいホテルにはいい点も悪い点もある

その新しいホテルはフラマであった。香港に出張した時など、昔よく使ったのだが、最近はどうなのだろうか。ネットでは非常に安い値段で出ていたので、思わず予約。確かに新しいが、立地は今一つか。

朝の8時過ぎにチェックインしても、笑顔で迎えられた。お客はそれ程いないのだろうか。元々今日の午前中は夜行の疲れを考量して、チェックインできそうなホテルを選んだという事情もある。その予想は的中。

部屋に上がるエレベーターは最新式。部屋のカードを差し込まないと上がれない。しかし、私のカードでは動かない。着いてきたスタッフが「まだ新しいので」と言い訳しながら、自分のカードで動かす。部屋は広く、おまけにもう一部屋ついていた。セミスイート?しかし私は休むわけにいかない。朝9時の約束を入れてしまったのだ。

既に時間は8時40分を過ぎていた。慌てて下に降り、タクシーを探す。玄関前に1台、トヨタのバンがちょうどおり、乗り込む。住所を告げるとそのまま発進。さて、どこへ行くのやら。

3.KL (1) KL郊外のヨーガ

車は南へ進路を取り、高速をスムーズに走る。何だかその昔来たような道だが分からない。20分ほど行くと、リゾート地、といった感じの家々が並ぶ。その中へ入る。実に広々とした敷地、木々が溢れ、南国の別荘である。

目的の家は広大な敷地の中にあり、なかなか見つからない。運転手も何度も場所を聞き、ようやく探し当てた。タウンハウスの2階建て。1階には各家に駐車場もある。その1つを恐る恐るドアをノックすると、隣だと言われる。隣をノックするとインド人が顔を出す。

ディープ、それが私が訪ねた人。インド出身でありながら、KLにやって来て、ヨーガを教えているという。彼は30代半ば、実に柔らかい笑顔で迎え入れてくれた。広ーいリビングがあり、その向こうにはベランダが。そこから池が一望でき、とても心地よい空間が広がる。如何にも自然に生きている感じがする。

ディープは東京でヨーガを教えているHさんの紹介。何でもインドのヨーガ学院で一緒だったとか。当時からイケメンで女子には人気があったらしい。特に何となく当たりの厳しいインド人が多い中、彼の優しさは受けたことだろう。その彼がなぜKLに来たのか。それは彼女がKLに住んでいたからだそうだ。KLにヨーガ教師の仕事を探し、契約した所で、その彼女はいなくなってしまった。後にはヨーガの契約のみが残った。仕方なく、ヨーガを教え始めた。

そしてそこで今の奥さんと知り合い、結婚。現在は自らヨーガ教室を主宰し、この別荘地内で教えている。朝はヨーガをやり、昼間は教室、暇な時は読書、食べ物は自分で調理。実に理想的な生活をこの歳で送っている。素晴らしい。「インドより遥かに快適な空間がある」という言葉には、重みがある。

今回彼は早朝到着する私を気遣って、「家で朝食を食べよう」と言ってくれていた。有難い。彼自身が、スクランブルエッグ、トースト、ヨーグルトを準備してくれ、美味しく頂く。油は控え、基本はベジタリアン。「食べ物が体を作る」「心を穏やかにするのは環境」と静かに話すが実に説得力がある。心穏やかな生活が垣間見える。

彼は仏教などについてもよく勉強していた。「ブッダの教え」などはない、あれは弟子が聞いたというものを纏めただけ、と言ってのける。宗教がビジネス化していることを嘆く。そういえば、この家にも観音様がある。奥さんは中華系。彼は奥さんの宗教もよく理解している。

帰りがけに、彼のスタジオを見学。彼の車はダイハツ合弁の新車。「これならあまりお金が無くても買える」とのこと。乗り心地はまあまあ。スタジオまで2-3分で到着。華人の家の1階部分を借りているそうだが、庭もあり、気持ちの良いスタジオであった。ここで爽やかにヨーガをやれば、効果も抜群かと思う。

更に数分行った家に入る。大きな別荘だ。オーストラリア人が所有しているが、ヨーガ合宿を実施する際は、この家に皆泊まり、ヨーガもここで行うらしい。部屋は沢山あり、大人数が収容可能。食事はここのお手伝いさんが作るとのことで、大きなキッチンもあり、家の外と内と両方で食事が出来るテーブルがあった。プールもあり、広いリビングで寛ぐこともできる。良いスペースだ。一度ここでヨーガ合宿をやってみたい。

(2) 華人

ディープの奥さんが帰って来た。会計の仕事をしているらしい。KLに来る前にディープに「マレーシアの最新事情を教えて欲しい」とメールした所、「僕は世俗のことは分からない、世俗のことは妻に聞いてくれ」との返事。どこかで聞いたセリフだが、やはりヨーガ教師は世俗を離れる必要がある。

奥さんにマレーシア経済について聞く。「ここ10年、色々なことがあったけど、基本的には順調」「KLの一等地の不動産はかなり上昇したけど、この辺の別荘地は結構安く買える。郊外へ引っ越す人も出て来ている」

奥さんはKLのチャイナタウンに実家がある。華人に関しては「ここ数年、マレーシアの人口はかなり増えている。でも増えているのはイスラム系(主にマレー人)だけ。彼らは残念ながら生産性が低く、ブミプトラ政策で守られているが、実体経済を主導しているのは華人。その華人は人口比でどんどん減少している。これはマレーシアの将来にとって極めて危険な兆候」と懸念を示す。

大陸中国人の進出に関しては「華人と組んでビジネスしようと言う人は結構いるようだが、特に目立った動きは感じない。マレー人優遇社会では大儲けは出来ないのでは」と素っ気ない。

帰りにタクシーを呼んでもらったが、「来た時のタクシーはデラックス。ここまで60RMもする。節約が大事。帰りは普通タクシーを呼んであげるから。30RMでホテルまで帰れるよ」と。

KL散歩2011(1)エアアジアでKLへ行ってみた

《KL散歩》 2011年10月5日-6日

今回実に9年ぶりにクアラルンプールへ行った。しかし目的地はKLではなく、インド。安い航空券を探していくうちに、マレーシアベースの格安航空会社(LCC)エアアジアがヒットしたのだ。兎に角片道から乗れて、安い。たまたまKLで乗り継ぎ、コルカタへ行く便が同日になかったため、1泊することに。インドへ行く前に優雅なマレーシアライフを満喫した。

10月5日(水)
1. エアアジア

近年空の世界ではLCCと呼ばれる格安航空会社の活動が活発化し、新たなマーケットが開拓されている。その代表格がエアアジアであろう。KLはシンガポールやバンコックに比べて、何となく遠い存在であったが、この羽田深夜便かつ格安料金のエアアジアの就航によりKLがかなり身近になった気がする。

実際当日夕飯を我が家で普通の時間に食べ、ゆっくり電車で羽田空港に行く。帰宅ラッシュに巻き込まれることもなく、座って行けるから楽ちん。10時前には空港に到着。

チェックイン

エアアジアの航空券は安いが、他のサービスを求めると全て料金が課金される仕組み。今回全てネットで予約しており、説明も受けていない。何が起こるか分からない。実際チェックインカウンターは「チェックインする人」と「チェックイン済みで荷物を預ける人」に分かれていて新鮮。しかし自分はどちらに並ぶんだろうか。Webでチェックインは済ませたが。

まごまごしていると直ぐに係員がやって来て用件を聞く。「チェックインしたのなら、ボーディングパスは持っているか」と聞かれ、困る。プリントアウトして来なかったのだ。それでもチェックイン済みは済みに並ぶ。カウンターでは荷物の有無を問われる。手荷物は7㎏以内だそうで、私の大きな荷物は2つとも取られる。15㎏以内で2,500円徴収された。クレジットカードで支払い、無事通過。

小さなリュックを慌てて出して、PCを格納。実に軽くなった。搭乗者全員が本当に身軽な雰囲気である。これはこれでいいカモ。荷物検査上に楽々歩いて行く。すると後ろから「おー」という声が。何と北京時代のお知り合いHさんと遭遇。彼女はシンガポールへの出張。出発は夜11時台、翌朝には目的地に着き、朝から会議だと言う。羽田空港の深夜便はアジアへの旅を大きく変えた。

お土産とガイドブックを買っていなかったので、Hさんと別れてショップへ。ところが・・お土産を買おうとしてカードを出したが、どうしても読み込まない。先程チェックインでは問題なかったのだが。何度も試してもらったが、ダメで現金払いに。

この先カードが使えないと何かと不便。もう1軒でガイドブックを買って試す。しかし無理だった。使い過ぎで擦り切れたらしい。これは困った。またまた現金払い。おまけにガイドブックにも誤算が。マレーシアはあったが、その先のインドの本は置いていなかった。聞けば、「羽田では直行先のみ販売している」のだそうだ。それは合理的な説明だが、インドにガイドブックなしで行くとは、ちょっと無謀か。消費税をケチった結果はどうなるのか、後のお楽しみである。

兎に角トラブル続き。それにしてもカードは今回の旅が終わっても必要であることに気が付き、カード会社へ電話。事情を説明している間にも搭乗手続きが始まってしまった。相手は「この電話はカード紛失用なので、明日の日中掛けて欲しい」と言うのだが、私は日本に居ないので、何とかお願いする。しかし紛失再発行となると、番号が変わってしまい、ほぼ全ての口座引き落としが出来なくなる。困った、困った。最後は搭乗の最終案内を聞いてもらい、何とか自宅に新しいカードを送ってもらうように依頼した。

機内

11時45分にテイクオフ、5時間程度睡眠を取ると、翌朝6時(日本時間7時)にはKLに到着していた。料金は片道2万円台。食事などは出ないので、自ら必要な物を持ち込む(数百円程度で食事をオーダーすることも可能)。既存航空会社が深夜にもかかわらず、食事を提供するため、長い時間機内を明るくしているのとは対照的に睡眠時間も比較的長く取れる。また荷物を預けると追加料金が掛かり、機内持ち込みは1人1個、7㎏までとなっていてちょっと厳しい感じがする。だがルールが分かってしまえば、逆に機内で収納するスペースを心配することもなく、皆軽装で乗り込んでくる。

私が乗った便の乗客はほぼ半分程度。離陸すると皆早速寝床準備。三席で横たわる人。シートを倒して寝る人など様々。私は隣に人がいたので、横の席に移動したが、窓際に居たマレー人女性に「私が寝るからあっちに行って」と言われ、しょげる。後ろへ行くとなぜか前が壁の特等席が三席とも空いていた。ラッキーと思い座っているとCAがやって来て、「ここはホットシートです。30ドル支払う必要があります」と言う。なるほど、ここにまで差別化が図られているのか。

座席は思ったほど狭くはなく、音楽などはすべて有料であり、何も考えずに座ってウトウトしていると朝になってしまった。

2. ホテルまで
(1) LCC専用空港

KLの空港には以前降りたことはあるが、現在ではエアアジアなど格安航空会社用には専用ターミナルが用意されていた。当然タラップを降り、バスでターミナルへ向かう。まだ夜は明けておらず、あたりは暗い。ターミナルはだだっ広い。イミグレは我々の到着を待っていたという感じで、スピードは速い。

イミグレの手前に両替所があったが、朝はやっていないようだった。イミグレを抜けると両替可能な場所が一つあり、レートを見たが、出口を出ればたくさんあるだろうと両替しなかった。ところが荷物のターンテーブルの所にあった銀行のレートはかなり悪く替える気がしない。荷物を受け取り外へ出たが、そこには両替所は見当たらない。当座の金は持っていたので、取り敢えず市内までのバスに乗る。

空港から市内は結構距離が離れており、タクシーで1時間程度掛かる。但し交通費の格安なKLでは、そのタクシー代は約MR100(日本円2,500円)。定額制の前払いを利用すればぼられる心配もない。しかし節約する私はバスに乗る。KL駅まで僅かMR8(200円)で行くことができる。他にエアポートエクスプレスもあり、これでもRM12.5(約310円)で行ける。日本と違い、バリエーションが多く、自らの目的に合わせて使い分けられるのは嬉しい。

LCCT(格安航空会社専用ターミナル)→KLセントラル、と書かれたバスを見付ける。大きなバックを持った外国人も大勢乗り込む。タクシーに乗るのとはまた違った旅がここにある。

(2) KL駅

バスに乗ると朝日がさしてきた。何だかとてもいい気分になる。眠ろうとしたが眠くはない。ボーっと窓の外を眺めて過ごす。KLの周辺は道路が発達しており、安心して見ていられる。道路の整備状況はアジアでも有数ではないだろうか。

1時間して、KL駅に到着した。予約してあるホテルに向かう前に再度両替を試みる。が、まだ7時台、銀行はやっていない。インフォメーションと書かれたデスクがあり、そこで聞くと丁寧に教えてくれた。このようなサービスは実によい。

教えられた通り進むが、どうしても見つからない。ガードマンに聞いてやって分かる。それ程に小さな、目だたない両替屋だった。しかしレートは最初に見たものより更によく得した気分になる。待てば海路の日和あり、であろうか。

両替を済ませると、さっきのガードマンが目に入る。有難うと言うと、タクシーに乗らないかと言う。それではとタクシーの方に進むと慌てて「チケット」と遮る。タクシー乗るのにチケット?横を見ると数人が列をなしている。どうやらここで買うらしい。見ていると皆行先を述べ、買っている。これはプリペイドタクシーだ。これだと行先を言わなくても運転手も分かるし、ぼられる心配もない。

運転手は陽気なマレー人。早々に通じ難い英語を駆使して、会話してみる。子供は4人いるが、今生活は安定しているという。車は日本車が良いに決まっているが、何しろ高い。最近は韓国車が増えている。確かに走っていると現代が目に付く。ダイハツは新しい車を出したらしく、これが安くて良いという。

ところが運転手は私が予約したホテルを知らなかった。8月に出来たばかりだから仕方がない。勝手に違うホテルを思い描いていた。私は9年ぶりのKLだったが、所々に記憶があり、間違っていることが分かった。住所を確認し、何とか到着した。





済南を歩く2013(2)黄河と日本時代の建物

7月16日(火)
趵突泉

翌朝散歩に出る。夏の朝は爽やかだ。ホテルの向かいには泉城公園があり、そこをずっと歩いて行くと観光名所の趵突泉公園があった。済南は泉の街、街中いたるところに泉があるが、ここは公園になっており、観光客も訪れるし、市民の憩いの場ともなっている。

 

園内に沢山の泉がある。済南は別名を泉城というらしい。亀や魚が泳ぐ泉、ボーっと見ているにはちょうど良い。柳がちょうどよく、枝垂れており、絵になる風景だ。万竹園という竹林もあった。公園の中にミニ公園がいくつもある。

 

実はこの公園の中には日本に関するものもある。それが『済南惨案記念堂』だ。1928年5月、日本軍の山東出兵により、この地で中国の外交官など17名が惨殺されたとされる事件。中国ではこの事件を日中全面戦争の序幕、と捉えている。日本の歴史の教科書にも出て来るが、あまり詳しく勉強した記憶はない。因みに日本側は居留民12名が殺害されたため出兵したとしているが、この辺りの歴史は闇の中。中国側は日本軍の占領後、数千人が殺されたとしているようだが、こうなるとどうだろうか。この事件、済南が交通の要所であったことは分かる。

 

お昼前に昨日の旅行会社に行き、再度副社長と会う。今日は済南市の旅遊局の牛副局長を紹介され、歓談する。特に済南・青島などの歴史建築物に詳しい牛さんより、済南に残る数々の日本時代の建築物について聞く。ここ済南には戦前数千人の日本人が居留しており、領事館を始め、何と高島屋まであったというから、青島ほどではないが、重要な場所だったことが分かる。

 

因みにここで山東の日照緑茶を飲む。特に特徴は感じられなかったが、牛さん達が急須に持参の茶葉を入れ、湯を注いでも蓋をしなかった所に感心した。やはり緑茶は急須で淹れるものではないのだろう。次回日照を見てみたい。


黄河と歴史遺産

午後はOさんが黄河へ行こうという。黄河、そうかこんなところに黄河があるのか。市内中心からタクシーで20分ほど行くと、大きな河が見えてきた。済南黄河、確かに川幅は広い。ただ昔からここを流れていたわけではないようだ。1855年にこの流れになったとある。


 

平日の午後だが、観光客がそこそこいる。ただ河が大き過ぎて、人がいるようには見えないが、よく見ると浜辺?に見えるような部分で水遊びしたりしている。魚を釣っている人もいるかもしれない。よく考えてみると私は黄河をこれまでに見たことがなかったようだ。長江は三峡下りの経験もあるのだが、黄河は幻だった。断流だ、何だと騒ぎがあったが、今回見てみて、水があることは分かった。これで良しとしよう。Oさんに感謝しよう。

 

それから牛さんに教えてもらった日本が建てた建物を見に行く。Oさんも仕事柄、同行してくれた。済南飯店、そこへ行けばある、ということだったが、見た目はただのホテルだった。ホテルの人に念のために聞くと、裏に回れという。裏へ行って驚いた。そこには何と日本領事館の建物がそのまま残されていたのだ。

 

中へ入ってみると、人がいた。ここを管理している会社の人だという。強い山東訛りでよく聞き取れないが、元々領事館は1918年に作られた。これは第一次大戦時の青島占領後の処置だろう。その後、1928年に済南事変で一度焼かれたが、1939年に再建された。目の前にあるのはその建物だった。解放後、毛沢東をはじめ、劉少奇、宋慶齢など多くの共産党幹部がここに泊まったという。

 

建物の中はそれほど傷んでおらず、当時の雰囲気を残している。むしろ少しきれいにし過ぎたようだ。今後レストランにでも使うのだろうか。2階に上がると毛沢東も泊まったという寝室がそのまま残っていた。そこの窓ガラスは当時のままだという。うーん、相当な観光資源だと思うのだが、どうなんだろう。

 

外へ出ると建物の横に庭がある。その向こうはビアガーデンになっている。まだ時間が早いので、営業はしていないのだが、こんなところで夕暮れ時にビールでも飲むといいだろうな、と思う。領事館時代はここでガーデンパーティーが開かれたかもしれない。他にも2号楼や事務所など、昔の建物が多く残っている。

 

済南飯店を出て、歩いて行く。この付近はやはり、旧市街地。古い建物がいくつも見える。教会もあれば、今は博物館になっているところもあった。済南は本当に雰囲気のある街だな、と感じる。

 

そして最後に探し当てたのが高島屋の跡。高島屋がこんなところにあった、ということが信じられないが、当時は日本軍の占領地の景気は良かったのだろう。大連や天津にも百貨店は進出していたのだから。ただ気になるのは高島屋のHPなどに戦前中国に進出したことなどは書かれていないこと。何か後ろめたいものがあるのだろうか。この建物は交差点の角にあり、立地は良かったのではないか。現在は何と建物の正面に入口が見付からない。一体何に使われているのだろうか、と近所の人に聞くと、何と『公安』だった。写真を撮るのも遠慮した。

中国人上司

帰りは夕方の帰宅ラッシュにぶつかり、タクシーは捕まらず、バスでホテルに戻る。ホテルからまた出て、夕暮れの街を歩く。そこは昔の路地を観光化したような場所。狭いスペースにたこ焼き屋や寿司屋などの屋台が出ており、大勢の人で賑わっている。でもなんで、寿司。勿論て巻き寿司や海苔巻だが、済南の人々はかなり好きなようで、何軒もあった。

 

そして夜はOさんの上司と部下と一緒に食事をした。その場所は香港系企業が開発した大きなショッピングモールの中。ユニクロとMUJIもしっかりと店舗を構えていた。魚を丸ごと煮た料理が登場。皆で思いっきり食べる。

 

普段は上海に居るOさんの上司は、何くれとなく話し掛け、巧みに部下である中国人の愚痴や疑問をかぎ分けて、誉めたり宥めたり。中国の上司の仕事は部下と仲良くして仕事を進めること。日本とはかなり違う。また彼は日本に関しても相当に詳しく、日本企業とも多くの取引をしてきていた。『中国人は元々日本を知らない人が多いが、日本人でも中国を知らない人が増えている』と嘆く。そして『日本人は何でも謝り過ぎ。あれでは中国に対して過去を謝罪した、と言っても誰も信じない。日系企業に勤める中国人は自分の上司が毎日10回以上、電話に向かって「すみません」と言っているのを聞いているのだから』なるほど、全くだ。

 

食事を終えると彼らはカラオケに向かった。上司はきっとカラオケでも部下の愚痴を聞くのだろう。それが重要だ。それが上司の仕事だ。勿論部下も上司との関係を重視して、食事にも付き合う。昔は日本もこうだったのではないか。日本のシステムは確実に崩れている。

 

7月17日(水)
黒虎泉

翌朝もホテル周辺を散策。すぐそこに黒虎泉と呼ばれる泉があるということだったが、そこは川が流れており、その川辺の各所に泉が湧いていた。これはなかなか壮観。観光客も柳の下を歩いているが、地元の人々は泉の水を汲みに来ている。中には水着を着て、温泉のように入っている人、体を洗っている人までいる。

ここが市民の憩いの場、生活の場であることがよくわかる。そしてこのような場所が市内の中心にある街、済南は古き良き中国を残していると言える。だが、開発の波はきっとこれからこの泉たちをも襲うだろう。その時、市民はどうするのか、その辺が中国の次のステップを見る材料ではないかと思う。

その他にも古き良き町並みには残っていた。北京の胡堂のような狭い路地、小川を眺める老人、ここにも泉がある。観光地でもなく、ただただ昔を残している。中国はこれからどうなるのか、そんなことを考えながら歩く。

そしてホテルに戻り、チェックアウトして駅へ。来た時駅にはあんなにタクシーがいたのに、ホテルの前にはタクシーがいない。昼前はタクシーが捕まり難いらしい。ちょうど乗客を降ろす車を見つけ、何とか乗り込む。が、この女性ドライバー、あまりに訛りが強くて何を言っているのか、ほぼ分からない。

山東と言えば26年前に行った烟台、青島でもほぼ言葉が聞き取れずに『中国は本当に広い。そして上海でいくら勉強しても、他の都市で使えない』を実感したことを思い出す。最近はテレビなどの発達で、若者は標準的な中国語が話せるが、この辺りの年配者、村から出てきたような人は、未だに標準語が使えないと分かり、懐かしいような、困ったような。

駅に着くと、すぐに北京行の切符が買える。相変わらず便利。ただ高速鉄道の新駅はどこも同じような形でだだっ広いのは不便でもあり、またつまらない。そんなことを考えているとあっという間に北京へ戻っていた。中国の発展スピードは速いが、できれば古き良きところも残してほしい、それは部外者のしがない望みであろうか。