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シェムリアップで考える2011(5)親の仕事を見て育つ子供達

親の仕事を見て子供が育つ環境

もう一つ伝統の村の特徴は『保育所を作らず、子供は親のそばに置く』ということ。実際に見ていると、母親が赤ちゃんを膝の上に寝かせて機を織っている。小さい子供達が、仕事場近くを走り回っている姿もある。

森本さんの説明。『敢えて保育所は作らない。母親はどうしても子供のことが気になる。それならいっそ子供を傍に置いた方が集中できる。勿論時々子供を見なければいけないが、その時間を差し引いても効率が良い』

また『女の子は5歳ぐらいで母親の真似を始める。10歳ともなればある程度の作業が出来る。15歳で一通り出来る。20歳までには一人前になる。伝統の森では20年で後継者を一人育てる感覚を持つ。小さい時から織物に触れている、この感覚は後からは養えない』とも言う。

これもまた凄いことだ。特に女性の訪問者からはこの説明には歓声が上がるという。これは究極の子育てであり、同時に職業の伝達手段でもある。息の長い、伝統の継承、これは実にすばらしい。

究極の言葉

この森に滞在しているとあらゆることが勉強になり、あらゆることに気づかされる。こんな所に日本の高校生、大学生を連れてくれば、彼らにとって大きな財産になるような気がする。と思っているとドイツ人がやってきた。聞けば大手自動車メーカーのドイツ国内のトップディーラーたちに研修旅行団がカンボジアに来るらしい。その折、この村の訪問を計画したいとの相談だった。森本さんのもとには日々こんな人々がやって来る。学生ばかりではない、大人も十分研修すべきなのだ。

普段は忙しい森本さんが奇跡的にこの2日間来客もなく、急ぎの用事もなかった。そして私と合計10時間以上に渡って向き合ってくれた。これは稀有なことではないか。私に誰かが森本さんを引き合わせ、そしてじっくり話を聞く機会を与えてくれた。

ここでその全てを書きだすことはとても出来ない。心に引っ掛かった言葉をいくつか挙げてみたい。『心のこもっていない物は手造りとは言わない』、これは何という名言か。村の人々作業を見ていると素人でも、その丁寧な動作、真剣なまなざしが伝わる。

『本当にいい物を作ればどんな不況でも売れる』現代は大量生産、消費の社会であるが、いずれは不況になったり、戦争になったり、現在の計画通りに行かないことが多い。その時でも、本当にいい物であれば、必ず買う人がいる。だから目標は高く『世界一の物を作る』。これも現代社会に警鐘を鳴らしつつ、エコなどと言いながら使い捨て全盛の世の中を批判している。

『村の人々には腕に見合った仕事をして欲しい』手仕事の素晴らしい技術をもった職人さん達が作った織物を商人が買い叩いて行く場面を見て、この村を作る決意をしたという。職人が買い手に直接売る、そしてその良さを分かち合う、これも大切なことだ。

『事業には適正規模がある』これも現代の事業拡大一辺倒に警鐘を。この村でも一時は500人まで村人が増えたが、これは適正規模を越えたと判断し、去っていく者の補充をせず。現在の200人を適正規模と考えて運営している。売り上げを伸ばすことが重要ではない、適正な利益を確保し、安定的に維持していくことが重要。

『マニュアルだけは自然は染められない』この村では化学染料を一切使っていない。自然は常に変化するもの、自然と如何に向き合い、自然を色に出来るか、これは簡単ではないが、それが実行できる環境がここにはある。

電気がある喜び

そして昼ご飯を頂き、お昼寝をし、また森本さんと話し、夕飯を頂き、また森本さんと話す。何故か話が尽きない。その内私が中国の話を披露していると森本さんが『中国勉強しようかな』と言い出す。既にタイとカンボジアに30年、還暦を過ぎた森本さんがまだ勉強しようとしている。これには驚く。

でも正直その時は森本さんが中国に行くといっても旅行程度だと思っていた。ところがその後時々連絡があると『今上海』などと来る。驚くべき行動力だと思っていると、何と言葉の勉強だけではなく、上海で無印良品とコラボして、仕事を始めていた。うーん、人間年齢ではないな。

そしてその夜『今日も電気いらないね』と言われ、素直に『要りません』と答えられた。だがスタッフの一人が可哀そうだと思ったのか、自家発電を入れてくれた。母屋から迎賓館へ、今日は薄く灯りが見える。灯りがあることがどれほど嬉しいか、感じられる瞬間だ。

更には電気があるとお湯が出る。お湯を体に掛け、汗を落とした。これはどんな名湯よりいい。現在原発再開などで揉めている日本。電気の有難味を知り、同時に電気が無くても生活できる部分を体感し、基本は電気を減らす方向で考えるのが自然であろう。今の政府、そして日本人は自らの生活を少しずつ縮小する努力こそ肝心だと思う。

12月20日(火)   村を離れる

伝統の森に来て3日目の朝。今日も何事もないような日常が始まる。ここに泊まった2晩で、何かしら大きなものを得た様な気がしたが、森はそんなことはお構いなしに営みを続けている。

学校ではクメール語の授業が行われていたが、ここは1年生まで。2年生になると4㎞離れた学校に行かなければならない。どうして小学校過程全体が認められないのか、不思議だが、仕方がない。その4㎞の道を自転車に乗る子、歩く子、いずれにしても大変だ。

授業中、どうしても1年生なので、集中力がなく、遊びだす子もいる。すると19歳の先生は「悪いことをした子は手を出せ」と言い、一人ずつの手を軽く叩く。今日本で先生が生徒を叩くと体罰だと騒ぐ親がいる。でも子供にはこのようなけじめは必要だろう。しかもその叩き方には何となく温もりがあった。

サレンが迎えに来た。お昼の麺を頂き、村を離れる。ちょっと感傷的になる。が、村はいつもと変わらぬ。長く続いて行く村は淡々と日常をこなしていく。

トゥクトゥクに揺られていく。良く見ると、あちこちに洪水の爪痕が見えた。この付近の被害は相当な物だったろう。それでも人は生きて行く。





シェムリアップで考える2011(4)電気の無い村に滞在して

村に住む人々

到着すると日本語の出来るカンボジア女性が応対してくれた。聞けば、こちらの大学から香川県に2年間、農業研修に行っていたそうだ。ただ内容を聞けば、研修とは言っても実際には働きに行っていたと言っていい。日本は研修という姑息な名目で外国人を働かせている。このゆがんだ構造は改善した方がいい。

彼女は関空到着後、新幹線に一度乗っただけで、後日本国内の旅行も殆どせずに「研修」に励んだという。食事も日本食を食べ、特にうどんが美味かったという。そうして過ごして研修手当をため、2年後に帰国し、プノンペンに居るお母さんにその手当を渡したことが嬉しかったと言った。日本はもう少し何かを考えなければいけない。

またゲストハウスには何と日本人女性が住んでいた。既に3年ここに居るという。村の学校で日本語を教えている。これもまた凄いことだ。当初から5年計画で来ているが、なかなか思うようにはいかないという。翌日実際に授業を見学すると、7歳から11歳ぐらいの子供達が勉強していたが、直ぐには上達せず、また使う機会も限られるので難しいなと思った。この点を森本さんに聞くと、「日本人のお客さんが来た時、一言でも日本語を話し、会話することが彼らの財産」と言い、上手く話せることを目指してはいないようだ。

ただこのクラスで微笑ましかったのが、隣のクラスで1年生にクメール語を教えていた19歳の先生が、この日本語クラスでは子供達と一緒になって勉強していたことだ。これは実にすばらしい光景だった。

彼女は平日この村で暮らし、自炊している。週末はシェムリアップ市内のGHに泊まり、リフレッシュしてまた戻るという。この村には基本的に電気が無い。自家発電が点く時はいいが、そうでなければ如何に生活するのか。私もその夜、それを経験した。

電気のない夜

村には迎賓館と呼ばれるゲストハウスがある。普通の民家は木造だが、ここはコンクリート製。リビングがあり、部屋がいくつかある。部屋にはベッドと机が置かれており、快適に過ごすことが出来る。ここには一般の人も宿泊希望があれば受け入れる。ドネーション込み、1泊2食付で25ドル。

村はかなり広い。裏には池があり、夕日が落ちていく。ゆっくり眺める。森には水が必要だ。そう感じさせる何かがある。午後4時には工房では今日の作業は終了しており、村では炊ぎの煙が立つ。水浴びする人もいる。日が落ちる前に食事をし、日が落ちたら寝る。それが電気のない村の原則だ。

森本さんが村に戻り、話をする。日も暮れて来たので、私には特にやることがない。ただひたすら様々なことを話す。雑音が全く入らず、携帯もならず、ネットも繋がらない環境で、人とじっくり話すのは久しぶりかもしれない。

夕飯は母屋で森本さん及びスタッフと食べる。スタッフが作ってくれた料理だが、何とご飯に味噌汁、焼き魚、卵焼き、野菜の煮物、などが並ぶ。皆森本さんが教えたもので、食材は基本的に現地調達。非常に美味しく頂く。森づくりも食事作りも原理は同じかもしれないと思う。

夕食後コーヒーを頂きながら、また歓談。すると森本さんが「今日は電気いらないですね」と聞く。こんな会話は生まれて初めてだなと思いながら、「ええ、いりません」と自然に答える。実は母屋には自家発電があり、迎賓館にもあるのだが、今夜は母屋のみ使用するという意味。

そして迎賓館に帰る時、中国製のLED電燈を一つ渡される。母屋を離れるとそこは漆黒の闇。本当に暗い。電燈が無ければ何も見えない。このLED電燈が如何に明るいか、灯りが如何に有難いかを噛み締めながら歩く。それでも道に不慣れで、かなり戸惑う。日本では真っ暗と言っても、どこか見える物があるが、ここでは何一つ見えない。電燈から外れた所は何も分からず、進むと道が分からない。

ようやく部屋に辿りついても電気は点かないので、基本的に寝るしかない。トイレに行くにも電燈を提げて行き、歯も磨く。余計なことは何もない。実にシンプルだ。早々に就寝。

森が守ってくれる

窓から明るさが差し込んできた。いつの間にか眠り、起きることもなく、8時間ほど寝こけた。鳥が鳴いている。実に静かだが、外は既に起き出している気配が感じられる。散歩に出る。

村には森がある。今では百年も前からあったように見える木々だが、僅か10年前に植えられたもの。3か月前にはこの村を大洪水が襲ったという。一時は人の背丈ほどにも水が溢れ、工房の機織り機なども全て流された。しかし、その機器を守ったのが、この木々。洪水に流された物が皆木に引っ掛かり、流失を免れたという。これもまた貴重な体験だ。

森本さんは言う。「森が守ってくれた」と。その為にも日々、人は木々と向き合う必要がある。必要になった時だけ、頼っても何もしてくれない。私がこれまで歩いてきたアジアの村々で、同じような光景、話を何度も聞いた気がする。今の日本は災害を科学の力で防ごうとしている。

というより、日本人は今や「目に見える物しか信じられなくなっている」のだ。説明や説得力は数字など、自分の頭で理解できる範囲でしか成り立たない。人間を超えた何かが存在することをもう一度体験し、取り入れなければ何度も同じことを繰り返すだろう。

働くモチベーションとは

朝食は母屋でパンとサラダを頂く。非常にゆったりとして空間の中で、散歩後の朝食は実に美味しい。爽やかな風が吹き込む母屋は極楽だ。しかしこの極楽状態を作るのに、どれほどの苦労があったのだろうか。

食後のコーヒーを頂いていると、女の子たちが上がってきた。広いテーブルの所に座り、何かを始めている。覗きに行くと、何と絵を画いていた。何で朝からこんな所で絵を画くのか。

森本さんが解説する。『若い内に自然と向き合い、完成を高めることは大切。彼女達が描いた絵が、デザインにすぐに使えるわけではないが、一見仕事と関係ないこのような作業を重視している。彼女達には一定の給与を払って、仕事としてきちんと画いてもらっている。』と。

そう、今や日本企業が忘れてしまったゆとり。ゆとりというと『ゆとり教育』などイメージが良くないが、企業内でも車のハンドルの『あそび』部分が必要なはずだ。そのあそびから思わぬものが生まれ、企業が活性化する。森本さんの話と活動は、企業経営そのものだ。以前彼から聞いた『減収増益』の話もそうだ。良い物を作れば必ず買う人がいる、そうなれば単価は上がって行く。薄利多売はいつか行き詰る。

実際この村ではい1つ1つの製品に誰がデザインし、誰が織ったか、名前が書かれている。そして欧米のお客さんはこの村まで来て、気に入った物を買い、更には織り手がいれば、一緒に記念撮影をして帰るという。売り上げによって給与に大きな差をつけることはないとしている所が参考になる。モチベーションとはどこから来るのか。

森本さんは手法は職人さんのそれではなく、経営者の目線で作られている。カンボジアに進出する日本企業の参考に大いになるだろう。因みにカンボジアには若い、安い労働者が沢山いるのは間違いないが、それを束ね、仕事を進めてもらう班長クラスの人材が決定的に不足している。この伝統の森では、その人材が育っているのが大きい。





シェムリアップで考える2011(3)年金オジサンと若者、横柄な中国人

日本の年金オジサン

部屋からPCを持ち出しいじっていると、変なおじさんがやって来た。日本人だが、何となく胡散臭い。ここの部屋代はいくらかなどとスタッフにつたない英語で聞いている。仕方なく、私が対応した。おじさんは興味を持ったようで、あれこれと色々聞いてくる。

どうやら定年退職し、カンボジアに遊びに来て嵌ったらしい。2回目だという。一人でふらふら安ホテルに泊まっており、こちらの条件を確認に来たようだ。年金をもらって暮らすこんなおじさんがシェムリップには沢山いると、と聞いたことがある。どこが楽しんだろうか。

そこへ日本人の若い子がやって来て、「何かお手伝いしましょうか」と聞く。聞けばここの研修生らしい。誰とでもすぐ話が出来そうなフランクさがある。元々バックパッカーで、シュエムリアップにやって来たらしい。だが泊まっていた宿は1泊1ドルと聞いて驚く。日本人の女の子もここまで行くと、凄い。が、恐らくは日本人社会では相当難しい立場になるのだろう。このような多様性を受け入れる社会は日本にはない。

おじさんは私の部屋を見て、帰っていった。どうやら自分が泊まるべき場所ではないと分かったようだ。子供が壁を登り始めた。ロッククライミングの設備がある。

横柄な中国人観光客

そうこうしている内に昼になってしまう。シェムリアップのゆっくりとした空気が私の行動も制御しているようだ。このスローな状態が心と体を癒してくれる。普通の日本人は『こんな環境に長くいれば日本に復帰できない』と思うのだろうが、こちらは復帰する必要もなく、むしろ好ましく思う。

結局ランチの約束をしていたNさんを待たせてしまう。ゲストハウス内でランチを取る。とんかつ定食が3ドル。結構立派な物が出る。このゲストハウスに泊まって、食事をここでしても月5万円は掛からないだろう。シェムリアップは私にとってロングステイの候補地である。

Nさんから最新シェムリアップ情勢を聞く。観光客は韓国、日本が頭打ち、中国人が非常に躍進しているらしい。と話していると、中国人観光客が二人、フラッと店に入ってきた。何と全て北京語を使い、横柄な物言いである。言葉が通じないと分かるとメニューを指さし、何かを注文。そして出て来た食べ物に『塩辛い』といちゃもんをつける。

私には彼らの言っている意味が殆どわかったので、困っている店員の間に入ろうかと思ったが、Nさんから止められる。店員は落ち着いた対応で、英語を使いながら上手にあしらう。最後は中国人がぶつぶつ言いながら、お金を払って退散した。

中国人観光客は態度が横柄で、特に現地人を見下している。困ったものだと思いながら、ふと、『それは日本人観光客も似たようなものだった。今でも横柄な態度を示すオジサンなど、ごろごろいる』と思ってしまう。人のふり見てわがふり直せ、ではないか。

4. 伝統の森      修行者の道

GHをチェックアウトして、いざ伝統の森へ。実は前回2月にIKTTを訪ねよ、と言われ、シェムリアップ市内の工房兼ショップを訪問。そこではクメールの伝統的な織物が再現されており、興味を惹かれた。しかもそのクメール織りはポルポト時代に廃れており、それを復活させたのが、何と日本人だと聞き、益々興味を覚えた。工房の行くとちょうどその日本人、森本さんがおり、お話を聞いた。そして『もっと知りたければ森にいらっしゃい』と言われ、2日後には伝統の森に行っていたのだ。

その時は日帰りで村を見学した程度だったが、あの印象は忘れることが出来なかった。もう一度行こう、出来ればあの村に泊まろう、連絡してみるとゲストハウスがあるとのことで2泊お願いすることになった。

その村は市内からアンコールワットの遺跡群の横を抜け北へ30㎞。途中まで遺跡の関係で道路が舗装されているが、半分は未舗装の悪路。しかも私はそこを車ではなく、サレンのトゥクトゥクで行くのだから、結構すごい。約2時間掛かるが、道のデコボコで尻は痛くなり、腰はよじれ、まるで修行の旅に出たような気分で行く。

そして到着した伝統の森、それだからこそこの村を一から開発した森本さんとカンボジアの人々の物凄い努力が実感できる。10年前は何もなかったこの場所をあるご縁で所有し、クメール織りの為の蚕、桑の木から工房、自宅まで全て自分達で作って来たという。そして今では200人が暮らす村となり、織物が見事に織られている。

 

シェムリアップで考える2011(2)アンコール王朝の水源

3. シェムリアップ   再会

バンコックエアーのカウンターはかなり混んでいた。国際線も国内線も皆一緒に受け付けていた。これで間に合うのだろうかと思ったが、淡々と待つと、20分後にチェックインできた。飛行機はあっと言う間にシェムリアップに到着。

空港では前回同様アライバルビザを取得。慣れているので直ぐに列を並び、これもまたあっと言う間に取得。イミグレは相変わらずゆっくり進んでいたが、脇の外交官用のゲートを開放してくれ、これまた直ぐに抜けた。

今回は空港で携帯のシムカードも取得。10ドルで十分使えるカードをゲット。何故かおまけのストラップまで付いていた。店員は流暢な英語を話し、外国人に慣れている。日本でもこのようなサービスがあれば便利なんだけど。

外に出ると笑顔でサレンが待っていた。2月以来、10か月ぶりの再会だ。こんなに早く再会するとは正直思っていなかっただけに喜ばしい。彼のトゥクトゥクに乗り込み、市内へ。当然ながらそれほど変わっていない。

今日の宿はクローマーゲストハウス。ここのオーナーNさんとは前回お目に掛かり、そのご縁で泊まることにした。10ドルで広い個室に入れてもらい、お湯のシャワーもある。ネットは共同スペースまでPCを持っていけばフリーで繋がる。快適なネット環境だ。

西バライ湖

サレンが『どこへ行きたいか』と聞く。確かに10か月前に来たばかりだし、特に行くべきところはない。そこで突然思い出したのが、一昨日の晩の飲み会。旅行関係者が多いオフィスの飲み会だから、やはりどうしても話題が旅になる。私が『今度の旅はシェムリアップだ』と告げると、それなら『湖へ行け、そこで鶏を丸ごと焼いているぞ、あれは美味い』という声が掛かった。鶏肉は嫌いではないし、行ってみるか。

行って見るかと言っても、地名など分からない。サレンに話すと多分あそこだ、と納得顔。付いて行くことにする。市内をちょっと外れたあたりに、何だか立派な建物がある。最近出来たというショッピングモールとマンション。しかし人影はなく、店も殆ど空いていない。『韓国人客が時々来るだけ』とサレンも素っ気ない。不動産投資の失敗なのだろうか。

郊外に出た。貯水タンクと思われるタンクに日の丸があった。日本の援助で作られたのだろう。その下には『大正小学校』と漢字で書かれていた。奥に学校があった。ここも日本の援助だろう。本当に日本はカンボジアに多額の援助をしてきた。問題はその援助が一般住民の為になっているのかどうか。

既に日が傾いている。30分ほどで目的地に着いた。大きな湖だ。人工湖だそうだが、説明を読むと11世紀に完成したとある。西バライ、東西8㎞、南北2.2㎞、クメール王国時代に作られている。ここはあのアンコールワットを中心にしたクメール王国の水源だったのだ。壮大だ、当然ながらあれだけの巨大都市を賄う水は多量でなければならない。


   

少し歩いて行くとアキユ寺院という表示があり、見ると崩れ落ちた寺院が現れた。こじんまりしているが、昔はいい感じだったかと思わせる作り。大きな木が往時を偲ばせる。ここは湖を祭るのだろうか。

夕陽が落ちていく。人々は思い思いに眺めている。お店では確かに魚や鳥を串にさし、グルグル回して焼いている。美味しそうだ。5ドルで1羽買って二人で食べる。塩とレモンを付けて食べると本当に美味である。アンコールビールもちょっと飲み、気分が乗ってくる。夜はさぞや賑やかなんだろうと思っていると、何と皆帰り始め、我々は取り残される。夜は真っ暗なのだそうだ。

我々もいそいそと引き上げる。サレンに街の真ん中に送ってもらい、一人で散歩する。外国人が多い一角はどうにも馴染めない。直ぐにGHの方へ戻る。途中に小さな市場があり、その中で麺を売っていたので、食べる。相変わらずこういうものが一番美味いと感じる。

12月18日(日) 散歩

夜は良く眠れた。12月のシェムリアップは爽やかな朝。思わず散歩に出る。この街の中心はそれ程広くはない。日曜日ということもあり、人通りは少ない。近くにコンビニがあった。見るとやはりフリーWifiだ。今やカンボジアには有線ネットはない。後発だけに全てが無線だ。そしてそれがコンビニにあり、若者がPCを持ち込んで使っている。Facebookやゲームを楽しんでいる。

 

欧米人もPCを使っている。日本には逆にこのようなサービスはない。ネットカフェもない。東京を歩く外国人はネット難民になる。それが日本人にはわからない。6イレブンなどと言う名のコンビニもある。日本が浸透している感じがする。

 

朝ごはんはGHの料金に含まれていた。フランスパンにハムを挟んだサンドイッチ。シンプルでよい。GHの前にはベトナムでバンミーと呼ばれるサンドイッチを売っている。美味しそうだ。道路沿いには中国人観光客がバスを待っている。彼らは朝早くから激しく動き回る。いくつ観光したかが、全てだ。

 

 

 

 



シェムリアップで考える2011(1)バンコック 不法入国者が貴重な戦力に

《シェムリアップ散歩2011》  2011年12月16日-23日

12月16日(金)   1. 出発まで

今年の1月末に初めてカンボジアのシェムリアップに行った。アンコールワットを訪ね、その壮大さに圧倒されたが、その中身、内容に関しては残念ながらチンプンカンプン。何となく釈然としない中、ヨーガのA師より「インド哲学、などインドの観点からアンコールワットを解説するツアー」のお知らせが届き、俄然盛り上がる。

10月末にバンコックで予定されていたA師のヨーガ合宿は洪水の影響をもろに受け、開催3日前に中止となる。アンコールツアーは12月であるし、場所もカンボジアだから問題なく開催されると思っていると、不幸は続くもので、このツアーも延期となる。理由は洪水関連の影響で、参加者が減ってしまったため。

10月末も、11月初めも、バンコックの空港には水はなかった。11月中旬には市内中心部に3泊も泊まったが、やはり洪水はどこにも見られなかった。確かに銀行の前に土嚢が積まれ、警戒態勢はあったが。観光客も減ってはいたが、普通に街を闊歩し、ショッピングを楽しんでいた。「私のバンコック」には洪水はなかったのに、何故。それは運命なので、言っても仕方がないことである。

しかし飛行機のチケットは既に発券されている。どうするべきか。前回のバンコック行きは急遽ベトナムに変更した。今回は行先変更の必要はないのだから、ただ行くべし。それが定められた道なのだ。

出発前日は事務所の忘年会。わざわざ2か月前に設定されており、出席必須。しかし前回のバンコックでの大寝坊(離陸1時間半前に起床)に懲りて、今回は早く寝たかったが、忘年会を早めに切り上げても午前様。睡眠時間は極めて短く、朦朧として起きる。12月の東京は寒い。しかしバンコックの気温は20度は越えている。服装は止む無く重ね着となる。

都営浅草線の成田空港行きは、特急とは名ばかりで途中の駅でよく時間調整する。電車で寝過ごすのは癪だと思い、頑張ったが、途中で夢の中へ。気が付くと成田空港に着いていた。辛うじて降りる。

日本人だけが戻ってこないバンコック

11月中旬にバンコックで東京往復のチケットを買ったが、何とユナイテッドよりANAの方が安いという珍事が起きていた。これは明らかに洪水の影響。欧米人もアジア人もその時点でバンコック行きは安全と判断していたが、日本人だけは渡航者が激減していた。今回のバンコック行きでも、1か月前ほどではないが、やはり洪水の影響でかなり空席が目立つ。相変わらず日本人の渡航は少ない。他国の観光客はかなり戻ったと聞いたが。

日本人CAがやけに親切になった気がする。個人差なのか、乗客が少なく対応するゆとりがあるからなのか。機内食は明らかに変わった。デザートにあんみつとは、エコノミークラスでは初めて。聞けば、中距離路線のメニュー改造に取り組んだとのこと。LCCの設立で差別化の必要性が高まっている。

CAから感想を聞かれる。本当は言いたいことは山ほどあった。「朝の飲み物には暖かい物をまず用意せよ」など。が、贅沢は敵。現状に満足すべきだろう。出される物を静かに味わう。特に中国系などと比べれば、サービスの丁寧さなどは遥かに良いのだから。降りるときにカメラを座席に忘れる。しかし一度降りてしまうと機内に戻れないというルールがあるらしい。CAに事情を話し直ぐに探してもらい、無事見付かる。

イミグレは洪水の影響など全く感じられないほど混んでいたが、それほど気にならない。後ろの日本人のおじちゃんは相当イライラしており、その振動が私にも響く。昔の自分を思い出し、ちょっと恥じる。日本人だけが洪水の風評と戦っている感じがした。

空港タクシーとホテル

今回の宿は前回同様Rマンション。市内へ行く方法を知らないので、空港タクシーを利用。運転手は最初から道を遠回り。ただ私にはこの空港の複雑な道を理解することは出来ず、おまけにタイ語も出来ないので、なすがまま。途中渋滞にも嵌り、1時間掛かる。おまけにタクシー代は400bを越え、これまで最高金額に。何だか癪ではあるが、あまり怒る気になれない。

この1-2か月、洪水の影響で空港タクシーもかなり商売を減らしたことだろう。今日でもタクシーにはすぐに乗れる。客は完全に戻って来てはいない。そして電車など、新しい手段も出来、益々厳しさを増している。

Rマンションは特に変わりなく、そこに建っていた。タイ人にとっては少し肌寒い12月の気候、でも私には本当に暖かく感じられる。この宿は1か月前より確実に混んでいた。外国人観光客は戻って来ていた。

ここのファシリティーには特に不満はないが、インターネットカードを買わないといけないのが問題だ。1日100b、結構高い。部屋は古いが広さはある。流しも付いているので、調理は出来ないが、カップ麺ぐらいは食える。NHKの衛星放送も入るので、十分便利だ。

不法入国が貴重な戦力に

バーンタオ氏が車で迎えに来てくれた。夕飯を食べようと向かった先は、何とスクンビットのソイにある餃子屋さん。何でと思ったが、レストランの外見だけを見ても面白い。漢字は『山東餃子』だが、英語は『北京レストラン』。如何にも中国人のイメージする山東の餃子とあまり中国を知らない欧米人には分かり易い北京を付けたようだ。

中に入ると驚く。バンコック中心部とは思えない中国的な雰囲気。まだ時間は早いが、既に如何にも中国大陸から来た客がテーブルでビールを飲んでいる。バーンタオ氏もタイ語でビールを注文するが何となく反応が悪い。ウエートレスの会話を聞いていると何と北京語だった。更にはマネージャーらしい女性も北京語だった。

メニューには全て写真が付いている。これで分かる。ウエートレスはタイ語が苦手なのだが、誰でも注文できるようになっている。これだとタイ語が出来ない日本人でも気軽に注文できる。奥のテーブルにはどうみても大陸中国人が座っている。一人は中国の銀行の袋を持っていた。どうやら接待らしい。ここはタイなのだろうか。その後彼らは個室に移動し、何と白酒でガンガン乾杯を始める。もうこうなるとチャイナワールドだ。

ウエートレスに北京語で何人か尋ねると『ミャンマー人』との答え。そうか、彼女達の祖先は国民党、国共内戦でミャンマーに逃れた中国人だったのだ。私が北京語を使うと何となく嬉しそう。給料は1か月6000b、相当低いがそれでも職があればよいという。後で聞けばタイは不法入国してもある時期に申請すれば政府がビザを発給することがあるという。これは日本では考えられないが実は合理的なシステム。不法だが、一定期間低賃金でキチン働いた者はタイにとって必要な人材と認められるのだ。タイ人はこのような安い労働力を使い、『働かない文化』を享受しているように見える。

料理は中国大陸の味がした。コックも大陸から来たのだろう。この店のオーナーも大陸人。所謂ヤワラーの華僑と対比すれば新華僑の活動はどんどん活発になっている。この日の注文はすべて私がした。バンコックにも私が生きる余地があるように思えた。

因みにこのレストランがあるビルには中国系、韓国系の会社が数社入っている。食事の後、ビルの駐車場に停めてあるバーンタオ氏の車に向かうと、タイ人の警備のおじさんまでが『謝謝』と言っていた。バンコック在住20年のバーンタオ氏も目を丸くして驚いていた。

12月17日(土)   朝から読書会

前夜中華料理屋でバーンタオ氏と話していると、『明日、読書会に出ないか』と言われる。北京で読書会を立ち上げていた私は何となく惹かれてしまい、行くことにした。『じゃ、明日5時起きで』と言われ、え。

この読書会、海外に居住し起業している人々の集まりである和僑会の分科会。タイの和僑会は歴史的には新しいが何だかやる気が感じられる催し。それにしても土曜日の朝、午前6時半から行うというのは凄い。朝活というやつだ。

6時前にバーンタオ氏が迎えに来てくれる。今日は昼の便でシェムリアップに行くので、チェックアウトして、荷物を積み込む。まさかシェムリアップに行くのにこんなに早起きするとは想定外。

会場は和僑会幹事Oさんのオフィス。到着すると既にスーツを着たOさんが会場を準備していた。彼には土曜日もないのだろう。既に戦闘モードだ。バラバラとメンバーが6-7人集まって来て、始まる。メンバーが今月読んできた本を差し出し、感想などを述べる。そしてその本を場に出し、借りたい人が借りていくシステム。本を共有すること、知識の増加に役立てること、なかなか面白いルールだ。読んでいる本は経営系の本や自己啓発系、最近の流行を追うものなど。中には仏教など宗教や物の考え方を示す物などもあり、日々業務に格闘している人々の苦悩の一端を垣間見る。

メンバーは30-40代の起業家ばかり。自らの仕事は相当忙しいと思われるが、皆自己啓発意欲が高く、ビックリ。我々がサラリーマンだった頃は自己啓発を怠っていたな、とつくづく感じる。中には『仕事が忙しくて本が読めなかった』と恥ずかしそうに告白するメンバーもいて、実に新鮮だった。刺激し合うことは大切だ。

8時半に2時間の読書会は終了、各人思い思いに本を抱えて去っていく。私はバーンタオ氏の車で空港に送ってもらう。何となく名残惜しい。






バングラディシュ・スタディツアー2011(10)空港 奇跡の救出劇

一人旅に出たバックを探す

私はラジョウに手伝ってもらい、バック探しを始める。ベトナムのホーチミンで預けたバックが積み間違いでチッタゴンに届いたのは2日後と聞いていた。だが空港職員に聞いても要領を得ない。仕方なく、到着ロビーの方に押し入る。中に職員がいたが、そんなバックはないと軽く言われるがここで諦めては何もならない。そんなことはない、と言い張り、自らバックを探させてもらう。

倉庫には古そうなバックが山積みされていた。引き取り手のない荷物だった。私のバックもこうなる運命か。到着し時に見たターンテーブルの脇にも沢山荷物があったことを思い出し、そこへ行って見る。すると何のことはない、直ぐにバックバックが見付かった。このバック、パリ、ドバイ経由でやってきたと聞く。一人だけいい旅してきたな。

職員は面倒そうに「一度バングラに入国する手続きを取り、その後引き取れ」と言い、待たされる。それでも20分程度でもう一人の職員が登場し、無事解放される。未だチェックインは始まっていなかった。

バックが戻ったことで気を良くした私は、腹が減る。売店でビスケットと飲み物を見付け、学生達に分ける。両替したバングラタカも殆ど使わなかったことが分かる。ようやく8時過ぎにチェックインが始まり、搭乗客が長い列を作る。チェックインカウンターは沢山あるが空いているのは1つだけ、何だか昔の中国を思い出した。ボーディングパスを手にした。すべて順調だ。ロビーは2階にあり、上がって行くと出国手続きが始まっていない。

イミグレの怪

ここで面白いことが起こる。椅子はイミグレの向こう側にしかなく、イミグレに職員はいないが、ゲートは空いている。バングラ人は数人イミグレゲートを越えて向こう側へ行き、椅子に座る。我々も従う。誰一人止める者もない。こんな経験は初めてだ。


   

かなり待っているとイミグレ職員がやって来た。皆ゲートを戻り、列を作る。やはり滑稽だ。誰かが隠れていたら、どうするんだろうか。勿論この空港を使う便は少なく、人海戦術でも探し出せるとは思うが。イミグレ手続も非常にゆっくり進んでいる。

イミグレを潜ると手荷物検査がある。私が荷物を通すと「日本人か」とオジサンが気さくに声を掛ける。「日本人とは友達だ」と私の肩に手を掛けて話す。これまた不思議な人だ。学生達が次ぐ次通るとその度に日本人は友達だ、と言い、ニコニコしながらチェックする。ボディチェックもある。女性は仕切りのある中で行われる。イスラム的だ。

そして本当に定刻に飛行機はバンコックに向けて飛び出した。私たちのバングラの旅は終わった。



バングラディシュ・スタディツアー2011(9)運動会は大成功

11月12日(土)  (11)  七日目

運動会

翌朝運動会当日、空は快晴だった。今日は学生達に緊張感がある。前日の練習ではどうもうまくいかなかった。一日でそれを修正するのはかなり大変なことだ。先ずは自分達で昨晩検討した内容を実行してみる。大縄跳びなどはやらないことにして、台風の目と二人三脚にかける。

台風の目は5人が横に並び、一本の棒を持って進む競技。小学生だけでこれを行うとなかなか進まないため、各グループに一人大学生が参加して、リードすることとした。また4列に並んで前へ習えをしている。これはうまく行った。子供達も安心して前へ進めた。初めは心配そうだった校長先生や他の先生達も楽しそうに見ていた。子供達は実に生き生きと躍動した。

次は難関の二人三脚。二列に並んだ小学生の足に布を巻く。これで大丈夫なのか。案の定、低学年の子達は自分で進めず、先生が両脇から抱えたり、二人で走って転んだりしていた。それでも泣いたり叫んだりする子はいない。皆ちょっと恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべ、楽しそうだ。そう、子供はこうあるべきだ。自分が子供の頃の照れ笑い、思い出した。

今の日本の小学校には運動会はあるが、危険は極力避けること、競争も避けること、が命題だと聞いたことがある。しかしそんなことでは、運動会をやる意味がない。新しいことに挑戦する、みんなで競い合うことこそ、重要だと思う。バングラの学校には運動会はないだろうが、既に生活その他で厳しい競争に晒されている。

最後にもう一度台風の目が始まる。皆気に入ったようだ。更には先生チームが登場し、会場は沸いた。校長先生も参加した。先生のこんな姿を見ることは日頃はないのであろう。いいことだ。皆で一緒に記念写真を撮り、お菓子を分けて閉幕した。お菓子を食べる時にごみを屑籠に捨てることを徹底していたのもよい。

お土産を買う

午後は少し休み、夕方お土産物屋さんを訪問。街の大通りのビルの中にあるこのお店、少数民族が手で作る服や小物、そして仏像などが置かれていた。このお店はドイツのNPOが支援しており、材料費などを負担し、手間賃を与えている。

面白いのはこのお店の売り子さんは、例の小学校の先生だったこと。午前は学校の先生、夕方からはNPO職員。これが今の学校の現実であり、先生という職業だけでは食べていけない。我が下宿先の先生も、実は家で子供たちを教える塾をやっている。

普通私はお土産を買わない。特に最近は荷物が多くなることもあり、また常に旅をしているせいもあり、買わない。だが今回何故か、目に付いた仏像があった。刺繍が施された小さな袋とピッタリで買ってしまった。これもご縁であろう。今後この仏像が何かの時に出て来るような気がする。ご加護あれ。

最後の夜

最後の夜がやって来た。食事は最後まで美味しく、豪華だった。海鮮がふんだんにあり、エビやイカなどが使われていた。またゆで卵をちょっとあげた卵が美味だった。野菜も新鮮で味付けも日本人に合っていた。ある意味ではここはバングラディシュではないのかもしれない。結局カレーの様なものは一度も食べずに終わる。


   

先生の家族も別れを惜しんでくれる。13歳のチュミは小遣いがあるのかどうか分からないが、大学生全員と私に個別に記念品をくれた。これには本当に参った。何だかとても温かい気持ちが籠っていた。これは他の家族も一緒で、記念品が大学生に渡されて、名残を惜しんでいた。私もTシャツを貰った。少し小さく体にぴったりだったが、そのフィット感が、バングラを忘れるな、と言っているようだった。

家族の記念写真を撮った。お爺さん、お婆さん、先生と奥さん、息子、先生の妹そしてチュミ。皆いい顔をして収まった。我々がいた一週間、彼らは実に不便な生活をしていたはずだ。部屋を明け渡し、トイレやシャワーも提供してくれた。日本の家庭ならとても受け入れられないというだろう。そこには何かが流れていた。そして夜は深まった。

(12)   八日目    帰国へ

午前3時半、起床。飛行機出発は午前10時20分だが、この地では何があるか分からない。朝早く出て、兎に角チッタゴン空港に到着しておくことが大切。ましてや私はバックパック救出という別のタスクもある。

皆流石に眠たそうだが仕方がない。勿論外は真っ暗だ。だが、バスが来ていなかった。不安が過る。バスが来なければ何ともならない。ラジョウも焦って携帯で電話している。勉強している学校のあるチッタゴンに戻るため、同乗するという先生の妹もちょっと不安そうだ。その時バスが闇の向こうから音を立ててやって来た。とうとうコックスバザールに分かれる時が来た。そしてあっと言う間にバスは我々を乗せて走り出した。

それからは1週間前に来た道をひたすら逆走したはずだ。だが殆どの者は寝ていただろう。外を見ても暗くて何も見えないのだから。7時前にはチッタゴンの街に入り、先生の妹は降りて行った。そして何の障害もなく、空港に着いた。外はすっかり明るくなり、日も差して来ていた。

空港内に入るとチェックインは始まっていなかった。だがS氏は目を輝かせて「カウンターにバンコック行きの表示がある」と喜ぶ。飛ばない場合は表示されないらしく、定刻出発が見えてきた。これは奇跡的な出来事らしい。

バングラディシュ・スタディツアー2011(8)難民キャンプに突入する

11月11日(金)  (10)  六日目
チョイバラ お寺

今日は朝からテクナフ方面へ遠足。朝食はもち米ご飯とココナッツのスイーツ。朝からちょっと甘かったか。

8時半にチャーターしたバスで出発。バスはラジョウ家の前まで入ってきており、相変わらずの混雑でメインロードへ出るのには苦労した。その後南下。今日はバングラディシュの一番南の街へ行く。

実に見事な水田が広がっていた。その間に村が点在し、そこにはバザールと書かれた野菜市場、魚市場が道の両側に店を出していた。殆どは露店だ。バスは中々進まない。1時間ほど行くと、チェックポイントと言う名前の警備ゲートがあり、軍が管理しているようだ。しかし警備兵がバスの車掌?に話し掛けると先生が「外国人だ」と叫ぶ。行け、というジェスチャーになる。ミャンマーならすべて身分証チェックだから、かなり軽い。

道の前方両側に山が見えてきた。右はバングラの山、左はミャンマーの山。とうとうミャンマー国境まで来た。何となく感慨深い。タチレイに行って以来5年ぶりの国境だ。郷愁も涌く。ミャンマーとの国境はこの山ではなく、川が間にある。

1時間半ほどで、チョイバラの村に到着。お寺のようだ。バスを降りるとお寺の門から参道に子供たちが列をつくり出迎えてくれた。皆恥ずかしそうに、控えめな表情だ。聞けば、今日は金曜日で学校は休み。我々が訪問するということで、その為だけに来てくれたようだ。

本堂で休む。黄金のブッタがここにもある。何となく落ち着く。ここの老僧は80歳を超えているが、元気。昔日本にも行ったことがあると言う。英語も話す。若者の写真撮影にも気軽に応じている。もう一つの堂にはミャンマー同様あのパチンコ屋を想起させるライトが点滅する。どうしてこれが必要なのか、未だに不明だが、ここがミャンマーと同系統だということはよく分かる。

難民キャンプ

実はお寺に行く前に、街道沿いに奇妙な集落を見た。Sさんに聞くと事もなげに『難民キャンプ』と答える。難民キャンプ?一体どこからどんな難民が来るのだろうか。川向こうの隣の国、ミャンマーは今何となく対外開放ムードが漂い、軍事政権であることも忘れられがち。だが、ミャンマーに居る少数民族は何らかの圧力を受けているようだ。このキャンプに来ている人々はミャンマーに住んでいたイスラム教徒述のベンガル人。昨年あたりからキャンプ人口は急増しているらしい。

ちょっと降りて遠くから見るつもりが、何だかキャンプに紛れ込んでしまう。コックスバザールの学校同様、子供達がワッーと大学生を取り囲み、交流が始まってしまう。正直貧しいキャンプ、家も掘立小屋のようで、中には簡単な調理器具が見えるだけ。食べる物も支給されているのか不安になるような場所。私だったら絶対に入って行けないな、という所に学生達はどんどん入って行き、言葉が通じなくても笑顔で進んでいく。

きっと普段は楽しいことも少ないのだろう。知らない人が来ただけで子供が喜び、子供が喜べば、大人も何となく笑顔になる。こんな連鎖、今の日本に必要な気がする。皆が厳しい顔をしていれば、子供達も不安になる。

数千人が暮らすというキャンプの一部を歩いて、街道に戻る。大勢の人が付いてきて、別れを惜しむ。こんな光景、これまで想像できなかった。若い力は恐れを知らない。この力に日本を委ねれば、何とかなるかもしれないのだが・・。

テクナフの市場

再びバスに乗り、国境の街テクナフへ。左側に川がはっきり見えて来てくる。ビューポイントでバスを降り、ミャンマーを撮影する。その先左側には港も見えたが、門は閉じられていた。

 

テクナフはそれほど大きい街には見えない。我々はバスを降り、ラジョウに従い、街中を通過し、マーケットへ。ちょうど昼時のせいか、人通りは少なく閑散としている。このマーケット、何でも売っている。服や雑貨から、携帯や電化製品まで。全て国境を越えて来た輸入品で、良く見ると漢字やタイ語が表示されている。この街からバングラディシュ中に商品が送られていくらしい。

 

 

 

 

リンゴを売っている店で聞くと、中国北部から来たものだという。一体どうやってくるのだろうか。雲南省までは中国国内をトラックで、ミャンマーに入って積み替えるのか。そして最後が船で渡って来るらしい。何日かかるのだろう。このリンゴの鮮度はどうなのだろうか。一度このルートでバングラから中国まで辿ってみたい。しかしS氏によると、アジアンハイウエーもミャンマーで切れており、個人がこのルートを取ることは難しいようだ。

 

川は国を隔てているが、あまりにも狭い。小さな船が沢山停泊し、いつでもミャンマーへ行くことが出来る。但し外国人は実質的に通行禁止らしく、簡単ではない。行けないと言われると行きたくなる、特にミャンマーは過去4回も行った土地だが最近ご無沙汰している。ミャンマー旅行が思い出される。

チョイバラ② 穏やかな村と街道の大喧嘩

テクナフを離れ、チョイバラの村に戻る。何とランチの用意がされており、頂く。魚の煮つけが美味い。ご飯にかけるふりかけの様なものがまた美味く、ご飯が進む。

食事が終わると皆思い思いに村を散策する。午後の日差しが心地よい。村は時間が止まったかのように静まり返り、人々もお昼寝しているに違いない。そんな中をミャンマーが見える川沿いに行って見る。防砂林がある土手、その向こうにミャンマーの山々が広がっている。本当に近い。

村の中には池があり、生活用水をここから汲んでいる。これは大変な作業だが、子供達も一生懸命運んでいた。豆を突いているおばさん、一体何が出来るのだろうか。一軒の大きな家に皆が集まる。高齢のお婆さんが嬉しそうに我々を迎える。ここでも学生達は言葉が通じなくても、心を通じさせようとしていた。道では子供達とシャボン玉で遊ぶ。ここでも皆が笑顔になる。

帰りの道は心地よく眠りに着いた。だがある街を通過した時、事件が起こった。相当人が集まっていた道沿いで、バスが前方を塞がれてしまう。どうするのかと思っていると、突然前のバスの運転手と通行人の一人が大声で口論を始める。どうやら動いたバスに体が触れたようなのだが、それにしては相当の勢いだ。

そして怒った通行人の若者はバスに向かった石の塊を投げた。ところがその石の塊は目標をそれて何と我々のバスを直撃。幸い大事にはならなかったものの、窓ガラスでも割れればけが人が出たかもしれない。バスの運転手は一瞬で立ち上がり、外へ飛び出していった。多くの群衆がいる中では身動きも出来ず、石を投げた若者を捕まえることもできず、戻ってきた。

もし若者と乱闘にでもなっていれば、我々の帰路も不安となっていた。最悪の事態は免れたが、こういう時は学生と一緒なので少し心配になる。学生達は何が起こったのかもわからず、ただただ事態を眺めるのみ。何と3時間ほどでコックスバザールに辿りつく。

夜は明日の運動会の打ち合わせ。今日の問題点を確認し合い、何とか自分達で異国の小学生をまとめ上げ、運動会を成功させようと夜遅くまで真剣な討議が続いた。果たして結果はどうなるのだろうか。

 

 

バングラディシュ・スタディツアー2011(7)マングローブの植樹をするも

ビーマン航空オフィスはダラダラと

途中まで見学して学校を抜け出す。Sさんとラジョウと3人でビーマンバングラディシュ航空のオフィスへ向かう。オフィスは海外沿いにある。基本的に飛行機に乗るような人は、ビーチ観光に来て、高級ホテルに泊まる人だからだろう。

中に入ると殆どお客は居らず、職員もお休みモード。昔中国であった嫌なムードを感じる。お客と航空会社の立場が逆転している。お客が載せて頂くのである。先ずは全員の帰りのリコンファーム。既に多くの国で無くなっているリコンファームであるが、未だ何が起こるか分からないこの国では必須のようだ。十数人分ということで、長い時間を要する。PCはあるのだが、作業効率が恐ろしくノロい。

そしてそれが終わってようやく、私の要件。例の無くなったバッグの確認だ。既にバンコックの旅行社の人がタイエアーにコンタクト済みで、バッグは何と、パリへ行き、パリからタイエアーでドバイに運ばれ、チッタゴンへの便が無いタイエアーはアラビア航空という航空会社に委託して、ドバイ‐チッタゴンを飛ばしているという。一昨日にはチッタゴンへ到着との連絡であった。

しかし、このコックスバザールのオフィスではまるで難を避けるように誰も取り合おうとはしない。確かに空港はチッタゴンにあるが、同じ航空会社だろう、などと言ってみても始まらない。ラジョウがバングラ語で、Sさんと私は英語で何度も訴え、ようやく、職員がチッタゴン空港へ電話したが、誰も出ないということで、その電話番号を渡され、ジ・エンド。バッグの行方は要して知れず、帰国する際、空港での拾い上げる、一発勝負となった。

(9)    五日目午後   クラクシ村へ

航空会社から戻ると、授業は終わっていた。学生達もホッとしたように和やかになっていた。子供達も更に打ち解けて来ていた。やはり1回限りの訪問ではダメ、毎日通って少しずつ成果が出て来るようだ。

昼はクラクシ村へ行くという。もう一つのボランティア、川にマングローブを植えるという活動だ。またオートリキシャーで行く。村の外れのお寺へ入る。外は結構暑いのだが、お寺の中は涼しい。

ここでもお昼が振舞われる。学生達は積極的に食事の用意を手伝っていた。食事は美味しかった。最近食べ過ぎだと感じる。この村には見事は水田が広がっていた。何とも懐かしい光景だ。その向こうに川があり、魚を取る小舟が浮かんでいる。何とも癒される風景だ。

そしてマングローブの植樹が始まる。午後の日差しは思いのほか強く、また川の中を歩くのはかなりの体力を要するようで、学生達は苦戦する。それでもラジョウに先導され、徐々に川に慣れ、植えていく。

この活動、去年も行われたようだが、実は植えたマングローブは殆ど育っていなかった。植えるのも大変だが、その後の管理はもっと大変なのだろう。日本のODAは導入はするが管理はしない、と言われ、実は評判良いとは言えない。この企画も管理を考えないとまさに根付かない。自己満足に終わる可能性が高い。地元の人々も、まるで何かの出し物を見物するように、河川敷に集まり、見ているだけ。因みに私も傍観者。

活動が終了し、お寺に戻り、足を洗う。地元の少女が一生懸命、水を汲んできて渡す。彼女達はこの活動をどう見ているのだろうか。聞いてみたが、言葉が通じない。お互い笑顔を送るだけ。先日訪れた村もそうだったが、郊外には自然が残り、素朴な人々が暮らしている。我々が本当にすべきことは何か、考えさせられる。

ネットカフェ

村から戻り、休息。何となくボーっとしていると、やはりメールチェックはしてみたくなる。ネット病だろうか。ある意味で現在の状況は世の中から隔離されている。基本的にはそれでよい、いやむしろそうあるべきなのだが、時々応対が必要なメールも来るので、仕方がない。

それで思い出したのが、先生の家からお寺に行く途中にあった『ネットカフェ』。名称は『Google Cyber Café』というから凄い。英語も通じそうだ。PCを持って行って見ることにした。

この店には3台のPCが置かれ、小さな個室になっていた。何を見ているか知られないような配慮か。オーナーは英語が出来、会話した。最近バングラディシュ、コックスバザールでもインターネットの普及が著しい。若者はPCへの抵抗もなく、高校生などが良く来ているという。1時間25タカの料金が高いかどうかわからないが、実際にPC3台は高校生に占拠されていた。

一体何を見ているのかと気になってちょっと覗いてみると、何と2組はFacebookだった。かなりの高校生がアカウントを持っているらしい。盛んにアップし、盛んに書き込みしていた。アラブの春、などと言われたFacebook革命、ここバングラにも届いているようだ。

ところで私のPCを接続してみたが、全て文字化けとなる。何度やっても駄目だ。分かったことは日本語を読むためにはソフトを入れないといけないのだが、その金額が50ドルぐらいする。これでは誰も入れない。バンコックあたりでソフトを買ってきて、導入すべきだが、今はどうにもならない。結局メールチェックできずにトボトボ帰宅する。

ハローウイン?

夕飯を頂く。今日はエビの煮つけが出た。いよいよ日本食に近づいている感じがする。ご飯を一緒に食べると食が進むし、日本を思い出す。

外が何だか騒がしい。真っ暗な中、子供達が何人かやって来て、口々に何か叫んでいる。先生の奥さんがその子達に何やらお菓子を渡している。子供達は嬉しそうに受け取り、また別の家に向かう。

これって、西洋ではハローウインじゃないのか。香港に住んでいた時、ハローウインは恐怖だった。団地の子供という子供が家のベルを鳴らして、押し寄せてきた。当日外出したり、居留守を使ったり、日本人はまじめだから大変だった。

何かラカインのお祭りと関係があるのだろうが、説明を受けることが出来ず、事情は分からない。それでも偶然、このような行事が見られることはラッキーなのだろう。

バングラディシュ・スタディツアー2011(6)運動会の準備をしたが

ライスマーケット

帰りは歩いて。メイン通りの一本北側を歩いていると、ライスマーケットに通じていた。ライスマーケットと言っても、米屋が並んでいるだけではある。しかしそのコメの種類が多いこと、そして我々にはとても区別できないが、かなりきめ細かく等級などが分かれていること、が面白い。

店先にはカップに盛られた米が並んでいる。お客はこのコメを眺め、触り、そして品定めを行うのだろう。米を入れた袋はジュートなのだろうか。私は自分が何も知らないことを少し恥じた。しかし我々が現在生きている世界では、既に何も知らなくても生きて行けるし、エコなどと言われても、あまり理解しようとしなくなっている。

コックスバザールの街は非常にシンプルで落ち着いていた。まだ車もそれほど走っておらず、空気がゆったりと流れている。カラフルな幌を付けたリキシャーが行く。そんな中に、真新しい建物も出て来た。何とベンツの代理店も兼ねている。この街にも嵐がそこまで来ている。

校庭整備

夕方4時に集合して、学校前の校庭を整備する。学校との交流イベントとして、運動会を開催することにしたのだ。ここはある程度の広さがあるが、砂と土が入り混じり、髙さも一定ではなく、運動会をするには、整備が必要。またゴミも大量に落ちている。

ラジョウがどこからから鍬を借りて来て、多少平らになる。大量のごみを丹念に集め、火を点けて燃やす。一部の学生及び地元の子供たちは火が点いている上に土砂を投げ込むため、火が何度も消える。焚き火の経験はないのだろうか。

この一連の行為を遠巻きに地元民は見ている。大半は学校と関係ないイスラム系だと思うが、何だか不思議な感じ。日本から来た人間がごみを拾い、地元民がそれを眺める。これがボランティアと言うものだろうか。子供たちは遊び半分に見よう見まねで参加するが、大人が行動を起こすことは少ない。

学校の先生では我が家の家主ただ一人が作業に参加している。そんなものだろうか。疑問を呈せざるを得ない。作業は暗くなるまで続いた。

その夜学生は明日の準備、我々は昨晩同様反省会を屋上で行った。

11月10日(木)   (1)   五日目午前

ラカインの祭り

翌朝も快晴だった。普通同じ場所に数日居ると飽きて来るのだが、ここはなかなか居心地が良い。それは先生一家の献身的なサポート、日本の大学生の積極性、そして何より日々起こる変化のなせる技だろう。

今日も朝は学校でのボランティア活動。いつものようにお寺に行くと、様子が違っていた。大勢の人がいて、飾り付けがなされていた。先日はイスラムのお祭りであったが、今回はラカインのお祭りらしい。独特の雰囲気がある。

通りの方から人々が歩いてくる。よく見ると先ずは若者男子がやってきた。造花に飾りのお札が付けられた物を持っている。供え物だろう。ミャンマーでも見られるロンジーを穿いている。Tシャツにジーンズというラフなスタイルもいる。

次に若い女性たちがやってきた。こちらはほぼ統一されており、白いブラウスに黒っぽいロンジー、肩から胸にかけて、布が掛かっていた。手には供え物として、布や飾り物を持っている。そして子供たち、女の子がやってくる。お姐さん達と同じ格好の子もいれば、洋服の子もいる。何とも可愛らしい。

このお祭りがどのような意味を持っているかは聞き漏れたが、何とも素朴な雰囲気が良かった。

学校② 体育授業の意味は

学校へ行く。2回目のこともあり、子供達も笑顔で迎えてくれる。学生は2-3人ずつに分かれて教室に入り、日本語を教えるなど、何らかの活動を開始。いい雰囲気になってきたが、未だに子供達に戸惑いが見える。

外では大縄跳びが始まった。日本では小学校などでやっているので違和感がないが、説明を受けた女の子たちは怯えて動かない。学生が見本を見せると、なるほどという顔をしたが、いざ自分がやるとリズムも取れないし、縄が当たるのでやりたがらない。この種目は運動会では使えない。

校庭では一列に並んで、走る練習。こちらは比較的スムーズ。しかしこの地の学校には体育の授業はあるのだろうか。運動会企画はどうなるのだろうか。体育の授業などなくても、皆外で楽しく遊んでいるのだろうに。運動を教えるとはどういう意味があるのか、今まで使っていない身体機能を使うことを促すのだろうか。その後は寄贈したサッカーボールを持ち出し、男子チームが炎天下で大活躍。