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ビエンチャンの歌姫に会いに行く2012(3)歌姫ノイに劇的に再会して

3.ノイプロジェクト  大発表会

夜はホテル近くにある文化会館へ行く。日本の某自治体の人々がノイを訪ねる。ところがノイは仕掛けていた。ただの交流ではなく、子供達が舞台に立つ一大イベントに仕上げてしまったのだ。それも訪問者には全く知らせることもなく。前日街を歩いていると、ノイの仕掛けたイベントの宣伝が張られていた。これは単に日本人の為のイベントではない。どうなるんだろうか、何だかワクワクする。

文化会館は実に立派な建物だった。2001年、中国の支援で建造されたとある。こういう所がしっかりと目立つ。中に入ると人が集まり始めている。その中に日本人の一団がいて、合流する。私は全く無関係だと思っていたが、何とその一団は私が通った学校のあった場所から来ていた。中にはその学校の先生だった人のお姉さんまで居た。やはりご縁はある、ということで溶け込む。

会場は広い、1000人以上は入れるだろう。そこに徐々に人が入り、席が埋まって行く。だが定刻が過ぎても始まる気配はない。その内に元大臣の一団が登場し、メイン席に座る。それから大分経って幕が開いたから、中では色々とあったのではないか。

そしていよいよパフォーマンスが始まる。初めはラオスの民謡、そしてお祈りなどもあった。歌って、踊って。それはとても障害を持つ子供達のものとは思えなかった。ノイを中心に、数歳から十数歳までの子達が、一生懸命歌う、踊る。これにはちょっと感動した。こんな大きな舞台で、普通の子でも上手く出来ないことが多いだろうに。いや、この舞台に立ってしまえば、障害も何も関係がない、ということだろう。「音楽と踊りで障害を克服する」、ノイのアイデアは確実に成果を上げていた。

初めは1時間ぐらいかと思っていたが、様々な出し物があり、何と終わったのは10時近かった。最初の予定も大幅にオーバーしていた。それでも子供達は溌剌としていた。ノイの活動が向上していることが十分に分かった。

11月4日(日)  ホテル移動

興奮冷めやらぬ翌日。今日はノイの学校を訪ねる予定になっていた。だが今日からASEMのデレゲーションがビエンチャン入り。野田首相も温家宝総理もやってくる。ということで、狭いビエンチャンは大騒ぎ。ホテルはどこも満室で、私の泊まっているホテルでも、今晩の宿泊は断られてしまった。そこで、最近ビエンチャンの行った台北のHさん情報で、「きれいな庭で朝ごはんが食べられるプチホテル」に移動することとなった。ここは文化会館を挟んで反対側。歩いて移動する。

確かに庭は素晴らしい。だが部屋はこれまでよりかなり劣った。ASEMメンバーもここまでは来なかったわけだ。明日バンコックに戻る方法を相談したが、何故か要領を得ない。結局分かったことは、「ホテルで頼むと手数料が高いから自分でやった方が良い」ということ。なかなか親切だった。

街に出る。河沿いを歩いていると、先日発見できなかった遼寧餃子館があった。場所を移転していたのだ。店には中国語が出来るウエートレスが一人いた。水餃子と野菜炒めを頼む。中国人観光客も来るようだが、お客は地元の華人が多いとか。バンコックの店の関連などを尋ねたが、オーナーしか分から無いとのことだった。

再び空港への道へ出る。今日は昨日と異なり、30mおきに兵士が銃を持って警備に当たっていた。もうすぐ野田首相がここを通るらしい。何だか北京の警戒態勢を思い出すが、暑いせいか椅子に座っている人もいて、まだまだのんびりしていた。

迷子になる

6年前に訪ねたノイの学校。その時は車で連れて行ってもらったので、うっすらとしか記憶がない。バーンタオ氏からもらった住所を頼りに歩く。ホテルで聞いても、主な目印だけを教えられ、後はそこで聞くしかないと言われていた。

厳戒態勢の大通りから一歩入ると、そこは田舎の風景。のんびりと歩いて行き、その辺の店で聞いてみたが、要領を得ない。また別の道を行く。どうしても思い当たる風景に出合わない。約束時間は2時。かなり余裕を持って出たものの、時間はどんどん過ぎていく。流石に焦りが出る。

1軒の店の女性は英語が出来たので話を聞くと「この村は広いのよ。これだけの情報ではとても行き着けない」と電話してくれたが、何とその電話番号は既に使われていなかった。一体どうなっているんだ。最後の手段として、今回日本からの一団を率いているYさんの携帯に電話するも誰も出なかった。これで完全に道は絶たれた。途方に暮れる、とはこのことだ。

やはり最初からタクシーに乗ってくれば良かった、と思っていると、何故か目の前にタクシーがやって来たので乗り込み、また住所を差し出してみる。運転手も携帯でどこかへ問い合わせてくれたが、首を振り、万策尽きる。取り敢えずホテルへ帰って出直すか、と車が動き出した瞬間、携帯が鳴る。Yさんからだった。後は運転手が場所を聞き、連れていってくれた。私が思っていたのとは全く違う場所だった。何と学校の場所は移転していたのだ。やはりご縁のある時は辿り着くものだ。ただ私の行動は無謀過ぎたかもしれない。

ノイの学校

学校はかなり立派になっていた。3階建てで屋上まである。屋上にはステージまであって、そこに集合した。子供達が現在の生活や学校の状況を説明してくれた。驚いたことに多くの子供達がかなり遠くから、しかも通常の学校が終わってから通ってきていた。ノイは言っていた。「どうしても寄宿舎付きの学校が欲しい」、その通りだと思う。障害のある子が遠くからやってくる、その困難さと必要さが痛感された。

ノイを支えているお坊さんたちも話をしてくれた。このような活動は一人ではできない。支えが必要だ。そこにお坊さんがいる、これも今や日本には既にない。羨ましいほどの信頼関係、フレッシュな若いお坊さんたち、いいな。

1階でお坊さんたちの祈祷があり、セレモニーがあった。昨日の緊張感とは打って変わった晴れやかなパフォーマンスだった。やがてみんなで踊り出す。ゲストも誘われ、踊り出す。面白い。

実はここには日本人以外にもノイの支援者として、シンガポール、マレーシアの実業家、タイのボランティア青年なども来ていた。彼女の活動は他の東南アジアの人々にも受け入れられている。特にタイの青年たちは黙々と裏方を務めていた。実にシャイ。好ましい。私はシンガポール、マレーシアの華人たちと中国語で会話していた。彼らも日本人と中国語を話す機会は少ないようで好奇心を持っていた。

そしてお開きに。実はそれまで私はノイに挨拶していなかった。彼女は忙し過ぎたのだ。最後に挨拶すると「ちょっと待って」と言って、私を彼女の車に押し込んだ。日本人支援者達もミニバスで同じ方向へ向かう。車内で彼女は最近の状況を説明し始める。どうしても200人以上が入る新しい学校が必要だ、と力説した。

そして何と新学校建設予定地に案内された。ここはお母さんの土地だという。私財を投げうち、プロジェクトを進めようとしている。そのパワーはすごい。子供達の機能が向上していく喜び、これは何物にも代えがたいようだ。誰か支援してくれる人を探さなければならない。

インタビュー

そして再度学校に戻った。何と子供達にインタビューする機会を与えてくれた。子供たちは口々に言った。「ここに来られて幸せです」と。有名な歌手であり、ラジオのDJ、そしてミスビエンチャンでもある憧れのノイに会うだけでも幸せなのに、自分たちのことを心配し、一緒に歌ったり踊ったりしてくれる。そして自分達に自信がついてくる。昨晩の大舞台も相当緊張したが、楽しかった、嬉しかったという。ノイに対する感謝を口にする彼ら彼女ら。その声には「自分を理解してくれる人がいる」という喜びがあるようだ。

スタッフにも話を聞いてみた。やはり「子供達の成長が実感できる喜び」が大きいようだ。この学校は決して皆に支持されている訳ではない。誤解している人も多いという。そんな逆風の下でも支援できるのは、子供がそれを必要としているからだろう。生まれ落ち時、決して恵まれていなかった子らが、頑張っている姿は素晴らしいとも言う。

こどもの親はどうだろうか。「昨晩の舞台を見て、一家で泣きました。あの引っ込み思案で何もできないと思っていた子が、あんなに大勢の人の前で堂々と大きな声を出していた。信じられない。喜びで胸が張り裂けそうだった」とあるお母さんが言う。そして「生まれた時に障害があると分かると、誰もこの子を理解できなかった。最初はこの学校に連れて来るのも父親は反対した。諦めていたんです。でも・・・、無理して連れて来てよかった」と。

更には「この学校にはとても感謝しているが、自分達には支援するだけの余裕はありません。何とか寄宿舎を作ってくれれば、自分の子供も楽になるし、他の障害児たちの助けになると思います」と支援への期待を話す。

コラム:   http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5327

既に日が沈んでいた。自分は無力だな、と思いながら、ノイの学校を後にした。






ビエンチャンの歌姫に会いに行く2012(2)中国市場

2.ビエンチャン  居心地の良いホテル

2人は適当な所で降りてしまった。私はトゥクトゥクの運転手に予約したホテルの住所を渡していたが、彼もよく分からないようで、その辺で降ろされる。まあ、まだ昼間だし良いか。すると運転手が、看板を指す。言われた方を曲がるとその路地にプチホテルがあった。

かなりきれいなホテルで驚く。土足厳禁。フロントの対応も実に丁寧。1泊35ドル、朝食付き。これは当たりのホテルだ。2階の部屋も広く、ベッドも大きく、シックな雰囲気。WIFIも繋がる。これは快適だ。夜行の疲れが出て、暫し横になる。

このホテル、実に心地よい何かがある。夜も静かだし、翌朝も鳥の囀りで起き、朝食も美味しかった。ロビーのソファーにボーっと座っていると、完全に時を忘れてしまう。ラオスの時間はこのように流れる。

外に出ると日差しが強かった。取り敢えず腹が減ったので、ランチへ。地図で見ると遼寧餃子館という文字があり、そこへ向かう。このお店、恐らくはバンコックにある餃子屋の支店だろう。中国系であることは間違いなく、ビエンチャンを知る取っ掛かりになると思った。

だが、いくら探してもその店は無かった。ようやく看板を見付けたが、店は移転したらしかった。ところがその文字が読めない。完全に手掛かりを失った。仕方なく、その辺で鶏ご飯を食べた。これも安くて美味かった。6年前にガイドといった店に雰囲気がとても似ていた。

焼き鳥

その後、旧市内を歩き回ったが、6年前と殆ど変化が無かった。アジアの各都市、特に首都はプノンペン、ヤンゴンなどどこも大きな変化を遂げているが、ここビエンチャンは違っていた。これはどうしたことだろうか。欧米人の観光客に混ざり、中国人や韓国人も見られるが、その数も多いとは言い難い。

ホテルに戻り、ベッドの横になると、そのまま寝入ってしまった。夜行列車の疲れはかなりあったのだ。ここは癒しの空間というやつだろうか。すっかり辺りが暗くなるまで熟睡した。

夕飯を食べようと外へ出た。爽やかな風が吹いて気持ちが良い。あまりお腹が空いてはいなかったので、麺を食べる。その辺の食堂に入り、「メン」というと麺が出てくる。これはタイ、カンボジア、ラオスどこでも共通で実に都合がよい。家族経営のようで何となく微笑ましい。

それにしてもビエンチャンの夜は暗い。街を歩いていても、相当昔のアジアのイメージがある。所々にきれいなバー屋カフェが見えるが、欧米人向けだろう。何とも素朴な街だと言える。河沿いも観光客が歩いているが、やはり暗い。

フードコートのような場所があり、店先で鶏を焼いていた。ビエンチャンと言えば、ガイヤーンを思い出し、そうすると何故か無性に食べたくなる。ここにはフランス人のオジサンがおり、欧米人に愛想を振りまく。私はビールも飲まず、ひたすら立派な、そしてジューシーな焼き鳥を頬張る。実に幸せな夜となった。

11月3日(土)  Mさん

翌日ホテルで朝ごはんを食べ、午前中は部屋でネットを触って過ごす。私は常に旅をしているので、旅先と言えども時々メール処理や原稿を書く時間が必要である。その場合、その環境で処理能力が大きく異なる。今回はどんどん処理が進む。嬉しい。

あっと言う間にお昼になる。外は日差しが強い。ホテルロビーでMさんが待っていた。彼はビエンチャン在住10年の日本人。この街では貴重な日本人だろう。色々とビエンチャン事情を聴く。ビエンチャンも旧市内は保存地区のような状況だが、郊外には新しいビルが建っており、それなりに発展しているようだ。中国からの投資も活発だが、ラオス政府は支援は貰うものの、ベトナム、タイとの関係、更にはアメリカも含めて、上手い外交のかじ取りを迫られている。今回開かれるASEMがその舞台になるだろう(Mさんも日本のマスコミの取材に付き合うため、明日からは忙しいようだ)。

ホテル近くのフランス料理屋でピザなどを食べる。フランスパンが美味しい。ビエンチャンと言えば、安くて美味しいフレンチのイメージもある。緑茶を頼んだが、ティバッグ。かなり薄めの雰囲気がフランス人的には良いようだ。ここに住んでしまうと、バンコックなどガチャガチャした街は落ち着かないだろうなと思う。

茶館

Mさんに教えられた中国茶館へ行って見る。ここは旧市内の外れ、空港から市内への大きな道沿いに面している。看板に漢字もあり、期待が持てる。店内にはお茶道具もあり、本格的な茶館のイメージがある。

だが、基本的にお茶だけを飲みに来る人は稀で、中国料理を食べるレストランであるようだ。茶葉は台湾産などと書かれた物があり、オーナーは台湾人だと聞かされるも、彼女は今ビエンチャンには居ないとのこと。片言の英語しか通じずに(中国語は出来ない)、あまり意味のある会話にはならなかった。

ラオスで一般の人が飲むお茶は、コーヒーを飲む場所でポットに入っている渋めの緑茶(無料)ぐらい。なかなか商売は難しいだろうが、この店は道楽なのだろうか。

中国市場

更に空港の方向に歩いて行く。茶館の北には中国市場という中国製品の市場があるが、空港近くに新たに新中国市場が出来たらしい。歩くと結構あるが、途中には中国料理屋の看板がいくつか見えた。中国人の流入がかなり多いことが分かる。また建材屋などの看板には大きな文字で漢字が書かれている。Mさんによれば、政府はあまり漢字の看板が目立つのを良く思っていないようだが、商売上必要があればやむを得ない。それ程、中国の影響力が強まっているということだろうか。

かなり空港に近い場所に新市場はあった。規模は相当に大きい。だが、人は殆ど歩いていなかった。そして店舗も埋まっていなかった。看板には「昆明、南寧、広州⇔ビエンチャン」という表示があり、バスなどで繋がっていることは分かる。

店舗には中国製の雑貨類が多く置かれていた。傘やビニールなど中国製品はアジアで最も安くて質もまあまあ。ラオスのような国にはドーッと商品が流れ込んでいる。中国の存在感は道路や橋などの経済支援と、このような日用品の両面からなされている。

三江国際商場と書かれた大きな建物もあった。中に入ると驚いたことにラオスの民族衣装から日本人形まで並んでいた。中国は何でも作っているという印象と同時に何故ラオスに持ち込まれているのか、実に不思議であった。

帰りは川沿いを歩いてきた。まだ日が高かったが、西に傾く様子はなかなか良かった。近所の子供達が屈託なく遊んでいた。

 

ビエンチャンの歌姫に会いに行く2012(1) 列車でビエンチャンへ

《ビエンチャン散歩》  2012年11月2-5日

2006年にラオスのビエンチャンへ行ったことがある。あれはバーンタオ氏に「行ってみたい」と行った所、「それじゃあ、ボランティアしてください」と言われ、ノートと鉛筆を担いで行った。あのノイちゃんはどうしているのだろうか。何となく、気にはなっていたが、その後行く機会もなく、ノイプロジェクトの消息も分からなかった。

バンコックに滞在を始めた時、バーンタオ氏より「日本のある自治体の人々がノイに会いに行くらしい」との情報を得て、俄然行って見たくなる。ちょうど中国・日本の旅からバンコックに戻り、スリランカへ行く間がぽっかり空いていた。これは行くしかない、が予定は良く分からない。

11月1日(木)   ビエンチャンへ   タイ国鉄の夜行列車

前回はバンコックから飛行機に乗ったので、今回は列車で行って見ることにした。ただ経験者からは「鉄道は遅れるからやめた方が良い」などと言われる。タイのような国の国鉄がそんなに遅れるわけがない、完全な思い込みである。2日前にファランポーン駅へ出向き、ノンカイ行きチケットを購入。混んでいるとは聞いていたが、案の定、寝台車の下のベッドは売り切れていたので、上段を取る。エアコン付にしたら、688バーツだった。

当日MRTでファランポーン駅へ。駅内で麺を食べて気分を出す。沢木耕太郎はここで7歳ぐらいの少年と出会い、その清々しい姿勢に感動していたと思う。しかしこの駅は改札が無い。ホームへの入場は全く自由だ。40分前に行って見たが、列車は入線していなかった。何だか既に嫌な予感が。それでも20分前には無事入ってきて、乗客も乗り込み、定時近くに出発かと思ったが。やはり・・20分は遅れた。夜のバンコックの街を走るといれば聞こえが良いが、暗闇をあまりにもゆっくりと行く。どうなっているのか、まるで交通状態の様相を呈している。ドムアン空港横の駅まで1時間半ぐらい掛かった。先が思いやられる。

あまりにやることが無いので食堂車を覗く。何人かがビールを飲んでいる。私はちょっとお腹が空いたので、野菜炒めとご飯を貰う。これで100バーツは高い。食堂車の従業員は家族かな。英語も出来て、会話も出来た。でも意外と忙しい。兎に角売り上げを上げないといけないらしい。飲み物のオーダーなどをひっきりなしに取ってては客車に運んでいく。

出発当初は座席となっていた下の段、車掌さんが来て、順次寝る準備に入った。先ずは上の段にシーツを敷き、枕を置く。下の段も椅子をたたみ、ベッドに。実に手際が良い。このスピードがあれば、列車は遅れないはずだが。本当にやることが無くて、寝る。ところが上の段は結構狭い上に、クーラーが効いていてかなり寒い。一応パジャマを持って来たので着込むがそれでも足が冷える。困った。列車の走行音も良い影響を与えず、眠りは凄く浅くなる。この季節はクーラーなしの車両を選択するのがよい。欧米人でもクーラーを嫌って、かつ安い車両に結構人がいた。失敗した。

11月2日(金)

この列車の所要時間はバンコックからタイとラオスの国境であるノンカイまで12時間。夜8時に出て、朝8時に着くはずである。ところが朝6時頃起き上がっても、一向に着く気配がない。というか、車内放送は全てタイ語で全く分からない。私はラオスのガイドブックは持っていたが、タイの物は持っていなかったので、地名が分かっても今どのあたりは分からない。まあ、終点まで行くのだから気にすることはない。

食堂車で朝飯を食う。カオトーン、にんにくの効いたお粥、雑炊?これはどこで食べても美味い。車窓から朝日を眺めながら食うとまた格別である。食堂車ではトーストやサンドイッチとコーヒー、紅茶のデリバリーが忙しい。皆、自分の席で食べているらしい。席に戻ると寝床はきれいに片づけられ、座席になっていた。

朝8時になったが、今どの辺だろうか。東京なら「ただ今3分遅れています。誠に申し訳ありません」などいう放送が流れるが、ここでは釈明も無ければ、勿論謝罪などない。皆、黙々と目的地到着を待っている。斜め向かいの爺さんが時々笑顔を送って来るが、何しろ言葉が通じない。それ以上進展しない。

ノンサット、という駅名が見えた。ノンカイに近いのかと思ったが、まだまだ列車は水田地帯を走る。ようやくウドンタニという駅名が見え、大勢が降りていく。どうやらもうすぐのようだ。最後に座席車両を見学したが、この固い椅子で10数時間はきつそうだった。

ついにノンカイに着いた。時刻は午前11時40分、実に16時間近くが経過していた。遥々来たな、そんな田舎の風景があった。

たった15分の国際列車

乗客は待ちかねたように急いで降りていった。隣の爺さんも笑顔で出て行った。そして殆どの人が駅の外へ足早に出る。そこからトゥクトゥクに乗って国境を越えるらしい。私は周囲を見渡した。そこにはわずか2両の列車が見えた。これだ、私の乗るものは。駅舎の中にチケット売り場があった。2等車30バーツ、3等車20バーツの表示があったが、どう見てもそんな区別はない。20バーツ払う。そしてイミグレを通過。ただの改札を通るような感覚で、タイを出国した。

実は旅行作家のSさんから以前話を聞いていた。「たった15分の国際列車」この列車はバンコックから来る列車の乗客の為だけに運行されている。だから、列車が4時間遅れれば4時間待つ。Sさんは態々別ルートでノンカイに入り、朝から駅のベンチでこの列車を待ったが、その時は6時間遅れだったという。笑えない取材だ。

列車はとても国際列車とは思えない車両。昔の日本の私鉄を思わせる。乗客は大きなバックを背負った欧米人ばかり。この列車の価値を見出す人々である。そして全員のイミグレ通過を待ってようやく発車する。何ともローカルな国際列車。

すぐに川を渡り、国境を越えたことが分かる。タイもラオスも長閑な農業国。線路脇に結構きれいな住居がある。国境貿易で儲けたのか、それともタイからの投資か。ビエンチャンで開かれるASEM歓迎の看板が出ている。こんな所から入る代表団もいないと思うのだが。そんなことを考えていると、もう列車はブレーキを掛けた。何とも呆気ない旅だった。

全員がホームへ降りる。欧米人がビザ申請書を受け取り、書き始める。私も申請用紙を貰おうと思ったが、係官が「お前は日本人か、それならあっちいけ」と素っ気ない。仕方なくあっちに行くと、いきなり入国スタンプを押され、解放される。何と日本人はビザ不要となっていた。そんなことも知らないでやって来てしまっていたのだ。

この何もない駅からビエンチャン市内へはどうやって行くのか、全く分からない。しかし出口に付近にテーブルが出ており、看板にはビエンチャンまで車で400バーツと書かれている。何でそんなに高いのだ、完全に旅人の足元を見ている。何とかしたかったがどうにもならない。とそこへ、若い男女がやって来た。同じように困っていた。そうか3人で借りよう、ということになり、結局一人100バーツでトゥクトゥクをゲット。

ベトナム人の女性とフィリピン人の男性。ラオスでは日本などの他、アセアン諸国にはビザを免除しているらしい。ようするに我々3人だけがアジア人、残りの乗客は欧米人だったことが分かる。何となく愉快な気分になり、風に吹かれながら、旅を楽しむ。ノービザの3人、これはいい出会いだった。




チェンマイ散策2011(3)インドのご縁でロングステイヤーの家へ

3. チェンマイ2    再会

ランプーンからチェンマイ市内へ戻る。バーンタオ氏に車で送ってもらい、待ち合わせの某ホテルへ。先に着いてしまったので、ホテルで50バーツを払い、Wifiのパスワードをゲット。ロビーのデスクで電源を繋ぎ、メールをチェック。気が付くと農園にいた2日間、ネットに接続することはなかった。急に現実に引き戻された思い。

ロビーでPCを触っていると声を掛けられた。待ち合わせをしたTさんだ。このTさんとの出会いもまさにご縁。7月にインドのラダックに行った時、ある寺院で偶然出会い、少し話をしたそれだけなのだ。社交辞令のように『もしチェンマイに来ることがあれば連絡して』と言われ、そして連絡してしまったのだ。日本国内では先ずない。http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4504

Tさんは私と同じ50歳で会社を辞め、チェンマイでロングステイを実施している。元々はアメリカで働いていたというから、タイにはご縁があったのだろう。奥さんもタイ人。ラダックでもお寺で熱心にお祈りしていたし、チェンマイへ来てね、と熱心に誘ってもくれた。

グランドビューホテルでビュッフェランチをご馳走になる。和洋中、何でも食べられる。このような食事には自然と反応してしまう。デザートのケーキやアイスには特に反応してしまうので、困る。店内はクリスマス休暇なのか、大勢の人々で満員。そういえば、この時期はホテルも満員か高いようで、Tさんは『家に泊まって行けば』と言ってくれる。たった一度の短いご縁だが、これは嬉しい。

ロングステイヤーの暮らし

Tさんの車に乗せてもらい、チェンマイ郊外へ。市内中心部からは4㎞という住宅街にTさんの家はあった。チェンマイに来て10年弱、ロングステイして5年で、ここに家を建てて永住を決意したという。

その家には大きな庭があり、様々な草花の他、ミカンなどの果物の木、野菜を植える小さな農園まであり、非常に豊かだ。そして平屋の家屋には広いリビングルーム、2つのベッドルームがあり、何と外から丸見えの自慢のバスルームまである。快適な空間がそこにあった。

チェンマイは物価も安いし、バンコックのように暑くもない。テレビは日本のテレビを見ることもできるし、仲間とゴルフもできるし、車も持てる。年に2-3回はアジアの山々、秘境を訪ね歩き、写真を撮る旅もしている。言うことはない。日本に居るよりよほど快適であり、日本であくせく暮らすぐらいなら、チェンマイに永住した方がよほど良い、Tさんは言う。

50歳でリタイア‐したTさん。勿論退職金など資産は人より多いかもしれないが、殆ど働かず、家も建て、楽に暮らしている。この姿を見ると、生き方の幅を実感する。夕方、Tさんが簡単な鍋料理を作ってくれた。新鮮な野菜などを入れ、日本のポン酢で食べる。シンプルなこの料理がTさんの生活を表している。

お金でアジアをエンジョイするのか

夜7時にチェンマイ市内で待ち合わせがあるというとTさんは車で送ってくれた。その上、2時間ほど市内で時間を潰し、私をピックアップして、自宅を連れて行ってくれた。大変申し訳ない思いだが、確かに自力でTさん宅へ戻ることは出来ないので、お言葉に甘える。

待ち合わせたのは、元勤め先の後輩N君。ちょうど旅行でチェンマイに来ていたN君と日程がぴたりと合ったので、会うことにした。東京在住なので、東京で会えばよいのだが、これも何かのご縁。今回チェンマイ市内を見ることもなかったので散歩がてら行く。

マクドナルドの前で待ち合わせ。良く見るとドナルド人形がワイしている。ワイとは合掌のこと。これはタイならではないか。バンコックも同じ仕草だろうか。

N君はチェンマイに慣れていた。何度も来ているようだ。彼は元勤め先に内定した時、香港に旅行に来て、私が勤務していた香港支店に寄った。その後会うこともなく、過ぎたが、いつの間にかお互い勤務先を辞め、彼は転職した。でも出来ればアジアで働きたいという。私は月並みなことを口にした。『アジアはいい所だが、給料は安い。日本の給料でアジアを旅するから、良く見えるのかもしれない。もう一度よく考えてから、アジアの職を選ぶのが良い』と。

しかし話している自分に違和感も持った。お金を持って初めてエンジョイできるアジアは、本物ではあるまい。それでもいざとなるとお金でアジアをエンジョイしてしまう、この発想は実に危険だ。

N君は何度か来たという焼き鳥の店に連れて行ってくれた。地元の人が行く店に見えたが、メニューに日本語も書かれている。だが英語は片言しか通じない。N君は店の人とも顔なじみのようで、スムーズにオーダーしていく。チェンマイで触れ合う、それがアジアをエンジョイすることなのだろう。少し考えた。

朝ごはん

前日はTさんの家のリビングで寝かせてもらった。ソファーがベッドになる。夜は結構涼しいチェンマイ、これもまたいい体験だった。無駄なお金を使う必要はない、というTさんの言葉にロングステイの一つの形を見た。そしてそれを私に提供してくれ、教えてくれたことに感謝したい。

朝は日の出と共に起き、庭を散歩する。Tさんの奥さんは昨日も庭に水をやり、今朝もケアーしている。私は口では自然と共に生きる、などと言うこともあるが、実は自然と共に生きたことが無く、庭いじりすらしたことはない。今後農作業を含めて簡単なことから勉強していく必要がある。

朝ごはんもTさんが作ってくれた。前日残った鍋を使ったお粥。海苔や小エビも入れるが、現地で調達した醤油などを使っており、日本から輸入するものは極力使わない姿勢もよい。日本人ではあるが、この地で一生生きて行こうとすれば、当然日本のものに頼らず、現地調達も必須だ。日本人のロングステイはコストが掛かる、これは現地調達比率に寄るのかもしれない。

バスターミナル

Tさんの車でバスターミナルへ。今日はチェンマイを離れ、チェンライ経由でメーサローンに向かう。Tさんによれば、チェンマイから北に1時間半ぐらい言った所には温泉もあり、茶畑もあるという。この付近以前は少数民族の地。ミャンマーのシャン州や雲南とも似ているのだろう。次回は是非訪問してみたい。

バスターミナルは初日に訪問したOさんの家のすぐ近くにあった。英語の表示はあまりなくタイ語の出来な私にはちょっと分かり難い。Tさんの奥さんが面倒を見てくれ、チケットを買う。チェンライ行は30分に1本出ており、非常に便利。車内も思ったより快適。中国のローカルバスより良いのは当たり前か。

ターミナルのトイレに入る。ここも思ったよりかなりきれいで感心する。考えてみれば、タイで長距離バスに乗るのは初めてかもしれない。言葉が出来ないので敬遠していたのが、これは十分に使える。今後はタイでバスの旅を楽しもう。

ターミナルにはお菓子や果物など売っている。何だか遠足気分で楽しそう。中国のバスターミナルのちょっと殺気立ったような緊張感はそこにはない。バスに乗るとバスガイドさん?も添乗する。タイ語に何を言っているか分からないが、私の所に後で来て最低限の言葉を英語で伝えてくれた。バスはチェンマイを離れた。



 

 

チェンマイ散策2011(2)龍眼(ラムヤイ)の中国輸出

炭焼き

同行しているバーンタオ氏は最近炭焼きビジネスを始めていた。今回も数年ぶりにこの農園を訪れたようだが、前回はロングステイのビジネス、今回は炭焼きビジネスを見に来ている。面白い。

ここランプーンにはタイ語でラムヤイと呼ばれる龍眼の木が物凄い数、生えている。道を行くとラムヤイはそこかしこに見られる。龍眼は中国の果物と思っていただけに意外だった。そして更に意外なのはバーンタオ氏がこのラムヤイの木に目を付け、炭が作れないかと考えていることだった。

Sさんとタイ人の奥さん、そしてSさんの農園で働く地元の女性を一緒にラムヤイの炭焼き現場を訪ねた。ランプーン郊外、河沿いに煙が上がっていた。傍にラムヤイの枝が転がっている。地元の人が自分で使うために焼いているらしい。その横には太いラムヤイの木、更には竹の林が林立する。竹は自分の伸びたいように伸びるもの、日本のように真っ直ぐに伸びるとは限らない。

そしてある家を訪ねるとそこには炭焼きの窯があった。本格的に炭を作っている。ただ中には誰もいない。お昼ご飯を食べているのだろうか。この辺では泥棒が入るということもないのだろう。昔の日本の田舎もそうだったのだが、今や農家も鍵を掛ける日本。タイもその内鍵を掛けるのだろうか。

炭焼きがその辺で普通に行われている光景にバーンタオ氏もご満悦。現時点では地元で消費する程度の炭焼きかもしれないが、この中から商売になるような炭が誕生するかもしれない。バーンタオ氏もなかなか味な商売を始めたものだ。

ラムヤイ(龍眼)

そのラムヤイだが、本当にその辺にいくらでも生えている。ラムヤイの林、など日本では想像できないが、何ともいい雰囲気な木々である。

道沿いに小屋が見えた。外で人が何か作業していた。覗き込むと先方も首を突き出してこちらを見る。更に見るとラムヤイの木の下で数人の男女が作業していた。ラムヤイを取り、仕分けしているのである。

小屋の周辺では更に多くの人が籠を前にして仕分け作業をしていた。近所の若い娘からおばさんまで、何だか楽しそうに見えるが意外と大変な作業のような気もする。ラムヤイの実を大きさや熟度に応じて分けているようだ。

このラムヤイはタイ国内に出荷されるのだろうか。聞いてみて驚いた。ここで仕分けされた後、近所のある中国系工場に運ばれ、そこで乾燥工程に入る。そして乾燥ラムヤイが中国に輸出され、何と中国産龍眼として、日本に漢方薬などとして再輸出されるというのだ。

中国産漢方薬は多いが、残念ながら必ずしも原産国が中国ではないケースが増えているのだろう。そういえば、中国とアセアンのFTAが締結され、農産物も加工品も完全がゼロになっている。今後タイの農業もアジアを、特に中国を向いて作られていくのだろう。

昼飯 日本語姐さん

昼時になる。この辺の名物、カオソイを食べさせるお勧めのレストランを目指したが、何故か休みだった。そこで街道沿いにある麺屋に入る。とてもゆったりした店で、真新しい自宅の横に半外のお店を作ったという感じ。

お昼の柔らかい日差しが少し差し込む。腹は減ったが、眠気にも誘われる、そんな感じのテーブルに着く。豚肉ラーメンが出て来る。これは肉の味がよく沁み、ネギなどの薬味も効いていて、実にウマい。また麺がラーメンというのもいい。ミートボールも付いている。これはもう完璧だった。

そしてどうしても我慢できなくなり、お替りを頼むことになった。オーダーを取りに来たお姐さんは何と日本語を話した。聞けば、2年ほど、日本で生活したことがあるという。しっかりした日本語だった。でも日本より地元の方が良いという。日本ではどんな生活を送っていたのか、知りたくもあったが、敢えて聞かなかった。

   

2杯目は牛肉きしめんに替わった。もやしがちょっと載っているのが良い。こちらはほど良い濃厚な味わいで、グッとくる。本当に何杯でも食べられそうな、いや、止めておこう。日本語を話しお姐さんも他の従業員も既に完全に休息ムード。我々が帰ればお昼寝だ、と顔に書いてあった。

パワナガーデン(http://www.kubox.net/phawana/mein.htm )

我々もお昼寝か、と思ったが、もう1軒行くことに。Sさんはもうすぐ70歳と言っていたが、とても元気に、自らハンドルを握ってくれる。そしてやって来たのは。

どこかの御宅に着いたのかと思うような、木々に囲まれた庭。その奥に建物が見える。ここは日本人久保田さんが開いているプチホテルだ。既に開業から10年近く経つという。正直こんな田舎に日本人が宿を経営しているとは信じられない。

久保田さんは10年前シンガポールに企業の駐在員として滞在していたが、そこを辞して、奥さんの故郷であるランプーンにやってきた。小さいお子さんもいたから相当に決断だったのではないか。

そして土地を確保し、一からゲストハウスを作った。庭の木々も今や大賑わいだが、何もない所に自ら植えた。建物を建てるのも大変だった。全く思うように地元の大工さんは動かない。イチイチ注文を付けてようやく完成させた。

まさにアットホームな宿を目指したが、当初はお客さんがいなかった。ここランプーンには工業団地もあり、日本企業に売り込みにも行ったが、上手くはいかなかった。そんな時に、テレビ番組で取り上げられ、テレビを見た人たちが少しずつ来るようになる。そして一度来ると気に入ってリピーターになる人が多いという。

この宿は朝ごはんが付く。また夕ご飯もリクエストで作ってくれる。地元の野菜などを使った料理が良いらしい。食堂もアットホーム、家でご飯を食べる良な雰囲気だ。裏に回ると自分で作ったというかまどがあり、木の枝が暖かい色を出して燃えていた。『この木の温もりのある火で作った料理は味が違う』という。焼肉なんか最高に美味いらしい。

今度は一度ここに泊まってみたい、と思わせる雰囲気がある。何も考えずに、ボーっとしていることも偶には大切ではないだろうか。

本当の野菜

農園に戻り、ゆっくり休む。夜はラムヤイのチャーハンが出た。これが意外や美味しい。また近所から新鮮なキャベツが届けられたとのことで、シンプルなキャベツ炒めも出たが、これが実に歯ごたえがあり、また柔らかく、美味。

昔は日本の実家にも親戚の農家が、時々採れたての野菜を届けてくれた。決して形は良くないが、大きな野菜。ニンジンやキャベツが袋からはみ出している姿は、如何にも美味しそうだった。あれは本当の野菜だった。今日本で売っている野菜は、ある主婦によれば、『包丁で切ってもにおいがしない。まるで温もりが無い。工業製品と同じではないか』と。

我々は一体どんな食べ物を食べるべきなんだろうか。価格と形にこだわる日本人は、益々自然から遠ざかる。『有機野菜』と言う名のもとに売られる野菜でも、何か本物でない気がする。一度田舎暮らしを体験し、真面目に考える時期かもしれない。シャワーを浴びて、早く寝る。気持ちはよい。

12月26日(月)    ラムヤイの木

翌朝も気持ちよく起きた。広大な農園を散歩する。朝日がまぶしい。Sさんとスタッフが朝から作業している。例のラムヤイの枝を炭焼き用に切っていた。当たり前のことだが、いい感じに切れている。

2泊させてもらった農場を後にする。短い間だったが、とてもいい経験をした。もっと多くの人々が、特に若者がここに来て、見ることを勧めたい。






チェンマイ散策2011(1)ランプーンの花園で

《チェンマイ散歩2011》  2011年12月24日-27日

シェムリアップからバンコックに戻ったが次の日にはもうチェンマイへ。今日はクリスマスイブだ、などと思う間もなく、旅から旅へ。スワナンプーン空港では何故か飛行機が飛ばない。機内でずーっと待たされる。機長のアナウンスの中に『VIP』という単語を発見。もしや、今日は中国の習近平氏がタイ訪問中だったことを思い出す。

飛行機の窓から外を見ると飛行機がまさに数珠繋ぎ。20機はあったろうか。やはり習氏のために飛行場が実質閉鎖されていたのだ。これは参った。それにしてもこんなことはあるのだろうか。タイの中国重視の表れではあるまい。

12月24日(土)   1. チェンマイ1

Oさん

チェンマイ空港ではOさんご夫妻が2時間以上も待っていてくれた。全くの初対面で、友人の紹介でちょっとお訪ねしようと思っただけなのだが、とんだご迷惑を掛けてしまい、恐縮。

空港からタクシーで20分ほど、Oさんのご自宅はチェンマイ郊外のマンションの一室。ここで既にロングステイ生活を数年送っている。チェンマイには数千人の日本人がロングステイしているが、中には悪い人もいて、トラブルがあったり、日本人コミュニティーは大変なようだ。

Oさんは大手企業を退職後、チェンマイにステイ。チェンマイのお寺を1つずつ訪ね歩きながら、その歴史などを纏めて雑誌に発表している。また月1回メルマガを発行するなど精力的な活動をしている。タイだけではなく、ネパールなどにも在住経験があり、その幅は広い。奥様は現地各地でボランティア活動をするなど、溶け込んでいる。

7階のお部屋は気持ちの良い風が吹き抜け、実に爽やか。郊外で比較的家賃も安いとのこと、このようなロングステイは一つの理想かもしれない。お昼をご馳走になりながら、色々な話を聞く。途中からは紹介者であるバーンタオ氏がバンコックから車で乗り付け、合流。

2. ランプーン    ランバンとランプーン

Oさん宅を辞し、バーンタオ氏の仕事用1トンピックアップに乗り、次の訪問先へ。チェンマイから50㎞ほど離れた場所で、花農園を経営されているSさんを訪問し、泊めてもらう予定となっていた。

道は高速で非常に快適。タイも道路は良いようだ。色々と話しながら進んで行ったが、1時間以上経っても高速を降りない。50㎞は過ぎたような気がするのだが。ようやく目印を見付けて、間道に入るが、既に日は落ち、あたりは暗く、なかなか見付からない。仕方なく、ガソリンスタンドにより、道を聞くと・・。バーンタオ氏の顔が引きつる。そして何度も同じ会話を繰り返す。

携帯で電話をしたバーンタオ氏は愕然とする。そしてその携帯を近くの人に渡し、現在位置を確認。ガソリンスタンドの人も親切に対応し、ちょうどガソリンを入れに来たバイクの後ろについて、道を行く。

又もとの高速道路に戻る。何が起こったのか。『ランバンとランプーンを間違えたんです。しかも目印の病院が両方の街にあって、それで迷いました』。え、ランバンはチェンマイから100㎞離れており、我々はまた50㎞チェンマイ方面に引き返す。しかし珍しいこともあるもんだ。

結局4時間ほど、掛かってランプーンの農場に到着。周囲は非常に静かで環境が良い。Sさんに案内され、農場内の宿泊施設に。2部屋あるコテージ風の建物。部屋の前のテーブルには夕飯も用意されており、バーンタオ氏とビールを飲みながら疲れを癒す。イヤー、これは快適。ぐっすり寝る。

朝 カオトーン

寝ている部屋の朝日が差し込む。外へ出てみると、昨夜は気が付かなかった広大な花農園が広がっていた。そして一つ一つが良く手入れされ、朝の空気を穏やかなものにしていた。木々の力を感じる。

庭を歩いて見る。実に様々な草花がある。木々がある。私は草花の名前を殆ど知らない。タイの木々を知らないのではなく、日本の木々も花も知らない。名前は問題ではないかもしれないが、ここに滞在して、植物に親しんでみたいという気が起こる。

この農園のオーナー、Sさんがやって来て、朝ごはんを食べようと言ってくれる。農園内の小屋に行くと、既に朝ごはんが用意されている。カオトーンというタイ北部でよく見られるお粥。これは粗く煮込んだ粥にニンニク、胡椒などで味付けがされ、朝から力が出る。

そして何よりこの自然環境の中、日の光、木々の間を流れる爽やかなそよ風。バンコックやチェンマイなどの都会では決して味わえないタイがそこにある。

海外から日本を見て考える

この素晴らしい自然の中にある農園のオーナー、Sさんは日本人。若い頃は日本で政治的な活動にも参加、その後色々なご縁があり、関東で花の栽培を開始。海外にも輸出する規模で花農園を経営していた。

そして還暦も近くなった頃、日本の農園を部下に譲り、タイに移り住む。ランプーンにやって来て、ここで農園を始めた。それから10年以上経つ。今では様々な草花が花開き、タイ国内は勿論、日本をはじめ海外にも輸出されている。そして単にビジネスと言うだけではなく、色々は新しい試みをこの地で行っている。Sさんのこれまでに培った花栽培の技術、輸出などの商売のノウハウ、そして何よりも気持ちが込められた農園である。

広大な敷地の中には外から来た人々が宿泊できるコテージなどがいくつもある。一度に30人は宿泊できるという。何故このような施設を作ったのか。『初めて自分と同世代の日本人のロングステイを考えた』のだと。

当然興味を持って見学に来る日本人は沢山いたが、いざロングステイという段になると、考え方の違いが露骨に出た。『XX万円支払うとこの土地の権利は自分の物になるのか』など、予想外の反応があった。理想的な環境で穏やかな余生を送る、と言いながら、結局はお金から離れられない人々を見た。

『面倒だから止めたんだ』という。何だか残念な話だが、それが今の日本の現実。代わりに『日本の若者に海外での農業体験をして欲しい』と現在は日本の農業関係の大学生、インターンなどを受け入れているという。『若い人なら大歓迎。海外での就業経験も役に立つはず』と前向きだ。

海外に居ると日本の現状が良く見える。日本国内でガッカリして生きているより、タイに来て、将来を考えてみるのもよい。若者に無理に海外に出ろとは言わないが、海外で考えてみるのは必要な機会だと思う。





シェムリアップで考える2011(8)日本人が作るカンボジア土産

8. ベンメリア

ベンメリアはかものはしの先、5㎞の所を左に曲がって行く。その曲がり角で昼ご飯を食べる。完全なローカルフード。チキンスープに、ブタ肉と野菜炒め、ご飯が進む。2人で食べて3.5ドル。市内に比べて非常に安い。氷入りのお茶は無料。

午後の日差しを浴びながら、ベンメリアを目指す。途中何度も居眠り。サレンはしっかり前を向いて運転している。実にのどかな田園風景。気が付けば、空も実に青い。小1時間掛かって到着。入場料は5ドル。

中国人の団体客の後ろから、ベンメリアへ入る。目の前に大きく崩れた建物が見える。ここは廃墟だ。右手から中に入る階段を上る。しかし中をどのように歩いてよいか分からない。そこへおばさんが「こっちから入れ」と指示を出す。建物の中に入るとそこは瓦礫の山。その中にシバ神やラーマーヤナが描かれた壁画がわずかに残る。

おばさんに導かれて、あちこち見て回る。基本的にきちんと整った場所は殆どない。崩れた石を乗り越えて進む。建物が残っている所は図書館だという。中に4つも図書館があったとか。それ程に書物があったのだろうか。

この遺跡、アンコールワットなどと異なり、整っていない分、神秘的。森に埋もれ、修復もされない。基本的にアンコールワットと同型で、東のアンコールと言われる。遺跡の建造年代は不明、発見当時の雰囲気が味わえ、探検気分にはなる。

殆どジャングルジムのような、いや障害物競走のような見学をする。石を上って降りて、また上り。午後の日差しで遮られているにも関わらず、汗が出る。息も上がる。結構きつい。おばさんは全く疲れを知らず、どんどん進む。他の観光客もこのおばさんのような人に連れられて進む。彼女は非公式ガイドらしい。特に説明はないが、従う。

40分ぐらい掛けて、一通り見学終了。おばさんはチップとして5ドルを要求した。特に頼んでもいないが、まあ案内してもらったんだから、と渡す。実は気になっていたのは背後に居た男性。Policeと書かれた服を着ている。どうやら彼が認めて案内役が出来るらしい。こういう所は、改善した方が良いと思う。

帰りは行きと異なり、国道ではなく、農村の中を行く。最近道が整備されたらしく、道は平たん。ヤシやバナナの木が生える中、高床式の家々が点在。子供たちはトゥクに向かって盛んに手を振る。畑は収穫が終わったらしく、何もない。今はお休みなのかもしれない。実にのどかで、嬉しい。

9. 土産物     キャッサバ焼酎

基本的に旅に出ることが多いので、土産物は買わない。荷物になるからだ。但し誰かに頼まれたら、これを奇貨として、買いに行く。これが私の旅のスタイル。私の知らない世界に連れて行ってくれるものには感謝して従う。今回はキャッサバ焼酎と言う希望が寄せられた。キャッサバはイモの一種だから、焼酎にはなるだろう。でもなんで?ネットで引くと、

「ソラークマエ」、カンボジア西部バッタンバン州タサエン村で生まれたキャッサバ焼酎。地雷撤去後の大地にキャッサバを植え、村が自立発展するためにと、元地雷撤去家、高山さんの指導のもと始められた焼酎です。愛媛の酒造メーカーによる技術協力もあり、日本人にも好まれる味になっています。**キャッサバ・・・タピオカの原料になるお芋

とある。日本人にもいろんな人がいる。Khmer Yuengと言う土産物屋で買えると聞き、早々訪ねる。しかしネット情報では水曜日は休み、しかも場所がよく分からない。兎に角行ってみた。クローマーのオフィスで場所を聞くと4軒ほど向こうだった。こぎれいなショップに、カンボジア産のスカーフや小物などが並べられていた。

店の奥に行くと焼酎を発見。お店は日本人女性がやっており、話を聞く。カンボジアに来て6年、旅行社に勤めていたが、日本人向けのお土産が無いことから、ショップを2年前に開店。アンコールクッキーの社長と同じようなきっかけ。カンボジア各地から日本人に好まれそうな商品を集めている。特に日本向けに加工などはせず、原則そのまま売っているとか。とかく日本仕様を求める傾向がある中、これは一つの試みではないか。ヨーロッパ人なども草木染に興味を持ち、買っていく人も出て来ているそうだ。

ちょうど店の前でNHKがカンボジア人女性の取材をしていた。この店を背景に何かを語らせていた。ついでにお店の様子も撮影していたが、これが放映されることはあるのだろうか。オールドマーケット近くにひっそりと建つお店、何だか不思議に惹かれた。

アンコールクッキー

続いてこちらも興味あり、との話でアンコールクッキーを買いに。夕方6時前、夕食前の買い物ということか、日本人観光客でごった返していた。そこそこ広い店に入りきれないほどのお客さん。その勢いは想像以上だった。シュエムリアップに来る日本人観光客は必ず寄る、という賑わい。

ここのクッキーはカンボジアの感覚ではバカ高い。日本の土産物の値段から考えても、それほど変わらない。味も日本とそうは変わらない。何故ここまでお客が来るのか。何か仕組みがありそうだが、恐らくは旅行会社とのタイアップであろう。勿論カンボジア土産が無い、というポイントは高い。また駐車場スペースが広い。オールドマーケットでは大型バスの駐車は難しいが、このショップにはバスが停まれる。これは大きい。元々この状況を想定して場所を選んだのであれば、凄い。

シェムリアップ最後の夜はサレンの意向でBBQとなる。ローカルBBQは非常に混んでいて、カンボジアの所得向上が伺われた。飲み物は飲んだだけ支払う。ビールのキャンペーンガールもおり、雰囲気はタイに近い。肉はちょっと硬いが、塩を付けて食べるとなかなかイケル。サレンは別のソースを使い、ゴマなども混ぜ、自分のソースを作って食べる。きゅうり、キャベツ、トマトなどの野菜は氷の上に乗って一緒に出て来た。一瞬大丈夫かと思ったが、何ごともなく、美味しく頂く。

ひっきりなしに物売りが来た。女の子、男の子、お姐さんなど、様々。卵やスナック、タバコなどを持って各テーブルを回る。買っている人はいないが、これで商売が成り立つのだろうか。この風景は以前も東南アジアでよく見たが、何となく物悲しく、現実を突きつけられているようでやるせない。

12月23日(金)

お別れ

何ということもなく、5つ星ホテルに3泊し、ここを離れる日が来た。午前11時にホテルをチェックアウト、サレンのトゥクで空港へ向かう。何だか直ぐに到着してしまい、呆気ないお別れ。でもまた会える気がして、お互いさらっと別れる。

空港内に入るとバンコックエアーのカウンターの前が長蛇の列。あまり待つのが気にならなくなった私でも異常さに驚く。前に行ってみてみると、何とフライトが2時間ほど遅れているらしい。そして1つ前にフライトに変更したい客の応対でてんやわんや。

結局50分ぐらい掛かってチェックイン。こういう時にヨーロッパ人の忍耐強さは発揮される。あれだけ待ってもカウンターではにこやかに「グッドアフタヌーン」などと言う。私にはできない。修行が足りない。

カウンターで文句を言ったせいか、クーポンをくれた。遅れたお詫びの食事券?行って見ると簡単なサンドイッチと飲み物が貰えた。何よりそこでネットが繋がり、旅行記が書けたこともあり、気分はすぐに転換した。実に現金な物だ。

フライトは2時間遅れてシェムリアップを飛び立ち、何事もなかったように2時間遅れてバンコックに戻った。





シェムリアップで考える2011(7)かものはしプロジェクト

マッサージ

市内で土産物を買っている内に、首がかなり重たく感じるようになる。昨日あたりから肩に張りが出ていたが、今日のボートトリップでの姿勢が悪かったのだろうか。いや、これまでの疲れが出たのだろうか。

サレンに頼んで、マッサージに連れて行ってもらう。本当は地元の人が行く所に行きたかったが、サレンが衛生面や言葉の面などを気にしてくれ、日本人もよく行くという場所に行って見た。

確かにそこはきれいで、部屋に入るとアロマの香りが心地よかった。日本語も通じるとのことだったが、ちょうど日本語の出来る人がおらず、英語でやり取りし、マッサージのおばさんに伝えられた。実際は言葉が通じなくても、肩の張りなどは揉めばすぐ分かる。丁寧に揉んでもらい、温めてもらう。

1時間でかなり良くなった。一時はかなり重症かとも思ったので、これは助かった。御代は30ドル。それでも万全の状態ではないので、早めにホテルで休むことに。だが、腹は減る。仕方がないので、前回も行ったベトナムフォーの店に行き、麺を食べ、早々に引き上げる。体を暖かすることが肝要だ。

12月22日(木)

7. かものはし  洗濯物

首の調子も一晩でかなり回復した。今朝は朝から洗濯物を出しに行く。1㎏、1ドルが基準の洗濯物やの存在は嬉しい。サレンのトゥクに乗り、出掛ける。ホテルの直ぐ近くにバスターミナルがある。ここからプノンペンなどへ行くらしい。周囲にはバスチケットを売る店が並び、トゥクに向かって、呼び掛けて来る。

サレンが調べていた洗濯屋は今日忙しいので洗濯しないという。あくまで副業。もう1軒は1つ50セントならやるという。1㎏、1ドルからすれば相当高い。断って市内へ。交通費を考えればどっちが高いのか分からないが、今は初志貫徹。

クローマーヤマト近くにはこの手の洗濯屋が山ほどあった。やはりバックパッカー御用達なのだろうか。今日中に出来るというのも嬉しい。この洗濯、ちゃんと畳んでくれるし、それなりにきちんとしている。だが、考えてみればこの料金で労働力はどうなっているのだろうか。いつまでこんな料金で洗濯してくれるのか、ベトナムにもあったが、だんだん無くなってしまうのだろうか。

かものはし

急いでホテルに戻る。9時に待ち合わせがある。かものはしプロジェクト、というNPOを訪問する。共同代表で現地駐在の青木さんが迎えに来てくれた。インターンの清水さん、昨日から仕事を始めたカンボジア人女性も同行。サレンのトゥクに4人も乗ったのは初めて。国道6号線沿いに進む。

トゥクの中で話を聞く。2002年、大学生だった青木さん他2人でこのプロジェクトに関わったこと。2008年に今の工房が出来たこと。2009年からシェムリアップに駐在したこと。「子供が売られない世界を作る」ため、寄付だけでなく、工房をビジネスとして軌道に乗せ、貧困家庭に一定の収入をもたらす仕組みを作りたい、警察官に児童買春を理解してもらう訓練を施す、など前向きな話が多く出る。

ホテルから30㎞ほど走った国道の脇に工房はあった。地域の役所の土地を一部借りている。前の建物では、地元の人々が何やら会議中。後ろにある工房の外では井草を選り分けている。井草を使った商品を製作している。

「自立」が一番重要、と青木さん。経済的にも精神的にも自立する必要がある。子供が売られないために、先ずは家庭の収入を増やす。工房の周囲15㎞の村々を回り、最貧困家庭より家族の一人を採用するシステムを作り、16人だったワーカーを90人まで増やした。今後は範囲を広げる必要があるが、なかなか難しい。

NPO自身の自立も重要。現在経費の半分は日本で集めている寄付金、事業はIT事業が中心で、この工房から上がる収入は僅かでしかない。それでも前年比べ収益は伸びており、今後に期待が繋がる。

チームリーダー

工房では各パートで数人ずつが作業を行なっている。チームリーダーが任命されており、彼女らが私に説明してくれた。皆、シャイではあるがしっかりした話しぶり。中には殆ど学校に行っていない人もいたが、現在はこの工房で開かれる勉強会に参加していると聞き、感心した。

工房は基本的に女性が働く場。近隣の人々で同世代であるから、何となく楽しそうに見える。ここで友達もできるらしい。楽しいかと聞くと「近所に工房があると職があり、嬉しい」という答えが多かった。農村にはやはり現金収入を得るすべがないのだろうか。

チームリーダーに成り立ての女性は「私はリーダーでなくてもよいから、他の作業を経験したい」と言う。リーダーは給料もよいはずだが、単調な作業に飽きる、または様々なことを経験したい、など色々な考えがあるのだろう。別のリーダーは一時母親が病気で出勤できずに家庭で内職のように仕事をしていたという。今は復帰し、もう一つ上のステータスを目指している。このようなキャリアプランがあるのもよい。

若い女性が殆どの中、お婆さんがいた。彼女の息子夫婦は不幸にも既に他界し、5歳の子供(孫)を一人で育てているという。目が悪くなり、ミシンが踏めず、別の作業をしていたが、それも困難になってきている。職員が「眼鏡を掛けたら」と勧めても、『村にメガネかけている人いない』と慣れないことには抵抗感がある。生活の為に働かなくてはならないが、孫のそばにもいてやりたい、『明日のコメがあればいい』という価値観に対して、このプロジェクトの難しさの一面を見た。

11時になると皆昼の休憩に入る。若い女性たちは化粧をし、ピアスをしておしゃれだ。農村にも消費社会が訪れている。携帯も皆持っているが、プリペイドのお金が入っていない子も多いらしい。携帯メール、電話の受信を楽しんでいる。





バラナシ伝説のGHへ行け2014(1)インド式は疲れる

《バラナシ散歩2014》  2014年4月26日-29日

 

ムンバイに着いたその日、Facebookに1つのメッセージが入った。『インドにいるならバラナシへ行って』。何の話か分からなかった。台北の知り合いHさんだった。『バラナシに日本人が経営している伝説のゲストハウスがある。是非見てきて欲しい』と言われても、私はバックパッカーをやったこともないし、ゲストハウスに泊まりたいわけでもない。でも『バラナシにいる日本人』『伝説の』と言われると何となく興味を持つ。

 

なぜか日程的にも余裕があり、チケット変更もスムーズ。これは行け、という合図だ。ご縁の世界ではこれが大切。行けるなら行く、という私の旅のポリシーとも合っている。今やインドもネットで航空券が買え、あっという間に目的地に到着する時代。伝統的なバックパッカーの世界とは相容れない私の旅はまた始まった。

 

1.ムンバイ

ビジネスクラスでムンバイへ

ジェットエアーのビジネスクラスでムンバイに戻る。ビジネスクラスの席は12あったのだが、一番前の通路側に座っていた私はCAから席を移るように言われる。折角ビジネスクラスなのに、そして席は8つも空いているのに、一体どういう訳だ?CAによれば『CAが座る椅子が壊れた。規定で一番前の通路側に座らなければならない』、しかも2名も。何で??

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渋っているとチーフパーサーがやって来て『離陸と着陸の時だけ窓側へ行ってください』と慇懃に言う。ここまで言われては抵抗できずに2列目に下がる。離陸するとすぐに1列目に戻ったが。そこからのCAのサービスは凄かった。とにかく何でも聞いてくれる感じだった。インドの航空会社ということで、紅茶のセレクションも充実していた。お替りは不要だったが、トイレに立った隙に、ちゃんと別の紅茶を淹れてくれ、クッキーもくれた。

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そういえば3年前、ラダックからの帰り、なぜかビジネスクラスにアップグレードされたことがあった。あの時も一番前の席だった。ジェットに対する印象はとても良かった。インドもLCC時代がやって来ている。差別化を図るために、サービスに力を入れていることには違いない。

 

アチチホテル

ムンバイ空港に着くと、一目散に空港を出て歩く。もう慣れた道だ、迷うこともない。A師から推薦のあったアチチホテルは先日泊まったIBISのすぐ横にある。予約はしていなかったが、どう見ても空きはありそうだった。フロントへ行くと、やはり部屋はあり、朝食付きで3350rpだった。それにネット代が100rp、まあIBISよりはかなり安い。

 

ただチェックインのスムーズさではIBISはかなり洗練されている。アチチは何をするにも手間がかかる。伝統的なインド方式。更にはインドのレファレンスなどを聞かれ、回答に困る。インド旅行に来た人で知り合いもいなければどうするのだろうか?旧来からそのような質問をしているのなら、ナンセンスだがそれを改めようとはしないのだろう。

 

部屋は簡素、寝るだけなら問題はない。エアポートホテルとはこんなものだろう。ちょうど夕陽が窓から差し込む。外は道路に近いがさほど煩くはない。ネットは初め繋がらなかったが、遅いながらもなんとか繋がった。夕飯は不要だ。既に飛行機の中でかなり食べていた。

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水だけ買いたかったので、外へ出た。すぐ脇に店があり、冷たい水が買えた。ついでに周囲を散策すると、向かい側に立派なホテルを発見した。ラトールさんがいいホテルだ、と言っていた場所だが、これでは高級すぎる。今の私にはあの緩いアチチホテルが似合っている。

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4月27日(日)

うるさい朝食

翌朝は7時過ぎにはチェックアウトするため、早めに食堂へ行った。6時からやっているとのことだったが、まだ掃除をしていた。食事も全部は揃っていなかった。仕方なくある物で食べ始めると、『卵はいるか』『コーヒーはどうか』とやけに聞いてくる。ビュッフェとは何かが分かっていない。サービスのつもりかもしれないが、これでは煩くてゆっくり食べられない。

 

フライトは8時だから7時半に出れば間に合うとホテルで言われていたが、インドでは何が起こっても自己責任。7時過ぎにはチェックアウト。このホテルは無料送迎が付いているので、車を呼んでもらうと1分後にはやって来て驚いた。速い!これで悠々だな、と思っていると運転手の携帯が鳴り、車が戻り始めた。何んだ?何と私は部屋に日本語の本を忘れていた。普通なら私の行先は分からないだろうが、ホテルの車に乗っているとは何という幸運。少し時間をロスしただけで国内線ターミナルへ到着。まだ7時20分だった。だが、

 

今日乗るエアインディアのカウンターは長蛇の列。フライトに間に合うのだろうかと心配したが、係員は『普通に並んでいろ』と取り合わない。テイクオフ20分前にようやく私の番が来て、チェックイン。ところが予約してあった通路側の席はなく、真ん中の席をあてがわれた。私がそのことを言うと『あなたが最後の乗客だ、もう席はない』と強く言われる。昨日のジェットとは大違いだ。ここで喧嘩していたら乗り遅れる。とにかく荷物検査もあるんだし、早く行かねばと諦める。

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何とか搭乗ゲートまで辿り着いたが、まだ搭乗のアナウンスはなかった。これならもう少しゆっくりすればよかった。カウンターのスタッフがゆっくりやっていたのは、間に合う根拠があったのだ。そうこうしている内に搭乗となり、バスに揺られて機内へ。思ったほど狭くはないが、むくつけきオジサンが隣だとどうやっても狭い。

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フライトは2時間。ちゃんと食事も出た。エアインディアもLCCではないのだ。でも感覚としてサービスはなくてもいいかもしれない。まあ焦って喉が渇いていたので、ちょうど良かったが。

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シェムリアップで考える2011(6)5つ星ホテルに泊まり、トンレサップ湖へ

豪華なホテル

そして市内に入った。今日の宿は、何と何と5つ星ホテル。どうなってるんだ?実は東京を出て来る前の日、事務所の忘年会でSさんから「シェムリアップ、行くんだったら、俺のホテル使っていいよ」と言われていた。

俺のホテル?Sさんは作家で様々な媒体に寄稿しているが、その内の一つが原稿料の代わりにホテルの部屋を提供している。なるほど、こんな仕組みもあったのか。そこで好奇心も手伝い、お言葉に甘えて泊めて頂く。

このホテルです、と現地で言われたが、どこにあるかもわからないし、どんなホテルかもわからない。住所通り、サレンに連れて行ってもらうと、何と郊外の立派なホテルだったという訳。お客は韓国と中国の団体さんが多いようで、ロビーには中国語、韓国語が飛び交っていた。その中をサンダル、短パンで入って行き、チェックインをお願いすると最初怪訝な顔をされたが、日本パスポートが効いたのか、非常に親切な対応であった。

部屋も広く、快適。シャワーを浴びて、暫し眠りに着く。夢の中で、自分が自分に聞いていた。伝統の村より、こっち方が良いだろう。と。何だか悪魔の囁きのようで怖い。勿論快適なのは快適だが、この時の私はこの部屋に満足することもなかった。心が満ち足りている限り、寝る場所はどこでもよく、食べる物も何でもよかった。

その夜は、街道沿いのホテルを出て、ガソリンスタンド横のレストランに入る。言葉が全く通じないが、何とかオーダーして食べる。夜風が爽やかだが、伝統の森の風は全てにおいて違っていたことを知る。

12月21日(水)

5. トンレサップ湖     トンレサップ湖へ行く

豪華なホテルで朝食を食べる。デニッシュあり、フォーあり、お粥あり。フルーツまでフルコース食べてしまった。体が欲していたのかどうか、その後体が重たい状況が続く。やはり自然に生きなければ、体も辛い。それでも人間、あれば食べてしまう。どうしたものだろうか。

9時にトンレサップ湖へ行く。前回行けなかった場所なので、ちょっと楽しみ。ただサレンの説明だと、どうなるのかイマイチ状況が掴めない。先ずは行って見るか。国道を南下、途中で右に折れ、村々を抜けていく。村では牛をたくさん買っていたが、何となく痩せている。これは農耕用なのだろうか。草が大量に積み上げられ、牛のえさになっていた。

1時間ほどでトンレサップ湖行きのボート乗り場に到着。17ドル支払いボートへ。10人ほど乗れる小型船に私一人。運転はまだ少年に見える若者。二人旅だ。最初は狭い溝沿いに、多くの船をかき分けて進む。乾季に入り、水位が下がっているらしい。少年は巧みに船をよけて行く。

少し行くと広くなる。川のようだ。この川を遡る感じ。警察が見え、学校も見える。するとその先は水上生活者の村。皆高床式。生活がボートから見える。交通手段も小舟。学校に行く小学生の女の子が自分でボートを漕いで行く。物を売る人もボートで家に近づく。全てが船で成り立っている。

サレンが小舟でジャングルへ行け、と言っていた。何のことか分からなかったが、ボートの運転手に伝えると、20分、5ドルと言われ、近くの家に案内される。お姐さんが小舟でやって来て乗れという。乗り込むと今度は向かいの家へ。そこで少女が乗り込む。そしてまた元へ。ドライバー交代、と言ってお姐さんは降りていく。少女は無言で漕ぎ始める。

自分の殻を破る

最初は村の中を漕いで行く。ボートの時より遥かに家々がまじかに見え、人々の表情も見える。洪水のときは大変だったと思うが、実に淡々とした生活を送っている。これが日常と言うものだ。

その内に湖上のジャングルに入り込む。これはなかなかスリリングであり、木々に覆われてヒンヤリした風が流れる。いくつものボートがこの中に入っており、すれ違う。我がボートの船頭少女、なかなかやる。かなり巧みな櫓を使う。小さい時から遊びながら学んだのだろう。

湖面にうねりがある。水が様々な変化する。やはり木があるということは変化をもたらすらしい。向こうからヨーロッパ人が乗ったボートがやって来た。何と船頭から櫓を受け取り自分で漕ごうとしている。これはかなり無茶だ。それでも声を掛けると「出来るさ、彼女にもできたんだから」と答えが返ってくる。

いま私たちは無理なことは極力しないことにしている。危険だから、そんなことを考えていれば、自分の殻は破れない。「出来るさ」と気軽にやってみることとこそ、次への進化ではないか。

蓮の葉が湖面に大量に浮かんでいる。そういえば、この葉を使ってロータスティが出来ないか、と言っていた人がいたが、確かに沢山ある。原料だけあっても出来るとは限らないが、チャレンジしてみるのもよい。

20分ほどのボートトリップは終わった。しかしこの間、結構考えることがあった。やはり伝統の村で過ごしてから、物を考えるようになった気がする。そして元来た道を戻り、サレンのトゥクで市内へ帰る。

6 . マッサージ    ランチ

市内に戻る途中、レストランを探してランチを取る。サレンも初めてという街道沿いのレストランはかなり立派で観光客が沢山来ていた。店員が足りないのか、皆忙しそうに働いている。私とサレンは観光客には見えないらしく、あまり良い対応はされない。

店には建物の中にテーブルがあるほか、木造の縦長の小屋で食事を取ることもできる。欧米人の子供達が喜んでハンモックで遊んでいるのを見て、そちらに向かう。寝ころんだのは良いが、食事はなかなか出てこない。ようやく出て来ても、それほど美味しくないし、何より高い。アンコールワット内の食事より高い。

何だか観光客からボッタクッている店のように見える。確かにきれいだし、英語も通じるのだが、それだけだ。すると一人の女性が猛然の抗議を始めた。相手はこの女のガイド、「どうしてこんな所に連れて来たのよ、時間がないのに食事が出てこない。お金ならあげるから、早くしてよ」。その彼女は間違いなく大陸中国人であった。

確かに彼女の言い分にも一理あるが、それにしても「金をやるから早くしろ」は、あまりに相手を見下げすぎだろう。そのガイド、終始俯いて聞いていて何だか気の毒になり、また自分がこの店に文句を言ったこともちょっと恥じた。だが、

   

彼女が物凄い剣幕で行ってしまうと、その辺のガイド仲間が一斉に苦笑いし、当の本人も舌を出して笑っていた。良くあることなのだろう。この辺はカンボジアの強かさかもしれない。