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奇想天外ビエンチャン2013(2)久しぶりに街歩き

3. ビエンチャン2

ビエンチャンへ戻る

そしてついにビエンチャンへ戻る。全く思いもかけなかったノンカイでの1泊。これはこれで面白い経験だったが、さすがに疲れが出た。帰りは実に呆気なく国境を越えた。ラオスへの入国書類を2日続けて書く、香港から深圳に通っている気分だ。

 

ホテルへ戻ると、スタッフが『帰ってきたか』という顔をした。それはそうだろう、折角チェックインしたのにそのままどこかへ行ってしまい、1日以上戻ってこなかったのだから仕方がいない。

 

部屋は偶々Kさんと2人一部屋にしていた。Kさんはこの部屋に泊まりたかった、と嘆く?実は彼は今晩日本へ帰るのだ。『とにかく1時間でも2時間でも寝れば』ということでベットに潜るとすぐに寝てしまった。私は久しぶりのネットに取り組む。

 

夕方ノイが迎えに来て、Kさんを空港へ送る。その車の中で、今回の目的である支援の打ち合わせが始まる。今回はノイプロジェクトの現状が理解できたこと、実際のイベントを見学できたこと、など、収穫はあった。Kさんのノイへの支援の気持ちは固まったと思う。そして晴れ晴れと空港へ消えていった。

 

ビエンチャンの華人

ノイの車で市内へ戻る。今日は沖縄のNさんに紹介を受けた日本人Mさんに会う予定であった。Mさんはラオスと日本を行き来しているが、実質20年以上ビエンチャンに滞在しているという。実は昨日教えられた電話番号に電話したところ、女性が出て、何と中国語を話した。それが中国系ラオス人であるMさんの奥さんだった。

ノイの車で到着したのは中華学校。ビエンチャンにも中華学校がやはりあった。この付近は華人が多いのだろう。Mさんが迎えに来てくれ、ノイを簡単に紹介したが、暗くて分からなかったようだ。後で『え、あのアイドルのノイだったのか』と残念がっていた。我々は普通に接しているが、何といってもノイは有名人なのである。

Mさんによれば、ビエンチャンも最近開発ラッシュなどがあり、相当変化してきているが、まだゆったりと暮らせるという。実際Mさんの家は居心地がよく、翌日から忙しいと聞いていたにもかかわらず、ダラダラと長い時間話し込んでしまった。

奥さんは華人の2代目だったが、色々な地域の華人の地が混じっいているようだった。他の場所だと『広東系、福建系』などときちんと色分けされているようだが、様々な事情でラオスの華人はベトナム華僑やタイ華僑などとの婚姻もあるようだ。ビエンチャンに住む華人はそれほど多くないが、一定の影響力は持っている。

この辺、夜間にタクシーはないという。するとMさんが近所にタクシーを頼んでくれた。やってきたのは奥さんの弟さん。当然中国語が出来るので、話してみる。『最近の中国からの進出の恩恵はないか』と尋ねると、『私たちはラオス人ですよ、今の中国人とは全然違う。彼らは金儲けしか頭にない』と強調していた。

7月23日(火)

ビエンチャンを歩く

 

 

翌朝は一人でホテルの朝食を食べる。私はこの朝食が好きだ。昨日予約していたのに、この飯が食べられなかったことは残念だった。でっかいフランスパンにオムレツ。今のホテルは基本的にビュッフェスタイルなので、このようにオーダーしてウエーターが運んでくるのが良い。

 

今日は夜まで予定がないので散歩に出る。先ずは直ぐ近くの文化会館の前を通ると何やらイベントが。なぜかパンダの着ぐるみが登場、結婚写真を撮るコーナーがあった。ベトナムやカンボジアを歩くと派手な結婚式に出くわしたが、ラオスも結婚式は派手なのだろう。

 

それからバトゥサイ(凱旋門)を見る。7年ぶりだが、この辺は特に変わった様子はない。ただ中国人観光客が目立っていたが。裏の道をどんどん行くと、立派な建物がいくつかある。役所だったり、ホテルだったり。更にその先はこれから開発される地域のようだった。最近の中国から急激な投資、ビエンチャンを変えていくのだろう。

 

ビエンチャンにも日本の銀行があると聞いていた。それがこのマルハン銀行。日本では考えられないが、パチンコ屋さんのマルハンがカンボジアで銀行を開業、今年ラオスにも進出した。ミャンマーにも出るようだ。

 

中に入るときれいな出来立てのオフィス。きちんと英語ができる女性が対応してくれ、日本語ができるスタッフもやってきて、丁寧に説明してくれた。基本的に口座が開設できるのは労働ビザを持っていることが条件。非居住者の私には無理だと分かったが、金利は米ドルで1年定期、6.25%と言われ、ちょっと心が動く。そういえば3年前にプノンペンで聞いたマルハンのレートは5%程度。開設記念キャンペーンなのだろうか。金融の世界では利益があるところにはリスクもある、ということは認識しておく必要はあるが、日本で預金しても0.1%などという実質0の国から考えると羨ましい。因みにその後見つけた中国工商銀行の支店にも立ち寄ってみたが、こちらは実質個人客お断り、の雰囲気が漂っており、金利もマルハンの半分だった。

 

歩いていると日本のお弁当を売っている店があった。後で聞くと日本人が経営しているという。ビエンチャンも着実に変化してきている。お昼はなぜかベーカリーでハンバーガー。このお店、7年前にもあって懐かしくて、入ってしまった。相変わらず欧米人が多い。

 

お寺にも行ってみようと思ったが、なぜかそこで足が動かなくなり、ホテルに退散。午後は旅行記を書いたりして過ごした。こういう時に快適なホテル空間が実にありがたい。日本人にとってホテルは寝る場所かもしれないが、本当はそこで過ごす場所。私のような者にとってはそこが住い。


 

日本のビジネスホテルはコンパクトで効率的だが、正直長くいるのに適さない。恐らくホテル側も分かってそうしているのだろう。逆に日本人に不可欠なのが風呂。だから日本のビジネスホテルは大浴場を併設するところが増えている。

 

夜は旧知のMさんと食事。何とホテルのすぐ近くに日本人が経営するレストランがあった。日本食レストランのイメージで探すとほぼ見落とすようなおしゃれな造り。ビエンチャン在住8年の日本人夫婦がオーナー。日本の家庭料理を思わせる食事が好評とか。

7月24日(水)

ラオセントラル

今日は朝8時の飛行機でバンコックへ戻る日。朝6時過ぎにホテルを出てタクシーを探したが、何と通りに車の気配がなかった。前日ホテルから『タクシーの予約は』と聞かれていたが、7ドルという料金をケチって予約しなかったことを悔いたが後の祭り。本当に途方に暮れそうになる。

 

よく見ると1台のバンが停まっていた。恐らくは客待ちの車だったが、運転手が空港なら行く、と言ってくれた。空港まで行って戻っても十分な時間がったのだろう。料金も6ドルで悪くはなかった。救われた。空港までは僅か15分程度。あっという間に着いてしまった。

 

今日は初めて乗るラオセントラル航空という飛行機。先日バンコックで新しいエアラインと聞いていたのでちょっと緊張していく。料金はLCC並の安さ。チェックインカウンター向かうと、私のパスポートを見た男性が『おはようございます』と流ちょうな日本語で言う。え、日本人、きちんとしたジャケットを着こんだその人はどう見ても日本人。

 

『こちらで働いておられますか?』と声を掛けると、なんとなんと『副社長です』との答え。外資系の航空会社を退職後、最近ここに入社したという。チェックイン後、2階の待合室にいると彼がまたやってきて話す。『とにかく新しい航空会社は安全第一です』という。搭乗時間になり、タラップを登ろうとすると副社長自ら、『行ってらっしゃい』とお見送りする。日本人がこれをすることが評判良いらしい。こんな人がいるんだ、とちょっと面白味を感じる。

 

飛行機は新しくはないが、サービスは悪くなかった。これで行きのバンコックエアーがガラガラだった理由が分かったような気がする。安くてサービスが良ければ客は流れる。この日の乗客はかなりいたことからも分かる。次回のビエンチャン訪問が楽しみになってきた。

 

奇想天外ビエンチャン2013(1)いきなりノンカイへ、忘れえぬ夜

《ビエンチャン散歩2013》  2013年7月21日-24日

昨年11月に訪れたラオスのビエンチャン。そこで見たノイの活動は衝撃的だった。私は何らかの形で彼女の支援をしたと思っていたが、具体的な策はなかった。そこへ大阪のKさんが忽然と現れた。私の話を聞き、『支援したい』と申し出てくれた。だが、実際に現場も見ていない、ノイに会ってもいない人に支援を要請するのはどうだろうか。そういうとKさんは『ビエンチャンに行きましょう』と言い出し、当然のこととして紹介者である私もビエンチャンに飛ぶことになった。

 

7月21日(日)

1. ビエンチャン1

ビエンチャンまで

Kさんはバンコックにやってきて2泊した。費用節約のため、無料で泊まれる場所に2人一部屋で泊まった。これにより、色々な話が出来て、よかった。当日朝タクシーでスワナンプーム空港へ向かった。空港までは順調だったが、空港内が大混雑。バンコックエアーのチェックインカウンターはいつものように長い列が出来ていた。それでも2人で待つとそれほど苦痛ではない。ようやくチェックインしたのは45分後。それからイミグレを通ったが、これまた滅茶苦茶混んでいた。

 

バンコックエアーの特徴の一つに、エコノミークラスでも使える空港ラウンジがある。Kさんにもこの話をしており、興味を持っていたが、何とイミグレを抜けた時は既に出発30分前。搭乗のアナウンスが聞こえてきて、慌てて搭乗口へ。搭乗口には既に人影もない。乗り込むと、なぜか殆ど人がいない。

 

てっきり皆イミグレで手間取っていると思っていると何と飛行機が動き出す。数えてみると乗客はたったの18人。こんな飛行機、初めて見た。バンコックエアーにチェックインする人はあんなにいたのに、ビエンチャンに行く人はこんなに少ないのだろうか?機内食は朝からしっかり出たので食べているとすぐにビエンチャンについてしまった。

ビエンチャンでトランジット

イミグレはスムーズに通過した。空港にはノイが迎えに来ているはずだったが、見当たらない。携帯に電話するともうすぐ着くという。一瞬焦ったが、5分ほどで合流し、ノイの運転で市内へ。先ずはいつも泊まるホテルへチェックイン、荷物だけ置いてすぐに昼ご飯。陽光飯店という中華系のレストラン。ノイの教え子の女性2人も参加する。外国人と一緒に食事をする、それも彼女らへの教育の一つなのだろう。でも彼女らは恥ずかしがってなかなか話さない。食事はラオス式?の鍋。これはこれで美味しいし、面白い。

 

それから車はスラム街へ進んだ。一体何のために?ノイは車を下り、我々には車内で待つようにと告げる。ある家へ入り、女の子を連れて出てきた。彼女はノイの教え子で、このスラムに住む。歌と踊りが上手く、近所の子供たちを集めて歌ったり、踊ったりしているという。若き指導者なのである。

 

『彼女は家庭環境には恵まれていないが、才能はある』という。実は本日はこれからタイのノンカイでショーがあり、ノイ一行と我々はそこへ向かうのだが、彼女は家庭の関係でパスポートを持っておらず、一緒に行くことが出来ない。それが残念だと、わざわざノイは彼女に会いに来て抱きしめた。このような交流、愛情表現が大切なのだと分かる。

 

さて、そろそろノンカイへ向かう時間だが、と思っていると見慣れた家の前に停まる。ノイの実家、家具屋さんだ。ノイが是非お父さんに会ってほしいという。彼女のお父さんは、元教育者で、昔は王家の人にものを教えたこともあるという。だが2年前に脳こうそくで倒れ、現在お話はできるが麻痺が残っている。

 

お父さんは英語が流暢。必ずしもノイの活動に賛同している訳ではないことが分かる。それはそうだろう、ミスラオスでオーストラリア留学にも出し、おまけにトップアイドル。こんな娘が困難な障害児、女性支援をしなければ、優雅な生活が約束されていたはずだ。ラオスは母系社会の末子相続。実はノイが末の女の子であり、結婚して跡を取って欲しかった、との強い願いがあった。

 

それからノイの新しいオフィスへ向かう。昨年11月にあった学校は家主からの立ち退き要請があり、既に閉じていた。集まっていた子供たちも今は10人程度しか収容できない。困っていた。ラオスは本当に難しい国だ。オフィスはお母さんの土地に建てられていた。ここに数百人を収容できる寄宿舎付きの学校を建てることが彼女の目下の課題だ。その夢はいつ実現できるのだろうか?今回の我々の使命はそのための準備。

 

2. ノンカイ

簡単なイミグレ

元々の予定では午後3時頃にノンカイで活動をするとあったが、既に時間は午後4時。これがラオス時間か。だが出発したら、30分ぐらいでタイとの国境に着いてしまう。この近さは何だ。しかしイミグレで誰かを待つ。タイ式のラーメンを食べる。日が西に傾く。

 

今日のショーに出演する女の子たち20名と合流した。彼女らはビエンチャンから1時間ほど離れた場所に住んでおり、このためにやってきたのだ。車が遅れてこの時間となる。20数名のイミグレ手続きは意外と時間がかかる。みな楽しそうに待っている。

 

でもタイとラオスの国境が簡単に越えられることが分かって収穫だ。ラオス人が車でどんどんタイへ入り、買い物などしてまたビエンチャンへ帰る。確かにビエンチャンの日本人も『必要なものはタイで買う』『病気やけがはタイへ行く』という意味がようやく分かった。

 

大宴会へ

そしてイミグレを越え、ノンカイの街に入り、更には住宅街へ。今朝タイから来たのに、また今タイにいる自分に少し驚く。目の前に立派なお屋敷が見える。庭には沢山のテーブルが出され、人々が食事していた。どうやら我々を待っていたようだ。ノイたちはここではプロのパフォーマー。楽屋へ向かい、着替えや化粧を。私とKさんはいきなりファーストテーブルへ案内される。

 

見渡すと、個人の住宅の庭にテーブルが十数個、100人以上が食事をし、酒を飲んでいる。入口にちょうど頭の毛を剃った若者がいた。実は明日彼は一生に一度の出家をする。カオパンサー、雨安吾入り。タイでは大事な行事、ましてや有力者の一族にとっては盛大なお祝いの日なのであった。そんな日であるから、ラオスの有名人、ノイ一行を招いて、舞台を盛り上げようということだろう。

 

舞台では歌手が歌を歌い、テーブルではお客が大量に出された料理を食べる。実は暗くて、何が置いてあるのか、よく見えなかったが。テーブルのおじさん達が、何となく興味津々でこちらを見ている。英語が話せるおじさんがビールを持ってやってくる。田舎の宴会、楽しそうだ。

そしていよいよノイ一行のショーが始まった。ラオスの伝統舞踊、歌が披露される。ノイ自身が中心となり、ショーが展開されるが、弟子の女性たちも日ごろの練習の成果を存分に出していると思われる。このような人前で演じること、それは彼女たちの実戦練習の場であり、同時に支援者との関係を築き、支援を受ける、それがノイの目的なのである。

 

1時間ぐらいショーは続き、観衆は大喝采。その後は会場の人々を次々に舞台に上げ、一緒に歌い、一緒に踊る。何と私とKさんにもお声がかかり、舞台へ。観衆の『日本の歌が聞きたい』とのリクエストに困っていると、ノイが『中島みゆきの時代、歌おう』と言い、歌いだす。酔いも手伝い、ノイの後について、大勢の前で歌を歌ってしまった。上手いかどうかではなく、日本人がわざわざやってきて、日本語の歌を披露したことに聴衆は満足したようで、人々が拍手してくれた。これも一つのノイマジック。人をその気にさせる、それは教育の基本だろう。

 

会がほぼお開きになり、皆が帰っても、歌い、踊りまくっていたタイ人のおばさんがいた。Kさんいわく『まるで大阪のおばちゃんのノリや』『吉本にスカウトしたい』と。確かに疲れしらず、ノリノリで人のことも目に入っていない様子。すごいの一言。

 

気が付くと時刻は夜中の12時。ノイが『イミグレは10時に閉まったから、今日はノンカイに泊まりましょう』という。え、折角ビエンチャンのホテルにチェックインしたのに。慌ててホテルに電話して、今日帰らないことを告げる。でもどこに泊まるの?この家の家主がホテルを手配してくれるという。

 

ところが、今晩は宿が結構埋まっていた。カオパンサーの影響かもしれない。2₋3軒車で訪ね歩き、ようやく1軒見つかる。ところが・・、その部屋には小さなベットが1つだけ。『ここに2人で寝て』と言われて、Kさんと唖然としているうちに、皆行ってしまった。辛うじてお湯が出来るシャワーがあったようでKさんはシャワーへ。既に1時半であり、オジサンの私は、ベットの端で丸くなるとすぐに眠りについてしまった。Kさんと私は1つベットで夜を過ごした。『一生忘れることのできない経験』をした、と後にKさんは語る。

7月22日(月)

カオパンサー

目覚めは爽やか、とはいかなかった。何だか頭が重い。今は何時だろうか。鳥のさえずりが聞こえる。外で声がした。何と既に皆出発の準備が出来ていた。タイ時間ではないな、この速さは。周囲を見渡すと何もない田舎。ここはここで環境が良い。

 

ビエンチャンへ帰るのかと思いきや、昨晩の宴会場へやってきた。そこにはノイチームのメンバーがいて、朝ごはんを食べていた。我々も朝ごはんかと思ったが、なぜかそこを離れる。説明は何もなく着いて行くしかない。

 

朝市へやってきた。市場を見せてくれるのか、と思いきや、誰かを探しているようだ。何と昨晩のメンバーの数人が待っていた。そこで朝ごはんを食べるために。ようは連絡が上手くいっていなかっただけのようだが、これはこれで面白い。カオトーンと呼ばれるお粥が食べたかったが、なぜかなかった。目玉焼きの上にひき肉を散らした食べ物が美味しかった。

 

そしてビエンチャンへ、と・・、いやお寺へ来てしまった。そうか、今日はカオパンサー。その儀式に参加するようだ。これは願ってもないチャンス。Kさんははてなマークを顔に出していたが、従うしかない。

 

そのお寺は結構な敷地がある比較的新しい所だった。恐らくは地元の有力者が寄進したのだろう。真新しい仏像が屋外に設置されている。更に新しい仏像の建造も行われている。タイでは徳を積むことが重要であり、来世へのカギとなる。宗教については色々な意見があると思うが、今の日本を考えると、『来世思考』は必要ではないか、と感じることが多い。

 

儀式が始まった。えらいお坊さんが講話する。今日出家する人々が数人、袈裟を着て頭を剃り、並んで前に座っている。講話はタイ語で意味は分からないが、座って聞いているだけで心地よい。一生に一度の出家、これも両親に対しる功徳だというが、出家する気持ちはどうなのだろうか。

 

その後信者がお坊さんにご飯をサーブする。これも一つの功徳。出家者は一つの細い紐を持ち、食事をしていた。我々にも食事が振る舞われる。麺に汁やおかずを掛けて食べるが、これは美味しい。また食べ過ぎる。信者は偉いお坊さんの周りに集まり、また何か話を聞いている。この気持ちは大切だ。

 

 

初めてのマニラをスイスイ歩く(3)フィリピ―ノに間違えられ

18年の時を隔てて

夜は国際機関にお勤めのFさんと再会。実は今回のマニラ訪問は直接的には昨年彼女とバンコックで劇的に再会したのがきっかけだったとも言える。バンコックでお知り合いのA師主催のヨーガ合宿に参加した際、マニラから参加の日本人女性が目を惹いた。彼女の名前に何となく見覚えがあった。実際会って元同業者であることを確認すると同時に「Fさん、18年前にこんな取引しましたね」と口をついて出てきた。そう、18年前同じ取引を一緒にした人だったのだ。その後彼女は海外の大学院にも行き、転職もして、今では国際機関で高い地位に着いている。その激務を癒すために、ヨーガをやっているという。国内にいるより余程条件の良い職場のようだ。   

だが彼女の口から出てくるのは、マニラやフィリピンの悪口が多い。昔の私も中国の悪口ばかり言っていたのを思い出す。現地で当事者になれば目の前の事態に対処せざるを得ず、ついついいい話にはならないもの。マニラには楽しみが無い、文化が無いという言葉が象徴的だった。それでも定年までマニラで働くと言っていたから、口で言うほど嫌いではないのかもしれない。

彼女が予約してくれた店はマカティで有名なフィリピン料理屋、ミルキウエー(http://cafe.milkywayrestaurant.com/)。カジュアルなカフェのように見えたのだが、それなりの料金を取る立派なお店でちょっと窮屈。マネージャーの女性がテキパキと我々の要望により、メニューを決めていく。

店は満員で、ここでもマニラの消費の高さを実感する。このビルの下には同じグループの経営による日本料理屋もあった。リトル東京とは違い、フィリピン人の富裕層がやって来るのかもしれない。日本の外食店にもビジネスチャンスは大いにありそうだが、どうなんだろうか。ともかくFさんとの再会で日本女性の活躍とそのストレスを見た。

4月6日(土)  モール巡り

翌日は疲れていたので、バスの旅をしてみることにした。昨日聞いたグリーンヒルというモールが面白そうだったので向かう。またホテルのフロントで行き方を聞き、ジプニーに乗る。「エクスポートバンク」の前で降りてSMメガモール行きのバスに乗れ、とのことだったので、従う。だが、ジプニーを降りる場所も分からない。運転手に聞くと「ここだ」というので、降りる。しかしバス停などは見付からない。そんな時、マニラは便利だ。英語が通じる。2-3人に聞くと、バス停などはなく、道路脇から適当に乗ることが分かる。言われたバスに乗り込む。

バスには運転手の他に車掌が乗っている。彼に行き先を告げて料金を払う仕組み。道が分からない者には便利だ。バスは観光バスタイプで乗り心地も悪くない。ただ人の乗り降りが非常に頻繁なのに驚く。マニラではやはり歩く人はいない。ちょっとの距離でもバスやジプニーに乗る。

少し乗っていると環状道路のような所へ出て、スムーズになる。電車もこの道路沿いに走っている。そしてメガモールに到着。ここもSMの経営。相変わらずデカい。モールの中身は他とさして変わらない。それならなぜこんなに同じようなモールがあるのか、不思議でならない。吉野家で牛丼を食べてみるが日本とはかなり違い、今一つ。フィリピン人は天ぷらが好き、とかで、弁当に天ぷらを入れ、天丼も出している。

メガモールからグリーンヒルまで歩いて行けるのかと思い、歩き始めたが、これはとんだ間違いだった。どこまで歩いても見えてこない。途中で人に聞くと「ジプニーに乗れ」と言われ、わざわざジプニーを停めてくれた。有難い。そこから5分で到着したが、かなり消耗した。

グリーンヒルの建物は低いが、敷地が広く、ゆったりとした感じがある。中に入るとバックや服などの安物を売っている。この雰囲気は東南アジアの市場だ。メイドインチャイナもあるが、タイあたりから流れてきている物も多い。値段は中国の方が安いかもしれない(売り子は中国製は良くないと言っていたが本当だろうか)。真珠のマーケットがある。女性はこれを目当てに来るらしい。売り子はミンダナオ出身が多いというから、その辺で採れるのだろう。

骨董屋もあり、PC関連の店も多い。これまでの高級モールと違い、何となく落ち着く雰囲気がそこにある。中庭にはレストランがいくつかあり、そこでパンケーキを食べた。沢山の人がモールに来ていたが、レストランは混んではいない。やはり料金が高いからだろう。

キアポ

次に行く宛がなかったが、ホテルに戻る方法も分からない。仕方なくグリーンヒルに来たバスに乗り込む。どうやらキアポという所へ行くらしい。終点までの切符を買う。少し渋滞したせいもあるが、このバス、なかなか目的地に着かない。途中でLRTの駅が見えたので降りようかと思ったが、そのまま進んでみることに。

1時間ぐらい乗って、ようやくキアポに到着。実に立派な教会があり、そこを起点に市場が形成されていた。門前町の雰囲気。ずっと歩いている内に、少し雰囲気が違うが所へ出た。そこはイスラム教徒の居住区だった。この辺りは貧しい。後で聞くと、この辺はマニラでも一番危ない場所、とされているらしい。確かにその雰囲気はあった。

何故かすぐ近くにマラカニアン宮殿があると聞き、行って見ることに。直ぐと言っても結構歩いたが、付近は下町風でとても宮殿があるとは思われない。ずーっと行くと、立派な門がある。ここはマラカニアン宮殿か、と門番に聞くと、そうだ、という。だが許可なく入ることは出来ないとも言う。「日本から態々来たんだ」と言ってみると、上官が出て来て、「写真は撮るな」といって見学は許してくれた。

中は住民が住む居住区だった。その一角に立派な建物があり、昔マルコスが住んでいたんだろうな、と思われたが、きっと言われなければ分からないような建物。イメージ先行で来てしまい、ちょっとビックリ。更に中へ入れば色々とあるかもしれないが、そこの門は固く閉ざされていた。

取り敢えずさっきバスを降りた教会までジプニーで戻る。流石に疲れた。外は本当に暑い。もうこれ以上は限界だと、ジプニーを探すが、良く分からないので適当に乗る。今度は本当にどこを走っているのか分からず、とうとう終点まで来たが、どこか分からない。直ぐ近くに動物園があり、位置を確認。再度ジプニーに乗り、何とかリベルタードへ。

そこで昨日も両替した両替所へ。ところが今日は両替できないという。実は昨日身分証の提示を求められた時に香港のIDカードを出していた。どうやらこれはダメだったらしく、断られる。困っているとおばあさんが「道の向こうにあるよ」というので行って見ると、確かに両替所があり、しかも身分証提示不要だった。どうなっているのか。

4月7日(日)  フィリピン人と間違えられる

マニラ最終日。何となく慣れ親しんだこの街、離れがたいが、疲れも相当に溜まる。今日は夜便なので時間を潰す必要がある。しかしもう歩く気力はない。午前中はホテルでゆっくりして、チェックアウト、荷物を預けて、ショッピングモールグリーンベルトへ。もうすでに行った場所だが、ここならホテルからも近く、何より涼しい。

先ずは腹ごしらえと、先日Fさんから勧められた地元のレストラン、Max’sへ行く。どこのモールにも大体あるようだが、このグリーンベルトのお店は大繁盛でお客が溢れていた。ちょっと待って店内へ案内される。普通は4-10人がけのテーブルだが、ちゃんと1-2人用シートがあり、便利。何だか幅広い顧客を念頭に入れているようだ。一番驚いたのは、ある意味でファーストフード店であるこの店で、テーブルごとに担当が決まっていたこと。私の所にも若い男の子がやって来て、「何かご用命があれば私に」と言って、オーダーを取って去って行く。不思議な感じもしたが、良いサービスだなと思えた。

その後先日シンガポールで取材したTWG(http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5658)の店を探す。このTea Shopチェーンはアジア各地の一等地にのみ出店しており、お茶文化が無いマニラにも店を出していた。店内はお客で埋まっており、観光客を含めて多様な層を取り込んでいるように見えた。「フィリピン人も珈琲ばかり飲んでいるわけではない」との店長の言葉が印象的。茶畑が無いと言われるフィリピンで、お茶のブームは来るだろうか。

今回のマニラ滞在では暑い中、良く歩いた。結果自分でも分かるほどに顔が日焼けしてしまい、黒々としてきた。すると滞在3日目あたりから、道を歩いているとフィリピン人の女性から道を聞かれ、4日目にはショッピングモールで男性から店の場所を聞かれ、そして今日はグリーンベルトで3回も道を聞かれた。「私は外国人だから分からない」と英語で答えると、若い女性は目を大きく見開いて、黙って行ってしまったが、年配の女性は「あなたがフィリピン人出なくて誰がフィリピン人なの」という最上級の褒め言葉を頂き、更には別の女性からは「あなたは完璧なフィリピン人よ」とダメを押された。

今まで一度もフィリピン人に似ていると言われたことが無かっただけにこのマニラでの反応は意外だった。だが後日香港の居酒屋で日本人3人で飲み会をしている時に、ウエートレスが偶々フィリピン人だったので「この3人に中でフィリピン人に似ている者はいるか」と聞いてみると、彼女は真っ直ぐに私を見て「ユー アー フィリピーノ」というではないか。私のどこがそんなに似ているかはいまだに謎だが、これが危険な目に合わなかった最大の要因なら感謝しなければならない。

その後は疲れたのでスタバでネット。ここは本当に大繁盛で席を確保するのが大変だった。特に電源のある場所を見付けた時はホッとした。向かいに座ってフィリピン人が実に流暢な英語で話し掛けてきて、ひとしきり雑談していると、何と無料WIFIの時間が終了していて、結局あまり活用できずに終わる。しかしこれだけ混んでいると時間制限したくなる気持ちは分かる。

仕方なくホテルに戻り、荷物を持ってタクシーに乗り込む。運転手はまたもや陽気で誠実。何の問題もなく、30分で空港に到着、料金も250pだった。だが空港入り口は荷物検査があり、大混雑。急いでいる人は大変だろうと思うほど、待たされ、更にはチェックインカウンターも長蛇の列。何とかならないものだろうか。

そしてカフェでネットをやり、搭乗時間に合わせて搭乗口へ向かうと、何と突然のゲート変更。何のアナウンスもなく、走って新ゲートへ行く羽目に。これもまたフィリピン。兎に角無事にマニラを離れ、ホッとするやら、物足りないやら。




初めてのマニラをスイスイ歩く(2) 街を歩きまくる

4月4日(木)   マニラの定食

翌朝はスッキリ起きた。窓が無い部屋は、実は眠りには快適なのだ。このホテルは大きな道に面していないこともあり、静か。光も入らないうえ、昨晩のお酒もあり、眠りは殊の外、深い。勿論マニラの暑さによる体の疲労もあるだろう。ゆっくり起きて、ロビーでダラダラとネットして。

そして歩いてマカティの中心に向かう。快晴のマニラ、歩いていると暑い。道は非常にきれいで、迷うこともない。グリーンベルトという巨大ショッピングモールに着く。建物が5つに分かれていたが、1つ1つも相当に大きい。レストランからブランドショップまで、これでもか、というほど並んでいる。各建物への出入りは厳しくチェックされており、荷物検査がある。ここを通り抜けて向こうの端まで行くと4回ぐらいチェックを受ける。セキュリティはしっかりしている?

そして何とSM(シューマート)と呼ばれる別のショッピングモールまで行きついてしまう。何とここマニラではショッピングモール同士が連携して、商圏を繋いでいるのだ。確かに東南アジアの人々は私のように無暗に街中を歩き回ったりしない。そこをきちんと捉えている。モール内は凄い人だが外からは分からない。面白い。

マニラの特徴の一つはファーストフードが多いこと。マックやケンタは当然ながら、地元企業も健闘している。ジョリビーという地元の店に入って見た。午前11時前でも店にはかなりの客がいた。東南アジア型、いつでもどこでも食べるのだ。食べている物は定番のフライドチキン+ご飯+(コーラ)。日本では考えにくい組み合わせだが、インドネシアや沖縄でもこのパターンで食べるようだから、これはポリネシアン系と言えるかもしれない。

皆楽しそうにお話しながら食べている。一人の女性は携帯をいじっている。アジアのどこにでもある光景。店もきれいだし。しかしショッピングモールも盛況、レストランも盛況、一体どこからこのお金は出て来るのだろうか。

因みに夕方マックに入ってみた。所謂バリューセットもあったが、全てスモールサイズというお得セットもあった。60pぐらいでポテト、ハンバーガー、コーラが付いてきた。これはまた一つの工夫だろう。客層はかなり広がったはずだ。子供でも学生でも皆それを買って食べている。お金のある人もあまりない人も良く食べる国のようだ。

マニラを歩けない駐在員

昼過ぎに某日本企業を訪問した。フィリピン経済は好調だが、決して好調な産業がある訳でもなく、出稼ぎ者の送金によるところが大きいと聞く。そして貧しい家庭に送金が入れば消費にすぐ回るので経済はよい。ショッピングモールが多く出来ているのもその表れ。


   

また華人は福建人が殆ど。経済を牛耳っているが、大陸との関係は薄い。大陸からの投資はフィリピンにはあまり来ていないと聞き、意外な感あり。華人は国内だけで資金を回しているらしい。日本企業の視察は昨年の尖閣以降、増えてきているが、実際の投資は設備拡張などすでに投資している企業の活動が多い。やはりフィリピン投資はハードルが高いということだろうか。コラムには書いてみた⇒ http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5685

何と言ってもマニラの駐在員生活で一番驚くのは、「公共交通機関乗車禁止」だろうか。バスも電車も、ジプニーは勿論、タクシーにすら乗ったことが無い人がいるのは異常。20年ほど前の誘拐事件はいまだに記憶にあるものの、もしそれ程に危険なのであれば、投資など増えるわけがないだろう。ちょっと違和感あり。フィリピンに駐在していても、庶民の暮らしなど全く分からないだろう。コンビニなど小売りの展開が始まっているが、一般フィリピン人の嗜好などはフィリピン人社員に任せるのかな。「チャイナタウンなど行きたくても行けないよ」という言葉がやけに複雑に聞こえた。

夜は香港駐在時代、2度ご一緒したWさんと会う。彼はわざわざホテルまで迎えに来てくれ、そして何とフィリピンの服をくれた。「これに着替えていこう」という。洋はあまり日本人らしい服装をしていくのは良くないという判断。着てみると着心地が良いので気に入ったが、一般のフィリピン人ならジーンズにTシャツだろう。返って意識し過ぎか。

車で海鮮レストラン街へ行く。ここはマニラ湾に近い。かなり賑わっており、観光客が市場風の場所で魚やエビ蟹を買い、レストランに持ち込んで料理してもらうスタイル。香港や福建にも良くあったな、と思い出す。

売り手のおばさん達は必至に声を掛けて来る。英語もあれば中国語もある。台湾、香港、中国大陸のお客も多い。広東語や福建語も飛び交う。面白い。ここの魚が安いのかは疑問だが、観光地としては良いかと思う。

ガルーパ、エビ、カニ、香港で食べる味だ。懐かしく、たらふく食べる。レストランも混んでいた。ようやく席を確保。団体さんが楽しそうに食べている。ここはフィリピンではない、感覚的には中国だ。フィリピン人の運転手さんはあまり味方がいない、といった雰囲気で黙々と食べている。夜遅くても子供も大勢いる。

Wさんいわく、「フィリピンには裕福な人もいるが、貧しい人も沢山いる。ニコニコして親切な人が、ある日はスリをするかもしれない。そんな簡単な社会ではない」「もっと自由に暮らしたいが、事件は日々起こっている」と。確かにそうかもしれない。日本人は単純に「マニラは危険な所」などと刷り込まれるが、実際には同一人物が日によって行動を変えることもあるかもしれない。それは勿論フィリピンだけの話ではない。

4月5日(金)   アジア最大を目指すモール

昨日駐在員の皆さんと話をしていて何度も出てきた場所、それは「モールオブアジア」だった。最初は何のことか分からなかったが、どうやらショッピングモールだと分かり、昨晩Wさんの車から実物を見た。その大きさに興味を持ったので、自力で行って見る。

相変わらず愛用車はジプニー。多分この辺に行くだろうと勝手に推測して乗り込むとある程度の所へ行けるようになってきた。これは便利だ。このモールは海岸沿いにあり、周囲の開発はこれからという感じで、遠くからでもよく見える。というかある程度の場所から見ないと全体像は掴めないほど大きい。マンション建設なども行われ、将来は一大コンプレックスを目指している。マニラは午前から日差しが強い。

午前中なのにお客がどんどんモールに吸い込まれていく。お金持ちは運転手付自家用車で、お金のない人はバスやジプニーでやって来る。客層が広い。そしてモール自体は馬鹿でかい。日本食レストランあり、香港系、台湾系あり。日本企業の広告出店も多い。店を探すのも容易ではなく、あまりの広さにお客は少なく感じられる。聞くところによればここのオーナーSMグループではこのモールをアジア最大にする計画だとか。

ユニクロも出店していたが、お客はあまりいなかった。吉野家は牛丼屋というより、弁当屋のイメージで売っていた。普通のショップはあくまでも見学の場所のようで、フードコートに皆が集まり、込み合っていた。100p前後の定食が飛ぶように売れ、席を確保するのが大変。そして冷たい飲み物は必ず飲む。

一番驚いたのは、モール内にアイススケート場があったこと。フィギャスケートの練習をする少女、アイスホッケーをするグループなど、この南国フィリピンでもスケートをする人たちがいて驚き。周囲には多くの人が好奇心いっぱいにその光景を見ている。何となく涼しい感じがするのだろうか。

マニラ湾散歩

モールを後にして、マニラ湾沿いを歩いて行く。暑いが青空に海が映える。ついつい歩いて近寄る。遠くに荷揚げするクレーンが見える。近くには開発中のビル群が見えてくる。これからどんどん開発が進みそうな雰囲気である。

暑い中、汗をかきながら、そして海風に吹かれながら歩く。ある一角に来ると足が止まる。そこは湾の横にバラック小屋が建つ場所。上半身裸の男たち、はだしの子供達、海で泳ぐ人々、が見える。特に危険はないが、このような場所が日本的には危険と感じられる場所、なのだろう。

更に進むと、船着き場があり、周囲では釣りをする人々がいた。決してきれいとは言えない海水だが、魚は釣れている様だ。湾に浮かぶ小舟と空の雲がよい。欧米人が子供達にカメラを向けている。皆、人懐っこい。でも何故か私は彼ら一人一人にカメラを向ける気にはならない。

ベイエリア、ロハス大通りを歩いて行く。馬車の御者がしきりに声を掛けて来る。観光客目当てなので無視するが意外としつこい。マラテ教会に辿り着く。実にいい形の建物だ。元々は1588年に創建された。現在の建物は18世紀の再建か。この付近も一人で歩いてはいけない、と言われていたが、昼間のせいか、危険な雰囲気はない。夜は飲み屋などが多いようだが。歩き疲れたのでセブンイレブンで休む。コンビニ内で飲み物飲めるし、食べ物食べられるのは良い。

カジノも街中にあった。ただこの辺の雰囲気は確かにあまりよくない。更にどんどん歩いて行くとリサール公園に出た。ここまで既に数キロは歩いている。フィリピン人のみならず、信じられないことだ。この公園の脇で、仕事を求める人と人材を探す人の出会いの場があるように見えた。失業率が高いフィリピン、どんな人材が探されるのだろうか。手に職を持った人が集まっているようだが。

 

イントラムロス

マニラで一番の観光スポット、イントラムロスに着いた。ここまでモールオブアジアから歩いて2時間以上。顔はほてり、色が黒くなったような気がする。イントラムロスは16世紀にスペインによって建てられたマニラでも最も古い街。「壁の内側」という意味らしい。第2次大戦中、侵攻した日本軍に対して米軍が空爆を行い、この街はほぼ壊滅した。現在の街並みは80年代、当時のマルコス政権、イメルダ夫人の指揮で復興したとか。

確かに観光地らしくきれい。昔風の建物が並んでいるが、皆どこか新しい。ここでもガイドのニーちゃんに付き纏われる。これは本当に困るが、相手も困っているのだろう。団体さんの横をすり抜けて逃れる。

サン・アグスティン教会、世界遺産に認定されている教会で、重みがある。米軍の爆撃の際も唯一残ったのがここだという。神のご加護が強いのだろうか。ここは入場料を払って中へ入ってみる。ドーム型の内部、非常にきれい。一般の信者は無料でここへ入れるのだろうか。脇には納骨するためのロッカーのように見える壁がある。長い歴史が感じられる。

マニラ大聖堂、という立派な教会もあったが、何となく新しかった。戦後の復興らしい。西に傾いた太陽が聖堂を照らすと、雰囲気は出てきた。だが私には体力が残っていなかった。コンビニで飲み物を買い、飲み干すとホテルへ戻るべく、イントラムロスを後にした。やはり後世作られた街には限界がある。私の体力にも限界がある。

何とかジプニーに乗り込み、リベルタードへ向かうが、何故か途中で間違いに気が付き降りる。そうなると自分が何処にいるのか分からない。疲れて頭も働かない。また別のジプニーに乗り、見慣れた光景を探し、更に歩いて、何とかホテルに辿り着く。夜までぐったりと休息する。マニラはこんなに歩くものではない。





初めてのマニラをスイスイ歩く(1) チャイナタウンには泊まるな

《初めてのマニラをスイスイ歩く》 2013年4月3日-7日

フィリピンに行ったのは、確か1992年末。家内が次男を妊娠中に、安定期だというので旅行に行くことにしたのだが、今考えてみると、その旅行先にフィリピンのセブを選んだところに我が家の特色が出ている。あの時は香港‐セブの直行便が就航したばかりでプロモーションがあり、妊婦という理由でビジネスクラスを使う豪華な旅となった。行きはフィリピンエアー、CAのお姐さん達は我が長男がかわいくて仕方がない、といった雰囲気で2時間のフライト中ずっと付きっ切りだった。お客が殆どいなかったという理由が大きいが、長男があんなにモテたのはあれが最後ではなかろうか。

だがその時のセブ滞在中の印象は正直あまりよくなかった。その為か、お茶畑が無いためか、フィリピンには以後20年ご無沙汰となった。そして今回ある企画で「マニラ」という文字が浮かんだところへ、突然18年ぶりの再会を果たした人がマニラ在住だったなど、様々なご縁が重なり、初のマニラ上陸を果たしたのである。

4月3日(水)  1.マニラまで   チャイナタウンには泊まるな

今回の企画は「アジアで中国語を使ってみる」というものだった。以前香港でご一緒した人が現在マニラ駐在となっていたので、連絡してみると「チャイナタウンには泊まるな。もしどうしても泊まらなければならないなら、ホテルから一歩も出るな」とのメールを貰って驚く。

私には仕事らしい仕事はないが、敢えて言えば「アジアを歩くのが仕事」であり、ホテルから出るな、と言われればいわゆる「飯の食い上げ」になってしまう。どうしたものか、そんなに危険なのか、マニラは。他の人々も「気を付けるに越したことはない」というので、取り敢えず助言に従い、ホテルは比較的安全と言われているマカティ地区、それもリトル東京と呼ばれるエリアに取る。

それにしてももし本当に危険ならば、日本人は行ってはいけないだろうし、日本企業がどんどん進出するなどはもっての外ではないだろうか。まあ、これまでアジアを歩き回り、一度も危険な目にあっていない私、少し気を引き締めて、マニラ初上陸と行こうか。

2.マニラ   空港で

今回はキャセイに乗って行く。LCCもあったが、空港が街から遠いクラークに着くというので、一応警戒してニノイアキノ空港へ向かう。最近はLCCのお蔭でキャセイも運賃が安くなった。香港の空港で搭乗しようとすると、横でほぼ同時刻にフィリピンエアーの搭乗も始まった。どちらもそうだが、アマさん等出稼ぎ者が多く見られた。機内も満員。香港‐フィリピン間の人の移動は想像以上に多い。

マニラの空港に着くと、午前中ということもあり、入国はスムーズ。バッゲージクレームの所にあるボード、日本語、ハングル、英語、そして中国語で書かれていたが、その字が簡体字ではなく繁体字。そしてイミグレに並んでいた人々も中国大陸人ではなく台湾人が多数いた。中華航空と同時に着いた、というだけのことではなさそうだ。空港で両替を行う。そして携帯のシムカードを買う。他のアジアと何ら変わらない。シムカードは10ドル程度で高くはなかった。

そして初の緊張。タクシーで市内へ向かう。ガイドブックにも沢山書かれていたし、助言にも先ずは空港のタクシーと言われていた。第一関門だ。流しのタクシーに乗らないのはアジアの鉄則だろう。空港で口から出ると向こう側にクーポンタクシーと書かれた乗り場があったが、タクシーは停まっていなかった。これが一番安心なのかと思いながらも、ほかの乗客はイエロータクシーの方に向かったので後をついて行く。

ごくごく普通にタクシーに乗り込む。ホテルの場所を運転手に告げると、「分からない」と英語で言い、紙をまじまじと見る。取り敢えず車を出したのでちょっと警戒。だが空港を出た所で車を停めて、自分の携帯を取り出し、ホテルに電話して場所を確認。その後も陽気に会話する。英語が通じるし、陽気だし、問題は感じられない。勿論平日の午前中、明るい陽射しを浴びていい気分だ。ただ渋滞がひどく、車はなかなか進まない。夜だとちょっと心配だったかもしれない。30分ほどでホテル着。350pで特に料金も問題なし。

いきなりジプニーに乗る

ホテルは小さなファミリーホテル。フロントは陽気なフィリピーノ。しかも日本人だと分かると片言の日本語を話しだす。マニラでは日本に行ったことのあるフィリピン人を探すのは難しくない。それ程親近感がある。部屋は2階で窓はない。ネットもロビーでしか繋がらない。それでも居心地は悪くない。

まだ昼前だ。先ずは何をおいてもチャイナタウンへ行こう。ただここが何処だか正確な位置すら分からない。地図が欲しかったが、ホテルにはなかった。仕方なく、フロントの陽気なお姐さんに聞いてみると「ジプニーでリベルタードまで行って、LRTで行けるよ」と事もなげに言う。まあいいか、これも私の旅、とホテルを出る。一本向こうの大きな通り前を眺めるとあのド派手なジープを改造したジプニーが何台も走っていた。だがどれに乗ったらよいのだろうか、英語は通じるが日本人と分かると物を取られるかもしれない、と一瞬頭をよぎり、茫然と立つ。するとジプニーが寄って来て客引き。車の横を見ると「リベルタード」と書かれているので終点まで乗ることにする。


   

ホテルのオジサンから「ジプニーでは8p以上は渡すなよ」と言われていたので、小銭で8p用意。だがどうやって払うんだ。見ていると乗って来た客が運転手に近い客に金を渡し、その客が運転手に渡している。運転手は運転しながら手だけを後ろに出し、受け取る。面白い。

20分ぐらい乗っているとリベルタードに着いた。が、駅は全く分からない。運転手に聞くと手で方向を指す。その方へ行くとちゃんと駅がある。ジプニーはとても便利な乗り物。乗り降り自由、料金固定。フィリピン人でも携帯を掏られたりするらしいが、私はスマホも持っていないし、リスクない。

LRTはモノレールのような電車。こちらは駅で切符を買うため、行先が分からないと乗れない。適当に買って乗ろうとするが、ホームは人で溢れている。女性専用車両もあった。電車もなかなか来なくて、ようやく来た電車には人が殺到。まるで東京のラッシュ時。しかも冷房が弱くて、皆汗だく。団扇を持って乗り込む客もいるが、人が多くて用をなさない。そして何よりも人が接近し過ぎて、まさにスリの危険がある。ジプニーの方がよほど安全であると言える。20分ぐらい我慢して、カリエドという駅で下車。

チャイナタウン

もう時間は午後1時。腹が減る。チャイナタウンへ行けば美味しい中華があるかもしれないが、我慢できずに駅の下の食堂を眺める。豚肉の煮込み、ひき肉炒めなど、ウマそうなおかずが並んでおり、2品選んで席に着く。フィリピンぽく、コーラも頼む。ご飯とスープも付いてきて100p。味も悪くない。イメージ的には中華料理だが、言葉は全て英語、顔だちも中華系でない人々がやっている。

チャイナタウンはそこから歩いて10分弱の場所にあった。途中で両替所を覗いたが、レートは空港とそう変わらないし、何より中国語は全く通じなかった。これは衝撃。両替のような仕事こそ、華人がやっていそうなのに。

入り口の門には辛うじて漢字が見えた。中へ入って行くと、如何にも中華街という雰囲気があり、宝石などを売る小さな店が所狭しと並んでいた。店頭では若い女性が盛んに客を呼んでいた。近づいて行って中国語で話し掛けるが、顔は中華系ながら英語で返事が来る。分かったことはここの華人は殆どが福建系で、年寄り世代は家で福建語を話し、若者はタガログか、英語、そしてたまに福建語を使い、普通話を使うことは稀らしい。

チャイナタウンの規模は思ったより大きい。どんどん奥に入って行くと、教会が見えた。立派だ。そして礼拝の時間を見ると福建語もあり、ちゃんと普通話の時間もあった。普通話を話す人もいるはずだが・・。少数派なのだろうか。

お茶を売る店も全く見付からない。飲茶屋を見付けて聞くが、普通話も通じなければお茶は無料の物しかないという。華人がこれだけいて、しかも福建系なのにどうしてちゃんとしたお茶を飲まないのだろうか。暑いから冷たいものが飲みたいのは分かるが・・。

不動産開発の広告がデカデカと漢字で出ていた。周辺では開発も始まっており、古い家が取り壊されていた。これからここは変貌を遂げるのだろうか。華人に関しては数人に話を聞いたが、バンコック以上に「自分が中華系」であるという意識が感じられない。完全にフィリピーノに同化しているという人も多い。この国の華人の歴史はきっと厳しいものだったのだろうと思う。

帰りはLRTに乗る気になれずに、ジプニーを適当に乗り継いでホテルの近くまで戻った。リベルタードの駅の近くでは近々行われる選挙の為か、政治家の支持者集会が行われていた。その熱気と人の多さ、これには驚いた。

リトル東京

夜はホテル近くのリトル東京へ行く。20年前に香港で私の上司であったTさんと再会した。Tさんは転職して今はマニラの国際機関に勤務している。以前より「マニラにも来たら」と言われていたが、茶畑もなく、チャンスが訪れないうち、いつしか10数年が過ぎていた。

リトル東京は10軒ほどの日本料理屋さんが集まっている地域。通りに面した店もあるが、おもちゃのような鳥居を潜ると、ある意味で北京の四合院のような作りになっており、中庭にテーブルとイスが出ていて、そこでビールを飲みながら食べている人々もいる。お客は日本人も多いが、店によってはフィリピン人が多いところもある。味の問題なのか、経営者の関係なのか、なかなか面白い。

我々は関取なる、お店に入る。ここの料理は実に美味しかった。ちゃんこ鍋などもあるようで、うどんはコシがあって、お勧め。店内は畳席とイス席があったが、早い時間から日本人で超満員。驚くほどの繁盛ぶり。まるで日本の居酒屋にいるようだった。

久しぶりのTさん、もうすぐこの地で定年を迎えるとか。まだまだお元気で、当分はマニラに居るようだ。今思えば、「扱いにくい部下」だった私を歓待してくれた。これもご縁と言えばそれまでだが、ご縁に加わる何かを感じる。後日香港でTさんと私と一緒に働いた香港人と再会した。カナダに渡って18年の彼、風貌は変わっていたが、Tさんのことはよく覚えていて、私が交流再開の橋渡しをした。マニラのTさん、放浪する私、カナダ移民のB、香港に残ったA。香港らしい展開だ。

この日は夜遅くまで久しぶりに痛飲した。千鳥足でリトル東京を後にしたが、この付近に危険な感じは無く、ホテルに帰り着き直ぐに眠りに着いた。





アジア一の先進国 シンガポールを旅する2013(4)食事は美味い

3月4日(月)  ミャンマーを目指す

翌朝も快晴。散歩日和だった。またまたラッフルズプレースで予定があり、歩いて行く。もう何年も使っているような慣れた道だ。以前シンガポールの象徴と言えば、マーライオン。今回時間があったので行って見た。相変わらず観光客は多く、日本の高校生が修学旅行で来ていた。

マーライオンを見たのは10数年ぶりだったと思うが、以前より吐き出す水に勢いが感じられた。これは経済の勢いなのだろうか。向こう側にはマリーナベイサンズも見える。ライオンはマリーナベイに向かって何かを語っているようにも見えた。

そして10数年来のお知り合い、Oさんを訪ねた。彼は上海の不動産業で成功しており、ここ数年はコンタクトしていなかったが、私が会社を辞めた頃、彼も拠点を何故かシンガポールに移したことを知り、興味を持っていた。上海では大きなオフィスの社長席に座っていたのだが、今回訪ねてみると狭いレンタルオフィスにアシスタントと2人、こじんまり仕事をしていた。

「シンガポールの家賃は物凄く高い」が第一声だった。「でも家族の生活などを考えると上海より環境は遥かに良い」とも言う。そして事業の狙いは「シンガポールからアジアを見渡して、次の潜在市場を発掘する」ことらしい。そしてその狙いはどうやらミャンマーに付けられている。「今のミャンマーでは不動産開発は難しいが、今から準備して5年後はあるんじゃないか」ということらしい。先ずは日本人駐在員向けの賃貸の仲介から入り、徐々にマーケットに慣れ、人脈を作り、そして大きな事業に繋げる予定とか。

これまでマレーシアやインドネシアなどアジア各国を回り、不動産を見て来たOさんが言うと根拠が無くてもかなりの説得力がある。やはりシンガポールからアジアを見る、そしてそこからチャンスを見付ける、そんなスタイルが求められているような気がした。

お昼は歩いて河沿いへ。ボッキーと呼ばれるエリア。10年前に来たことがあったが、見違えるほどきれいになっていた。そこで風に吹かれながらメキシカンを食べる。これまたシンガポール風か。

TWGで聞く

実は朝、昨日気になっていたTWGのことが知りたくて、本社を訪ねて行ってみた。私の突撃スタイルだ。ホテルから歩いて30分ぐらい掛かったが、良い散歩だった。しかしHPに記載された住所の場所に行ってみたが、そこは空だった。どうやら移転したようだ。仕方なく電話を入れてみる。すると何と社員に日本人がいることが判明。事情を話すと親切にも広報担当者とのアポをセットしてくれた。

そして午後、再びマリーナベイサンズのお店に向かい、そこでお話を聞いた。その要旨は既に書いているので以下を参照してほしい。兎に角面白い話を聞き、良い経験が出来た。お店には日本人観光客が何人も来て、お土産にお茶を買っていたのがとても印象的だった。

フードコート

夜は先日会ったMさんとフードコートへ行く。ここが一番落ち着くのは何故?インドカレーとチキン、麺など、安くて美味い物が並んでいる。地価の高いシンガポールで、このようなフードコートがあちこちに作られているのも、政府の政策だろう。地元民も観光客も利用できて、合理的だ。

Mさんはシンガポールで先生をしているが、今般転身を図るらしい。ちょうど送別会シーズンの忙しい所を付き合ってもらった。海外で学校の先生をやる。日本の先生にとっては良い経験だし、必要なことだろう。敢えて言えば、現地の学校の教え方なども知る機会があると良いのだが。それでも日本では文部科学省のルールの下、やりたいことは何も出来なのだろうか。

遅くまで話し込んでからホテルへ戻る。戻る途中、またお腹がすく。するとまたホテル近くのフードコートに寄ってしまう。また麺を食べる。立派なレストランがいっぱいあるシンガポールだが、フードコートの梯子、それが私には合っている。居心地が良い。

 

3月5日  変貌するチャイナタウン

夜も時々チャイナタウンを散策したが、ライトアップされ、きれいという以外にあまり見るべきものはない。ただ気になっていたのが、チャイナタウンの真ん中にヒンズー寺院とイスラム寺院があることだ。

チャイナタウンのある場所は元はインド人街だったということで、スリマリアマン寺院がある。入り口の上には鮮やかな神々の像が祭られており、道行く人の目を惹く。中も思ったより広く、観光客も多いが、地元の参拝客が絶えない。中華系でヒンズー教徒はいなはずだが・・・。夜のライトアップは一段と幻想的だ。

ジャマエモスクは非常に質素な作りで、イスラム的な清潔感があった。入り口で日本語のパンフレットを渡されたのには驚いた。1830年頃の建築だとか。先程のヒンズー寺院もほぼ同時期。その頃この地区に何か変化がったのだろう。

それにしても、チャイナタウンにはお茶屋が見付からない。ようやく訪ねた1軒でシンガポールのお茶の歴史を聞こうとしたが、「そんなこと聞いてどうするんだ、早く買って帰れ」と言わんばかりの対応で何も得られなかった。まあ仕方がないか。

テーマパーク化したチャイナタウンを歩いて見ても、今一つ面白いことは無く、また得られる物も無かった。シンガポールで気が付くこと、それは虫も蚊さえも全くいないこと。ペストコントロールが徹底しているとのことで、一見クリーンだが、人の温もりが感じられず、更には中華系の混沌さがないことに、一抹の寂しさを覚えた。

乗り遅れそうになる

チャイナタウンのホテルをチェックアウトして、空港へ向かう。また電車に乗る。今回の滞在ではシンガポールをかなり歩いたため、到着時に買った電車カードに残高が残っていた。時間に余裕を持ち、チャイナタウン駅ではなく隣駅まで歩き、乗り替えを1つ減らしてみる。

慣れたせいかスムーズに進む。空港近くで乗り換えたところ、周囲に公共住宅が見えた。建物に番号が付いているので分かる。隣には民間の高級住宅が。ここの家賃、いくらするんだろうか、これがシンガポールの活力の源泉なのだろうと、一人納得する。

空港ではチェックインもスムーズ。人はあまりいない。ラウンジを使わせてもらったので、まったりと休み、PCに向かって作業をした。ちょっと夢中になっている間に、周囲に人がいないことに気が付く。係りに聞くと既に私の乗る便の搭乗はとっくに始まっているという。慌てた。

小走りに搭乗口へ向かうが相変わらずチャンギは広い。しかも搭乗前にもう一度セキュリティーチェックがある。荷物が引っ掛かり、バックを開けろという。搭乗口には既に人影はない。慌ててしまいバックがなかなか開かない。係員が「そんなに慌てなくても大丈夫。SQはあなたをいつでも待っていますよ」と言われ、ハッとする。そうだ、ここは中国ではないんだ、アジア一の先進国、シンガポール何だ。私が搭乗するとドアは静かに閉まった。何だかちょっとした高揚感と安堵感、そして・・・。          



アジア一の先進国 シンガポールを旅する2013(3)日本人墓地へ行く

3月3日(日)  日本人墓地

翌朝はスッキリ起きて、朝食を食べ、そして日本人墓地に向かった。先日香港で友人に誘われて行った日本人墓地。香港に9年も滞在しながら、殆ど何も知らなかった。シンガポールにもある聞き、行って見ることにしたのだ。だが、どこにあるのかは良く分からない。地球の歩き方にも「タクシーで行け」となっていた。そこでタクシーでの行くのはあまり意味がない。地下鉄に乗ってみた。

リトルインディアなどを通り、セランゴールへ向かう。方向はこれでよいようだが。駅で降り、何とか糸口はないかとバス停などを探したが、表示などは何もなく良く分からない。仕方なくここからタクシーに乗る。だがシンガポールはタクシースタンド以外でタクシーを停めることが出来ない。先ずはスタンドを探し、タクシーを待つ。日曜日で車は少ない。ようやくやって来たタクシーの運転手に「日本人墓地」と言ってみたが、全く分からないという顔をして行ってしまった。

こうなると地図もない私にはどうすることも出来ない。ここまでかと思ったが、次に来たタクシーは「多分あそこだ」と言って、乗せてくれた。10分ほど行った高級住宅街でタクシーは停まる。ここだ、と言われて見てみると、「日本人墓地公園」と書かれていた。運転手が「帰りは大きな通りまで出てタクシーを拾え」と親切に教えてくれた。

中に入ると実にきれいに整備されており、驚く。1890年頃に使われ出したこの墓地には当地で活躍した商売人やからゆきさん、戦犯処刑者も眠っていると書かれている。何故公園になっているのかは、シンガポールの政府の接収を逃れるため、苦肉の策として公園としたらしい。香港などのように外国人墓地の一角に墓があるのではなく、全て日本人の墓地という特徴がある。そして実にきれいに保存されている。

左側には御堂もある。そして左半分には戦争関係者の墓や碑が建てられている。香港には全くなかった戦争の影がここにはある。そして右側には一般の墓が相当数ある。中にはこの地で落命した二葉亭四迷の碑、からゆきさんの碑などもある。様々な事情でこの地に来て、そこで亡くなった日本人、このような形で墓地が残っているのはシンガポールとの関係が良いということなのだろうか。シンガポールでも多くの人々が日本軍のために犠牲になったと聞くので、つい思いを巡らせてしまう。

後方にはシンガポールで活躍した日本人の碑もあった。ここは公園の雰囲気を出していた。孫文を助けた梅谷庄吉の名前などもあり、感慨深いものがある。当時のシンガポールを含めたアジアは、我々が思っているより、実は日本と近い関係にあったのではないだろうか。周囲の高級住宅を見るにつけ、そんな思いに駆られる。シンガポールの若者が入ってきて、掲示板を熱心に読み、写真を撮り始めた。彼らは単なる歴史の1コマをカメラに収めているのか、それとも深くこの関係を理解しているのか、聞いてみたかったがやめた。

バスで爺さんと

墓地を後にして、広い通りに出た。タクシーで戻ろうかと思ったが詰まらないので、バスに乗ってみた。何台もバスは来たが、どれに乗ってよいか、遂にわからない。仕方なく来たバスの運転手に「MTR駅へ行くか」と英語で聞いたが、要領を得ない。もうどうでもよいと乗り込んでしまう。

すると、一人の爺さんが肩をたたき、「どこへ行きたいのか」と聞いてきた。どう見ても中華系だが英語が流暢なのでそのまま話し始めた。どうやらかなり先に駅があるようで、彼は何度も「もう少し待て」という。隣に座って話を聞く。

「シンガポールは狭いが便利さ」「既に定年になったが生活は出来るよ、小さいけれども家もあるし」「日本には行ってみたいが、旅行代金が高い。でもマレーシアやインドネシア、フィリピンぐらいなら、誰でも行けるよ」「時間が沢山あるから時々警備員の仕事をしている」などなど。

正直シンガポールの平均より下の生活水準の爺さんだと感じたが、それでも楽しそうに話す。この明るさが何処から来るのか、それは「小さいけれども家がある」ではないだろうか。シンガポール政府の定めたHDB制度、シンガポール人には住宅を供給するこの制度のお蔭でこの国の持ち家比率は83%と極めて高い。経済が発展し、不動産価格が上昇すると、一般庶民もそれなりの恩恵を被る仕組み。まるで株式投資で配当を貰うようなもの。まさにシンガポール人が経済の恩恵を受けており、家の無く家賃に苦しんでいる人が多い香港との決定的な差となって表れている。

途中工業団地のような場所を通る。爺さんが「昔は日本企業の工場もたくさんあったよ」と懐かしそうに話す。結局30分以上もバスに乗り、ようやく着いた駅は私が思っていたのと全く違う場所であり、街中へ戻るにはかなりの時間が掛かってしまったが、爺さんと話したことはシンガポールを理解するうえで実に重要だったと思う。

マリーナベイサンズ

この地下鉄にそのまま乗って行くとマリーナベイと到着する。ここにはカジノがあると聞いたので、行って見ることにした。しかし電車は一向に着かない。しかも相当に混んでいる。30分も立っているとようやく終点に着いたが、何とマリーナベイサンズの下へ行くにはさらに乗換もう一駅進む。

マリーナベイサンズ、10年前はなかった建物。マーライオンの対岸に建てられた巨大コンプレックス。カジノが入っていることで有名になったが、ホテル、ショッピングモール、レストランなどあり、まるで迷路のように繋がっている。

先ずはカジノに行ってみた。何とシンガポール人は100S$の入場料を取られるが、外国人はパスポートを見せると無料で入れる。日曜日の昼下がりで客は多くはなかったが、何しろ施設が大きいため、どれぐらい人がいるのかわからない。中国人の団体観光客がスロットマシーンに興じ、もう少し慣れた人々はバカラやブラックジャックの席に着く。マカオでお馴染みの大小の台もたくさんある。ここは無料で飲み物も飲める。シンガポールの顧客サービス姿勢の一端を見る。

外へ出るとモール一帯にブランドショップが並ぶ。楽しそうに買い物に励む観光客の姿が多く見られた。ホテルのロビーに行くと団体観光客のチェックイン待ちの長い列が。やはりすごい人気らしい。非常にうまく作ったものだと感心する。建物の外へ出ると、向こう岸が見える。カジノを核にした開発と観光客誘致、人工都市シンガポールの面目躍如、というところか。

モール内で気になったのが、昨日も話に出たTWGというティーショップ。何とこの施設内に2店舗を持ち、しかも喫茶部分と購入部分の店が分かれているため、スペースとしては4店舗分ある感じ。買い物に疲れた人々がオシャレに休息し、ハイティーを楽しんでいる。料金は決して安くはないが、満員の盛況だ。このお店、益々知りたくなる。

リャンコートとオーチャード

歩いてチャイナタウンまで帰る。もう道には慣れていたが、さすがに遠い。ホテル付近まで戻ると如何にも昔の雰囲気を留めた場所がある。しかしそれとても人工的に保存されているわけで、だんだん疲れを覚えてくる。

ホテルで休息し、夕方再び出掛ける。久しぶりのオーチャードロード。またバスに乗り込む。オーチャードロードは私が初めてシンガポールに来た1987年に最初にやってきた場所だ。あの頃はホテルが安かった。今でも一流ホテルであるシャングリラが最高級ホテルでそのツインが15,000円だったのを覚えている。

バスが進むと、向こうにリャンコートの文字が見える。ここも懐かしい。昔大丸があったところだ。確かニューオータニのホテルもあったような。この辺にはよく来たわけだ。無性に降りたくなり、バスを飛び下りた。するとバスに乗車しようとする人の中に見覚えがある顔が。何とこれから会うはずのM先輩だった。向こうも驚いてバスから降りてきた。聞けばこのバス停の前に住んでいるとのこと。お互い突然の再会に驚く。

今やリャンコートに大丸は無く、明治屋が入っていた。それにしても日本食品の充実していることは大丸時代と変わりない。いや、今の方が高級なのだろう。ラーメン屋など、食べ物屋も色々とある。アジア一の先進国シンガポールへ出店する日本食屋は増えている。だが、家賃も高いし、競争も激しい。生き残るのは大変だろう。

そこから歩いてオーチャードロードへ。夕方は少し涼しいとはいえ、歩くとかなりの距離があり、暑くなる。オーチャードは相変わらず両側高い建物で囲まれていた。買い物客も多い。大戸屋へ入る。ここで元上司のTさんが待っていてくれた。Mさんと3人、昔話などをする。海外で元勤め先の人々と会うのは何となく楽しい。因みにオーチャードロードの大戸屋は「東京の銀座に店を出すような感覚」というほど家賃は高いらしい。





アジア一の先進国 シンガポールを旅する2013(2)バクテーと茶

摩天楼に登る

一端チャイナタウンに戻る。ライトアップされていて本当にテーマパークのようだ。レストラン街も完全に観光客目当て。古き良きチャイナタウンはそこにはない。客を呼び込む人たちの中国語の発音がやけにいい。どうやら大陸から来た人が働いているらしい。シンガポール人はこういう仕事はしない。

次に向かったのはラッフルズプレース。これは先程のタンジュンパガーの隣の駅だった。既に時間は夜の9時、だが又歩き出す。周囲はビル街で人があまり歩いていないが、危険は全く感じられない。道に迷うかと思ったが、道路標示もキチンとあり、道も整備されているので問題なく到着。地下鉄の駅に降りるとコンビニがあり、眺める。水が1本、100円、コーラは150円、日本と同じような値段。香港より遥かに高い。後で聞くとシンガポールのコンビニは店ごとに自由に価格を決めるとか。日本人は殆どコンビニには行かず、スーパーで買い物するとか。

Mさんは香港時代の知り合いだが、今はシンガポールで働いている。月曜日に会う予定だったが、今晩も会いたいという。何故だろうか。Mさんと駅を出て、高層ビルに向かった。1階には長蛇の列が。シンガポールで一番高いバーへの直通エレベーターだった。1階でドリンクのオーダーと支払いを済ませて、上へ上がる。そこは香港にもあった、如何にも欧米人が好きそうなバー。

金曜日の夜ということで、屋上のオープンスペースは人で溢れかえっていた。こんなバブリーな場所がシンガポールにはあるんだな。六本木にもあるのだろうか。写真を撮ったが、上手く撮れなかった。Mさんは写真のプロ、「ここの夜景は難しい」と。彼はシンガポールの夜景を見せるためにわざわざ時間を取ってくれたのだ。有難い。

そして歩いて帰る途中、フードコートを見付けてしまう。そうなるとお粥が食べたくなる。香港でも食べられるのだが、やはりシンガポールと言えばフードコートのイメージが強く、夜中12時にも拘らず、粥を食う。幸せだった。このフードコート、10年前にも来た記憶がある。懐かしい。深夜に食べる粥も何故かうまい、でも値段はかなり上がったな、いや為替の問題か。

3月2日(土)  移民政策への反発

翌朝は8時過ぎまで寝ていた。ホテルに朝食が付いていた。ほんのちょっとした喫茶スペースでパンと卵、フルーツなどを提供していた。そこのおばさんは実に愛想が良く、欧米人に対しては英語で、私に対しては当然のように普通話で対応した。お客は香港や台湾系も多かった。広東語にも台湾語にも対応しているように見えた。凄い。

知り合いに紹介された人に会いに行く。聞けば大学の後輩だとか。既にシンガポールに数年、その前にインドネシアやタイにもいたらしい。如何にも我が大学の同窓生らしい。現在は日系の人材紹介会社で働いている。彼のオフィスもまたタンジョンパガーにあったため、また歩いて行く。土曜日の朝ということで、散歩している人がちらほら。10時前で既に暑い。

スターバックスで待ち合わせた。人は殆どいない。いつものカフェラテトールを注文すると何と5.5S$と言われる。日本円で400円は超えており、日本や香港よりやはり高い。これがシンガポールの物価水準か。

シンガポールもやはり労働者不足。しかし中国系が流入することに地元シンガポール人は反発を強めているという。目に余るほどの成金的な態度には同胞も、お金を落としてくれる優良顧客のイメージもなく、耐え難いらしい。移民促進政策を取った政府への非難も高まり、現在移民は難しいとか。また永住権を取得しても5年ごとのレビューで落とされることもあると聞き、ちょっと不思議に思う。

因みにシンガポールで働きたいという日本人の若者は増えているが、それなりのスキルがないと簡単には就職できないようだ。爽やかな屋外でコーヒーを飲みながら、ゆっくり話していると時間を忘れる。Hさんの淡々とした話も面白い。

バクテーが美味い

次は地下鉄、クラーキー駅へ。Hさんからはタクシーで行くよう言われたが、またまた歩く。しかしこれが意外に遠い。しかも昼の12時近く、暑くて参る。約束の時間に少し遅れてしまう。シンガポール、和僑会のメンバーであるIさんと会う。シンガポールには日本人起業家が沢山いるらしい。

ランチはバクテー屋さんへ。正直マレーシアのバクテーは苦手だったが、ここのバクテーは美味かった。スープの味が抜群。肉骨茶と書く割にはお茶の味が、と思っていたが、ここは良かった。お茶も個別に飲めるらしいが、ランチの時間は忙しいのでお茶は出さない。お客の回転を高めるための当然の措置だった。不動産の高いシンガポールでは当然か。今度はランチ以外の時間に来て、ゆっくりとここでお茶を飲んでみたい。

店が混んでいたので、別の喫茶店に移動。Ya Kun、カヤトーストで有名なお店。『朝食やおやつの定番メニューとしてシンガポールで幅広く親しまれている「カヤトースト」は、卵・ココナッツミルク・パンダンリーフ(香り付け用の葉)・砂糖で作られた「カヤジャム」をカリカリに焼いた薄焼きパンに塗り、薄くスライスしたバターをサンドしたもの』と説明され、食べてみると確かに美味しい。Ya Kunティーは砂糖とミルクの入った甘い飲みのもで、トーストと合わせて飲むとかなり国の中が甘くなる。シンガポールで食べると良いが、日本では甘すぎるだろうか。シンガポールだけでなく、インドネシア・韓国・台湾・日本に40店舗を超える店があるとか。これもまたシンガポール発の国際企業なのだ。

シンガポールのお茶

Iさんと話し込んでいるとあっと言う間に時間が過ぎた。次の約束は地下鉄City Hall駅の上に有るホテル。これまた1駅乗って乗り換えて1駅、という面倒くささ。しかし歩いて行く時間はとてもない。何とIさんと次に会うSさんは知り合い、電話で遅刻を告げてもらった。シンガポールはやはり狭い。

そしてバスで行くことに。シンガポールのバスは実にシステマティク。何番のバスが何分後に到着予定と表示されるので安心。と思っていたら、なかなか来ない。土曜日で渋滞もないのに何で、と思ったが仕方がない。Iさんとそこでまた雑談が始める。やはり地下鉄を使うべきだったと後悔した頃、そのバスはやって来て、あっと言う間にラッフルズホテルの目に私を連れて行った。やっぱり歩いた方が速かったのか。

Sさんはバンコック在住の知人の紹介。以前スリランカに住んだことがあり、紅茶に詳しいとのことで、シンガポールのお茶事情を聴いた。だが、やはりというか当然というか、シンガポールにはそんなに深いティーカルチャーは無いようだった。勿論アフタヌーンティなどはホテルに沢山あるが、シンガポール人で紅茶に非常にこだわる人は限られている。

ここは暑いせいもあり、「甘くて炭酸が入っている飲み物が好まれる」「例えばスポーツ飲料にも炭酸が入っている」など、この国独自の飲料も存在するようだ。また最近話題のTWGについて「この会社の実態は知らないが、非常にマーケッティングが上手い」と評しており、興味を持つ。

因みにSさんの本業も人材派遣会社。午前中に続き、シンガポールの人材事情を聴いたが、賃金が相当高くなっていること、優秀な人材は日系を選ばないこと、日本人学生がいきなりシンガポールで就職するには無理がある、など、参考になる話が多数出た。

シンガポールの茶芸館へ行く

その後、ホテル近くに戻る。シンガポールに今や殆どなくなった茶館を訪ねる。元勤め先の後輩S君一家とそこで待ち合わせた。店に行くと店員は普通話で話し掛けて来る。私はやはり日本人には見えないらしい。この店には福建省のお茶を中心に中国茶が沢山置かれているが、お客のメインは観光客。日本人も沢山来るらしい。店は数人のオーナーの共同経営で、中華系だが出身地もバラバラとか。お茶の値段はそこそこに高い。

二階が喫茶スペースになっており、何と靴を脱いで上がる。S家は前回もシンガポールに5年駐在し、今回2回目。前回は夫婦二人きりで余裕があり、S夫人は茶芸を極めていたが、その後(いつの間にか)可愛い女の子が2人もおり、今は育児に追われてお茶をやる暇はないらしい。

お店で人気の黄金桂を飲む。最初にお店の女性がやって来て、日本語で淹れ方を説明していく。彼女は日本への留学経験があり、バイトで日本人が来ると説明しているという。ただ以前と比べて日本人のお客さんは減っているとか。中国や香港に行くのだろうか。この店は最低消費が一人8S$と安くはないが、喫茶店に入っても、スタバでもそれなりにかかるシンガポールではリーズナブルかも。周囲はシンガポール人のカップルや友人同士といったお客が多く、まさに喫茶店のノリになっていた。

その後すぐ近くの餃子屋に移動して夕飯。日本人はどこへ行っても餃子が好きだ。このお店にも日本人が数組来ていた。昔中華は美味しくない、との印象があったが、恐らくはお金持ちが増えた今のシンガポールには、素晴らしい中華もあるだろう。でも料金も素晴らしく高いだろうと容易に想像でき、餃子は何といっても安定感にある食べ物となっている。





アジア一の先進国 シンガポールを旅する2013(1)サービスは良いがコストは高い

《アジア一の先進国 シンガポールを旅する》 2013年3月1日-5日

シンガポール、もう10年以上行っていなかった。かつては何度も行き、そして何故か良い思い出しかない場所。だが最近は茶旅が中心になり、足が遠のいた。近年のシンガポールの発展は目を見張るものがある。今やアジア一の国家とも言える。カジノも出来たらしい。一度見てみたいと思うようになった。

3月1日(金)  1.シンガポールまで    SQはやはりすごい

今回は香港から向かった。LCCのタイガーエアーが安いと聞いていたが、1週間前の予約となったせいか、思ったより高かった。そしてアジア一のエアラインであるシンガポール航空(SQ)を見るとタイガーと僅か日本円で5000円しか違わない。久しぶりに乗ってみようという気になり、チケットを買った。LCCの参入でレガシ―の料金も安くなったものだ。それに合わせてサービスも落ちただろうか。サービスは世界一とも言われたSQ、そのサービスの質は健在だった。今回の旅はそれを思い出させてくれた。

機内で前列の外国人男性がシートを倒してきた。飲み物のサービスが始まったので「シートを戻すよう」にCAに依頼したが、その男は了承しなかった。するとCAは「食事の時以外はシートを戻させる権利はない」と告げた。まあ、仕方ないかと思っているとチーフパーサーがやって来て同じ説明をしようとした。説明を何度受けても変わりはないので、その説明をもう要らないと言った瞬間、彼女らの対応が始まった。

先ず男と私の席にシールを張ったようだ。続いて男と私にだけ食事を早く出し、男のシートを戻させた。それから他の人の食事が終わるまで、ずっと食器を回収せずに、シートを倒すのを防いでいた。最大限の対応を素早く試みたのだ。更にはその後もCAが代わる代わるやって来て、なにくれとなく声を掛け、サービスしていく。こんな対応、他のエアラインでもできるのだろうか。少なくともJAL、ANAは客同士の揉め事として介入しないような気がする。笑顔だけではない、SQはやはりスーパーエアラインだった。

チャンギの空港は以前よりサービスが落ちた、いや、セキュリティーが厳しくなったようで、少しスピードが落ちていた。昔は笑顔で応対していた入国管理官に笑顔は無く、厳しい眼差しを向ける者もいて、ちょっと驚いた。

空港から市内まで電車

10年ぶりのチャンギは、ターミナルが3つもあった(第4は使用していなかった)。そして空港から市内まで電車で繋がっていた。これらは皆、もう数年前に出来ていたが、私は知らなかった。インフォメーションセンターで行き方を聞き、タクシーやバスを勧められたが初めて電車に乗ろうと思った。

今日の目的地、チャイナタウンまでは2回の乗り換えがあったが、料金は安かった。約1時間で到着した。車内には空港からの電車ということもあったが、実に多国籍の人々が乗っていた。アラブ系、マレー系、欧米系、勿論中華系も。中華系のカップル、男は福建語で話し掛け、女は普通話で答えている。何とも不思議な言語行動だが、これがシンガポールだと、久しぶりに思い出した。工事現場の表示も4つの言葉で書かれていた。電車は満員。シンガポールの広がりが感じられた。

それにしても電車だと2S$(約150円)だが、空港のシャトルバスだと9S$、普通のタクシーだといくらかかるのだろうか。シンガポールの物価は10年の間に相当高くなってきている。それでも交通費は東京よりかなり安いのだが。

因みに恒例の空港で携帯のシムカードを買ったが、50S$ もした。これはイスタンブールより高く、アジアのどこよりも高い(日本はシムが買えないので除外)。電車のカードは10S$で購入して重宝した。

2.シンガポール   ホテルは狭い

チャイナタウンに到着したが、ここも10年で変貌していた。どう見てもこんなにきれいではなかった。元々猥雑感の無かったシンガポールのチャイナタウン、完全にテーマパーク化してしまったようだ。

ホテルは恐ろしく高かった。日本円で4000円程度ではドミトリーのベッド一つ確保するのがやっとだった。ネットで毎日検討したが、料金も目まぐるしく動くホテルがいくつかあった。やはり料金と宿泊率、不動産が高いとこうなるようだ。香港と肩を並べる高さだ。

私が最終的に選んだホテルはチャイナタウンにある小さなブティックホテル。元々京劇の劇場だったようで、その舞台がロビーになっている。何となくおしゃれなライトアップもあり、好ましい。だが、ホテルの部屋はあまりにも狭かった。日本のビジネスホテルでもここまで狭い所はないと思う。ベッドの横の通路が狭すぎて、椅子が使えない。PCは壁に僅かにある場所に載せ、ベッドに座って打つしかないのだ。

トイレもすごい。便座に座ると、膝は壁にぶつかり、立ち上がれない。勿論シャワーはほぼ真上から湯が落ちてくる状況。香港のアマ部屋でもここまで狭くはないだろう。これで日本円6000円を超えている。チャイナタウンでこの状況だから、市の中心部ではどうなってしまうのだろうか。

6年ぶりの再会

20年前香港で同じ業界で働き、10年前にもまた香港で同じ時期に働いたYさんは、ここ5年間シンガポールにいた。一度会いたいと思っていたが、とうとうそのチャンスが来た。今日の夜だけ空いているという。オフィスの場所はタンジョンパガー。それはどこにあるんだ?そういえばさっき乗った地下鉄の駅にその名前があった。調べるとチャイナタウンから一駅乗ってオートラムパークで乗り換え、また一駅。近いと言えば近いが面倒だ、と思って地図を眺めると、何のことはない、歩いて15分ぐらいで着くことが分かった。それは歩いた方が早い。

シンガポールの道は本当にきれいだ。そして夕方は涼しい風が吹く。いい気持ちで散歩する。先ずは両替に行く。チャイナタウン駅近くのショッピングモールが良いというので出掛けると、何故か沢山の人が列をなしている。観光客もいるが、地元の人も並んでいる。何でだろうか、不思議だ。

タンジュンパガーまでの道、レトロな建物が見える。何となくいい雰囲気だ。その後はビルが立ち並び、あっと言う間に到着した。こんな駅、昔あっただろうか、と思いほど、高層オフィスビルが建っていた。

Yさんは「シンガポールはクリーンで便利。仕事の環境としても悪くない」と言ってはいたが、何となく疲れていた。偶々体調が悪かったということだけではなく、シンガポールに5年もいれば、それは疲れるだろうと思う。気候的に暑いだけでなく、この人工的な国に居れば、閉塞感もあるのではないだろうか。勿論仕事のプレッシャーもあるだろう。地位が高ければ自分の思うようなスケジュール管理もできないだろうか。サラリーマンは大変だな、と今更ながら思う。

ビルの地下でスープとパンの夕食を取る。これは私にとっても有難い選択。胃に易しい。昔話や家族の話などに花を咲かせて、リラックスして楽しかった。そして彼はまた仕事に戻って行った。




ビエンチャンの歌姫に会いに行く2012(4)国際バスでウドンタニへ

11月5日(月)  ホテルの庭でブレックファースト

翌朝はホテルの庭でブレックファースト。このためにこのホテルに泊まった訳だが、予想通り気持ちの良い朝となった。風が吹き抜ける、木々がかすかに揺れる。こういう環境で食事をするのは良いものだ。フランスパンにオムレツ、フルーツ、十分だな、これで。

このホテルにはスペイン人やドイツ人が泊まっていた。彼らは朝から賑やかに食べていた。それもまた良し。日本人と思われるオジサンが一人で新聞を広げている。それもまた良し。皆さん、思い思いの時間を過ごしている。

街に散歩に出た。今回はバトゥサイすら行っていなかった。だが歩き出すと意外と暑い。更には大きな道を歩いていると、先導車両に導かれて、各国代表団の車が続々と続いている。今日はASEMの開幕だ。あんまりウロウロしているのも何かと思い、旧市内の細い街などを歩く。

因みに野田首相は何故かこの小さなビエンチャンという街に3泊もするらしい。一体何をするためだろうか。日本から大勢の報道陣が来ているが、彼らの狙いもASEMではない。野田さんが衆議院を解散するのか、の1点に集中している。折角ビエンチャンまで来て、国内政局とは?一方温家宝総理は、3日後に5年に一度の共産党大会を控えていたが、1泊でやって来てパフォーマンスを繰り返していた。これが今の日中の東南アジア外交であろう。

昼はおしゃれないカフェで頂く。豪勢なランチプレート、ちょっとお金があれば、ビエンチャン生活は優雅かも知れない。コーヒーも美味しい。日本の報道関係者と思われる4人連れが入って来た。何だか少し雰囲気が壊れた。

国際バス

午前中にバスターミナルへ行き、午後2時のウドンタニ行きバスのチケットを買った。午後1時半に行って見ると、既にチケットは完売、午前中に買っておいてよかった。だが一体どこから乗ったらよいのか分からない。人に聞くと「ここだ」というのだが、出発時間近くになってもバスは来ない。不安。今日はASEMで街中、大変。まさかキャンセル?

その時、バスが入って来た。立派なバスだ。考えてみればこれも国際バス。皆が一斉に乗り込む。荷物も積みこまれる。一応指定席である。2時は少し過ぎたが、それほど遅れず出発したのにはホッとした。何しろウドンタニから飛行機でバンコックへ戻るのだから。

バスは田園風景の中を一路国境へ。1時間も掛からずに到着。立派なイミグレだ。次々にバスが到着し、イミグレが込み合う。混んで来たらいきなり別のゲートを開ける。先着順も何もない。まあいつかみんな通れるんだろう。バスに全員が揃うとタイ側国境へ。

タイ側を抜けると、何故かそこにタクシーの運ちゃんたちが待っている。バスより速いらしい。というより、もし空港に直に行きたければ、このタクシーを使うのだろう。良く出来ている。私は飛行機の時間までかなりあったので、そのままバスに乗る。

タイ側では様々な雑貨を売っている。ここで物資を調達して、ラオス側に持ち込むのだろう。と思っているとバスの運転手がある店の前で停まり、店の人が何かをバスに投げ込んだ。これが運ちゃんの小遣い稼ぎか、面白い。こんな役得があって、バスの運ちゃんやってられるのかもしれない。

4.ウドンタニ    街

ウドンタニのバスターミナルに入ったのはビエンチャンを出てから2時間半は過ぎていただろうか。距離にしたら50-60㎞かも知れない。やはり国境で時間が掛かる。先ずは腹が減ったので、その辺の屋台で麺を食べる。美味い。これが一番良い。

目の前にショッピングセンターが見えた。これがビエンチャンで聞いていた「ラオス在住者が買い物に行く場所」らしい。セントラルもバスターミナル近くに作るところ、良く分かっている。結局中へは入らなかったが、恐らくはタイのどこにでもある品揃えなのだろう。

空港へ行く方法が分からない。タクシーなどは走っている雰囲気すらない。トゥクトゥクが沢山列をなして停まっている。いくらか聞くと「100バーツ」だという。そんな高くはないだろうと「60バーツ」と言ってみると、誰一人振り向かなくなる。80バーツが定価のようだ。どうやらルールがあり、60バーツで乗せるとルール違反らしい。この辺、面倒くさい。

空港まではそこそこ遠いのだろうと思って、人のよさそうなオジサンのトゥクに乗ったが、田園風景を15分も行くと到着してしまった。こんなに早く着くのなら、もう少しウドンタニの街を見学しても良かったな。でも何もなさそうだったな、ウドンタニ。

空港で

空港も小さかった。チェックインカウンターも直ぐに見つかった。確か搭乗予定より一本速いフライトがあるはずだ。それに乗せてもらおうと申し出たが・・。何とそのフライトはキャンセルになっていた。エアアジア、なかなかやるな。

これから2時間以上、どうすればよいのか。空港内に無料のWIFIもないようだ。仕方なくレストランで聞いてみたが、「今日は繋がらない」とのつれない答え。どうするんだ。隣のカフェに聞いてみると「繋がるよ」と。本当にどうなっているんだ、ここは。

午後6時に恒例のタイ国家が流れ、全員が起立した。こういう動作は日常的になり過ぎているとはいえ、大切なことだと思う。日本のように日の丸・君が代に反対したり、宗教を教育でお教えない国、それは世界から取り残されていくことだろう。勿論日本人の特殊性を利用して、何かを企む人もいるので仕方がない面もあるが。

午後7時前には何事もなく、搭乗。あっと言う間にドムアン空港に着いた。あのファランポーン駅からノンカイまで16時間も掛かった鉄道の旅はなんだったのだろうか。まあ、それも旅、これも旅か。