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10年ぶりにソウルへ行く(2)仁寺洞のお茶屋さん

8月26日(月)

歓迎中国の明洞  

翌朝は遅く起きた。モンゴルの疲れもあったかもしれない。取り敢えず明洞あたりへでも行ってみるかと地図を見てみると、このホテルのロケーションが更に抜群だと分かる。昨日乗った地下鉄1号線は幹線であるが、明洞へ行くには4号線に乗り換えなければならない。ところがこのホテルから歩いて5分の所に何と4号線の駅があった。4号線で3駅行くと明洞だった。昔は時々歩いたが、大体は誰かに連れて行って貰ったので、あまりよく憶えていない。適当に歩き出すと日本人観光客の姿が目立つ。

 

明洞もきれいになっていた。昔はごちゃごちゃしたところ、というイメージだったが午前中のせいか、すっきりして見える。そして観光地らしく日本語の表示も目立つが、それにもまして中国語が多い。4か国語併記の看板もたくさんある。いつの間に韓国はここまで表示を替えたのか。日本のインバウンド関係者は一度視察して、取り入れるべきだろう。

 

それにしても中国の買い物パワーはすごいようだ。銀聯カード使用は当たり前、化粧品店の前では若い女性店員が盛んに中国語で声を掛けている。日本人の影はここでも薄くなってきている。

 

明洞聖堂へ行ってみた。100年以上前に作られたこの教会、韓国にはキリスト教徒は多いと認識しているが、日本時代はどのような扱いになっていたのだろうか。何かの会合があるらしく、沢山の韓国人が上ってきたが、それは全て女性であった。婦人会なのか、それとも男性は仕事でこられないのだろうか。この辺も韓国っぽい感じだ。

 

そのまま北へ向かって歩いていく。昔仕事で通った韓国の銀行ビルがいくつも見えた。今では名前が変わった銀行も多い。これは日本と同じだが、アジア通貨危機時の韓国の衝撃は日本の比ではなかった。ほぼ国が破たんし、全てがひっくり返ってしまった。そこからの巻き返しは逞しい。荒波を乗り越えて今の韓国がある。だがその巻き返しは無理をも伴っている。今後がちょっと心配だ。

仁寺洞の金明湯

そのまま歩いていくと、中国ではお馴染みの味千ラーメンが店を出していた。その隣にはトンカツのサボテンが店を出している。日本の外食産業もかなり入ってきているようだが、この2つが隣同士というのは何となくイメージが合わない。繁盛しているのだろうか。


 

右側に公園が見えてきた。ここの塔は国宝だと聞いたので見に行ったが、完全に囲われていた。傷みが激しいのだろう。なかなか良い雰囲気の模様が描かれており、興味深い。公園には沢山の老人が木陰に腰を掛けていた。なんでこんなにいるのだろうかと思っていると、実に涼しい風が吹いてきた。モンゴルは涼しかったが、ソウルは比べれば暑い。その中で、この場所に座りたくなる気持ちは十分にわかる。

 

そこは仁寺洞の入り口だった。仁寺洞、10数年前、一度だけ行ったことがある。骨董屋街、何となく古い物を売っている店が多いという印象があった。そして韓定食の店が脇道にある。韓国の銀行の人に連れられて、そこへ行ったことがある。

 

だがここも観光地化していた。日本語と中国語が飛び交っていた。私は韓国のお茶についての情報を集めたかった。茶博物館と書かれた所へ行ってみたが、そこは博物館ではなく、茶葉を売る店、そして喫茶店となっていた。韓国茶の歴史など、一遍も出てこない。すぐに店を出てしまった。

 

ふらふらと歩く。すると1軒のお茶屋が目に入った。何となく入る。この辺はフィーリングだ。小さなその店、おばさんが『何を探していますか?』と日本語で聞いてきた。『ウメチャ、ゆずちゃ?』と言われたので、『茶の木の葉で作った韓国のお茶を見せてほしい』というと、おばさんの目が変わったようだ。

 

『英語は出来るか』とその後は全て英語の会話になった。日本語もかなりできたので、不思議だったが、確かに彼女の英語は完璧で日本語より上手かった。『韓国茶の何が知りたいの』というので歴史と答えると、彼女はノートに3つの地名を書いた。『済州島』、これは歴史が新しい。『宝城』、ここは日本時代に茶木を植えた場所。そして『河東』、ここが韓国茶の起源だ、という。地図がないのでどこにあるのか分からないが、取り敢えず頭に入れる。

 

そして出てきたお茶にビックリ。韓国緑茶、といいながら、それは緑茶を数年寝かしたプーアール茶のような茶だった。紅茶もある、ということで、同じ茶葉から作った紅茶を飲んだが、甘かった。200年以上の古樹の葉で作ったという。非常に特別な茶。智異山という山の中に自生しているらしい。そんなところがあるのだろうか。興味が湧く。

 

いつしか店に入って2時間が過ぎてしまった。途中欧米人と日本人のグループが入ってきて、茶を買っていった。店主である平安さんは『分かる人にしか良さは分からない』といいながら、商売の難しさを語っていた。

スユップとコーヒー

昼は某マスコミのYさんに食事に連れて行って貰った。市庁、ここも懐かしい場所だ。昔の定宿はこの近くのコリアナホテル、ちょっと経費に余裕があるとチョスンかプラザ、ロッテホテルに泊まったこともある。全てこの付近だった。市庁は日本時代のものが残っていたが、いつのまにかその後ろに馬鹿でかい建物が建っていた。周囲もすっきりときれいになっている。

 

市庁の裏へ行く。この辺も昔はごちゃごちゃしていたが、今は立派なオフィス街。ビルが立ち並ぶ。西新宿あたりを歩いている感覚である。入ったお店は豚肉の店。プサン料理屋で人気があるという。スープに豚肉を入れ、ご飯も入れて食べる。韓国は牛肉とのイメージが強いが、実は豚がよく食べられている。牛は豚の2倍の値段はするので経済的な理由もあるが、豚が旨いと言う理由もある。

 

食後にコーヒーを飲みに行った。この辺も日本的な対応だ。ソウルには今や急速にコーヒーチェーンが拡大している。大手が5₋6軒あるそうだ。そのうちの1軒に入ると、『ダッチアメリカーノ』という見たこともないコーヒーがある。アメリカーノなのに濃いコーヒーだった。

 

支払いは多くの人がカードで行っている。サインはなぜか機械に書き込む。これでサイン確認ができるのだろうか、とみていたが、確認している様子もない。どうやら形式的なサインだが、その後どこへ行ってもこの機械があるのには驚く。日本では未だにサインを確認せずにカードを返すところが多いが、これは効果があるのだろうか。

 

注文後、席に着く。いつ取りに行くのかと思っているとYさんが持ってきた機械が鳴る。ポケベルである。これで準備完了を知らせる。これは良い方法だ。これなら注文後、席を見つけて座っていればよい。因みにこのお店、イメージはスタバを意識して、ソファーやテーブルなど、様々な空間を用意。居心地の良さをうたっているようだ。

 

本屋と光化門

 

 

Yさんに教えられて、近くの本屋へ行く。この地下の巨大本屋も懐かしい。昔出張の合間によく行ったのだ。奥さんのリクエストで、K-popのCDを買いに行く、でも字が読めない。仕方なく誰かに頼んで読んでもらう。そんなことを繰り返した。今回ここに来たのは日本語の本がたくさんあると聞いたから。韓国の茶の歴史に近づく資料はないかと探したが、残念ながら見つからない。これは結構難題なのかもしれない。だんだん疲れてきたので外へ出る。

 

本屋のあるビルの前に像が見えた。英雄、イシュンシンの像だ。そこを北へ向かうと光化門が見える。更に行く景福宮。李氏朝鮮時代に建てられ、文禄慶長の役で焼失。その後朝鮮総督府庁舎なども置かれた場所。ソウルの中枢だったところだ。青空の下、暑さが堪えてくる。光化門の前に観光客が集まっていた。衛兵の交代が行われている。これには台北を思い出す。風が強い中、韓国らしい生真面目さで衛兵は交代した。さすがに疲れたので、地下鉄でホテルへ戻る。

 

ホテルの支配人カンさん

ホテルへ戻るとフロントにカンさんがいた。このホテルの支配人だ。今回連絡を取った南ソウル大学の安先生に宿泊先を告げたところ、『支配人は教え子だ』ということで、紹介を受けていた。こういう出会いは嬉しい。喫茶ルームでお茶を飲むながら話を聞いた。

カンさんは以前ソウル市内の免税店で部長をしていたが、働きながら安先生について日本語を勉強した。そして縁あってこのホテルに就職した。韓国は90年代終わりから激動を迎え、色々なことがあった。政治的にも常に何か起こっている。その中で一貫して日本人客を中心に受け入れてきている。現在はHISと提携し、お客の70%は日本人だという。

最近は中国人観光客が増えているが、彼らは部屋を汚すし、廊下で騒ぐなど評判がよくない。中国人は受け入れないホテルが実は多い。中国人団体は郊外の決まったホテルに泊められているとのこと。その方がトラブルは少ない。

カンさんは実に誠実な人。昔日本にもこんな雰囲気の人がいたな、と懐かしく思い出す。いや今の日本にもいるのかもしれないが、私が出会わないだけ。97年のアジア通貨危機後、実施的に経済が破たんした韓国では、大きな変動があった。その中で生き抜くためには努力も必要だし、根性も必要だったであろう。とにかく誠実に、そして言葉ではなく行動をとる姿勢、日本に必要なことだろう。

韓国から日本を見る

夜は北京時代にお会いし、その後も交流を続けている出版社のK社長と会った。Kさんは日本人だが、20年以上韓国をベースに活動しており、東京に会社がある。4か国語で本を出版する、というユニークな企画を実行したり、最近はスマホアプリなどで成功しているという。そろそろ完全に韓国に拠点を移すとのことで、韓国にも会社を立ち上げた。凄い。

カヤホテルを紹介してくれたのもKさん。この辺は便利が良い。近くの韓国食堂で夕食をご馳走になる。韓国と言えば日本と並んですぐに酒だが、2人とも飲まないので、もっぱら食べて話す。韓国の経済も心配だが、竹島問題も含めた日韓関係も困ったものだ。そして更には日本そのものが大きな問題。

外から日本を見るととても危うく見える。他国のことをとやかく言っている場合ではない筈だが、政府も政治家も、そして見えない力も、国民の注意を外へ向け、国内の矛盾から目を逸らさせている。これは危険な兆候だ。中国も日本も政府のやっていることはあまり変わらない。

食後、コーヒーショップでコーヒーを飲む。この雰囲気は日本と何ら変わらない。日本と韓国が何かで争うことなど、世界的に見えればとても小さなことだし、あまり意味のないこと。現在の若者は日本も韓国もほぼ同じ行動をとっており、コーヒーを飲みながらスマホをいじる、昔と異なり十分理解し合えるはずだ。

 

10年ぶりにソウルへ行く(1)韓国のホスピタリティに感激

《10年ぶりに韓国を歩く》  2013年8月25-31日

かつて90年代に元勤務先で韓国を担当したことがある。香港駐在ながら年間4₋5回、3年半で15回以上は訪れた街、ソウル。サムソン、現代、LGなど大財閥と仕事をしていた頃が懐かしい。最後に行ったのは2003年のSARS直前だったから、あれから10年が経っていた。

 

『韓国にも茶畑がある』とは聞いていたが、最近何度か具体的な話を聞いた。そして雑誌に書くコラムの関係でソウル行きが現実のものとなった。さて、一体どのように変貌しているのだろうか。楽しみではあるが、既に浦島太郎の心境。

8月25日(日)

1.     ソウルへ

アシアナ航空 人情味あるサービス

前日までの2週間をモンゴルで過ごし、北京経由でソウルへ向かった。今回はアシアナ航空を使ってみた。予想通り?アシアナは大韓航空よりも、エアチャイナよりも少し安かった。7月にLAで事故を起こし、中国人学生が3人亡くなっていたのだから、北京発の便が安くなるのは仕方がないこと。

 

だが飛行機は満員だった。考えてみれば8月最後の日曜日の夕方便、中国人が乗らなくても韓国人は乗る訳だ。飛行機の到着が10分遅れたというアナウンスがある。中国では誤差の範囲内だが、これは日本に近いサービスだろう。ちょっと期待が持てる。

 

離陸して飲み物サービスが始まった。CAは一人一人ににこやかに、そして実に丁寧に対応していた。これまで中国人のサービスに慣れてきていた私には驚くほど新鮮だった。エコノミークラスで、しかも1時間半しかないフライト。突然バタバタと配るだけと思っていたので、その対応は気持ちが良かった。

 

着陸のアナウンスが流れ、シートベルトをしろ、座席を元へ戻せ、というと、皆が一斉に従っている。これも中国では見られない反応だった。非常にきちんとしていて、むしろ日本より整然としている。よく見ると、実は中国人もそこそこ乗っていたのだが、このような反応が機内であると自然と従うようだ。大きな声で騒ぐ乗客もおらず、快適だった。忘れていた韓国のイメージが少し出てきていた。

広い仁川空港

飛行機は定刻に仁川空港に着いた。着陸からゲートまで随分と時間がかかった。更にイミグレまで行くのも時間がかかる。何とも広い空港だ。90年代中頃までは金浦空港しかなかったので、仁川は1₋2度しか使ったことがなく、ほぼ未知のエリア。昔の金浦はイミグレに時間がかかっていたが、今はスムーズ。荷物も速い。

 

先ずは両替をしようと、懐かしのKEB窓口へ。日本円を出すと日本語対応であっという間に両替できた。今日は日曜日で市内では両替できないよ、と書かれていたが、それはお客を誘導する作戦だった。この辺も賢い。あまりよくないレートで替えてしまいちょっと後悔。

 

手に入れたウオンを持って携帯ショップへ。10年前同様、韓国にはシムカードはなく、日本と同様携帯電話を借りなければならない。これは不便だ。しかも一日のレンタル料が3000W、電話を掛けると別途料金がかかるシステム。これは高い(日本とほぼ同じ料金か)。店員の対応は実にすばやくて、時間は日本ほどかからないのが良い。


 

空港鉄道で市内へ

次に市内へ向かう。今回初めて空港鉄道を使ってみる。それにしても空港内の表示は分かりやすい。すぐに駅までたどり着いた。中国ではこうはいかない。空港からは特急と普通があると聞いていたので、迷わず普通電車に乗る。

 

実は前日北京で、ソウル勤務経験のある同窓生OさんからTマネーカードを貰っていた。これを使えば電車もバスも地下鉄も乗れるという。確かにスムーズに乗れた。お金をチャージする機械も日本語や中国語の表示があり、便利だ。

 

そして電車。90年代はソウルで電車に乗るのは怖かった。何しろ韓国語しか表示されておらず、それが読めないと行先の方向すら分からなかった。地下鉄などは乗れないし、地上へ出る出口も分からず困ったものだ。だが、今は完全に違っていた。表示は韓国語のほか、英語、中国語、日本語で表示されており、車内アナウンスも4か国語でなされていた。これなら外国人でも問題なく乗り降りできる。進歩したな、韓国。

 

日曜日の夜で電車は空いていた。韓国人は皆黙々と携帯をいじっている。そうでない人は外国人だろう。分かりやすい。約1時間でソウル駅まで行ったが、料金は僅か4000W。特急でも8000Wだそうだから、日本に比べて何と安いことか。

荷物を抱えてソウル駅

昔はソウル駅を使ったことがなかったのでよくわからないが、今は巨大な駅となっている。空港鉄道から地下鉄に乗り越えようとしたが、駅の端から端まで10分以上かかった。大きな荷物を持って移動するのは大変だ。今回はモンゴルの2週間を含めて計3週間の旅なので、大きなスーツケースを持っている。駅の周辺は暗闇に包まれてはいたが、所々立派な建物が見え、イルミネーションが鮮やかだった。どうも昔のソウルに暗いイメージを持つ私には違和感がある。

 

ようやく荷物を抱えて地下鉄駅までやってきたが、今度はTマネーをかざしても通過できない。おかしいと思い、駅員に身振りで聞いてみると、スーツケースが大き過ぎて反応してしまうらしい。駅員はこともなげにスーツケースを横にして先に通し、私を通してくれた。何だか不思議な思いだった。

 

今日のホテルまでは地下鉄1号線でたった一駅。私は一番前の車両に乗っていたが、降車駅の南営には改札が一つしかなく、ホームをずっと歩く。この駅は地下ではなく地上にあり、ホームから周囲が見えた。何となく古ぼけたホテルのネオン、そこには私の知っているソウルがあった。これだけで私はここが気に入ってしまった。

2.ソウル1

古いが便利なカヤホテル

駅を出ると、そこには昔のソウルの街があった。何となく暗くて、そしてごちゃごちゃした感じ。字は読めないが入ってみたくなるようなレストラン。酔っぱらいの男性。うすぼんやりしたネオン。

 

カヤホテルはそんな中、駅のすぐ近くにあった。実はこのホテル、韓国在住20年のKさんに教えてもらった穴場ホテル。立地が良い割にかなり安い。勿論古さは否めないが、ほかのホテルが軒並み先進国料金になっていく中、有難い。エレベーターに乗ると独特の甘いにおいがした。部屋は洋式と韓国式があり、私の部屋はベッドだった。WIFIも普通に繋がり満足。勿論モンゴルとは違い、お湯も十分に出た。もうそれだけで言うことはない。

 

因みに韓国は日本と電源プラグの形態が異なるが、フロントでいうとすぐにプラグを貸してくれた。これで充電の問題もなかった。フロントのお兄ちゃんは片言以上の日本語を話す。

大衆食堂の陽気なおばさん達

時刻は既に夜の11時。駅の処にパン屋があったが、もう閉店だろうか。何とはなく腹が減り、外へ出る。外へ出るとパンではなく、肉が食べたくなるのが韓国。条件反射だろうか。この南営駅付近には食堂は沢山ある。が、一人で入れそうなところはどこか、ちょっと考える。明洞など観光地には日本語の表示もあり、日本語も通じるだろうがここはローカルエリア。どうしようか。

 

迷っていると、店の前に日本語表示があるのでそこへ入る。だが店の主人は反応しない。『カルビ』と言ってみると、黙って外へ出ていき、ビルの奥の店を指した。そうか店を間違えたのか。奥へ入ると威勢の良いおばさんの声がかかる。こんな時間でもやっている。そういえば日本でも夜遅くまでやっているところは焼肉屋だったな。

 

店のおばさんにカルビ、というと、メニューを持ってきて上カルビを勧める。私は安く上げたいので、豚を頼んだ。するとおばさんは豚なら2人前からと言い出し、攻防があった。私が譲らないと、ビールか焼酎を飲めと勧める。これも断ると商売にならない客だなという顔をした。私はさらにライスを頼む。

 

豚肉は一人前でも大きかった。とても二人前など食える量ではない。よかった、と思っていると、何とライスに大きな鍋の味噌汁が付いてきた。更にはお決まりのサイドディッシュがどっさり。どうやってこんなに食べろっていうんだ、という顔をしていたのか、おばさんがまたやってきて、サンチェに焼いた肉を載せ、味噌を載せ、キムチも載せて包んでくれた。そしてなんと『あーん』しろと言い、食べさせてくれた。

 

何だか不思議な感覚に包まれた。私が黙っていると『美味しいか』と日本語を使ってきた。これしか分からないらしいが、十分だった。美味しいと伝えるとおばさんは喜んで次ぎ次ぎと作り、口に放り込んできた。こりゃ大変だ。味噌汁を掻き込みながら、どこまで食べられるか格闘した。この好意を無にすることはできない、訳だ。最後まで食べたときは死ぬかと思うほど腹が膨れていた。

 

おばさん達は皆ゲラゲラ笑っていた。店が暇なので遊ばれてしまったようだ。それでもこの韓国ホスピタリティ、恐るべし。これが若い女性だったら、コロッと参ってしまう男も多いのではないだろうか。この対応こそ、韓国のソフトパワーの源かもしれない。日本には既になく、勿論中国にはあろうはずがない。その夜は腹が一杯で、あのおばさんの笑顔を夢に見そうで、遅くまで眠れなかった。

 

 

 

モンゴル草原を行く2013(8)ウランバートル散策

大使館で

午後は日本大使館を訪問した。ここで対応して頂いたのはやはり?同窓の先輩と後輩。昔誰かに聞いたのだが、この大使館は基本的にモンゴル語学科の人ばかりが、モンゴル専門家として配置されるらしい。そういえば司馬遼太郎さんも大阪外大モンゴル語卒だったな、と急に思い出す。

 

3月の安倍総理訪問で、これまで進まなかった事案もスムーズになったと。また最近はモンゴル政府の閣僚に日本留学組が就任するようになり、益々日本の重要性は高まっている。但し経済の実態を見れば石炭など資源輸出の90%が中国向け、外国からの直接投資も見かけ上は中国から35%だが、オランダとルクセンブルグからの迂回投資を合わせると、こちらも80%以上が中国からとなり、中国頼みが顕在化。中国の景気減速で経済的に厳しい状況が出てきている。

 

ホテルの結婚式

大使館からホテルまでは近かったので歩いて帰る。途中にモンゴル文化教育大学という看板が見えた。日本語だ。Nさんによれば、『ここは日本に留学したモンゴル人が作った大学で創設者は知り合い』とのこと。残念ながら創設者はいなかったが、中を見学した。

 

この学校は日本の大学とも提携しており、日本人留学生も来ているようだ。この国に来て彼らは何を見ただろうか。ちょっと興味が湧く。片やモンゴル人学生が日本語を学んでいる。壁には『折り句』が張り出され、面白い。微笑ましいものから、かなりのレベルのものまで、自分の名前を使って作っている。

 

ホテルに戻ると玄関口に飾りが施され、結婚披露宴が行われようとしていた。実はほぼ毎日、このホテルでは披露宴が行われている。ホテルの建物がオシャレなのと、立地が良いからだろう。参加者も皆着飾っており、子供たちもはしゃぎまわっている。かなりの費用が掛かるだろうから、お金持ちの宴だと分かる。

 

中ではちょうど弦楽四重奏の演奏中だった。この辺が中国などとは違っている。洋風なのだ。夜もオペラを歌う参加者がいるなど、ロシア、ヨーロッパの影響を強く受けていることが分かる。恐らくはそちら方面に留学した人が多いのだろう。

 

それにしてもアジア各国、どこへ行っても派手な結婚式が行われている。これは一種のブームでもあり、また伝統的に祝祭を派手に行う習慣でもある。結婚式は一大ビジネスチャンスである。北京の知り合いが中国で日本式結婚式のアレンジビジネスをやっているが、これはやり方次第では日本的なきめ細やかな手法が受ける、日本的なおもてなしの輸出になるだろう。

K先生

夕方市内の外れのホテルへ行く。実は本日大学と大使館にはモンゴル研究の第一人者であるK先生が同行してくださった。K先生はずっとモンゴル研究を続け、1973年にUBの日本大使館に滞在、それ以降も、毎年モンゴルを訪れ、司馬遼太郎に付き合い、『草原の記』のツェベクマさんとも交流。また開高健の魚釣りに同行、1か月もモンゴル奥地で行動を共にするなど、実に豊富な経験をお持ちであった。日本人でモンゴルを知る第一人者である。

 

このホテルのレストランは8階にあり、周囲が一望できる。市内にはどんどん建物が建ち、河沿いにも以前あったゲルの姿はなく、建物が建ち始めている。『モンゴルは急激に変わった。ちょっと急激すぎるのが心配』とK先生はまるで我がことのように言う。

 

既に引退されているK先生、毎年夏にはUBに戻ってきて、長期滞在する。このように1つの国を一生涯追い続ける、これは素晴らしいことだ。奥様も苦楽を共にされており、ご夫婦で思い出話をされる。楽しそうだ。『モンゴルは年々便利になっている』とのお話の中に、『年々つまらなくなっている』というニュアンスを感じたのは私だけだろうか。

 

8月23日(金)

社会主義時代のホテルサービス

UBのホテルに戻った瞬間、シャツをクリーニングに出した。一応当日夕方出来上がると書かれていたが、心配だった。案の定、部屋には戻ってこなかった。ところが問い合わせても『既に届けた』の一点張り。言葉が上手く通じないのだろうか。今朝N教授の部屋から我々のシャツが発見された。何とクローゼットにきちんと入っていたらしい。部屋を間違えていること、及びどこに入れたかを他の従業員が知らなかったこと、ちょっと驚きだった。

 

驚きと言えば、お湯が出ない状態も続いていた。この時期UBは真夏、と言っても夜の気温は10度台。水シャワーを浴びると風邪をひく危険性がある。仕方なく、電気ポットで湯を沸かし、体を拭くことにしたのだが、そのポットが壊れてしまっていた。何度が使えるポットを要請したが、要領を得なかった。その内、何とシャワーの湯の方が先に出てしまう。まあ。こんなものだろうが、まるで社会主義時代の中国(今も形式だけそうだが)を思い出し、懐かしんでしまう。

 

この旅も早2週間が経とうとしている。長い夏休みが終わる。学生時代のように宿題に取り掛かる。原稿書きである。本日は朝6時に目が覚め、2時間、わき目を振らずにPCに向かった。同室のNさんがあとで『あんなに真剣な顔をこの2週間、見たことがなかった』と言ってくれた。2週間、何も書かない生活は活力を与えたようだ。

ザッハの火事と大渋滞

本日はA教授の買い物をメインに、再びザッハを訪れる。ところが、車で近くまで行くと、なんと火事が発生していた。当然前の道路は通行止め、仕方なく向かいに新しく出来たザッハへ行く。しかしこちらは店が殆ど開いていない。どうやら古いザッハで成功した人々が新しいザッハの権利を買ったらしく、未だに古い方に店のある人は、そちらの荷物の持ち出しなどで精一杯、新ザッハの店など構っていられないようだ。

 

遠くから見ると、建物の一部が焼け落ちていた。もし我々が行っている時に火事が起こればパニックだっただろう。消防車が駆けつけていたが、防火水の設備がないのか、なかなか放水は始まらない。車は益々近づけない。

 

いつまで経っても埒があきそうにもなく、テンゲルへ向かう。ところが少し行った所で大渋滞に嵌り込んだ。我が運転手は最初から『この道を行ったらマズイ』と言っていたが、東京が長いUさんはその忠告を聞かずに突っ込んでしまう。そこから延々、ダラダラ状態となった。

 

普段でさえ、渋滞がひどい道に、今日は火事が重なっている。全く身動きが取れない。歩いたほうが余程早い。UBの交通事情は車の増加に道路が追い付かない。おまけに冬は工事が出来ないため、夏に一斉に道路工事に入る。観光業としてはかき入れ時だが、車は動かない。今や一大ストレスになっている。僅か10㎞以内の道を2時間以上かかって進んだ。

 

テンゲルはダルハンで行った食肉加工会社の社長とその兄弟が90年代に始めた大規模スーパー。まあウオルマートのようなもの。倉庫のような店舗に大量の商品を積み上げ、纏め売りしている。その手法がモンゴルでは画期的で珍しく、この店は誰でも知っている。今日行ってみると、お客は午前中のせいか殆どおらず、閑散としていた。これも時代の流れだろうか。

 

お茶コーナーに行くと、韓国製緑茶などが目立つ。安いのだろう。レンガ茶もあるが、どこの製品であるか表示がないらしい。モンゴル語で書かれており、分からないが、写真がチベットのポタラ宮であり、どうやら中国製。中国製は嫌われるため、敢えて表示をしなかったのだろう。Uさんによれば、『紅茶はグルジア産』ということで探したが、見付からなかった。モンゴルとグルジア、あまりにも離れた国で何故お茶の交易があるのか、それはソ連時代の歴史と深い関係がある。今後の研究課題としたい。

カンダン寺

お昼はロシア料理の店へ。立派なロシア正教会の横にあり、本格的なロシア料理が食べられる。ボルシチは濃厚で美味しかった。モンゴルとロシア、この繋がりは当然に深い。店内には葬儀の帰りか、僧侶を囲んで食事をしている一団がいた。こんな風景も珍しい。

 

午後は特に行く所もなく、名所カンダン寺を訪れた。4年前、私はなぜかこの寺だけ入っていなかった。そこそこの渋滞を潜り抜け、車は西へ向かう。正面は車が停めにくい、とのことで脇の門から入る。広い敷地にハトが沢山いる。結婚式の写真を撮るカップルもいる。

 

本殿は立派な高い建物、ここがモンゴルにおけるチベット仏教の聖地。だが何となくおしゃれになっている。前の広場を歩いて行くと、古い建物に出会う。あー、ここはこれまで私が訪れたチベット仏教寺院の匂いがする。モンゴルは社会主義時代、宗教を弾圧した。相当に悲惨な状況であったらしい。体制崩壊後、徐々に昔の仏教を取り戻そうとしているのだが、近代化の波とぶつかり、そう簡単には進んでいないように思う。

 

最後の晩餐

その夜、モンゴル最後の晩。お世話になった商工会議所の副会頭を招いて、食事となった。場所はお洒落なイタリアンレストラン。欧米人も多く、味もまあまあ良い。1皿の料理の量が非常に多かった。それでもアメリカ人の老人がステーキをペロッと平らげるのを見て、我々とは違う、と思ってしまう。まあ、モンゴル料理が口に合わず難儀しており、ようやく美味しい物が出てきたのでパクついたのかもしれない。

 

モンゴルの商工会も岐路に立っている。会員数は増加したがモンゴル経済も厳しい状況となり、これからどのように発展していけるのか、難しい局面となっていた。中国以外の海外との貿易も重要な業務となってくる。だが例えば日本へ乳製品を輸出しようとしても、日本側の要求が高すぎる。それは品質などの問題だけではなく、検査費用が高すぎて採算に合わないなど、日本の国内保護とも取れる政策にも原因がある。

 

モンゴルと日本、ある意味で非常に友好的な国であるのだから、相撲ばかりではなく、もっと多方面の交流を深め、両国にとってメリットのある政策を打ち出した方が良いと思うのだが。どうやら政治はそうは行っておらず、経済的な結びつきも強化できないでいる。

8月24日(土)
さようならモンゴル

本日はモンゴル滞在最終日。N教授とUさんは朝早い仁川経由の飛行機で東京へ戻って行った。私とA教授は昼の便で北京へ行き、そこからA教授は乗り継いで東京へ戻る。Nさんは知り合いもおり、もう1日、UBに滞在する。

もう慣れてしまった朝食を食べる。トーストを焼き、卵を取り、そしてキムチ。今日もそれほどお客はない。モンゴルのかき入れ時である夏に、これしか客がいない、このホテル大丈夫だろうか。既に愛着が湧いている。

今日も快晴のUB。9時過ぎにホテルをチェックアウトし、2週間を共にした運転手君の運転で空港へ向かう。もっと長い時間、居たような気がする。こちらは別れを惜しんでいるが、彼の方は別に仕事があるのだろう、我々を降ろすとあっさりと去っていく。まあ、そんなものか。

空港内は異常に混んでいた。チェックインカウンターは長蛇の列。団体さんが多い。処理能力にも問題があるのだろう。荷物検査は意外とあっさりしており、買い物に行く。モンゴルのお土産と言ってもなかなか難しい。これから北京とソウルへ行くので、モンゴルウオッカを買ってみる。北京で渡す1本と、ソウルまで持ち込む2本に分ける。そうしないと免税にならないらしい。ウオッカの名前はブラックチンギス。如何にもモンゴルらしい。

 

 

 

4年前は北京まで帰るのに31時間遅れたフライトだったが、今日は定刻に飛び立ち、定刻前に北京空港に到着した。これは季節要因が大きいのだが、何だかモンゴルがかなり進歩した象徴のように思えてしまう。これから作られるUB第2空港は日本企業が受注している。どんなものが出来るのか、また見に来たいものだ。

 




モンゴル草原を行く2013(7)UB 日本語を勉強しても

8月21日(水)

5.ウランバートル2

ダルハンからナラハへ

朝、ダルハンを出発。郊外に出ると先日訪問した製鉄所を示す不思議なモニュメントが見える。何となくユーモラス。あの工場長さんを思い出す。それからひたすらUBに向かって進む。


 

途中休憩した場所には、何かが祭られていた。広い広い草原の中に、ポツンとある石。これは何を意味するのだろうか。昔は道路などなかったはずだから、何かの目印にもなっているように見える。羊が群れを成して過ぎ去っていく。ああ、モンゴル草原だ。

 

そしてUBに到着したが、大渋滞。ここでランチを食べるはずが、そのまま午後の訪問先であるナラハ区へ進む。あまりの渋滞に後続車を見失い、ガソリンスタンドで待つ。ナラハはUBの南約30㎞。UB市内を1時間以上かけて突き抜けるとまた草原だ。花が咲いている。可憐だ。腹が減った。4年前もナラハから戻るとき、昼飯がなかったことを突然思い出す。そろそろモンゴルに飽きてきたのかも知れない。

 

ナラハ区庁

ナラハの街は4年前と変わっていないように見えた。昔の炭鉱の街、ソ連崩壊後経済的に行き詰まり、現在再開発の計画のあるところ、という印象だったが、再開発はどうしたのだろうか。

 

区庁に入ると、少しも変っていない。再開発計画の模型もそのまま置かれている。大きな部屋に何人もの区の幹部がやってきた。最近の事情を聴くのになぜこんなに人が来るのだろうか。代表者が『区長はUBに行っており、今ナラハに向かっている。皆さんの質問に応えるべく、関係者を集めた』と。

 

女性幹部が区の労働事情を説明し始めた。既に公式の炭鉱は閉鎖されているが、未だに勝手に個人で掘っている人々がいる。危険なので取り締まりたいが、彼らに職がないので困っている。実はこの区は長い炭鉱の歴史もあり、モンゴルで障害者が一番多い。それでも炭鉱労働者の子孫は炭鉱を離れないが、それ以外の若者はUBへ行ってしまい、帰っては来ない。

 

現在区を市に変更するという計画がある。ただここには発電所がなく、電力問題があり、独立できないでいる。発電所建設は悲願だが、環境問題で財政問題がある。政府に支援が期待できるかどうか。

 

明らかに4年前の再開発計画とは異なっていた。以前は韓国系企業が開発を請け負うという話だったが。その計画について尋ねると、皆が一斉に話し出す。『今日は労働者問題の話ではなかったのか』『わざわざ夏休み中を参加したのに、なんでそんな話をするの』何だか様子がおかしい。そして代表者が唐突に『会議はこれで打ち切る』と宣言し、退場した。

 

聞く所に寄れば、韓国系企業は2009年3月の段階でほぼ撤退(夜逃げ同然?)しており、それはこの区にとって大きな打撃だった。昔の嫌な話を蒸し返されるのは気分が悪いし、中には責任を問われている人もいるのではないか、とのことであった。発展には様々な要素が絡んでくる。なかなか発展できない街、その一端を垣間見た。

中国料理屋

予定が中途半端に終わったので、また昼飯兼夕飯を食べに行く。UBに戻る途中、N教授は目ざとく中国料理屋を見つけていた。そこに入る。普通海外でも中国料理屋といえば、派手な感じの看板を掲げ、それらしい雰囲気を出すものだが、ここモンゴルには漢字の看板は存在しない。モンゴル人の対中感情に極度に配慮しているらしい。

 

建物の中へ入ると、実に立派なレストランで、漢字で『龍府』と書かれていた。メニューを見ると、中国国内にある内容とほぼ同じで本格的な中国料理屋さんだ。これなら中国語も通じるかと思い、ウエートレスに話しかけると、恥ずかしそうに手を振る。青島ビールを飲み、『乾鍋菜花』『爆炒腰花』『水煮肉』など、味も中国と同じで、美味しく頂いた。隣では中国人が数人で宴会、白酒をあおっている。

 

オーダーした物と違うものが出てきた。それも3回も。1つ目はあっさりと皿を下げたが、2つ目の間違いでは彼女は困ったように止まってしまった。我々はそのオーダー違いの皿を受け取った。彼女はとても喜ばしそうな顔をした。聞けばレストランで働き始めて1週間、中国料理など食べたこともなく、間違ってしまうこともあるらしい。だが何度も間違えると首になる恐れがあり、ビクビクしている。中国系レストランで働いてくれるモンゴル人は多くはないはずだから、それでもここで働くにはそれなりの理由があるのだろう。

 

そして本当に腹一杯になり、渋滞の市内を以前泊まっていたホテルに再びチェックインした。シャワーでも浴びようかと思ったが、全くお湯が出ない。フロントへ行くと何と『明日の午後8時までお湯は出ません』と言われる。それなりのホテルなのにどうしてと聞くと、『この付近一帯全て出ません。UBのお湯の供給は中央システムが担っており、冬に備えて夏の間にメンテナンスするんです』と答えられて驚く。

 

冬の寒いモンゴルでは統合暖房が敷かれているのだろう。それを使ってお湯を供給している、何とも社会主義国家のようだ。だがこの話をその後モンゴル人にすると『我が家は既に20日間お湯が出ていない』などと平気な顔で言われてしまう。我々のホテル、結局翌日はダメだったが、2日後の午前中には何の連絡もなく復旧していた。感謝せねば。

8月22日(木)

日本語だけでは金にならない

翌日はN教授の大学が以前より交流のあるモンゴルの大学へ行った。モンゴル人学生は海外留学に行く者が非常に多く、この大学でもロシア、中国など海外の60の大学と協定を結んで、留学生を送り出していた。日本でも数校と提携を始めていた。ただ震災後、それまで留学していたモンゴル人が国に戻ってしまうなど、少し後遺症があるようだった。

 

今回驚いたのは、海外の大学と折衝する担当者が、どう見ても日本人にしか見えないモンゴル女性だったこと。その日本語もほぼ完ぺきであり、化粧の仕方まで日本人だった。聞けば、日本に留学、その後日本の大学で働いていたらしい。15年ぶりに戻ってきたという。更に彼女は高校時代、内モンゴルに留学しており、中国語も普通の話せ、英語もできるらしい。このような有為な人材は祖国モンゴルの成長とともに帰国し、尽力し始めている。

 

この大学は教育者を養成する学校だったが、『教育はお金にならないので教師志望が減少している』という。政府も教員給与アップを図り対応している。日本語を勉強する人は多いのだが、その就職問題がある。『日本語を学ぶ人は全員教師になるしかない』との言葉は重い。現在多言語教育も行われ、また日本語学科以外の人が日本へ留学するなど、日本語オンリーからの脱却も図られている。


 

この大学で学ぶ学生が選ぶ外国語の1位は中国語、次の英語、ロシア語と続く。中国嫌いのモンゴルだが、経済的、就職に有利という意味では断然中国が選ばれている。学部長にお会いしたら、中国語の先生だった。『私が中国に留学した90年代、中国語はマイナー語学だった。私も仕方なく留学に行った』とのこと。

 

その日の夜のテレビで『日本の高専に留学生を1000人送る』と教育大臣が発言していて驚いた。この大臣も日本留学組であり、『日本の高専はレベルの高い技術が学べる』として、日本を技術者養成の場としたい意向だった。3月の安倍総理モンゴル単独訪問以降、日本との関係は非常にスムーズになっている。その後訪れた日本大使館でも『総理訪問後、モンゴル側の対日姿勢は非常に良くなっている』とのことだった。総理は一体何を話したのだろうか。興味深い所である。

日本留学経験者の本音

もうお昼近くなってしまったが、我々を待ってくれている人たちがいた。過去に日本に留学して、今はUBに戻ってきている元留学生たち。現在就活中の人、日本関係の仕事をしている人など。とても面白話を聞くことが出来た。

 

先ずは日本の印象。『とても安全』『時間の管理がしっかりしている』『日本人のチームワークは素晴らしい、モンゴル人は一人ずつしか行動できない』という肯定的な面も出たが、『留学するコストが高すぎる』『日本人学生の勉強の対する意識が低すぎる』と言った先生たちが頭を抱える問題点も指摘された。これを話した人は理科系で修士まで進んだが、『日本人学生のレベルはあまりに低くて競争相手がいなかった』と嘆いていた。

 

『モンゴルに戻ってから日本人と交流する機会がない』のでもっとモンゴルに日本人留学生を派遣してほしい、との要望もあった。確かにモンゴルを目指す留学生は多くはない。日本企業もあまり進出していない。日本人の視野がどんどん狭くなっていていることを指摘された。『我々は本当に日本に好印象を持っているし、モンゴル人は一般的に日本が好きなのでとても残念』とは本音であろう。

 

そして話は就職の方へ向かう。『日本語では就職できない』は前述の通りだが、特に理工系は『専門用語を全て日本語で学んでしまったので技術があっても欧米系の会社では役に立たない。モンゴル人の同僚とすら話が出来ない』といった何とも残念な話も出た。また『日本企業に就職しても直ぐには役職が上がらない。人口の少ないモンゴルなら海外留学生はもっと尊重されている』といい、『自分で起業するしか道はない』と日本での就職を諦めた話も披露された。

 

『将来は日本人とチームを組んでビジネスをやってみたい』という積極的な意見も出てきた。モンゴル人との積極性と日本人のチームワークをうまく融合して事業を成功させようという考えだ。『モンゴルは中国とロシアに挟まれている。日本との友好が非常に大切だ』と言った国の将来を対局から見る発言もあった。やはりそれ何の意識をもって留学すれば物の見方も大きく変わるのだろう。日本の学生にも期待したい。

 

 



モンゴル草原を行く2013(6)ダルハン 国営体質に苦しむ企業

4.ダルハン

ヘビーな食事

ダルハンはモンゴル第二の都市。だがUBと比べるとかなり小さいようだ。ホテルに着き、すぐに食事へ。昼と夜の中間食、何というのだろうか。3時過ぎたこんな時間でも食事している人がいた。面白い。その人たちがスパゲッティを食べていたので頼む。すると出てきたのはものすごい量。スープもサラダもすべて大きい。とても食べきれない。満腹になる。

 

レストランを出て水などの買い出しに行く。そこから歩いて帰ることにした。何しろ腹が重い。少しでも減らさねば、と思ったが無駄なようだ。歩いていると建設現場が見えてくる。第二の都市もやはり建設ラッシュ。『誰が投資しているんですかね』と地元の人に聞くと『朝青龍じゃないの?』と笑われた。

 

結局その夜は何も食べずに寝ることに。ところがなぜかホテルの外で深夜までウルサイ音楽を流して何かしている。若者が騒いでいるのかと思ったが、どうやらBBQか何かの野外営業らしい。そんなに遅くまでお客がいるとは思えず、もっと早く止めて欲しかった。何しろこちらは腹一杯で、それでなくても寝付けないのだから。

 

8月19日(月)

中国に圧迫されるモンゴル企業

翌朝はダルハン県庁を訪問、県知事と面談した。さすが第二都市の首長、忙しいそうだ。面談中に大統領から直接電話が入るなど、これからのモンゴルを背負う指導者の一人なのだろう。

 

それから突然製鉄所に向かう。こんなところに製鉄所があるのか。何と日本のODAで作られたらしい。さすがに大規模な工場、入るのにチェックが厳しい。1993年に生産を開始、2003年にODA支援が終了。それ以降は自力で生産している。現在従業員は1600人余り。モンゴルとしては大きい。

 

説明してくれた工場長は生産開始から今日まで、この工場の全てを知っていた。恐らくモンゴルでもっとも製鉄に詳しい人なのだろう。その苦労、苦悩が話の随所に表れていた。『もうすぐ定年です』という言葉が妙に重い。

 

工場見学もさせてもらった。熱い鉄が流れてくる。26年前、上海留学中に宝山製鉄所を見学した日を思い出す。日本の技術がアジアで使われている素晴らしい光景だった。これからは一層技術革新がなされていくだろう。原料となる資源はモンゴルにあるのだから。ただ中国から安い鋼材が入ってくる。この競争に打ち勝たないと、企業はやっていけない。

 

財閥系セメント工場にも行った。ここの責任者若く、英語を話した。シンガポール留学中にスカウトされ、シンガポール企業のモスクワ事務所で働いた。最近戻ってきてここにいると。中国より安いセメントがどんどん入ってきて、価格競争が起こり、厳しい状況だ。グループ企業ですら、安い方から買っている。

 

中国系企業はセメントを前渡し、代金は6か月後でよい、といったファイナンス付で市場をかく乱している。『中国から圧迫されるモンゴル』という図式が見えてきた。価格競争では大量生産の力に負け、付加価値の高い製品作りには技術が伴わない。中国経済が減速していくと、更に中国企業からの圧力が強まりそうだ。

 

韓国レストラン

当初言われていたほど、羊肉は出て来なかった。これもある意味、食生活の変化、多様化だろうか。それでもさすがに地元料理に飽きてきた。するとNさんがあっちに『ブルゴギファミリーがあります』という。何だそれ、と思っていると、何と韓国料理屋だった。よくぞこんなところに韓国料理がと思ったが、結構な人気店。お客は常にいたからすごい。

早速ビビンバを注文。キムチ、野菜などの小皿は頼まなくても出て来る。これは本当にありがたい。スープもあっさりしている。周りのテーブルでは皆カルビやロースを焼いている。羊から牛へ、確かに昨日行った牛肉加工業者は成功だろう。所得が上がり、食文化が変化する、モンゴルは今そのような時代を迎えている。

それにしても『困った時の中国料理』という話は旅の中でよく出て来るが、これからは韓国料理かもしれない。アジア全土、そしておそらくアフリカなどにも韓国人は果敢に進出しているに違いない。日本料理は、今後日本人以外が店を展開していくだろう。

8月20日(火)

国営工場のその後

翌日も企業訪問を続けた。元国営の皮工場。チェコの支援で毛皮のコートなどを作っていたが、1993年に民営化。しかし96年には操業ストップに。2000年に経営陣を刷新し、株式会社へ。ある意味、典型的な国営企業の変遷。その後上場している。日本人でも株を持っている人がいるという。

国営時代の概念を取り払い、デザインを一新し、営業にも力を入れた。国内販売のみならず、牛の半製品をスペインやイタリアに輸出しているとか。とても愛想のよい営業責任者の女性が一生懸命説明してくれた。

その後食肉加工工場へ。ラクダ以外の全ての家畜を扱っている。工場、オフィス共にとてもきれい。衛生には特に気を付けており、『遊牧民の伝統的な衛生概念を変えたい』という思いが感じられる。ここでは生の肉から、ソーセージ・ハムの加工、またボーズと呼ばれる肉まんの冷凍食品なども製造している。

ここの社長は90年代元々UBで有名な食品市場を立ち上げ成功した三兄弟の一人。兄が急死し、ダルハンの元国営工場を買収し、食品会社を経営するようになった。設備などを一新し、何とか軌道に乗ってきた。と言っても買収金額が少なく、既に企業価値は相当上がっているようで、投資は成功したという。

非常に有能な経営者と思われ、話もテキパキしている。中国に生肉を輸出したいが認可されない。何とか食習慣が近い内モンゴル市場へ食い込みたい、日本に馬肉を輸出したいなど、次々に新しい発想を持ち、実現させていくようだ。

国営体質のホテル

午後2時過ぎにホテルに戻る。これまで2日間はランチがなかった。色々とアポをアレンジしてくれ、食事をする暇がなかったのだ。中国では間違ってもこのようなことはなく、もし昼を食べさせなければ、文句が出るだろう。国民性の違いか。ホテルのレストランで羊スープの麺を食べる。意外とおいしい。

 

その後ホテルのマネージャーに話を聞いた。このホテルは旧国営の古い体質、彼女は大学院で経営を勉強して、ここに人事部長として、1か月前にやってきたばかりだった。彼女は昨日訪問したセメント会社でも働いた経験があったのは、世間が狭い証拠か。

 

このホテル、部屋が古いのは仕方がないが、インターネットの高速化を進めるなど、ハード面では改善策を講じていた。だがソフト面、特に従業員の確保、教育には苦労していた。レストランのウエートレスは殆どがバイトの学生。現代的なサービスをしようにも人材はいない。また従来からいる従業員の意識改革も進めなければならない。『サービス』という意識もなく、『責任感』もない。これら国営体質の打破が彼女に与えられた任務。人事制度改革と研修、彼女の2大目標だ。

 

日本を評価するパン屋さん

 

 

そして夕方、もう1軒訪問した。パン工場、1971年設立。ソ連の支援を受けてパンを製造。90年代は原料の小麦の調達にも苦労するなど厳しい状況が続いていたが、2000年頃民営化。05年には株式会社化し、経営陣を全て入れ替え、国営体質を一掃。4年後にはモンゴルトップ150企業に入るほど成長した。現在ダルハンを中心に、15台のトラックで毎日スーパーなどにパンや菓子を卸している。

 

ミーティングの間に出されたクッキーがとても美味しかった。オランダから技師を招いて、パンやクッキー製造に当たっている。これなら海外に出しても売れるのではないかと思う商品まである。生クリームをパンにつけて食べると、得も言われぬ美味しさ。全員が日本への輸出を進めたが、『日本は検査が厳しい』と。

 

何とモンゴル国内でも、現在ダルハン、セレンゲ、ユルデネットの3県のみで販売しているという。相当慎重な経営方針のようで、『現在UBへの進出を検討しているが、まだ自信がない』とか。支払いは現金、借金もない。優良会社だ。

 

社長は日本モンゴルセンターの研修を受け、日本への視察にも行ったという。日本の5Sなど管理手法も採用、会社の規律も日本から導入した。営業部長は『日本のお蔭で弊社はここまでになった』と非常に親切で、夕方日が落ちる頃まで延々と質問に答えてくれた。日本の良さを理解してくれるモンゴル企業、大切にしたい。

 

因みに大きな夕日が落ちる中、ホテル近くのスーパーへ行った。食品売り場にはさっきのパン屋さんのパン専用コーナーがあり、お客がどんどんパンを買っていた。

 

モンゴル草原を行く2013(5)セレンゲ 自然の中に生きる人々

聖なる母の木

ほろ酔い気分で観光へ。といっても『聖なる母の木』を訪ねる。ほろ酔いではマズイ。モンゴルの精霊信仰の1つだろう。樹木に対する信仰は深い。そして驚くことに聖地の周囲は全てレンガ茶で囲われている。お茶と聖地、宗教と茶、非常に興味深い。

 

この囲われた場所は元々母なる木があった場所とされ、木の切り株に皆が頭を下げ、頭をつけて祈っている。中には体全体を大地につけて、祈る姿もあり、チベット仏教との深いかかわりも見られた。この辺りに来た観光客は聖地ということでやってくるのだろう。多くの人が祈りを捧げている。

 

日本語でこの儀式についてN教授と話していると、後ろから『この紙を木の枝に巻き付けて』と日本語で言われ、ちょっとビックリ。モンゴル人女性が日本語を話している。『日本で勉強したことがあるの』という彼女。モンゴルには日本に住んだことがある、日本語が出来る人が人口比で言うと非常に多いと言われたが、目の前に現れると納得してしまう。

 

そして現在のご神木へ。高い木が一本そそり立っていた。周囲には無数のカタ―(布)が巻かれているが、何となく象徴に過ぎないような雰囲気がある。やはり元の木が大切、ということだろうか。因みにこのカタ―、チベット仏教で用いられる。青海省西寧のお寺に行っても、インドのラダックに行った時も見られた。モンゴルでは高僧謁見の際、五色のカタ―を重ね合わせるという。道理で色とりどりのカタ―があるわけだ。チベット仏教とモンゴル、勿論歴史的に大きな繋がりがある。

 

8月17日(土)

モンゴルNo.1の小麦農場を見学

本日も郊外へ出る。草原の中に牛がいる。羊や山羊ではない。これは牛乳を搾るための牛だろうか、それとも食用?とにかくのんびりした雰囲気が出ていて、とても良い。思わず車を止めて記念撮影。

それからいかめしい門を潜り、工場へ向かう。すごく立派な小麦の貯蔵施設が見える。草原の中、ここだけが別世界のようだ。モンゴル全体の15%の小麦をここで扱っている。牛も5000頭輸入し、食肉用として加工している。ここは一大食料備蓄設備のようだ。道理で設備がデカい。

ここのオーナーは元々金鉱山の開発で財を成したいたようだが、農牧に目を付け、2003年にこの地で事業を始めた。小麦は国策で政府が買い上げる。しかし2年前より支払いは止まっているらしい。政府資金の枯渇か、それとも不正か?小麦以外ジャガイモなど他の農作物にシフトしつつあるとの印象がある。これからはモンゴルでも牛肉を食べ、牛乳を飲む飲食文化が出て来ると予想。またアメリカ製のコンバインなど農業機械の代理店となり、モンゴル全体の小麦生産を機械のリースでサポートしている。このような動きも重要だろう。

工場敷地内に宿舎もあり、モンゴル全土から従業員を集めているが、人手不足とか。農業における人材の確保も重要性が増してきている。尚ここでランチをご馳走になった。牛肉とサラダ、とても美味しかった。こんなに美味しい食事が出て来るのであれば、従業員は集められそうな気がするのだが。やはり若者は都会を目指すのだろうか。

自然の中で蜂蜜を取る

別の場所に移動した。道端に車が待っていた。何とランチを食べるために待っていてくれたのだった。予想外の展開。我々はお腹一体だったので、飲み物だけにした。そしてまた車で、草原の中へ入っていく。

気持ちの良い草原に花が咲いている。その向こうに箱が置かれている。何だろうと近づいてみると、マスクをした人たちが小さな跳び箱のような箱を開けている。そこから蜂蜜を取り出していたのだ。棚にこびり付いた蜜を小刀で削ぎ取っている。車の中には機械があり、蜜を入れて回すと、濃厚な蜂蜜が絞り出されてくる。

そしてまさに大自然の中、皆でその蜂蜜を飲んだ。舐めるだけかと思っていたが、コップが渡され、何とウオッカを混ぜて飲んだ。強い酒を混ぜると強さが分からなくなり、どんどん飲めてしまう。途中頭がくらくらしたが、それがまた心地よかった。強い日差しに目が回る。

この事業は6-8月、花が咲く場所に合わせて移動しながら行われる。花から花へ、何とも優雅。この辺りは花の種類が豊富で蜂は50種類の花に触れ、蜜を作り出す。何というエコだろうか。ただ蜂蜜は国内需要がないので、日本などへ輸出されている。大自然の中で、1年の内3か月だけ働く。これは理想的な仕事の仕方ではなかろうか。聞けばこちらも人手不足。いっそこのキャランバンに付いて働いてみようか、と思ってしまうほど。モンゴルでは唯一ここだけで蜂蜜で作られているという。

カラオケBBQ

ホテルに戻る。ちょっと疲れた。蜂蜜ウオッカが効いたのかもしれない。少し横になる。そしてまだ明るい内に、レストランに向かう。今日はセレンゲ夜の最終日、初日にゲルBBQを開いてくれた社長などを招き、あのBBQ名人の夫妻が経営するレストランで、カラオケパーティーを当方主催で行う。

 

既に食事の用意はできていたが、また羊ではなく、鶏肉などが中心。結局今回は羊を食べる機会が殆どなかった。それもまた皆さんの配慮の結果だろう。参加者が集まってきて、何となく会が始まる。そして何となく芸が披露される。社長の4歳のお嬢さんが幼稚園で覚えた踊りを披露、N教授とA教授がお返しに、子供向け踊りを披露。芸域の広さが際立つ。そういえばモンゴルでは幼稚園が不足しているそうだ。数だけでなくノウハウも欲しいという。日本の幼稚園を参考にしたいとの話。こういう交流もあるのか。

 

その後はカラオケ大会に。今や地球のどこに居てもカラオケが出来る。衛星カラオケ、日本語の歌がモンゴルとロシアの国境で歌えるなんて、凄い。BBQ屋の奥さんは日本語の歌が上手い。きっと日本で仕事している時に、カラオケに行って覚えたのだろう。その旦那はモンゴル語で歌い、そして強烈に踊る。娘さんは現在大阪日本語学校に通っており、一時帰国中。若い歌声が響く。そして運転手君も横須賀仕込みの歌を。何と吉幾三の『酒よ』だ。みんな、歌が上手い。

 

3時間ぐらい、歌っただろうか、最後はディスコのようになり、踊りまくっていた。楽しい夜だった。モンゴルでこんなに日本が意識できる機会はそうはないだろう。日本とモンゴルがとても、とても近く感じられた。

 

8月18日(日)

サウナシャワー

翌日は昨夜の疲れが出て、昼まで休息とした。シャワーを浴びようとしたが、お湯が出ない。何と水漏れが発生していた。スタッフが来て治そうとしたが、治らない。すると『地下にサウナがあり、そこでシャワーが使えるよ』というではないか。行ってみると確かにサウナがあり、シャワーもある。

 

これがロシア式のサウナか。まるでクラブの個室にサウナが付いている感じで、立派なソファーセットがあり、酒が飲める。ここでウオッカの一気飲みを繰り返しながら、政治や商売を語るのだろうか。ここにもモンゴルにおけるロシアの影響を見た。

 

そしてセレンゲを離れる時が来た。随分長くいた気がする。不思議なほどの愛着がある。日本との共通点も多かったということだろうか。A会頭がわざわざ見送りに来てくれた。本当に我々の為に色々とやってくれた。いい人だ。彼が支えるセレンゲの中小企業、これから経済が厳しくなる中、何とかやって行ってほしいと願う。

パンクしたのでゲル突撃訪問

モンゴル第二の都市ダルハンへ向け出発した。だがすぐに大きな競技場が目に入り、停まる。何とモンゴル相撲の競技場だという。それにしても大きい。競技場の前にはモンゴル相撲の王者の像が輝いている。さすがモンゴル。

そして車は順調に走っていたが、何と我々が乗ったランクルのタイヤがパンクした。いつ治るんだろうか、と心配してみていると、全く心配していないばかりか、むしろこれを喜んでいるN教授がいた。『向こうにゲルが見えるぞ。突撃しよう!』と歩き出す。皆半信半疑で付いて行く。1.5㎞ぐらいあったろうか、草原を突っ切りゲルに到着した。

ゲルでは我々を快く迎えてくれた。これは草原の掟らしい。来る者は歓迎すると。早々に中に招き入れられ、お茶が出される。このお茶が美味い。ヤクの新鮮なミルクで作っているらしい。驚くことには、このゲルの中にはテレビもあり、PCもある。実は裏に衛星アンテナがあり、何十局ものテレビ番組を見ることもできる。勿論携帯もあり、移動も最近は車でする。我々が思っているゲル生活より遥かに現代的だった。

『息子と娘はUBの大学へ行って先生になった』とも。ここにやってくる時は2人ともランドクルーザーだとか。長男が後継者として残っているが、『昔は草原で嫁が見付かったが、今は街に行かなければ見つからない。このゲルを継いで行けるかは分からないし、継げなくても仕方がない』と諦め顔で話す。このゲルの主人は遠くから我々が来るのを見ていたという。馬に乗って戻ってきた。さすが草原に生きる人だ。

パンクしたのは偶然ではないのだろう。こうして人と人は繋がり、そして別れる。これが草原の掟、だと思う。馬で戻りたかったが、パンクを直した車がそこまで迎えに来ていた。今は馬から車の時代になったのだろうか。



モンゴル草原を行く2013(4)セレンゲの企業経営者たち

女性社長は担ぎ屋さん

午後はセレンゲで大規模農業をしている会社を訪ねる。小麦が主体のこの会社、社長は女性だった。彼女はソ連が崩壊した20年前、農業大を出てコルホーズに勤めていたが、物資の欠乏に目をつけて、ロシアとモンゴルの間の所謂担ぎ屋を数年やったらしい。これをモンゴルでは『豚を引っ張って歩く』と称するとか。

 

今回訪問した多くの経営者が、実は90年代豚を引っ張っていた。そこで蓄積した資金を元に事業を始めている。ここの社長も90年代後半、コルホーズが行き詰るとそこの株を買い、農地を買い、成長してきている。そして『民間初の女性社長』として取り上げられ、最近はJICAの支援で、農業設備を購入したりしていた。

 

オフィスから出て小麦畑に行った。道は途中からなくなり、ランドクルーザーでなければいけないような悪路となる。流れている小川を横切ったりする。ワイルドだ。そして一面の小麦畑。何だか楽しくなる。

 

帰りに大きな池の側で停まる。ここは夏の間、子供たちが泳ぐ遊び場となっていた。ここセレンゲは一般的に思うモンゴルとは違う。普通の畑があり、水がある。淡い色の花が咲いていたりする。実に良い所だと分かる。

8月15日(木) 

フェルト靴工場

翌日は朝からホテルの近くのフェルト靴屋さんへ。N教授は数年前に訪問したことがあるようで、旧交を温めていた。ご主人はUB、奥さんがセレンゲ出身。90年代にパン作りで成功したが、親戚に横領され、2000年に倒産。そこから苦労の末這い上がり、2005年にノルウエーと共同で、今の事業を開始。最初は言葉も通じなかったというが、原料がよく、デザインもいいことから注文が続き、今ではモンゴル内から買い付けに来るという。

 

最近テレビ番組に出演、その注目度が一気に上がった。だが、内実は自転車操業。デザインは他社に盗用され、銀行融資は受けられず、生産効率も高くない。モンゴルの中小企業の悩みがハッキリと出ていた。テレビをきっかけに様々な支援が入ることを望んでいる。海外への売り込みも狙っており、ドイツのNPOがHPを制作してくれたりしている。

 

このフェルト靴、何よりも暖かい。冬の寒いモンゴルでは室内履きにする人もいるようだ。特に子供靴は可愛らしい。孫がいたら、買い求めたい一品。A教授はすかさずブーツを購入。A氏は直ぐに誰とでも仲良くなるタイプ。皆を笑顔にする。

 

フェルトの帽子、は昔モンゴルでもよく被られていたらしい。旧共産圏のチェコあたりで作られていたそうだが、今では市場でそれを見つけることも一苦労。あったとしても相当高額のようであり、このフェルト靴も、もう少し値段が上がってもよさそうだ。その為には市場の開拓が第一。

 

なぜかほのぼのとした家内工業。雰囲気が良い。長男も後継ぎとして帰ってきたとのことだったが、勤めていた銀行が破たんしたとの話もあった。モンゴル経済は冬の時代を迎えるのだろうか。

 

バイオアグロ

午後はバイオアグロの会社へ。何と沖縄の教授が開発したバクテリア菌を使い、作物の生産量が飛躍的に伸びるらしい。昨日訪問した小麦農場も実はここの肥料を採用し、生産量を伸ばしていた。社長曰く、『生産量が伸びれば、肥料の売り上げも伸びると思ったが間違いだった。成功した農家は絶対にその秘密を他にばらさないから。また収穫量をごまかし、税逃れする企業も多い』、なるほど。

 

肥料だけで収益を確保することは難しいうえ、政府は予算で安い肥料を購入し、無償で農家に分けているのも痛い。肥料は海外から安い商品が入ってくるので価格では対抗できない。一方輸出は国家間の協定が必要だが、なかなか交渉してはくれない。

 

この会社のオフィスは国有企業時代のまま。せっかく良い商品を持っていながら、それが生かせない。政府も色々と利権があり、民間企業を支援しない。これもまたモンゴルの1つの問題である。

モンゴル緑茶

夕方A会頭のオフィスに向かう。ここでお茶農家と会うことになっていた。私はお茶と聞くと現場の農場まで是非行きたかったのだが、時間がそれを許さず、逆に農家の嫁さんがわざわざ車を飛ばして会いに来てくれた。片道3時間以上はかかるそうだ。恐縮。

 

ただ話を聞いてみると当たり前だが、茶の木があるわけではなく、茶葉が使われている訳でもない。高原で採れる花などを使い、茶として飲んでいる。カフェインがなく、飲みやすい。これは健康に良く、むくみや骨粗鬆症にも効果があるという。一種の薬にもなるようだ。

 

モンゴルでは従来茶葉はなく、ソ連時代は遠くグルジアから運ばれてきた。ただこのお茶には苦みがあり、砂糖とミルクをたっぷり入れていた。いずれにしても茶葉は不足していた(60年代以降中ソ対立により、中国から茶葉が入らなくなったことが影響)。

 

92年に生産を開始。最近の健康ブームにより、砂糖ミルクを入れずに飲める飲料として、『モンゴル緑茶』と称して、販売を拡大している。現在はリピーター中心だが、スーパーなども取り扱いを始め、またキオスクなどへの直接販売も始まっている。面談が終わると、『日のあるうちに山へ帰る』と嫁さんは車を飛ばして戻って行った。

 

スモークフィッシュで大宴会

Nさんが市場へ行った。そして河魚の燻製を買ってきた。これはとてもうまかった。段々普通の食事にも飽きてきたので、魚をあてに一杯やる。N教授などは望むところで、仕入れたビールやウオッカを取り出す。それにしても、セレンゲはとにかく豊かなところだ。モンゴルにもこんなところがあるのかと本当に驚く。

 

   

 

部屋のテレビもきちんと映った。ロシア語の放送だが、世界陸上を生中継している。日本ではTBSが織田裕二をキャスターに起用して放映しているはずだが、日本選手ばかりにスポットを当てて、引っ張りに引っ張るが、こちらはどんどん競技を中継してくれるから嬉しい。

 

勿論モスクワで行われているのだから、ロシア選手が注目されているが、日本選手も映ってくるし、中国選手も出て来る。このような放送がモンゴルで見られること自体、興味深い。当然モンゴルでロシア語が出来る人は多いし、特にここは国境である。当たり前なのかもしれないが。

8月16日(金)

競馬協会会長は運送屋さん

今日もセレンゲ。ここは本当に色々なものが見られる。これも商工会A会頭の尽力だ。午前中は何と競馬協会会長の所へ行く。モンゴルには草原の競馬がある、賭け事というより、遊牧民のスポーツだろうか。会長の体格もいかにもがっしりしている。

 

この会長、運送・貿易会社の社長さんでもある。ロシア‐モンゴルの国境運送に長年携わってきている。90年代より中国企業と合弁で事業を展開。近年はロシアと中国を結ぶ役割が大きくなってきている。馬乳酒を作ったり、馬肉を輸出したりと馬に関わる仕事もしている。

 

レンガ工場も経営しているが、『今年は去年の半分の売り上げ』と嘆く。経済状況が悪く、学校建設などの予算が削られている。中国の景気減速の影響は大きく出てきているようだ。UBの建設ラッシュもいずれ止まるのではないか、とふと思う。

 

元外交官の絶品スープ

昼前に郊外の農園に行く。チャルツラン?という実からオイルを採っているという。社長の家に行くと、何ともお洒落な造り。社長は何と元外交官で、モスクワのモンゴル大使館勤務経験もあるという。確かに品のある人だ。退官後、これからは農業だ、と思い、セレンゲに住み、様々な商品開発などを行っている。

 

お昼ご飯を用意してくれていた。何と社長自らが農園で採れた野菜などをたっぷり入れたボルシチを作ってくれていた。この濃厚な味、忘れられない。数時間煮込んだという。サラダなどもふんだんに出てきて、さすが農園と思う。そしてお昼からウオッカ一気飲みが始まる。ボルシチとウオッカで酔いしれる?

 

社長の息子たちはアメリカ・カナダなどに住んでいるようで、1年の半分は向こうで暮らすそうだ。『夏はモンゴルだよ』という言葉に生活の豊かさが感じられた。こんな『半引退生活』はすてきだな。



モンゴル草原を行く2013(3)セレンゲ 幻の茶城

8月13日(火)

3.     セレンゲ

セレンゲヘ

今日はいよいよモンゴル草原を行く。2台のランドクルーザーに分かれ、北を目指した。ウランバートル市内を抜けると、後はずーっと草原。道は一本道で舗装道路、快適だ。天気も良い。恐らくはモンゴルで一番良い季節なのだろう。ただゲルや羊の姿はなく、もっと遠くへ行っているように思えた。

 

途中にガソリンスタンドがあり、給油。簡単な店があり入ってみると、缶コーヒーなどが売られていた。これは台湾製。モンゴル人もコーヒーを飲むんだな。車を所有している層は当然海外慣れしている。因みにガソリン代は日本並み。

 

鉄道の線路に出くわす。列車が来るので足止め。列車が来るまで相当の時間がかかり、周囲を探索。この辺りは草原と言っても、家があり、区画が割られている。聞けばモンゴルでは全国民が700㎡ずつの土地を貰う権利があり、誰も使っていな土地は自由に使い、届をすれば自分の物となるようだ。自分の土地には柵などをして、使用していることをはっきりさせるらしい。最近はUB付近の土地は確保できないようだが、田舎は便利なところを選んで貰うという。

 

列車は基本的に貨物。それも延々と続く。石炭や石油を運んでいるようだ。これがモンゴル経済を支えているのかもしれない。勿論トラックも走っていたが、その数を見れば、鉄道輸送の重要性が分かる。

 

4時間ほど走ってセレンゲ県に入る。ここは草原ではなく、小麦や野菜の畑が見えてきた。農業県セレンゲ、UBの市場で見た野菜などもここから運ばれてくるらしい。内モンゴルの草原出身のNさんは『ここの小麦は悪くない』などと、自らの故郷を懐かしんでいるようだ。作物や草花を見て、一瞬で名前を言い、種類を見分ける、草原で生きてきた証を見るようだ。

 

合計5時間ほどで、セレンゲ県の中心都市、セレンゲに到着。ここはもうロシアとの国境の街だ。当然北に進んだので涼しくなると思っていたが、何とどんどん暖かくなる。実はUBは標高が高く、我々はどんどん坂を下っていたらし。『北へ行く=寒くなる』という固定概念ではアジアは語れないと痛感した。UBの市場でわざわざ購入した上着の出番はとうとうなかった。

県庁訪問

セレンゲは静かな田舎町だった。だが、ホテルは結構立派で驚く。最近できたようだが、それだけ需要があるということだろう。ネットもちゃんと繋がるし、何よりきれいだった。ホテルから歩いてすぐの所に県庁があり、訪問した。セレンゲの現状について聞いたが、『農業県』ということだった。またロシアとの国境貿易も盛んのようで、この県はかなり豊かな感じがした。

 

お昼はホテルに戻り、県庁の人々やセレンゲ商工会のA会頭も参加して会食した。このホテル、食事もしっかりしており、益々よい。餃子の皮のようなものが入ったスープが特に美味しい。昼からしっかり儀式としてビールを飲み、歓迎された。先方のトップが女性だったのでこの程度で済んだのかもしれない。

 

部屋に戻り休息。今回は全てNさんと同室だが、彼は早々探検に出るという。やはり私などよりは10歳以上若い。モンゴル族と言っても外モンゴル、特にロシア国境には初めてやってきた。興味津々のようだ。こちらは車で疲れたので、ベットに横になるとすぐに寝てしまう。環境が良いせいか。ここは空気もいい。UBの喧騒もない。

 

草原のBBQ 

午後5時に車に乗り、草原へ出発。牛や羊がゆったりと歩く草原を見ると心が休まる。車で30分ほど行くと、突然丘の斜面を登る。そこにはゲルが。そして濛々とした煙が上がっていた。A会頭より『今日は旅行会社の社長のインタビュー』と聞いていたが、何と草原のゲルで行われるという趣向だった。というか、このゲル自体が観光用で、BBQを食べるというプランだったのだ。

 

一人の女性が近づいてきて『ビール、飲みましょう』と何と日本語を話した。聞けば3年前まで千葉県の工場で働いていたという。そして『この3年間で初めて日本人と会った。日本語が話せて嬉しい』とも言う。彼女は思い出すように日本語を使っていたが、すぐに流暢になった。

 

このゲルツアーは今年から始まった。ロシア国境から7㎞、外国人の観光客に期待している。日本人はほんの数組が泊まった。このような民間による新たな試みがモンゴルに芽生えている。

 

BBQは美味かった。だが羊ではなく豚肉。モンゴルの地方に行ったら毎日羊だと脅かせれてきたので拍子抜けした。青空の下で食べるBBQ、ビールや馬乳酒を酌み交わし、気分も爽快となる。そうなると歌が出る。N教授も特にロシア民謡を披露。先方は日本語の話せる女性とその旦那が日本語の歌を歌う。そして踊る。最後にはモンゴル相撲まで披露された。これは決してショーではなく、素朴なもてなし。それがとても良い。

 

この近所には周囲を一望できる丘もあり、景色もよい。丘に登れば、河が見え、遥か国境付近まで見渡せる。思えば遠くへ来たもんだ、と思う。こんな観光、したくてもなかなかできるものではない。

 

8月14日(水)

幻の茶城発見

朝ごはんはビュッフェスタイルではなく、オーダー。オムレツとパン、野菜が少ししかないのがモンゴル風。テーブルにキッコーマンの醤油が置かれている。羊肉にかけて食べる人がいるようだ。これは意外に美味いだろう。さすがキッコーマン、モンゴルの果てまで営業していると思ったが、これはシンガポール製。恐らくはモンゴル人の誰かが日本人と関係なく輸入したのだろう。うーん、モンゴル市場は確かに小さいが、親日的でファンは多いと思うのだが。

セレンゲ県の税関を訪ねた。役所のビルの目の前に鉄道の線路があり、ロシアと繋がっている。モンゴルにとってロシアがどんな存在であったのか、よく分かる。ただセレンゲの貿易に占める地位は低下してきているらしい。ロシアではなく中国の影響があまりにも大きくなりすぎた。

そして車で国境に向かった。呆気ないほど簡単に到着。車が列をなしており、国境を越えてロシアに向かうことが分かる。イミグレの人に話を聞くと、『毎日数百台が通る。日帰りも多い』と。気軽な国境だった。

ちょうど自転車に乗った人たちがやってきた。聞けばフランス人の50代の夫婦。何とフランスから自転車でやってきて、モンゴルを回り、これからフランスへ帰るところだという。既に1年半の旅をしている。半端じゃない。驚きだ。

そして何より驚いたのは、国境の柵の向こうに見えた白い建物。何気なく聞いてみると、何と百年以上前の茶城だった。ここはモンゴルではヒャクトという地名だが、ロシア語はキャプタ。1727年に清とロシアで結ばれた、あの歴史の教科書にも出て来るキャプタ条約の場所だったのだ。Nさんが言う。『今朝、「茶葉の道」という本を読んでいたでしょう。あそこに出ていた茶城ですよ』と。意図せず持ってきた本の写真が目の前に。歴史が厳然と存在している。全く驚きだ。

茶葉は中国からここを経由してロシアに運ばれ、拡散し、人々は茶を飲むようになり、やがては生活必需品となった。この地は清国の商人とロシアの官僚がパーティーをしていたところでもある。是非とも国境を越えて茶城跡を見学したかったが、『ビザを持っていないなら行けませんよ。こっちは出てもいいが、ロシア側で罰金とられますね』というイミグレの一言で現実に帰った。

これは茶縁なのだろうか。きっとそうなのだろう。旅には意外性が付き物だが、今回の意外性はスケールが大きかった。

何もない自由貿易区

実は今日国境を訪問したのは、単なる旅ではなかった。今回の調査の目玉の一つ、モンゴル-ロシア国境における自由貿易区の発展状況を視察することにあったのだが、現場に案内されて驚いた。10年前から計画されているこの貿易区、殆ど何もなかった。プレハブの事務所に計画のパネルなどがあったが、何ともむなしい。

 

なぜこのような状態なのか。このプロジェクトを担当していたのは20代の若者2人。『毎年予算は付くが、お金が届いたためしがない。当初基礎工事で地中のパイプなど水工事は行ったが、そこまでだ』と本人たちも残念そうだ。

 

外に出ると、骨組みだけ出来た倉庫が一つ、ポツンと建っていた。これは今の貿易区を象徴していた。多少の従業員がいるとのことだったが、昼休みで誰もいない。何とも寂しい。ここは産物のないモンゴルが、世界各国から物資を集め、貿易を進めるはずの場所だったが、計画倒れ。モンゴルの現状がよくわかるプロジェクトとなっている。

 

因みに貿易区には柵が設けられている。これはロシアとの国境を示すもの。『ロシアはどんどんモンゴルの土地に侵入してきている。何も対抗しないと、奴らは更に進んでくる』、昔は気が付くと、ロシアの柵が前進してきたそうだ。確かに広大な草原、全てを守ることは人口の少ないモンゴルにはできない。またロシアは入植と言う形で、ロシア人をどんどんこの地に放り込み、彼らが国境を動かしていることもあるようだ。島国日本から来たものには、全く想像もできないような、領土争いがそこにある。

 

またモンゴルには精霊信仰がある。この大地にも祭られている場所があった。一見無造作に置かれている石、布で周囲を囲われている。そして驚くべきことに、捧げられているのはお茶の葉。日本ではレンガ茶と呼ばれるブロック状の磚茶。これはモンゴルの人々が日常飲むミルクティの原料だ。中国茶は仏教との兼ね合いが強いが、ここでは精霊。

 

ローカルランチ ロシアから卵

昼ごはんはかなりローカルな店に入った。まんとうと羊スープ、これは私が望んだものだったので満足。この辺に店はあまりなく、国境を越えてロシアから来たトラックなどが引っ切り無しに前を通り、または停車していく。レストランの隣はちょっとした何でも屋。トラックの運転手が下りてきて、水などを買っている。

 

運転手に何を運んでいるのか聞いてみると『卵』との答え。材木などを積んだ車もあるが、食品を運んでいる車も当然ある。卵はモンゴルでも何とか生み出せないのだろうか。ロシアでも条件は変わらない筈だから。大量生産した方が安い、と言う資本主義の原理だろうか。こうした輸入形態がモンゴルの伝統だとよくわかる。

モンゴル草原を行く2013(2)中国野菜を拒否する

8月11日(日)

ザッハで モンゴル産野菜

翌朝朝ごはんを食べに1階のレストランへ行くと、欧米人と韓国人のお客がいた。このホテルには誰も泊まっていないのかと思うほど静かだったので、意外な感じがした。やはりモンゴル、野菜は少ない。なぜか海苔とキムチはある。韓国人が多いのだろうか。昨晩長野から到着したOさんも加わって食べた。

 

今日は外出。これからの旅の準備をする。先ずは両替所へ。空港と比べて多少レートが良い程度。ただ人民元のレートが非常に良く見えたので、両替した。今や人民元はメジャー通貨扱いだ。

 

それからザッハと呼ばれる市場へ向かう。ここは庶民が買い物をする巨大市場。私はここで厚手の上着を購入した。それはこれからロシア国境まで北へ向かうとかなり寒いだろうという予想があったからだ。ここの服は殆どが中国から持ち込まれたもの。勿論輸送代の分だけ中国より高い。

 

服だけではなく、雑貨もあれば、化粧品もある。食べ物は専用の建物に入っていた。野菜を売っている場所に異変が起こっていた。我々はモンゴル文字が読めないが、多くのモンゴル産野菜が並んでいたのだ。4年前は基本的に中国産が並んでいたが、その後『中国食品の安全性』にスポットが当たり、拒否する人が増えたという。

 

芋でもキャベツでも、モンゴル産が好まれる。これは食の安全性もあるが、モンゴル人の中国に対する嫌悪感を表している。歴史的に複雑な隣国とはそのようなものだが、かなり中国からの投資圧力があるのだろう。

 

そして昼食へ。以前も行ったきれいなレストラン、外国人が多かったが、今では地元の人で込み合っていた。出てきた羊肉は美味かった。内臓系のスープも抜群。やっとモンゴルに来た、と言う実感が湧いてきた。

 

このレストランで頼んだのが『Sencha』。キレイなパッケージであり、中は使いやすいティパックになっていた。裏を見るとドイツ製となっている。何故ドイツ製のティパックがモンゴルに?この謎は後々解けていく。味はまあまあ。でもこれ煎茶なの?

 

午後はスフバートル広場へ行く。観光は夏がかき入れ時、と言われてが、この街の真ん中の名物広場に人はあまりいない。天安門広場なら人で埋まっているだろうに。モンゴルは本当に不思議な国だ。

スーパーで

夕方、高級スーパーへ。ここも以前来たことがあるが、かなりきれいになっていた。この4年間の変化、特に消費の伸びは十分に感じられるほど、モノの値段も上がっているし、地元モンゴル人の買い物客が増えている。我々は今晩、ホテルの部屋で宴会?を開くための食べ物を買い出した。


 

海苔巻、キムチなど韓国製が食べやすそうだ。ビールなどは世界各国の物が揃っていたが、中には地ビールもあり、牛乳のボトルに入っていた。面白かったことは割り箸がなかなか見つからなかったこと。モンゴルでは基本的にフォークやスプーンで食べるヨーロッパ風。ようやく見つけた箸もやはり韓国製。

 

カップヌードルも買ってみた。よく考えてみれば箸もなく、どうやって食べるのだろうか。この間インドでも同じ問題があった。解決方法は麺を短く切り、スプーンで掬って食べること。カップ麺も日本製は少なく、韓国製が圧倒していた。

 

外国産が圧倒しているこのスーパーで、日本が目立っていたのは何と日本茶コーナーがあったこと。それも棚3段。そしてティパックや『日本煎茶』『静岡茶』といった一般的なお茶だけではなく、知覧茶、屋久島茶なども並んでいたことには正直驚いた。一体誰が輸入し、誰が買うのだろう。日本人でないことだけは確かだ。モンゴルの日本びいき、日本のゆかりのある人が増えている証拠だろう。また日本側の事情としても、海外輸出を進めたいということの表れだろう。その夜はホテルの部屋でパーティー。東京からA先生及び内モンゴルからNさんも到着し、今回のメンバーが揃った。

 

8月12日(月)

ウランバートルはお金持ちが多い

翌朝はUさんが所属するモンゴル商工会議所を訪問した。我々の調査団はこちらの会員企業などをアレンジしてもらい、企業訪問、インタビューを実施、調査を遂行する予定である。その為の表敬訪問。会頭Dさんはかなりのやり手。先日国会議員にも当選したという。商工会も彼の牽引で地位が向上しているらしい。関係部署を回り午前中が終了。

お昼はスフバートル広場横のモダンなビルへ。このビルはルイビトンなどもテナントとして入り、モンゴルでは最も先端的なオフィスビルと言える。その中にあるレストランはカフェ風。香港にいるのと同じ気分になる。クラブサンドイッチも美味しい。お客はお洒落な30代が多い。

因みにこのカフェと同じフロアーには鉄板焼き屋とラーメン屋が入っていた。モンゴルも日本食ブームなのだろうか。残念ながら入って食べる機会はなかったが、料金はモンゴルとしては結構高い。

昨晩からホテルの部屋が同室になった、内モンゴル人のNさん。彼の帰りのフライトチケットを買いに航空会社オフィスへ。そこはかなり昔の中国のオフィスも思わせるスピード感。チケット1枚買うのに30分以上かかる。

そして今度はNさんと一緒に携帯ショップへ。モンゴルのSIMカードを買うためだった。ランチをしたビルにあるというので行ってみたが、そこはVIP専用。さすがビルが良ければ客も選ぶ。何とか一般向けのオフィスを探し当て、無事カードを購入。僅か数百円で通話とショートメッセージが出来る。よしよし。このショップ、結構スマホなども売っている。

話しによるとウランバートルの車の修理工はベトナム人が多いという。何故だか知りたかったが、行く機会を逸してしまった。メイドはフィリピン人から来るとか。モンゴル人もメイドを雇える層は英語ができるということだろう。人口の少ないモンゴルだが、意外とお金持ちが多いことが分かる。



モンゴル草原を行く2013(1)夏のウランバートルへ

《モンゴル草原を行く》 2013年8月10日-24日

 

モンゴルへ行ったのは2009年3月。あの時の印象は強烈だった。N先生調査団に同行したのだが、私には時間がなくウランバートルしか行かなかった。そして実に寒かった。

 

モンゴル草原はどうなっているのか、ゲルでの生活は?いつかは見てみたいと思っていたら、またN先生が調査団を出すという。今回は2週間、全日程に参加した。ウランバートルの変化、そしてウランバートルだけでは全くわからないモンゴルが見えてきた。

 

8月10日(土)

1.ウランバートルまで

北京経由で

バンコックの空港に夜向かった。午前1時発の飛行機に乗るのに、9時半に空港に着いてしまう。早過ぎた。チェックインは10時からしか始まらない。同じ便に乗ると思われる中国人が大勢待っていた。今夏休み、満員だ。

 

バンコックを深夜に発ち、北京を経由した。中国人乗客はタイで遊び疲れたのか、殆どが眠り込んでおり、異常に静かだった。4時間半で北京に着く。朝の北京は爽やかだった。空気が汚いと言われていたが、感じられない。ここで国際線乗り継ぎのイミグレを通るのだが、いつも1つしかゲートが開いていないので、長い列ができる。この辺のサービスはもう少し充実してほしい。何しろトランジットでも金を取っているのだから。

 

そしてウランバートルへ。欧米人の子供たちがサマーキャンプに行くらしい。大勢乗り込んでいた。非常に順調な飛行で定刻には着陸した。4年前に聞いた話では、このチンギスハーン空港は世界でも有数の『離発着が難しい空港』だそうで、私はえらい目に合ったのだが、素人にはどこが難しいのか全く分からない。一見何もない場所にしか見えない。風の関係が大きいようだ。

迎えが来ない空港

イミグレも実にスムーズ。だが預けた荷物が出て来ると、何とスーツケースが凹んでいた。え、と思い、職員に伝えると、マッチョな彼は『ケース開けて』と言い、内側から思いっきり叩き、一発で元に戻した。さすがモンゴル。

 

出口には沢山の出迎えが待っていたが、私の名前はなかった。周囲を確認したが、迎えの人はいなかった。そうなると突然途方に暮れる。ホテルの名前は聞いているが、電話番号すらなかった。勿論迎えの人に番号もなく、頼みの綱のN先生とモンゴル人Uさんも今こちらに向かっているので、連絡は取れない。

 

タクシーの運転手が近づいてきた。日本語ができる。空港のインフォメーションに相談したが、どうにもならない。仕方なく彼のタクシーに乗ろうとしたが、モンゴルのトゥグルグをもっていなかった。運転手が両替は2階だ、と連れて行ってくれた。案外いい人かもしれない。両替したが、公式の両替所なのに、レシートすら出さない。どうなっているんだ。

 

そして1階に下り、タクシーに乗ろうと進むと、何と私の名前が書かれた紙を持った男性が立っていた。彼は突然『探しましたよ』と流ちょうな日本語で言う。旅行会社のガイドか。車に乗ると彼自身が運転している。聞いてみると運転手兼ガイドだと答えるが、一人三役の活躍だ。

 

何とその彼は日本に5年間住んでいた。しかも通っていたのは防衛大。え、日本人以外でも防衛大に入れるの?『防衛大には中国以外のアジア各国から勉強に来ている』というではないか。日本人が知らない、意外ない事実に唖然。

 

空港からの道路は専用道路になっており、4年前とは違う。空も抜けるような青空。気持ちの良い空気。だが、市内に入るとことから渋滞が起こり、新しいマンションが見えてくる。『ウランバートルは急激に発展して、インフラが付いて行かない』のだそうだ。モンゴルの変化が既にっ随所に表れている。楽しみだ。

2.     ウランバートル1

誰もいないホテル

宿泊するホテルに到着。何だかやけに立派に見える。中に入ると人気はない。部屋はとても広かった。キッチンもあり、冷蔵庫もある。ここは長期滞在者用アパートらしい。インターネットも簡単に繋がり、何だか拍子抜けするほど、快適。

 

ただこの辺にはレストランがない。外へ出ると、観覧車が見える。遊園地があるようだが、動いてはいない。その付近はマンション建設ラッシュ。どんどん建物が建っていく。ウランバートルの勢いが分かる。

 

近所にスーパーがあるというので出かけてみる。4年前に比べて、品揃えが豊富に見える。モンゴルは基本的に輸入品が多いが、韓国製が目立つ。お茶も韓国製緑茶が売られている。ここでバナナと水を買い、ホテルに戻って食べた。

 

午後は何をしようかと思っていたが、何だかとても疲れてきた。昨晩の夜行便の疲れか、または最近の過密日程の旅の疲れか、いずれにしてもこれからの長いモンゴルの旅を考えるとここは休むのが一番と判断。ベッドに潜り込むとあっという間に寝入る。このような休息が私には必要だ。しかも部屋の環境が良いとよく眠れることも分かっていた。

 

夕方目覚める。そろそろN先生が到着しているはずだと電話してみるとちょうどチェックインしていた。N先生とモンゴル人のアレンジャーUさんは東京からソウル経由でやってきた。とにかくモンゴルは夏が旅行のかき入れ時。便数も多いが、料金も非常に高い。

 

夜はN先生と2人で食事をした。面倒なのでホテルのレストランへ行ってみたが、お客がいないばかりか、従業員の姿さえなかった。ようやく探してきて注文する。ビールを持ってきてと言ってもなかなか出て来ない。このホテルはどんなレベルのホテルなのだろうか。きっといい料金を取っているはずなのだが、この辺がモンゴルの課題なのだろう。