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プーケット街歩き2013(1)プーケットタウンはマレーシアに似ている

《プーケット散歩2013》  2013年9月9日-11日

 

 

タイに滞在して数か月。ある日中国人の知人が「プーケットで中国語が通じて驚いた」と話していたのを聞き、急に行ってみたくなった。何しろプーケットへ行ったのは1994年(http://www.chatabi.net/asiatabi/1135.html)と1995年(http://www.chatabi.net/asiatabi/1147.html)の2回。いずれも幼い息子たちを連れた家族旅行だった。18年ぶりのプーケット、どのような変化があるのだろうか、そして華人は居るのか、さてどうなることか。

 

9月9日(月)

1. プーケットまで

タクシーが捕まらない

今回はドムアン空港へ行く。前回同じ時間にスワナンプーンへ行った時は非常にスムーズだったので、今日も高をくくっていたが、それは大きな間違いだった。宿泊先から道路へ出て行ったが、タクシーは全く捕まらない。午前7時半、段々交通量が増えてくるが、タクシーは益々やってこない。他にタクシーを待つ人が出始め、これは本当に捕まらないのでは焦り始める。フライトは午前9時半、国内線だから間に合うはずだが、車がなければ空港へ行けない。仕方なく、5分以上歩いてスクンビット通りへ出る。この道はさすがに朝のラッシュが始まっており、車が多い。

 

空車は直ぐに見つかった。だが、運転手に「ドムアン」と告げると、首を横に振る。ここで乗れないと困るので、もう一度頼むと「うーん」となり、仕方ないかとなった。この運転手のリアクションが正しかったことは直ぐに分かった。スクンビットを抜けるだけでも大変なことになっていた。高速に乗ったが、完全な渋滞にはまった。動かない。これでは今来た道すら戻れない。どうする、いや、「着くときは着くもの」と思い、考えないことにした。

 

途中何度もダメかと思ったが、なぜか最後はスムーズに行き、フライトの40分前には空港に着いていた。驚いた。しかも前日Webチェックインしていたので、すぐに荷物検査を通ると、搭乗時間までにはまだ間があり、ネットを見る余裕すらある。信じる者は救われる、ということか。

ノックエアーに萌える?

搭乗ゲートにいる黄色い制服を着たノックエアーの女性職員はなぜか皆小柄で可愛らしい。日本人的な人が多い。ある人が「ノックエアーの黄色い制服を見ると萌える」と言っていたが、何となく分かる気がする(笑い)。これも一つのサービスの成果、ということか。空港内で搭乗者のみ無料でネットが繋げられるというのも、ノックの良いところ。エアアジアは持ち込み荷物の分量などにうるさいため、個人的には敬遠している。

 

機内はほぼ満員だったが、なぜか私の席は隣もその隣も来なかった。3席独占で悠々と過ごす。プーケットということで、リゾート客が多い。欧米人も結構いたが、中国語もかなり聞こえてきた。LCCでは通常食べ物も飲み物も出ないのだが、ノックでは小さなパンが一つと水が配られた。たったこれだけでも印象はかなり違う。

 

バスとモータサイを乗り継ぐ

定刻にプーケットの空港に到着。イメージより小さい。恐らくは18年前と大きく変わっていないようだ。預け荷物なしですぐに外へ出る。タクシーと書かれた場所へ行くとプーケットタウンまで何と650bもする。『バスはないのか』と聞くと『ない』と言われ、タクシーに乗るように勧められる。

 

なんだかおかしいと思い、3回同じことを聞くと、一人のおじさんが『あっちだ』と指をさす。残りの2人が舌打ちしたのが分かる。観光地プーケットのイメージは決して良くない。タイにはロットゥというミニバスがあるが、これはパトンなどのビーチにしか行かない。料金は180b。ではタウンに行くにはどうしたらよいのか?一番端のおじさんが手を挙げて呼ぶ。『プーケットタウン』と叫ぶと『うーん、近くまでは行くよ』という。

 

聞けばこのバスもパトンビーチ行きだが、途中タウン近くのロータスを通るという。取り敢えずこれに乗ることにした。だが出発は11時半、まだ30分以上もある。それでも急ぐ旅でもなし、気長に待つ。これだけ観光客が多いプーケットにおいて、交通網だけははっきり悪いと言わざるを得ない。

 

バスにはタイ人などが乗っていた。欧米人や中国人はタクシーか団体バスに乗って行ってしまう。結局半分以上が埋まった11時20分過ぎに、バスは出てしまった。飛行機の関係でこれ以上乗客がいないと判断したのだが、実は一人、荷物をバスにおいてどこかへ行っていた人がいた。慌てて車掌が止めて事なきを得た。

 

空港からの道は何だか昔と変わらないような田舎道だった。途中ジャングルのような林も通過した。これが中国だったら相当の変化が見込まれるが、この地は発展していないのだろうか。幹線道路沿いには商店がびっしり並ぶ。これは昔とは違う。途中ロータスが見えたが、まだ時間的に早いとスルー。そしてちょっとウトウトしていたら、車掌のおばさんが『ロータス』と声を掛けてくれた。ロータスが2つあるとは、やはり発展はしている。

 

バスを降りたが、どうしてよいか分からない。そこは本当に郊外の店だった。キョロキョロしていると、バイタクのおじさんが目に入る。市内まで70bと言われ、ちょっと高いかなと思ったが、それ以外に選択肢がないので乗り込む。この付近は他にもショッピングモールがあり、建設中のマンションもあり。

 

バイクは結構時間がかかった。やはりそれなりに遠かったのだ。オールドタウンに入ると、いろいろな建物が目に入る。時計台などもある。だが目的地であるホテルはどこにあるか分からない。バイクのおじさんも自分で探す気はないようで、『ここがプーケットロード』と言っては、何度も同じようなところを回っていた。仕方がないので『ここで停めろ』と言ってバイクを降りようとしたところ、今日の宿泊先、カサブランカが斜め前に見えてホッとした。

 

2. プーケット

予約ミスは笑って帳消し

ホテルへ入り、チェックインを告げる。ネットで予約したとだけ話した。実は先日ネットで予約した際、日にちを間違えて入力していた。ホテルの女性オーナーは笑いながら一言『問題ない。このまま泊まってよい』という。何ともおおらかな。日本だったら例え部屋がいていても絶対に追加料金を取られただろう。

 

このオーナー、ジョジは非常に流暢な英語を話す。そしてどことなくヨーロッパ系の面影も感じられる不思議な女性だった。『家族はバンコックに住んでいる。バンコックでいい日本レストランはどこか』などと聞いてくるので、『エンポリの葵はどうか』と言ってみると『オー、あそこのカレーうどんは確かにおいしい』と意気投合。

 

親切にもプーケットタウンの地図にお勧めのレストラン、観光スポットをどんどん書き込み、紹介してくれた。これはグッドなサービス。『イギリスに留学していた時にベストフレンドは日本人だった』と日本びいきの理由を話す彼女。何とも面白い。

 

ホテルはカサブランカという名前の通り、白を基調としている。部屋もそこそこ大きく、ゆったりした感じがある。ビーチリゾートとは違うが、リゾート感覚のホテルだった。スタッフも英語が出来、お客の80%以上は、ヨーロッパ人だとか。何で私がここへ迷い込んだのだろうか、これも必然のなせる業か。

 

韓国人が行く麵屋

ジョジに勧められて、ランチに出かける。ホッキンミー、福建麺のことだが、美味しい店があるという。そしてなぜか『韓国人客が多い』ともいう。なんだそれ。店はホテルからそう遠くはなかった。行ってみると確かに韓国語の看板が出ており、韓国語のメニューもあり、そして韓国人観光客が座っていた。この店は韓国系がやっているのかと思ったが、どうやら中国系らしい。ただ普通話で話し掛けても全く通じなかった。むしろ英語の方が通じた。

 

店の売り物は福建麺。これは太麺でラーメンに近い。スープはかなりあっさりしており、韓国人などは辛いソースでも掛けないと物足りないだろう。汁麺と汁なしがあるようだ。1杯、40bと庶民的な料金。というより、ここプーケットタウンは一部を除いて観光地ではない。ビーチとは違うのである。

華人博物館

そのまま午後はオールドタウンを歩くことにした。何しろここは歴史的景観の街。随所に映画のセットのようなヨーロッパ風であり、また亜細亜風の建物が見られる。ホテルのすぐ脇の道が、一応整備されており、観光街となっていた。時計台も見事に古い。

 

その観光街を歩いて行くと、普吉泰華博物館がある。ここはプーケット華人の歴史が展示されているということで、参観してみる。先ず博物館の建物が立派だ。1934年建造とか。1948年に博物館になったらしい。プーケットに最初の中国人が住み始めたのは1817年とある。そんなに遅いのか?その後ラーマ5世時代に移住が増えていった。福建人が大半を占め、広東、海南からの移住者もいたという。主に鉱山開発などに従事した。荒くれも者も多く、問題は常に起こっていた。

 

実はマレーシアのペナンとの縁が非常に深い。プーケットに来るとタイというより、マレーシアをイメージしてしまうのはそのような理由があるのかもしれない。建築物も、マレーシア風、というか、ポルトガルなどヨーロッパとの融合が感じられる。

 

街の外れにシノポルトギーズスタイルと言われる建物が残っている。今はレストランになっていたが、誰かのお屋敷だったのだろう。実に寛げる造りで好ましい。庭もとても広い。レストランに入るとクッキングスクールをやっているようだ。最近アジア料理のクッキングスクールが随所で見られる。単なる観光ではなく、その土地を知ろう、知らせようという試みか。面白い。その後どこにでもある天后廟、観音廟などを回る。本当に中西混合だ。

 

現在は雨期ということで、小雨が降り続いている。観光客も少ない時期だと分かる。夕飯を食べようと歩いて見たが、レストランはあまり多くない。仕方なく観光地化されたレトロなレストランで食べる。この店、元は薬屋さんか。聞けば隣で薬屋はまだ営業している。オーナーのおばさんは華人の顔をしていたが、普通話はしゃべれず、流暢な英語を話す。既に4代目、『私たちは華人と言っても単なるタイ人だよ』と。そう、普通の生活に中国語は不要だろう。

 

初めて行く北海道2013(2)はるばる来たぜ函館

6月5日(水)

3. 函館

バスで行く

翌朝は本当にゆっくり起きた。そしてバスに乗った。函館行き、普通の人は電車で行くようだが、今回はバスにしてみた。札幌駅の脇のバスターミナルから出発。車内は3列シートで、飛行機で常に通路側を取る私は真ん中の席を選択したが、そんな人はいなかった。3席は十分に間隔があり、更には混んでもいなかったので、両窓際に集中していた。私だけが浮いている感じがした。

 

バスは実に快適に走る。さすが北海道、車も少ないし、道もよい。2時間半ほど走ると休憩があった。眺めの良い場所だった。有珠山、昭和新山、駒ヶ岳が見えた。何だか昔聞いたことがある。噴火した山だったかな。そんな場所に立っている自分が不思議に思えた。電車ではこんな感じにはならないだろう。ドライブインでサンドイッチを買って食べた。背中に山、目の前の遠くに噴火湾と呼ばれる内海があった。こんな雄大な景色の中でボーっとするのも贅沢なものだ。

 

函館に近づくと、少しずつ乗客が降りていく。そして函館市内に入り、駅前で下車。今日の宿は朝市の近くですぐ見つかる。この宿は昔朝市に買い出しにでも来た人が使ったのではないだろう。かなり古い。朝市は目の前だった。

 

五稜郭

函館と言えば五稜郭。駅前から路面電車に乗ってみる。路面電車だからゆっくりだが、見るべきものはあまりない。五稜郭公園前で下車してからも結構歩く。場違いなタワーが出来ており、中もきれいで違和感ありあり。

 

五稜郭公園はきれいに整備されており、藤棚があり、つつじが咲いていた。公園内の建物は全て最近作られたもので魅力はない。だが、公園の周囲は何となく雰囲気があり、歩いて見たくなる。ここで幕末の戦争があり、終結したのか。何とはなく感慨深い。

 

裏門には男爵芋の碑が建っていた。何故ここにあるかと思うが、ここにあるのが相応しいようにも思える。周囲は堀で囲われているが、今はランニングコースになっており、人々が汗を流していた。うーん。

 

帰りは歩いて戻る。駅の近くまで来ると土方歳三最後の地、に出くわす。そう、函館と言えば土方だよな、と思い出す。この碑があった場所はきれいな庭園であり、それも何となくそぐわない。


函館山

駅前からバスが出ていた。函館山から夜景を見る、というのも観光コースらしい。特にやることもないので、行ってみた。バスは夕方出る便が多い。夕日から夜景を見に行く人が多いということだろう。バスは函館の街、特に異国情緒が漂う街並みを越え、山道をくねくね行く。途中でチラチラと港の風景が見える。頂上に着くと既に多くに人々が夜景を待っていた。修学旅行生も多い。先生は写真を撮ってあげたり、変なことをしないように注意したり、大変な様子だった。中には車いすでやってくるお年寄りもいた。

 

函館の街を一望できる山、夕日はないものの確かに夕暮れのよい風景が見られた。かなりの霧がかかっている。時々霧が動いて港が見える。何となく不思議な追いかけっこが行われていた。観光客もその度にカメラを向けていい風景を納めようと頑張る。建物の中にはお土産物コーナーがあり、せっせと買い物している人々もいる。

 

そして徐々に周囲が暗くなってくる。観光客が増えてくる。スポットは大混雑となる。港の方がライトアップされてくる。霧は相変わらず晴れたり曇ったり。高い建物がないので、香港の夜景とは比べることはできないが、素朴な明かりがそこにある。

 

バスの時間があったので早めに失礼する。山を下ると、レトロな建物が見えたので、途中で降りてみる。そこは港町がきれいにライトアップされており、観光スポットになっていた。赤レンガの倉庫がレストランになっている。

 

歩いていると雰囲気は良いのだが夜風が肌寒い。人通りもあまりない。平日はこんなものだろうか。魚を卸す店までライトアップしている。皆で街を盛り上げようとしている。もっと多くの観光客が来ればよいのだが。

6月6日(木)

朝市

函館と言えば朝市、ということで朝市の目の前のホテルに宿泊。昔市場に買い付けに来た人が泊まったのかな、という古い宿で目覚める。ホテルには朝食が付いていたが、何と食券を貰って朝市の中にある食堂に食べに行くシステム。これはなかなか良いサービスだ。

 

7時台の市場にはそれほどの活気はない。もう商売は終わったのかな、と思うほど。私は指定された食堂へ行き、ハラス定食を食べる。朝から相当のボリューム。素晴らしいと言えば素晴らしいのだが、単価を上げるためとも思える。何しろ朝ごはんが1000円するのだから、庶民の料金ではない。観光客用である。それでも美味しく頂く。

 

外へ出るとボチボチ商売が始まっている。ようはここは観光市場なのだ。観光客がやってくるのは8時台。日本人観光客が団体で訪れ、ガイドが連れていく店で皆が説明を聞き、買い物を始める。

 

私はある台湾人家族のグループの後に着いた。これはなかなか面白いフィールドワークだった。台湾人ガイドはまず夕張メロンのコーナーへ案内。切り身のメロンを買わせる。本当に細い切り身は100円。少し幅があるのは250円。彼らは直ぐに250円の物を買い、食べ始める。次にいちご。何故北海道でいちご、と思ってはいけない。彼らは北海道に来ているのだが、日本に来ているのでもある。日本の良い物があれば何でも買うのである。それからホタテ焼き、ジュースなどへ。

 

とうとうカニやエビの所には立ち寄らない。写真を撮るだけだ。確かに鮮魚などを買っても持って帰れない。それよりその場で食べられるものが好まれる。店の人に聞いても『言葉も通じないし、我々は外国人客に対応できない』と関心を示さない。むしろ私が日本人だと分かると一生懸命売り込む。どうしたものだろうか。中にお婆さんが言葉が通じなくても一生懸命売ろうとしていた姿に『今の日本人には必死さが足りない』という台湾人の言葉を思い出す。

 

異国情緒散歩

今日は函館の異国情緒を味わってみようと思う。ホテルから歩き出し、昨晩も通った港付近へ行く。お天気が良く、海の色も映える中、船が停泊している。港町の雰囲気が出ている。そこに高田屋嘉兵衛の記念館があるので見に行ったが、休館日だった、残念。

高田屋嘉兵衛は司馬遼太郎の名作、『菜の花の沖』で何度か読んでいた。江戸時代に北前航路を開拓し、蝦夷地で活躍した商人。だが単に商人の域を超え、日本とロシアの交流に大きな役割を果たしているスケールの大きな人物であり、今に日本の欲しい。高田屋の拠点は函館にあり、いや高田屋が函館を発展させたともいえる。嘉兵衛の足跡も色々と見ることが出来ると思ったが、また次回にしよう。

そして坂を上っていくと、元町教会、正ハリストス教会などが見える。正ハリストス教会といえば東京のニコライ堂が思い浮かぶ。拠点が東京に移った後も正教会の伝統を守っている。函館は日米和親条約で開港された港。キリシタン禁制の時代に既に異人が沢山やってきたのだろう。まあ江戸時代に既に北方貿易などで免疫はあったのだろうが、いや、そもそも日本人も皆外から来た人々がいた、ということか。

修学旅行生が沢山歩いている。ある若い女性がズーッと一人で誰かを待つかのように、道を見つめていた。何か訳アリなのかと思ったが、何と学校の先生だった。しかも遅れた生徒を叱るのかと思い行きや、何と記念写真を撮ってあげている。先生も大変だな、とつくづく思う。それにしてもその先生、なぜかこの函館の雰囲気に合っていた。

外国人墓地は町の外れの高台にある。ここまで歩くのは結構大変だった。そして行ってみると、意外なほど小さい。横に中華墓地もあったが、ここも大きくはない。函館で亡くなった外国人はそれほど多くないということなのか。途中にいくつかお寺があった。ここに葬られた外国人は居なかったのだろうか。

函館の街はなだらかに傾斜して港に向いていた。この傾斜が良い。スーッと坂を転げる。そして様々な建物が残っており、確かに異国情緒はある。でも日本はきれいすぎるな、どこも、と思ってしまう。

港近くを歩いていると、誰からの像があった。見ると『新島襄』と書いてある。そういえば今年の大河ドラマ『八重の桜』の主人公の旦那だった。彼はここからアメリカに密航した。浦賀で失敗した吉田松陰、函館で成功した新島。何とも不思議な。うーん。

温泉へ

なぜかそのままずっと歩き続ける。かなり歩いて疲れたのに、歩きたい。不思議だ。亀井勝一郎文学碑、石川啄木歌碑など、歩いていると色々とある。そして函館公園。ここはかなりいい雰囲気だった。建物もレトロだし、林がきれいだった。しばし休み、見惚れる。


 

そしてついに谷地頭町まで来てしまった。立待岬、何だかよい名前だ。行ってみた。啄木一族の墓があり、与謝野晶子の歌碑がある。本当に外れに来てしまった。あの異国情緒の函館とは全く違う、函館があった。

 

帰りに谷地頭温泉に寄った。本当は湯の川温泉にでも行くつもりだったのだが、時間が無くなったところ、目の前に温泉が現れた。市営温泉、実は民間業者に委託していた。タオルすら持っていなかったが、石鹸とタオルをその場で購入、温泉に入ってみた。

 

体育館のような天井の高い温泉だった。お客さんはほぼ地元の老人。皆マイ温泉グッズを持って登場。僅か400円ぐらいで日がな楽しんでいるように見えた。お湯も何種類かあり、何度も入った。そして外には露天ぶろまで。そこでゆっくり湯につかり、疲れた足を癒す。これは極楽。日向でおじいさんが裸で寝込んでいた。本当に幸せそうだった。

 

そして湯冷めせぬように電車で駅へ戻る。最後にラーメンを食べる。1杯500円の普通のラーメンを食べたが、幸せな気分になった。ホテルで荷物を取り、駅前からバスに乗って空港へ。空港では結局チェックインカウンターで手続きして何とか飛行機に乗り込む。今回の北海道旅行、特に何もなかったような気もするが、何か大きなものを得たような気もする。

初めて行く北海道2013(1)札幌を歩く

《初めての北海道を行く2013》  2013年6月3-6日

                   

実は私は実質北海道に行ったことがない。どうやらかなり小さい頃に行ったことがあるらしいのだが、記憶はない。もう10年以上前、香港に住んでいた時、キャセイの札幌直行便が就航し、香港人が北海道に殺到した。台湾人は年間数10万人単位で北海道に行っているし、最近では映画の影響もあり、中国人の北海道旅行が流行っている。でも、何だか私には関係ないような気がしていた。寒い所はあまり好きではないし、スキーなどやらないし、お茶もないし。

 

しかしアジアを歩いていて何人もの人から北海道について聞かれると『行ったことがない』という答えは日本人としてはちょっと恥ずかしい。しかも前回の沖縄旅行の際、案内役Iさんを紹介してくれたのは、何と札幌在住のIさん。『どうして沖縄には行って北海道には来ないの』という声も聞こえてきそうで、検討することになる。

 

そしてある夜、普段は使わない航空会社のマイレージが今月切れるというメッセージが出る。でも僅か12,000マイルしかない。これでは海外には行けないな、と諦めて寝たのだが、夜中に突如『国内線なら行けるかも』と思い、HPを見ると、何と『札幌往復平日限定12,000マイル』があるではないか。これは天の啓示、行くしかない。更に帰りは旭川でも函館からでもよい、とのことで、時間の都合のよい函館を選択した。こうして突然北海道行きが実現した。

 

6月3日(月)

1. 札幌まで

羽田空港で

朝羽田空港へ行く。前日いつもの癖でWebチェックインを試みたが、何とHP上にその項目はなかった。日本では航空券を印刷するか、携帯のデータを貰い、空港でタッチすれば入れる、と書いてある。私は航空券を携帯ではなく、PCで貰っていたので、PCから携帯にこのデータを転送して備えた。こうすればカウンターに行く必要がない。

 

当日ラッシュ時間帯に羽田まで行くと予想以上に時間がかかる。チェックインカウンターはそれなりに混んでいたので、そのまま安全検査に向かう。ここで携帯をかざしたが通ることが出来なかった。何故通れないのか、と聞いても、立っているのは警備員。仕方なく航空会社職員を呼んでもらう。

 

実は私の携帯は8年以上変更していない。震災の時も緊急地震警報など鳴らない旧機種だ。てっきりこの携帯のせいだと思い、念のため確認したかった。ところがやってきた職員は『それはここでは断定できない』という。では函館からの帰りはどうなるのか。調べてもらうことにして、飛行機に乗り込んだ。

 

機内の違和感

日系航空会社、機内は新しいとは言えないが、不思議な安堵感がある。それはなぜか分からない。だが、CAの不自然な飛び切りの笑顔には何とも違和感がある。中国系に乗り慣れているせいか、どうしても馴染めない。昔ある女性から『あの笑顔は男性、特にビジネスマンにしかしないんですよ。私には冷たいもんです』と教えてもらったことがあるが、どうなんだろうか。とにかく媚を売るというか、何というのか。

国内線なので、飲み物のサービスがある。半分ぐらいの乗客は朝が早いせいか寝ており、または自分で好きな飲み物を持ち込んでいる。これならLCC化して、料金を下げた方が良いのだが、それは既に作った別会社でやっていることか。

そして何となく違和感があったのは、機内放送。何かが足りないな、と感じたのだが、初めは分からなかった。最後にようやく気が付いた。機内放送は日本語しかなかったのだ。アジアしか歩いていないが、アジアで母国語しか放送しない飛行機に乗ったことはないような気がする。普通は自国語と英語。どうしてこの航空会社では英語がないのだろうか。降りる時に聞いてみた。

答えは『本日ご搭乗のお客様は全員日本の方でしたので』。ということは外国人が一人でも乗っていれば英語も使うということだろうか。それよりもどうやって全員日本人だと判断したのかが疑問だった。日本の国内線には身分証のチェックはない。皆携帯電話で検査を通り、搭乗するだけ。セキュリティーは非常に甘いと思っている。その中で『全員を日本人』と判定できる根拠は『名前』と『顔』だけではないか。この2つで日本人と判断し、日本語ができると判断する。実に面白い。この多様な時代に。またそんなところはケチらないで、放送は日本語と英語でやったらどうだろうか。新人さんの研修でもいいではないか、と思ってしまう。

2. 札幌

札幌市内まで

新千歳空港に到着。札幌まで電車に乗る。チケットを買わないのと乗れないと思い込み、長い列に並んでいたが、出発時間に間に合わないので駅員に聞いたところ、自由席ならスイカで乗れるというではないか。出張者は指定席を取るために並んでいたのだろうか?車内は特に混んでもいなかったし、僅か30分で札幌に着いた。何だったのだろうか。

車窓から見える北海道。第一印象は高い建物がない、住宅の屋根の傾斜がかなりある、ゆとりが感じられるということ。そして札幌駅に着くと、高い建物はあるものの、やはりゆとりがある。この広やかな感覚が魅力なのだろう。

取り敢えず予約した駅近くのホテルへ行く。非常に接客がしっかりホテルだったが、12時に到着、チェックインは1時からということで、部屋には入れてもらえなかった。今考えれば日本で1時チェックインは、かなり優遇されているのだが、慣れていない私は『たった1時間なのに何で』と思ってしまう。それでも対応が非常に良いので、そのまま従って外へ出る。

時計台で待ち合わせて

私の一つの問題点は『ガイドブックや地図』を持たず、『スマホ』なども持っていないこと。だから待ち合わせ場所へすぐに着けない場合がある。今回まずは北京時代のお知り合いIさんに会うことに。『じゃあ、時計台で』と言われて、歩いていくが、何と道に迷う。そんな、あんな有名なところ、でも初めてなんだから、もっとちゃんと調べていくべきだった。札幌の街は想像通り、碁盤の目のように分かりやすかった。その中で道に迷う?あり得ない。そしてぐるぐる回ってようやくたどり着いた。私の時計台のイメージはテレビで作られたもの。実際目の前にあるのは思ったより小さい本物。やはり見てみないと分からない。

Iさんとランチに行く。近くの洋食系のお店に入る。そこにあったのが、エゾジカのミートソース。シカは昔中国の雲南省などで食べたことがあるが、札幌で食べるとは。どうもシカが多過ぎて、その活用法の1つらしい。大盛りを頼んだら、本当に大盛りで。残念ながらミートソースになってしまうと、シカかどうか分からない。

北海道事情を聴く

紹介頂いたKさんと会う。新聞社にお勤めで北海道内各地の勤務経験もある方。北海道の実情をレクチャーしてもらう。札幌はまずます発展しているものの、地方はかなり厳しい状況。農業、漁業、どれを見ても、規制もあり、後継者もなく、今後が懸念される。元々移民の地である北海道、外から来る人の受け入れには寛容だが、連帯感があるとも言えないらしい。

続いて北海道で起業した中国の方。旅行業や通訳翻訳業をやりながら、新しいビジネスにもトライしている。『尖閣以降、役所の視察・研修旅行はなくなり、企業進出の話も少なくなった。従業員管理や撤退の案件も手掛けている』とのこと。『撤退するのも従業員管理ができないのも、反日のせいではない。半分以上は日本企業の問題』との言葉に共感。言い訳していても前には進まない。

北海道で起業した理由を聞くと『もし金儲けがしたければ東京へ出るか中国へ帰るよ。北海道は儲からないけれど、生活環境が抜群に良い。子供たちにもそういう環境で暮らしてほしい。だから自分で仕事を作って住み始めた』と。全くその通りだ。そういう中国人が数十人はいるという。

外へ出ると札幌の街は寒い。特に沖縄から転戦してきた者として気温15度以下はきつい。大通りでも人の往来はまばら。北海道経済は本当に冬の時代だな、などと考えていたが、何と札幌駅からすすきのまで、地下街が繋がっていた。みんな下を歩いていただけだった。相変わらずガイドブックも持たずに歩くから寒い思いをするのだ。

夜はすすきので食事。昼も会ったIさんと元新聞記者で今は大学の先生に転身したSさんと食事。生ガキなどを食べて、北海道を満喫した。食べ物がおいしくて、時間が緩やかに流れ、広々としている、それだけで住む価値があると思った。でも私は寒いのが嫌い、いや、北京で5年も住んだのだから大丈夫、など思いが交錯した。

6月4日(火)

北大を歩く

朝は寒かった。肌が南国仕様になっていることが分かる。だがどうしても行きたいところがあった。北大、今ではこう書くと『北京大学』と思ってしまうほど、遠い存在となったが、北海道大学は実は高校3年生だった私の第一志望校だったのだ。結局共通一次試験が出来過ぎ?で、別の学校を受け、しかも落ちてしまったのだが。

 

ホテルから北大までは歩いて5₋6分。朝の空気は爽やかで、北海道に来たんだなあと気持ちも昂る。門を入ると緑が多い。公園の中を歩いている感じだ。校舎も独特の建物でよい。こんなところで勉強したかったな(でも勉強は嫌い)。クラーク博士の像もある。この辺は観光スポットで団体さんが記念写真を撮っている。

 

総合博物館という立派な建物の横を歩き、並木道に出る。まっすぐに伸びる並木を見ていると、ここに来ていたら私の人生は大きく違っていたな、とつくづく思う。そういえば私の高校の同級生は1年アメリカに留学後、東京の有名私立大学を蹴って北大に入学した。あの時は『何で』と皆言っていたが、彼にとってはベストの選択だっただろう。因みのその彼とはその後一度も連絡を取っていないが、週刊ジャンプの編集長をしていたらしい。色々な人生がある。

 

ラーメンに思う

北海道と言えばラーメン。お昼は特に予定がなかったので札幌駅のビルの上にあるラーメン共和国に行ってみた。ラーメン屋さんばかり10数軒が集結しており、レトロな雰囲気を出していた。時間が早かったせいかお客はまばらだったが、帰る頃には沢山の人が食べていた。

 

呼び込まれるままに1軒の店に入った。わたしはラーメンは好きだが、正直それほど拘りはない。勧められるままに『こっさり特選醤油』を頼む。こっさり?こってり、さっぱりだろうか。確かに美味しかったが、ちょっとひねり過ぎかもしれない。もっとシンプルな塩ラーメンでもよかったか。

 

それにしてもどこのラーメンも安くはない。700-800円、中には1000円を超えるものもある。実は入ったお店は旭川が本店。札幌にも店舗が数店あるが、東京にはない。で、シンガポール、香港、台北に支店があるとなっている。これが今のラーメン店だろう。下り坂の日本に見切りをつけて、勝ち組と言われる成功した店はアジアを目指す。そして今ではバンコックに100軒もの日本のラーメン屋さんがあり、さすがに淘汰の時代が始まっていると言われている。いくら美味くても、日本とほぼ同じ料金のラーメンを食べる人は限られる。それでもどんどん進出する。このお店はバンコック進出には乗り遅れたのだろうか。

 

夕方ラーメン横丁という場所にも行ってみたが、それほどお客がいるようには見えなかった。知り合いの香港人は『札幌に行ったら必ず食べる行きつけのラーメン屋がある』と言っていた。これからは海外進出ではなく、如何に地元にお客を呼び込むか、なのかもしれない。

インバウンドや如何に

午後は街歩き。すすきのの手前、狸小路あたりに外国人観光客が多いと聞き、歩いて見る。平日の昼間のせいか、人通りは多くない。観光客もあまり見られなかった。

 

北海道と言えば台湾人や香港人、中国人のみならず、東南アジア人全般にも人気のある観光地。台湾は既に20年ぐらい前から毎年多くの観光客を送っており、香港も2000年以降、急激な北海道ブームが起こった。北海道のマンションを買う人、結婚式を挙げる人など、当時香港に住んでいた私の周りでも、多くの北海道好きがいた。

 

数年前には中国映画の舞台となり、中国における北海道ブームが爆発。映画のロケ地を訪ねる旅など、人気が高まった。ただ昨年の尖閣以降、団体観光客は脚止めを食らい、激減(個人旅行客は逆に増加)。代わってタイ、マレーシア、インドネシアなど東南アジアの国々から注目されている。私が現在拠点にしているバンコックでも『北海道はどう?』と何度も聞かれる。7月以降、観光目的の入国がノービザとなり、日本への旅に拍車がかかっている。

 

各お店の前には中国語、韓国語、英語の表記などがあり、それぞれ工夫しているように見える。中にはちゃんと台湾・香港向けに繁体字で書かれているものもある。お客が買っているものを見ると、ここでも日用品が多いような気がする。高級な物より、安くてよい物、そんな雰囲気が漂う。高島屋などでは高級品を買っているのだろうか。

 

夜はご紹介頂いた皆さんと楽しく北海道の幸を堪能した。その中でも、北海道の物産をどのように海外に売っていくのか、観光客をどのように誘致するのか、などの話題が出た。『沖縄は北海道の10倍の予算を国から与えられ、誘致活動を強力に進めている』との言葉が印象的。国内の競争がいい形で日本全体のプラスになればと思うのだが 。

沖縄久高島へ行く2013(4)沖縄にもあった茶畑

中華ランチとスパムおにぎり

ホテルに送ってもらい、そこで荷物を受け取り、初日にお会いしたIさんと再会。一緒にランチへ行く。那覇には華僑、華人はどれくらいいるのだろうか。中華街はあるのだろうか。そんな思いもあり、中華レストランに連れて行って貰う。

 

中華マンと蒸し餃子のランチセット。とても美味しかったが、この味は日本料理。そう、沖縄でも本格的な中国料理、というよりは横浜中華街の中華料理が主流なのかもしれない。それは商売上そうなのだろう。今後中国人観光客が増えると何か変化があるだろうか。中国茶器が置かれていてお茶もあったが、ライチ紅茶や桂花烏龍、沖縄のハーブ茶など、女性には喜ばれそうだが、本格的にお茶を飲む感じはない。

 

そしてIさんとドライブに出た。ドライブというより、これから屋我地島という島に向かう。実は今回沖縄の人に『行く場所は久高島と屋我地島』というと、『かわってる。沖縄の人は普通行かない』と言われ、中には『屋我地島なんて知らない、どこにあるの』と言われて面喰ったりした。実は、いや勿論私も何も知らないのだ。ただIさんが『今晩は屋我地島に泊まったらどうですか』と言われ、それに従っただけだ。

 

那覇の街を出ると青い海が広がっている。道路に車の姿も少ない。これはいい。途中でドライブインに寄る。実は今晩の食事はここで調達するというのだ。何だか楽しくなってきた。Iさんが私のために選んでくれたのは、スパムおにぎり。スパムはランチョンミート。沖縄の人が大好きだとは聞いていたが、これほどデカいおにぎりになっているとは。

 

またおかずとして、かまぼこ、と言われたので本土の蒲鉾を想像したが、これも大きく違う。全てが揚げてある。これは東南アジア型の食事だ。この2つで十分すぎる量だった。すごい。

 

そしてぜんざい、食べますか、と聞かれ、はいというと、何とかき氷ぜんざい?が登場。かき氷の下に白玉が入っていた。食べている脇にはなぜか宝くじ売り場がある。とても新鮮なドライブインだった。


アロハホテルで極楽生活

車で那覇からおよそ1時間半、ようやく屋我地島に到着。この島は本島と橋でつながっており、島に来たという実感はない。因みにこの島を中継して古宇利島へつながる。古宇利島の方が有名であり、屋我地島には何もないように見える。実際島の中に何かがある感じはない。そして今日の宿泊先、アロハホテルが見えてきた。広大な敷地、本島の向かい側に位置しており、眺めは抜群。南国ムード漂うホテルである。しかしなぜアロハなのか、なぜこの島にあるのか、はっきり言って謎だらけだ。

 

IさんがここのオーナーOさんを紹介してくれる。そしてなんと彼女は那覇に帰ってしまった。そしてなんとなんと、お客さんは私しかいなかった。借り切り、というか、オーナーと二人きりというか。奇妙な状態に置かれる。

 

部屋に案内されると、そこはスイートルーム。長期滞在も可能でキッチンもある。リビングも広く、実に快適な風が海から吹き込んできた。いや、これは極楽だ。ここでダラダラ過ごそう、とっさにそう決めた。何もしない。トイレも広い。気分がいい。

 

ただネットが部屋では繋がりにくかった。習性でロビーに行ってネットした。でも直ぐ止めた。こんなところに来てまでネットするほどアホなことはない。Oさんが飲み物を持ってきてくれた。母屋の屋上に上がると、すごくいい風が来た。向こうでは夕日が傾き始める。そんな中で、色々な話をした。2時間ほど、沖縄の話やら、不動産の話やら、こちらの身の上話などしていたら、どんどん時間が過ぎた。

 

部屋でシャワーを浴びると快適だった。さっき買ったスパムおにぎりとかまぼこを食べた。すぐにお腹が一杯になった。夜空の星でも眺めようと思ったら、何と雨が降り出した。雨を眺めながら、Oさんとビールを飲んだ。ひんやりして美味かった。

 

Oさんは大のハワイ好きで、今でも1年のうち1₋2か月は行っているらしい。だからアロハホテルなんだ。那覇で不動産業をしたお金をこの地につぎ込み、ハワイのリゾートを再現しようとした。しかも手作りで。5年の歳月を要したそうだ。同じ沖縄と言っても、この辺りは那覇とは違う。地元の人の協力も得なければ何もできない。時間がかかったようだ。幸い地元の協力者が見付かり、今は2人でやっている。それでも広大な敷地、植物の管理だけでも大変だ。昨年は台風で大きな被害も出した。ホテルを辞めようか、と思うこともあるようだ。この辺、実に率直な会話になった。実に面白かった。気が付いたら11時を過ぎていた。

 

5月30日(木)

朝食

ゆっくり目覚めた。ベッドルームは東に面していたので朝日が眩しかった。それでも気持ちはすこぶる爽快。ベランダに出て朝の風を浴びる。目の前に海が広がる。すごい。このホテルは元々釣り宿として、内海で釣りを楽しむ人のためにあったところだそうだ。確かにホテルの海の方へ降りると、小舟に乗れる。これはこれで楽しいのだろう。

 

散歩に出た。島のどちらに歩いて行けばよいかも分からず歩き始めたが、何と急に雨が降ってくる。そうなると隠れるところもなく、ダッシュでホテルに戻る。ホテルは入口から登坂になっており、かなりきつい。朝から相当の運動をした。

 

朝ごはんはホテルが用意してくれた。アロハホテルのイメージとは異なる純和風。お粥、吸い物、卵焼き、これは実に繊細で嬉しい。そしてまた海を眺める。10時頃に那覇に用事で出るOさんの車に便乗して島を離れた。何とも夢のような一夜だった。

 

流求茶館

Oさんの車に便乗し、那覇へ。車中でまた1時間半、色々と語り合う。本当に初めて会った人という感じがしない。かなり深い個人的な会話が続く。これも日本では極めて珍しい。『初めて会ったとは思えないさー』と言われ、ちょっと嬉しい。那覇市内のローソンの前で車を下りる。ここがどこかは分からない。すると向こうからIさんがやってきた。オフィスが直ぐそこらしい。ここはどこかと見ると、何と県庁の裏だった。こんな一等地に。『祖父の家だった』というが、ロケーション抜群。

 

車でランチに。那覇の来る前にシンガポールの知り合いから『お茶なら流求茶館へ』と言われており、Iさんに連れて行って貰う。彼女も最近この茶館へ通っているという。この辺も茶縁だろうか。静かな場所にあるこの茶館、店内はカウンターもあり喫茶店の雰囲気でもあるが、テーブルの上に電気ポットが供えられていた。

 

ランチは魯肉飯セット。こちらでは台湾茶を扱っており、ご飯も台湾。台湾の魯肉飯は小ぶりの椀で食べることが多いが、こちらは牛丼風。お味は美味しい。何だか嬉しくなってしまった。沖縄は日本本土より台湾に近い部分もある。台湾に行きたいな、と言っていると、『明後日からお店主催の台湾ツアーがあり、Iさんも参加するんです』というではないか。何と羨ましい(後日聞いたところ、Iさんは急に行けなくなったと残念がっていた)。

 

台湾へ何度も行っているうちに台湾茶好きになり、それが高じてお店を出して既に8年。沖縄では珍しい茶館。実にホッとする空間がそこにある。自分で高山茶を入れて、ダラダラしている、沖縄の緩い空気が心地よい場所だった。YさんとMさんにはこれからもお店を続けて欲しい、と思った。

 

沖縄の茶畑

実は沖縄に来た時から、『沖縄にも茶畑があるはず』との思いから、何人かの人に聞いてみたが、確たる答えが得られなかった。Iさんによると『確かにあるはず』と言い、茶館でも相談してもらい、琉球紅茶という名前に行きつく。ここがアジアならいきなりその場所へ行ってみるのだが、日本ではそれは失礼に当たる。この辺が日本の難しい所。Iさんが電話で聞いてみた。帰ってきた答えは『当社では茶畑見学などは受け付けていない』というものだった。まあそんなものかもしれない。

 

だがIさんは諦めなかった。うろ覚えでもう一つ昔行ったことのある場所へ電話した。答えは『今社長は茶作りで忙しくて、茶摘みもやっているのでとても対応できない』というもの。Iさんはしょんぼりしていたが、こちらの目は輝いていた。『それだ、行こう』。応対など期待していない。先ずは茶畑があり、まさにそこで茶摘みをしているのであれば、それだけで見る価値がある。だがその場所は那覇から30㎞は離れており、空港からは更に離れている。今日これから東京へ戻る私に残された時間はギリギリだった。でも行った。

 

Iさんの運転で、うるま市石川というところへ行きつく。ここは普天間基地からも近いようで、ヘリが飛んでいた。なだらかな丘を登る。そこには茶畑があったが、どうも今一つ管理されていなかった。その先に目指す山城紅茶はあった。喫茶店舗があり、そこへ入る。そして驚愕の事実が。

 

何とその向こう側の茶畑では茶摘みが行われていた。32度の炎天下、おばさん達がせっせと手で茶葉を摘む。こんな光景が日本で見られるとは信じ難い。日本の茶葉はほぼ機械摘みと頭から思い込んでいた。それにしても5₋6人で摘んでいる。早々茶畑に入り込み、写真を撮る。そしておばさん達に聞く。

 

この茶葉で紅茶を作っているらしい。だが『私はコーヒーしか飲まないさー』などとケタケタ笑う。いつから作っているかも知らない。何でこんな辛い労働しているのか、『草むしりよりは楽サー』と。唖然。後で聞くと沖縄には本当に仕事がないこと、60歳を過ぎても何かしら仕事をすること、などの習慣から成り立っているらしい。

 

店舗で紅茶を頼んでみた。ちょっと苦い感じがした。紅茶作りは3代目の若社長が自らスリランカに修行に行き、最近始めたようだ。当日も地元の放送局の取材が入っており、社長はその対応に追われていた。若手経営者として注目を集めているようだ。

 

私はカウンターにいた女性に話を聞いた。先代の奥さんだった。この茶畑は戦後作られたもので、先代までは緑茶を作り、本土へ送っていたとか。ただ最近は緑茶の売れ行きが落ち、3代目は紅茶に切り替えたらしい。沖縄の独自ブランドを作るのは変化する必要があるということか。

 

本格的にはこれからだろうが、このような新しい試みは素晴らしい。手摘みの茶葉を使い、紅茶を作る、次回は社長にお話を聞いてみたい。今回はもう東京へ帰る時間となり、茶畑を後にした。

 

空港で沖縄を思う

何だか興奮状態のまま、空港へ向かう。結構時間がかかった。やはり遠かったんだな。空港近くの野球場、ここでプロ野球が行われるらしい。そういえば沖縄は野球が盛んなところ、高校野球は強かったな。

空港で下川裕治さんの『新書沖縄読本』を買った。これは今回知り合ったNさんの疑問がこの中にあり、私にその確認の役目が与えられたからだ。機内で読んでいると沖縄の複雑さ、多様性が分かり、実に興味深く読んだ。

沖縄ブーム、とは何だったのだろうか。本土の人々は沖縄に青い海を期待するが、『沖縄の人が海に入ることは稀』という事実はそのギャップの大きさを物語っている。領土問題は別として、沖縄は日本でもなく中国でもない。ポリネシアの要素も多く、アジアを歩いている私から見れば、まさにアジア人であると言える。

これからもご縁があれば、沖縄へ行き、本島のみならず、離島へも行き、その多様な文化、社会を見ていきたいと強く思った。さて、来年ご縁があるだろうか。

 




沖縄久高島へ行く2013(3)

5月28日(火)

お別れ

あっという間に最終日になってしまった。今日も朝日を眺めた。今回ヨーガに関しても得ることが多かったが、久高島という島に来ることが出来たことが一番の感謝である。この島の伝統的な仕切りを見ると、今の日本にかけている様々なことに思い当たる。『本当の公平とは』『土地とはだれのものなのか』『自然を破壊するとはどういうこと何のか』。

 

そして今回の合宿メンバー、ここでは紹介できないが、ユニークな人々が集い、楽しかった。日本各地から、そしてバンコックお茶会のメンバーも一人、緊急参戦していた。ヨーガというキーワードで集まる多彩なメンツ。これも素晴らしい。

 

行きと同様、荷物だけ車で運んでもらい、港まで歩いていく。この島のことをもっと知りたいという感情と、部外者が知る必要はない、むしろ失礼に当たるのではないか、という両方の考えが頭をもたげ、混乱する。いずれにしても私の旅から言えば、ご縁があればまた来る、ということだろう。

 

もう1泊滞在するA師夫妻などとはここでお別れした。帰りの船は快晴の中、それほど揺れることもなく、無事本島に着いた。

4.     沖縄本島

半日観光

港へ着くと、それぞれの行先へ別れた。本当のお別れだ。だがうち9名は一団となってチャーターした車に乗り込み、半日観光に繰り出す。さて、どんな所へ行くのだろうか。何と最初に行ったのはセーファー御嶽だった。我々の一部は初日に行っていたが、行っていない人もいたので、再度行くことになった。もう1か月も前に来たような感覚で坂を上った。鬱蒼とした林が懐かしい。先日は雨模様だったが、今日は晴れ。雰囲気はまるで違う。晴れやかな祝賀の雰囲気がある。どういうことだろうか。ここは何度来てもよい場所だ。

 

そして次に非常に景色のよい知念岬公園へ行った。海が一望で来て、風が気持ち良い。ちょうどお昼の時間になっていた。交流館から各自に竹の皮で包んだ弁当が渡されていた。中にはおにぎり2個、揚げ物と煮物が入っていた。これは本当に本当に、飛び切り美味かった。この風景でこのご飯が食べられる喜び、幸せだった。ハングライダーで気持ちよく大空を飛んでいる人がいた。日本人の思う沖縄って、こんな感じではなかろうか。私自身は高所恐怖症で、とても乗る気になれないが、好きな人にとっては堪らないだろう。

 

午後はガンガラーの谷へ。ここは鍾乳洞が崩壊してできた谷間に広がる森。専用ガイドについて歩くため、時間が決められていた。鍾乳洞がカフェになっておりそこに集合。それから歩いて森を散策。小川の横を歩いていく。木々が大きい。そしてまた鍾乳洞へ。暗いので灯りを持って入る。そこには最近発見された人骨を採取場跡があった。このすぐに近くには『港川人』と呼ばれ、約1万8000年前の旧石器時代に実際にこの地に生きていた人類(ホモ・サピエンス)が発見されている。この地形から見ると、人が住んでいてもおかしくはない。この人々が日本人の祖先なのだろうか。十分にその可能性はあるが、まだ解明されていないようだ。

 

糸数城というところにも寄った。ここは14世紀前半に作られた城の跡のようだ。石垣の一部が残り、不思議な曲線を描いて、城が形成されている。どうしてこんな形なのだろうか。勿論理由はあるだろうが、今やそれを知る由もない。まさに「夏草や兵どもが夢の跡」という雰囲気が漂っている。

 

女性陣のお目当ては海が一望できる絶景「カフェくるくま」。本当にいい眺め。ここでお茶を飲んでいると、その雰囲気で美味しく感じられる。花が咲き乱れる庭、いいなあ。のんびりした。

 

最後に知念城。先ほどの糸数より、かなり形が残っている。ノロ屋敷跡、なども掲示されており、18世紀頃の沖縄の城、が再現されている。そしてバンは各人の宿泊先を回り、お別れしていく。私はこの前のホテルSに戻る。運転手さんが一言「なぜここに泊まるのか」と聞いたのが気に掛かる。

 

5.     那覇2

Oさん

ホテルに到着するとチェックインだけして、荷物を持って横の居酒屋へ。そこには知り合いに紹介されていたOさんが待っていてくれた。Oさんは沖縄のラジオパーソナリティ。沖縄で起こっている幅広い事象について解説してくれた。「沖縄は自立すべき」という言葉が印象的だった。

 

またヨーガ合宿で一緒だったNさんのことも知っていた。何とNさんの奥さんの教え子なのだそうだ。世間は狭い、いや沖縄は狭いのか?そんなご縁で話が弾む。ただ彼は朝早い番組を持っていることから、夜は早めに引き上げる。

 

5月29日(水)

修学旅行生と朝食

 

翌朝はゆっくり起きる。合宿から解放されると突然ルーズになるのは悪い癖。そそくさと食堂へ降りていくと、何とそこには修学旅行にやってきた小学生の一団がいた。何だか自分も修学旅行に来たような気分で、食堂の端の席に着く。

 

先生がしっかり席に着いて一緒に食べているせいか、それとも元々おとなしいのか、私が子供の頃のあの騒がしい学校の旅行の様子はない。きちんと食べている子もいるが、ほとんど食べていない子がいたことも特徴だろうか。きっと普段朝ご飯を食べないのだろうな。

 

周囲には台湾人の家族が食事をしていた。彼らは不思議そうに小学生を眺めていた。台湾には修学旅行はないのだろうか。いや、あったとしても、こんなに整然と子供が食事をする風景は日本しかないのかもしれない。

 

 

沖縄久高島へ行く2013(2)神の島久高で

5月24日(金)

日本的な集合に目を見張る

翌朝は6時過ぎに起きる。朝食に降りていくと、既にヨーガ合宿参加メンバーはT隊長を中心にビシッと勢ぞろいで、食事をしていた。のこのこ遅れて行って恥ずかしい。『少し早いけど7時10分にタクシーに乗って』とT隊長に言われると、はい、としか言えない。え、県庁前8時集合ではなかったの?これがきちんとした日本の集合なんだ。一緒に連れて行って貰えるだけありがたい。

 

タクシーはちゃんと用意されており、殆ど荷物を詰める時間も無かった私はあたふたとチェックアウトし、乗り込む。全員の集合場所は県庁前。勿論10分で到着したので、30分以上、時間がある。出勤してくる県庁職員を眺めて過ごす。他に宿泊したメンバーも続々集まってくる。一人だけ来ない人がいて心配したが、忘れ物を取りに帰っていたようで、それでも8時前には全員集合して出発。まさに修学旅行のノリだ。

 

我々は久高島へ向かうフェリー乗り場を目指した。10時発のフェリーの乗るのに、8時40分には到着した。ところが切符売場には張り紙が。『10時のフェリーは欠航』と。次は11時半だそうだ。アジアを歩く私などは『そんなものか』と気にしないが、ここまで整然とした対応でやってきた皆さんは不満だっただろう。更にはその張り紙に『時間があるからセーファー御嶽でも見てきたら』と書いてあったらしい。如何にもアジア的な物言いだが、時間を潰す方法はそれしかない。荷物を預けていく。

 

セーファー御嶽へ

御嶽とは琉球の神が存在、また来訪する場所であり、祖先を祀る場でもあるとされる。地域の祭祀の中心となる施設であり、地域を守護する聖域として現在も多くの信仰を集めている。斎場御嶽は15-16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽とされ、「セーファー」は「最高位」を意味し、「斎場御嶽」は「最高の御嶽」ということになる。

 

ターミナルから見上げた御嶽、実際に歩いていくとかなり急な坂道である。神職の最高位、聞得大君という女性が管理したとされるこの御嶽、来るだけでも大変だったのではないか。20分ぐらいかけて登る。山歩きのプロであるT隊長などはスタスタ上っていくが、日頃の鍛錬がまるでない私などは遅れて息を上げながら進む。

 

入口は世界遺産登録で整備されたのか、記念館のようになっており、説明がなされている。修学旅行生なども見学に訪れている。入場料200円。これは高くはないが、従来から信仰していた地元の人からも徴収したことで問題になっているらしい。確かに信仰の場が世界遺産になったからと言って、入場料を払うというのはどうなんだろうか。

 

御嶽は本来女性しか入れない聖域。だが私もずかずか入っていく。流石に自然に満ちている。元はもっと凄かったのだろう。鬱蒼とした林に神秘的な風が吹く。なぜか気持ちがハイになる。とても不思議な感じがした。特に一番奥、大きな岩が重なり合った隙間から向こうにある小さな場所。久高島が見えるその一角からは不思議な風が吹いてきた。久高島とこの御嶽が対になっていると分かる。

 

記念館前に戻ると、ふっと俗世に戻った。時間があるようでないような中途半端な体験をした。

大揺れのフェリー

フェリーターミナルまで歩いて戻る。下りは楽だが、脚が笑う。ようやくフェリーがやってきた。それほど大きくはない。乗船者も多くはない。後で聞けば『沖縄の人は久高にはおいそれと近寄らない。神の島だから』と言われて、複雑な気持ちになった。よそ者だから、知らないから気楽に入って行ける場所もあるということだろう。

 

船はするすると岸を離れたが、そんなに沖に出るわけではない。さっきの御嶽から見てみも、久高は目と鼻の先だ。ところがこれが意外と時間がかかる。そしてなぜか船が物凄く揺れる。船酔い者も出るほど、厳しい揺れが続く。これが神の島へ行く洗礼なのだろうか。

 

30分後、船は時化など何もなかったように久高に入る。徳仁港と書かれている。およそ私とは縁のない文字だ。港には迎えが来ていた。今回お世話になる島の交流館の人だった。だが前回参加者は荷物だけ車に乗せて歩いていくというので着いて行く。

 

3.     久高島

イザイホー

港から歩いて数分で交流館に着いた。港近くには数軒の家があったが、皆平屋でゆったりとした南国風な造りになっていた。交流館は、この島で団体が泊まれる唯一の施設。ここで5日を過ごすことになる。歴史資料館なども併設されており、楽しみだ。

 

先ずはランチを。前日から乗り込んでいたA師夫妻と共にまた港へ戻り、その脇の食堂へ入る。この島には食堂も数軒しかない。刺身定食を食べる。合宿参加者が次々やってきて注文するので、店では大忙しとなる。

 

次のフェリーでやってきた参加者を交えて、合宿が始まる。この合宿は朝の瞑想、アーサナに始まり、インド哲学、ヨーガ理論などの講義が1日2回あり、夕方には実技もある。夜も講義などがあり、1日目一杯、まさに合宿なのである。ネットをする時間すらあまりなく、夜早く寝て、朝早く起きる、理想的な生活が送れるのが良い。

 

この日は夜、久高島の神の行事、イザイホーなどについてのDVDを鑑賞する。500年も続く神事であり、12年一度、久高島で生まれ育った三十歳以上の既婚女性が神女(神職者)となるための就任儀礼。この島がなぜ神の島と言われるのか、それが少しずつ分かってくる。ただ1978年を最後にこのイザイホーは開かれておらず、来年2014年のイザイホーも中止の可能性が高いと聞く。適齢の女性該当者がいないのだそうだ。神の儀式を人間の都合で変えることはできない。

 

部屋は畳の3人部屋。沖縄在住のNさんは何と私の大学の一年先輩と分かり驚く。そういわれてみればこの名前には聞き覚えもある。次々に同窓生の名前が飛び交う。しかも私が親しくしている人3人が、何とNさんと高校大学が一緒というのだから、ご縁は深い。ただ明日も早いのでシャワーを浴びてすぐに寝てしまう。

5月25日(土)

久高島散歩

翌朝、2階の部屋で6時前に目覚める。鳥のさえずりが聞こえる。周囲に騒音はまるでなく、平穏な一日が始まる。下へ降りて、大広間へ行くと既に多くが瞑想に入っていた。私も真似ごとをしてみる。そのままアーサナ。朝からネットも見ずに行うと何と気持ちの良いことか。交流館では朝食はなし。皆持ってきたビスケットなどを食べる。これもまたよい。今どきの日本は何でも、きちんと揃えないと格好が悪いなどとなるが、食べたい人は食べる、余ったものは分ける、など参加者の交流の機会にもなり、よい。元々参加者にはヨーガという共通の話題があるが、これだけヨーガ漬けの毎日ではそれ以外の話題が欲しい。

午前中講義をこなし、今日の午後は楽しみにしていた久高島散歩ツアーに出る。Yさんという島の案内人が同行してくれる。このYさん、実に飄々としていて面白い。島を歩き出すとすぐに小学校がある。Yさんも卒業した学校だが、今は生徒数も少ないようだ。『学校の周囲に柵を作りしました。これは生徒が逃げ出さないためではなく、島の人が先生を監視するためです。悪いことをするのは大人の方なのです』とYさん。明快に解説する。

農地では『島の男は15歳になると300㎡の土地が貸与されます。50歳で返します。でも男は漁に出るので耕すのは女です。土地に不公平がないように30㎡ずつ10か所渡されます。作業は大変になりますが、公平とはそういうことです』と。何という原始共産主義?でも実にもっともな話だ。

家の石垣の所では『これは石がきっちり組み合わさっているプロの技です。島は豊かだったので、外から職人を連れてきて作らせました。その後「にっくき薩摩」がやってきて我々は貧しくなりました』と。この薩摩憎しは沖縄本島でも聞いた。基地問題で揺れていても『鬼畜米英』は出てこないが、薩摩は出て来る。これは相当に根深い歴史だ。

その後も神事が行われる久高殿などを見て回る。説明してもらわないとよくわからない建物が多い。村はそれほど大きくない。村の外へ出る。フボー御嶽へ向かう。ここはイザイホーなどの神事の際、女性だけが入れる空間であり、今でも男子禁制だ。ただ何となく林があるようにしか見えないが、『御嶽とは本土の「おんたけ」とは意味が違います。私は「気」のある場所と理解しています』と説明がある。

そして『島の木は枝一本といえども、勝手に切ることはできません。年に1回、木を切るために祈りを捧げて初めて切ることが許される。だからここの林は非常に雑多な木々が何の整備もされずに残っているのです。島の物は全て神の物です』と言われ、ハッとする。ここは普通の島ではない、昔々の日本が唯一残っている場所なのだ、と改めて認識する。

因みにこの御嶽には画家の岡本太郎がやってきたことがある。当時スランプだった岡本はここで何らかのインスピレーションを得たとされているようだ。凡人にはわかない、のではなく、もともと皆が持っていた感度が相当に下がったたために、今見ても何も感じないということだろう。

シマーシ、の浜を見る。きれいな海が広がっている。『ここには貝塚があります。5000年前の物だと言われています。当時から本州北部などから船で渡ってきた人々がいたということです』そう、陸とは違うのだ。海が中心なら、この島が中心であったかもしれない。

交流館の食事

交流館では1日2回の食事が提供される。これがまた何とも楽しみな島の料理だ。初日は海ぶどう丼だったし、ゴーヤーチャンプルや野菜のかき揚げなどの定番メニューもある。今日は地元の野菜を使った和え物、魚の天ぷら、ご飯は雑穀、吸い物も付く。毎回非常に多彩であり、しかも相当にヘルシーであった。島の人々の食生活の一端が見られてとても有意義。

 

料理してくれたのは島のおばあ、75歳だというが、とてもシャイでついに我々の前に顔を見せてくれることはなかった。この合宿は女性が圧倒的に多く、料理に関して色々と聞きたいこともあったろうに。残念だったが、そのつつましさがまたよい。私もそうだが、何でも人に教えたがるのは良くないような気がした。

 

毎回料理の説明をしてくれるのは交流館の若い女性。彼女は島の女性で、将来島の神事に携わる可能性があるという。これは素晴らしいことだが、本人にすればプレッシャーであろう。それほどに島の儀式は重い。

 

5月26日(日)

Nさんと

Nさんは元々横浜の出身だが故あって17年前に沖縄に移住してきた。今は大学で教えたりしているようだが、非常に好奇心が強い。というか、大学などで教えていれば様々な疑問がわくが、それをどう解決するかは一つのポイントなのだろう。Nさんとは初対面とは思えないほど、話が色々と出来た。特に例のさんぴん茶の話を持ち出すと『実はかぼちゃは南瓜と書くが、福建省あたりでは何というだろうか。「金瓜」ではないか』とNさんが言い出す。『中国語だろう』と言われても、どう見ても標準語ではなかったので、思い切って、福州人で日本語に堪能な友人にメールを送ってみた。

 

するとすぐに回答があり、『福州語ではぎんぐぁーで、アモイ語ではぎんぐぇー』だという。そう、「金瓜」だったのだ。Nさんは長年の懸案が分かってきたと喜び、『じゃあ、ゴーヤーは何故ゴーヤーというのか』という疑問にいたり、話し合うも回答が見いだせない。再度メールで尋ねると『苦瓜は福州語ではくうあで、アモイ語ではこーぐえー』との回答があった。かなり近づいているが、もしやすると潮州語あたりなのだろうか。ヨーガの合宿に来て、こんなことをやっているのも変だが、それはまたそれでとても面白い。

 

海ぶどう

同じ部屋にはもう一人Kさんがおられた。地方の銀行を退職され、今は様々な活動をされている。この久高ヨーガ合宿にも以前も参加されている大先輩だ。遥々新潟から来られていた。その道のりは結構長い。そのKさんは久高経験者として、皆さんのために大いに知識を披露して頂き、本日は海ぶどうを買いに行くことになった。海ぶどうを買いに行く、何だかワクワクするテーマだ。歩いて5分もかからない所にそのお店はあった。お店ではない、そこで養殖しているのだ。ビニールハウスでの直販である。

しかし中には誰もいない。皆勝手にいくつもある水槽を眺める。おじいさんがやってきたが、ここの人はお客さんか店の人かもわからない。何とも不用心な話だが、この島では何も問題は起きないのだろう。すごい。

しばらくしておばあがやってきた。皆海ぶどうの仕入れに熱心だ。日本人はこういう時にちゃんとリーダーが登場し、購入方法などをまとめて、皆に知らせている。これはすごいことだ。アジアではあり得ない。おばあは『昔は海辺でやってたんだがな。何だか最近はここでやっている』といい、『少し売れればいい』ともいう。さっきのおじいさんが、みんなのためにスイカを切ってくれた。畑からの取立てだ。するとおばあが『そんな若いのだめだ―』と一言。おじいさんはシュンとなる。

『若い頃はこんな言い方出来なかったサー』といい、おじいさんがご主人であることがようやく分かった。おじいさんは昔漁に出ていたのだろう。その間、畑はこのおばあが守ってきた。だから畑のことでは頭が上がらないようだ。この島のひとつの典型例を見た思いがした。

5月27日(月)

極楽浄土

翌朝は晴れていた。朝日が昇るのを眺めていた。それはいいもんだ。交流館の建物の前にある植物に鳥が巣を作っていた。珍しいなと思い、写真を撮り、Facebookにアップしたところ、その道のプロの方から、『そこは一体どこだ。鳥がこんなに人に近い所に巣を作るとは危険がないということ。余程の極楽浄土ではないか』とのコメントを貰った。やはりここは極楽なのだろうか。よく最後の楽園、などという表現があるが、楽園というか、自然の島、というか。

合宿も中盤を過ぎ、日程には慣れてきた。機械的にスケジュールをこなす、毎日同じことを繰り返す、一見つまらないようだが、これが人生かもしれない。人は時としてその繰り返しを嫌がり、脱線していく、のかもしれない。都会が楽しいと思う若者、田舎がいいと思う退職者世代。淡々とした人生を送ることは難しい。だからこそ、この島の流れの穏やかさは尊い。

昼ご飯の後、ビーチへ行ってみる。今日は珍しく1日晴れており、晴れれば日差しは相当強い。顔が一気に日焼けモードに入った。遠浅の海が眩しい。浜にはハマユウが花をつけていた。時間が止まったような空間の中、体だけがじりじりと焼けていく感触。



 

 

沖縄久高島へ行く2013(1)沖縄の変化に驚く

《沖縄久高島へ行く》 2013年5月23日-30日

 

沖縄には一度行ったことがある。あれは香港勤務を終えて東京に戻った年の夏休み、それまでバリやプーケットなど散々アジアのビーチリゾートを歩き、夏休みはビーチという概念から国内の沖縄に目を向けたのだが。当時(1996年)、もし同じお金を出して旅行へ行くなら、アジアのリゾートの方が格段にレベルが高かった。格安ツアーに乗った我々家族の旅は「がっかり」の印象が強い。

 

当時の日本に本当のリゾート地は一握りしかなかったと思う。香港→沖縄行きの日本航空は週2便しかなく、「何で沖縄なんか行く必要があるの」という香港人が大半だった。ところが2000年代に入り、日本ではNHKの朝ドラ、ちゅらさんなどがヒット。沖縄出身のアーチストも人気を高め、沖縄ブームが起こった。沖縄移住者が増加。

 

そしてそのブームが去った頃、LCCが参入し、それまでバカ高かった沖縄線の航空運賃が劇的に安くなった。今回初めて、ジェットスターで成田‐那覇を飛んでみた。今回の主目的はヨーガの合宿に参加すること。A師の合宿が神の島、久高で開かれると聞き、どうしても行ってみたくなる。

 

5月23日(木)

1.     那覇までジェットスター

成田空港で国内線に乗るのは初めてである。どこにチェックインカウンターがあるのだろうかと進んでいくと、なぜかジェットスターだけ全く別の所にある。というより、これは後から急ごしらえで作られた特設カウンター。如何にもチープな感じが良い。国内線なのでパスポートはいらなかったが、カウンターで身分証の提示を求められる。海外では国内線でも当たり前だが、日本では珍しい。荷物を預けるとタグだけ付けて、あとは自分で後ろのX線へ運ぶ。何ともチープ、でよい。私は非常に軽いヨーガマットも預けたが、潰れてしまった。

 

待合室には人が大勢いた。札幌行のスカイマークが遅れているらしい。皆ぶつぶつ言っている。安い飛行機にはそれなりのリスクがあるものだが、このスカイマークはリスクが高すぎるらしい。我々の方が先に搭乗になる。

 

機内はいたってシンプル、CAも外資系の雰囲気できびきびしていた。これはこれでよい。私のチケットは3か月前に予約して、片道5890円だった。これに変更可能などをセットして+1000円だと理解していたが、その中には500円のクーポンが付いており、コーヒーとビスケットが買えた。何だか料金のわりに得した気分になる。乗客は欧米人なども多く、LCCが浸透してきている様子が伺える。那覇まで約3時間、本を読んでいたら、到着した。

 

ゆいレール

 

実は那覇ではお知り合いの紹介でIさんが世話してくれることになっていた。だが急用で空港には来られないとのこと、一人でモノレール「ゆいレール」に乗ってみた。那覇空港駅は日本最西端の駅、隣の赤嶺という駅が日本最南端の駅だそうだ。何ともゆっくり高架を進む。夕日がきれいに見える。南国に来た、という雰囲気が出る。

 

沿線には高い建物が見られない。これは制限があるのだろうか。ゆいレールに乗れば那覇がよく見える。15分ほどで牧志という駅に着いた。ここまで290円、安くはないがタクシーに乗るより贅沢な旅に思える。

 

相変わらずスマホも持たない私、ホテルへ辿り着ける心配だったが、駅を降りるとホテルのビルが見えた。この辺も有難い。Sという名前のそのホテルは結構古い。チェックインして部屋へ行ってびっくり。ネットでシングルを予約していたのだが、なぜか部屋にはベッドが3つもある。このホテルはどうやら団体さんが泊まるところらしい。ただネットも繋がり、特に問題はない。朝食付き3900円は安いといえるか。

 

2.     那覇1

沖縄料理

Iさんがホテルに迎えに来てくれた。近くの沖縄料理の店へ案内してくれる。そこは住宅街にある隠れ家的なお店で、雰囲気が良い。奥の座敷に上がり込む。沖縄の民芸品が並んでいる。

 

さんぴん茶をアイスで頼む。ほのかな花の香りがする。やはりこれはジャスミンだ。ジャスミン茶なら、中国の主産地は福州市、福州なら琉球時代の交流の場。当然ここから流れてきたのだろう。後で聞いたところ、福州ではジャスミン茶を『さんぴん(香片)』というそうだ。これでドンピシャ。それにしても沖縄にお茶はなかったのだろうか、という疑問がわく。

 

 

料理はどれも美味しかった。ラフテーもあっさりしており、食べやすい。ご飯も出るが、そば入りスープも出る、それは沖縄らしいか。お店から韓国のチジミに似た食べ物がおまけで出された。このような心遣いはうれしい。いきなりやってきて、酒も飲まないのにすっかり寛いでしまう。

マックスバリューで買い物する中華系観光客

食後、久高合宿に備えて食料の買い出しに行く。駅のすぐ近くにマックスバリューがあったので、そこでクラッカーなどを購入した。夜も9時を過ぎていたが、お客さんがそこそこいた。那覇の人はこんな時間に買い物するんだな、と思っていると、何と聞こえてきたは広東語。香港人の家族が何やら日用品コーナーを漁っている。

 

と思うと、向こうでは台湾語が。台湾人が洗顔水などを熱心に選んでいた。そして普通話も聞こえてくる。ここは一体どこなんだ、と一瞬目まいが起こりそうになった。そういえば先日会った上海人が社員旅行で沖縄に行ったと言っていたが、どこへ行ったのか、と聞くと『観光地の名前は全然覚えていない。海も印象にない。我々が目指したのはヤマダ電機。あそこで欲しかったデジカメを安く買えたのは嬉しかった』と話してくれた。

彼らアジア人観光客は沖縄の青い海を見に来るのでもなければ、特産品を買いに来るのでもない、安くて品質の良い日本製品を買いに来る場所として沖縄を選んでいるように見えた。

 

これは日本人のインバウンド関係者が期待していることとはかなり違っているのではないだろうか。その後、勢いで国際通りを歩いて見た。勿論10数年前とはけた違いにきれいになっており、完全な観光スポット、土産物を買う場所となっていたが、こちらは日本人が中心だった。時たま台湾語や韓国語が聞こえてきたが、彼らは眺めているだけで、買ってはいない。何か簡単に食べられるものでもあれば、それを買い食べ歩きしている。日本では食べ歩きと言っても本当に歩きながら食べるのではないかもしれないが、彼らは歩きながら食べられるものを好むのである。アイスクリームやジュースなどは売れていたかな。

夜食

11時前にホテルに帰る。そういえばチェックインの時、『今回はネット予約の特典で沖縄そばが夜食に付きます』と言われ、クーポンを渡されていた。お腹は空いていなかったが、物は試しと1階の食堂へ出向いてみる。そこはホテル内だが独立した居酒屋だった。客はカウンターで泡盛を飲んでいる初老の男性が一人だけ。入ってしまったのだから出ていくわけにもいかない。クーポンを出すと『はいよ』と言われ、カウンターに箸が置かれた。

 

ちょっと時間がかかって出てきた物に驚いた。夜食というから小さいどんぶりにそばが入っていると勝手に想像したが、何と大きなどんぶりに並々とスープが入っている。更に驚くことには、特大のおにぎりが2つも付いている。これが夜食、なのだろうか。食べてみるとなかなか美味しいのだが、なにせ夕飯もたらふく食べている。しかし間の悪いことにカウンターの客が引き上げて取り残されてしまった。一生懸命食べたがどうしてもおにぎりは1つ残った。『すみません』と小声で言ってすごすご退散した。

 

あとで沖縄の人に聞くと何と『沖縄では酒飲んだ後のシメでステーキを食べる』と言っていた。確かに国際通りにも10時を過ぎてもステーキ屋の電気は煌々とついていた。沖縄恐るべし。

 

このホテルのもう一つの目玉はなぜか『大浴場』があると書いてあること。もう本当に腹が一杯で動けないのだが、12時までしかやっていないので、無理やり行ってみる。場所は最上階である。この大浴場、思ったより広かった。中では親子三人が楽しそうに遊んでいた。もうこんな時間に人は来ないだろうと、はしゃいでいたのに悪いことをした。特に温泉でもないので銭湯感覚でちょっと浸かって失礼した。今日は一日長かった。

 


10年ぶりにソウルへ行く(5)ソウルの中国人

台湾無国籍パスポートを持つ韓国華人

安先生とは途中で分かれ、またカヤホテルへ戻る。今晩は香港人トミーの紹介で韓国華人に会うことになっていた。地下鉄新村駅で夜8時に待ち合わせたが、お互いが分からなかった。彼女、シュウシュウは思ったよりずっと若かった。彼女はきっと私がもっと若いと思ってやってきたのだろう。

 

近くのサムゲタン屋に入る。サムゲタンも90年代、よく食べた。日本人は合うのだ。シュウシュウは祖先が山東から来たが両親共に韓国生まれ。ある意味で完全な韓国人だ。だが話していると何と彼女は『無国籍』だという。高校まではソウルの華人学校に通うが、華人のための大学はなく、彼女は台湾へ留学した。ソウルの華人は台湾へ留学するか、韓国の大学へ行くか、その時点で選択を迫られる。同時に韓国の大学へ行けば、自ずと韓国籍を取る方向になり、その取得は容易らしい。

 

彼女はその道を選んでいない。先祖が国民党系なのだろうが、だからと言って台湾がパスポートをくれるわけではない。無国籍パスポート、という証明は出してくれるが、台湾ビザは取らないと滞在できない。何とも不思議な境遇だ。日本でも在日韓国人などで同じ問題が起こっているのかもしれない。

 

現在彼女は香港人であるトミーなどと仕事をする上で中国語を使っている。韓国人の友達とは韓国語を話している。家はヨンヒドンというソウルの華人街にあるらしい。ソウルにはチャイナタウンはないと聞いていたのだが、どうやらあるらしい。地下鉄などは通っていないので、バスで行くしかないと言われる。彼女はやはり韓国人とは少し違う。非常にソフトな女性で好感が持てる。初めて会った気がしないタイプ。若い上海人の雰囲気がある。

 

8月30日(金)

1909年に設立された華僑学校 

翌朝は再度明洞へ。昨晩シュウシュウから聞いた華人協会を訪ねるためだ。明洞には観光案内人がいる。彼らは日本語、中国語、英語を使い分け、観光客の道案内をしている。これは素晴らしい。地図も3か国の物を持ち、人によって的確な言語を配る。ボランティアかと思っていたが、市に雇用されているという。変な勧誘は姿を消し、明るい明洞になっている。

 

明洞の端に目指す華人協会はあったが、中には人はいなかった。ここで韓国華僑の歴史と現状を聞きたいと考えたのだが、残念ながら次回となった。入口付近にいた若者はちゃんと中国語を話したので、実はソウルにも相当数の華人が存在していることは確認した。

 

協会のすぐ近くに華人小学校があった。1909年創立と言う由緒正しい学校。1909年と言えば、韓国併合前年、この時期、ソウルでは一体何が起こっていたのだろうか。この年にできた意味があるのだろうか。校舎は古いが立派、華人が市内にも多くいることを窺わせる。ただ校内に入ることはできない。

 

朝ごはんを食べていなかったのでちょっと早い昼ご飯としてビビンバを華人協会並びのレストランで食べる。味噌汁がやけに美味しい。食後にはヤクルトが配られる。これも面白い。この付近は華人街ともいえる場所、漢字の看板が多い。両替所を覗くと、人民元の両替率が良い。

 

江南

そのまま地下鉄に乗り、江南へ向かう。ここも90年代は仕事で時々訪問したが、どうなっているのだろうか。目指す場所が分からないので、取り敢えずまた新世界百貨へ行く。ここは高速バスターミナルに隣接していた。次回はバスでどこかへ行った見たくなる。

百貨店の内容は市内と変わらない。スタバで無料珈琲を貰い、飲む。するともうやることがない。江南は何をする場所か、全然分かっていなかった。また地下鉄に乗り、もう一つの場所へ行ってみるが、そこもビルが並んでいるだけで特に面白味はなく、退散。

再び仁寺洞へ行く。平安さんは店にいたので、またお茶の話をする。お茶は本当に良いキーワードだ。これがあれば時間はいくらでも使える。そしてどんどん深まり、落ちていく。親しさも増してくる。次回は来年、韓国の茶畑を巡ることが出来るのだろうか。

それにしても、ここにある古茶樹で作ったお茶には何かの力がある。それは何か到底わからないが、味わいがあり、そして飲みやすい。どうしてもこの産地を訪れたいと思うが、ご縁があるだろうか。

ソウルの高級住宅街ヨンヒドン

思い切って昨晩聞いたヨンヒドンにトライする。どこにあるか分からず、言葉も通じない場所へ行く、これは旅の醍醐味だ。取り敢えず昨日シュウシュウと会った新村駅へ。そこからタクシーを捕まえて、『ヨンヒドン』と言ってみると、何とか通じた。上々。

タクシーで15分ぐらい行くと、漢字の看板が見えた。この辺かな、と思っていると運転手が車を停めた。降りてみる。中国レストランが数軒見えたが、チャイナタウンとは思われない。むしろ高級住宅街であった。ちょっと歩いて見ると、本当にいい家が並んでいた。そしてよく見てみると、表札に韓国語と並んで漢字が書かれている家がある。これは間違いなく、華人の住まいだ。ただそれとは分からないようにしてある。韓国で成功した中国系、お金のある人はひっそり暮らすものだ。

正直顔を見ても、韓国人か中国人か分かり難い。結構違うはずなのだが。そして中国語は聞こえてこない。既に何代か前から住んでいる人々なのだろう。ここで中国料理を食べたかったが、レストランも少なく、時間も早かったので断念した。勿論漢字で書かれた看板はあったので、中国語は通じる筈だが。

戻りは思い切ってバスに乗ってみる。タクシーで道が分かったので、バスで帰れると踏んだのだ。バス停にはハングル表記が多いが、所々漢字が見え、それを頼りにバスの番号を選んだ。ちょっとスリリング。まあ、昼間なので問題ないが、もし違う方向へ曲がったらすぐ降りられるように身構えた。途中ヨンセ大の前を通る。名門大学だ。バスは何こともなく、新村へ戻った。冒険は終わった。

つくしアゲイン

帰りに明日の空港行きのリムジンバスをチェックした。何とカヤホテルのすぐ近くに乗り場があるという。明日は仁川ではなく金浦なので気は楽だったが、荷物が多いので電車で行くのは嫌だった。ホテルのカンさんがこのバスを教えてくれた。

ホテルに帰り休む。すると何となくまたつくしに行きたくなってしまった。先日撮った写真をEメールで送り、そして出掛けた。今回は時間が早かったのでお客は少なかった。愛想のよい彼女が出てきて歓迎してくれた。

ママも後からやってきてまたおしゃべりした。写真も話題になった。突然ソウルに親戚が出来たような気分になった。いつ来ても楽しい居酒屋、そんな空間が実に貴重だった。今日はトンカツとエビフライのミックスを頼み、また腹一杯食べてしまった。お客は相変わらず、韓国人が殆どだった。

8月31日(土)

リムジンバスでカード使えず

朝5時半に起きて、ホテルをチェックアウトした。まだ外は暗かった。空港行きのリムジンバスは5時台からあるというが、30分に一本。大体計算してバスの来る時間にバス停に行くと10分程度でやってきた。乗ってしまえばこちらのもの。

ところが使える筈のTカードがなぜか反応しない。実はお金も計算して金浦までの料金しか入れていなかったのだが、運転手は仁川まで行くと思い込んでいて、残金不足となったようだ。言葉が通じない。お客は待っている。仕方なく1万Wを取り出すと、仁川までの料金、7000Wを取られてしまう。これは困ったものだ。

バスはすでに満員で何とか席を確保する。それからいくつかのバス停に停まったが、皆立っていくことになった。このバスは金浦経由仁川行だが、今後は金浦行と仁川行を分けた方が間違いも少なく、混雑も緩和されるように思う。

実はバスには中国人も結構乗っていた。バスに置かれた冊子には中国語が使われており、買い物場所のコマーシャルなどは特に中国語が目立った。昔の日本のハワイ旅行、のような雰囲気を感じる。そんなことを考えているとわずか30分程度で、金浦空港に着いた。

空港でアップグレード

金浦空港は90年代、何十回も出張で使った空港だった。当日は仁川がなく、全ては金浦。当然のことながら十数年を経て、かなりきれいになっている。先ずは借りていた携帯電話尾を返却。日本ではすぐに料金が分からず、後でメールが来てクレジットカード払いだったが、ここではすぐに料金が提示され、現金で支払いことが出来た。この差は実はかなり大きい。

チェックインカウンターでは、北京行のチケットは認識されていたが、なぜかその後の乗継便、バンコック行は認識されていなかった。確かに航空会社は違うのだが、同じスターアライアンス、当然問題ないと思っていたので、思わず、『えー、何で』と言ってしまうと、アシアナの女性はニッコリして『今回はアップグレードになりました』とビジネスクラスの空港券が渡される。

これは偶然なのか、それとも彼女の機転か、はたまたマニュアルか。とにかくお客の不満に対する速さには驚いた。中国なら何か問題があればそこから交渉になるが、恐らくはここ韓国では交渉を避ける手段が構築されているように思える。私のケースはクレームとも思えないので、単なるラッキーか。

免税店では相変わらず中国人が朝から買い物に余念がない。店員も流暢な中国語で買い物を促している。日本語のできる店員もいるが、マイナーな存在だ。最後の最後まで、朝早くから買い物に熱を上げる中国人、その熱意には敬意すら覚えるが、それでよいのか、と思わずにはいられない。

帰りはビジネスクラスで、アシアナのサービスを満喫した。エコノミーでもサービスの良さが感じられたのだから、ビジネスなら当然。このサービスにはまさに敬意を表する。

 

10年ぶりにソウルへ行く(4)南ソウル大学の安先生

8月28日(水)

4.     忠北道

広島生活2か月で日本語を覚えたキムさん

翌日は大学の同窓生Oさんから紹介された南ソウル大学の安先生を訪ねる。この南ソウル大学、名前からしてソウルの南にあるのだろうとは思ったが、安先生に電話すると『とても遠いので、誰か迎えに行かせる』という。恐縮したが、その後私が借りた携帯に日本語でメッセージが入る。

 

『明日南営駅改札で7時に待っています』、え、一瞬何かの勧誘かと思ってしまったが、それが安先生の教え子のメールだと気づいて驚く。確か安先生は1年生を行かせる、と言っていたはずだ。1年生でこんなメールの文章が書けるのか?

 

朝7時、ちょっと緊張して改札に行くと、確かに若い女性が立っていた。金さん、日本語学科1年生。しかもこの3月から日本語を習い始めたばかりだと、普通に日本語で話す。これには驚く。たった5か月でこんなに日本語が出来るようになるのか。それには訳があった。

 

電車の中で話を聞く。朝の通勤ラッシュはソウルにもあるが、我々は1号線を逆方向に進むため、座ることが出来た。金さんは『実は6‐7月の2か月、広島に行っていました』という。何で広島?安先生のプログラムに広島で2か月日本語を勉強する、というコースがある。その内容がすごい。『1か月1万円で生活します』、聞き間違いかと思ったが金さんの日本語は極めて正確だった。

 

その為には『食事はほぼ自炊、電気も節約し、部屋のクーラーも付けません』と。え、それって日本語の研修、それともサバイバル研修?韓国人学生数人で一緒に行ったようだが、広島の夏は暑かっただろう。『部屋は暑いので公民館や図書館、偶に原爆記念館にも行きました』という。そしてそこで地元の人とコミュニケーションが生まれた。『スーパーの安売りは午後8時半からなんです』、当然地元では目立つ存在だったろう。『皆さん親切でした』、それはそうだろ。そこで生活に必要な日本語を覚え、会話の勉強もしたようだ。大学へは自転車通学、徹底したエコと自立の精神。これは凄い教育だ。因みに韓国と日本の往復も、飛行機などは使わずにフェリーで10数時間かけるそうだ。その徹底ぶりは見事だ。

 

ユニクロに就職するスミさん

そんな話をしている内に電車に安先生が乗り込んできた。途中駅に自宅があるようだ。安先生の日本語はほぼ完ぺきだ。金さんとも普通に日本語で会話している。私が一年生の時、こんなことはあり得なかったな。

 

安先生は私が大学生だった頃、わが母校に研究生として在籍。その後広島大学で博士課程に通った。だからそのご縁で学生の研修は広島で行っている訳だ。実にユニークな先生であることは一目で分かる。広島研修の話を先生に聞くと『韓国は金持ちになったと言ってもお金のない学生もいるんです。その子たちにも日本へ行く機会を与えようと思えば、渡航費、生活費を最低限に抑えればいいんです』とこともなげに言う。

 

そして電車に乗り合わせた学生と気楽に話す。スミ、と呼ばれたその女子学生も雰囲気も日本語も殆ど日本人だった。広島の研修にも行き、名古屋の大学にも1年交換留学で行ったという。そして就職先はユニクロ。如何にもがんばり屋、という雰囲気が漂う。日本人学生は彼女等には歯が立たないだろう。語学力、ガッツ、どれをとっても勝てる要素がない。

 

安先生の授業は厳しいらしい。出席は毎回必ず取る、漢字テストも毎回ある。授業中の携帯禁止。学生たちも辛いという。特に大学がかなり遠いのでソウル市内から通ってくる人にとって勉強は大変らしい。

 

長かったはずの電車、1時間強があっという間に過ぎた。駅を降りると、大学行きのバスが来ている。乗り込んで10分ぐらいで、キャンパスに到着。ここはソウル市ではなく、京畿道でもなく、忠清北道になるらしい。大学のソウル集中を防ぐ措置とか。実に空気の良い、広々したキャンパスだった。

安先生の驚くべき活動

学校に着くと先ず安先生の部屋でビデオを見た。安先生のプログラムは広島以外にもう一つあった。それが日本海ゴミ拾い。先生が大学院時代に鳥取砂丘に行き、その海岸で見つけたごみにハングルが書かれていたことから、『恥ずかしい』と感じて、一人で拾い始めたのだという。

 

その後大学の教員となり、鳥取大学と協力して、学生共々毎年ごみを拾い続けている。これも広島同様フェリーで往復、日々の移動は自転車というエコぶり。『世の中にはエコと言いながら、ごみを大量に出す人、車を運転する人がいるが、それはエコではない』といい、何とごみ拾いをする時の昼ごはんは『パンの耳』と水のみ。パンの耳ならごみは出ないし、捨てるのはもったいないと。

 

最近はこの活動が評判を呼び、日本のテレビにも取り上げられている。各市町村もわざわざ韓国からごみを拾いに来てくれる学生に対して『せめて昼ご飯に美味しいものを』と幕の内弁当などを用意してくれるのだが、安先生は不満だ。ただパンの耳が手に入りにくい事情も理解している。

 

日本の学生や地域のボランティア団体も活動に賛同して、一緒にごみを拾う。これが日本人との交流にもなり、日本語の勉強にもなるという。全く無駄がなく、そして有意義な活動だ。これを思いつく安先生は、気骨のある人。

 

午前中の授業は3年生だった。私がお話することになり、文章の書き方と旅について、簡単に話した。日本語の理解力はかなりあり、普通のスピードで話しても付いてくる学生が多かった。日本に行ったことがある学生も多く、日韓の違いなどについても少し考えてみた。我々と違って若者には吸収力がある。間違った指導をしなければ確実に理解して行くものだと感じる。

安先生の厳しい指導

昼ごはんは安先生と国際交流課のスタッフと取る。キムチチゲをご馳走になった。実に久しぶりにチゲを食べ、満足した。付いてくるキムチや野菜も美味かった。ご飯が進む。やはり人数がいると色々と食べられてよい。

 

この南ソウル大学はアジア各地の大学と提携しているが、最近は中国との提携が活発だ。地理的に近い山東省のほか、いくつかの大学から留学生を受け入れている。そしてこちらからも中国へ留学する。今や韓国では外国語が出来ないのはダメ、という風潮があり、就職を考えると、日本語より中国語の方が有利な状況となっている。

 

午後は1年生の授業だった。迎えに来た金さんも含まれている。韓国では学校によっては中学2₋3年から日本語を学ぶところもあり、1年生と言ってもそのレベルはかなりのバラつきがあった。完全に話に付いてこられる学生もいるが、全く分からない人もいる。それは当然で仕方ないことだと思っていたが、安先生は途中から熱を入れて通訳を始めた。

 

そして理解できない学生を名指しして叱咤する。『理解できないからと言って諦めて聞こうとしない態度はダメだ』と相当に厳しい。先生は学ぶ姿勢に関しては特にうるさい。この姿勢、日本には今やなくなってしまい、教師も生徒に求めなくなっているが、重要なことだ。

 

午前も午後も質問はいくつも出た。日本の大学で話をしても、活発に質問が出ることは少ない。どうしても意識してしまうらしい。だが外国語でみんなの前で堂々と質問できる、韓国の学生は積極的だ。そして先生も『日本語を勉強するというより、話の中身を学ぶべきだ』と言ってくれた。これは嬉しいこと。そしてなんと『明日の午前中、4年生の授業でも話してくれ』と依頼され、快諾した。安先生によれば『奥さんに話したら、わざわざ日本人に来てもらって3回も話をさせるなんて常識がない』と言われたそうだが、その常識破りの熱意は、皆に受け入れられるだろう。

 

安先生の部屋には常に学生が出入りしている。厳しい先生だが、積極的に関わってくる学生は歓迎している。来週も外国から先生がやってくるらしいが、その受け入れを学生に任せている。『これも勉強なんです。外国人と接するあらゆる機会を捉えて、勉強させます。勉強とは語学だけではなく、受け入れアレンジの仕方やイベントの実行など、様々です』と実に実践的だ。日本でもこんな教育できないのだろうか。学生はお客さんではないのだから。

 

甘いブドウ

 

 

夜は安先生他2人の先生と田舎料理を食べに行く。どこの国でもそうだが、その土地土地の食べ物が一番おいしい。キムチだって1つとして同じものはない。ここは鶏肉が美味しかった。韓国はどうしても牛肉、焼肉のイメージが強いが、一般人は牛肉を食べることはあまりないようだ。一体いつから韓国では牛肉を食べるようになったのか、これは謎だ。

 

また韓国人、特に男性は酒が強い、というイメージもあるが、意外と酒を飲まない人も多い。勿論車の運転がある人は当然だが。今回も酒は殆ど飲まなかった。そして一番驚いたのが、デザートとして巨峰が出てきたこと。その甘いこと、日本の高級巨峰に引けを取らない。韓国の農業力もかなり向上しているのだろう。

 

今日は先生の好意で大学の宿舎に泊めてもらう。キャンパス内にある宿舎は完全にホテルだった。箱モノ行政で立派なものを作ったがあまり利用がなく、宝の持ち腐れだという。何とNHKワールドプレミアまで見ることが出来た。周囲に音はなく、ぐっすりと眠れることが出来た。 

 

8月29日(木)

 

4年生と単位

 

翌朝9時過ぎに安先生はやってきて、朝ごはんを食べさせてくれた。律儀な先生だ。大学の周囲にはあまり店などないようで、学内でトーストとコーヒーを頂く。安先生はそこで働くおばさんとも気さくに話をしていた。こういうコミュニケーション、大事だな、と感じる。

 

 

そして4年生に、また同じ話をした。韓国でも日本同様、就職は大変、またこの国は『内定即就職』という習慣があり、就職が決まると学校に来ない学生が出て来るらしい。安先生はそれも不満であり、本日の授業でも『授業に来なければ単位は出さない』と告げていた。しかしそれでは就職できないではないか?

 

 

『実際に卒業できなかった学生もいますよ』と安先生は平然と言う。自らの信念は曲げない、それは凄いが大丈夫なのだろうか。『私の評判は皆知っているはずだから、授業を取る学生は理解しているはずだ』と言う。ちょうど授業が終わると部屋に赤ちゃんを連れた若い夫婦が訪ねてきた。旦那は日本人だった。奥さんが安先生の学生で、何と卒業できなかった人だという。それでもちゃんと子供が出来れば先生に見せに来る、安先生の魅力だろうか。

 

 

日本人先生と学食

 

この大学の日本語科には日本人の先生が何人かいた。お昼は日本人の先生、2人も入れて食事に行く。ちょうど雨が降り出し、遠くへ行くのを断念。学食へ向かったが、雨のせいもあり、大混雑だった。一応先生用に席はあるのだが、食事を取るのに大行列が出来ていた。ここでも安先生が日頃のコミュニケーションを生かして、特別に早くランチを貰ってくれた。安先生はこの大学の創設された20年前から奉職している古参教員。きっと名物先生なのだろう。

 

 

日本人の先生たちも色々な経緯でここへやってきている。海外で外国人に日本語を教える、それは簡単そうで実は難しいことだろう。今回私も話をしてみて、彼らは何が分かるのか、分からないのか、も分からず、結構苦労した。私は一方的に話すだけだが、先生はその内容を理解させなければならない。

 

 

しかも日本語を勉強しても就職の問題もあり、果たして学生にとって良いことなのかどうかさえ、怪しい。教えるモチベーションを維持するのは大変だろう。また韓国の田舎に住むのも大変だ。韓国語が出来ればまだいいが、そうでなければ言葉の壁もある。勿論教える際にも韓国語が必要になるかもしれない。しかも必ずしも韓国が好きだから韓国で教えている訳ではなさそうだ。

 

 

帰りは学校のバスで駅まで行く。安先生も一緒だった。電車がやってきたら、安先生は急いで乗り込む。何とその電車は急行で、ソウルまで普通より30分近く早く着くとのこと。やはり韓国語が分からなければ生きるのは難しそうだ。今回は先生のお蔭で実に貴重な体験をした。

 

 

10年ぶりにソウルへ行く(3)仁川のチャイナタウン

8月27日(火)

3.仁川 中華街

今朝は仁川のチャイナタウンへ行ってみることにした。聞く所に寄れば、地下鉄1号線に乗って途中で1回乗り越えれば仁川に行けるらしい。空港のある仁川とは少し離れているので空港線は使えない。 ボーっと電車に乗ること1時間弱、東仁川に着いた。ここで降りるとよいと教わったが、どこを見ても中華風の建物は見えない。表示もない。駅員に聞くと、『次の仁川駅へ行け』と言われてしまう。後で分かったことだが、東仁川から歩いて行っても行けなくはないが、遠かった。

 

また電車で一駅。仁川駅前には中華門があり、それらしい。これは最近作られた物。チャイナタウンを観光地として発展させるための方策だ。門を潜り、坂を上ると、中国物産屋、中華レストランなどが見えてくる。横浜中華街の小型版のように感じられる。午前中早いせいか、お客は殆どいない。

 

かなり歩いて行くと街が切れ、下り坂に。日清境界線、という場所があった。清末に仁川は開港され、日本も清も租界を設けた。港町仁川には清国人は勿論、日本人も多くやってきたようだ。1884年に日本と清国の境界線を引いた場所がここだった。自国内にこのような境界線があること、朝鮮半島の歴史は重い。丘の上に公園があり、そこから港を一望した。

 

フェリーターミナル

公園から下り、港へ向かう。見た目より距離がある。今日はさほど暑くはない、と言っても8月末。モンゴルから来た身には辛い。ようやく仁川港へ着く。そこにはフェリーターミナルがあり、表示によれば、青島、天津、大連など、中国の沿岸都市と10数時間で結ばれている。やはり中国は近いのだ。

 

2007年頃、青島など山東省を中心に、韓国企業家の夜逃げ事件が何件も報じられた。加工貿易の限界、低賃金、低コスト時代の終わりを察知し、逃げ出したのだが、良く中国側の港で拘束された、と言われている。それはこのルートを使って韓国へ戻っていたのだろう。

 

実は清末も山東から大量の中国人が仁川へやってきた。義和団事件など、国内が乱れ、国を捨てる人が続出、移住先としてこの地も視野に入っていた。そして日中戦争、国共内戦で国民党兵士の一部は朝鮮半島に逃れている。勿論冷戦時代、この航路は閉鎖されていた。中韓の国境正常化がなされた90年代の初め、再開され、チャイナタウンも活気を取り戻したと言われている。

 

ちょうど青島からの船が到着した。観光案内所で中国語を使ってみたが、韓国人が何とか対応してくれた。ここでは中国語は必須。中国人も観光客というより、商売などで来ている人が多いように見えた。中国語の地図を貰ってまた歩き出す。

 

チャイナタウンの台湾系4代目

昼時になり、チャイナタウンへ戻る。港近くにもレストランがあったが、一杯か休みだった。店の前には呼び込みのおじさんがいる。如何にも韓国っぽい。だが彼らは中国語を解さない。どうしてよいか分からない。中には中国語に対して嫌な顔をする人すらいた。これでもチャイナタウンか?と思ったが、もしや横浜や神戸でも同じことが起こっていないだろうか、と考えてしまう。

仕方なく月餅を売っている店のお婆さんに話しかけてみた。すると普通話が通じた。ただこの店以前はレストランだが、今は月餅などを売るだけとなっていた。『親戚の店はあそこだよ』と言われ、1軒の店に思い切って入る。すると案に相違して、中は完全に中華世界だった。何と店員同士が普通話を流暢に話し、おばあちゃんが孫に普通話で話し掛けていた。全く拍子抜けだ。注文した海鮮炒飯は美味しかった。何と自分でコチジャンなどをつけて味を調える。

聞いてみるとここのオーナーは若い華人で4代目だという。出身は台湾と言ったが、どうやら原籍は山東、祖父は国民党系だったようだ。台湾にも親族がおり、横浜にも大阪にも親戚がいる、という。仁川の華人の実態が少し見えた気がした。周囲の客も観光客ではなく、地元の人が多かった。どこか中国の方言を使っていた。

そう、山東と言えば26年前に行った時、地元の人の言葉が全然聞き取れなかった覚えがある。訛りが非常にきついのだ。ただ従業員たちの言葉は非常に標準的であり、最近は変わったのかと思ったが、ここで働いている人は基本的に韓国人と結婚して韓国にやってきた中国人女性だったのだ。確かに韓国で韓国語が不自由では働く所は限られる。なるほど。

帰りにさっきのお婆さんから月餅を買った。手作りだと言っていたが、芋などが入っており、ちょっと独特だった。中秋節を控え、月餅を売り出しているのはどこのチャイナタウンも一緒。ただ日本のように1年中、月餅を売っているところは少ないだろう。

西大門監獄

仁川から電車で来た道を戻る。ホテルへ戻ろうかとも思ったが、そのまま電車に乗り、3号線に乗り換えて、仁寺洞へ行ってみる。韓国の古本屋は仁寺洞にあるはずだったが、今はもう殆どない。韓国の茶の歴史を知るすべを求めたが、ただの観光地だった。昨日も行ったお茶屋さんを訪ねるも、平安さんは不在。

 

Kさんから一度は見ておくのが良い、と言われた西大門監獄を思い出し、また地下鉄に乗る。独立門という駅で降り、地上に上がると、独立門があったが、改修中でよくは見えなかった。1897年に独立の意思を示すために作られた門。パリの凱旋門をモデルにしているとか。手前には清の施設を迎え入れるための迎恩門の柱が残っており、意志が感じられる。

 

そしてその公園内を歩いていくと、高い塀が見えてくる。西大門監獄は1908年から80年にわたって監獄として使用され、日本時代は独立運動家を収監し、拷問などを加えたと言われる場所。独立後も独裁政権が民主活動家を弾圧したという。現在は一般公開され、負の歴史が語られている。

 

正面の古い建物を中心に展示がされており、順路に沿って見ていく。ここで亡くなった人々の写真が壁一面に張られていた。監獄の様子も見ることが出来るが、激しい拷問などが行われたであろうその場に立つとたじろいでしまう。赤子を連れた女性がおむつを替えたり、乳をやるのに苦労している話、単に勇敢な愛国主義者、という面だけでなく、人間、という側面を展示していることに打たれる。


 

敷地の隅には処刑場がある。その前には一本の高い木が立っている。『慟哭のポプラ』とも呼ばれる。刑の執行前にその木に縋り付いて嘆く、その場面を想像すると、なんとも言えない気分になる。日本と韓国の歴史を考え、これからを考えていく上でも、この監獄はやはり一度訪ねてみる価値があると思う。

 

新世界百貨とロッテ免税店

帰りに新世界百貨店に寄る。実は仁川の空港で貰ったパンフレットの中に新世界百貨店に行くとスタバのコーヒー無料という券が付いているのを見つけたのだ。しかもそれは中国語の案内だった。ちょっと覗いてみようと思う。

 

4号線の駅を出て少し行くとその建物はあった。かなり新しいと思ったら2005年に建てられた新館だった。その隣には1930年に三越のソウル支店として建てられた歴史的建造物が未だに現役で使われている。こちらはいかにも三越、という雰囲気の建物だ。高級品ばかり売っている。新館の10階に行くとスタバがあった。券を出すと本当に無料でコーヒーをくれた。これは何となく嬉しい。

 

午後の高級デパートはお金のありそうな奥さん連中がおしゃべりに花を咲かせていた。日本と何ら変わらない風景。免税コーナーもあり、ちょっと探してみたが中国人の団体観光客がいる気配はなかった。スタバ作戦も不発か。中国人はどこにいるのだろうか。興味が湧いてきて歩き出す。

 

実に懐かしい、重厚な建物が見えてきた。旧朝鮮銀行本店、1912年に東京駅などを設計した辰野金吾により設計された。現在は韓国銀行貨幣金融博物館として使われているようだったが、既に時間が遅く閉館していた。

 

更に行くとロッテデパートがあった。そこの前には観光バスが停まり、中国人がたむろしていた。中に入り、エレベーターに乗ろうとすると中国人で大盛況。ようやく乗って9階の免税フロアーで降りようとしたが、何とお客がフロアーに溢れ、かき分けなければエレベーターから降りられない始末。これには参った、というか呆れた。


 

昔は日本からの観光客が多かったこのフロアー。今や完全に中国の天下。化粧品コーナーに群がる女性達、高級腕時計を真剣に眺める男性達、熱気がある。売り子も中国語で話かけて来る。日本人だというと『日本のお客さんはここで腕時計なんか買わない』と。そりゃそうだ、1つ100万円もする時計をソウルで買う人はあまり聞いたことがない。

 

上の階には韓国のりやキムチのコーナーがある。ここへ行くと突然売り子が日本語になるからおかしい。日本人は本当にお金を落とさなくなっている。帰りもエレベーターに乗るのに一苦労。こういう光景を見ると『中国人富裕層の購買力』などと報道されるのだろうが、富裕層なのだろうか、こんなに押し合いへし合いして。庶民としか思えない。

 

ついでに南大門まで歩いて行く。ここも懐かしいが、今はきれいに整備されており、面白味には欠けた。マツタケを売る店が多い。ここにも中国人はそこそこいた。近くの両替所も漢字が目立つ。両替してみるとレートも明洞より良かった。

つくしのホスピタリティ

夕飯はどうしようかと思ったが、一度ホテルに帰り休む。今日はかなり歩いており、疲れたので、近くで済ませることに。昨晩Kさんから『ここは昔からあり駐在員行きつけの店だ』と言われた「つくし」に行ってみる。カヤホテルのちょうど向かいにある。中に入るとお客で満員だった。お姐さんが日本語で『一人?』と聞くので頷くと、席を1つ作ってくれた。何となくビールを頼んでしまう。そこは居酒屋だから。

 

それにしても何となく来たことがあるような気がしてきた。ママに『昔一度来たことがあるようだ』というと、とても喜んでくれ、サービスだと言って、ビールのおつまみを出してくれた。こんなことは日本では今や考えられないだろう。しかも一人で来たというので、話し相手になってくれ、最近のソウルの飲食事情を教えてくれた。

 

この店は元々日本人が始めたが、リーマンショックの頃、帰国してしまい、今は韓国人のみで営業している。お客も日本人駐在員が徐々に減ってきており、今は韓国人サラリーマンが主体。だが『私たちは日本の居酒屋の雰囲気を大切にしていきたい』と言い、それを守ってきている。ただ『昨年から客単価は下がっている』と韓国経済が決して良くないことも教えてくれた。

 

ここは揚げ物が有名だというので、カツ丼を食べてみた。日本で普通に食べるカツ丼と変わりはなかった。量は多かったが。ママは『味はどう?』と聞いてくる。日本人が美味しいと感じる味を保つためには日本人のお客さんの率直な意見が聞きたいというのだ。『私はいくら頑張っても韓国人。味覚は違う』と実に謙虚だ。

 

店内には著名人の来店写真なども飾ってある。2階では宴会が行われていて忙しい。そんな中でもちゃんと相手をしてくれる、凄いな、と思う。記念写真を撮り、後でメールを送る。こんな交流がしたくなる店、しかもほぼ初めて行った店、有難い。