「アジア旅」カテゴリーアーカイブ

神の島久高を再訪して(1)ルールに慣れていないと

《沖縄散歩2014》  2014年5月13日-23日

 

昨年10数年ぶりに行った沖縄。私には強い衝撃があった。沖縄は『日本でもなければ中国でもない』という感覚に捕らわれた。実にユニークな文化、そして人々。興味がどんどん深くなり、また行きたいと思うようになっていた。

 

昨年も開催されたA主催にヨーガ合宿。神の島久高島で今年も開かれると聞き、再訪を決めた。同時に今回は本島のみならず、是非離島にも行きたい、と思う。沖縄を理解するのはそう簡単なことではない。淡々と何度も通い、地元の人々と何気ない会話をしていく中で、何かが見えてくるような気がしていた。

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5月13日(火)

1.那覇まで

地震の余波で

色々と検討したが、結局今年も成田からジェットスターに乗って那覇へ行くことに。時間も全く同じ午後便。今日は朝方地震があった。東京に戻ると地震の多さに驚かされる。もうみんな慣れっこになっており、殆ど気にも留めていない。東京にやってきた外国人は地震を体験して、どう感じているのだろうか?

 

いつものように京王線に乗り、都営新宿線に入り、馬喰横山で降りる。ここでスカイアクセスに乗り継げば、1時間で成田空港に着く。もう何度も通った道だ。駅でうどんを食べるのも恒例となっている。だが、駅へ行くと様相がおかしい。駅員に聞くと『ああ、成田行きのアクセス、当分来ませんね。地震ですから』と素っ気ない。慣れているということは慣れていない者に衝撃をもたらすことを分かっていない。

 

押上まで各停で行き、そこで電車を待つ。京成特急は動いている、とのことだったが、なかなか電車は来なかった。相当余裕を持って家を出てきているので問題はなかったが、ギリギリに出ていれば完全に乗り遅れてしまう。ホームには人が増えてきたが、慌てている人はいない。何とか電車に乗り込み、空港へ到着した。それまで英語の放送は一度もなく、一部外国人は何が起こっているのか分からなかったようだ。

 

ジェットスターの不可解なルール

ジェットスターの国内線。荷物を預ける。自分で後方の安全検査を通すのも去年と同じ。待合室からバスに乗り、ターミナルを離れるのも変わりはない。飛行機に乗り込む際、結構人が大勢いたので、タラップで詰まっていた。そこで私は何気なく、いつものようにカメラを機体に向け、1枚写真を撮った。

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すると横にいた係員の女性が何か言っている。アジアの空港で時々写真を咎められることがある。大体は空港の規制で、と言いながら、軍事上の規制だったりする。ただ日本にそのようなルールがあるとは思えない。飛行機の音がうるさくてよく聞こえなかったため、もう一度聞き返す。彼女は何と『お客様、電子機器のご使用はお控えください』とはっきり聞こえた。この言葉には驚いた。

 

機内で離発着の際、この言葉を聞くことはある。だがまた飛行機にも乗っていない、そして電波も発しないデジカメで写真を撮ってどこに問題があるのだろうか。先ずは乗り込んでから、CAに聞いてみた。すぐにチーフパーサー?の女性がやってきた。その答えは『我々はオーストラリのカンタスの関係会社ですので、オーストラリのルールに則っています。イギリスなどでもこれは常識です』と言い放った。『空港ターミナルをバスではなれた瞬間から電子機器は使用できません』とのこと。

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イギリスで常識かどうかは知らないが、3年以上アジアを放浪していて一度もそんなはなしは聞いたことがないと言うと、彼女は更に『デジカメのフラッシュで100%引火しないという保証はない』と言い出した。これには驚いて『じゃあ、キャノンやニコンの知り合いに聞いてみる』と言い返すと、急に彼女の態度が弱腰になる。まあ、私もクレーマーではなく、純粋に理由を聞きたいだけなので、後は仲良くお話した。

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その後、数か国のフライトでルールを確認したが、『離発着時の禁止』以外、どこにも見付からなかった。勿論最近のデジカメはPCへ自動送信もあるので、電波を発信するとしてでも、である。あの説明は一体なんだったのか、ジェットスターはどんな理由でルールを定めているのか、真相は謎のままである。

中国最北端を行く(3)北京 ウイグル料理を堪能

2月15日(土)

ウイグル料理

今日は朝から馬連道へ。馬連道といえば普通はお茶市場へ行くと思うのだが、実は違っていた。ここに新疆の兵団レストランがあるという。面白そうなので後輩のKと出掛けることに。ところが地下鉄で現地に向かっている途中、短信が入る。『体調が悪いので昼は勘弁を』ということで、一人で突撃。

 

北京も地下鉄が沢山出来てきたので、どれに乗ってよいか分からない。が、以前は地下鉄では行けなかった馬連道の近くまでは電車が通っている。地図で確認して行ってみたが、ちょっと乗り間違えて、かなり歩く羽目に。よく知らないと北京は広いので要注意だ。

 

兵団とは日本でいえば屯田兵。中国建国後、新疆に引き続き駐留した軍隊で、平時は農業などに従事する。新疆でのその規模はかなり大きく、ある街では街の行政と同じ規模であったりする。今や漢族の新疆政策にも関わっているかもしれない。

 

レストランは兵団大廈の1階にあった。そしてきれいであった。イメージはちょっと違う。兵団は北京に不動産を持っていたのだ。ただ店内には人影がなかった。時間が早過ぎてまだやっていなかったのだ。ウエートレスが一人いたので聞くと、座っていていいという。特に急いでいないが、一人で長居するような場所でもなさそうだったので、ラグメンを頼み、食べて出てきた。

 

休日なので開店前から人が来て、注文を開始。皆、串羊肉を頼み、美味しそうな料理を頬張っている。勿論一人で来ている者などいく、家族か友人とだった。子供たちもいる。楽しそうだ。確かに兵団のイメージとはちょっと違う。一応本格的な新疆料理として、この辺では有名なのだろう。

 

お茶でも見ようかと思って、メインビルに入る。ここは10年以上前に時々来た場所。今ではこのビル以外に6‐7の茶城があるらしい。それ以外にも周辺には沢山の茶荘があり、どこに入ってよいかも分からない。メインビルも殆どお客は歩いていない。今日まではまだ正月気分、中には店を閉めているところもある。

 

2月に紅茶の会でお話することを思い出し、正山小種を見て回る。このお茶はイギリスではラプサンスーチョンという名で今でもファンが多いが、中国人にはあまり好まれない。何故ならこの茶の特徴は、松の木で燻して作るため、その煙のにおいがきつい。そこで最近紅茶を飲むようになった中国人向けに、この燻製を弱くして茶を作っている。

 

この茶城を歩いていても、現在では中国人向け正山小種しか見つからない。何故ならこの方が売れるし、また作るのが簡単だからだ。現在の中国の茶作りでは無理して面倒はしない。ようやく匂いが強い茶を発見したが、値段はかなり高い。手間がかかっているので仕方がない。今はそんなものだ。

 

それから国貿3期まで戻り、マスコミ関係者S氏と会う。彼は精力的に活動しており、仕事の他、別の勉強、本の出版など、あまりの忙しさに疲れ果てていた。偶には気分転換もいいのでは、と夜の新疆料理会食に誘った。

 

夜は西二環路外の新疆レストランで、同窓生と会食。そこに有名ライターC氏も合流、更には道に迷いながらS氏も到着。皆で美味しい新疆料理を堪能した。昼間のうっ憤を晴らした形だ。このレストランもお客にウイグル人はいなかった。

 

2月16日(日)

文革運転手

今日はハルピンへ向かう日。午前中は原稿整理などをして過ごし、昼は昔馴染みのOさんと食事。彼女とは留学時代からの腐れ縁だが、その息子レオが大きくなっているのにビックリ。まあ5年も経てば当たり前か。ずっと中国にいるレオだが、中華料理よりはハンバーガーなどがいいらしい。そこはアメリカンとのハーフ、それもいいか。

 

ホテルへ戻り、タクシーで空港へ。市場の前から拾ったのだが、運転手がとても親切。運転席の横のライセンスを見ると、名前は『文革』。やはり1966年の生まれだという。彼は言う、『生まれた年から色々なことがあった。そしてタクシーの運転手になったが、いいことはあまりない。それでも生きているからまあいいか』。さすが文革氏、言うことが違う。

 

空港でN教授と落ち合った。そしていよいよハルピンへ。エアチャイナを予約したつもりだったが、搭乗してみると、大連航空と書いてある。エアチャイナの系列なのだろう。ただサービスは違っている。食事は出ずに、パンだけが出た。

中国最北端を行く(2)北京 動かなくなったPC

ホッカイロ

夜は雲南料理のお店へ行く。カメラウーマンのSさん、ライター兼編集のHさん、胡同に住むライターTさんと一緒に食事をした。このメンバーは、実はある雑誌に寄稿している仲間で繋がっている。これも面白い。

 

私がこれから厳冬の黒龍江省へ行くというと、Hさんが『私も以前取材で漠河に行ったことがある。零下40度の中、トナカイを見に行って寒かった』という。えー、こんなところに私がこれから行こうとしている場所を知っている人がいた。さすが多彩なメンバーだ。実は昨日の夜、この漠河について初めて検索した。すると『現在の気温零下41度』とあるではないか。寒いとは思っていたが、想像を絶する。そして私は、それに対する服を持っていない。

 

Tさんは友人にもらったというオーバーコートをわざわざ持ってきてくれた。これをダウンの上から着るとよいらしい。そしてズボンはスキーに行くオーバーズボンの購入が必要だという。実は私はスキーをしたことがなく、全く思いも付かなかった。なるほど。

 

そしてHさんは『ガードすべきは足の先』と。食事後、セブンイレブンに連れて行ってくれ、足先を温めるホカロンを購入した。勿論通常のホカロンも合わせて購入。今や北京でも簡単にホッカイロが手に入る。素晴らしい!今晩の会合が無ければ、漠河で私はどうなっていただろうか?必要な人は必ず現れる、私の座右の銘?

 

2月14日(金)

PC壊れる?

朝起きてPCを立ち上げようとしたが、うんともすんとも言わない。電源も入っている。何故だ?ここで壊れたら、黒龍江省はどうなる?頭に色々なことが過る。どう見ても北京で直さなければならない。2₋3の友人に電話してみたが、とにかくどこかに持ち込み、チェックしてもらうことだ、となる。

 

そして思い出した。北京で日本人相手にPC修理をやっている会社があったことを。どこにあるんだっけ?と考えてみたら、なんとなんと、今泊まっているところから見えるところにオフィスがあるではないか。これは『そこへ持ち込め』という啓示に他ならない。

 

いくらぐらいかかるだろう、そもそも治るのだろうか、などと考えながら9時過ぎに行ってみる。受付の女性は日本語を話したが、私の症状を見てすぐに専門の人を呼んだ。彼は私のPCをちょっと見て、すぐに装着されたバッテリーを取り出し、また入れた。すると何のことはない、ちゃんと立ち上がるではないか。

 

日本人の女性が『たまにあるんですよ。フリーズですかね』と笑いながら言う。そしてお代は要らないとも。全てが杞憂だった。だが知らなければ何も解決できない世界。彼女に聞いてみると『最近間違いなく北京の在住日本人は減っている。そして企業からの受注も減りつつある』と。中国でのビジネス、皆厳しいことが分かる。環境のせい?反日?それとも?

 

秀水

何事もなかったようにホテルにPCを置き、秀水に向かう。ここは15年前屋外の露店商が並ぶ場所だったが、その後ビルの中に露店を押し込めた。特に偽ブランドで有名。日本人は眉をひそめるが、安くて何でも揃う、という点では便利この上ない。いつも多くの外国人、特に値段交渉の厳しい韓国人と甘い欧米人が来ている。

 

1つずつは実に小さな店が何百軒も連なっており、売り込み競争も激しい。若い女性の売り子が歩いているとどんどん声を掛けて来る。どの店が良いかはフィーリング、というか、彼らの底値さえ大体分かれば、どこでも大差はない。先ずは欲しい商品を見つけ出し、大体の値段を理解した上で適正な料金で買う、ということになる。

 

オーバーズボンは北京でもあまり履かないらしく、なかなか見つからない。何とか見つけると、薄目と厚目がある。零下40度というと厚目を勧められたが、果たして履く機会があるのだろうか。念のためにひとつ購入。それと帽子は必須。これも1つ購入。

 

ランチは建外SOHOへ。日本食レストランオーナーTさんの店で食事。この店、以前は日本の中華屋さんが入っていたが、そこを居ぬきで借り、結構成功しているらしい。素晴らしい!だが我々の話題は北京でもなく、中国でもない。マレーシアなど東南アジア。北京10年で飽きてきたTさんにとってアジアは次の大きなフィールド。さて、どうなるだろうか?

中国最北端を行く(1)北京 朝からチェックインできるホテル

 

《黒龍江省散歩2014》  2014年2月16日-25日

 

本当は新疆ウイグルへ行くはずだった。これまで大学の先生と2年間で3回のウイグル調査をしており、今年は本の出版すら予定に入っていた。だが、新疆情勢はかなり動いており、昨年夏もモンゴル訪問に切り替わっていた。公式に訪問することは難しい。

 

『今回は別の所へ行きましょう』ということで選ばれたのが、何と黒龍江省。しかもその最北端、ロシアとの国境に厳冬期の2月に行くと聞いて逡巡した。だがそれも経験、と思い直し、今回は完全に観光気分で出掛ける。

 

それにしても常夏のバンコックからロシア国境までの温度差は大変なもの。果たして体がもつのか、この歳で体験といってもちょっと危険だった。先ずは北京でトランジットして、体を慣らすことに。

 

2月13日(木)

1.北京

午前8時半にチェックイン

体を慣らすのにバンコックから夜行便?と思ったが、いつものことで仕方がない。いつもは北京で降りずに朝の便で東京へ行くのだが、今回は朝6時半に入国した。あまり早く行ってもどうせホテルのチェックインは昼頃だと思い、ゆっくりイミグレを通り、電車で市内へ。今回は三元橋の如家というチェーン店を選んだ。三元橋には空港線の駅があり、便利だと思ったのだが、何とこの駅は実に不便で、周囲へ行くにはぐるっと回らなければならない。

 

如家も地図上よりはるかに遠かった。ある社区の中、古いホテルを改造したような構え。朝8時半に入っていくと、何事もなかったようにチェックインできた。これは実に有難い。これで夜行便の疲れを癒せる。日本のチェーンホテルなら、チェックインは午後4時から、と言われそうだが、他のアジアはそんなことはしない。部屋が空いていれば客を入れる。それが顧客サービスだ。

 

この如家、予想以上に清潔で必要なものは全て揃っている。WIFIも遅くない。2月の北京は零下の気温ながら、ここは暖かい。お湯の出も問題ない。熱いシャワーを浴び、ベッドに入るとすぐに眠れた。やはり歳だ。

 

昼頃、起き上がる。今度は腹が減る。その辺を散策すると昔を思い出す。実は15年前はここからそう遠くない場所に住んでいた。近くに行ったことのある中国料理屋もあったが、一人で入るには量が多い。そう思って三環路に出ると、昔懐かしい日本食レストランがあった。月山、入ってみると昔と何ら変わらない。恐らくは値段もそれほど変わっていないような気がする。定食38元。

 

店の雰囲気も働いている人の雰囲気も変わらない。北京はここ数年で大きく変わったと思うので、まるで時間が止まったかのようだ。以前は日本人経営だったと思うが、今はどうなんだろうか?

 

張さん

それからバスに乗り、茶葉市場へ。久しぶりに張さんの店へ行く。馬甸橋にある福麗特中国茶城、ここには2007年から通っている。張さんとは紹介されて知り合い、北京時代の我が家のお茶会には殆ど来て頂き、お茶を入れて貰った。その頃出産もあったが、赤ちゃんを連れて、大きく荷物を持って参加してくれたこと、有難かった。

 

この茶城、他と違うのはお茶専門ではない。1階には骨董家具屋があり、そして熱帯魚屋もある。何故この2つが並んでいるのかは分からないが、実はこの2つにはお互い関連性がある。2007年頃から北京の不動産市場は高騰し、家を買う人も増えていた。家を買えば家具を買う。お金持ちは骨董家具を買うケースもある。もう一つ買うもの、それは水槽と熱帯魚。これは主に風水などの影響があるが、熱帯魚がドアの向こうにある家、それは彼らの憧れだったかもしれない。とにかく北京の住宅事情を見る上で、この市場は実に参考になった。

 

張さんの店は毎回行く度に、配置が換わっている。店名が変わっていることもある。それでもこの場所は変わらない。それはそれで凄い。この店に来るといつもダラダラしている。それが茶荘というものだと私は思っている。緊張して、いいお茶を探しまくって、そんなことでよいのだろうか?

 

以前買った福建の紅茶が美味しかったが、もう無かった。冬なので緑茶も買いたくなかった。この店は鉄観音が売りなのだが、私は香港の茶縁坊以外では鉄観音も買わない。そんなことでダラダラしてしまう訳だ。冬場の暇な時期、張さんもいくらで付き合ってくれる。私が駐在していた頃に居た日本人は殆ど帰ってしまった、最近日本人の奥さんと子供は北京に住まなくなっている、など世間話が続く。

バラナシ伝説のGHへ行け2014(6)リキシャで熱風に煽られて

4月29日(火)

ケダーシュワルツロッジとイーバカフェ

その夜は昨日よりかなり慣れて、少し眠りが深かった。もう朝5時に起きてガンジスを眺めなくてもよさそうだ。だが6時半も過ぎると強烈な日差しが空けていた窓から差し込んでくる。ガンジスはそんなに甘くない。簡単には寝かせておいてはくれなかった。昨日と同様8時に朝食を取る。今日の方が人は少なかった。昨日多くの人がチェックアウトし、インド各地やネパールに散って行った。夜中に駅に向かった人もいたようだ。私のようにこの宿の路地すら満足に歩けない者にはバックパッカーは無理だな、と思う。

 

10時頃、昨晩Sさんに教えてもらったケダーシュワルツロッジに行ってみる。ここのオーナーはSさんから日本語を習ったことがあるという。クミコハウスと同じような立地だが、こちらはきれいに改装し、1泊2000-3000rpも取っているという。そうクミコハウスにもそういう可能性はあるのだ。だが、久美子さんもご主人もそういう金儲けには興味がない。それより、如何に安定的に宿を運営していくか、そこに苦心していた。この対照は面白い。

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それにしても午前中とはいえ、ガンジス河畔に照り付ける太陽の強さは尋常ではない。その照り返しで目がおかしくなりそうだ。その日の最高気温は後で聞くと43度だったようだが、体感温度は50度にも達している。そこを歩いているだけで、目が回りそうだ。そんな中、目の前には見事なほどに白い洗濯物が堂々と干されている。その白さがまた眼を焼き付ける。

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日本人が経営しているイーバカフェ、という所にも行ってみる。残念ながらオーナーは不在だったが、彼には著書もあり、このインドで、このバラナシで日本人がビジネスをしていることが良く分かる。このカフェはバラナシとは思えないきれいな内装である。聞けば若いインド人のデートスポットになっているらしい。

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私はこれから空港へ向かい、ムンバイ経由でバンコックまで帰る身。腹ごしらえが必要だとメニューを見れば、『日印奇跡のコラボ』というキャッチコピーに惹かれた。それはカレーうどんだった。確かに食べてみたいと注文、ちょうど料理がやってきたところで間が悪いことにHさんから電話が入り、話しながら食べる羽目に。どうもあまり味のことは覚えていないが、麺はしこしこしていたように思う。

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そしてクミコハウスに戻り、久美子さんに別れを告げて、チェックアウトした。『また来ます』と言ったものの、再度来る機会はあるのだろうか。やはりここはバックパッカーの聖地、私には似合わないような気がした。

 

リキシャで空港へ 暑さに乾く

荷物を引き摺り、路地を歩く。そしてオートリキシャを探す。意外とあっさり450rpで行くという運ちゃんがいたので、乗り込む。これで楽ちん、と思ったのは大間違いだった。リキシャは市内を迷路のように走り出す。そのほこり、車とリキシャの多さ、汗がしたたり落ちた。

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郊外に出るとスピードが出て風が少し入るようになる。これで助かったかと思うと、その熱風のすさまじい暑さ、やはり尋常ではなかった。とても景色を見る余裕などない。速く着いてくれ、その一点だったが、リキシャのスピードは遅く、いつになっても着かない。もう喉が渇いて死にそうだった。砂漠でラクダに乗る人の気持ちがほんの少しわかったような気がした。

 

1時間半ほどかけて空港に着いた時にはもうヘロヘロだった。さて、これでまた運ちゃんが何か言いだし、交渉になったら勝ち目はないと思っていたが、彼は親切にもカートまで持ってきてくれ、最初の料金を受け取ると『サンキュー』と言って戻って行った。何と有難いことだろうか。

 

スパイスジェット 荷物を預けさせられる

空港ロビーに飛び込むと何をおいても飲み物を買いたかったが、そこはインド。セキュリティチェックをしなければ中へ入れない。そのスピードの遅いこと、そして私の荷物について何か言っていたが無視して中へ入る。それほどに疲れていた。

 

今回はLCCのスパイスジェット。1月にバンコック‐プネーを往復しており、印象は悪くない。ところがチェックインの時に『荷物を預けろ』と言われる。これまでジェットもエアインディアも同じ荷物の量で預けろと言われたことはなかった。兎に角飲み物が飲みたかった。それでも無情にもセキュリティチェックに戻された。チェックする人間が『だから言っただろう』と言う。もう頭が回っていなかったのだと思う。意識朦朧、とはこのような状態なのかもしれない。

 

チェックインが完了し、横の売店でコーラと水を買った。水だけでよかったのだが、強烈に甘味を欲していた。両方とも一気に飲み干す。これで生き帰った。その後飛行機の到着が遅れ、出発も1時間遅れたが、ぐったりと休んでいた。インドに9日間にいること、後半の一人旅、疲労が溜まっていたのだろう。ネットも勿論繋がらないのでいい休息になった。

フライトはまずはデリーへ行き、それからそのままムンバイへ。狭い座席、同じ機体で運ばれていった。LCCなので食事などは出ない。途中2回ほど、冷たくない水が配られたのみ。腹が減ったが、大人しくシートに体を沈めることしかできない。

 

ムンバイ空港に驚く

ムンバイに着くと、国際線ターミナルまでシャトルバスに乗る。国内線から国際線までかなりの距離がある。バスに乗るにもチェックがあり、荷物をバスに積み込むとチップを請求される。何ともインドだ。

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そして国際線ターミナル。遠目に見ても実にきれいだ。中へ入ると驚くほどに輝いていた。以前はこんなだっただろうか?チェックインを済ませて、出国審査を終えると、そこはインドではなかった。煌びやかなショッピング街、きれいな通路。驚きの連続である。

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更に驚いたのはそこで私の名前を呼ぶ声に遭遇したこと。何とA師夫人が目の前に立っていた。周りにはタイ人が数人。そうか、今回バンコックからムンバイへ来るときに『タイ人ヨーガツアーご一行』で出くわしていた。帰りは彼女らの方が日程が長かったので会うはずがないと思っていたのだが、当方もバラナシへ行ったため、帰り便も同じになったようだ。これもご縁かもしれない。

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間違って買ってしまったジェットのビジネスクラスチケットのお蔭で、ムンバイのラウンジに潜入。これもまたかなり豪華に出来ており、驚く。食べ物も飲み物も沢山あった。WIFIも繋がる。インドの変化を見る思いがした。

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夜中1時、飛行機に乗り込む。ビジネスクラスも満員。何と隣に座っていたのは日本人だった。彼女が後方にいたので旅行だろう。もう一人日本人ビジネスマンも乗っていた。インドへ行く日本人が増えていく、インドも変わっていく。食事もせずにシートでぐっすり休んだ。

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バラナシ伝説のGHへ行け2014(5)生きることを考える

暑さにバテて考える

午前中とはいえ、街を歩くとかなり体力を消耗した。昨晩よく眠れなかったせいもある。眠気はあるのだが、ベッドに横になっても寝入ることはできない。これは結構苦しい状況だ。ぐったりとしてただただダラダラする。まあ、これもインドかもしれない。昼を食べようという気も起らない。ニュークミコハウスでネットに目をやり、過ごす。

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久美子さんとまた話をする。彼女にとっても、比較的年代の近い私は格好の話し相手だったかもしれない。彼女にとってインドとは何だろう、ぼんやり思うのだが、そんな愚問を発する気にもなれない。それほどにインドは厳しい所であり、そこで生活すること、それが生きることそのものだ、という以外ないように思う。かといって、いまさら日本に帰る気もない。実は日本に住んでいる誰しもが同じような状況であるのだが、日本が幸せすぎて?気づくことは少ない。いや、そんなことはない、日本だって厳しい社会だ。皆薄々感じていながら『日本はいい国だ』と思いたいだけ、かな。

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夕方外へ出た。どうしても冷たい飲み物が欲しい。だがやはり冷蔵庫を備えた店は少ない。あっても電源を切っているか、中の飲み物は冷たくない。結局道端のチャイを飲む羽目になる。まあこれが一番安上がりで安心できる飲み物、と言う訳だ。

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それにしてもバラナシにはなぜ人がこんなにいるのだろうか。勿論インド全体がそうなのであろうが、南インドの山中、ムナールから来た者には、この環境は過酷過ぎた。全てが死を待つ動物のように見える。そしてガンジスがある。生と死を見つめには絶好の場所ということだ。

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バラナシ在住12年はひよっこ

夜はHさんの紹介で連絡を取った日本人女性Sさんと会う。Sさんはバラナシ在住12年、日本語の先生をしているという。このバラナシに12年、それだけでも凄い、と思ってしまうが、当人にはそんな自覚はないようだ。クミコハウスまで迎えに来てもらい、近くのカフェに入る。

 

ここはなんちゃって日本食も食べられるというので、オムライスを頼んでみる。バラナシにはこんな店がいくつもある。昔からバックパッカーが多く、ニーズも高かったようだ。私のオムライスがやってくると、背後から中国人が英語で『それは何だ』と聞いてきたので、中国語で蛋包飯だと伝えると、『美味そうだがコメが入っているのなら食べられない』という。彼は上海から来た名門復旦大学を卒業したという若者。お金はありそうだが、敢えてバックパッカーをしているようだ。

 

だが『インドのコメ』だけは胃腸が受け付けないらしい。そういえばクミコハウスでも電源のコンセントは全てガムテープが張られていた。久美子さんによれば『中国人は炊飯器を持ち込んで自炊する。その電気代はバカにならない』のだとか。中国人は金がないから自炊する、という人もいるのだろうが、実は現地のコメが食べられないから、という理由もあるのではないだろうか。確かにインドは古米を使うため、我々にはなじまない。

 

Sさんは12年前にバラナシにやって来て、日本語を教え、気が付いたら年月が経っていたというが、そんな簡単だろうか。インドで、しかもバラナシで10年以上生きていくのは私から見えれば至難の業だ。だがあるハードルを越えた後は、何とかなっていくのかもしれない。時々は日本に帰るようだが、やはり大変な苦労もあるのだろう。『久美子さんに比べればまだまだです』と笑っていた。

 

食事を終ると既に9時。この付近の店が閉まり始め、ちょっと道を歩くのが怖くなる時間だ。それでもSさんは全く平気な感じで、細い路地を歩いて行った。私にはこの夜道を歩くだけでも大丈夫だろうか、と思ってしまうのだが。

 

バラナシ伝説のGHへ行け2014(4)圧巻 ガンジスの日の出を見る

4月28日(月)

圧巻の日の出

翌朝は5時前に目覚める。何としてもガンジスの朝陽を見ようと思い、起き上がる。皆これを楽しみにここに泊まっていると思い込んでいたが、3階のドミトリーに行ってみると、床に1人が倒れるように眠りこけていた。ベッドには3人しかいない。あとは屋上で待機しているのかと登ってみると、3人は屋上で寝ていた。私の部屋でも相当に暑かったのだから、3階の彼らは暑さに耐えきれず、夜なかから屋上で寝ていたのだろう。何と台湾人のカップルはこんなところで抱き合って寝ていた。愛の力は暑さにも勝つのだろうか。

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猿が入るので付けられた檻を一人で出る。ガンジスが直接目に入る。少しずつ、少しずつ明るくなってきている。この助走は相当に長い。朝陽を眺めるための船も沢山出てきている。だがクミコハウスの屋上から眺めていると、完全にガンジスを独り占めしている感覚になる。それほどに圧巻のビューなのである。

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ついに朝陽が昇り始めた。河面を陽が徐々に照らす。少しずつ大きくなる。どんどん太陽が大きくなる。ふと横を見ると猿が私と同じようにガンジスを眺めていた。鳥たちも同じように眺めている。全てがそこに注ぎ込まれる。とにかくここへ来てよかった、と思う一瞬。

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みんなで朝食

それから1時間ほどはウットリとしたままだった。こんな感覚はとても久しぶりだった。朝ごはんは8時からニュークミコハウスだと聞いていたので、7時半ごろ出掛けた。久美子さんが指揮をして、お手伝いの女性が一生懸命作っていた。何だか色々なものがテーブルに並び始め、宿泊客が集まり始める。

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ニュークミコハウスには韓国人やフランス人、イギリス人からオーストラリア人まで多彩なメンバーが泊まっていた。この朝食の時間が彼らの貴重な情報交換の場なのである。活発な会話が始まっていた。日本人は結局私の他に2人しかいなかった。内の一人はかなり長い間バックパッカーをしているようで、単語を並べるだけの英語ながら、巧みに会話していた。そして韓国人の女性相手に今晩の活動を相談している。ハングルも多少でき、中国語も片言話せる。確かに各国を渡り歩いてきたにおいがする。日本語は完全な関西弁だ。

 

8時にお手伝いさんが大声で階上に向かい『朝ごはんですよー』と日本語で叫んだのには驚いた。これが往年のクミコハウスの名残なのかもしれない。ビュッフェ形式というか、食べたい人が食べたい物を取るというか、面白い。内容も豊富で、トーストあり、パスタあり、カレーあり、卵あり、サラダあり。これで50rpなら、確かにお客は来るだろう。久美子さんも『うちは朝食の良さを売り物にしている』と語っていた。

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椅子に座る者、ソファーに座る者、床に座る者、立って食べる者、それぞれがそれぞれの食べ方をするのも面白い。そして黙って食べる者、携帯をいじる者、大声で話す者、本当に多彩だ。GHに泊まるというのはそういうことだろう。それぞれの価値観を尊重し、窮屈な中で生活を共にする、今の日本人にはそんな生活が段々難しくなってきているように思われる。みんなで朝食、良いコンセプトだ。

 

この日はフランス人の一人が極度の体調不良に陥っていたが、久美子さんと息子が相談の上、彼女をバイクに乗せて医者に連れて行っていた。クミコハウスの狭い路地には車は入ることが出来ず、医者に行く基準はバイクに乗る力があるかどうか、だという。このインドの地で、体が弱っている時にサポートしてくれる人がいるのは何とも心強い。

 

韓国人とメグカフェ

朝食後、出掛けてみる。ベンガルトラと呼ばれる細い路地を歩いて行くと、GHがいくつもある。折角なのでちょっと寄ってみたが、大体どこも似たり寄ったり。まあクーラーを入れたり、WIFIが入ったり、少しずつ変わって来てはいる。

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大きなガートへも行ってみたが、ここは観光客が多かった。近くに大きな寺院があると聞いていたので行ってみたが、パスポートチェックがある上、カメラなど全てを預けない限り、中に入れないと聞き、断念した。

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ガイドブックに載っていた日本人が経営しているというメグカフェを探してみた。初めての場合、本当に路地が入り組んでいるように見えてどこへ行くのも大変だ。ようやく見つけると女性が一人店から出てきた。『開店は10時から』と言われたらしい。あと10分、ということで2人して外で待つ。彼女は韓国人、30歳ぐらいのバックパッカー。ネパールから夜行列車に乗り、何とニュークミコハウスに先ほど投宿したが、時間が早いので荷物を置いて腹ごしらえに来たという。

 

メグカフェは日本人のメグさんがやっていた。お子さんが小さく、今は昼の一時だけ開店しているという。ご主人はインド人、『インドは何をするのも大変』と言いながら、子供をしつけ、従業員を教育し、忙しそうだった。

 

韓国人とアイスティを飲みながら話を続ける。彼女は幼稚園の先生だったが、どうしても旅に出たいとの衝動から辞めて数か月の旅に出た。韓国も日本同様、先生に対する要求が厳しいようだ。一人で旅をすることに抵抗感はまるでなく、過去にも何回かこのような旅をしているらしい。『韓国人バックパッカーはアジアにいくらでもいる』そうだ。

 

メグカフェを出て、彼女の行く所に着いて行ってみた。かなりガイドブックを読み込んでいるようで、すぐに韓国人御用達のヨーグルト屋を見つけて、食べる。なんかその手作り感がいいらしい。店にはハングルや中国語が書かれており、観光客が良く訪れる場所だと分かる。それにして暑くなってきたので、宿に戻ることにした。

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バラナシ伝説のGHへ行け2014(3)夕方の火葬場へ

夕方の火葬場

それから昼寝をした。と言っても寝られるわけではない。暑いのだ。それでもベッドに横たわる。涼しいムナールからこの暑いバラナシへ来るとかなり堪える。キツイ。やはり耐えられない。仕方なく、ニュークミコハウスへ向かう。ここにはWIFIがあり、そしてクーラーもある。それほどクーラーが効いている訳でもないが、あるのとないのでは大違い。部屋の電気は消えており、皆昼寝をしている。

 

夕方までダラダラして、河沿いを歩いて見た。火葬場を見たいとは思わなかったが、『有名なガートは500rpのお布施を要求するけど、反対側の火葬場は無料だ』と久美子さんに教えてもらい、何となく歩いて行く。河岸に降りるとクミコハウスの建物が眼前にそびえたつ。やはりすごいロケーションにあるのだ、この宿は。

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各ガート間の距離はかなり短いが、歩くのは面倒だ。平らに歩けるようにはなっていない。一々階段を上り下り。まだ暑さが残っている夕方、結構堪える。それでも若者たちはこんな斜面でクリケットに興じている。誰がいい当たりをすると球は河に落ちる。それでもみな平然としており、誰かが河に飛び込む。

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観光用のボートが停泊している場所もある。ガンジスの朝陽、夕陽を見るためにボートに乗る人たちがいるのだろう。ガイドブックにも決して騙されないように、と書いてあるが、騙されないようになどできそうにない。インド人でも恐らくは騙されて、いや過剰な料金を支払って乗っている。それも神の思し召し、だと思えばよい。

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沢山の牛が水浴びしていた。牛だって暑いだろう。とても気持ちよさそうで、思わず私も入りたくなる。が、水を眺めれば一遍でその気は失せる。ドロドロとした水面、なかなか厳しそうだ。だが子供たちはお構いなしに楽しそうに水浴びをしている。その無垢な姿に感じるものがある。

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西洋人の女性が階段に腰かけている。すると犬が一匹非常に親しげに近づいて行く。彼女は追い払うことをせず、犬はどんどんスキンシップを図る。キスしようとしているように見える。あれは前世の恋人だろうか。こんな所でないと考えないようなことを考えている。

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ケダーガートという所にヒンズー寺院があった。そろそろ火葬場だろう。と見ると火を焚いているところがあった。特に見ている者もなく、ひっそりと行われている。これが本来だろう。この聖なる河、ガンジスで燃やされる、この人にとって最上の喜び。

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熱風の夜

夕日が沈む前、宿に戻り屋上からガンジスを眺めた。残念ながら夕陽は見られなかったが、良い眺めであることに変わりはない。ずーっと眺めていたかったが、やはり暑さがこみ上げてくる。

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もう一度外へ出た。相変わらず道は分かり難い。ベンガルトラと言われる小道を行けばよいのだが、どうもこの道は苦手だ。何とかもう一つ大きな道へ出ようともがくが、なかなかうまくいかない。最終的に道に出た時にはクタクタに疲れている。そこで何とか冷たい水でもゲットしようと探すのだが、生憎と冷蔵庫などを使っている店は少なく、見付からない。

 

道端でチャイを売っていたので1杯飲む。5rp、これは美味い。暑い時には熱いチャイに限る?暗くなると更に道に迷うので早々に戻るが、また真っ直ぐは帰れない。最近歳のせいか方向感覚が著しく鈍っている。

 

食欲もなく、8時頃にはベッドに入る。天井のファンを回して暑さを凌ごうとしたが、これは完全な間違い。熱風をかき混ぜているだけで、寝ている私の体を直撃しているだけ。更に暑さを感じて寝ることなどできない。蚊が入るのを嫌い、閉めていた窓を1つまた1つと開けるがどうにもならない。

 

天井を回るファンを見つめながら『これは修行なんだ』と言い聞かせる。バックパッカー経験者には皆こんな体験があるのだろう。ただ50歳も過ぎて何故こんなことをしているのだろうか、との疑問はこのような時に炸裂する。昔バックパッカーだった人にとって、この聖地クミコハウスは懐かしい場所だろうが、私にとっては特に思い入れはない。ではなぜ?これは偶然ではなく、必然なのだ、と考えるしかない。羊を数えるより遥か簡単なことをつらつら考えている内に何とか寝入る。

 

バラナシ伝説のGHへ行け2014(2)タクシーに騙されながらも辿り着いたクミコハウス

2.バラナシ

空港タクシーに騙される

バラナシの空港に着いた。周囲に何もない所にドーンと空港を作った感じだ。初めての場所、久しぶりにインドで一人、用心せねば、と空港タクシーを探す。プリペイドタクシーなら大丈夫と思い、そこで行先を告げると手数料を50rp取られ、紙を渡され、運転手を探す。

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タクシーは快調に飛ばす。途中で運ちゃんが『バラナシには何日居るのだ?案内は要らないか?帰りのタクシーは予約したか?』と聞いてきた。警戒して全て不要と断ると、それきり何も言わなくなった。さすが空港タクシー、しつこくないのが良い。そして1時間、どこをどう走ったのか、街中のある場所で運ちゃんは『クミコハウスはあそこの細い路地を入っていくんだ』と指差し、規定の700rpを受け取り、去って行った。チップも要求しない、さすがだと感心。そしてその路地を入って行ったが・・

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3分ぐらい歩いて見たが、それらしいところはない。GHのオジサンが『どこ行くんだ?』と聞いてきたのでクミコハウスというと、『クミコはここではないよ、ずっと遠いよ。大変だからうちに泊りな』と言ってくる。これは客引きの常とう手段と思い躱す。しかしまた歩いて行くと別のオジサンも同じことを言う。じゃあ、ここはどこなんだ?と聞くと『ここはアッシーガートさ』とこともなげに言う。

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アッシーガート、聞き覚えがあった。そう、ラトールさんが『バラナシで行ってはいけない場所』として挙げた地名だった。その理由が『そこでは麻薬が売買され、危険だ』というのだ。本当にここがアッシーなら一刻も早く逃げ出さねば。ただ周囲にそれほど危険な感じはない。

 

オジサンが『クミコへはガンジスをボートで行くしかない。連れて行ってやろう、500rpでどうだ』と言ってくる。確かに誰かにすがらなければこの局面は打開できないが、このオジサンが信用に値するとはとても思えない。取り敢えず車を下りた場所へ戻る。どうやらこの大通りを行けば、近づくとの予感がある。試しにリキシャに聞いてみると100rpで行くという。これで方向性に確信を持ったのでちょっと交渉して50rpでリキシャに乗る。3kmほど行くと運ちゃんがまた、そこの細い路地を行くのが一番早い、という。信じられないが、行くしかない。

 

その路地はアッシーよりも数段汚かった。本当に細い路地で牛のふんが大量に落ちており、ハエがすごかった。若いにいちゃんが声を掛けてきた。クミコハウスまで案内するという。だが断った。それでも彼は付いてきた、というより先導していた。相当な裏道を通り、人の家を通り、階段を上り下り、良い悪いではなく、彼に着いて行くしかなかった。そしてついに・・

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クミコハウスで

ガンジス河が見える位置に、クミコハウスを見た。にいちゃんは本当にチップも要求せずに去って行った。そういうヤツもいるんだな。そして扉を開けるとおじいさんが『いらっしゃい』と日本語で言った。しかし顔は日本人ではなかった。奥に若い女性がいたので久美子さんの所在を訪ねると上だという。

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2階へ上がろうとすると『靴は階段脇に置いて、盗まれるよ』とおじいさんが指示。階段は意外と急、しかも2階ではなく3階まであった。2階は個室が並んでいたが、3階は大部屋。そのトイレを掃除していたのが、だれあろう久美子さんだった。汗まみれになりながら、必死に掃除していた。

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掃除の合間に話を聞き始めた。『私がバラナシへ来たのは38年前。GHを開いたのは37年前。その頃バラナシに住む日本人は私一人。寂しいから日本人バックパッカーに部屋を貸して、日本人と話したかった』と。『この建物のロケーションは最高。何しろ聖なる河ガンジスが一望できるから、インド人にとって泊まりたい場所。でもインド人は信用できない。絶対に貸さない』とも。『日本には30数年前に一度帰ったきり。インドがそんなに好きかって?そんな訳はない。一度2か月帰ったら、その間にインド人に鍵こじ開けられて、住み込まれた。それを追い出すのにどれだけ苦労したか』。いやはや、まさに伝説の人だ。

 

ご主人はインドのカルカッタ出身のベンガル人。東京で芸術関係の学校に通っており久美子さんと知り合った。そしてインドへ戻りバラナシに職を得る。それからずーっとここに住んでいる。1男1女、娘は嫁に行き、息子は嫁を貰った。さっきの女性はお嫁さんだった。息子は『ニュークミコハウス』を近所でやっている。

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この伝説のGHはインドに来るバックパッカーで知りない者はいないというほど有名だったらしい。何しろ今でも過酷なインド、バラナシはネパールから入り、デリーへもカルカッタへも行ける要衝の地。疲れ果てた体で辿り着くと、久美子さん特製のごはんが待っており、日本人しかいない気安さでインドの緊張感がほぐれたとか。常に満員でベッドを押さえるのが難しいとも言われた。

 

ところがここ数年、日本人の若者は来なくなっていた。最近の若者は『個室』『WIFI』『エアコン』を希望するが、クミコハウスには辛うじて個室が4つほど。しかも相当に年季が入っており、最近できた新しいGHに太刀打ちできない。息子はこの3種の神器が揃ったニュークミコハウスをやっている。今どきの若者である。

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日本人の代わりに中国人、韓国人、香港人、台湾人がここを占拠していた。3階の壁には昔の日本語の落書きの横に中国語や韓国語が目立つ。しかも『ここの朝飯は最高!』などとこのGHを誉めているが、久美子さんは『読めないから分からない』と素っ気ない。当日も上海から3人ずれ、台湾の自転車漕ぎ、韓国人カップルも来ていた。日本人は2人いたが、個室に入っていた。

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私は一番良い個室を与えられた。部屋は広いし、小さいがトイレが付いており、水浴びも出来た。ここはかなり暑いのでホットシャワーは不要だった。小さい窓をいくつか開けるとガンジスが開けた。窓から熱い空気が入り込む。1階に下り、風が通るところに座った。お昼を食べていなかったので、聞いてみるとカツ丼が出来るという。久美子さんが嫁さんに教えたとか。試しに食べてみた。インドなので肉がちょっと硬いが、上々。180rpは嫁さんの小遣いになるそうだ。『インド人はタダ働きしないよ』とキッパリ。

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プーケット街歩き2013(2)パトンビーチで不動産投資?

9月10日(火)

朝ごはんはタラートで

ホテルには朝食がないので、街を歩いて探す。フラフラしているとローカル市場が見えたので入る。野菜や肉を売っている普通の市場で地元の人が買い物をしている。そこで朝ごはんを取る。適当に席に着き、適当に食べる。

 

目の前にタイ人の女性が座った。彼女は小さな袋を持っていたが、中からフライドチキンを取り出し、食べ始めた。私と目が合うと黙ってチキンを1つこちらに寄越す。私は黙って、受取り食べる。美味い、笑顔を返すと彼女も笑顔になる。たったそれだけのことだが、一日が幸せな気分になる。

 

パトンビーチ

今回の旅は特にすることがない。今日は丸一日あるので、パトンビーチへ行ってみる。ここはプーケットでもっとも有名なビーチだ。ジョジによれば、バスで小1時間。但し帰りのバスは午後6時までしかなく、それを過ぎたらタクシーに乗る。ただその場合も600b以上は払わないこと、と念を押される。

 

街の真ん中あたりのロータリーの北側にバスが数台停まっていた。その中にパトン行きもあったが、一番立派なバスだった。もっとローカルなバスに乗りたかったが、車掌に促されて乗り込む。30b。安い。

 

街を抜けると、田舎道。途中から山越え。結構アップダウンがある島だったのだ。パトンの街はプーケットタウンより立派で賑わっていた。さすがに観光客が多い。プーケットの産業は観光なのだから仕方がない。

 

ビーチには人影は少ない。やはり雨季なのだ、と思っていると、海上の雲が怪しくなる。慌てて建物の陰に身を潜めたが、物凄い土砂降りとなり、身動きが取れなくなる。皆が逃げ込んでくる。そして不思議な集団となり、黙って空を見上げる。毎日のことなのだろう、タイ人の子供などは嬉しそうに母親に甘えている。

 

30分ぐらいジッとしていると、空が明るくなる。人々が急に動き出す。商売を再開する人、観光を続ける人。私は何もすることがない。ビーチの脇を歩くが特に目ぼしいものもない。街の方も歩いて見るが、特に何も。仕方なくランチを取ることに。

 

ここは観光地、実は物価は高い。高いものを食べても意味がないので、フードコートに行くと、意外と外国人もここで食事をしている。確かに料金がリーズナブルで、きれいな場所だから。ここにトンカツがあったので食べてみる。柔らかくはなく、薄い肉だが、トンカツである。結構満足。

 

プーケットで不動産投資

そしてまた雨が振り出しショッピングモールに逃げ込む。1階にはなぜか不動産販売のブースがいくつもある。何気なく近づくと『暇か』と英語で声がかかる。勿論暇なので話を聞いてみると、パトンビーチでマンションを購入する外国人をターゲットにした販売所であることが分かる。

巧みな話術で色々と説明してくれた。英語が通じること、不動産市況が分かること、そして雨宿りにちょうど良いことから、耳を傾けていると『物件を見に行かないか』と誘ってくる。暇だし、ビーチも飽きたし、そして『帰りはプーケットタウンまで送ってやる』と言われ、行ってみることにする。

案内人が現れたのは30分後。何とスエーデン人だった。タイが好きで住み始め、奥さんもタイ人、そして子供の環境なども考え、バンコックからプーケットにやってきたという。彼の車で3つの物件を見学する。

全てビーチから少し入った物件。そしてこれから完成する新築。現在プレセールをやっていた。マレーシアでもそうだが、タイもプレセールはディカウント価格、そして完成後自分が滞在したいとき以外は人に貸すことが出来る。完全な投資物件として賃貸することも可能。利回りは10数%らしい。40㎡程度で300万バーツ前後、家具や内装には別途費用が掛かる。ちょっと高いと感じる。

投資物件は狭いベッド1つの物件が多い。それは借りる側が大きな部屋を望んでいないから。家族で住む人は少ないらしい。一人かカップル、カップルの中には男性同士も多いとか?一人で来た人も2人になっているケースが多いらしい??1泊2000b程度が良いとか。屋上から海が一望できるところもあり、そこにプールが付いていたりもする。如何にもビーチリゾート。欧米人、最近はロシア人の投資も増えている。パンフにはロシア語もあった。中国人はどうかと聞くと、『彼らは英語が出来ないから来ない』と。中国人専用のブローカー(華人)はきっと別にいるのだろう。

帰りは送ってくれるとの話だったが、彼に急用が出来てしまった。『タクシー代を出すから一人で帰って』と言われたので、それを断り、またバスに乗る。購入もしないのに案内してもらって、その上600bも出してもらうのはちょっとね。バスの車掌がなぜか『写真撮ってやる』というので、1枚収まる。その夜は近くに食堂を見つけ、久しぶりにカオマンガイ(チキンライス)を食べる。

9月11日(水)

キャパオーバーの空港

翌朝はカサブランカでゆっくり過ごす。今日も雨。外に出るのも億劫だ。ジョジによれば『空港までバスが出ている』というので、ホテル近くのバスターミナルまで行く。バスは1₋2時間に一本しかない。80bなら仕方がないか、観光客が乗るというよりは路線バスだ。

 

バスに乗る人は少ない。空港職員と、余程金のない?時間に余裕がある人だけが乗っている。バスはゆっくり進み、途中で多少乗り降りがある。1時間20分ほど掛かって空港へ到着。

 

ノックエアーのカウンターは空いていて、すぐにチャックインできた。だが空港内、特に出発を待つゲート付近は異常なほど込み合っていた。皆待ちくたびれて床に座り込んでいる。さては何か遅延が起こっているなと勝手に思ったのだが、そうではなく、空港のキャパが一杯だということが分かる。

 

元々観光地として有名なプーケット。欧米人や日本人に加え、最近は中国人、韓国人、ロシア人などが大挙して押し寄せてきている。昨日のパトンビーチでもこれらの人が非常に多かった。エアアジアやノックエアーなど、LCCが乗り入れ、益々便利になってきている。だが空港は18年前と変わっていない。現在は雨期で繁忙期ではない。それでこの状態であれば、クリスマスや正月などはどうなるのだろうか。通路まで人が溢れているのだろう。空港の横で何か工事が行われていたが、新たなターミナルでも作っているのだろうか。

 

ノックエアーは何事もなく、バンコックへ戻った。ドムアン空港の最大の問題はLCC空港なのに、市内までのアクセスがタクシーしかなかったことだが、今回降りてみると、何とモーチット行きのバスが出ていた。30b。これは便利なうえ、速い。15分でモーチットに着いてしまった。世の中は進化している。プーケットも進化するだろうか。