「アジア旅」カテゴリーアーカイブ

中国最北端を行く(9)撫遠 寂しい街の豪華なホテル

夕陽が傾く中、列車は動き出し、N教授は買い込んだビールを飲み始める。ハルピン郊外を列車はゆっくり走る。雪の残った田畑、工場などが次々と見えてくる。飛行機にはこのような景色がない。やはり列車の旅は良い。

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その内夕陽が急激に沈み始め、あっという間に闇になった。軟臥は他の車両と隔離されており、向こうから入ってこないように連結部分のドアには鍵をかけていた。車掌に頼んで鍵を開けて貰い食堂車を偵察したが、乗客は満員で廊下にも溢れており、勿論食堂車も満席だった。

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缶ビールを飲んでいたN教授が突然『コップがない』と言い出す。車内販売も来るので問題ないと思っていたが、何と紙コップすら積んでいない。ウオッカを飲むのにビンから直接飲むのは大変だ、と思っていると、器用なN教授はビールの空き缶を自分のナイフで切り、即席のコップを作った。これは凄い能力だ。

 

宋さんはもう一人の乗客と仲良くなり、乾き物を貰っていた。宋さんは人と仲良くなる、人に警戒心を与えない独特の能力がある。これも中国ではすごい才能であり、後にも様々な場面で何度も役立つのである。私は段々眠くなる。N教授はまだ飲んでいる。宋さんもそろそろ寝るというので、消灯。

 

2月21日(金)

翌朝は早く目が覚めた。というより、さすがに良くは眠れない。この列車の到着時刻は午前9時頃だからまだだいぶ時間はある。外は明るくなり、朝日が上がる。もう一人の同行者は夜中に下車したらしく、既に姿がない。朝ごはん用に買ったパンを食べるが、今一つ。

 

宋さんが周囲の乗客と話を始めた。さすがにみんな乗っていることに飽きてきて廊下に出ていた。中にハルピンで商売をしている女性がおり、撫遠まで買い出しに行くという。革製品を扱っているようだが、17時間もかけて買い出しに行くのだから余程儲かるのだろう。帰りも今日の午後の同じ列車で戻るらしい。それは疲れるわ。

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終点、撫遠が近づく。宋さんが地元の人に聞いてきたところ、駅前にはタクシーはいないので、ついでに乗せて行ってやる、という人が出てきた。駅に着くと本当にタクシーはなく、バスが一台待っているだけ。庶民はそのバスに殺到していく。我々が乗った面包車もかなりの年代物。一部の偉い人はいい車が迎えに来ていたが、この辺の経済状況が何となく分かる。

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5.撫遠

豪華な国境ホテル

車で20分ぐらい田舎道を走ると、急にきれいな大通りが見える。大きな河も見える。と、車は立派な建物の前に吸い込まれていく。ここがホテルだった。ロビーも広くて豪華。ところが料金を聞くと僅か200元ちょっと。あり得ない。全くのオフシーズンということなのだろうか。バスで来たMさんもすでに到着しており、合流。

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さて、部屋で少し眠ろうかと思ったが、急に1件面談が入る。このホテルに会いに来るという。彼は宋さんの伝手で会うことが出来たのだが、『自分と会ったことは伏せて欲しい』ということで、ここでは内容は書かない。ただこの国境の街、漠河とは異なり、ちょっと緊張感がある。何故だろうか。

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神の島久高を再訪して(5)那覇 ブクブク茶を飲んでみたが

5月19日(月)

安里市場

翌日はゆっくり起きる。新恵荘では朝早く起きる人はいないので、実にゆったりとした朝を迎える。今日は先輩のNHさんに誘われて、安里市場へ出掛ける。ゆいレールの安里駅で待ち合わせ。実は宿からそんなに遠くないので、歩いて行ってみる。雨が降りそうだが、降らない、そんな天気で暑くなくてよい。

 

待ち合わせ場所には久高合宿で一緒だったKさんもやってきた。沖縄が初めてのようで、合宿後も残って観光しているという。3人で安里市場へ向かう。だが・・、午前中の市場に人影はなかった。閉まっている店も多い。飲み屋系は夕方から店開きらしい。昨日会ったミャンマー人会のチョチョカイさんの店、ロイヤルミャンマーも月曜日定休で閉まっていた。

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この市場は観光者用というより、地元の人が来る場所のようだ。普通の野菜を売っていたり、普通の食堂があったりする。そんな中で足を止めたのが、シーサーの置物を作っているおじさんのところだった。Kさんは昨日からシーサーの置物を探していたらしいが、しっくりくるものがなく、ここで初めてお目当てを見つけた。何だか淡々とした空気が流れる。商売というより、趣味の延長で作っているようで、何とも面白い。反対側には短歌というか、詩というか、が書かれた板が沢山立てかけられている。実に不思議な風景だ。

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牧志

それから牧志の公設市場の方へ向かった。やはり観光客向けの方が色々と選択肢がある。ただそこへ行く途中で、ちょっと目に入ったのが、中華ビュッフェ600円の文字。何だか安い、ということでその食堂へ入る。確かにカウンターに料理が並んでいて皿を取り、おかずを勝手に選ぶ。ご飯とスープも勝手に取る。

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地元のオジサンたちがご飯を食べていた。基本的に常連が来るところらしい。ちょっと奥へ行くと店のおばさんがお客のおばさんと会話していたが、それは何と台湾語だった。しかもお客は台湾ドルで支払っていた。面白い。店の主人は弟さんで彼は台湾語も中国語も出来ない、という。お姉さんは話せた。この姉弟、どんな環境で育ったのだろうか?とても興味深かったが、初対面で突っ込んで聞くのもどうかと。いやあ、海外だと聞けるのに日本だと思うと聞けない。沖縄は日本ではない、と思ってみても、どうもうまくいかない。

 

首里城に行くというKさんと別れ、NHさんと公設市場を目指す。途中で『水上店舗』と書かれた場所があり、ちょっと覗いてみる。2階に上がると、小さな店舗や倉庫が並ぶ。ここは昔、魚などの倉庫だったようだ。この建物の脇(下?)には水が流れていたらしい。何だか不思議だが、今やその様子は分からない。

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公設市場には観光客がいて、海鮮などがふんだんに売られていた。2階には食堂街もあり、そこで調理もしてもらえるらしい。食堂街は賑わっており、席はお客で埋まっていた。その分、何となく沖縄っぽい雰囲気は消えていた。まあそんなものだろう。

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その後NHさんもと別れて、カバンを買いに行く。実は今回北京で買った安物バックのひもが切れてしまった。出来るだけ安い物を買ってきた私であるが、店のご主人に『出来るだけ安くて、ひもが切れない、そして出来るだけ沢山入るもの』をお願いしたところ、『お客さん、沢山物を入れて切れないバッグなんかないよ、それにもし壊れにくい物を探すならそれなりのお金を払わなければダメだよ』と言われ、妙に納得。結局それほど入らない、見栄えは良い、そしてそれなりの値段のするバッグを購入した。それは当然の選択だった、と今は思っている。ありがとう、おじさん。

 

ブクブク茶

それから壺屋やちむん通りへ歩いて行く。ここは陶器で有名な通りらしい。観光客が買い物に訪れる場所。私は昨年お世話になったIさんと待ち合わせ。博物館があったが、今日は月曜日でお休み。少し曲がりくねった道をそろそろと歩く。焼き物が欲しい人には面白い場所かもしれない。

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私が目指したのは喫茶店。道から少しそれて登ると、立派な昔風の家が並んでいた。その1つが店になっており、雰囲気はとても良い。ただ店内の写真を撮ることが禁止されており、とても不思議。沖縄の緩い空間はそこにはない。折角のいい感じなのに残念。

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ここに来た理由は『ぶくぶく茶』を飲むため。沖縄にある伝統的なお茶だが、最近は飲めるところが殆どないらしい。昨年富山のバタバタ茶を訪ねて以来、興味を持っていたのでIさんに頼んで予約してもらった。ただ実際出てきたお茶は、想像とはだいぶ違っており、ただ緑茶を泡立てているだけ、といった様相で、特に面白味はない。お茶の歴史を店の人に聞いても知らないという。何故だろうか?少なくとも一度飲んだ人は二度飲む気は起こらないかもしれない。お菓子が付いて800円はいかにも高い。その価値を理解させる努力がない。

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Iさんと1年ぶりに再会。独立して自分の会社を作った彼女は事業を着々と進めているようで、頼もしい。中国関連の仕事も今年はだいぶんやり易いようだ。昨年に比べて元気だし、忙しいそうだった。1時間半ぐらい話をしていると、店の人が『この後に団体の予約があるので』と言って追い出された。全く沖縄っぽくない、とんでもない喫茶店でお茶を飲んだものだ。

 

夜は琉球舞踊のTさんと再会。4月から勤め始めた彼女と県庁前で合流し、沖縄料理屋へ。昼間一緒だったKさんも同行した。何だかとても美味しい料理が出てきて感激した。何となくお腹が空いていたのか、モリモリ食べた。

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沖縄の伝統芸能、サンシン奏者などの育成が話題となる。Kさんは昨晩沖縄民謡などが効けるレストランで食事したようだが、そのような場所でサンシン奏者はバイトして、何とか学費や生活費を稼いでいるようだ。伝統芸能を守ること、それは言うほどやさしいことではない。

 

食後、Kさんと国際通りを歩き、塩アイスを食べる。Kさんが居なければ恐らくは手を出さなかっただろうが、意外とおいしい。観光客気分に浸る。私の旅が如何に観光からかけ離れているかが分かる。

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中国最北端を行く(8)ハルピン2 17時間の列車の旅へ

4.ハルピン2

東北料理は大皿

夕飯はN教授と2人で向かいへ。餃子屋の隣にもレストランがあったので行ってみる。そこは地下になっており、部屋が沢山並んでいたが、その奥に普通のスペースがあり、メニューはなく、自分で見て選ぶようになっている。これは漠河でもそうだったので、基本的に黒龍江省のレストランはこのような仕組みなのだろう。

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野菜や魚が並んでいたが、それほど沢山食えないので、涼皮と鶏野菜炒めを頼む。だがここは東北料理、皿が大きい。これが特徴なのだが、2人ではとても食べきれない。N教授がビールを3本飲んでいる間にお客は殆どいなくなり、店員も休憩モードに入った。ほとんどが若者。会計を頼んでも、担当がいないのか、なかなか持ってこない。若者たちは携帯に目をやり、人の話など聞いていない。全員がゲームをやっていた。

 

 

表に出ると電光掲示板に『点菜員、伝菜員、迎賓員』の募集が出ている。こんな区別があったのか。点菜員は注文を取る人。この役割が一番重要で、お客の要望を聞きながら、如何に高い物を食べさせるかを問われる。頭が良くて愛想がよい子が雇われるのだろう。実際我々を担当した子もそんな感じだった。

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伝菜員は料理を運ぶという一番簡単な仕事。きっと給料も高くはない。迎賓員は入口でお客を迎える係、容姿端麗が条件か。これだけ分業が進むと、給与条件も違ってきており、給与の安い子はゲームなどして憂さを晴らすのかもしれない。

 

2月20日(木)

スーパーと本屋

翌日午前中はハルピンに居るので、スーパーに買い物に。N教授が今晩からの列車の旅に是非ともウオッカを飲みたいということで出掛けたが、スーパーには売っていなかった。昔はハルピンならロシアの物が手に入るという感覚があったのだが。今は儲かる物、売れる物を中心に商売するということか。

 

ホテルのすぐ近くに新華書店があったので立ち寄る。黒竜江省の統計資料などをさがすN教授。毎回の光景だ。私も一緒に黒龍江省の歴史に関する本など探した。この本屋は入口が小さかったが奥行きはかなりあり、どこに本があるのか分かり難かった。

 

お昼は宋さんが同僚の大学教授を呼んでくれ、会食。この教授はロシア関係が専門で、色々な話が聞けた。今回我々が訪ねた漠河、これから行く撫遠は共に、中ロ国境にありながらも、両国関係が希薄な場所だとか。

 

極東におけるロシアは過度に中国を警戒しているので、両国関係は簡単には進まない。中国は現状ロシアから石油を輸入しているが、隙があればシベリアでの権益を伸ばしたい。ロシアもシベリア開発をしたいが、中国を使うと後が怖い。ロシア側はむしろ日本をうまく使って開発したいが、北方領土問題が絡んでくる。難しい状況で、進展がない。

 

地下鉄で東駅へ

午後ハルピン東駅に向かった。昔長距離列車は全てハルピン駅を起点にしていたが、最近はどこの都市でも同じように、東だ北だ西だ、と駅が分散している。我々がこれから向かう撫遠は中国最東端、ということか、列車は東から出る。

 

宋さんは節約を第一としている。これは私のとっては大変好ましいことだ。今回は昨年開通したばかりの地下鉄で行くという。その方がタクシーを拾う手間、渋滞を避け、しかも安いとか。地下鉄の駅までもホテルからそう遠くない。実に便利だ。

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駅は出来たばかりということできれいだし、またちょっとおしゃれな造りとなっている。鉄道駅の南駅から東駅までを結んでいる。切符の自動販売機は故障しており、係員から買う。4元。30分ぐらい乗っていると東駅に着いた。ここも比較的新しいのだろう。

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17時間の列車の旅

かなり余裕を持って出発したため、駅ではかなりの時間があった。我々は軟臥という一等寝台なので、専用の休息室があり、そこへ入る。そこには他の列車の乗客も含めて既にかなりの人がいたが、皆大きな荷物を席に置き、また3席分に1人が寝そべっており、座る場所が見付からない。すると駅員が大声で『荷物を卸せ、場所を空けろ、皆で座れ!』と命令口調で言う。日本の駅員なら至極丁寧に慇懃な態度を見せるだろうが、それでは誰も言うことを聞かない中国。このくらい言ってようやく席が空く。

 

外の混雑はこの部屋の比ではない。まるで26年前を彷彿とさせるような混み具合で、乗車のかなり前から長い列が出来ている。そして次々に列車が発車していく。それでも人は一向に減らない。

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いよいよ我々の番が来てホームへ人がなだれ込む。急がなくても席は決まっているのに、と思ったが、中には席の無い『無座』の切符を持っている人もいるのかもしれない。列車は27年前満州里へ行くために乗ったものとほぼ同じだった。緑の古ぼけた車両が何とも懐かしい。ただ中には一両が上下二段になっている車両もあり、そこが新しかった。

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我々の軟臥は4人部屋。実は参加表明が遅れたMさんはこの切符を手に入れられず、飛行機とバスを乗り継いで撫遠へ向かっている。ということは誰か知らない人が一人来るのである。その一人はオジサンだったが、上の段に登り、下りて来なかった。

 

中国最北端を行く(7)漠河 最北端の北極村へ

2月19日(水)

最北端の北極村へ

翌朝は宿泊客もいたようで、ビュッフェの朝食であった。と言っても出ている物は、粥とマントウ、トウモロコシなど。それでも広い宴会場で食べる方が部屋で食べるよりははるかに良い。

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そして今回の主目的である北極村へ向かう。北極村は漠河から60㎞離れたロシア国境の村。中国最北端の村という売り文句で、観光地化されていると聞き、どのようなものか見に行った。一昨年整ったという一直線の道。まさにこの村の為にできたようで、曲がりがない。雪が積もる両脇、きちんと雪かきされて快適なドライブだった。

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北極村はテーマパークではあるが、その面積は相当に広い。とても歩いては回れない。我々以外に何組か、中国人観光客が来ていたが、全て車で移動し、ポイントで降りて写真を撮る。札幌雪祭りのような雪のモニュメントがあり、黒龍江に沿って、置かれている。

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一番のポイントはやはり河向うにロシアを見ること。勿論河は一面氷ついており、向こう岸まで歩いて渡れる。河の中間近くまで行くと『この先国境線、旅行客は停まれ!』との表示があるが、時々その警告を無視して、線を越えて、向こう岸まで行く中国人がいるらしい。『この10年で10人ほどが撃ち殺されている』と説明されると、何といってよいか分からない。

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如何にも中国人らしい、ともいえるが、向こう岸には何もなく、誰もいないように見えるので、つい行ってしまう気持ちも分からなくはない。しかし実際にはロシア側には見えないように歩哨がいる。彼らはどこに潜んでいるのだろう、いつ中国が大量の人民を送り込んでくるか分からない、双方命がけだ。

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北極村は『中国でオーロラが見える場所』としても売り込んでいるらしい。冬はともかく夏は見ることが出来るのかと地元の人に聞いてみたが『生まれてこの方、殆ど見たことはない』という答え。オーロラを見ることはそう簡単ではないらしい。しかしそうなるとこの村を観光する意味はどこまであるのか、ちょっと疑問。

 

帰りに金山の跡にも行ってみる。ここは1860年頃金鉱が発見され、ゴールドラッシュが起こったところ。この時期は清国が弱体化し、ロシアに押されていた時代。金鉱により、人口が増え、国境の守りにもつながったらしい。李金庸という人物が顕彰されているので、彼がこの領土を守ったのかもしれない。この時期、山東あたりから多くの移民が出始めている。ここまで来たかどうか分からないが、とにかく人口の移動は重要な要素だと思われる。

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漠河、最後の昼飯。皆で美味しく食べる。小魚のフライが特に美味い。この北の果てで魚が美味いとは。やはり来て実際に見てみなければわからない。でも前回モンゴルに行った時もセレンゲで食べた魚の燻製はとても美味かった。刺身を食べようとしなければ、その土地ごとに、美味しい魚料理はあるということか。

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黒河経由でハルピンへ

そしてとうとうお別れが来た。ギリギリの時間に空港に行ったが、まだゲートは開いていなかった。基本的に便数が少ないので、みんなギリギリに来て乗る。まるでバスのようだ。飛行機へは歩いて向かい、タラップを上がる。漠河は僅か2泊3日だったが、何となく感慨深いものがある。

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フライトは着た時とは逆ルートで、黒河経由で戻る。行きは機内に閉じ込められたが、帰りは早く着き過ぎたようで、待合室へ。と言っても何があるわけではないが、ここで乗る乗客の到着を待っている。飛行機に戻る時、でっかい夕陽が沈んだ。

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ハルピンに戻ると、とっくに日は暮れており、夜になっていた。また3日前の道を同じホテルに戻る。ここに大きなスーツケースを預けて、起点として活用している。だが今日の部屋はなぜか狭かった。

 

神の島久高を再訪して(4)那覇 沖縄ミャンマー人会に飛び入り参加

5月18日(日)

4.那覇

ミャンマー人新年会に飛び入り参加

久高島合宿が終わり、フェリーで本島へ戻る。今回は大学の先輩であるNHさんと一緒と言うこともあり、昨年のこの合宿でご一緒した同窓のNIさんと引き合わせることにした。NHさんとNIさんはほぼ同じ時期に大学のキャンパスにいたが、語科が違うため、会ったことはないという。だがNHさんのご主人はNIさんの高校の先輩だということが分かり、不思議なご縁を感じる。

 

フェリーターミナルではかなり強い雨が降っていた。NIさんは車で迎えに来てくれており、濡れずに済んだ。有難かった。ところで今日はどこへ行くかと言うと、突然『沖縄県ミャンマー人会の新年会』に参加することになっていた。それはNIさんが急にその会からお誘いを受け、参加義務があり、我々にも機会が与えられたということだ。何だか面白い。

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車は雨の中、市内へ向かった。ある学校の校舎、その中で会は始まっていた。沖縄にミャンマー人がそんなに沢山いるの?とちょっと不思議だったのだが、会場ではミャンマー料理が振る舞われ、ミャンマーの人々が色々と世話を焼いてくれていた。ミャンマー人の会と言うより、ミャンマーのことを日本人に知らせる会、と言う雰囲気だった。老人から子供まで大勢の人が会場に集まっていて驚いた。

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ミャンマーの正月、水かけ祭りはタイと同じ4月に行われるが、今日の会は先月会場の都合で延期されたものだった。まさか我々を待っていたはずもないが、何ともご縁を感じる。久高のフェリーを下りると、そこはミャンマーだった、なんて何とも劇的。

 

ミャンマー料理はとても美味しかった。特に麺、スープは抜群、ミャンマーでもこんなに美味い麺は食べたことはなかった。同行したNHさんも驚いていた。ミャンマーの人が集まって作ったのだろうか、と思っていると、何とこの会の会長さんが那覇の安里市場にミャンマー料理屋さんを出しているとか。その会長さん、チョチョカイさんに話を聞くと『初めは仙台に行ったが、寒くてダメだった。沖縄は天気も人も暖かく、ミャンマー人にとって最高の場所』という。単に気候だけではなく、雰囲気も南国だからだろう。そして彼女は沖縄の大学で教育法を学び、ミャンマーに学校を建てたというのだ。『日本の教育をミャンマーで実践してみたい』と言う話、とても興味を持つ。

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会は、チョチョカイさんの挨拶、ミャンマーの歌と踊り、なぜかNIさんの多言語による歌唱(なぜNIさんがこの会に呼ばれたかはよく分かる熱演、バカウケ)、ミャンマーを知るクイズ、などが行われ、実に和やかな日本とミャンマー交流会であった。ここに我々が参加していることは不思議でもあり、必然でもあった。

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その後NHさん、NIさんと3人でお茶を飲む。同窓で、ほぼ同じ時期にキャンパスに居た、と言っても、三者三様であり、接点はあまりない(いや、NHさんは私の部活の先輩だから大いに接点はある)。沖縄でこの三人が出会う、というのも面白い。NHさんはイタリア語の翻訳が専門だし、NIさんはベトナム語を教えている。

 

Oさんと一杯

宿に帰る。書置き1つで置いていった荷物もちゃんと保管されていた。『ああ、帰ってくると思ったよ』とおばさん。その周囲には3人の台湾人おばさんがおり、台湾語でおしゃべりしていた。『あんたも話すかい』と言われたが遠慮しておいた。どうやら台湾と沖縄の間を行き来して商売している人たちらしい。

 

相変わらず雨が降っている。雨が降るとこの宿は実に湿っぽい。それでもWIFIが繋がるので、しばしネットを繋いだ。久高島ではネットはロビーのみで、かつ時間的な余裕は殆どなかったので、色々な処理をしていたら、時間はどんどん過ぎて行った。ネットに縛られた生活、と思いながら、現実から抜け出せない。久高はやはり幻か?

 

今晩は昨年も会ったラジオ局アナウンサーのOさんと会うことになっていた。指定された場所は意外と分かり難い。私はスマホなど持ち歩かないから、何とも良く分からないが、牧志の市場を抜けて住所を頼りに歩いて行く。そして何とかその飲み屋を見つけた。入っていくと、マスターとOさんが『よく見つけましたね』と。やはり分かり難い場所だったんだ、地元の人にも。まあご縁があれば見付かるもの。

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このお店、こじんまりしているが雰囲気は良い。常連さんが来る店、と言う感じだ。オーナーも沖縄の方ではなく、置いてあるお酒も内地の物が多い。『ビールはオリオン以外を飲みたいですよ、オリオンはいつでも飲めますから』という。そんな沖縄の人たちが来るのだろう。イギリスあたりのパブのように全てその場で現金精算。まあ日本なので、カウンターに2000円置いて飲む。これも面白い。つまみのセットが実に美味しかった。まあ久高のあっさりしたご飯の後なので、若干こってりしたものが欲しかったのだろう。

 

実は私は夕方宿で食べていた。久高の宿では昼ごはんとして、美味しいご飯を皮に包んで渡してくれていたが、ミャンマーの会の関係で食べることが出来なかった。しかしもったいないと思い、食べてしまったのである。昨年同様実に味わい深く、美味しかったが、相変わらずボリュームあり。夜はあっさり、酒を飲み、つまみだけで終わった。ちょうど良かった。今日の人生は上手く回っている。

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Oさんとは沖縄の現状、の話でも伺おうかと思っていたが、話があちこちに飛び、最後はミャンマー料理の話にまでなった。オーナーも安里にミャンマー料理屋が出来たことは聞いており、一度行ってみたい、と言い出した。ご縁と言うものはやはり繋がるのだろう。店に常連さんが何人かやってきた頃、退散した。雨は上がっており、スッキリしていた。沖縄そば、と書かれた看板を見ると食べたくなったが、体調も考え自重した。

 

神の島久高を再訪して(3)久高島 久高の掟

3.久高島 5月14日(木)昼‐18日(土)昼前

 

天気はいつの間にか快晴になっていた。チケットを買い、これまでのヨーガ合宿で一緒だった皆さんとご挨拶、そしてフェリーに乗り込む。昨年は波が高く、大揺れだったが、今年はそれもなく20分ちょっとで島に着いた。荷物は車で運んでもらい、歩いて交流館へ。昨年も来たのに、道を覚えていない。散歩もしなかったからだろう。

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宿泊先の交流館、特に何も変わっていなかった。A師夫妻は昨日先着しており、早々に昼ごはんに行く。港まで戻り、これまた昨年同様のレストランでチャンプルを食べる。午後には参加者が大体集まり、合宿がスタートした。

 

昨年の久高島 ⇒ http://www.chatabi.net/asiatabi/2620.html

 

ヨーガ合宿

ヨーガ合宿の細かい内容はここに記さない。ただ朝は5時過ぎに起きて、5時半から30分瞑想、6-8時はアーサナ、プラナヤーマ、8-9時はティータイム、9‐12時は講義、12時からランチ、そして休息。14‐16時は講義、それからアーサナ。夕飯の後はまた講義。今回は久高オデッセイと言うドキュメンタリー映画を見る。

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食事は日に2回。島のおばあが作ってくれる。島で食べられている海鮮類や海ぶどう、野菜類などが実に健康的に口に運ばれる。『食事の美味い場所で合宿をする』がA師の考え方。合宿は苦行ではないので、美味しい物を食べて健康的に過ごす、いいやり方だ。この合宿のように朝早く起き、規則正しい生活をし、健康的で美味しい物を食べていれば、ヨーガをやらなくても(すみません)健康になれそうな気分になる。

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因みにこの合宿の参加者は25名程度。男性は少ない。私の部屋は3人で寝ているが、一人は3年前の穂高で一緒だった金融マンM氏、そしてもう一人はインドでも修行してきた若手のHさん。彼は現在宮古島の横にある伊良部島に住んでおり、偶々休みがあってここに来たという。面白い。

 

4泊5日と言ってもあっという間に過ぎてしまう。スケジュールがかなりきつい合宿なので、今回も自分でゆっくりと島を回る時間はなかった。次回は合宿前か、後に一人で散歩してみたい、そんな日程を立てたい。

 

久高島について

この島で脈々と受け継がれてきた伝統。それは『神の島』であるということ。海岸の石ころ1つ、木の枝一本、島から持ち出すことは許されていない。それは神のものだから。島の木も勝手に切ってはいけない。神に許しを請う祈りを捧げた後、必要分だけ切る。だから島に残る原生林。

 

男は海に出て海人となり、神に使えるのは女。12年に一度行われる、島で生まれ育った三十歳以上の既婚女性が神女(神職者)となるための儀礼がイザイホー。ただこの儀式、既に過疎化したこの村には該当者がなく、1978年以来行われていない。600年以上の歴史を持つこの儀式、当然伝統を守るためと称して、該当者が無ければ条件を緩めそうなものだが、『神が決めたことを人間は変えられない』との理由で、変更はなく、12年に一度に当たる今年も『中止』が伝えられている。

 

16日午後には恒例の久高島散歩があった。昨年同様案内人のYさんが登場し、相変わらずのギャグを飛ばす。前回同様島を巡り、御嶽へ。御嶽の字は当て字、本当はうた気、気のある場所であろうという。御嶽には目印となる石以外全く何もないという。我々は入ることが出来ないので確かめようはない。きれいな海辺へも行く。この海、なかなかいい。

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『平等とは何か』を考えた。島では男が15歳になると300坪の土地がもらえる伝統があるが、その土地は10区画に分かれている。台風などの被害を避けるための分散、などとの説明もあったが、一番の理由は『平等な分配』ではなかったろうか。男は海に出るので畑は女の仕事。10か所にも分かれた土地を耕すのは如何にも効率が悪いが、逆に言えば『平等とは効率の悪いもの』と言うことを我々に教えてくれる。力のあるものがいい場所を占拠してしまう世の中、実に原始的な、平等主義がここに見られる。

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因みにこの島では月1度以上、祭事が執り行われており、その時は入ってはいけない場所が存在する。最近はパワースポットなどと言われ、時折観光客がやってくるが、単に島を回っただけでは、都会暮らしの我々には何も感じることはできず、何も見えないだろう、と思う。黙って毎年通う、それが良い。

中国最北端を行く(6)漠河 農林業の現状は厳しい

大火災のあった街

部屋で暖を取っていると、ドアがノックされ、朝食が届けられた。何と宿泊客が少ないため、朝食ビュッフェは開かれず、食事が部屋に届けられてきた。マントウに茹で卵、とにかく暖かいものを腹に入れたかったので、夢中で食べた。体力の消耗には食事も有効だ。

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それにしても泊まっている人が殆どいない。何故こんなところにホテルを作ったのかと思ったが、このホテルは杭州で訪ねたことがあるホテル集団の所有だった。ここだけではなく、海南島などリゾート地に物件も持っていたが、この北の果てを投資先に選んだ理由は分からなかった。勿論夏はそれなりに人が来て、採算は合うのだろうが。

 

朝食後にホテルを出た。先ずは松苑と言われる公園に行く。ここには松林が茂っているだけだが、なぜ来たのだろうか。実はここに漠河の歴史が詰まっていた。1987年5月、大興安嶺一帯では大火災が発生し、何とここ漠河はこの松林を残して、街ごと全焼してしまったという惨事があった。

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何故この街が整然と作られているのか、その理由も良く分かる。古いものは全て焼けてしまったからなのだ。そして歴史の偶然か、まさにその火事の時、私はハルピンからロシア国境の満州里を目指して、鉄道に乗っていたのだ。車掌から火事の話を聞いても、正直ピンと来なかった。そんな大規模な火事がある、ということを日本しか知らない私には理解できなかったのだ。

 

その後宋さんの親戚のお世話で県庁を訪問。副県長さんと会う。まだ比較的若い官僚だが、中国では普通。日本が年寄り過ぎるんだ、と思う。しかもジャージ姿で親近感が持てる。勿論突然訪問したこちらが悪いのだが、それでも会ってくれるところが良い。

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この地域の産業は残念ながらあまりなく、ロシアとの往来も意外なほどないということが分かる。続いて商務局も訪ねたが、商務というものがあまりない。外資系企業を誘致するなどという発想もあまりないのだろう。ロシアとの貿易を聞いても、『ほとんどない。あるのは木材だけだがそれも・・』という感じ。書店に行っても統計資料すらない。

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昼は清真火鍋屋へ。これもあっさりしていて美味しかった。ただ真冬の漠河、野菜は決して多くはない。きくらげ、豆腐、などが入ってくる。スープの味は良く、寒い中ではとても温まる。

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農林業の現状

午後は昨日周囲だけ回った家具工場へ行く。宋さんの親戚のオジサン、なかなかの実力者で、案内を買って出てくれた。『大興安嶺神州北極木業』という会社の子会社が、この家具工場の名前。何だか大仰な名前だが、やはりこの辺の木材を使って家具を作る会社だった。

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オフィスは木目調の立派な造りだった。だが責任者に話を聞くと、『今年からこの辺の木を切ることは法律で禁止された。ロシアから材料を入れるのも苦労している。先行きは不透明だ』と暗い表情。確かに安い材料と加工賃でやってきた工場にとって、既にコストは高くなり過ぎなのだろう。

 

次にブルーベリー飲料工場へ。野生のブルーベリーを使っているということで、農業関係のMさんは興味津々。正直ブルーベリーが野生で生えていても、それを産業化するほどとれるとはとても思えない。だがこの工場では季節性の強い野生のブルーベリーを集め、飲料を作っているという。Mさんの商売から見えれば単位未満だし、安定性もないというが、野生のブルーベリーの質は高い。

 

ここではキノコを使った菌茶というのも作っていた。正直味は、うーん、であるが、様々な工夫はされている。生き残るには何でもしないといけない。漢方系飲料、健康には良いということだったが、その効果はいかほどか。

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また広い敷地には立派なログハウスがいくつも建っていた。夏の間泊りに来るお客の為に作ったらしいが、これはとてもよさそうに見えた。是非夏に来て泊まりたい。いや、冬でも室内が温かいのであれば、何もしなくても滞在していたいような雰囲気を持っていた。こちらの方がビジネスになるのでは?これも木材が調達できなければ作ることはできないということか。

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実は案内してくれたオジサンはこの付近で林業を行う林場と呼ばれる生産集団の責任者の一人だった。林場というのは、昔の人民公社のようなものか。この街の林業が変わっていくということは林場の役割が変わるということであり、そこでは働く人々の仕事に大きな影響があるということ。

 

この林場では、新たな試みとして、きくらげ栽培を始めていた。余っている土地の倉庫を使い、きくらげを育てている。きくらげなら室内栽培であり、温度管理などを行えば、育てられるらしい。とは言っても基本的には春から夏にかけて、外で作るようで、その枠組みが途中まで出来ていた。

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この事業は街の事業であり、500万元を投資して、きくらげやキノコを栽培し、林業からの転換を図るというもの。オジサンは責任者として、この事業に賭けるという。うまくいくことを願っている。夜はオジサンが地元料理に付き合ってくれた。親戚に大学教授がいる、というのは何かと便利。今後ハルピンで相談する相手が出来たと喜んでいた。

 

神の島久高を再訪して(2)那覇 リタイア生活を始めた後輩

2.那覇

雨の那覇 新恵荘

そんなことを考えている内に3時間弱のフライトは終わり那覇へ着いた。これまた昨年同様、ゆいレールに揺られて市内へ向かう。美栄橋という駅で降りるとすごい雨。どう行けば宿に着くか良く分かっていなかったが、国際通りに向かって走る。結構濡れた。

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今日の宿は新恵荘。ここは台北のHさんが先日泊まり、気に入ったとかで、私の為にわざわざ予約してくれていた。通りから少し入った場所。正直入口が分からず、隣の家に入ってしまった。何とか玄関口に辿り着き、『予約しています』と言うと、オジサンが『今日予約なんかあったっけー?』と。えー?『楽天?』、いやネットじゃなくて?この辺は沖縄らしい間合いだ。

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ホワイトボードを見るとちゃんと今日の日付に私の名前があった。『あー、あるねー。最近はみんなネットだからさー』と言われる。部屋はどこでも使ってよ、開いているからさー。と言う訳で2階の角の部屋になった。今は雨期でオフシーズン。

 

この部屋は畳で6畳はある。だが結構湿っぽい。雨季なのだ。窓はあるが網戸は壊れている。でも問題はなさそうだ。個室で1泊、2000円。。既に外は暗くなってきている。それに雨だ。仕方がない。濡れた服を着替えて、早々に出掛ける。

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Hさんと再会

今晩はHさんと約束していた。彼は元勤め先の1年後輩。入社の時から知っている国際畑。私が辞めた時はロンドンに駐在しており、てっきりまだロンドンにいると思っていた昨年、元上司から『H君、会社辞めて沖縄にいるよ』と言われて驚いた。まあお互い辞めた身、どうしているか会ってみたいと思った。

 

場所はなぜかイタリアン。まあそれもいいか。国際通りを突き抜けて少し行くとお洒落な店があった。どうしてここを選んだのかと聞くと『実は現在読谷村に住んでおり、那覇に出て来ることは稀。嫁さんの勧めに従った』のだとか。そうか、読谷村か、那覇から車で1時間はかかる。彼は昨年ロンドンからいきなりここへ引っ越したらしい。意外と大胆な行動派なんだな。

 

彼は特に仕事はせずにリタイア生活を送っていた。お子さんが小さく、その面倒を見て楽しく暮らしているという。恐らくはこの移住には生活環境なども考慮されたのだろう。1つの理想的なリタイア生活だ。読谷村あたりは米軍の家族などが住んでいた1軒屋があり、地元住民も外から来た人々に慣れており、意外と住み心地が良いという。

 

ここのイタリアン、なかなか美味い。前菜のセットだけでお腹が一杯になる。最近は酒を飲むこともあまりなく炭水化物系を多くとっていたが、酒のつまみだけでサラッと夜を終わらせるのも良いのかもしれない。何だか昔話だの、昨今の旅の話だの、してしまった。ここで会えるとは思ってもいなかった再会。こういう出会いが嬉しい。愉快な夜を過ごした。

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夜10時過ぎ、雨は上がっていた。我が宿の近くまで歩いて行く。気持ちの良い夜だった。那覇は駐車場を探すのが大変だ、と言い残し、Hさんは読谷村へ帰っていた。次回は彼の住む地域に足を踏み入れよう。

 

5月14日(水)

合同タクシーで

翌朝は6時台に起き、コンビニに朝ごはんを買いに行く。普段は朝飯を食べないこともあるが、昨年のこともありちゃんと久高島へ渡れるか、一抹の不安があり、食事を取っておくことにした。ただ付近にコンビニがなく、国際通りまで出る。ここまで来るといくつものコンビニがあり、より取り見取り。

 

8時前には宿をチェックアウト、と言っても誰も起きていないようなので、メモを残して鍵を置いて去る。荷物を預かってもらう必要があったのだ。おばさんが一人、歯を磨いていたが、何と台湾人のお客さんだった。でも日本語は出来た。古き良き台湾を思わせる。一応このおばさんにも言伝を頼んだ。

 

そして荷物を引いて県庁前へ。これも昨年と全く同じパターン。Tさんが全ての車の手配をしてくれており、我々はそれに乗っかるだけだった。楽ちんだ。10数人が集まり、2台のタクシーで。運転手さんを見ると、昨年もお世話になった人だった。昨年メンバーのお気に入りの運転手さんとなっていた。

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8時20分、前回より少しゆっくり目にスタートしたがやはり9時過ぎには港に着いてしまった。昨年はここで10時のフェリーの欠航が分かり、セーファー御嶽へ。それはそれでよかったのだが2年連続は困る。今回は時期が少し早かったため、船のドック入りにはなっていなかった。

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中国最北端を行く(5)漠河 零下37度 早朝死の彷徨 

3.漠河

客のいないホテル

車で市内へ。特に何もない道を行く。すぐに街に入った。街が異常にきれいで、街並みが揃っている。何だか不思議だ。この辺ではいいホテルだという金馬飯店に入る。確かにいいホテルだったが、人気は全くない。

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直ぐに昼飯へ。N教授が『魚が食べたい』というので、頼んでみたが、これがなかなか美味い。氷を割り、その下を泳ぐ魚を釣ってくるのだという。脂が乗っていた。熊の肉も出てきた。この辺でも珍しいらしい。豆腐も美味い。この北の果て、食事には問題がないことが良く分かってホッとした。辺境ではあるが、ここには少数民族はいない。ロシア人もいない。純粋な漢民族の街なのである。

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食後、先ずは鉄道駅へ行った。ここは中国で一番北にある駅だという。一日1便が通るらしい。貨物駅としてそこそこ機能しているようだが、正直景色は寂しい。ここからロシアへ繋がっていれば貿易なども生まれるのだろうが、残念ながらこの先もう1つの駅で途絶えている。漠河の位置づけが、ロシアではなく、中国国内に向いていることを示している。

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家具工場突撃

石炭を積んでいる場所へも行ってみた。未だに石炭の採掘はあるが、価格が大幅に下落しているので、採算は合っていないように思われる。夕暮れ時、黒々とした石炭が積まれている光景は異様。雪も積もっており、下は凍っていて滑る。

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運転している宋さんの親戚に『この辺に企業はないか』と聞いてみたが、うーんと首を捻る。そして、そういえば、という顔で車を進める。車はランドクルーザーである。そして暗闇の中、工場の前に着いた。いきなり中へ入れろ、というと、警備員がどこかへ電話し、『既に工場は閉まっている。車で回るだけならよい』ということで、1周した。木材が積まれており、どうやら家具工場らしい。この辺で切り出された木材で家具を作る、ということか。

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夜はとても静かなホテルで熟睡する。そして翌朝の夜明け前を狙い、5時半に起床。いよいよこれまで体験したことのない、寒さの中に踏み出してみる。

 

2月18日(火)

零下37度 早朝死の彷徨

外へ出るとまだ暗い。そして思ったほど寒くはない。勿論ダウンの上にオーバーコート、下にはズボンの上にオーバーズボン、靴下を重ね履き、そして足先ホカロンも入れて完璧な服装だった。

 

『夜明け前が一番寒い』という言葉通り、息は白いを通り越して、メガネは曇って見えない。デジカメは最初の10分で電池が凍結、動かなくなる。大通りには結構人影があるが、どうやら全て観光目的の人だ。地元の人は敢えてこの時間に外出はしない。

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20分ぐらい歩いて行くと、かなり疲れてきた。Mさんからは何度も『20分歩いたら、戻るのにも20分かかることを計算して歩いてください。ハルピン氷祭りに来る日本人に何度言っても守らずにヘロヘロになる人がいます』と言われ、分かっているつもりでいた。それでも人間は、頭でわかっていても『もう少しは大丈夫』などと思ってしまうもの。

 

戻ろうと思った時には、既に頭の思考が止まりかけていた。今来た道をただ戻るだけなのに、ホテルの場所が分からなくなる。周囲の人は外から来た人で聞いても分からない。体はどんどん疲れてきて、頭はどんどん重くなる。道はシンプルなのに、間違ってしまう。N教授が言う方向が正しかったのだが、冷静な判断力もなくなっていた。

 

歩き疲れてホテルにたどり着いた時、既に50分が経過していた。完全に時間オーバーだった。私はまだよかったが、N教授は『もう少しで死ぬかと思った』と声も絶え絶えだった。特に足先がやられていた。急いで足先ホカロンをつけると、血の気が戻ってきた。北京でHさんに教わったこと、これがどれほど役に立ったことか。先達は必要、ということだ。

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デジカメも壊れたかと思ったが、暖かい部屋の中で徐々に回復してきた。完全に電池が固まってしまったようだ。人間もカメラも、これだけ寒いのは想定外だということ。改めて自然の怖さ、寒さの恐ろしさを体験してしまった。

中国最北端を行く(4)ハルピン プロペラ双発機で行く

2.ハルピン

アレンジなし 波乱の幕開け

ほぼ定刻にハルピンに着いた。ハルピンへ来るのは何と27年ぶりだ。当然空港のイメージも違っている。というか、そもそも全く記憶がない。空港には宋さんが迎えに来てくれた。宋さんは黒龍江大学で日本語を学び、その後日本にも滞在するなど、日本語は流暢だった。A大にも3か月滞在したご縁で、今回のアレンジをお願いしていた。

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車の中で今回の旅程の話になったが、何と宋さんは面談などのアレンジをN教授がするものと思っていた。完全な勘違いであった。だが私などは、アレンジが無くても行けばよいと思っているし、N教授も、何か手がかりでもあればいい、というスタンスだった。勿論宋さんはここから猛然とアレンジを始めた。でも地元ハルピンならまだしも、自分も行ったことがない場所のアポを取るのは大変だ。

 

ホテルは空港から30分ぐらいの、黒龍江大学の近く、宋さんの家の近くに取られていた。我々は明日から飛行機に乗って他の都市へ行くので、ここは都合がよい。ホテルはかなりきれい。今回は費用の関係でN教授と相部屋をお願いした。大変助かった。

 

飛行機で夕飯が出なかったため、近所に食べに行く。ホテルの向かいの餃子屋さん。東北の水餃子はいつ食べても美味い。この店のオーナーは最近日本に旅行に行ったとか。『何しろ日本はどこへ行ってもきれいで驚いた』と。現在の気温は零下15ぐらい。北京より10度以上低いが既に色々と着込んでおり、それほど寒く感じない。と言ってそれほど長く外を歩いたわけでもないが。

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2月17日(月)

空港へは旅行社の無料サービスで

今朝は漠河へ行くため、空港へ。ハルピンの天気は良いが、冬のせいか、空気はかなり悪い。石炭で暖を取っているのだろうか。昨年ハルピンでもPM2.5騒ぎが起こり、3日間ほど前が見えないほどの事態となり、学校閉鎖や交通機関の乱れがあったと聞く。もし今日飛行機が飛ばなかったら、どうなるのだろうか?

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宋さんが迎えに来てくれ、車で空港へ。この車、何とチケットを購入した会社よる送迎サービスだとか。これは有難い。旅行会社は普通の白タクを使い、客を送迎している。今回我々のチケットはかなり高かったため、このようなサービスが付いたのだろうか。

 

空港は乗客でごった返していた。我々が乗る航空会社の名前がすごい!OKエアーは聞いたことがない。何とかカウンターを見付けてチェックインする。まだ出発には時間があったので、レストランに入る。どこの空港でも同じだが、こういう場所の料金はべらぼうに高い。一人最低消費は58元。お茶一杯も58元。だがビールは30元しか取れないので、N教授に他にも頼むよう命令が下る。スイカの種、これも30元?すごい。

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そこへもう一人の参加者、ハルピン駐在のMさんが加わる。企業駐在員だが、N教授との関係もあり、今回自らの駐在する黒龍江省内ながらまだ行っていない場所なので参加したらしい。我々が行く場所は商社の駐在員でも行かないような場所だと分かり、益々興味が湧く。

 

プロペラ双発機で

いよいよ搭乗。まだ雪がかなり残る空港を歩く。今日乗る飛行機は50人乗りのプロペラ双発機。プロペラは久しぶりだ。座席は2人ずつ、荷物の収納スペースは狭い。CAのお姐さんも厚手のコートを着込んでいる。乗客はほぼ満員。皆どこへ行くのだろうか?

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空は快晴で青い。上空へ上がると気持ちほどの光と雲が広がる。そして下もよく見える。雪や氷がうっすら見える田畑。こんな風景がずっと続く。1時間後、黒河へ降りる。ここで半数以上の客が下りた。黒河はこの付近の中心都市、商売などもあるのだろう。私も降りてみたかったが、すぐに出発ということでタラップを降りることも写真を撮ることもできなかった。そしてまた客が乗り込んできた。黒河から漠河へ。観光だろうか?

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更に1時間強で漠河へ到着した。とうとう中国最北端へやってきた。天気は晴れ、眩しいほどに明るい。雪が光を跳ね返す。空港にはかなりの雪が残っている。空港には宋さんの親戚だという若者が待っていた。宋さんが若い頃、同じ地域に住んでいたらしい。30年ぶりだと言いながら『一目でわかったよ』と手を握る。ここからドラマが始まる。

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