「アジア旅」カテゴリーアーカイブ

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(9)ジャールケント 新疆から移住したカザフ人

中国系カザフ人を訪ねる

このまま帰るのか思いきや、車は北の方へ走り出した。ジャールケントの農村を訪ねることになった。車で1時間ぐらい行き、小さな村へ入る。結構家があり、目的の家を探すのに苦労した。

 

家には奥さんがおり、ご主人は出掛けているという。早々にチャイが出る。N教授はインタビューを始める。この家は7年前に新疆のイリ県から、こちらへ移住してきたカザフ人だという。特に親戚もなかったが、この村で温かい歓迎を受け、イリでは農業だけだったが、こちらではジャガイモなどを作りながら、羊なども飼っている。

IMG_0354m

 

『新疆に比べれば、こちらのほうがずっといい』と言い、その理由を聞くと『新疆では政府に全て搾取されるが、こちらでは全て自分でやり、やった分だけ収入になる』と。そして更に『カザフにきてようやく漢族とウイグル族という2つの重い荷物を下ろすことが出来た』と静かに語る。この言葉は衝撃的だった。新疆では漢族の支配が強まっているが、実はその陰でウイグル族によるカザフ族いじめ、も進行していた。新疆では事あるごとにウイグル人が『新疆はウイグル人の土地だ』と言っているが、歴史的に見れば、南新疆は確かにそうだが、イリやアルタイなど北新疆には元々ウイグル人などいなかったというのだ。少数民族同士の諍い、これも新疆問題を複雑にしている要因かもしれない。

IMG_0356m

 

羊の煮込み料理が出てきた。特にこの家で作ったジャガイモが絶品。お腹は空いていなかったが、つい手が出てしまい、いつの間にか腹が膨れて動けなくなるほど食べた。羊の脂がよく染み込んでいる。カザフでは塩を入れる以外調味料などを使わないようで、実に自然な味わいがある。

IMG_0353m

 

ようやく家の主人が帰ってきた。我々はどこかへ出かけていく。実に雄大な山間部の平原。その道なき道を突き進む。途中に羊や牛の放牧に出くわす。少年が馬に乗り、統率している姿は格好がよい。まるで絵に描いたような大自然の風景が圧巻だった。

IMG_0374m

 

その大草原に定住している家があった。決して豊かそうには見えない作りの家。ここには80歳をこした長老がいるとのことだったが、残念ながら不在。お嫁さんが馬乳酒を振る舞ってくれた。これが目的でやってきたようだ。因みに酒を飲まない筈のノルジャンも馬乳酒は飲んでいた。この国では馬乳酒は酒に分類されないらしい。かなり酸っぱいので私は遠慮したが、皆はどんどん飲んでいる。お椀によそう際、大きなボールに入った馬乳酒をゆっくり掻き回す。その動作が実にいい。

IMG_0368m

IMG_0371m

 

この家は昔アルタイ辺りを遊牧していたプロ集団だった。羊500頭、牛20頭、馬も数十頭を有する大家族。子供や孫、ひ孫も羊や馬の世話をしている。小さな可愛い女の子もいる。どう見ても冬は厳しい寒さが襲うであろうこの地に何故4年前に定住したのか、長老不在で分からなかったが、何らかの事情があるのだろう。

IMG_0373m

 

帰りは少し余裕が出てきて、この草原走破を大いに楽しんだ。途中まで送電線が来ていたが、先ほど訪ねた家までは通じていない。モンゴルでは大規模ソーラー発電機を持っている遊牧民もいたが、電気なしの生活はどうだろうか。確かストーブはあったようなので、オンドルのように熱を家の中に送り込み、暖を取っているのだろう。

 

大規模農場を行く

朝来た道とは別の道でアルマトイを目指す。しばらくは山間部が続いたが、その後は大草原、いや大穀倉地帯に見える大規模農場がずーっと続いた。この辺りはソ連時代のコルホーズだったのだろうか。所々に飼料倉庫なども見える。またそれなりの集落も点在している。

IMG_0378m

 

カザフの農業は独立以降衰退したと聞いていたが、この辺りではまだ健在だという印象を持つ。恐らくは国家政策で大規模農業を支援しており、昔の官僚などが上手く土地を集めて、栽培しているではないか。外国人による農業分野への参入も可能だと聞いたが、ロシアなどは入ってきていないのだろうか。

 

それから延々、この国道を走る。途中で何回も道路工事で片側車線が閉鎖されており、予想外に時間がかかった。日本でもあることだが、カザフでは夏しか道路工事が出来ないのか、あまりにも多過ぎる感じがした。

 

夕陽が落ちる頃、大きな湖が見えた。ずっと道路の左側に水が見える光景、これはカザフでは珍しいだろう。そして夜、道の片側に突如ネオンサインが出現した。それも1つや2つではない。それがカジノだと分かるまでいくつか通り過ぎていた。確か飛行機の機内誌の広告にあったカジノも登場している。こんなにカジノがあってもお客は来るのだろうか?と心配になる。ノルジャンに寄れば、客の多くは中国人で、カジノは更に作られていく予定だそうだ。1つずつの規模は小さいのだろうが、ちょっと考えられないバブルのようだ。

IMG_0397m

IMG_0399m

 

4時間ほどかかって夜10時に帰還した。ララさんがラーメンを作って待っていた。スープは羊スープ、実に美味い。肉の王様は実は羊ではないか、と真剣に思う。

IMG_0403m

 

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(8)コルゴス 中国国境へ行く

8月2日(土)

コルゴスヘ

翌朝は5時半に起きる。6時出発と言われたが、ゆっくりとチャイを飲み、洗濯をした。既に外は明るい。やはり出発は6時半だった。カザフ時間、そんなものだろう。今日はイエルン氏の弟ノルジャンが中国国境のコルゴスまでの案内を買って出てくれた。目が弱いシャルハル氏は片道350㎞の運転はしんどいということだった。ノルジャンのランドクルーザーはなぜかホテルでなく、パラディスに来ていた。我々はそこまで歩いた。意味は分からない。

 

そして朝日に向かって東へ350㎞を走り始める。市内を出ると後は一本道。車も少ないので快調に飛ばしていく。朝ごはんは途中で食べようと思っていたが、店などは殆ど無かった。真ん中頃に街があったが、そこはウイグル族の街ということでパス。やはりウイグルとカザフ、敢えて接触しようとはしない。

IMG_0286m

 

ノルジャンは西安の医学大学を卒業して、医者になるべき人材だったが、当時のシステムで故郷の新疆アルタイに分配され、その後ウルムチへ出てきてしまう。そこで今の奥さんと知り合い、20年前にアルマトイにやってきた。96年頃は毎週のようにコルゴスを往復、物資を運んで稼いでいた。だからこの道には詳しいということだったが、最近10年は全く走っていないらしい。現在もお客のニーズに応じて物資を調達するなど、貿易に従事し、結構成功しているらしい。因みに彼は敬虔なイスラム教徒であり、酒、たばこはご法度。

IMG_0284m

IMG_0292m

 

ジャールケントの街

ジャールケントの街に入る。ここはもう国境まで僅かな距離だ。既に時間は昼に近い。街中は落ち着いており、80年代の中国の地方の小さな街を思い出させる。ベンツやラダなどの古い古い車が闊歩している、まるでクラシックカーの街のようだ。特にアウディが至る所で目に付く。なぜこんなに多いのかと聞いてみたが、車両が頑丈でよい、などと言われ、要領を得ない。恐らくは80年代、90年代にアウディを大量購入したか、この街に車を集積したか、その名残ではないだろうか。実に面白い光景だった。

IMG_0323m

 

ランチは街の食堂へ。ノルジャンは敬虔なイスラム教徒であり、食事にもウルサイ。3軒目で気に行った所があり、入っていく。周囲は市場の様で人通りが比較的多い。中はお客が殆どいない。パンとミルクティが出てきた。腹が減ったのでバクバク食べる。カザフのいいところは、とにかくパンやナンが出てきて、ミルクティに付ければ食べられるということ。それからマンティが出てきた。私が先日マンティを食べたい、と騒いだので、頼んでくれたようだ。ここのマンティ、羊肉の汁が美味い。小龍籠の大きい版、と言えばよいだろうか。いや、そもそも羊の肉が他の肉より美味い、ということだろうか。

IMG_0316m

 

コルゴス

そしてついに中国との国境、コルゴスまでやってきた。行けばカザフ側のイミグレの建物があるとばかり思っていたが、そのはるか前にバリケードがあり、チェックポイントがあった。アルマトイから道を走っていて思ったことは、物資を運ぶトラックがあまり走っていなかったこと、中国製の物資は入ってこないのだろうか。バリケード前にもトラック数台しかない無い。ちょっと拍子抜けで、トラックの写真を撮る。

IMG_0330m

 

ノルジャンは我々が国境を見学できるように聞いてくれたが、彼の車ではこれ以上進めないと分かる。その時バリケードの警備員がこちらを指し、何か言い始めた。どうやら写真を咎めているらしい。我々のパスポートをチェックし始めた。携帯を出せというので渡したが、写真は撮っていないのに、なぜか携帯にロックを掛けてすぐに返された。イエルン氏は居留登録カードを忘れてきたということで、御咎めはなかったが、先には進めない。

IMG_0337m

 

我々3人はタクシーを雇い、国境へ向かうことにした。ところがタクシーでゲートへ行くと『昨日から中国側へ渡る人間以外は通さない』と言われ、折角乗ったタクシーも降りた。タクシーは商売あがったりだろう、と思ったが、国境にはバスで来る者、アルマトイの方へ向かう者などが次々にやってくるので問題はないのだろう。遥か向こうにカザフ、中国両国のイミグレがかすかに見えたが、とても遠い存在だった。

 

もう一つ新しい口岸が見えたのでダメもとで行ってみる。こちらはノルジャンが上手く話してくれて、中へ入れてくれた。建物が3つあり、その一つには人がいた。どうやら中国行く買い物ツアーのカザフ人らしい。もう一つはこれから使うイミグレだろうか。そして向こうには貨物用のゲートが見える。N教授によれば、ここコルゴスには中国との共同開発区が設置され、貨物輸送のワンストップ化が図られるはず。その開発区がこの場所ではないかと思われるが、どう見てもそのような様子はない。既に計画から数年経っており、日本の物流会社も倉庫を作っていると発表していたのだが。

IMG_0341m

 

ノルジャンによれば、最近カザフはロシア、ベラルーシとの関税協定を締結。完全にロシア寄りの政策を取った。中国からの物資に高い関税をかけ、流入を防いでいる。これによりこの開発区は実質的に停止したとみてよい。こんな小さな場所が、国際情勢の大きなうねりの中にある、ということに妙に感動した。

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(7)アルマトイ 遊牧民は自由に往来できたのか

新市街地あり

時間があるので博物館へ行くことにした。場所は市の南側、車で通ると市庁舎や大統領官邸が見え、その先はこれまで我々が見てきたアルマトイとは別世界。広々とした近代道路の両側に近代建築のオフィスビル、外資系ホテル、ショッピングコンプレックスが並び、こんな所もあるんだ、と予想外の収穫があった。そういえばスキーのジャンプ台のようなものも見えた。アルマトイは2022年の冬季オリンピック開催地に立候補しており、北京と共に最終選考に残っている。既に冬季アジア大会は開催済み、出来るならここでオリンピックをやってもらいたいものだ。そういえば、2017年にはアスタナで万博もあるらしい。今カザフは国を挙げて、国際的な展開を図ろうとしており、その様子がオリンピックや万博を通じて良く分かる。これから急激に国際的な認知度を上げてくるのではないか。

IMG_0259m

IMG_0262m

 

博物館はロシア風のドーンとした大きな建物であった。こちらは予想通りにマンモスや古代の遺跡に始まり、独立後のカザフまで一通り見ることは出来た。ただ全てがカザフ語かロシア語のため、内容は殆どわからない。歩いていても広すぎる建物なので疲れは倍加した。写真撮影も禁止。外国に向けたアピールはまだ緒に就いたばかり。英語の普及も急務になるだろう。

IMG_0266m

 

イタリアンでカザフ料理

ランチは昨日で懲りたので、高級ホテルへ行くように頼む。ホテルならWIFIもあり、ハラールもあり、そしてビールもあるだろうというN教授の読みだった。その読みは見事に的中し、3つ星ホテル併設のイタリアンに落ち着いた。実は私は今日、一つの仕事を抱えており、何としてもネットを繋いで仕事を片付ける必要があった。運よくその仕事は既に送られてきており、食事もそこそこに仕上げに掛かる。ネットスピードも昨日より格段に早く、スムーズに進んだ。

 

食事はイタリアンかと思いきや、シャシリクというカザフ料理だった。やはりある程度以上の年齢の人と食べると、ピザやパスタは合わないのだろう。羊肉のミンチを串で刺して焼いていた。食べやすかった。アイスティを頼んだところ、フレーバーが入っていない物はない、と言われ、ティパックとお湯、そして氷を渡される。

IMG_0271m

IMG_0273m

 

カザフ事情を聞く

1時間ほどそこでネットをしていると、カザフ人女性がやってきた。ジャナルさん、日本に10年住んでいたということで、日本語の能力は極めて高い。旅行会社をやっており、ビジネスアテンド、通訳などをこなしているという。彼女は富山で5年間学校に通い、5年間は東京で働いたという。こういう人材はカザフでは珍しいだろう。ようやくビジネス系の人が出てきて、話も分かりやすい。

 

昨日まで日本の某農業機械メーカーの担当者と一緒にアルマトイとアスタナを回っていたらしい。やはりカザフの農業政策に目を付けた日本企業はいるということ。カザフ側も中国製の機械は安いがすぐ壊れるので、日本製を希望しているらしい。ただそこには当然色々な障壁があるのだろう。

 

N教授は牧畜業に強い関心を示し始めた。明日行く予定の中国国境コルゴスに近い場所に、今も政府の支援を受けた牧民たちがいるという。是非行きたいということでアレンジを頼んだが、最終的には日程と料金が合わずに、取りやめとなってしまった。彼女は日本に行くまで、新疆のイリで外事弁公室に勤めていたので、その辺の話を含めてもっと聞きたいことが一杯あったので、とても残念だった。

 

90年初め、中国の国境は緩んでいたのか

ホテルに戻り、一休みするはずが、N教授と議論になった。争点は『90年初め、中国の国境は緩んでいたのか』。N教授はこれだけ広い国土を隣接しているので、当然カザフ人遊牧民は自由に両国を行き来できたはずだという。89年の天安門事件以降、中国は国が動揺し、国境警備も緩んだので、大量の移住者がカザフに来ることが出来たのだ、と推測した。

 

私はこの意見には少なからず違和感があり、反論した。中国は天安門事件ぐらいで国境警備が緩むはずがない、むしろソ連邦の崩壊で国境警備は厳しくなったはずだと。確かに歴史的に見れば、唐末や清末の時代、国境が緩んだ時期はあったと思うが、あの90年前後はそれとは違う、と説明したが、納得が得られない。これは『あの頃の空気を吸ったことある人なら分かる』話だが、知らない人に説明するのは難しい。

 

夕飯でシャルハル家へ行き、この疑問点を問いただした。彼らは実際に92年にカザフへやってきたのだから、どんな手続きで来たのか聞いてみた。『まずウルムチでパスポートを取り、それから汽車に揺られて北京のロシア大使館へビザを申請しに行った。えらく長い時間がかかった』との証言を得た。それでも納得しないN教授は『シャルハルさんのような知識分子は正式な手続きを取ったかもしれないが、遊牧民はそんなことしなかったでしょう?』聞く。『いや、遊牧民も基本的には北京へビザ申請に来ていた』というとどめの回答でこの議論は終了した。

 

後日ある人に『カザフへ密入国することはできるが、必ずカザフの警察に捕まる。今だって中国人の不法入国者は後を絶たないが、警察が目を光らせており、中国人とみるとパスポートの提示を求め、不法なら強制送還するか、わいろを要求する。中国側も同じ状況だったはずで、社会主義の相互監視を理解していれば、そんな議論は起こりえない』と切り捨てられた。確かに我々だって駅で尋問を受けたのだ。机上の空論はやはり空論でしかない。

 

夕飯はポロ。ララさんの作るポロは実にあっさりしていて美味い。レストランの場合作り置きを出すのかもしれない。作り立てのポロは油っこく無くて美味い。米もカザフ製らしいが、実によく合っている。

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(6)アルマトイ 民族服会社の女性社長

民族服会社の女性社長

それからまたぐるぐると周囲を回り、ようやく目的地に着いた。そこは立派なお屋敷の敷地の様で、木々が生い茂っていた。横断幕には女性社長が映り、ナザルバエフ大統領も映っている。これがカザフでも有名な女性実業家ということか。

 

オフィスに入ると、あでやかな民族衣装がズラッと並んでいた。結婚式の衣装から子供服まで、民族衣装ではカザフNo.1の会社である。その女性社長パリーダさんはやはり中国系カザフ人で中国語を解した。華のある社長だ。94年にアルマトイに来て、97年に起業。大統領のお気に入りとして、イギリスのチャールズ皇太子、ロシアのプーチンなど世界の有名人がカザフへ来ると、ここの民族衣装がプレゼントされる。いわば御用達である。

IMG_0212m

 

それでも08年のリーマンショックの影響でそれまでの従業員200人を50人まで減らした。現在再起を図っており、キルギスに工場を建設、これからはトルコなどへの輸出を進めるつもりだ。尚中国には多くのカザフ人がいるが、輸出はしないという。これが社長個人の事情なのか、国家政策なのかは不明。

IMG_0217m

 

デザインのアイデアは社長自らが出し、デザイナーに競わせ、いい物を買い取る。パテントもしっかり登録しているという。コートの中には金や銀をあしらって200万円もするものもあるという。スタッフの給与は普通の人で700‐900ドル、意外とコストも高い。

IMG_0224m

 

ベシュパルマック

夕飯はシャルハル家で食べる。やはり客が来たら羊だ、ということで、今日はカザフの伝統料理ベシュパルマックをご馳走になる。これは羊肉を茹でて、肉をナイフで削ぎ落とし、きしめんような平べったい麺の上に乗せて食べる。これは豪快で実に美味い。如何にも遊牧民の料理、という匂いがする。

IMG_0228m

 

肉を茹でたスープもまた絶品だ。私はこれまで新疆で事あるごとにこれを飲んできたが、今日もまた濃厚で美味い汁が出ている。ジャガイモや玉ねぎは特に入っていないが、スープを飲みながら、麺を食べるとこれまたウマイ。

 

N教授はビールからウオッカにグラスを変えていた。相手はイエルン氏しかない。あとは皆チャイを飲んでいる。因みにウイグルでは食べる前のお祈りは長老が行っていたが、ここでは誰でもいいらしい。ウイグルとカザフ、同じように捉えていたが、ある意味でウイグルは商人、カザフは牧民、全く性格も違えば習慣も異なることが分かってくる。

 

夜ホテルに戻ると断水しているという。シャワーを浴びたかったが、そのまま寝てしまった。断水は時々あるらしく、手を洗う水は別途手当していた。電気などは豊富に見えるカザフだが、社会インフラは旧ソ連のままで意外と整っていない。建国20年ではまだ難しいのだろうか。

 

8月1日(金)

トヨタディーラーショップ

今朝もシャルハル家で朝食を取る。いつものようにパンが出て卵が出たが、何と真ん中にはケーキが出てきた。昨晩食べなかったからということだが、ロシア方式では朝から甘いケーキも食べるのだという。テーブルには中国製の落花生、カザフ製の干し果なども並び、日本の朝食とはだいぶ様相が違っている。

 

今日はトヨタのディーラーショップへ行ってみる。実はバンコックの同級生で自動車部品を作っているOさんから『カザフへ行くならトヨタのフォーチュナという車種の写真を撮ってきて欲しい』と言われていた。彼の作る部品がこの車に搭載されているというのだが、何とこのフォーチュナは最近カザフでノックダウン生産が始まったというので、興味をそそられた。

IMG_0235m

 

郊外の道路脇に各社のディーラーショップがずらりと並んでいた。トヨタの他、日産やスバル、三菱などが見えた。現代やプジョーなど外国勢もある。トヨタのショップは実に大きくて、見学に来た人々が休める場所などもあり、居心地がよさそうだった。

 

N教授はいつものバイタリティーで、この店の責任者を探す。出てきたのはトルコ系の男性で英語を普通に話した。ただトヨタに関することはネットで検索すれば出て来るし、日本人ならアルマトイに一人常駐者がいるので、そこにコンタクトして欲しい、と丁重に言われた。確かに車を買う訳でもない人間と話す時間などないのだろう。(帰国後大学時代の集まりに行った所、カザフのトヨタ駐在員は大学の1年後輩だということが判明。世の中狭い。彼は7月に怪我をして日本に帰国中でいずれにしても会えなかった)

 

トヨタ車はやはりランドクルーザーが人気。またビジネス車としてはカムリを売り出している。カムリはセール中で31,000ドル程度、ランクルは5万ドル以上する。お目当てのフォーチュナも展示されており、写真を撮って目的を果たす。ただこの車は生産が始まったばかりで、路上では1台を見つけるのが精一杯。折角高いお金を出すなら、輸入車を買う、ということだろうか。フォーチュナの工場はコルタナイというアルマトイから東北部へかなり離れたモンゴル、ロシア国境付近にあるらしい。何でそんなことへ作ったのか是非聞いてみたいところだ。

IMG_0238m

IMG_0246m

 

因みに自動車ローンもトヨタモーターファイナンスが進出しており、ファイナンスも可能だとか。ただある人に聞くと『金利が高過ぎるし、条件も悪い』とのこと。まあ、この国のファイナンスは始まったばかりなのだろう。

 

まだ時間があったので、少し離れたスバルのショップにも行く。日系ではトヨタ、日産に次ぎ3番目に人気があると聞く。そして車そのものへの評価が非常に高いのだという。これはちょっと意外だったが、面白い。車は全て日本からの輸入だというが、どうなのだろうか。フォレスターという車高が高い車を売り出していた。カザフでも舗装道路を走るとは限らず、草原などでは車高は重要なのだろう。その辺の他社比較も付いており、面白い。一般車もトヨタよりは安く設定されており、市場参入を狙っている。自動車ローンは頭金50%、期間1年のみ。金利も15%以上とかなり高い。

IMG_0251m

 

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(5)アルマトイ 2度も警察に出くわす

7月31日(木)

駅で私服刑事のチェックに遭う

翌朝はイエルン氏と息子がアルマトイからアスタナへ行く長距離列車の切符を買いにアルマトイ駅へ行ってみた。ホテルから市内中心部まで渋滞もあり、結構時間がかかった。どこをどう走っているのかはさっぱり分からない。

IMG_0164m

 

駅は予想外に近代的な建物、中の天井が高い。ただ中国のように乗客でごった返しているようなことはなく、整然としていた。切符売場へ向かうと、如何にもずるそうな男が近づいてきて、何か話しかける。最初は相手にしなかったが、売り場を一周して、イエルン氏は何らかの交渉を始めた。売り場に人はそれほど多くないので、並び屋ではなく、切符の代行業者のようだ。パスポートを渡すと、彼が窓口で手続きしている。

IMG_0165m

 

我々は暇なので駅の中を見学し始めた。すると突然男が声を掛けてきた。シャルハル氏がちょっと緊張する。男は警察の身分証のようなものを提示し、我々にパスポートの提示を要請した。私服刑事だった。一瞬緊張したが、パスポートを見ると一言、『日本人はビザ免除なのか』と聞き、すぐに行ってしまった。ガイドブックにもアルマトイではよく警察のチェックを受け、金銭を要求されるケースもあると書いてあったので心配したが、何事もなかった。あとで聞けば、『中国人が不法に入国しているのを取り締まり、金銭を要求することが多い』とのこと。ということは我々も中国人に間違われ、日本人と分かると興味を失ったということか。

 

駅のホームには自由に入ることが出来た。古い列車が停まっている。シャルハル氏によれば、この車両はカザフ製、石油などを運ぶため必要な車両は自国で製作したという。何となくこの列車に乗ってどこかへ行ってみたいと思ったが、確か聞いたところではカザフの列車は非常に遅く、1000㎞走るのに1日掛かるとか。恐らくは景色も変わらず、飽きてしまうだろう。

 

7駅のみの地下鉄

それから地下鉄が走っているというので乗ってみた。中央アジアでは2都市にしかないらしい。地図で見ると駅の横から出ているので、近いと思ってリクエストしたのだが、シャルハル氏は車に乗り、どんどん進んでいく。おかしいな、と思った頃、ようやく駅が見えた。実際に2011年に開通したのは僅か7駅だったが、シャルハル氏は自分が気に入った駅に連れて行ったようだ。

IMG_0168m

 

この地下鉄は韓国のODAで出来た。韓国とカザフは歴史的に朝鮮族や韓国人の移住者がいる関係もあり、昔からかなり緊密。独立時にも韓国はかなりの援助をして、韓国の物資を大量に入れた、との実績もあるようだ。サムソンの家電、携帯、現代の車はここでもポピュラーだ。

 

運賃は一律80テンゲ。自動改札はあるが、トークンを入れてしまう方式はトルコ以来か。ホームは非常に広く、見たことはないがロシアを想起させる。防空壕の役割もあるのだろうか。韓国ならやりかねない。車両は現代製できれい。乗客は少なく、空間に余裕がある。確かに7駅だけなら、使い勝手が悪く、駅で降りてもまたバスに乗らなければならない。全線開通するのだろうか?1駅だけ乗って、折り返し、乗った駅で停めてあった車に乗り込む。

IMG_0171m

IMG_0179m

 

WIFI、ハラールとビールの昼飯

市内中心部で車を停め、大きなモスクを見学。駐車場がないアルマトイでは路上駐車して、目的地までかなり歩く。まあ、この散歩は悪くはない。暑くもないし、なかなかいい街並みを歩ける。それからきれいなショッピング街を通過。マックがあるのかと思ったら、ドネルケバブの店が『マクドネル』とパクっていた。面白い。この辺はビジネスエリアで不動産もかなり高い場所。20年前5000米ドルだったアパートが今は100倍するとか。

IMG_0198m

 

そしてランチを食べることに。私は2日以上もネットに接続できていないのでWIFIのあるレストランを希望した。N教授は相変わらずビールが飲めることが条件。残り2人はハラール食品しか食べない。まあレストランは沢山あるし簡単に見つかると思っていたが、そう簡単ではなかった。

 

こぎれいなカフェに入りたかったが、シャルハル氏は許さない。彼らの食べられるものがないという。更にビールのある店はイスラムではないため、ハラールもない。2者は元々相容れない関係だった。これではいくら探しても見つかる訳がない。結果的にハラールが譲った。N教授は早々にビールを頼み、私はバーガーを注文して、ネット接続を試みる。彼らはパンやケーキだけを口にした。

 

ところが、この店でもネットが繋がらない。これには本当にイライラした。ここまでやって来て、人に譲ってもらって、それでもできないとは。店員も若者なので何度もトライしたが、繋がらない。やけ食いでもするかと思っていると、シャルハル氏のスマホが繋がった。一時的にダウンしていたらしい。私は食べるものもそこそこにやるべき作業を黙々とこなした。結局1時間ほど皆を待たせて、久しぶりにネット空間に戻った。

IMG_0202m

 

道に迷い一通を逆走して捕まる

そして午後は初の会社訪問となる。腹が満たされ、ネットにも満たされた私は車の中でうつらうつらしていた。突然起き上がると目の前は緑が深い高級住宅。巨大な幼稚園の前に車が停まった。そこで道を聞いてまた走り出したが、そこからが大変。同じ道を何度行き来し、電話で連絡を取るも一向に着かない。

IMG_0204m

 

そして両側に路上駐車の車がある道で、突然前を遮られる。制服の警官に捕まった。どうしてだろうか?どうやら一方通行を逆走したらしい。警官は先ずは車の向きを変えさせ、適当な場所に停めさせると、シャルハル氏とどこかへ行ってしまった。10分ほどで戻ってくるとまた何事もなかったように運転している。『1年の免停だと言われたが、何とかした』と。これがカザフ方式だろう。

 

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(4)アルマトイ カザフの国家政策とは

中央バザール

中央バザールへやってきた。大きな体育館のような所に、食品関連の店がドーッと並んでいる。ナッツやドライフルーツを売る店のにいちゃんが英語で声を掛けてきた。中には日本語を一言二言話す者もいた。ここだけは国際市場のような雰囲気だった。

 

N教授は匂いを嗅ぎつけ、クムスと呼ばれる馬乳酒のコーナーへ突進していた。ここで馬乳酒を売って20年という皺の深いおばさんが、椀を突き出してきた。飲むとかなり酸っぱい。ここではチーズの他、チーズを固めたようなカートと呼ばれる固形の食べ物も売っている。時々かじりながらチャイを飲むのだろうか?

IMG_0128m

 

肉のコーナーは凄まじい。羊も牛もきちんと部位ごとに切られて飾られている。働いている人は殆どが女性、カザフの女性は良く働くらしい。驚いたのは、豚肉コーナーがあったこと。イスラムの世界ではあり得ないと思っていたが、こちらはロシア人が捌いて売っている。

IMG_0130m

 

魚コーナーでは川魚を燻製して売っている。サーモンに見える魚の切り身、実に美味そうだった。N教授は促されて、酒のさかなとして買い込む。これは本当に美味だった。お茶のコーナーは殆どなく、ただ薬草として、多くの草花が売られていた。帰りがけ、物乞いをする女性がいた。首を振るとすぐに行ってしまったが、彼女はジプシーだった。

IMG_0132m

 

WIFIの無いホテル

夕方、と言っても現地時間で9時ぐらいまで明るいアルマトイだが、ホテルへ戻る。このホテルには広いリビングがあり、冷蔵庫もある。シャルハル氏の指示でビールが買い込まれ、冷やされる。サーモンも入れられる。N教授にとっては理想的な状況だ。だが私にとってはWIFIがないことがある意味で致命的。

IMG_0141m

 

ホテルの横には広い駐車スペースがあり、裏では拡張工事が行われている。あと6部屋増やすそうだ。アルマトイではホテルが不足しているらしい。1階のレストラン前ではカバブーが焼かれていて美味しそうだ。肉のぶつ切りを焼いており、何とも豪快だ。あれが食べたいと思ったのだが、イエルン氏とシャルハル氏は『近くのWIFIがあるレストランへ行こう』というので、そちらへ向かう。

 

そのレストラン、パラダイスは、きれいなところで、この辺では一番のレストランのようだった。だが・・、WIFIはなかった。これには頭を抱えた。毎日一度はメールチェックをしなければと思っているのに、近くにWIFIの繋がる場所がない。明日からWIFIを訪ねる放浪の旅が始まる。

IMG_0148m

 

食事はラグメン、そして私の希望でマンティになった。マンティは要するにマントウだ。かなり時間はかかったが、出てきたマンティは羊肉の肉汁たっぷりで美味しかった。この店にはピザなどもあり、夕食を楽しむ地元の人々で混んでいた。ここは食事の拠点になりそうだ。

IMG_0147m

 

シャルハル氏は元新華社のカメラマンで、カザフ情勢もニュースなどでかなり理解しており、N教授のインタビューが始まる。なぜか彼は中国語で話し、私が通訳した。カザフ人ながら北京育ちの彼の母語は実は普通話のようだ。彼は私が普通話が出来ると分かると喜んでこれを使い、如何にも中国人が話すように、力を込めて、どんどんスピードを上げて熱弁をふるう。こちらは疲れ果てる。イエルン氏はビールを飲んでいる。彼は10年前に日本に2年留学したが、その後日本語を使うこともなく、今リハビリ中だ。

 

『カザフの国家政策は脱資源、そのために中国の商品を排除し、ロシア、ベラルーシと関税同盟を締結。カザフの工業化を図るため、シムケントの綿花を利用して、トルコ企業と繊維産業育成を進めようとしている。同時に農業分野では独立後放棄された旧ソ連の農業用地を県レベルでほぼ無償で払い下げ、担い手を募集している。工業、農業共に様々な優遇政策がある』

 

食事が終わってホテルに戻ると、下のレストランが大騒ぎしていた。大音響の音楽、そしてお客の若者達が踊り狂っていた。私は疲れており、すぐに寝てしまったのだが、翌日聞けば夜中2時頃まで続いたようで全く眠れなかった人もいたようだ。折角の静寂の地、アルマトイで何で?

 

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(3)アルマトイ ゼンコフ教会

居留申請

シャルハル氏が言う。『カザフは居住管理が厳しい。うちは大きなホテルではないので、直接役所へ行って、居留申請を行う必要がある』と。車で街中の役所へ出向く。かなりの混雑をしているが、誰が申請しているのだろうか。モンゴル系、朝鮮系、アラブ系やヨーロッパ系の顔立ちも多いが、誰がカザフ人か、正直我々にはさっぱり分からない。

 

申請には申請書がいる。当たり前だが、この申請書が読めない。実はカザフなのに街中の公用語はロシア語、文字はキリル文字で、さっぱり。すると申請書代行屋があるというので役所の外へ。そこにはさらに多くの人が出入りしていた。言語を解さない、文字を解さない人々が大勢いるのだ、とこの時に分かる。

 

ようやく書類を整え、パスポートと共に申請した。1時間後に取るに来るように言われ、それまで街を散策することになった。N教授の基本パターンは『まずはその街の地図を手に入れること』であり、行動に出た。が、本屋はなかなかない。小さな市場に古本屋があり、そこに破れたアルマトイの英語の地図が1つだけ売っていた。500テンゲだった。まあ破れた地図など買っても仕方がないと、やり過ごしたが、その後どこへ行っても英語の地図は見付からなかった。仕方なく後でその古本屋へ破れた地図を買いに行った所『さっき売れちゃった』と言われ成すすべがなかった。

 

この街にはヨーロッパ風の路面電車が走っていた。街自体が緩いスロープになっており、緩々と電車が走る光景はいい。向こうの方には遥か高い山並みも見え、スイスあたりの情景に近いような気もした。ただその道路脇では水が大量に流れだしていた。恐らくは水道管が破裂したのだろう。我々のホテルでも何度か断水があった。社会インフラはソ連時代のままなのかもしれない。

IMG_0084m

IMG_0089m

 

1時間後に役所に行くと、私のパスポートには居留許可の紙が挟まっていたが、N教授の方にはなかった。何とビザを取ってきた私は申請が必要で、ビザ免除で入国した人は申請不要だった。如何にも形式主義、社会主義的な管理手法だった。

 

ビールを求めて中華へ

アルマトイの街中は、もっと発展している=高層ビルが立ち並んでいるとばかり思っていた。資源大国であれば資金は潤沢で、その余剰資金が不動産開発に回る、それを当たり前のように考えていたのだが、ここは違っていた。ソ連時代の建物がそのまま使われており、店だけがきれいに改修されていた。KFCやピザ屋などが近代化の象徴にように見えた。

IMG_0102m

 

道はきちんと整備され、ゴミなどもなく、歩きやすい。ただ全てがキリル文字の世界であり、英語を見つけるのも大変。バスに乗ることも難しそうだった。我々はN教授の希望を大いに尊重し、ビールが飲める食堂を探したが、意外となかった。というよりはシャルハル氏やイエルン氏のようにハラールの食事を求めると、必然的に酒は出て来ないということが分かる。

 

散々歩き回った末辿り着いたのは、中華レストラン。WIFIがなかったのは残念だったが、仕方がない。公主飯店、という名のそのレストラン、中国語が通じる訳ではなかった。魚香茄子やトマト卵炒めでもきくらげと豆腐でも殆ど味付けが同じ。どう見ても頼み過ぎで、大量に残ってしまった。イスラムの教えには確か『勿体無い』があったと思うのだが、これはお客を満足させるための注文だろうか。

IMG_0104m

 

午後2時前に店に入ったのだが、我々が帰る頃までお客がやって来ている。箸を使う人は稀で、フォークとスプーンで食べている。これもロシア化なのだろうか。何だかヨーロッパの中華料理屋に入っているようで落ち着かない。部屋を使っていた女性たちはどうやら朝鮮系。ここにも様々な民族が行き交っていた。

IMG_0103m

 

ゼンコフ教会

腹一杯になり、歩く。レストランの斜め前には巨大な建物があった。そこはサウナだという。フィットネスクラブとの表示もあるので、最近は西洋化したのかも知れないが、以前はサウナ好きのロシア人の嗜好を反映していたのではないか。

IMG_0111m

 

サウナの前を通過すると道の向こう側には自然が満ちていた。文化人かと思う人の像がある。聞けば将軍だとか。更に行くと素晴らしい形の教会が目に入ってくる。ゼンコフ正教教会、1904年に創建され、釘は一本も使われていないという。1911年の大地震でも周囲が壊滅する中、倒壊しなかったという。ソ連時代は聖職者も追われ、博物館となっていたが、独立後再び教会となっている。

IMG_0112m

 

中へ入ると、本当に鮮やかなステンドグラス、そして壁には金銀の装飾画が飾られており、圧倒される。アジアでいくつもの教会に入ったが、それに比べると重厚感がすごい。多くの観光客、そして信者が訪れており、椅子に持たれてうっとりしている人もいる。蝋燭を買って、火をつけて所定の場所に置くのも新鮮。

IMG_0114m

 

外には爽やかな風が吹き、まさに市民の憩いの場、はとに餌をやったりしている。馬車も用意されており、乗りたい人は公園内を1周できる。この公園はパンフィロフ戦士公園という名で、第二次大戦時、ドイツに対抗してモスクワを防御したパンフィロフ将軍以下28名を記念して造られている。はとが一斉に飛び立つと、教会をバックによく映えていた。

IMG_0119m

IMG_0122m

 

公園の向かいのKFCでトイレを借りる。フライドチキンの値段は日本より少し安い程度。若者や子供たちには人気で店内にお客は多い。因みにアルマトイは公共の場にトイレが少なく、やむなくお借りした。社会インフラはそれほど整っていないのかもしれない。

 

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(2)アルマトイ チャイはティバッグ

2.アルマトイ

空港で

機内では入国カードすら配られなかった。ガイドブックに寄れば、入国カードに2つスタンプを押してもらわないと大変なことになる、とか、税関申告書に現金のほか、PCやカメラなど書いておかないと出国時にトラブルになる、などと書かれていたのでちょっと緊張。

 

取り敢えず乗客の後ろに着いて、列に並び、順番を待つ。審査はかなり素早く、すぐに私の順番が来た。私がカードを持っていないのを見ると係官は紙を差し出し、そこに名前など至極簡単な内容を書かせた。一方私がビザを持っていたのでちょっと怪訝な顔をしたが、そこにすぐにスタンプを押し、カードには2個のスタンプ。あっという間に解放された。そして手荷物しかなかったので、税関に向かい、申告書はと聞くと『早く荷物をX線に通せ』といい、通ると、早く出ていけ、という対応で外へ押し出された。大丈夫なのだろうか?すると目の前にPさんが立っていた。呆気ない再会。

 

それから1時間後にソウルからやってくるN教授を待つ。Pさんのご主人とアルマトイ在住のシャルハル氏も一緒だった。シャルハル氏は北京育ちのカザフ人で22年前にこちらにやって来て、既にカザフ国籍になっているという。彼は普通話を流暢に話すので、色々と話を聞くことが出来た。こういう時、普通話は便利で威力を発揮する。

 

空港はソ連時代に作られたものでそれほど大きくはなかったが、きれいではあった。携帯関連の商品を売る店と両替屋だけがやたらに目に付いた。この時間到着する便が何便かあり、迎えの人がかなり来ていた。

IMG_0051m

 

N教授のフライトは定刻に到着し、韓国人が沢山出来てきたが、なぜか教授だけ出て来ない。このフライトではなかったのかな、と思うほど、最後の方にゆっくりと姿を現す。荷物が出て来なかったようだ。シャルハル氏の車に乗るため、外へ出ると、そこは人でごった返していた。そして表示が殆どキリル文字で何も分からない。三菱のマークを見つけて駆け寄ると自動車が展示してあった。何だかホッとした。

IMG_0058m

IMG_0059m

 

遅い夕飯

車で宿泊先へ向かう。道はスムーズで街灯も明るく、15㎞と言われた道があっという間に過ぎた。かなり木々が生い茂った団地のような所へ入る。ここの1階にシャルハル氏の家があった。最近引っ越してきたばかりだという。奥さんのララさんが夜も11時だというのに遅い夕飯を作って待っていてくれた。野菜炒めなどをご飯で食べる。何となく中国風だなと思っていると、奥さんも新疆のイリで育ったカザフ人。Pさんとはウルムチで知り合い、仲良しだという。

IMG_0061m

 

その日は夜も遅いので早々に引き揚げ、ホテルへ。何とララさんが経営しているのだとか。立派なレストランの2階部分に部屋が9室。清潔で申し分ない。だがWIFIが設定されておらず、これにはこの後悩まされ続ける。疲れたのか、シャワーも浴びずに寝てしまう。

 

7月30日(水)

チャイで目覚め

翌朝の目覚めは良かった。部屋の窓から高い山並みが見えた。ここは中央にリビングスペースがあり、その周囲を部屋が囲んでいる。リビングに出ると受付のおばさんと目が合う。横にはPさんのご主人、イエルン氏がチャイを飲んでいたので、思わずそれを頼む。チャイはスリランカ紅茶のティパック。これをストレートで飲むとさらに眼が冴える。

IMG_0065m

 

朝食はシャルハル氏の家まで10分ほど歩いて行き、取る。この散歩がなかなか良いのだが、幹線道路は朝から渋滞していた。見るとこの地でもトヨタなど日本車が多い。ここは街の中心部ではなく、郊外だと分かる。

IMG_0066m

 

朝食はパンやナンにバターを塗り、サラダとゆで卵。それにミルクティ、これはロシア式だという。ミルクは牛のミルクで毎日新鮮な物が供給されている。チャイはホテルと同じティパック。ホーローの薬缶にティパックを入れ、これを小ぶりのお椀に注いで何杯も飲む。濃くなるのを嫌がり、湯を注ぐのが普通のようだが、私には薄い。

IMG_0074m

 

それから近所の両替所へ向かう。先ずは両替しないとお金がない。ドルやユーロ、そして人民元やヨーロッパの通貨の表示はあるが、日本円は受け付けないという。この辺に日本とカザフの関係の度合いが見て取れる。カザフの通貨はテンゲ。因みに他の人が両替した折、係員が先に手で数えた後、機械に入れたところ、2枚少なくなっていたという。理由ははっきりしないが、手で数える際2枚抜き取った可能性もあり、注意が必要だ。

IMG_0075m

 

その近くのバス停付近に携帯のシムカードを買いに行く。シムカード500テンゲ、通話料1000テンゲ(日本円550円)を支払いうとすぐに使えた。カザフでも携帯は完全に普及しており、サムソンが目立っている。

IMG_0077m

 

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(1)ビザ免除になったカザフ

《初の中央アジア カザフスタンを行く2014》  2014年7月29日-8月9日

 

中央アジアへの憧れ、それは昔からあったのだろうが、ここ3年間で3回の新疆訪問により、更にそれに拍車がかかっていた。勿論一人で行くことも出来ただろうが、ちょうどそんなタイミングでいつものN教授から『次の夏はカザフスタンだからね』と言われ、2つ返事で了解してしまった。

 

6月に入り、日本に戻ると旅行作家のSさんから『カザフはビザ、厳しいよ、3年前はビザ取れなくてウルムチまで行ったんだから』と言われ、慌てて東京のカザフ大使館へ赴く。既にバンコックーアルマトイの航空券は発券してしまった。もしここでビザが取れずに行けないようであれば、大損だ。だが中央アジアの未知の国、一体どんな対応になるのだろうか、と緊張して神谷町へ向かった。

 

ところが当日何と大使館は休み。水曜日が定休日の大使館なんてあるのか、さすが中央アジア、一筋縄ではいかないなどと、妙に感心してすごすごと引き下がる。翌日出直すと、何ともあっけなく申請が受理され、1週間後の受け取りが約束される。拍子抜けだ。

 

そして何と受取日前日ネット情報で『カザフの観光ビザは7月15日から免除(15日以内)』を見て卒倒する。大使館では私のパスポートにビザが押されていたが、その後正式にビザ免除が発表され、N教授はビザなしで入国を果たした。なぜ急にビザ免除になったのか、良く分からないが、アジアでは少し前の情報は既にあてにならず、情報は常にアップデートする必要があることを再認識した。

 

尚アルマトイ行のフライトはカザフの航空会社、エアアスタナがある意味で独占しており、バンコックから行くフライトはこの航空会社しかなく、料金も割高だった。まあ直行便だからいいや、と思っていると、ある日突然、『ホーチミン経由に変わった』と連絡があり、何と出発時間も変わっていた。やはり簡単な国ではない、と思うとちょっと心配。

 

だが今回は現地でカザフ人のPさんが待っていてくれるのでその点は安心だった。彼女はウルムチの大学の先生だが、日本への留学経験もあり、カザフ族ということでアルマトイに知り合いもいるので問題なさそうだった。実はもう一人、北京在住のHさんという女性が参加を希望していたが、仕事の都合で来ることが出来ず、今回はN教授と私の2人旅、かなり気楽になってしまった。

 

7月29日(火)

1.アルマトイまで

バンコックの朝は意外と涼しく、歩いても汗を掻かない。それでも荷物は出来るだけセーブして大きなスーツケースは避けた。これだと宿泊先を出てからも、歩くのに不便はない。しかもこんな日はちゃんと門の所でタクシーが待っており、順調に空港へ着いてしまう。

 

エアアスタナのカウンターはスワナンプーンの端の方にひっそりとあり、そこへ向かう人以外は恐らくは気が付かないだろう。勿論並んでいる人もおらず、すぐに手続き、ビザを持っているというと係の女性はちょっと怪訝な顔をしたがすぐにニッコリして終了。

IMG_0038m

 

これから10時間以上の旅、食事も出るのかどうか分からないため、腹ごしらえとして、ファミマでチキンバーガーと肉まんを買い、ベンチで食べた。そして残さないように水をぐっと飲み込み、イミグレを通過。空港内でWiFiを使おうとパスワードのカウンターへ行くと、何と仕組みが変更になり、パスワード不要、自分でチェックインすることになっていた。色々と変化がある。

IMG_0041m

 

エアアスタナの比較的きれいな中型機に乗り込むとほぼ満席。顔だけ見ても何人か分からない乗客とCAが乗っており、ちょっとビックリ。ホーチミンまで1時間強のフライトではスナックと飲み物だけが提供され、やはり食事はなかったが、CAの対応は悪くはなかった。

IMG_0042m

 

ホーチミンでは殆どの乗客が降りて行き、ごく少ない乗客が機内に取り残される。そこへベトナム人の清掃員が乗り込んできて、掃除を始める。何となく腰が痛いと感じる私は機内を歩き回る。そして清掃員が下りた頃、トイレを使おうとしたが、CAに『離陸後20分まではダメ』と怖い顔で言われ、ちょっとショック。離陸してからトイレに行くとそのCAが『ようやく入れたわね』と笑顔で行ってくれたので、何となく親しみが出る。

 

アルマトイ行は本当に満席だった。隣にはカザフ人親子4人のうち、父親と息子が乗ってきた。母親と娘は後ろの席だ。父親は初めから流暢な英語で話し掛けてきた。最初ぐっすり寝ていた私が起き上がると待ちかねたように話し出す。彼は日本に強い関心があり、ラストサムライや北野武の映画などをよく見ているという。日本に関する質問が矢継ぎ早に出る。

 

『日本にはいまだに武士や芸者はいるのか』『日本人は本当に馬の肉を食べるのか』『日本は英語が通じる国なのか』『どうしてソニーはダメになったのか』などなど、質問は多岐に渡る。そして『どうしても日本へ行ってみたい』といい、その理由は『どうして資源の殆どない小さな島国があれだけの科学技術を生み出し、強い精神力を持って、世界に伍して行けるのか、この目で見たいんだ!』と言い出す。その裏返しのように『カザフは国土も広く、資源は豊富だ。だが、創造力のある工業は起こらないし、資源に依存し過ぎて、一部の国民は怠惰に陥っている』と国の現状を嘆いた。それでも『カザフはいいところだ、きっと気に入る』とも言う。

 

長い間ソ連邦に組み込まれ、宗教も否定され、カザフ語も禁止、今でも彼の息子などは実はロシア語しか話せないという。CAが食事のメニュ-を配ったが、そこにはカザフ語、ロシア語、英語が併記されていた。CAと乗客の会話の多くは実はロシア語だったらしい。因みに食事はタイ風のパスタ。牛肉か鶏肉を選ぶもので、ベジタリアンは少ないように思えた。アルコールを飲んでいる者も多く、『ラマダンなんて関係ないよ』という言葉が聞こえてきて、これは新疆とはかなり違う、と認識した。

IMG_0049m

 

因みに車はトヨタがアセンブリーを始めたようだが、彼はカムリを買ったらしい。35,000ドル。決して安い額ではないが、これが買える層はかなりいるらしい。やはり資源国家、お金持ちなのだろうか。

 

最後に彼は『我が国はロシアに靡いているが、賛成できない。中国が近づいてくるのも避けなければならない。日本と協力するのが良い』と締めくくった。何と7時間のフライト中、5時間以上は話していたことになる。寝ることはできなかったが、お蔭でカザフの基礎知識を得ることが出来た。飛行機は午後8時過ぎ、まだ暮れていないアルマトイの空港に着陸した。

IMG_0050m

軽井沢で過ごす2014(2)様々な軽井沢を満喫

軽井沢散歩

それから軽井沢の観光地を散策した。何しろ30年近くも行っていなかったので、随分と変わっているだろう。先ずは万平ホテルへ行く。このホテルの歴史は古い。ホテル内に展示室があり、そこを見ればその古さが分かる。江戸時代に開かれた亀屋、それが明治になり、外国人が来るようになり、佐藤万平の名前を取り、万平ホテルへ。

 

如何にも軽井沢のリゾートホテル。雰囲気は抜群に良く、ロビー自体が芸術的だ。ちょうど改装中のところもあったが、長くそこに居たい気分になる。すかさずT夫人が『お茶でも飲みましょう』と言い、屋外に心地よいカフェを眺める。天気が良いと全て良い。残念ながら時間の関係もあり、次へ進む。

DSCN3606m

 

続いて軽井沢ショー記念礼拝堂へ行く。ここは本当に環境が素晴らしい。『避暑地軽井沢発祥の地』という杭が刺さっているが、頷ける場所。1880年代にこの地に住み始めたショーという名のカナダ人宣教師がいたらしい。横には小川が流れ、川のせせらぎがいい。苔の生え方も実にいい感じだ。この辺には自転車で回ってくる観光客もいた。台湾人の女性2人も楽しそうに散策していた。礼拝堂で思わず礼拝する。

DSCN3607m

 

軽井沢銀座という通りも歩く。観光案内所には英語だけでなく中国語や韓国語の案内も置かれている。今の所、台湾や香港からの観光客が多いようだが、今後は中国からの観光客が増えると見ている。ここは人が沢山歩いている。週末はかなりの人ごみになるらしい。

 

車は木々の林を行く。雰囲気の良い軽井沢の一等地を走って行く。如何にも普通の別荘地とは違う。そんな中、かなり奥の方に旧三笠ホテルはあった。軽井沢の鹿鳴館と名を馳せた面影は十分にある。中には入らなかったが、外から建物を眺めるだけで貫禄を感じる。周囲の環境も非常に良い。

DSCN3619m

 

T家で

ようやくT家に戻ってきた。この家は中軽井沢から少し山に入った辺り。何とも心地の良い木々に囲まれている、雰囲気の良い家だった。庭には色々と木が植えられており、良いアクセントになっていた。2階建ての家で1階のリビングからテラスへ出る。

 

既に夕方になっており、テラスでバーベキューが用意される。何とも贅沢な環境。テラス脇には薪が積み上げられ、冬は暖炉で暖を取るのだろう。いいな。T夫人がバーべキューを始め、肉や野菜を焼いてくれた。木々の間から夕日が落ちていく。実にいい夕暮れだった。

DSCN3582m

DSCN3624m

 

Tさんはこの軽井沢で不動産業を始めるという。これから台湾や香港の人々が軽井沢を気に入り、住みたいと思うだろうと考えているようだ。既に欧米人で、ここに住んでいる人々がいるのだから、あり得る話である。勿論日本人でも、定年退職後、ここに居を構える人がいる。Tさん以外にも元勤め先の先輩方もいるようだ。確かに良い所だと思う。冬はどうなんだろうか?寒いかな?

 

結局夜遅くまで話し込んでしまい、夜半に2階で寝かせて貰う。全く静かな夜、音もない夜、ぐっすりと眠ることが出来た。部屋がゆったりしていたからだろうか。こんな環境で老後を送るのもよいな、と思う。

 

7月12日(土)

朝の散歩

『軽井沢は朝の散歩が最高なんです。その為にここに住んでいる人が沢山います』と昨晩Tさんに言われたので、今朝は6時に起きて散歩に出る。Tさんも付き合ってくれた。それにしても7月の東京はそれなりに暑いが、ここ軽井沢の朝は実に涼しい。昨日の昼間はそれなりの暑さだったのだが、朝は格別に違う。ここ中軽井沢には一般の家もあり、夏だけ来る別荘族の家もある。広い別荘風の家があり、イギリス人が開いたゲストハウスもある。実に多彩で面白い。更に若干の坂もあるので、健康的な散歩には程よい感じだ。

DSCN3634m

 

かなり歩いたところに、きれいなホテルがあった。庭が広く、中まではよく見えないが、高級感がある。その近くにはレストランやベーカリーがあった。軽井沢の朝、軽井沢は朝食、なるほどと思う。そしてレストランの朝食メニューを見て驚く。モーニングが1200円もするのだ。これはランチ並。東京の喫茶店でも今では500円前後だろう。恐らくは相当に良い材料を使っているのだろうが、土曜日の朝は8時かららしく、まだ店は開いていなかった。軽井沢の物価は決して安くない、と感じる。

DSCN3632m

 

1時間半度散歩して、家に戻るとT夫人が朝食を用意してくれていた。またテラスで食べる。実に気持ちが良い。普段はこのようのお家で食べ、誰かと会うなど用事があるとレストランで食べるのかもしれない。軽井沢の朝の外交、面白そうだ。

 

それからはボーっとしていた。結構歩いたので疲れてしまったのか、また朝が早かったからなのか、いや居心地が良かったからか。その内にお茶でも飲もうということになり、茶具を用意してもらい、私が持参した鉄観音茶を淹れてみた。テラスのさわやかな風に吹かれながら飲む張さんの鉄観音、また別の味わいがあった。ここでお茶会なんかやると良いかなと思う。

DSCN3635m

 

スーパーへ買い物に行くというので付いて行く。かなり大型のスーパーがあり、皆車で買い物に来ている。軽井沢だから高級品しか売っていないのだろうと思って覗いてみると、野菜などは地元でとれた物が格安だった。勿論肉やニーズ、ワインなどセレブが使うものは高かったが、庶民向けの食材も豊富で、それほど不自由はなさそうだった。

 

格安のランチ

ランチはゲストハウスの向かいにあるカフェへ行く。何とワンコインで美味しい物が食べられるというのだ。物価の高い軽井沢でそれはないだろうと思って行ってみると、本当にヒレカツ定食が500円。食後のコーヒーはセルフサービスだった。しかもカツの味はしっかりしている。お肉屋さんが実家だとか。驚きである。メニューには他いタンシチューなどもあり、本格的。当然お店はお客さんで一杯。ここは観光客が来るのではなく、地元の人達が集う場所。Tさん達の顔見知りもおり、会話も世間話が多い。

 

食後ゲストハウスに寄る。イギリス人のオーナーは忙しそうにしていた。今晩花火大会を企画しているらしい。夏は皆、色々なイベントをやり、友人を呼び合い、楽しむ。ゲストハウスのことを色々と聞きたかったが、遠慮した。どんな人が泊まりに来るのだろうか。欧米人が中心かな。

DSCN3628m

 

午後はまたボーっとしていた。昼ごはんのボリュームもかなりあり、食べ過ぎた。Tさんは昼寝している。こんな暮らしがリゾートだと思う。毎日朝から晩までどこかへ出かけ、飲んで食べて観光する、ばかりが旅ではない。

 

そうはいいながら、今日私は東京へ戻る。4時前に軽井沢駅前のバスターミナルへ送ってもらった。既に相当満足しており、思い残すことはない。バスは満員、日帰り客も多いのだろう。ただ覚悟していた軽井沢市内の渋滞はそれほどではなかった。まだ本格的な夏ではないらしい。高速を快調に走り、東京に戻る。池袋まで戻るつもりだったが、落合でバスが停まり、そこで下車。西武新宿線で新宿へ出ることが出来た。次回は行きもここから乗りたいが、チケットを買うにはやはり池袋か。先ずはいい旅であった。

DSCN3639m