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変化するヤンゴンを歩く2014Ⅱ(3)ソウウイン茶荘

ティラワ開発区と中古部品

続いてティラワの開発区を見に行く。ここは日本政府肝いりで開発が進む場所。2月にも訪れたが、道路が狭くて渋滞に嵌り、すぐに引き返していた。前回同様の道を行く。聞く所に寄れば、この辺の地価もかなり上がっていたが、そろそろ一度手じまいらしい。ミャンマーの物価からすれば考えられないような値段が付いているという。

 

開発区へ行く途中でランチを食べる。今日もミャンマー料理。SSがいるとすぐにイタリアンになるが、彼女は身重で来られないため、TTMの差配となる。出て来るミャンマー料理は決して不味くはないが、特に美味いとも言えない。でも野菜は新鮮だし、魚の煮つけも悪くはない。

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ミャンマーでは、食堂の店主もお客に施しをしないといけない。ジュースを無料で配ったり、お茶を振る舞ったりする。それがひいては自分の為になる。この辺もいかに儲けるかばかりの日本や中国とは一線を画す。利益の還元の仕組み、大事なような気がする。

 

開発区はちょうど整地が終わったところのようで、かなり土台が高く作られていた。水害などに備えるのだろう。入居希望企業もあると聞くが、道は狭いし、果たしてどこまで役に立つのか、素人の私にはよく分からない。周囲は相変わらず草が生えている。いつ企業が入り、稼働できるのだろうか。

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そのすぐ近くに中古車マーケットらしきものがあった。最近は見かけなくなった、日本の会社名などが入った本当の中古車がずらりと並んでいる。日本ならとっくに廃車の車、ヤンゴンでも既にそのまま使う人は少ない。どうするのかと聞くと、『部品を取り出して使える物を売り買いする』とのこと。リサイクル、ということか。勿論屑も資源である。

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S氏は疲れからか、飛行機の長旅からか、腰が痛いと言い出す。かなりしんどそうなので、マッサージに行く。前回もTTMと行った所、普通は若いマッサージ師が足を揉む程度だが、今回は先生が出てきて、S氏を診察、マッサージ師に指示を与える。そして別室で入念なマッサージを受けたようだ。私とTTMはいつもの脚マッサージを受ける。疲れていたのか、朝が早かったのか、すぐにぐっすりと寝込み、起き上がると終わっていた。それからS氏を待ち、店を出た。だがS氏の容体は良くならず、ホテルで休息することになった。

 

ソウウイン茶荘

S氏をホテルに送るとTTMが『行きましょう』という。こういう時は期待が持てる。どこへ行くのだろうか?車は少し中心部を外れた感じだ。雨が降り出している。着いたところはお茶屋さんだった。『ヤンゴンでも最大手のソウウイン茶荘です』

 

中に入ると如何にも卸、という雰囲気が漂う。何となく中国的だと思っていると、所々に漢字の表記がある。聞けば華人の経営だった。南シャン州に大きな茶畑と茶工場を持っているという。緑茶、花茶、烏龍茶、紅茶と種類も豊富だった。緑茶を飲んでみたが、味は悪くなかった。

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店を任されている若い女性との会話は初めTTMに通訳してもらったが、その後簡単な普通話を話すことが分かり、直接になった。『最近は紅茶も緑茶も需要が増えており、増産している』とのことだった。2年前に私が行った南シャンのガロー郊外は既に茶畑が荒廃していたが、華人系のしっかりした経営をしているところは、生産を伸ばしているということか。出来れば次回南シャンに行ってみたいと思ったが、『老板に聞かないと分からない』との回答だった。

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一度ホテルへ帰り、S氏の様子を見ると、何とか夕飯に行けそうだったので、SSの好きなイタリアンへ行く。ところが肝心のSSが来ない。タクシーに乗ったが、渋滞に嵌ったらしい。その間にサラダを頼み、スープを頼み、ピザが来た頃、ようやくやって来た。

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実は最近TTM家は郊外に引っ越していた。ヤンゴンの家賃は驚異的な上がり方を見せており、それまで住んでいた所の大家から、2倍以上の値上げ提示を受け、やむなく引っ越した。しかも引越し場所も容易に見つからず、予算内に収まる家は中心部にはなかったので、郊外へ。それがどのくらい郊外なのかこの時は分からなかったが、後で行ってみて大変な所だと分かった。身重のSSを一人でタクシーに乗せるような場所ではなかった。

 

ここのイタリアンは味が良く日本人も多く来るらしい。日本語フリーペーパもあった。パエイリャなどが特に美味い。本当にヤンゴンも変わったものだ、と思う。ただS氏の様子が気になっていた。

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8月15日(金)

午前4時の見送り

今朝は午前4時に起きる。S氏の日程は強行軍。本日朝6時台のフライトでバンコックへ行き、それから朝便で羽田へ。そして国内線で岡山まで一気に帰る。ロビーに見送りに行くと既にS氏は準備万端、予約したタクシーも来ており、すぐの別れとなった。だが、その様は痛々しい。腰がかなり悪くなっていた。

 

あとで聞けば、ヤンゴン空港で車いすを頼み、何とか搭乗。バンコックの空港でも頼んだが、手配してもらえず、大変な目にあった。その上東京までの長旅、相当苦しかっただろう。岡山まで帰り着いたが、翌日は週末で病院がやっていない。やむなく救急車騒ぎとなったとか。

 

私はそんなことも知らず、2度寝した。そして7時頃、また起きて朝食に。ところが昨日はあったビュッフェの食事が今日はない。『お客がいないので、食事はこれです』といって、パンや卵を供される。このホテル、新しいだけにまた経営が安定していない。

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変化するヤンゴンを歩く2014Ⅱ(2)祈りの姿は変わらないが

ミミさん夫妻とランチ

お昼はS氏を古くから知るミミさん夫妻とミャンマー料理屋へ。このご夫妻、2月にSSの結婚登録式でも会っているのだが、実は誰だか知らなかった。ご主人は本当に人のいい笑顔を浮かべる無口な人、ミミさんは活発におしゃべりする人だった。S氏の来訪を聞きつけて、一席持ってくれたわけだ。私にはよく分からないが昔話に花が咲く。

 

ミャンマー料理はすごく美味しいとは感じないが、何故か懐かしい味がする。今回のレストラン、カイカイチョーは最近流行のお店だとか。席でオーダーすることも出来るし、自分で行って材料を選び、調理を頼むことも出来る。席は室内もあるし、屋外もある。なかなか感じが良い。

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食後にラペソーが出た。食べるお茶、これが目的で私はミャンマーに入ってきたのだ。今ではレストランで普通に出るが、一緒に混ぜる豆や小エビなどは、1つに混ざった出来合品が供される。これはちょっと興ざめだ。しかし便利が一番、ヤンゴンは他のアジアの都市同様に資本主義に飲み込まれていく。

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ミミさんと別れて、ジャンクションスクエアーへ行く。S氏にヤンゴンの発展ぶり、変貌ぶりを見せる目的で行く。私は既に2年前、出来たばかりのこのショッピングモールへ来て驚いた。若い子はミニスカートをはき、スマホでWIFI。まるで東南アジアのどこかの大都市のそれと見まがうほどだ。

 

2年経ってここは更に大きくなっていた。立体駐車場は満員で、スペースもない。中は店舗が増えており、銀行のATMがズラッと並ぶ。今回SSご懐妊にあたり、日本からベビー服を買ってきたが、この中にもベビー服専門店が2₋3店舗あり、デザインなどは日本とそう変わらない。日本ではメイドインミャンマーの表示も見られたから、輸出用が売られているのかもしれない。ダイソーの100円ショップも健在だった。

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懐かしいボージョーマーケットへ行く。ここはS氏がヤンゴンを訪れると必ず来た場所。タッティングと呼ばれる伝統的な織物(イギリスから入ってきた物?)を買いに行く。私も10年前、お土産にいくつか買ったが、手織りで細かい作業があり、技術が必要、ということで、織り手が殆どいなくなっていると聞いていた。今回店にはまだいくつかあったが、買う人もなく、忘れられていく商品かなと感じる。値段は以前の数倍になっていたが、それでもヤンゴンの物価上昇に比べれば、まだ安いといえる。

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ミャンマー北部、チン州の織物も買いに行く。ここも昔来たことがあったが、S氏には何か思い入れがあるらしい。残念ながらオーナーはアメリカ出張中とのことで、値段の交渉が出来ず、明日また来ることとなる。

 

ホットポット

夜は恒例のホットポット。以前はセブンアップという店でいつも食べていたが、今やもう無い。現在SSのお気に入りのSKへ行く。SSは重田さんの来訪ということで、個室を予約して待っていた。それにしてもSSのお腹は異常に大きい。どう見ても双子が入っていそうだが、一人だという。皆から『運動しないで食べてばかりだから』とからかわれている。

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ミミさんが孫を連れて参加していた。ミミさんの娘は今マンダレーにいるらしい。携帯電話でS氏と話している。S氏がミャンマーで築いてきた人の繋がりがこんなところに出て来る。5₋6年前までは高額だった携帯も今ではかなり安く普及しており、ミャンマーの進歩は速い。

 

TTMには妹が4人おり、たった一人の弟は既に亡くってしまっていた。その子供たちも含めてTTMファミリーが出来上がっている。長女であるTTMは家長として全ての責任を担っているように見える。今日も空港に迎えに来たヨーマは妹の娘で、東京留学に関してもTTMが相応の支援をして実現したという。ただヨーマは学費などを全て自分でアルバイトして稼ぎ、一人で頑張っている。

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もう一人のムアは弟の娘。既に父親がいないこともあり、また母親は公務員でネピドーという新しい首都の勤務となったため、ムアはTTM家に住み、仕事を手伝っている。ムアの姉、イモーがやってきた。彼女もヨーマやムアと一緒に日本語の勉強を始めたが、途中で韓国語に転向、その後縁があり、エアマンダレーという航空会社に勤務している。今日も空港からやってきた。TTM家は女系家族であり、女の比率が高い。SSのお腹の中の子も女の子だという。皆でワイワイやりながら、ホットポットを食べる、何となく嬉しい。S氏も何となく顔がほころぶ。

 

8月14日(木)

シェンダゴンパゴダ

翌朝は何となく頭が重い。特に酒を飲んだわけでもないのにどうしたことだろうか。S氏も何となく腰が痛いという。どうしたことだろうか。これはお祈りでも行かねばと、ヤンゴン最大の寺院シェンダゴンパゴダを目指す。ここに来るも10年ぶりか。雰囲気は特に昔と変わらない。

 

エレベーターもあるが、敢えて参道の階段を上がる。ここで花を買う。いつもの行事だ。基本的に右側通行なので、右側の店の売り子が一生懸命売り込む。反対側は静かだ。TTMは敢えて、いやいつも、その反対側の店へ行く。これは人間の心理だろうか。そこでゆっくり花を買う。この風景がいい。

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パゴダは更に大きくなっているように見えた。以前は軍事政権を讃える展示しかなかった展示室も普通のパゴダの歴史になっていた。これが民政への移行ということだろうか。祈りを捧げる人々に大きな変化はなかった。ショッピングモールにはミニスカートで行く若い子も、ここへ来るとなればロンジーを穿かない訳にはいかない。一部にはジーンズ姿も見られ、将来への懸念はあったが。

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自分の生まれた曜日の場所で祈り、金箔を買って、自分や家族の治したい場所を探して仏像に張る。写真屋もいたが、今は商売あがったり。皆携帯で写真を撮る。聞けばこのパゴダにはWIFIも完備しているらしい。祈りの姿に変わりはなくても、社会は変わっているようだ。

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ボージョーマーケットに寄る。昨日のチン州の織物を取りに行く。さすがにここは外国人ではなくTTMに交渉を任せて我々は外で待つ。サンダルが目に入る。私はミャンマーサンダルが欲しかったが、結構高いので、ビーチサンダルを買う。何故かミャンマーで買ったサンダルは壊れにくい。

 

服屋では、ミシンを使い、縫子が懸命に服を縫い上げている。このような光景は勿論日本では見られないが、いまだミャンマーでは、このような産業がある。安価で豊富な労働力とは、このような縫子を指すのだろうと、勝手に納得する。

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変化するヤンゴンを歩く2014Ⅱ(1)あまりの変化に驚きの連続

《ヤンゴン散歩Ⅱ2014》  2014年8月13日-19日

 

ミャンマー、そこは自分が最もリラックスできる場所。いつも行きたいと思っているが、ご縁がない時は全くのご無沙汰。今年は運が良い、2月にトートーマさん(TTM)の娘、スス(SS)が結婚。我が娘のように可愛いSSの結婚登録式に参加する機会を得て、1年半ぶりにヤンゴンを訪れた。何となくミャンマーに親戚が出来た感じだ。

 

そして私をミャンマーに導いた男、S氏から『8月のお盆休みにヤンゴンに行きたい』との連絡を受け、私も同行することにした。2003年8月、初めてヤンゴンへ行った時、全てのアレンジをしてくれ、空港まで出迎えてくれたのもS氏だったし、S氏の仕事をミャンマーサイドでやっていたのが、その後大きなご縁となるTTMだったのだ。SSは当時19歳。何とも懐かしい。

 

更にはSSからFacebookで『もうすぐあなたもおじいちゃんになりますよ』という何とも言えない嬉しいご懐妊メッセージまで飛び込んできた。もう行くしかない。8月が待ち遠しかった。

 

8月13日(水)

1.ヤンゴンまで

S氏と再会

今回はS氏に同行するため、バンコックの空港で待ち合わせた。彼は朝5時着の夜行便で羽田からバンコックへやってきた。私は5時過ぎには宿泊先を出て、タクシーを探した。まだ暗い街、昨夜のスコールでかなり涼しく感じられたが、それでも荷物を引っ張って歩いていると、汗が出てきた。道に出るとすぐに一台のタクシーがやって来て、車の走っていない道を相当のスピードで空港へ向かった。空港にもそれほどの人影はなく、チェックイン、イミグレともスムーズだった。SSの旦那にジョニ黒を買って、お祝いにした。ミャンマーではジョニ黒が喜ばれると前回聞いたからだ。

 

S氏ともスムーズに再会した。特に変わった感じはなかったが、現在の仕事はハードで海外出張も多く、直前もベトナムへ1週間行っていたとのこと。夜行便で来たせいもあり、疲れが見えた。それでも2年前に倉敷で会って以来久しぶりの再会、話すことはいくらでもある。S氏は以前の会社でミャンマー関連の仕事をしており、その時は2か月に1度はヤンゴンへ行っていた。当時のヤンゴンは『軍事政権下の暗黒の時代』であり、ネットも繋がらなければ携帯もない。逆にあまりに何もなく、日本の本社からの連絡も難しいので、『ヤンゴンでは実よく眠れた、健康に良かった』と懐かしそうに語る。

 

S氏のフライトがTGだったので同じ飛行機を予約した。バンコックからならエアアジアなどLCCで行けば安いのだが、空港がドムアンで不便なこと、時間帯も合わないことからTGを選んだ。朝7時55分発のその便はほぼ満員。私の横にはインド人が座っていた。

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僅か1時間のフライトでもそこはさすがTG。ちゃんと朝ご飯は出るし、コーヒーなど飲み物も出す。LCCとの差別化を図っているのだろうか。ちょっと目をつぶっている間に飛行機はヤンゴン空港に到着した。これだけ短いフライトだと時差30分と言うのが、クローズアップされる。

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2.ヤンゴン

料金は高いが

ヤンゴン空港に着くとS氏が信じられないという顔をする。『6年前とはエライ違いだ』、私も2年前にそう感じたので、その気持ちは良く分かる。空港にはTTMの他に、ヨーマとムアの2人の女の子が待っていてくれた。ヨーマは現在東京に留学中で、日本語学校に通っており、日本語を普通に話す。ムアはTTMと一緒に住んでおり、日本語を勉強しているが、あまり話そうとはしない。シャイなのか。

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空港からホテルまでの道のり、やはりS氏は信じられないという顔。私が上海留学後、9年して上海の街を車で走った時の、驚きと困惑を思い出す。全てが変わっている、と感じだろう。時々懐かしい建物やレストランが出て来ると反応する。

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ホテルは昔定宿だったミンガラガーデンではなく、新しく出来た所。広い民家を改造したホテルできれいではあるが、特に部屋がいい訳でもなく、凄く豪華なわけでもない。それでも1泊90ドル。トレーダーズホテルが50ドルだった時代のS氏、驚きを隠せない。『話には聞いていたが、これほどとは思わなかった』、率直な感想だろう。フロントでは一応英語が通じた。新規オープンしたばかりなので、従業員教育はまだまだのようだ。

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何でもあるスーパー

このホテルはTTMの前事務所のすぐ近くにあり、S氏にもなじみの場所。スーパーを見つけて『こんなところに立派なスーパーが出来ている』と。早々入ってみる。まず目についたのが両替。昔は両替1つするにも大変だったが、今や市内の至る所で両替が可能。このスーパーも外国人が利用するようで、両替所が設置されており、レートも銀行などと変わらない。100ドルを両替してみたが、すぐにチャットがもらえる。

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きれいなレストランやドーナッツ屋なども併設されており、S氏はまたまた驚きの声を上げる。そして売っている物も格段に増え、その質量ともに昔とは大違い。更には総菜コーナーも出来ており、家で料理を作るミャンマー人のイメージも崩れる。今やヤンゴンは忙しすぎるため、スーパーで買って、家でチンするスタイルまで出てきている。値段も結構高いが売れているのだろうか。

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初の中央アジア カザフスタンを行く2014(16)アルマトイ イミグレは進まず

街歩き2

それからまた街歩きを始めた。東の方へ向かう。立派なビルが立ち並ぶ場所がある。HSBCの看板が出ている。こんなところまでHSBCは来ているのか、やはりお金持ちは多いということだろう。海外送金を見込んでいるに違いない。トルコあたりに資金を流して、不動産を買っているとの話もあった。

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本屋もあった。入ってみると何と英語のアルマトイ地図を売っている。これが欲しかったんだ、最初に。今回は何か歯車がかみ合わなかった。更には壁に貼るような大きなカザフ全土の地図も出てきた。あるところにはある物だ。これは外国企業が資源開発用に作ったものが横に流れたらしい。

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立派なスポーツセンターもあった。字は読めないが、どうやらバレーボールのアジア選手権があり、日本代表も出場するらしい。カザフは2022年の冬のオリンピックを目指しているが、その内アジア大会、そして夏のオリンピックを開くつもりかもしれない。資金はある程度あるのだから、各競技に力が付けば可能な話だ。

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地下鉄に乗る。前回も一度乗ったが一駅だったので、今回は思い切って終点まで乗ってみる。だがホームに行っても、どちら方向に乗るのか分からない。駅員のおばさんに聞こうとホームの端に近づくといきなり怖い顔で『線を踏み越えるな』と言った、と思う。その姿に『いまだにカザフは公務員が人々を管理する』という感覚が、ソ連式が色濃く残っていることを強く感じた。

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終点で降りると、そこは郊外の駅。マンションが建ち始めているが、特に何もない。簡易バーがあったのでN教授はそこで一杯と立ち寄ったのだが、トイレに行きたいというと『ずーと向こう』と言われ、まずはトイレを探す。言われた場所はレストランだった。1階にトイレがあり、無料で使えた。面白そうなので2階へ上がると、フードコートのようになっており、午後4時だというのに大勢の人が何か食べていた。よく見るとお茶を飲んでいる人、ビールを飲んでいる人もいる。我々もここに加わり、N教授はビールにあり付く。こんな簡単で言葉が出来なくても気楽に食べられる場所があるなんて。我々はシャルハル氏らのお世話になり過ぎ、アルマトイを知らなすぎることを痛感したが、もう遅かった。

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また地下鉄に乗り、昨日行ったカフェを目指す。降りる駅は違っていなかったが、道を間違えたのか、別のところへ出てしまう。何しろ英語の表示が少ない。大きな通りだと辛うじて英語が書かれているが、普通はキリル文字。これは意外と困る。歩きやすい街並みなのだが。

 

ちょっとおしゃれなレストランに入る。何とかWIFIが通じたが、若者などが来るバーなのか、音楽がうるさい。昨日のカフェの心地よさはなかった。店員も何かやる気の無さが感じられる。大きな立派な店なのでお金持ちだけケアーしているのだろうか。風もあまり通らない。トイレは室内の地下にあり、ロシア風の重厚な造りであることが分かる。高級レストランだ。2時間ほどネットをやって過ごしたが、あたりはすっかり暗くなっていた。腹は減っていなかったので、結局アイスティ一杯で粘ったことになる。確かに良い客じゃなかった。

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遅いイミグレ

そして待ち合わせのホテルカザフスタンへ向かう。近いと思っていたが、意外と歩く。やはり道を間違えていたのだ。空には満月が掛かる。写真を撮ったが、素人には難しい。スーパームーンというのだろうか。煌々と輝いていた。月夜の散歩もまたよい。

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ホテルでは既にシャルハル氏、ララさん、Pさんが待っていた。遅れないように早く来たらしい。シャルハル氏の車は小さいので、5人乗ると満員だが、見送りは欠かせないと思ったのか、総出で来てくれた。その心は嬉しい。車は30分もしないで空港に着いてしまった。渋滞もない。早過ぎるなと思ったが、何と空港が大渋滞。小さな空港にこんなに車が来ることを想定していなかったようだ。降りるまで20分もかかる。

 

それでも早いなと思って出発階に上がり、時刻を確認して驚いた。N教授のソウル行きは時間が変更になり、午前1時、私と同じ時間になったと聞いていたが、何と0時の間違いだった。もし空港へ行く時間を1時間遅くしていたら、間に合わなかったかもしれない。すぐに見送りの人々と別れ、チェックインカウンターへ。N教授は直ぐにチェックインできるが私のフライトは3時間以上後のため、チェックインできるか心配したが、エアアスタナの係は気だるそうに手続きをしてくれた。

 

しかしそれからが大変だった。イミグレはチェックインカウンターと同じところにあったが、何と開いているゲートは一つだけ。そこに中央アジア諸国へ行く人、ソウルへ行く人などが押し掛け、物凄い時間がかかっていた。時々クルー用のゲートを開放するが、クルーが来るとそこも埋まり、動かなくなる。まあ気長に待つしかない、既にチェックインしたのだから、置いていくことはあるまい。それから50分ぐらいしてついにイミグレを抜けた。さすがにイミグレ担当者も疲れており、すぐにハンコを押してくれた。何ともソ連式の管理方法だ。日本やアメリカなど世界10か国の観光客を折角ノービザにして迎え入れようとしている政策は、ここには届いていなかった。

 

まだ少し時間のあったN教授はすかさずビールを探し、ゲットした。横では韓国人のカップルがウオッカの小瓶で何本もストレートであおっていたのが印象的。0時ごろになり、N教授のフライトは搭乗となり、別れた。それからは水を飲みながら旅行記を書いて過ごす。午前1時には私も搭乗となり、機内へ。今回はダウレンはおらず、ぐっすりと寝込んで起きるとバンコックに着いていた。

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初の中央アジア カザフスタンを行く2014(15)アルマトイ 日本食レストランかぶと

街歩き

ダウエンが車でカザフスタンホテルに連れて行ってくれた。ちょうどその近くの科学アカデミーでまず降りる。ここは約70年前にシベリアに抑留された日本兵が強制労働で建てたと言われているビル。勿論ビルのどこにもそのような表記はないが、かなり重厚な建物で、ウランバートルのオペラハウスなどとも似ていることから、その可能性は高い。

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続いてホテルカザフスタンへ。ここは1978年に建造された由緒あるホテル。ソ連時代の重厚な造り、当時としては高層な26階建てで、今でもアルマトイのシンボルとなっている。この付近は相当に木々が茂り、実に感じが良い。ロビーの天井も高く、昔の中国のホテルを想起させる中2階がある。何とも懐かしい雰囲気のホテルだった。

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それから市庁舎前の独立記念塔へ行く。この塔の下にはナザルバイエフ大統領の手形がある。観光で訪れた人々が、自分の手をその手形に充てて、記念写真を撮っている。ここでダウエンと別れた。彼は1つ会議をキャンセルして付き合ってくれた。本当にご縁だ。

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そしてようやく自由時間が来た。シャルハル氏、Pさんとも別れてN教授と二人、街を歩き始める。シャルハル氏の車は電気系統に故障があり、窓が開かないためかなり暑いが、散歩はとても気持ちが良い。何しろアルマトイ旧市街地は緑がとても多く、そして深い。道路は計画的に碁盤の目のようであり、歩きやすい。建物は皆ソ連時代のものだが、重厚で見応えはある。

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取り敢えずの目標をガイドブックにある鉄道博物館にしてみる。その前に修理中のオペラハウスが見えてきた。だが博物館はない。バス停の地図を見ているとカザフの若者が英語で声を掛けてくれた。鉄道博物館は彼も知らなかったようで、ネットで検索してくれたがやはりなかった。それでもこれまで会ってきた人々がロシア語を話す人ばかりの中、街の若者が英語を使い、スマホを使う姿に、新世代を感じた。

 

ちょっと歩いて行くと、何だか雰囲気の良いホテルが見えた。グランドテンシャン、形の良い3階建てだ。思わず中へ入り、フロントへ行くと笑顔の女性が英語で話し掛けてきた。ルームレートを聞くと結構高かったが、『ネットで予約する方が安いです』と親切に教えてくれた。好感が持てる。次回はこういうホテルに泊まってみたい。

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そして科学アカデミーの並びの道に、お洒落なカフェがいくつもあるのが見えた。ここで休憩。ここなら英語も通じるし、ビールも飲めるし、WIFIも通じる。更には実に気持ち良い風が吹き抜けて暑さを忘れさせてくれる。私はこういうところを希望していたのだ。何故私はこれまでここに辿り着かなかったのか、とても不思議な気がした。

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しかし至極の時間は長くは続かない。20分ぐらいアイスティを飲みながらネットを繋いでいるともう約束の時間が来てしまった。名残惜しかったが、席を離れる。明日もまた来よう、と真から思う。そしてまた歩き出すと、メトロの駅があり、きれいな建物がいくつか見え、そして先ほどの独立記念塔に舞い戻った。

 

Pさんが『明日はケーブルカーで山の方へ行きましょう』というので、思わず強い口調で、『もう山はいいでしょう。明日も私はカフェへ行きます』と答えてしまい、顰蹙を買った。それでもそれが本音だった。アルマトイに10日間もいること自体がありないと言われたが、その一番いい場所にようやく今日辿り着いた訳だから、最終日は自由にさせて欲しいと思う。

 

帰りにトルコ式のドネルケバブの店に寄り、買い込み持ち帰る。かなりの大きさがあり、食べるのに難儀した。さすがにカザフにも飽きてきたのかもしれない。さて果たして明日はどうなるのか、飛行機は無事に飛ぶのだろうか、明日は明日の風しか吹かない。

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8月8日(金)

再びかぶとへ

アルマトイ最終日、ゆっくりと起き上がる。そして部屋の整理。10日もいると、色々と溜まる。荷物をバッグに詰め込み、何とか納める。今日はシャルハル氏の車で街へ行き、後は自由、夜また集合して空港へ向かう予定だ。

 

まずは日本料理屋かぶとへ。ここのおかみさんにインタビューすべく、N教授はアポを取っていた。シャルハル氏は我々を送るとすぐに帰ってしまった。2人で定食を食べる。牛すき定食を食べると、巻物が小皿についてきた。何となく懐かしい。ランチタイム、お客は結構入っており、カザフ人が日本食を楽しんでいた。ダウレンもこのようにして、定食を食べているのだろう。

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午後2時を過ぎてようやくここのおかみ、さおりさんに時間の余裕ができた。彼女は一人でこのかなり広い店を切り盛りし、偶には料理も作っている。聞いてみると何と、『海外はアルマトイが初めて。偶然ここに来てしまった。日本でも長野と富山しか住んだことがない』というので驚く。

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店を引き継いでから3年、色々なことがあったらしい。『とにかく任された店を潰さない』ことだけを考えて、懸命にやって来たという。それでもカザフ人を使うのは簡単ではない。何と1週間前に接客係を全員入れ替えたらしい。さおりさんの娘も以前から店を手伝っていたが、本格的にスタッフの一員になった。彼女は当地の大学でロシア語を勉強したので、スタッフとの会話に不自由はないが、さおりさんの指示を彼女が伝えるとスタッフは言うことを聞かないこともある。難しい。店に入ると大声で『いらっしゃいませ』と言われるが気持が良い。

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食材の仕入れはさおりさん自ら市場などへ足を運び、出来るだけ安くて良い材料を調達。ロシア方面から来るサーモンなどは極上で安いとか。調理は基本的にカザフ人のシェフがやるが、必要があれば自らさも作る。本当に何でもやってきた。カザフ人のお客さんからも徐々に認知され、お客も増えてきており、何とかやっている、それが素晴らしい。

 

日本人でアルマトイに来た人の殆どがこの店を訪れという。日本の味がして、価格も高くなく、何より日本人のおかみさんがいるのだから当然だろう。店にはスキージャンプの高梨沙羅選手や、なでしこジャパンの澤穂希選手のサインも飾られている。『色々な人が来てくれることが支え』とも言う。それはそうだろう。在カザフ日本人は200人にも満たない。

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今後かぶとがどうなって行くのか見守りたいと思っていたが、Facebookによれば9月に店のボヤ騒ぎがあり、調理ができない状態に陥ったらしい。今はどうしているだろうか?是非頑張ってほしい。

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(14)アルマトイ 豪華なランチをご馳走になる

8月7日(木)

ハシビシという村で

翌朝は7時に起き、昨日買ってきたビスケットを食べる。やはり想像通り、美味しい。少しだけチョコが入っているタイプで私の好み。勢い何枚も食べてしまい、腹は大丈夫かと思ってしまう。

 

9時にホテルを出発し、市内へ向かう。昨日のように一日を無駄にしないため、先方から連絡が無くても市内散策に出掛けることにした。そして途中まで来ると電話があり、市内東部の方へ舵を切る。ある県政府を訪問するらしい。ところがまたもや道に迷う。今回は右と左を間違えたらしく、少し遅れた程度で国旗がはためく、村役場へ到着した。

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そこにはリ・クワンユーにちょっと似たオジサンが待っていた。彼はアルマトイ市政府を退職した、経済顧問だったという。N教授がソ連時代の質問をすると、待っていました、とばかり昔話を始めた。どうやらソ連時代礼賛型の人らしい。この村は国営農場コルホーズだったが、独立後は農業・牧畜業をやる人が減っているらしいことは分かった。周囲の農耕地も荒れていた。

 

また若い書記は『政府には外国企業誘致政策もあるが、この村は土地が狭く、大規模農業をするには適さないため、投資を申し出るところはない』ときっぱり。恐らくは国内企業でも別の場所を選ぶのだろう。あとは延々とオジサンの演説を聞く。オジサンが話している間、メモを取っていたN教授は『人が話している時はちゃんと聞け』と怒られ、話をストップされた。何という権威主義。

 

『俺は大統領の下で働いた。大統領が話す時、メモを取る者などいない』と。とんでもない独裁者が出てきたものだ。彼の話を聞いても分からないから、その間にメモを取っているというのに。1時にダウエンとランチの約束をしていたので、私は早くこの場を離れたかった。シャルハル氏も運転手として時間を気にしていたが、独裁者は時間など構わず、『村の企業に連れて行ってやる』という。彼ではなく若い書記が来てくれるならよいが、ここから12㎞も離れた場所へ行っていてはランチに間に合わない可能性が高い。企業へ行って10分でさよならすることなどこれまで経験はない。ましてや田舎なのだ。それでもPさんは『こちらがお願いしたのだから仕方がない』と言い、企業訪問へ出た。

 

同じ村の企業なのかさえ分からなかったが、30分ほどで着いた。牛や馬を飼っている。建物の中には既に大勢の人が集まっており、皆じろじろと見ている。これはとても10分では許されない、と諦め、裏の工場へ。カナダから輸入された乳牛が飼われていた。専用の服を着ないと中へ入れないとまたも待つ。もう仕方がない、と諦めた時、『工場見学はしない』と誰かが言いだし、出口へ向かった。N教授が『誰か偉い人が来るらしい』と言い、ここぞとばかりに裏から逃げ出した。こんなことは初めてだが、先方も偉い人の方が余程大事なのか、あの偉そうなオジサン以外誰も追ってこなかった。オジサンは名残惜しそうだったが、それを振り切り出発した。

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豪華なランチ

既に時間がギリギリだった。それでも何とかなるような気もしていた。ダウエンはきっと外で待っているだろう、遅れると悪いな、と思いながらも楽観していた。1時ちょうどに見覚えのあるビルの前で車が停まる。先日歩いた場所だった。しかしこれまでは車が停まってから場所を探すのに苦労していた。ところが今回は道の向かい側に指定されたレストランがあるではないか。慌てて駆け寄ると、やはりダウエンが立って待っていた。

 

このレストランはかなり高級で建物の横に屋外スペースがあり、更には床が高くなっている特別に囲われた所まであった。思わずそこを希望する。そこでは床に座り、床には絨毯と布団が敷き詰められ、クッションも置かれている。実にリラックスできる場所だった。

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メインディシュはベシュパルマック。先日ララさんが作ってくれたが、今日は特別に馬肉のソーセージが入っていた。これは先日機内で話した時に馬刺しの話題になり、彼がそれを覚えていてくれ、オーダーされたもの。このような心遣いが嬉しい。これは本当に濃厚な感じで、特に脂身は絶品だった。5人で食べたが、10人前はありそうな分量でとても食べきれなかったのは残念だった。スープも出てきたが、凄く濃厚でごくごく飲んでしまい、お替りが直ぐ出て来るとまた飲んでしまう。

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更にはポロも出てきた。これはまたちょっと変わっていてチキンライスのような色をしていたが、羊の肉との味の取り合わせが絶妙だった。皆お腹が一杯となり、ぐったり。思わず横になって眠りそうになる衝動を抑えるのに苦労した。

 

ダウエンの保険会社は街の至る所に広告が出ておりそれを聞いてみると『広告の出ている場所は全て取次所』なのだそうだ。収益の半分は車の自賠責保険、これは国が加入を義務付けているため、車が増える限りは成長分野。但し1年ごとの更新を料金の安い他社に取られることがネック。医療保険などは国民の意識がまだ低く、加入率は高くない。

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またカザフスタンの統計資料を入手したいというと、『国家から出ていている統計もあるが、これは信用できない。我々は世銀かEBRDが出している経済統計を見ている』ときっぱり。先ほどの偉そうなオジサンはアスタナへ行かなければ統計年鑑は手に入らない、と言っていたが、むしろアルマトイの国際機関から入手した方が良いと私も思う。ただ残念ながら世銀事務所に勤めているダウエンの友人は休暇で海外へ行っているらしく、訪問は適わなかった。

 

尚ダウエンに『実は日本のアルマトイ領事館は昨年12月末で閉鎖した。もし日本へ行くならビザ申請をアスタナで行わなければならないだろう』というと、一瞬絶句し、『何を言っているんだ、カザフ最大の都市はアルマトイであり、日本を訪れる客もアルマトイから行くに決まっているではないか』という。私も当然そう思うし、その国の最大都市から撤退するということは、その国との外交なり通商なりを縮小する、と宣言するようなもの。中国包囲網で最重要国であるカザフに対して安倍内閣はなぜそのようなことをしたのか、理解に苦しむ。

 

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(13)アルマトイ 待ちぼうけも楽しい

8月6日(水)

連絡待ちの一日

今日はゆっくり起きた。Pさんは恐らく朝帰りだろうから、早くても10時以降の活動となる。今日初めて知ったのだが、カザフの役所は10時開始らしい。そしてランチは2時からだという。それで先日のランチ事件の誤解も何となく分かった。

 

しかし10時を過ぎても何も起こらなかった。私はそれも想定済みで、旅行記の作成に精を出していた。何しろネットが繋がらないため、集中して書けるのが良い。人間無ければ無いで諦めが付く。あるとよくないと分かっていても、つい使ってしまう。弱さなのだろうか、それとも中毒?

 

12時前にPさんとイエルン氏が出かけたので付いて行く。イエルン氏と息子は今日の夜の列車でアスタナへ向かうため、車中で食べる物や飲むものを買いに行く。スーパーへ行くと、私はお茶コーナーへ突撃。ケニアの紅茶と煎茶のティバックを買う。ケニアは世界で4番目に茶葉が採れる国で、輸出されていても不思議はないが、日本ではコーヒーの認識はあってもケニアの紅茶というとピンと来ない。

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煎茶のティバックは三角のナイロン袋に入っており、立派なティバック。ドイツ辺りでパッキングして輸出しているのだろうか?茶葉はそれなりだが、一体どこで生産しているのだろうか?まさかトルコではあるまい。

 

クッキーも美味いに違いない。モンゴルでも体験済みだが、ロシア製、東欧製のお菓子は意外や美味しい。今回は小さいのを三種類買ってみた。ついでにカップ麺にも手を出した。ロシア製と韓国製があり、両方トライすることに。モンゴルでは箸を使わないため、麺が短くなっていたが、カザフではどうだろうか?

 

銀行にも寄った。Pさんは銀聯カードでテンゲを下ろすつもりだったが、ATMに現金がないようで、お客が何人か、現金到着を待っていた。Pさんは先日アルマトイ市内のHSBCのATMでテンゲを下ろしたばかり。空港で私が見た時は銀聯マークが無かったので使えないとばかり思っていたが、やはりここでも中国人民元パワーは健在だった。

 

因みに1996年に私が中国工商銀行の東京事務所長の通訳をした際、彼が『この度我が行はカザフスタンのアルマトイに事務所を開設し・・』と話したことを急に思い出した。昨日確かに工商銀行の立派な建物を見た。その時私は通訳のミスをした。何と『アルマトイ』を『アルマイト』と訳したようで、散々からかわれたのを覚えている。

 

ホテル近くへ来るとN教授がフラフラ歩いていた。水を買いに来たと言ったが、その顔にはビールが飲みたいと書いてあった。そして『昼ご飯を食べよう』というので、ホテルの下のレストランへ入る。Pさんも付いてきて、一緒に食べる。どうやら午後のアポに備えて、N教授がビールを飲まないように見張るつもりらしい。カザフでは酒を飲む人も多いが、敬虔なイスラム教徒もいるので要注意だ。特に役人や学校関係者は難しい。

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ラグマンとシャシリクを頼む。ところが羊肉がないという。牛でもよいということで注文したが、ラグマンを食べ終わっても出て来ない。ようやく出てきた串に刺さっていたのは牛でもなく、ガチョウだった。だがそれでもかなり美味しい。私はこの肉厚のシャシリクが本当に気にいってしまった。

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午後も動きはなさそうなので、この旅で初めて昼寝をした。気持ちよく眠ってしまい、起きたら既に4時過ぎだった。N教授がやって来て『今日の面談はないな』と念を押すように言う。ようは仕方がないのでビールでも飲もうということだが、隊長であるPさんは『役所は午後6時までやっているからまだ駄目』と突っぱねる。

 

それでも午後5時を過ぎるとさすがに今日は難しいと分かり、この旅の反省会が始まる。これまで毎日顔は合わせていても、ゆっくり話す機会はなかった。N教授が持ち込んだカザフスタンに関する本なども参照する。私は今回も特に事前調査はしていないので、参考になる。

 

そして7時前に運動を兼ねて少し離れたスーパーへ行ってみる。名前は『METRO』。昔中国でも何度か見たオランダあたりのスーパーチェーンか。交通量の多い道路沿いを歩くと、交通事故が発生しており、救急車が来ていた。倉庫群に夕日が落ちていく。歩いていると色々な光景が見える。

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METROはかなり規模の大きなスーパーだったが、お客は本当に少なかった。我々が外側で写真を撮っているといきなり警備員が撮るな、という合図をしていた。そしてマネージャーと思われる人が飛んできて『今撮った写真を消せ』と迫る。なぜいけないのか聞こうにも言葉が通じない。カメラが新しいので消去の仕方も分からず、まごまごしていると、先方の態度が急変、『中では写真を撮らないで』という感じで、丁重に入れてくれた。一体何が起こったのか。

 

ただ警備員が私たちをピッタリマークしてきた。N教授は大きな買い物車を押しており、まさかこれで何も買わない訳にはいかない。警備員はいい人で、ウオッカと言えばウオッカを探し、クッキーと言えばクッキーを探してくれた。特にカザフ産を求めると喜んで探す。ちょっと見学のつもりがかなりの買い物になってしまった。これも成り行き、仕方がないことだ。

 

夕飯はカップラーメンを食べてみた。韓国製は不味くはなかったが、特に麺が短い訳でもなく、特徴のないものだった。N教授のロシア製は、それほど美味しいとは感じられない代物。まあ我々なら韓国製になじみがあるということか。

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そうしていると、シャルハル氏とララさんがやって来て、大きなスカイを切り出した。そのスイカ、本当に大きい。日本にはないタイプ。それをシャルハル氏が羊肉を切り出すようにナイフで削ってくれた。これだけ大きいと周辺と真ん中辺では甘さが全然違う。『真ん中は甘いぞ』と何度も勧められ、ビール腹ならぬ、スイカ腹になってしまった。

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初の中央アジア カザフスタンを行く2014(12) アルマトイ 道に迷っても字が読めない

夕食はシャシリク

シャルハル氏は疲れた体にムチ打って懸命に車を動かしていた。何とか日暮れ前にホテルに戻った。我々も疲れていたので、夜は適当に取ることになった。N教授はビールとケバブ―があればよいというので、ホテルの下の、あの煩いレストランへ行ってみる。いつも外で美味そうな肉を焼いていたから。

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可愛らしいウエートレスがやってきて注文を取った。よく見ると時々上のホテルにやってくる女の子。誰かの娘らしい。ケバブ―はここではシャシリクといい、肉のぶつ切りを豪快に串にさして焼く。羊はないというので牛肉で焼いてもらった。これは肉が柔らかくて、美味かった。

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そして言われるがままに、ボルシチ、サラダ、ラーメン、焼きそばとオーダーし、簡単に済ませるはずの夕飯で腹一杯食ってしまった。我々が去る頃に若者たちが入ってきて、ビールを飲みだし、今日も長い夜が想定された。

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8月5日(火)

言葉が通じなくても

本日は予定が決まっていなかった。私としてはネットが繋がらない状況で時間があれば、旅行記や原稿が捗るので嬉しいのだが、いつ出掛けるのか分からないのは、やはりちょっと困る。

 

結局お昼まで何も連絡はなく、N教授とランチに出る。行先はパラダイスに決まっている。今日は外ではなく、地下へ潜る。そこには実に立派なダイニングスペースがあった。だが客は我々2人のみ。ウエートレスが注文を取りに来るが、言葉が全く通じずに困る。何とかビールとコーヒーを注文できたが、食事メニューは前回ウエートレスが勧めてくれたものを目をつぶって頼んだ。『昨日と同じ』という表現すらできない。N教授は何と前回の領収書を取り出し、説明を始めた。これなら簡単に注文できた。言葉が通じなくても何とかなるものだ。それにしてもここのウエートレスも控えめでよい。カザフ人は基本的に受け身、日本人には好感が持てるタイプが多い。

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それにしてもこの鮭のグリルのワンプレートは実に美味いのだが、量も滅茶苦茶多い。それを全部食べてしまったので、午後は仕事にもならない。部屋に帰って昼寝をしていると電話があり、もうすぐ迎えの車が来るという。午後4時のアポには早いなと思ったが、指示に従う。

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道に迷う

車は山の方へ向かっていた。高級住宅街と思われる辺りで停まる。そしてシャルハル氏は待ち合わせ場所の喫茶店を探し始めた。我々も手伝いたいが、何しろ字が読めない。仕方なく彼の後ろをついて行くと、何だか迷っている。交差点を中心に南北に行き来する。その度に我々も付いて行かざるを得ない。電話で場所を何度も確認するが見付からない。本当に右往左往という感じで歩き回る。歩いている人に聞くとこっちだ、ガードマンに聞くと、いやあっちだ、となる。どうしてそうなるのか分からなかったが、最終的に分かったことはシャルハル氏が非常に方向音痴の上、道を探すのが下手だ、という事実。何しろ交差点から少し離れた大きなショッピングモールが待ち合わせ場所で、普通なら30分も迷うところではない、ということ。

 

タクシーで来ていたPさんは、30分外で立って待っていたようで既に疲れ果てていた。我々も歩き疲れていた。そのモールの3階のフードコートでは、面談の相手が待ちくたびれていた。

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医療用品メーカー

本日の面談は開発区の工業団地へ向かうと聞かされていたが、どうしてここになったのだろうか。相手は我々の目的を聞いてから工場を見せるかどうかを決めるという。だが実際に会ってみると、彼らの工場の規模は小さく、今後拡大過程で開発区へ引っ越す予定だということが分かる。毎度のことながら、面白い展開だ。

 

医科大学を出た夫婦、ご主人は大学の先生で奥さんは医療用品会社を起こした。N教授は意にも解さずにどんどん質問を始める。だがPさんがカザフ語で訳したものをシャルハルさんがロシア語にまた訳していたのには驚いた。結局はPさんのカザフ語翻訳に落ち着いたのだが、先方の話すカザフ語の30%はロシア語の単語だったようだ。

 

この会社は2004年に設立され、2011年から国家の支援を受けて、注射針や採血サンプル試験管など病院で使う使い捨て用品の製作を本格的に始めた。設備や資金も国家支援、商品も国家買い上げと、絶好の条件だった。更にビジネスを拡大するため、アメリカや中国の企業の資本参加を求め、交渉中らしい。実はこれは国家プロジェクトの一環。ロシア、ベラルーシとの関税同盟を締結したカザフは自国の工業生産向上をめざし、またロシアを一大市場のターゲットとして、重点産業を指定。その中に医療用品も含まれており、政府の後押しで、輸入代替の商品生産を行っている。10年間は税制の優遇、土地の少額提供など、メリットは大きい。

 

彼らは日本企業の技術を欲しがっていた。今中国に入っている日本の技術を持ってこられれば、例え簡単な製造工程だったとしても戦略的には価値が高い。トヨタがフォーチュナ―という車のノックダウン生産を始めたのも、これが理由だろう。最初は警戒気味だった相手も最後の方は『是非日本企業との協力を』と言ってきた。工場も見せるという。だが我々には時間がなかった。道に迷った30分は意外と大きかった。

 

日本食レストランで

そのまま車で日本食レストランへ。ホーチミンからアルマトイへ行く機内で知り合ったダウレンとの約束を果たし、アルマトイの日本レストラン『かぶと』で会うことになっていた。時間には余裕があったが、またもやレストランが見付からない。これには本当に困った。我々は自分のいる場所さえ分からず、字も読めない。さっきの経験からすぐ人に聞き始めたが、要領を得ない。店に電話をかけても、シャルハル氏の理解力では辿り着けない。最終的にはダウレンに電話をかけ、何とか場所を特定できたが、ここでも約30分ロスした。

 

ダウレンは店の前で待っていてくれた。このお店、日本的なムードを漂わせていた。中へ入ると、何と日本人のおかみさんと娘さんが元気に日本語で出迎えてくれた。これにはちょっとビックリ。すぐに部屋に通され、日本の典型的なつまみを頼む。ダウレンは車で来ており、ビールは飲めなかったが、だし巻き卵や天ぷらなどをウマイと言って食べていた。

 

ダウレンはまだ39歳、英語が堪能な新しいタイプのカザフ人だ。ソ連時代に幼少期を過ごし、英語の重要性に目覚め、上手く波に乗り、今の勤務先である保険会社に地位を得た。家も職場も直ぐこの近く、この店のいいお客になるかもしれない。因みにここの板さんはカザフ人ながら、日本的な味を出していた。

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我々はカザフ語、ロシア語、中国語、日本語、英語が飛び交う中、楽しく食事をした。WIFIも繋がり、ご機嫌になる。この店にはスキージャンプの高梨沙羅選手や女子サッカーの澤穂希選手などのサイン入り色紙が飾ってある。アルマイトに来る日本人は必ずこの店に寄る、ということだろう。この店に興味を持ったN教授は、早々におかみさんにインタビューを申し込んでいた。

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ホテルに戻ると、10時を過ぎていたが、Pさん夫婦は明日のアポイントを取り付けるために、どこかへ出かけて行った。当然ながら、今日はホテルには帰ってこないだろう。日本人に会ったことがないカザフ人は慎重に事を運んでいるようだ。

 

初の中央アジア カザフスタンを行く2014(11)コルダイ キルギス国境回族の村で

8月4日(月)

キルギス国境へ

今朝は6時に起きる。すぐにチャイを作ってもらい、昨日の疲れを癒し、目を覚ます。既にシャルハル氏は車で来ており、6時45分、打ち合わせ通りに出発する。何だか日本人の団体行動のようだ。本日よりP隊長も参加する。

 

車は一路西へ向かって行く。キルギス国境へ行くとは聞いていたが、アルマトイの南は全てキルギスとの国境であり、どこに口岸があるのかさえ不明のままだった。ただ方向からしてキルギスの首都、ビシュケクへ向かっていることは明らかだったので、今日も片道300㎞の行程となる。

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実は昨日のノルジャンが、お客をキルギス国境まで送るついでに、我々を案内しようと言いだし、今日の企画が実現した。だがノルジャンの車と合流する気配は一向になく、ただただ見事な山脈の景観と、時折見える羊の群れの間を抜けて、ひた走っていた。因みにシャルハル氏の車は電気系統が故障しており、窓が開かなくなっていた。3時間近く経った頃、突如街に入り、そして車が渋滞した。一向に車が動かないので何事かと歩いて見に行くと、そこがコルダイの国境だった。

 

コルダイ

若いにいちゃんが近づいてきて何か告げた。もし優先レーンを通過したいなら彼に言えばいいのだとか。ようするに仲介屋だった。だがよく考えてみれば我々は国境の向こうへ行くわけではないので、車はここで引き返し、駐車するために列を離れた。

 

車の列はかなり長い。だが車にはダブルプレートを付けているものはなく、カザフ-キルギスは車が自由に往来できることが分かる。運転手以外は車を降り、人が通る門に殺到し、手続きを行っていく。一昨日のコルゴスに比べて、かなり人の往来が多い。しかも貨物は別の場所を通る様でトラックの姿はないが、往来はかなり頻繁だという。

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シャルハル氏が戻ってくるのを待っていたが、なかなかやって来ない。ちょうど目の前でおばさんがお茶を売っていたので買ってみた。リプトンのアイスティの味がした。30テンゲ、クーラーボックスに入っており、非常に冷たかった。N教授は山羊の乳と麦芽飲料を飲んでいたが、それほど美味くはなかったようだ。

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シャルハル氏の代わりにノルジャンがやってきた。既にお客はキルギス側に渡って行ったという。シャルハル氏は車の中で休んでいるらしい。連日のアテンド、そして今日は300㎞の運転、私より5歳上の彼にとってはきつい旅だっただろう。

 

我々は国境のゲート近くを見学したが、特筆すべきものはなかった。日本人はキルギスもカザフもビザ免除のため、向こうへ行って帰ってくることは可能のようだったが、あまり意味はなさそうだったので早々に引き上げる。ちょうど欧米人の男女が自転車で通過しようとしており、地元のタクシー運転手らと話し込んでいるのが印象的。昨年のモンゴルでも同様の自転車旅行者を目にしたが、私などには信じられない光景だ。

 

ランチを食べにレストランへ入る。ちょっとしゃれた作りの小屋が並ぶ。ウイグル人が経営しているとかで結構繁盛していた。ジプシーの女性が近づいてきてトランプ占いをやらないか、と声を掛けてきた。この国ではジプシーがかなり認知されている。後で知ったことだが、我々のホテルで時々リビングのソファーで寝ている女性がいたが、彼女もジプシーだった。自由旅行者、私もジプシーの仲間になったような気分だ。

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カザフ風より油っぽいウイグル式ラグメンは美味かった。お茶は珍しく緑茶。角砂糖を入れているが、その甘味が心地よい。これは中央アジアで飲むからだろうか。ナンも美味しい。

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回族の村 マサンチ

そこから60㎞ほど進む。特に何の変哲もない農村に入る。1軒の家の前で停まると、若い主人が何やら作業をしていた。木にはリンゴがなっている。既にノルジャンから連絡を受けており、家の中へ招かれる。絨毯がきれいに敷き詰められ、何とオンドルが備えられていた。若い主人の他、その奥さんと19歳の息子、18歳の娘が代わる代わる、菓子やお茶を運んできた。皆顔立ちが我々と似ている。

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『我々の祖先は135年前、西安のある中国陝西省より来た回族』と5代目の主人は話す。両親は3㎞離れた場所に健在、親族一同がこの付近で暮らしている。息子は隣のキルギスの首都ビシュケクの大学に通っている。娘は看護学校、そして何と3歳になる次男がいた。『この子は奥さんがメッカ巡礼をして授かった子』だという。回族はイスラム教徒だが、この地の人々は敬虔なようだ。

 

そして食事が運ばれてくる。羊料理だったが、野菜炒めなどは中華風。回族は漢族とイスラム教徒の混血で、風習も両方に通じている。中国では元代に国際貿易の商人などで活躍し、今も中国各地に住んでいる。顔を見て、料理を見て、家を見て、どことなく中国が感じられる。因みに主人は中国語を話す。

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それから彼のお父さんの家へ行った。立派な門構え、車はベンツだった。『向かいの家にあるベンツ、あれは昔おれのものだった』と懐かしそうに、また悔しそうに主人は話す。それにしてもこんな農村にベンツとは、そして立派な家。ここの人々は何をしているのだろうか。付近にはキルギスとの国境ゲートが見える。

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村の中心地へ行く。そこには博物館があるという。ここにやって来た回族の歴史が展示されている。清末の混乱の中、立ち上がり、移動した人々。回族とはいつか中東に帰る、という意味もあるらしい。出はなぜこの地でとどまったのか、その謎は解けなかった。ただこの地がキルギスとの国境というだけではなく、中央アジアの中で非常に微妙な位置にあり、その地理的優位性を生かして、貿易などをしている、いかにも回族らしさが垣間見えた。

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初の中央アジア カザフスタンを行く2014(10)アルマトイ 豪邸の食事騒動

ランチでひと騒動

本日は昨日の疲れもあり、午前中は休みとなった。私はかなり寝不足を感じていたので、昨晩はシャワーも浴びずにすぐに寝て、翌朝9時まで起き上がらなかった。何と携帯の電池も切れており、目覚ましも鳴らず、快適に寝てしまった。実は下のレストランでは土曜の夜ということで相当遅くまで音楽が鳴り響き、寝られなかったとPさんがこぼしていたが、私には全く関係がなかった。それからシャワーを浴び、溜まった原稿を書き始める。だが頭がボーっとして、全く進まなかった。こんな所まで来て、俗世を考えるのは良くないと思い、写真の整理などに留めた。

 

12時にN教授とランチに出掛けた。13時半に出発と聞いていたので、それまでに戻るつもりだった。先日行った近くのレストランで、全く読めないメニューに苦戦し、WIFIが繋がらないことを確認した頃、Pさんがやってきたが、食事中と分かると、ホテルで待っている、と言って帰って行った。ところがイエルン氏から2度も『早くホテルに戻って欲しい』と電話があった。まだ13時半にはほど遠く、料理も注文してしまったので、その旨を告げると、『出来るだけ早く』とだけ言い、電話は切れた。

 

ピザを頼み、後はウエートレスのお勧めに従ったのだが、大きなピザの他に、鮭のグリル、フライドポテト、サラダ、ご飯のセットが出てきて唖然とした。カザフ人はこんなに食べるものなのか?鮭は美味しかったが、量が多くて閉口した。ゆっくり食べているつもりはなかったが、出て来るのも遅く、量も多く、会計にも手間取り、いつしか13時半になっていた。

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ホテルに戻るとシャルハル氏の車が待っていた。イエルン氏は既に弟さん、ノルジャンの所へ行ったという。一体何か起こったのだろうか。車で待ち合わせの場所へ行くとノルジャンの車はなかった。敬虔なイスラム教徒の彼にはお祈りの時間があり、近くのモスクへ移動していた。

 

ようやく合流すると彼は『どうしてランチを食べに行ったんだ?』と聞いてくる。彼らはランチを食べずに我々を待っていたということだった。その件は誤解だ、ということを説明したが、腹ぺこの彼はなかなか納得しなかった。一方の車ではPさんとイエルン氏が喧嘩になったようだ。誰が悪くてこうなったのか?

 

郊外の山へ

それでも彼らは腹一杯の我々の為に、ご飯も食べずに時間潰しをしてくれた。2台の車で近くの山へ上る。上からはアルマトイ市がよく見えた。バックの山脈もきれいで、気持のよい風が吹いてくる。だが、もう1台の車はいくら待っても来なかった。戻ってみると調子が悪く、途中の路肩で停まっていた。電気系統の故障らしい。

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するとPさんとララさんがこちらのランクルに乗り込み、車はまた上へ。実は先ほどの場所よりさらに上があったと言う訳だ。もう一段上の景色を見ることが出来、感激だ。近くでハングライダーをやっている人々がいる。気持ちよさそうに飛んでいるが、高所恐怖症の私には無縁のもの。ところがN教授は『乗ってみたいな』と言い出す。冗談かと思いきや、満更でもないようで、ノルジャンが交渉に出向く。500人民元で乗せてくれる、と聞いたその瞬間、突風が吹き、ハングライダーが流される。それを見てN教授も諦めたようだ。

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車で下へ向かう途中、Pさんが『息子が乗りたがっている』というと、N教授はまた迷い出す。だが途中で待っていたもう一台の車に、ハングライダーのことを話そうとするや否や、『すぐに下へ降りる』とシャルハル氏が言い、この一件は沙汰やみとなる。シャルハル氏の車の電気系統はやばい状況になり、一刻も早く山を下りないと心配な状況になったのだ。

 

別荘住宅

それからノルジャンの家へ行った。郊外の高級住宅という感じ。高い塀に囲まれ、がっちりした門がある。中も立派で広い母屋、離れ、台所などに分かれていた。我々は庭に設えられたテントの下で食事を取った。実に気持ち良い風が吹いてきた。テーブルにはふんだんに食べ物が並んだが、N教授と私は既に昼食を食べ過ぎており、それほど食は進まない。

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この家にはノルジャンの家族、奥さんと子供が3人住んでおり、一番上の息子は現在マレーシア留学中、偶々夏休みで帰省しており、顔をそろえた。ノルジャンの母親も同居、また親類も何人か住んでいるようだったが、よく分からない、それほど広い家だった。まだ小さい娘が二人おり、とても可愛らしい。Pさんの息子にもなついており、一緒に遊んでいた。

 

 

 

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ノルジャンの奥さんも中国からの移住者で北京に住んだこともあるという。我々の為にわざわざ餃子を作ってくれていた。ミルクティと一緒に食べる水餃子、おつなものだ。それにしてノルジャンがランチの件で怒っていた理由が分かった。これだけの用意をして待っていたのだから、来ないのは勿論、来ても食べられないでは済まされない。この誤解は時間感覚にあるのだろう。我々は13時半出発といえば当然『ランチ後』と考えるから昼を済ませるが、イエルン氏からすれば13時半といえば『ランチを食べに行く』という意味が伝わると考えたのだろう。隊長であるPさんが仕切らないからこのようなことが起こったのかもしれない。グループには仕切り役が必ず必要だ。

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食後も風に吹かれていると、N教授が『ちょっと見学』といってどこかへ行く。私には『タバコ』が直ぐに浮かんだが、ノルジャンは敬虔なイスラム教徒で酒もたばこもご法度。当然この家の中では吸うことはできない。何とか門から外へ出ようとしたようだが、門は手では開かなかったらしい。あっさりノルジャンに捕まり、一緒に外の見学をしたようだ。

 

また家の中に入るとシャルハル氏がDVDを見つけた。高倉健主演の『君よ憤怒の河を渡れ』、日本人でこの作品を知っている人は余程の高倉ファンか、でなければ中国関係者といってよい。この映画は80年代中国で大ヒット、当時の中国人なら誰でも一度は見たことがあるほど有名な作品。中国語名は『追捕』といい、あまりにも違うそのタイトルに戸惑ったことを覚えている。N教授は先日、『そんな映画見たことない』といっていたので、シャルハル氏が見せてくれた。ただ中国語吹き替えだったので、雰囲気だけ味わい、早々に退散した。

 

夜は酒類販売禁止

既に暗くなりかけた。シャルハル氏の車は故障気味であり、また暗い場所の運転は避けたいとのことで、ノルジャン家を出た。が、市内まで結構遠い。また道にも迷い、少し渋滞もあり、結局市内に入った時は既に真っ暗だった。

 

まっすぐホテルへ戻らず、スーパーへ行く。色々と料理の材料などを買い込むためだ。アルマトイには車で行く大型スーパーがいくつもある。日曜日の夜なので人が多いかっと思ったがそれほどはいない。やはり人口の少ない国なのだろうか。

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N教授は先ほど飲めなかった酒類へ進む。実に沢山のお酒が売っており、気勢が上がった。ワインにしようか、ウオッカにしようか、と迷っていたが、何となく売り場が変だった。鉄のチェーンが緩く巻かれていたのだ。係員がやって来て何か言いだした。聞いてみると『酒は午後9時から翌朝までは販売禁止』だそうで、結局買うことができなかった。ロシアでもアル中が多いと聞いたことがあるが、この辺りもその影響があるのだろうか。ホテルに帰り、N教授は何を置いてもビールに手を伸ばした。彼の長い一日がようやく終わった。