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『街道をゆく』を行く2005 赤坂2

【赤坂2】2005年9月11日

前回2週間前に赤坂を散歩した。9月に入り朝夕が少し涼しくなってきたので、午前中に歩いて見る。気分は快調であるが、やはり体は暑さを感じており、シャツの背中はぐっしょりと汗が滲みる。

2.赤坂②
(1)ホテルオークラ

南北線六本木1丁目駅で下車する。新しい駅であり、泉ガーデンプレースという新しいオフィスビルが駅の頭上にある。ここは江戸時代、将軍出陣の先鋒役である御手先組のあった場所である。本文には、江戸時代までは御手先組が強くなければ戦には勝てなかったと書かれている。

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最新鋭のビルを前に歩き出すと直ぐに泉屋博古館に出る。ここは住友コレクションの内、特に中国古代青銅器の展示で知られる京都本館の分館である。こちらは2002年の秋にオープンしたばかりで、京都とは異なり絵画、陶磁器、茶道具などを展示しているというが、当日は閉館しており見学できなかった。

スペイン大使館の前を歩き出すと直ぐにホテルオークラ別館が見えてくる。本館は1962年、別館は1973年開業。私の理解ではホテルオークラは長らく東京で最高のホテルであった。バブル最盛期の頃、私は1年間に5回もこのホテルで行われた結婚披露宴に出席したことがある。もし仲人さんが相当の地位にある方ならば、皆同じ会場を選んだものである。私個人には全く縁のないホテルであるが、何となく頑張ってほしい。最近はパークハイアットなど外資系ホテルが大量上陸している。司馬の東京での定宿だったようだが、21世紀に生きていたら、外資系ホテルに泊まっただろうか?

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(2)大倉集古館

オークラの本館と別館に挟まれた、霊南坂と江戸見坂の交差する場所に大倉集古館がある。ホテルオークラ創業者大倉喜七郎の父、大倉喜八郎が1917年に創立した日本初の私設美術館。収蔵品は絵画・彫刻・工芸品・能装束など多岐にわたり、3万5千冊あまりの漢籍を有している。

 

喜八郎といえば、新潟新発田の生まれで、戊辰戦争では官軍、幕軍両者に武器を売り、官軍有利と見ると全て官軍に売り捌き、明治になって御用商人の地位を築く。日清日露の戦争でも大儲けして死の商人とも呼ばれた。一方多くの企業を興し、現在残っている主なものだけでも大成建設、サッポロビール、帝国ホテル、帝国劇場、日清製油などがある。尚ホテルオークラは喜八郎の帝国ホテルを凌ぐものを作ろうとして喜七郎が設立したものである。

そういえば、喜七郎には面白い話がある。1930年に私財を投じてローマで日本画展覧会を開催。勿論ムッソリーニとの関係を構築するパフォーマンスであろうが、日本から横山大観らが出品し、177点を展示。しかし内135点が今も行方不明のままとのことである。絵の一部はムッソリーニから女優のソフィアローレンに渡ったとも言われ、格好のミステリーである。この話を聞いたのは数年前であるがその後答えは出たのであろうか?

大倉集古館であるが、門を入ると日本庭園が見える。驚くのは大きな石造があったり、大倉喜八郎の像がベンチに座っていたりすることである。何だかお化け屋敷に入ったよう。中に入ろうとしたが、入場料が千円と表示されており、高いなと感じる。よく見ると小学生の子供を連れてくれば無料になるようなので見学は次回とする。

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(3)江戸見坂、汐見坂、霊南坂

東京には兎に角坂が多い。オークラ本館の周りは江戸見坂、汐見坂、霊南坂の3つの坂で囲まれている。大倉集古館から出ると江戸見坂を下る。江戸の市街地が一望できたことから坂の名前が付いた。今はビルに囲まれ殆ど見えない。

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この坂はかなり急激に下っている。登るのはかなりきつそう。江戸時代にこの坂を上った人は江戸市中を治めた気分になったかもしれない。そんな坂である。下りきった角には『東京経済大学発祥の地』という碑がある。元は大倉商業学校、喜八郎が創立者である。そして左に曲がると汐見坂を登る。この坂から海が一望できたのが名の由来とか。江戸時代川越藩松平大和守の屋敷があったことから大和坂とも言った。

汐見坂を登りきるとそこには物々しい厳戒態勢があった。何だこれは?霊南坂を歩こうとしたが、警備員に制止される。何とか頼んであの直線的な坂の写真を取らせてもらうのがやっと。横のアメリカ大使館を見た瞬間、気が付く。今日は9月11日、9.11テロ後4周年である。大使館前の信号辺りから写真を取っていても、少し離れた場所で立ち止まっても、誰かが必ずチェックしている。

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霊南坂で思い出すのは『山口百恵と三浦友和の結婚式』であろうか。25年前に引退した彼女がウエディングドレスで教会を出るシーンは良く覚えている。当時浪人生の私と彼女はどうしてこんなに境遇が違うのかと、羨望の目でテレビを見たのは昨日のようだ。その6年後上海に留学したときに『赤いシリーズ』が大ヒットしていたのには驚いた。本当のスターはどこに行ってもスターなのである。

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本文にあった共同通信社ビルは今や雑居ビルとなり(本社は2003年汐止に移転)、日本たばこビルは本社ビルを一新している。どちらも厳重に入り口を閉ざしており、何かを探す雰囲気ではない。

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(4)溜池

溜池は江戸時代初期には赤坂見附から虎ノ門まで続くひょうたん型の池であった。江戸切絵図にも『赤坂桐畑』に描かれている。子供の頃雨が降ると、『溜池は底だから水が溜まるぞ』と父親が言っていたのを思い出す。学校でも『溜池はゼロメートル地帯です』と教わった。

江戸初期は急速に人口が増えた時期。治水は重要な課題であった。浅野幸長がこれを請負、ダム工事のプロ、甲斐武田の遺臣、矢島長運らの働きにより1606年に完成させた。つまりは人工の池である。現在の特許庁、山王パークタワー、日枝神社下、エクセル東急ホテルなどは全てこの池の埋立地である。

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現在の溜池は単なる交差点に過ぎない。『溜池』の表示が無ければ特に分からない。高速の高架の下、日曜日の交通量が少ない交差点は何故か寂しい。

(5)澄泉寺

六本木通りを登る。全日空ホテルの前に桜坂という坂がある。きっと春はきれいなのだろう。その坂を上ると表通りの喧騒とは全く違った世界が現れる。きれいな並木道が続く。この道は明治中期に出来たもので歴史は古くない。

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程なく左に折れ坂を上ると寺がある。陽泉寺の横から細い路地に常国寺、正福寺などの寺が並ぶ。この辺りにこんなに寺があることを初めて知る。その一番奥に澄泉寺がある。寺の前には釣鐘が目立つ。

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林鶴梁という江戸末期の儒学者の墓がある。しかし本文ではこの林についても、釣鐘についても一言も触れていない。では一体何の為にこの奥まった寺にやってきたのか?その後榎坂を通る。溜池の堤に印として榎を植えたのがこの辺りだという。

(6)氷川公園

前回氷川神社に行ったが、勝海舟の旧居、氷川小学校には行っていなかった。しかし氷川小学校は既になかった(老人養護施設となっている)。仕方なく地図を見ると氷川公園がある。行って見たが、特に特徴も無い、小さな公園であった。看板がある。説明を見ると1908年この地に氷川小学校は誕生した。しかし1929年に火災があり、旧勝邸に学校を移したのだという。

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勝海舟は言うまでも無く、幕末を代表する幕臣であるが、彼は一体何だったのだろうか?長崎海軍伝習所に学び、咸臨丸でアメリカに行き、西郷と談判して江戸城無血開場を果たす。そして維新後はこの地に住み、枢密院顧問、伯爵を貰い、氷川清話を表す。

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(7)日枝神社

かなり疲れてきた。外堀通りに出て日枝神社へ。下から見上げると思ったより高い。階段が多く見える。登るのを止めようかと横を見ると何とエスカレーターが備えられている。これは便利。登るに連れて赤坂が見える。昔は皆坂を上るとこのような光景が見えたのだろう。TBSの建物が目立っている。

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登り切ると大きな銀杏の木がある。そしてきれいな門を潜り、本殿へ。1478年に太田道灌が江戸の守りにと川越の山王社から勧進したのが始まりで、4代将軍家綱の時、1659年ここに建立した。大戦で焼失し戦後再建される。

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 本殿前の門には男女の猿の像がある。権現とは仮に現れるということ。猿の化身であろうか?本文でもこの『神猿像』を見て驚いている。また門の外には国歌に出て来る『さざれ石』の謂れとなった石がある。宝物殿には奉納された多くの刀などが展示されている。

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裏門を降りる。いや、正面の階段である。あまりに静かでしかも薄暗い。しかし本来神社の階段とはこういったものであろう。ここも表通り同様人の往来を考えて、エスカレーターを取り付ければ便利であるが、どうなんであろうか?

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(8)報土寺

一ツ木通りに戻る。一ツ木通りの由来は昔奥州街道がこの地を通過しており、人馬の往来が絶えない。丁度この場所で人や馬を乗り継いだので、人継村といったとか。または氷川神社の神木が一本の銀杏の木であったことから、一つ木と命名したとの話も。左側に浄土寺という寺がある。明治時代の赤坂は決して賑やかな場所ではなかった。人出があったのは豊川稲荷とここ浄土寺の地蔵の縁日(6の日)ぐらいだったという。

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銅像地蔵菩薩坐像という左手に宝珠を、右手には錫杖を持つ丸みのある坐像がある。1719年に製作されたとある。地蔵は6道の内地獄道にいて、落ちてきた衆生を救済するとして民衆の信仰を集めていた。この地蔵もそんなことで人を呼び込んだのであろうか?

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浄土寺を出て、円通寺坂を上る。昔円通寺という名の寺が別にあったが、1695年頃にこの場所に現在の円通寺が出来る。

円通寺より南に少し行くと三分坂に出る。急な坂で車賃を銀三分上乗せしたところから名が付いたという。尚三分とは通貨の単位ではなく、重量の単位であるようだ。今歩いてみても急な坂である。しかし改修前は更に急であったというから驚く。坂に荷を上げる料金が三分だったという説は有力であろう。

その坂下に報土寺がある。三分坂から下って来ると右側が築地塀になっている。この塀は独特である。報土寺は1614年に一つ木通りに創建されたが、1780年ごろに現在の場所に移転。築地塀はその頃作られた。築地塀とは土を突き固め、上に屋根をかけた土塀で塀の中に瓦を横に並べて入れた塀を特に練塀という。

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 中に入ると右手に梵鐘が見える。第2次大戦で供出された梵鐘が戻ってきたそうだ。そして『陸軍歩兵1等卒、小林音松』と書かれた碑がある。亡くなったのは明治37年11月29日、場所は旅順赤坂山である。どうしてこの碑がここにあるのかは分からない。『坂の上の雲』を読んでみると、旅順総攻撃が始まったのは11月26日、それまで203高地を軽視していた乃木将軍はここを攻めた(いや児玉源太郎が攻めた)。それまで数万の兵を全く無策に殺してしまった無能な男、乃木はどんな心境であったろうか?そして何より、その無能な指揮官の命で難攻不落の赤坂山(203高地が陥落しても陥落しなかった山)に突撃していった歩兵の心境はどんなだったのだろうか?

奥の墓地には江戸の大力士、雷電為右衛門の墓がある。18歳で身長が195cmもあった大型力士であり、1790年から引退するまでの22年間の通算成績が250勝10敗。最高位は大関で何故横綱にならなかったかは不明。出雲松江藩の松平不昧のお抱えとなる。不昧といえば7代目藩主であるが、江戸時代後期の大名茶人であり 藩主としての務めを果たしながら、茶道を究め、名物茶器の蒐集を行い、さらに茶道具の研究成果を著作としてあらわし、不昧流茶道の祖となった。尚雷電の墓はその体に似合わず、大きなものではなかった。

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報土寺から少し歩くと乃木坂に赤坂小学校がある。豊川稲荷のところに出てきた大岡越前守の屋敷跡に1873年に出来た学校。当初は豊川稲荷の道の反対側にあったが、その後現在の場所に移転される。尚当日は衆議院選挙。小学校も投票所として開放されていた。日本の未来をこの中に託していくのであろうか?

 

『街道をゆく』を行く2005 赤坂1

【赤坂】2005年8月27日

夏の間、散歩は休みとなった。東京の夏は暑い。昼間出歩くのは苦行である。しかし2-3ヶ月経つと我慢できなくなる。出掛けた。今回は懐かしい散歩である。尚赤坂という地名はあるが、赤坂という坂は現在無い。

1.赤坂①
(1) 四谷から喰違見附

丸の内線で赤坂見附を目指す。ところが何故か1つ前の駅、四谷で下車。子供の頃から地下鉄なのに地上を走るこの区間が好きなのである。駅はきれいになっているが、駅前の橋の袂の街灯は昔風。

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線路沿いに歩き始めると上智大学がある。私には苦い思い出がある。大学入試には何回か失敗しているが、2回不合格になったのはここ上智だけである。余程相性が悪いらしい。教会がある。こんな雰囲気の学生生活を送りたかったのに??

更に歩くと左側に福田屋という料理屋が見える。その横に尾張徳川家の屋敷跡の碑。御三家筆頭として家康の九男義直が初代となった尾張。1637年にこの地を拝領した。しかし尾張は歴史上あまり目立ったところが無かった。何故であろうか?尚この辺りの地名『紀尾井町』は紀州徳川家(後述)、尾張徳川家、井伊家の頭文字を取っている。

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更に進むとホテルニューオータニ(彦根藩井伊家跡)が見えてくる。その手前の土手に『喰違見附』の立て札がある。1636年に外堀工事が始まり、39年に完成。その際櫓は無かったものの木戸として門が設置された(1872年に廃止)。1874年1月に右大臣岩倉具視がここで征韓論に敗れた不平分子、土佐の武市熊吉ら9名に襲われた。現在も道の見通しは悪く当時も襲撃するには適した場所であったのだろうか?岩倉は夜の堀に飛び込み、難を逃れたという。

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尚江戸時代この辺り(紀伊国坂―弁慶堀に沿った道で迎賓館の脇)は大変寂しいとこであったようで、ノッペラボウが出ると言われていた。ムジナの仕業であると小泉八雲の作品『むじな』にも書かれている。

(2) 紀尾井坂から清水谷

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ニューオータニの前に紀尾井坂がある。まさに井伊家のあったこのホテルから坂を下ると清水谷公園がある。公園自体はそれほど大きくなく、特に特徴は無い。入り口に清水が湧き出る井戸の跡が見える。

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しかしこの地は明治11年(1878年)に内大臣大久保利通が暗殺された場所である。大久保といえば徳川幕府を崩壊に追い込んだ薩摩の中心人物、明治に入っては同僚の西郷を西南戦争で死に追いやった男、そして明治の基礎を築いた官僚、といくつもの顔を持っている。

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その大久保が5月14日(私の誕生日でもある)の朝、西南戦争の8ヵ月後、霞ヶ関の自宅から清水谷坂を降りてきて、清水谷で暴漢に襲われた。石川県士族島田一郎ら6人は清水谷の奥深い林に隠れていたらしい。今でも多少林はあるのだが、どうだろうか?清水谷公園内には大久保利通哀悼碑がある。

本文では政府高官、それも後の総理大臣にもあたる内務卿に対して護衛を付けていなかったことに疑問を呈している。当時の警視庁長官、川路利良が薩摩の同郷大久保に護衛をつけなかった理由を『西郷を倒した大久保に護衛を付ければ国元の嘲笑を買う』としているのは分かりやすい。

また『大久保は水については無策であった』としているが、その公園内に『江戸水道の石枡と木桶』と題する記念物が展示されているのは歴史の皮肉であろうか?尚公園内にはきれいな池と小川が流れている。如何にも清水谷の名に相応しい。

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(3)弁慶堀と弁慶橋
少し歩くとニューオータニガーデンコートがある。その先は弁慶橋。1889年に橋が架けられる。それまでは橋が無く庶民は苦労していたらしい。弁慶橋の名の由来はあの弁慶が通ったなどというものではない。神田に架かっていた弁慶橋が数年前に廃橋になり、その廃材を使って架けられたとのこと。現在の橋は1985年に改築されたもの。

橋の袂には『紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡』という立て札も見える。明暦の大火の後1667年にこの地を拝領した。あの徳川吉宗もここに滞在して将軍への道を歩んだのであろうか??この地は現在赤坂プリンスホテルとなっている。

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橋の反対側にはボートハウスが見える。本文ではここで40代のボート屋の親父と言葉を交わしている。今日そこを覗くと英語で『Boat House』と書かれた建物がある。昔は外国人がボートに乗っていたのだろうか?ボートを漕いでいる人がボートハウスに近づいて来る。絵画の中にあるような長閑な風景である。

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弁慶堀は1637年に弁慶小左衛門という者が築造した外堀。日曜日の午後にこの堀を眺めていると実に気分が良い。

(4)豊川稲荷
橋を渡るとサントリー美術館がある。現在休館中。2006年には別の場所に移るらしい。青山通りを上る。鹿島の本社は横に2号館を建てている。景気は良くなったということなのだろうか?

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豊川稲荷の門が見えてくる。江戸時代には『伊勢屋』、『犬の糞』と並んで多いものに『稲荷』が挙げられている。それほど多かった訳は諸大名が屋敷神として稲荷を勧請したからだという。豊川稲荷は順徳天皇の第3皇子によって感見され代々受け継がれ、1441年に豊川の豊川閣妙厳寺に奉祀された。ということでこの稲荷は神社ではなく、仏閣なのである(だから鳥居はない)。赤坂の稲荷は東京別院であり、江戸時代に大岡越前守が生涯守護神としたインド神、荼枳尼真天を祭っている。本殿の額にこの神の名前が掲げられている。

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大岡家の屋敷はその後赤坂小学校(通りの反対側)となった。当然稲荷もそこにあったが、1889年に現在の場所に移った。(本文の中で1929年に移ったとしているが、これは間違いでは?)

境内には沢山の狐の像が置かれている。実は私は子供の頃この近くに一時住んでいたことがある。友達と一度ここに遊びに来て、あまりに狐が多かったことと薄暗かったことで非常な恐怖を覚え、それ以来二度と足を踏み入れなかった記憶がある。ということは今回の訪問は実に35年ぶりかもしれない。

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歩いていくと千日のぼりが沢山はためいており、相変わらず狐の像が多い。子抱き狐などと書かれたものもある。尚お供えの油揚げはお狐さんとは関係なく「イナリのナリは、物や生命を生み出す神」のことで、農業や商売繁盛の関係。油揚げをお供えするのは、揚げ物には蛋白質や脂肪が含まれていて体に良いという理由からとか。

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(5)高橋是清記念公園

豊川稲荷の横は赤坂御用地。ここで通りの反対側に渡る。あの羊羹の虎屋本店がある。16世紀後半、時の後陽成天皇に和菓子を納め、その後朝廷御用達の老舗である。明治維新後東京に移り、赤坂に居を定める。今も虎屋の羊羹といえば一番である。先日虎屋17代目の黒川さんが『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』という本を出された。読んで見ると水戸黄門に饅頭を届けたり、吉良上野介にカステラを納めたりしている。

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 更に青山方面に向かうとビルの前に大きな石が置かれている。石を覗き込むと『草月』の文字。草月流生け花は1927年に勅使河原蒼風が創設。個性を重んじる生け花で、国際化にも努めた。当日は休館で見ることが出来なかったが、庭にはイサムノグチの石庭もある。因みに義母はお花の先生であり、以前中国の要人が来日した際、その夫人が生け花に興味を持っていたので、見学させて貰ったことがある。中国語でも対応してくれていた。生け花も国際的なのである。

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その隣に高橋是清記念公園がある。一見普通の公園にしか見えないが、奥行きがある。入って直ぐに東京都の記念碑がある。1936年の2.26事件で高橋が凶弾に倒れた場所がここ。2年後には長男が東京市にこの場所を寄付。太平洋戦争の始まった1941年に公園となる。その後空襲に遭いゆかりの品は焼失したが、母屋は多磨霊園に移築され難を逃れたという。

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高橋是清は14歳でアメリカに渡ったが、途中で奴隷として売られた。逆境に強いこの人の精神はここから生まれたのだろうか?日銀総裁、総理大臣を経験、大蔵大臣には3度なり、3度目には昭和恐慌を乗り切る。『だるまさんが出てきたからもう大丈夫だ』と庶民に言わせる経済のプロ。今日このような政治家、大蔵大臣がいるだろうか?公園の奥にある高橋是清像には謙虚な人柄が滲み出ている。

(6)青山一丁目交差点

青山一丁目の交差点まで歩く。ここは実に懐かしい場所。私は小学校3-4年の1年ちょっとをこの直ぐ近くで暮らした。勿論自宅ではなく、父親の会社の社宅であるが。交差点の所に現在ホンダの本社があるが、35年前には古本屋が1軒あった。私のお気に入りの場所で、しょっちゅう漫画を立ち読みしていた。その横には蕎麦屋があったはずだ。天ぷら蕎麦を何杯も食べた記憶が蘇る。まさかこんな立派なビルが建つとは思ってもいなかった。

昭和40年代の青山は今ほどではないがおしゃれな場所であった。湘南の田舎から引っ越してきた私にとってテレビドラマのロケなどを見ると凄いところに来てしまったというカルチャーショックがあった。女優さんなどが歩いているのに出くわすと自分まで偉くなったような錯覚を覚えた。

我々の遊び場は流石におしゃれな場所ではなく、近くの児童公園であった。そこへ行って見た。公園はあったが、今は子供用ではなく、大人が静かに本を読んでいた。入り口には赤坂消防署発祥の地という碑が建てられていた。昔砂山を築いた砂場が無いのが何故かとても残念。

外苑東通りを南へ下る。都営住宅が見える。来年には建替え計画がある。昔同級生にはお金持ちの子もいたが、都営住宅に住む普通の子も沢山いた。いかにも典型的な昭和30-40年代の住宅が妙に懐かしい。忘れていた同級生の顔なども思い出す。

高度成長期の日本と古き良き日本が交錯した昭和40年代。私の家の目の前で繰り広げられた70年安保闘争(機動隊に追われた学生が血まみれになりながら社宅に逃げ込んだこともある。デモ隊はこの交差点が必ず赤になっていて一晩中足踏みしていた。)、三島由紀夫の割腹自殺(床屋でテレビを見ていると直ぐ近くの市ヶ谷で事件が起こったのをはっきり覚えている)、日教組のスト(小学校に行くと先生が授業に来ない、自習が続く不可思議さには今も首を傾げている)など。自分も歴史の証人になった気分。

(7)旧乃木邸

やがて旧乃木邸へ。乃木希典は長州の支藩、長府藩の江戸藩邸に生まれる。子供の頃は弱虫であったという。その後長州の逸材御堀耕助と従兄弟同士という関係で黒田清隆に紹介され、陸軍へ。西南戦争での軍旗奪失事件や日露戦争の203高地で有名となるが、その生涯は歴史の教科書的なそれとは異なりそれほど華やかなものではない。

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明治天皇の死に殉じた乃木は戦前の政府、軍より忠臣として奉られてしまったが、当人には苦しい一生だったのではないだろうか?西南戦争でも敗走し、旅順攻略でも多くの兵隊を死なせてしまった。司馬は大傑作『坂の上の雲』の中で乃木の無策を描き、大山巌が児玉源太郎を乃木の代わりに指揮官に指名する場面がある。

児玉の凄いところはその命令書を出さずに乃木から指揮権を奪ったこと。しかしそれは乃木自身分かっていたのかもしれない。内心ホッとしていたのでは?こんな不謹慎な事は戦前絶対言えないことであった。それが大東亜戦争を招き、そして日本を破滅させたのである。

司馬にはもう1冊『殉死』という乃木を書いた作品がある。その中で『乃木希典は軍事技術者としては殆ど無能に近かったとはいえ、詩人としては第一級の才能に恵まれていた』と書き、ドイツに留学する前の彼は『乃木の豪遊』といわれるほどに遊郭に出入りしていたとある。かなりイメージが異なる。

西南戦争での軍旗奪失事件(彼は自責の念が強く、自殺する雰囲気が強かった)とドイツ留学により乃木という人物像が出来上がり、そして203高地後のステッセルとの歴史的な会見で確定した。見事なまでに軍事的に無能で、また見事までに詩的な人物である。

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乃木邸はヨーロッパ外遊後明治35年にフランスで見た連隊本部の簡素で機能的な建物を模して、ここに建造した。現在邸内に入ると右手にはレンガ造りの馬小屋が見える。母屋が木造なのに馬小屋がレンガ造りと評判になったそうだ。

母屋は外から中を覗くことが出来る。殉死した部屋もある。全てが簡素な造りである。土地が傾斜しているので台所は半分地下に埋もれている。母屋の横には乃木将軍と少年の像が建っている。将軍が金沢で出会った辻占売りの少年とのエピソードが書かれた板がある。乃木が無能であっても人々に愛されたことがこの像からも分かる。

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(8)乃木神社

母屋を下ると乃木家の社がある。先祖と共に日露戦争で亡くなった2人の息子も祭られている。庭には他に『乃木大将夫妻?血之処』と書かれた碑もある。自決した際の血の付いた遺留品を埋めた場所である。天皇に殉じるということが極めて重い出来事であることを表している。尚この邸は遺言により東京市に寄贈された。

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裏門を出る。そこに乃木神社が建てられている。乃木坂は昔幽霊坂と呼ばれていたが、1923年に神社が建てられた際、赤坂区議会の決議で乃木坂と命名される。本文は言う。日本には地名、駅名、空港名などに人名が使われる例は希である。乃木坂はその例外であると。(その後千代田区を歩いていると東郷平八郎の屋敷跡脇に東郷坂があった。小さな坂で有名ではなかったが。)

神社は広くは無いが、本殿は涼やかな様子で建っている。昭和20年の空襲で全て焼失したもののその後直ぐに再建されている。横に展示館があり、中には将軍縁の品々が保管されている。生前読まれた詩、殉死時の刀、中国に建てられた碑のコピーなどが展示されている。殉死した日の朝、夫人と収まった写真もある。

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彼は彼なりの人生を生き抜いたのであろうが、後世の人々、特に軍部の悪意に利用された。乃木が西南戦争で軍旗を奪われた際にあまりに自責の念に駆られた為、その後軍旗は神聖なものとなり、旗を奪われた者は死をもって償うようになる。またあれだけの兵を死なせたにもかかわらず、罷免もされずかえって昇進している様子はその後の軍首脳部の無責任体質に繋がったかもしれない。それでも乃木は満蒙開拓団を見捨てて逃げ出したりはしなかったと思うが。

神社には乃木夫妻が祭られているが、ここには乃木の為に命を奪われた全ての人々が祭られているような気がする。

(9)氷川神社

乃木坂を下る。赤坂中学の横を通る。昔学生時代に家庭教師のバイトをしたことがある。週2-3回松戸にある家に通った。時給が良かったのと夕食が出たから続いたのだと思う。その子は赤坂中学に越境入学をしていた。何の為かは知らないが、松戸から赤坂まで毎日通っていたのである。そして帰宅すると私が待っている。今にして思えば彼は大変だった。何となくそんなことを20年ぶりに思い出した。急に歳を取った気分になる。

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乃木坂から赤坂通りになって直ぐに右へ。地図も見ないで目的地を探す。高台へ上がるだけだから簡単だと思ったので、本氷川坂という結構急な坂道を登る。午後の陽が降り注ぐ。上り切ると氷川神社の裏に出る。鬱蒼とした森にでも来たかのように急に陽が翳る。

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氷川神社は八代将軍吉宗が1730年に建立した。本殿は木造銅板葺き、極めて質素な造りは吉宗らしい。周りも実に静かで一つ木通りなど賑やかな赤坂とは一線を画する。鳥居の外側には樹齢400年を越える大銀杏がある。神社が建立される前、この地は三好浅野家の屋敷であった。あの赤穂浪士の浅野内匠守の奥方瑤泉院の実家であり、彼女は夫の切腹後亡くなるまでこの地で過ごした。ということは恐らくこの銀杏を見ていたのであろう。いや銀杏が彼女を見ていたのかもしれない。

また何故か包丁塚という塚もある。この界隈には味覚自慢の料理人が多数いたということで建てられたとある。赤坂は確かに今でこそ有名料理屋などが沢山ある高級な場所であるが、明治時代までは寂しい所であったから勝海舟などはこれを見たらビックリするかもしれない。

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海舟は維新後この神社の直ぐ近くに住み、『氷川清談』を表している。海舟といえば咸臨丸でアメリカへ行き、江戸城無血開場を西郷隆盛と談判している。この時も本赤坂下に住まいしていた。亡くなった場所は氷川小学校(今は学校も無くなり老人養護施設)になっている。この神社の祭りは江戸の祭りらしい華やかなものだという。

 

 

真冬の韓国散歩2015(11)ソウル 焼サバと生ガキ

4.ソウル2

サッカー

そのまま部屋でテレビを見る。今日はアジアカップの第2戦、日本対イラクの試合がちょうどあった。大丈夫かよ、という試合内容だったが、それでも何とか勝てる所が今の日本代表の強さかもしれない。それにして相変わらず韓国は地上波で全ての試合を放送している。日本代表の試合を見る人が一体どれほどいるのか分からないが、ここには政治も島問題もない。

 

宿には相変わらず、お客がいない。オーナーも『今は休みの時期』と諦め顔だ。冬とは言え、数年前なら日本からの観光客が溢れた街、それが今では日本語から中国語への切り替えが行われ、見事なまでの対象を成してしまった。ただあまりに中国寄りにかじを切ってしまったため、中国の景気減速の余波も受けているようで、日本との関係改善の道を探る動きもある。この宿にお客が戻ることを願うのみだ。

 

韓国人と中国語で

今晩は前回紹介されてソウルであったSさんと再会する約束になっていた。ところが8時頃になっても何の連絡もない。確かに彼女の会社(IT関連業界)は7時過ぎまで業務があり、前回も8時集合ではあったが、どうなんだろうか。8時半を過ぎてようやく、今車で宿の方に向かっている、との連絡が入る。車で来るのか?結局9時前になり、宿の近くに来たというので、外へ出る。Sさんは何と、彼氏の車でやってきた。そう、彼女もお年頃の女性だから不思議はない。近くの鍋屋に入る。Sさんと私は中国語で話をするのだが、彼氏は中国語が出来ないので、彼女は全て通訳している。ソウルで日本人と韓国人が、中国語を介して会話する、何とも周囲には不思議な光景に映っただろう。

 

Sさんはソウル生まれの華人。親は山東省から移住してきている。学校は高校まで華人学校だからネイティブに中国語を話せる訳だ。しかも大学は台湾に留学しているから完璧。何の違和感もない中国人だ。だが彼氏といる彼女は当然だが、完璧な韓国人なのである。鍋は全て彼氏が作る。これが今の韓国若者流なのか、このカップルだけの特徴なのか、はたまたSさんが強いだけなのか、よくわからないが、面白い。昔の韓国人なら、日本以上の男尊女卑だったと思うのだが。夜10時になるとこの店もお客がいなくなり閉店。もっと聞きたいことは一杯あったのだが、二人は車に乗り、あっさりと帰ってしまう。次回はこの二人ともっとじっくり会おう。何かが見えてきそうな予感がした。

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帰りにセブンイレブンに寄る。今鍋を食べたばかりなのに、なぜかチョコが食べたくなる。韓国にはロッテがあるから、安心して買える。しかも見ると割引価格らしきものが提示されている。それでも日本より高い気もするのだが。レジに持っていくと、若者が店番をしていたが、彼は新米なのか、レジの操作で困っていた。そしてついに私に通常価格での支払いを提示してきた。私はすかさずそれを拒否して、割引表示を示すと、彼は困ったようにどこかに電話を掛け、時間を相当にかけて、何とか解決した。しかし謝るそぶりもない。言葉が通じたら、思いっきり文句を言うところだが、通じないのでそのまま帰る。これがおばちゃんだったら、どうしただろうか。韓国も日本同様サービス業の質低下があるように思われ、ちょっと残念に思う。

 

1月17日(土)

焼き魚と生ガキ

朝はゆっくりと起きる。今日はついにバンコックに帰る日。暖かい南国が恋しいようでもあり、食べ物の美味い韓国が名残惜しいようでもあり、ちょっと複雑な心境になる。過去韓国に来て、このような心境になったのは恐らくは初めてであり、自分でも驚く。しかしどうしても心残りがあった。それは焼サバ!

 

という訳で、出掛ける。まずは先日途中になってしまった仁寺洞の平安を訪ねる。だが、彼女はまだ来ていなかった。12時頃に来るだろうというので、急いで東大門へ向かい、先日見つけた焼き魚通りへ。途中東大門の市場ビルを通ったが、きれいなビル内で昔ながらの商売が行われているのを見る。また外ではいまだに担ぎ屋、が、荷を担いでいる姿を見て、ちょっと感動する。

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おばさんが外で魚を焼いている。すぐに店内に吸い込まれる。焼サバを注文。11時だというのに、お客がどんどん入ってきて、席が埋まる。日本人観光客もいる。焼きたてのサバとキムチ、そして味噌汁と大盛りのごはん、いい感じだ。ちょっと幸せな気分になり、黙々と食べる。周囲の客もさっさと食べ、さっさと出ていく。

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そして私もこの店を去り、仁寺洞へ戻る。平安は店に来ていた。お茶を飲みながら、話をしていると、突然『ご飯を食べよう』という。何と私のために、生ガキを用意してくれていた。自家製のキムチもある。雑穀のごはんもある。こんなご馳走があるのなら、焼サバ食べなければ、いやサバも食べたかった。今回はカキをほんの少し貰い、諦める。私が食べる分のカキは、キムチと混ぜられて、保存された。なるほど、カキキムチ、いいなこれ。次回韓国の茶旅はあるのだろうか。

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名残惜しいソウル、宿に戻り、荷物を持ち、電車に乗って仁川空港へ向かう。既に寒さにもなれ、地下鉄にも慣れたので、スムーズに行ける。さあ、飛行機に乗ろうと思ったら、1時間遅延した。まるで私の気持ちを代弁しているようだった。また来よう、韓国。

真冬の韓国散歩2015(10)慶州 奇跡のバス乗車

更に何の当てもなく北上した。しかし疲れてきたので、宿へ戻ろうと進路を逆に取る。すると途中に邑城と呼ばれる城跡があった。1012年の建造というから古い。その後文禄の役では日本軍をここで食い止めたと言われ、日本統治時代には殆どが破壊されたらしい。ほんのごく一部が保存されているが、そこがまた何とも言えないリアリティを感じる。

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帰りが意外と遠かった。疲れていたからかもしれない。大陵苑の外壁を見ながら延々と歩くと、その広さを実感する。冬の午前、歩いている人は殆どなく、車も少ない。慶州の街、それ自体が世界遺産とも言える街、次回はもっと、もっとゆっくりと時間を掛けて歩きたい。

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バスターミナルでブテチゲ

宿に帰ると、オーナーが『ソウル行きのバスの時間』と言って、電話で問い合わせてくれた手書き時刻表を渡してくれた。有難い。12時のバスに乗れば4時過ぎにはソウルに着くらしい。まだ時刻は11時だが、ちょうどチェックアウトの時間でもあり、この宿を去る。『どこかうまいランチが食べられる店はないか?』と聞くと、『この辺にはないよ』と一言。あれ、昼めし、どうするんだ?

 

まずはバスターミナルまで歩いていき、バスの発車時間を確認する。ところが・・、何と12時発のバスの切符は既に売り切れていた。午後2時のバスにしか乗れないという。今日の夜はソウルで約束があり、それに間に合わない恐れが出てきた。売り場の女性に『他に方法はないのか?』と聞くと『KTXで行け』と一言、言われ、終わる。他の案内所もなく、途方に暮れる。

 

KTXは新慶州という駅まで行かなければならないが、どうやって行くのか?仕方なくバスの方を眺めていると、運転手と目が合う。『KTX』というと、チケットを買って来い、という合図をするので先ほどの売り場に戻り、切符を買おうとするが、あの女性は『ここではない』の一点張りで応じない。片言英語の悲しさ、どうにもならない。

 

ふさぎ込んだ気分でターミナルから外へ出る。急に腹が減る。近くの食堂を眺めるが、また言葉が通じずに嫌な思いをしたくはない。『英語メニュー』と書かれた店へ入ってみたが、誰もいないので出てしまう。チラッと目に入ったもう1つの食堂、そこにはどう見ても外国人が数人で食事をしており、私もそこへ吸い込まれる。ところがここも言葉は通じない。インドネシアあたりから来た、その外国人たちは出稼ぎ労働者だろうか。韓国語を話しているではないか。

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メニューに英語があった。見ていると『ブテチゲ』が目に入り、思わず注文した。ブテチゲ、部隊チゲ。要はあるものを何でも鍋に突っ込む、日本で言うと闇鍋?特徴はインスタント麺がぶち込まれることだろうか。どこの店でもそうだが、キムチ以下の副菜が並び、真ん中にドンと鍋が出てくる。物凄い量だが、暖かい鍋、食欲がわく。

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この店、おばあちゃんとその娘が切り盛りしている。娘さんは朝から働き詰めなのか、具合が悪いのか、私の料理を仕上げると寝込んでいる。おばあちゃんとは勿論言葉は通じないが『もっと食べろ』という仕草、そしてやさしい笑顔。こういうのには本当に癒される。先ほどの嫌な思いなど、すぐに吹き飛ぶ。自然に湧き出す不思議なホスピタリティ、これが魅力だ。

 

満腹で食堂を出る。KTXに乗るためのバスを探して歩きだすと、目の前にバスターミナルが見えてきた。あれ、さっきのターミナルとは違う。咄嗟に悟った。ターミナルが2つのあるのだ。時計を見ると12時5分前、走って切符売り場に行くと、何と12時のバスに乗れた。しかも乗客は数人しか乗っていなかった。こちらが高速バス、料金が3万ウォンとかなり高かった。先ほどのバスは一般バス、料金もかなり安い。だからあちらから埋まっていくらしい。それにしても奇跡的な出会い、絶妙のタイミング。

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バスは直ぐに発車し、田舎道を走りだす。あっという間に慶州とお別れした。バスは横3席、かなりゆったりしている。そして何より客が少ないので、静かだ。と思っていると、KBSの番組をそのまま放送し始めた。まるで日本のワイドショーと同じ。相変わらず、韓国は日本の真似をしているのか、どうせ真似るなら、もっといいところを真似るべきだと思うのだが。高速道路に乗ると、実にスムーズに進む。途中1回、トイレ休憩したが、その休憩所のあり方も日本とほぼ同じで驚く。昔『韓国はミニ日本』と言って、怒られたことがあるが、それは今でもあながち間違ってはいないようだ。

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午後4時近くにソウル市内に入る。そして渋滞する車をよそに、バス専用レーンを走り、ほぼ時間通りにターミナルに入った。この辺りはキチンとしている。ここは江南のバスターミナル。ここから地下鉄に乗り、またあの宿に帰った。宿では私が預けた荷物をそのまま部屋に置きっぱなし、下宿に帰ったような気分で、またその部屋を使う。携帯の充電器もそのままコンセントに差さっており、まずは充電する。私も疲れた体を充電した。

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真冬の韓国散歩2015(9)古き良き慶州に泊まり、歩く

韓定食2人前

そのレストランは庭が広く、宿と同じような造りであり、100年以上は経っている建物を使っている。庭に入っていくと、おばさんがいたが、言葉が通じない。するともう一人のおばさんを呼ぶ。そのおばさん、なんと普通に中国語を話した。朝鮮族でもなさそうだが。最近は中国人がここまで個人旅行で来る時代らしい。

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聞いてみると、韓定食は一人9000ウォンなのだが、二人前からしか頼めない。一人で来た者はブルコギ定食など、普通の定食を頼むのだそうだが、その料金は1.6万ウォンだったので、韓定食2人前と僅かしか違わない。なんと思い切って韓定食をオーダーした。まあランチも食べていないし、いいだろう。

 

それにしても趣のある建物だな、少し曲がっている所が特に良い。その建物に案内されると、テーブル、いや、ちゃぶ台が4つ置かれている。一番端に座る。まだ夕方5時過ぎだからお客などくるまい、と思っていると、あっという間に席は埋まってしまった。3組ともカップル、恐らくは日帰りでソウルかプサンへ帰る人なのだろう。

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一人の私のテーブルの上が全て埋まってしまった。料理はこれでもかというほど運ばれてきた。キムチや海苔、キュウリのあえ物、チジミなどは馴染があるが、意外に美味かったのが、魚の煮つけ。味噌汁も味わいがある。昔仕事で何度か韓定食を食べる機会があったが、美味しいという記憶は一度もなかった。嗜好が変わったのだろうか、どんどん食べていく。ご飯も2つ来ていたが、なんと大半を平らげた。量的にこれほど満足したのは久しぶりではなかろうか。すでに日は落ちたが、まだ暗くなっていない庭を歩く。何ともいい雰囲気だった。

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歩いて宿へ帰る。宿には共有スペースがあり、WiFiが使えるが、だれ一人いない。昼間は外人が一人いたが、彼もどこかへ向かって去っていった。今日は一人なのだろうか。私の部屋は4畳半ぐらいのオンドル部屋。但し後ろにシャワーとトイレが付いており、とても便利。前は伝統家屋、後ろは近代的。これで3.5万ウォンは値打ちあり、というところだろうか。

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部屋でも何とかネットが拾えたので、寒い外へ出ることもなく、オンドルに暖められ、床に座り込む。何とも心地よい。ただお茶を飲むために共有スペースへ行かなければならない。ソウルほどではないが、慶州も夜は寒い。スペースには韓国人が数人おり、テイクアウトしてきた食べ物を食べていた。別にここは外国人向け宿ではないのだ。そんな当たり前のことに気が付く。

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1月16日(金)

散策

翌朝は鳥の鳴き声で早く目覚めた。この宿は共有スペースに広いキッチンがあり、何と朝食は自分で作る。パンを焼き、卵を焼く。ジュースをコップに入れ、インスタントコーヒーの湯を沸かす。材料を置いているだけで、管理人は姿を見せない。実に自由な朝だった。あとから韓国人の女性が2人入ってきて、思い思いの朝食を作る。フルーツなど自分で持参したものを加える人もいる。

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食事が終わるとこの宿の敷地散策。私が入ってきた小さな門は通用口で、大きな門は別にあったが、今は開けていない。更に奥には離れのような建物と庭があり、こちらも宿泊スペースになっている。何だか日本の昔の家を思い出すような造り。きりっとした爽やかな朝に見ると、気持ちが良い。因みに部屋によってはトイレ、シャワー共用もあり、冬は外へ出ていく必要がある。

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そして外へ出る。今日の午後にはソウルへ戻らなければならない。もっとゆっくり慶州滞在を考えればよかった、との思いがあるが、それもご縁。また次回ということで、午前中は歩ける範囲を行ってみる。宿の目の前には大陵苑という古墳23基が点在する公園がある。しかしここに入ってしまうと、これだけで終わりそうだったので断念して、先へ進む。

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大陵苑の正門前まで来ると、南側は広大な敷地。遠くに瞻星台と呼ばれる東洋最古の天文観測所の建物が霞んで見えた。荒涼とした冬の大地を歩くと結構かかる。建物は実に素朴に見える。新羅時代の建造というから、1400年ほどの時が経っているのだろうか。この時代に天文観測とは唐より進んでいたのだろうか。周囲には所々に古墳が見えるが、特に何もない場所。

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足の向くまま歩いていくと、道路に出てしまう。そこを越えると、雁鴨池があった。新羅時代には今通ってきたあたりに半月城という宮廷があり、王侯貴族が歩いてこの池に遊びに来たという。1975年の発掘調査後、現在の姿に復元されており、往時を偲ぶ感じはないが、氷の張った池に浮かぶ鴨を眺め、広い庭園内をゆっくり歩いていると、気持ちがちょっと張る。

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横には慶州博物館があったが、何となく慶州駅が見たくなり、道路沿いを歩く。昨日乗れなかった電車が、先ほど池の近くを通過していったためだ。何とものどかな光景だった。駅まで歩くとそれなりの距離があった。駅自体は非常に小さく、確かに単なるローカル駅だった。

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真冬の韓国散歩2015(8)慶州 導かれて仏国寺と石窟庵へ

仏国寺と石窟庵

山の街にやって来た。ここで降りるのかと思ったが、運転手はまだだという。そこで安心してしまい、すぐに下りるべき仏国寺のバス停を通り過ぎてしまった。韓国語が分からないとやはり失敗は起こる。そしてバスはどんどん進んでしまい、かなり遠くまで行く。あまりに心配になりもう一度運転席の横まで行くと、運転手が困った顔をした。そして反対側を指す。戻れ、という意味だろう。しかし反対側に来るバスは本当に仏国寺へ行くのだろうか。若い女性に英語で聞くと何とか通じたので、安心した。

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先ほどバスが坂を上り切ったところ、そこは公園に見えたが、仏国寺の入り口だった。世界遺産との表示も見える。中に入ると池が凍っている。小雨は降り続いている。とても広い空間で、日本の寺院とは様相を異にする。創建は新羅時代と言われるが、近年荒れ寺となっていたのを1970年代より整備したとある。だから比較的新しい雰囲気がある。

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冬の雨の日、いつもは多い参観者が今日はとても少なくてよい。静かに散歩ができる。大雄殿などは一段高い所にある。裏に回り、階段を上る。裏の方には色々な建物があり、1つずつに興味をそそられる。観音殿の観音様にはなぜか引きつけられた。庭や瓦屋根に小石が積み上げられているところもあった。そして何とも言えない仏塔が目を惹く。灯籠にしか見えないその仏塔は高麗初期のもの。1905年に日本に渡り、1933年に韓国へ戻ったとあるが、どんな歴史に流されていったのだろうか。しばし傍に立ってみたが、何も語られなかった。

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1時間ほどゆっくりと散策した。実に歩き出のある寺だった。最後は別の出口を出た。本当に広い寺だ。慶州に来たら仏国寺とセットで行くべきところ、それは石窟庵だと聞いていたが、そこへ行くにはバスに乗らないといけない。冬は凍結などでバスが動かないこともあるとガイドブックに書いてある。しかもどこから乗るのかは書いていない。言葉は通じない。どうするのだろうか?

 

そう思って先ほど降りたバス停に行ってみると、道の反対側にバスが1台停まっていた。取り敢えず行ってみると何とそれは石窟庵行きだった。しかも私が乗るとすぐに発車した。まるで私を待っていたようだった。前の席には日本人のじいさんが韓国人のおばさんと乗っていたが、声がデカい。とうとうと自分の自慢話をしている。乗客は日本語が分からないと思って話しているのだろうが、こういうのは本当に恥ずかしい。

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バスで20分ぐらいクネクネと山道を登っていくと広い駐車場に停まる。入場料を払い、門を潜ると、ハイキングコースのようになっている。皆の後に付いて歩く。因みにバスは1時間に一本、次回を逃すと最終になるため、時間を気にしながら行く。思った以上に山道を歩く。ちょっと時間が気になり始めた頃、小高い所に建物が見えてきた。なんだ石窟ではないのか。

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中に入るとガラス越しに釈迦如来像が遠くに見えた。非常にきちんとした、そういうのを精緻というのかもしれないが、お姿だった。日本にもありそうな仏像。よく見ると、仏像を丸いドームが覆っている。これは人工石窟らしい。何故こうなっているのだろうか。神々しいうっすらとした光も人工の演出だろうか。

 

外へ出ると空気がいいと感じられた。下に水を飲むところがあり、日本の神社の要領、柄杓で掬って飲んだ。生水は基本的に飲まないのだが、何となくそうした。日本と韓国の近さを実感した。バス乗り場付近に戻るとまだ時間があった。腹が減り出した。確かに昼食を抜いている。どうしようかと思っていると韓国人のおばさんとおじさんが路上で物を売っている。観光客が次々に何か買っている。

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それは焼き栗だった。それも小さなフライパンでその場で炒っている。他にも山の幸を色々と売っていた。昨日のプサンに続いて、何とも言えない哀愁、がここにある。このおじいさん、ここでずっと、雨の日も寒い日もお店を広げているのだろうか。この人の人生は、どんなものだったのだろうか。買った焼き栗を食べてみたが、1つずつ焼き具合にムラがある。それが彼の人生だった、と言われているようで、噛みしめて食べた。

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帰りのバスは満員だった。15分で仏国寺前に戻ると、また反対側のバス停へ行き、慶州へ戻るバスを探す。フランス人の女性が一人でガイドブックを眺めている。さっきの日本人のじいさんもバスを確認しようと、観光案内所に駆け込む。私も先ほど失敗しているので慎重に対処せざるを得ない。字が読めない、ルートが分からないのはやはり困る。

 

日本に来る外国人観光客も、きっと同じ苦労を味わっていることだろう。その時最後の助けになるのは、そこにいる人だ。韓国人は分からないながらも、何とか説明してあげようという気持ちはあるようだ。日本人は英語で話し掛けられた瞬間に逃げてしまう人が多いと、以前ドイツ人とタイ人に言われたことがある。ハード面を整備するのは勿論だが、最後はソフトだ。

 

何とかバスに乗れた。50分ぐらい乗って無事に市内に戻る。それにしても腹が減った。どうしたものだろうか。確か宿のすぐ近くにやはり古民家を改造したレストランがあったように思う。折角古都に来たのだから、偶には伝統的な韓定食でも食べてみようかと思い、宿へ急いだ。雨は止んでおり、少し寒さが和らいでいた。

 

真冬の韓国散歩2015(7)プサン 迷いながら慶州へ

1月15日(木)

釜田駅とノポのバス

翌朝も雨だった。冬のこの季節に雨が降る、東京などでは考えにくいが、プサンは日本で言えば日本海側の気候なのだと気付く。冬は暗くて寒い、これが昨日から感じている哀愁の原因だろうか。今日は朝、海岸を散歩し、それから焼サバを食べに行こうと目論んでいたが、どうにも外へ出る気が起こらない。やはりソウルの寒さなどが体に堪えたのだろうか。こういう時は休むに限る。

 

朝食はホテルが無料で提供する食堂へ行く。日本の東横インでは1階ロビーの狭いスペースで、おにぎりとみそ汁を食べた記憶があるが、それは正直美味しくはなかった。ここはどうだろう。メニューはそれなりにあり、雑炊とキムチなどを食べてみたが、韓国に来てから美味い物しか食べていないこともあり、やはり物足りない。無料だから、そこそこでいいだろう、という感覚はちょっと残念だが仕方がない。

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結局焼サバも次回に回し、ホテルをチェックアウトする。何故かプサンを離れたくなったのだ。初めてプサン、しかも1泊、24時間も滞在していないのに、どうして逃げ出すように離れたいのか、正直自分でも分からない。次回は夏に来てみよう、何かが変わるかもしれない。

 

駅前から地下鉄に乗り、昨晩のソミョンの次の駅、釜田で降りた。今日は古都、慶州へ行きたいと思っている。KTXで新慶州まで行けば簡単だったが、それは面白くない。折角なのでローカル電車で行こうと思う。何となくそれが今の気分に相応しかった。KTX開業後、ローカル線はプサン駅から釜田駅始発に変更になっていた。地上に出たが、どこに駅があるのか分からない。キョロキョロすると、市場が目に入ったので、行ってみる。ローカル市場、人影もまばら。寂しい。

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駅を発見してエスカレーターを上る。随分と寂しい駅だと思っていると、駅の窓口だけが大混雑。長蛇の列だ。おまけに何時に電車が出るのか、どこ行きなのか、全て韓国語のため、全く分からない。どうしよう、まずは列に並ぶしかない。すると駅員がやって来て、何か言った。分からないので『慶州』と行ってみると、自動販売機の前に誘導された。そして親切にも操作してくれ、切符を買おうとする。

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『慶州行きは何時?』と英語で聞くと、何と今から2時間後しかないことが分かる。切符購入を止め、しばし考える。そして『バスは?』と聞くと『ノポ』という。それは地下鉄1号線の終着駅。取り敢えずそちらへ回ってみようと笑顔で駅員に礼を言い、去る。プサンは韓国第2の都市だと思っていたが、鉄道に関していえば、日本のかなりの地方都市より、田舎だった。それにしても駅窓口の行列は何だったのだろうか?

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また地下鉄に乗り、延々と行く。思ったよりノポは遠かった。ここでもしバスがなかったらどうしよう。何も調べない私の旅はピンチを迎えていたが、焦る必要もない、特に急がない旅はこういう時に強い。ノポ駅で降りると、そのままバスターミナルに繋がっており、慶州行のバスチケットは呆気なく買えた。20分に1本ぐらい出ているようだ。ただチケットを見ると英語で『Gyoeng Ju』と印刷されており、一瞬違う都市のチケット買ってしまったかと錯覚して慌てる。慶州がGで始まるなど、想像していなかった。

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3.慶州

サランチェへ

バスは田舎道を走り、1時間弱で慶州に着いた。これなら電車を待つよりはるかに速かった。乗客も少なく、座席も広く、快適でよかった。ただバスターミナルを出ても、どういったらよいか分からない。観光案内所の女性は英語が流暢だったが、私にふさわしい宿を紹介してはくれなかった。東横インのような味気ないホテルはもういい、古都に似合った宿に泊まりたかったのだが。ターミナル周辺にはまるでラブホのようなモーテルが何軒もあったが、そこへ入る気にはなれない。

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仕方なくガイドブックを開くと、『120年前の伝統的韓屋。朝食はトーストと卵が無料』というのを見つけて聞き直すと、彼女はその宿を知らなかったようで、調べてくれ、何とか道を教えてくれた。日本でもありそうな話だが、旅行客のニーズと対応する側の期待は異なる物。最近日本人観光客が減っていることも影響しているだろうか。

 

教えられた通り歩いていくと、街中に古墳が見える。大きな庭園も出てきた。こんなところに宿があるのだろうか、と不安になった頃、何とも素晴らしい、古い、しかし立派な建物が見えた。『サランチェ』と日本語で書かれていなければ、通り過ぎたかもしれない。古い小さな門を潜るとそこは韓流ドラマの世界、だが犬に吠えられる。それを合図に女性が出てくる。チェックインには早いので、荷物を置かせてもらい、『仏国寺へ行きたい』というと、流暢な英語で親切にバスを教えてくれた。ランチ時で腹は減っていたが、とにかく流れに任せて、バスに乗ってみようと思い、宿を出た。

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先ほどのバスターミナルまで行く必要はなく、仏国寺行きのバスはあっさりやって来た。また小雨が降っている。料金はどこまで乗っても1500ウォンらしい。普通の市内バスなのでちょっと心配になるが、流れに任せた。途中で乗客が大勢乗り込み、バスは山道に入っていった。

 

真冬の韓国散歩2015(6)プサン 哀愁漂う国際市場

2つ目の駅で降りた。そこに日本家屋が残っているというので行ってみる。乾魚物都売市場、ノリや干物など、乾物を売る店が並ぶ市場だった。その建屋は日本時代に作られたものだが、ちょうど庇があって2階部分や屋根などが良く見えない。勿論店はきれいに改装されている。雨のせいもあり、思ったような写真は撮れなかった。

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それから龍頭山公園へ行く。途中エスカレーターを使い、何とか楽して上がる。観光客もちらほら来ている。その上にプサンタワーがあるのだが、高所恐怖症の私は勿論遠慮する。この公園、今は単なる憩いの場だが、江戸時代は倭館と呼ばれる、対馬藩の出先が置かれていた場所だった。

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そこを反対側に降りていくと、日本時代の建物が見えた。東洋拓殖釜山支店、現在は近代歴史館として使われていた。ちょうど社会科見学の小学生の一段とぶつかり、そそくさと2階へ逃げる。この歴史館、中国ほどドギツイ物はないが、やはり日本統治の暗黒の歴史を伝えている。小学生には愛国教育が施されているのだろうか。ちょっと悲しいが、歴史を振り返る良い機会になる。

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小雨は降り続いている。列車内で駅弁を早めに食べてしまい、腹が減る。とにかく昨日Yさんから言われた焼サバを食べるために市場へ行く。歴史館のすぐ近くに国際市場があった。だがここは魚市場ではなく、サバはない。それでも路上で実にうまそうなおでんを売っている。ソウルともまたちょっと違うおでん。売っているおばさんにもなぜか哀愁が感じられる。

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我慢できなくなり、トッポギ、チジミと食べ、ついにはおでんを食べ始めると、もう止まらない。美味しいというより、この情景の中に身を沈めていたい、という気分だった。何とも切ない。何故こんな気持ちになるのだろうか。その夜、偶然にも『国際市場』という映画が最近封切られ、話題になっていると知った。見てきたとおり、プサンでもこの旧市街地は寂れ始め、客足が遠のいていた。しかしそこは韓国人の深い悲しみ、孤独が刻み込まれた場所であり、歴史に翻弄された庶民の生きざまが現れていた。決して歴史館には展示されない歴史がそこにあった。

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おでん屋のおばちゃんの写真が撮りたくなり、カメラを向けると『こっちを撮って』と指差したのは料金表だった。『うちは安くて美味いんだよ』と言いたかったのだろうが、言葉が通じないため、咄嗟にこれを指したようだ。韓国語と日本語が書かれていた。洋服やカバン、雑貨などが軒を連ねる国際市場、今後どうなっていくのだろうか。再開発され、きれいなビルになっていくのだろうか。雨のせいか、妙に感傷的になってしまった。

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地下鉄で先ほど降りた1つ先の駅へ歩いて向かう。それほど遠くない。チャガルチと呼ばれるエリアだ。ここには公設の魚市場があり、体育館のようなスペースに魚を売るおばさんたちが並んでいた。こんなに沢山いて、皆が売れるのだろうかと心配するほどいるがお客もそこそこいるので商売にはなるのだろう。

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そしてその周辺には魚屋があり、魚をその場で食わせる店もあった。さんまを焼いている店の前で思わず足が止まった。1万ウォンで食べられるらしいが、私の胃腸も既に止まっており、どうしても食べることが出来なかった。本当に無念だ。明日の朝は絶対ここにきて食べるぞ、という強い意思を持って立ち去る。

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地下鉄でホテルへ戻る。雨は引き続き、降っている。特に予定もないので、部屋でテレビを見る。NHKが見られ、相撲をやっている。ローカルチャンネルを見ると、サッカーアジアカップを放映している。さすが韓国、地上波で全試合を中継していた。今日は日本の試合があったので、それに見入る。試合には勝ったが、相変わらず残念な試合を続けている日本代表。最近低迷していた韓国、中国の復活が目覚ましい大会だ。

 

ソミョンのデジクッパ

それにしてもこの部屋、日本の東横インをそのまま持って来たのだろうか。以前一度泊まっただけだが、そっくりに見える。このホテルのカードを作ると日本でも使えるらしい。韓国人の日本観光もターゲットに入れている。またカンボジアのプノンペンに出店するとの広告が目を惹く。以前出店した中国の話題を最近聞かないが、どうしているのだろうか。

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サッカーの試合が終わると夜の8時になっていた。また腹が減る。ソミョンという繁華街があると聞いたので、そこへ見学に行き、何か食べることにした。出来れば焼き魚が食べたい。また地下鉄に乗る。5駅ぐらい行くと、ソミョンはあった。ある意味でここがプサンの中心かもしれない、そんなロケーションだった。

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ただ当てもなく歩く。繁華街、ネオンサインがきつい。歩き回っている内に、美味そうな湯気に出会った。同じものを出す店が3軒並んでおり、競っているようだった。店の前で大きな釜で何かを茹でるおばさんを見ていたが、無反応だった。仕事に集中しているのだろうか。中からオジサンが出てきて、入れ、という合図をしたので、入っていく。オジサン、日本語ができた。デジクッパ、という豚肉の雑炊のような物が出てきた。

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骨付き豚を煮込んでスープを取り、そこにご飯を入れて食べるプサンの名物料理だと後で知る。寒い時にはこれ、と言わんばかりの暖かさだった。あっさりしていて食べやすい。しかし海鮮中心のプサンで何故豚料理が名物なのか。これも北朝鮮方面で食べられていた物が朝鮮戦争の際にプサンに伝えられたことによるという。この街と戦争は切り離せないようだ。夜はどんどん更けていく。おでんの屋台をまた見つけ、卵だけ食べた。

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真冬の韓国散歩2015(5)プサン KTX乗車、東横インに投宿

1月14日(水)

KTXには改札がない

翌朝宿を出てソウル駅へ向かう。宿の女性からプサンに行くなら、KTXが一番速いと言われたので、その通りにしてみる。本当は昔よく名前を聞いた、セマウル特急に乗りたかったのだが、今では日本の新幹線で言う『こだま』に相当するようで、時間がかなりかかるらしい。まあ駅に行って考えよう。

 

大きな荷物は宿に預けて、地下鉄に乗り、ソウル駅へ。この駅は1年半前に通過しており、KTXの位置も分かっていたので、難なく切符売り場へ。カウンターの女性は英語を普通に話し、何の問題もなく、切符が買えた。そしてコンコースを進み、左に曲がれば電車に乗れるというので、行ってみると、どこにも改札がない。突然プラットホームまで降りてしまう。これは驚きだった。

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そして目の前にはずらりと並ぶ駅弁屋。特にお腹は空いていなかったが、興味本位で覗いて見る。焼肉弁当7500ウォンが目に入る。うーん、ちょっと高いけど、まあ買ってみるかと思い、その弁当を指すと、店員が『これ美味しいですよ』と完璧な日本語で言う。え、日本語通じるんだ、と思って店の名前を見ると、何とホットモット、日本の弁当屋じゃないか。奥には日本人もいて、日本語で話を聞いた。競争は激しそうだが、面白そうでもある。

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弁当を買い込み、列車に乗る。まあ新幹線と同じだな。席に着くとすぐに弁当を広げて食べた。直後に隣におばさんが座り、ちょっと食べ難かったが、指定席だから仕方がない。そう思ったところ、後からこの席のチケットを持った人が来た。このおばさん、なぜこんなに席が空いているのに、わざわざ私の隣に座ったのか、分からない。

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列車は時間通りに発車して、快調に進む。今日は天気が悪く、曇っているので、気分的にはイマイチだが、まあ仕方がない。途中でテジョンやテグなど何駅か停車したが、窓から外を見ると、韓国にはそれほど大きな都市はないのだなと思う。2時間半ほどであっという間にプサンに着いた。KTXは確かに速い。

 

2.プサン

東横イン

プサンの駅の出口にも改札がない。ヨーロッパにも改札がないところがあると聞いたが、日本でも導入すればよいのに、と思う。勿論中には不届き者がいるのだろうが、それは車掌が指定席を数えるだけで大体分かるという。日本の場合、どう考えても改札なしを実行できると思うのだが、雇用優先ということだろうか。

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駅を出ると何と雨が降っていた。それも意外と強い。どうしたものかと思ったが、取り敢えず、観光案内所へ向かう。ちゃんと日本語のできる女性がいる。どこへ行きたいのかと問われ、咄嗟に東横インの名前を伝えると、駅のすぐ横にあることが分かった。昨日見たガイドブックに東横インがあると書いてあったので、興味を持っていた。

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早々に行ってみると、サービスは完全に日本と同じ。それは決していい意味ではない。チェックインは午後4時から、現在はまだ1時、恐らく他のホテルならチェックインできるだろう。だがここまで来ると興味本位で泊まってみるとことにした。フロントの若い女性は日本語、英語とも完璧で恐れ入る。荷物はフロント横に預けて、ネットのパスワードを貰い、ロビーのテーブルでメールをチェックした。

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ロビーから見ていると、お客は日本人も多い。日本語が飛び交っている。出張できている男性が主である。韓国人も利用している。かなり定着している感じがする。料金は1泊6万ウォン、決して安くはないが、立地から考えてまあ仕方がないか。1つ大事な忘れ物をした。携帯電話の充電器をソウルの宿に忘れたのだ。

 

携帯は単に電話だけではなく、時計(目覚まし)としても使っているので、何とか繋げたいが、フロントで聞いても、スマホ全盛の時代にこんな古いモデルの充電器はない、と言われる。先ほどの観光案内所なら分かるかもしれない、というので、行ってみたら、1階のコンビニで出来るかもしれないという。そしてコンビニに行ったが、言葉が通じない。携帯を見せて何とか理解させたが、やはりできなかった。ホテルの隣のコンビに行くと、最初から手を振られてしまう。韓国も言葉が通じないな、一般の場所では。恐らく日本を旅する韓国人が味わうであろう、苦労を想像した。

 

街歩き

携帯の充電を諦めて街歩きに出た。まだ小雨が降っているが、何とかなる程度だった。まずは駅の向かい側へ行く。何とそこにはチャイナタウンと書かれていた。中国料理店もあり、服や雑貨を売る店もあった。華僑中学まで存在した。さすが港町プサン。面白いが、お客は殆どいない。これは雨のせい?それとも景気のせい。

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地下鉄に乗ってみる。ソウルほどではないが、プサンにも地下鉄が4路線ある。駅前には1号線が通っており、国際市場やプサンタワー方面へ行ける。何となく暗い地下街、駅だった。乗客もソウルほど多くはなく、乗るのは楽だった。ただホームは狭かったが。

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真冬の韓国散歩2015(4)ソウル ロッテワールドタワーと懐かしのパン屋

ロッテワールドタワー

Yさんに夕方まで付き合ってもらい、楽しく過ごした。そして久しぶりに江南方面へ行く。待ち合わせまで時間があると思われたので、ゆっくりと地下鉄に乗り、出来れば宣陵にある世界遺産、王墓群へ行ってみるつもりだった。ところがここでも勘違い、4駅も前で降りてしまい、行く気力を無くした。最近は思い込み、勘違いが実に多い。ボケの始まりか。

 

仕方なく、待ち合わせ場所のロッテホテルへ行く。ここにはショッピングモールも併設されており、時間を潰すには便利だ。家電売り場へ行くと、ちょうどサッカーアジアカップの韓国の試合を放送しており、テレビ売り場の前でオジサンたちが手に汗握り、じっと見入っていた。私もつられて、見入る。まるでその昔の街頭テレビのようだ。しかしテレビ売り場以外にお客は殆どいない。セールの張り紙が空しい感じだ。これを見て景気が悪いとは判断できないが、少なくても、商売が厳しい様子は良く分かる。

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ロッテホテルで会ったのは、お知り合いのソウル在住K社長ご紹介のCさん。元々はK社長と会うはずが、彼が日本出張となり、一昨日東京で既に会っていた。韓国事情を知りたいというとCさんを紹介してくれたという訳だ。Cさんは韓国有数の教育研修会社の副社長で、日本での留学、勤務経験もある方。日本語も堪能で有意義なお話を聞く。現在の韓国情勢については、これまでの人々と同様に、景気が悪いのは国民心理の作用が大きいこと、また大統領を支持する気になれないこと、など、精神面での落ち込みが語られた。

 

我々が食事をしたのはロッテホテルの向かいに新たに建設した、ロッテワールドタワーという韓国一高い建物。高さ555m、123階建て、現在90数階まで完成しており、工事は続いている。ロッテグループが総力を挙げて建設しているシンボルタワーだ。中に入ると非常に豪華な印象の内装が目を惹くが、ここもお客があまり居ない。こんな立派な建物なのに、なぜお客がいないのか、立地が悪いとも思えない。

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実は度々、床や天井に亀裂が入り、事故も起こっていると報道されているという。確かにこのビルが崩壊するなどと恐れている人のネット記事もいくつもあった。中には『123階建てのセウル号』などと評するブログも見られた。おまけに周辺道路が陥没するなど、すこぶる評判が悪い。お客足が遠のくのも無理はない状況かと思われる。

 

現在韓国では財閥偏重の経済に厳しい目が向けられており、先日大韓航空のナッツリターン事件もそうだが、このロッテの件も、必要以上にバッシングがあるのでは、と感じられる。ただ勿論安全性は最重要だし、お客は他の店に行けばよいので、ここにわざわざ来る必要なく、Cさんもこの近くに勤務していながら、来るのは初めてだと言っていた。因みについ先日ロッテの創業者が長男を解任したという報道があったが、あれとこのタワーは関係があるのだろうか。

 

Cさんがビビンバでも食べようというので、食堂のあるフロアーを目指したが、非常に分かりにくく、何度も聞いて、ようやくたどり着く。単に広すぎるというだけの理由ではなく、使い勝手もよくない。そして夕飯時なのに、このフロアーにもあまり人がいない。ビビンバは美味しかったが、何となく寂しい。人がいない、ということの空しさを味わいながら食べた。

 

日本人を引き継いだ伝統的なパン屋

その後同じフロアーにあるパン屋さんへ行く。Jさんが『ここのパンがおいしいと評判だ』というので付いていく。午前中にイテオンで見た行列が頭を過る。まあここはお客もいないだろうと思っていくと、何とこの店だけは行列が出来ていた。我々はアンパンと野菜パンを買い、暖かい緑茶を飲みながら店内で食べたが、普通の人はコーヒーを注文しており、また大勢の人はテイクアウトするようだ。本当に韓国はパンブームなのだ、とよく理解できた。

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パンを食べてみると、実に懐かしい味がした。Jさんも『子供の頃に食べた味だ』としみじみという。どうしてこんなパンがあるのかと聞くと、『この店は日本統治時代の製法を受け継いでいるから』というではないか。確かに私が食べても懐かしいし韓国人が食べても懐かしいのであれば、そうなのかな、と納得する。韓国最古のパン屋、と呼ばれ、郡山市に1920年代に日本人が開いたパン屋を1945年から引き継いだとある。本店は平日でも長蛇の列らしい。

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歴史的な経緯は別にして、最近韓国でも、台湾や香港のように日本統治時代を懐古する機運があるのだろうか。もし少しでもそれがあるとすれば、やはり中国大陸からのプレッシャーへの無言の反発だろうか。朴政権は中国への依存度を急速に高めたが、それはちょっと拙速だったのではないか、というムードも反映しているのだろうか。今の韓国の若者はアンパンについては何も知らないだろうから、政治や歴史など気にせず、ただブームに乗っているだけだと思うが、その根底にあるものを少し見てみたい気がしないでもない。

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帰りはまた地下鉄に乗る。夜10時を過ぎて、お客はそれほど多くない。寒さのせいだとは思うが、やはり何となく勢いが感じられないソウル。宿へ向かうと寒さが一層堪えた。明日は遂にプサンへ行く。ソウルよりは5-6度気温が高いと聞いており、期待が持てる。