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ミャンマー激走列車の旅2015(3)何もない山道をダウエイまで

 ダウエイへ

イミグレは無事に通過した。正直ほっとした。ここでダメだと言われてももうどうしようもない。戻ることすらできないだろう。外国人がここを通過できるようになったのはつい最近。だがまだ問題はあった。ここからどうやって今日の目的地、ダウエイまで行くのだろうか。周囲を見渡してもバスがあるようには見えない。S氏がバスについて尋ねると『日に一本はある』ということだったが、その費用も安くなかった。

 

先ほど我々を乗せた軽トラのおじさんは英語ができた。彼が仲介役となり、交渉が始まった。車のチャーターが一人700バーツと聞いてのけ反る。1台ではないのだ。タイ国内をここまで来るのに150バーツも掛かってはいない。しかし選択肢がないことは絶対的に不利だった。ただバスが来たとしても400バーツぐらいはかかりそうだったので、最終的に一人600バーツで手を打つことになる。仲介役はいくら懐に入れたのだろうか。まあいずれにしても、これで今日中にダウエイに入ることが確定したのはよかった。何と順調なのだろうか。

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道はかなりの山道だった。確かミャンマーとタイはダウエイ経済開発区の開発を共同で行っているはずだったが、とても大量のトラックがここを通過できるとは思えない。アジアンハイウエーとは名ばかりで、辛うじて舗装された狭い道が続く。こんなところに莫大な税金を投入しようとしている日本政府の関係者は、この道を通った後で出資を検討したのだろうか?決してそんなことはあるまい。いくらダウエイに素晴らしい港があっても、陸路は実質的に遮断されているも同じだ。だからタイ企業も撤退を表明し、困ったミャンマーは日本に話を持ち掛けた、ということだろうか。

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1時間ぐらい走ったところで、茶店があり、休憩した。というより、運転手が食事をとるためだったが、何だか酒も飲んでいるようだった。今日は本当に運のよい儲け仕事が転がり込んできた、ということなのだろう。何とも言えない気分でそれを見る。車は川沿いを走っていく。途中何か所か橋が架かっていたが、いずれも小型。大きな車がここを通って大丈夫なのか、というほど、柔い代物だった。まあ、とにかく村などもほぼ見られない山道をずっと走っていく。一体いつまでこれが続くのだろうか。

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国境から3時間半ほど揺られただろうか。特に街らしい風景もない中で、突然畑の中に大きな建物が見えた。なんとそれがダウエイ駅だった。完全に街の郊外にある。言われなければ気付かない場所だろう。運転手とは言葉が通じないが、仲介役が駅に連れて行くように言ってくれていたので、ここまで来られたらしい。建物に入ってみたが、だだっ広い体育館の様な場所だった。そこにござなどを敷いて座っている人々がいた。まさかと思ったが、すでに列車を待っている人だった。

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何とか情報を得ようとしたが、言葉が通じない。すると線路でセパタクローをしていた一人がやってきてちゃんとした英語を話した。なんと彼が駅長であり、列車は一日一本、午前6時発だとわかった。駅長室に行き、切符を買う。S氏が『明日の朝のを買いますね』と軽く言ったが、私にはそれは衝撃だった。え、今日こんなに苦労してやっとここまでたどり付いたのに、これではダウエイの街すら見ることはできない。そんな馬鹿な、と心の中で思ったのだが、今回の旅は全てお任せしようと思っており、自分の意見は控えた。まあ成り行きに任せてみよう。

 

駅長は丁寧に切符を作成した。支払いはすべてミャンマーチャットのみとなっていた。幸い私は現金を持っていたので、何とか払えたが、なければ街まで両替に行かなければならなかっただろう。それにしてもヤンゴンまで26時間かかるらしい。その料金が米ドルにしてわずか10ドルとは。ミャンマーでは昨年外国人に対する列車切符のドル払いを停止して、チャットに一本化したが、その際料金までもミャンマー人に統一した。その結果、料金は3分の1に下がったらしい。驚くほど安い。中国で兌換券が廃止された90年代には確か料金は値上がりした記憶があり、ミャンマー政府は何と良心的なんだと思ったが、それが少し違うことは追々わかってくる。

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これからどうするか。まさか明日の朝までここで待機するのかと思ったが、さすがにそれはなかった。乗ってきた車の運転手もちゃんと待っており、街まで運んでくれた。車で10分ほど行くと街らしくなってきた。高い建物は見られない。ほぼ中心部という場所で、ホテルを見つけ、そこに入る。1部屋、ベッド3つで、40ドル。何となくリゾートホテルみたいで雰囲気は悪くない。フロントも英語で対話ができた。ネットも何となく繋がる感じで好ましい。

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ミャンマー激走列車の旅2015(2)絵に描いたようにミャンマー国境へ

駅を抜けると、そこにはトラックの荷台を座席にしたようなバス?が停まっており、数人が既に乗っていた。我々も促されて乗り込む。ツーリングの2人も自転車ごと、乗っていた。出発したが、残りの乗客はどうしたのだろうか。そんなことを考えているうちに、道路沿いで車は停まり、我々はさらに小型のソンテウに乗り換えさせられる。一部の人はここからどこかへ行くのだろうか。全く分からない状況が続く。更にはカンチャナブリのバスターミナルらしきところを通過した。私はここで降りるのがよいと思ったが、S氏はターミナルを見送った。列車が動いていなくても、取り敢えず駅があるのならそこへ行くのがこの旅のルールのようだった。結局代替輸送の運賃は徴収されなかった。

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カンチャナブリの駅は街外れにあった。駅がこんなところにあるのか思うような場所だった。ツーリング組は早々に自転車をこぎ出した。ドイツ人夫婦など、鉄道に乗る人は駅へ向かったが、そこに列車はなかった。何と本来接続するはずの列車は既に出てしまっていた。この特殊状況になぜ待てないのか、しかも次の電車は午後4時と聞いて、他人事ながら呆然とした。さすがタイだ!

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しかし人のことを憐れんでばかりもいられない。我々はここからどうするのか。何とも閑散とした駅の写真を一通り撮ると、もうここには用はないのだが、先ほどのバスターミナルの戻るにも、交通手段がなかった。広い道まで行ってバスでも来ないか待ってみるも、その気配が見えない。こんなことでミャンマーへ行けるのだろうか、と思っていると、木陰にバイクが見えた。しかも三台。絵にかいたような光景だった。そして運転手が三人、ハンモックで寝ていたのだ。これは使うしかない。たたき起こして交渉し、1人30バーツで送ってもらった。この時思わずS氏に『これって出来過ぎですよね、テレビ番組の仕掛けでもあるのでは?』などと失礼なことを聞いてしまった。それほどネタの引きが強い、それが旅行作家というものだ。

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ミャンマー国境

バスターミナルへ行き、ミャンマー国境へのルートを探った。ここは鉄道がないので、他の交通手段を使う。すると係員が外を指さし、『あのミニバスが国境へ行くぞ』というではないか。そこへ駆けつけると、30分後に出るという。しかも都合のよいことに座席は3席空いていた。これまた絵にかいたような展開。荷物をバス内に括りつけてもらい、ランチに向かう。近くの麺屋に飛び込み、麺をすする。後でわかったことだが、このミニバスは1日4本しかなく、もしこれに乗れなかったら、次は4時間待ちだった。しかも我々の後に来たフランス人は席がなくて乗れなかったのだから、我々の幸運は計り知れない。

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バスは定刻に出発した。アジアンハイウエーと書かれた道を行く。ハイウエーとは名ばかりだったが、道は悪くない。1時間ほど、田舎を走っていく。途中で土砂崩れがあったりもしたが、通行に支障はなかった。その後道を外れて行くと、立派な建物があった。こんなところになぜ建物があるのか、と訝ったが、タイの建設大手企業の施設だった。確かこの企業がダウエイ開発区の建設担当だったが、資金難で撤退したとのうわさもあった。確かに人影はなく、プロジェクトが動いている感じはなかった。

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1時間半後、ついにタイとミャンマーの国境へ来た。ミニバスを降りてイミグレに向かう。プナムロン、という名前の国境だった。しかしこんな所から本当に出境できるのかと思うほど、何もないところだった。思いのほか簡単に手続きは済んだが、ミャンマー側の国境はどこにあるのか?S氏が係官に聞くとなんと、ここから6㎞離れているという。どうやって行くのだろう。S氏が『乗ってきたミニバスが来るだろう』と言ったが、我々が振り向いたとき、すでにミニバスの姿はなかった。完全に取り残された思いだった。しかしここからがS氏の豊富な経験が生きてくる。『こういう場所には必ず何かが来るんだ』と言い、どっかりと腰を落ち着けた。何とも頼もしい。

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そしてその予想通り、10分後には軽トラが通りかかった。しかし荷台には農機具なども積まれており、スペースはあまりなかった。S氏を助手席に乗せ、私とNさんは何とか荷台で頑張ろうと思ったが、S氏は『ここは私が荷台に乗るのが筋です』と言い、その姿をNさんに撮影してもらっていた。なるほど、これは私の旅ではなく、彼の旅なのだ。それにしても6㎞の山道、振り落とされる可能性すらあったのに、と思うと、頭が下がる。

 

何とかミャンマー側へたどり着いたが、そこには小屋がいくつかあるだけでどこがイミグレかも、一瞬分らないほどだった。その建物へ行くと、数人が手続きをしていたが、何とものどかな光景で、とても国境の緊張感など感じられない。ただ我々がパスポートを取り出すと、慌てて機械の電源を入れたのがおかしかった。外国人などめったに通らないことがよく分かった。

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ミャンマー激走列車の旅2015(1)最初の列車は工事中

《ミャンマー激走列車の旅2015》  2015年7月23日‐31日

 

不思議なこともあるものだ。確か昨年旅行作家のS氏と雑談した中に、『シルクロードのお茶版、ティロード、万里茶路というのがあるんですが、まだ誰も知らなくて』と何気なく話したことがある。その後数か月も経ってから『企画が通ったよ、一緒に行かない』と声を掛けられた時には、もう何のことか分らないほどだった。S氏とは数年前にバングラディシュにご一緒したことがあるが、その時は大学生に同行しており、氏の本当の旅は本の中でしか経験していなかった。興味本位で『行きます』と元気よく答えてしまったのだが。

 

バンコックに滞在している間にS氏がやってくるとの話があった。何と例の企画の旅をするという。万里茶路とバンコックは関係ないだろうと思っていたら、その企画は『北半球の一番南の駅から一番北の駅まで列車で行く』というものだったことを初めて知る。第1回はシンガポールからバンコックまで。一旦帰国して2回目が始まるというのだ。まさに乗り掛かった舟、一緒に乗って行くことにしたのだが、これがあの試練の始まりとは全く想像もしていなかった。

 

7月23日(木)
カンチャナブリへ

朝5時に定宿で目覚めた。隣にはカメラマンのNさんがいた。S氏とNさんの名コンビはこれまでいくつもの旅を仕掛け、本を作り好評を博している。Nさんの優しい視線から撮られる写真は私も好きだったので、今回一緒に行けるのは楽しみの一つだった。タクシーで駅へ向かう。もしバンコックの中央駅ファランポーンを使うのであれば、このメンバーは迷わず地下鉄に乗っただろう。しかし今日の出発点は川向こうのトンブリ駅。バンコックに30年来来ているが、正直そんなところに駅があることも知らなかった。

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バンコックの渋滞を避けて6時にはタクシーに乗る。車はスピードを出してすぐに川を渡り、30分で目的地に着いた。だがここが駅だろうか、と思うほど、貧相な駅舎がそこにあった。早々に切符の購入。ところが・・??何と最初の目的地カンチャナブリまで繋がっているはずの鉄道は、修理のため、途中駅で打ち切りだとわかる。すごい、最初から躓いている。どうするのかと思っているとS氏は何事もなかったように『行けるところまで行く』というだけ。切符を買い、時間があるので駅前の道端でコーヒーを飲み始める。

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この辺の店、店員の顔を見るとタナカを塗っている女性が沢山いた。何ともミャンマーチックなと思っていると、実際にここで働いている人々はほぼミャンマー人だった。この駅を使う乗客の中にはミャンマー人が多いということだろうか。我々も今日はミャンマーへ向かっている。気持ちは高まるが、列車は走るのだろうか。何しろタイ国鉄のスローな運行にはこれまでも痛い目に遭っている。因みにこの駅には両替所などはなく、銀行のATMが鎮座していた。もし外国人がここに辿り着いたら、これでキャッシングする。

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思いのほか、列車は定刻に入線し、ほぼ定刻に出発した。乗客はそれほど多くない。4人掛けの普通座席に陣取る。何と座席番号が一応あるのだが、手書きで書かれているところが凄い。一番後ろの一両は座席がなく貨物用かと思ったが、とてもきれい。そこにはタイ人が自転車を持ち込み、乗り込んできた。最近タイでもツーリングブームだ。列車内でアルコールを飲んではいけない、との表示もある。いつの間にか列車はホームを離れていた。窓から心地よい風は吹いてくる。

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途中に駅はいくつもあり、多少の乗り降りはあったが、概ね平穏。窓から見える風景は田舎の畑あり、突然のマンション建設ありと、都市と農村が交錯する。1時間半ほどこの列車に乗っていたが、ある駅で停車してしまった。駅舎を見るとそこには『泰緬鉄道起点駅』という碑が立っている。1942年日本軍は、ここノンプラドックからあの泰緬鉄道建設を始めたという。そうだ、我々は鉄道の旅でミャンマー入りしようとしているのだが、今も泰緬鉄道があれば、このルートでミャンマーへ行けるはずだ。だが残念ながらその鉄道今はもうない。今回の旅の最後に出会う中国系ミャンマー人によれば『1990年頃、あの鉄道の線路はすべて撤去して、タイに売ったよ』という話だった。

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ここで迷っていた。数人がこの駅で降りていた。だが工事の始まっている駅まではまだ1駅ある。皆がざわつき出す。タイ語のできるS氏が情報を収集したが要領を得ない。ついには荷物を持って一旦降りて、易に人に聞くことに。その間に列車が出たらとひやひやしたが、駅員はこのまま駅を突き抜けろ、と指示を出し。さて、一体どうなるのだろうか。のっけから皆目わからない旅となっている。

 

 

北海道を旅する2016(6)初めての小樽を歩く

4月4日(月)
4. 小樽
小樽まで

本日は北海道最終日。東京行のフライトまで時間があるので、昨日懇親会で聞いたとおり、荷物を持って小樽へ向かう。小樽へ行くのは初めてで何となくワクワクする。なぜだろうか?今さら石原裕次郎でもないだろうに。札幌駅まですでに慣れ切った地下鉄で行き、小樽行のJRに乗り込む。快速エアポートという速い電車もあるが、敢えて各駅停車に乗ってみる。それでも1時間はかからない。小樽は札幌の通勤圏だと聞いている。

 

何とチケットホールダーなるものが座席の前についている。これがあるということはスイカなど使えないということだろうか。切符を挟んで置く場所など、全く初めて見た。返って忘れてしまいそうだ。この路線の駅名も面白い。星置、ほしみ、とロマンチックな名前が並んだが、その次がいきなり銭函とは、すごい。

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海が見えたなと思うと、札幌から45分位で、小樽に到着。古い駅舎のムードを残している。まずはコインロッカーを探す。ちゃんと表示があり、すぐに見つかる。そこには台湾人、タイ人などの親子連れ、カップルなどが荷物を預けていた。皆日本のコインロッカーに精通しており、私より早く預けている。駅前へ出ると、観光案内のデスクがあり、外国人観光客が順番に道を聞き、地図をもらっていた。私は横から地図だけもらい、早々に街へ出る。

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特にあてはない。駅前の道を行くと、すぐに商店街があり、榎本武揚の横断幕が見えた。その先には旧日本郵船小樽支店の重厚な建物、そして廃線となった線路が見える。歩いて行くだけで歴史が見えてきそうだ。更に行くと小樽運河だ。古い倉庫が並んでいる。その辺の公衆トイレに入ると、『異物を流すな』という文字が英語とロシア語でも書かれている。ロシア人は以前小樽に沢山いたらしいが今回は一人も見かけなかった。ルーブル暴落以降、ここにやってくるロシア人は皆無となったのだろうか。

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運河を越えて更に行くと港が見えた。今日もいい天気で、圧倒されるような風景がそこにあったが、ここを訪れる観光客はなく、駐車場を使う車だけが通っていた。何とも寂しい。そこから古い町並みを歩く。昔は港で栄えたのだろうな。再び運河に出ると、ラオックスがここに進出しており、観光客の波が分かる。

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運河を背景に写真を撮っていたのは、中国人観光客ではなく、タイ人だった。ガイドに連れられ、かなりの数が来ている。その後もところどころでタイ語に出くわした。これがタイ人訪日客か。昨年は80万人、今年は100万人来るかと言われるだけあり、その存在感を増している。勿論台湾人、香港人など常連さんも多い。大陸客は皆さくらを目指して本州に居るのだろうか?

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この街には昔の金融街があったり、商店街があったりして、変化があり、なかなか面白い。その中に先日テレビ番組で偶然見た北菓楼という菓子屋があった。そこのシュークリームが美味いというので買って食べてみる。パイ生地で中は生とカスタードが両方入っている。他の商品は試食も可能で随分と賑わっていた。隣に六花亭もあったが、こちらは試食がなく、客足は明らかだった。

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昔の料亭や街灯、そしておしゃれな建物を眺めて歩く。折り返してもと来た道を戻り途中で、わき道に入ると、そこは寿司屋通りと書かれており、確かに寿司屋が多かった。腹が減ったので、その一軒にふらっと入ってみたが、特別感はなかった。きっともっとお金を出さないと美味しいものは食べられないのだろう。

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それからも街中をぐるぐると回ってみたが、歩きやすい、気持ちの良い街だな、という印象はあったが、疲れてきてしまった。少し早いが、新千歳空港に向かうべく、電車に乗ることにした。小樽から新千歳には30分に一本、快速エアポートが走っており、1時間もかからないで、空港に着いてしまう。

 

これはとても便利であり、小樽が観光地として観光客を集められる一つの要因になっているのかもしれない。しかしここから余市やニセコへ電車で向かおうとすると、途端に不便になってしまう。私は実は今回余市へ行くことも考えたが、地元の人に止められた。もっと時間がある時でないと、何かあったら飛行機に間に合わないと言われたのだ。次回はバスも検討しよう。

 

空港に着くと、もう特に何も起こらなかった。帰りのフライトでは広東語が流れることもなかった。今回の北海道訪問は、ある意味とても面白い経験となった。同時にまた来たいな、という思いを強く持った旅となった。何しろ北海道は広い。まだまだ行くべきところはいくらでもあるだろう。

北海道を旅する2016(5)セミナーをやりながら、食を満喫する

ラーメンを

午後は4時から、日本茶カフェ、にちげつにて、「日本茶言いたい放題」と題するお話をした。これは日頃私が疑問に思っている日本茶に関する事柄(例えば日本茶には香りが無くなったとか)を披露して、海外の状況と比較したりして、日本茶の将来を考えるものだった。正直参加者がどう受け止めたかはわからないが、こういうセミナーがあってもよいと思っている。ただこの話を実にシンプルで居心地の良い日本茶カフェで話すのが適当だったかは更にわからない。ここでまったり日本茶を飲んでいればよい、という雰囲気だった。尚にちげつのオーナーAさんは私の大学の後輩であることが分かり、その方にも驚いた。

 

持ち込んだ日本茶が、村上茶やさしま茶など、地域的に珍しいものであったこと、また萎凋香が付いたもの、白茶のようなものなど、特殊な製法のものがあったことにより、一部の人々からはかなり珍しがられた。確かに日本に居ても出会わないお茶は沢山ある。それを出合わせるセミナーがあってもよい。その任を私が担うべきかどうかは分らないが。

 

夜は疲れたので、お先に失礼した。あまり腹も減っていなかったので、ホテルへ帰ろうと思ったが、ふらふら歩いているとラーメン屋さんがあったのでそこに立ち寄る。まあ、折角札幌に来たのだから、ラーメンぐらい食べないと。腹は減っていないと思いながら、熱々のラーメンをあっという間に平らげたのは、やはり味が良かったからだろう。満足して帰路に着く。

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4月3日(日)

事件起こる

前日は6月に出る本の原稿書きに没頭し、ふろにも入らず寝てしまった。既に3月末の締め切りを数日猶予してもらっており、慣れないことで悪戦苦闘している。翌朝も早く起き、原稿を続きをやる前に気分転換に湯をためて風呂に入る。朝ぶろは気持ちがよいものだったが、その後歯磨きしようと再度浴室に入ると、一面が水浸しになっていた。たぶん排水溝が詰まっていたのだろう。

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フロントに電話して人に来てもらったが、すでにかなり水はひいていた。彼はすぐに大量のタオルを持ってきて、床を拭き始めたが、その根本的な解決を図ろうとはしなかった。これではまた風呂に入れば同じことが起きるのは誰が見ても明らかだった。今日チェックアウトならそれでも良いが、私は今晩もこの部屋に宿泊するのだ。これでは困る。『後で掃除のおばさんによく見させておきますから』と言われ、その対応に唖然となった。普通なら次のお客を入れるためにもここは入念にチェックして、万全で臨むべきだろう。

 

『部屋を変えて欲しい』と訴えると、これで問題ないとか、部屋が満室だとか言って拒んでくる。これには本当に驚いてしまった。少し強い口調で要請すると、ようやくしぶしぶ同意した。だがこれから出かける私に『荷物は一度フロントへ』というではないか。実は私は持ってきたスーツケースを、セミナー会場にもっていってしまっており、着替えなどを入れる入れ物も持っていなかったから、それは出来なと、また押し問答になった。

 

普通のホテルなら、ホテルの事情で部屋を変わるのだから、お客の事情に配慮するべきだと思うのだが、そのような感覚は持ち合わせていなかった。最終的にホテルの従業員が私の荷物を新しい部屋に移しておくことで了解したが、やはりあり得ない状況だ。日本のおもてなし文化など、規則・マニュアル・効率優先のチェーンホテルにはどこにも見られない。勿論責任者からの謝罪もなければ、例えば部屋を少し良いものに変える、ということもなかった。この古いホテルでは日常的にこのような状況が起きており、稼働率向上のため、今回のような措置が取られているのだろう。

 

今日は午前中、台湾茶のお話をした。昨年末に南北台湾をぶらぶら歩いて得たお茶を飲み、台湾茶のトピックスを話した。今回の4つの講座なのかで、一番お茶が美味しかったのではないかと思う。基本的に私の旅は美味しいお茶を求める物ではない、その旅で出会った茶が提供されるのだが、やはり参加者からすれば、美味しいお茶の方が好ましいのは当然だ。

 

お昼は、皆さん午後の準備で忙しく、弁当を食べるというので、一緒に買ってきてもらい食べる。折角なので珍しいものを、ということで、登場したのが、ザンギ弁当。しかしどう見ても普通の鶏肉の唐揚げにしか見えない。ザンギの由来は中国語のザーギー(炸鶏)から来ているとも言われており、恐らくは味付けが少し異なるだけなのだろう。もっとも北海道では魚介類の揚げ物もザンギというらしいので、特定するのは危険にも思うが。

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午後は最近ハマっている?万里茶路についてお話した。何しろ10日前にはモスクワに居たのだから、多少の臨場感はあったのではないだろうか。とは言っても現在のロシアに万里茶路をしのぶところは殆どないのが実情だが。お茶は珍しいお茶、湖北の米磚茶などは、簡易のこぎりを買ってもらい、切った茶葉を前日に煮出してもらうという手間をかけた。お茶の歴史への興味を少しでも持って頂けただろうか?正直自信はない。もっと研さんを積み、話術も増さないと。

 

こうして、2日間の講座は無事に?終了した。その後にちげつで懇親会が行われ、Yさんが握ってくれる新鮮な寿司ネタに舌鼓を打つ。お茶に関心を持っている人が沢山いる、ということは、とても素晴らしいことだな、と改めて感じたのはなぜだろうか。7月2-3日には札幌で大規模なお茶イベントも計画されていた。『エコ茶会のような会を北海道でもやりたい』という話を聞き、エコ茶会主催者でもないのに、喜ばしく思ってしまった。北海道の会、成功を祈る。

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北海道を旅する2016(4)驚きの十勝豚丼を食す

わが宿の横には立派なホテルがあり、その入り口には『飯沼貞吉ゆかりの地』という碑があった。飯沼貞吉というのは確か会津白虎隊の生き残りだが、彼は札幌にゆかりがあるのだろうか。調べてみると彼は明治に通信技師となっており、1905年から5年間、札幌郵便局工務課長として、ここに勤務していた。ただなぜこの碑が建てられているかは、全く不明である。

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夕方は明日のセミナーの打ち合わせに出向く。テレビ塔を目指して歩いていく。私は今回の主催者も、セミナー会場がどんなところかも、全く知らない。それでもご縁というものがあり、受けることにした。会場までスーツケースを引きずっていく。中には茶葉が一杯詰まっていた。道路に雪は見られなかったが、日陰にまだ雪が積まれているのは見えた。

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ビルの3階にひっそりとある手ごろな広さの日本茶カフェ、そこが会場だった。ただその隣には、畳の部屋があり、その横には手もみのほいろなどもあり、なんとも不思議な空間だった。因みにこのビルのエレベーターはとても広く、ここが元病院であることはなんとなくわかった。だからフロアーの部屋が1つ1つ小さく区切られ、狭かったわけだ。

 

初めて会った人々だが、お茶という共通項があったためか、すぐに打ち解けた。打ち合わせというより、雑談を連発しているうちに、時間は過ぎてしまい、夜の予定に向かう。札幌駅までゆっくり歩いていった。周囲が暗くなる中、ちょっと涼しかったが、寒いという感じはなく、歩くのにちょうどよかった。本日3回目の札幌駅。さすがに駅の構造も分ってきており、駅ビルの1つにある指定されたレストランにもスムーズに行けた。

 

今晩は北京繋がりのおふたりと、中国話や北海道の現状、訪日観光客事情などで大いに盛り上がる。盛り上がりすぎて、料理の写真を取り忘れたが、そこは地元食材を使ったおしゃれなところだった。北海道に限らないが、ジビエ料理なるものが流行っている。農家を回っていると、シカやイノシシの被害を訴えられることが多いが、その駆除は進んでいるのだろうか。野生のものがよいという消費者が多いが、その実、それはどうだろうか?

 

4月2日(日)

紅茶屋さんで

翌朝は1つ目のセミナー会場へ向かう。1つ目はスリランカ紅茶の話であり、ここだけは会場が違っていた。札幌ドームの近く、閑静な住宅街にある紅茶屋さんに向かう。と言っても地理が全く分からず、方向音痴気味の私を心配した主催者Kさんが、途中まで迎えに来てくれるという。地下鉄の終点、札幌ドームの最寄り駅まで一人で行く。これは簡単。

 

福住というその駅を地上に上がると、向こうに札幌ドームが見え、白い恋人と宣伝が見える。駅横には不二家の直営店があるのは、何とも懐かしい。函館からわざわざ私のセミナーを聞きに来てくれた女性も一緒に車で会場に運ばれる。確かに一人でバスに乗ってきては分らなかったかもしれない紅茶専門店ニルマーネル。一軒家の中は居心地の良い空間だった。

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ここで紅茶好きの方々にスリランカの話をした。スリランカから持ってきた各種紅茶を淹れてもらい、美味しいお菓子も登場した。専門的な紅茶の技術の話などは出来ないので、あくまでも茶旅、今回は東京の紅茶屋さんの買付に同行したので、一度に10軒以上の茶園を紹介できた。

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北海道には意外とお茶好きが多い、という印象を受けた。店主のTさんも紅茶が好きでお店を始めたが、こじんまりした店舗が好ましい。冬の寒い時期に、家の中で飲む紅茶は暖かいだろうな。先日ロシアに行ったばかりなので、なぜ紅茶が好まれるのかは、何となく分る。

 

ランチ

セミナーが終わり、Kさんの車で会場を移動する途中、お昼ご飯を食べにいく。十勝豚丼、私が食べたかったものなので、いそいそと付いていくが、入り口を入ろうとすると、携帯が鳴る。何と先ほどの紅茶屋さん、Tさんからで、Kさんがお店に携帯を忘れたらしい。豚丼屋さんは、土曜日のせいか、混んでいたが、まずはランチを優先し、携帯は後で取りに行った。

 

ここの豚丼は確かに美味しかったが、初心者の私にはそのオーダーは難しかった。例えば『大盛』は肉がレギュラーサイズでご飯は大盛、また『ハーフ大盛』というのは、肉が半分で、ご飯はレギュラーサイズだというのだから、理解できない。驚きだ。お店側は様々なニーズに応えようと悪戦苦闘して付けたに違いなのだが、これでは何がなんだかわからない。

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まあ常連だけ来ればよいということかもしれないが、少なくともこのような日本的な細やかさは海外では理解されないだろう。いや、台湾や香港など一部では面白がられるかもしれないが、本当にお客のことを考えるならば、豚丼が美味しいだけに、もっとシンプルに、と言いたい。豚肉大好きの中国人にも紹介したいが、どうなんだろうか。

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昨日も打ち合わせで来た会場へ戻るが、まだ時間があったので散歩した。すぐ近くには中国人観光客が多いと言われた狸小路があり、また外国人が喜びそうな二条市場という海鮮市場があり、かに汁などがその場で食べられるようになっていた。美味しそうだったが、残念ながら腹は一杯だった。

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北海道を旅する2016(3)すすきののホテルはどこだ

4月1日(金)

翌朝は朝食がホテル代に付いていたので、早々に食べる。昨晩も食べ過ぎているので、和食中心に軽めにしてみた。大手新聞が無料で大量に置かれている。ホテルも色々とサービスに工夫を凝らしており、エアチケットのプリントなどができる機械も設置されていた。室蘭に中国人観光客がたくさん来るとの話はなかった(行くとしても登別温泉までらしい)が、中国語表記も随所にみられた。

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10時前のバスに乗るべく、駅の反対側にあるバス停に行く。実は勘違いがあり、予想より10分早くバスが来たが、いつもの癖でかなり早めに到着していたので、特に問題はなかった。札幌行のバスはやはり空いていた。そしてこのバスは昨日来た道を走り、その後新千歳には向かわずに、札幌市内に入った。札幌市内のどこで降りると予約したホテルに近いのかがわからず、ついに札幌駅まで来てしまった。この間、2時間20分、かなり早い。札幌市内には全く雪は見られず、また室蘭のような強い風もなく、生暖かい感じがした。

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3. 札幌

ホテルはどこだ

札幌駅に着くとすぐに、すすきのを目指した。予約したホテルは地下鉄東豊線「豊水すすきの」駅の下車となっていた。札幌駅内を端から端まで歩いてようやく東豊線のホームに辿り着く。今日は午後1時に札幌駅で約束があるのだが、まずは大きな荷物を預けたいと思い、宿へ向かう。

 

豊水すすきの駅で降り、地上に出るとすぐに目指すチェーンホテルの看板が見えた。もう時間がないので助かったと思い、急いでフロントに駆け込んだ。ところが名前を伝えても予約がないという。『お客様はどちらのホテルを予約されましたか?』と聞かれ、予約表を見ると、何とこのホテルは『札幌すすきの駅前』だったが、私が予約したのは『札幌すすきの駅西』だったのだ。しかもこの付近には更に『札幌すすきの』『札幌すすきの駅南』まであるというのだ。1つの地下鉄の駅の周辺に同じホテルのチェーン店が4つとは、まさに驚きだ。

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フロントに『特に予約サイトに4つもあるなんて書いてなかったけれど、お客がよく間違えないね』と言ってみると、『はい、よくお間違いになります』と平然と答えたので呆れてしまった。これに対する対策を何も取らないなんて、いくら近いと言ってもびっくりだ。そして『荷物だけ預けたいので、ここで預かってほしい。後で取りに来るから』と言ってみたが、勿論ダメだった。顧客サービスという概念はあるのだろうか。同じホテルチェーンの意味がない。

 

仕方なく急いで予約した宿へ行き、とにかく荷物を預けて、駅へ戻り、また札幌駅へ向かう。その慌ただしさと腹立たしさ。何とも言えない。更には札幌駅の待ち合わせ場所がさっき降りたバスターミナルの横にあり、またまた駅を端から端まで歩かなければならなかったことも、疲れを倍増させた。それでも何とか待ち合わせに間に合ったのでよかった。

 

ランチ

今日の昼は中国茶繋がりのSさんから札幌在住のYさんを紹介頂き、会うことになっていた。札幌駅からほど近い細長いビルの上でランチをした。かなりゆったりとした店だったが、Yさんが割引券を持っていたこともあり、格安でランチが食べられた。ホルジン定食なるものを注文したが、ホルモンとジンギスカンが混ざった料理で面白かった。さすが札幌。

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Yさんは以前新部記者だったが、5年前に北海道に移住、主にロシア関係の情報を発信し、研究をしているという。実は私が初めてロシアへ行くことになった3月に、数人の方が情報を寄せてくれ、その中にYさんもあったのだが、何と札幌在住だったので、お会いできないだろうと思っていたが、期せずして、このような機会が転がり込んできたのはご縁というものだ。

 

日本におけるロシア情報は非常に限られている。中国情報なら、良い悪いは別にして実にたくさん流れてくるのだが、ロシアウオッチャーは非常に少ない。これほどの大国でしかも隣国、なぜ日本ではロシアに対する関心が薄いのだろうか。北方領土だけではなく、ロシアそのものの動きは中国にも、そして勿論日本の政治経済にも大きな影響があると思うのだが。だからYさんが発信する情報は貴重だと思われ、更に一段進化した情報、例えば中国とロシアなど、多極的な情報を期待したい。

 

2時間も話し込んでしまい、お別れするのが名残惜しかったが、時間が来たので、ホテルへ戻る。もう正直戻りたくなかったが、これから3日間も泊まるのである。行かない訳にはいかない。部屋はカード式キーではなかった。部屋に入るとかなり広く、ベッドも二つある。どうやら、以前は観光用のホテルであったところを買収したものらしい。昔のホテルのにおいがある。だからこの付近に同じような名前のホテルが4つもあるわけだ。

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後で地元の人に聞いてみても、このホテルチェーンの評判は決して良くはない。どのような戦略でこんな買収をしたのだろうか。まあ、理解できるところでは、既存のホテルの非効率な経営が立ち行かなくなり、観光とビジネスの両方の需要を見込んだチェーン店の進出を許した、ということだろう。これが日本のホテル業界の現状、と言えるのかもしれない。ただこんなサービスレベルでは、とても経営が成り立つとは思えないのだが、どうだろうか。

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北海道を旅する2016(2)カレーラーメンを食べて室蘭散策

2. 室蘭
カレーラーメンを食べて室蘭へ

予約してもらったホテルに行ったが、勿論チェックインは午後3時から。取り敢えず荷物を預ける。まさかこんなに早く着くとは思っていなかったので、ランチの場所をフロントの女性に聞く。『室蘭はカレーラーメンが有名です』というので、スパイシーでない方と言われたところへ行ってみる。その店は駅のすぐ横にあったが、そこそこ広い店内は満席の盛況だった。

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まずはカレーラーメンを注文してから周囲を見ると、皆がそれを食べているわけではない。普通のラーメンもあり、焼きそばあり、定食もあるようだった。カレーラーメンは、カレーうどんのラーメン版という感じだったが、麺にこしがあり、非常に美味しかった。ただ滅茶苦茶熱くて、汗が噴き出した。どうやら冬に食べると体が温まるものらしい。横のおじさんがチャーシュー麺を食べていたが、次回はそちらにチャレンジしたいと思った。

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食べ終わるとお客さんが待っていたのですぐに店を出た。北海道はまだ寒いと思ってきたのだが、10度以上あるようで、また汗が噴き出した。東京と変わらない生暖かさだった。駅の反対側にバスターミナルがあり、札幌行のバスの時間を確認した。今日は年度末で、明日から時刻表が変わるらしい。聞きに来てよかった。

 

それから海でも見に行こうと歩き始めると、電話が鳴った。だが出ても声が聞こえない。Tさんからの電話だということが辛うじて分かったが、何度電話をもらってもどうしようもなかった。携帯が古すぎ、そろそろ変えなければならないことを示していた。すぐにTさんからショートメッセージが来た。ホテルのロビーにいるというのですぐに取って返した。元々2時前にホテルに着く予定だったが、あまりに早く着いたので、Tさんも急いで来てくれていたのだ。

 

彼とは東京の勉強会以来だから、1年ぶりだろうか。室蘭に転勤になったと聞いていたので、今回訪ねてみることにしたのだ。恐らくは北海道に行く人は多くても、敢えて室蘭に行く人はそうはいない。私も室蘭と言えば、新日鉄ぐらいしか思い浮かばなかったが、この機会にぜひ行ってみようと思った次第。Tさんと旧交を温めて、それから一緒に駅に向かった。

 

室蘭へ行く電車は1時間に一本しかない。なぜか彼が東室蘭に宿を取ったかはすぐにわかった。室蘭の中心は東室蘭であり、室蘭駅は何と夜は無人駅になるという。因みに東室蘭には自動改札はあったが、スイカなどは使えず、室蘭駅には自動改札すらなかった。これは結構衝撃だった。今や新幹線が北海道に上陸したというのに、一方でローカル駅は消えていく運命にあるのだろうか。

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このローカル線は僅か1両でやってきた。途中に新日鉄室蘭などの工場が見えた。そして母恋駅という、中国系の人が見たら感動するであろう名前の駅まであった。『母恋飯という駅弁が台湾人などに人気です』とTさんが説明してくれた。この名前を見れば駅弁も食べたくなるだろう。今は売り切れることが多いらしい。地球岬という名所はここから歩いて3㎞と聞き、断念した。

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室蘭散歩

そして室蘭駅でTさんと一度別れた。室蘭の街を散策する。駅前には港の文学館というレトロな建物があったが通り過ぎた。旧室蘭駅舎へ。100年以上前に建てられたこの駅舎は既に20年前に廃駅となっていた。ここには駅で昔使われたものなどが展示されていたが、また一応観光案内所も兼ねていた。だがお客はほとんどおらず、転寝するお爺さんがいただけだった。

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そのまま歩いていくと港が見えてくる。天気が良いので実にすっきりした風景、遠くには山々、近くには風力発電と古びた倉庫。風は強いが、気持ちの良い散歩となり、更に歩いてしまった。向こうの方に大きな橋が見えたが、そこまで行かないうちに疲れてきたので駅に戻る。

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駅前の商店街で写真を撮ろうとしたところ、何とカメラが壊れてしまった。実は数日前にPCが壊れて、慌てて買い直していたし、さっきは携帯電話で電話が取れなかった。私の茶旅はちょうど満5年を過ぎ、この北海道が今後5年の最初の旅だったが、前途多難というか、過去5年間の旅の激しさが一気に噴出したというか、何と大変なことになってしまった。

 

カメラが壊れても携帯で写真は撮れるのが、私は慣れていなかったし、それに疲れてしまったので、街歩きを打ち切り、電車で東室蘭へ帰る。北海道新幹線開業のポスターが張られていたが、函館までしか行かない新幹線をそう呼ぶのは如何なものかと、特にこの地に来て強く思う。帰りの電車は登別行の2両編成。1両増えただけでもホッとしてしまう。

 

駅前ホテルにチェックインして、部屋でまったりした。このホテルの周辺に高い建物はなく、実に眺めがよい。ゆっくりと夕日が落ちて行った。夜はTさんの計らいで、北京に30数年住んでいるAさんと、留学生支援をしているHさんにお付き合いいただき、地元料理を堪能した。室蘭に来て、昔の中国話で盛り上がるとは思いもよらないことだった。

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北海道を旅する2016(1)バスで東室蘭へ

《北海道を旅する2016》  2016年3月31日-4月4日

 

2013年6月、私は実質的に初めて北海道を訪れた。札幌と函館を回り、ちょっとだけ北海道気分に浸ったが勿論物足りなかった。もう一度行きたいな、とは思っていたが、何しろお茶畑がない。なかなか行くチャンスが掴めずにいたところ、突然Uさんから札幌の人を紹介され、お茶セミナー開催の話が持ち上がる。これは願ってもない機会だ、満を持して行こう!

 

だが、その直前には長く厳しいシベリア鉄道の旅を経験しており、疲れはピークに達していた。原稿の締め切りも厳しかった。そしてセミナー自体が2日間で4講座、それもすべて違う地域の話という、これまでにないハードな内容だった。それでも何としても行こうと思った。講座で使うお茶をスーツケース一杯に詰めた。北海道にはそれだけの魅力がある。

 

3月31日(木)

1. 室蘭まで

今回は日系大手航空会社で飛んでみた。実は奥さんがスカイコインなるものを持っていて、この期限が四月末に迫っており、何とか処理してほしいとの要望だったので、有り難く頂いた。それにしても高いな、チケット代。LCCなら成田に行かなければならない不便さはあるものの、恐らく3分の2の金額で十分に旅ができるだろう。

 

当日は羽田空港に到着したのは結構早かったのだが、一本前の新千歳行に乗せてくれることはなかった。『お客様のチケットは割引運賃ですので』ときっぱり言われて、うーんと思ってしまう。最近は中国でも席があっても追加料金を払わないと、早い便に変えることができなくなっていたが、今回はそんなに安いわけではなかったので、ちょっとビックリ。

 

まあ仕方がないのでゆっくりとネットでもしようかと思い、荷物検査を潜ったが、その後には、コンビニというものがなかった。朝ご飯も食べていなかったので、レストランなどを見てみても、皆どこも高い。朝からこんなに立派な食事をする身分ではないと思い、諦めた。が、一度食べられないとなると何とも食べたくなるのが人情というもの。

 

何と荷物検査に戻り、事情を話し、一度検査を取り消してもらい、1階下のコンビニへ行き、サンドイッチと飲み物を買って再度検査を潜った。日本は国内線ではペット飲料の持ち込みが自由なのは有り難い。それにしても羽田空港の荷物検査、丁寧なのは良いが、ちょっと度が過ぎるほどで、時間が相当掛かる。他国でもテロ対策や課税対策で時間が掛かるところがあるが、バックを横にするのに、一々お客に了解を取るのはどうなんだろうか。

 

機内に入ると、乗客の中には中国人、台湾人などが見られた。やはり北海道は人気スポットなのだろう。タイ語らしいものも聞こえてきて、何だか面白い空間になっていた。だが、驚いたのは機内放送。CAさんが日本語と英語で話した後、流れてきたテープ音は何と広東語だった。これは一体どういう意味だろうか。普通話や台湾語は流れず、ただ広東語だけが流れたのだ。

 

そんなに広東人や香港人が乗っているのだろうか。イースター休みだから?でもそれなら普通話も流すべきではなかろうか。いや、これは操作ミスなのだ、と思う。だがいくら国内線とは言っても一人も広東語と普通話の区別ができる乗員はいない、ということだろうか。私の頭の中はちょっとパニックになってしまった。ただ恐らくは日本人乗客も誰一人気付いていなかったのだろう。飛行機は順調に新千歳空港におり、何事もなかった。

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今日は札幌に向かわずに室蘭に行くことになっていた。空港から室蘭まで鉄道で行こうと考えていたが、バスで苫小牧へ出るルートもあるらしいことは分っていた。ただバスは乗り継ぎ時間がタイトで乗れないと思っていた。実際預け荷物が出てこなくて、かなり時間を食ってしまう。

 

ところが天は私を見捨てていなかった。取り敢えずバス会社のカウンターへ行ってみると『苫小牧行きではなく、室蘭行きがあと5分後に来ますよ』というではないか。何と一気に室蘭が近くなる。しかも料金は電車よりかなり安い。特急に乗るのと同じぐらいの時間で着いてしまう。北海道の交通はやはりバスなんだな、としみじみ思う。

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バスは降りるときの便宜のためか、荷物を一番前の座席に置き、出発した。乗客は多くはない。悠々と座る。まずは田舎道を行き、高速道路で苫小牧を目指す。何とも早い。まだ少し雪が残る大自然を行く。それでもつい先日シベリアを経験しているので、何とも優しい風景に見える。そして雪解けの道はぐちゃぐちゃではないか、と心配になる。

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苫小牧からは高速道路を使わず、各駅停車のように国道沿いを行く。登別温泉あたりを一周して、室蘭に入ったのは、わずか1時間20分後。普通電車で行けば、今頃まだ苫小牧だったかな。そして東室蘭駅で降りた。室蘭駅もあるのになぜ東室蘭?今回は北京でご一緒したTさんがここの駅前のホテルを予約してくれていた。駅はかなり立派だった。

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【上海歴史散歩2009】 

【上海歴史散歩】 2009年4月26日(日)

23年前に留学した上海、その時の印象は決して良いものではなかった。留学生なのに生活に追われていた?こともあり、また上海側も歴史的な建造物、場所を保護しようともしていなかった。歴史散歩など思いもよらなかった。

2006年2月、2007年10月と上海を訪れ、少しずつ散歩した。今回は大先輩の思い出の場所、東湖賓館及び前日ワイン会でSさんが魯迅の孫に会った、と言ったことから、魯迅関連の場所を訪ねて見た。

1.東湖賓館

先日大手商社を退職されたMさん。1975年から中国ビジネスに関わっていたと言うベテラン中のベテラン商社マン。先日のミニ送別会の席で、『1980年に上海で東湖賓館を押さえたことが、一番の仕事だった』と振り返って言った。

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当時上海にはホテルが少なく、ホテルの部屋を予約するのが駐在員の一番の仕事。私が留学中の86-87年も事情は変わらなかったからその大変さが良く分かる。合弁ホテルなどはなかった。予約は実質出来なかった。予約しても、予約金を入れても当日党のエライさんでも来れば、常にキャンセルされた。

そんな時代に賓館(ホテル)を押さえたことは大きい。出張者は安心して出張できるし、恐らくは駐在員もそこに住んだだろう(当時はアパートもなく、ホテルの一室に住んでいた人が多い)。

陜西南路にある城市酒店を出発。南に下り、新楽路を右折。角には由緒正しそうな建物が。今はホテルであるが、1932年にフランス人のラファエット建築士が設計。上海暗黒街の大ボス杜月笙が設立した三?公司のオフィスであった。飾り窓とベランダ、外壁はきれいになっているが渋い外見を残している。

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尚現在日経新聞に連載中の高樹のぶ子の小説『甘苦上海』は正直一体何を言いたいのか分からないが、何故か私にとっては懐かしい地名が沢山出てくる。この三?公司の建物も小説の中では主人公が食事をするホテルのレストランとして登場する。

この新楽路、左右に古い民家が並ぶ。フランス租界特有の3階建てのちょっとお洒落な建物。東正教堂と言われる古い教会も残っている。1932-34年ロシア形式で建造。5つの玉葱型の尖塔に特徴がある。

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少し歩くと東湖賓館の裏側に出る。公寓も迎え側にある。道を回ると正面玄関へ。非常に感じの良い庭があり、お洒落な雰囲気が漂う。フロントで『お洒落なバーがあると聞いたのですが』と質問すると、それは道の反対側だという。

1920年代から40年代に掛けて建てられたというこのホテル、上海暗黒街のボス、杜月笙の邸宅として部下が建築したと聞く(実際には杜は住む機会がなかった)。由緒正しい5階建てのホテル(85年に従来の3階建てを改装)。主楼の前にはきれいな前庭、そしてそのまま別棟に続くアーチがある。かなり広いかと思っていくと直ぐに突き当たる。ここには2-3の建物があるだけである。

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道の反対側には何があるのか?見ると確かに6号楼という建物がある。1925年建造。特に古めかしいと言う感じはないが、エレベーターで2階に上がる。2階にはラビエラという名前のコーヒーショップがあった。中に入るとなかなか雰囲気がよさそう。ここがバーかと思ったが、夜もコーヒーショップだと言う。

ランチが38元と安かったので、ここで食事をする。ポテトサラダとカレー、コーヒー、デザートも付いていた。かなりお得。特にカレーはかなり美味しい。やはり北京とは違って、上海は質が良くて安い。

ここを出ると横に門がある。公園かなと思って眺めると、ここも東湖賓館であった。何と広いことか。入ると右側に建物がある。これはなかなか雰囲気がある。玄関には『大公館』と書かれた看板がある。中に入ると極めてクラシックな造り。昼間でも暗いが、趣があるスペース。1階の入って直ぐにバーもある。2階は個室とか。

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シガーバーもあった。奥にも怪しげな部屋??がいくつか。こんな所で昼から密会している人はいない。更に行くと庭が眺められる場所へ。結局誰一人食事をしている人はいなかった。よほど高級なのだろうか。写真禁止で残念。庭へ出るといくつか建物がある。全て人が住んでいる気配。別荘風戸建て。大きな庭を挟んで点在。こんな所に住めれば気持ちがよい。門を出て花屋の横に金洋バーと言う名前の店があった。ここも1階。今回ある方の要請で『東湖賓館の主楼以外の建物の2階にある雰囲気のあるバー』を探すと言う企画があったが、残念ながら果たせず。

2.虹口
(1)内山書店

東湖賓館から去り、地下鉄に乗って虹口へ。虹口足球場まで行く。上海の地下鉄は最近急速に増えたようで、何処を何線が走っているのか、テンで分からない。何とか1号線を人民広場で乗り換えて、8号線で向かった。

日曜日の昼下がりの地下鉄は予想外に空いていた。座席に腰掛けて本を読むのは無上の喜びだ。北京ではなかなかない場面。上海の交通整備振りが窺われた。

地下鉄を下りて足球場を過ぎ、魯迅公園の前を通る。魯迅公園は戦前の名称が新公園。私が留学した86-87年は虹口公園と呼ばれていたはず。88年に現在の名称へ。ここは前回も訪問しているので、中には入らず先に進む。

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目指すは旧内山書店。23年前の留学時には時折バスの中から、眺めた場所である。当時既に中国工商銀行の支店になっていたが、何となくここが内山書店と言う感覚はあったが、バスをおりて見ることは無かった(あの頃一度バスを下りると乗るのが大変だったなあ)。

今回訪ねてみると、銀行の壁に魯迅と店主であり魯迅を匿ったとされる内山完造の壁画が描かれていたり、いくつも文化記念地点の表示がなされていたりした。しかし2階を見学できると書いてあったガイドブックがあったが、何処から入るのかも分からない。

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取り敢えず隣の新華書店で上海市の地図を買い、気分を出す。手には『伝統の日中文化サロン 上海・内山書店』(太田尚樹著 平凡社新書)がある。この中でここ内山書店が果たし役割が如何に大きかったが読み取れる。

内山完造はよほど魅力的な人物だったらしい。貸し売り(代金後払い)と言う当時としてはリスクの高い商売をしていた。これは信用の上に成り立っている。中国人に対しても分け隔てなく、貸し売りをしていれば、必ず評判になり、口コミで人が集まったであろう。『いつ行っても老板がお茶を入れて歓迎してくれる』とは実に良い。

谷崎潤一郎、佐藤春夫、金子光春など日本の蒼々たる文人が訪れている。魯迅、郭沫若、田漢、郁達夫などの中国文化人とも交友があった。当時の文化人は同時に革命家でもあり、魯迅を庇った内山は常に危険に晒されたことだろう。

1929年にこの場所に移転してから、終戦まで。日本が軍国主義をひた走り、暴走し、そして自壊した、その中で内山とその書店は日中を繋いでいた。何と言えばよいのか。

(2)魯迅故居

内山書店から魯迅故居までは歩いて10分弱。非常に近い。現在の山陰路をカーブするとそこは戦前の日本人居留区を若干保っている。パラソルの下で野菜や果物を売っている。その上には布団が干されており、2階の窓がちょっとお洒落。

 

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魯迅故居の看板を見つける。その道の反対側には瞿秋白故居もあったが、こちらは看板だけで、中には入れない。と言うか、特に保護されている様子もない。魯迅と瞿秋白、生前頻繁に往来し、仲の良かった二人。瞿秋白夫妻は南側の2階に住んでいたと言う。このアパートは日本人が居住するため造られており、魯迅が内山完造に依頼して、借りてもらっていたと言う。

瞿秋白は30年頃には一時共産党の最高指導者の位置にもついた人物。文革で弾劾されるなど、魯迅とは違い死して尚評価が定まらなかったことが災いしたのだろうか??

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魯迅故居は里弄の中にあり、看板がなければ判らない場所にある。回りには普通の人々が昔ながらの生活をしている。洗濯物は物干し竿に掛けられ、外に突き出している。切符売り場に入る。入場料8元。売り場のおばさんが『日本人?』と聞いてくる。やはり日本人が多いようだ。

隣の建物に入ろうとすると警備のおじさんに遮られる。何で?ボランティアの若い女性が『今他の人が見学中』と言う。そんなに狭いのか?仕方なく、待つ間、その辺の写真を取り捲る。

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ようやくOKが出て、中へ。若いボランティアが付いてきて、ちゃんとした説明を始める。1階にはテーブルがあり、食事をした場所か。2階は魯迅の部屋、そして奥さんである許広平の寝室もある。またお茶好きの魯迅が使ったと言う茶碗なども食器棚に入っていた。『魯迅はどんなお茶を飲んでいたの?』などと意地の悪い質問をすると、後ろに控えているベテラン警備員が答えてくれるのが微笑ましかった。

3階は魯迅の息子周海嬰の部屋。日本人画家が描いたと言う子供向きの絵が架かっていた。魯迅の死亡後、太平洋戦争勃発と同時に日本軍の憲兵隊がこの家に押し入り、資料と許広平を連れ去ったと幼い海嬰が内山に電話したのはここからだろう。

因みにこの家も内山が内山書店店員の名義で借り、ラモスアパートから魯迅をここへ移したものらしい。3階の部屋と反対側には物干し用の屋上への出口もあった。魯迅はここから何度か逃げる用意をしただろう。外へ出ると、猫が一匹、大人しくこちらを見ていた。

(3)長春公寓

宝山路に出る。この辺りにも旧租界のムードが出ている。如何にも旧日本家屋と思われる平屋の建物も見える。この辺りの一部は60年以上変化していない。しかし周りは既に開発が進んでおり、高層マンションも見える。

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更に漂陽路に入ると雰囲気が一変。古い洋館が立ち並び、良い雰囲気が漂う。北側の道沿いを歩くと壁にこのあたりの古い建築物、革命に参加した人々などを紹介するプレートが数多くはめ込まれている。気分よく歩いていると、横道に立派な建物が目に入り、思わず曲がる。

長春路、この道の北側は20年代に建造された欧米近代風の長春公寓が建っている。『虹口地名志』(1989年)の‘長春公寓’の項を引用すると、元は北端公寓と呼ばれ、『1921年前後の建築、一度火災に遭い、1928年前後に再建 』とやや曖昧なところがある。現在の建物は従来の4階建てを1936年に2階付け足して6階建てに改装されている。

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また向かいの南側には沙遜楼群がある。先程見掛けたのはこちらの建物。イギリス風の重厚なレンガ建築。非常に良い佇まいで、思わず住んでみたくなる。オランダ風の装飾が施されていると解説されているが、どこであろうか?この地区は2004年に地元と華東師範大学が共同して、景観を保護。『以前のまま保護』する事を原則としている。

(4)横浜橋

四川北路に戻り、少し南下。すると道の西側に門が見えてくる。多倫路文化名人街とある。旧日本租界はこの辺りが中心であった。内山完造、ジャーナリスト松本重治、尾崎秀実、詩人の金子光春などが住んでいた。

現在は1998年にこの辺りが整備され、一大観光スポットとなっている。この日も天気がよく、多くの人が歩いており、小物、骨董などを見ている。雰囲気の良い場所をブラブラ歩くのは良いものだ。

 入り口近くには『公琲珈琲館遺跡』という看板が出ている。今はどう見ても珈琲館ではなく、写真屋か何か?突然コーヒーが飲みたくなる。租界時代にコーヒーを飲むことはステイタス、そんな記述が『懐旧的中国を歩く』にあった。租界が出来てコーヒーがもたらされた当初は上海人の生活とかかわりがなかったが、1920年代から30年代には多くの珈琲館が出来、進歩的な文化人が出入りし、珈琲館に座ること自体がステイタスみたいになったモダンな時代。50年代から60年代には珈琲館は時代にそぐわないものとして姿を消した。

鴻徳堂という屋根が中華風の教会(1928年建造)あり、有名な名人茶館(既に閉鎖された模様)あり、なかなか楽しめる散歩である。道は北上する(様々な商店や毛沢東記念館のようなものがあるらしい)が、私は南へ。目指すは横浜橋。

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横浜路へ出る。ここは昔の日本租界の雰囲気を伝えている。如何にも2階の窓から日本の布団を干しそうな風景がある。お洒落なべランダの付いた2階建てがある。上海市の歴史遺跡に認定されている。

そこから四川北路に戻ろうと行くと、河がある。既にきれいに改修された川辺から眺めると向こうに橋が見える。あれがお目当ての横浜橋。急いで橋の袂に。最近架け替えられてきれいになっている。ちょっと残念。

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更にビックリしたのが、この橋、横浜の地名から取ったと思い込んでいたが、違っていた。『浜』という字は『水路』の意味で、何と『横濱』とは意味が異なるばかりか、発音まで違うのである。『濱(bing)』と『浜(bang)』。確かに翌日市内の南西の方に『肇家浜路』という道があり、タクシーの運転手に『bang』と直されてしまった。とんだ横浜間違い、結構疲れてしまい、タクシーで新装なったガーデンブリッジを経由してホテルに戻ってしまった。

3.紅房子

ホテルから歩いて3分の所に紅房子があった。ここは留学中、珍しかった洋食を食べさせる店であり、留学生仲間とよく行った場所だ。今回その時の仲間、H君夫妻と22年ぶりに食事をしに行った。

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『懐旧的中国を歩く』(樋口裕子著 NHK出版)と言う本を読んでいたら、以下の記述あり。

『紅房子西菜館』は1930年オープン。租界で偶然出会ったオーストリア人とイタリア人の男女がガレージを改造した店舗で乏しい資金で始めた。文革中に他の西洋料理店が次々閉店する中、この店だけは中国人のコックに引き継がれて残った。北京から来た紅衛兵も記念に食事したと言う。

80年代のこの店の印象は薄暗かった。外国人は2階、中国人は1階との区別もあり、値段も違っていた。当時は高級レストランだった。その後一時店を移転し、ビルを建てた。現在の紅房子はビルの6階にある。正直あまりの変わりようにH君は『本当に行きますか?』と聞いたぐらいだ。

メニューも大幅に変わっていた。逆に昔からあるメニューに印が付いていた。きっと我々のように昔を懐かしむためにやって来る人があり、そのための配慮であろう。私の印象ではポテトサラダ(かなりマヨネーズがべったり)、オニオンスープ、ハマグリのガーリック焼き(かなりの油)があった。今回もそのメニューを頼む。味はお洒落になっていた。ハマグリを入れる器(真鍮か?)だけが昔の姿を留めており、懐かしさがこみ上げた。

正直に言うと店内もきれいになり、メニューも洗練され、自社名を入れたワインを置く紅房子にはもう用はない。ウエイトレスに歳を聞くと『1983年』との答えで、H君が初めてここで食事をした年であった。

4.新天地

その後H夫人(フクタン大学本科卒業の中国人で私の家庭教師)が新天地に連れて行ってくれた。ここは2001年に香港資本により開発された上海屈指のお洒落なスポット。元々は1920~30年代に建てられたモダンな雰囲気の「石庫門住宅」 を修復し、旧フランス租界の街並を再現した。「石庫門住宅」とは、洋中折衷様式で盛んに造られた集合住宅。ボロボロとなっていたタウンハウスを改造し、お洒落スポットに転換した所はさすが。

雰囲気は以前訪れた時少し変わっている。常に拡張し、マイナーチェンジをしているそうだ。本日も非常に多くの人が集まってきている。上海に来た地方の人々、外国人観光客、そして地元に住む人々。ここには不況は感じられない。

新天地の端を歩いていくと、倉庫のような所に出た。ここにはスポットは当たっていない。「中共一大会址記念館」とある。1921年7月に共産党の創立大会がここで行われた。毛沢東他13名が出席。歴史はここから始まった。今の新天地の姿を見たら、毛沢東も驚くだろう。因みに翌日ホテルの近くで「中共二大会址」を発見。1922年7月に開催された。きれいに整備された記念館となっていた。老成都北路7号。

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H夫人のお供で、ライブスポットへ。かなりの賑わい。H夫人はサルサを習っていたとかで、その先生たちのサルサを見せたかったようだが、夜10時でも彼らは姿を見せなかった。代わりに彼女の知り合いの高学歴、高収入の人々がサルサに熱中していた。日曜日の夜なのに、明日も仕事がないかのようなパワフルな人々。まるで日本のバブルを思い出す。新しい中国を見る思いがした。

5.錦江飯店

後日錦江飯店に行く機会を得る。ここは最も懐かしい場所。留学中の憧れの場所。広い敷地内の西楼に当時『ジェシカ』という小さな店があった。ここには日本または香港から輸入された商品が並べられており、我々の眼を奪ったもの。値段はカップ麺が600円ぐらいしたと思うので、かなり高級。

錦江飯店の前身、錦江川菜館は一人の女性が1935年に開いたもの。董竹君、上海の貧しい家に生まれ、12歳で妓楼にあがり、15歳で四川の軍関係者に見初められ、四川へ。その後分かれて、上海に戻り、四川暮らしで覚えた料理を出した。これが当たり、杜月笙などのサポートを得て、大きくなる。

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共産党の時代になり、キャセイマンション(和平飯店)を接収した政府に管理運営を委託され、最終的には錦江グループになる。錦江飯店北楼には留学当時四川料理屋があり、一度はあまりの辛さに腹を壊したこともよい思い出。錦江飯店中楼には一度泊まったが、ここは1972年にニクソン、田中角栄が相次いで泊まり、歴史的な外交を展開した。

現在北楼の11階に四川料理はなく(いや、部屋はあるので食事は食べられるか?)、24時間営業の夜上海と言う店が入っている。写真を撮ろうとしたがどうしても上手く撮れない。きっと昔の自分が悲しんで撮らせないのだろう、と諦めて去る。

6.  馬勒飯店 
最終日に少し時間が空いたので、気になっていた城市酒店の向かい側にある馬勒飯店を訪ねる。ちょうど改装中で、建物の外壁には竹の足場が出来ていたが、中は健在。門の所にホテルの従業員が立っており、笑顔で迎えてくれる。『どうぞ中を見学してください』と気持ちよく言われる。非常にリラックスできる。

中に入るとさすがに重厚な印象。向こうから女性服務員がやってきて、何か用かと聞く。見学したいと申し出ると快く部屋を案内してくれた。この辺は北京では味わえない感じ。更に日本人かと聞いてきて、何と少し日本語も話した。

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3階の部屋は僅か9室。スタンダードの部屋でも結構立派である。1936年建造時のままの内装、家具も骨董か。

更に一番よいお部屋にも入る。広いリビング、洒落たバスルーム。如何にもレトロな上海と言う感じ。説明によると現在の上海市長、韓正が共青団時代の執務室にしていたのが、この部屋とか。因みにホテルが開業した2002年以前は様々な使われ方をしていたようだ。

一昨年の陳宇良氏逮捕劇では何とのこのホテルに北京の公安が陣取り、隣の城市酒店を含めて100名以上で任務遂行に当たったとの話もある。まさに歴史的な建物である。2号楼は後から造られたのか、一般的な客室。ここなら何とか泊まれそうな値段である。客層はやはり西洋人中心か。

庭がまたいい。広い前には馬の像が。向こうにはレストランもある。思わず、ここでお茶を飲みながら時間を使おうか、と考えていたら、携帯がなり、私の上海レトロ旅は終わってしまった。