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ミャンマー激走列車の旅2015(13)ムセ往復でついに倒れる

 更には何と車のタイヤがパンクした。前途多難だ。だが運ちゃんはタイヤ交換に慣れており、実に手際が良かった。ミャンマーの道路事情とタイヤの質を考えるとしょっちゅう起こっているのだろう。その横を大型のトラックがすり抜けていく。ムセ行きのバスも通っていく。あれは中国人観光客を乗せて中国側まで行くのだろうか。乗車してから4時間半、国境より手前に検問があった。運転手が我々のパスポートを持って手続きに行く。だがなかなか帰ってこなかった。不安が募る。20分ぐらいして、運転手は何事もなかったように戻ってきて、パスポートを返してきた。何かがあったのだろうか、それとも単に処理が遅いだけだったのか。ここでは緊張が走る。

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そしてついに5時間かけて、ムセに到着した。それほど大きな街ではないが、さすが国境の街、レストランにもホテルにも、店にも漢字が溢れていた。街の真ん中あたりにあるイミグレーション。何とも緊張感のない、ダラッとした雰囲気の中、ミャンマー人が国境を抜け、瑞麗に向かっていた。基本的に外国人(第三国人)はここを通り抜けて中国へ入ることはできない。我々の旅はここで一旦終了した。

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イミグレの横を歩いていくと、金網が見える。その向こうには高い建物がいくつも見える。あれが中国だ、と思うと、ちょっと興奮する。そしてやっとの思いでここまで来たのに、その向こうに行けない無念さがにじみ出る。トラックが列を作っているところもある。物流が動いていることは確かだが、残念ながらこれまで通ってきた道を見る限り、それがとても活発だ、とは言えない。かつての援蒋ルート、第二次大戦中、米英が重慶の蒋介石を援助するため、物資を通した道、今よりひどい山道を一体どれだけの物資が運ばれたのだろうか。そして日本軍がそれを阻止しようとして、我々が通ってきた道では爆撃などが行われている。ゴッティ橋も爆撃に遭っていたはずだ。

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昼ご飯を食べる。せっかくここまで来たのだからと、敢えて中華料理を選ぶ。だが店には客は殆どいない。この店のメニューは全て中国語、店員も中国人だった。雲南から出稼ぎにきたらしい若者は片言の英語を話したが、こちらが中国語で話すとホッとした様子で話し出した。『出来れば料理を学び、海外で働きたいんだ』と。この店はやはり中国人が使うところで、裏にはカラオケなどの施設も備わっている。料理も完全な中華であり、値段はそれなりに高い。Wi-Fiが繋がるとのことだったが、電波が弱く、パスワードを入れても繋がらなかった。

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ムセ滞在は僅か1時間、またラショーの街を目指して戻っていく。片道5時間かけてやってきて1時間しかない、通常私の旅では考えられないことだが、もう慣れた。こんな旅なのだ。しかもこの帰り道は、この旅自体にも入っていない。あくまでこの旅はシンガポールからロシアのムルマンスクまで行く旅だから、途中で引き返すとか、また旅を続ける所まで行く、と言った行程は、旅ではないのだ。そんなことを考えていると、急に腰が痛くなってきた。最初は我慢できると思っていたが、途中からは脂汗が出てきた。車が揺れる度に体をひねって対応していたのだが、その対応に限界が来ているようだった。

 

運転手が道端に車を停めて、トイレ休憩してくれたので助かったが、もう座っていられないほどだった。動きも相当に鈍くなる。車に乗り直しも状況は好転しなかった。もぞもぞと体を動かしてみても、改善しない。あんなに嫌だった列車の旅が懐かしかった。座っていなくても良いのだ。通路を歩いていた方が楽だった。しかしそんなことを夢想しても何もならなかった。兎に角耐えるだけだった。

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そしてついにラショーの街に戻り、ホテルの部屋に入った。その瞬間、私はベットに倒れ込み、布団をかぶって動かなくなってしまった。S氏とNさんに『もう私は一歩も動けません。夕飯もいりません』とまるで学校に期待がらない子供のように宣言した。しかし何とS氏から『今晩、NHKのラジオ深夜便に出演します。うるさくて迷惑を掛けるかもしれない』と言われてしまう。恐れ入りました、本当に。これだけの旅をやってきて、まだラジオに出るのか。しかも本来であれば、私が部屋を空けなければならないのに、ご本人がロビーの電話で仕事をしている。頭が下がる、というか、もう神のように見えた。『ロビーの方が電話の繋がり良かったよ』という言葉を遠くで聞きながら、深い眠りに落ちた。それは芯から欲していた眠り、もう乗り物に乗らなくてよい、という安堵の眠りだった。

ミャンマー激走列車の旅2015(12)車で中国国境ムセへ

 ソンテウに乗り10分ぐらいで、街道に出た。そこで降ろされた。ティボーにはバスターミナルはなく、ただ街道を通るバスが乗客を拾うシステムになっていたが、バス会社に聞くと『今日のラショー行はもうないよ』と素っ気ない。じゃあ、どうするんだ?やはりティボーに1泊か。しかしS氏のラショーへ向かう姿勢に揺るぎはない。車はないのか、と言い出すと、向こうから中学生ぐらいの女の子が現れ、英語を話した。彼女は『お父さんが運転していく。料金は5万k』と簡単に言う。他に手段はないので、その話に乗ってみることになる。

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やってきた車は荷物を運ぶピックアップだった。彼はいつもこの車で荷物をラショーや中国国境のムセまで運んでいるらしい。既に周囲は真っ暗。S氏を助手席に乗せようとしたが、当然のようにNさんと一緒に荷台に乗ってしまう。私が助手席に乗るのは申し訳ないと言うと『これは仕事だから』と助手席に押し込まれた。荷台にはさっきの女の子とその兄貴も乗っている。通訳とボディガードか?何だか囚人が運ばれていくような鉄格子が付いていた。先が思いやられる。

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暗い夜道を車は走る。まずはガソリンスタンドで給油した。今日はもう走ることはないと思っていたのだろう。途中トラックの渋滞ができているところがある。何と雨で土砂崩れが起こっているらしい。果たして辿り着けるのか、と心配になったが、何とか通り過ぎた。大きな木がなぎ倒れていた。2時間後に車がフラフラと、ラショーに入った。おとうさんが私に『このホテルでどうだ』とラショーの街の入り口付近を指さしたが、ここがどこか分らず、もっと街中へ行くようにお願いした。そして地球の歩き方に載っているホテルに連れて行ってもらった。

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ラショーで

時刻は夜10時を過ぎていたが、そのホテルに部屋が確保できた。本当にミャンマーは3人部屋が整っていて、まず断られることがない。1部屋40ドル、狭いが寝るには問題がない。かなり疲れていたが、腹も減っていた。この旅の特徴は食事が不規則なことだ。私は中国的な人間になっており、まずは何を置いても飯を優先するが、他の2人は旅を優先するので、当然それに従うことになる。

 

しかしこんな夜遅く、しかも街のほとんど寝静まっているように見えるこの場所でご飯にあり付けるのだろうか。ホテルのガードマンのおじさんに聞くと、親切にもその場所まで連れて行ってくれた。ホテルから5分ぐらい歩いたところにある屋台。そこではまだ人が食事をしていた。虫の揚げ物も売っていたが、鶏肉や肉団子でご飯をかき込んだ。腹が減っていたので美味いと感じたが、それほど量的には食べられなかった。既にこの旅を初めて、1週間。疲労はピークに来ていた。私はこんな旅に全く慣れていなかったのである。夜はシャワーも浴びずに布団をかぶって寝てしまった。

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7月29日(水)

翌朝の目覚めは悪かった。出来れば起き上がりたくないほど、疲れていた。頭が重い。本来はラショーで鉄路は切れており、ここで今回の旅は終了だと思っていた。だが今日も旅は続く。車を手配して中国国境のムセまで行くことになっていた。鉄道の旅は続かないが、国境まで行き、一応今回の旅を締めくくる。次回は何と中国側の国境、瑞麗から始まるらしい。何という旅なんだ。そんなことを今さら言っても仕方がない。まずは朝ご飯を食べようということで、街歩きが始まった。フラフラっと一軒の店に入る。

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ティミックスを頼み、横を見ると何だか丸いまんとうの様なものがある。これは何だと聞くと、主人は黙ってこれを伸ばし、焼き始めた。パンのように発酵させていたのだ。意外とうまい。甘いティミックスとよく合っている。ホテルに戻ると、予約していた車が来ていた。ムセ国境往復100ドル、これはミャンマーとしては破格に高い。しかしこれ以外に道がない。バスも走っているらしいが、外国人が乗れるという保証はない。

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ムセ

車はラショーの街を出て、山道に入っていった。列車の旅に比べて車の方が楽だと思っていたが、そうでもなかった。後部座席にはS氏と私だけだし、荷物はホテルに置いてきているので、どう考えても楽だったのだが、列車のように身動きできない中で、前後左右に揺さぶられると結構厳しい。この運転手もまずはガソリンスタンドへ向かう。ここではお金が入り、運行が決まるとガソリンを入れるようだ。

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ここもアジアンハイウエーだが、とてもハイウエーとは思えない山道。走っているのも大型のトラックばかりで、スピードも上がらない。トラックにカメラを向けると運転手がVサインで応じてくれた。2時間ぐらい走ったところで車が停まり、運ちゃんはタバコを吸っている。景色を眺めても何もない。更に30分ぐらい行くと村が見えてきて、いよいよムセかと思ったが、そこからがまた遠かった。そんなに簡単にこの旅の終焉は訪れない。

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ミャンマー激走列車の旅2015(11)ティボーから先 土砂崩れでまさかの

 それから1時間ぐらい、畑の中を走っていた。突然誰かが乗り込んできた。若い女性だった。そして英語でセールスを始めたのには驚いた。新しくできたホテルで安く泊まれるという。しかし凄い商売根性だ。この列車に乗ってくるとは。S氏が『こういうホテル、好きだな』と言ったので、今日は列車がティボー止まりだから、ここに泊まる可能性が出てきたなと内心ほくそ笑む。そして午後3時過ぎに列車はティボー駅に入った。

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ラショーへ

全員が列車を降りた。やはりここから先へは進めない。S氏はどうするのかと見ていると、『とにかくラショーに行く方法を考えよう』と言い、駅周辺の調査を始めた。もう慣れているとはいえ、今日はティボーに泊まり、明日の朝バスでラショーへ行けばよいのに、と心の中で思ったが、成り行きを見守っていた。駅は大きくはなく、バス停もないし、タクシーらしい車も一台もない。観光の外国人はホテルが用意した車ですでに姿を消していた。彼らの多くはここティボーが目的地だったのだ。トレッキングをすると聞いている。

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さて、どうなるのかと見ていると、何と我々が乗ってきた列車に乗り込んでいる人がいた。それを目ざとく見つけたS氏は駅員に確認している。そして叫んだ、この列車に乗るぞ、と。だってこの列車ティボー止まりだろう、と思ってみたが、駅舎内で切符を実際買っているのを見ると、『行けるかもしれない』と感じ、そしてこれは面白い、と思うようになっていた自分がいた。列車はオーディナリークラスのみ。我々が乗り込むとゆっくりと、車体が動き始めた。『やった』と小さな声を上げてしまう。でも乗客は多くない。

 

そしてわずか数百メートル行ったところで、列車は止まってしまった。何と皆が荷物を持って降り始めた。車掌が我々にも降りるように促す。その先には橋があった。この橋が洪水で壊れたというが、特に問題なさそうに見えた。ミャンマー人男性は橋の上の線路を歩いて向こう側へ行ってしまった。我々は一度線路から外れ、橋の下流にある、歩いて渡れる橋を目指した。荷物を引きずりながら歩く。まるで逃避行のようだった。

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橋を見ると僅かに亀裂が入っているようで、修理が行われていた。そして川向こうには別の列車が待っていた。ここでいわゆる折り返し運転が行われていることが分かる。何という幸運、そしてS氏のネタを引く力の強さには脱帽した。だが、車内に入ると超満員。これから3時間以上、こんな感じで行くのだろうか。そこへ車掌がやってきて、『こっちへ来い』という。付いていくと、何と我々のために3つ席を空けてくれていた。完全な外国人特権だった。こんな非常時に凄いとしか、言いようがない。

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列車は川沿いにゆっくりと走り出した。向こうにはラショーへ行く道路も見えていた。あそこをバスで走った方がよほど早いな、と思いながらも、座席に座る喜びを味わっていた。周囲には子供たちもおり、落ち着きがない。何とか1駅進んだが、その先はまたゆっくり。途中で修理工らしいおじさんたちが降りて行ったりして、なかなか進まなくなる。林の中に列車が釘付けになる。水が溜まっているところもある。小雨も降り出した。3つ目の駅に行っただろうか、その頃にはもう皆ぐったりしてしまった。諦めて降りる人も出てきた。しかし降りてどうするんだろうか。

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ついに車掌がやってきて『この先は土砂崩れで進めないので、列車はさっきのところへ戻る』と宣言されてしまった。車内にため息が漏れ、諦めの気分が蔓延した。だが戻ると言ってもどうするんだ、と思っていると、何と列車の頭は両サイドに着いており、いつでも引き返せることになっていた。だから基本的に外国人にはチケットを売らなかったんだ、と今頃わかる。この時Nさんが『この切符はどうなるんでしょう?払い戻してくれるのかな』とポツリ。こんな場面でそんな発想をするNさんの落ち着きには本当に驚いてしまった。百戦錬磨、という言葉が浮かんできた。列車は意外と速いスピードでもと来た線路を戻っていった。

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あたりが暗くなって来た頃、我々は列車を降りた。また川を歩いて渡り、ティボー駅に戻るのかと思うと、うんざりした。だがそこには駅員が待っていて、何とまずは切符の払い戻しを受けた。Nさんが車掌に聞いた結果らしい。勿論ミャンマー人には払い戻している様子はないから、我々だけの特例だった。そして『これからどうするのか』と聞かれ、S氏が『ラショー行のバスターミナルへ』というと、ちゃんとソンテウを手配してくれ、運転手にも行先を告げて、送ってくれた。勿論料金は自分で払ったが、この大混雑の中では破格の待遇だった。

ミャンマー激走列車の旅2015(10)恐怖のゴッティ橋を渡る

7月28日(火)
ティボーヘ

翌朝は3時に目覚ましが鳴った。だらだらと起き上がり、トイレに入る。すぐにチェックアウトだ。S氏は駅前の灯りを見て、ティミックスを飲んで行こうという。確かに今日もまたあの揺れかもしれない。揺れないうちに飲み物を飲んでおくのは良いと思う。こんな時間にも客がいる。ということは、我々と同じ列車に乗るのだろう。どうやってここまで来たのだろうか。本当に駅前で助かった。

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ホームに行くと、列車は3時40分には入線してきた。何と今回も定刻発車だ。素晴らしい。車内に入ると座席だった。今日は昼間の運行であり、寝台である必要はない。だが、あの座席を見ると悪夢が蘇る。虫に食われる、と体が座るのを嫌がってしまう。気分的に痒くなってくる。どうしたものだろうか。乗客は多くはない。アッパークラスは1両だけのようだ。オーディナリークラスは木の椅子だった。あっちの方がいい、と思ってしまうが、ずっと座っていると、お尻が痛いんだろうな?

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真っ暗の中を列車はゆっくりと走り出した。席に着くとすぐにウトウトしてしまう。揺れにもかなり慣れてきた。1時間半ぐらい経った頃、少し明るくなり、そして駅に停まった。人々が降りて行ったので付いていくと、皆が朝ご飯を買っている。私とNさんもどうしようかなと迷いながら、最終的にその焼きそばに手を出した。ところが買っている最中に、発車時間になったようだ。ちょうどお金は払ったが、肝心の焼きそばはこれから袋に入れられようとしていた。どうするんだ、とにかくここに取り残されるのは、良くない。その時、車掌が『お前らは先に乗れ!』と叫んだようだ。その声ですぐに車両に駆け上がった。

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それからどうなったのか、焼きそばを諦めようとした頃、なんとあの車掌が袋を持って現れた。焼きそばを受け取り、オーディナリークラスの車両に飛び乗ったらしい。何ともスゴ技。お陰で朝飯にあり付いた。何となくおいしく感じられるのは、それだけ努力したからだろうか。それからまた寝た。乗客のほとんどが寝ていた。暑くもないし、ちょうどよい気候だった。有り難いことだ。

 

高原列車は行く、という感じだった。畑もあるが林もある、そんな景色が過ぎていく。外が明るくなり、線路の座り込んでいる人が見えるようになってきた。トイレもうまくいき?気分も快適になってきた。8時ごろ、メミョーに着いた。この駅は大きな駅でかなりの時間停まっていた。片方では貨物を積み込んでいた。もう片方では車両を連結したらしい。なんとその車両は同じアッパークラスだが、格段にきれいだった。そしてさすがメミョー、外国人観光客が大勢乗ってきた。基本的に観光する人はマンダレーから乗るのではなくここから乗るのだ。

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駅舎もなかなかいい感じだった。駅前にはなんと馬車までいた。昔TTMと一緒に夜道を馬車に乗ったのを思い出す。ここには過去2回、いや3回来ているなじみのある場所だった。駅舎内の時刻表には『7:52 Guess』と書かれていたのが印象的。我々は本当に運良くここまで鉄道旅を遅れなく行ってきたのだとわかる。ホームを歩いていると、何とお茶売りがいた。その女性は大きなやかんを持ち、更には空のペットボトルを持っていた。何とお茶をペットボトルに入れて売っているのだ。これだと揺れても問題ないので買ってみた。100kと安かったが、味は意外としっかりしており、ずっと飲み続けられた。何とも嬉しいお茶サービスだ。

 

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30分以上停まっていた列車が突如動き出した。それからは比較的畑が多い地域を走っていた。豊かさが感じられる。11時頃に停まった駅で弁当を売っていたので、買い出しする。決して揺れない訳ではなかったが、やはり体が揺れにかなり慣れ、食欲もあった。駅のテーブルでは子供が勉強をしており、子犬が横で転がっている。何とも平和な雰囲気だった。今日は陽が出ていないのでそれほど暑くはない。

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少しすると、あのゴッティ橋が見えてきた。世界で2番目に高いところに架けられた橋として有名で、基本的に観光客はこの橋を列車で越えるのが楽しみになっている。これまで何度か車で通りかかり、この橋を眺めたことがあるが、列車から見るのは初めてである。段々橋が近づいてくる。ゴッティという名の駅まであって、少し停まる。そしていよいよ橋に差し掛かる。橋の湾曲した部分で列車の曲がりが分かる。滝から落ちる水、森林、何とも絵になるのだろうが、正直高所恐怖症の私にとっては、下がよく見えてしまうので、写真を撮るのも怖かった。それほど楽しいものではないな、と途中から席に引っ込んで休む。

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橋を渡り切り、少し行った駅でもう一つの車両に乗っていた外国人が大量に降りたらしい。完全に橋目的の乗車だった。確かにこんなに遅い列車に乗っているより、車に切り替えた方が効率は良い。ガイド付きのような旅ならこうなるだろう。それから2時間して、チャウメイに着いた。ここにも何回か来ている。駅でもお茶を売っている。ここはお茶の集積地だ。私は串に刺さった焼き鳥を買った。列車が停まっている間に店仕舞いして帰っていく人もいた。他の予定があるのだろうか、それとももう売れないと判断したのか、非常に手際よく去っていく。

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ミャンマー激走列車の旅2015(9)マンダレーヒルから水没した家を見る

 この部屋は本館裏の別館にあり、3つベッドが置かれている部屋にリビングスペースがあり、これで1泊60ドルなら安い。何となくネットも繋がるし、快適だ。この部屋には朝ご飯も付いているのだが、考えてみれば明日は午前3時台にチェックアウトだから、当然朝ご飯は食べられない。それなら今からその分を食べたいと思い、交渉すると、あっさりとOKが出て、食堂へ向かう。このような融通が一番うれしい。日本ではできないだろうな、こんなの。

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そういえば午前6時にチェックインすること自体、日本ではあり得ないだろう。食事も意外と豊富だったので、朝から一杯食べてしまう。熱いシャワーを浴びて、ちょっとウトウトした。部屋でもネットが繋がっていたのだが、途中から繋がらなくなり、担当者が来て様子を見ている。列車に乗っている間は全く使えないので、ホテルに居る時ぐらいは何とか連絡などを取りたい。

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8時過ぎには駅の切符売場へ行く。やはりラショー行の切符は買えなかった。理由は洪水で途中の橋が壊れ、ティボーまでしか列車は走っていないとのことだった。我々は何があろうと、前に進むしかない。ティボーまでの列車のチケットを買った。後は現地に行って、なるようにしかならない。午前4時発、明日もまた厳しい旅が続く。料金もまた10ドルちょっと。本当に安くて助かる。

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マンダレーヒル

昼前にホテルを出た。マンダレーで唯一行くべきところは、マンダレーヒルになっていた。S氏は決して観光をする人ではない。中国には何十回も行っているが、万里の長城すら行った事がないと聞いていた。今回観光地であるマンダレーヒルに行くにはそれなりの理由があった。それは雨期のミャンマーの写真を撮るため、分りやすい場所として、マンダレーヒルから水没した村を見る、という案を私が出したことによる。

 

しかし駅前からマンダレーヒルまでどうやって行くのか、誰も分ってはいなかった。タクシーもあまり走っておらず、たまにいてもやる気がない。何とか見つけたタクシーでヒルの下まで行ったが、そこからはソンテウだ、と降ろされる。ミャンマー人の観光客に交じってソンテウに乗り込み、上に上がった。だが、料金は一人500kのはずだが、なぜか1000k取られてしまった。この辺が観光地のしたたかなところだろうか。

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上からは想像通り、水没した村がよく見えた。いつも思うのだが、年に一度は水没する家、ここで暮らす人々はどう考えているのだろうか。慣れていると言えばそれまでだが、我々には理解できない暮らし方だった。Nさんはこの辺の写真を撮りまくる。私とS氏は静かに床に座り、何もせずに目をつぶっていた。周囲のミャンマー人観光客も思い思いに座ったり、静かに下を眺めたりしていた。

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このヒルの階段の途中には日本人慰霊碑も作られているが、そこには興味がないということで、またソンテウに乗って丘を下った。ここでは当然500kしか払わなかった。下に行っても、ホテルに戻る車がなかった。その辺の屋台に入り、車はないかと聞くと、おじさんが出てきて乗せていってくれた。何とも悠長な商売だった。ホテルに戻っても仕方がないので、市場へ行くことにした。

 

庶民的な市場だった。お茶を売っているところを探すと、いくつかあったが、どれも非常に安いお茶だった。1㎏、500kというから、レストランにて無料で提供する茶葉だった。それでも種類だけはいくつもあって、米袋のような袋に詰め込まれていた。50gだけくれと言ったら、面倒くさそうにビニール袋に入れてくれる。このお茶を後で飲んでみたが、やはり苦くて、なかなか飲みにくいものだった。腹が減ったので、その辺で麺を食べた。汁無し面で、スープが別に付く。漬物も付いてくる。シャンヌードルともちょっと違う。値段が700kしたのは少し高い感じだった。外国人と分ったからだろうか。市場にはそれほど活気はないが、それでも人は出ており、物は動いているようだった。

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やることがあまりなかったので、喫茶店を探してみる。市場から少し行ったところに、如何にも雰囲気の良いミャンマーの喫茶店があり、入ってみる。頼むのは勿論ティミックスだ。昼下がり、店は空いていて、人の動きも鈍い。怠惰な空気が流れていた。ティミックスが来ると、ポットに入っているお茶を勝手にカップに注ぐ。それがここの仕来りだった。駅前の屋台でもこんな店でも1杯は300kと判で押したように決まっていた。

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それからブラブラ歩きながら、ホテルへ戻った。途中に茶葉を売る店があったが、試飲も出来ないし、文字も読めないので、買うのはためらわれた。30分以上歩いただろうか、何とか駅に辿り着く。どうやら市場は駅裏の方角だったらしく、ホテルのある表まで戻る。ツーリストインフォメーションで何かが得られないかと見てみたが、ラショー方面の情報もなく、結構疲れてしまった。

 

夜は近くのレストランで食べる。戸外に出ているテーブルにはすでに先客がおり、ビールを飲んでいた。徐々に暗くなる中、風に吹かれながらビールの飲むのは良いものだと思い、私も一杯だけ付き合った。この旅でもほとんど酒を飲んでいない。疲れている時に酒を飲むのは禁物だったが、お陰で部屋に帰り、早々にぐっすりと眠ることができた。

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ミャンマー激走列車の旅2015(8)マンダレーまで揺れは続く

 マンダレーへ

列車はゆっくりと動き出し、また苦難の旅が始まった。Nさんは早々に動き回り写真を撮っていく。その中で色々な車内情報を持ち帰ってくれるのだが、『食堂車がある』という話が目を引いた。もし食堂車があれば、揺れると言ってもゆっくりと食べられるのではないか、と考えたのだが、その夢はすぐに打ち砕かれた。何とボーイが二人やってきて、夕飯の注文を取りに来たのだ。メニューに英語も書かれている。これはいいサービスなのかどうか?取り敢えず、中華系と思われる野菜炒めを注文した。冷たいビールもあるようだった。

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列車のスピードはやはり上がらず、その分、周囲の風景がよく見える。現在は雨期なので、水田も川も水で一杯になっている。確かTTMが『北部は洪水で川が氾濫するなど、問題が出ているはずだから気を付けて』と言われたのを思い出す。だがこの時点ではそんなことも窓の外の出来事にしか思えず、真剣に考えることもなかった。むしろ曇りの方が暑くなくてよい、というのが素直な感想だったのだ。

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1時間半ぐらい経った頃、ボーイが夕飯を運んできた。まだ時刻は5時前で腹も減っていなかったが、やることもないので食べることにした。だがここでもやはり揺れが厳しく、なかなか箸が進まなかった。S氏とNさんはビールを飲むために、窓側に座った。もし激しい揺れが来た場合は、コップを窓の外に倒さないと、部屋がビール浸しになる恐れがあったからだ。実際大きな縦揺れが何度かおき、その度にコップを窓に近づけていたが、幸い外へ捨てることはなかった。

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西洋人が『ジャンピングトレイン』と言っていたのはこの区間のことだろうか。料理の味などまるで分らず、ただただ機会を見ては口から流し込むだけになっていた。これではとても食事とは呼べないし、胃腸の負担も半端ない状態だった。それでももしお腹を壊せば、本当に大変だ。この列車内でトイレをするのは至難の業だから。それにしても、これがミャンマーの幹線だとすれば、鉄道自体が早晩なくなるではないか、と心配にすらなる。全く線路補修もなく、何年もの時を過ごしてきており、すでに限界を過ぎている。

 

その内あたりも暗くなり、風景も眺めることも出来なくなった。S氏とNさんは揺れに耐えながら、酒をちびちび飲んでいるが、私には何もすることがなかった。もう寝るしかない。でも昨日フカフカにベッドで思い切り寝ていたこともあり、どうしても寝付けない。ウトウトしては起きる、という状態が続く。たまに明るいと思うと、駅に着く。だが乗客の乗り降りが多いようには見えなかった。貨物の荷揚げだろうか。

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午前零時前にかなりきれいな駅に停まった。これが首都であるネピドーだとすぐにわかった。だがここでも乗客は殆ど見られない。現在のミャンマーではヤンゴン-マンダレー間は頻繁にバスが出ており、そのバスが大いに改善され、新車が導入され、座り心地がよく、高速道路を走るため時間も10時間以内、料金もそれほど高くないため、皆がバスに乗ると聞いている。今さら鉄道でもないだろう、という雰囲気はぷんぷんしている。

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ふと寝入っていた。突然大きな音がして、列車がガタンといって、停車した。周囲間は真っ暗だったが、どこかの駅に着いたのは間違えない。その時車掌が『マンダレー』と言っているのが聞こえた。何と朝5時、定刻にマンダレーに到着したのだ。車掌がいるのに、直前に起こしてくれることもなく、ビックリした。これが中国なら切符を返しながら、事前通告があるのだが、などと思う暇もなく、荷物をまとめて、列車を降りた。15時間の旅は前回に比べれば、はるかに短く感じられた。

 

7月27日(月)
ホテルで休み、切符を買う

午前5時過ぎのマンダレー駅には人影もあまりなかった。まだ暗い。同じ列車を降りた乗客たちはどこかへ吸い込まれていなくなってしまった。いつものようにS氏は次の目的地の切符を買いに行くが、この時間窓口は開いていなかった。周囲の人によれば8時頃にならないと開かないらしい。しかも『ラショーにいく』というと、『ラショーにはいけないよ』という人もいて、何だか一波乱ありそうな雰囲気が漂う。

 

取り敢えず、駅前の屋台でティミックスを飲む。こういう屋台だけは何時でもやっているのが嬉しい。ここで作戦会議を。窓口横の時刻表で見る限り、ラショーへ行く電車は一日一本で、出発は午前4時。ということは、マンダレー1泊は決定しているので、駅前のホテルを探すことになる。ミャンマー第二の都市の駅前としては寂しい感じだが、仕方がない。地球の歩き方にも載っているホテルが目の前にあったので、入ってみる。フロントに人はいないと思ったが、女性が突っ伏して寝ていた。起こして聞いてみると、3人部屋があるというので、そこへチェックインした。

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ミャンマー激走列車の旅2015(7)揺れない場所で寝て食べて

 アイちゃんがぐずり出したので、ホテルに戻り、記念写真を撮って別れた。僅か1時間半ほどの再会だったが、会えてよかった。かなり疲れていたはずだが、これで疲れも吹き飛んでしまったのには、自分でも驚いた。彼らはここからかなり離れた家に戻っていく。ヤンゴンの不動産は高止まりであり、安くなる気配がなかった。彼らが市内中心部に戻ってくる日は来るのだろうか。

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夜はS氏のお知り合いの女性、Iさんと食事をした。Iさんは確かベトナムで暮らしていたが、その後ヤンゴンに移り、ライター活動などをしているという。ホテルを予約してくれたのも彼女だった。とても立派なホテルなので、感謝している。ミャンマー料理のレストランへ行き、たらふく食べた。魚と野菜が美味しく感じられる。体は必要なものに飢えており、それを与えられることで満足するようだ。私の知り合いのTさんも途中から参加して、ミャンマーの最新事情などを聞いた。やはり変化が激しいことは間違いがない。

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夜またシャワーを浴びて、ぐっすり寝入ろうとした。しかし事はそう簡単ではなく、いつの間にか体が揺れている感覚に襲われて、起きてしまう。S氏は遅くまで原稿の締め切りに追われていたようだ。この状況下で文章が書けるだけでもすごいと思うが、眠いと感じないのかと思うほど、しっかりとしているのには驚嘆する。隣でNさんが寝返りを打った。彼も体が揺れているのだろう。

 

7月26日(日)

翌朝はゆっくり起き上がる。これは大正解だった。もし朝6時に列車に乗るのなら、4時前には起きなければならず、そうであれば、その緊張からほぼ眠れずに終わったはずだった。助かった。8時に下へ行き、朝食を食べる。パンにフルーツ、そしてお菓子と、予想以上に豊富な食べ物を喜んで食べる。お茶はミャンマーの有名メーカー、ナガピョンの紅茶、ティバッグだった。これもまたさっぱりしてよい。

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午前中はフリーだったので、ホテルの周囲を散策した。ここは以前のTTMの住まいから遠くない。何となく覚えのある寺があり、店もあった。比較的低い建物が並ぶ、住宅街であった。7月であり、それほど暑くもなく、快適な散歩となる。ただ段々時間が過ぎていくと、またあの恐怖の列車の発車時間が近づいてくる。考えただけでも気分が落ち込む。

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そして午後1時前に名残惜しいホテルをチェックアウトして、中央駅に向かった。車はスイスイと走る。日曜日だからだろうか。これまでヤンゴンに来ると渋滞ばかりだったが、ここ二日は殆ど渋滞を見なかった。経済の停滞に起因しているのだろうか。駅前で両替を試みると、米ドルとチャットのレートが1250ぐらいになっていた。前回来た時は950程度だったから、大幅なチャット安に陥っている。

 

駅前なのに、バスの切符売り場が目立つ。昨日行った列車の切符売り場を考えてみると、乗客がどちらを選んでいるかはほぼ明らかだった。それでも改革できないでいるところはミャンマーらしいとも言えた。まだ発車時刻には相当の時間があるので、スーパーで買い物をした。水やビスケットなど食料を買い込む。今度の列車にはどのような設備があるのかは分らないから、十分な備えが必要だろう。

 

それから屋台で麺を食べた。腹はそれほど減っていなかったが、揺れないうちに腹に入れていこうと思ってしまう。珍しく汁なし麺だったが、これは食べやすくてよかった。あの揺れる列車でもぜひ食べてみたい一品だ。そんなことを考えていると、突然雨が降り出した。屋台では食べ物が濡れないようにビニールで覆っていたが、人は殆ど気にすることもなく、食べ続けていたので、我々も食べ続ける。雨はにわか雨ですぐに上がり、我々は隣の屋台でティミックスを飲んで、時間をつぶしていた。

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ヤンゴン中央駅は仏塔の様な形を頂いているが洋風の古い建物で、殆ど改修もされていないように見えた。これが一国の中央駅か、と思うとちょっと残念だが、昨今の鉄道離れから考えると、当然なのかもしれない。どこに資金を配分するのか、という場合、どうもそのリストに上がってくるとは思えない。トイレに行くとその汚さは半端ない。電話は未だに電話機を借りるシステムで、昨今の携帯の普及とも無縁の世界だった。

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2時半近くになり、ホームへ行ってみたが、列車が来る気配はなかった。少し心配になった頃、列車が入線してきて、乗客が乗り込み始める。ミャンマーの鉄道は意外と時間通りで驚く。タイとは大違いだ。車両はかなり古かったが、今回は4人乗りのコンパートメントで、夜は横になって寝ることが出来そうだった。しかもヤンゴン-マンダレーは幹線であり、前回の様な事はないのではないかと一縷の望みを持った。この車両には2人用の部屋も付いており、快適そうにも見えた。ただこの部屋はかなり暗く、昼間なのに文字を読むのは難しかった。

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ミャンマー激走列車の旅2015(6)ヤンゴンでの再会

 ヤンゴンのホテル

ヤンゴンではS氏が知り合いに頼んで、ホテルを予約してもらっていた。一刻も早くそこへ行き、シャワーを浴びて、そしてベッドで眠りたいという衝動にかられた。体はまだ揺れている感じが残っている。しかし現実は甘くない。まず我々が向かったのは、ホテルではなく、切符売り場。ヤンゴン中央駅の切符売り場は何と駅の裏出口を出て少し行ったところにあった。こんなところ、誰も来ないだろうという倉庫の様な暗い場所だった。

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S氏の旅は常に一貫している。まず目的地に着いたら、次の目的地までの切符を確保する。これは80年代我々も中国で常にやってきたこと。何日後の切符が買えるかで、この街に何日宿泊するかが決まり、今度はホテルを探すといった具合だった。まさに現在でもこんな旅を続けている人がいた。しかもバックパッカーでもないおじさんが。ミャンマーでは切符が買えるかどうか、かなり不安だったらしいが、それは完全な杞憂に終わる。

マンダレーまでの列車は1日3本、朝6時もあれば午後もある。私はここで提案した。『明日の朝早く行くより午後の列車に乗り、翌朝マンダレーに着いた方が効率的ではないか』と。この案が採用され、明日の15時の列車が予約された。乗車時間は定刻なら15時間だそうだ。またアッパークラスだった。私としてはまた早朝から起きるのが辛かっただけだったのだが、これは結構助かった。

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切符売り場を出て振り向くと、何とそこには見慣れた、日系企業が多く入っている、さくらタワーがあった。こんな位置関係だったのか、そこで初めて知る駅の場所。タクシーを捕まえて、予約されたホテルに向かう。今日は土曜日なので出勤のラッシュなどはなかった。料金交渉が必要なのは面倒だが、タクシーは真っすぐにホテルを目指した。

 

そして着いたところは実に立派なホテルだった。一時期は1泊150ドルもしたというが、3人一部屋でほぼ半額の料金だった。これもお知り合いのIさんのお陰だ。きれいなロビーにきれいな部屋、フカフカのベッド、あの悪夢のような列車から解放されて、なんとも嬉しかった。シャワーを浴びると気持ちも高まる。しかしS氏は何とここで『原稿を書いてくる』と言って、階下のレストランへ行ってしまった。あれだけの旅をしてダメージもあるだろうに、何とタフなんだろうか。それでなければ旅行作家は務まらない。ということは私には務まらないことが確定的だ。

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とにかく私は休んだ。26時間、平均震度4の衝撃、そしてダニに食われた跡は体中に残っている。これをシャワー1回で解消することはとても無理だった。兎に角体力の回復が一番だと思った。ネットは何とか繋がったが、切れ切れなので、これ幸いと寝る。だが残念ながら、スカッとは寝むれない。体がずっと揺れており、頭がボーっとした。

 

再会

午後3時頃、TTMとSS、そしてSSの娘、アイちゃんがやってきた。アイちゃんが生まれて10か月、その成長ぶりには目を見張るものがある。私の顔を見るとにっこり微笑んだりもする。私をホテルでピックアップして、そのままどこかのショッピングモールへ移動した。モールの前では学生たちが大勢集まり、何かを訴えていた。すわ、学生運動かと思ったが、何かの慈善団体の支援だったようだ。そこにいた女の子たちがアイちゃんの存在に気付いて、駆け寄ってきて、あやしている。そして空かさず、募金をTTMに呼びかける。アイちゃんの手から募金をさせると皆が喜んでいる。何だか平和な風景だった。

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モール内のレストランに入る。こういう場合、主導権は完全にSSにあるから、彼女の気に入っている場所なのだろう。『アイちゃんがおとなしくしていないから、ここがいい』という。まあ、捕まれば立ち上がれるほどになっている。これからが危険な歳ごろだ。どこでも歩いていき、何でも触りたがる。

 

モヒンガーが運ばれてきた。列車を降りてからも食欲があまりなかったが、これを見たら、俄然食べたくなった。一口食べると殊の外美味しく感じられる。やはり食事は揺れのないところで食べるものだ。26時間の列車の旅の話をすると、TTMもSSも目を丸くして驚いていた。勿論TTMは経験があり、『なぜそんな大変な旅をしなければならいのか?なぜ鉄道なのか?』と言った素朴な疑問を吐く。SSは完全に『何をそんな馬鹿なことを』という目で私を見ている。ある意味ではそれは正しいかもしれない。自分自身でも何故そんなことをしているのか、説明できなくなってきている。頭がフラフラする。

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それからモール内にある、日本ショップに行った。ここはいわゆる百均だ。日本の文房具から家庭用品までかなりの品数がある。驚いたことにウオシュレットタイプの便座までが売っていた。表向きは百均だが、中身は相当にバリエーションがある。この店も日本に住んでいたミャンマー人が投資して作られたという。当然ミャンマー人の求めている物は分っているようで、TTMは何点か買い込んでいた。

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ミャンマー激走列車の旅2015(5)虫に食われ、揺れに耐えた26時間

 ヤンゴンまで

約9時間も乗っただろうか。もう疲れたな、と感じていた頃、イエという駅に到着した。確かダウエイの駅長がここで列車を乗り換えろと言っていた場所だった。列車には車掌が乗っていた。彼もほぼ乗客のように席に座り、仕事をしているようには見えなかったのだが、この時ばかりは立ち上がり、隣の列車に移るように指示を出す。乗り換える、と言っても、ホームなどはなく、隣の停車している列車に移るだけなのだ。しかしそれが意外と大仕事で、皆大きな荷物を持って、タラップを這い上がっている。

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今度の車両に入った瞬間、嫌なにおいがした。この車両は一体いつから使っていなかったのかと思うような、古びたカビの様な匂いだった。座席の広さなどは同じだが、そのシートにも埃が被っているように見える。ずっと車庫に入っていたのを引っ張り出してきたのだろうか。これはヤバい、と言わざるを得ないが、我々にはここに座る以外に選択肢はなかった。アッパークラスは確か一両しか連結されていない。

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イエで弁当を買ったが、鶏肉と酸菜がぽつんと入った物だった。あまり食欲もわかない。列車が動き出すと、更に埃を感じてしまう。そして一番恐れていたことが起こり始める。この座席には虫が住んでいたのだ。それが列車の動きに合わせて急に動き出す。そして私の体を刺しまくり出した。これには参った。しかしどうすることもできない。この状況はS氏もNさんも同様だったようで、後で見てみると腰から背中、足まで喰われた跡が残ってしまった。痒くて仕方がなかったが、防御の方法はない。虫のなすがままだった。

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3時間ぐらい乗っていると、お茶売りが乗ってきた。ものすごく揺れる中、彼は器用にチャイを淹れていた。すごい技だ。毎日乗り込んできて淹れているのだろう。修練の大切さ、茶を飲みながらしみじみと思う。午後6時半頃、停まった駅でまた弁当を買う。どうも先ほどのものが胃袋には物足りなかったようだ。今回は豚肉と魚が入っており、味的には満足した。あたりがだんだん暗くなる中、痒みも徐々に収まってきた。

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そしてダウエイから乗ること15時間、夜の9時に真っ暗な中、大きな駅に着いた。これまでの最大の都市、モールメインだった。正直私はもう降りたくて仕方がなかった。モールメインはミャンマーの重要な貿易港であり、今回のお茶の旅にも通じる歴史を持っている。まだ行ったことがないこの街に、私は降りてみたかった。S氏にその旨を告げると『そうですね』と言ったきり黙ってしまった。そして列車がホームに着くと、早々に降りてはいったが、ホームの売店で冷たいビールを手に入れると、さっさと戻ってきてしまった。

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これで明日の朝までこの車内で過ごすことが確定してしまった。もう言葉も出なかった。S氏にとって、旅とは一体何であろうか?我々凡人なら『せっかくここまで来たのだから、ちょっと寄って行こう、見ていこう』という気持ちも起こるだろうし、ましてや『途中で休みながら行った方が体の負担も少ない』と考えるのではなかろうか。ところが彼は私より年上にもかかわらず、そしてお金がないわけでもないのに、このような旅を続けている。もし一つ理由があるとすればそれは『時間』かもしれない。前に進むことによって時間を節約し、より多くの旅をする、という習慣が身についているようにも思う。

 

また列車が動き出す。揺れには慣れてきたとはいえ、体はまだ完全に反応できてはいない。重たいものを感じている。しかし容赦なく、揺れは訪れ、また引いていく。これからは寝るだけだ。眠ってしまえば、朝になり、朝がくればヤンゴンがやってくるんだ。薄暗い車内で呪文のように唱えてみたが、どうしても眠れなかった。確かに朝からずっと寝ているのだ。そして揺れで起こされる状態が続いており、神経は高ぶっている。ミャンマー人の乗客でヤンゴンまで我々と一緒に行く人は殆どいなかったと思うが、車内では皆スヤスヤ寝入っているように見えて羨ましい限りだ。窓の外にライトアップされた仏塔が見えた。

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7月25日(土)

いつの間にか眠っていたらしい。外が白々と明けてくる。夜中、何度か駅に停まった。その度に一瞬ヤンゴンか、と思ったが外が暗かったので、また目をつぶった。車内に売りに来た売り子から朝ご飯を買った。餅のようなものとチャイだった。チャイはビニール袋に入っていた。あまり食欲はないが、取り敢えず口に入れてみる。皆がソワソワし出した。荷物をまとめている者もいる。いよいよヤンゴンに到着だ。

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しかしそこからが実に長く感じられた。何となく家々が見え始め、都会に近づく感じが出ては、また農村の逆戻り。一体いつになったら着くのか、と不安になった頃、突然それはやってきた。大きな駅に入ったのだ。それまで周囲にヤンゴンを感じさせるものは、何もなかった。なぜかというと、ヤンゴン市内の線路は柵で囲われており、周囲から隔離されていた。それで気が付かなかったのだ。ともあれ、何と定刻午前8時に列車は中央駅に着いたのだった。26時間の鉄道旅は終わった。

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ミャンマー激走列車の旅2015(4)ダウエイ あんなに苦労してきたのに散策は30分

 ダウエイの街

時刻は夜の7時を過ぎていた。腹も減ったので、外へ出る。ホテルを出るとすぐに、携帯ショップがあった。ミャンマーではこれまで通信手段で苦労していたので、ダメもとでシムカードを買えるか聞いてみる。半年前、ヤンゴンで半日探してやっと買えた記憶があったが、ここではすんなり買えたので驚いた。タナカを塗った若い女性が簡単にセットしてくれ、通話もすぐにできた。半年前は確かヤンゴンとネピドーとマンダレーしか通じない言われたカード。ミャンマーは半年で変化すると言われているが、それは本当だった。たった半年でヤンゴンだけでなく、この一番南の街までシムカードは普及し、ほぼ全国どこへでも電話できるようになっていた。

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街は急速に暗くなった。食堂もあまり見られない。仕方なしに、屋台に入る。ここはインド系がやっていた。ダンバオというカレーチャーハンに焼き鳥を乗せる食べ物が美味そうだった。S氏とNさんはビールを所望したが、ここにはないらしく近くから買ってきたのは5歳ぐらいの息子だった。ただ他のお菓子も一緒に買ってきてしまい、母親にひどく叱られていた。何とも微笑ましい光景だった。そしてそのビールは当然のように冷えていない。そこで氷を頼むと、これまたおじさんがバイクで買いに行くという具合だった。飯は予想通り美味かったが、疲れていたせいかそれほどは食べられなかった。

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食後私はS氏に聞いた。『せっかくダウエイに来たのに、街も見ずに列車に乗るのか』と。答えは『ダウエイには以前に来たことがある。でも確かに街を見ないのもなんだな。30分ばかり散歩しよう』と。そして我々は真っ暗な中、30分ほど歩いてみた。あれだけ苦労してここまでやってきて、街の散策がたった30分とは。これはやはり私の旅ではない。途中の商店はどうも中華系の香りがしたので、普通話で話しかけると、やはり答えがあった。ここは港町、昔は華僑も沢山来たことだろう。S氏とNさんは晩酌用の酒とつまみ選びに余念がない。

 

ところでダウエイの開発区だが、ここには影も形もない。S氏によれば、開発区も港も街からかなり離れており、たとえ開発区ができても、この街にどの程度良い影響があるのかは不明だった。街にはこの特別区に関する宣伝もなければ、それとわかるものも何もない。これは暗いせいばかりではないと思う。今回の散歩では残念ながらダウエイについてはほとんどなにも分らなかったが、ここに投資する勇気は称賛に値する。明日も早いのでホテルに帰り、3人部屋で電気も点いたままなのに、すぐに寝入る。これが私の特技だった。

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7月24日(金)

翌朝は4時過ぎには起きた。5時に迎えのリキシャが来る。これが来なければ列車に乗れない。ホテルには朝食の代わりに、ランチボックスを用意してくれるように依頼していたが、ちゃんと用意されていて驚く。何と順調な2日目の朝。何となく涼しい。リキシャは10分で昨日に駅に着く。まだ5時過ぎだ。例の体育館の様な建物では、灯りもない中、人々が起き上がり始めていた。少しずつ夜が明け、駅の周りの小屋に商売を始める煙が立つ。我々もその一つに入り、ティミックスを飲みながら、過ごす。一応今回の旅は茶の旅でもあるので、コーヒーではなく、ティを飲むようにS氏に促したところ、この甘いティミックスがことのほか気に入ったらしい。それからはいつもティミックスを飲んでいた。

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問題は列車がいつ来るのかということだ。隣の中堅国、タイの鉄道のひどさは昨日を見ても分っている。それより遅れているミャンマーではその到着時間には懐疑的にならざるを得ない。ところが6時が近づくと、乗客がホームに集まりだす。そして昨日の駅長も出てきた。これは来るかもしれない、と思っていると、何と列車は突然音を立ててやってきた。ほぼ定刻だった。だがすでに僅かに乗客が乗っていた。ここで気が付いた。このダウエイ駅は始発駅ではなかった。もう一つダウエイポートなる駅があったのだ。しかしすでに列車は来てしまった。乗るしかない。

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どこに乗るのだろうか、我々はアッパークラスを予約していたが、その車両はどれか分らない。そこへ駅長が来て、こっちだと指さす。急いで言われた方へ行き、タラップを上がり、車両内へ入る。中は意外と広い空間があり、リクライニング出来る椅子が用意されていた。2席、1席の3列配列。相当にゆとりがあり、足を延ばしても相手にぶつからない。さすがアッパークラスだった。料金はローアークラスの2倍。それでも安いと思ってしまう。

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