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カンボジア・タイ 国境の旅2016(3)不思議なバスで国境へ

727日(水)
カンボジア国境へ

翌朝3時台に起きて、410分には宿をチェックアウト。予め言ってあったので、フロントの横でスタッフが仮眠を取りながら、鍵を受け取ってくれた。そして歩いてテスコへ。道路には当然車は走っておらず、陸橋ではなく、下を渡ると、すぐに駐車場へ着いた。まだ暗かったが、そこにはすでに10人以上の先客がいた。英語で『カンボジアへ行くのか』と聞くと、きちんとした英語で『そうだ』という答えが返ってきたので、彼の横に腰を下ろして待つ。

 

その後続々と乗客が集まってきたが、その人々には1つの大きな特徴があった。非常に軽装、旅行用の荷物を持っているのは私だけなのだ。更にはタイ人らしい人が少ない。このバスはカンボジアへの帰省用かとも考えたが、土産を持っていない。担ぎ屋でもない。フィリピン人や欧米人も数人見られ、どうも違うらしい。かといっても観光用でもない。皆慣れた様子でバスの到着を落ち着いて待っている。

 

510分頃になり、ようやくバスの姿が見えると皆が一斉に立ち上がり、バスの方に向かった。タイでよくあるロットゥと呼ばれるミニバスだから、全員が乗るのは難しい。当然私も出遅れてしまい、大きなケースを持って乗り込もうとしたが、なかなか厳しい。運転手が整理するとあと一席あるというので何とか乗り込めた。残された人も慌てていないので、もう一台バスが来ることは明白だった。私の荷物は運転台に置かれた。

 

席は一番後ろの一番端。隣にフィリピン人の小柄な女性が座ったので、まだよかったが、そうでなければその狭さにとても耐えられなかっただろう。初めは見慣れたスクンビットの通りを走り、そのうち郊外に出て、それから2時間、どこを走っているのかもよくわからないまま、車は前に進んでいく。夜も完全に明け、スピードが出ていた。

 

2時間後に休憩があった。ほとんどの人はここでトイレに行き、朝ご飯を買って食べていた。私は乗り物に乗っている時は食べ物を食べないようにしているので、その辺を散歩した。足が伸ばせるのが有り難い。車もバンパーを上げ、休憩している。ここは一体どこなのだろうか。そして同乗者同士が英語で話しており、顔見知りも多いようだが、一体誰なんだろうか。

30分の休憩後、車は再び走り出し、私は眠りに就いた。そしてその2時間後、起き上がると、そこは閑散とした国境だった。時刻は9時半、休憩を入れて4時間半の旅だった。皆が車から降りて、私の荷物も運転手が下してくれた。さて、ここからどうなるのだろうか。確かTさんは国境で待っていると言ってくれていたが。携帯に電話すると、タイ側を出国するように指示がある。乗客全員がパスポートを持ち、出国手続きをしていた。やはりこの人たちはすべて外国人だった。タイ人とカンボジア人は別のゲートから簡単に出入りしていた。

 

出国するとそこにTさんが待っていてくれた。2年ぶりの再会となる。橋を渡るとそこがカンボジアだった。そして事務所のようなところへ行くと、ドイツ人が待っており、車代として400bを支払った。一緒に乗ってきた他の全員が彼の周りで、用紙に何か記入していた。それでようやく分かった。このバスはタイのビザを取るために一度国外に出るためのバスだったのだ。だからミニバスがテスコのところにやってきて、知っている人だけが乗り込んだのだ。私はそこに便乗した特別の客だったという訳だ。

 

通称ビザランと呼ばれるビザを繋ぐために一度国外に出る行為。本来はきちんとした滞在ビザを取るべきことは言うまでもないが、様々な事情でそれができない人が短期ビザを繋いでいる(日本人なら30日のノービザを繰り返す)。当然政府も取り締まりをするのだが、そこはタイ。必要悪に対しては規制が緩い。また偶に厳しくなるが、すぐに緩くなるのが実態だろう。同乗してきた人たち、バンコックで何をして、働いている人々なのだろうか。ちょっと気になるが聞けなかった。

 

Tさんが反対側の事務所に入った。そこは皆知り合いのようで握手を交わしている。そこで35ドル支払ってビザが交付された。ここがドゥーンという名の国境だと初めて知る。タイからカンボジアへ行く外国人は普通、アラヤンプラテートからポイペトに入るのだが、ここは全く知られていない、こんなことでもなければ通ることはない国境だった。

 

Tさんの車に乗り、国境を離れようとしたが、出口のところで、パスポートチェックがあり、どこかへ行けと言っている。よく考えてみたら、ビザはもらったが何と入国のスタンプを押してもらっていなかったのだ。チェックされてむしろ良かった。カンボジアを出国する時、入国スタンプがなければ、どういう扱いになるのだろうか。不法入国の疑いで捕まってしまうのだろうか。それにしても緩い国境であることに間違いはない。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(2)バンコックの一日

726日(火)
バンコックの一日

翌朝はいつものようにYさんと朝のアメリカンコーヒーを飲み、それから馴染みのおばちゃんのところへ行き、コムヤーンを食べる。これがなぜか美味い!私だけでなく、食べた人間は殆どが病みつきになる。だがおばちゃんはなぜか機嫌が悪く、ぷいと向こうに行ってしまった。もう一人のおばちゃんが後を取り仕切る。言葉は全く通じないが、私のしたいことは皆わかっている。店などない。そこにあるテーブルを使い、椅子を探して座り、カオニャオをもらって、一緒に食べるだけ。150円払えば腹一杯で幸せな気分が訪れる。

 

部屋に戻ってダラダラしていると、昼前になり、NHKのお昼のニュース、そして朝の連ドラの再放送を見ると、もうランチに行く時間になってくる。今日はここをチェックアウトするのだが、昼ご飯後でよいというので、Yさんたちとランチに出る。今日は久しぶりの鴨肉麺を食す。ここのおばさんたちも相変わらず元気な様子。初めて行った5年前から時間が止まっているようだ。その後またアメリカンを飲んでいると、時間はすぐに過ぎていく。

ホテルをチェックアウトして、タクシーを呼んでもらう。明日の早朝、カンボジア国境に向かうため、Tさんから指示のあったオンヌットの宿に移った。スクンビット通り沿いにあったが、車からは見過ごしてしまい、歩いて何とかたどり着く。フロントの女性はにこにこと愛想がよい。Tさんの定宿だけあって名前を出すとさらに笑顔になる。部屋はツイン、実はシングルの部屋があるのだが、ネットで予約する場合、ツイン以上の部屋しか取れないらしい。1800b。シングルなら600bなので、次回は直接電話して予約してね、と言われる。

 

Tさんにチェックインした旨をFBで告げると、『今日高校生二人と引率の大人一人がそこに泊まるから、明日一緒に来て』と連絡がある。Tさんの村には日本から高校生までが来るのかと感心する。だが、フロントでいくら聞いても、そのような日本人の予約はないという。まあ直接来るのかと思い、宿を出て、まずは明日バスに乗る場所を確認する。BTSの駅の前に大きなスーパー、テスコがあるのだが、そこの駐車場から乗るというのでちょっと驚く。勿論この時間に行ってもバスがいる訳でもなく、なんとも腑に落ちないが、まあ指示通りにしよう。

 

それからBTSに乗り、プロンポンへ。相変わらず車内が寒い。かなり混んでおり、乗り込んでからスマホをいじっているうちに、何と駅を乗り過ごし、アソークまで行ってしまう。慌てて戻り、何とか約束の時間に待ち合わせの場所に着いた。駅構内にHISのショップがあったが、貼り出されている広告は日本行きばかり。それなりに高い料金だが、今年はタイ人が日本に100万人訪れると言われており、その勢いは十分に感じられる。

 

今日はバンコック茶会の主催者Mさんと会うことにしていた。もう一人も参加され、三人でお茶を飲む。場所はオーガニック野菜を売り物にするレストラン。日本人がタイで有機栽培の農業を始め、そのアンテナショップとして開いたお店。1階では作られた野菜などを直接買うことができる。日本人だけでなく、欧米人にも人気、そして最近は意識の高いタイ人も来店している。タイで日本人が農業することは色々な意味で充分な可能性を感じる。もっと多くの人がチャレンジすればよいなと思う。そしてその対象顧客は日本ではなく、地元に住む人々。これからそういう時代だ。

 

昨年バンコックを離れてから開けていないバンコック茶会。メンバーも続々帰国しており、再開は難しいかもしれない。やはりバンコックでも日本人は減少傾向にあるらしい。これもまた経済の影響が大きいようだ。バンコックは恐らく世界一日本人が住んでいる都市だと思うが、駐在員もリタイア組も、タイ経済の低迷、爆弾事件などテロの再発などに苦しんでいるようだ。まあ、お茶の香りのしないバンコックで中国茶などの会を開くこと自体、かなり無理があったかもしれない。

 

帰りにオンヌットのテスコ内にあるフードコートでカオマンガイを食べた。ここには何度も来て食べた記憶がある。50bあれば、蒸した鶏と揚げた鳥の両方が入って、お腹いっぱい食べられる。やはりバンコックの物価は上がったと言ってもまだまだ安い。一時の円安も少し戻ってきたので、円換算すると安く感じられる。拠点をそろそろ海外に設ける必要性がある。

 

外に出てみると夕日がとてもきれいだった。多くのタイ人がスマホで写真に収めている。宿に帰ったが、やはり日本人は来なかった。結局はTさんの記録が一日間違っており、明日は一人で向かうことになる。午前4時半にはバス乗り場へ行かなければならないが、そんなに早くに行く必要があるのだろうか、などと考えているうちに、珍しく眠れぬ夜を過ごす。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(1)チャンスの訪れ

《カンボジア・タイ 国境の旅2016》  2016725-84

 

7月はケニアに行けるかと思ったが行けず、東欧に行く予定が無くなり、モンゴルの話も立ち消えた。何となく長い休みを取った。茶旅も5年を超え、かなりの疲れが見えてきた。この疲れは肉体的な疲労でもなく、嫌でやっている訳でもないので、精神的なものとも考えにくい。結果として、お茶を追いかけすぎた、やりたいことが多くなり過ぎた、そのプレッシャーに少し行き詰ったという結論に達し、お茶とは無縁の旅をしようと決めた。

 

2014年にカンボジアのプノンペンで行われた『ドリームガールズプロジェクト』というイベントに勝手に行き、参加した。このイベントは1年に1回、カンボジアの女性にデザインを描いてもらい、優秀な作品を選び、それを企業に売り込んで、商品化し、彼女らに仕事の機会を与えようというものだった。会場のホテルには200人以上が集まり、熱気に包まれていた。

 

そこにはカンボジアで活躍する日本人が数人、プレゼンターとして呼ばれていた。イベント後、打ち上げがあり、そこにも参加させてもらった。その時出会ったのがTさん。私より一回り以上歳上だが、非常に情熱的な元自衛官で、タイとカンボジアの国境で、ポルポト時代に埋められた地雷を処理していた。処理するだけでなく、その跡地にキャッサバを植え、キャッサバ焼酎を作っているという話が気になった。その焼酎は私が会社を辞める直前、2011年に頼まれて買ってきたカンボジア土産だったのだ。

その後Tさんとは、FBでは繋がっていたものの、直接のコンタクトはなかった。ところが突然メッセージが来た。『クラウドファンディングに参加してほしい』、以前の私であれば、断っていたかもしれない。いや、返事すらしなかった可能性もある。だがここ数年アジアを歩いていて分かったこと、『ご縁は大切にする』『頼まれたことはピンチではなくチャンス』という考え方から、賛同の意を表して、早々に参加した。その特典として、『カンボジアの村に泊まれる』というのがあったのだ。

 

すぐにTさんに連絡を取ったが、彼もとても忙しい方で、実現しないかに思われた。だが7月終わり、ぽっかり時間が空いていた。ここしかない、とカンボジアの村へ行くことを決意した。カンボジアへは何度か行っているが、陸路で行くのは初めてだった。何だかバックパッカーになった気分で、まずはバンコックに向かった。

 

725日(月)
1. バンコックまで

夕方の便でバンコックに飛ぶため、いつもの電車に乗り、成田空港へ向かう。ところが乗換駅では、何のアナウンスもなかったのに、新宿まで来たら、行先で人身事故が発生していた。電車が2分遅れると謝るくせに、もっとも大事なことは乗客に伝えない、とはどういう訳だ。お陰で、先に進めず、20分間駅で待ち、しかも荷物を持った私は満員で乗れない。この状況が分かっていれば、突然別の路線に乗ったのに。

 

だが、何とか電車に乗り込み、少しでも早く行こうと、急いでいると、何と予定時間より早く着いてしまった。実は今日は時間があるので、一番安い方法で成田を目指そうとしたのだが、そのルートは安いが時間はかなり掛かることが分かった。僅か150円程度の違いで、30分以上早いなんて、成田エクスプレスなど使う必要もないな、と思ってしまう。

 

そして空港にはタイ航空のカウンターが開く前に着いてしまった。既にWEBチェックインを済ませているというと、チェックイン開始30分前から荷物預けはOKと言われ、ホッとする。このサービスは良い。すでに何人もの人が荷物を預けるために並んでいた。それにしても出発3時間前に着いてしまうとは、とほほ。それから長いこと空港で時間をつぶした。

 

定刻に出発したフライト。ここ数回乗っているお馴染みの新しい機体。きれいでよい。それにしてもタイ航空、機内プログラムがいつも同じで変化なし。日本映画は前回同様、小栗旬の『信長協奏曲』だけ。仕方なく、音楽を聴くが、これも前回と何も変わっていない。昨年から一度も入れ替えていないのではないだろうか。それでも私は竹内まりあのアルバムに聞き入る。彼女の音楽、基本的に変わっていない。特に『いのちの歌』はNHKドラマの主題歌、確か満島ひかりが主演だったと思うが、なんともいい。

そんなことをしていると、時間が過ぎて行き、空港に着いた。荷物を受け取ると、すぐにシムカードを買う。10日間で449b。円高にもなっており、1500円でネット使い放題だ。今回の目的地はカンボジアだが、タイとの国境らしいから、恐らくはこれが使えるだろう。それにしてもタクシーはいつも悩みの種。空港タクシーは料金をごまかすか、態度が悪いか。今回は久しぶりに4階の出発ロビーに行ってみる。そこにもタクシーがおり、こちらは愛想がよい。

 

2.バンコック

夜の高速はガラガラ。30分でいつもの定宿に着くと、フロントも笑顔で迎えてくれる。そして何と1年前から荷物を預けたままのKさんに連絡を取り、東京から持ってきた大型スーツケースを更に預けた。今回の帰りに荷物を入れて持ち帰るためだ。今回の旅のもう一つの目的、それがこの荷物引き取りだった。それにしてもこの宿の弱点はネットが弱いこと。ところが私のスマホではデザリングが出来ず、これが問題となる。今回は何とか解決策を見出そう。

 

シベリア鉄道で茶旅する2016(10)恐ろしいロシア国境を越える

 車はすぐに街を抜けてしまい、一本の舗装道路を快適に飛ばしていく。雪が残る大地を走る。途中馬が草を食べていた。万里茶路としては、ここは駱駝でしょう、と思ったが、今や駱駝を飼っているところなど殆どない状態らしい。この道、家なども殆どなく、朝ご飯など完全に忘れ去られている。そして、30分後、いきなりあのロシア正教会の建物が見えてきた。キャプタは思いのほか、近かった。

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そして国境ゲートのところで車を降りた。ここからは歩いてロシアに渡る、つもりだった。既に朝から車の渋滞が起きていた。モンゴル側も少し見ておこうと、周囲を歩いて見たが、何もない。遮るものがないため風がきつく、寒い。恐らくこの辺に茶葉貿易が実際に行われた、中国側の売買城があっただろうというところまで確認して、国境に引き返す。腹が減ったので朝飯を食べたかった。ようやく小さな家が一軒開いていたので入ってみる。

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そこはボーズが少しあるだけで基本的には茶を飲むところだった。我々はなぜかコーヒーを頼んだ。湯気が立ち込める中、インスタントコーヒーが淹れられた。女性が一人座って茶を飲んでいた。何と現金を取り出し、札を数え始める。まるで占い師のように見えたが、どうやら国境の両替屋らしい。私がモンゴル通貨を取り出すと、ルーブルに替えてくれた。そのレートがよいかどうか、全く分からなかったが、取り敢えずもらっておこう。

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国境を越える

そしていよいよ国境越えだ。ゲートを通ろうとしたが、警備兵に止められた。何とこの国境は歩いて通ることはできないらしい。どうするのかと見ていると、女性が近づいてきて、車に乗れ、300ルーブルだという。兵士も何となく乗れ、という雰囲気である。勿論シャトルバスなどない。これに乗るしかないことを悟り、乗り込む。この車は一番前にあったから、朝から並んでいたのだ。特別優遇車なのだろうか。

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車に乗り込んだが、なかなかゲートは開かなかった。時折特別車両が通り過ぎるだけ。20分ぐらいしてようやく前に進んだ。まずはモンゴル側イミグレで出境する。こちらはちゃんとした建物があり、室内で暖房が効いていた。イミグレの雰囲気も明るかった。なんだ簡単だな、と思ってしまったが、車の女性はなかなかやってこなかった。荷物検査が厳しいらしい。まあまだ午前中、焦る必要もない。

 

次にロシア側へ進んで驚いた。何しろ警備兵の顔が険しい。威嚇するような目で見ている。車はなかなか進まない。チェックが相当厳しいようだ。運転する女性は行動を開始した。積んでいた荷物を一部取り出す。マフラーを運転席にかけ、下着を腹にねじ込む。ストッキングは靴下の下に隠す。これでは完全に密輸だ。そうか彼女の本業は、運び屋だったのだ。そのついでに我々も運び、稼いでいるのだ。これは凄いことになってしまった。彼女が捕まれば、我々も同罪なのだろうか。さすがに我々に商品を隠せとは言わなかったが、車中が密輸一色になっている。何ということだ。

 

そしていよいよ入国審査の順番がやってきたが、何とそこは外だった。いや検査官は重装備の箱の中にいる。我々は一列に外に立っているのだ。少しでも動くと、警備兵がロシア語で威嚇する。シベリア送りになってしまった兵隊さんの心境になる。日は出ているが風は強く、寒さは相当なものだった。こんな中に一日立っていれば、兵士がイライラするのも無理はない。それにしても恐ろしかった。私の番がやってきた。検査官はかなり細かくビザを見ていた。このビザに間違いがあったら終わりだ。そしてすべてがロシア語のため、我々には何が書かれているのか読めないのだ。もうドキドキだった。

 

検査官が判を押し、パスポートを返してきた時には、嬉しくて涙が出そうだった。こんな国境は初めてだった。我々は念のため、2次ビザを取得していたが、もうモンゴルに戻ることはないだろう。3人とも無事にパスしたが、車は厳重にチェックされていた。もし車がダメだったら、どうなるのだろうか。最後まで油断がならなかった。何とか車もパスして、我々は車に乗り込んだが、ゲートを出るのに、また並んでいた。

 

これから一体どうなるのだろうか。幾多の国境を越えてきているS氏は泰然として、『何とかなるものです』というのだが、言葉も通じないこの北の大地に放り出されるのだろうか。その場合、本当に何とかなるのだろうか。そんなことを考えていると車は動き出し、勢いよくゲートを飛び出した。横を見ると、あの教会と、そしてロシア側の茶貿易の建物が見えてきた。あそこの写真を撮りたい、と思っていると、車はその思いをわかっているかのように、その前まで来て停まった。300㍔とは一人当たりであり、私は両替したばかりのルーブルを全て投げ出して支払った。車はゆっくり走りだし、我々は取り残された。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(9)国境の街 スフバートル

それでも2-3時間経つと飽きてくるのは仕方がない。外の景色は草原が続くのみ。座席も空いてきたので広いところに移ったが、向かいのおじさんが『お前は上に行け』といったように思えたので、上段で寝ることにした。中国と違って三段ベッドではないので、余裕を持って寝られた。ロシア人の体形で三段ベッドに潜り込むのは無理なのだろうか。2時間ほどぐっすり寝入る。

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その後は窓際の席で外をボーっと眺めて過ごす。腹は減らないので、ジュースを買って飲んでみる。この列車はシベリア鉄道と違い、駅には沢山停まるが、停車時間が短いため、ホームに降りるには難しい。人の出入りも激しいので、返ってストレスがたまる。珍しく長く停まった駅でホームへ降りてみたが、いつ発車するか分らないので気が気ではなかった。言葉が分らないというのはなんとも不便なものである。

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日がかなり傾いてきたころ、ダルハンというモンゴル第二の都市に着いた。ここでかなりの人が降りた。さすがウランバートル以外で駅の周囲に建物が見えた唯一の街だった。3年前に日本のODAで作られた製鉄所を訪問したのを思い出す。あの時すでに経営が厳しいと言っていたが、今はどうだろうか。中国の影響を受けて、沈んでいるかもしれない。産業の少ないモンゴル、中国からの輸入に頼るのは危険であるが、中国はお構いなしに入ってくる。

 

ここから乗ってきた大学生ぐらいの若者がノートを取り出し、わき目もふらずに勉強を始めたのには、驚いた。あまりにすごい勢いなので、周囲もドン引き?我々も恐れをなして他の席に移動した。彼はなぜこんなことをしているのだろうか。この列車は彼の通学列車なのだろうか。何とも不思議だ。若い時は、自分しか見えない、自分だけがこの世で頑張っている、と思ってしまうことがある。彼は自分がモンゴルを背負っている、という気概あるのだろう。空回りしなければ良いのだが。世の中、バランスを取ることも重要である。

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徐々に暗くなってくる。駅もどんどんみすぼらしくなっていく。こんなところで降りても、どこへ行くのだろうという場所がある。数台の車が迎えに来ていたが、それがなければ歩いていくのだろうか。私は1つの不安を抱えていた。それは今日の目的地であるスフバートルには泊まるところがあるのだろうか、ということ。なぜなら以前この駅を車で通ったことがあったのだが、その時ホテルがあったという記憶がなかったからだ。スフバートルと言えば、モンゴル建国の英雄だが、その名が付いた街は、確かかなり寂しいところだったことを覚えている。

 

スフバートルで

そして午後8時前、列車はスフバートルに入った。予想通り、あまり明るい街ではない。乗客もかなり減っており、不安が高まる。列車はスーッとホームへ入るが、ホテル、という建物は見えなかった。駅も暗い。人はどんどん歩いて行ってしまう。Nさんが率先して、ホテルを探しに出て行った。この駅にも改札はなく、いきなり外へ出てしまう。駅前には白タクがおり、客に声を掛けている。中には『ウランバートル』と叫んでいる者もおり、ここからどこかへ行く人が降りる駅らしい。Nさんの『ホテルらしきところを発見しました』という言葉を聞き、ホッとした。

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だがそこへ行くとドアは閉まっており、横に雑貨屋に灯りがあった。呼ばれてやってきた女性も『あっちに行って』という感じで指を指す。仕方なく、もう1つの建物へ行くと、そこはパン屋だった。美味しそうなパンが並んでいるなと思ったが、部屋は別の入り口から入るとのこと。何とか言葉も通じて、3人部屋を確保することができた。ネットも辛うじて繋がっている。だが、お湯は出なかった。ボイラーはあるのだが、壊れているらしい。これにはがっかりした。この辺の人はシャワーを普通に浴びないのだろうか。

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腹が減ったが、午後9時まででパン屋は閉まってしまった。周囲を見渡したが、その横のパブに入るしかなかった。それほど寂しい駅前だった。そのパブにはモンゴル人の若者が数人おり、かなりやかましかった。かなり酒が入っている。その内、若夫婦らしい2人が派手に口喧嘩を始めた。ビックリするぐらいの大音響。我々は隅でこそこそと食べ物が来るのを待つ。ここもステーキとかフライドチキンなどしかなく、何とかサラダを食べて繋いだ。脂っこくて、腹がもたれた。夫婦喧嘩は外へ出ても続いていた。

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3月11日(金)

キャプタへ 翌朝は寒かった。駅前の閑散とした雰囲気が寒さを増していた。キャプタ行のバスでもあるかと思って聞いてみたが、誰もが首を振る。バスの姿も全く見えない。国境へ行くやつなどいないよ、と言わんばかり。周囲には数台駐車された車があり、これが白タクとなっているように見えた。その1台に声を掛け、『キャプタ』と叫ぶと首を振られてしまう。そして向こうの車を指したので、そちらで聞くと『行く、一人15000tで』という。急いでホテルをチェックアウトして車に乗り込む。朝ご飯が食べたいと言ったのだが、まずはガソリンスタンドでガソリンを入れる。彼らは金が入って初めてガソリンを入れるらしい。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(8)モンゴル国内列車に乗る

夕飯で

それから街を少し歩く。通りはそれほど変わっている感じはないが、若い女性の化粧が非常に韓国人に似てきている。これも韓流ドラマの影響だろうか。韓国の化粧品会社の上手な戦略の影響だろうか。まあオシャレになってきているのは間違いない。モンゴルの人口は300万人もいないのだが、その半数はウランバートルに住んでいると言われている。寒くても、人がそこそこ歩いているのは嬉しい。それにしても、ウランバートルは高原で標高も高い、ということがよくわかるほどの寒さだ。昼間でも零下10度以下であり、体感温度はもっと低い。スーパーなど室内に入るとそれだけでほっとした。S氏は今晩と明日の列車のために食料の買い出しをしていた。酒とつまみが多かったが、パンなども買っていた。私もそれに倣ってパンだけ買っておいた。

 

一度ホテルに帰り、休む。電気ポットがあったので湯を沸かして茶を飲むと落ち着く。暗くなってから食事に行くことになり、また外へ出た。今日は現代モンゴルを見る、ということで、敢えてパブレストランに入ってみた。入口ですでに酔っぱらっているモンゴル人とすれ違った。何となく怖い。店内は洋風で、モンゴルの雰囲気はない。こちらでもメニューはフライドポテトなど、酒のつまみ的なものと、肉類。ビールとスープ餃子を頼んでみる。周囲の客は女性も酒を飲み、肉に食らいつく。とてもモンゴルらしい、といった感じはなかった。ウランバートルはソ連以降、洋風化が定着しているのだ。

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夜の街にはカラオケ屋などもあり、酒飲みはとっては何とも楽しそうなところだった。寒い中でもパブの電気だけが煌々とついている。寒さは極限に達しており、尋常ではなかった。スマホでは気温が零下25度と表示されている。これから北へ行けばもっと寒くなる、とは実は思わなかった。前回の経験では、ウランバートルは高地にあり、ここから北へ下っているので、緯度は上がるが気温は上昇することに期待した。部屋に帰りシャワーを浴びようと思ったが、お湯が出なかった。昨日も一晩入っていないので、入りたかったが、体を拭くだけにとどめた。これももはや想定内だった。

 

3月10日(木)

モンゴル国内列車に乗る

翌朝はゆっくり起きた。やはり寒さで体力が奪われていたのだろう。きりっとした寒さの中、ホテルの周囲を散策したが、特に面白いものは見付からなかった。今日の列車は11:30発。食事をどうするか迷ったが、朝飯が食べられるような場所も見付からなかった。10時過ぎにホテルをチェックアウトして、駅前の食堂に入る。おじさんたちが茶を飲みながら話し込んでいる。おじいさんが一人、遠くからそれを見つめている。その後話の輪に加わる。これはどういう状況なのだろうか。草原の掟のような雰囲気が何ともおかしい。

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私はどうしても食べてみたいものがあった。ハンバーグの上に目玉焼きが乗っているもの。名前は分らない。ハンバーグは当然羊肉だろうから、これはモンゴルとソ連が融合した食べ物と見えた。ご飯も付いたセットで出てくる。何だかチンしたような温かさだったが、味は悪くなかった。ただ食べ過ぎると消化にはよくないようで、腹が重たかった。そのまま、荷物を引いて駅に向かった。すでに列車はホームに入っている。

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駅に入るところに日の丸が見えた。モンゴルの鉄道は2001-04年、日本の援助でメンテナンスが行われたようだ。我々はミャンマーで線路のメンテの重要性をいやというほど味わっている。こういう支援は素晴らしいな、とつい思ってしまう。これからその恩恵に預かるわけだし。国内列車の車両は大丈夫だろうかと心配したが、杞憂に終わる。ロシア製の長距離列車の車両が使われており、三等車と言いながらも、寝台車だった。ベッドは二段で、通路の反対側にも席があり、その上下にもベッドが作れた。こんなのは初めてだった。

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乗客が次々に乗り込んできて満員になる。通路側の席にはお婆さんと幼い孫娘がのっており、その母親が最後まで付き合っていたが、発車間際に降りて行った。当然女の子は大泣きしたが、お婆さんがうまく宥めて、そのまま眠りに就く。どういう事情だろうか。前の席には文化人と思われるおじいさんが、本を読んでいる。その本はモンゴル文字と、ロシア文字が併記されており、何とも難しそうに見える。しかしこの列車はやはり国内の普通列車だった。2-30分経って駅に着くと人がおり、また乗ってくる。席は目まぐるしく、乗客が変わる。

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少しすると、車掌、いやスタッフがお茶とコーヒーのパックを持って現れた。何と三等車なのに、無料であった。お湯とカップもくれるので、お茶を飲んでみる。インスタント茶で、フレーバーが効いている。まあ無料だからこれで十分だ。乗客はインスタントコーヒーを飲む人の方が多いように見えた。その内、車内ワゴンが回ってきて、販売も始まった。飲み物も多いが、韓国風海苔巻きなどもあり、なかなか充実している。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(7)ウランバートル 寺院とお茶の関係は

 S氏は言葉が通じない場所での切符の買い方には慣れている。行きたいところの駅名を書き、窓口で見せる。若い女性はなんとか英語を使おうとしているが、分り難い。外国人がここで切符を買うことなど珍しいのだろう。いや、鉄道ファンでもなければ、ここから鉄道に乗ることもないのかもしれない。我々が乗るのは国内線、ロシア国境の街、スフバートルまでだから、なおさら難しい。何とか筆談して、料金が表示された。S氏が『ここは一番安いのでいいですか?』と聞いてくるので、不安はあったが、思わず頷く。まあ9時間だから、大丈夫だろう、と強気になる。モンゴルの三等車、どんなのだろうか。明日が楽しみになるほど、余裕が出てきている。

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駅前でホテルを探す。これもS氏の基本だ。閑散とした駅前だが、ホテルという文字は見えた。この時期はオフシーズンなので、すぐに見つかると思ったが、最初に訪ねたところは提示された料金は意外と高かった。2軒回ったが、他になさそうなので、民宿のようなところに決めた。フロントに『レセプション』という英語が書かれており、若い女性は英語ができた。3人部屋はなかったので、私は一人になる。1部屋5万t。これは少し高いがやむを得ない。部屋はそこそこに広く、暖房は聞いているので問題はなさそうだった。

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カンダン寺

外は晴れてはいたが、相当に寒い。日差しがあるうちは良いが、日が暮れると恐ろしく寒そうだった。ウランバートルでやるべきとはあまりなかった。万里茶路に関する遺跡も残っているという話はなかった。ただ駱駝隊はモンゴル高原では、野宿していたが、ウランバートルのような街では、寺院に宿泊していた、との話が耳に残っていた。だから、ウランバートルで一番有名なカンダン寺に行ってみることにした。

 

カンダン寺には数年前にも行ったことがある。その位置は、駅からほぼ真北にあった。これはやはり昔の名残だろうか。以前の社会主義的な団地が並ぶ道。雪が凍って滑りやすい。寺に向かって歩いていくと、ソウルストリートなる道があった。サムソンの事務所などがあるようだ。そういえば東京ストリートもあったな、この街には。さほど遠くないところに寺はあった。前回は夏に来たので、結婚式の写真撮影が行われていたが、今はコートをまとった人々が寒そうに歩いているだけ。ハトも心なしか寒そうに飛んでいる。

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本殿の方は新しい雰囲気なので、横にある古い廟を訪ねる。こちらには各種マニ車が置かれており、この寒さの中、チベット仏教徒がきちんとお参りしている。中には五体投地を始める男性もいた。坊さんもこちらにいるようで、たまに出てきて祈っていた。このあたりに茶葉を積んだ駱駝隊が荷を下ろして休んだのだろうか。しかしチベット仏教徒であれば、漢族ではなく、モンゴル人ではないのだろうか。

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もしやすると、漢族、例えば山西商人と、モンゴル商人が共同で茶葉を運んでいたのでは、と思ってしまう。鄧九剛先生にこのあたりのことを尋ねたところ、『その可能性はある』との回答だった。寺は商人や貴族からの寄進で成り立っていた部分があるから、それも頷ける。日本のように仏教と茶が密接に関係しているのとは違い、こちらは商人と寺院が密接に関係しているように思える。まあどこでも寺を維持するためには強力な支援者が必要ではある。

 

お寺とお茶の関係を示すものを探したが全く見付からない。仕方なく、モンゴル人がよく飲む、ブロック型の磚茶の売っているところを探した。しかしモンゴルでも都市部では既に磚茶を飲まずに、紅茶のティバッグを飲むのが主流になっており、普通のスーパーでは見かけなくなっている。唯一あったのが、寺の横にあった仏具店と雑貨店。やはりお寺で使うお茶はこれなのだろうか。また真の仏教徒は家でもこのお茶を飲むということだろうか。そういえば、モンゴル伝統の祈りの場には、この磚茶が供えられていることが多い。モンゴルでもソ連の傘下にあった時代、宗教は弾圧され、寺は荒れていたと聞くから、ことは複雑かもしれない。

 

体が冷えていたので、寺の前にあった店に入る。ミルクティーを飲むためだ。靴がかなり濡れており、床がびしょびしょになってしまった。それほどに外と中に気温差があった。室内は本当に暖かい。スーヨーチャ、というと何となく通じた。だがそのお茶は既に作られてポットに入っており、カップに注ぐだけだった。何だかつまらないが、これが現代モンゴルだろう。300t。庶民の飲み物だ。味はゲルで飲むほど濃厚ではないので、私にも飲みやすい。水分補給という感じが強い。後から入ってきた男はどことなく怪しかった。何も頼まずに時折こちらを見ている。スリではないか、との見方もあったが、どうだろうか。

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シベリア鉄道で茶旅する2016(6)哀愁漂う駅の物売り

 3月9日(水)
4. モンゴル
ザミンウデから

それにしてもエレンホトでも博物館に行けなかった。ここも駱駝隊が休息した宿場があった場所。万里茶路的には降りてみたいところだったが、何しろ警戒厳重な国境であり、我々国際列車の乗客に自由はなかった。高い金を払って自由がないとは理不尽だと思ったが、何とも仕方がない。列車が動き中国を離れると、完全に気が抜けてしまった。やはり陸路の国境越えは何といっても緊張するものだ。ウトウトしていると、モンゴルの最初の駅、ザミンウデに到着した。こちらも真っ暗で何もない。

 

そして今度はモンゴル人のイミグレ職員が乗り込んできて、パスポートを回収した。列車を降りて、列に並んで入国手続きしないというのは、優遇されているということなのだろうか。眠気に負けて寝入る。そこへ女性が入ってきた。税関職員だという。ちらっと部屋の中を見て、すぐにOKと言って出て行ってしまった。国境というのは写真を撮るのにも気を遣う。しかも暗い。ほとんど何もしないうちに、手続きが終わり、また列車が動き出す。

 

S氏とNさんはお酒が好きで、いつも酒とつまみをやっている。私は飲まないので、すぐに眠たくなる。既に午前2時、横になるとあっという間に意識がなくなり、気が付くと、薄暗い中、どっかの駅に停車した。午前6時、文字が読めない。後で調べると、サインシャイドという駅だった。それから周囲は徐々に明るくなっていった。窓の外から見えるのは、雪が積もった草原ばかり。勿論ここがどこかも全く分らない。時々小さな家が見え、また時々羊の群れがいた。のどかというより、荒涼とした、寒々とした風景が広がっていた。こんなところを茶葉を載せた駱駝が隊列を組んで歩いていったのだろうか。

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10時頃に駅に着いた。チョイルという名前。この駅の次に停まるのは終点ウランバートルだった。駅と言ってもふきっさらしのホームがあるだけ。乗っているのにも飽きたので、降りてみたところ、その寒さは半端ない。天気が良いので分らなかったが、風が強いこともあり、体感温度は零下20度以下ではなかっただろうか。そんな中で数人のおばさんがカートを押して、何かを売っていた。言葉は通じない。中身を見ると、飲み物やカップ麺だった。横には弁当箱のようなものがあった。中を開けると包子が湯気を立てて出てきた。ショーホー、と言っているように聞こえた。いくらか分らなかったが、これまでモンゴルの通貨に両替できそうな場所などなかった。

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人民元しかないので、10元札を出すと受け取ってくれた。なんだかうれしかった。このおばさん、全く商売になっていない。何しろ乗客が殆どいないのだから仕方がない。これで生計が立てられるのだろうか。一日に1本列車が通るかどうか、他人事ながら心配になる。この寒風吹きすさぶ中、帽子をかぶり、マフラーを巻き、重装備の服装で寒そうに立っている。そして何より哀愁、という言葉が絵になる。列車に戻り、急いでショーホーを開けた。羊肉がジューシーだった。ちゃんと作っているんだね、おばちゃん、有難う。そんな感じだった。

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その後廊下を歩いていると、いい匂いがしてきた。何と洗面台で中国人車掌が野菜を切っていた。そして中華鍋で調理をはじめたのには、驚いた。実はモンゴル国境で台車を付け替えたが、その際食堂車も付け替えたらしい。昨晩のあの安い中華食堂が一変、豪華なモンゴル食堂に変わっていた。そうなると、中国人はそこでは食事をしないので、自炊することになる。因みに服の洗濯をしている車掌もいた。ある意味でここは生活圏なのである。

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その豪華食堂車に行ってみた。その内装はモンゴル風でもあり、ヨーロッパ風でもある。これぞ、国際列車、という雰囲気を出していた。だがメニューを見ると、ロシア風の肉料理などばかりで、モンゴル料理は何もなかった。料金も昨日の中華食堂とは大違いでかなり高い。すごすごと引き返した。食事をしている人も殆どいなかった。午後2時にはウランバートルに着くのだから、当然かもしれない。

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切符とホテル

列車は全く遅れることもなく、定刻の午後2時半にはモンゴルの首都ウランバートルに着いた。この駅はこの街の端にあり、列車から急にビルが立ち並ぶ大都会が見えた。私は過去2度来ているので驚きはなかったが、列車から街を眺めると、その薄っぺらさがよく分かった。駅は立派に見えたが、白人乗客を迎えに来たガイドぐらいしか人はいない。汽車の展示があるぐらい。改札もなく、すぐに外に出られた。

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S氏はいつものように『まずは次の切符』というので、駅に入ろうとしたが、締め切りだった。張り子のトラ?モンゴルの通貨トゥグルグも持っていない。両替所も全く見当たらない。駅の横に建物があったので、文字は読めないが、何となくここかな、と入ってみる。外は寒かったが、中は暖かかった。人もおり、ここが切符売り場であることが分かった。S氏はATMでキャッシング、私は両替所で米ドルを出して、両替した。モンゴル滞在は短いので、最小限の両替に留めたが、切符の代金すらわからないのでかなり困った。

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ミャンマー激走列車の旅2015(15)這ってミャンマーを脱出

 そこへタクシーの運ちゃんがやってきた。何と金を払えという。しかもあんなに近いのに6000kも要求してきたので『そんなの聞いていない』と突っぱねると、彼は怒りだした。それでも無視していると、携帯でホテルに電話した。私に携帯を押し付け、『話を聞け』という。だがホテルの人の英語も殆どわからない。何となく『お金を払ってほしい』というニュアンスは伝わってくるが納得いく説明はない。『支払わない』と言い電話を切った。運ちゃんがまた怒り出す。

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今度は彼の上司という人が電話に出た。流ちょうな英語を話したので内容は分った。だが6000kは高過ぎるというと、『ラショーはヤンゴンとは違うのだ。空港までの送迎ルールなんだ』と優しく言う。そういわれると、そうかなと思うが、ここまで突っぱねた以上、急に折れたくない。最後は上司がここまでやってきて、『何とか払ってやってくれ』というので、半額で折り合いをつけた。それがよかったのかどうかわからないが、まだまだミャンマーの田舎には外国人料金が存在し、その料金は安くはないことがよく分かった。

 

それからずっと待っていたが、いつになっても呼び出しはなかった。フラフラと外を歩いていて戻ると、いつの間にか我々の荷物はリヤカーに積まれ、運ばれていった。乗客もゲートを潜り、中に入っている。もうすぐ搭乗なのだなと喜んで、滑走路のある方に向かう。何となく難民の逃避行のように見えた。その先にはターミナルビルがあり、ちゃんと荷物検査もしていた。それが終わると、待合室に入る。外には小さな滑走路。すぐに飛行機が飛んで来るものと待ったが来ない。思わず外へ出て滑走路の脇で写真などを撮るが咎める者もいない。南国の怠惰な雰囲気が流れている。

 

待合室でお菓子をボリボリ食べている中華系のおじさんがいた。ポロシャツ、短パン、サンダルの軽装である。気になって見ていると向こうから話しかけてきた。それも英語だった。『日本人だが中国語はできるよ』というと、驚いて中国語に変わる。このおじさん、ミャンマー語、シャン語、英語、中国語などを自由に操っている。聞けば、元はミャンマー軍に所属しており、今はNPOの仕事をしているらしい。興味深いので、ミャンマーと中国のことについて色々と質問した。それに対して、実に具体的な回答が返ってきたので、益々興味を引かれた。

 

我々はもう一度待合室を移動した。なぜこんなことをするのかわからないが、今度こそ飛行機が飛んできた。自分の足で飛行機まで歩いていき、後ろから乗り込む。機体は非常にきれいで、CAの英語も洗練されている。軽食も出た。既に乗りこんでいた乗客はタウンジーから来たらしい。おじさんと隣同士で座り、話の続きを聞く。何だか話は盛り上がり、今日はタチレイの彼の家に泊まる、というところまで来てしまった。おじさんは仕事でシャン州へ行くが家はタチレイにあるらしい。アジアの旅ではこんなことがたまにはあるが、今回は体調が非常に悪いのでどうしようかと躊躇する。

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僅か50分のフライトでタチレイの空港に着いた。ここも小さな空港だった。おじさんには荷物はない。私は預けた荷物を待っていたが、リヤカーで曳かれてきた荷物に乗客が殺到してもみくちゃに。しかもミャンマー人は職員に小銭を渡している。私は何もせずに荷物をとったが、何も言われない。おじさんには迎えが来ていた。若い奥さんだった。車に乗せてもらう。車内では夫婦で口論が始まっていた。おじさんは2か月ぶりに家に戻った。そこへ見ず知らずの日本人が一緒だったので奥さんがへそを曲げたらしい。それはそうだ。

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『家の片づけができていない。今晩は俺がホテルをとってやるからそこへ泊れ。食事はうちで食え』などとおじさんは言うが、体調を考えて、『今日メーサイに渡りたい』と切り出し、奥さんが安堵する。本当はタチレイ側に一泊したかったのだが、行きがかり上、仕方がない。そして空港からタチレイの街を通り抜け、国境のゲートの前まで送ってもらった。空港からの交通手段がなかったので、これは実にありがたかった。おじさんと記念写真を撮り、別れた。ようやくミャンマーともお別れだ。弱った体を引きずり、ミャンマー側のイミグレ手続きをして、橋を渡る。なぜか疲れは倍加した。荷物が重く感じられ、腰は益々痛くなってきた。

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タイ側国境を越え、国境沿いに歩いていくとホテルがあったのでとにかくそこへ入り、休息した。ここから私の療養生活が始まった。4日間、腰の痛みに耐え、食欲のない状態で、ポカリスエットを飲んで過ごした。こんなことは放浪生活でも初めての経験だった。今回の旅を振り返ると、その旅の壮絶さは予想をはるかに上回り、そして『本当の旅とは何か』を考える機会が与えられた。私はまだ甘かったのだろうか。

ミャンマー激走列車の旅2015(14)ラショーで置いていかれて

 7月30日(木)
休息日 離脱

翌朝目覚めるとNさんが心配そうに声を掛けてくれた。そして昨晩念のために買っておいてくれたまんとうを渡してくれた。何とも有り難い。だが食欲は完全になく、動くことも出来なかった。布団をかぶったままだった。S氏とNさんは予定通り、今日のバスで次の目的地、タウンジーに向かうという。その強靭な体力と何より精神力には脱帽だ。タウンジーまでのバスは夜行便で10数時間はかかるはずだ。私はとても行けないので、ここでお別れすることにした。正直、ホッとしていた自分がいた。

 

最後に一緒に麺を食おう、というので、外へ出てみた。意外と体が軽くなっていたのは、気持ちの問題だったろう。だがやはり食欲はなく、麺をかなり残してしまった。托鉢している子供僧を邪険に追い返している店主がいた。一体どちらが悪いのだろうか。とても気になってしまった。体が弱っていると、自分の心も揺れていた。ホッとする自分と捨て置かれる自分、しかし体は言うことを聞かなかった。午前中にS氏とNさんは迎えのソンテウに乗り、バスターミナルに去って行った。呆気ない別れだった。残された私は部屋を変わった。それでも30ドル。10ドルしか違わなかったが、そこにはお湯を沸かせる機械があったので助かった。

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その日の午後はずっと寝ていた。私は3人部屋でもすぐにぐっすり寝られるタイプではあるが、やはり一人で寝る方が格段に気楽である。そして何より時間を気にせず、揺れを気にせず、寝られることは大きかった。ただいつまでここに居るのかが問題だった。2-3日、このまま静養してもよいのだが、このラショーという街には何もなかった。環境も抜群というわけではない。少し体が楽になっていたので、明日ミャンマーを脱出してタイに移動することを決意した。

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フロントへ行くと、旅行会社に電話してくれ、明日のタチレイ行きチケットを手配してくれた。S氏もこの方式でバスチケットを入手していたので、安心できた。100ドルを超える出費は痛いが、元気であってもヤンゴンまでバスで戻る気にはなれないし、タチレイまで外国人はバスに乗って行けないことも分っていたので、まずは順当な方法として、採用したまでである。タチレイまで行けば国境を越え、タイのメーサイへ。そこからは夜行バスでも、チェンライから飛行機でもバンコックに戻ることができる。この手配を終えると本当に安らかな眠りに就く。腰は未だ痛いが寝返りさえ打たなければ、問題はない。

 

7月31日(金)
ラショーを去る

翌朝の目覚めは悪くなかった。体も楽になったが、腰が痛いのでやはり動きは遅い。お茶を飲んでいると腹が減ってきた。昨日は殆どものを食べていなかった。外に出たが、ホテル前でやっているはずの屋台の麺屋は休みだった。いや、まんとう屋も他の店も閉まっている。ラショーの旧市街で一番目立つのはモスクだった。あれを見たとき気が付いた。今日は金曜日、イスラム教徒はお休みなのだと。そしてこの街にイスラム教徒が如何に多いのか、を実感する。

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ウロウロしていると一軒だけ開いている店があった。そこで麺を頼んだのだが、漬物は付いているものの、やはりこれは中華麺だった。華僑がやっている店に金曜日は関係ないのだ。いや、恐らく年中無休だ。それが華僑、華人なのだ。中国国境に近いこの街でも経済を牛耳っているのは華人であろう。マイノリティなのに何ともたくましい存在だ。久しぶりに食べた中華麺は美味しかった。

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それから市場をぐるっと回ってみた。茶葉も売られているが、これというものは発見できなかった。もう何年も前にTAMとここを一緒に歩いたことを急に思い出す。バロン族の花売りの写真を撮ったのだが、あのバロン族とはパラウン族とは違うのだろうか。パラウンならこの近くにたくさんいるし、何よりお茶作りをしている人が多いから、今なら非常に興味が沸く。だがそれを質問する相手はいない。何とも寂しさを感じる。

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ホテルに戻り、チェックアウトの準備をする。ホテルで空港への行き方を聞くと、タクシーを呼んでくれた。昨日S氏も迎えのソンテウが来たので、同じ要領だと思った。飛行機代も安くないので旅行会社が空港送迎をつけていると、思い込んでいた。空港は一体どこにあるのだろうか。遠いのだろうか。何もわからなかった。ただタクシーに乗り込んだ。旧市街を抜け、新市街に入った。そしてそこを抜けるとすぐに曲がった。そこに何とも小さな空港があった。初めは空港とは分らなかった。車を降りると係員が来て私の荷物を持っていく。チェックインカウンターはなく、チケット売り場のようなところでチェックインが行われた。

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この小さな建物の他には掘っ立て小屋の屋台があるだけだった。そこでは簡単な麺が食えるらしい。トイレすら見付からなかった。既に人はそこそこ集まってきていたが、椅子に座り切れない人も出ていた。その向こうにゲートがあり、門をくぐると滑走路があるようだったが、ターミナルビルすら見えなかった。地方空港でもここまで簡素な例を私は見たことがない。

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