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カンボジア・タイ 国境の旅2016(13)ブランドホテルに泊まるも

 82日(火)

翌朝はゆっくり起きる。やはり歩き回るとそれなりに疲れてくる。ホテルの朝食ではお粥とスープを取ったが、このスープが何とも優しく旨かった。タイのスープは辛めのものもあるが、大根などの根菜を煮込んだ、煮物のようなものもある。朝から食べ過ぎの気もするが、食べられる時に食べておく、それは旅の鉄則かもしれない。

 

11時前にホテルをチェックアウトして、パタヤへ向かう。フロントで聞くと、やはりバスターミナルからバスに乗るのがよいという。親切に教えてくれたうえ、ターミナルまでホテルカートで送ってくれた。これは本当に助かる。1㎞以上の道のりを荷物を引いていくのはかなり大変だから。ターミナルではパタヤ行バスがすぐに見つかり、120bで乗り込む。ロットゥは本当に便利な乗り物だ。

 

1時間半、昨日と同じような風景の中、バスは国道を走っている。結構乗り降りがあり、チャンタブリー‐ラヨーンより幹線であることも分る。ロットゥは私を国道脇で落とした。ホテルでも丁寧に『ロットゥを降りたら、トゥクトゥク乗り場へ行け。ビーチ付近まではかなり遠いよ』と説明されていた。バス停付近にはバイタクのおじさんたちがいたが、私には見向きもしなかった。こちらから声を掛けてみても、『そこで待て』と素っ気ない。

 

そこへ一台のソンテウがやっていた。ビーチまで20bで行くと聞こえたので、後ろに乗り込んだ。バイタクのおじさんがなにか叫んだが聞こえなかった。途中で中東系の一家を更に乗せたトゥクは幹線を左折し、街のような通りを通り過ぎ、ホテルなどがあるところを走っていく。私はどこへ泊ろうかと目を凝らしたが、いつまで経っても停まらないので、こちらから合図した。

 

6. パタヤ
豪華なホテルに泊まるも

ソンテウを降りて20bを支払おうとすると、運転手がすごい剣幕で200bと言っただろう、言い出す。これには驚いた。確かに20bは安すぎるのかもしれないが、200bとはまた何とも高い。観光地のボッタくりだ。こちらも引く気はなく、にらみ合いが続く。後ろに乗っている中東系も、何が起こったのかと、興味深そうに見ている。私は運転手に20bを押し付けるように渡し、彼はそれをかたくなに拒否した。5分位そうしていたら、彼は捨て台詞を残して去って行った。20bは最後まで受け取らなかった。

 

何が正しいのかよくわからないが、タイの観光地、プーケットもチェンマイも、このような交通利権が蔓延しており、折角楽しい観光に来た人が嫌な思いをする。わざと交通を発展させず、古くからの利権を守る人々、タイも時代が変わり、このような状況を是正しなければならないはずなのだが。特に物価が上がってきた今日、昔のような安いから許す、というレベルではなくなってきている。

 

さて、ここはどこだろうかとみると、ビーチ方面は高級リゾートホテルが並んでいる。ビーチの北のはずれに近いらしい。またここから交通手段を見付けて乗るのは、さっきの経験から言って、あまり好ましくない。仕方なく、一番安そうなフランス系のホテルへ行ってみる。ところが『本日は満員です』というではないか。さすがパタヤ、平日でも混んでいる。フロントで聞くと、系列ホテルが後ろ側に2つあり、すぐ前の方が、それほど高くないというので行ってみる。

 

そこは昔ジャカルタで泊まったことがある、ちょっとおしゃれなホテルだった。フロントの愛想もよいのだが、料金は2500b。これまで泊まってきたホテルの3倍近い。まあ、1泊ぐらい経験だと思い、チェックインすることにしたのだが、朝食も付けて、最終料金は2900bにもなっている。これまでのホテルは税サも込みで、話しているのだが、ここではルームレートのみ。ちょっと後悔したが、今さら仕方がない。

 

その部屋からはパタヤのビーチが見えたのでちょっと満足したが、広くもなく、機能的にもすごく優れているようには見えない。これで3倍払うのなら、ラヨーンのホテルに戻りたい。観光地価格、ブランド価格、色々とあると思うが、このような形で比較すると、どのホテルが価格に値するのか、もう一度見直す良い機会となる。

 

街歩き

既に昼を過ぎている。腹が減ったので、外へ出た。先ほどロットゥを降りた時はトラブルで気が付かなかったが、唐人街なる場所があった。ランチでもと思ったが、なんとも観光客用の場所で面白くないし、客も殆どいなかった。ふらふら歩いていくと、通りの横道でタイ料理の屋台などがあったが、何となく麵が食べたくなり、そこも通り過ぎた。観光地で一人ご飯は意外と難しい。

 

誰も観光客など通らない道に麺の屋台があり、そこで食べた。ある意味で、わざわざ観光地まで来て、どこでも行けるような屋台に行くのはどうかとも思うのだが、それが私の旅らしい気もする。おばさんも英語などできないが愛想がよく、好ましい。具もたくさん入っていて60bは安いのか高いのか。外で食べるのは暑かったが、それもまたよい。

ファミマで水を買い、ビーチサイドを少し歩いて見たが、やはり暑いので疲れてしまった。自分には観光地は面白みがない、ということだろうか。歩いていてもウキウキしない。高いホテルの部屋でホテルライフを楽しむ方がよさそうだった。だがプールへ行きたくとても、水着も持っておらず、一人で何をしているのかと、いやになる。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(12)ラヨーン 驚きのホテルサービス

5. ラヨーン
驚きのホテルサービス

時刻は1時近かったのでまずは腹ごしらえをしようと、その辺の店に入る。そして定番のカオマンガイを頂く。腹が減っていると特にうまい。ガイドブックを取り出すと、この大通りがパタヤを通過してバンコックまで行くことが分かった。明日はパタヤへ行こうと思いながら、まずは今日の宿の確保だ。バンコック方面に歩いていくと、日本人出張者が多く泊まるホテルがあると出ていたので、それを目指していく。

 

ところが荷物を引いて大汗をかいても、なかなか着かない。段々建物が少なり、心配になり出しても、ホテルは見えなかった。15分以上歩いて疲れ果てた頃、目指すところとは違うが道端に一軒のホテルがあったので、そこへ飛び込んでみた。こぎれいなホテルだったのでここに泊まろうとフロントで声を掛けるとなんと『今日は満室です』と英語で返ってきた。そんな馬鹿な、こんな外れたホテルがなぜ、と言っても仕方がない。疲れも手伝い完全に途方に暮れた。

 

念のため、当初目指していたホテルの場所を聞くと、『通り過ぎていますよ』と教えてくれ、『あそこなら空いているかもしれません』と言って、私のスマホの電話機能が壊れていることを知ると、自ら電話をしてくれた。そして『空いていましたよ、1100b/泊ですが、良ければ予約しますよ』とまで言ってくれる。有り難いと思い、予約してもらう。私が礼を言って歩き出そうとすると『ちょっと待って。うちのホテルカートでお送りします』とまで言い出す。

 

正直タイで、いやアジアでも宿泊客でもない人間に、ここまでサービスしてくれるホテルがあるだろうか。疲れ果てた外国人を見かねてしてくれた行動だろうが、これぞタイのおもてなし、と言ってもよいのかもしれない。ホテルカートは実に快適に道を走り、5分もしないうちに目的のホテルに到着した。運転してくれたスタッフも笑顔で去っていく。次回はぜひこのホテルに泊まってみたいと思わせるに十分の出来事だった。

 

更には到着したホテルでチェックインしようとすると、なぜか『あなたの予約した部屋は1100bではなく、950bでよい。もし大型ベットを希望すれば1300bになるがどうか』と聞かれ、迷わず安い方にした。え、こちらのホテルでもおもてなし?恐らくは競争が激しい地域なのだろう。部屋に行ってみると、周囲に高い建物もなく、部屋は相当に広く、NHKのワールドプレミアまで見られて、朝食も付き、バスタブまで完備されていて、日本円で3000円程度とは、多少古いホテルとはいえ、有り難いことだ。

 

街歩き

電気ポットがあったので、お湯を沸かし、インスタントコーヒーを飲んでみる。普段日本なら飲むこともない砂糖とミルク入りの3in1というタイプだが、これが東南アジアで疲れた体に入れると実にうまく感じられる。やはり飲み物はその土地と大いに関係している。最上階の廊下の窓からはラヨーン市内が一望できる。高いところは嫌いだが、何となく晴れ晴れしていて、心が落ち着く。

 

街歩きに出た。まだ暑い時間だったが、この街にいるのは正味半日だから、特に観光地はないと思うが、一応歩いて見ることにする。まずはバスターミナルの確認。目印になるテスコまで行き、その横を通り過ぎると、大型バスが通っていく。その先にターミナルがあり、当然ながらパタヤ行は頻繁に出ていた。直接バンコックに帰るにしてもかなり近づいている。ちょうど下校時の中高生で付近は溢れかえっていた。

 

ふらふら歩いていくと道路沿いには大きな病院があり、ここもかなりの人がいた。その先を少し入ると静かな寺院が見える。ここがワット・プラドゥーという、有名な涅槃仏の横たわるお寺らしい。中に入って見学すると、優し気な眼差しを持つ仏だが、何となく違和感があった。バンコックのワット・ポーなどいくつかの涅槃仏を拝む機会があったが、ここの仏は寝姿が普通と反対だった。これはタイでも極めて珍しいようだが、その理由はしかとは分らない。

 

この寺の敷地は広いが、本堂横にはなぜかウルトラマンが飾られている。タイのお寺で可愛らしいマスコットのような像が置かれているケースはまま見るのだが、ウルトラマンが登場したのは初めてだ。この理由も全く分からない。誰かが寄進したのだろうか。境内を散策後、外へ出る。近くには年代物の時計台があり、この辺が昔はどういう位置づけだったのか考えてみたが、思い浮かばない。

 

もう一つのお寺はひっそりとしていた。そこにはタクシン神社とも呼ばれる廟があり、中にはタクシン王の像が置かれている。タクシン王はここラヨーンに滞在してその後挙兵、トンブリ王朝を打ち立てた人物。彼は華僑だったという。その像の前にタイ人の若い女性二人が座り、熱心に祈りを捧げ、最後にスマホで記念撮影。タクシン王はタイ人にとってどのような存在なのだろうか。どうしてもタクシンといえば、今世紀のタクシンを思い出してしまうが、彼もまた華僑だったな。

夕日が沈むころ、プラプラ歩いて帰り、そしてホテルの上から夕暮れ風景を眺めた。これはなかなか見られない大きな夕暮れだった。暗くなるとホテルの裏へ行く。ここには日本食屋が2軒あった。その一つに入ると日本人がオーナーでタイ人スタッフも日本語ができた。久しぶりにかつ丼が食べたくなり注文。160bはお値打ち品だった。日本人駐在員と出張者、取引先などが食事をしていた。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(11)タイ人と華人のコントラスト

教会を抜けて歩いていくとそこには古い民家が並んでいた。そのままくねくねと進んでいくといつの間にか、川に出た。遠くに教会が見える。そこには宮があった。この辺は華人が住むのであろうか。橋を渡るとまた原石市場へ。なかなか面白い。原石市場を通り過ぎるとそこはチャイナタウン。観光用に整備された雰囲気で、古い家はあるが、きれいになっている。今やアジアのどこでもチャイナタウンはきれいになり、観光地化されている。ちょっと残念な気分になる。

数種類の色の芋を焼き芋にして売っていたので思わず手が出てしまった。売り子はタイ人女性で明るい。こうなると焼き鳥、焼き豚にも手が出てしまい、沢山持ち帰って部屋で食べることになった。この街並、川のすぐ横を平行に走っており、往時はこの川を利用して交易が行われていたと容易に推測できる。原石は川で運んだろうか、いや小さくて価値のあるものは別の運び方があったのではないか。華人は川と共にある、とはバッタンバンも同じだったな。

部屋で結構休息し、夜外へ出たが、飯を食べる場所が意外となかった。結局また麺を食べることになる。だが麺一杯だけではどうしても物足りず、ウロウロと探すと華人系の店があったので入る。そこのおばさんはつっけんどんにメニューを渡し、あまり金にならない客だとみると邪険な対応だった。料理もなぜか辛くて食べにくかった。華人はどこでも厳しい感じだが、タイ人はにこにこしていてこのコントラストはいつ見ても面白い。

 

81日(月)
朝から歩く

朝は早めに起きたが、8時前に外へ出る。何とも解放感に溢れる旅、予定もない、会うべき人もいない、見なければいけないものもない、これがこんなにも気持ちを楽にしてくれるとは正直思ってもいなかった。考えてみれば今年に入り、ミャンマー、ラオス、スリランカ、そして3月のシベリア鉄道+α、4月の雲南ラオス、福建、5月の台湾、6月の内モンゴル、湖北など、比較的激しい旅が続いてしまい、体が対応できない状況に陥っていたのかもしれない。たまにはこんな旅をして、旅の原点に戻り、リフレッシュもしよう!

 

朝ご飯はホテルの横にあるカフェに入ってみた。明るい感じの店、トーストが食べたくて入ったのだが、残念ながら英語が通じず、トーストも砂糖と蜂蜜たっぷりの代物だった。だが対応は丁寧で、コーヒーもゆっくり淹れてくれた。こんな雰囲気もまた嬉しい。この店は靴を脱いで上がるシステム。これがまたタイらしくて好ましい。料金も安くて満足した。

そのまままた散歩に出る。昨日行き損ねたお寺へ向かう。そこには涅槃仏があるというのだが、川を渡り行ってみると、そこは何と昨日も通ったところだった。ただ建物が開いているとは思わず、しかも中に大きな仏が寝ているなど想像もしなかったのだ。だが今朝はまだ早いのかどこにも入る所がない。下で若者に聞くとちょっと待て、という。少し待つとおばさんが花を持ってやってきて、鍵を開けてくれる。中の仏はまだ眠っているように見えたが、目はしっかりと開いている。

それからまた昨日の教会の前を通る。今朝は信者がテーブルを出して食事をしていた。何か集まりでもあったのだろうか。川を渡り、チャイナタウンを抜けたが、人通りは殆どなかった。既に日差しは相当に強く、歩くのも苦痛になる。急いでホテルに戻り、シャワーを浴びてチェックアウトの準備をする。10時過ぎにはホテルを出て、暑い中、荷物を引いて、バスターミナルへ向かう。

この時点までどこへ行くか決めていなかった。一番早く乗れるのがよい、と思っていたが、あまり遠いと疲れるので、それを考慮した。ターミナルでどこへ行くんだ、と声を掛けられ、なぜか口からラヨーンという言葉が出た。自分でもちょっと不思議だったが、地図で見ていたので頭に残っていたらしい。ラヨーンと言えば20年以上前、前の仕事でタイを担当した時、日本企業が沢山進出を始めた場所であり、また石油化学などの産業が発達する機運が高まっていたのをよく覚えている。きっとそのことが頭にあり、行ってみたいと思ってしまったのだろう。確かに一度も訪れたことはなかったはずだ。

 

するとおじさんが今出るロットゥがあるから急げ、という。100bで何とか乗り込む。相変わらず私の荷物は邪魔になるが、誰も文句を言わない。ここがタイの凄いところだと思う。車は快適に国道を走る。後ろの男子三人は中国人、中国語で話している。どこへ行くつもりかと思っていると、1時間半ぐらいで、バンペーというビーチリゾートの島へ行くフェリーターミナルで降りた。ここからサメット島へ行けるらしい。私もここで降りてもよかったが、どうもビーチリゾート気分になれず、そのまま乗車した。車内もだいぶ空いてきて、ポロポロ降りる人も出てきた頃、車は市内に入り、バスターミナルより前で私を下ろして走り去った。ロットゥはどこ行きだったのだろうか。そしてここはどこなんだろうか。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(10)チャンタブリーの原石市場と巨大教会

 4. チャンタブリー
国境を通過して

運転手が車を国境内へ入れる。この車はタイにも自由に行けるのだろうか。そう思っていると車を駐車して、私の荷物を持って先に進む。そこにはこれがイミグレーションかと思うような、誰もいない質素な建物が建っており、カンボジア出国は呆気ないほど簡単に終わってしまった。ああ、やはりこの国境を通る人などいないのだ、と勝手に勘違いしながら、更に先を歩いていくと、次の建物には沢山の人が列をなしている。

 

タイ側の国境にはカンボジア人とタイ人が溢れており、外国人用窓口などあるはずもなく、列の一番後ろに並ぶ羽目になる。運転手はどこかへ行ってしまった。途中なぜかトイレに行きたくなったが、荷物もあるし、列を離れる訳にも行かない。困ったな、と周囲を見ていると、運転手が遠くに立っているのが見えたので、何とか呼び寄せ、列に並んでもらい、トイレを探した。

 

結局30分以上かかって、イミグレのハンコをもらい、無事タイに入国した。運転手の誘導で先に進むと(彼は入国手続きなどしていないのだが)、そこはタクシー乗り場になっており、チャンタブリーまでの料金も明示されていた。運転手が声を掛け、1台の車に荷物を積み込み、そこで別れる。恐らくはそこからチャンタブリー行のバスもあっただろうが、人が集まらないと出発しないと言われ、ちょっと体調も心配だったので、指示に従った。1300bは決して安くはないが、まあ仕方がない。

 

チャンタブリーのどこへ行くんだ、と運ちゃんが聞いた気がする。だがタイ語なので何ともよくわからない。『町の中心』と英語で行ってみたが、彼は首を振り、そして携帯を取り出してどこかへ電話した。電話が繋がると私に携帯を渡す。耳に当てると、日本語が聞こえてきた。『どこへ行きますか』『町の中心のホテルへ』『いくらぐらいのホテルですか』『リーズナブルな料金で』『11000bでいいですか』、こんなやり取りが行われた。

 

一体この人はどこで電話に出ているかと聞いてみるとなんと『横浜』というではないか。実は彼女はこの運ちゃんと妹で、10年以上前に日本人と結婚して日本に住んでいるのだった。何とも便利だったが、それ以上に、このカンボジア国境の街から日本へ渡ったタイ人、その人生に興味を惹かれた。ただスカイプでの会話はすぐに切れてしまい、一体どのような経緯で横浜にいるのかなどは、全く分からなかった。世界が狭くなったのか、日本も国際化したというべきなのか。

 

その後ウトウトしていたら、車は既にチャンタブリーの街に入り、きれいなホテルの前に停まった。運ちゃんに礼を言って別れる。ホテルは本当にきれい、スタッフの愛想もとてもよく、気に入る。料金は1900b、部屋はコンパクトでちょっとロッジ風。窓からは遠くの教会が見える。リゾートホテルのように、吹き抜けの廊下があり、なんとも心地が良い。

 

街歩き
取り敢えずよくわからないので、バスターミナルへ行ってみる。ホテルから真っすぐ10分ぐらい。そこにはタイ各地に行くバスが出ており、明日はどこへ行こうかと迷ってしまう。まあバスが沢山あることは分り、安心して近くの麺屋でお昼ご飯を食べる。肉とすり身が入ったタイの麺、なんとなく懐かしい。カンボジアではやはりコメが主食だったが、こちらは麺もかなり多い。

 

曇り空で歩きやすいと踏み、そのまま散歩へ。大きな公園には池があり、景色がよい。街中へ戻ると漢字がちらほら見えており、やはり国境近辺には交易をする華人の姿が見え隠れする。学校や相互扶助会など、多くの華人が住んでいることが分かる。歩いている人も一目で中国系に見える。

 

フラフラっと迷い込んだ道、そこはかなり異様だった。宝石屋の看板を見たかと思うと、急にインド系やアラブ系の男たちが周囲に目立ち始め、その内ビルの中で、そして屋外で、皆が何かを覗き込んでいた。歩いている人たちも懐に何か忍ばせている。近づいてきた男が私に『これを買わないか』と差し出したのは、よくわからない石ころ。これが宝石の原石であり、ここが原石のマーケットだと理解するのに少し時間を要した。

 

そういう目で見てみると、ここは確かに市場であり、原石を鑑定している風景があちこちで見られる。チャンタブリーは17世紀ごろには現在のカンボジアあたりの山で採れた原石が集積され、世界的なマーケットが形成されていたらしい。それで華人だけでなく、インドやアラブの人々も大勢ここに集まり、商売していたということだ。この辺にそんな宝石が埋まっているのだろうか。そういえば、バンコックでも宝石の売り買いが盛んだったような記憶があるが、いまでもそうなのだろうか。

 

そこから少し歩くと川があり、橋を渡るとそこには大きな教会が建っていた。これがタイでも最大級のカソリック教会だという。初めは300年前に建てられ、1834年に現在の位置に移動、1906年に今の建物になったとある。チャンタブリーの街が300年前にはすでに宣教師が来るような街だった、そして様々な人々が行き交ったことを物語る教会ではなかろうか。それにしても教会内は天井も高く壮麗で、見ごたえがある。タイ人観光客もここを訪れ、感嘆の声を上げていた。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(9)バッタンバン街歩き

雨はスコールで、すぐに止んだ。涼しくなった街を歩き出す。少し行くと古いマーケットの建物が見えてきた。昼下がりで人もいない。怠惰な雰囲気が流れている。市場の外で野菜を売っている若い子は、夢中で勉強していたようだが、疲れ果ててウトウトしている。インド系の女性がワッフル?を焼いていたので、少し買ってみる。この付近も華人が多く、なぜか葬儀用品を扱う店が並んでいた。一度ホテルに帰り、朝が早かったので昼寝した。実に気持ちよかった。

夕方再び、外へ出る。簡易な地図に教会が書かれていたので、橋を渡って行ってみる。教会は街と川を挟んだ対岸にあり、少し距離を置いている印象がある。カソリック教会と書かれた門を入ると、かなり広い敷地。しかし所謂教会のシンボルである礼拝堂が見るからない。奥まで歩いていくと平屋の礼拝堂があった。これは珍しい。その横には写真が飾られていたが、見ると1975年ポルポト軍によって破壊された元の礼拝堂が写っていた。その後再建されることなく今日を迎えているのだろう。近くではクメール舞踊の練習をしている若い女性たちがいた。平和とは何か、をちょっとだけ考えた。

だんだん暗くなる中、本日の夕飯を探した。いくつかの店があり、鍋におかずが並べられている店で、指さしでおかずを選び、ご飯をもらい食べた。彼らも片言の英語は出来たが、意思はあまり通じない。でも飯は誰でも食うので問題はない。筍と豚肉、そして卵を煮込んだカンボジアによくあるおかずは、やはり甘かった。ご飯はどんどん進んでいき、かなり太ったという自覚がある。

730日(土)
博物館は休館

翌朝は早く目覚める。タサエン村の生活が続いている感じだ。朝食はホテルで取る。華人向けのお粥を取り、オレンジジュースを飲み、目玉焼きを焼いてもらい、自分でパンを焼く。妙な組み合わせだが私が食べたかったのはこれだった。食べたい物を食べたいときに食べる。これも気ままな一人旅のいいところだ。

 

そしてまた歩き出す。今日は天気がすごく良い。折角傘を用意してきたのに。目指すは博物館。ここに行けばバッタンバンの歴史が分るだろうと思ったのだが、昨日のマーケットを越えてさらに暑い中、川沿いを歩いていき、歩き疲れた頃に辿り着いたそこは休館だった。土日は休館とのことで、私には見学の機会は訪れず、バッタンバンについても何も変わらないままだった。でもまあいいや。土日は企業も休みのようで、街中の倉庫や会社も閉まっているところが多かった。

ふらふら歩いていると小さい街だ。昨日の雨宿りのおばさんとまた目が合ってしまい、引き込まれるように中へ。今日は土曜日で学校が終わったのか、もうほとんど料理は残っていなかったが、『まあ座れ』という感じで注文も聞かず、有り合わせのものを全部載せて出してきた。たくましい商魂だが、嫌な感じがまるでない。『美味しいだろう』と食べている私を覗き込む。確かに美味しいのだから仕方がない。昨日より1000r安かったのは、やはり残り物だったからだろうか。それでも満足してしまう。

廃線を歩く

一旦ホテルで休息し、夕方また外へ出る。特にやることもなくフラフラしていると、何だか線路が目に入った。あれ、バッタンバンには電車が走っていたのか。だがその線路の上を人が歩いていく。まあ本数が少ないのだろうと思い、その後ろからついていくと、線路に座って遊ぶ子供、何かをしている親子など、不思議な風景が目に留まる。そしてついに線路の上に物が置かれ、有る所では断絶していることが分かる。この路線は既に廃線だったのだ。

行きがかり上最後まで見届けに行くと、確かにある所で見えなくなっていた。あとで見てみると、バッタンバンからプノンペンまでは鉄道を復旧しようという作業が行われているらしいがどうなんだろうか。ADBが支援しているとも聞くが、それは必要なのだろうか。今なら道路を整備してバスを走らせた方がよほど早いように思う。中国はどう出ているのだろうか。

 

バンブートレインという観光用のトレインが走っているらしく、トゥクトゥクドライバーに声を掛けられたのを思い出した。その先はこの状況だったという訳だ。タイまで電車を通す、という話も出ているのかもしれないが、この線路を復活させるのは容易ではないだろう。夕日に照らされた廃線を行く、鉄道ファンならぜひ見たい、歩いて見たいということかな。

 

暗くなった頃、街中に戻り、昨日の隣の店で夕飯を取る。へちまと豚肉炒め、小魚の揚げ物を頼む。ここの若い女性は英語がうまく、初めて3ドル、と米ドルで請求された。これまでカンボジアには何度か来たが、いつも米ドルを持っていれば用が足りていた。今回は場所が違うせいか、リエルで請求されることばかりだったので、何となく新鮮に感じる。横で若者たちがビールを飲み、騒いでいる。今日はやはり休みの日なのだな。

731日(日)

翌朝は早く起きて、朝食を済ませた。Tさんの計らいで、7時半に車が迎えに来てくれ、パイリンという国境まで連れて行ってくれることになったのだ。だがどんな人が来るのかもわからない。時間通り来るかもわからない。まあ取り敢えず荷物を持ってロビーに行き、ソファーに座っていたら、すぐに人がやってきて車に荷物を積み込み始めた。一目で日本人と分かってもらえるのは嬉しい。

その車は私専用だったが、途中で農家からコメを積み込んだ。そして国境近くの村へ寄り道して、そこで降ろしていた。更に途中朝ご飯を食べていない運転手はご飯を食べ始めた。私は濃いコーヒーを飲み、そして優しいお茶をチェイサーにした。大型バスが停まり、乗客がトイレに行く。約2時間でパイリンの街へ着き、米を届けてから国境へ進む。そこは閑散とした辺境、ただカジノホテルが2つほど、異様な感じで建っていた。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(8)バッタンバンへ

 日が暮れてきた。今晩はお客の人数も増えたので、外で焼肉パーティーだ。タイではムーカタと呼ぶ、傾斜のある鍋で肉と野菜を焼き、そのエキスを下で受け止め、スープのようにして飲む。大変庶民的で人気のある食べ方だ。確かラオスでも食べていたので、タイのイーサン料理だろうか。お手伝いさんや元お手伝いさん?などスタッフ総出で焼いてくれる。村の人がバイクでやってきて宴会に加わる。

皆がキャッサバ焼酎を飲み始める。何とも賑やかな食事となる。真っ暗な中、庭の小屋で食べるのは何とも言えない野性味がある。そして安全に見えるこの村でさえも、夜は警備の人が来ており、何と銃が柱にぶら下げられている。このような光景を見ると、『武装することと防衛すること』の意味を考えざるを得ない。人には二面性がある。いくら良い人でも、困ったときは強硬手段に出ることもある。その時、自衛手段を持たなければ、悲劇が訪れ、その人は罪人になり、自衛されていれば、強硬手段を思い止まることもあるだろう。一概には言えないが、性善説だけでは生きていけない現実がそこにある。これは我が国についても言えることではないだろうか。

 

夜、私は特等席のベランダに蚊帳を吊ってもらい、そこに寝る。何ともひんやりしていて気持ちがよい。男子高校生は、守衛のおじさんと共に、庭でハンモックを吊り、そこへ寝ることに。これでは蚊の餌食だろうと思っていたが、何とこのハンモック、内側から閉めることができ、蚊の侵入は防ぐことができた。さすが元自衛隊員のTさん、装備は万全ということだろう。これなら次回は一晩、このハンモックにお世話になりたいと思う。翌日聞いてみると、身動きは取れず、少し寝にくいらしい。

729日(金)

翌朝は周囲が明るくなると目覚める。そのままベッドから朝日が昇るのをボーっと眺めている。何とも幸せな気分になる。すぐに朝ご飯になり、寝ていた高校生もたたき起こされる。この村の朝は早い。肉団子のスープが美味い。これはタイでゲンチューと言っているスープだ。やはり、この付近はタイの影響を色濃く受けている。いや、タイとかカンボジアとかではなく、昔は一つの地域だったということだろう。

そしてついに別れの時が来た。今日この村を離れてバッタンバンへ行くことになっていた。シェムリアップへ行くことも考えたが、距離も遠いので、今回は行ったことのない街を訪ねてみることにし、ついでにそこから国境を越え、タイに戻り、知らない街を旅していくことも考えていた。これまで茶旅に時間を割いてきて、このような全く無目的、ノースケジュールの旅をする機会が減っていたので、良い時間が訪れそうだった。

 

移動手段はバスもあるようだったが、村の乗り合いタクシーを手配してもらう。村人は朝が早く、7時過ぎには車が迎えに来てしまい、名残を惜しむ間もなく、出発した。またいつかここに戻ってこようと、心の中で誓った。私は助手席に乗り、他の村人3人を後ろに乗せ、車は国道をひた走った。道はそれほど悪くなく、快適だった。道路脇に所々家があったが、概ね畑が広がっていた。

 

途中ガソリンスタンドでトイレ休憩したが、2時間後にはバッタンバンの街に入り、乗客は街中で次々に降りて行った。私はTさんがアレンジてくれたホテルに向かう。とても立派な大きな建物の前に車が停まり、乗車代10ドルを支払う。フロントで聞くと予約はないとのことだったが、Tさんの助手に連絡して、何とか宿泊できた。120ドルと格安料金だった。これもTさんのお陰。感謝。

 

3. バッタンバン
街歩き

部屋もとても立派なので、3日ぶりのお湯シャワーを浴びて寛ぐ。この街に関する知識は何もなく、何するという目的もないので、取り敢えずフロントで地図をもらい、街歩きに出た。すぐ近くに大きな川が流れており、その周辺には華人を中心にした商売人が店を構えている。これを見ても、ここが昔、川を中心とした交易で栄えていたことが想像できる。ここからプノンペン方面へ抜けられ、タイへもすぐに行ける、物資の集積地だったであろう。

お寺も多い。そこに漢字表記があり、華人がお参りしているのが分る。路面にテーブルが出ており、食事ができる場所があった(実はここは学校の裏手だったことが後でわかる)。フェンスの向こうから『なんか食べていきなよ』と声が掛かり、思わず座る。すると『すぐに雨が降るから』というではないか。その言葉通り、すぐに雨が激しく降り、路上から内側のテーブルに移動し、傘を持たない私は濡れずに済んだ。この店の女性は英語が話せて、外国人客も呼び込んでいるのだろう。ただお母さんの顔を見ても華人にしか見えない。この辺の商売上手はやはり華人の伝統だろう。クメール人はもっとのんびりしているはずだ。

 

甘く煮付けた豚肉が美味い。きゅうりの漬物、そして豚足の小皿まで登場し、ご飯をかき込んだ。何ともいい味を出しており、この街では飯には困りそうもないと分かって安心した。これに水代を加えて5000r130円)は、この付近の相場として妥当かどうかはわからないが、とても満足した。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(7)緊張の地雷処理と村の未来

地雷処理の現場へ

そして雨が上がり、ついに地雷処理の現場を見学するため、外出した。村の郊外の野原、というか、何もない丘で、そのデモンストレーションは行われた。ダマイナーたちが先導して、3種類の既に除去した地雷を穴に入れ、そこに導火線のついた爆薬を使い、爆破する。我々はその現場まで見たうえで、車が停まっている、かなり離れた場所まで下がり、更には防弾チョッキをつけて、待機した。じわっと汗をかく。これにはかなり緊張した。 

少し待っていると、突然大音響とともに、噴煙が上がった。ただ我々の位置からは正直よく見えず、丘の向こうに砂塵が上がるのが少し見えた程度だった。聞くところによれば、このような爆発音は反響の関係で、近場よりむしろ村の方が大きな音が聞こえるらしい。爆破はほんの一瞬の出来事だった。少し時間をおいて、また現場へ向かう。既に跡形もなくなった地雷を確認するためだった。しかしこの人海戦術で、一体どれだけの地雷が処理できるのだろうか。地雷は何百万個と埋まっているという。

 

機械ではできないのか、犬を使えないのか、など色々な研究がなされているらしい。この現場を見れば、機械が求められていることがよくわかる。と同時に、これだけの地雷をよくも埋めたな、と感心してしまうほど、その数は多く、今後いつまでこの処理に時間が掛かるか、全く分からないというのも、何とも言えない心持がする。しかも世界にはカンボジア以外に多くの国にいまだに地雷が埋まっており、その被害に遭う人々がいるという事実も、胸に突き刺さる。

 

帰りに、仏塔の前で停まる。ここは7名の方が亡くなった事故の慰霊塔だという。Tさんたちが資金を工面して建てたものだった。『一番端は自分の骨壺の場所だと思っている』と語るTさんにとって、この事故は一生涯消えないものなのだろう。中には7名の写真が掲げられており、女性も3名含まれていた。幼い子供など、家族を残して逝った人々の思いは計り知れない。隣のお寺がこの慰霊塔の供養をしてくれているという。ちょうどそこではお坊さんが信者に水を体にかける、荒行のようなことが行われていた。

 

慰霊塔の横に階段があり、丘を登れるようになっていた。階段はかなりあり、相当疲れてしまったが、やはり高校生が元気だ。スイスイ上っていく。下には平原が広がっている。この一帯はポルポト軍がやってきて、政府軍もやってきた。更にはベトナム軍までがやってきたという。ポルポト軍は国境を越えてタイまで逃げ込んだが、その際、地雷を埋めて行ったらしい。中国とベトナムの戦争である中越戦争、ベトナムの主力がカンボジアに行っている間に中国が仕掛けた、と思い出す。

 

のどが渇いたので、村の喫茶店に入った。皆さんがにこやかに迎えてくれ、飲み物を頼むとフルーツが出てきた。ここで採れた物らしい。そして楽しそうにTさんと談笑している。さりげなく生きる人生、何だかこんな夕方がよいな、と思ってしまう。結局飲んだり食べたりしたが、代金は受け取られなかった。これで商売になるのかと、心配になってしまう。

 

車は村から少し外れた。そこに小さなゲートがある。『ここも国境だよ』とTさんが説明する。この国境、カンボジア人とタイ人は通ることができるが、我々は越えられない。こんな国境がこの付近にもいくつかあるようだ。実にのんびりと、トラックが国境を越えていく。以前はカンボジアの木材がタイに運ばれたが、今は禁止されている。一体何を運んでいるのだろうか。

 

事務所に帰ると今日も日本語学校が開かれている。日本の高校生二人が教室に入り、生徒と交流を始めた。自己紹介したり、日本のことを話したり。でもこれが意外と難しい。結構苦労している。だが同じ年代の若者たち、すぐに打ち解けてしまう。昨日のおじさんとは大違いだ。授業が終われば、一緒に記念写真を撮り、サッカーに興じている。ついには、皆でどこかへ遊びに行ってしまった。

教室では昨日からどうしてか気になって女の子が一人いた。あまり口をきかず、しかし真っすぐに前を見ている子。皆が縄跳びを始めるが、その輪に加わらず、じっと見ているだけ。私が縄跳びを渡そうとしても、首を横に振る。シャイなのか、と思っていると、彼女は実はサッカーがしたかったのだと分かる。何とも真っすぐな性格、自分のやりたいことを無意識に持っている。とても芯が強い。

 

その子のお母さんが、フルーツをプレゼントしてくれた。あのぬかるんだ道の家、上の子が日本に留学している子のお母さんだった。ということはあの子は妹なのか。姉が途轍もない頑張り屋で日本にまで行った。決して豊かではない暮らしの中で、感謝の気持ちを忘れない。この母子を見ているとなぜだか、未来があるな、と感じてしまった。そして愛媛にいるお姉ちゃんにもぜひ会ってみたいと思う。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(6)日本から高校生がやってきた

高校生がやってきた

Tさんは本当に忙しい。その中をお付き合い頂いているのだから、申し訳ない。今日もお客さんが来る(昨日来ると思い込んでいた人々)。私と全く同じルートで国境まで来る予定なので、一緒に迎えに出た。10時前に2台目のロットゥに乗り、彼らはやってきた。Tさんの地元愛媛から、高校生二人とその引率者、そしてもう一人女性も乗ってきた。総勢4人、皆大きなスーツケースを持っており、バス代の超過料金を取られる。入国書類を書き、無事国境を越えた。

 

引率者のSさんは愛媛で農業をしており、昨年もここを訪れている支援者。そして地元の高校生にカンボジア行きを募集したところ、高校二年生の男女1名ずつが応募してきたという。この歳で、カンボジアを見てやろう、という気持ちを持っていることが素晴らしい。さすがに陸路の国境越えは緊張したという。こういう経験は日本ではできないので、非常に重要だ。

 

男子は陸上競技をやっている、小柄だががっしりしたタイプ。何とも人が良い田舎の高校生だ。同級生からも『カンボジアへ行くのか』と驚かれたらしいが、行ってみたいと気持ちが勝ったのだろう。女子は一人っ子というから、さぞや両親が心配しただろうと聞くと『お父さんが行ってこい』と背中を押したらしい。天真爛漫に育ったのだろうが、どこへ行っても女は強い、と感じる。

 

まずは村人を訪問した。実は家の長男は、デマイナーとして地雷処理に当たり、その中事故で亡くなっていた。この事故はTさん不在の中で起こり、7名の方が亡くなったという。Tさんにとっては痛恨の大惨事であった。日本であれば『安全には万全を期したのか』など遺族から強いクレームが予想されるが、我々は実に温かく迎えられた。『息子はこの村のために作業をして、不幸にも亡くなった。誇りに思う』という言葉が突き刺さる。しかし残された両親、そしてたくさんの弟や妹の胸中はいかばかりか。

 

話を聞いていると奥さんが態々冷たい水を買ってきてくれた。これは何とも有り難い。言葉は通じていないが、気持ちは通じている。庭を見ると、古ぼけた石碑に日本の国旗が見えた。近づいてみると、そこには井戸があった。『この井戸ができるまでは、自家用水は1㎞以上離れた川まで汲みに行っていた』という。日本政府の援助で井戸が掘られたことにより、大幅に仕事が軽減された。

 

だがTさんは『他の家で、掘った井戸に落ちて亡くなった子供がいた。安全対策を取る必要もある』と厳しい顔になる。そこには起きてしまった事故に対する無念の思いが滲んでいた。村の人のために行っている活動で村の人が犠牲になる、これは非常に重い現実だ。ただ村人も、地雷が処理され、井戸が掘られることが、基本的には村の生活をよくしてくれることを理解しているからこそ、Tさんに対しても感謝の気持ちになるのだろう。もし少しでも金儲けのためにやっていれば、必ずや非難され、活動は中止となるはずだ。

 

初めての海外、勿論初めてのカンボジアで、いきなりこのような現実に直面した高校生は、一体何を思ったことだろうか。単純に『カンボジアの人のために何かできることを』などという感覚が、この現場では通用しない現実を見て、きっと何かを得ていくことだろう。しかも郷里の大先輩が、懸命にその道を切り開いている姿を横で見られるのだから、これは大きな財産になるのではないか。

 

事務所へ行くとまた雨だ。昨日は急に降り出した雨で靴を下に置いたままなのをすっかり忘れてしまい、ずぶぬれになった。扇風機で一晩乾かして、何とか履けるようになる。今日は同じ過ちを繰り返さない。ただ今晩は部屋を女性に譲って、私は特等席である階段脇のベランダで寝ることにしていた。壁はないので、夜強い雨だと濡れるかもしれない。どうなるのかな。また美味しくお昼ご飯を頂く。高校生も恐る恐る口に運び、美味しいとわかると食べ始めた。

 

午後は工場を見学した。キャッサバ焼酎を作っている。地雷処理が終わった場所にキャッサバが育つ。それを原料に焼酎を作る。焼酎を作った経験もないTさんがこれにチャレンジした。すごいな。既に4年前に私もお土産に買った。日本への輸出も決まりかけたが、成分の問題で輸出の話が止まってしまった。既にこの問題は解決しているようだが、現在は中国向け輸出を狙っている。非常にネバリ強い取り組みが行われている。工場内には醸造する機械が置かれており、スタッフが日夜研究にいそしんでいる。外には古い小型トラックがあった。使えるものは何でも使う。使う用途に合わせて改造して、何とか活用する。モノが溢れている社会ではないのだ。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(5)人材育成の現場

村の教育

それから実際に過去に地雷処理が行われた場所へ向かう。雨でぬかるんだ道、そこに地雷処理の看板が建っていた。その先の道はTさんが寄付を募り、整備したのだという。確かに地雷を処理しても、それからどうするのか、どのように使うのか、も重要だ。車で数分行くと、小さな家が建っていた。だが農作業に行っているのか、誰もいない。なぜここへ来たのか。

『実はここの家の子が今愛媛に留学している。ものすごい勉強家で、中学生の時、どんなにひどい雨でも日本語学校まで通ってきていた。日本の高校に留学する時には、日本の高校生と同じ基準で受験して、見事合格した。120時間は勉強していた』というのだ。これには正直驚かざるを得ない。何しろこのぬかるみの道を歩くだけでも大変なのに、学校まで行くとは。そして毎日街灯もないこの道を歩いて帰ってきたのか。更には日本語がそれほどできないのに、頑張る、驚異の粘り。今は日本の大学に入るべく、猛勉強しているらしい。是非一度会ってみたい!その家の庭にはなんと不発弾が転がっていた。これが現実なんだ、その中で光を見出そうと努力する人々。

 

そして事務所に戻ると、学校を終わった子供たちがそこで遊んでいた。ちょうど日本語教室が始まる所だった。私もそこに混ぜてもらう。生徒は10-13歳ぐらいの子たち。自分の名前と年齢を大きな声で言ってくれる。先生は高校生。それでも日本語が相当にうまい。彼女の通訳で、一人ずつ、色々と聞いてみる。『ここから日本は相当に遠い』ということを実感する。日本語の先生になりたい、日本へ行って日本語を勉強したい、と言われるとその夢をかなえてあげたい気持ちになる。

 

この学校は日本人女性の寄付により、昨年完成したという。村を向上させていくには、『教育』が重要だとTさんは考えている。しかしただ日本語を教える、ということでない。教室に入る時に、履いてきたサンダルをきちんとそろえる、そんなところからやっている。恐らく子供たちも、煩いな、面倒だな、と思っているはずだが、このような基礎教育こそ、これからのカンボジアに必要なものだという。

 

今は小学校に通えない子供は殆どいなというが、勉強するモチベーションを上げる必要もある。一生懸命勉強した子にはご褒美が必要だ。日本側で受け入れてくれるところがあれば、留学にも送り出す。現在2人の村の子が日本に居る。先ほど家を訪ねた子の頑張りは、村でも有名なはずだ。生徒たちがきれいな日本語でアンジェラ・アキの『手紙』を歌ってくれた。先生役をしている高校生は本当の歌手のように『涙そうそう』を歌い上げた。次は誰の番だろうか。人材育成、その形を見る。

 

シャワーを浴びさせてもらう。と言ってもお湯は出ない。水シャワーを浴びるのだが、水をそのまま浴びると冷たいということで、Tさん自ら考案した、シャワーがそこにあった。確かにこれを使うと、管を通る間に少し温くなっている。とはいえ、水シャワー、私はインドやタイなどで何度も経験があるので、1-2日は問題ないが、出来ればお湯が欲しくなるはず。食事も日本食などは食べず、現地の食べ物で通しているらしい。Tさんは私より一回り以上上なのに、村人と同じ生活をしている。これは簡単なようなすごいと思う。そして泊まりに来た日本人に水シャワーを経験させることはかなり重要なことのように思えた。

 

夕飯を頂き、Tさんと話し込む。ここカンボジアで地雷処理をする意味、政府の関与、国際貢献やボランティアなどの在り方、など話は多岐に渡る。『議論ばかりしていても何も進まない。まずは実践すること』なのだろう。既に69歳という年齢のTさんがカンボジアと日本を何回も往復して、実務である地雷を処理し、村の将来を考え、そして日本にこれを伝え、寄付を募る。今回、クラウドファンディングという新しい手法を取り入れたのも、『やってみよう』という精神の表れだろう。この村の在り方とそこへの関わり方は、必ずや日本人にも参考になる。Tさんは相当に疲れているはずなのに、夜遅くまで話に付き合ってくれた。情熱が感じられる。

 

728日(木)

大きなベッドで安眠した。まだ薄暗いのに鳥のさえずりがうるさい。外に出て朝日を浴びる。犬が転がって遊んでいる脇で、デマイナーの女性が既に出勤してきて、庭の掃除をしていた。バイクで送られて出勤する人もいた。6時半過ぎには朝礼が始まる。今日やるべきことを確認。それから場所を移動して、昨日までに除去した地雷を11つ確認している。『これはソ連製』などと言いながら、カタログを見ている。地雷と言ってもその種類は予想よりはるかに多い。爆薬の有無などは勿論、その性能、処理に仕方、などの知識を共有している。

 

朝ご飯を頂くと、Tさんの部屋でコーヒーを飲む。するとPCが振動して、スカイプが始まる。日本との時差2時間、既に愛媛事務所の活動は始まっており、NPO理事長として、Tさんに色々と指示を仰いでいる。プレーイングマネージャーであるTさん、理事長が現場の第一線で活動しながら、色々な決済もするのは大変だ。

カンボジア・タイ 国境の旅2016(4)村に工場が誘致されて

 2. タサエン村
いきなり現場見学

国境を出た車は田舎道を走っていく。と言ってもちゃんと舗装されており、問題はない。広々とした空間が広がっている。元ポルポト軍の司令官の住まいが立派に建っていた。そういわれて初めて、こののどかな空間が20年以上前は内戦の舞台だったと気付かされる。しかし本当にここで何かがあったのか、と思うほど、何もない静けさ。

 

車は大きな建屋に近づいた。そこはTさんの地元、四国から企業を誘致して建てられた工場だった。正直こんな田舎に日本企業の工場があることに驚く。そして日本人の駐在員も一人いた。工場を案内してもらうと、上等な和紙を使い、和服を包むための紙を作っていた。カンボジアの片田舎で和服を包む紙とは。この意外性に仰天する。工場は広々としており、その中でカンボジア人の若者が働いている。日本語の通訳をしている若者は先日バイクで事故に遭い、かなりのケガをしていた。『カンボジアではヘルメットは重要です』という。

 

次は地元のカンボジア人の家を訪問した。昼間からほろ酔い気分になっているところにちょうど行ってしまう。ここの主人は内戦で片足を失い、ここに移住。農地を広げるために危険を承知で開墾し、結果地雷でもう一つの足を失ってしまったという。だがそれにもめげずに、農地を広げ、キャッサバなどを植え、またその苗を育てて他者に分けていく、という方式で、成功を収めていったようだ。

 

義足をつけていながら、我々を快く迎え、さっさと歩いて畑を案内してくれる。Tさんの支援が如何に彼の助けになっていたかを知るに十分な笑顔で話してくれる。彼の人生を窺い知ることはできないが、内戦があり、兵士として戦い、戦後は地雷とも戦ったのだろう。突然闖入した者には計り知れない努力の結果、今があるはずだ。

 

Tさんの事務所へ行く。思ったより広い敷地、2階建ての建物と、反対側には平屋、正面には工場のようなものが建っていた。平屋は寄付により建てられた日本語学校、正面は焼酎工場だった。2階建ての2階がTさんの事務所兼住居。空いている一部屋は私が使わせてもらう。この部屋には曽野綾子さんなど、著名人も泊まったことがあるという。因みに人気俳優の向井理はハンモックに寝ていたとか。

 

既に昼近く、ご飯が用意されていた。ここには2人の若い女性が住み込みで勤務していた。ベテランが辞め、まだ来たばかりだという。20歳前だが、聞けば10歳ぐらいから畑の草むしりなどの仕事をして、その後タイに出稼ぎに出たり、戻ってきて色々な仕事をしたらしい。若いのに、かなり苦労している。でもこれがこの村では珍しくないという。

 

ご飯と、魚に甘いたれをかけて食べる。生野菜も付いている。これはかなりうまい。彼女らは小さい頃から簡単なご飯は自分で作れるようになっているらしい。ご飯も進む。カンボジアの料理は基本的に甘い。そしてアジア全体にそうだが、ご飯を食べるためにおかずがある。猫がご飯を狙っている。何だか微笑ましい光景だった。

 

ちょっと休息していると雨が降り出す。スコールというほど強くもなく、ほどなくして止む。するとTさん、ミーティングがあると言って下に降りたので、付いていく。そこには地雷除去の作業をする5人の隊員、デマイナーがちょうど作業現場から戻っていた。何と5人のうち3人が女性で驚いた。しかも皆家族を置いて、遠くの作業場まで出掛けるので、数日戻らないこともあるらしい。

 

さすがTさん、元自衛官。きちんと整列して、きちんと挨拶する。こういう光景を見ていると、『けじめ』という言葉が生きて来ると思う。特に地雷のような危険物を扱う仕事、当然慎重に行うはずなのだが、ちょっとでも気が緩むと、事故を招きかねない。作業終了報告を簡単に終えて、すぐに解散となったが、身が引き締まる中に、暖かい何かが走る。

 

雨も上がったので、外出。もう一つ誘致された工場を見る。こちらも紙関係。ご祝儀袋などを作っている。原料は全て日本から運び、形作る?作業だけ。若者が数十人、なんとも楽しそうにやっている。聞くところによれば、この作業、材料を家に持ち帰って、お母さんや妹と一緒にやってもよいらしい。いわゆる内職なのだ。日本では既に内職する人も減っており、また人件費から考えて採算も合わないのだろう。

だがこちらでは人が余っており、家族まで含めると、かなりの労働力がある。内職、実は意外と難しいようにも思うが、カンボジアなどでは有効な手段にも思える。ここでは昔Tさんのところで地雷処理に携わった人もおり、またこの工場が誘致されて仕事ができたことを感謝している人もいる。出稼ぎに行かなくてよい、家族と一緒にいられることはここでは何より重要かもしれない。