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神の島久高を再訪して(6)伊良部 絶景とかめそば

5月20日(火)

5.伊良部島

搭乗券では搭乗できず

今日は初めて離島へ行く。Iさんから『離島ならまずは宮古でしょう』と言われていたので、宮古行きの航空券だけ手配していた。因みに那覇‐宮古のフライトはANAでも往復8000円、それなら偶にはANAを予約した。国内線に乗るのは実に久しぶりだ。

 

ゆいレールで空港へ。那覇空港国内線カウンターでチェックイン、搭乗券を貰って荷物検査を受け、スムーズに進む。ところがいざ搭乗となった時、ゲートに行き搭乗券を出すと『お客様 これではなくて』と言われてしまう。搭乗する時に搭乗券以外に必要なものがあるとは思いもよらない。『チケットの控えはありませんか?』と聞かれ、益々困惑する。何故?

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『バーコードが必要なんです!』なんだそれ?ではなぜ搭乗券にバーコードが付いてないんだ?『搭乗券は座席番号を確認するためにあります』、もう何が何だか分からない。何とかチケット控えを取り出すと『それです、それ』と言われ、機械を通して無事搭乗。それにしてもあまりに腑に落ちないので飛行機に乗り込んでCAさんに再度確認すると『他のお客様からも同様のご意見を頂くことがございます。私が責任を持ってご意見をお伝えします』ときっぱり言われた。正直英語でもBoarding Passと書かれたもので、搭乗できないのはここだけではないだろうか?いや、全てはバーコードだから?とにかくどう見ても理解できないし、もし外国人から質問されたら、何と答えるのだろうか?どう見ても日本は変な国、と言われるだろうな。フライトは順調で僅か30分で宮古に着いてしまう。機内では音楽を聞き、飲み物を1杯飲むだけ。あまりに呆気ないフライトであり、離島に行くワクワク感は全くない。

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タクシーでフェリーターミナル

宮古の空港は小さかった。降りてバスを探したが、街に行くバスは1日に4₋5本しかなかった。インフォメーションで聞くと、『伊良部島へのフェリーターミナルへ行くにはタクシーしかありません。バスに乗ったとしてもターミナルまでは行きません』と素っ気ない。何故そんなことになっているのだろうか?空港を利用する人はそれなりにいると思うので、これはタクシー会社の陰謀?ではなだろうか。

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仕方なくタクシーに乗る。宮古島は何ともひらべったい。このぐらいの規模の島なら多少の隆起はあると思うのだが、道を走っていてもどこまでも平たい。確か飛行機から見た島もそうだった。ここでは農業が可能だ。思っていた宮古のイメージとちょっと違い、意外だ。途中ヤマダ電機の大きな建屋に違和感。空港からターミナルまで行く道も2つある。どちらから行っても同じ距離だという。ではなぜ2つあるのか、分からないことが多いが、運転手さんに聞いている内にターミナルに着いてしまった。街らしいところは通らなかった。

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閑散としたターミナル、チケット買ってフェリーを待つ。伊良部島行は1₋2時間に1本はある。目の前に真っ直ぐな海が広がる。船は意外と大型。チケット買わなくても船内で購入可能。とてもラフな感じが良い。外をボーっと眺めていたが、何もない。そして20分で伊良部に着いた。

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伊良部のびらふや

フェリーを下りると何ともゆったりとしてムードが漂っていた。そして『びらふや』という札を持った男性がにっこり待っていてくれた。雷太さん、今日から2泊お世話になる、ゲストハウスのオーナーだった。何ともいい笑顔で迎えられた。『びらふや』はここから5₋6㎞はある、ということで迎えをお願いし、車に乗せて貰った。

 

島の外周道路に入る。『島で一番いい絶景ポイントへ行きましょう』と言い、突然車を下り、雑木林に分け入る。後に従うしかない。どうなることかと思っていると、突如海に出た。いや崖の上に出た。そこから見る景色は素晴らしかった。今日は曇りなのでまだまだの景色らしい。晴れなら海が完全に透けて見える。単なる送迎車ではない所が何とも好ましい。

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それから15分ぐらい車に乗り、びらふやに着いた。いい感じの1軒屋。居間があり、隣の部屋には2段ベッドがいくつか置かれている。その一つが割りあてられた。ここまでのアレンジは全て久高合宿で一緒だったHさんがしてくれた。実にのんびりした雰囲気が流れる。実は宮古へ行くことは決めていたが、どこで何をするかは沖縄入りするまで何も決まっていなかった。合宿で隣に寝ていたHさんが『それなら伊良部へ』と言ってくれ、フラフラとお世話になってしまったが、これはどう見ても正解だった、と確信した。

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そこへ新たな客が登場した。このGHでは基本的に自己申告した愛称で呼ぶ。彼は『キムニー』と名乗った。宮古でレンタカーを借りて、島に渡ってきたという。今は仕事をしていないので1か月ぐらいは沖縄で過ごすとか。人のことは言えないが、羨ましい。びらふやには以前も宿泊したとかで慣れた雰囲気。

 

かめそば

久高合宿で一緒だったOさんもHさんを訪ねてきていた。彼女も早々にびらふやにやって来て、話し出す。長野の穂高で働いていた時、我々が合宿でお世話になった人だ。今は自分でパンを焼いたりしているらしい。

 

このGHの周囲には民家はあるが、食事が出来そうな場所はない感じだった。聞けば歩いて5分ぐらいの所にそば屋があるというので、ランチを食べに行ってみる。かめそば、という名前の真新しいお店だった。お客はおらず、腰の低い、若いご主人が出てきて注文を取った。

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豆腐のそばを頼む。食べてビックリ、実に美味い。お店を開いて半年余り。地元の人ではないという。言っては怒られるが、あまり人もいないこの場所で、店を開く、どういう感覚だろうか。そして食べ物はウマイ、何だか狐につままれた感じだ。そばの横にはジューシーというご飯が付いている。雑炊と言われたが、混ぜご飯のようで、沖縄では基本的にこれが付いてくるらしい。

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Oさんと散歩した。途中で雲行きが怪しくなる。向こうからおばあが来たので天気を聞こうと思ったら、先方から『雨が降るかねー?』と聞いてきた。すれ違っても普通に会話がある。そののんびりした雰囲気が好ましい。気分がダラーっとしたところで、雨が振り出し、慌てて帰る。

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神の島久高を再訪して(5)那覇 ブクブク茶を飲んでみたが

5月19日(月)

安里市場

翌日はゆっくり起きる。新恵荘では朝早く起きる人はいないので、実にゆったりとした朝を迎える。今日は先輩のNHさんに誘われて、安里市場へ出掛ける。ゆいレールの安里駅で待ち合わせ。実は宿からそんなに遠くないので、歩いて行ってみる。雨が降りそうだが、降らない、そんな天気で暑くなくてよい。

 

待ち合わせ場所には久高合宿で一緒だったKさんもやってきた。沖縄が初めてのようで、合宿後も残って観光しているという。3人で安里市場へ向かう。だが・・、午前中の市場に人影はなかった。閉まっている店も多い。飲み屋系は夕方から店開きらしい。昨日会ったミャンマー人会のチョチョカイさんの店、ロイヤルミャンマーも月曜日定休で閉まっていた。

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この市場は観光者用というより、地元の人が来る場所のようだ。普通の野菜を売っていたり、普通の食堂があったりする。そんな中で足を止めたのが、シーサーの置物を作っているおじさんのところだった。Kさんは昨日からシーサーの置物を探していたらしいが、しっくりくるものがなく、ここで初めてお目当てを見つけた。何だか淡々とした空気が流れる。商売というより、趣味の延長で作っているようで、何とも面白い。反対側には短歌というか、詩というか、が書かれた板が沢山立てかけられている。実に不思議な風景だ。

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牧志

それから牧志の公設市場の方へ向かった。やはり観光客向けの方が色々と選択肢がある。ただそこへ行く途中で、ちょっと目に入ったのが、中華ビュッフェ600円の文字。何だか安い、ということでその食堂へ入る。確かにカウンターに料理が並んでいて皿を取り、おかずを勝手に選ぶ。ご飯とスープも勝手に取る。

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地元のオジサンたちがご飯を食べていた。基本的に常連が来るところらしい。ちょっと奥へ行くと店のおばさんがお客のおばさんと会話していたが、それは何と台湾語だった。しかもお客は台湾ドルで支払っていた。面白い。店の主人は弟さんで彼は台湾語も中国語も出来ない、という。お姉さんは話せた。この姉弟、どんな環境で育ったのだろうか?とても興味深かったが、初対面で突っ込んで聞くのもどうかと。いやあ、海外だと聞けるのに日本だと思うと聞けない。沖縄は日本ではない、と思ってみても、どうもうまくいかない。

 

首里城に行くというKさんと別れ、NHさんと公設市場を目指す。途中で『水上店舗』と書かれた場所があり、ちょっと覗いてみる。2階に上がると、小さな店舗や倉庫が並ぶ。ここは昔、魚などの倉庫だったようだ。この建物の脇(下?)には水が流れていたらしい。何だか不思議だが、今やその様子は分からない。

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公設市場には観光客がいて、海鮮などがふんだんに売られていた。2階には食堂街もあり、そこで調理もしてもらえるらしい。食堂街は賑わっており、席はお客で埋まっていた。その分、何となく沖縄っぽい雰囲気は消えていた。まあそんなものだろう。

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その後NHさんもと別れて、カバンを買いに行く。実は今回北京で買った安物バックのひもが切れてしまった。出来るだけ安い物を買ってきた私であるが、店のご主人に『出来るだけ安くて、ひもが切れない、そして出来るだけ沢山入るもの』をお願いしたところ、『お客さん、沢山物を入れて切れないバッグなんかないよ、それにもし壊れにくい物を探すならそれなりのお金を払わなければダメだよ』と言われ、妙に納得。結局それほど入らない、見栄えは良い、そしてそれなりの値段のするバッグを購入した。それは当然の選択だった、と今は思っている。ありがとう、おじさん。

 

ブクブク茶

それから壺屋やちむん通りへ歩いて行く。ここは陶器で有名な通りらしい。観光客が買い物に訪れる場所。私は昨年お世話になったIさんと待ち合わせ。博物館があったが、今日は月曜日でお休み。少し曲がりくねった道をそろそろと歩く。焼き物が欲しい人には面白い場所かもしれない。

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私が目指したのは喫茶店。道から少しそれて登ると、立派な昔風の家が並んでいた。その1つが店になっており、雰囲気はとても良い。ただ店内の写真を撮ることが禁止されており、とても不思議。沖縄の緩い空間はそこにはない。折角のいい感じなのに残念。

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ここに来た理由は『ぶくぶく茶』を飲むため。沖縄にある伝統的なお茶だが、最近は飲めるところが殆どないらしい。昨年富山のバタバタ茶を訪ねて以来、興味を持っていたのでIさんに頼んで予約してもらった。ただ実際出てきたお茶は、想像とはだいぶ違っており、ただ緑茶を泡立てているだけ、といった様相で、特に面白味はない。お茶の歴史を店の人に聞いても知らないという。何故だろうか?少なくとも一度飲んだ人は二度飲む気は起こらないかもしれない。お菓子が付いて800円はいかにも高い。その価値を理解させる努力がない。

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Iさんと1年ぶりに再会。独立して自分の会社を作った彼女は事業を着々と進めているようで、頼もしい。中国関連の仕事も今年はだいぶんやり易いようだ。昨年に比べて元気だし、忙しいそうだった。1時間半ぐらい話をしていると、店の人が『この後に団体の予約があるので』と言って追い出された。全く沖縄っぽくない、とんでもない喫茶店でお茶を飲んだものだ。

 

夜は琉球舞踊のTさんと再会。4月から勤め始めた彼女と県庁前で合流し、沖縄料理屋へ。昼間一緒だったKさんも同行した。何だかとても美味しい料理が出てきて感激した。何となくお腹が空いていたのか、モリモリ食べた。

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沖縄の伝統芸能、サンシン奏者などの育成が話題となる。Kさんは昨晩沖縄民謡などが効けるレストランで食事したようだが、そのような場所でサンシン奏者はバイトして、何とか学費や生活費を稼いでいるようだ。伝統芸能を守ること、それは言うほどやさしいことではない。

 

食後、Kさんと国際通りを歩き、塩アイスを食べる。Kさんが居なければ恐らくは手を出さなかっただろうが、意外とおいしい。観光客気分に浸る。私の旅が如何に観光からかけ離れているかが分かる。

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神の島久高を再訪して(4)那覇 沖縄ミャンマー人会に飛び入り参加

5月18日(日)

4.那覇

ミャンマー人新年会に飛び入り参加

久高島合宿が終わり、フェリーで本島へ戻る。今回は大学の先輩であるNHさんと一緒と言うこともあり、昨年のこの合宿でご一緒した同窓のNIさんと引き合わせることにした。NHさんとNIさんはほぼ同じ時期に大学のキャンパスにいたが、語科が違うため、会ったことはないという。だがNHさんのご主人はNIさんの高校の先輩だということが分かり、不思議なご縁を感じる。

 

フェリーターミナルではかなり強い雨が降っていた。NIさんは車で迎えに来てくれており、濡れずに済んだ。有難かった。ところで今日はどこへ行くかと言うと、突然『沖縄県ミャンマー人会の新年会』に参加することになっていた。それはNIさんが急にその会からお誘いを受け、参加義務があり、我々にも機会が与えられたということだ。何だか面白い。

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車は雨の中、市内へ向かった。ある学校の校舎、その中で会は始まっていた。沖縄にミャンマー人がそんなに沢山いるの?とちょっと不思議だったのだが、会場ではミャンマー料理が振る舞われ、ミャンマーの人々が色々と世話を焼いてくれていた。ミャンマー人の会と言うより、ミャンマーのことを日本人に知らせる会、と言う雰囲気だった。老人から子供まで大勢の人が会場に集まっていて驚いた。

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ミャンマーの正月、水かけ祭りはタイと同じ4月に行われるが、今日の会は先月会場の都合で延期されたものだった。まさか我々を待っていたはずもないが、何ともご縁を感じる。久高のフェリーを下りると、そこはミャンマーだった、なんて何とも劇的。

 

ミャンマー料理はとても美味しかった。特に麺、スープは抜群、ミャンマーでもこんなに美味い麺は食べたことはなかった。同行したNHさんも驚いていた。ミャンマーの人が集まって作ったのだろうか、と思っていると、何とこの会の会長さんが那覇の安里市場にミャンマー料理屋さんを出しているとか。その会長さん、チョチョカイさんに話を聞くと『初めは仙台に行ったが、寒くてダメだった。沖縄は天気も人も暖かく、ミャンマー人にとって最高の場所』という。単に気候だけではなく、雰囲気も南国だからだろう。そして彼女は沖縄の大学で教育法を学び、ミャンマーに学校を建てたというのだ。『日本の教育をミャンマーで実践してみたい』と言う話、とても興味を持つ。

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会は、チョチョカイさんの挨拶、ミャンマーの歌と踊り、なぜかNIさんの多言語による歌唱(なぜNIさんがこの会に呼ばれたかはよく分かる熱演、バカウケ)、ミャンマーを知るクイズ、などが行われ、実に和やかな日本とミャンマー交流会であった。ここに我々が参加していることは不思議でもあり、必然でもあった。

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その後NHさん、NIさんと3人でお茶を飲む。同窓で、ほぼ同じ時期にキャンパスに居た、と言っても、三者三様であり、接点はあまりない(いや、NHさんは私の部活の先輩だから大いに接点はある)。沖縄でこの三人が出会う、というのも面白い。NHさんはイタリア語の翻訳が専門だし、NIさんはベトナム語を教えている。

 

Oさんと一杯

宿に帰る。書置き1つで置いていった荷物もちゃんと保管されていた。『ああ、帰ってくると思ったよ』とおばさん。その周囲には3人の台湾人おばさんがおり、台湾語でおしゃべりしていた。『あんたも話すかい』と言われたが遠慮しておいた。どうやら台湾と沖縄の間を行き来して商売している人たちらしい。

 

相変わらず雨が降っている。雨が降るとこの宿は実に湿っぽい。それでもWIFIが繋がるので、しばしネットを繋いだ。久高島ではネットはロビーのみで、かつ時間的な余裕は殆どなかったので、色々な処理をしていたら、時間はどんどん過ぎて行った。ネットに縛られた生活、と思いながら、現実から抜け出せない。久高はやはり幻か?

 

今晩は昨年も会ったラジオ局アナウンサーのOさんと会うことになっていた。指定された場所は意外と分かり難い。私はスマホなど持ち歩かないから、何とも良く分からないが、牧志の市場を抜けて住所を頼りに歩いて行く。そして何とかその飲み屋を見つけた。入っていくと、マスターとOさんが『よく見つけましたね』と。やはり分かり難い場所だったんだ、地元の人にも。まあご縁があれば見付かるもの。

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このお店、こじんまりしているが雰囲気は良い。常連さんが来る店、と言う感じだ。オーナーも沖縄の方ではなく、置いてあるお酒も内地の物が多い。『ビールはオリオン以外を飲みたいですよ、オリオンはいつでも飲めますから』という。そんな沖縄の人たちが来るのだろう。イギリスあたりのパブのように全てその場で現金精算。まあ日本なので、カウンターに2000円置いて飲む。これも面白い。つまみのセットが実に美味しかった。まあ久高のあっさりしたご飯の後なので、若干こってりしたものが欲しかったのだろう。

 

実は私は夕方宿で食べていた。久高の宿では昼ごはんとして、美味しいご飯を皮に包んで渡してくれていたが、ミャンマーの会の関係で食べることが出来なかった。しかしもったいないと思い、食べてしまったのである。昨年同様実に味わい深く、美味しかったが、相変わらずボリュームあり。夜はあっさり、酒を飲み、つまみだけで終わった。ちょうど良かった。今日の人生は上手く回っている。

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Oさんとは沖縄の現状、の話でも伺おうかと思っていたが、話があちこちに飛び、最後はミャンマー料理の話にまでなった。オーナーも安里にミャンマー料理屋が出来たことは聞いており、一度行ってみたい、と言い出した。ご縁と言うものはやはり繋がるのだろう。店に常連さんが何人かやってきた頃、退散した。雨は上がっており、スッキリしていた。沖縄そば、と書かれた看板を見ると食べたくなったが、体調も考え自重した。

 

神の島久高を再訪して(3)久高島 久高の掟

3.久高島 5月14日(木)昼‐18日(土)昼前

 

天気はいつの間にか快晴になっていた。チケットを買い、これまでのヨーガ合宿で一緒だった皆さんとご挨拶、そしてフェリーに乗り込む。昨年は波が高く、大揺れだったが、今年はそれもなく20分ちょっとで島に着いた。荷物は車で運んでもらい、歩いて交流館へ。昨年も来たのに、道を覚えていない。散歩もしなかったからだろう。

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宿泊先の交流館、特に何も変わっていなかった。A師夫妻は昨日先着しており、早々に昼ごはんに行く。港まで戻り、これまた昨年同様のレストランでチャンプルを食べる。午後には参加者が大体集まり、合宿がスタートした。

 

昨年の久高島 ⇒ http://www.chatabi.net/asiatabi/2620.html

 

ヨーガ合宿

ヨーガ合宿の細かい内容はここに記さない。ただ朝は5時過ぎに起きて、5時半から30分瞑想、6-8時はアーサナ、プラナヤーマ、8-9時はティータイム、9‐12時は講義、12時からランチ、そして休息。14‐16時は講義、それからアーサナ。夕飯の後はまた講義。今回は久高オデッセイと言うドキュメンタリー映画を見る。

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食事は日に2回。島のおばあが作ってくれる。島で食べられている海鮮類や海ぶどう、野菜類などが実に健康的に口に運ばれる。『食事の美味い場所で合宿をする』がA師の考え方。合宿は苦行ではないので、美味しい物を食べて健康的に過ごす、いいやり方だ。この合宿のように朝早く起き、規則正しい生活をし、健康的で美味しい物を食べていれば、ヨーガをやらなくても(すみません)健康になれそうな気分になる。

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因みにこの合宿の参加者は25名程度。男性は少ない。私の部屋は3人で寝ているが、一人は3年前の穂高で一緒だった金融マンM氏、そしてもう一人はインドでも修行してきた若手のHさん。彼は現在宮古島の横にある伊良部島に住んでおり、偶々休みがあってここに来たという。面白い。

 

4泊5日と言ってもあっという間に過ぎてしまう。スケジュールがかなりきつい合宿なので、今回も自分でゆっくりと島を回る時間はなかった。次回は合宿前か、後に一人で散歩してみたい、そんな日程を立てたい。

 

久高島について

この島で脈々と受け継がれてきた伝統。それは『神の島』であるということ。海岸の石ころ1つ、木の枝一本、島から持ち出すことは許されていない。それは神のものだから。島の木も勝手に切ってはいけない。神に許しを請う祈りを捧げた後、必要分だけ切る。だから島に残る原生林。

 

男は海に出て海人となり、神に使えるのは女。12年に一度行われる、島で生まれ育った三十歳以上の既婚女性が神女(神職者)となるための儀礼がイザイホー。ただこの儀式、既に過疎化したこの村には該当者がなく、1978年以来行われていない。600年以上の歴史を持つこの儀式、当然伝統を守るためと称して、該当者が無ければ条件を緩めそうなものだが、『神が決めたことを人間は変えられない』との理由で、変更はなく、12年に一度に当たる今年も『中止』が伝えられている。

 

16日午後には恒例の久高島散歩があった。昨年同様案内人のYさんが登場し、相変わらずのギャグを飛ばす。前回同様島を巡り、御嶽へ。御嶽の字は当て字、本当はうた気、気のある場所であろうという。御嶽には目印となる石以外全く何もないという。我々は入ることが出来ないので確かめようはない。きれいな海辺へも行く。この海、なかなかいい。

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『平等とは何か』を考えた。島では男が15歳になると300坪の土地がもらえる伝統があるが、その土地は10区画に分かれている。台風などの被害を避けるための分散、などとの説明もあったが、一番の理由は『平等な分配』ではなかったろうか。男は海に出るので畑は女の仕事。10か所にも分かれた土地を耕すのは如何にも効率が悪いが、逆に言えば『平等とは効率の悪いもの』と言うことを我々に教えてくれる。力のあるものがいい場所を占拠してしまう世の中、実に原始的な、平等主義がここに見られる。

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因みにこの島では月1度以上、祭事が執り行われており、その時は入ってはいけない場所が存在する。最近はパワースポットなどと言われ、時折観光客がやってくるが、単に島を回っただけでは、都会暮らしの我々には何も感じることはできず、何も見えないだろう、と思う。黙って毎年通う、それが良い。

神の島久高を再訪して(2)那覇 リタイア生活を始めた後輩

2.那覇

雨の那覇 新恵荘

そんなことを考えている内に3時間弱のフライトは終わり那覇へ着いた。これまた昨年同様、ゆいレールに揺られて市内へ向かう。美栄橋という駅で降りるとすごい雨。どう行けば宿に着くか良く分かっていなかったが、国際通りに向かって走る。結構濡れた。

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今日の宿は新恵荘。ここは台北のHさんが先日泊まり、気に入ったとかで、私の為にわざわざ予約してくれていた。通りから少し入った場所。正直入口が分からず、隣の家に入ってしまった。何とか玄関口に辿り着き、『予約しています』と言うと、オジサンが『今日予約なんかあったっけー?』と。えー?『楽天?』、いやネットじゃなくて?この辺は沖縄らしい間合いだ。

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ホワイトボードを見るとちゃんと今日の日付に私の名前があった。『あー、あるねー。最近はみんなネットだからさー』と言われる。部屋はどこでも使ってよ、開いているからさー。と言う訳で2階の角の部屋になった。今は雨期でオフシーズン。

 

この部屋は畳で6畳はある。だが結構湿っぽい。雨季なのだ。窓はあるが網戸は壊れている。でも問題はなさそうだ。個室で1泊、2000円。。既に外は暗くなってきている。それに雨だ。仕方がない。濡れた服を着替えて、早々に出掛ける。

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Hさんと再会

今晩はHさんと約束していた。彼は元勤め先の1年後輩。入社の時から知っている国際畑。私が辞めた時はロンドンに駐在しており、てっきりまだロンドンにいると思っていた昨年、元上司から『H君、会社辞めて沖縄にいるよ』と言われて驚いた。まあお互い辞めた身、どうしているか会ってみたいと思った。

 

場所はなぜかイタリアン。まあそれもいいか。国際通りを突き抜けて少し行くとお洒落な店があった。どうしてここを選んだのかと聞くと『実は現在読谷村に住んでおり、那覇に出て来ることは稀。嫁さんの勧めに従った』のだとか。そうか、読谷村か、那覇から車で1時間はかかる。彼は昨年ロンドンからいきなりここへ引っ越したらしい。意外と大胆な行動派なんだな。

 

彼は特に仕事はせずにリタイア生活を送っていた。お子さんが小さく、その面倒を見て楽しく暮らしているという。恐らくはこの移住には生活環境なども考慮されたのだろう。1つの理想的なリタイア生活だ。読谷村あたりは米軍の家族などが住んでいた1軒屋があり、地元住民も外から来た人々に慣れており、意外と住み心地が良いという。

 

ここのイタリアン、なかなか美味い。前菜のセットだけでお腹が一杯になる。最近は酒を飲むこともあまりなく炭水化物系を多くとっていたが、酒のつまみだけでサラッと夜を終わらせるのも良いのかもしれない。何だか昔話だの、昨今の旅の話だの、してしまった。ここで会えるとは思ってもいなかった再会。こういう出会いが嬉しい。愉快な夜を過ごした。

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夜10時過ぎ、雨は上がっていた。我が宿の近くまで歩いて行く。気持ちの良い夜だった。那覇は駐車場を探すのが大変だ、と言い残し、Hさんは読谷村へ帰っていた。次回は彼の住む地域に足を踏み入れよう。

 

5月14日(水)

合同タクシーで

翌朝は6時台に起き、コンビニに朝ごはんを買いに行く。普段は朝飯を食べないこともあるが、昨年のこともありちゃんと久高島へ渡れるか、一抹の不安があり、食事を取っておくことにした。ただ付近にコンビニがなく、国際通りまで出る。ここまで来るといくつものコンビニがあり、より取り見取り。

 

8時前には宿をチェックアウト、と言っても誰も起きていないようなので、メモを残して鍵を置いて去る。荷物を預かってもらう必要があったのだ。おばさんが一人、歯を磨いていたが、何と台湾人のお客さんだった。でも日本語は出来た。古き良き台湾を思わせる。一応このおばさんにも言伝を頼んだ。

 

そして荷物を引いて県庁前へ。これも昨年と全く同じパターン。Tさんが全ての車の手配をしてくれており、我々はそれに乗っかるだけだった。楽ちんだ。10数人が集まり、2台のタクシーで。運転手さんを見ると、昨年もお世話になった人だった。昨年メンバーのお気に入りの運転手さんとなっていた。

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8時20分、前回より少しゆっくり目にスタートしたがやはり9時過ぎには港に着いてしまった。昨年はここで10時のフェリーの欠航が分かり、セーファー御嶽へ。それはそれでよかったのだが2年連続は困る。今回は時期が少し早かったため、船のドック入りにはなっていなかった。

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神の島久高を再訪して(1)ルールに慣れていないと

《沖縄散歩2014》  2014年5月13日-23日

 

昨年10数年ぶりに行った沖縄。私には強い衝撃があった。沖縄は『日本でもなければ中国でもない』という感覚に捕らわれた。実にユニークな文化、そして人々。興味がどんどん深くなり、また行きたいと思うようになっていた。

 

昨年も開催されたA主催にヨーガ合宿。神の島久高島で今年も開かれると聞き、再訪を決めた。同時に今回は本島のみならず、是非離島にも行きたい、と思う。沖縄を理解するのはそう簡単なことではない。淡々と何度も通い、地元の人々と何気ない会話をしていく中で、何かが見えてくるような気がしていた。

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5月13日(火)

1.那覇まで

地震の余波で

色々と検討したが、結局今年も成田からジェットスターに乗って那覇へ行くことに。時間も全く同じ午後便。今日は朝方地震があった。東京に戻ると地震の多さに驚かされる。もうみんな慣れっこになっており、殆ど気にも留めていない。東京にやってきた外国人は地震を体験して、どう感じているのだろうか?

 

いつものように京王線に乗り、都営新宿線に入り、馬喰横山で降りる。ここでスカイアクセスに乗り継げば、1時間で成田空港に着く。もう何度も通った道だ。駅でうどんを食べるのも恒例となっている。だが、駅へ行くと様相がおかしい。駅員に聞くと『ああ、成田行きのアクセス、当分来ませんね。地震ですから』と素っ気ない。慣れているということは慣れていない者に衝撃をもたらすことを分かっていない。

 

押上まで各停で行き、そこで電車を待つ。京成特急は動いている、とのことだったが、なかなか電車は来なかった。相当余裕を持って家を出てきているので問題はなかったが、ギリギリに出ていれば完全に乗り遅れてしまう。ホームには人が増えてきたが、慌てている人はいない。何とか電車に乗り込み、空港へ到着した。それまで英語の放送は一度もなく、一部外国人は何が起こっているのか分からなかったようだ。

 

ジェットスターの不可解なルール

ジェットスターの国内線。荷物を預ける。自分で後方の安全検査を通すのも去年と同じ。待合室からバスに乗り、ターミナルを離れるのも変わりはない。飛行機に乗り込む際、結構人が大勢いたので、タラップで詰まっていた。そこで私は何気なく、いつものようにカメラを機体に向け、1枚写真を撮った。

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すると横にいた係員の女性が何か言っている。アジアの空港で時々写真を咎められることがある。大体は空港の規制で、と言いながら、軍事上の規制だったりする。ただ日本にそのようなルールがあるとは思えない。飛行機の音がうるさくてよく聞こえなかったため、もう一度聞き返す。彼女は何と『お客様、電子機器のご使用はお控えください』とはっきり聞こえた。この言葉には驚いた。

 

機内で離発着の際、この言葉を聞くことはある。だがまた飛行機にも乗っていない、そして電波も発しないデジカメで写真を撮ってどこに問題があるのだろうか。先ずは乗り込んでから、CAに聞いてみた。すぐにチーフパーサー?の女性がやってきた。その答えは『我々はオーストラリのカンタスの関係会社ですので、オーストラリのルールに則っています。イギリスなどでもこれは常識です』と言い放った。『空港ターミナルをバスではなれた瞬間から電子機器は使用できません』とのこと。

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イギリスで常識かどうかは知らないが、3年以上アジアを放浪していて一度もそんなはなしは聞いたことがないと言うと、彼女は更に『デジカメのフラッシュで100%引火しないという保証はない』と言い出した。これには驚いて『じゃあ、キャノンやニコンの知り合いに聞いてみる』と言い返すと、急に彼女の態度が弱腰になる。まあ、私もクレーマーではなく、純粋に理由を聞きたいだけなので、後は仲良くお話した。

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その後、数か国のフライトでルールを確認したが、『離発着時の禁止』以外、どこにも見付からなかった。勿論最近のデジカメはPCへ自動送信もあるので、電波を発信するとしてでも、である。あの説明は一体なんだったのか、ジェットスターはどんな理由でルールを定めているのか、真相は謎のままである。

初めて行く北海道2013(2)はるばる来たぜ函館

6月5日(水)

3. 函館

バスで行く

翌朝は本当にゆっくり起きた。そしてバスに乗った。函館行き、普通の人は電車で行くようだが、今回はバスにしてみた。札幌駅の脇のバスターミナルから出発。車内は3列シートで、飛行機で常に通路側を取る私は真ん中の席を選択したが、そんな人はいなかった。3席は十分に間隔があり、更には混んでもいなかったので、両窓際に集中していた。私だけが浮いている感じがした。

 

バスは実に快適に走る。さすが北海道、車も少ないし、道もよい。2時間半ほど走ると休憩があった。眺めの良い場所だった。有珠山、昭和新山、駒ヶ岳が見えた。何だか昔聞いたことがある。噴火した山だったかな。そんな場所に立っている自分が不思議に思えた。電車ではこんな感じにはならないだろう。ドライブインでサンドイッチを買って食べた。背中に山、目の前の遠くに噴火湾と呼ばれる内海があった。こんな雄大な景色の中でボーっとするのも贅沢なものだ。

 

函館に近づくと、少しずつ乗客が降りていく。そして函館市内に入り、駅前で下車。今日の宿は朝市の近くですぐ見つかる。この宿は昔朝市に買い出しにでも来た人が使ったのではないだろう。かなり古い。朝市は目の前だった。

 

五稜郭

函館と言えば五稜郭。駅前から路面電車に乗ってみる。路面電車だからゆっくりだが、見るべきものはあまりない。五稜郭公園前で下車してからも結構歩く。場違いなタワーが出来ており、中もきれいで違和感ありあり。

 

五稜郭公園はきれいに整備されており、藤棚があり、つつじが咲いていた。公園内の建物は全て最近作られたもので魅力はない。だが、公園の周囲は何となく雰囲気があり、歩いて見たくなる。ここで幕末の戦争があり、終結したのか。何とはなく感慨深い。

 

裏門には男爵芋の碑が建っていた。何故ここにあるかと思うが、ここにあるのが相応しいようにも思える。周囲は堀で囲われているが、今はランニングコースになっており、人々が汗を流していた。うーん。

 

帰りは歩いて戻る。駅の近くまで来ると土方歳三最後の地、に出くわす。そう、函館と言えば土方だよな、と思い出す。この碑があった場所はきれいな庭園であり、それも何となくそぐわない。


函館山

駅前からバスが出ていた。函館山から夜景を見る、というのも観光コースらしい。特にやることもないので、行ってみた。バスは夕方出る便が多い。夕日から夜景を見に行く人が多いということだろう。バスは函館の街、特に異国情緒が漂う街並みを越え、山道をくねくね行く。途中でチラチラと港の風景が見える。頂上に着くと既に多くに人々が夜景を待っていた。修学旅行生も多い。先生は写真を撮ってあげたり、変なことをしないように注意したり、大変な様子だった。中には車いすでやってくるお年寄りもいた。

 

函館の街を一望できる山、夕日はないものの確かに夕暮れのよい風景が見られた。かなりの霧がかかっている。時々霧が動いて港が見える。何となく不思議な追いかけっこが行われていた。観光客もその度にカメラを向けていい風景を納めようと頑張る。建物の中にはお土産物コーナーがあり、せっせと買い物している人々もいる。

 

そして徐々に周囲が暗くなってくる。観光客が増えてくる。スポットは大混雑となる。港の方がライトアップされてくる。霧は相変わらず晴れたり曇ったり。高い建物がないので、香港の夜景とは比べることはできないが、素朴な明かりがそこにある。

 

バスの時間があったので早めに失礼する。山を下ると、レトロな建物が見えたので、途中で降りてみる。そこは港町がきれいにライトアップされており、観光スポットになっていた。赤レンガの倉庫がレストランになっている。

 

歩いていると雰囲気は良いのだが夜風が肌寒い。人通りもあまりない。平日はこんなものだろうか。魚を卸す店までライトアップしている。皆で街を盛り上げようとしている。もっと多くの観光客が来ればよいのだが。

6月6日(木)

朝市

函館と言えば朝市、ということで朝市の目の前のホテルに宿泊。昔市場に買い付けに来た人が泊まったのかな、という古い宿で目覚める。ホテルには朝食が付いていたが、何と食券を貰って朝市の中にある食堂に食べに行くシステム。これはなかなか良いサービスだ。

 

7時台の市場にはそれほどの活気はない。もう商売は終わったのかな、と思うほど。私は指定された食堂へ行き、ハラス定食を食べる。朝から相当のボリューム。素晴らしいと言えば素晴らしいのだが、単価を上げるためとも思える。何しろ朝ごはんが1000円するのだから、庶民の料金ではない。観光客用である。それでも美味しく頂く。

 

外へ出るとボチボチ商売が始まっている。ようはここは観光市場なのだ。観光客がやってくるのは8時台。日本人観光客が団体で訪れ、ガイドが連れていく店で皆が説明を聞き、買い物を始める。

 

私はある台湾人家族のグループの後に着いた。これはなかなか面白いフィールドワークだった。台湾人ガイドはまず夕張メロンのコーナーへ案内。切り身のメロンを買わせる。本当に細い切り身は100円。少し幅があるのは250円。彼らは直ぐに250円の物を買い、食べ始める。次にいちご。何故北海道でいちご、と思ってはいけない。彼らは北海道に来ているのだが、日本に来ているのでもある。日本の良い物があれば何でも買うのである。それからホタテ焼き、ジュースなどへ。

 

とうとうカニやエビの所には立ち寄らない。写真を撮るだけだ。確かに鮮魚などを買っても持って帰れない。それよりその場で食べられるものが好まれる。店の人に聞いても『言葉も通じないし、我々は外国人客に対応できない』と関心を示さない。むしろ私が日本人だと分かると一生懸命売り込む。どうしたものだろうか。中にお婆さんが言葉が通じなくても一生懸命売ろうとしていた姿に『今の日本人には必死さが足りない』という台湾人の言葉を思い出す。

 

異国情緒散歩

今日は函館の異国情緒を味わってみようと思う。ホテルから歩き出し、昨晩も通った港付近へ行く。お天気が良く、海の色も映える中、船が停泊している。港町の雰囲気が出ている。そこに高田屋嘉兵衛の記念館があるので見に行ったが、休館日だった、残念。

高田屋嘉兵衛は司馬遼太郎の名作、『菜の花の沖』で何度か読んでいた。江戸時代に北前航路を開拓し、蝦夷地で活躍した商人。だが単に商人の域を超え、日本とロシアの交流に大きな役割を果たしているスケールの大きな人物であり、今に日本の欲しい。高田屋の拠点は函館にあり、いや高田屋が函館を発展させたともいえる。嘉兵衛の足跡も色々と見ることが出来ると思ったが、また次回にしよう。

そして坂を上っていくと、元町教会、正ハリストス教会などが見える。正ハリストス教会といえば東京のニコライ堂が思い浮かぶ。拠点が東京に移った後も正教会の伝統を守っている。函館は日米和親条約で開港された港。キリシタン禁制の時代に既に異人が沢山やってきたのだろう。まあ江戸時代に既に北方貿易などで免疫はあったのだろうが、いや、そもそも日本人も皆外から来た人々がいた、ということか。

修学旅行生が沢山歩いている。ある若い女性がズーッと一人で誰かを待つかのように、道を見つめていた。何か訳アリなのかと思ったが、何と学校の先生だった。しかも遅れた生徒を叱るのかと思い行きや、何と記念写真を撮ってあげている。先生も大変だな、とつくづく思う。それにしてもその先生、なぜかこの函館の雰囲気に合っていた。

外国人墓地は町の外れの高台にある。ここまで歩くのは結構大変だった。そして行ってみると、意外なほど小さい。横に中華墓地もあったが、ここも大きくはない。函館で亡くなった外国人はそれほど多くないということなのか。途中にいくつかお寺があった。ここに葬られた外国人は居なかったのだろうか。

函館の街はなだらかに傾斜して港に向いていた。この傾斜が良い。スーッと坂を転げる。そして様々な建物が残っており、確かに異国情緒はある。でも日本はきれいすぎるな、どこも、と思ってしまう。

港近くを歩いていると、誰からの像があった。見ると『新島襄』と書いてある。そういえば今年の大河ドラマ『八重の桜』の主人公の旦那だった。彼はここからアメリカに密航した。浦賀で失敗した吉田松陰、函館で成功した新島。何とも不思議な。うーん。

温泉へ

なぜかそのままずっと歩き続ける。かなり歩いて疲れたのに、歩きたい。不思議だ。亀井勝一郎文学碑、石川啄木歌碑など、歩いていると色々とある。そして函館公園。ここはかなりいい雰囲気だった。建物もレトロだし、林がきれいだった。しばし休み、見惚れる。


 

そしてついに谷地頭町まで来てしまった。立待岬、何だかよい名前だ。行ってみた。啄木一族の墓があり、与謝野晶子の歌碑がある。本当に外れに来てしまった。あの異国情緒の函館とは全く違う、函館があった。

 

帰りに谷地頭温泉に寄った。本当は湯の川温泉にでも行くつもりだったのだが、時間が無くなったところ、目の前に温泉が現れた。市営温泉、実は民間業者に委託していた。タオルすら持っていなかったが、石鹸とタオルをその場で購入、温泉に入ってみた。

 

体育館のような天井の高い温泉だった。お客さんはほぼ地元の老人。皆マイ温泉グッズを持って登場。僅か400円ぐらいで日がな楽しんでいるように見えた。お湯も何種類かあり、何度も入った。そして外には露天ぶろまで。そこでゆっくり湯につかり、疲れた足を癒す。これは極楽。日向でおじいさんが裸で寝込んでいた。本当に幸せそうだった。

 

そして湯冷めせぬように電車で駅へ戻る。最後にラーメンを食べる。1杯500円の普通のラーメンを食べたが、幸せな気分になった。ホテルで荷物を取り、駅前からバスに乗って空港へ。空港では結局チェックインカウンターで手続きして何とか飛行機に乗り込む。今回の北海道旅行、特に何もなかったような気もするが、何か大きなものを得たような気もする。

初めて行く北海道2013(1)札幌を歩く

《初めての北海道を行く2013》  2013年6月3-6日

                   

実は私は実質北海道に行ったことがない。どうやらかなり小さい頃に行ったことがあるらしいのだが、記憶はない。もう10年以上前、香港に住んでいた時、キャセイの札幌直行便が就航し、香港人が北海道に殺到した。台湾人は年間数10万人単位で北海道に行っているし、最近では映画の影響もあり、中国人の北海道旅行が流行っている。でも、何だか私には関係ないような気がしていた。寒い所はあまり好きではないし、スキーなどやらないし、お茶もないし。

 

しかしアジアを歩いていて何人もの人から北海道について聞かれると『行ったことがない』という答えは日本人としてはちょっと恥ずかしい。しかも前回の沖縄旅行の際、案内役Iさんを紹介してくれたのは、何と札幌在住のIさん。『どうして沖縄には行って北海道には来ないの』という声も聞こえてきそうで、検討することになる。

 

そしてある夜、普段は使わない航空会社のマイレージが今月切れるというメッセージが出る。でも僅か12,000マイルしかない。これでは海外には行けないな、と諦めて寝たのだが、夜中に突如『国内線なら行けるかも』と思い、HPを見ると、何と『札幌往復平日限定12,000マイル』があるではないか。これは天の啓示、行くしかない。更に帰りは旭川でも函館からでもよい、とのことで、時間の都合のよい函館を選択した。こうして突然北海道行きが実現した。

 

6月3日(月)

1. 札幌まで

羽田空港で

朝羽田空港へ行く。前日いつもの癖でWebチェックインを試みたが、何とHP上にその項目はなかった。日本では航空券を印刷するか、携帯のデータを貰い、空港でタッチすれば入れる、と書いてある。私は航空券を携帯ではなく、PCで貰っていたので、PCから携帯にこのデータを転送して備えた。こうすればカウンターに行く必要がない。

 

当日ラッシュ時間帯に羽田まで行くと予想以上に時間がかかる。チェックインカウンターはそれなりに混んでいたので、そのまま安全検査に向かう。ここで携帯をかざしたが通ることが出来なかった。何故通れないのか、と聞いても、立っているのは警備員。仕方なく航空会社職員を呼んでもらう。

 

実は私の携帯は8年以上変更していない。震災の時も緊急地震警報など鳴らない旧機種だ。てっきりこの携帯のせいだと思い、念のため確認したかった。ところがやってきた職員は『それはここでは断定できない』という。では函館からの帰りはどうなるのか。調べてもらうことにして、飛行機に乗り込んだ。

 

機内の違和感

日系航空会社、機内は新しいとは言えないが、不思議な安堵感がある。それはなぜか分からない。だが、CAの不自然な飛び切りの笑顔には何とも違和感がある。中国系に乗り慣れているせいか、どうしても馴染めない。昔ある女性から『あの笑顔は男性、特にビジネスマンにしかしないんですよ。私には冷たいもんです』と教えてもらったことがあるが、どうなんだろうか。とにかく媚を売るというか、何というのか。

国内線なので、飲み物のサービスがある。半分ぐらいの乗客は朝が早いせいか寝ており、または自分で好きな飲み物を持ち込んでいる。これならLCC化して、料金を下げた方が良いのだが、それは既に作った別会社でやっていることか。

そして何となく違和感があったのは、機内放送。何かが足りないな、と感じたのだが、初めは分からなかった。最後にようやく気が付いた。機内放送は日本語しかなかったのだ。アジアしか歩いていないが、アジアで母国語しか放送しない飛行機に乗ったことはないような気がする。普通は自国語と英語。どうしてこの航空会社では英語がないのだろうか。降りる時に聞いてみた。

答えは『本日ご搭乗のお客様は全員日本の方でしたので』。ということは外国人が一人でも乗っていれば英語も使うということだろうか。それよりもどうやって全員日本人だと判断したのかが疑問だった。日本の国内線には身分証のチェックはない。皆携帯電話で検査を通り、搭乗するだけ。セキュリティーは非常に甘いと思っている。その中で『全員を日本人』と判定できる根拠は『名前』と『顔』だけではないか。この2つで日本人と判断し、日本語ができると判断する。実に面白い。この多様な時代に。またそんなところはケチらないで、放送は日本語と英語でやったらどうだろうか。新人さんの研修でもいいではないか、と思ってしまう。

2. 札幌

札幌市内まで

新千歳空港に到着。札幌まで電車に乗る。チケットを買わないのと乗れないと思い込み、長い列に並んでいたが、出発時間に間に合わないので駅員に聞いたところ、自由席ならスイカで乗れるというではないか。出張者は指定席を取るために並んでいたのだろうか?車内は特に混んでもいなかったし、僅か30分で札幌に着いた。何だったのだろうか。

車窓から見える北海道。第一印象は高い建物がない、住宅の屋根の傾斜がかなりある、ゆとりが感じられるということ。そして札幌駅に着くと、高い建物はあるものの、やはりゆとりがある。この広やかな感覚が魅力なのだろう。

取り敢えず予約した駅近くのホテルへ行く。非常に接客がしっかりホテルだったが、12時に到着、チェックインは1時からということで、部屋には入れてもらえなかった。今考えれば日本で1時チェックインは、かなり優遇されているのだが、慣れていない私は『たった1時間なのに何で』と思ってしまう。それでも対応が非常に良いので、そのまま従って外へ出る。

時計台で待ち合わせて

私の一つの問題点は『ガイドブックや地図』を持たず、『スマホ』なども持っていないこと。だから待ち合わせ場所へすぐに着けない場合がある。今回まずは北京時代のお知り合いIさんに会うことに。『じゃあ、時計台で』と言われて、歩いていくが、何と道に迷う。そんな、あんな有名なところ、でも初めてなんだから、もっとちゃんと調べていくべきだった。札幌の街は想像通り、碁盤の目のように分かりやすかった。その中で道に迷う?あり得ない。そしてぐるぐる回ってようやくたどり着いた。私の時計台のイメージはテレビで作られたもの。実際目の前にあるのは思ったより小さい本物。やはり見てみないと分からない。

Iさんとランチに行く。近くの洋食系のお店に入る。そこにあったのが、エゾジカのミートソース。シカは昔中国の雲南省などで食べたことがあるが、札幌で食べるとは。どうもシカが多過ぎて、その活用法の1つらしい。大盛りを頼んだら、本当に大盛りで。残念ながらミートソースになってしまうと、シカかどうか分からない。

北海道事情を聴く

紹介頂いたKさんと会う。新聞社にお勤めで北海道内各地の勤務経験もある方。北海道の実情をレクチャーしてもらう。札幌はまずます発展しているものの、地方はかなり厳しい状況。農業、漁業、どれを見ても、規制もあり、後継者もなく、今後が懸念される。元々移民の地である北海道、外から来る人の受け入れには寛容だが、連帯感があるとも言えないらしい。

続いて北海道で起業した中国の方。旅行業や通訳翻訳業をやりながら、新しいビジネスにもトライしている。『尖閣以降、役所の視察・研修旅行はなくなり、企業進出の話も少なくなった。従業員管理や撤退の案件も手掛けている』とのこと。『撤退するのも従業員管理ができないのも、反日のせいではない。半分以上は日本企業の問題』との言葉に共感。言い訳していても前には進まない。

北海道で起業した理由を聞くと『もし金儲けがしたければ東京へ出るか中国へ帰るよ。北海道は儲からないけれど、生活環境が抜群に良い。子供たちにもそういう環境で暮らしてほしい。だから自分で仕事を作って住み始めた』と。全くその通りだ。そういう中国人が数十人はいるという。

外へ出ると札幌の街は寒い。特に沖縄から転戦してきた者として気温15度以下はきつい。大通りでも人の往来はまばら。北海道経済は本当に冬の時代だな、などと考えていたが、何と札幌駅からすすきのまで、地下街が繋がっていた。みんな下を歩いていただけだった。相変わらずガイドブックも持たずに歩くから寒い思いをするのだ。

夜はすすきので食事。昼も会ったIさんと元新聞記者で今は大学の先生に転身したSさんと食事。生ガキなどを食べて、北海道を満喫した。食べ物がおいしくて、時間が緩やかに流れ、広々としている、それだけで住む価値があると思った。でも私は寒いのが嫌い、いや、北京で5年も住んだのだから大丈夫、など思いが交錯した。

6月4日(火)

北大を歩く

朝は寒かった。肌が南国仕様になっていることが分かる。だがどうしても行きたいところがあった。北大、今ではこう書くと『北京大学』と思ってしまうほど、遠い存在となったが、北海道大学は実は高校3年生だった私の第一志望校だったのだ。結局共通一次試験が出来過ぎ?で、別の学校を受け、しかも落ちてしまったのだが。

 

ホテルから北大までは歩いて5₋6分。朝の空気は爽やかで、北海道に来たんだなあと気持ちも昂る。門を入ると緑が多い。公園の中を歩いている感じだ。校舎も独特の建物でよい。こんなところで勉強したかったな(でも勉強は嫌い)。クラーク博士の像もある。この辺は観光スポットで団体さんが記念写真を撮っている。

 

総合博物館という立派な建物の横を歩き、並木道に出る。まっすぐに伸びる並木を見ていると、ここに来ていたら私の人生は大きく違っていたな、とつくづく思う。そういえば私の高校の同級生は1年アメリカに留学後、東京の有名私立大学を蹴って北大に入学した。あの時は『何で』と皆言っていたが、彼にとってはベストの選択だっただろう。因みのその彼とはその後一度も連絡を取っていないが、週刊ジャンプの編集長をしていたらしい。色々な人生がある。

 

ラーメンに思う

北海道と言えばラーメン。お昼は特に予定がなかったので札幌駅のビルの上にあるラーメン共和国に行ってみた。ラーメン屋さんばかり10数軒が集結しており、レトロな雰囲気を出していた。時間が早かったせいかお客はまばらだったが、帰る頃には沢山の人が食べていた。

 

呼び込まれるままに1軒の店に入った。わたしはラーメンは好きだが、正直それほど拘りはない。勧められるままに『こっさり特選醤油』を頼む。こっさり?こってり、さっぱりだろうか。確かに美味しかったが、ちょっとひねり過ぎかもしれない。もっとシンプルな塩ラーメンでもよかったか。

 

それにしてもどこのラーメンも安くはない。700-800円、中には1000円を超えるものもある。実は入ったお店は旭川が本店。札幌にも店舗が数店あるが、東京にはない。で、シンガポール、香港、台北に支店があるとなっている。これが今のラーメン店だろう。下り坂の日本に見切りをつけて、勝ち組と言われる成功した店はアジアを目指す。そして今ではバンコックに100軒もの日本のラーメン屋さんがあり、さすがに淘汰の時代が始まっていると言われている。いくら美味くても、日本とほぼ同じ料金のラーメンを食べる人は限られる。それでもどんどん進出する。このお店はバンコック進出には乗り遅れたのだろうか。

 

夕方ラーメン横丁という場所にも行ってみたが、それほどお客がいるようには見えなかった。知り合いの香港人は『札幌に行ったら必ず食べる行きつけのラーメン屋がある』と言っていた。これからは海外進出ではなく、如何に地元にお客を呼び込むか、なのかもしれない。

インバウンドや如何に

午後は街歩き。すすきのの手前、狸小路あたりに外国人観光客が多いと聞き、歩いて見る。平日の昼間のせいか、人通りは多くない。観光客もあまり見られなかった。

 

北海道と言えば台湾人や香港人、中国人のみならず、東南アジア人全般にも人気のある観光地。台湾は既に20年ぐらい前から毎年多くの観光客を送っており、香港も2000年以降、急激な北海道ブームが起こった。北海道のマンションを買う人、結婚式を挙げる人など、当時香港に住んでいた私の周りでも、多くの北海道好きがいた。

 

数年前には中国映画の舞台となり、中国における北海道ブームが爆発。映画のロケ地を訪ねる旅など、人気が高まった。ただ昨年の尖閣以降、団体観光客は脚止めを食らい、激減(個人旅行客は逆に増加)。代わってタイ、マレーシア、インドネシアなど東南アジアの国々から注目されている。私が現在拠点にしているバンコックでも『北海道はどう?』と何度も聞かれる。7月以降、観光目的の入国がノービザとなり、日本への旅に拍車がかかっている。

 

各お店の前には中国語、韓国語、英語の表記などがあり、それぞれ工夫しているように見える。中にはちゃんと台湾・香港向けに繁体字で書かれているものもある。お客が買っているものを見ると、ここでも日用品が多いような気がする。高級な物より、安くてよい物、そんな雰囲気が漂う。高島屋などでは高級品を買っているのだろうか。

 

夜はご紹介頂いた皆さんと楽しく北海道の幸を堪能した。その中でも、北海道の物産をどのように海外に売っていくのか、観光客をどのように誘致するのか、などの話題が出た。『沖縄は北海道の10倍の予算を国から与えられ、誘致活動を強力に進めている』との言葉が印象的。国内の競争がいい形で日本全体のプラスになればと思うのだが 。

沖縄久高島へ行く2013(4)沖縄にもあった茶畑

中華ランチとスパムおにぎり

ホテルに送ってもらい、そこで荷物を受け取り、初日にお会いしたIさんと再会。一緒にランチへ行く。那覇には華僑、華人はどれくらいいるのだろうか。中華街はあるのだろうか。そんな思いもあり、中華レストランに連れて行って貰う。

 

中華マンと蒸し餃子のランチセット。とても美味しかったが、この味は日本料理。そう、沖縄でも本格的な中国料理、というよりは横浜中華街の中華料理が主流なのかもしれない。それは商売上そうなのだろう。今後中国人観光客が増えると何か変化があるだろうか。中国茶器が置かれていてお茶もあったが、ライチ紅茶や桂花烏龍、沖縄のハーブ茶など、女性には喜ばれそうだが、本格的にお茶を飲む感じはない。

 

そしてIさんとドライブに出た。ドライブというより、これから屋我地島という島に向かう。実は今回沖縄の人に『行く場所は久高島と屋我地島』というと、『かわってる。沖縄の人は普通行かない』と言われ、中には『屋我地島なんて知らない、どこにあるの』と言われて面喰ったりした。実は、いや勿論私も何も知らないのだ。ただIさんが『今晩は屋我地島に泊まったらどうですか』と言われ、それに従っただけだ。

 

那覇の街を出ると青い海が広がっている。道路に車の姿も少ない。これはいい。途中でドライブインに寄る。実は今晩の食事はここで調達するというのだ。何だか楽しくなってきた。Iさんが私のために選んでくれたのは、スパムおにぎり。スパムはランチョンミート。沖縄の人が大好きだとは聞いていたが、これほどデカいおにぎりになっているとは。

 

またおかずとして、かまぼこ、と言われたので本土の蒲鉾を想像したが、これも大きく違う。全てが揚げてある。これは東南アジア型の食事だ。この2つで十分すぎる量だった。すごい。

 

そしてぜんざい、食べますか、と聞かれ、はいというと、何とかき氷ぜんざい?が登場。かき氷の下に白玉が入っていた。食べている脇にはなぜか宝くじ売り場がある。とても新鮮なドライブインだった。


アロハホテルで極楽生活

車で那覇からおよそ1時間半、ようやく屋我地島に到着。この島は本島と橋でつながっており、島に来たという実感はない。因みにこの島を中継して古宇利島へつながる。古宇利島の方が有名であり、屋我地島には何もないように見える。実際島の中に何かがある感じはない。そして今日の宿泊先、アロハホテルが見えてきた。広大な敷地、本島の向かい側に位置しており、眺めは抜群。南国ムード漂うホテルである。しかしなぜアロハなのか、なぜこの島にあるのか、はっきり言って謎だらけだ。

 

IさんがここのオーナーOさんを紹介してくれる。そしてなんと彼女は那覇に帰ってしまった。そしてなんとなんと、お客さんは私しかいなかった。借り切り、というか、オーナーと二人きりというか。奇妙な状態に置かれる。

 

部屋に案内されると、そこはスイートルーム。長期滞在も可能でキッチンもある。リビングも広く、実に快適な風が海から吹き込んできた。いや、これは極楽だ。ここでダラダラ過ごそう、とっさにそう決めた。何もしない。トイレも広い。気分がいい。

 

ただネットが部屋では繋がりにくかった。習性でロビーに行ってネットした。でも直ぐ止めた。こんなところに来てまでネットするほどアホなことはない。Oさんが飲み物を持ってきてくれた。母屋の屋上に上がると、すごくいい風が来た。向こうでは夕日が傾き始める。そんな中で、色々な話をした。2時間ほど、沖縄の話やら、不動産の話やら、こちらの身の上話などしていたら、どんどん時間が過ぎた。

 

部屋でシャワーを浴びると快適だった。さっき買ったスパムおにぎりとかまぼこを食べた。すぐにお腹が一杯になった。夜空の星でも眺めようと思ったら、何と雨が降り出した。雨を眺めながら、Oさんとビールを飲んだ。ひんやりして美味かった。

 

Oさんは大のハワイ好きで、今でも1年のうち1₋2か月は行っているらしい。だからアロハホテルなんだ。那覇で不動産業をしたお金をこの地につぎ込み、ハワイのリゾートを再現しようとした。しかも手作りで。5年の歳月を要したそうだ。同じ沖縄と言っても、この辺りは那覇とは違う。地元の人の協力も得なければ何もできない。時間がかかったようだ。幸い地元の協力者が見付かり、今は2人でやっている。それでも広大な敷地、植物の管理だけでも大変だ。昨年は台風で大きな被害も出した。ホテルを辞めようか、と思うこともあるようだ。この辺、実に率直な会話になった。実に面白かった。気が付いたら11時を過ぎていた。

 

5月30日(木)

朝食

ゆっくり目覚めた。ベッドルームは東に面していたので朝日が眩しかった。それでも気持ちはすこぶる爽快。ベランダに出て朝の風を浴びる。目の前に海が広がる。すごい。このホテルは元々釣り宿として、内海で釣りを楽しむ人のためにあったところだそうだ。確かにホテルの海の方へ降りると、小舟に乗れる。これはこれで楽しいのだろう。

 

散歩に出た。島のどちらに歩いて行けばよいかも分からず歩き始めたが、何と急に雨が降ってくる。そうなると隠れるところもなく、ダッシュでホテルに戻る。ホテルは入口から登坂になっており、かなりきつい。朝から相当の運動をした。

 

朝ごはんはホテルが用意してくれた。アロハホテルのイメージとは異なる純和風。お粥、吸い物、卵焼き、これは実に繊細で嬉しい。そしてまた海を眺める。10時頃に那覇に用事で出るOさんの車に便乗して島を離れた。何とも夢のような一夜だった。

 

流求茶館

Oさんの車に便乗し、那覇へ。車中でまた1時間半、色々と語り合う。本当に初めて会った人という感じがしない。かなり深い個人的な会話が続く。これも日本では極めて珍しい。『初めて会ったとは思えないさー』と言われ、ちょっと嬉しい。那覇市内のローソンの前で車を下りる。ここがどこかは分からない。すると向こうからIさんがやってきた。オフィスが直ぐそこらしい。ここはどこかと見ると、何と県庁の裏だった。こんな一等地に。『祖父の家だった』というが、ロケーション抜群。

 

車でランチに。那覇の来る前にシンガポールの知り合いから『お茶なら流求茶館へ』と言われており、Iさんに連れて行って貰う。彼女も最近この茶館へ通っているという。この辺も茶縁だろうか。静かな場所にあるこの茶館、店内はカウンターもあり喫茶店の雰囲気でもあるが、テーブルの上に電気ポットが供えられていた。

 

ランチは魯肉飯セット。こちらでは台湾茶を扱っており、ご飯も台湾。台湾の魯肉飯は小ぶりの椀で食べることが多いが、こちらは牛丼風。お味は美味しい。何だか嬉しくなってしまった。沖縄は日本本土より台湾に近い部分もある。台湾に行きたいな、と言っていると、『明後日からお店主催の台湾ツアーがあり、Iさんも参加するんです』というではないか。何と羨ましい(後日聞いたところ、Iさんは急に行けなくなったと残念がっていた)。

 

台湾へ何度も行っているうちに台湾茶好きになり、それが高じてお店を出して既に8年。沖縄では珍しい茶館。実にホッとする空間がそこにある。自分で高山茶を入れて、ダラダラしている、沖縄の緩い空気が心地よい場所だった。YさんとMさんにはこれからもお店を続けて欲しい、と思った。

 

沖縄の茶畑

実は沖縄に来た時から、『沖縄にも茶畑があるはず』との思いから、何人かの人に聞いてみたが、確たる答えが得られなかった。Iさんによると『確かにあるはず』と言い、茶館でも相談してもらい、琉球紅茶という名前に行きつく。ここがアジアならいきなりその場所へ行ってみるのだが、日本ではそれは失礼に当たる。この辺が日本の難しい所。Iさんが電話で聞いてみた。帰ってきた答えは『当社では茶畑見学などは受け付けていない』というものだった。まあそんなものかもしれない。

 

だがIさんは諦めなかった。うろ覚えでもう一つ昔行ったことのある場所へ電話した。答えは『今社長は茶作りで忙しくて、茶摘みもやっているのでとても対応できない』というもの。Iさんはしょんぼりしていたが、こちらの目は輝いていた。『それだ、行こう』。応対など期待していない。先ずは茶畑があり、まさにそこで茶摘みをしているのであれば、それだけで見る価値がある。だがその場所は那覇から30㎞は離れており、空港からは更に離れている。今日これから東京へ戻る私に残された時間はギリギリだった。でも行った。

 

Iさんの運転で、うるま市石川というところへ行きつく。ここは普天間基地からも近いようで、ヘリが飛んでいた。なだらかな丘を登る。そこには茶畑があったが、どうも今一つ管理されていなかった。その先に目指す山城紅茶はあった。喫茶店舗があり、そこへ入る。そして驚愕の事実が。

 

何とその向こう側の茶畑では茶摘みが行われていた。32度の炎天下、おばさん達がせっせと手で茶葉を摘む。こんな光景が日本で見られるとは信じ難い。日本の茶葉はほぼ機械摘みと頭から思い込んでいた。それにしても5₋6人で摘んでいる。早々茶畑に入り込み、写真を撮る。そしておばさん達に聞く。

 

この茶葉で紅茶を作っているらしい。だが『私はコーヒーしか飲まないさー』などとケタケタ笑う。いつから作っているかも知らない。何でこんな辛い労働しているのか、『草むしりよりは楽サー』と。唖然。後で聞くと沖縄には本当に仕事がないこと、60歳を過ぎても何かしら仕事をすること、などの習慣から成り立っているらしい。

 

店舗で紅茶を頼んでみた。ちょっと苦い感じがした。紅茶作りは3代目の若社長が自らスリランカに修行に行き、最近始めたようだ。当日も地元の放送局の取材が入っており、社長はその対応に追われていた。若手経営者として注目を集めているようだ。

 

私はカウンターにいた女性に話を聞いた。先代の奥さんだった。この茶畑は戦後作られたもので、先代までは緑茶を作り、本土へ送っていたとか。ただ最近は緑茶の売れ行きが落ち、3代目は紅茶に切り替えたらしい。沖縄の独自ブランドを作るのは変化する必要があるということか。

 

本格的にはこれからだろうが、このような新しい試みは素晴らしい。手摘みの茶葉を使い、紅茶を作る、次回は社長にお話を聞いてみたい。今回はもう東京へ帰る時間となり、茶畑を後にした。

 

空港で沖縄を思う

何だか興奮状態のまま、空港へ向かう。結構時間がかかった。やはり遠かったんだな。空港近くの野球場、ここでプロ野球が行われるらしい。そういえば沖縄は野球が盛んなところ、高校野球は強かったな。

空港で下川裕治さんの『新書沖縄読本』を買った。これは今回知り合ったNさんの疑問がこの中にあり、私にその確認の役目が与えられたからだ。機内で読んでいると沖縄の複雑さ、多様性が分かり、実に興味深く読んだ。

沖縄ブーム、とは何だったのだろうか。本土の人々は沖縄に青い海を期待するが、『沖縄の人が海に入ることは稀』という事実はそのギャップの大きさを物語っている。領土問題は別として、沖縄は日本でもなく中国でもない。ポリネシアの要素も多く、アジアを歩いている私から見れば、まさにアジア人であると言える。

これからもご縁があれば、沖縄へ行き、本島のみならず、離島へも行き、その多様な文化、社会を見ていきたいと強く思った。さて、来年ご縁があるだろうか。

 




沖縄久高島へ行く2013(3)

5月28日(火)

お別れ

あっという間に最終日になってしまった。今日も朝日を眺めた。今回ヨーガに関しても得ることが多かったが、久高島という島に来ることが出来たことが一番の感謝である。この島の伝統的な仕切りを見ると、今の日本にかけている様々なことに思い当たる。『本当の公平とは』『土地とはだれのものなのか』『自然を破壊するとはどういうこと何のか』。

 

そして今回の合宿メンバー、ここでは紹介できないが、ユニークな人々が集い、楽しかった。日本各地から、そしてバンコックお茶会のメンバーも一人、緊急参戦していた。ヨーガというキーワードで集まる多彩なメンツ。これも素晴らしい。

 

行きと同様、荷物だけ車で運んでもらい、港まで歩いていく。この島のことをもっと知りたいという感情と、部外者が知る必要はない、むしろ失礼に当たるのではないか、という両方の考えが頭をもたげ、混乱する。いずれにしても私の旅から言えば、ご縁があればまた来る、ということだろう。

 

もう1泊滞在するA師夫妻などとはここでお別れした。帰りの船は快晴の中、それほど揺れることもなく、無事本島に着いた。

4.     沖縄本島

半日観光

港へ着くと、それぞれの行先へ別れた。本当のお別れだ。だがうち9名は一団となってチャーターした車に乗り込み、半日観光に繰り出す。さて、どんな所へ行くのだろうか。何と最初に行ったのはセーファー御嶽だった。我々の一部は初日に行っていたが、行っていない人もいたので、再度行くことになった。もう1か月も前に来たような感覚で坂を上った。鬱蒼とした林が懐かしい。先日は雨模様だったが、今日は晴れ。雰囲気はまるで違う。晴れやかな祝賀の雰囲気がある。どういうことだろうか。ここは何度来てもよい場所だ。

 

そして次に非常に景色のよい知念岬公園へ行った。海が一望で来て、風が気持ち良い。ちょうどお昼の時間になっていた。交流館から各自に竹の皮で包んだ弁当が渡されていた。中にはおにぎり2個、揚げ物と煮物が入っていた。これは本当に本当に、飛び切り美味かった。この風景でこのご飯が食べられる喜び、幸せだった。ハングライダーで気持ちよく大空を飛んでいる人がいた。日本人の思う沖縄って、こんな感じではなかろうか。私自身は高所恐怖症で、とても乗る気になれないが、好きな人にとっては堪らないだろう。

 

午後はガンガラーの谷へ。ここは鍾乳洞が崩壊してできた谷間に広がる森。専用ガイドについて歩くため、時間が決められていた。鍾乳洞がカフェになっておりそこに集合。それから歩いて森を散策。小川の横を歩いていく。木々が大きい。そしてまた鍾乳洞へ。暗いので灯りを持って入る。そこには最近発見された人骨を採取場跡があった。このすぐに近くには『港川人』と呼ばれ、約1万8000年前の旧石器時代に実際にこの地に生きていた人類(ホモ・サピエンス)が発見されている。この地形から見ると、人が住んでいてもおかしくはない。この人々が日本人の祖先なのだろうか。十分にその可能性はあるが、まだ解明されていないようだ。

 

糸数城というところにも寄った。ここは14世紀前半に作られた城の跡のようだ。石垣の一部が残り、不思議な曲線を描いて、城が形成されている。どうしてこんな形なのだろうか。勿論理由はあるだろうが、今やそれを知る由もない。まさに「夏草や兵どもが夢の跡」という雰囲気が漂っている。

 

女性陣のお目当ては海が一望できる絶景「カフェくるくま」。本当にいい眺め。ここでお茶を飲んでいると、その雰囲気で美味しく感じられる。花が咲き乱れる庭、いいなあ。のんびりした。

 

最後に知念城。先ほどの糸数より、かなり形が残っている。ノロ屋敷跡、なども掲示されており、18世紀頃の沖縄の城、が再現されている。そしてバンは各人の宿泊先を回り、お別れしていく。私はこの前のホテルSに戻る。運転手さんが一言「なぜここに泊まるのか」と聞いたのが気に掛かる。

 

5.     那覇2

Oさん

ホテルに到着するとチェックインだけして、荷物を持って横の居酒屋へ。そこには知り合いに紹介されていたOさんが待っていてくれた。Oさんは沖縄のラジオパーソナリティ。沖縄で起こっている幅広い事象について解説してくれた。「沖縄は自立すべき」という言葉が印象的だった。

 

またヨーガ合宿で一緒だったNさんのことも知っていた。何とNさんの奥さんの教え子なのだそうだ。世間は狭い、いや沖縄は狭いのか?そんなご縁で話が弾む。ただ彼は朝早い番組を持っていることから、夜は早めに引き上げる。

 

5月29日(水)

修学旅行生と朝食

 

翌朝はゆっくり起きる。合宿から解放されると突然ルーズになるのは悪い癖。そそくさと食堂へ降りていくと、何とそこには修学旅行にやってきた小学生の一団がいた。何だか自分も修学旅行に来たような気分で、食堂の端の席に着く。

 

先生がしっかり席に着いて一緒に食べているせいか、それとも元々おとなしいのか、私が子供の頃のあの騒がしい学校の旅行の様子はない。きちんと食べている子もいるが、ほとんど食べていない子がいたことも特徴だろうか。きっと普段朝ご飯を食べないのだろうな。

 

周囲には台湾人の家族が食事をしていた。彼らは不思議そうに小学生を眺めていた。台湾には修学旅行はないのだろうか。いや、あったとしても、こんなに整然と子供が食事をする風景は日本しかないのかもしれない。