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『街道をゆく』を行く2005 赤坂1

【赤坂】2005年8月27日

夏の間、散歩は休みとなった。東京の夏は暑い。昼間出歩くのは苦行である。しかし2-3ヶ月経つと我慢できなくなる。出掛けた。今回は懐かしい散歩である。尚赤坂という地名はあるが、赤坂という坂は現在無い。

1.赤坂①
(1) 四谷から喰違見附

丸の内線で赤坂見附を目指す。ところが何故か1つ前の駅、四谷で下車。子供の頃から地下鉄なのに地上を走るこの区間が好きなのである。駅はきれいになっているが、駅前の橋の袂の街灯は昔風。

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線路沿いに歩き始めると上智大学がある。私には苦い思い出がある。大学入試には何回か失敗しているが、2回不合格になったのはここ上智だけである。余程相性が悪いらしい。教会がある。こんな雰囲気の学生生活を送りたかったのに??

更に歩くと左側に福田屋という料理屋が見える。その横に尾張徳川家の屋敷跡の碑。御三家筆頭として家康の九男義直が初代となった尾張。1637年にこの地を拝領した。しかし尾張は歴史上あまり目立ったところが無かった。何故であろうか?尚この辺りの地名『紀尾井町』は紀州徳川家(後述)、尾張徳川家、井伊家の頭文字を取っている。

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更に進むとホテルニューオータニ(彦根藩井伊家跡)が見えてくる。その手前の土手に『喰違見附』の立て札がある。1636年に外堀工事が始まり、39年に完成。その際櫓は無かったものの木戸として門が設置された(1872年に廃止)。1874年1月に右大臣岩倉具視がここで征韓論に敗れた不平分子、土佐の武市熊吉ら9名に襲われた。現在も道の見通しは悪く当時も襲撃するには適した場所であったのだろうか?岩倉は夜の堀に飛び込み、難を逃れたという。

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尚江戸時代この辺り(紀伊国坂―弁慶堀に沿った道で迎賓館の脇)は大変寂しいとこであったようで、ノッペラボウが出ると言われていた。ムジナの仕業であると小泉八雲の作品『むじな』にも書かれている。

(2) 紀尾井坂から清水谷

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ニューオータニの前に紀尾井坂がある。まさに井伊家のあったこのホテルから坂を下ると清水谷公園がある。公園自体はそれほど大きくなく、特に特徴は無い。入り口に清水が湧き出る井戸の跡が見える。

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しかしこの地は明治11年(1878年)に内大臣大久保利通が暗殺された場所である。大久保といえば徳川幕府を崩壊に追い込んだ薩摩の中心人物、明治に入っては同僚の西郷を西南戦争で死に追いやった男、そして明治の基礎を築いた官僚、といくつもの顔を持っている。

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その大久保が5月14日(私の誕生日でもある)の朝、西南戦争の8ヵ月後、霞ヶ関の自宅から清水谷坂を降りてきて、清水谷で暴漢に襲われた。石川県士族島田一郎ら6人は清水谷の奥深い林に隠れていたらしい。今でも多少林はあるのだが、どうだろうか?清水谷公園内には大久保利通哀悼碑がある。

本文では政府高官、それも後の総理大臣にもあたる内務卿に対して護衛を付けていなかったことに疑問を呈している。当時の警視庁長官、川路利良が薩摩の同郷大久保に護衛をつけなかった理由を『西郷を倒した大久保に護衛を付ければ国元の嘲笑を買う』としているのは分かりやすい。

また『大久保は水については無策であった』としているが、その公園内に『江戸水道の石枡と木桶』と題する記念物が展示されているのは歴史の皮肉であろうか?尚公園内にはきれいな池と小川が流れている。如何にも清水谷の名に相応しい。

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(3)弁慶堀と弁慶橋
少し歩くとニューオータニガーデンコートがある。その先は弁慶橋。1889年に橋が架けられる。それまでは橋が無く庶民は苦労していたらしい。弁慶橋の名の由来はあの弁慶が通ったなどというものではない。神田に架かっていた弁慶橋が数年前に廃橋になり、その廃材を使って架けられたとのこと。現在の橋は1985年に改築されたもの。

橋の袂には『紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡』という立て札も見える。明暦の大火の後1667年にこの地を拝領した。あの徳川吉宗もここに滞在して将軍への道を歩んだのであろうか??この地は現在赤坂プリンスホテルとなっている。

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橋の反対側にはボートハウスが見える。本文ではここで40代のボート屋の親父と言葉を交わしている。今日そこを覗くと英語で『Boat House』と書かれた建物がある。昔は外国人がボートに乗っていたのだろうか?ボートを漕いでいる人がボートハウスに近づいて来る。絵画の中にあるような長閑な風景である。

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弁慶堀は1637年に弁慶小左衛門という者が築造した外堀。日曜日の午後にこの堀を眺めていると実に気分が良い。

(4)豊川稲荷
橋を渡るとサントリー美術館がある。現在休館中。2006年には別の場所に移るらしい。青山通りを上る。鹿島の本社は横に2号館を建てている。景気は良くなったということなのだろうか?

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豊川稲荷の門が見えてくる。江戸時代には『伊勢屋』、『犬の糞』と並んで多いものに『稲荷』が挙げられている。それほど多かった訳は諸大名が屋敷神として稲荷を勧請したからだという。豊川稲荷は順徳天皇の第3皇子によって感見され代々受け継がれ、1441年に豊川の豊川閣妙厳寺に奉祀された。ということでこの稲荷は神社ではなく、仏閣なのである(だから鳥居はない)。赤坂の稲荷は東京別院であり、江戸時代に大岡越前守が生涯守護神としたインド神、荼枳尼真天を祭っている。本殿の額にこの神の名前が掲げられている。

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大岡家の屋敷はその後赤坂小学校(通りの反対側)となった。当然稲荷もそこにあったが、1889年に現在の場所に移った。(本文の中で1929年に移ったとしているが、これは間違いでは?)

境内には沢山の狐の像が置かれている。実は私は子供の頃この近くに一時住んでいたことがある。友達と一度ここに遊びに来て、あまりに狐が多かったことと薄暗かったことで非常な恐怖を覚え、それ以来二度と足を踏み入れなかった記憶がある。ということは今回の訪問は実に35年ぶりかもしれない。

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歩いていくと千日のぼりが沢山はためいており、相変わらず狐の像が多い。子抱き狐などと書かれたものもある。尚お供えの油揚げはお狐さんとは関係なく「イナリのナリは、物や生命を生み出す神」のことで、農業や商売繁盛の関係。油揚げをお供えするのは、揚げ物には蛋白質や脂肪が含まれていて体に良いという理由からとか。

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(5)高橋是清記念公園

豊川稲荷の横は赤坂御用地。ここで通りの反対側に渡る。あの羊羹の虎屋本店がある。16世紀後半、時の後陽成天皇に和菓子を納め、その後朝廷御用達の老舗である。明治維新後東京に移り、赤坂に居を定める。今も虎屋の羊羹といえば一番である。先日虎屋17代目の黒川さんが『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』という本を出された。読んで見ると水戸黄門に饅頭を届けたり、吉良上野介にカステラを納めたりしている。

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 更に青山方面に向かうとビルの前に大きな石が置かれている。石を覗き込むと『草月』の文字。草月流生け花は1927年に勅使河原蒼風が創設。個性を重んじる生け花で、国際化にも努めた。当日は休館で見ることが出来なかったが、庭にはイサムノグチの石庭もある。因みに義母はお花の先生であり、以前中国の要人が来日した際、その夫人が生け花に興味を持っていたので、見学させて貰ったことがある。中国語でも対応してくれていた。生け花も国際的なのである。

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その隣に高橋是清記念公園がある。一見普通の公園にしか見えないが、奥行きがある。入って直ぐに東京都の記念碑がある。1936年の2.26事件で高橋が凶弾に倒れた場所がここ。2年後には長男が東京市にこの場所を寄付。太平洋戦争の始まった1941年に公園となる。その後空襲に遭いゆかりの品は焼失したが、母屋は多磨霊園に移築され難を逃れたという。

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高橋是清は14歳でアメリカに渡ったが、途中で奴隷として売られた。逆境に強いこの人の精神はここから生まれたのだろうか?日銀総裁、総理大臣を経験、大蔵大臣には3度なり、3度目には昭和恐慌を乗り切る。『だるまさんが出てきたからもう大丈夫だ』と庶民に言わせる経済のプロ。今日このような政治家、大蔵大臣がいるだろうか?公園の奥にある高橋是清像には謙虚な人柄が滲み出ている。

(6)青山一丁目交差点

青山一丁目の交差点まで歩く。ここは実に懐かしい場所。私は小学校3-4年の1年ちょっとをこの直ぐ近くで暮らした。勿論自宅ではなく、父親の会社の社宅であるが。交差点の所に現在ホンダの本社があるが、35年前には古本屋が1軒あった。私のお気に入りの場所で、しょっちゅう漫画を立ち読みしていた。その横には蕎麦屋があったはずだ。天ぷら蕎麦を何杯も食べた記憶が蘇る。まさかこんな立派なビルが建つとは思ってもいなかった。

昭和40年代の青山は今ほどではないがおしゃれな場所であった。湘南の田舎から引っ越してきた私にとってテレビドラマのロケなどを見ると凄いところに来てしまったというカルチャーショックがあった。女優さんなどが歩いているのに出くわすと自分まで偉くなったような錯覚を覚えた。

我々の遊び場は流石におしゃれな場所ではなく、近くの児童公園であった。そこへ行って見た。公園はあったが、今は子供用ではなく、大人が静かに本を読んでいた。入り口には赤坂消防署発祥の地という碑が建てられていた。昔砂山を築いた砂場が無いのが何故かとても残念。

外苑東通りを南へ下る。都営住宅が見える。来年には建替え計画がある。昔同級生にはお金持ちの子もいたが、都営住宅に住む普通の子も沢山いた。いかにも典型的な昭和30-40年代の住宅が妙に懐かしい。忘れていた同級生の顔なども思い出す。

高度成長期の日本と古き良き日本が交錯した昭和40年代。私の家の目の前で繰り広げられた70年安保闘争(機動隊に追われた学生が血まみれになりながら社宅に逃げ込んだこともある。デモ隊はこの交差点が必ず赤になっていて一晩中足踏みしていた。)、三島由紀夫の割腹自殺(床屋でテレビを見ていると直ぐ近くの市ヶ谷で事件が起こったのをはっきり覚えている)、日教組のスト(小学校に行くと先生が授業に来ない、自習が続く不可思議さには今も首を傾げている)など。自分も歴史の証人になった気分。

(7)旧乃木邸

やがて旧乃木邸へ。乃木希典は長州の支藩、長府藩の江戸藩邸に生まれる。子供の頃は弱虫であったという。その後長州の逸材御堀耕助と従兄弟同士という関係で黒田清隆に紹介され、陸軍へ。西南戦争での軍旗奪失事件や日露戦争の203高地で有名となるが、その生涯は歴史の教科書的なそれとは異なりそれほど華やかなものではない。

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明治天皇の死に殉じた乃木は戦前の政府、軍より忠臣として奉られてしまったが、当人には苦しい一生だったのではないだろうか?西南戦争でも敗走し、旅順攻略でも多くの兵隊を死なせてしまった。司馬は大傑作『坂の上の雲』の中で乃木の無策を描き、大山巌が児玉源太郎を乃木の代わりに指揮官に指名する場面がある。

児玉の凄いところはその命令書を出さずに乃木から指揮権を奪ったこと。しかしそれは乃木自身分かっていたのかもしれない。内心ホッとしていたのでは?こんな不謹慎な事は戦前絶対言えないことであった。それが大東亜戦争を招き、そして日本を破滅させたのである。

司馬にはもう1冊『殉死』という乃木を書いた作品がある。その中で『乃木希典は軍事技術者としては殆ど無能に近かったとはいえ、詩人としては第一級の才能に恵まれていた』と書き、ドイツに留学する前の彼は『乃木の豪遊』といわれるほどに遊郭に出入りしていたとある。かなりイメージが異なる。

西南戦争での軍旗奪失事件(彼は自責の念が強く、自殺する雰囲気が強かった)とドイツ留学により乃木という人物像が出来上がり、そして203高地後のステッセルとの歴史的な会見で確定した。見事なまでに軍事的に無能で、また見事までに詩的な人物である。

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乃木邸はヨーロッパ外遊後明治35年にフランスで見た連隊本部の簡素で機能的な建物を模して、ここに建造した。現在邸内に入ると右手にはレンガ造りの馬小屋が見える。母屋が木造なのに馬小屋がレンガ造りと評判になったそうだ。

母屋は外から中を覗くことが出来る。殉死した部屋もある。全てが簡素な造りである。土地が傾斜しているので台所は半分地下に埋もれている。母屋の横には乃木将軍と少年の像が建っている。将軍が金沢で出会った辻占売りの少年とのエピソードが書かれた板がある。乃木が無能であっても人々に愛されたことがこの像からも分かる。

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(8)乃木神社

母屋を下ると乃木家の社がある。先祖と共に日露戦争で亡くなった2人の息子も祭られている。庭には他に『乃木大将夫妻?血之処』と書かれた碑もある。自決した際の血の付いた遺留品を埋めた場所である。天皇に殉じるということが極めて重い出来事であることを表している。尚この邸は遺言により東京市に寄贈された。

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裏門を出る。そこに乃木神社が建てられている。乃木坂は昔幽霊坂と呼ばれていたが、1923年に神社が建てられた際、赤坂区議会の決議で乃木坂と命名される。本文は言う。日本には地名、駅名、空港名などに人名が使われる例は希である。乃木坂はその例外であると。(その後千代田区を歩いていると東郷平八郎の屋敷跡脇に東郷坂があった。小さな坂で有名ではなかったが。)

神社は広くは無いが、本殿は涼やかな様子で建っている。昭和20年の空襲で全て焼失したもののその後直ぐに再建されている。横に展示館があり、中には将軍縁の品々が保管されている。生前読まれた詩、殉死時の刀、中国に建てられた碑のコピーなどが展示されている。殉死した日の朝、夫人と収まった写真もある。

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彼は彼なりの人生を生き抜いたのであろうが、後世の人々、特に軍部の悪意に利用された。乃木が西南戦争で軍旗を奪われた際にあまりに自責の念に駆られた為、その後軍旗は神聖なものとなり、旗を奪われた者は死をもって償うようになる。またあれだけの兵を死なせたにもかかわらず、罷免もされずかえって昇進している様子はその後の軍首脳部の無責任体質に繋がったかもしれない。それでも乃木は満蒙開拓団を見捨てて逃げ出したりはしなかったと思うが。

神社には乃木夫妻が祭られているが、ここには乃木の為に命を奪われた全ての人々が祭られているような気がする。

(9)氷川神社

乃木坂を下る。赤坂中学の横を通る。昔学生時代に家庭教師のバイトをしたことがある。週2-3回松戸にある家に通った。時給が良かったのと夕食が出たから続いたのだと思う。その子は赤坂中学に越境入学をしていた。何の為かは知らないが、松戸から赤坂まで毎日通っていたのである。そして帰宅すると私が待っている。今にして思えば彼は大変だった。何となくそんなことを20年ぶりに思い出した。急に歳を取った気分になる。

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乃木坂から赤坂通りになって直ぐに右へ。地図も見ないで目的地を探す。高台へ上がるだけだから簡単だと思ったので、本氷川坂という結構急な坂道を登る。午後の陽が降り注ぐ。上り切ると氷川神社の裏に出る。鬱蒼とした森にでも来たかのように急に陽が翳る。

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氷川神社は八代将軍吉宗が1730年に建立した。本殿は木造銅板葺き、極めて質素な造りは吉宗らしい。周りも実に静かで一つ木通りなど賑やかな赤坂とは一線を画する。鳥居の外側には樹齢400年を越える大銀杏がある。神社が建立される前、この地は三好浅野家の屋敷であった。あの赤穂浪士の浅野内匠守の奥方瑤泉院の実家であり、彼女は夫の切腹後亡くなるまでこの地で過ごした。ということは恐らくこの銀杏を見ていたのであろう。いや銀杏が彼女を見ていたのかもしれない。

また何故か包丁塚という塚もある。この界隈には味覚自慢の料理人が多数いたということで建てられたとある。赤坂は確かに今でこそ有名料理屋などが沢山ある高級な場所であるが、明治時代までは寂しい所であったから勝海舟などはこれを見たらビックリするかもしれない。

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海舟は維新後この神社の直ぐ近くに住み、『氷川清談』を表している。海舟といえば咸臨丸でアメリカへ行き、江戸城無血開場を西郷隆盛と談判している。この時も本赤坂下に住まいしていた。亡くなった場所は氷川小学校(今は学校も無くなり老人養護施設)になっている。この神社の祭りは江戸の祭りらしい華やかなものだという。

 

 

関西迷い旅2014(3)イスラムの勉強はベリーダンスから

4.大阪2

新疆料理

京阪に乗り、大阪へ向かう。思ったより時間が掛かり、難波での待ち合わせに遅刻してしまった。先日訪れた軽井沢に移住した後輩、Tさんの紹介で、関西で中国語新聞を発行している日本人Kさんと会う。Kさんは昨日軽井沢でTさんと会っており、夜行バスで大阪に戻ったらしい。しかも明日からは四川省に出張と言う日程の中、奇跡的に会うことが出来た。実にタフな女性だった。

 

指定された場所は道頓堀にほど近い、新疆レストラン、ムカーム(http://muqam.pepper.jp/)。こんなところにこんなレストランがあるのか、と言う軽い驚き。Kさんの顔で夕方は開いていないのに、無理やり開けてもらい、お茶とお菓子を頂く。

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オーナーは新疆ウルムチ出身のウイグル人夫妻。ご主人が丁寧な接客をしてくれ、チャイと奥さんが昨日新疆から持って来たお菓子が出てきた。大阪にいることを一瞬忘れた。奥さんはベリーダンサーでもあるということで、華やかな女性だった。次回は夕飯をここで食べられたらと思う。

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5時半過ぎに今晩のイスラム勉強会の主催者Mさんより電話が入る。折角のイスラム繋がりなので、このレストランに来てもらう。大阪在住の彼もこんな店があることに驚き、またこんなご縁が生まれることに感謝していた。次回もしイスラムの会があれば、このレストランを使うこともできそうだ。

 

インド料理とベリーダンス

Kさんと別れて、Mさんと一緒に今晩の会場へ行く。インド料理屋。オーナーは日本人女性で彼女にイスラムの話をしてもらう予定だったが、店が忙しく、代わりにエジプト人男性が流暢な日本語で、日本人の持つイスラムやイスラム教徒のイメージが実態と違っていることを説明してくれた。その気持ちは良く分かる。

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インドカレーとナン、タンドリーチキンが出て型どおりの食事となる。参加者は20名ほど、イスラムへの関心か、予想以上に集まっていた。本当はMさんのイスラム貿易話も沢山聴きたかったが、今日は幹事業に専念しており、残念だった。

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参加者の中にはなぜかアラブの衣装を着てくる人などもいて、勉強会というより、ノリの良い飲み会になって来た。そしてお待ちかね?ベリーダンスが始まった。日本人女性が2人踊ったが、なかなか妖艶で皆、目が釘付けになる。更にはノリノリになり、即席ベリーダンス講習会が始まった。さすが大阪、皆さんノリがいい。

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中にはダンサーに個人レッスンを申し込む人などもおり、会は大盛況の内に終了した。だが勉強会としてはどうだっただろうか、まあ楽しかったからいいか。2次会でこじんまりしたバーで一杯のみ、大阪の夜は終わった。

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9月20日(土)

横浜中華街へ

翌朝は早く、ホテルをチェックアウトして、新大阪へ行き、新幹線に飛び乗る。今日は横浜中華街のパーティーに行くことになっている。何だかビジネスマンの出張のようなスケジュールになってしまった。土曜日だから新幹線はそれほど混んではいなかった。10時頃には新横浜に到着した。

 

5.横浜

香流1周年パーティー

新横浜駅に降りるのは20年ぶりぐらいではないだろうか。駅前には大きなビルはなく、昔ながらのアパートなども見え、それほど大きく変わっていないように思われる。これが日本の最近20年の状況を表わしているように見えてしまう。

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電車を乗り継ぎ、横浜中華街へ辿り着く。小雨が降っており、ちょっと疲れたのでカフェに入り、メールチェック。それから奥さんと合流し、茶文化サロン香流さん(http://xiang-liu.com/)の一周年パーティーへ行く。香流では今年の2月に1日セミナーを開いて頂き、茶旅のお話をさせて頂いた。因みにオーナーは大学の先輩、特に家内と同じ学科という珍しい茶縁である。

 

会場のイタリアンレストランへ行くと、既に入口まで参加者が入場を待っており、大盛況。結局130名もの方がお祝いに駆けつけたという。愛されている香流。棚橋先生の祝辞で始まり、会場内には5つのブースに緑茶、白茶、青茶、紅茶、黒茶が各3種類用意され、中国茶関係では有名な参加者も興味津々。お土産の茶杯を片手に、各テーブルを回る。美味しいデザートも提供され、皆満足そうだ。

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またお茶席も用意され、限定メンバーでうらりんさんのお茶を堪能していた。いつも感心するのだが、お茶席をきれいに整え、良いお茶を用意して優雅に淹れる、私にはとてもできない芸当だ。

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今回27年ぶりの再会もあった。中国留学中、上海と瀋陽で会った大学の後輩Oさん、その後一度も会う機会はなかったが、最近偶々Facebookで発見し、連絡を取り合う。そしてお茶に興味があるというので、同窓で家も近いちょしさんを紹介、今回ちょしさんが声を掛けてくれ、Oさんもこの会に参加。これも1つの茶縁だろうか。因みにちょしさんも大学の先輩で、今後香流で講座を持つ予定だとか。あまりお茶と関係なさそうな同窓生がお茶を通じて出会い、一緒に何かを行う、これこそ茶縁だろう。

 

2時間の会はあっという間に終了し、東京へ帰る。しかし休む間もなく、明日は朝から福岡へ飛ぶ。

 

関西迷い旅2014(2)金閣寺の茶房と先斗町のパフェ

9月19日(金)

3.京都

金閣寺へ

翌朝はホテルの朝食が付いていたので、モーニングを食べる。これはこれで十分よい。あと300円出すと和定食が食べられるらしいが、それを望む客がいるのだろうか。皆が同じものを食べている。新大阪から僅か一駅、その駅前でも朝食をサービスしないと集客できないのだろうか。

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駅へ行き、各駅停車で京都へ向かった。普通なら快速電車を使うのだろうが、時間に余裕があると思い、各駅にする。通学の高校生と共に揺られていく。意外と時間が掛かり、京都駅へ着いたら、9時前になっていた。駅前のバスターミナルは各地へ向かうバスが集い、良く分からない。何とか尋ねて、金閣寺行きを目指す。金閣寺に行くのは20年ぶりだ。確か中国人のお客さんを連れて行き、喜ばれた覚えがある。中国人は金が好きだ。

 

バスは全国高校駅伝のコースの道をいくつも通過した。何となく嬉しい。道はそれほど混んではいない。だが、一向に金閣寺には到着しない。乗るバスを間違えたかと思うほど、長い時間バスに揺られた。乗客も増えており、かなりの人が立っていた。50分ぐらい乗って、ようやく金閣寺に着いた頃には結構疲れていた。

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金閣寺の参道を歩く。修学旅行生が多い。私も修学旅行の時にやって来たのを思い出す。中に入りたかったが、約束の時間になったので、引き返す。寺の近くの京都の町家、といった路地に入る。そこに目的地、ISO茶房(http://www.iso-sabo.com/)があった。

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ISO茶房のオーナー、磯尾さんとは3月に台湾で友人の紹介により、偶然に会い、共に茶旅をした。いや偶然ではなかったのかもしれない。サラリーマンを辞めて、お茶を勉強し、自分の店を持つ、面白い人生を歩んでいる(先方も私が面白い人生を歩んでいると思っているに違いない)。

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お店は本当に静かな佇まい、手前に和室があり、奥がテーブル、更にその奥が裏庭と贅沢な構造になっている。これが京都の建屋だろうか。その家具にも趣があり、雰囲気を醸し出している。お茶は緑茶と白鶏冠を飲んだ。磯尾さんが直接現地に赴き、セレクトしてきたお茶だった。お茶菓子も美味い。ゆったりと2時間ほどの時間を過ごし、この空間を後にした。最近は色々なお茶会や茶の講習会に使われているそうだ。

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先斗町の長竹

磯尾さんにバス停まで送ってもらい、先斗町に向かう。京都の先斗町と言えば、色町のイメージがある。今日は京都でお茶を販売しているMさんに呼んでもらったのだが、ちょっと緊張する。しかも金閣寺からのバスが、これまたなかなか着かない。時間ギリギリに川べりに着く。

 

そこから先斗町という細い路地を歩いて行く。昼間も観光客を中心に歩いている人が多く、ランチなどを出す店も沢山ある。そんな中で指定されたお店、長竹(http://tabelog.com/kyoto/A2601/A260301/26000022/)に行くと、何と『準備中』の看板が掛かっていた。時刻は12時50分、この時間に準備中というと昼の営業はあり得ない。ということは私が約束の場所を間違えたか、日にちを間違えたことになる。

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一応恐る恐る戸を開けてみると簡単に開いてしまい、カウンターに大将がいた。『いらっしゃい』と言われたので、これから店を開けるつもりだと分かる。だがMさんの予約だ、と言うと、『そんな予約あったっけ?』と言われ、また焦る。『まあどうぞ』と言われたのでカウンター席に座る。あとで聞くと、最近は午後1時開店だそうだ。

 

このお店、こじんまりしているが、急須などの茶器がかなり置かれており、また中国茶、台湾茶関係の書籍なども沢山あった。『Mさんの知り合いというとおたくもお茶屋さん(京都でお茶屋さんと言うと意味が違うような気も)?』と聞かれる。それにしても約束の1時を過ぎてもMさんは現れない。どうしよう?お店には雑誌の取材が入っており、写真を撮っている。

 

他のお客さん、常連さんが友達を連れて入って来た。ようやくMさんが登場したのは10分ぐらい経った頃。何となくホッとした。茶葉入りの炒飯を注文。Mさんがおばんざいを2品頼んでくれたが、京野菜と味付け、もっと食べたくなった。何ともゆったりした中に、ちょっと緊張感のある食事、これもまた味がある。

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そしてデザート。和食のお店ながら『写真うつりがいいの、お願いします』と行った所、凄いパフェが出てきた。これにはビックリ。他のお客さんも写真を撮りだす。確かにこれは写真うつり抜群。どうしてこれが先斗町で出てくるんだ。お茶も茶葉が茶碗の中に入っていて、美味い。これはなかなかすぐれもののお店だと分かったところで本日のランチは終了となる。尚Mさんとは『来年グルジアツアーで』と言って別れたが、果たしてその再会はあるのだろうか。面白い茶縁である。

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関西迷い旅2014(1)カツ焼きそば定食で乗り違い

《関西散歩2014》  2014年9月18日-20日

 

昨年は4回も行った関西圏。今年は機会がないな、と思っていると、昨年知り合ったMさんが『イスラムに関する勉強会』を開催するというので、参加することを決意した。今やイスラムを無視しては世界を語れない。本で読むのではなく、Mさんのように実際にイランやインドネシアなどイスラム圏と貿易をしている人から知識を得たい、と言うのが趣旨であったのだが・・?

 

9月18日(木)

1.大阪1

新幹線で大阪へ

16日の昼に東京に戻った。そして久しぶりに奥さんの誕生日を祝う。長男は気を効かせて(私に会いたくなくて?)、千葉の家に行ってしまう。2人で食事に出掛けるなどは一体いつ以来のことか?千歳烏山にも色々の店があることが分かり、面白い。

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翌日は家でゆっくりして、翌々日の朝、新幹線に乗る。飛行機も検討したが、成田まで行かないと安いフライトはなく、関空からも面倒なので、結局品川から新大阪へ行く。のぞみは速い。2時間半ぐらいで大阪に着いてしまう。予約も要らないほど頻繁に出ているので便利だが、ただ料金は高い。何とかならないのだろうか、日本の交通費。

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午前10時前に新大阪へ着き、予約した東淀川のホテルを目指す。新大阪から在来線で一駅の東淀川、乗り換えがちょっと遠い。在来線の各駅停車は10分に一本。僅か3分乗ると着く。ホテルは駅前にあり、コンビニが併設されていた。荷物をフロントに預け、コンビニで飲み物を買い、かなり広いイートインスペースでネットを始める。この環境は居心地が良く、旅行記がどんどん書けた。

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ランチはカツ焼きそば定食

調子に乗ってPCと睨めっこしてしまう。気が付くと12時を過ぎていた。今日の約束は2時前に西宮付近、電車で一本と聞いていたので、まだ十分時間があると思い、近くの商店街を歩いて、ランチを探す。直ぐに目に入ったのが、カツ焼きそば定食。このお店はお好み焼き屋さんのようだが、色々なランチメニューを揃えていた。中に入るとお客さんがかなりいたので、安心して注文した。出てきた物を見て驚く。本当にトンカツと焼きそば、目玉焼き。豪華なラインナップだ。

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そして更にご飯とみそ汁、漬物まで出てきた。焼きそばとご飯、中国人ならビックリの炭水化物攻撃、その上にトンカツだから凄い!お味もよく、しかも値段は680円、さすが大阪、このコストパフォーマンスは半端ない。

 

食べ終わった頃には充実感に浸り、満腹感で眠気が出てきた。ゆっくりと駅へ向かい、JRで西宮方面へ向かう。まだ時間的には十分間に合うので、ゆるゆると行く。尼崎を過ぎ、もうすぐ西宮かな、と思ったが、いつまで経っても駅名が出て来ない。おかしいと思い、着いた駅から上を見ると、何とANAの飛行機が飛んでいた。ここは一体どこなんだ?

 

駅名を見てビックリ、北伊丹だった。完全に乗り間違えている。慌てて降りて電話すると、既に約束の2時に間に合わないことが分かる。兎に角尼崎まで戻り、神戸線に乗り替えてさくら夙川という駅へ。駅には有難いことにお迎えが来ており、何とか10分遅れで会場に着いた。駅から会場まで歩くつもりだったが、かなり遠かった。いずれにしても見通しが甘く、事前勉強不足は否めない。

 

今回はカンボジア関連のセミナーであったのに、講師が遅刻と言う大失態。大変申し訳ない。何故こうなったのか、それは関西圏の地理に詳しくないのに、ちゃんと調べずに電車に乗ったことだろう。東京から横浜に行く感覚で電車に乗ったら、川崎で横に曲がってしまったようなものだろうか。更にはランチの満腹感でボーっとしてしまったのかもしれない。

 

2.神戸

セミナーとディナー

午後2時過ぎに始まったセミナーでカンボジアに関していくつかのお話をした。カンボジア事情、ボランティアのこと、伝統の森のこと、など私の理解の範囲を話したつもりだ。更にはアジアを歩いてきた経験から頭に浮かんできたキーワードなども合わせてした。参加頂いた方々には熱心に聞いて頂き、質問も沢山出て、話し甲斐のあるセミナーだった。

 

会場もよい環境にあるIさんのヨーガ教室で、行われたこともあり、皆さんリラックスして聞いてくれたように思う。この企画は12月にヨーガチームで行く、カンボジアのシェムリアップの勉強会を兼ねており、12月のアンコールワットツアーがとても楽しみになって来た。

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その後、阪急電車に乗り、場所を移して有志で懇親会が行われた。会場はとても雰囲気の良いレストランで、食事もしっかりと作られていた。日本と言う国は、特に有名ではないお店でも、本当にきめ細やかに料理を作り、店の造作も見事に出来ている。いつも感心してしまうところだ。

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また話の内容も少し高度になり、哲学的な意見なども頂戴し、勉強になった。自分がアジアで感じたことが、日本ではこのような哲学、ヨーロッパではあの人の哲学、と言う風に言われると、不思議な感じがする。私は哲学など勉強したこともなく、本すら読んだことはない。何か通じるものがあるのだろうか。

 

帰りはまたJRに乗り、東淀川へ戻る。今度は間違いようもなく、一度でホテルまで行けた。昼間は一体なんだったのだろうか。

軽井沢で過ごす2014(2)様々な軽井沢を満喫

軽井沢散歩

それから軽井沢の観光地を散策した。何しろ30年近くも行っていなかったので、随分と変わっているだろう。先ずは万平ホテルへ行く。このホテルの歴史は古い。ホテル内に展示室があり、そこを見ればその古さが分かる。江戸時代に開かれた亀屋、それが明治になり、外国人が来るようになり、佐藤万平の名前を取り、万平ホテルへ。

 

如何にも軽井沢のリゾートホテル。雰囲気は抜群に良く、ロビー自体が芸術的だ。ちょうど改装中のところもあったが、長くそこに居たい気分になる。すかさずT夫人が『お茶でも飲みましょう』と言い、屋外に心地よいカフェを眺める。天気が良いと全て良い。残念ながら時間の関係もあり、次へ進む。

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続いて軽井沢ショー記念礼拝堂へ行く。ここは本当に環境が素晴らしい。『避暑地軽井沢発祥の地』という杭が刺さっているが、頷ける場所。1880年代にこの地に住み始めたショーという名のカナダ人宣教師がいたらしい。横には小川が流れ、川のせせらぎがいい。苔の生え方も実にいい感じだ。この辺には自転車で回ってくる観光客もいた。台湾人の女性2人も楽しそうに散策していた。礼拝堂で思わず礼拝する。

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軽井沢銀座という通りも歩く。観光案内所には英語だけでなく中国語や韓国語の案内も置かれている。今の所、台湾や香港からの観光客が多いようだが、今後は中国からの観光客が増えると見ている。ここは人が沢山歩いている。週末はかなりの人ごみになるらしい。

 

車は木々の林を行く。雰囲気の良い軽井沢の一等地を走って行く。如何にも普通の別荘地とは違う。そんな中、かなり奥の方に旧三笠ホテルはあった。軽井沢の鹿鳴館と名を馳せた面影は十分にある。中には入らなかったが、外から建物を眺めるだけで貫禄を感じる。周囲の環境も非常に良い。

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T家で

ようやくT家に戻ってきた。この家は中軽井沢から少し山に入った辺り。何とも心地の良い木々に囲まれている、雰囲気の良い家だった。庭には色々と木が植えられており、良いアクセントになっていた。2階建ての家で1階のリビングからテラスへ出る。

 

既に夕方になっており、テラスでバーベキューが用意される。何とも贅沢な環境。テラス脇には薪が積み上げられ、冬は暖炉で暖を取るのだろう。いいな。T夫人がバーべキューを始め、肉や野菜を焼いてくれた。木々の間から夕日が落ちていく。実にいい夕暮れだった。

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Tさんはこの軽井沢で不動産業を始めるという。これから台湾や香港の人々が軽井沢を気に入り、住みたいと思うだろうと考えているようだ。既に欧米人で、ここに住んでいる人々がいるのだから、あり得る話である。勿論日本人でも、定年退職後、ここに居を構える人がいる。Tさん以外にも元勤め先の先輩方もいるようだ。確かに良い所だと思う。冬はどうなんだろうか?寒いかな?

 

結局夜遅くまで話し込んでしまい、夜半に2階で寝かせて貰う。全く静かな夜、音もない夜、ぐっすりと眠ることが出来た。部屋がゆったりしていたからだろうか。こんな環境で老後を送るのもよいな、と思う。

 

7月12日(土)

朝の散歩

『軽井沢は朝の散歩が最高なんです。その為にここに住んでいる人が沢山います』と昨晩Tさんに言われたので、今朝は6時に起きて散歩に出る。Tさんも付き合ってくれた。それにしても7月の東京はそれなりに暑いが、ここ軽井沢の朝は実に涼しい。昨日の昼間はそれなりの暑さだったのだが、朝は格別に違う。ここ中軽井沢には一般の家もあり、夏だけ来る別荘族の家もある。広い別荘風の家があり、イギリス人が開いたゲストハウスもある。実に多彩で面白い。更に若干の坂もあるので、健康的な散歩には程よい感じだ。

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かなり歩いたところに、きれいなホテルがあった。庭が広く、中まではよく見えないが、高級感がある。その近くにはレストランやベーカリーがあった。軽井沢の朝、軽井沢は朝食、なるほどと思う。そしてレストランの朝食メニューを見て驚く。モーニングが1200円もするのだ。これはランチ並。東京の喫茶店でも今では500円前後だろう。恐らくは相当に良い材料を使っているのだろうが、土曜日の朝は8時かららしく、まだ店は開いていなかった。軽井沢の物価は決して安くない、と感じる。

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1時間半度散歩して、家に戻るとT夫人が朝食を用意してくれていた。またテラスで食べる。実に気持ちが良い。普段はこのようのお家で食べ、誰かと会うなど用事があるとレストランで食べるのかもしれない。軽井沢の朝の外交、面白そうだ。

 

それからはボーっとしていた。結構歩いたので疲れてしまったのか、また朝が早かったからなのか、いや居心地が良かったからか。その内にお茶でも飲もうということになり、茶具を用意してもらい、私が持参した鉄観音茶を淹れてみた。テラスのさわやかな風に吹かれながら飲む張さんの鉄観音、また別の味わいがあった。ここでお茶会なんかやると良いかなと思う。

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スーパーへ買い物に行くというので付いて行く。かなり大型のスーパーがあり、皆車で買い物に来ている。軽井沢だから高級品しか売っていないのだろうと思って覗いてみると、野菜などは地元でとれた物が格安だった。勿論肉やニーズ、ワインなどセレブが使うものは高かったが、庶民向けの食材も豊富で、それほど不自由はなさそうだった。

 

格安のランチ

ランチはゲストハウスの向かいにあるカフェへ行く。何とワンコインで美味しい物が食べられるというのだ。物価の高い軽井沢でそれはないだろうと思って行ってみると、本当にヒレカツ定食が500円。食後のコーヒーはセルフサービスだった。しかもカツの味はしっかりしている。お肉屋さんが実家だとか。驚きである。メニューには他いタンシチューなどもあり、本格的。当然お店はお客さんで一杯。ここは観光客が来るのではなく、地元の人達が集う場所。Tさん達の顔見知りもおり、会話も世間話が多い。

 

食後ゲストハウスに寄る。イギリス人のオーナーは忙しそうにしていた。今晩花火大会を企画しているらしい。夏は皆、色々なイベントをやり、友人を呼び合い、楽しむ。ゲストハウスのことを色々と聞きたかったが、遠慮した。どんな人が泊まりに来るのだろうか。欧米人が中心かな。

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午後はまたボーっとしていた。昼ごはんのボリュームもかなりあり、食べ過ぎた。Tさんは昼寝している。こんな暮らしがリゾートだと思う。毎日朝から晩までどこかへ出かけ、飲んで食べて観光する、ばかりが旅ではない。

 

そうはいいながら、今日私は東京へ戻る。4時前に軽井沢駅前のバスターミナルへ送ってもらった。既に相当満足しており、思い残すことはない。バスは満員、日帰り客も多いのだろう。ただ覚悟していた軽井沢市内の渋滞はそれほどではなかった。まだ本格的な夏ではないらしい。高速を快調に走り、東京に戻る。池袋まで戻るつもりだったが、落合でバスが停まり、そこで下車。西武新宿線で新宿へ出ることが出来た。次回は行きもここから乗りたいが、チケットを買うにはやはり池袋か。先ずはいい旅であった。

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軽井沢で過ごす2014(1)雰囲気のある追分宿

《軽井沢で過ごす2014》  2014年7月11₋12日

 

軽井沢と言えば、30年近く前、新入社員だった時に、会社の寮があったので、テニス旅行に行ったことを思い出す程度。東京からそれほど遠い訳でもないが、私にはあまりご縁の無い場所だと思っている。

 

今回日本に帰ってくると、元勤め先の後輩が2₋3人、会社を辞めて新たな道を進み始めていた。そのうちの一人、Tさんは中国勤務が長かったが、最近のFacebookの写真はなぜか軽井沢が多いなと思っていた。何と7年も前から週末軽井沢生活をしており、ついに東京から軽井沢に転居、会社も辞めて、現地で新たな仕事を始めるという。

 

久しぶりに会ったTさんの『外国人も軽井沢には興味を持つと思うんですよね』の一言に釣られて、ちょっと行ってみようかなという気になり、ちょうど1週間後に2日時間があったので、1泊2日の軽井沢の旅となった。

 

7月11日(金)

軽井沢まで

軽井沢に行くには新幹線があることは分かっていたが、先日の牧の原行でもバスが安いと知ったので、Tさんの指示に従い、バスを予約した。8:10に池袋東口を出発して3時間ほどで軽井沢に着く。料金は片道2600円だが、4枚回数券を買うと8200円なので、2人で行けば一人片道2050円で行くことが出来る。思ったほど高くはない。

 

朝電車で池袋まで行く。東口のどこに乗り場があるのかと思ったら、本当に駅の前にあった。これは便利だ。しかもチケット販売所には椅子もあり、トイレもあるので、問題ない。日本は?東京は?この辺がアジアに比べてとてもきれいでよい。バスは甲信越。北陸だけではなく、関西行などもあり、次々に出発している。今後国内旅行はバスの活用を考えよう。

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車内も快適で、すぐに眠りにつく。渋滞もなく1時間半ぐらいで上里ドライブインの休憩がある。天気がすごく良くて、気分もノリノリになる。ちょうどTさんから電話が入り、『軽井沢プリンスで降りてください』と指示が出た。良く分からないが、彼は今その辺にいるらしい。運転手さんに告げると頷かれた。その後富岡辺りを通過。富岡製糸場が世界遺産となっており、次回があればこのバスで富岡を訪れてみようかと思う。

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10時半過ぎに軽井沢の街にバスは入った。軽井沢72という有名なゴルフ場があり、何となく軽井沢に来た気分になる。運転手さんが『今日は渋滞がありませんが週末この道は車で動かなくなりますのでご注意を』とアナウンスする。よく考えると明日は土曜日、帰りは混んでいるのだろうか?

 

アウトレットモール

軽井沢プリンスホテルは、高原リゾートの雰囲気に満ちたよさそうなホテルだった。既に夏のシーズンが始まっているのか、ロビーには人がかなりいた。外国人の姿も見られる。周囲の庭も美しい。宿泊料金、高いんだろうな、などと考える。

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Tさんがやって来て、先ずはホテルの向かいにある軽井沢プリンスショッピングプラザというアウトレットへ行く。ちょうど改装してリニューアルオープン、店の数も増えたという。それにしても規模の大きいなアウトレットだ。一日見ていられそうだ。店の数は更に増えるというのだから、日本ではこのような形態のビジネスが儲かっているということか。

 

散歩がてら、フラフラ歩いていると、広東語や台湾語も聞こえてくる。香港人や台湾人は、本当にアウトレットが好きだ。御殿場でも入間でも、どんな場所にあってもちゃんと公共交通機関を乗り継いでやってくる。中国大陸人も来るようになるだろうか。

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チョコレートのゴディバの店がある。チョコが本当に安いので驚いた。アイスクリームなども売っており、かなり人気があった。私も抹茶チョコクッキーを買ってみる。定価の4割引きなどという表示を見ると、誰でも手が出てしまいそうだ。ちゃんと小分けで買いやすい設定にもなっている。

 

一流ブランドだけではなく、フードコートやドラッグストアーもあり、多様な客層を取り込んでいるように見える。Tさんはここで狙っていたバッグをかなり安く買ったとのこと。バスを途中下車したことで、良い物を見せて貰った。

 

追分宿

Tさんの車で軽井沢観光へ。途中スーパーで買い物していた奥さんを拾い、T家へ。T夫人とは20年以上前に香港で一度食事をしたことがあった。が、お互いその頃のことはよく覚えていない。ここでの再会、面白い。T家は木々に囲まれた中にひっそり建っていた。

 

車で追分宿へ。軽井沢の隣、昔の宿場町、追分宿は道沿いに少し古い建物などが残っている程度であるが、何となくその落ち着いた雰囲気が好ましい。本陣跡などは今でも人が住んでいるようであり、観光地とは違った味わいがある。ここにあるそば屋さんでランチを頂く。お店の雰囲気が良く、外国人などが来れば喜ぶだろう。盛りそばと天丼のセットも美味しい。

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食後ブラブラと歩いて見る。油屋、という立派な建物があった。今では民芸展示館、カフェなどになっているようだったが、外観がなかなか良い。江戸時代にこの辺りを歩いた人の気持ちになっていたのかもしれない。天気さえよければ歩いていて楽しかったのではないだろうか。

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Tさんは少し畑を借りて、ブルーベリーを育てているという。その畑へ行ってみると、そこは景色のよい田舎。軽井沢郊外にはこんな所もあるのか、と思ってしまう。植物を育てていると気候にも敏感になり、また収穫の喜びも味わうことが出来るので、良いと思う。

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神の島久高を再訪して(10)那覇 エリーの車で

7.那覇3

エリーの迎え

行きと同様ANAはあっという間に那覇へ私を運んでしまった。那覇空港でちょっと夢から覚めた気がした。そして人を探す。台北のゲストハウスで知り合ったエリーが来てくれるはずだった。が、いなかった。スマホを持たないので、PCを開け、繋ぐと『30分遅れる』とのメッセージが。この辺の緩さはいい。

 

エリーは車でやって来て私を乗せた。変な話だが、GHで1度知り合っただけで、良く知らないオジサンを車に乗せる若い女子、何だか良く分からない感じだが、現実はそこにある。『沖縄は車がないと動けないからー』とゆるい感じで言われ、それでいいと思ってしまう。夕方の那覇は車が多かったが、それでも他の都市に比べればラッシュとは言えない。それもまたよい。

 

夕飯はエリーお勧めのやんばる食堂へ。学生などもよく来るという庶民的な食堂。働いているおばさんの雰囲気が実にいい。なかみ汁定食を頼む。なかみ汁とは茹でた豚の内臓を入れたスープ。内臓系大好きの私にとってはまたとない一品。美味過ぎ!!だがこの定食はどんぶり一杯のなかみ汁だけではない。皿一杯のキャベツに目玉焼き、刺身、そして漬物、更に大盛りのごはんが付いている。これで800円。死ぬほど食える。実際死ぬほど食ってしまい、しばし動けない状態に陥る。この店には地元の人が入れ替わり立ち代わりやってきて、豪快に食べていく。確かにこの量でこの値段。学生がやってくるわけだ。女性もやって来てガッツリ食べている姿は頼もしい!

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外は雨が降っていた。那覇は梅雨だった。車は100均ショップを目指す。エリーが『すぐに乾くタオルがある。便利だから買おう』という。確かにすぐに乾けば便利だ。その100均はかなりの規模があった。駐車場も大きい。隣のユニクロに入り、明日の台北行に備えて靴下を調達する。エリーが選んでくれたが、さすが、どれも私が選ぶものとは全然違う色と柄。娘がいるとお父さんの服装も変わるのかもしれないと思ってしまう。

 

夜9時前の雨の夜だが、店は繁盛していた。沖縄の人は基本的に車だから、雨はあまり関係ないようだ。そして宵っ張り。この時間から続々と人がやって来て、買い物している。エリーは沖縄舞踊などをやっていたが、今はバイトして、そのお金で海外旅行をしている。最近は愛知県の工場にバイトに行ったが、すぐに嫌になり帰ってきた。大企業が沖縄で労働力を確保しようとしていた。内地では『沖縄人と外国人を同列に扱っている』と言ったのが印象的。非常に微妙な感覚がそこにある気がした。

 

宿まで車で送ってもらい、あっさり別れた。別れ際に『次は島の北部にドライブ行きましょう』と明るく言われた。何だか来年あたり、ドライブしていそうな気になる。面白い夜だった。

 

5月23日(金)

空港電源なし

翌朝は慣れ親しんだ新恵荘を出発し、台北へ移動する。新恵荘のおばさんも最初はとっつきにくいかと思っていたが、3度も出入りする私を見て、少し対応が変わってきていた。このように徐々に交流していくこと、何度も繰り返すこと、も大切だなと思う。

 

エリーは空港まで送ると言ってくれたが、朝はラッシュだし、大変そうだったのでゆいレールで空港に向かった。朝8時前さすがに車内は混んでいたが、一駅行った県庁前でかなり降りてしまい、緩い雰囲気になる。いいな、これ。

 

 

那覇の空港に着くと、台湾で使う携帯の充電をしていないことに気が付く。ところが空港のどこにもコンセントがない。充電は出来ないのであった。インフォメーションで聞くと、『携帯の充電できますよ』と言われたが、それは日本の携帯専用の充電器であり、海外用は当然できない。台湾人や香港人はここに来てそんなことで困らないのだろうか?

 

仕方がないのでシャトルバスに乗り、LCCターミナルへ行ってみた。バスで5分程度の場所にあるが、行って驚いた。倉庫でも改造したのか、天井の高い建屋だったが、がらんとしていた。今日乗る予定のピーチのチェックインカウンターがあったが、殆どの人が自動チェックインしている。既に航空券をプリントしているのだ。私は何も持っていない。カウンターで何とかチェックインした。

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お土産でも買おうかと思っていたが、殆どなにも売っていなかった。仕方なくシャトルバスで普通のターミナルまで戻り、買い物をした。知らなかったとはいえ、実に不便を感じた。台湾人客は多かったが、彼らの方が余程研究し尽くしており、スムーズに事を運んでいた。

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ピーチには色々と因縁があるが、乗るのは初めて。お客の半数以上は台湾人だったが、CAは日本人。安いことも含めてそこがまたいいのかもしれない。1時間ちょっとのフライトで台北に着いてしまった。今回の旅を振り返り間もなく、次の旅は始まっていた。

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神の島久高を再訪して(9)伊良部・宮古 宮古の遺跡

5月22日(木)

朝陽を拝みに

翌朝もキムニーの起床は早い。朝5時過ぎには起き、オーストラリア人夫妻を連れて、朝陽を見に行くという。また付き合ってしまった。車は朝陽が見える場所を探していくが、意外といい場所がない。浜へ出ても、東側が岩で遮られてしまう。最後に行ったのは白鳥崎という断崖絶壁の景色。なぜか鳥のオブジェがある。沖に座礁した船が見える。あの船はどうしたんだろうか。簡単には引き上げられないとかで、当分はあそこに静かに座っているのだろう。

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朝陽の出る時間になったが、今日は生憎の天気。残念ながら日の出を拝むことはできなかった。それでも朝から爽やかな風に吹かれたこと、絶壁の景色が見られたこと、良かった。更に美しい入り江のある浜へ行く。ここは水がきれいで良いが、入り江なのでゴミがかなり流れ着いていた。韓国語、中国語などからペットボトルなどごみがやってくる様子が分かる。

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宿に戻り、朝飯を食べる。今日は宿に頼んだ。あやさんがご飯とみそ汁、それに納豆を運んでくる。キムニーはまた自炊している。朝から肉を焼いている。これが今の勢いだな、などと思ってしまう。でもみそ汁もご飯も、このあっさりした朝食、美味しい。早起きしたからであろうか?

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またあのいい雰囲気が居間に流れる。ふと見ると後ろで床屋が始まっていた。宿泊客の一人がヘアサロンに勤めており、宿のオーナー雷太さんの髪を切っていた。彼は来週結婚式に出席する予定があり、長い髪をバッサリ切っていた。この島にはおばあの床屋しかないので、頼んだようだ。この風景、本当に絵になるな。これぞ、GH。

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居間でダラダラしていると、Hさんやって来て、神社へ行こうという。フラフラと着いて行く。小雨が降る中、サトウキビ畑を行く。お墓がいくつかあったが、いわゆる沖縄的な亀甲型ではなかった。島によって形式が異なるのだろう。佐和田ユークイに着く。小型の丘自体が神社のようだ。15世紀に伊良部にやってきた祭神。この島の歴史の古さ、他の島との交易の様子などが垣間見られる。鳥居を潜ろうとすると『そこは神様しか潜ってはいけない』と制される。

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6.宮古島

2人で宮古へ渡る

3日間はあっという間に過ぎた。ついにびらふやを離れる時が来た。離れがたい気分ではあるが、スーッと離れてしまった。もう一人大阪から来た女子大生が一緒にフェリーに乗ることになった。あやさんが車で送ってくれた。フェリーターミナルまで6㎞あるが、何だかあっという間に着いてしまった。フェリーも知らぬ間に出航。ボーっとしている間に伊良部島は遠くなった。

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フェリーは直ぐに宮古に着く。かなり激しい雨が降っていた。彼女も私も夕方の飛行機で那覇に戻るため、時間はある。宮古を散策するはずが、誤算だった。荷物はコインロッカーに入れ、待合室でネットをやって過ごした。

 

その内雨が止み、外へ出た。何だか腹が減った。午後2時だった。ターミナル近くの食堂にフラッと入る。いきなり『お勧めはそばです』と言われたので、そのまま頼む。次の人が入ってきてご飯ものを頼むと『今日はそばしかない』と言っているのが聞こえる。何となく笑えた。そばは意外とおいしかった。やはり名物はそばか。

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遺跡巡り

港付近を歩いて行くと、鳥居があり、フラッと御嶽がある。この辺が宮古だろうか。更に行くと、豊見親墓と書かれた墓群があった。15‐16世紀にこの辺りはを納めた宮古の首長の大きな墓を中心に、3つの墓があった。その形も特徴的で、墓の入り口が階段状になっており、前庭もある。墓と言われなければ分からないような形状だ。付近には同じような墓があった。宮古の歴史、興味深い。

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ドイツ皇帝記念碑というのがなぜかあった。1873年に漂流したドイツ商船を宮古の人々が助けたことを記念してドイツ皇帝が建てたという。この時期、この付近にも各国の船が往来していたことだろう。その後日本の領土に含まれていく過程も興味深い。宮古神社にも行った。かなり新しい神社だった。その付近にはきれいな石塀を持つ寺があった。市役所の横に御嶽があったのも、この島らしかった。

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港の辺りも散策した。ここから船で台湾辺りへ行けないか、と探してみたが、最終的に見つからなかった。恐らく昔は行けたのだろうが、今では飛行機代も安く、船の競争力は無くなったようだ。かなり早かったがターミナルに戻ると彼女もやることがなく戻ってきていた。一緒にタクシーに乗り、空港へ。彼女はバイトの話をしてくれた。自分の子供以外でこの世代を話すことはなくなっていた。空港は小さく時間を潰すのに苦労した。ずっとネットをやって過ごした。

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神の島久高を再訪して(8)伊良部 素潜りの刺身

5月21日(水)

びらふやでダラダラ

何だか妙にぐっすり寝た。よく考えてみるとこの大部屋、男は私だけで後は若い女性ばかり。ベッドにカーテンなどはあるが、ちょっと不思議な空間であった。8時前に起き出したが、誰も起きて来ない。島のムード、そのままである。

 

居間に行くとキムニーがいた。彼ともりおさんは個室を使っていた。私は個室があることも知らず、言われるがままに寝ていたわけだ。キムニーは既に朝の散歩を終えていた。そして何と炊飯器を持参しており、持ち込んだ食料を冷蔵庫などに入れて、自分で朝ごはんを作り、食べていた。長逗留する旅人は自炊するのだそうだ。それにしても、荷物を別送で宮古へ送り、レンタカーを借りて運ぶ、バックパッカーなどとはだいぶん意味合いが違う。因みにレンタカー代は20日間で3万円程度らしい。バカ安だ。

 

宿には頼めば朝ごはんが付いてくるが、私は頼んでいなかった。昨晩夕飯の後にたこ焼きまで食べたので、朝食を抜くことにしたのだ。他のメンバーも徐々に起き出し、居間で話し込む。そして別棟にあるシャワーを浴びる。トイレとシャワールームは本当に清潔だ。ここは日本なんだな、と感じる瞬間だ。

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そこへ昨日のランチを一緒に食べたOさんがやってきた。久高で一緒だったHさんも今日は仕事が休みということで姿を見せた。Oさんは自分で焼いたパンを持ってきてくれ、これが朝飯になった。自分でパンが作れる、というのは良いなと思う。もちもちした食感、パンらしいパンだった。そしてOさんは島を離れた。Hさんも用事があると帰って行った。私は静かに取り残された。

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オムそば

昼になったが、居間から動けなくなっていた。何とも表現できないいい風が吹き抜けていくのだ。お茶を飲み、置いてある本に目を通す。ハンモックに寝そべり、ゆらゆらする。ここにはアルバイトの若い女の子がおり、同じようにダラダラしている。自分の子供がダラダラしていると怒りたくなるのだが、この雰囲気で、この環境でダラダラしていると、いいなと思ってしまうのが不思議だ。WIFIも繋がるので、ついついここにいる。

 

雨も降っていなかったので、ついに単独で散歩に出た。行先のあてもない。周囲はサトウキビ畑が広がる。森山良子の歌などを思い出す。5分も行かないうちに村の万屋という感じの店があった。ふと見ると『焼きそば、たこ焼き』などとも書かれていた。昨日もりおさんが買ってきたたこ焼きはここの物だったんだ、と分かる。

 

オジサンが二人、話をしていたので、話し掛けてみる。一人は店のオジサン、島で生まれたが長い間尼崎辺りにいたという。だいぶん歳を重ねたので、また島に戻り、関西仕込みの食べ物を作っているという。『オムそばでも食べるか』というのでお願いした。もう一人のオジサンも関西からの移住組。年金が少ないので、都市での生活はきついという。『ここでは家賃も1万円、食費もあまりかからない。ただ何もないから若い内に住むのは無理だな』という。サトウキビ畑の仕事は1日1万円になるが、炎天下で相当につらいらしい。

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オムそばを持ち帰り、居間で食べる。実に本格的で濃厚、美味い。一人で味わっていると、今日の宿泊者がボチボチやってくる。中にオーストラリア人の旦那と日本人奥さんというカップルがいた。キムニーと意気投合して海へ出掛けるというのでついて行ってみた。場所は渡口の浜、昨日も行ったが、相変わらず人はいない。彼らは本当に驚いていた。オーストラリア人は『メルボルンの田舎で育ったが、こんな美しいビーチに人が誰もない、なんてことはオーストラリアでもないよ』と感嘆の声を上げていた。

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それから牧山展望台へ向かう。ここは島で一番高い所、全体が見渡せる。途中、工事現場があった。伊良部と宮古の島を繋ぐ大橋が出来つつある。来年には完成し、フェリーは廃止になる予定だとか。島の人は『何年も前から繋がると言っているが、本当かね』などと言っている。ただ見る限りかなりできてきているので開通は間違いないだろう。この橋が繋がると伊良部の様相は一変するかもしれない。今の状態の伊良部を見ることが出来たのも幸せかも知れない。

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展望台からは確かに島が一望できた。展望台に行く途中、熱帯の花が咲いていた。草も色々な種類があった。道に迷うと、そこにはお墓があったりもした。道を教えてくれたお巡りさんもいた。どうしてこんなところにお巡りさんがいたのか分からない。何か調査がったのだろうか?

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素潜りの魚をさばく

宿に戻ると疲れから仮眠した。ちょっと寝るともう夕飯だった。昨日と同様にみんなで食べたが、食べるメンバーが変わっているのが面白い。今日来た人もいるし、外に食べに行った人もいた。自然に人が集う、この雰囲気がたまらない。今の日本は『組織化』が進み過ぎ、組織に属するとやたらに規則があり、連帯感を出さないといけないムードがある。これはいい面もあるが、とても危険な感じがする時がある。アジアではそこまで厳しい感じがない。『ゆるい』ムードが良い、それで日本人、特に若者はアジアへやって来る。伊良部も同じだろう。リピーターが多い理由も良く分かる。

 

気になっていたのが、来ると言っていたHさんが姿を見せなかったこと。何か用事でもできたんだろうと思っていると夜9時頃になってやってきた。彼は素潜りで魚を捕る技術を持っているのだが、今日は私の為に、魚を捕りに行ってくれていた。久しぶりだったらしく、つい時間を忘れて潜っていたという。そしてこの時間になってしまったと頭を掻いた。手には鯛が握られていた。

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彼は調理人でもある。早々自分で獲った魚を自分でさばき始める。この辺が豪快で、とても良い。自分のことは自分でやる、自然と向き合って、そこから恵みを得る。Hさんのアジア、いや世界での経験、は確実に生きている。伊良部に来て1年ちょっととのことだが、実に似合っていた。近所からもらったわかめと一緒に新鮮な鯛を頂いた。当たり前だが、身が締まっており、美味しかった。

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神の島久高を再訪して(7)伊良部 誰もいないビーチと楽しい夕飯

島めぐり

午後、雨上がる。特にやることもない私の為に、キムニーが車を出してくれ、島案内に連れて行ってくれる。こんなこと、あり得ないよね、普通のホテルでは。お客さん同士が仲良くなり、情報を交換し、そして一緒に出掛ける。何だかとても自然で、とても良い。

 

佐和田の浜、遠浅の海、きらきらしている。岩が転がっている。伊良部島は下地島と繋がっている。車は下地へ渡る。ここには基地があり、飛行機の離発着訓練が行われる場所として有名であるが、現在はほとんど行われていないらしい。昔はデートスポットだったとか。キムニーは『前回はここが泳ぐスポットだった』というが、泳ぐに水があり過ぎ、飛び込むしかない。何かが変わったのだろうか?

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泳ぐのを諦めて、通り池へ。ここは下地島の観光スポットであり、ちょっと神秘的。何故ここに池があるのか、不思議だった。更にこの池を越えると、まだ先がある。ただ以前は整備されていたであろう道が、塞がれていた。我々はちょっと冒険して、そこを越えた。ごつごつした岩を歩いて行く。ビーチサンダルなので、歩き難いし、サンダルが壊れそうになる。頑張って歩いて行くと、ついにもう一つの池に着いた。というより、ここは海と繋がっており、神が祭られている。ここは神聖な場所であることが一目でわかったので、頭を下げてすぐに立ち去った。

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中の島という場所にも行った。ここはサンゴが点在し、魚も泳ぐシュノーケリングスポットとして有名だとか。これまでどこへ行っても殆ど人はいなかったが、ここでは2人の女性が潜っていた。海はきれいだが、ちょっと寒いので長時間はきついらしい。一度ぐらいやってみるべきなのだろうが、どうも潜る気にはならない。沖縄の人もそうだろうか?

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渡口の浜、1㎞近く白い砂のビーチが続いている。が、本当に誰もいない。女性が一人、犬の散歩に来ているだけで、見渡す限り、全て私のもの、という感じだ。こんな贅沢な浜、日本にあるのだろうか?『伊良部島に来る人は基本的に海です』とキムニーも言い、『どうしてあんたは来たのか?』という顔をされてしまう。確かにここに来て、海に入らない、ダイビングにもシュノーケリングにも興味がない、というではおかしな人になるだろう。人がいない、というのは本当のご馳走なんだが!

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キムニーと話していて驚いた。彼の父親は私と同じ業界の人だった。しかも早期退職した点も同じだった。彼の方はそれを聞いて一気に親近感が増したようだ。そして『かわった人が多い業界だ』と再認識したのではないだろうか。彼はやはり泳ぎたい、と言って、飛行場脇のスポットに戻り、海に飛び込んだ。私はジッと傾く太陽と海を見ていた。

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夕陽と楽しい夕食

宿に戻ると人がいない。皆屋上にいた。ビールを片手に夕日を眺める、この屋上は絶好のスポットだったのだ。ここの奥さん、あやさんが『この屋上に惹かれてここを借りたんです』と言っていたが、その意味は十分に分かる。いい風が吹いてくる、陽がグーッと傾く。ビールをガーッと飲む。いいなあー、これ。この島を本気で気に入ってきている自分を自覚した。

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『夕飯食べる人?』とあやさんがコールする。今晩はカツオのたたきだよー、と。何とこのGHでは、オーナー雷太さんが食事を作り、食べたい人が集まって皆で一緒に食べる、という手法が採られている。今日も8人ほどがテーブルに着く。何だろう、疑似家族か?何だかとても、とても楽しい雰囲気で、話も弾む。そして食事も美味い!泡盛を飲む人はカメから勝手にとって飲みだす。冷蔵庫からビールを出す。全て申告制の事後精算。

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食事が終わると何とじゃんけんが始まり、負けた人が皿を洗う。もう完全に昭和のホームドラマだ。じゃんけんに負けて皿を洗う羽目に。まあそれも楽しい。実に不思議な空間がそこに存在している。それはここのオーナー夫妻のキャラもあるだろう。そういう所にはそういう人が集まってくることもあるだろう。そして何より伊良部島、という独特に雰囲気が大きいだろう。

 

もりおさんが『たこ焼き食べたい』と言い出した。なんだそれ、こんなところにたこ焼きなんかあるのか、と思っていると、ちょっと出て行って買ってきた。このたこ焼き、美味い!聞けば島の人で関西に出ていた人が戻ってきて作っているという。どうなっているんだ、この島は。

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このもりおさん、実は宮古島で教習所に通っていた。那覇にも泊まったようだが、そこで知り合った人に『伊良部に行く』と言ったら、『俺の息子も伊良部にいるから行くよ』と言われたらしい。本当に来ると思っていなかったようだが、何と本当に電話が来た。しかもかめそばにいるという。そのオジサンの息子というのが昼間会った腰の低いかめそばのオーナーだったという。もうこれは偶然などではない。

 

私は酒が飲めないので遠慮したが、もりおさん以下何人かが夜10時に出て行った。翌朝聞くと『伊良部島のお通りは半端なかった』そうだ。翌朝は皆倒れたままだったから、その惨劇が分かる。お通りとは、沖縄の酒飲み方だが、特に伊良部には酒豪が多く、時間が経つほど酒が濃くなったという。これは本当に飲めないらしい。