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フラフラと沖縄2015(3)久高 劇的に出会う

驚きの出会い

午前中の講義が終わり、私は外へ出た。ランチを取るために、港へ戻り、『とくじん』で定食を食べた。久しぶりに刺身を食べてウキウキ!そして少し散歩しようと思い、これまで歩いたことのない道を通ってみた。すると向こうの方に学校のグランドがあり、その中に奇妙な建物が見えた。近くでみるとそこはシャワー室のようである。何でこんなところにシャワーがあるのか、グランドで運動した生徒が使うのか?

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その建物の前まで行くと、何と人が二人おり、座ってコーヒーを飲んでいた。『こんにちは』と言われたので、こちらも挨拶し、話が始まった。この二人はバイクで沖縄を回っており、宿泊はテントを張って寝る。何とここはキャンプ場を兼ねていたのだ。まさか神の島でキャンプする人がいるとは、全くの想定外だった。髪の長い人は昔バックパッカーだったようで、アジアから世界まで、歩き回ったらしい。何となく親しみが持てる。

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『交流館に泊まっている』と伝えると、『え、ヨーガやってるの?』と言い出す。何で私がヨーガ合宿に来たことが分かったんだろうか。『実は昨日レストランへ行ったら、知り合いのおばさんに会った。その人がヨーガの合宿だと言っていた』というのだ。ということは、この人は偶然にも、この離島で、知り合いと会ったということか。しかも偶然にも私にも出くわしたのか。いくら狭い島とはいえ、これは単なる偶然ではあるまい。

 

午後の講義が始まる時間となったので、名残惜しいが失礼することに。最後に彼が『お名前は?』と聞くので、名乗ると、彼ももう一人の若者も、実に驚いた、という顔をした。何と彼と私は同じ苗字だったのだ。田中さんや鈴木さんなら、あり得ることだが、我々の名字はそんなに沢山はいない。これはまたただ事ではない、『きっとまた会うな』という余韻を残して別れた。

 

島巡り

午後は講義ではなく、恒例の島巡りだった。3年連続で、Yさんがやって来て、我々を案内してくれた。ユーモアたっぷりに話すYさんはこの島一のガイドだが、正直、毎年全く違うことを言う訳ではない。どこで笑いを取るか、ダジャレが出るか、何となく分かってくる。『Yさんお得意の、我々の祖先はアーリア人』も驚かなくなる。というか、むしろそうかな、と思う。四国でも、『高知にはアイヌ語の地名が沢山ある』などと聞いているので、十分にあり得る話である。

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Yさんと島を回ると、毎回違う発見があることも事実である。何回も歩くことで、より深く理解できることも多い。4月と5月では風景も少し違う。ただこれまで私は一人で島を巡ったことがない。毎回このツアーに参加する以外は、ほぼ交流館に籠っていたのだが、先ほどの奇跡的な出会いがあったせいか、どうしても一人歩きがしてみたくなる。今回は合宿後の延泊を申し出ていたので、その機会に期待が膨らむ。特に御嶽の前、名もない浜、何かが感じられるような気がした。

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そして交流館へ帰ろうとした時、合宿に参加している女性が誰かと話しているのが見えた。何と先ほどのキャンプの2人だった。この女性が知り合いだったのだ。皆でその奇遇を喜び合う。この女性のお嬢さんと彼が知り合いで、昔よく家にも来たのだそうだ。『夜一杯やりましょう』と誘われたが、結局その機会はなかった。翌日彼は島を離れ、一緒にいた若者が交流館まで彼のメッセージを持ってきてくれた。いつかどこかで会うだろう、と確信する。

 

夕飯は相変わらず、島のおばあが作ってくれるヘルシーな料理。これはこの合宿に参加する楽しみの一つ。今回の参加者はベジ組とノンベジ組にハッキリと分かれ、食事も少し別になっていた。あとから来た私はそのことを知らずにベジ組の席に座ってしまう。今回はリピーターも少なく、ちょっと戸惑う。

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夜はイザイホーについてのDVDを見る。1978年を最後に開かれていないこの島最大の儀式。12年に一度のこの儀式は昨年も開かれなかった。該当者がいないのだが、それなら基準を緩和するのが今の風潮。勿論島内でも色々と議論はあると思うが、最後は神の掟に反することはしない、という結論なのだろう。『人間が古来のルールを都合の良いように変える』ことはある時は必要だろうが、それにより失われるものもそれなりに大きい、とこの島に来ると感じる。

 

4月22日(水)

ヨーガで思うこと

朝5時に起きて、5時半から広間に座り、瞑想する。普段はあまりやらないので、とても新鮮。その後アーサナ、プラナヤーマと行い、何となく体がすっきりする。いつもは朝からPCに向き合い、椅子に座った姿勢を長時間取るのだから、体に良いことはない。それは良く分かっているのだが、なかなか止められない。

 

この合宿に朝食はない。スナックを食べながらティータイムがあるだけ。食べ過ぎ防止にもちょうど良い。実際ヨーガをやっているとそれほど食べなくても済む、という感覚がある。ストレスがなければ、食欲は低下するのだろうか。ヨーガは汗を掻いて痩せるのではなく、ストレスを和らげ、心身のバランスを整えることにより、結果として痩せる、ということだろう。

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その後、毎回聞いているはずの講義を聞き、いくらかを思い出し、多くを失う。1か月経って、メモも見ずに思い出せること、それが本当に頭に残ったこと、身に着いたこと、なのだろう。分からなくても何度も何度も聞いているとある日分かる、ということもありそうだ。我々は今、如何に簡単に情報を得て、簡単に事を運ぼうとしているのか、考えさせられる。今日も夕陽がきれいだ。5月は梅雨だが、4月は天気が良い。

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フラフラと沖縄2015(2)那覇 安座間港でインドカレー

安座間でインド料理

真っ暗な港でただ一つ、煌々と明かりが点くそのインド料理屋。中を覗くと家族連れなどお客が美味しそうにカレーを食べていた。わざわざこんなところでまで何故彼らは来るのか?ちょっと不思議。荷物を抱えた私は2階の民宿へ行く道を探したが、階段は1つしかない。ところが上がってみると普通の個人の家の玄関に来てしまう。これは間違えたと思い、階下へ戻るが、やはりほかに道はなし。意を決してその玄関を開けてみる。

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今晩は、と声を帰ると、中にいた若者が出てくる。ここが民宿なのだという。民宿というより、個人の家に部屋借りするような感じだ。『オーナーは出掛けた』というと、私の部屋に案内してくれ、風呂の使い方などを丁寧に教えてくれる。そして『預かりものです』と言って差し出されたのは、私のヨーガマット。前回のヨーガ合宿の後、1年前に大学の先輩Nさんに預けた物を今日引き取り、明日ヨーガ合宿へ行く手筈を整えていたのだが。Nさんは7時頃わざわざここまでマットを届けてくれたようだ。電話してみると、もう別の会合に出掛けた、と言われ、今回会うことは叶わなかった。大変申し訳ないことをしてしまった。お詫びのしようもない。

 

若者はリビングでテレビを見ながら、レトルトカレーの夕飯を食べていた。この辺にレストランかコンビニはないか、と聞くと、『コンビニはバイクがないと無理っすね』という。やはりそれほどに辺鄙な場所なのだ。レストランもこの下のインド料理屋しかない、と言われ、かつ午後9時には閉まるらしい。慌てて食事を確保するため、下へ向かう。因みにこの若者は漁師になるため、大阪から来ていた。漁が少ないこの時期は他のバイトで繋いで、ここで暮らしているらしい。この宿には既に1か月滞在しているという。お客は彼一人しかいない。

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インド料理屋には入ると、お客は全て帰っており、ひっそりしていた。カウンターに腰かけて、メニューを見、チキンカレーのセットを注文した。スタッフは3人、カウンターの向こうにいた大柄の男性はデリー出身のインド人。私の理解では世界のインド料理屋の多くはネパール人がやっているのでちょっと意外。

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店長で日本語が流暢な男性はやはりネパール人。日本滞在は6年になるが、最初の3年は千葉県浦安付近のインド系が多いところで働き、その後は石垣島、そして今年からこの店に来たという。オーナーは日本人のこの店、彼にとっては沖縄が好きなのではなく、出稼ぎの場でしかない。沖縄本島や石垣島でも、インド料理は人気のようで、店が少ないので出店が続いているらしい。わざわざ那覇から車でここに食べに来る人が多いとか。大きなナン、カレーも美味で満足。まさか安座間港でこんなに美味しいカレーが食えるとは、世の中は確実に動いている。そして今回が3回目の久高島だが、毎回何らかの変化があり、今から楽しみになる。

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2階に戻るとオーナーが帰ってきた。リビングでお茶を飲みながら少し話す。ここはオーナーの自宅で今も1室に住んでいる。以前は1階で居酒屋もやっていたようだが、その後は人に貸し、そして今年からはインド料理屋に貸しているのだという。部屋は5部屋あり、タイプはバラバラ。最近は内地から来る修学旅行生が、体験学習の一環で、このような民宿に泊まるとも言う。『修学旅行のシーズンは一般人の受付をしないこともある』ということで、今晩泊まれたのはラッキーだったのかも知れない。

 

というか、普段ここに泊まる人とは一体どんな旅をしている人なのだろうか。久高島に渡るだけなら、那覇からくればいい。外国人は気まぐれな欧米人が偶に来るだけらしい。ここにはWi-Fiも設置されておらず、バンコックを出てからまる1日、メールチェックすらできていない。仕方なく風呂に入り、寝てしまう。となりの部屋では、例の若者が何やら音楽を聞いている。やはり普通の家に泊まっている感じだ。

 

4月21日(火)

3.久高島

引き寄せられる浜、そして出会い

翌朝は早めに起きて、港の周りを初めて散歩。安座間のビーチなどへ行ってみるが、勿論誰もいない。沖縄としてはちょっと肌寒い気候だから、海に入る人などいるわけがない。久高行きの最初のフェリーの時間を確認したかったが、切符売り場は閉ざされている。その横で、久高へ持ち込む荷物の整理していた人がいたので、何とか確認できた。午前9時のフェリーに乗るべく、宿を8時40分に出たが早過ぎた。パラパラと乗船客が集まり、出航。波も穏やかで僅か12分で久高島に着いてしまう。いつものカーフェリーより格段にスピードが速い。

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島に一人で上がるのは初めて。さすがに3回目なので宿泊する交流館の場所は分かるだろうと思ったが、最近進んでいるボケのせいか、はたまた過去人の後ろしか着いて歩かなかったせいか、ちょっと迷う。荷物を引き、ふらふらと歩いていく。何となく浜の方に引き寄せられていく。その浜はこれまで行ったことがない、名前も書かれていないところだった。ここに一体何があるのだろうか、やはりここは神の島、何かを告げているのだろうか。非常に興味が湧くが、気を取り直して道を戻し、何とか交流館にたどり着く。

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交流館では既に午前中の講義が始まっており、ゆるゆると後ろの方の席に着く。今回も25名が参加しているが、初めて会う人も多い。途中参加だと自己紹介が聞けないので誰が誰だか分からない。そしてボケのせいで?過去にあった人も識別できないケースが出てくれる。休憩時間に『メールで連絡したんですけど』と言われる。何と私の今日の昼ごはんがないのだそうだ。え、っと一瞬思ったが、メールチェックはできなかったのだし、それもまた運命。港近くに食堂もあるので特に問題はないが、何となく波乱の予感。

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フラフラと沖縄2015(1)那覇 外国人しかいないイミグレ

《フラフラと沖縄2015》  2015年4月20日₋30日

 

ここ2年、沖縄へ行っている。目的はヨーガ合宿。神の島久高で行われるこのイベントは、何と言っても久高に魅力があり、外せない。今年も行くことにしたのだが、昨年までは5月だったこの合宿が4月になり、ちょうどタイのソンクランと重なる。ソンクラン直後は飛行機料金も高いため、安くなる日を待つと、合宿は既に始まっていた。今回も久高から本島、伊良部島を巡る昨年とほぼ同じ旅。さて、何か新しいことは起こるだろうか。

 

4月20日(月)

1.那覇まで

上海で凍える

バンコックの空港から夜中に出る東方航空に乗る。相変わらず、中国人がチェックインカウンターに大勢並んでいたが、最近は処理も早くなっている。皆海外旅行に慣れたのではないだろうか。勿論団体は別カウンターだ。バンコックは4月が一番暑く、この日も35度以上はあった。まあ出発したのが夜中なので、薄い上着を1枚持って行った。購入後すぐと思われる真新しい機体。きれいで良い。機内ではぐっすりとはいかないが、ある程度眠れたのは上着のお陰か機体のお陰か。

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そして朝7時、上海の浦東空港に到着する。機内から外に出てビックリ。滅茶苦茶寒いのだ。気温12度、私が乗る那覇行きフライトは午後2時であり、約7時間、この寒さの中で過ごさなければならないのかと思うと、うんざりした。当初の予定では一度入国して、浦東の辺りでも散策して空港に戻ろうか、などと考えていたのだが、とんでもない。

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取り敢えずトランジットカウンターへ行く。北京などでは厳格なゲートがあり、イミグレと同じようなシステムなのだが、ここはカウンターで簡単に手続きして、あっという間に出発階に出てしまった。どうするんだ、この寒さ。何とかラウンジに入れる方法を考え、入れてもらい、熱いお茶を飲み、落ち着く。

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ここではネットは繋がるが、VPNは機能しなかった。ということでFBは勿論、Gmailすら見ることができない。仕方なく、中国のYoukuを開いて、日本のドラマを検索。ちょうど松本清張の『点と線』のドラマがあり、それに見入る。何と前後編で5時間の長編。ひたすらお茶を飲みながら、ドラマにはまる。徐々に寒さが収まる。

 

出発時間になり、ゲートへ行ってみてが、出る様子がなく待機。少し経つと、搭乗となったが、その後機内で待機。食事が先に出てくる事態に、半ば諦め。7時間待って乗ったのに、2時間近く遅れる。機内は中国人が多かったが、文句を言う者もいない。もう皆慣れているのだろう。

 

日本人のいない那覇空港

那覇空港に着いたのは午後6時過ぎ。イミグレに向かって歩いていったが、入国審査のゲートに何と『日本人』がない。え、信じられない。キョロキョロと探していると、ゲートの向こうから人が出てきて、私を確認して一番端のゲートを開けた。確かに一番端にだけ、日本人、の表示があった。

 

聞いてみると『ここから入国する人の殆どは外国人ですから』と言われて驚く。我々の便は勿論、アジアから那覇に着く便の殆どには中国人、台湾人、香港人、韓国人を中心にアジア人が乗っているのだそうだ。10あるゲートのうち9が外国人向けになっているのも頷ける。

 

1階に降りて、荷物を受け取りに行く。ちょうど荷物が出てき始めており、自分の荷物が出てきたと思って、ターンテーブルに駆け寄ると違っていた。すると後ろから『どこから来たのか?』と中国語で声を掛けられた。振り返ると空港職員が立っている。思わず『私は日本人です』と日本語でいうと、先方もビックリして、『外国人が多いものですから』と言い訳する。確かに私は日本人には見えないのだが、日本の空港で日本人から中国語で話し掛けられるとは、何となく異常な感じがする。

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2.久高へ

安座間港まで

空港を出て、すぐにタクシーに乗り込む。久高島行のフェリーが出る安座間港まで行く。乗ってから気が付いた。今晩は大学の先輩との待ち合わせがあるのだが、彼は携帯電話を持っていない。今日泊まる宿で会う予定なので、そこへ電話しようと思ったが、何と日本の携帯電話は充電されておらず使えない。

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タクシーにはかなり長い時間、乗っていた。まさかこんなに遠いとは思っていなかったので驚く。途中で渋滞もあり、なかなか進まない。那覇から行った時は30-40分かかっていたが、まさかそれより遠いとは。『知念岬は端の端だよ』という運転手の言葉が、久高への遠さを思う。

 

50分ぐらいかかって、何とか見覚えのある安座間港までやってきた。今日の宿は港の真ん前の民宿。だが、周囲は真っ暗で宿などありそうもない。運転手の携帯で電話してもらうと、『インド料理屋の上だよ』と言われる。こんな何もないところに、インド料理屋?と思ったが、確かに暗い道の脇に、明かりのついたレストランがあった。タクシー代は5000円を越えていた。ちょっとショック!

『街道をゆく』を行く2005 本所深川

【本所・深川】2005年11月3日

文化の日の朝、両国駅を降りる。爽やかな11月の日差しがある。

1.本所②
(1)北斎通り

駅の北側、江戸東京博物館の東側に『北斎通り』という通りがある。江戸時代の浮世絵画家葛飾北斎生誕の地であり、その後生涯に93回の引越しを行ったと言われる住居の多くはこの辺りにあったようである。両国クワハウス『江戸遊』の前を通る。ヒノキ湯、エステ、サウナなどを備えたスーパー銭湯。少し歩くと緑町公園がある。公衆トイレが洒落ている。北斎の絵がトイレの壁に書かれている。北斎は富嶽三十六景などで有名であるが、生涯現役であった。

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この付近には幕末のジョン万次郎、江川太郎左衛門などの屋敷もあったようだが、今はその場所も良く分からなかった。

野見宿禰神社がある。相撲の神様野見宿禰を祭っている。境内はなかなか風情があり、歴代横綱の石碑などがある。流石国技館に近い場所にある。地元の人しか訪れないのであろうか、派手さはないが苔むす様子が渋い。

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この北斎通りは南割下水と呼ばれた。落語の初代三遊亭円朝が本所南二葉町に引っ越してきたのは1877年である。(P62)屋敷は広く割下水と連なる池もあったという。人情話で有名な円朝は1873年頃までは怪談など鳴り物を使った芝居物が中心であったが、その後は素話に変更する。1878年には山岡鉄舟を知り、更に禅宗にものめりこむ。落語家と禅宗との取り合わせは意外である。1888年頃円朝は本所を離れる。その理由が不肖の長男朝太郎と妻お幸との不仲であり、遺産争いを避けるために家を売り多くを寄付してしまったという。

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因みに幕末明治初期の歌舞伎脚本家、河竹黙阿弥終焉の地も直ぐ近くにある。黙阿弥の存在感は圧倒的であったようで、その後彼に次ぐ作家は出ていないといわれている。72歳で浅草馬道の家を弟子に与えて本所に越して来た。その家は敷地を広く、家屋を小さくした。これも遺産相続の便宜のためであったという。(P77-79)割下水から水を引き、汐入の池という池を作ったことは円朝と同じであった。

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(2)菊川

鬼平犯科帳の長谷川平蔵と桜吹雪の遠山金四郎が同じ場所に住んでいた、というのは面白い取り合わせだと思う。都営新宿線菊川駅を出て直ぐの所にその屋敷跡がある。現在は歯医者さんとなっており、建物の前にきれいな記念碑が建っている。

鬼平については、松平定信の側近水野為長の日記を基に書かれた『鬼平の江戸』が詳しい。出世の為に上司にゴマを擂ったり、付け届けをしたり、ライバルと争ったり、生の平蔵は違った意味でなかなか面白い。火付け盗賊改めとなってからは、捕り物の名人と呼ばれ、一方裁きは迅速で温情が厚い。江戸になだれ込む無宿人に対応するため、私財をも投じて人足寄場を作るなど企画行動力も有る。

遠山金四郎は水野忠邦、鳥居要蔵などと敵対しながらも南町北町の両町奉行となった珍しい人物。芝居小屋を廃止しようとした勢力に反対し、存続させたことから芝居ではいい人間として描かれているのでは??

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屋敷は平蔵が19歳の時に引っ越してきた。南本所三つ目橋通り。広さは1280坪もあり、大部分を人に貸しており、若き日の平蔵はその家賃収入で道楽三昧であったという。その後役付きとなってから一切道楽を止めたというが。金四郎も放蕩三昧だったというから世情を知る名裁きはこういうところから生まれるものであろう。

(3)五間堀と六間堀

菊川から森下に向かい歩く。静かな住宅街が続く。やがて五間堀公園に着く。五間堀とは江戸初期に掘られた水路で幅が5間(約9m)であったことから名付けたれた。元は小名木川と竪川を結ぶ六間堀から分かれた入り堀。

明暦の大火の頃に開削された堀で、その後明治になり尾張徳川家により小名木川まで繋げられたが、昭和30年までに全て埋め立てられた。この公園は堀の記念である。近くには稲荷神社があったり、針供養の弥勒寺があったりする。

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清澄通りを越えると要津寺がある。雪中庵、芭蕉三哲の一人、服部嵐雪の号である。雪中庵を継いだ弟子の大島寥太はこの寺に芭蕉庵を再興。天明年間には俳諧の拠点となった場所である。境内にはいくつかの句碑がある。また関宿城主牧野家の墓もある。

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要津寺から少し行くと初音森神社がある。ここはかなり古そうである。安政年間の町名表示石『馬喰町』『三丁目』が入口に無造作に置かれている。こじんまりしており、人気も無いが由緒正しい神社に違いない。

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 六間堀は現在どこにあるのか分かりにくい。探してようやく、ここではないかという場所をつかむ。そこは埋め立てられて家が連なって建っている。細い中道があり、堀のイメージが分かる。この細い道を歩いていると何故だか懐かしい。

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『街道をゆく』を行く2005 深川

【本所・深川】2005年10月23日

日曜日の朝門前仲町で降りる。天気も上々で気温も爽やか。川が見たくなる。深川には縦横に堀が巡らされている。家康が入植する前は半分以上が湿地帯であり、堀を作って市街地化した。尚深川の地名の由来はここの開拓者、深川八郎右衛門から来ているらしい。どんな人かは分からない。

1.深川
(1)富岡八幡宮(P50-59)

大横川の巴橋に出る。川幅は狭いが緑もありなかなかよい眺めである。しかし反対側には橋の高さに水道管があり、興が削がれる。ここは観光地ではなく、生活の場であることが感じられる。

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 富岡八幡宮、江戸最大の八幡さま。境内の縁日は大変な人出であったであろう。本殿はかなり立派な造り。右奥には横綱力士の碑がある。江戸時代相撲は幕府公認の勧進相撲となり、1684年に最初の勧進相撲がここの境内で行われた。碑は明治33年の建立。如何にも横綱に相応しい堂々たる構えであり、周りには陣幕・不知火顕彰碑もあり、更に不動の陣容である。因みに正面付近には大関力士碑が1983年に建立されている。

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横道から正面に出ようとすると池がある。端に針塚があったりする。『木場』と大きな字で書かれた石碑が横たわっていたりする。何でもかんでもこの八幡さまに持ち込んでくるという感じがある。

『木場の角乗』というものがある。川並と呼ばれる筏師がまさに命懸けで、川に浮かぶ材木の上に乗る。これはもう芸術であった。1970年代以降木場はなくなっていき、そして角乗もなくなった。昔は夕暮れに角乗の稽古をする若者を大勢の見物客が見ていたそうだ。富岡八幡には保存会作成の石碑がある。(P33-40)

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因みに本文には落語『大山詣り』が出てくる。中に百万遍念仏が20世紀終わりの深川に残っているとある。人が亡くなった時に数珠を送りながら皆で念仏を唱える。たまに即興で唄が入る。落語では大山詣りの仲間に坊主にされた熊がそのカミサン連中を皆坊主頭にしてしまうもの。

正面横には伊能忠敬の像がある。伊能は50歳の時に江戸に出て来て現在の門前仲町に住んでいた。大きな測量の旅の出立の際は先ずここに参詣し、成功を祈願したという。確かにここから千住辺りに出るのは、極めて便利である。私も後で隅田川沿いを歩いてみたが、左程の距離はない。

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司馬遼太郎は本文中で何故か落語を幾つも引用している。深川の感覚を伝えるのには下手な文章より落語の方がよほど分かり易いと考えたに違いない。富岡八幡の境内では富くじが売られていたようだ。三代目小さんが大阪へ行き、『宿屋の富』を東京に持ち帰ったのが、『富久』である。因みに小さんは夏目漱石が絶賛した落語家である。(P57-59)

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落ちぶれた太鼓持ちが富くじを当てる話であるが、その抽選が境内で行われる。寺社はその修繕費を賄うため、幕府の許可を得て富くじを発行した。富くじといい、勧進相撲といい、富岡八幡は幕府の庇護が厚かったといえる。

(2)深川不動堂

富岡八幡と深川公園を挟んで西側には深川不動堂がある。入って右側には明治の歌舞伎界を引っ張った五世尾上菊五郎の碑がある。石造灯明台が見える。成田山から移された碑もある。市川団十郎の屋号は『成田屋』。関係があるのであろう。

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 本殿からは盛んに音楽が聞こえてくる。何であろうか? あまり厳かな雰囲気が無い。下町の気楽な感じであろうか?左側には深川龍神と書かれた出水がある。やはりここは海に近かったということか。

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北に向かい清澄通りを歩く。心行寺という寺がある。1633年に当地に移されてきた寺で深川七福神の1つ、福禄寿がある。心が行くという響きが何となく良い。

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更に北に向かい直ぐに右に折れると明治小学校がある。明治10年(1878年)当地に校舎が完成した極めて歴史のある学校である。また節目節目で皇族が訪れる由緒正しい学校でもある。2002年には皇太子と雅子様が開校130周年記念で訪れた記念碑が建っていた。

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明治小学校は『下町の学習院』と呼ばれ、この辺りでは唯一洋服を制服としていたとある。(P31-32)木場の旦那衆の子が来ていたというから、その頃の木場の財力がうかがわれる。

 仙台堀川を渡ろうとすると海辺橋の袂に小さな建物が見える。その前に人の像が座っている。『採茶庵跡』、芭蕉も門人で庇護者でもあった鯉屋杉風の像である。杉風は幕府の魚卸を請け負っており、かなりの財力があったようだ。芭蕉庵ももともと杉風の持ち家であったものを芭蕉に提供した。芭蕉にとって重要人物である。尚芭蕉の奥の細道の旅はここから出発したと言われている。川もすっきりしていて気持ちが良い。

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(3)清澄庭園

清澄庭園に到着。入園料150円を払おうとするが、小銭入れを忘れており1,000円札を出す。係りの老人が『こまかいのは無いの?』と聞いて、仕方ないといった様子でおつりを探す。元々おつり等は用意しておらず、その日の入場料の100円玉と50円玉で返してくれる。地元の人の憩いの場であることが良く分かる。

清澄庭園は下総関宿城主久世大和守の屋敷であった。明治に入り岩崎弥太郎が買い取り、回遊式庭園を造営。真ん中に大きな池を造り、涼亭という名の建物が涼やかに建っている。季節が良いこともあり、木々が池面に映える。池には沢山の鯉がおり、老人と孫娘が盛んに餌を撒いて喜んでいる。

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この敷地は江戸元禄時代の豪商紀伊国屋文左衛門の屋敷があったとも言われているが、確認できていないようだ。池を眺めていると文左衛門がここに立っていてもおかしくはないと思ってしまう。ここは歴史的には非常に重要な場所である。第二次大戦末期の昭和20年8月、総理大臣鈴木貫太郎は終戦の最終決断をここで下したと言われている。何故鈴木はこの大事な決断をこの場所で??それは彼が千葉県関宿の出身であったからではないか??実は私の義父は関宿の出身であり、義母の教師生活初任地が関宿であった。今も義父の墓がこの地にあり、寺の直ぐ近くには鈴木貫太郎記念館があったと記憶している。

庭園を歩いて行くと、奥に芭蕉の碑がある。『古池やかはつ飛こむ水の音』、芭蕉は1686年にこの句を芭蕉庵で詠んだ。この碑は昭和9年に宝井其角の門流により建てられたものであるが、芭蕉庵改修の際にここに移された。庭園とこの句には何の関連もないと掲示板に書かれているのが面白い。

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 庭内には各地から集められた奇岩が配されており、興味をそそる。また石仏群などもあり、広い敷地を歩いていても飽きることは無い。ここでは使用料を払えば、座敷を貸してくれる。一度皆を集めて庭を見ながらお茶会か、昼食会でもやって見たいものである。

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『街道をゆく』を行く2005 神田本郷2

【神田・本郷】2005年10月10日

先日本郷を歩いている時に文京区ふるさと歴史館に行った。すると『文京の歴史物語』という本を買うことが出来た。非常に便利である。ならば千代田区にもあるだろうと市ヶ谷の四番町歴史民族資料館を訪ねた。場所は東郷元帥の屋敷のあった東郷坂にある。ここで資料を購入して、いざ神田へ。

1.神田②
(1)錦華小学校

神保町駅を出て駿河台下に向かう。ところが直前で錦華通りへ。直ぐに夏目漱石の碑を見付ける。『吾輩は猫である』の冒頭文を引用し、更に『明治11年夏目漱石 錦華に学ぶ』を書かれている。錦華小学校は明治6年(1873年)に開校後、現在の場所より少し西に位置していたので、漱石はこの場所で学んだ訳ではない。

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錦華小学校に通うということはかなりステータスであった。しかし明治44年にこの小学校に入学した永井龍雄氏は学校の校舎で勉強できなかったという不幸を味わう。既に校舎は老朽化し前年より近所の小川小学校に間借りして二部授業を行っていたとある。しかも新校舎は大正2年に落成後僅か3ヶ月で焼失した。またもや一ツ橋高等小学校に間借りして二部授業である。名門学校に通ったという胸を張る瞬間があったのだろうか?

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因みに錦華小学校は平成5年にお茶の水小学校と改名されている。近くには錦華公園もあり、また錦華坂にも名を留めている。裏は山の上ホテルである。『Hill Top Hotel』の文字が何となく不思議。小説家が缶詰となるホテルとして知られているが、何となくこの場所が良いことが分かる。

(2)文化学院と御茶ノ水

そこから歩いていくと文化学院がある。1921年に建造されたその建物にはツタが充分に絡まり、歴史を感じさせる。紀州の資産家西村伊作は娘に相応しい教育を受けさせるために1921年に学校を作ったというのだから明治は凄い。しかもその教授陣には与謝野鉄幹、晶子夫妻などがおり、後には有島武郎、堀口大学、芥川龍之介、菊池寛、佐藤春夫、川端康成など錚々たるメンバーがいた。校舎は落成と同時に関東大震災にあい焼失したが、その後再建。現在は美術・芸術関係で講義が行われている。

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更に歩き御茶ノ水駅へ。お茶の水橋脇には『お茶の水』の石碑がある。お茶の水の由来は2代将軍秀忠に高林寺(神田川北岸)から湧き出ている水を使ってお茶を入れたところ気に入られ、その後毎日水を献上したこと。

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神田川北岸は現在でも切り立っており、明治の文人達は三国志になぞらえて小赤壁と呼んだり、茗渓と呼んで愛でられた。茗渓通りは御茶の水駅の南岸、駅の幅分の通りの名となっている。

(3)ニコライ堂

そして聖橋を橋と反対の方角へ降りるとニコライ堂がはっきり見えてくる。聖橋とは2つの聖堂から名付けられた。橋を渡れば湯島聖堂、そしてこちらにはキリスト教のニコライ堂である。聖橋から下った道の反対側でスケッチをしている人、カメラを構えている人がいる。そのどっしりとした、そして優雅な建物は人々を惹き付けるものがある。

江戸時代は定火消し屋敷であったこの地は明治後ロシア公使館の付属地となっていた。来日したニコライ大主教が大聖堂建造を計画、岩崎邸などの設計も手掛けたイギリス人ジョサイアコンドルの設計で1891年に完成。様式は中央にドームがある中東のビザンチン式で非常に優美な建物であった。しかし関東大震災で鐘楼、ドームが倒壊するなど大被害を受けた。現在の建物は最初の姿をかなり残して1929年に再建。

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因みにニコライ堂の前には明治14年開業の井上眼科病院がある。夏目漱石が24歳の時に井上眼科の背が高く色白の娘を見初めて、結婚まで望んだという逸話がある。現在の井上眼科は子孫が勤勉であったのか、20年以上前に大きなビルを建て、眼科も繁盛しているようであった。

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『日本ハリストス正教会教団復活大聖堂』これがニコライ堂の正式名称である。1861年ロシア人聖ニコライが函館のロシア領事館付きの司祭として来日し、正教の布教を開始。当時はキリシタン禁制。明治維新の混乱、日露戦争で敵国となった日本に留まったニコライはどんな生涯を送ったのであろうか?実に興味深い。

(4)駿河台下

本郷通りを下る。神田駿河台下で明治37年に生まれた永井龍雄『わが切抜帖より 昔の東京』という短編集を読むと永井の家は龍名館(http://www.ryumeikan.co.jp/index.htm)支店の横を入るとある。現在は現代的なビルになっている本店が本郷通り沿いにあり、支店は八重洲にある。明治32年創業というから古い。永井は明治37年生まれ、既にあったわけだ。明治大正期は多くの文化人がここに宿を取ったようだ。何しろ本屋に近いし、学校にも近い。

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龍名館の裏には観音坂があり、小さな堂『聖観世音』がある。江戸初期から中期にこの場所に『茅浦観音寺』があり、観音坂の名が付いた。更に行くと江戸時代のお屋敷かと思わせるような家がある。この辺りは少しだけ昔の雰囲気を残している。

永井龍雄氏の家はこの近くにあった。彼の回想は非常に興味深い。『当時の神田という土地は全く火事早かった。冬の夜など半鐘を聞かなかった日の方が少なかった気がする。北風の強い晩には火災保険の証書その他、お袋は大切な書類と位牌を枕元に揃えて床についた。』とある。

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また私の履歴書を纏めた『東京の横丁』には横丁に物売りが引っ切り無しに出入りしていたとある。中には人足風の押し売りがいたが、主婦の中にこれを撃退して重宝がられた人も居たと。しかし一番厄介なのは廃兵院と孤児院の一団。追い返すことは出来るが、何となく後ろめたい。私は何年か前に台湾の台南市の屋台街で車椅子の少女に会ったことがある。彼女は一生懸命ティッシュなどを買って貰おうとしていたが、誰一人相手にしなかった。私の所にも来たが、手を振って断ってしまった。後で帰りがけに彼女が物陰で泣いているのに出くわした。その後ろめたさである。

(5)杏雲堂

明大通りと雁木坂の角に杏雲堂病院はある。雁木坂は現在殆ど傾斜がなく坂には見えないが、江戸時代には材木を梯子状にして登り易くした程、急な坂であったという。

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杏雲堂であるが、1881年に佐々木東洋によって設立された歴史のある病院。また佐々木研究所を基礎・臨床研究の場として設け、医学の発展に貢献している。玄関前には初代の佐々木東洋と3代目の佐々木隆興の銅像がある。尚杏雲の意味は昔中国に董奉字という医師がおり、医療代を取らずに診療した。患者が直ると杏の木を1本ずつ植えた。数年で10数万本となり、杏が雲の如く林を形成した。初代東洋はその精神に何とも言えぬ雅趣があるとして名付けたという。

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少し下ると日本大学カザルスホールという建物がある。日本初の室内楽専用ホールとして1987年に建造される。建物の内、A館は大正末期に米国人ヴォーリズが設計した主婦の友社旧社屋を復元したもの。なかなか重厚でおしゃれな造りである。

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駿河台下まで歩いていく。以前は古本屋が並んでいた印象があるが、今はきれいな食べ物屋が多い。今の学生は本を読まないのだろうか?読むにしても新しい本しか読まないのだろうか?

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『街道をゆく』を行く2005 本郷3

【本郷3】2005年9月23日

今日は秋分の日。雨模様であるが、暑さが無くて歩き易いので出て来る。都営三田線の春日で降りる。

3.本郷③
(1)真砂町

春日通を本郷三丁目の方向へ歩く。登りである。数分して左に入ると『文京ふるさと歴史館』がある。中に入るとかなり広い。単なる展示ではなく、豊富な写真や説明でよくわかるようになっており、興味深い。当日は団体旅行のご一行が来ており、職員が2手に分かれて説明をしていた。

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横には明治時代にありそうな旧家がある。入口に古い牛乳受けが取り付けられている。人が住んでいるのであろうか?一度はこんな所に住んでみたいが、どうであろうか?斜向かいには真砂中央図書館があるが、当日は祝日で休み。更に行くと下に降りる坂がある。『炭団坂』と表示されている。本郷台地から菊坂へ降りる急坂である。炭団とは灰の粉末を球状に固めたて乾燥させた燃料のこと。この坂から転げ落ちるとその姿が炭団のようになるというところから来ている。

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そこに日立ビルが建っている。その前に坪内逍遥旧居・常磐会跡という表示がある。明治17年(1884年)逍遥はここに住んで『小説神随』を発表。写実主義を提唱した。逍遥が近くに転居後、旧伊予藩主の育英事業としてここに常磐会という寄宿舎が作られる。正岡子規、河東碧梧桐などが暮らした。2階建てが2棟あり、間に平屋があったという。かなりの広さであり、今のビルには恐らく後ろに庭があるはずだ。

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司馬遼太郎はことのほか、子規が好きである。『坂の上の雲』の主人公は秋山兄弟であるが、同郷の子規も主役の一人なのである。病床で日本文学史上画期的なことをやり遂げた人物。ところで坪内逍遥は奥さんを根津遊郭から身請けしたという。ちょっとビックリしてしまうが、根津遊郭は建前の上では娼妓に教養を身につけさせる明治の即席女学校であったというのだが。

(2)一葉邸

菊坂へ下る。直ぐに樋口一葉旧居跡の表示がある。しかし行って見てビックリ。休日の午前中であるが、壮年の男女がカメラをぶら下げて、活発に動き回っている。文京区の広報によれば、昨年一葉が5000円札に採用されて以来、多くの人が押しかけているらしい。文京区教育委員会は『見学は近所の皆様の迷惑にならないようにお願いします』と表示しているほど。

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細い路地を入るとそこは大正ロマン。井戸がそのまま。先客が皆井戸に触れ、記念写真を撮っている。最近の60代、70代の方々は本当に元気である。そして知識欲も旺盛。(私の将来は??)恐らく一日中こんな調子なのであろう。近所の人は皆息を潜めて暮らしているのでは??心配になってしまう。

小さな坂の横に木造3階建ての家がある。古い。ここに一葉が住んでいたのだろうか??ここから将来を夢見たのだろうか??『にごりえ』『たけくらべ』などを読むと、明治の日本はこんなに貧しかったのかと驚く。

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因みに近くを歩いていくと宮沢賢治旧居跡などの表示板もある。現在有名となった人々も生きていた時代は不遇であったのだろうか??賢治には貧しさは無かったと思うが。

(3)無縁坂

菊坂を歩き本郷三丁目に出る。そこから春日通りを行く。この道筋には和菓子の老舗、寛永年間創業の壺屋総本店、創業は明治4年、文人たちが集まったといわれるすき焼の江知勝などがさり気なくある。

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そして旧岩崎邸庭園の裏道を歩いていく。夏の日の午後とは思えない風が吹いてくる。何となく癒される感じ。更に突き当たりに老人が立って何かを待っている。しかも欧米人。何だか明治時代の風景のようで夏目漱石などを思い出す。

突き当りを右に曲がると右側は岩崎庭園の高い塀。直ぐに下りとなる。無縁坂。森鴎外の『雁』の中で医学生岡田が毎日散歩する坂である。そして末蔵の妾お玉が住んだ坂である。この岡田のモデルは鴎外と同級生であった緒方洪庵の息子であったという。

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坂の途中に講安寺という寺がある。ここの本堂は今では珍しい土蔵造り。土蔵造りは防火建築として江戸時代に普及したが、幾多の災害で殆ど姿を消しているという。貴重な建物である。そして岡田が散歩した時もここにあったはずである。

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しかし閑静な坂である。明治時代も寂しかったようだ。昭和も30-40年代までは格子戸のある木造の家があったそうだ。何故ここが無縁坂という名前になったのか?下に降りると不忍池。

(4)鴎外邸

不忍池は子供の頃上野動物園に行った帰りに裏門から出て、たまに寄った所である。その頃も池に足漕ぎボート(スワンボート?)が浮かび、カップルが楽しそうにしていたが、池自体は汚かった印象がある。今日見てみると意外と綺麗である。表示を見ると浄化装置が取り付けられ、池水の浄化が図られている。

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 不忍通りを歩いていくと動物園花園門がある。動物園に入りたい気分を抑えて先に進む。弥生会館を曲がると水月鴎外荘に出る。鴎外は1889年に結婚してこの地に住み始めたが、翌年には離婚。千駄木に引っ越している。今も住んだ家がホテルの中庭に残されているというが、私は入っていない。今度東京の宿に泊まる、といった企画をしてみても良いかもしれない。

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このホテルは現代的な趣となっており、鴎外温泉などの文字も見える。団体さんがバスで乗り付けて入っていく。昼食でも取るのであろうか?文豪の住居跡を謳うにしては、風情がない感じであるが、中はどうなっているであろうか?

寧ろ不忍通りに戻ると1929年に建造された上田邸という建物(民家)がある。洋風な建築はこのあたりでは目を引いた。忍旅館という名で営業していたこともある。3階建てのモダンな造りで『花園町の白さぎ城』と呼ばれていたようだ。

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(5)弥生坂

言問通りの北側に東大農学部がある。農学部らしく簡単な菜園が見える。江戸時代は水戸家の屋敷であった。明治になり政府がここを接収し、坂に名前を付けた。弥生坂。弥生の由来は幕末を騒がせた?徳川斉昭が3月にこの辺りの風景を歌に詠んだからだという。また幕府の鉄砲組みの射撃場があったところから別名を鉄砲坂と呼ぶ。

この地名で我々が思い出すのは学校で習った弥生式土器であろう。1884年(明治17年)に大森貝塚を発見したモースの講義を聞いた東大生坪井正五郎(後の人類学者)ら3人が貝塚から赤焼きの壺を発見したのが始まりという。この土器が縄文式と異なることから、出土した地名を取って弥生式と呼ばれるようになった。縄文人も弥生人もそんな名前は聞いても分からないだろうが。

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農学部前の信号の南側に『弥生式土器発掘ゆかりの地』という碑が建っている。実際にこの辺りは向ヶ丘遺跡と呼ばれているが、土器が最初に発掘された場所は特定出来ていない。そこでやむを得ずここに碑を建てることにしたようだ。碑は昭和62年となっており、かなり新しい。

農学部の敷地の脇を根津神社に向かって歩き出す。すると住宅街に表示がある。サトウハチロウ旧居跡、今はただのマンションが建っている。サトウハチロウといえば、子供の頃『小さい秋見つけた』などに歌が好きだった。しかし彼がどんな人かは全く知らなかった。最近異母妹の佐藤愛子が書いた『血脈』を基にしたドラマを見てビックリした。破天荒な作曲家がそこにいた。

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今この家を見ても何も見えてこない。歌も聞こえてこない。幸せな家庭がそこにあるだけ。普通の生活ではあのメロディーは出てこないのだろうか??

(6)根津神社

途中にお化け坂と呼ばれる曲りくねった坂があった。如何にも夜お化けが出そうである。坂を下りると根津神社に出た。

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根津神社は1900年前に日本武尊が千駄木に社殿を創始したと言われる由緒正しい古社。太田道灌も社殿を奉献している。1706年に現在の建物となる。5代綱吉が世継ぎ(家宣)を決めた際、社殿を奉献し、千駄木より遷座している。

参道を歩いて行くと立派な楼門がある。唐門では新婚さんが写真撮影中。和服が似合う門である。本殿の横には家宣が奉納した神輿が飾られている。両脇に獅子の頭が2つ置かれている。寺社内には池もあり、緑豊かな木々もある。なかなか落ち着ける場所。

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『賽の大神碑』という石がある。これは元々駒込の追分(日本橋から一里の一里塚があった場所)に置かれていた。道行く人を災難から守る石がこんなところにあるとは??不思議な国である。

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6基の庚申塔も置かれている。大神碑同様明治の道路拡張でここに移動してきた。6基が六面体のように固まって置かれており、怪しい雰囲気をかもし出す。庚申とは中国の道教より出た習慣。60日毎に夜般若心経を唱えて過ごすもの。この神社には色々な物が収められている。歴史の長さだけでなく、何らかの要因があるのだろうが、今は計り知れない。

(7)汐見坂

根津神社裏門から駒込方面へ抜ける脇道。藪下道とも呼ばれる静かな親しみやすい道である。汐見坂と優雅な字で書かれた置石があった。細い道を緩やかに登る。

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道を歩き切ると団子坂。森鴎外の旧居観潮楼跡(現鴎外記念図書館)が見えてくる。藪下道に面した門が観潮楼の正門。今でも門はあるが、使用されていない。ここから入れば庭にも入れるのだろう。

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建物の中は少し古めかしい図書館。森鴎外の記念館でもあるので、鴎外所縁の品々も展示されている。図書としても当然鴎外作品が並ぶ。私は一体何が好きだっただろうか??忘れしまった。

 

 

『街道をゆく』を行く2005 本郷2

【本郷2】2005年9月17日

春以来の本郷を散歩した。いよいよ散歩の秋??

2.本郷②
(1)谷中

今回は本郷に向かうルートとして日暮里駅を選択。あまり意味は無いが、谷中銀座で飴を買いたかったので??駅を出ると橋がある。下御隠殿橋(しもごいんでんばし)、非常に由緒正しそうな名前である。1日20種類、約2500本もの電車が通過する日本有数の跨線橋として別名「トレインミュージアム」と呼ばれているそうな。

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 駅の南側には御殿坂。寛永寺の御隠所がこの先にあったのでこの名が付いたとか。月見寺(本行寺)には幕末の家老永井尚志の墓がある。新撰組にも出ていたな。

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中銀座に出る。最近はテレビなどにも取上げられており、人出も多い。何故か西洋人がガイドをしているツアーがいる。しかしツアー参加者はアジア人が多い。英語で下町を歩く、などという企画が受けるのであろうか?

狭い商店街の中に肉屋が2軒、コロッケを売っていたりする。その場でソースをかけて食べられる。袋にソースがしみる。子供の頃を思い出して懐かしい。『後藤の飴』で手作りかりんとうを買う。くろ飴も買う。なかなかよい。

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(2)団子坂

不忍通りを歩く。少し行くと団子坂下につく。突然祭りのお囃子が聞こえる。見ると子供達が神輿を担いでいる。後ろには小さい子が山車を引く。どうやらお祭りのようだ。神輿が団子坂を行く。坂は意外に急なので、ゆっくり進む。揃いのはっぴ姿である。子供の頃町内会に参加するとお菓子やおもちゃがもらえたのが非常に鮮やかに蘇る。

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団子坂の名の由来は団子屋が近くにあったとか、転がると団子のようになるからとか言われている。また幕末から明治末頃までこの坂に菊人形が小屋掛けをして大いに賑わったという。

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坂を登り切ると左側に鴎外記念本郷図書館が見える。中に入ると鴎外書籍コーナーがあり、その奥には鴎外関連の展示がある。小説の原稿や日用品、観潮楼の写真などが展示されている。

 散歩中にはあまりないことなのだが、腹が減った。見ると図書館の前に巴屋という名の普通の蕎麦屋があったので入る。穴子天丼が名物のようで注文する。老夫婦がやっている。この天丼、はすが実にしゃきっとしている。そして生姜が揚げてある。何とも不思議に美味い。蕎麦がついている。この蕎麦がまた歯応えがある。江戸が実感出来たような気がした。よく見るとこのお店は天保に創業していた。

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少し歩くと右側のビルの所に『青踏社発祥の地』の表示がある。1911年に平塚らいてうの提唱でこの地に結成された。雑誌青踏はこの年の9月に創刊され、『元祖、女性は実に太陽であった』という有名な発刊の辞があり、表紙絵は高村光太郎の妻となる長沼ちえの作であった。

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更に歩くと右側に東都六地蔵の1つである金銅仏が露仏として安置されている。戦災で寺が焼失後、奥の角に置かれている。人間と等身大の仏が宝珠と錫杖を持ってスッと立っている。その姿がなかなか良い。

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(3)墓巡り

団子坂を駒込学園のところで右に曲がる。高林寺を目指したが、入口が見付からずに更に進む。すると寺の裏側が見える。引き込まれるように入る。駐車場があり、墓地の裏門?というよりは工事の為に偶々空いていた所から行き成り入る。

何故か引き寄せられるようにある墓の前に。この寺がどこなのかも知らないのに何故?誰の墓かは直ぐに分かった。最上徳内。1755年に最上川近くで百姓の子として生まれた徳内は10歳の頃子守をしながら寺子屋の授業を庭で聞いており、読み書きを覚えたという努力の人。27歳で江戸に出て著名は数学・天文学者本田利明に師事、1785年田沼意次の蝦夷地調査団に利明の代理で参加。その後蝦夷地を隈なく調査し、『蝦夷草子』を表す。シーボルトとの交流もあり、賞賛されている。

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本来ならばここから北側にある高林寺を目指すべきであったが、道を間違えたため大円寺へ行く。途中にいくつか寺があるが、どこにも著名人の墓があったりする。流石に江戸の中心地に近かったことを窺わせる。

大円寺には幕末の砲術師範役高島秋帆の墓があった。この寺の入り口は結構分かりにくく、更に墓のある場所は別の入り口になっている。その一番奥に草で仕切られたように墓がある。

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高島は長崎の町年寄でオランダ人について砲術を学ぶ。アヘン戦争を知り幕府に砲術の必要性を説き、1841年江戸徳丸が原(現在の高島平付近)で西洋式調練を行った。その後鳥居耀蔵に妬まれて蟄居を命じられたが、ペリー来航で情勢が変わり、砲術師範役として幕政に復帰した。

白山上の交差点からそのまま天栄寺へ。門の所に『駒込土物店跡』の碑がある。江戸初期からの青果市場、神田、千住と並ぶ江戸3大市場の1つとして栄える。1937年に巣鴨の豊島青果市場に移転。

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江戸初期毎朝野菜を運んでいた近郊の農民は天栄寺付近の木の下で一休みしており、新鮮な野菜を求める近所の人向けに販売したのが起こりだという。土物店とは芋、大根、ごぼう等土が付いている物を多く扱っていたために付いた名。またの名を『駒込辻のやっちゃば』、売り声が『やっちゃ、やっちゃ』と言ったとか、セリの声、野菜運びの声などとも言われている。いずれにしても江戸の勢いを感じる。

駒本小学校の横に高林寺がある。緒方洪庵、幕末の医師、大阪で適塾を開いていた蘭学者の墓がある。何故大阪で過ごした洪庵の墓がここにあるかといえば、最後に嫌がる洪庵を幕府が将軍の奥医師として登用し、無理やり江戸に連れてきたためである。

大阪の適塾といえば、幕末の人材を数多く輩出した。3,000人と言われる門弟の中には『花神』の村田蔵六(大村益次郎)、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉などが含まれる。封建社会をぶち壊すような塾で、身分に拘らず、規則などには無頓着、しかし勉強だけは死ぬほどするという不思議な所。これも全て洪庵の包容力であった。

墓の横に追悼碑がある。よく見ると森鴎外の撰文。やはり軍医であった鴎外と何か関係があったのだろうか?後で調べると『雁』の主人公岡田のモデルは洪庵の六男緒方収二郎で鴎外の同級生であったと言う。

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(4)本郷通り

高林寺から先程の蓮光寺を通り、歩いていくと道の脇に碑がある。見ると夏目漱石旧居跡とある。ロンドン留学から失意の内に帰国した漱石は一高に職を得てここに住み始める。『我輩は猫である』『坊ちゃん』などはここで書かれたようだ。ビルの横の塀の上には猫の像がピンと尻尾を立ててこちらを見ていた。尚この碑の題字は川端康成である。

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そこから横道に入る。郁文館という学校を探す。かなり細い道を歩く。昔ながらの民家が狭い道の両側に並び、玄関前に小さな鉢植えが置かれている。そして行き成り校庭が見える。サッカーが行われている。正面に回ると丁度修学旅行から戻ったのか、生徒がスーツケースを押して出てきている。

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『我輩は猫である』の中で苦沙弥先生(物理学者の寺田寅彦がモデル)の家の西隣がこの郁文館中学(作品中は落雲館中学)である。野球のボールが飛び込んでくる場面もある。

郁文館は明治22年(1890年)の創立。昭和20年3月10日の東京大空襲では校舎がほぼ全焼したが、戦後も変わらず一貫してこの地にある。他の学校が大体移転、一部移転をしていく中、珍しいのではないだろうか?但しこの歴史ある学校に平成16年(2004年)、ワタミフードの渡辺美樹社長が目を付けて理事長並びに校長に就任した。今後この学校はどうなっていくのだろうか?

本郷通りに戻ると直ぐに西善寺がある。入口の門はとてもお寺とは思えないモダンなもので、建物の下を潜ると伝統的な墓地が見えてくる。ここに江戸時代の北方探検家で幕臣(旗本)の近藤重蔵の墓がある。先程の最上徳内と共に択捉島に渡り、『大日本恵登呂府』の標柱を立てた。

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晩年は長男富蔵の殺傷事件に座して、近江大溝藩に預けられた。本文中にあるとおり、旗本である重蔵に対する対応に大溝藩は苦労していたようだ。北海道の状況をつぶさに見ていれば、幕府の外交政策に批判的になり、それが危険人物と見做されて幽閉されたとの考え方もある。

西善寺を出て本郷通りを南へ。本郷追分と信号機の下に書かれた場所があるが、記念碑などは何もない。更に歩くと文京六中という中学がある。そこに『追分尋常小学校跡』という碑がある。明治36年(1903年)に開校された学校に追分の文字があり、この辺りが追分であったことが分かる。追分とは遠国へ向かう街道の分岐点。この辺りは江戸時代森川氏が居住しており、森川追分と呼ばれていた。

本郷通りからまた横道に入る。誠之小学校、備後福山藩の中屋敷内には藩校が置かれていた。誠之館。本国広島では1786年に開校。幕末には老中首座阿部正弘を出したしこの藩は教育にも力を入れていたに違いない。現在は福山誠之館高校となっている。

一方この地には1875年に阿部家の援助もあり、小学校が作られる。それが誠之小学校。今年で130周年。校庭を見るとトラック内に3本の大きな木がある。子供達がその木を避けながら、サッカーをしているのが微笑ましい。

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(4)菊坂

結構疲れてきた。ふらふらと住宅街を歩く。菊坂下までは時間が掛かった。東京は坂が多い。しかもかなり小刻みにある。この菊坂は細いが長い。少し登ると直ぐに古い土蔵が見える。伊勢屋質店。1860年に開業し、1982年に閉店するまでこの地で質屋を営んでいた。蔵は関東大震災で外壁が落ちたが、中は明治40年の改築後そのままだと言う。

樋口一葉は明治23年(1891年)にこの付近に母と妹と住まいし、苦しい家計の遣り繰りをしていた。伊勢屋によく通い、親交を深めたらしい。下谷に移ってからも、付き合いは続いていた。一葉が亡くなった時、葬儀に訪れる人は殆ど無かったと言われているが、伊勢屋は香典を持って来た。

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一葉旧居跡に行く時間が無くなった。次回に譲ることにしよう。

 

『街道をゆく』を行く2005 神田本郷

【神田・本郷】2005年4月23日

6年ぶりに東京に戻った。香港で行っていた『香港歴史散歩』『マカオ歴史散歩』は何故かとても楽しかった。この勢いを続けたい、しかし東京散歩の本はあまりにも多い。一体何を手本に歩けばよいのか?

こういう時は自らの好きなものを選べばよい。自分は何が好きなのか?自問自答の結果が、司馬遼太郎である。私は国内外を歩く際、必ず『街道をゆく』を参照している。あの独特の切り口と深い調査内容、そして情緒のある語り口。東京については深川・神田・本郷・赤坂の4箇所が残されている。アットランダムに歩いてみたい。

1.神田①
(1) 千葉道場

時代劇で神田と言えば、神田明神下の銭形平次か於玉ヶ池の千葉周作(1794-1855)であろうか。先ずこの散歩の最初に千葉道場跡を訪れた。場所は都営新宿線岩本町駅を降りてすぐ。

玄武館というのが道場の名前である。流派は北辰一刀流。千葉は古来秘伝とされた技法を洗い直し、体育理論的な合理主義を持ち込み、万人が参加できる流儀を編み出した。例えば相撲の稽古を見て、稽古前には食事を軽めに取ることなどを提唱した。イメージでは激しい稽古をしていただけのように思っていたが、細やかな配慮がなされているのには驚いた。

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司馬遼太郎が訪ねた1990年前後には道場の跡は千桜小学校であったが、現在は廃校となっている。建物は残っているが、正門の校名は無残に剥ぎ取られていた。その狭い旧正門をはいると右側に『右文尚武』と書かれた石碑は残っていた。文を尊び、武を尊ぶと言う意味らしい。隣には儒者東條一堂が塾を開いており、文武の関係となっていた。千葉道場の門人には周作の死後、坂本龍馬、清河八郎(新撰組の前身を結成)、有村次左衛門(桜田門外の変で死亡)など歴史に残る人物を排出している。単なる剣術道場ではこれらの人々は出てこなかったと司馬は言う。

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因みに石碑の入り口に面する通りは『一八通り』と言う名前である。これは一八稲荷で1日と8日に縁日が開かれたことによるが、今はその面影はない。15年前に司馬が訪れた際、この辺りは中小企業のオフィスがひしめいていたようだが、今は整然と整備された町並みになっている。

(2) お玉稲荷神社

お玉ヶ池の名の由来は江戸時代のはじめ茶店で働くお玉と言う女性が池に飛び込んで亡くなったことからついたという。元は桜が池と呼ばれており、徐々に埋め立てられた。千葉周作がこの地に道場を開いた頃は既に池はなかったという。

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お玉稲荷神社は千葉道場跡のすぐ近くの路地にひっそりと建っている。非常に小さな堂があるだけであるから、そこを目指していかない限り気が付くことは無いだろう。僅かな説明板と『繁栄お玉稲荷大明神』という幟がお玉ヶ池の存在を示している。

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(3)佐久間町

神田川に架かる和泉橋を渡る。鯉幟がはためく。川べりにはオフィスビルと倉庫が立ち並ぶ。JR秋葉原駅の東側のごく小さい地域、佐久間町の名前は江戸時代初期の材木商佐久間平八から取られたと言う。江戸城築城の際に材木を供給したのもここ佐久間町であった。

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火事とけんかは江戸の華、などと言われるが、本当に江戸は火事が多かった。特に神田は多く、その中でも佐久間町が多かったと言われている。1829年と1834年の僅か5年の間に2度江戸中を焼く尽くした火事の火元となっている。

神田川を利用した材木の荷揚げ拠点であったことと駿河台の南西に位置し、冬の北風がここで巻き上げられることから、火の勢いを強くしたと言う説が有力だそうだ。司馬の調査によれば、そんな佐久間町が関東大震災の時は火事を出さなかった。佐久間町の人々はこれまでの汚名を返上しようと逃げるよりも一斉に踏みとどまり、あらゆる手段で火を消しにかかったとある。

現在往時を偲ぶものは見つけることが出来ない。僅かに総武線のガード下と『美術印刷 文唱堂倉庫』と書かれた建物が見つけられるだけであった。

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2.本郷①
(1)旧岩崎邸

JR御徒町駅から春日通りを行き、右に曲がると不忍池。直ぐ近くに旧岩崎邸庭園がある。司馬遼太郎が訪ねた15年前は国の保有であり、最高裁判所司法研修所として使われていたが、その後文化庁から東京都が引き継ぎ、2001年一般公開された。司馬は手続きを経て中を見学したが、今日我々は入場料400円を支払えば中に入ることが出来る。

旧岩崎邸はその名の通り、三菱財閥を創設した土佐出身の岩崎弥太郎の住居であった。江戸時代は越後高田藩の江戸屋敷、明治に入り牧野弼成の屋敷などを経て岩崎家の本宅となる。越後高田藩とは徳川の四天王の一人と言われた榊原康政(他の3人は井伊直政、酒井忠次、本田忠勝)を祖とする有力譜代である。また牧野家は旧舞鶴藩知事でありこの土地が由緒正しい場所であることを物語っている。但し何故かほんの一時期、桐野利明が住んでいる。人切り半次郎と恐れられ、西郷隆盛と共に西南戦争で死んだあの中村半次郎である。

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この屋敷に実際に住んだのは弥太郎の嫡男、久弥であった。『我輩は猫である』にも登場する当時有名なお屋敷であった。最盛期この敷地は1万5千坪あまり、20もの建物が建っていた。第2次大戦後財産税が課され、国に物納された。

この建物を1896年に建てたのはジョサイア・コンドルというイギリス人。鹿鳴館や御茶ノ水のニコライ堂を設計している。また弟子に東京駅を設計した辰野金吾、赤坂離宮を設計した片山東熊などがおり、近代日本の建築をリードした人物である。日本人女性を妻として、日本画を学ぶなど生涯日本びいきであった。1920年に日本で亡くなっている。(墓所は護国寺で奥さんと共に葬られている)。

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現存する3棟の内2棟は明治期を代表する西洋木造建築。客室天井に見事なペルシャ刺繍があったり、ベランダはイスラム風、庭はアメリカ風の広い芝生である。気持ちの良い庭では多くの人が椅子に腰掛け寛いでいた。隣はビリヤード場。スイスの山小屋風なのが珍しい。洋館から地下道でつながっているそうだ。反対側には和館があり、書院造を基調としている。外では抹茶に和菓子を振舞っており、枯山水の庭を眺めている。正門から建物のある場所までは鬱蒼とした林が続く。司馬が訪れた時は、十分に手入れがされていなかったようで、かなり雑然としていたが、今は花も咲いており実にゆったりとして空間。偶にはこんな場所で本でも読みたいものである。心のゆとりが生まれそうである。

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(2)湯島天神

春日通りに戻ると緩やかな坂道。左側には受験の神様、湯島天神がある。458年雄略天皇の命により創建され、1355年に郷民が菅公の威徳を崇めて勧請。1478年に太田道灌が再興。何故道灌は湯島天神を再興したのか?司馬はここが江戸城の鬼門を鎮める為ではないかとしている。また神社自身が城の跡ではないかとも言っている。実に良く見ている。本殿は1995年に総檜造で再建されている。司馬が訪れたときには1886年に建造された古い本殿であった。

湯島天神と言えば『湯島の白梅』と『絵馬』であろうか。湯島の白梅の碑もあるが、ガス灯が目立っている。新派の名作、泉鏡花の『婦系図』の中にガス灯が出てくることから都内唯一のガス灯(外灯)が飾られている。また新派と書かれた石碑も見える。更に1917年に里見弴等によって建てられた泉鏡花の筆塚もある。

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 勿論梅の木も多く見られる。天神の境内に梅を植えるのは京都の典型である。絵馬は相変わらず、合格祈願である。庭園には藤棚もあり、きれいに花が咲いていた。

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(3)啄木歌碑

切通坂を少し上ると石川啄木の歌碑がある。『二晩おきに 夜の一時ごろ 切通の坂を上りしも 勤めなればかな』という句が刻まれている。決して明るい句ではない。当時啄木は東京朝日新聞社の校正係の職についており、本郷の寄宿舎から夜勤に通っていた。

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啄木は26年の短い生涯の間、常に貧窮に苦しめられており、本郷に住んだ1910年のこの時期は、前年に家出した妻を何とか呼び寄せて、生活を送っていたはずである。市電の終電は上野広小路までしかなく、本郷まではこの切通坂を上って家路についていた。因みにこの2年後には短い生涯を閉じている。

(4)麟祥院

湯島天神の反対側の道を上りきった辺りに麟祥院という寺がある。江戸の昔から『からたち寺』と言われていた。枳殻の垣根があったことから名が付いた。因みに『唐のたちばな』から『からたち』という名前になったことは初耳である。

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麟祥院は3代将軍家光の乳母春日の局の菩提寺である。お福(後の春日の局)は明智光秀の重臣、斉藤利三の娘であった。彼女は逆臣の娘から何と最後は朝廷より従二位を賜るのである。恐らく日本史上でもこんな女性は他にいないのではないだろうか?家光が疱瘡にかかった際に治癒すれば今後一切薬を飲まないとの願を掛けて、その後終生薬を飲まなかった話は有名である。

彼女の権勢は凄まじい。生前に将軍じきじきにこの寺を賜り、麟祥院と称している。(元の名前は天沢寺)現在まで門前の道の名前は春日通りである。明治に入ってからは東洋大学の前身となり、発祥の地という碑がある。寺は禅宗であり、門にも厳しさが感じられる。入るのが一瞬躊躇われるが、それを乗り越えると爽やかな道が続いている。きれいに掃き清められている。3時以降は入ることが出来ない。芯がある寺である。

春日の局の墓はかなり奥にある。司馬が訪れた時は案内板があったようだが、現在は墓場の入り口に説明板があるのみ。その横を何気なく見ると2つに大きく割れた碑が建っている。関東大震災で命を落とした中国人留学生の名前が刻まれた碑である。1923年当時、日本は中国人が学びに来る手本の国であった。孫文も周恩来も魯迅も皆やって来ている。当時と今では一体何が違うのか?確かに日本に滞在する中国人は多いのだが、何かが違う。

局の墓は不思議な形をしている。卵型、しかも四方に穴が開いている。『黄泉の国からこの世を見通せる墓を作るように』との遺言を残したからだと言う。局は一体この国の何を見通そうとしたのだろうか?そして現在のこの国を見てどう思っているのだろうか?

(5)大聖寺藩上屋敷跡

東京大学、私には全く縁のない学校であり、人生の中で一度も踏み入れたことの無い場所であった。今回初めて訪れた。広いキャンパスである。公共バスが通っている。私の母校は同じ国立大学であるのに猫の額ほどの校庭であったから、軽い嫉妬を覚える。

日本で初めての国立大学。江戸のはじめ、ここには加賀前田家の上屋敷があった。大阪夏の陣が終わり、家光から貰ったのである。その後前田家3代利常の弟利治は大聖寺7万石を貰う。その上屋敷は今の医学部付属病院の場所である。碑が建っている。

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九谷焼はその利治が後藤才次郎に命じて九谷に窯を作らせて産出させた。才次郎は肥前に派遣され伊万里の秘法を盗んだとか、実在はしたが陶工ではなかったとか、伝説的な人物である。『古九谷』と言う。九谷焼といえば、江戸後期に本田貞吉という陶工が再興したものを言う。

司馬が訪れた時は1984年以来付属病院改修工事に伴う発掘調査が継続されていたと言う。当日工事などは見られず、付近にはベルツとスクリバという2人のお雇い教師の胸像があり、また秋桜子の句碑があった。

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(6)三四郎池

校内をどんどん歩いていくとやがて木々に覆われた場所がある。降りていくと池である。別世界に入り込む感じである。これがあの三四郎池。見るのは初めてであるが、漱石の三四郎に登場したことなどから子供の時より名は知っている。しかしここはとても大学の中とは思えない。

三四郎は池畔で美禰子を見掛ける。司馬は小学6年生が魚釣りをしているのに出会う。私はカップルと小学生、そして何かを撮影している若者達に出会う。藤棚の下で休む老人がいる。静かである。ここで本を読めばいくらでも読めそうである。しかし学生の姿は全く無い。この環境を活用しているのだろうかと疑問に思う。

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『街道をゆく』の三四郎池の項で、1つ驚いたことは、漱石の弟子、森田草平が平塚らいちょうと心中事件を起こしていたことである。女性解放運動の元祖、らいちょうの起源を見る思いがする。

 

 

『街道をゆく』を行く2005 赤坂2

【赤坂2】2005年9月11日

前回2週間前に赤坂を散歩した。9月に入り朝夕が少し涼しくなってきたので、午前中に歩いて見る。気分は快調であるが、やはり体は暑さを感じており、シャツの背中はぐっしょりと汗が滲みる。

2.赤坂②
(1)ホテルオークラ

南北線六本木1丁目駅で下車する。新しい駅であり、泉ガーデンプレースという新しいオフィスビルが駅の頭上にある。ここは江戸時代、将軍出陣の先鋒役である御手先組のあった場所である。本文には、江戸時代までは御手先組が強くなければ戦には勝てなかったと書かれている。

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最新鋭のビルを前に歩き出すと直ぐに泉屋博古館に出る。ここは住友コレクションの内、特に中国古代青銅器の展示で知られる京都本館の分館である。こちらは2002年の秋にオープンしたばかりで、京都とは異なり絵画、陶磁器、茶道具などを展示しているというが、当日は閉館しており見学できなかった。

スペイン大使館の前を歩き出すと直ぐにホテルオークラ別館が見えてくる。本館は1962年、別館は1973年開業。私の理解ではホテルオークラは長らく東京で最高のホテルであった。バブル最盛期の頃、私は1年間に5回もこのホテルで行われた結婚披露宴に出席したことがある。もし仲人さんが相当の地位にある方ならば、皆同じ会場を選んだものである。私個人には全く縁のないホテルであるが、何となく頑張ってほしい。最近はパークハイアットなど外資系ホテルが大量上陸している。司馬の東京での定宿だったようだが、21世紀に生きていたら、外資系ホテルに泊まっただろうか?

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(2)大倉集古館

オークラの本館と別館に挟まれた、霊南坂と江戸見坂の交差する場所に大倉集古館がある。ホテルオークラ創業者大倉喜七郎の父、大倉喜八郎が1917年に創立した日本初の私設美術館。収蔵品は絵画・彫刻・工芸品・能装束など多岐にわたり、3万5千冊あまりの漢籍を有している。

 

喜八郎といえば、新潟新発田の生まれで、戊辰戦争では官軍、幕軍両者に武器を売り、官軍有利と見ると全て官軍に売り捌き、明治になって御用商人の地位を築く。日清日露の戦争でも大儲けして死の商人とも呼ばれた。一方多くの企業を興し、現在残っている主なものだけでも大成建設、サッポロビール、帝国ホテル、帝国劇場、日清製油などがある。尚ホテルオークラは喜八郎の帝国ホテルを凌ぐものを作ろうとして喜七郎が設立したものである。

そういえば、喜七郎には面白い話がある。1930年に私財を投じてローマで日本画展覧会を開催。勿論ムッソリーニとの関係を構築するパフォーマンスであろうが、日本から横山大観らが出品し、177点を展示。しかし内135点が今も行方不明のままとのことである。絵の一部はムッソリーニから女優のソフィアローレンに渡ったとも言われ、格好のミステリーである。この話を聞いたのは数年前であるがその後答えは出たのであろうか?

大倉集古館であるが、門を入ると日本庭園が見える。驚くのは大きな石造があったり、大倉喜八郎の像がベンチに座っていたりすることである。何だかお化け屋敷に入ったよう。中に入ろうとしたが、入場料が千円と表示されており、高いなと感じる。よく見ると小学生の子供を連れてくれば無料になるようなので見学は次回とする。

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(3)江戸見坂、汐見坂、霊南坂

東京には兎に角坂が多い。オークラ本館の周りは江戸見坂、汐見坂、霊南坂の3つの坂で囲まれている。大倉集古館から出ると江戸見坂を下る。江戸の市街地が一望できたことから坂の名前が付いた。今はビルに囲まれ殆ど見えない。

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この坂はかなり急激に下っている。登るのはかなりきつそう。江戸時代にこの坂を上った人は江戸市中を治めた気分になったかもしれない。そんな坂である。下りきった角には『東京経済大学発祥の地』という碑がある。元は大倉商業学校、喜八郎が創立者である。そして左に曲がると汐見坂を登る。この坂から海が一望できたのが名の由来とか。江戸時代川越藩松平大和守の屋敷があったことから大和坂とも言った。

汐見坂を登りきるとそこには物々しい厳戒態勢があった。何だこれは?霊南坂を歩こうとしたが、警備員に制止される。何とか頼んであの直線的な坂の写真を取らせてもらうのがやっと。横のアメリカ大使館を見た瞬間、気が付く。今日は9月11日、9.11テロ後4周年である。大使館前の信号辺りから写真を取っていても、少し離れた場所で立ち止まっても、誰かが必ずチェックしている。

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霊南坂で思い出すのは『山口百恵と三浦友和の結婚式』であろうか。25年前に引退した彼女がウエディングドレスで教会を出るシーンは良く覚えている。当時浪人生の私と彼女はどうしてこんなに境遇が違うのかと、羨望の目でテレビを見たのは昨日のようだ。その6年後上海に留学したときに『赤いシリーズ』が大ヒットしていたのには驚いた。本当のスターはどこに行ってもスターなのである。

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本文にあった共同通信社ビルは今や雑居ビルとなり(本社は2003年汐止に移転)、日本たばこビルは本社ビルを一新している。どちらも厳重に入り口を閉ざしており、何かを探す雰囲気ではない。

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(4)溜池

溜池は江戸時代初期には赤坂見附から虎ノ門まで続くひょうたん型の池であった。江戸切絵図にも『赤坂桐畑』に描かれている。子供の頃雨が降ると、『溜池は底だから水が溜まるぞ』と父親が言っていたのを思い出す。学校でも『溜池はゼロメートル地帯です』と教わった。

江戸初期は急速に人口が増えた時期。治水は重要な課題であった。浅野幸長がこれを請負、ダム工事のプロ、甲斐武田の遺臣、矢島長運らの働きにより1606年に完成させた。つまりは人工の池である。現在の特許庁、山王パークタワー、日枝神社下、エクセル東急ホテルなどは全てこの池の埋立地である。

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現在の溜池は単なる交差点に過ぎない。『溜池』の表示が無ければ特に分からない。高速の高架の下、日曜日の交通量が少ない交差点は何故か寂しい。

(5)澄泉寺

六本木通りを登る。全日空ホテルの前に桜坂という坂がある。きっと春はきれいなのだろう。その坂を上ると表通りの喧騒とは全く違った世界が現れる。きれいな並木道が続く。この道は明治中期に出来たもので歴史は古くない。

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程なく左に折れ坂を上ると寺がある。陽泉寺の横から細い路地に常国寺、正福寺などの寺が並ぶ。この辺りにこんなに寺があることを初めて知る。その一番奥に澄泉寺がある。寺の前には釣鐘が目立つ。

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林鶴梁という江戸末期の儒学者の墓がある。しかし本文ではこの林についても、釣鐘についても一言も触れていない。では一体何の為にこの奥まった寺にやってきたのか?その後榎坂を通る。溜池の堤に印として榎を植えたのがこの辺りだという。

(6)氷川公園

前回氷川神社に行ったが、勝海舟の旧居、氷川小学校には行っていなかった。しかし氷川小学校は既になかった(老人養護施設となっている)。仕方なく地図を見ると氷川公園がある。行って見たが、特に特徴も無い、小さな公園であった。看板がある。説明を見ると1908年この地に氷川小学校は誕生した。しかし1929年に火災があり、旧勝邸に学校を移したのだという。

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勝海舟は言うまでも無く、幕末を代表する幕臣であるが、彼は一体何だったのだろうか?長崎海軍伝習所に学び、咸臨丸でアメリカに行き、西郷と談判して江戸城無血開場を果たす。そして維新後はこの地に住み、枢密院顧問、伯爵を貰い、氷川清話を表す。

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(7)日枝神社

かなり疲れてきた。外堀通りに出て日枝神社へ。下から見上げると思ったより高い。階段が多く見える。登るのを止めようかと横を見ると何とエスカレーターが備えられている。これは便利。登るに連れて赤坂が見える。昔は皆坂を上るとこのような光景が見えたのだろう。TBSの建物が目立っている。

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登り切ると大きな銀杏の木がある。そしてきれいな門を潜り、本殿へ。1478年に太田道灌が江戸の守りにと川越の山王社から勧進したのが始まりで、4代将軍家綱の時、1659年ここに建立した。大戦で焼失し戦後再建される。

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 本殿前の門には男女の猿の像がある。権現とは仮に現れるということ。猿の化身であろうか?本文でもこの『神猿像』を見て驚いている。また門の外には国歌に出て来る『さざれ石』の謂れとなった石がある。宝物殿には奉納された多くの刀などが展示されている。

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裏門を降りる。いや、正面の階段である。あまりに静かでしかも薄暗い。しかし本来神社の階段とはこういったものであろう。ここも表通り同様人の往来を考えて、エスカレーターを取り付ければ便利であるが、どうなんであろうか?

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(8)報土寺

一ツ木通りに戻る。一ツ木通りの由来は昔奥州街道がこの地を通過しており、人馬の往来が絶えない。丁度この場所で人や馬を乗り継いだので、人継村といったとか。または氷川神社の神木が一本の銀杏の木であったことから、一つ木と命名したとの話も。左側に浄土寺という寺がある。明治時代の赤坂は決して賑やかな場所ではなかった。人出があったのは豊川稲荷とここ浄土寺の地蔵の縁日(6の日)ぐらいだったという。

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銅像地蔵菩薩坐像という左手に宝珠を、右手には錫杖を持つ丸みのある坐像がある。1719年に製作されたとある。地蔵は6道の内地獄道にいて、落ちてきた衆生を救済するとして民衆の信仰を集めていた。この地蔵もそんなことで人を呼び込んだのであろうか?

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浄土寺を出て、円通寺坂を上る。昔円通寺という名の寺が別にあったが、1695年頃にこの場所に現在の円通寺が出来る。

円通寺より南に少し行くと三分坂に出る。急な坂で車賃を銀三分上乗せしたところから名が付いたという。尚三分とは通貨の単位ではなく、重量の単位であるようだ。今歩いてみても急な坂である。しかし改修前は更に急であったというから驚く。坂に荷を上げる料金が三分だったという説は有力であろう。

その坂下に報土寺がある。三分坂から下って来ると右側が築地塀になっている。この塀は独特である。報土寺は1614年に一つ木通りに創建されたが、1780年ごろに現在の場所に移転。築地塀はその頃作られた。築地塀とは土を突き固め、上に屋根をかけた土塀で塀の中に瓦を横に並べて入れた塀を特に練塀という。

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 中に入ると右手に梵鐘が見える。第2次大戦で供出された梵鐘が戻ってきたそうだ。そして『陸軍歩兵1等卒、小林音松』と書かれた碑がある。亡くなったのは明治37年11月29日、場所は旅順赤坂山である。どうしてこの碑がここにあるのかは分からない。『坂の上の雲』を読んでみると、旅順総攻撃が始まったのは11月26日、それまで203高地を軽視していた乃木将軍はここを攻めた(いや児玉源太郎が攻めた)。それまで数万の兵を全く無策に殺してしまった無能な男、乃木はどんな心境であったろうか?そして何より、その無能な指揮官の命で難攻不落の赤坂山(203高地が陥落しても陥落しなかった山)に突撃していった歩兵の心境はどんなだったのだろうか?

奥の墓地には江戸の大力士、雷電為右衛門の墓がある。18歳で身長が195cmもあった大型力士であり、1790年から引退するまでの22年間の通算成績が250勝10敗。最高位は大関で何故横綱にならなかったかは不明。出雲松江藩の松平不昧のお抱えとなる。不昧といえば7代目藩主であるが、江戸時代後期の大名茶人であり 藩主としての務めを果たしながら、茶道を究め、名物茶器の蒐集を行い、さらに茶道具の研究成果を著作としてあらわし、不昧流茶道の祖となった。尚雷電の墓はその体に似合わず、大きなものではなかった。

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報土寺から少し歩くと乃木坂に赤坂小学校がある。豊川稲荷のところに出てきた大岡越前守の屋敷跡に1873年に出来た学校。当初は豊川稲荷の道の反対側にあったが、その後現在の場所に移転される。尚当日は衆議院選挙。小学校も投票所として開放されていた。日本の未来をこの中に託していくのであろうか?