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タイ人と行く高野山2015(1)夜行バスで行く大阪

《タイ人と行く高野山2015》  2015年5月17日‐20日

 

台湾から戻って2日。また旅に出た。今回は関西を目指して行く。バンコックで偶に行くA師のヨーガ講座、そこのタイ人生徒6人が日本旅行にやってくるのだ。知らない仲ではないので、その関西旅行に便乗することにした。数年前は年間10万人も訪日者がいなかったタイ人、ところがビザ免除になった一昨年の後半以降物凄い勢いで増え、昨年は何と65万人もの人がやってきたのだ。今年は更に増える見込みで100万人を越えるのも時間の問題かもしれない。

 

タイ人は日本にやって来て、何を楽しいと感じ、どこを見ているのか。何を欲しているのか。敬虔な仏教徒であるタイ人が高野山に上ってどう思うのか、興味津々だったので、お願いして同行させてもらった。ちょうど高野山は開創1200年の一大イベントがあり、我々が行く日には安倍首相までやってくるという。何となく波乱の予感、さてどうなのだろうか。

 

5月17日(日)

1.大阪

大阪まで

ここ数年何回も関西に入っているが、一番ネックになるのが、交通費。新幹線は速いのだが、あまりにも高過ぎる。最近はLCCも飛んでおり、検討してみたが、成田ー関空は意外と時間のロスが大きく、利便性では新幹線には敵わない。そしてアドバイスを受けたのが夜行バス。検索すると3日前でも3800円で大阪まで行ける。一度試してみようと思い、急ぎチケットを購入した。

 

16日夜、22:30発ということで、新宿南口近くのビルに向かう。指示ではビルの4階で受け付けるとある。土曜の夜の新宿、それほど人込みはない。だがビルの近くは、夜行バスに乗るために多くの人が歩いていた。ビルのエレベーターには乗り切れない人が列をなす。このビルには1社ではなく、2₋3社のバス会社が入っているようだ。やはり私のように新幹線は高い、と感じている人が多く、このバスのニーズは高い。受付に行くと、地図を渡される。22:30にこの近くに集合、とある。22:30に出発ではないのか、と聞くと、係員は意外そうな顔をする。

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少し時間があったので周囲を散歩するが、オフィスビルは閉まっており、レストランなども閉店の時間になっている。おまけに雨も降りだす。どうするんだ。ブラブラと時間までをやり過ごす。集合場所には乗客が集まっており、点呼が始まる。ビル側の階段に腰かけている人は、係員から退くように言われる。日本は本当に厳しい。道路にはみ出すのも、勿論ご法度。

 

全員揃うと、係員が誘導して別の場所へ移動した。集合場所にはバスが停められないらしい。しかしバスが停められる場所は遠いため、迷子を出さないために路上集合して列をなす。何とも日本的な対応。乗客は若い男女(一人旅、友達と2₋3人)が多いが、中には中年男性、お母さんと子ども、などの組み合わせもある。ディズニーランド帰り、原宿帰り、という感じの女の子たちもいる。

 

結構歩く。都庁前を通過した。その先にバスが停まっており、急いで乗り込む。座席も予め決まっており、私は3列の真ん中になった。確か座席は2列+2列の4列と聞いていたが、3列だとかなりゆったり、リクライニングもできて快適。更には隣の席とはカーテンで仕切られため、ある程度のプライバシーも守られる。女子は女子専用シートがあり、前の方に座っている。隣は若い男性だったが、早々にカーテンを引き、ヘッドホーンで音楽を聞いている。慣れた人たちが多いようで、各々枕やカーディガンなど準備万端の様子。毛布は提供されるので、飛行機並のサービスか。

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11時前に新宿を出たが、1時間も経たない内にバスは停まった。横浜のどこかのバス停。ここからも乗客が数人乗り込む。すぐに出発かと思ったが、運転手2人はタバコを吸ってゆっくり休んでいる。夜行バスは以前事故があって以来、運転手を2人配置すること、休息を十分に取ることが義務付けられているようで、ここでも時間調整のように、なかなか出発しない。まあ急ぐ旅ではないが。

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それからも2時間に一度は、サービスエリアに入り、20-30分休息しては進む。乗客の多くは眠りに着いており、バスが停まっても降りては来ない。私はトイレも近い老人なので、足の運動を兼ねて毎回下りてみた。最初から寝ることを想定していなければ、多少疲れるが、それほど問題はないように思う。転寝を繰り返す。因みにこのバスにはトイレも付いており、実に快適である。

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足柄、浜松、御在所、とバスは順調に進む。当たり前だが、車の通行量は少ない。完全に時間をコントロールしながら行く。以前トルコで乗った長距離バスを思い出す。しかしあのバスには車掌が乗っており、お茶やスナックが配られたな。日本は合理的社会だ。いや、このバス料金で大阪へ無事に行けるだけで十分であろう。新幹線1回でバスに3回以上乗れる計算だ。

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5月の朝は早い。何となく空が明るくなってきた。と思っていると、もう梅田に着いてしまった。日曜日の朝、大阪の街も空いていた。バスはスイスイ走り、30分後には難波に到着。ここが難波のどこなのか、よく分からなかったが、まずは荷物を取って降り、大きく伸びをした。時間はたっぷりある。ゆっくり動けばよい。皆が進む方向に歩いていくと、すぐに地下にもぐる入り口が見えた。そこを下って行くと、もうなんばの地下街。取り敢えず、昼に電車に乗る予定の南海の駅へ行き、コインロッカーを探して、荷物をそこにいれた。何となく気だるい朝が始まった。

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フラフラと沖縄2015(12)那覇 泊と若狭

散歩でとまりんへ

雨が上がっていたので、散歩に出た。実は先日読谷を調べる中で、那覇の港が泊という名であることを知る。泊とは港の意味だから、特に普通の名だとは思うが、2年前に行った富山県の朝日町、バタバタ茶の伝統を残す街の駅の名前も泊だったことを何となく思い出す。ちょうど良いので歩いて行ってみる。

 

雨が降りだし、かなり難儀した。途中にはなぜか中国東方航空のオフィスがあったりする。ゆいレールより海側を歩いたのは初めてだった。あとで知ったのだが、この付近が久米という場所、久米三十六姓と呼ばれる中国福建省から移住した中国人が多く住んだところだった。今は中国的な場所は残っているのだろうか。次回は少し歩き回ってみたい。それにしても華人というのは必ず港の近くに住むものだなと思う。

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かなり歩いていくと船員会館というビルがあった。ここに泊まるのもよい、と思ったことがあったな、と思い出す。昔は船員さんが泊まっていたのだろうか。その向こう側に船が停まっており、港があった。泊港は今はとまりんと呼ばれている大きなフェリーターミナルになっている。

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とまりんは渡嘉敷・座間味・粟国・渡名喜・久米島・南北大東など離島各地へ向かうフェリーが出発する場所。大きなバッグを持った観光客、中には釣竿をもった外国人もいた。私もいつか、ここから船で離島へ行ってみたいと思う。港にはいくつかの定期船が静かに停まっていた。

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実はこのあたりの地名にも注目していた。『若狭』という町名が付けられている。若狭と聞けば、今の福井県を思い出すが何故ここにその地名が付いているのだろうか。調べてみると近畿地方あたりから大量の移民がやって来て、ここに住み着いたらしい。恐らくは船の航路でも、江戸時代の北前船のように、若狭から日本海側を沖縄までやって来る船もあっただろう。実はバタバタ茶に使われるお茶は、元々福井県で作っていたという話がある。そういえば沖縄にはブクブク茶という振り茶がある。どこかに接点はないだろうか。今のところ、全く見出せないが、興味深い繋がりだ。

 

気楽な居酒屋で

そのまま歩き続ける。かなり歩いてロワジールという立派なホテルまで来てしまった。雨を避けるためホテルに入ると、ロビーには中国人、台湾人がソファーに座って中国語を話していた。そのまま抜けると裏手に出て、海が見えた。少し小高くなったところに三重城(みーぐすく)という場所があったので行ってみた。倭寇を見張るために16世紀にできたという。当時は砲台も設置されていたとか。御嶽があり、神聖な場所であると書かれている。

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今晩は急に知人に紹介された人と待ち合わせで、近くの居酒屋に来た。しろま、と書かれたその店に入ると、お客は誰もいなかった。おばさんとおじさんがやっているらしい。待ち人から『遅れる』との連絡があり、座敷の奥に上がり込み、取り敢えずビールを頼んで飲み始めた。私としては珍しい。おばさんがすかさずつまみのオーダーを取り、持ってくる。何だかいい雰囲気だ。

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彼女、Mさんは小さな息子とやってきた。何と大学の後輩に当たるが専攻はフィリピン語だとか。我々の頃にはなかった言語だ。それでも中文大学に留学し、中国語の方に興味が行き、台湾で就職し、台湾人と結婚したという。そして職場の関係で沖縄に来た。出身地は沖縄ではない。更には日本と関係のなかったご主人も台湾から連れてきたという。彼は日本語がほとんどできなかったというから、なかなかすごい。上の子は幼稚園だが、何と台南のおばあちゃんのところへ一人で行って、1か月だけ地元の幼稚園に通っている。下の子も2歳にして、日本語と中国語を理解している。

 

ゴーヤチャンプルなどを頼み、食べる。おばさんお勧めの自家製のスーチカー、丁寧に作られている感じが良かった。酒のつまみとしていくらでも食べられる。この店、おふくろの味、という感じで、とても良かった。いつの間にか店は満員となっており、カウンターにはMさんの会社の人もやって来ていた。帰りも雨が降っていたが、歩いて帰った。何となく気分が良い晩だった。

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4月29日(水)

朝早く起きて、リビングの鍵を置いてチェックアウトした。オーナーともう一度お茶をしたかったが、何しろ台北行きのピーチは8時半発だから、難しい。6時過ぎに駅に行き、ゆいレールで空港へ。LCCターミナルにはあまり買い物できるところがないのを知っていたので、コンビニでおにぎりを買い、お土産物も買い、バスで移動。このシャトルバスがなかなか来ない上に、乗客はかなり多くて長蛇の列、結局乗り切れない。この辺がLCCのゆえんか。

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フライトは全く定刻に台北に向けて飛び立った。ピーチには日本人もある程度乗っていた。国際線ターミナルとはかなり違う雰囲気があったが、勿論主流は台湾人。大量の土産物を持ち込んで乗っている。買い物が目的だから、朝早い便でも問題ないのだろう。沖縄の旅は確実に変わってきている。

フラフラと沖縄2015(11)宮古でネパール料理を

宮古でネパール料理

フェリーターミナルでバスを降りる。そこでNさんたちとお別れし、一人宮古島を歩きだす。と言っても街歩きは前回もしたので、今回はランチを食べるだけ。ターミナル周辺に食べるところはあまりないのを分かっていたので、歩き出したわけだ。空港行きのバスまでまだ1時間半以上ある。時間は十分だが、何しろ荷物が重い。コインロッカーにも入らないので、引き摺って歩く。といってもそう遠くへは行けない。

 

少し歩いてみると、ゲストハウスと書かれて看板がいくつか見えた。次回はここらに泊まってみるか。夜は飲み屋街かな、というところへ出た。昼間は完全に静まり返っている。伊良部島の呑兵衛たちも橋を渡ってこんなところに来るのだろうか。そんな事を思っていると、1軒だけ開いている店があった。ネパール料理と書かれている。普通はネパール人が経営していてもインド料理と書くのが一般的。敢えてネパールを出し、国旗まで飾っている。珍しい。沖縄上陸初日に行った安座間のインド料理屋でも2人のネパール人が働いていた。ネパールよりインド料理の方になじみがあるからだろう。

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数日前ネパールで大地震があり、多数の犠牲者が出ていた。そんなことが頭の隅をかすめ、そして何より腹が減っていたことから、店に入ってみた。12時前だったが店には殆どお客は居なかった。ネパール人の夫婦が幼子をあやしながら働いていた。日本人の店員が注文を取った。きっといつもと変わらない日常の風景なのだろう。地震のことなど全く出てこない。

 

ラッシーを頼み、フィッシュとチキンのカレー、ナンとご飯を半々に頼む。そんなランチが嬉しかった。夫婦に話し掛けようか、地震のことを話題にしようかと思ったその時、数人のサラリーマンが入ってきた。続いてOLも。そしてあっという間に席が埋まり、店が慌ただしくなった。カレーを食べたら日本人好みのまろやかさ、いつもお客の多い人気店なのかもしれない。

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ただ私は何となく勝手に思ってしまう。ネパール地震に対する義援金を声高に叫ぶ人々もいるし、大きな団体が沢山の寄付金を集めてもいる。勿論悪いことではないが、普通の人達は、もっと身近なネパールをこの店に感じているのではないか。誰一人地震の話などしない、店も義援金箱など置いていない、だけど、何となくネパールを、そして被災者を心配して来ているように思える。どこまで渡るか分からない募金箱より、この店で食事をして、そのお金のほんの一部が、店の主人によって祖国へもたらされる、そんなことがあればいいな、と真から思う。

 

食べ終わって、外へ出た。ついに一言もネパール人とは話さなかった。私はネパールの何を知っているのだろうか。いつもネパールに行きたいと思っているが、まだ一度も行ったことがない。黙々と道を歩いたが、心はどこかへ飛んでいる感じだった。ターミナルへ戻ってもまだ時間があり、ターミナル内の椅子に腰かける。向こうの方では何かの作業をしている人達が昼飯を食べていた。フェリーの数もドッと減り、実に寂しい場所になっていた。それでも設置されていたテレビからは笑い声が漏れていた。余計に寂しくなった。

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定刻にバスはやって来て、15分ほどで空港まで私を運んだ。15分のために1時間40分待ったことになるが、それは無駄な時間ではなかった。タクシーに乗れば直ぐだったが、お金ももったいないし、何と言ってもフライトの時間まで間があった。国内線だからそんなに早く行っても仕方がない。出発35分前に空港に着き、余裕でチェックインして、飛行機に乗り込んだ。

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8.那覇2

空港からバスで

那覇の空港に着くと、目の前にイオンモールのコマーシャルが飛び込んできた。とても沖縄とは思えない雰囲気の看板。僅か数日前にオープンし、人で溢れかえったと聞く。周囲に車の渋滞ができ、行きたくても行けないほどだ、とも聞いた。ホーチミンやプノンペンの最初と同じだな、とふと思う。これがずっと続くのかどうか。

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いつもはゆいレールで行くのだが、今回は時間もあったので、バスにチャレンジしてみる。県庁前へ行くバスは沢山あると思ったが、空港からは沖縄本島各都市に行くバスが多く走っていて、那覇へ行くバスはそれほど多くはない、様に見えた。確かにゆいレールもあるし、車の人もいるので、これで十分だろう。アジアならいつ来るか分からないバスだが、ここは日本。ちゃんと時刻表通りにやって来る。

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バスは前乗りで、後ろの出入り口は完全に封鎖されている。これは宮古島でも見られたのだが、本州などでは見たことがない。何故こうなっているのだろうか。無賃乗車防止なの?バスは空港から、何となくゆいレールの下を通る感じだったが、改修中の旭町バスターミナルを過ぎると、あっという間に県庁まで着いてしまった。これ、ゆいレールより便利かもしれない。

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小雨の中、コバルト荘に戻る。前回出てくる時に再度1泊の予約をお願いしたが、GWということで満員。だがリビングの奥にある狭い部屋なら空いているということでそこをお願いしていた。でもこの部屋、4畳半はあり、広さは十分。アパート式の部屋が立派過ぎるのに、料金が安いため、こちらが見劣りするだけだ。バス、トイレ共用だったが、部屋は3つしかなく、困ることはなかった。

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フラフラと沖縄2015(10)伊良部 びらふやーの一日

4月27日(月)

びらふやーの一日

翌朝は6時台に起きた。宿で起きている者は誰もいないと思っていたが昨日もんちゃんを連れて散歩していた女性が一人で荷物を纏めていた。こんな早い時間に出るのかと思っていると『みなと顔を合わせると辛くなるから』と言って、トボトボ出て行った。もんちゃんは当然散歩に連れて行ってくれるものと喜んで付いて行こうとしたが、それを遮られ、大声で別れを惜しんでいた。こんな宿だな、ここは。

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私はとにかく洗濯したかった。19日の未明にバンコックを出てからこれまで、一度も洗濯していない。チャンスはあったのだが、『洗濯は伊良部で』が頭にこびり付き?ここまで来てしまった。今朝はいい天気で、どう見ても洗濯日和だった。全自動の洗濯機を回し、茶を飲みながら、出来るのを待つ。そして庭の物干しに大量の衣服を干した。気持ちの良い朝になった。

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それからネットを繋いでダラダラと過ごす。これがここに来た目的だから、既に達成されている。宿泊人が徐々に起きてくる。チェックアウトする人が出ると、皆で見送る。これも面白い光景だ。知らない者同士がここで知り合い、楽しく過ごし、そして別れる。何だかドラマになりそうな予感。

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昼ごはんは、やはり近くでオムそばを調達。昨年食べたタコ焼きとオムそばが美味かったので、思い出して再訪。聞く所では、おっちゃんが病気したとのことだったが、行ってみると元気にオムそば作ってくれていた。これをテイクアウトして、居間で風に吹かれながら、食べるのが最高に良い。

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午後皆は海に出掛けたが、私はさすがに遠慮して近所を散策した。この付近には神社と書かれているところ、御嶽と書かれている所など、名称はまちまちながら、各集落には森があり、そこには神聖な場所がある。立ち入ってよいかよくわからないので、外から眺めてみると、暑いのに中には爽やかな風が流れているようで、凛とした雰囲気があった。人間界とは一線を画した、神聖な場所。御嶽とはまさにこのような場所なのだろう。私はビーチより、こちらの空気感が好きだ。

 

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かなり歩き回り、疲れたので、近所のスーパーでアイスを買って食べながらまた歩いた。スーパーには最低限の生活用品が並んでいた。それにしても今日一日で相当に顔が黒くなっただろう。何故かへとへとになるまで帰らなかった。農作業をしている地元民が怪訝そうな目で私を見ていた。確かに変な奴が来た、という感じだっただろう。海の方に下る道を農作業車が行く。

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夕方宿に戻ると、先客がいた。既にビールを飲んで、いい感じになっている。聞けば6年前にここに泊まり、伊良部が気に入り、ここに居ついて漁師になったという。それはそれで凄い。漁師生活はかなり厳しいというが、それをも楽しんでいるようだった。彼はギターを弾き、歌を歌いだす。これがまた意外とウマイ。いつも歌っているとか。興が乗り、更にビールを流し込み、人生を語り、そしてまた浜の夕陽を見に行く。何だか現実の時間が流れているのか、夢の中にいるのか、分からないような、何とも不思議な時が流れていた。

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何と今晩は、びらふやーの夕飯定休日に当たっていた。これは何とも残念だが、雷太さんにも休みが必要だ。さてどうする、と思っていると夕飯にあぶれた宿泊者たちが、島内のレストランに行くというので連れて行ってもらった。びらふやーでは車のレンタルもしているので、彼らはそれで海に遊びに行き、そのままレストランへ行こうとしていた。

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琉宮、という名の島で有名なレストラン、以前は予約が取れないとも言われていたが、今日は空いていた。というか、橋が架かってから夕飯を島で食べない観光客、地元民が増えたということだから、その影響は意外と大きい。今日のおすすめがボードに書かれているが、何と尖閣直送の魚があった。また近海で取れる豊富な魚介類があり、実に新鮮な食事を堪能した。何を食べても美味い、とは聞いていたが、これは久しぶりに満足できる食事だった。一人3000円でこれだけ食べて飲むことは東京などではとても無理だろう。偶にはこんな食事も必要だな、と痛感。

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4月28日(火)

翌朝も早起きしたが、何かをしようという気は起こらない。まあこの緩い生活、沖縄本島でも今やないだろう。朝ごはんを注文したので、バクバク食べる。そしてハンモックに横たわり、風に吹かれた。そんな時間は長くは続かず、ここを離れる時が来た。もう見ることはできないのだろうか、びらふやー!

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一緒のバスで宮古へ行くというNさんたちを伴い、宿を離れた。雷太さんと宿泊者が見送ってくれた。これが本当に悲しい別れ、というヤツだろう。もんちゃんはそっぽを向いている。バスは時間通りにバス停に来たが、乗客は殆どいない。今回は写真を撮るため運転手の横に陣取る。運転手も暇なのでNさんも交えて会話が始まる。今度は橋も何とか写真に収めた。そしてついに伊良部が遠くに去って行った。

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フラフラと沖縄2015(9)橋の架かった伊良部島へ

那覇街歩き

午前中はふらふら街歩き。国際通りに出る。昨年閉鎖された三越、今はどうなっているのかと覗いて見ると、1階はお菓子などを売っており、その上にはよしもとが入っておる。更に上はお化け屋敷、とあるから面白い。完全に若者向けになっているが、これは地元向けなのか、観光客向けなのか、よくわからない。外国人もあまりいない。

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国際通りを突き抜けると牧志の公園があり、そこで何やら祭りの稽古が行われていた。大きな幟を皆で支えていた。東南アジアでも見たことがあるような風景だが、どこで見たのか記憶は定かでない。公園近くのマックスバリューに行ってみたが、日曜の午前中、地元のおじいやおばあがゆっくりと買い物をしていた。

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昼ご飯をどこかで食べようと歩く。公設市場の裏に出たので、昨年も行った食べ放題600円の台湾系料理屋へ行く。この後台湾にも行くのだから、わざわざ食べなくてもよいのだが、何となく食べてしまう。精進料理、などと書いてあるところが面白い。ようは肉を入れていないだけだが、お粥にタケノコを入れるだけ、それがまたシンプルでよい。

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宿に帰り、チェックアウト。荷物を持って、ゆいレールの県庁前駅に行く。昨年と切符は一緒だったが、何だかIC化されていた。天気は悪くない。さて、今日はこれから伊良部島だ。ちょっと気合を入れて、空港へ行き、飛行機にポンと乗って40分、懐かしの宮古空港に着いた。

 

7.伊良部島

宮古から伊良部へ

相変わらず平坦な宮古島に降りた。空港は変わっていなかったが、『祝 伊良部大橋開通』の文字が小さく見えていた。前回はここからタクシーに乗り、さらにフェリーに乗って伊良部へ渡ったのだが、今回は路線バスに乗り、更に伊良部行バスで橋を渡っていく。1年の間に随分と大きな変化があったものだ。

 

空港から街へ行くバスの本数は相変わらず少なく、日に4本しかない。1時間近く待ってようやくバスが来る。どうしてこうなっているのだろうか?地元の人は車、観光客はタクシーに乗れ、ということだろうか。当然乗客も少ない。230円。そして懐かしのフェリーターミナルでバスを下り、そこに停まっていた小型バスに乗り替えた。こちらも乗客は多くない。15分ほど待って5時半に出発。終点まで630円。もし宮古空港からタクシーで伊良部の宿まで行くと3000-4000円かかるとあったから、節約にはなるが、時間は掛かり過ぎる。

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最初は街中を少し走り、乗客を拾うが乗る人は殆どいない。そしてすぐに橋を渡る。曲線を描いた大橋、一体何年かかって作られたのだろうか。写真を撮ろうとしたが、バスの中からではうまく撮れない。あっという間に橋を渡り切り、伊良部へ入る。前回車で伊良部の島は一周していたが、お墓が並んでいる場所など、見覚えのない風景もあった。そして集落を上り下りして、フェリーターミナルのあったところまで来た。とても寂しくなっていた。漁業関係者だけだが、ポツリといた。学校も通過したが、今後統合されるらしい。

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50分ほど乗って、ようやくびらふやーまでたどり着いた。最後まで乗っている乗客はいなかった。何だか果てまで来てしまった寂しい感じがした。ちょうど夕陽が落ちている。皆屋上でビールでも飲みながら眺めているのかな、と思ったが、居間で騒いでいた。愛犬もんちゃんが吠えてくれた。

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夕陽を眺める

取り敢えずベッドを確保し、着替えてもまだ十分明るかったので、屋上へ行く。何故かビールを持って眺めている人はいなかった。何となく寂しい。日が落ちていく様子は見えたがもっと見たいと思い、佐和田の浜まで行ってみることにした。実は1年前はびらふやーの居間が気に行ってしまい、車で出掛ける時以外は殆ど外へ出なかった。自分としては珍しいことだが、今回一人で初めて浜へ行く。

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日はいい感じで落ちていく。水面に光が映える。遠浅の浜、岩が所々に点在し、印象派の風景画のようになっている。先客が何人かいた。そこから少し離れたところに、なんともんちゃんがいた。ジッと夕陽を見つめている。宿の女性客が朝夕散歩に連れ出していたのだ。二人?ともピクリともせずに、座っている。

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ついに日が雲に隠れ、ショーが終わる。それでも体は動かない。重くなった足を引き摺り、ポツポツと歩き、宿へ帰る。地元の人が犬の散歩ですれ違う。彼らにとっては夕陽のきれいな光景よりも、陽が落ちて涼しくなった時が、散歩にちょうど良いのだろう。

 

びらふやーの夕飯

宿では夕飯の準備が進んでいた。今日は満員御礼のようだ。座るところをようやく確保して、食事が始まる。希望者に対してオーナーの雷太さんが自ら作ってくれるのだ。みんなでワイワイやりながら食べると、これが何とも美味い。食事が終わると恒例のじゃんけん大会。負けた人が皿を洗う仕組みだ。今回は罰ゲームを免れた。

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中にイタリア人が一人いた。彼はここの住人ではなく、浜でテントを張って寝泊まりしているが、食事だけここに食べに来たらしい。酒も入っているので、みな陽気になり、話も弾んでいる。今日の客は過去にここに泊まったことがある常連さんが中心、年齢も30-40台が多いようだ。実はびらふやーは10月で閉店する予定となっている。家主が戻ってきてここに住むかららしい。それを惜しんで、全国からファンが押し寄せている。特にこれからGW、予約は満員らしい。オーナー雷太さんも心なしか寂しそう。

 

夕食後、久高の合宿で一緒だったNさんが友達とやってきた。まさか全く同じ日にここを予約しているとは知らず、ご縁を感じた。そこへ昨年久高合宿で一緒になり、私をここへ導いてくれたH君もやってきた。ヨーガのご縁が重なっていく。H君、昨年はちょっと世捨て人っぽいところがあったが、今回会うとかなりさっぱりしていた。その理由は彼女ができたことだという。可愛らしい彼女により、彼の人生は変わったのだろうか。

 

フラフラと沖縄2015(8)那覇でミャンマー料理を

壺屋やちむん

宿の外にこの宿を予約してくれたIさんが来てくれた。彼女の家からかなり近いらしい。本当は夕飯を一緒にする予定だったが、お子さんの具合が悪くなり、急遽お茶に変更した。彼女は宿の横の高校出身だと言ったが、コバルト荘については知らなかった。そして何となく雨も止み、歩いて、公設市場の方へ向かう。そしてなぜか吸い込まれるように壺屋焼き物博物館へ。

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先ほど行った読谷やちむんの歴史などを確認するにはちょうどよい施設だった。秀吉の朝鮮出兵後、様々な動きがあり、沖縄にも焼き物が本格的にもたらされたと考えられる。何と音声ガイドの中に、『うちなーぐち(沖縄方言)』というのがあり、沖縄出身のIさんが聞いてみたが、殆どわからないそうだ。

 

それから博物館のすぐ近くの喫茶店に入る。南窯と書かれた表示があり、ここに窯があるようだ。今は使っているのだろうか。この店も焼き物などを売る傍ら、喫茶もやっているので、かなり落ち着いた雰囲気が良い。雨が強くなる。Iさんは観光業などをやっていたが、最近は勤めを始めたという。ゴルフをやらないのに、ゴルフクラブの関係だというから、面白い。

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外に出ると雨が強くなり、慌てて傘を買う。何と200円だというのでそのビニール傘を買ったが、5分もしないうちに止んでしまい、何となく騙された気分になる。勿論傘にではなく、雨にだが。次の目的地は栄町市場。前回も訪れたこの市場、公設市場とは違い、何ともローカル色が強い。午後5時台で既に酔っ払っている人がふらふら歩いている。行列のできている店の前はかなり賑やかだ。今晩はここにあるミャンマー料理店へ向かう。

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那覇のミャンマー料理屋

昨年5月、突如Nさんに誘われて乱入した沖縄ミャンマー人の会、その時出された料理が美味しく、このロイヤルミャンマーに足を運ぶことにした。実はこのお店は、ミャンマーに作った学校の支援をしているという。私は昨年8月にこの学校を訪問しており、いい勉強をさせてもらった。その報告もしたかった。

 

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6時前にお店に着くと、開店準備中だった。奥さんのチョチョカイさんは、ちょうど今日から仕事でミャンマーへ行ってしまって会えなかった。店にいたご主人と少し話す。開店して2年、何とか軌道に乗っているという。お店に少しずつ客が入ってくる。常連の人が多いようだ。ミャンマーでビジネスをしている人もいた。お店ではミャンマーのグッズも販売しており、この収益金も学校支援になるようだ。学校にいた子供たちの笑顔が少しだけチラつく。

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今晩は過去2年会っている沖縄舞踊家のKさんと、先日バンコックのゲストハウスで知り合ったTさんとここで待ち合わせしていた。だが、2人とも全然来る気配がない。実はネットには、遅れる旨の連絡が入っていたのだが、全く見ていなかったのだ。いや今回は東京に寄らなかったため、ポケットWi-Fiも用意しておらず、見ることが出来なかった。何とも困ることが多い。ようやく1時間後にKさんが現れ、モヒンガーやカレーを食べ始めた。やはり美味しい。ご飯がどんどん進む。

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その内Tさんもやって来て、更に食が進む。食べるお茶、ラペソーも食べてみる。Tさんは沖縄市に住んでおり、私に会いにわざわざ那覇まで来てくれたのだ。申し訳ない。2人とも沖縄でミャンマー料理を食べるのは初めてだ、ということだったが、それなりに好評だったと思われる。

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帰りはTさんの車で宿まで送ってもらう。Tさんは淡々と生きていて、時々フラッと旅に出たりするのが、とても面白い。特に人にも迎合しないし、派手なこともしない。コツコツ生きるタイプなのだろう。バンコックでの行動が印象に残っていた。部屋に戻り、久しぶりにテレビ番組などを見て、それから広い部屋を持て余しながら、何とか寝入る。

 

4月26日(日)

コバルト荘の朝

朝7時過ぎに起き、ちょっと経ってからリビングへ行ってみた。オーナーの女性が座っており、お客も2人いて、コーヒーを飲んでいた。オーナーは私にも飲み物を勧め、『座っていかない』と聞いてくれたので、インスタントコーヒーを自分で淹れて、自己紹介しながら席に着く。先客はお医者さんと内地から来たサラリーマン。お医者さんはここの常連のようで、オーナーとの話も弾む。リピーターが多いのは、部屋の広さもあるが、このような交流の場、情報交換の場が設定されているからだろう。

 

ここでも読谷の読み方などについて、何か情報はないかと聞いたが、分からなかった。沖縄関連の本も沢山あり、話の合間に見てみたが、どこにも書かれていないように見えた。沖縄の歴史といっても、史実にある琉球王国、薩摩絡み、そして戦争関連、基地関連が並び、時々民俗学的な本もあるが、日本の歴史同様、そのルーツに触れるものの数は少ない。ゆったりとした時間を過ごして、部屋に引き上げる。

フラフラと沖縄2015(7)読谷は何故『よみたん』と読むの

4月25日(土)

読谷の由来

翌朝は鳥のさえずりで目覚める。いい環境だ。朝ごはんを頂き、持参した梨山茶を飲んでみる。何とも言えないいい香りが部屋に充満した。朝の陽ざしが差し込む部屋でゆっくりとお茶を飲む、悪くない。二人のお子さんも朝から元気だ。歳が離れているので、お兄ちゃんが幼い妹の面倒を見ている。それもまたいい光景だ。

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H家を辞して、昨日も行った座喜味城のところにある読谷歴史民俗資料館を訪ねる。どうしても気になっていた『読谷』をなぜ『よみたん』と読むのかが知りたかったからだ。資料館に入ると、昔の人々の暮らしなどが展示されている。入り口付近には読谷の歴史に関する本なども置かれていたが、パラパラと見てみても、読谷の読み方に関する由来は見付からない。

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仕方なく係の人に聞いてみたところ、『そんな質問は受けたことがない』という顔になり、他のスタッフと協議をし、いくつもの資料に当たってくれたが、結論は『昔からなので分からない』とのことであった。更には昨日発見した、『谷茶』という地名。これもたんちゃ、と読むのだが、その由来については皆目わからなかった。『北谷(ちゃたん)』という地名があることは知っていたが、まさか谷茶があるとは。何となくお茶の繋がりが出てきているが、それ以上探ることはできなかった。

 

読谷やちむん

それから読谷やむちんへ行ってみた。ここは陶芸家が集まる里。那覇に壺屋やちむん通りがあるが、ここは自然の中に登り窯が備えられ、焼き物が実際に作られている。いきなり目の前に読谷山窯という登り窯が見えた。かなりの大きさがあり、瓦屋根がどっしりとした本格的な窯だった。台風に対する備えなのだろうか。20年以上前に4人の陶芸家が共同で作ったというが、各々は独立しており、窯を共用しているだけで経営は全く別だという。近くにはこれも共同の販売所、読谷山焼がある。ここで作品を見ることも出来る。

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もう一つ窯を見た。ここは屋敷の庭、という感じで、工房で働く人が忙しそうに出入りしていた。晴れた日だったので、焼かれる前の物が外に干されている。屋敷の裏に大きな窯があった。先ほどの窯より、ここの方がハッキリと焼き物を焼く雰囲気が出ていた。窯が動き出すと昼夜を問わず、忙しくチェックする。大変な作業のようだ。

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金城次郎窯というところにも行ってもいた。金城次郎という人は、沖縄初の人間国宝、有名な陶芸家だった。那覇の壺屋に窯を作り、壺屋焼を発展させた。1972年の沖縄返還と同時に読谷に移住した。この読谷やちむんは、沖縄の本土復帰に合わせて、米軍施設の跡地利用として作られたようだ。当時那覇は本土同様公害問題があり、窯を移設する必要に迫られていた。

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金城次郎の長男、金城敏男の名前が付いたショップがあった。奥さんと思われる人が陶器を販売していた。魚モチーフ、独特の絵柄が目に飛び込んでくる。だちびん、と呼ばれる酒入れ。懐に抱いたまま飲めるということらしいが、如何にも沖縄を思わせる。ここには次郎、敏男の作品を求めて、遠くは海外からも愛好者がやって来るという。なかなか興味深い。

 

その後戦争関連の遺跡を見る。学校の脇、かなり隅の方にリンガを思わせるような不思議なモニュメントが建っていた。だが、それが何であるか見てもよくわからない。何とそれは1935年に建てられた忠魂碑、戦後碑文は消され、説明文は持ち去られたらしい。沖縄の実に複雑な心境を表わしているように見えた。もう一つ、空挺隊玉砕の地という建物があった。どちらも戦争を忘れないために敢えて残されている物だが、早く忘れたい、という願いが込められているようにも見え、何とも言えない心境になる。横のグランドでは男女が野球の試合をしており、平和の大切を感じさせる。

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昼は渡具知ビーチという地元の人が行くビーチにあるがんじゅうファームという肉屋レストランへ行く。駐車場には米軍の家族が使用する車が並び、金髪の子供たちが楽しそうに遊んでいた。今日は土曜日だった。ビーチには殆ど人影がなく、とても雰囲気が良かった。また性懲りもなく、カツ丼を食べたたが、肉が柔らかくて美味かった。レストランはかなり広かったが、既にほぼ満員。何とか外のスペースを確保する。サラダや飲み物、副菜なども付いているので、ランチはお得感がある。

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天気が下り坂になってきた。ビーチで雲を眺めていれば分かる。Hさんに車で那覇まで送ってもらった。道を進むと、嘉手納、宜野湾など馴染の地名が出てきた。それは皆基地の名前であり、我々が知る沖縄は基地の街なのだ、と再確認することとなる。沖縄は車社会であり、渋滞は多い。今日は土曜日で、それほどの渋滞もなく浦添を通過して、早めに那覇に到着した。

 

6.那覇

コバルト荘

今日のお宿はコバルト荘。県庁からほど近くにある、1972年からやっているという老舗のゲストハウスだ。今日会う予定のIさんにいい宿はないか、と聞いたところ『あそこですよ、あそこ』という返信があったのだが、それがこのコバルト荘で、予約はIさんがしてくれた。ただし二人ともなぜコバルト荘なのか、記憶がなかった。確かに2年前、話題に出たGHなのだが、それが誰から出たのか、何も分からないままチェックインした。

 

チェックインをしたリビングは居心地が良さそうだった。沖縄関連の本が沢山置かれており、期待が持てる。『明日の朝7時過ぎにオーナーが下りてくるので、一緒にお茶を飲みながら歓談してください』と言われ、えー、と思う。ここは一体どんなGHなのだろうか。確かご主人は昨年亡くなったとどこかで読んで気がするのだが。

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ここはビル一棟がGHになっており、何とアパートタイプの部屋、ということで、通されたのは、6畳に3畳、ダイニングにバストイレが付いた広々とした豪華な部屋。これで1泊3000円とは何と安いこと。出張で来る人も利用しているというのも頷ける。Wi-Fiも問題なく使え、テレビも見られる。凄い!

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フラフラと沖縄2015(6)恩納村から読谷を巡る

5.読谷村

読谷まで

それから名護郊外にあるY電機へ行く。日本の家電量販店に中国人が殺到して、便座や炊飯器を買いまくっていると聞いたので、どこか適当な場所を見学したいと言って連れて行ってもらったのだが、これは完全に空振りだった。中国人や外国人だけではなく、お客そのものが殆どいなかったのだ。まあ、平日の昼下がり、家電を買いに来る人もいないだろう。中国人観光客は昼間一体どこに行っているのだろうか。高級炊飯器と便座が目立つところで売られていたので、夕方か夜になると団体バスでここに買いに来るのだろうか。それとも・・?

 

恩納村にある沖縄科学技術大学院大学(OIST)というところへお茶を飲みに行く。Hさんは良くここのカフェに来るというのだ。この大学、聞いたことはなかったが、実に立派な造りで驚く。教員と学生の半数以上を外国人とし、教育と研究は全て英語で行い、世界に卓越した科学技術の研究を行うという、およそ日本では見られないような教育方針。国立大学でもないようだが、一体どうなっているんだ?こんな大学が沖縄に、いや日本にあるなんて、本当に凄い、そして理系の世界は良く分からない。どんな学生や先生が来ているのか興味深い。

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カフェに行くのに、入り口で登記する必要があるというのも珍しい。Hさんは警備員とも顔なじみというのが面白い。一般開放はしているのだが、セキュリティーはある。海が見える抜群のロケーション、ゆったりしたキャンパスは、テレビドラマにでも出てきそうな雰囲気。キャンパスを行き交う人も外国人が目に付き、英語がそこここで聞こえてくる。表記も英語が多い。カフェもお洒落で、飲み物の料金も安い。確かにこれなら通いたい気分になるのも分かる。

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読谷巡り

恩納の道の駅に行く。地元の食材などが沢山売られており、観光客も地元民も買いに来ているようだ。『おんなの駅』というひらがなの看板が実に面白い。それから読谷、残波ビーチにある、御菓子御殿本店を見学しに行く。ここは紅芋タルトなど沢山のお菓子が一堂に並んでいて、いっぺんに買うことができる上、試食が充実していることから、特にアジア系外国人に人気があるという。ただこちらも時間が合わなかったのか、中国人の姿はなく、修学旅行生と韓国人しかいなかった。

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座喜味城にも行った。世界遺産であるが、観光客はあまり居ない。ここまでは来ないのだろうか。見事な曲線の城壁が見えてくる。一昨年訪れた南城市付近の城跡より完成度が高そうに見える。勿論再興されたものだが、かなり見ごたえがある。なぜこのような湾曲した壁なのだろうか。上に上ると高台のため、周囲がよく見える。

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そして日も傾いた頃、『うみぞら』という居酒屋へ行く。1月ソウルに行った時に会ったYさんから『弟が読谷で居酒屋をやっているので行ってみて』と言われていたので、Hさんに連絡すると、何とH家から歩いて5分のところにあるという。これもご縁だな、ということになり、H一家と行くことになっていた。午後6時、まだ外は明るい。お店は建物の2階の一角にある。さすがに早過ぎて、店内にはお客さんはいない。今日は金曜日なので、遅くなってから混むのではないだろうか。

 

Y弟さんと話す。沖縄の人ではないが、ご縁があり、7年前にここに開業。新鮮な海の幸、島の野菜、紅豚などを出している。昨日行った島から持って来たという島らっきょうが美味しい。天ぷらにもしてもらう。私は酒を飲まないので良い客とは言えないが、時々フラッと来て、ちょっと食べて飲んで、話して帰る、にはちょうどよい居酒屋だと思われた。沖縄にはこんな気軽な店が多いのかもしれない。ソウルのYさんの奥さんは沖縄の人であり、Yさん自身も沖縄で暮らしたい、と言っていたことを思い出す。やはりゆるい空間は心地よい。H家の奥さんと子供たちも登場し、賑やかに食べる。

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その後歩いてH家へ。今晩は泊めて頂くことになっている。読谷は米軍関係者とその家族が多く住んでいるということで、米軍仕様の戸建の家が多いという。ここもその一軒、かなり凝った造りになっていた。2階に天井の高い、広いリビングがある。いつもは息子さんが寝ている、ロフトを借りて寝る。

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寝る前に温泉に行こうというのでまた車で出掛ける。沖縄の温泉?初めて聞いたが、なんと新潟から湯を持ってきているという。真っ暗な農道を行くと『銭湯』の看板が浮かび上がる。中は立派な、広々とした温泉、いや銭湯だった。お客は殆どおらず、極楽極楽。この銭湯の周囲は暗くてよく見えなかったが、『むら咲むら』というガラス工房や陶芸施設があり、様々な体験ができるなど、ちょっとしたテーマパーク?になっているようで、日中は観光客がやって来て、沖縄を楽しむらしい。この銭湯の上もホテルになっている。H家に戻るともう夜も10時を過ぎていたので、早々に寝てしまう。何とも言えず、ぐっすり眠れたのは家が温かったからだろうか。

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フラフラと沖縄2015(5)辺野古へ行って感じたこと

4月24日(金)

明け方の浜で

ヨーガの合宿中はちょうど朝陽が上る時間が瞑想と重なり、見ることが出来なかったので、今日は浜へ行ってみることにした。交流館の前から左へまっすぐ。一番近い浜へ行くと、そこは何と、初日に島へ来てすぐに何かに引っ張られたと感じた場所だった。ここには浜の名前すら表示されてない。何となく朝の爽やかな風が吹いてくるだけだが、妙に気になる。

 

浜へ行くと、まだ朝陽は上っていなかった。いや、今日は曇りで見られないのかもしれない。周囲は既に明るくなり、太陽を待つばかりなのだが。そこに一筋の雲?がスーッと流れていた。これは飛行機雲なのだろうか。こんな朝早く飛行機が飛ぶのだろうか。何故か分からないが、この雲が気になる。そしてついに日の光がかすかに見える。サンライズ、というにはちょっと違うが、この僅かな光が何となく心を落ち着かせた。

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この浜には誰もいないだろうと思っていたが、実は先客がいた。ヨーガ合宿にも参加していたSさん。静かに浜の岩の1つに座って、海を眺めていた。彼女は助産師さんで、日本で有名な、自然に丈夫な赤ちゃんを産むという、愛知県の医院に勤務していた。『うちの医院、すごくいい顔をした赤ちゃんが生まれてくるんです』という言葉が、この浜の朝とマッチしていた。彼女は久高島に助産師仲間と何回も来ているという。何か繋がりが感じられるのだろう。

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何となく長居した浜を後にして、交流館に戻り、朝ご飯を食べる。ここで朝ごはんを食べるのは初めてだ。納豆、卵など日本の朝食が並んでいた。これもまた喜ばしい。朝からご飯とみそ汁をお替りしてしまった。健康的な朝だった。それからまた一人で島の中を歩き回る。迷路のような石垣の家々をめぐり、港で舟を見て、ピサ浜で貝を眺める。

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そして交流館に戻ると、団体さんが入って来て、展示物をチラッと見て、すぐに帰っていった。久高島に興味のある観光客がたった5分しか貴重な写真を見ない、ちょっとおかしな気がしたが、その謎は港へ行って解けた。何と今日は沖合に大型クルーズ船が来航し、そこから続々とボートで上陸していたのだ。この島を目指したのではなく、偶々島に上陸した人々、老人が多かったが、何のために船に乗っているのか疑問だった。島側も大勢の観光客が来るというので歓迎ムードで迎えたが、少し勝手が違ったようだ。私も久高を離れる時間となり、フェリーに乗り込み、島を後にした。

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4.辺野古

イタリアンレストラン

安座間の港には元勤務先の1年後輩Hさんが待っていてくれた。彼も既に退職し、沖縄に移住していた。入社以来ずっと知っている人なので、お世話になることにした。彼からは『沖縄でどこへ行きたいか?』と聞かれていたが、思いつく所もなく、何となく辺野古、と答えていた。車は一路辺野古を目指した。私はそこがどれくらい遠いかも分かっていなかった。1時間半ほどして、ようやく到着したその街は、正直かなり寂れていた。Hさんが『まずは昼を食べましょう。場所はイタリアンレストランで』と言ったので、耳を疑う。辺野古でイタリアン?どういうことだろうか。彼の説明では女優の黒木メイサの出身地が辺野古で、彼女がよく通ったレストランだというのだ。

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小さな街のレストランは直ぐに見つかった。地元の人向けの洋食屋さん、という感じで、イタリアンではなく、中華、和食もあった。お勧めはランチセットだというので、一番ボリュームのあるAセットを選ぶ。何ととんかつ、エビフライ、ハンバーグ、チキンカツ、ポテトが並んでいた。スープとご飯も付いている。これはすごい!それでも食べ切ってしまう。

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メニューは日本円と米ドル建ての2つが表示されていた。これが基地や米軍を連想させた。70年代ベトナム戦争の頃は、この街も米兵で溢れたのだろうか。街には今は開いていない飲み屋の看板がいくつも見られた。これが今の辺野古の現状なのだろうと思われ、ちょっと複雑な感覚になる。店には黒木メイサのポスターやサインが飾られていた。ブラジル人の父と日本人の母、彼女の家は直ぐ近所だったと、店のおかみさんが言っていたが、ここでどんな暮らしをしていたのだろうか。基地と結び付けて考えるのはあまりに短絡的だろうな。あの独特な雰囲気はどこから生まれたのだろう。

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辺野古反対派が週末デモをするという浜辺へ行ってみた。今日はほんの数人が浜にいるだけだったが、誤解を受けるといけないので遠くから浜を眺め、そして海を眺めた。バス停からここまで来る近道の順路が示されており、自然に人が集まるというより、動員されてきているようにも思えた。キャンプシュワブのゲート前を車で通ると、多くの人がテントを張り、道行く車に『基地反対』のプラカードを差し出す。

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『実は地元の人は移設に対して、条件付き容認。でも外から来た人達が反対を叫び、ここの生活秩序を乱している部分もある。地元民に賛成とは言えない雰囲気にしている』という声を聞いた。勿論もろ手を挙げて賛成の人はいないだろうが、この街の現状をこの目で見ると、いい悪いは別にして、条件付き容認、という苦渋の決断には頷けるところがある。結局外から人たちは地元民の生活を考えている訳ではなく、自分の主張を表現しているだけではないか。この問題、実に根が深く、複雑だ、と言わざるを得ない。通りすがりの私はそんな印象を受けた。

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フラフラと沖縄2015(4)久高 神の島を一人旅

4月23日(木)

一人で島めぐり

合宿に途中参加したため、殆ど何もしないうちに、最終日となる。朝から瞑想、アーサナ、プラナヤーマ、いい感じで1日の始まりを迎えた。どうして日常的にこれができないのか、1日は24時間しかないという事実、そして年々下がる作業効率、どうしても落ち着いて目を瞑ることが出来なくなっている。ましてや会社に行っている人には無理だろう。しかしそれでよいのだろうか。人間関係が益々ぎすぎすしている日本、皆が朝ゆっくり目を瞑ってから外へ出れば、少しは落ち着いた雰囲気が出るような気もする。ミャンマーなどでお寺に行ってゆったり座る、ということの重要性が分かってくる。でもできない。

 

午前10時まで講義があり、皆さんそのままフェリーで帰る。何ともいい天気で海が眩しい。20人以上が一度にいなくなると急に寂しくなる。A師夫妻など残ったメンバーは数人。港近くの店でアイスクリンなるアイスを食べる。何だろう、これ。お客さんは殆どいないが、経営は成り立つのだろうか。余計なことを考えた。

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昼になり、何となく交流館が用意してくれたお弁当を食べる。このお弁当、毎回実にうまいので楽しみ。しかし昨年まで大きな葉っぱに包まれていたのが、今回は発泡スチロールの容器に変わっている。葉っぱを大量に使うのは良くないという、自然資源保護のためらしい。でも発泡スチロールを使うのはどうなんだろうか。よくわからない。

 

午後念願の?一人旅に出る。他の皆さんは自転車などで夕方回るということで、一人とトボトボと歩き出す。畑の脇にバケツのようなものがある。『水が欲しい時はフタを開けておいてください』とあるから、定期的に水が供給されるのだろう。島には水が豊富にあるわけではないだろうから、共同体のように水を管理しているのかもしれない。皆で歩いているとこんなことにも気が付かない。

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タチ浜というところで、誰もいないきれいな浜辺を見る。水も透き通っている。続いてシマーシ浜では、自然の岩に祈りが込められている場所を見た。何というのだろうか。ウパーマ浜は道から浜までプチジャングルを抜けていく。そして浜に出るとごつごつした岩が沢山。それから真っ直ぐな土の道が続く。まるで映画のセットのようだ。それにしても暑い!

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歩くこと30分、ついにこの島の一番端、カベール岬へやってきた。暑い日差しの中、果てに来たという感じが実に心地よい。何故か車が一台停まっているが人影は見えない。火曜サスペンスドラマなら、確実に事件が起こる場所。ここはこれまで見てきた浜とは明らかに違う。浜に降りるのも岩をつたい、ちょっと大変。

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浜と言っても海に入るようにはなっていない。少し歩くと気持ちよさそうな岩陰があり、そこに腰を下ろす。横には誰かのサンダルとバッグが置かれている。これがさっきの車の人のモノだろうか。とすればこの人は海に入っているのだろうか。全く分からない。涼やかな風がスーッと吹き抜ける。日差しも岩で遮られ、暑さも感じられない。そして・・・?それから20分ぐらい、記憶がない。なぜだろうか?きっとただじっと海を眺めていたのだろうが、その意識がない。波の音も聞こえなかったし、何も感じなかった。ヨーガの講義でも出てきたが、ある意味で無の状態が訪れたのだろうか。

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不思議な時間を過ごした。これは神の島だからだろうか。それとも私の心に何か変化が生じたのだろうか。分からない。立ち上がる時も、ここに残りたい、という気持ちが強く出てきた。どうしようか、そんな気持ちを振り切った。何故振り切ったのかも分からない。あの車はまだ停まっていた。車の持ち主はどこへ消えたのだろうか。魚でも採っているのだろうか、それとも?

 

それから来た道と反対側を歩いてみる。アダンの実がなっている。本当に様々な木が自然に生えている。道の脇にはひっそりと隠れるように墓のようなものがあった。昨日のYさんの説明では昔この島の人は墓など作らなかったという。であれば、何らかの理由で他から来た人が作ったことになる。漂流民であろうか。その人生を見てみたい。

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海辺のかなり整備された道に出た。なんだここは?蝶々が舞い、花が咲く。ロマンスロードと呼ばれるこの道、何のために作られたのだろうか。この島には不要のようにも思われるのだが。これも行政の予算の一環だろうか。勿論歩いている人はない。こちら側は崖になっており、浜へ降りるのは大変。景色を眺める場所なのだろう。ぶらぶら歩いているといつの間にか、フボー御嶽にたどり着く。御嶽の前に立っても、横を歩いてみても、やはり何も感じない。岡本太郎はここで爆発したらしいが、私は不発。ヤグルガーという場所を通り、そして墓の沢山ある所を通る。墓は基本的に新しく、何かの規定により作られたものと感じられる。古来この島の人が墓を重視していない様子がよく分かる。

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海ぶどうの養殖をしている建屋を通り過ぎ、港へ出る。ここから船が出て魚を採ってくるらしい。今は寂しい風景だ。そして家々が連なる所を歩く。完全な迷路のようになっているのは、外敵の侵入に備えるためだろうか。石垣が見事だ。何だか歩いていると楽しくなる。人影は殆どない。観光客が自転車で通り過ぎるのみ。

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交流館に戻り、A師他と合流して、夕食へ。何だかやたらに腹が減る。焼きそばが食いたいと思い、注文するが、やっぱりそばも食べたいと追加。なんだこの組み合わせは?麺ばかり食べてどうするんだ。目の前では炭水化物を全くとらないKさんが呆れた顔で見ている。Kさんはガラス工芸作家。製作現場は富山、ということで、バタバタ茶の話などをして過ごす。

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