「日本」カテゴリーアーカイブ

会津から北関東へ2020(4)那須から水戸へ

12月10日(木)那須から水戸へ

翌朝は食堂で立派な朝ご飯を食べた。このホテルはそもそも病院が研修生のために建てたらしいが、それにしても立派だ。きれいで、しかもGoTo対象だから格安で泊まれた。名残惜しかったがチェックアウトして病院まで行き、バスに乗って駅の方へ戻る。天気も悪くなかったので、電車に乗る前に少し近所を散策する。

昨日は大山巌墓所の前まで行った。大山の別荘は大山農場の中に今もあるらしい。現在は那須拓陽高校が管理しているというが、こちらもコロナで見学はできない。取り敢えず高校の前まで行く。この高校、スポーツが強いことで有名。長距離ランナー渋井陽子なども卒業生だ。正門は四脚門といい、古びているがこれも大山ゆかりだという。

大山農場へ行ってみると、敷地はかなり広く、外から見てみると、遠めに建物が見て取れたが、洋館の姿はなかった。当時那須には山形有朋や松方正義などが別荘を建てているが、大山はここで本気で農業をしようとしていたのだろうか。折角なので乃木神社も参拝する。こちらはとても立派な神社で驚く。乃木希典もここに別荘を持ち、土地を開拓している。途中に鉄道跡が見られた。昔は木材運搬などに活躍したらしい。

駅まで戻り、電車に乗り込む。今回はSuica利用可能とのことで安心する。そうだ、黒磯以南は首都圏なのだ。宇都宮まで乗り、上野東京ラインで小山まで行く。ここから水戸線で行こうと思ったが、水戸線なのに水戸まで行かず、友部で乗り換えとか。何故なんだろう。高校生の頃、何度か水戸線に乗ったが、考えたこともなかった。小山駅で駅うどんを掻き込む。

本当に静かな田舎を水戸線は走っていく。1時間ちょっとで友部に着くと、向かいの常磐線に乗って水戸へ行く。水戸へ行くのは1年先輩の結婚式以来だから、32年ぶりぐらいか。駅に着くと横にある宿に荷物を預けて外へ出た。先ずは県立図書館を目指す。ここで茨城の茶業史を調べ、コピーを取る。

それから街歩き。弘道館など徳川慶喜関連の場所を歩く。ただ彼は幼少の頃しか水戸に居なかったので、実はゆかりの場所は多くない。お城の周囲をグルグル回ると水戸藩関連の施設が多く残っているが、殆どがきれいだ。偕楽園などに行きたかったが、夕方になったので明日にして宿に戻り、チェックイン。

それから待ち合わせの水戸京成百貨店に向かう。京成線が通っていない水戸に京成百貨店というのも不思議だが、駅から約1.5㎞、街の中心部にある。しかも水戸で唯一残った百貨店らしい。地方都市には、このような首を傾げる事象が時々見られるが、それにはきっと事情があるのだろう。今や京成百貨店は水戸市民に必要な存在、という声も聞いた。

待ち合わせたのは香港で何度かあったKさん。いつの間にか故郷の水戸に帰っていたので、訪ねてみた。Kさんの実家はここからすぐの場所で料亭をしていたらしい。非常に博識で、教えてもらうことが多い。何と自宅にお邪魔してしまい、奥さんとも初めて会った。実は今晩Kさんがオンライン勉強会に参加予定なので、一緒にそれを聞くこととなった。

その後夕飯もごちそうになってしまい恐縮だった。香港の昔話や歴史の話なども沢山してしまい、ついつい遅くまで居座った。帰りはスマホを使って何とか歩いて帰った。水戸は東京にも近く、家賃なども安いらしく、意外と住みやすいところかもしれない。ちょっと勉強になる。

12月11日(金)急遽東京へ

明日起きようとすると、何だか頭が重い。それ程寒くはないと思っていたが、どうしてか頭が冷えているように感じられる。一度は治ったので、1階へ行き、朝食を食べたが、何と弁当が配られている。それにみそ汁と納豆が付くのは、やはり水戸だからだろうか。とても食べきれずに残す。

今日は偕楽園に行こうと計画していたが、どうも具合がよくない。1時間ぐらいベッドで横になっていると、何とか起き上がれたので、思い切って東京に戻ることにした。偕楽園や博物館は次回にしよう。宿は駅の横なので便利。GoToクーポンを使っていなかったので土産のまんじゅうを買い込むと、すぐに特急に乗り込む。

普通電車なら2時間かかるが、特急なら特急料金はかかるがわずか1時間。体の負担を考えると1550円払って特急しか選択肢はなかった。座席未指定特急料金というよく分からない切符だったが、乗り込むと座席指定されているかどうか表示されているので、それ以外に座ればよいという合理的なもの。自由席車両を探して歩く必要もなく便利だと感じる。電車が動き出し、目をつぶるとアッいう間に1時間が過ぎ、東京駅直前で起きて何とか下車で来た。

会津から北関東へ2020(3)会津から西那須野へ

また城の周囲を回って、山川捨松の家があった場所を探す。ようやくその看板を見つけたのは、もう日が暮れかかる頃だった。山川家はこの街の名家であり、有名人も輩出している割には、その扱いが小さい理由は何だろうか。捨松が仇敵大山巌と結婚したこともあるのだろうか。

その後まんじゅうを買い込む。日本国内を旅すれば、どこでも土産の和菓子が売られているが、これを箱で買って帰っても、もう喜ばれなくなっていた。それならばら売りしているものを買って、宿で食べる方がよいと考えた。今回はあわまんじゅう、というものだった。

結局雨は降らずにその日の活動を終えた。夕飯も出来るだけ地元の名物を食べようと思い検索したところ、なぜか会津カレー焼きそばというのが登場したので、食べてみることにした。簡単に言えば焼きそばにカレーがかかっている物で、焼きそばもカレーもまずくはないのだが、別に別に食べても良いかと思った。それに普通の焼きそばと普通のカレーで1000円も取られるのは、何となくコスパが悪い。

12月9日(水)会津若松3

会津最終日。今朝は天気も良かったので、半日歩いてみた。西軍墳墓なるものがある。ここでの戦いでは、会津人だけではなく政府軍も相当の死傷者を出したことだろう。七日町通りを行くと、斎藤一の墓に出くわす。剣の達人とも言われた斎藤は会津生まれでもないのに、会津戦の後ここに残り、会津人と共に斗南に移り住んでいる。

その後郊外の方まで歩いて行く。蒲生氏郷がキリシタンだったので、その痕跡はないかと思ったが、教会なども見付からない。郊外に僅かにキリシタン塚という碑が建っており、江戸初期この付近で殉教したキリシタンが埋められた場所らしい。すごくいい天気で、空も青く、雲の感じもよい。

那須野へ

会津での活動を終了し、また電車で郡山方面へ戻る。郡山から新幹線に乗らずに在来線で行く。東北本線も今や細切れ。新白河、黒磯で始発に乗り換えていく。途中でSuica使用不可を知ったが、西那須野駅で精算してくださいと言われ、降りて申し出ると『ちゃんと確認して乗って』と言われたので反論しようかとも思ったが、無駄だと知っているので、黙って精算した。

今日は実に久しぶりに旧友Mと会うことになっていたが、少し早かったので、荷物を持ったまま、散策する。向かった場所は大山巌、捨松の墓所。立派な参道があったが、固く扉は閉められており、お参りすることは叶わなかったので、外から拝む。その向かいの道は大山参道という名前で、もみじ並木と書かれていた。

駅に戻り、言われていたバスに乗り込む。ところがほぼ同じ時間に2本バスがあり危うく乗り違えるところだった。バスで15分ぐらい乗ると、そこに病院があり、そこで降りて予約された宿を探す。ここはMの勤務地であり、宿はその横にある。何と大浴場もあり、部屋も広い。しばし寛いでいるとMがやってきた。10年ぶりの再会だろうか。

彼の車で駅方面へ戻る。車を彼の自宅に置き、奥さんに挨拶する。会うのは20年ぶりだろうか。若い頃から知っている人に会うのは何となく気恥ずかしい。お母さんにもご挨拶したが、『ああ、名前は聞いたことがあるね』と言われる。もう40年以上前の知り合いなのに、何とも記憶力が良い。いずれにしてもコロナ禍なので早々に失礼した。

Mに連れられて近所の美味しいイタリアンへ行き、夕食をごちそうになる。Mの行きつけだというが、最近はコロナの影響を受けて、お客は多くない。そもそもM自体が、以前とは全く異なる医療関係に勤めている訳で、コロナの影響はあるはずだ。だがこの時点では『実は栃木の県北はさほどひどくない』ということで少し余裕が感じられた。コロナ患者は多くないのに、レストランが閑古鳥というのはなんともいえない。

Mとは長い付き合いがあるが、最近10年のお互いの状況はあまり報告していないので、話は長くなる。食事を終わっても話は尽きずに、彼はタクシーで私を送ると言って、そのままホテルまでやってきて、部屋でまた話し込んだ。最近はウクレレを始めたと嬉しそうに言う。二人の娘も成人している。彼の人生のディテールを知っているかといえばそうではないが、大枠、いや若い時期の成り立ちを知っているというのは大きい。夜更けになって彼はタクシーで帰っていった。

会津から北関東へ2020(2)会津の多彩な歴史に触れる

そのすぐ近くには、大河ドラマで主人公にもなった直江兼続の屋敷跡もあった。そう、上杉景勝も会津を領地としており、あの関ケ原の戦いでは家康がここに進軍してきて、途中で小山評定となり、関ヶ原へと反転している。会津というのは考えるまでもなく、日本史上では極めて重要な土地なのだ、だから重要な人物が配置されるのだと改めて実感する。

更に歩いて行くと、日新館天文台跡がある。何だか石垣の上に供養塔でも載っている感じで面白い。江戸時代から天文学が教えられていたのだろうか。この付近一帯には、白虎隊士の実家がいくつもあったようで、その表示がある。更には山本覚馬、八重生誕の地という看板も見える。これは大河ドラマによって発掘?された場所なのだろう。やはり動機が生まれないと歴史は掘り起こせない。

ようやく実に見事な外観のお城が見えてきた。150年前、この城を巡って凄惨な戦いが行われたとは思えない見事さだ。城へ入って見る。本丸跡は広場になっている。入場料を払って城を上っていくと、かなり詳しい展示が目に入る。その多くが会津戦争を戦った人々とその後のことであり、大変参考になった。そして城の上から見ると。会津の街がよく分かる。

広場を歩いて行くと、麟閣という名の茶室があった。この茶室のいわれはすごい。千利休切腹後、高弟蒲生氏郷は秀吉に願い出て、利休の子、少庵を会津に引き取り、この茶室を与えたという。権力者に逆らって死を賜った人間の子供を引き取るとはすごいことだと思うが、同時にこれが後の千家の茶道に繋がっていくのだから、面白い。非常に良い天気の夕暮れ。写真がまぶしい。

その後もグルグルと歩き回る。城近くの小さな公園に、柴四郎、五郎兄弟生誕地の看板を発見した。文士の四郎と軍人の五郎、いずれも興味深い会津人であり、今後彼らの足跡を追っていくことになるだろう。特に柴五郎の『ある明治人の記録』がとても気になっている。城の周りには萱野権兵衛や西郷頼母など、会津藩家老の屋敷跡などの看板も立っている。当然のことながら、現物は全て会津戦争で焼けてしまったことだろう。

12月の会津、その日暮れは早い。5時過ぎには腹も減ってきたので、宿近くの食堂に入る。会津の名物がソースかつ丼とは知らなかった。調べると『大正時代から親しまれてきた会津庶民の味。ごはんの上に千切りキャベツを敷き、その上にソースを浸したトンカツをのせます』となっている。この食堂、狭い店内で高校生が食べている。なかなか美味しい。

12月8日(火)会津若松2

朝起きると頭がボーっとしている。昨日よく眠れたからだろうか。宿の朝食はビュッフェスタイルを禁止して、弁当スタイルになっていた。結構おいしい和定食だったので、テンションは上がる。当然ながら宿泊客は多くなく、朝食を食べている人はさらに少ないので、感染対策の厳格な中、ゆったりと頂く。

今日の天気予報は雨。雨の中を歩いて行くのは厳しいと思っていたが、外を見ると降っていなかったので、先ずは降るまで歩いてみることにした。とにかく会津といえば白虎隊、白虎隊といえば飯盛山だから、そこを目指して行く。心地よい寒さで歩きも軽快になる。その名も白虎通りを歩き、階段を上ると誰もいない、白虎隊墳墓に出た。横には婦女子の墓もある。史実は別にして、ここで多くの若者が亡くなったこと、更には会津戦争で多くの婦女子が亡くなったことに言葉もない。白虎隊の生き残り、飯沼貞夫の墓もある。確かにここからは会津の街がよく見えた。

それから山本家の墓所大龍寺、そして愛宕神社の後方の山中に分け入ると、新選組近藤勇の墓、土方歳三の記念碑を見て、更に松平家墓所で歴代藩主の墓を見ると、新選組と会津、戊辰戦争が目の前に飛び出してくるようだ。その後その昔この地を収めていた芦名氏ゆかりの地を訪ね、なぜかそのまま小田山(芦名氏の山城)を上り始めてしまった。ここまで歩くと相当にきついが、なぜか雨は降らない。

その山の頂上まで登るのは大変だったが、会津が一望出来た。山城とはそのような場所なのだろう。冬枯れの木々、中腹にはあの柴四郎五郎など、柴家一族の墓がきれいに並んであった。ここでは墓参も大変だろう。更に下に降りて、善龍寺に西郷頼母の墓を探したが、その墓の小ささにはちょっと驚く。これは人柄なのだろうか。また西郷の母や妻など21人は、城に入らず、自ら命を絶ち、ここに葬られている。

会津から北関東へ2020(1)真冬の会津若松へ

《会津から北関東へ2020》  2020年12月7日-11日

いよいよコロナ再流行が見えてきた。来年夏のオリンピックも本格的に中止の検討に入っているかもしれない。とにかくこの1年、3月にバンコックから逃げ帰って以来、海外に行けないどころか国内さえ、思うような旅はできない。今年最後の旅として、ひっそりと福島へ向かう。実は47都道府県の内、1泊以上の宿泊経験がない県に福島が入っていたのは自分でも意外だった。子供時代を栃木で過ごしたのだが、栃木市は東京を向いており、北は視野に入らなかったのだろう。

12月7日(月)会津若松へ

福島で行ってみたところといえば会津若松だ。茶旅以外の旅で興味があるのは歴史だから一度は行かなければと思っていた。ちょうど時間が空いたので、寒いだろうとは思いながらも、大宮から新幹線に乗った。乗ってちょっと考え事をしていたら、もう郡山に着いてしまった。これだから新幹線は情緒がなく、つまらない。

郡山駅で会津若松行きの在来線に乗り換えようと自動改札に切符を入れると、切符は吸い込まれ、何も出てこない。在来線ホームにそのまま行けた。だがよく考えてみると、これだと切符もなく、Suicaのタッチもしていないので、何となくおかしいと思い、駅員にその旨申し出ると『駄目だよ、切符持っていないのなら、出口を出て買わなきゃ』と怒られてしまった。確かに乗車券は郡山までしか買っていなかった。

しかし自動改札があるのにお客の方が考えなければならないのだろうか。実はこの路線、郡山から会津若松はSuicaが使えるのだが、東北本線の郡山-黒磯間は使えないという変則になっていると後で分かり、それならちゃんと書いて置けよ、と文句を言いたくなる。JRの年配の駅員にも偉そうな人がたまにいるから気を付けないといけない。

乗り換え時間に間があったので、郡山駅を探索する。土産物屋は充実しているようだったが、ちょうど駅そばが目に入る。そういえば朝飯も食べていなかったので、ここで朝昼兼用うどんを頬張ることになる。やはり温かいうどんは何とも有難い。

磐越西線はゆっくりと走っていく。途中に温泉があり、山もきれいに見えた。冬の東北はもっとうらぶれた印象を持っていたが、これは快適だ。隣の座席では、親戚同士が久しぶりに出会ったようで、話に花が咲いている。コロナで人の往来が途絶えたのは、むしろ地方の方だったようだ。

1時間20分ほど乗って、終点会津若松駅に着いた。駅前には白虎隊の像が建っている。取り敢えず観光案内所に立ち寄り、地図を貰うついでに、『山川捨松ゆかりの場所』を尋ねてみたが、皆さん首を振るばかり。え、今度お札になる津田梅子さんと共に明治初期にアメリカに留学した女性、しかも後年大山巌夫人となった女性が地元で殆ど顕彰されていないとは。係員は申し訳なさそうに『捨松さんが会津に居たのは幼少期だけですから』と説明されて、何となく納得して外へ出た。

会津若松1

予約したホテルは駅から数分歩いたところにあった。昔はいいホテルだったのだろうが、ちょっと老朽化が目立つ。結婚式相談所や旅行会社がホテル内にあるのがそれを物語っている。料金が安いのはそれだけの理由だろうか。フロントの対応は門切り型で温かみはなかった。寒さはそれ程でもないが、天気はどんよりとしており、明日は雨との予報もあったので、今日の内に回れるところは回っておこうと宿を飛び出した。

取り敢えず当てもないのでお城の方に歩いて行くと、会津の商店街があった。その裏側に、ひっそりと寺があった。興徳寺、何とここにあの戦国随一の武将とも言われた蒲生氏郷の墓があると書かれている。蒲生氏郷は40歳の若さで京都に死んだ。その時の領地は会津若松であり、あの城も氏郷が築いたという。天才の寿命は短いということか。

そのままずっと歩いて行くと、お城のへりにぶつかった。そこには藩校日新館にゆかりのある人物が書かれた看板があった。その中には山川大蔵、山川健次郎両兄に下に捨松の名前もあるではないか。その横には山本覚馬、新島八重の兄妹の名前もある。こちらは大河ドラマ八重の桜で、名前が売れていた。

そこから少し行くと、山鹿素行誕生の地という看板があった。あの山鹿流陣太鼓、忠臣蔵でもお馴染みだが、その素行が会津出身とは初めて知った。しかも父親は伊勢亀山から会津に移ってきたというから、蒲生家と何か関係があるのかもしれない。記念碑が建っていたが、その字は東郷平八郎だった。

軽井沢旅2020(3)軽井沢から横川へ

それからKさんが最近住み始めたという高層マンションを見学した。バブル期に建てられたと思われるこの建物、完全な山の中に突然現れるのでかなり驚く。車がなければとても生活できない場所。プールやサウナも完備しており、夏だけここに住む人もいるというが、冬はかなり寂しそうな場所だった。ただ部屋からは雄大な浅間山がくっきりと見え、その眺望は抜群だった。

帰りはワザワザ40分かけて車で送ってもらった。聞けば、軽井沢と北軽井沢は県が違うだけでなく、街のルールや物価もかなり異なるらしい。軽井沢の夜は早いが、北軽井沢は門限?はなく、北軽井沢はガソリン代が安いため、そちらへ行ったついでに給油する人も多いのだそうだ。晩はゆったりと休息する。

11月11日(水)軽井沢から横川へ

今朝も寒い軽井沢。既に昨日多くの宿泊客はチェックアウトしたと見え、今朝の食堂は空いていたので、ゆっくりと食事をとる。出掛けるまでにはかなり時間もあったので、散歩に出てみる。軽井沢駅へ行くと、旧軽井沢駅舎記念館という建物があった。明治43年に建てられた駅舎をそのまま再現して、記念館として使っている。中に入るとストーブの温もりが何とも暖かくてよい。駅の反対側に回り、2階から外を眺めてみると、何とスキー場が見えている。

旧軽井沢の大きな通りも歩いてみたが、こんな朝に人影は殆どない。もう冬支度なのだろう。駅から数分のところに大きなマンションが建設中だった。まさに億ションという感じだが、最近のコロナ禍で、東京から軽井沢に引っ越す動きはかなり出ているというから、販売は順調に違いない。ただ別荘街を歩いてみても枯葉がかなり落ちており、多くの家で退去している様子が見て取れる。億ションの住人になる人は冬を越すのだろうか。

10時前にKさんがやってきて、一緒に六本辻にあるカフェに行った。ここは一昨日の晩に会った後輩のTさんが店長をしており、ちょっと寄ってみた。このカフェはある企業が運営している、今流行りのワーケーション施設に併設されており、何ともおしゃれな造りで、環境もよく、驚いてしまった。お客さんも海外駐在中にコロナで帰国した人や小さな子供を連れた若夫婦など、実に多彩で面白い。Tさん夫妻はお客さんが頻繁に来るので、大忙し。コーヒーを一杯飲んで、あまり話さずに退散した。

Kさんの車で早めのランチを食べに行く。中華料理屋があったので入って見ると、何ともチャーハンが美味しかった。だがそのボリュームは巨大で、午後中ずっと胃がもたれるほどだった。これで今回の軽井沢滞在が終了したのだが、ただ帰るのもつまらないので、軽井沢駅からバスに乗り、横川へ出てみることにした。

バス停に着いたが、乗客は私ともう一人しかいない。しかもこの状態は横川に着くまでずっと変わらなかったので、これまた驚いてしまった。バスはすぐに山道を登り始める。もう少し早い時期なら紅葉がきれいだったろうなと思われる景色だ。途中所々、道路わきを見るとトンネルがあった。これが昔の鉄道路線跡だと分かる。

今碓氷峠を越えている。江戸時代には旧中山道の難所として知られていた峠越えだが、1893年に碓氷線が開業、当初は生糸の運搬が主目的だったらしいが、その後の大別荘地軽井沢の繁栄に貢献したことだろう。だが1997年に廃線となったという。その遺構が各所に残り、鉄道ファンは廃線ウオークなどをしているという。

約50分のバスの旅を終えると、横川駅に到着した。ここから電車に乗るのだが、まだ時間があったので、少しその辺を歩いてみた。どん詰まりの駅なので、車両が数台停まっている。その横をすり抜けると、ちょっとした散歩道がある。碓氷峠の関所の門が見えた。中山道の重要拠点だったのだろう。

駅まで戻ると、峠の釜めしの看板が見えた。そうか、ここは元々横川の釜めしで有名な地だったが、電車が峠を越えなくなり、あまり聞かなくなった(軽井沢駅で売っていたように思う)。折角なので老舗で釜めしを食べてみたいと思ったが、何しろ先ほど食べたチャーハンがずっしりと重く、残念ながら断念した。

小さな駅舎を通り抜けると、鉄道ファンと思われる人が数人、写真を撮りながら発車を待っていた。とても強い日差しがあり、眠気を誘う。『鬼滅の刃』とコラボしているのか、目の前にはアニメがはためいていた。列車が高崎に向かって動き出すと、如何にもこの旅が終わったと強く感じられた。

軽井沢旅2020(2)軽井沢から北軽井沢へ

11月10日(火)軽井沢から北軽井沢へ

今朝は零度と寒かった(部屋は快適に暖かったが)。宿の朝食は何とカレー。これが意外とうまくて、完食する。フロントによれば昨晩この宿は満室で、食堂が狭いため、希望時間に朝食が取れない可能性があるとのことだったが、その通り満員だった。そんなにこの寒い軽井沢に人が来るのかと思ったら、『今年最後のバーゲンが昨日までだった』のだとか。今晩はだいぶ少ないらしい。

Kさんが迎えに来てくれたので、朝からなぜか軽井沢霊園に行く。軽井沢の歴史、特に外国人の歴史を知るには墓地が良いとのことだったが、残念ながらここには外国人墓地はなく、開発される前の軽井沢住民の墓などは見られたが、成果はなかった。そのまま歩いて、雲場池を散策する。天気も非常に良かったので、バーゲンを終えた観光客がかなりおり、皆が写真を撮っていた。

そこから車で少し離れた立派なホテルに行った。ランチの時間には少し早かったので、いきなり庭に出る。そこには実に自然な景観が広がっており、とてもホテルの庭を歩いているとは思えない。沢を降りていくように、小川に向かっていく。ここは軽井沢の水源で、中山道を行き交う旅人が飲み、そして明治天皇もこの水を飲んだ、御膳水と説明書きに書かれている。

ここのランチは美味しいパスタだった。リーズナブルでよい。しかもKさんが『天気が良いのでデザートは庭で食べたい』とわがままを言っても、笑顔で聞いてくれ、テーブルを用意してくれた。枯葉が微かに舞い落ちる、柔らかい日差しの中で食べるデザートは格別だった。

そこから車は雄大な浅間山を眼前に見ながら進んだ。浅間山といえば、歴史的には江戸時代に起こった天明の大噴火を思い出すが、今でも何となく白煙が出ているように感じられる。そして車はいつの間にか県境を越え、群馬県に入っていた。そこにも軽井沢があったのに驚く。北軽井沢。

ここに北軽井沢という駅があったらしい。草津との間を結んだ、その軽便鉄道の駅舎が残されており、そこには大学村の説明などもあった。何と大正時代に法政大学の学長がここに、教職員と学生を中心とした理想的な教育と共同生活の場「法政大学村」をつくろうと思い立ったというのだからすごい。初期の村民には岩波書店の創業者である岩波茂雄や安倍能成、谷川徹三、野上弥生子、津田左右吉、小泉信三らがいたというから、話題性のある、本格的な村だったことが分かる。

車はそのまま進んでいき、ハイロン村に入った。カタカナの地名は珍しいなと思っていたら、何と現在の中国黒竜江省海倫のことだった。満蒙開拓団の入植地として知る人ぞ知るこの村、第二次大戦前に群馬県各地から集められた開拓団の人々が終戦後日本に戻り、政府から払い下げられた土地を開拓したという。日本で開拓した場所に満州の地名を付けるのは極めて稀ではないだろうか。

近所に住む80歳を越える元気な女性に話を聞くことができた。『私は7歳で引き揚げた。少し怖い思いをした程度で帰国できたが、ハイロン村の住人は1945年9月11日に匪賊の襲撃に遭い、多くが犠牲になった。今でも毎年この日に村人が集まり慰霊祭をしているが、もう生き残った人も、大方あちらへ行ってしまったよ』と寂しそうに語る。

群馬に戻っての開拓は苦労が多く、生活も大変だったというが、『最初はリンゴなど果樹園をやり、息子の代になると値段の高い白菜など高原野菜に切り替えた』といい、現在も現役で農業をしている。人手不足のため、海外から技能実習生を迎えて、補っている。

『満州で満人に厳しく当たってきた日本人は、終戦後逆にひどい目に遭ったんだよ。うちは比較的優しく接してきたから、返って彼らに助けられ、生き延びた』『だから中国人でもベトナム人でも、うちに働きに来てくれる実習生にはできるだけ優しくしている。孫が沢山増えたと思えば楽しいよ』という言葉が、非常に印象的だった。

実習生も最初の頃は中国人だったが、今ではインドネシア人に代わっている。この寒い北軽井沢で、宗教も異なる彼らの苦労は大変なものがあるが、お祈り部屋まで設けた、その立派な宿舎を見れば、厳しい立場の人にどう接するべきかを身をもって体験した人の温かさが分かる。

最初はコロナ禍を気にしていたが、話している内に打ち解けてきて、最後は村はずれの小高い丘の上、大きな慰霊碑が建っているところまで案内してもらった。浅間山が真正面に見える場所に、周囲には各家の立派なお墓が並んでいるのは圧巻の光景だった。満州の大平原とは違い、山に囲まれた、小高い所にお墓があるのは、やはり満州へ行った人々の、強い故郷への思いではないかと勝手に想像してしまった。

軽井沢旅2020(1)軽井沢の夜は早い

《軽井沢旅2020》  2020年11月9日-11日

11月に入り、冬の気配が少し感じられる。コロナの増加が警戒される時期だが、政府はいまだGoToトラベルを続けており、国民に旅行を奨励していたので、私も今のうちは旅を継続しておこうと思った。恐らく冬はまた引き籠り生活を余儀なくされる予感が十分にあったから。

前回軽井沢に行ったのは、もう6年以上も前のことだった。あの時は夏で、実にさわやかな気候だったと思うが、今回はコロナの合間を縫っていく秋の旅となった。お知り合いのKさんに誘われて行く旅はどうなってしまうのだろうか?

11月9日(月)軽井沢まで

よく分からない展開だった。Kさんに『もしお暇があればお目に掛かりたい。軽井沢へ伺うのも可能です』と連絡を入れると、なぜか答えが『では東京でランチを食べてから一緒に軽井沢へ行きましょう』というものだった。まあ普通なら東京で会えるなら軽井沢へ行く必要もないだろう、と考えるところだが、私も旅に飢えていたので、その提案に乗ってしまった。

青山で待ち合わせてランチを食べながら、聞きたいことは聞いてしまった。それから東京駅へ向かい、新幹線の切符を買い、乗り込んだ。昨日東京に泊まったKさんはGoToトラベルクーポンを使いきれずに、コンビニでドリンクやお菓子を買い込んでおり、それを分けてもらいながらの旅となった。ただすぐに寝てしまい、気づくと列車は軽井沢に到着していた。それ程に近い旅だった。

Kさんは駅の横の駐車場に車を停めており、その車に乗って予約していた宿へ向かう。車内は少し油臭いにおいがした。灯油を買ったときこぼしたという。灯油を買う、その言葉がなにやら新鮮だった。その宿は歩いても駅から数分ですぐに着いてしまった。Kさんとはここで別れてわたしはチェックイン、彼は自宅に戻っていく。何とも不可思議な光景だった。

この宿はおしゃれな作りで人気のホテルだった。だがコロナで予約は取りやすく、しかも料金も安かった。GoTo様様だが、これでよいのだろうか。部屋の作りも快適で、ベッドに転がってみると、ちょうどテレビがよく見えた。寒さ対策か、ドアも二重になっている。今日は何もしていないのに疲れてしまい、そのままゴロゴロしていた。こんな旅もまた良い。

すっかり暗くなった頃、後輩のTさんが迎えに来てくれた。6年前は彼の家に泊めてもらうなど、すっかりお世話になってしまっていた。既に退職し、悠々自適の生活を送っていたはずのTさんだが、最近のFBを見ていたら、何やらカフェの店長になっているというので、驚いた。それでちょっと訪ねてみることにしたのだ。

今晩はもうカフェは閉まっているので、Tさんお勧めの料理屋さんへ行き、美味しい蕎麦やつまみ(二人とも酒は全く飲まないのだが)を堪能しながら、この6年の出来事を話し合った。何とも言ってもOさんが今年亡くなったことは極めてショックだった。私は彼を訪ねてオーストラリアに行くつもりでいたのだが、それはついに叶わなかった。TさんはOさんの家族とも親しく、最後まで色々と世話をしたらしい。

そんな話を2時間もしていたが、食後にコーヒーでも、と言っても軽井沢の夜は早い。更にはコロナの影響もあってか、普段開いている店も閉まっていた。するとTさんはするすると横道に入り込み、ある別荘の前で車を停めた。知り合いの家に押し掛けるつもりかと思っていると、何とそこはプライベートダイニングだった。

ちょうどお客が帰って店を閉めようとしていたところにやはり押し掛けたのだ。そしてコーヒーを飲みながら更に話した。この店の店主はご主人がフランス人だと言い、今も日本とフランスを行き来しているらしい。そして20年前はフランス系金融機関で働いており、当時のことなども突然思い出してきて、今日に盛り上がってしまった(盛り上がったのは私だけで、彼女は眠かったに違いない)。それにしてもTさんの相変わらずの顔の広さには驚いてしまう。

午後11時過ぎに、ホテルまで送ってもらった。軽井沢の街中を走っていたが、全ての店が閉まっていた。『これが軽井沢のルール』なのだという。あとで調べてみると、戦前軽井沢が開拓された時から、既にルール化されていたようだ。夜遅くまで騒ぐなら他の街でやってくれ、言わんばかり。そこがこの街の魅力なのかもしれない。

名古屋・岐阜意外な旅2018(2)初めて日本で会ったOさんと

夜は何と飛騨牛の店に連れて行ってもらった。お店の雰囲気もとても良く、前菜から魚料理、そして実に柔らかい肉を堪能した。最近『我が家のご馳走とは何か』が議論となり、結局何も出てこなかったことを思えば、やはり滅多に食べられないもの、そして是非食べたい物になるだろうと得心させるお肉だった。これだけ満足したのは久しぶりだ。岐阜駅まで送ってもらい、別れた。次はいつ会えるかな。

 

名古屋
今日の宿は午後10時までにチェックインしなければならいというので、急いで名古屋にJRで戻った。9時半には宿に辿り着く。駅前の安宿。部屋は2階で荷物を持って会談で上がる、トイレは共同、シャワーは地下という構成だが、部屋は狭いが個室で、特に支障はない。まあ駅前のこの立地で3000円だというのは魅力的かな。東南アジア系の外国人がかなり泊まっているのも頷ける。

 

9月2日(日)

朝は7時前に起きて、ゆっくりと顔を洗い、部屋を出る。チェックアウトは鍵を部屋に置いて出る方式だった。既に確認済みの駅の反対側にあるバスターミナルへ向かい、8時過ぎに指定されたバスに乗る。前回は車で迎えに来てもらったので、会場に初めて一人で向かう。日曜日ということもあり、乗客は少なく、バスの本数も少ないので、かなり早めに到着してしまったが、遅刻も出来ないので仕方ない。

 

その辺をフラフラ歩いてみたが、特に何もない住宅街のようだったので、早めに会場に入り、準備する。と言っても基本的に何でもできる主催者のTさんが全てやっているので、私はただそこで予習しているだけだった。お茶の歴史、というテーマはそれほど一般受けするものではないのに、今回も沢山の方に来て頂き、誠にありがたい。

 

今回は先日の大阪の例を踏まえて、午前午後で2つのセミナーを開催した。こちらとしても2度来る手間が省け、参加者も1日で2つ聞けると双方の利害が一致しているようだ。出来ればこういう形式で、年に2度ぐらい開催できると嬉しいが、それも参加者の意向次第だ。

 

間にお昼を挟むのだが、そこは器用なTさん。ちゃんとお店でお昼を用意しており、希望者に振る舞っていて、私も台湾風料理のお相伴に預かる。それにしてもセミナーやりながら、10数人の昼ご飯まで作るとは、何とすごい人なんだTさんは。更にこのお店は移転まじかとなっており、ここに来るのは今回が最後だという。皆さんもこのお店に名残を惜しんでいる。引っ越しと新店舗の準備まで同時並行でやっているとは、もうスーパーマンというべきだろう。新店舗がどんなところか、次回に期待しよう。

 

皆さん、午後は少し眠たかったのでは、と思うほど充実したランチを食べて、また会場へ戻る。『台湾紅茶の歴史』と『台湾包種茶の歴史』を続けて話がどうだっただろうか。基本的にマニアックなトピックスだが、来ている方もマニアックな方が多かっただろうか。質問もいくつも出て、まあ取り敢えず何とか終了した。

 

実は午後のセミナーには香港で10数年お付き合いのあるOさんが参加してくれた。ちょうど昨日実家のある名古屋に香港から帰省しており、初めて日本で会った。しかも彼女の実家はこの会場から何と歩いて5分のところにあるというから、ご縁というのは凄い、としか言いようがない。

 

セミナー終了後、彼女の家にお邪魔した。実家は戦前から長年続く、表具屋さんだった。表具というと、掛け軸などを思い出すだけで知識は全くなかったが、ふすまなど様々な仕事があるとお父さんから説明を受ける。全盛期には組合加盟者も多く、繁栄していたが、昨今はふすまのある家も減り、絵画や書画の軸を新調する人も減っているようだ。

 

数少ない優良顧客はお寺だという。だがお寺の経営も少しずつ厳しくなり、本堂の修繕や軸の修理なども経費削減に遭って、その作業は減りつつある。表具の作業はかなりの忍耐が必要であり、またその熟練の技は簡単に習得できるものではないが、このような状況下、後継者は非常に少ないのが現実。

 

むしろ外国人が表具に注目しており、その習得を希望する人が日本を訪れているともいう。彼らがもしその技術を得られれば、国に帰り仕事があるというのだ。海外の博物館、美術館には多くの日本画、書画などが所蔵されているが、その修理ができる人材は極めて限られており、その需要は大きいらしい。それなら日本人人材が海外で活躍すればよいのでは、と思うのだが、そこは高齢化もあり、難しい。若者技術者がいれば、海外でいい仕事ができると思うのだが。

 

東京に帰る前に、Oさんに連れられて、ひつまぶしを食べに行った。折角実家に帰り、家族団らんするところを誠に申し訳ないが、一人で食べるのは寂しいので、何とも有り難い。これまで何度か食べたことはあるが、今日は一段と美味しく感じられる。お店も日曜日の夜でほぼ満員だ。次回は台湾ラーメンに挑戦しよう。これからも時々名古屋に来て、色々と勉強したいと思う。

名古屋・岐阜意外な旅2018(1)30年ぶりの後輩に会って

《岐阜名古屋の旅2018》  2018年9月1日-2日

2年ぶりに名古屋で茶旅報告会を開いてもらえる機会を得た。日曜日限定という制約もあり、こちらも日本にいないことが多いので、日程がなかなか合わず、半年前にようやくこの日を決めることができた。ついでに1か月前にも行ったばかりの岐阜も再訪することになった。茶旅ではない今回の短い旅、意外と中身は濃かった。

 

9月1日(土)
岐阜へ

朝から新幹線に乗り込んだ。岐阜へ行こうと思ったのだが、バスなど安い交通手段が見付からず、結局新幹線で名古屋へ行き、そこから在来線で行くことにした。全くいつものように品川駅でシュウマイを買い、車内で食べる。どうもにおい問題が気になり始めてはいる。次回はどうするか。

 

いつものように何事もなく、静岡を走り抜けていき、12時には名古屋駅へ滑り込む。静岡へは立ち寄りたいと最近何度も思うのだが、残念ながら通過ばかりだ。新幹線ホームに降りると、数年前に食べたきしめんを思い出し、食べてみようと思う。だが下りたところにあったのは、別の名前の店だった。店の変化も激しいので代わったのかと思ったが、念のためホームを端まで歩いてみる。

 

すると前の方に行列が出来ている店があるではないか。やはり流行っている店は続いているものだ。私も後ろに並び、何とか入り込んで、きしめんを食べる。初めて食べた時ほどの感慨はないが、腹も減っているのでするすると食べてしまう。ここ数年、多くの人がFBなどで紹介したこともあり、お客は増えているようだ。

 

名古屋駅で明日の準備をする。それはバス乗り場を確認することと、今日泊まるところを確認することだった。普通のホテルなら、荷物を預ければよいが、今日のところも安宿で(便利なので駅前にしただけ)、フロントは5時からしか対応しないというので、荷物を引っ張ったまま歩いた。僅か1泊なのに、セミナーで使う茶葉と、念のためのプロジェクター(主催者は急きょネットでプロジェクターを購入してくれたが、それが今日中に届くかどうか心配なため)が入っているので意外や重い。

 

岐阜で

それが終わると、JRで岐阜へ向かう。どうやら快速と普通があるようだが、私はゆっくりと向かった。今日は何と30年ぶりに大学の後輩と会うことになっていた。7月の岐阜訪問の様子をFBに上げたところ、次回岐阜に来るなら声を掛けて、と言われたので声を掛けたのだ。私も彼女もまさか1か月ちょっとでまた来るとは思っていなかったので驚いたが、この機会を逃すと、次にいつ来るか分からないので、会うことにしたのだ。

 

岐阜駅の改札近くに立っていたHさん、20歳の頃とあまり変わっていないように見えて驚いた。すぐに分かるかな、という心配は完全な杞憂に終わる。笑い方など、あの頃とそっくり同じで、思わず学生時代に戻ったかと思う程だった。彼女の車で岐阜城に向かった。お互いの近況、いや30年の流れを一通り話すのに時間が掛かる。

 

岐阜城、時代劇ではよく見るのだが、本物を初めて見る。格好いい信長像が建っている。まさかこんなに急な山の上に築かれているとは思いもしなかった。百聞は一見に如かず、とはまさにこのことだ。ロープウエーに乗り込んで上に上がる。今日はお天気が今一つだが、7月の猛暑を考えれば涼しくて快適だ。

 

ロープウエーを降りて、更に上に歩いて向かう。岐阜城は本能寺の変で焼失したと勝手に思い込んでいたが、実は関ヶ原合戦以後に廃城とされ、1966年に天守閣が再建されたことを学ぶ。その天守閣に登り、空の上から岐阜を見渡した。一部は濃い霧がかかっていたが、風が吹くとスッと視界が開ける。何だか面白い。展示も見てみるが、歴史的にはどうなのだろうか。石垣跡などをちょっと見て下に降りる。

 

そして今度は鵜飼いで有名な長良川にやってきた。鵜飼は夜行われるため、今回は船に乗る時間が無かったが、取り敢えずその周辺を散策する。立派な宿や古民家などがあり、風情がある。既に船の準備が進んでおり、乗船待ちの人々もいた。この日は台風接近が懸念されていたが、やはり商売としては雨が降っていなければ決行するだろう。

 

最後に古い県庁を見て、その横の図書館に入る。この図書館が実に立派で驚く。非常に開放的で、多くに市民で賑わっている。ここなら学生の勉強も捗るのではないだろうか。岐阜に限らず、地方都市の箱物の充実ぶりには時々目を見張るものがある。いつもならここで郷土史などを見学するのだが、今日は疲れたので、併設のスタバで休むことになる。

 

Hさんは早くに地元で結婚、3人のお子さんにも恵まれ、子供たちはみな優秀。ご主人は大手企業に勤めており、ベトナムのハノイで一度お世話になったこともある。とても幸せそうな家族だが、結構劇的な人生を歩んできていることを初めて知る。親とは何か、について語り合う。自分も最近常に反省しているが、彼女は常に乗り越えている。

北海道を旅する2016(6)初めての小樽を歩く

4月4日(月)
4. 小樽
小樽まで

本日は北海道最終日。東京行のフライトまで時間があるので、昨日懇親会で聞いたとおり、荷物を持って小樽へ向かう。小樽へ行くのは初めてで何となくワクワクする。なぜだろうか?今さら石原裕次郎でもないだろうに。札幌駅まですでに慣れ切った地下鉄で行き、小樽行のJRに乗り込む。快速エアポートという速い電車もあるが、敢えて各駅停車に乗ってみる。それでも1時間はかからない。小樽は札幌の通勤圏だと聞いている。

 

何とチケットホールダーなるものが座席の前についている。これがあるということはスイカなど使えないということだろうか。切符を挟んで置く場所など、全く初めて見た。返って忘れてしまいそうだ。この路線の駅名も面白い。星置、ほしみ、とロマンチックな名前が並んだが、その次がいきなり銭函とは、すごい。

DSCN4899m

DSCN4900m

 

海が見えたなと思うと、札幌から45分位で、小樽に到着。古い駅舎のムードを残している。まずはコインロッカーを探す。ちゃんと表示があり、すぐに見つかる。そこには台湾人、タイ人などの親子連れ、カップルなどが荷物を預けていた。皆日本のコインロッカーに精通しており、私より早く預けている。駅前へ出ると、観光案内のデスクがあり、外国人観光客が順番に道を聞き、地図をもらっていた。私は横から地図だけもらい、早々に街へ出る。

DSCN4908m

 

特にあてはない。駅前の道を行くと、すぐに商店街があり、榎本武揚の横断幕が見えた。その先には旧日本郵船小樽支店の重厚な建物、そして廃線となった線路が見える。歩いて行くだけで歴史が見えてきそうだ。更に行くと小樽運河だ。古い倉庫が並んでいる。その辺の公衆トイレに入ると、『異物を流すな』という文字が英語とロシア語でも書かれている。ロシア人は以前小樽に沢山いたらしいが今回は一人も見かけなかった。ルーブル暴落以降、ここにやってくるロシア人は皆無となったのだろうか。

DSCN4919m

DSCN4926m

 

運河を越えて更に行くと港が見えた。今日もいい天気で、圧倒されるような風景がそこにあったが、ここを訪れる観光客はなく、駐車場を使う車だけが通っていた。何とも寂しい。そこから古い町並みを歩く。昔は港で栄えたのだろうな。再び運河に出ると、ラオックスがここに進出しており、観光客の波が分かる。

DSCN4928m

DSCN4935m

 

運河を背景に写真を撮っていたのは、中国人観光客ではなく、タイ人だった。ガイドに連れられ、かなりの数が来ている。その後もところどころでタイ語に出くわした。これがタイ人訪日客か。昨年は80万人、今年は100万人来るかと言われるだけあり、その存在感を増している。勿論台湾人、香港人など常連さんも多い。大陸客は皆さくらを目指して本州に居るのだろうか?

DSCN4939m

 

この街には昔の金融街があったり、商店街があったりして、変化があり、なかなか面白い。その中に先日テレビ番組で偶然見た北菓楼という菓子屋があった。そこのシュークリームが美味いというので買って食べてみる。パイ生地で中は生とカスタードが両方入っている。他の商品は試食も可能で随分と賑わっていた。隣に六花亭もあったが、こちらは試食がなく、客足は明らかだった。

DSCN4962m

 

 

昔の料亭や街灯、そしておしゃれな建物を眺めて歩く。折り返してもと来た道を戻り途中で、わき道に入ると、そこは寿司屋通りと書かれており、確かに寿司屋が多かった。腹が減ったので、その一軒にふらっと入ってみたが、特別感はなかった。きっともっとお金を出さないと美味しいものは食べられないのだろう。

DSCN4967m

 

それからも街中をぐるぐると回ってみたが、歩きやすい、気持ちの良い街だな、という印象はあったが、疲れてきてしまった。少し早いが、新千歳空港に向かうべく、電車に乗ることにした。小樽から新千歳には30分に一本、快速エアポートが走っており、1時間もかからないで、空港に着いてしまう。

 

これはとても便利であり、小樽が観光地として観光客を集められる一つの要因になっているのかもしれない。しかしここから余市やニセコへ電車で向かおうとすると、途端に不便になってしまう。私は実は今回余市へ行くことも考えたが、地元の人に止められた。もっと時間がある時でないと、何かあったら飛行機に間に合わないと言われたのだ。次回はバスも検討しよう。

 

空港に着くと、もう特に何も起こらなかった。帰りのフライトでは広東語が流れることもなかった。今回の北海道訪問は、ある意味とても面白い経験となった。同時にまた来たいな、という思いを強く持った旅となった。何しろ北海道は広い。まだまだ行くべきところはいくらでもあるだろう。