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鎌倉旅2024(2)鎌倉散歩

階段をかなり上っていくと、大江広元の墓(祠のよう)が見える。その横には広元の四男、毛利季光が並んでいる。この毛利が、あの戦国、幕末の毛利の初代だという。三浦一族にくみして宝治合戦で敗れ、自刃したとある。広元は頼朝、義時の重臣。大河ドラマでは北条政子を想う男、として描かれていたような。

そこから島津の墓へは何と一度階段を下りて、もう一度上り直す必要があるため断念。横から写真だけ撮る。昨年12月鹿児島県出水市に行った際にも、忠久の墓に遭遇している。忠久は頼朝の命で九州へ行き、そこから島津家が始まったようだが、一説には頼朝の子ども、というのがあり、江戸時代に島津家がここの修繕をしたらしい。いずれにしても、幕末の薩長がここに並んでいるのが面白い。

ランチはMさんに連れられて、鎌倉駅近くで食べる。昼からカウンターで懐石風、を堪能する。そして何とこのお店の名物はラーメンなのだとか(別に大船でラーメン屋も経営)。最後に出てきて感激する。季節の野菜などを使って美味しいものを出しているのだが、狭い店内で、店員さんを何度も叱っているのは、今のご時世には合わないかな。Mさん、ご馳走様でした。

午後は寿福寺へ。ここも初めて。北条政子の寺と聞いていたが、栄西開山ということで、一度訪ねてみようと思った。ここは頼朝の父、義朝の館があった場所だともいう。ただお寺の境内には入れない。横の道を歩いて裏に回ると墓地がある。大佛次郎や高浜虚子などがここに眠っている。この奥の方の横穴に、北条政子と源実朝の墓があった。何だか呆気ないご対面となる。改めて政子と実朝の歴史に思いを馳せる。

帰りがけに坂を下っていると、昔のお屋敷を使ったレストランがあった。Mさんはここでお茶会などを開催しているようだが、本日は定休日で見学できず。次回もし開いていたら、中を覗いてみたい。旧家の庭、書斎や本棚を見るのが何となく好きだ。

最後にMさんのご自宅へ向かった。閑静な住宅街、こちらでお茶や書の教室が開かれ、沢山の生徒さんが通っているという。何とも言えないいい雰囲気の中で、お茶を入れて頂く幸せに浸る。西鎌倉といえば、以前何度かセミナーをやらせて頂いた場所のすぐ近くだと知る。

私は電車にしか乗らないので、鎌倉駅から西鎌倉は遠いと感じていたが、車だとかなり近いんだなと思う。そういえば、新入社員の研修で、この辺の資産家の家を回ったことを突然思い出す。何とも懐かしい。夕日が落ちる鎌倉高校駅前では、今もカメラを構えたアニメファンがいるのだろう。Mさんがわざわざ大船駅まで車で送ってくれた。今回はお世話になってしまい、恐縮至極。

帰りはJRでダラダラ行くつもりだったが、何故か川崎で降りてしまう。何となく行きと違うルートで帰りたかっただけなのだが、南武線の方に向かっていると、かき揚げうどんという文字が目に入る。ふらっと入っていくと、なんとカウンターの目の前でかき揚げを挙げているではないか。

ここは立ち食いうどん屋のコンセプトに、揚げたてを売りものにしており、ちょっと興味を引かれる。食べている人も半数は女性だったから、意外とうまくいっているのかもしれない。かき揚げ自体は、さすが揚げたてで美味い。そして大きい。スープも合格点なので、今後も近くにあれば行きたい店だった。それから稲田堤を経由して京王線で帰宅した。

鎌倉旅2024(1)北鎌倉で降りて

《鎌倉旅2024》  2024年3月27日

偶にどうしても行きたくなる街、鎌倉。子供の頃、比較的近くに住んでいたこともあり、高校生の頃は、暑い夏の日にわざわざ栃木から出てきてお寺巡りをするという暴挙に出た。大学生の時は海の家でバイトした。8年ぶりかな、鎌倉。

3月27日(水)

湘南新宿ラインは良く遅れる電車だが、今日は特に問題はなかった。座れたので、ゆったりと鎌倉へ向かう。天気も悪くない。電車の遅れを想定して、一本早い電車に乗っていたので、待ち合わせの時間より早く着いてしまう。ということで、一駅前の北鎌倉で降りてみる。外国人が沢山降りていく。

円覚寺が妙に懐かしい。階段を上ったが、時間もないのでそこで引き返した。北条時宗ご廟所と書かれている。元寇で亡くなった兵士を弔うために建てられた寺。『建長、円覚、古寺のー』という歌を突然思い出し、頭の中がグルグルする。急に幼い頃の記憶が少し蘇ってきて驚く。

線路を渡って反対側を歩く。東慶寺は縁切り寺。鎌倉の頃には結界が張られ、そこより中には入れないエリアが存在していた、と先日長浜で聞いたのを思い出す。どんなに追いかけてきてもそれ以上は踏み込めないエリア、一体どのようなルール設定だったのか。今の日本にそのような場所はあるのだろうか。

更に歩いて浄智寺というお寺まで来た。ここは初めてではなかろうか。いや、恐らく高校生の頃、暑い夏に来たことがあったような気もする。かなり涼しげな境内、外からでも中が良く見える。源氏山に登っていく脇道は何となく懐かしい雰囲気がある。ここはガイドさんに連れられたヨーロッパ人の団体が多く来ている。きっと鎌倉の穴場、として紹介されているのだろう。確かに自然の中に寺がある感じは悪くない。

時間切れとなり、北鎌倉駅へ戻り、一駅乗って鎌倉駅に着いた。江ノ電の切符売場には多くの外国人が列をなしている。ここではヨーロッパ系もいるが、アジア系も多く見られる。きっとアニメの影響だろう。右手には時計台もある。こちら側の出口から出るのは実に久しぶりで覚えがない。

鎌倉在住のMさんが車で迎えに来てくれた。まずは竹の報国寺へ行く。何だかんだ言っても、その昔から報国寺は落ち着くのでよく来ていた。今回初めて車でやってくる。天気は良いが思ったほど人はいない。居るのは竹の写真を撮る外国人ばかり。インスタ映え、という意味では確かにそうだが、寺の雰囲気というものはなかなか写真や動画では伝えられないように思う。お庭を見ながらしばしボーっとしていた。

続いて頼朝の墓に行ってみる。多分初めてではないか。その手前まで来ると、何と『島津忠久の墓』という表示があり、思わず食いつく。まずは顕彰碑を横目に見ながら石段を登り、頼朝の墓に詣でる。この塔は江戸後期島津重豪によって整備されたらしい。益々興味深い。法華堂は大河ドラマで名を上げた北条義時によって作られた場所。三浦氏一族もここで果てたとか。

関釜フェリーで行く韓国2023(2)プサンに上陸して

3月27日(月)プサンに上陸して

午前6時前には起き上がった。すると少しして船が停止した。何ともうプサン港に着いたのだ。だが下船時間は8時。そうか、港職員はまだ来ておらず、手続きできないので待っているのだ。『プサン港に入れない』。今更風呂に入るわけにもいかず、韓国用シムと格闘して、何とか開通させる。そうこうするうちに下船が始まる。

ゆっくり降りていくと、すぐに入国審査がある。韓国人はさっさと抜けて行くが、外国人の窓口は一つしか開いておらず、進まない。韓国人は全て抜け終わると一斉に窓口が外国人に開放され、後から並んだ人々がどんどん追い抜いて行く悪のシステム。そのことを係官に指摘しようとしても、理解できないらしい。実に古い空港のシステムのようで、改善はない。

まずはウォンがいるので、ターミナルの銀行で両替する。レートは悪いが金がないと何もできないので仕方がない。予約した宿はターミナルから近いはずなので歩いて行く。何だか天気が良い。道も広い。清々しい朝だ。近くに見えたプサン駅だが、歩いてみると意外と遠い。更に駅を通り越して歩いて行くとようやく宿が見える。Googleで見るよりずっと遠かった。

キレイな宿に荷物を預けて外へ出た。意外と疲れていないので驚く。まずは朝ご飯でも食べようと思ったが、駅前の中華街はどこも閉まっていた。何となく以前行った市場のことが思い浮かぶ。あれは8年前の冬、寒風吹きすさぶ中で、食べ物を売っていたおばちゃんたちの姿だ。そこは駅前から3㎞ぐらい離れていたが、折角なので歩いて行ってみた。

途中に『40階段記念碑』があり、道から階段が伸びていた。ここは朝鮮戦争時の避難民の集結した場所であり、バラック小屋で生活しながら生き別れた家族を待ったところと聞く。この付近も1953年の大火で焼かれ、その面影は無くなっている。因みに辰野金吾が設計した旧ソウル駅もこの近所にあったが、その大火で焼失したとある。

ずっと行くとおしゃれな通りが出てきた。この付近は300₋400年前、龍頭山倭館が置かれた場所らしい。今やその面影は全く見られない。何とか国際市場付近まで来たが、その風情は随分と変わっていた。まだ朝なので多くの商店は開いていない。細い路地に行くと靴下などを売っている向こうに、おばちゃんたちが座って商売している場所を見つけた。

レーメン、などと日本語で声が掛かったが無視して進むと、『チャプチェ』と言われて立ち止まる。習性として『チャ』には必ず反応してしまうのは悲しい。座ってチャプチェを食べると旨い。スープも別に出してくれ、こちらも旨い。何だか気分が乗ってきた。3000ウォン。因みにチャプチェとは雑菜と書くらしい。朝鮮半島に入った中国料理、というのはやはり一度やってみたいが、韓国語が分からない。

何となく中途半端に食べたので余計に腹が減ってきた。確か港の方に焼き魚があったようだと思い出して行ってみる。だが食堂の焼き魚定食は皆2人前以上。一人で簡単には食べられない。おばさんに聞いてみると『あっちに行けばあるよ』と指をさした方に行くと、細い路地が市場になっている。かなり長く続くその市場を抜けて行くと、途中から食べ物屋が出てきた。

だが焼き魚はない。それでも旨そうな湯気が立ち、匂いがしている。思わず覗き込むと優しそうなお姉さんが、『食べていく?』という顔をしたので頷く。そして料理名を聞くとGoogle翻訳を示す。ソンジクッパ、牛の血を固めたものを煮込んでご飯にかけて食べるようだ。濃厚なスープに牛肉の筋などが入り、実に美味。これで6000ウォンは安い!因みにお姉さんは韓流ドラマに夢中で、会計できずに困る。

関釜フェリーで行く韓国2023(1)小倉でサクラ、食べ歩き

《関釜フェリーで行く韓国2023》  2023年3月25₋30日

2か月のタイ滞在を終えて東京に戻った。だがもうコロナ時代は終わったとばかり、次々に旅が予定されていた。1週間後には韓国に向けて旅立つ。今回は単にソウルの知り合いに会いに行くのが目的だが、飛行機の往復はつまらないと思い、前々から乗ってみたかった関釜フェリーを選択。そして久々の北朝鮮を眺める旅に出た。

3月25日(土)小倉へ

小雨の中、羽田空港に向かった。ここ数日天気が良くない。今回は実に久しぶりにスターフライヤーに乗る。ANAのマイレージ、国際線はサーチャージが高すぎて、使う気になれないが、北九州行のチャージは僅か470円。これなら安いと、年度末、春休みで込み合うフライトを抑えた。

ところが羽田に着くとスターフライヤーはANAと違い第1ターミナルなので、反対に行ってしまい、戸惑う。同じグループというわけでもないのだろうか。スターフライヤーは機体が格好良い。機内は満席だが、席は心持ち広くて快適な気分になれた。まあ、フライトは1時間半なので、あっという間に着いてしまう。

北九州空港で降りるとリムジンバスが待っている。710円、40分で小倉駅前まで行く。因みに小倉駅前といっても、新幹線口とバスターミナルがあり、ちょっと混乱。そこでお茶友達のNさんと合流し、彼女の案内で予約した宿へ荷物を置きに行く。そこは老舗ホテルで本館と新館があり、それはなぜか繋がっていなくて、また混乱。何だか日本では困惑が多い感じだ。

それから地元のうなぎの名店へ行ったが、外に行列が出来ていた。30分待ちの間に、カフェでアッサム茶200周年などのお茶話をする。戻るとちょうど順番が来て、席に着く。せいろ蒸しというのがあったので、それを注文する。肝焼きなども美味しかったが、せいろ蒸しのうなぎは柔らかく、極上。

それから駅前近く、Mさんのお店、ホーンへ行ってみる。本当は明日行く予定だったが、昼はお休みとのことで、急遽訪ねる。夜はバーで、お客さんが溢れていた。コロナが過ぎ去り、急激に客足が伸びているようだが、まだ常連客は完全に戻っていないという。バーで伊勢紅茶を味わいながら、Nさんとお茶談義。更には隣に一人で来ていた女性がいて、紅茶好きということで話す。これからはこんな紅茶の飲み方もありではないか。残念ながら大忙しのMさんとあまり話せなかった。

3月26日(日)小倉でお花見

昨晩は夜遅く戻ったので、朝風呂。さっぱりしたところで朝散歩。お城近くにサクラが咲いている。昨年2度の火事に見舞われた旦過市場はひっそりとしていた。後で調べたら日曜日は休業日らしい。どの程度賑わいが戻ってきているのだろうか。焼けた部分の修復、そして一部は残されていた。大正時代からある由緒ある市場は残っていくだろうか。

小倉駅でYさんと合流して、北九州のソウルフードとも呼ばれる『資さんうどん』に行ってみる。チェーン店ながら安定の味で、ひっきりなしに客が来ている。もつ鍋うどんを注文。確かにいい味になっている。デザートにぼたもちも頂く。今はかつ丼が売出し中だった。帰る頃には席待ちの人が外まで続いていた。

腹が一杯になり、雨も止んだので、小倉城に花見に行く。ほぼ満開でかなりきれいな状況だった。毎年日本のどこかでサクラが見られるのは何とも嬉しい。今日は日曜日だから花見客も多いが、それでも十分余裕をもって見られるのは尚よい。また小雨が降り出したので、辻利へ行って、あんみつを食べ、抹茶を頂く。何とも贅沢な午後。

その後Yさんと別れて下関に移動。JRに乗って行く。本当は駅のうどんが食べたかったが、腹に全く余裕なし。40分弱で下関駅に到着。昨年三泊もしたのに、駅の配置も忘れてしまい、道に迷いながらターミナルを目指す。実は歩道橋でかなり繋がっていることは後から知る。

佐原旅2022(2)成田で、そして電車遅延で

12月17日(土)成田へ

朝6時に起きたが、大浴場に行く気にはなれず、朝ご飯も頼んでいなかったので、部屋でボーっと過ごす。このご時世、体に異変があると困るので、取り敢えずジッとしておく。そして9時になったのでチェックアウトして、昨日の観光案内所へ行く。そこで残った旅行支援クーポンを美味しそうなご当地お菓子と交換する。

伊能忠敬記念館への思いが馳せたが、意を決して駅へ戻り、電車を待つ。結局佐原では歩きたいところへ行きつけず、後悔が残るが仕方がない。楽しみを次回に残したと思って、また来よう。駅舎からホームへ行くと、何とこの駅にはゼロ番線があるというアナウンス。ここを使う電車は鹿島神宮まで行くらしい。ちょうど電車がやってきて、こちらの電車に乗り換える。いつか鹿島神宮にも行ってみよう。

また昨日来た路線をただただ戻る。今日は土曜日だからなのか、乗客が多いが何とか座っていく。40分で成田駅へ戻る。今日は逆に京成駅へ行く。イオンモールへ行く電車があるのかと勘違いして駅で聞くと、前のバスに乗れ、と言われたので、そちらを向くと、既に結構な行列が出来ている。

このバスはイオンモール直通バス。最後の一人として何とか乗り込み、立っていく。道はそれほど遠くないはずだが、意外と時間が掛かる。20分で何とか到着。なぜここへ来たのか。それは先日知り合いのTさんと連絡を取り合い、久しぶりに会おうということになったのだが、何と彼は知らない内に成田に引っ越していた。折角なので都内にある彼の会社ではなく、成田へ来て見た(そのついでに佐原に寄った)というわけだ。

イオンモールは結構広いので会うのに手間取ったが何とか落ち合った。そしてモールの向かいにあるカフェでサンドイッチなどを頬張り、ゆっくりした時間を過ごす。すきっ腹のサンドイッチは何とも旨い。Tさんとは6年ぶりらしい。その間彼の周辺は激変し、彼は着々と日本定住を進めている。一方彼の両親の故郷である広東省にも、家を建て、そちらに両親を住まわせる計画もあった。私としてはその場所と茶に大いに関連があるため、準備が出来たところで、そちらに調査に行きたいと考えている。

因みに彼は私のIT周りをいつも手伝ってくれていた人。以前はPCの購入からソフトやデータの移設まで、全部やってもらっていた恩人だ。今回も何気なく『中国の決済システムが使えなくて』と話したところ、取り敢えず最低限の処置をしてくれた。実はこの時やってもらった処置がその後大きな意味を持つ。持つべきものは友、何とも有難いお知り合いだ。

3時間ほど話して、また成田駅へ向かった。それから昨日来たルートを淡々と戻っていく。ところが笹塚まで来た時、京王線で人身事故があったことが初めてアナウンスされる。明大前まで来ると、一度電車を下ろされる。振替輸送があるというので行列して駅員に尋ねると『Suicaでは振替できません。目的地を明確にするため、きっぷを買ってください』という。それも面倒だと思い、そこで駅そばを食べながら待つ。1時間で回復予定と出ていていたので、日本なら1時間以内に動き出すだろうと高を括っていた。1時間が近くづくと来た電車に乗り桜上水まで進んだ。

皆考えることは同じだ。復旧したら一番最寄りの駅ら乗るのが一番近道と。何と桜上水駅のホームは人で溢れていた。しかも動くはずの電車は全く来ず、後から後から乗客がここに送り込まれてきて、大混乱になる。もうアナウンスも当てにはならない。そしてこの日は非常に寒い。体感温度は零度に近いのではと思う中、約1時間吹きっさらしのホームに立たされていた。それでも文句を言う人がいないのはやはり日本人、すごいなと感心する。ようやく電車が動き出し、家に帰ると昨日の疲れがどっとぶり返し、本当に病気になりそうだったので、急いで寝入る。

佐原旅2022(1)初めて佐原へ

《佐原旅2022》  2022年12月16₋17日

日本に帰国し、茨城、静岡に行った後は、ずっと家にいた。そして毎日サッカーを見ていた。日本がこれだけやれるとは正直思っておらず、予想外に盛り上がったワールドカップだった。決勝戦後に今年最後の旅に出ようと思っていたが、その前にちょうど成田へ行くことになったので、ついでに前から興味のあった佐原へ行って見ることにした。

12月16日(金)佐原へ

まずは京王線、都営新宿線で本八幡へ行き、京成線に乗り換える。そして京成成田駅で降りる。これは久しく使っていない成田空港への一番安く行ける道である。何となく懐かしい。京成からJRに乗り換えるには数分歩かなければならない。JR成田駅まで来ると、乗る予定の電車が少し遅れているという。

それならばと近くでランチを探すと、駅の横に駅そばがあったので、何気なく入ってみる。そして何気なく普通にかき揚げそばを頼み、するすると食べて、外へ出た。そこには張り紙があった。『閉店のお知らせ』、その日付はまさに今日だった。初めて入った店が今日でお仕舞だ何て、何となく悲しいのだが、お客さんも従業員も、とても普通な雰囲気でちょっと不思議だった。まあ、10日後には新しいチェーン店がそのまま入って、何事もなかったように営業するらしい。

駅の前には観光案内所もあったので、成田山新勝寺の案内を貰う。そこで『ちょうどすぐ近くで歌舞伎浮世絵展やっています』と言われたので、トイレに行くついでに?ちょっと覗いてみることにした。市川團十郎が浮世絵に描かれており、新勝寺詣でをするなどの場面が展示されていた。

駅まで戻ると電車はそれほど遅れず、発車した。この時間帯に乗っているのは高校生。銚子行の電車は快調に走っていき、40分も乗ると佐原まで着いてしまう。何だかもっと遠い所へ行くつもりでいたので、少し拍子抜けする。

佐原で

佐原駅の駅舎は結構クラシックで様子が良い。駅前に出ると、さっそく郷土の偉人、伊能忠敬像が迎えてくれる。精緻な日本地図を作った男はここで生まれた。そして本日の宿は駅のすぐ横、まずは荷物を預かってもらうべく、そちらへ向かう。フロントの対応が実に親切で嬉しい。

外へ出て、観光案内所へ向かう。そこで説明を聞き、地図を貰う。その地図に沿って歩き出す。10分もしない内に、川へ出て、その両脇に古い店舗や倉庫が見えてくれる。川には遊覧船も浮かんでいる。この風景には既視感がある。私が育った栃木市も『蔵の街』として売り出しており、同じような風景を見てきた。もう長く行っていない栃木、今はどうなっているだろうか。

こちらの街並みでは、商店なども多く保存されており、今も店舗として活用されている。ただ12月の寒空、今日は日差しが暖かいと言っても、平日に歩いている観光客は多くはないのが、少し寂しい。ただゆったりと歩けるのは自分にとっては有難い。正上醤油店は何かの番組で取り上げられており、見た記憶があった。川から少し外れると川崎銀行佐原支店という洋風建築があり、中は観光案内所、展示スペースになっており、休息がてら勉強する。

勿論この街には中心がある。伊能忠敬である。その旧宅は開放されており、酒造業を営んだ家が残っている。忠敬は養子で、50歳まで家業を行い、隠居後全国を歩き始めた。全く環境や志は異なるものの、私も50歳で会社を辞め、本格的に茶旅を始めた。一方的に親近感を持っている。

伊能忠敬記念館に行けば、詳しい説明があるだろうと思っていたが、何故か急に疲れが出てしまい、集中力もなくなったので、ここは明日に回して帰ることにした。帰りは別の道を通り、諏訪神社の先の公園内にあった、もう一つの伊能忠敬像だけ見て帰る。こちらの像は駅前よりかなり大きく、佐原の街が以前より伊能忠敬に向けていた尊敬が伝わってきた。

宿に戻りチェックインする。まだ早い時間なのに、結構人が並んでいた。どうやら全国旅行支援でゆっくりしようという人々らしい。この宿には大浴場もあるし、ちょうどよいのかもしれない。私も早々に風呂に入ろうと考えたが、何とも疲労感がすごい。まさか病ではないだろうな、とちょっと心配になるほどだが、熱などの症状は全くない。

夕方になっても回復しない。腹だけが少し減ったので、近所の定食屋を探したが、残念ながら閉店していた。平日は開いていない店も多いらしい。仕方なく旅行支援クーポンをコンビニで使用して、食べ物を確保。部屋で食べた。そしてふっとベッドに入ると、何とそのまま朝まで寝込んでしまう。丸12時間、一度も起きずに寝ていることなど近年稀。本当に疲れがピークになっていたようだ。

横浜歴史旅2022(2)掃部山公園と音楽堂

中華街をよく見ながら歩くと、かなり古い建物が見られる。そういえば半年前に閉店した老舗の聘珍楼、既に店があったことも分からないようになっていた。賃料が高額で負担できなかったとの話もあるが、本日見る限りかなりの人出があり、コロナがもう少し早く収束していれば、あるいは生き残れたかもしれない。これも中華街の栄枯盛衰か。最近はレストランではなく、占いコーナーがすごく増えたと感じるが、これもまた世の流れだろうか。

お昼はお知り合いのKさんと食べる。Kさんが選んでくれた店は、まさかの東北料理。いや、これまで中華街のイメージは広東中心の南方系が主流だったが、最近は中国人のための中華ニーズからか、東北系の進出が目立っているようだ。午後1時頃でも店は満員。店員は勿論お客も中国人が多く、中国語がそこかしこで飛び交う。これもまた新たな中華街だろうか。中華街は食べ放題の店が増えてしまい、観光客向け。ここで働く人などの食事も必要だ。

そこからKさんと散歩がてら、桜木町駅方面へ向かう。横浜公園を通り掛かったので、横浜開港初期の功労者の一人、英国人土木技師ブラントンの胸像を紹介する。長く横浜界隈に住んでいても、公園を散歩することがあっても、この胸像には気が付かなかったと。歴史とはそういうものだろう。

桜木町駅でKさんと別れた。この駅の横に操車場?があり、その跡地で中国鉄道展が開かれ、30日間東京の王子から毎日バイトで駆り出されたのは、あれはちょうど40年前の夏休みだった。懐かしいというか、あれは何だったのだろうかと思ってしまう。初めて中国人民(運転手さん)と中国語で言葉を交わした思い出の地。

そこから少し坂を上っていくと、神奈川県立音楽堂がある。この付近に横浜の大茶商、大谷嘉兵衛の屋敷があったらしいが、今やその痕跡は全く見付けられない。音楽堂の裏は掃部山公園と書かれている。掃部山というぐらいだから、日米修好通商条約の井伊直弼ゆかりだろうか。直弼も幕末の大茶人だから、茶の歴史とは深い関係にあるが、今日はこの公園をパスした。因みにここは明治5年の鉄道開業に際して、外国人技師の官舎などが建てられていたらしい。今年は鉄道開業150年、何かしらの因縁を感じる。

更には立派な能楽堂という建物もある。ここは旧前田家の敷地だったらしい。その横に目的地の県立図書館があった。この図書館が出来た経緯なども知りたいと思い、入ってみたら、何と月に一度の特別休館日。何と間の悪い日に来てしまったのだろうか。後悔先に立たず、だな。

仕方なく市立図書館へ回ってみる。所在地は野毛山。戦前は原善三郎や茂木惣兵衛など、大物の屋敷があったと書かれている。今は動物園か。こちらは普通に開いていたので、調べ物をする。少しのつもりが意外と時間を取り、外へ出たら既に真っ暗。トボトボ桜木町駅方面へ歩いて行くと、その辺は野毛の飲み屋街。何だかなあ、と思いながら、電車ですぐに帰った。

ところが東横線で渋谷まで来るうちに、すごく腹が減ってしまい、渋谷で夕飯を探す。ふらふらと川沿いを歩いていると、『とん汁定食』という文字が見えたので、古い定食屋かと思い入ってみた。その文字とは裏腹に、かなりおしゃれなお店で、店員も若者、お客も若者という、イメージとは違う店だった。

何だか旨そうなアジフライもあるというので、セットにして食べる。豚汁は野菜がゴロゴロ入っており、意外といける。ご飯も選べるし、雰囲気も良い。何だかよくできているなあと思って調べてみたら、かつやの系列店だった。なるほどと妙に納得して帰路に着く。まあ1000円は決して安くはない。

横浜歴史旅2022(1)中華義荘から中華街へ

《横浜歴史旅2022》  2022年12月8日

これまでも横浜には何度も来た。中華街にも時々来ている。だが私は中華街がどのような過程で発展し、どのような経緯で華人が今日を迎えたのかをよく知らない。偶には港横浜で華人巡りをしてみようと思い立ち、珍しく?日帰りで出掛けた。

12月8日(木)

東横線で横浜駅まで来て、根岸線に乗り換えた。ところが電車が遅れているという。ホームに行くと電車は停まっており、表示では55分遅れとなっていた。どうしたものだろうかと考えていたところ、突然ホームのベルが鳴り、慌てて乗り込むと走り出した。約1時間止まっていた電車がちょうど動き出したところだったらしい。何という幸運。

山手、という駅で初めて降りる。山手と言えばユーミンの『山手のドルフィンは』ぐらいしか思いつかない。駅から目的地までGoogleで調べた通り歩き出すと、何とかなり急な坂道だった。更には道も入り組んでおり、意外と面倒な行程となる。何とか喘ぎながら到着したのは中華義荘というところ。

ここは横浜華人たちのお墓がある所だった。19世紀後半に出来た墓地、1892年に華人たちの手によって建てられた地蔵王廟もここにあり、立派な菩薩像も安置されている。華人たちがここを手に入れるまでも色々と苦労があったようだが、今やそれも良く分からない。近所で日向ぼっこしていた老婆もどこか華人の雰囲気があった。

裏手の墓地、墓石が整然と並ぶ。広東、福建、浙江など大陸各地の他、台湾などの地名が墓碑に刻まれている。墓の形、様子も年代により少しずつ異なっている。徐々に日本化しているのだろうか。奥の方には関東大震災で亡くなった華人の慰霊碑なども見られる。あの100年前の震災が横浜にどれだけの被害をもたらしたのか、その一端が分かるようだ。

お墓の横にはモダンな建物が建っている。中華会館。葬儀など、恐らく何かある時はここに集まるのだろう。館内には整備中の展示物があった。そこには中華学校など、華人の歴史のパネルが置かれていた。現在中華学校は二つあると言い、そこには歴史のみならず、外交問題なども絡んで複雑なようだが、取り敢えず私は初期の中華街の華人史を追いたい。

そこから20分ぐらい歩いてJR石川町駅前まで来た。さっきは登りだったが、今度はゆっくり下ったのでかなり楽に感じられた。この駅前にあるのが山手中華学校。2010年に山手からここに移転したらしい。幼稚園も併設されている。昔はこの駅からとぼとぼ歩いて中華街へ行ったなあ、などと思い出す。

そこから更に歩いて関帝廟まで。その横には横浜中華学院がある。ここは最近校舎が新築されたようで、非常に新しい。この周囲には中華会館など、各地の同郷会もあり、中華街の中心を感じさせる。付近は修学旅行生が大勢歩いている。そのまま歩いて行くと山下町公園に着く。

ここは明治初期、会芳亭という劇場があり、その後は中華民国総領事館があった場所だった。今は会芳亭と書かれた東屋が建っているが、それ以外で往時を偲ぶものはない。何と最近ラグビーワールドカップアが開かれたのを記念して、『日本で最初のラグビー発祥地』なる記念碑が建てられている。

そこから中華街を突き抜け、神奈川芸術劇場へ向かう。ここは山下居留地遺跡の発掘が行われた場所であり、基本的に欧米商会が軒を連ねたところ。ただ一軒だけ華人経営の印刷所があったと聞き、ここの店主が中華街の歴史に大きく関与していることを学ぶ。更にその裏側には居留地48番館の建物が少し残っており、その風情を感じさせる。

再び中華街へ戻ると、そこにはツタが絡まった古い工場が見えた。同發菓子工場、月餅などを作っていたのだろうか。同發と言えば、もう40年近く前、下宿先の家族に伴われて初めて中華街で食事をした場所だったような微かな記憶がある。福満園というレストランのビル、すごいY字路で見事。

茨城歴史旅2022(2)水戸散策

そこからお城へ入ろうとすると斉昭公の像が迎えてくれた。中に入ると光圀公が『大日本史』の編纂所とした彰考館跡がある。この辺に瞬水も関係しただろうか。水戸一高など学校が多くあり、学生が下校している。そこから今日の宿を目指して、線路を渡る。既に夕日がきれいだ。

今日の宿も川沿いにしてみたが、随分と寂しいリバーサイドで、かつすぐに暗くなると部屋の窓からは何も見えなかった。ただチェックインの際、『全国旅行支援』を選択していたらしく、何も分からず宿泊代は安く(東横インは他社と違って旅行支援の便乗値上げをしていなかった)、更に3000円のクーポンがもらえた。身分証と一緒にワクチン接種証明の提示を求められて、ちょっと慌てた。タイに行く時コピーした紙が、バッグの下からボロボロになって出てきたが、それでもOKだった。アジアでは使うことがなかった紙が、こんなところで活躍したのは皮肉なものだ。

折角全国旅行支援で3000円もらったので、今晩は豪勢な食事でもと思ったが、クーポンが使える食堂が見付からない。ふらふらしていると、レトロな食堂を発見、思わず入ると完全な昭和だった。和定食は立派なお膳で、刺身と天ぷら、小鉢が二品とボリュームがあり、天ぷらなどは懐かしい家庭の味、無料コーヒーまで付いて僅か650円。旅行支援は不要だった。帰りに駅前を通りかかると、既にクリスマスの飾りがきれいにできていた。ちょっと早すぎでは?

11月15日(火)水戸散策

東横インの朝ごはん、昔はおにぎりとみそ汁ぐらいだったと記憶しているが、今回の宿では豊富なおかずがあった。更に水戸と言えば納豆だったが、器は間に合っていなかったのか、茶碗はなく、プラスチック食器。まるでタイのぶっかけ飯のように納豆をかけて掻き込んだ。

今日は水戸を散策して帰ることにした。川沿いを歩き、最寄りのバス停まで行くと、雨が降り出した。ちょうどバスが来たので何とか濡れずに済んだが、いくつも来るバスの行き先が良く分からず困る。水戸駅を経由して、バスは更に進んでいく。雨が強くなる。30分ぐらい揺られ、更に10分ほど歩いて何とか歴史館に到着する。

中に入り、学芸員の方に『朱瞬水に関する展示』を尋ねると、それは誰、という顔をされて驚いた。そうか、水戸でも瞬水は知られていないんだ、と分かる。展示はいくつもあったのだが。また江戸時代、水戸藩でもお茶が作られていたことが書かれていて、興味深い。他にも色々と面白い展示があるのだが、よく見る時間が無かったのは残念だ。

敷地内には色づいた銀杏の木が鮮やか。その近くには立派な旧小学校校舎が残されていた。中には茨城の偉人の展示がある。木村安兵衛(木村屋のあんぱん)、山下りん(ロシアに留学した宗教画家)など、ちょっと調べてみたい。そこからまたバス停まで歩いて戻り、さらに郊外行のバスに乗る。

昨晩ネットで図書館を検索したら、インスタ映えする図書館が出てきたので、急に行って見たくなる。やはりバス停から15分ほど歩く羽目になったが、行って見ると確かに、内部がきれいな、面白い図書館だった。内部の写真を撮るための申請をして、何枚も写真を撮った。勿論参考資料も探せるので一挙両徳というわけだ。

またバスに乗り、駅前まで戻る。もう昼を過ぎていたので、ちょうどそこにあった居酒屋でランチを食べた。鯖塩焼き、チーズオムレツ、小鉢が付いて、600円。水戸は本当に定食が安くてボリュームもすごい。ここは生活費が安く上がるのだろうか。2年前来た時も家賃が安いと聞いていたが、ここに住むのも手かもしれない。

県立図書館にも行って見た。こちらは星野珈琲が1階に入っていて、おしゃれな感じだった。先ほどの市立図書館に比べて、やはり資料はこちらの方が多く、また手際よく集められて良かった。朱瞬水に関する資料を読むと、やはり彼の功績、影響は大きいと感じられた。

最後に黄門様関連の場所に行って見る。さっきバスから見た義公生誕地が駅の近くにあった。その前に道路沿いには黄門生誕の地という碑と、黄門像まであった。そこから横道に入ると、義公祠堂があった。水戸黄門神社とも書かれている。ここで手を合わせて祈る。黄門様もテレビドラマとはかなり違う人生を歩んだはずだ。

駅まで戻り、昨日貰ったクーポンを使って、お菓子をたくさんもらった。前回のGoToトラベルの時も、結局は和菓子ばかり貰ってしまい、後悔したがやはり治らない。しかも欲しかった栗蒸し羊羹がなく、かなり残念だった。今度クーポンを貰えるなら、ちゃんと考えたい。

帰りは特急に乗る必要もないかと、各駅停車で帰る。それでも2時間少しで上野駅まで来るのだから、水戸は便利なところと言える。本当は牛久あたりで降りてみたかったが、これも次回となる。上野駅では何となくまた立ち食いそばが食べたくなり、ホームを探したが見つからない。結局隣のホームにあったのだが、その影はどんどん薄くなっている。

茨城歴史旅2022(1)常陸太田 水戸徳川家墓所を訪ねる

《茨城歴史旅2022》  2022年11月14₋15日

バンコクから帰ってすぐ、また旅に出た。11月中旬の日本、しかも北関東の風は冷たい。それでもなぜか出掛けていく。

11月14日(月)常陸太田へ

前回水戸へ行ったのが2年前。あの時は博物館や偕楽園に行くはずが、何と原因不明の頭痛で逃げ帰った。そうだ、1年前も青春18きっぷでいわきに行く時、水戸を通過しているが、降りてはいない。今回はある人の歴史を追って茨城入りする。まずは水戸まで行くのに特急に乗ろうとネットで予約したが、何となくよく分からない。

少し早めに上野駅へ行き、緑の窓口で確認すると年配の職員が私のスマホを見て、『そこに置いて』と横柄な態度で指示(コロナ対策)する。そしてそれを取り上げて色々と見ているが、彼もスマホ予約について行けていないようで『多分大丈夫でしょう』と心もとない返事をする。確かに年配者にとって次々に繰り出されるネットITは苦手だろう。気持ちはよくわかる。でも駅員でしょう、もう国鉄の人は退場しましょう、と言いたい。

結局ときわ57号は殆どが空席で、確かに何の問題もなかった。1時間半で水戸駅に到着する。ここで乗り換えに少し時間があったので、別のホームにある駅そばで、名物から揚げ蕎麦を食べる。分かり難いホームにあるにもかかわらず、常連さんが次々入ってくる。そばに乗る唐揚げは、まあフライドチキンという大きさだった。駅には鉄道開業150周年のポスターが見えた。

12時過ぎの水郡線に乗る。二両列車は川を越えて、冬枯れの田舎風景をゆっくりと進む。上菅谷駅で向かいのホームの列車に乗り換え、合計30分で常陸太田駅に着いた。Suicaが使えたので、トラブルなく外へ出た。駅前からバスに乗ることになっていたが、どこで乗ればよいのだろうか。何と乗客もあまりいないこのバス停に向かって、数台のバスが重なってやってきた。思わず隣のおばあさんに聞くと『前のじゃないよ、後ろだよ』と親切に教えてくれ、何とかバスに乗り込んだ。

だが私が今日訪ねる水戸徳川家墓所については、おばあさんも、そして運転手でも、全く知らないというので、驚いてしまった。水戸徳川家と言えば、茨城では誰でも知っているものと勝手に思い込んでいたが、今や知られているのは水戸黄門様だけなのかもしれない。取り敢えず検索していたバス停まで行くことにする。バスは常陸太田の街を抜けて、郊外の畑に出る。

誰も下りない『里の宮』で下車するが、周辺には何もない。少し歩いて行くと、日は西に傾き、何だか子供の頃の栃木の風景がやけに重なってくる。栃木ならからっ風が強そうな時期だが、今日の常陸太田は日差しも柔らかく、気持ちの良い散歩となる。そして歩いて10分ちょっとで誰も知らない水戸徳川家墓所の前に来た。だが門は固く閉まっており、隙間から中を窺うしかない。墓地は高台にあり全く見えない。

実は事前の検索でも、入れないことは分かっていた。それでもここに来たのは門の写真を1枚撮る、たったそれだけの目的だった。門の横には墓所内の配置図が掲示されており、初代藩主徳川頼房(家康末男)から13代目までの墓があるようだ。あの有名な黄門は第2代である。だが私のお目当ては徳川家ではなく、そこに一人ポツンと名前が刻まれていた、朱瞬水という中国人だった。明朝再興に命を懸け、後に長崎に亡命した彼を光圀が水戸藩に招いた訳だが、それにしても藩主たちと同じ墓所に入る中国人とは。興味は尽きない。

少し回り道をして周囲を散策したが、特に何もない。1時間後のバスを待っていると、隣家の柿が熟れている。日に数本しかないバスに乗ると乗客はいない。帰りは少し余裕が出来たので、常陸太田の街を眺めると何ともレトロな建物がいくつも見えたので、思わず散策する。

鯨が丘という地名が見える。ここは日本武尊の東征時に丘が盛りあがって鯨のように見えたことからその名が付いたと書かれており、真偽は別としてその歴史は思ったより古い。更に平安時代から戦国まで、佐竹氏がここに城を築いていたというから、やはり歴史的な街なのだ。赤煉瓦の蔵や木造の趣のある建物を見ると、明治以降もそれなりの発展を見せたのだろうか。駅の横にも煉瓦のレトロな建物が建っていた。

水戸で

来た時と同じ鉄道で水戸まで戻る。何とものどかな風景、帰りは直通だった。駅前では黄門様と格さん助さんの像が迎えてくれる。お城の周囲を回りこむと、道路脇にひっそりと朱瞬水の像が建っている。駅から徒歩15分、実は2年前、お知り合いのKさんの家に招かれた際に暗闇でこの像を見たのがきっかけで今回の旅となったのだ。その時は写真も撮れなかったので、ゆっくりと撮る。瞬水の功績を称える文言が横に書かれている。水戸藩への影響力は絶大であったようだ。