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『インドで呼吸し、考える2011』(15)ラダック 今までの生活は一体何だったんだ

7月20日(水)
14.ラダック10日目
今までの生活は一体なんだったのか
朝起きると外が騒がしい。どうやら女子高校生がピクニックに行くらしい。私は相当に寝坊したらしい。一緒に連れて行ってくれるのかと思ったが、あっと言う間に置いて行かれる。P師一行も講義に出掛けて行き、更に学校に行く尼僧たちも出て行ってしまった。こうなるとこの尼僧院は静まり返る。

唯一物音を立てているのが、あのおじさん。朝から夕方までひたすら何かを砕いている。穀物だと思っていたが、どうやらそれは医療で使う薬草を砕いていることが分かる。きっとハーブ園から採って来た物だろう。それにしてもお寺の鐘の音のように音が響き渡るが、誰も反応しない。そしてそれは果てしなく続く。

お昼になっても状況は全く変わらず、おまけに電気も来ていないので、PC使用も控える。そうなると読書しかなく、3冊の本を並行して読んだりしている。初めて完全に時間を持て余す。

2時頃、おばさんが食事を運んできた。私のために例のクッキングチームが作ったスパゲティとサラダ。物凄い量だが、ペロッと平らげる。それはラダックで初めて感じたストレスのせいだろう。やはり人間、ストレスがあると食べる。誰にも構われない生活は理想的とも言えるが、そばに誰もいない生活はストレスになると言うことか。

自ら色々なことを考え出す。ここでは朝お湯が配られて目覚め、シンプルではあるが実に満ち足りた食事を三食頂き、電気がある時はPCに向かい、無い時は読書。ネットが繋がる時は1時間ほど、メールなどをチェックするのみ。そして尼僧より昨年当地を襲った洪水の様子とその後の人々のポジティブな対応を聞く。話の中で何度も「Positive」「Improve」という言葉があり、我々にも何かを訴えかけて来ている。「各人がエゴを消し去ることが大切」、実に難しいこと。

ここにいると、今までの生活は一体なんだったのか、と思ってしまう。電気が無ければ寝てしまう、車が無ければ歩いて行く、シンプルライフを実行する方法はないのだろうか。「エゴ」を少しずつ消していけば、何かが変わるのだろうか。

最後の晩 
昼寝をしている内に皆帰ってくる。何となく安心。ここの生活も10日になり、かなり馴染んでしまっている。日本では、誰かが帰ってこなくても、一人の生活でも特に気にも掛けないが、ここでは家族の帰宅を待つ気持ちが出る。日本と言う社会が、まさに「関係」を失った孤独な社会に見えてくる。

実は私にとって最後の晩は、イギリスの女子高校生の最後の晩と偶然重なっていた。お別れ会があるというので、皆ウキウキしたり、緊張したりしていた。何だか自分まで緊張していた。

P師が私の部屋の前の椅子に座っていた。彼女は決して「今晩が最後の夜ですね」などとは言わない。実にさりげなく会話を始めた。「あなたの子供達はもう十分に分別がある歳。あなたが家族に対して全責任を負う役割は終わった」。会社を辞めたことに対する回答だった。

「日本で仏教を学ぶのは難しい。環境的に整っていない。もし本当に勉強するならインドへ来なさい。でもダラムサラのように西洋化された場所はよくない。バラナシなど、仏教の聖地に可能性がある」「不必要な情報は捨てなさい。これまでのご縁を整理するのもいいでしょう。でも無理にやってはいけない。離れていく人とは自然と離れて行くもの」

「日本も今回の震災を契機に少しずつ変わっていくでしょう。でも、急激な変化、目に見える変化だけを追い求めてはいけない。精神的な構造変化はそんな簡単には起こらない」

こんな話を聞いている内に、夜が更け、お別れ会が始まった。尼僧たちは、英語で司会を務める子、歌を歌う子、踊る子など、一生懸命、エンターテイナーになろうとしていた。正直決して上手くはないが、それはある種の感動だった。

P師が言う。「尼僧がここで踊りを踊ることなどありません。でも彼女達は自分が楽しみ、相手を楽しませるために、一生懸命やっています」何だか、楽しいはずが泣けて来た。

7月21日(木)
別れの朝
朝が来た。ラダックに来てから11日目。とうとうこの地を離れる日が来てしまった。昨日の送別会の余韻もなく、僧院の朝は淡々としている。尼僧は夜が明けるとお湯を持ってきてくれる。その後、熱いチャイも運ばれてくる。これはもう毎日の日課である。それが今日で途切れることには、大いなる感慨がある。

朝ごはんの支度が出来た、と呼ばれる。まだ6時過ぎだ。僧院の朝ごはんは8時からだが、私のために特別に用意してくれていた。しかも食堂には既にP師が座っていた。私に付き合うために来てくれていた。

ここの生活が非常に気に入ったことなどを伝えると、「いつでも来たければ来ればいい」と言ってくれる。そしてここで得た生活体験をこれからの生活に生かしたいと言うと「それは難しいこと。都市生活者に戻れば、すぐに元に戻ってしまう。それでもここの生活を忘れないようにすることは大切」と助言してくれた。

実際にデリーに行き、そして香港に行く頃には、この生活は思い出すものの、素食や自然な睡眠、安定した心など、全く顧みられなくなっていた。人間、そう簡単に変化できるものではなく、また簡単に安きに流れる物。恐ろしい。

出発の時間が来た。車で空港まで送ってくれる。皆が集まってきて、さよならを言う。しかし別れを惜しむ時間は殆どなく、車は動き出す。何人に手を振ることが出来ただろうか。いや、仏教は一期一会、会う時は会うし、別れるときは分かれる。




『インドで呼吸し、考える2011』(14)ラダック 真の教育とは

7月19日(火)
13.ラダック9日目
真の教育とは
朝起きるとちょうどP師が女子高生に話をすると言うので行って見た。12人の高校生はジュータンの上に座って、神妙な顔で話を聞いていた。心が原動力となって体を動かすといったメカニズムから、心の平和が重要であること、五感を研ぎ澄まして感じ取ることなど、時折ユーモアを交えた、大変為になる講話であった。

彼女達はWorld Challengeというイギリスベースのプログラムでやって来た学生であるから、普通の若者より意識は高いと思われる。それにしても4日間ここに泊まり込み、尼僧と生活を共にし、理解を深めると言うことは、将来必ず役に立つことだろう。日本の学生にもこのようなプログラムを活用させ、受験に役立つかどうかではなく、真に必要な物事の道理などを世界ベースで体験させるべきである。

「真の教育は」などと言うつもりはない。しかし現在の日本の教育は正直言って教育ではない。ファミレスやコンビニでマニュアル通りことを進めているのと変わりはない。学校も役所もある意味では子供をバカにしている。そして結局自分たちが何をやっているのか分からなくなっている。子供は自分で考えさせる、体験から学ばせる、世界で生きて行ける人材は決して受験勉強からは生まれない。

イギリスの教育システムはよく知らない。それでも高校生をここまで連れてきて、体験させるのは、さすがと言わざるを得ない。日本でこれをやろうとすれば「学校の責任」がまず問われ、学校側もリスクを取らず、実現できる感じはまるでない。

それにしても質問が出なかったのは、流石に内容が十分には理解できなかったのだろうか。それともシャイな一面を見せたのだろうか。それでもこの体験は将来必ずや思い出され、そして彼女らの財産となる。

Simカードとモモを求めて
レイの街に行く。目的は携帯のSimカードを買うことと、チベットの名物料理モモを体験すること。一人で街に行くのはこれが2回目だが、食事を一人で取るのは初めて。前回と同じ道を歩いて行く。2回目となると足取りも軽く、45分でレイの街に到着。

先ずはSimカードを求めて、携帯ショップへ。私は明日デリーに電話し、デリーでのスケジュールを立てなければならないので、携帯が必要なのだが、携帯ショップ2軒で聞いた所、レイで買ったカードでは、デリーに行ってからは使えないとの結論。これは意外な話で、デリーで買った携帯はインド中で使えるので、恐らくはセュリティー上の問題ではないかと勘繰る。実は後にデリーでSimカードを手に入れるのも一苦労。インドでのテロ対策は相当に厳しい。いずれにしてもカードは諦めて、LNAで借りることにした。

昼時となり、レストランを探す。イタリアンなど西洋料理屋が主流。欧米人に合わせている。私が食べたかったのは、モモというチベットを代表する餃子。ようやく見つけた1軒で注文するも、なかなか出てこない。折角なのでベジのモモを食べようとしたが、生憎ホウレンソウチーズモモしかなかったため、チーズを抜いてもらったのがいけなかった。結局出て来た物は、小籠包のようなものだが、流石にホウレンソウだけでは味気ない。失敗に終わる。

レストランのテラスに座り外を眺める。横には小川が流れていたが、一生懸命洗濯に励む男女がいた。どうやら、洗濯屋のようで、次々と洗っていく。これは結構重労働だと思う。一人若い女性が小さな子供を連れてこの作業をしていた。やけにその子が気になってしまった。

お土産と星空
午後はP師の甥が迎えに来て、僧院を離れ、田舎の一夜を過ごせるとずっと待っていたが、何故か彼は来なかった。6時過ぎに講義から戻ったP師も怪訝そうに「まだ来ないのか」と言ったきり黙る。その後は切り替えて作業を始めた。

その作業とは私の部屋の前に干されていた小型ストゥーパの置物の色塗り。P師は本当に何でも自分でやる人だ。既に夜の闇が迫り、見えにくい中、黙々とペイントしている。私はただ黙ってそれを見ていた。一体何のためにこれを作っているのだろうか。何かの資金作りだろうか。

その内、尼僧たちが数人P師を囲み、黙って作業に参加し始める。いよいよ暗くなると灯りを取り出す。「これはね、イギリス人女性高校生へのお土産」P師が呟く。そうか、お土産か。本当に心づくしのお土産である。貰った方はまさかここまで熱心に作っているとは思わないだろう。またそれを知らせるつもりは尼僧にはない。この関係、実に美しい。

突然電気が落ちた。自家発電を除き、一斉に暗闇が広がる。何となく上を見上げると、これまでに見られなかったほどの、夥しい星が空に煌めく。ラダックといえども電気があれば見える星は限られていたのだ。それが暗くなればなるほど、星の数が増す。いや、星の数は元々同じだが、人間がその数をどんどん減らしてきたのだ。

そんなことを考えていると、ふと電気が点いた。空の星は急速に消えていったが、尼僧の作業には何の変化もなく、相変わらず黙々と続いていた。




『インドで呼吸し、考える2011』(13)ラダック インドに全自動はいらない

P師妹宅で昼食
来た道を引き返す。途中道なき道を行く。地元の人がゆっくりとした足取りで歩いて行く。広大な大地を果てしない道のりを彼らは歩いて行く。壮観である。そしてまた舗装された道を行く。サンポーと言う街に入る。

ここにP師の妹さんの嫁ぎ先がある。道の脇、かなり立派な家である。門を入ると2階へ。かなり広い家のようだ。手前の応接室に通される。広い室内にはジュータンが敷かれた場所とソファーが置かれており、チベット式と洋式の折衷である。

直ぐにお茶とチベット式のパンが運ばれてきた。どうやらパンを茶に付けて食べるらしい。ところがこのお茶がバター茶でどうにも受け付けない。パンだけでも十分美味しいのでそのまま食べる。するとそれに気が付いたのか、スプライトとチャイが出て来た。申し訳ない気分。続いてアプリコットを干したものと、生の物と両方出て来た。干したものは固くて噛み切れなかったが、味は美味しい。生の方は久しぶりにフルーツを食べたので、思わず3つも食べてしまう。

ラモはどこかへ行ってしまう。すると代わりにおじさんが入ってきて、ベジカレーを置く。この豆腐カレーは絶品であった。かなりの量があったが、黙々と食べる。やはり刺激が食欲を生む。おじさんはもっと食べるかと聞くが、腹一杯であった。ここに来てから腹一杯食べることなどなかったので、自分でも少し驚く。

このおじさん、P師妹のご主人の兄弟とのこと。聞けば何とバラナシにある日本寺院、法輪寺で働いているらしい。法輪寺はシャンティ・ストゥーパの妙法寺と同系列だとか。バラナシは日本ではベナレスと呼んでいる所。デリーから汽車で半日以上掛かる。何故そんな遠い所へ行ったのか、おじさん曰く、「子供の頃両親に送られた」。事情はあるのだろうが、それは凄い。法輪寺には日本人僧侶が1名常駐しているそうだ。今度機会があれば行って見たい。

えらくご馳走になってしまったが、何もお礼が出来ない。家族写真を撮ることに。P師妹、その息子、おじさん、そしてそのお母さんにラモを加えて撮った。今度写真を送ろう。

アルチへ
アルチに向かう。中学生の息子も夏休みということで、付いてきた。因みにP師妹は高校の教師と言うことで、夏休み中で在宅していたらしい。サンポーからアルチはそれほど遠くなかった。アルチの村に近づくと、小麦が収穫されており、何だかひどく懐かしい田園風景がそこに出現した。

この村はとても小さく、アルチ寺院周辺は狭い道しか通っていない。ところが西洋人を中心に大量の観光客が押し寄せており、車を停めるのすら難儀な状態である。ラモは我々に先に行くように命じ、駐車スペースを探す。中学生の先導で寺院を目指したが、更に狭い道を通って出た所は農家だった。彼もきっと何年も来ていなかったのだろう。頭を搔いて謝る姿が可愛らしい。

ようやく寺院に辿りつくと、ランチタイムの表示。1-2時は閉まっていた。ラモを探すと一番突き当りで我々を待っていたが、どうにも仕方がない。この付近は、これまでの寺院とかなり異なる。先ず規模が小さい。佇まいが古めかしい。これは観光客に好まれそうな雰囲気を持っている。

暇を持て余して座っていると、中学生がアプリコット(私にはプラムに思える)を木からもぎ、くれる。口に入れるとかなり酸っぱい。彼の家で食べたものとは大違いだ。その間にも続々と観光客が集まってきて、2時にはかなりの人数になる。

ラモは混雑するメインを避け、横にある3つの堂からは入ろうとするが、どうやらチケットを買わなければならず、メインに戻って行った。因みに尼僧はどこでも無料のようだ。中学生が先頭で入る。彼はきちんとした礼拝を行っており、流石と思わせる。信心が無ければ、付いては来ないだろう。

このお堂に入って、私は目を見張った。これまでいくつかの寺院へ行き、堂内の壁画を見てきたが、そこには全く異なる壁画が存在した。かなり暗いせいもあるだろうが、相当古いと言うこともあるだろう。そこには渋い曼荼羅が四方にくっきりと描かれていた。これは驚きである。日本のどこかで見たような既視感があったが、分からない。後でP師と話すと比叡山ではないかと言う。彼女も同じ感想を持っていた。

その後も2つの小さな堂に入り、最後にメインを見た。2つの堂の壁画は損傷がかなりあり、保護が必要に思えた。メインの堂は三層になっており、三体の大きな仏像が納められていた。いずれも写真は禁止となっており、自らの頭に刻むしかない。皆がなぜアルチに行け、と言っていたかは、十分に理解できた。

そういえば参観中にも雨が降ってきた。少しずつとはいえ、毎日雨が降るのはよいことだと思ったが、実は異常気象ではないかとの話もあった。昨日虹が出たのも、吉祥とも言えるが、昨年の洪水の再来を恐れる向きもある。自然とは難しいものだ。

P師の話の中にも、「世界中で人間が自然を破壊している。これは恐ろしいことだ。もっと自然と触れ合っていかなければいけない。」とあったが、全くその通りではないか。経済優先、便利さ優先はこの辺りで一先ず考え直さねばならない。

雨が上がると、空は真っ青になった。この景色は24年前にチベットのラサで見たあの青さだ。晴れやかな思いで、アルチを後にする。しかし駐車スペースは更にギューギューになっており、ラモは車を出すことが出来ない。最後は地元の若者が慣れた運転で窮地を脱してくれた。

サンポーで中学生を降ろし、そのまま岐路に着く。石ころだらけの高原や、道路工事の人々、そして相変わらず素晴らしい風景に目を奪われながら、車は進む。ラモは言う「最近ラダックには車が多過ぎる。昔に比べたら景色も損なわれている」と。ガソリン価格は日本より高いらしい。それでも急速に車社会になっていく。と言っても、高原の道に車が全く見えない風景を見ると、先ずは先進国が状況を改善すべきだとつくづく思う。今日の旅はこれまでの最長、8時間を超えて終了した。

インドに全自動はない
かなり疲れた気分だが、一方体が興奮しているのか、何か体を動かしたい気分。と言ってもすることはないので、外で読書。すると向こうの端で一番小さい2人が洗濯機を動かしていた。私も貸してもらうことに。しかしこのサムソン製の洗濯機、今では日本ではお目に掛かれない二層式。どうやって動かすのかすらよく分からない。

子供たちに聞きながら、やってみる。先ずは水を汲んでくる。これだって結構重い。その水を洗濯機に入れ、洗い物と洗剤を入れる。15分の表示の所に回した。しかし15分では不十分のようで、また10分追加した。盥を持ってきて洗濯物を取り出し、隣の脱水に入れる。はずであったが、何とここで停電。仕方なく、洗濯物を自らの手で絞る。まだ終わりではない。洗った水を抜く。その際、ホースを水受けに突っ込み、全て抜き取ったら、その汚水を外に撒きに行く。これも結構重い。最後にもう一度少し水をくみ、洗濯機をきれいに掃除する。

今の我々の全自動では考えられない作業だ。しかもこの電気洗濯機を使っているのは小さい子だけ。大きくなれば、皆手で洗っている。我々はこういった作業を体験し、電気の有難味を感じる必要があるかもしれない。

後日来日中のインド人と電気屋さんに行った際、洗濯機の話をした。「インドには全自動なんて考え方はない。どこまで機械にやらせて、どこから自分でやるかを考える」と聞き、なるほどと思った。我々は機械を使いこなしているようで実は振り回されている。

因みに日本では流行っている「ドラム式洗濯機」を見たインド人は「これはインドでは流行らない。何故なら停電になった時に洗濯物取り出すと洗濯水も一緒にこぼれ出るから」という。確かに本日も途中で停電になった。我々は自ら考えなければならない。




『インドで呼吸し、考える2011』(12)ラダック 行動には基準が必要

P師の故郷マトへ
昼食後直ぐにラモから声が掛かり、彼女が運転するオフィスの車でマトヘ向かう。マトはP師の故郷と聞いており、楽しみだった。途中までティクセに向かう道を通り、そこから山に向かって一直線に行く。更に山と平行な道があり、そこへ。その時向こうから馬の隊列がやって来た。あまりの美しい光景に思わず車を止め、写真を撮る。そこからは四方、どこを見ても素晴らしい景色が続く。雪を頂く山々と雲。

ラダックで車を運転するのはなかなか難儀だ。道が全て平らであれば問題ないが、所々でこぼこの上、対向車が来れば路肩へはみ出す。ラモは相当慣れているようで、スイスイとこなしていく。ほぼティクセと平行ぐらいの場所で、また山に向かう。少し行くと、小川が流れている。そしてマスタードの黄色い花が咲き乱れている。荒涼とした大地で見る花、何だかここだけラダックではないかのようだ。

かなりの坂を車は上る。これは歩いては大変である。その上に寺院は建っていた。そこからの見晴らしは絶景であり、また驚くのは村がそこだけ緑と黄色で鮮やかに見えていること。まるで絵でも描いたかのようだ。

マト寺院は晴天の中、静まり返っていた。誰一人観光客はない。地元民もいない。ただ新しい仏像を安置する場所で作業している人がいるのみ。どうなっているのか。ようやく寝ていた寺男を見付けて、案内を頼む。ここはチケットではなく、ドネーションで領収書を切る。

マト寺院はこの辺り唯一のサイケヤ系寺院。15世紀初頭に王家より土地の寄進を受け創設。16世紀にイスラムの侵攻を受け、寺院は破壊され、王も捕虜となるがその後解放され、再建。僧侶はチベットで伝統と仏典を学び、伝統的チベット仏教が色濃く残る。マトナグランと言う祭りが有名。本堂3階部分にあるゴンカンで僧2人がトランス状態になり、神託が与えられる。3階は女人禁制であるが、ラムは尼僧であり、入室を許された。非常に小さく薄暗い部屋である。

この寺院は2階に小部屋がいくつかあり、同じ形の仏像が21体ある所や、経典が納められている部屋、博物館などがある。また1階端には、かなり新しい仏像が安置されており、色鮮やかである。因みに寺が極めて静かだったのは全ての僧侶がヌブラと言う場所へ出かけて留守だったことが分かる。

それにしてもここからの眺めは実によい。先日のティクセもシェイも一望できる。下を見れば緑が鮮やか。下から寺院を眺めると実に立派。そしてP師の実家の横を通ると、畑があり、ゆったりとした造り。新しいものと古いものの2つが見える。P師のような人物を育むにはこのような環境が大切であるかと思う。

行動には基準が必要
続いて、ストックの博物館へ。先程来た道を戻り、途中でまた山へ向かう。山へ向かい始めてすぐに、高校がある、尼僧院内の5人がここに通っているとのこと。正直毎日ここまでバスで通学するのは大変だと思われるが、これも修行なのだろうか。

ここにはラダック王家が居住しているとのことだが、ある人曰く、現在の王は基本的にデリー滞在。またある人は「奥さんは出身地のヌブラで暮らしている」などよく分からない。ただ王が何となく西洋的であることは、飾られている写真の中にある坂本龍一と肩を組んだツーショットを見れば分かる。

入館料は50rp。徴収しているのは若い娘で、顔だちもよく、服装も可愛らしい。ちょっとしたコンパニオンと言った感じ。但し、その分おしゃべりに夢中だったりして、仕事熱心とは思えない。勿論宗教とは関係ないので信心を持つ必要もないので、仕方がないのかもしれない。展示物で目を引いたのは中国製の茶碗ぐらいか。

ここも眺めはよい。帰り道でも写真を撮る。この辺りは田舎でバスもあまりないようで、皆ヒッチハイクで本道まで出るようだ。ヒッチハイクの合図があっても、ラモはあまり止まらない。それは尼僧であるからであろうか。するとちょうどおじいさんが一人、合図を出した。彼女は直ぐに停まった。何となく基準が分かる。どうしてもこちらが手を差し伸べる必要がある年齢、また障害があれば応じると言うことだろう。

ある程度の柔軟性はあるものの、ある意味で尼僧の基準ははっきりしている。ダメなものはダメ、助けるべきは助ける。それはラダック滞在中、何度も感じ、実際に見た光景からわかる。今の日本にはしっかりした基準がなく、皆が人の顔色を見ながら、おどおどとして暮らしているように見える。

6時頃戻り、お茶を貰いに行くと、何とレモンティが出た。これも高校生効果か。しかしレモンティはアメリカ人でミルクティはイギリス人ではないか。そんなことはどうでもよい。砂糖が入ったレモンティを飲むのは実に久しぶり。とても美味しい。

7月18日(月)
12.ラダック8日目
洪水で破壊された道をリキールへ

翌朝も女子高生と朝食。トーストと卵の白身焼き(卵の黄身は使用しない)。高校生たち、若干のカルチャーショックでよく眠れなかったようであり、中には一口も口に入れず、ただ壁にもたれている子もいた。それはある意味で正常な感覚のような気がした。

食後直ぐにラモの運転でリキール及びアルチへ向かう。今日は今回最長の長旅である。馴染んだスピトク寺院の横を通ると、2人の年配の女性がヒッチハイクで乗ってきた。一路南西に向かう。5㎞も行くと周囲に何もなく、車も全く通らない景色となる。牛がゆっくり歩いてきたりする。実にゆったりした風景。

道は平らであったが、途中かなりの悪路に出会った。どうしてこんなにデコボコになったのか、と思っていると、昨年洪水で道自体が壊されてしまっていたのだ。これは凄まじい。言われてみれば、周囲に建設中の家も多い。皆流された家を再建しているのだ。道路工事も盛んに行われているが、何しろ人海戦術、スピードに限界がある。昨年流された家を今年再建している。それまで住人はどうしていたんだろうか。日本の大震災の情景が重なり、複雑な気分となる。

レイから約60㎞、1時間半でリキールへ到着。なかなか趣のあるゴンパである。横には大きな大仏が座っている。観光客は西洋人とインド人が沢山いたが、アジア系は全く見掛けない。ここの壁画は比較的新しいが、なかなか良い。また入口付近に描かれた壁画にチベット語で何か文字が書かれている珍しい物も見られた。

この寺院は周囲に何もない小高い所に建っており、本当に周囲が良く見渡せる。天気はまさに快晴、暑くもなく本当に気持ちが良い。横の大仏も比較的新しい。見る角度によれば、空中に浮いているようにも見え、遮るものが無い大仏には迫力が感じられた。エアーブッダ。この情景を見ていると、昨年洪水で被害にあった方々も何となく救われるような気になる。人には目を上げて拝む対象が必要ではないだろうか。

寺院を後にするとラモが「バナナ食べる」とバックから取り出す。このバナナ、一体どこから来るのだろうか。小さいが熟していて美味しい。皮はどこへ捨てるのかと聞くと大きなジェスチャーで、外へ放り投げる。私は車からおり、眼下の川めがけて、思いっきり皮を投げる(ペットボトルなどは絶対に投げない)。確かに自然に帰るのだから問題はない。因みにバナナは一本5rp程度らしい。




『インドで呼吸し、考える2011』(11)ラダック 奇跡の虹を見た

7月17日(日)
11.ラダック7日目
奇跡の虹
朝、ぼーっと目覚める。今日は早くから尼僧たちの声が弾んでいる。確かイギリスの高校生との交流会がある日なのだ。そう思って気にしないでいると、一人が部屋へ飛び込んできて、「大変だ、こっちだ、空が・・」と言うではないか。慌てて外へ飛び出すと晴天の中、小雨が落ち、そして山のあたりにきれいな虹が架かっていた。

しかもその場所はこの2日間訪れたあのスピトク寺院。これは何か特別なサインだと誰にでも分かる。何しろ降水量の少ないラダックで虹は珍しい。2階に上がるとP師が既にカメラを構えていた。「本当に稀なこと。今回スピトクの法会が成功したと言う意味だ」とこの時ばかりは宗教的に言う。確か今日は1年一度ご開帳されていた曼荼羅絵を仕舞う日。

私は昨日よりリンポチェの転生のことなど考えており、ちょっと不謹慎な思考も混ざっていた。特に人々が6歳の子供を生まれ代わりとして崇める姿にはかなりの違和感があった。しかしこの特別の日に目の前でこういうものを見せられると、考えを変えざるを得ない。「ラダックに行けば何かが見られる」と誰かに言われたが、これだったのだろうか。

ただ後で聞くと別の意見もあった「昨年の大洪水も稀なことであった。雨が降ることはよいことだが、また昨年同様の災害に見舞われるのではないかと危惧している人々もいる。虹が出たことが全て良いこととは言い切れない」果たしてこの虹は何を意味するのか。日本ではよく奇跡を扱う番組があり、素直には信じられないが、今回の虹、私は吉兆と信じたい。こんな所から信心とは生まれるのかもしれない。

脈診で分かる「考え過ぎ」
8時前、P師より声が掛かる。LNA関連の資料とDVDを貸してもらう。そしてとうとう脈を診てもらった。P師はチベット伝承医学を納めており、この地方は勿論日本にも診てもらいたがっている人々がいる。今回特別の計らいで実現。そして気になる結果は「身体機能には異状なし。但し考え過ぎ」とのお見立て。

彼女から色々とアドバイスを貰ったが、その後本当の患者が待つクリニックへ出掛けて行った。朝食は食べたのだろうか、凄い人だ、本当に。私の朝食はちゃんと残されていた。今日は珍しく揚げパン。何もつけなくても美味しい。もしこれに砂糖が付いていれば、小学校の給食で食べたあの揚げパンそのものだ。3枚も食べてしまう。

パンを食べながら考える。「考え過ぎ」とは何だろうか。中国でも他のアジアでも「日本人は細かいことを考え過ぎ」とはよく言われた。「重箱の隅をつつく」とも言われた。北京の脚マッサージのお姐さんからも「あなたは一日中頭を働かせている。頭も休めないと使い物にならないよ」と言われたことなども思い出す。

確かに我々は「隙のない生活」を目指しているのかもしれない。そして他人を指して「どうしてあんな簡単なことに気が付かないのだろう」などと思う。日本社会の縛りの構図のような気がする。

P師の言った考え過ぎとは恐らくはもっと大きな意味だろう。「アジアのことを考え、日本のことを考え、家族のことを考え、そして自分のことも考える」それでは疲れてしまうだろう。オンとオフをはっきりさせて、休む時は休む、他人に任せる時は任せる、そんな生活を送れ、と言われたようだ。が、まだ判然としない。

イギリス人高校生来訪
9時過ぎにイギリス人高校生がやって来た。皆準備に余念がなく、胸に名前を張ったりして、緊張の中で実に嬉しそうだった。到着した高校生の荷物を嬉々として運んでいた。グループワークも楽しそうにしていた。正直色々と環境が違う彼女ら。実際はどう思っているのかちょっと関心がある。ハーディは大活躍。受け入れ側代表であり、全体のコーディネーターとして走り回る。庭には特設テントも設置され、調理の補助として何故か男子3名がやって来てテントに泊まるらしい。

交流は順調だったようで、グループワークでは仲良く作業していた。午後も歌やパフォーマンスがあり、尼僧たち、とくに幼い子達は大喜びではしゃいでいた。ただ昼ごはんの時に高校生は先に食べ始め、尼僧たちは結局場所が狭すぎると言うことで、外で食べることになってしまったのは、双方に取り残念なことであった。夜も交代で食べる。

先進国で何不自由なく育ってきたと思われる10代のイギリス人が、突然何もない環境に放り込まれる。「World Challenge Program」というイギリスベースの高校生プログラムだと言うが、イギリスは思い切ったことをする。日本なら「もし何かあったらどうするんだ」と責任論だけが先行し、学校もリスクを取らず、結局このような有意義な体験を得ることは出来ないであろう。イギリス教育の奥深さを感じる。

宿泊などの環境は体験できても、さすがに食事は共有できないとのことで、ケータリングチームが派遣された。彼らはトレッキングのガイドなのだろうか、素早いさばきで食事を作り上げる。その味は肉や魚は使っていないが、西洋人好みに出来ていて驚く。

実は私は外国人扱いで、結局食事はイギリス人と食べる。というよりも彼女らが連れてきたコックが作る料理のご相伴に預かる感じ。クリームスープはとても濃厚、ベジカレーは最高に美味しく感じられた。ようは僧院の食事は基本的に刺激、味付けが酷く抑えられていると言うことなのだ。どちらが良いと言う問題ではなく、美味しいものをたまに食べるのは幸せな気分。しかし考えてみれば、私は彼女らの施しで食事をしていることになる。恥ずかしいような気もするが、ここにいれば、それも良しを思える。

驚いたことにあの新入り少女はまだ馴染めずにはいたが、何とハーディと英語で不自由なく会話していた。そういえばさっき会計係であるソーナムと調理者とのミーティングにも首を突っ込んでいた。彼女はソーナムの親戚だと聞いているが、難しい話もある程度分かっているのだろう。ハーディの好きな食べ物はとの英語の問い掛けに、にカリフラワー、好きな動物はホッキョクグマと答えるあたり、只者ではないかもしれない。ただハーディが敢えて「昔の良い思い出は」と聞いたのに対して、明確に答えなかった。それが彼女のポイントなのだろうか。



『インドで呼吸し、考える2011』(10)ラダック 犬と会話できないのは人間の問題

レイの街 現代は刺激があり過ぎる
午後はフリーなので、ゆっくりしてから、レイの街へ出掛けてみた。これまでの経験では空港道路まで出て、タクシーを拾うのだが、ちょっと道を間違えたところ、ちょうど村々を通り、レイに向かう道に遭遇したため、歩いて行くことにした。その道は村人が通る道であり、実に穏やかで風情があった。大木もあり、立派な家もあり、木の橋もあった。天気も良く、背後の青空もあり、写真映えがした。

上りということもあり、かなり歩いてようやく車が通るような広い道に出た。しかしそこは舗装工事中で歩きにくく、難儀した。自分が子供の頃、よく道の舗装が行われていたことを思い出す。経済成長期に見られる現象。あの独特のにおいすら懐かしく感じられる。

少し歩いて行くとようやくレイの街の端に到着。そこから道を上がると、ゲストハウスや土産物屋がどんどん出て来た。どうやら外国人観光客向けの通りに出たようだ。店の前に皆出ていて、盛んに声を掛けてくる。あー、俗世だ。と言っても先進国の大都会から見れば、鄙びた街なのであるが。

世俗に触れ、刺激を受けて、急に冷たい飲み物が飲みたくなる。無ければ我慢できるが、あるのに買わないと後に残ると考え、店に入る。冷蔵庫があり、中にコーラがあった。思わず手を伸ばして飲む。ウマい。25rpでこんなに感激するか。更に少し行くとパン屋があり、チョコクロワッサンが売っていた。これもご馳走と衝動的に買い、店の中庭で食べる。これも美味い。不思議なくらいうまいのである。やはり普段とかけ離れた食生活にはそれだけ負荷が掛かっているかもしれない。まだまだ修行が足りない。

今回の滞在で感じたことは「現代の人間はあまりにも心身に刺激を与え過ぎている」ということ。尼僧院生活の基本は「如何に刺激を与えないか」であろう。食べ物にスパイスを利かせない、飲み物はお茶でも緑茶などを避けている。しかしブッダもそうであったようだが、全く世俗から離れて山籠もりするのは仏教では意味がない。世俗と程よい距離に居て、初めて宗教に意味が見出せるのかもしれない。

オールドパレス 人と人の間
何だか目的を果たしたような気分になる。そして見上げるとオールドパレスが幽霊棟のように聳えているのが見える。一度登ってみるかと思い、道を探す。ようやく細い道に入り上り始めると向こうから降りてくる人が。また会ったね。昨日ストゥーパで急な階段を一緒に登った日本人、実は今朝もスピトクですれ違っていた。2日間で3度目の遭遇。これは偶然ではないかもしれない。彼もそう思ったのか、いきなり道端に腰を掛け、話を始める。

彼はこれまで彫刻の修行をしており、それを終え、独立して仕事を始める前の最後のバックパック旅行とのこと。約2か月間放浪するらしい。彫刻の仕事の足しにするかと思うが、仏像はやはり日本が一番美しいと感じている。ラダックなどチベット系では壁画に魅力があると言う。

昔は神社の修復、家の欄間の作成など、仕事は沢山あった。今は先ずお祭りの神輿の製作・修理とか。将来日本でどんな仕事をするのだろうか。実に爽やかで有為な若者、何だか楽しみである。

さて、再び上り始める。少し急な階段があったが、昨日のシャンティの経験があり、むしろ楽に感じられる。人間とは「人と人の間」という意味だが、実は人と自然の調和ではないかと思う。標高3500mの高地では、自然、環境に順応しないと生きていけない。現在の我々が言う人間社会はまさに人と人とが徐々に順応できなくなってきているような気がしてならない。

オールドパレス、というより王宮跡。建物は市内を一望できる場所にあるが、今や無人で何もない。ところがこんな場所でも外国人料金100rpを取ると言う。この辺りが街である。何層にもなっており、上へ上へ上るだけ。疲れて来る。しかも基本的に風景は同じ。

こんな急な場所で荷物を担いで登るおばさん達がいた。彼女達は建築中の新しい部分へ材料や水を運んでいた。さすがにきついらしく、はーはー息をしている。これだけの重労働をして一体いくらもらえるのだろうか。しかしインドへ来ると女性が重労働に従事している所によく出くわす。そういうものなのだろうか。

ここには寺院が2つあった。ツォモ寺院には僧は常駐していないとあったが、ちょうど一人の僧が中へ入り、太鼓をたたき始める。その様子を入り口から眺めていたら、僧も私に気が付いたが、何分一人。私への対応は出来そうもなかったので、離れる。

もう一つはソマ。こちらはこじんまりしていて、建物の2階、テラス部分に仏像が安置されていた。あまりに小さいので、入るのを躊躇っていると、右手をかなり怪我している少年が、チケットを出してきたので、思わず20rp支払う。中には小さいが壁画もあり、意外やよい感じであった。よく見ると建物の外側にも壁画が描かれていたので、これだけ見ればよかったようだ。

犬と会話できないのは人間の問題
降りて来てメインバザールを歩く。ここは一昨日も通っているので、帰り道に迷う恐れもない。電気屋があったので覗く。洗濯機や冷蔵庫は基本的にサムソンかLGの韓国製。テレビは東芝に液晶なども見られたが、やはり韓国勢が強い。携帯は普通の所ではインド製らしい。ちょっと良さそうな店へ行くとノキアなども置いている。兎に角街中にAirtelの広告がある。今や携帯は普及品であろうか。

そこからバスターミナルを通り、延々と歩いた。夕陽がきれいであり、かなりの写真を撮った。本当に美しい景色が何度も出現した。ただどこにも電線があり、少し興ざめするのだが。牛が道路を渡る様子など、ユニークであった。しかし下り坂なのに一向に到着しない。何と戻るのに1時間以上を要した。かなり疲れた。

疲れをとり、汚れを取ろうとシャワーを使おうとしたら、急に電気が落ちた。こうなれば諦めよう。そういうものだ。しかし暗くなって気が付くと、何と他の部屋には電気が来ていた。あれ、と思ったが、ここで皆に電気のことを聞く気にはなれなかった。無ければないでよいのだ。しかし尼僧たちもこの件には気が付いたようで、騒ぎ出し、結局ブレーカーが落ちていたのを直してくれた。それでもシャワーは浴びなかった。

夕飯にチーズのような、ヨーグルトのような物をパンに付けて食べる食べ物が出た。しかし私の前だけにはうどんが椀に入って出された。どうやらチーズやバターは苦手ということが伝わり、配慮があったようだ。有難い。

部屋に戻ると犬が鳴き出した。何か大きな車が入ってきたのだ。そうれは給水車であった。真っ暗な中で、何人かが作業を始め、水を貰っていた。水は本当に貴重な物なのだ。

因みにこの僧院には何匹かの犬がいる。その中でサンとムーンと言う2匹が可愛がられている。P師は私への講話の中で、「サンやムーンも我々とコミュニケートしようとしている。我々が彼らの言葉を理解できないのだ。」と言っていたが、確かにこの2匹は時々私の所へやって来て、異様なまでに絡み付いたり、手を舐めたりする。それは何故なのか、私には理解できないが何らかの合図である。




『インドで呼吸し、考える2011』(9)ラダック 6歳のリンポチェ登場

6歳のリンポチェ登場
昨日も入った新しいお堂で、既に祈祷が行われていた。ソーナムは私を例の曼荼羅の所へ連れて行き、説明してくれた。その後私の座る場所を示し、どこかへ行ってしまう。見ると既に数人の観光客が座っていた。祈りを聞いていると言うよりは写真を撮ることに夢中で、中にはシャッターの音を大きく響かせ、僧侶が振り向くなど、顰蹙を買うような行為も見られた。ただ彼らは10分ぐらいで、出て行ってしまう観光客。その後も何人もの観光客が入ってきて、写真を撮っていたが、僧侶からすれば儀式を公開することが望ましいのか、疑問に思えた。

私が入って直ぐに、若い僧侶が床に手を着き、3回お辞儀をした。その後音曲が鳴り響き、読経と合わせて、騒がしくなる。そして何故か僧侶の食事の時間となる。各人配給されたご飯とおかずを手かスプーンで食べている。雑談も始まり、休憩といった雰囲気。観光客は一斉に引き上げる。私はこの機会に再度堂内を一周。因みに私にはバター茶が振舞われた。今回P師が飲んでいたのを一度頂いたが、比べても遥かに濃厚。正直これは飲めなかった。24年前のラサではバター茶が飲めないだけでなく、寺院にバターの臭いが付いていて、閉口した記憶がある。

何となく食事の時間に僧侶が増えたのはご愛嬌か。突然ちょっと緊張した雰囲気となる。見ると小さな男の子が僧侶に囲まれ、堂内に入ってきた。あれがリンポチェである。カメラを構えると、ちょうど私の居た方に歩いてきたが、写真は上手く撮れなかった。

リンポチェは転生によって引き継がれていく。先代、いや彼の前世は、ラダックに教育制度を導入したとして高く評価されている。その生まれ変わりには正直興味が沸く。ただ私の座っている方からは全く見えない高い所に座っており、その素顔は見えない。

すると地元の女性が布施でも申し出たのか、彼の前に行き、シルクの布を渡される。その光景を見た観光客が静かに近づき、写真を撮る。私も静かに行って写真を撮ってみたが、フラッシュなしでは写りが悪い。仕方なく、彼が見える位置に移動してそこに腰を落ち着け、かなり長く見てみた。

正直僅か6歳の子が読経中にジッとして居られるはずはないのだが、やはり彼も手を動かしたり、こちらを見たりと、落ち着きはなかった。お付が一人横に座っているが、そちらに向かって何か話したりしている。お付がバター茶を差し出すと嫌がっており、可笑しい。代わりに自分でジュースをストローで飲んでいた。それでも信者が近づくと、男性の頭には手をやり、女性には触らないなど、それなりのルールは身に着けている。

この光景を見て考える。我々から見ると僅か6歳の子供を祭り上げる意味があるのだろうかと。周囲には大勢の老僧がおり、読経を繰り返す。何だか、日本でいえば戦国時代のお世継ぎのようである。しかし違うとすれば、お世継ぎは勢力が無くなれば追い出されるが、彼の体や行為が如何に子供でも、魂は尊敬すべき対象だろう。全く不勉強なので機会があれば是非調べてみたい。

私もドネーションをして、リンポチェに頭を触ってもらおうと思い、僧侶に声を掛けると何を勘違いしたのか、領収書を書いてくれたが、貰ったのはシルクの白い布のみ。やはり信心が足りないと言うことか。神妙な顔で読経に参加しているソーナムに手で合図を送り、お堂を後にする。本来は最後まで居ればソーナムが送ってくれる手筈であったが、自分で帰ることにした。

帰ると言っても昨日から気に入っている徒歩を選択。道は空港の滑走路横の一本道。迷う心配もないし、それほど遠くもない。兎に角この辺り、軍関係の施設ばかり。いや、昨日の道も同じ。軍が膨大な土地を抑えている。と思いながら歩いていると「軍事文化博物館」という建物が見える。入り口は工事中。そこで2人の幼子を遊ばせながら、シャベルで土を掘り返す女性がいた。彼女も出稼ぎだろうか。インドならカーストの問題かと思うが、ここでは別問題のような気もする。それにしても一日いくらの稼ぎもない、この仕事をして子供を育てていくのは大変なことだろう。

真のリーダーとは 情けは人の為ならず
戻ってみると昼前なのに皆が外でお茶を飲みながらパンをかじっていた。P師に聞くと、改修に関わる建材などの整理だと言う。それにしてもその後の作業を見ると、大きな石を担いだり、砂利を袋詰めして運んだり、かなりのハードワーク。しかもP師が陣頭に立って自らやっているから凄い。これでなければ人は動かない、リーダーの典型のような感じだが、本人に寄れば「土曜日の午前は休日なの。それで普段不足している運動をしていただけ。」と平然と答える。

真のリーダーとはそういうものかもしれない。不言実行、彼女は誰かに指示を出す前に自ら何も言わずに作業を始めることがある。するとそれを見た人々が自然と後から付いてくる。そうして皆の作業が始まると、彼女はあれこれ指示を出す。

日本で会社に行くと、何でも「やらされている感」が強い。まあ、殆どの人はそれを言い訳にしながら黙々と与えられた仕事をこなしていく。ここではそんな感覚はない。自ら動いて行くように仕向け、自ら考えさせ、そして作業効率などを最終的に指導する。

そして自らは「自分は誰かの為ではなく、自分の為にやっている」と言い切れることが重要。ここに仏教の強さがあり、P師の揺るぎのない強さが感じられる。世俗では、「人の為にボランティアをする」などと言っているが、その考え方自体が既におかしいのかもしれない。「情けは人の為ならず」である。因みに最近このことわざの意味を「人の為にならないから情けは掛けない」と解釈する人が多いと聞く。真に世も末である。

博物館に入ろうとすると軍服を着た男性に呼び止められる。60rpだという。何故そんなに高いのか聞くと入場料は10rpで写真代が50rpだと言う。どう見ても写真を撮りそうになかったので、10だけ払う。チケットは当然くれない。中に入るとチケットを売るテーブルがあったが、私をチェックする人間はいなかった。そして展示物は軍の功労者と戦役の展示ばかり。60払わないでよかった。

また雨が落ちてきた。昨日も歩いていると雨が降ってきた。雨が少ないレイでは非常に稀なことではないのか。私は実は雨男?いずれにしてもそれ程強く降ることもなく、45分で辿りつく。



『インドで呼吸し、考える2011』(8)ラダック エゴを消し去るとは

7月15日(金)
9.ラダック5日目
日本の寺が建てたシャンティ・ストゥーパ
朝起きると、原稿を一つ書いた。兎に角電気が来ていることが嬉しく、何かやろうと言う気になる。その内にP師の声がしたと思ったら、車で出て行ってしまい、本日の予定もまた分からない。P師一行はどうやら重要な礼拝に呼ばれて行ったようだ。そんな重要な用事とは何だろうか。

朝食の時、ハーディから「P師は午後戻ってくるので、午後外出」との伝言を受け取り、午前はフリーなのだからどこかへ自分で行って見ることにした。ハーディはシャンティ・ストゥーパがいい、というので従う。

道はこの建物の横をひたすら北へ真っ直ぐとか。陽も出ていないので、歩いても行けそうな雰囲気。もし途中でヒッチできればと思いながら、行動を開始した。若干の上り坂である。意外ときつい。途中車は通ったが、軍関係が多く、停まらない。

道は少しずつくねっており、面白い。ちょっとした村を通り過ぎると、左手の山の上に寺院が見えた。あれに違いない、と思うものの、あとどれくらいで着くのかわかない。レイの街は右へ、と表示があり、その先にバスストップがあった。大勢が待っていたが、私が行く方ではなかった。その先で一台の小型車が停まった。場所を告げると、すぐそこだよ、言いながらも乗せてくれた。

3分後の車を降り、麓に向かって歩き出す。ようやく到着すると、急な階段を上から僧侶が降りてきた。「この道がショートカットだ」と教えてくれたので、上り始める。しかしそこは想像を絶する急さで(いや実際には見えていたのだが、想像が働かない)、少し上ると息切れする。振り向けば雄大な眺めが見られるのだが、欠点である高所恐怖症が顔を出し、階段をじっと眺めて耐える。もし日差しがあれば遮るものもなく、熱にやられたかもしれないが、幸い今日は相当に涼しく、何とか堪える。

すると後ろから若者が一人上ってきた。日本人だった。彫刻で独立する前の旅行だと言う。彼と話して何とか元気を取り戻し、上へたどり着いた。しかし一時は呼吸困難も予想され、その場合どうなったかはあまり想像したくない。

小さな寺院へ入ると仏像が安置されていた。更に少し上ると大型の仏像が置かれていた。ローマ字で南妙法蓮華教と書かれていた。横に太鼓があり、妙法寺なる字が見えたので、これが妙法寺と言うお寺が建てた寺院、シャンティストゥーパのご本尊だと分かる。またこの上にストゥーパがあるのだが、これは東南アジアスタイルで、日本的ではないが、確かに日本の寺院が建立したものらしい。

帰りは安全策でメインの道をゆっくり降りる。途中から何故か雨が降り出す。ここラダックで雨とは貴重な体験だ。と言ってもホンのパラパラだが。麓にはいくつかゲストハウスもあり、エコを謳っているものまである。如何にも西洋人が好きそうに作られている。街より値段も安いのだろうか。日本人はこういう所で一日ぼーっと過ごすことは耐え難い。

道を歩いていると反対側から車が通り過ぎた。どうやらタクシーだったようで、停まる。場所を告げると150rpなら行くと言う。悪そうでもないし、道も知っているし、何より疲れたので、送ってもらう。僅か10分で我が苦難の巡礼の道は逆戻りできてしまった。何とも言えない、いやそれが人生である。

スピトク寺院
昼はカリフラワー炒め。これは美味しいが午後の外出に備え控えめに食べる。しかしその後何のお呼びもなく、時間が過ぎていく。P師は相当に忙しいようだ。3時頃P師から声が掛かり、残りの質問をする時間を得た。「敵は自らの内にある」「如何にエゴを消し去るか、人間の体をした野獣であることを捨て、平和に生きられるか」など、心に残る話がいくつも出て来た。

4時になり、昨日の2人、ツォモとスタンジン、そしてハーディも参加して、スピトク寺院へ向かう。この寺院は明日朝大きな礼拝があり、特別に私も参加できるように取り計らってくれている場所。ゆっくり写真を撮る暇はない、ということで、下見のように出掛ける。

先ずは歩いて空港道路へ。しかし昨日とは違い先ず南へ下り、殆ど2つの道路が交わるあたりでバスを待つ。ミニバスがすぐやって来たが席はなく、立っていく。それでも10分ほどで到着。バスを降りると寺院が岩陰に見える。あまり高い所ではないようで、安心して上る。

このお寺もかなり古いようで、15世紀にはできている。その際にはチベットのツォンカパからも贈り物がもたらされたと言う由緒正しい所。入り口には何故か日本語での説明もある。その建物の天井が既に壁画であり、何故か凶暴な鳩?がこれを守るように構えていた。

上ると景色は美しい。この付近には畑もあり、緑豊かな風景となる。反対側には空港の滑走路が見えると言う何となくアンバランスな感じはあるが。本堂は閉まっていた。実はここにはリンポチェが住んでおり、先程彼の乗った車とすれ違っていた。どうやら踊りが下であるらしい。

このリンポチェは前世がラダックに教育をもたらしたとして評価が高い方の転生。僅か6歳だと言う。一番新しい建物に入ると、2人の写真(前世と現世)が飾られている。祈りが行われる場所として壁画もあり、仏像も置かれている。この寺院は歴史が古いのみならず、この辺りの中心的な寺であることが分かる。

景色に見とれていると、昨年ここで外国人が転落死したと伝えられ、ちょっと緊張する。頂上には本当に古い部屋がある。ここは撮影禁止。壁画もかなり傷んでいた。しかし中に置かれていた仏像を見てびっくり。物凄い形相、忿怒尊像と言う名前らしいが、数体安置されている。どんな意味があるのだろうか。

更にここから階段が無い岩肌をつたわり、ブッタ像のある場所へ移動。これが結構難儀。昨日買ったばかりのサンダルを適当に履いており、もし滑ると一巻の終わりという場所もあり緊張。しかしその場所から撮った景色は偶然かもしれないが、実に雲と風景がマッチしていてよかった。

帰りはバスを待つがなかなか来ない。ようやくやって来たバスを見てびっくり。誰一人乗っていなかったのだ。これはラダックでは滅多にない僥倖だろう。おまけに降りるときにツォモが支払いをしようとしたが、運転手は受け取らなかった。これこそ有難いことである。

夕方あの新入り少女がしょんぼりしていた。泣いていたかもしれない。誰かと軽い諍いがあったかもしれない。そういう時は年上のお姉さん尼が間に入り、話を聞いている。基本的には我々が想像するような修行の場と言う厳しさはないが、返って人間的な修行になるような気がした。

夕飯は何故かいつもより人数が多かった。既にここを巣立った、またここから別の場所へ派遣されている尼僧が数人戻ってきているようだ。今日は特別な日であるらしい。そういえば日本でもお盆というのがあるが、旧暦でその時季なのだろうか。夕食後直ぐに特別のミーティングも開かれ、夜遅くまでP師の講話があったようだ。

7月16日(土)
10.ラダック6日目

エゴを消し去る
朝5時過ぎに鐘が鳴った。通常よりかなり早い。外もまだ暗い。昨日の話ではヨーガがあるとのことであったが、よく分からない。何か特殊な体操があったのだろうか。今日はことのほか、涼しい。気温は10度台であろう。

ここに来てから、簡単な3度の食事、勿論肉や魚はなく、また間食も殆どしない。以前のヨーガ合宿のように毎日何かプログラムがあるわけでもない。しかし自らの心がかなり落ち着いてきていることが分かる。それは食事だけの問題はなく、この尼僧院の雰囲気、周囲の自然、などが大きく影響している。

日本は相当暑いだろうな、節電、節電で。こちらはクーラーなしで十分に過ごせる。人間の欲望の一部を自然にそぎ落としてくれるようだ。これがレイの街のゲストハウスで西洋人や日本人といれば、ラダックに居ても、また違ったであろう。私が極めて得難い体験をしていることを実感してきている。

それにしても「エゴを消し去る」とはどうやってやるのだろうか。エゴのルートを分析する、と言っていたがこれはなかなか難しい。怒りの転換、確かの全ての人が同じ境地に入れば、恐らく問題はないが・・・。いや、これは他人の問題ではないのだ、自分の問題として一つずつ解決していくべきことなのであろう。

朝9時前に声が掛かり、尼僧の一人ナムの運転する車で私だけが再度スピトク寺院へ運ばれていった。ラモは北部ヌブラの出身で、2007年までバラナシ(ベナレス)で勉強していたが、卒業して戻ってきたと言う。僧院生活は楽しいのだと。10分程度で到着。ラモは携帯電話を取出し誰かを呼び出す。

彼女は「ラマ ソーナムが迎えに来ます」と言い残して帰ってしまう。あれ、どうすれば、と思っていると、頭上のマニ車の横で手を振る僧がいた。上がっていくと流暢な英語で話す。ここに定住している僧は32人、昨日今日明日は特別のプージャ。昨日見た綺麗な曼陀羅を一年に一回クリーニングし、明日には閉まってしまうと言う。所謂ご開陳に遭遇したらしい。



『インドで呼吸し、考える2011』(7)ラダック バスでパゴダへ

ティクセ
我々がやって来たのはティクセという寺院。15世紀の半ば、ツォンカパの予言によりこの地に建てられたというから、歴史は古い。そして何と言っても実に雄大な景色が見える。ラサのポタラ宮に似せられて作られたとも言う。確かにそんな感じはあるが、24年前のラサ訪問の記憶は薄い。

雄大であるが、当然ながら上りはきつい。流石にポタラ宮ほどではないが、二人の尼僧の後を少し遅れ気味に付いていく。ゆっくり歩くと景色が眺められる。寺院も雄大なら、付近の風景もまた雄大。やっとお寺の入り口に到着したところ、スーザンとレイで同じ宿だと言う日本人に出くわした。

このTさん、奥さんがタイ人。アメリカ方面で30年仕事をした後、50歳でリタイアし、タイのチェンマイに移り住んだと言う。こんなところでロングステイの大先輩に会うとは。Tさんはロングステイではなく、永住するとのことだが、既に10年をチェンマイで過ごし、かなり気に入っている様子。チェンマイに来ればと誘ってくれる。これは面白い。

Tさん夫妻は奥さんが仏教徒。毎年ネパールやインドなどを訪ね歩いていると言う。何か月も前から飛行機を予約、相当安い費用で来ている。今日もこの寺院に泊まり、明日朝の大礼拝を見学するのだとか。なかなか面白い。奥さんはまだ若く、英語も日本語もできる。今は日本人にタイ語を教えていると言う。

この寺院の拝観料は30rp。一番の見所はチャンパ大仏像。1階2階吹き抜け、2階で見るとお顔だけが出ている。高さ15mはラダック最大。2人のガイド役は尼僧であり、当然熱心に祈りを捧げる。そしてどんな時でも右から回り、全ての仏像には礼拝する。T夫人はタイ式の祈りを捧げる。色々と違いがあって面白い。Tさんと私は何もせず、不信心が暴露される。

他にも壁画などがあり、西洋人観光客がガイドの案内を聞いている。アジア系では韓国人は見掛けたが、日本人と会うことはなかった。日本人は関心が無いのだろうか。簡単な博物館があり、バター茶を作る機器などが展示されていた。ツァモとスタンジンには写真を一緒にと言うオファーがいくつもあり、人気者に。尼僧が珍しく、かつチベット的だと受け止められている証拠だ。でもインド人が少し偉そうに写真を撮っていると何だか少しムッと来てしまうのは何故であろうか。

ティクセに分かれを告げて、またバスを待つ。シェイに行くらしい。シェイと言えば、今回色々とアレンジしてくれたSMさんのご主人の故郷であり、現在娘さんが当地に滞在していると聞いていた。今度はバスもすぐにやって来て、しかも席に余裕があった。ラッキー。ラダックの交通はよく分からない。

シェイからヒッチハイク



シェイまで15分程度。バス代も10rp。シェイパレスと書かれた看板の所からマニ車を押しながら上る。10-15世紀までこの地がラダックの都であったが、何故か王宮は1600年代に出来、1800年代に王族が転居するまで使われたらしい。現在王宮に住人はなく、荒れていて見学は出来なかった。

しかし周囲の景色は素晴らしい。圧倒されてシャッターを切る。珍しく雨が降りそうで、風も強くなり、その気候の変化が美しい景色を生み出している。寺院の方にはこちらも2階建ての仏像が安置されている。

下に降りるとスーザンがティクセに戻り、泊まると言い出す。確かさっきTさんが明日の朝大きな礼拝があると言っていたが、彼女はそれに関心を持ち、戻ることに決めた様だ。それにしても何という柔軟性。やりたいことは直ぐに行動に移す。この行動力は今の日本に欲しい。

それにしても問題はバス。来た時のあの混みようで、スーザンは無事降りられるのだろうか、いや乗ることが出来るのだろうか。まあ1度行った場所なので、大丈夫だろう。バスは来なかったが手を挙げると小型トラックが停まり、彼女は急いで荷台に駆け上がる。凄い。

レイに戻る我々の方も一向にバスが来ない。他にも数人がバス待ちしている。すると突然スーザンがさっき乗ったものと同じ小型トラックが停まり、皆が駆け出す。私と西洋人男女は荷台に駆け上がり、ツァモとスタンジンは何とか後部座席に収まった。

夕方の風に吹かれながら、荷台にいる気分は最高であった。フランス人とオランダ人の男女も気分は同じだったようで、妙にはしゃぐ。道はレイに近づくにつれて、平らになり特に苦痛もない。陸軍の演習場や監獄なども見え、これまでと違った風景を目に出来た。

トラックが急ブレーキを掛けた。危うく前にぶつかりそうになった。見ると男性が車道をゆっくり歩いている。車にも全く反応せず、殆ど轢かれそうになっても歩みを止めなかった。恐らく精神的な病だと思うが、少し驚く。

レイの街
レイの街に入り、メインバザールで降りる。10rp払ったそうだ。ヒッチハイクは安い、それとも彼女たちが尼僧だからか。メインバザールを歩く。サンダルと帽子を調達するためだ。サンダルは至る所で売っていたが、ちょっと良さそうなのを700rpで、帽子は300rpで購入した。いずれも小さな店。2人が簡単な値引き交渉はしたようなので、そのまま言い値で払う。尼さんの前でお金の話はどうかと思う自らの心境が新鮮。

レイ・ジョカンと言う寺院に入る。僧侶にとって寺院は基本。お堂がかなり広く、レイで僧侶が一堂に集まる場所だそうだ。但し尼僧は建物の外で祈るらしい。尼僧の地位向上の道のりは長い。

帰りに彼女達がパン屋に寄る。クッキーを売っていたので、1㎏買って皆へのお土産にする。2人は別にケーキを買っていた。レイの街中には同じ年ごろの女性が着飾り、髪の毛も伸ばして、おしゃれをしており、2人の気持ちがかなり気になっていたが、ケーキを選び姿を見て、やはり女の子であると少し安心した。

帰りはタクシーを交渉。130rpとなった。10分ほどで帰還。1時半に出発して7時に到着したのだから結構長旅。今日は楽しかった、と素直に言える旅であった。

夕飯後、ハーディと話す。彼女はインドの女性問題を学ぼうと思ったが、西洋人は受け入れられないと考え、ボランティアで英語教師をしながらインド各地を歩いている。2年間はインド国内に留まる予定。アメリカ人は5年間有効ビザが貰えるが、6か月ごとに更新する必要がある。一度国外へ出てしまうと2か月間は再入国不可と言う例のルールにより、インドに戻れなくなる。

彼女は報酬が無いのだからかなり質素な生活をしており、ヒッチハイクもよくやるとか。タクシーは高いから乗らないなど、外見からは想像できないほど、タフである。その夜は一晩中電気が来ており、初めてシャワーを浴び、洗濯した。しかしほとんどお湯は出なかった。それでも3日ぶりのシャワーは、体を元気にしたようだ。

『インドで呼吸し、考える2011』(6)ラダック 食べることに集中せよ

尼僧による改修工事
午後ネットを1時間半使う。これはここでは最高に贅沢なこと。今日はブロードバンドの機嫌が良い。昨日の分までアップしたり、メールに返事する。8月の新疆行きのためのパスポートコピーを送れずに困る。

その間に午後の予定であったハーブ園訪問に置いて行かれる。特に不満もなく、1時間午睡。4時過ぎに読書していると、改装中の2階から落としていた大量の木材処理が始まる。初めはワーカーの女性が一人で大きな丸太を担ぎ出す。すると尼僧たちが少しずつ作業に参加し始める。しかも皆やらされていると言った感じは全くなく、楽しそうに遊びながら運んでいく。この分け隔てのない感覚、日本は忘れている。共同作業は清々しく終了。

因みに改修現場のワーカーたちはネパール人。一人がヒンディー語で話し掛けてきたが対応できなかった。彼らも故郷を離れて出稼ぎ中。特に若い女性は顔にスカーフを巻き、重労働を強いられているのは、厳しい。と言ってもここの尼僧さん達も同じような作業を手伝ったわけだから、驚くことではないかもしれない。それにしても経済的な理由だと思うが、彼女らの心情を推し量ることは出来ない。

P師が戻る。午後急患が発生し、外出していたらしい。それで置いて行かれたのかもしれない。P師によれば、昨年の洪水でここの建物も1階はほぼ浸水、2階は屋根の構造が弱く、上から大量の水が振り込んだと言う。子供たちは1階の瞑想室に一塊で寝て、年長組は夜通し、水を排除したらしい。その際、中央の建物が大きく破損し、今回の改修となった。これには日本からも援助者がいるらしい。

この建物、折角改修するのだからということで、ここの2階をコミュニティホールにすると言う。昨年の水害で、LNAはいち早く被災地にクリニックを設置(2年間)、薬と安らぎを提供した。特に精神的に大きなトラウマを負った人々の話を聞き、癒しを与えたという。その関係を切ってはいけない、その発想からコミュニティホールを作り、日頃から接触しようとしている。この辺りは日本でも見習うことが出来ると思う。

その他通常活動の一環として100以上グループを訪問。「信じる心」を説いて回る。心が良くなると体の回復は格段に速い。例えば人生に絶望して自殺しても精神は残るもの。ラダックは山間地帯であり、規模も小さくこのような考え方をシェアするのは容易。生活をスローにして、平和的に送ること。これが理解されれば、回復は早いとのこと。

初日から注目していた少女が服を着替えていた。水やりの役割が与えられたようで、少しずつ馴染み始めている。そして作業には参加しないが、年下の子達と「せっせっせのよいよいよい」と言った感じの遊びに加わった。P師によれば、精神的に少し障害を持っている。まだ皆には馴染めないが、ここに居ればいずれはよくなる日が来る、と思える。

作業は総出で終了。するとご褒美なのか、チャイとパンが提供され、皆で食べる。この雰囲気がまたよい。皆で分け合う。私は作業していないが、分けられる。いま日本の少女たちにこのような作業を命じれば大変なことになるだろう。「なんで私がこんなこと・・」とのフレーズが出て来るに違いない。では「なぜするのか」説明できれば彼女らはするだろうか。「人を殺してはいけない理由」を説明できず立ち往生する大人とどこか似ており、日本はどこか空しい。

夕飯前にスープが配れる。これを食べれば夕飯不要と思える。今日は皆作業があり、お祈りの時間が遅れたようで、夕飯は9時ごろとなった。P師は忙しそうに明日の予定を告げて出て行った。彼女は夕飯を食べる時間があるのか、頭が下がる。

夕飯はダース・トックと呼ばれる雑炊。夜は消化に良いものを食べて早く寝るのだ。チャイも出ない。理に適っている。1椀で十分だが、代わる代わるもう1杯食べないかと聞きに来てくれる。これも一つの奉仕なのだろうか。皆何となく楽しそうに食べる。変な言い方だが、日本でこの粗食を楽しそうに食べられる家庭は真に幸せなのだろう。今日は夜9時半でも電気がある。実に有難いことである。

7月14日(木)
8.ラダック4日目
食べることに集中せよ
朝目覚めるとまた少し頭が重い。しかし既に経験済みなので特に心配もせずに体を横たえる。7時前にお湯が運ばれて来て起き上がる。お湯を飲んでトイレに入るが、なぜかうまく出ない。何となく水分が足りていないように感じる。ここラダックは年間降水量が84mと極端な乾燥地帯である。バター茶などを頻繁飲むのも乾燥から身を守るため。東京ではリップクリームを持っていくようアドバイスされたが、普段つけ慣れないものをここで使用するのは少し怖い。

8時前に朝食。今日はチャパティとカブの煮込み。カブは葉っぱもしっかり入っており、健康食という感じがする。この食べ物、昔おばあちゃんが作ってくれた味に似ていて、驚く。ラダックは何となく日本に近い。そんなことを考えていると、当然一人の男性が腰を低くしてP師に近づいてきた。こちらが目を疑うほどに、その男性は日本のおじさんだった。しかし次の瞬間ラダック語が発せられ、間違いであることに気が付いた。おじさんは恭しくP師の横に座る。P師は彼の脈を取る。これはチベット伝承医学の手法と聞いている。そしてあとは一緒に食事をし、少し話して薬を貰って帰って行った。聞けば数年前、体が全く動かなくなる重度の障害に見舞われたが、今基本動作は正常に戻っていると言う。

ハーディと話をした。彼女は携帯も持たず、ネットも時々チェックするのみ。現代は忙し過ぎる、携帯やネットから解放されて初めて、こちらでの生活をエンジョイできると言う。全くその通りで、Social Networkと称される電子媒体が疑似世界を作りだし、人々はその中で、何かを埋めて生きている。ここラダックでは全てがリアル、である。一つ一つの生活、例えば食べるとか、寝るとか、そのような行為に集中できることがより重要であると思える。疑似的な行為はどうしても注意が散漫になる。これが心のバランスを不安定にしているような気がしてならない。

P師は朝から忙しい。皆に指示を出し、ネットを何とか繋げて、どこかへ返信している。私は彼女の時間が空くのを気長に待つ身である。するとオランダ人のスーザンなる女性が入ってきた。彼女は日本の状況を熱心に聞いてきた。弟が原子力関連の教授とかで、色々な情報が入ってきているようだ。スーザンに私の時間を譲り、退散。読書に励む。

あの新入り少女の表情が少しずつ変わっているのが見て取れる。今朝はついに彼女が笑顔で「おはよう」と言ってくれた。それでもチャイを入れたカップを持つと一番端に行き、相変わらず雪を頂く、山を眺めている。どこか私の子供の頃を思い出させて、やるせない気分になる。

昼前にネットを少し触り、ご飯へ。今日は豆煮込みをご飯にかけて食べる。これはかなりいい味だが、午後の外出に備えて控えめに食べる。スーザンとハーディは楽しそうに話している。彼らが話している方が英語らしく、聞き取りやすいのは不思議。

初めてのローカルバス 
昼ご飯後すぐにP師から「今すぐ出発」と言う指令を受ける。ツァモとスタンジンと言う2人の若手尼が同行。スーザンも同行することになる。この2人は8月頃からダラムサラの学校へ入り、6年間医学を勉強するらしい。6年間は帰られないつもりで一生懸命勉強して、チベット伝承医学をマスターしてくると言う言葉に胸を打たれる。明治青年の志のようではないか。

先ずは歩きで空港道路へ。10分近く歩いてようやく売店があり、水を調達。1ℓ15rp。店の前に車が止まり直ぐに乗り込む。これがタクシーか。座席は対面の4人乗り。いすゞ製。10分ほどでバスターミナルに到着。ターミナルと言っても広場にバスが数台停まっているだけで、行先も分からない。一人で来たらとてもバスを探せないだろう。彼女達も懸命にバスを探しているがちょうどよいのが無いらしい。

仕方なく1台に乗り込む。運よく席はあった。しかし隣のおばさんはかなりの巨体。何とかしりを突っ込むとおばさんも嫌な顔をしながら笑い出す。こちらも申し訳ないので席を立とうかと思ったが、どうやら席は確保しておいた方がよさそうな雰囲気でそのまま大人しく座っている。

ところがバスはいつまで経っても発車しない。運転手も来ない。この際修行だと思って黙って座っている。こんな時は非常に暑く感じられる。時々風が吹き込まなければ気分が悪くなっていたかもしれない。スーザンは前の方で地図を広げ、何やら地元民と話をしている。西洋人はこういう時に有利だと感じる。そうこうするうちに運転手がやってきて、そして駆け込みで乗り込む乗客ですし詰めになって発車した。しかし直ぐまたバス停があり、乗って来るので、本当にギューギュー詰めになる。確かに今や隣のおばさんのプレッシャーの方がかなりマシになってきた。

バスは途中で何度も停まり、客が何とか降りていく。しかし不思議なのはどうやって料金を払っているのか。人が多過ぎて見えない。郊外に出ると一面の原野と爽やかに聳える多くの山々。風景を楽しみたいがその隙間は少ない。とうとう降りるとの声がかり、客を押しのけて下車。すると若者が車掌として集金している。なるほど、いや当たり前か。