「インド」カテゴリーアーカイブ

デリー・リシュケシュ サバイバル (1) デリー エアポート鉄道は半年も運休?

《デリー・リシュケシュ サバイバル》 2013年1月5日-14日

インドには1年以上行っていないな、と思っていたところへ、私も少し交流のあった日本人の方が亡くなったとの知らせがあり、その供養の儀式が年初インドで行われると聞いた。個人的に自らの死後、遺体をどうするのか、遺骨を墓に入れるのか、などを考え始めていた時であり、供養の旅に参加し、他国の状況を見てみたいと思った。

また私だけが供養の儀式を見ても、私が死んだ後を託せるのは子供、との思いから、今回は初めて次男を帯同した。彼は4か月のアメリカ滞在を終え、少し英語が出来るようになっており、大学も休みのため、いい機会だと思ったのか、参加を表明した。

尚インドビザの取得が非常に厳しく、いつ取れるか分からないとの話もあり、またオンラインで申請するなどルールが変わっているとのことで、一時はインド行を諦めかけたが、どうやらインドは我々を呼んでいた。12月に東京に戻り、インドビザセンターへ行くと、以前と同様の手続きで2日後にはビザが出てきた。因みにオンラインで申請してしまうと、15日は掛かるらしい。これもまたインド。

1月5日(土)  デリーまで

バンコックで久しぶりの早起き。5時過ぎに起きて、タクシーで空港へ向かう。大型のスーツケースを使う羽目となり、バスと電車の組み合わせではちょっと辛い。今回もインドではお気に入りのジェットエアーに乗る。チェックインもスムーズ。一番驚いたのは、何とスターアライアンスメンバーでもないのに、何故かANAとコードシェア便で、ANAマイルが貯まるらしいこと。本当?

昔のスワナンプーン空港の朝は大抵大混雑。特にイミグレは外国人で長蛇の列だったが、今日は空いていた。やはりLCCをドムアン空港に移した影響だろうか?まあ、空いていて嬉しい。時間があるので無料WIFIパスワードを貰い、いつもの場所でネット。1時間はあっという間に過ぎ、気が付くと搭乗時間に。

機内はほぼ満席。ジェットエアーは座席も広めで、CAの対応も悪くない。後にインドで聞くと、民間で航空業界に参入したビール会社はすでに運航を停止したとか。キャンペーンガールのような格好良いお姐さんをCAとして乗せて、インドのイメージを変えようとしたが、上手くいかなかったらしい。

乗客はヨーロッパ人が多い。どうやら休暇で訪れたバンコックから自国へ戻るために、デリー経由のジェットエアーを使っているようだ。きっと安くて良いと評判なのだろう。イミグレカードを貰わない人の方が多かったのがその証拠。食事はオムレツ。悪くはない朝食。4時間、ほぼ定刻にデリー着。

2.デリー  (1) エアポート鉄道は運休中

デリー空港の長い通路を通り、イミグレへ。イミグレでは横から入るネパール人がいても皆気にしない寛容さ。スムーズに通過し、荷物を受け取り、外へ。何と順調なことか。両替でもしようかと思っていたが、これから乗るべき空港鉄道の表示が見当たらない。1年半前、活用して本当に便利だったあの鉄道、今回も宿泊先の直ぐ近くに駅があるため、使うつもりだったのだが。

出口のオジサンに聞くと「何らかのトラブルで動いていない」という。そして目の前のバスを指して「ISBT、あれに乗れ」という。夜だったら迷わずプリペイドタクシーに乗るため空港ターミナルに引き返しただろうが、昼間でもあり、場所も分かっているのでちょっと冒険してみた。

バスは左程込まずに出発したが、直ぐに国内線ターミナルへ寄り、大混雑になる。皆荷物が多い。どうやら一般のインド人が使うバスに乗り込んだようだ。そしてバスは時々停まるものの、そこが何処だかアナウンスはなく、不安な時間を過ごす。途中大統領の所用地と書かれた場所があったが、あまりの広大さに流石はインドと思ってしまう。

30分以上乗っていると、見慣れた風景が出て来て、少し安堵。ところが今日の宿泊先であるYWCAの前を通ったにもかかわらず、また降りる先を運転手と車掌に告げたにもかかわらず、無情にも通り過ぎる。慌てて降りると告げたが、なかなかバスは止まらず、遂にコンノートプレースでようやく下車。前回泊まったYMCAの前を重い荷物を引いて通過し、約1㎞歩いてYWCAへ。

(2)    YWCA

YWCAでは空港鉄道が動いていないことでA師が心配して待っていてくれた。今回の旅はA師の尽力で供養の儀式がなされる。流石インド在住20年。因みに空港鉄道は技術的な問題で何と半年前から運休していた。インドでは前回の経験は生かされないこともある。確認が重要と再認識。

午後2時、ちょうど昼ごはんだというので、参加する。今回A師はタイのヨーガ生徒を連れて来ていた。皆でインドの焼そばを食べる。何だかスパゲッティとの中間のようで・・。タイ人も口に合わないらしい。

YWCAの部屋は簡素だが清潔で広い。ベッドもダブルかと思ったが、2つに分けることが出来て満足。シャワーとトイレも部屋にあり、熱いお湯も出て、問題なかった。都心の一等地にあるが、リーズナブルな料金で泊まれるのは嬉しい。また何より、男性も宿泊可能なのは何とも嬉しい(スリランカのコロンボでは地球の歩き方に宿泊可能と書いてあったが、実際に行くと女性のみと言われた)。

この時期のデリーは完全なオフシーズンなのだろう。デリー到着後、持って来たダウンジャケットを着こむ。インドでダウン、イメージが崩れる。YWCAは普通予約が多く、部屋が取れないこともあるが、今回は宿泊客も多くない。やはり寒さのせいだろうか。部屋には小さなヒーターが一つだけ。これは相当寒い夜になる予感。

(3) シーク寺院 グルドゥワラ

食後、散歩に出る。A師とタイ人の後に従い、先ずは国立ヨーガセンターへ。残念ながら土曜日で閉まっていたが、インドでは近年ヨーガが見直されてきており、国としても様々な研究がなされている。因みにヨーガは以前サドゥウと呼ばれる「外道」の修養として位置づけられており、その手法・技法も口頭での伝承が中心で科学的な研究はなかったという。これはバラモン中心のカースト制度の影響である。近年のヨーガブームはアメリカに渡ったインド人が体操としてヨーガを捉え、健康、ダイエットなど普通の人々のニーズに合わせたもので、本来のヨーガと相容れる所は少ない。

YWCAのすぐ横に、グルドゥワラというシーク寺院があった。実に立派な建物で前回もここを通ったが、何だか怖そうな人々が出入りしており、見学すら躊躇った場所。我々日本人は一般的に思うインド人のイメージは「頭にターバンを巻いている」「インド人嘘つかない」であろうが、それはシーク教徒を指していることが今回分かった。シーク教徒は実に誠実な人々であり、そしてターバンを巻いている。ただインド全体から見ればほんの一握りの人口に過ぎず、何故日本でこのイメージが定着したのか大いに疑問(海外で商売をしているインド人にシーク教徒が多いのため、との説あり)。

A師に率いられて中へ入る。多くの人がお参りに来ている。外国人に対応する場所があり、そこで頭にスカーフを巻いたりして、髪の毛を隠す。これが作法だ。そして裸足で寺院へ。足は非常に冷たくなり、厳しさが突きつけられる。中では熱心に祈る人々の姿があった。一日座っている人もいるようだ。体が引き締まる。

外へ出る。チャイが無料で振舞われていた。これは有難い。この寺院、誰でもやって来た人にはチャイを振舞、食事時は食べ物も無料で提供されるという。ある意味ではそれこそが本来の宗教であろう。タイ人達はタイの仏教寺院で同様の施しがあるので、特別に不思議とは思わないようだが、日本の寺院でこのような場所があることを知らない。因みに私の大学の同級生O君は学生時代、インドを旅して、この寺院に1週間滞在したという。滞在費無料、食事も一日2食無料だったそうだ。頭にはタオルを巻いて、活動していたという。実に懐の深い寺院だ。あまりの美味しさにチャイをお替りした。

O君からのメール。「アムリッツアルの黄金寺院にも一週間いました。その後84年でしたかインディラガンジーさんが黄金寺院を襲撃し、結果として彼女はシーク教徒に暗殺されましたね。今のインドの首相がシーク教徒なのも面白い」




コルカタ散歩2011(4)奇跡のベルルマート

(13) 奇跡のベルルマート

車に戻り、ベルルマートへ出発。ところが・・。何と片道一車線の道が全く動かない。何かが起こっている。運転手も驚いて車から飛び出し、前に見に行く。そして諦めたように「ドルガプージャ」と叫ぶ。このお祭り、もう終わったのではないのか。見ていると、長い長い行列が植物園の方に向かい、歩いてくる。鼓笛隊あり、ドルガの人形の山車あり、大勢が嬉しそうに歩いてくる。これではお手上げである。

この行列が過ぎるのに20分は要した。ここから目的地まではどの程度離れているのか分からない。運転手には敢えて急いでいると告げない。告げるとよくないことが起こりそうだったから。その後車は順調に進んだ。此れなら急がなくても間に合うかもしれない。

しかしインドはそう甘い世界ではなかった。運転手は脇道を進んだが、また車が止まる。今度は踏切だ。まるで障害物競走のようだ。それでも踏切だから数分のことと思ったのが間違い。電車はいつになってもやって来ない。リキャーなどはバーの上から車を越えさせ、通って行く。初めは笑って見ていたが、これが15分も続くと堪らない。それでも私の心境は「なるようにしかならない」というもの。インドで悟りを開いたか。

20分待って列車が行き、ゆっくりと遮断機が上がる。しかし人も車も一斉に進もうとするから、直ぐには動き出せない。物凄い時間のロスであった。それでも何となく楽しい。もうそれほど時間はない。それから車は関を切ったように進む。でも時間が。そして・・。

そして突然、ベルルマートに到着した。何と時間はちょうど5時。これはもう奇跡だ。ぴたりと着けた。何故だろうか。やはりなるようにしかならないことを証明した。車が駐車場に入り、私は入口へ。

ベルルマート、ここはラーマクリシュナ・ミッションという宗教団体の総本山。私は実はこの教団に関して殆ど何も知識はない。では何故やってきたのか、それは同級生のSさんがアポを取ってくれたから。Sさんに「コルカタ行くんだけど」と気軽に言うと、「あそこに泊まれるかもしれない」と日本支部に連絡したところ、ちょうど日本に駐在しているスワミがコルカタに戻っており、「8日の午後5時にベルルマートで待っています」と言われたらしい。

私の旅には何故行くのか、とかどんな意味があるのか、などと言う問い掛けはない。ただ行けと言われれば行き、来いと言われれば行く、意味は後から自然と分かるもの、という考え方がある。そういう意味ではこの訪問には何となく惹かれるものがある。

それにしても想像していたよりもはるかに規模の大きい総本山。しかも何となく荘厳な感じがするのは宗教の聖地だからだろうか。そしてあまりにも多くの人が夕方にも拘らず、寺院内に大挙しており、私はどこへ行けばスワミと会えるのかさえ分からない。兎に角英語は通じるので聞いてみる。

そして3回ほど聞いたところで、柱の陰で信者と話をしている小柄な男性を発見した。スワミ・メダサーナンダ、その人であった。信者との話を遮って声を掛けた。ようやくここまで来たという高揚感がそうさせてしまった。スワミも何かを感じたのか、私を招き入れ、席を開けさせた。そして英語で「どこから来た」と聞く。私が事情を説明すると「どこに泊まっている」と聞くので、私がホテル名ではなく、市内中心部と答えるとスワミは今度は日本語で聞いてくる。彼は日本に十数年住んでいる。

信者がスワミの足を触っている。これは有難味を得るための動作だろうか。皆実に穏やかに、そして有難そうに話をしている。スワミが私の方を向いて「寺院内を誰かに案内させましょう」と言い、一人の男性を連れて来た。そして「また会いましょう」と言う。僅か5分の邂逅であった。殆ど何もしていないのに、実に不思議な体験だった。

案内の男性は非常に上品な英語を使い、物静かに、そして的確に案内役をこなす。聞けば近くの大学の先生らしい。スワミは1994年に日本に来る前、このミッションの学校の校長だったという。その時の生徒。それが今立派な先生になっている。

それにしてもこの総本山の敷地は広い。そして脇にそこそこ大きな川が流れている。夕暮れ時の川を眺めてみると、川風が吹き抜ける。カラスがかなり大きな声で鳴き、木々が揺れ、非常に冷厳な雰囲気を醸し出す。信者はその様子を淡々と眺め、知り合いと神妙に話し合い、益々森厳な意味が見える。

「礼拝に行きましょう」と誘われ、分からぬままに大きな堂に進む。靴を脱ぎ、中へ入ると既に大勢の信者が床に座っていた。その数には圧倒される。壮大である。その信者の中に分け入り、座り込む。床がひんやりする。

時間通りにプージャが始まる。何と皆が歌を歌う。前の方には椅子に座ったスワミ達がいるが、誰も説教などは垂れない。何と何と30分間、歌と言うか、お経と言うか、兎に角ずっと皆腹から力を絞り、何かを高らかに歌う。私も何も分からずに腹に力を入れる。何となく気持ちが良い。確かに腹から声を出すのは体に力が漲る感じがする。

そしてとうとう何の説教もなく、終了。しかし信者の多くは座ったまま、皆話し合ったり、更に祈りのポーズを取ったりしている。私は先に失礼した。周囲は真っ暗になっており、出口すらよく分からない。案内の男性が付き添い、ようやく外へ。トイレに行きたくなり、一息ついてから、車に乗り込む。もし車をチャーターしていなかったら、どうなっていただろうか。

10月9日(日)  (14) 古いコルカタ

今日はついにコルカタを離れ、ダージリンに向かう日。朝起きてメールをチェックするとジェットエアーからフライトが3時間遅れるとの連絡が入っている。これは助かる。空港で待つのはちょっと辛い。

仕方なく、また散歩に出る。ホテルの周りは何回も歩いたが、いつも感じるのは身分の壁。凄い量のゴミを仕分けている女性、そこにものすごい数のカラスが近寄り、餌を漁る。その中で彼女は黙々と作業をする。トイレも道端。壁はあるが、囲いはない。広い道路の高架の下には、家のない人々が寝泊まりしている。その数も相当である。朝晩は結構寒いのか、毛布などもあるが、基本的には殆ど物を持っていない。うーん。

バスターミナルがあった。どのバスも満員。どこから来たのか、古いバスが唸りを上げている。広々としたターミナルに朝日がまぶしい。その道路脇にクラシックタクシーがペチャンコになっていた。交通事故うだろう。この国では、事故は恐ろしい。

トラムも走っていた。車両は年代物。博物館にあってもおかしくない物が現役で走っている。これは古い建物同様、ベンガルのプライドだろうか。しかしこのトラム、どこから乗るのだろうか。乗客はあまりいないが、適当な場所で乗り込んでいるように見える。是非乗ってみたかったが、どこへ行ってしまうか全く不明のため、断念する。

市場もあった。果物があり、横の箱を見ると「山東梨」とか、「おいしい梨」などと書かれている。この梨は中国から来たのか、それとも日本か。いや、箱の上にはハングルも書かれている。いずれにしても、アジアに中国などの果物が流れ込んでいる様子がよく分かる。

そしてホテルに戻ると迎えの車がやって来て、いよいよ出発だ。改めて街の中を通ると、本当に古い町並み。この風景は実に惜しい気がする。

(15) インド 空港の流儀

コルカタ空港に到着する。インドの空港は国内線といえども色々と面倒である。先ずは預ける荷物をX線に通す。ここが混んでいる。何とか2つの荷物を通し、シールを張ってもらう。そしてチェックイン。ここも混んでいる。どうしてインドにはこんなに人がいるのだろうか。これも急速に中産階級が育ち、旅が普通になりつつあるということか。特に今は旅行シーズン。致し方ない。

そして手荷物チェック。ここも長蛇の列だが、先頭までようやく行くと列が違うという。何の表示もなく、指示もない状態では納得できないが、「俺がルールブック」と言う厳めしい係員の顔を見ると並び直さざるを得ない。バックを持っているかどうかで分けるらしい。更にポケットにデジカメが入っていたため、もう一度やり直し。流石に抗議して特別に係員にデジカメを通してもらう。

ここまですればもう問題はないはずだったが。実は搭乗の際、また問題が起こる。手荷物にタッグが付いていないというのだ。確かに前回デリー空港でもあわや出国無効になりかけたのだが、今回は何度もチェックを受けており、問題はないような・・。しかし係官はここでもルールをかざし、何とチェックインカウンターまで戻るよう指示。

慌てて、手荷物チェックをすり抜け、元に戻る。タッグを見付けてまたチェックへ。事情を話し、列を回避し、チェックのX線を通し、スタンプを貰う。そうして急いで2階の出発ゲートへ。えらい疲れた。何でこんな目に遭わなければならないのか。思うに、インドでは分業が進み過ぎ、誰かがタッグが無いことを注意してくれることはない、ということ。これが民主主義?これはインドの弱点であり、日本にとっては要注意点であろう。

まあ兎に角何とか飛行機に乗り込み、無事に出発。




コルカタ散歩2011(3) 廃墟になっていたチャイナタウン

(8) 香港食堂

夜まで休憩した。今回の目的の一つにコルカタの華人の状況を見るというテーマがある。デリーでも、プネーでも中国系を見ることは殆どなかった。インドにはチャイナタウンが無いと言われている。唯一中国系が多いのがコルカタ、と聞いていた。

ホテルの近くをウロウロしたが、中国系は見当たらないし、街中でも中国語の看板を見ることも稀である。一体どこにいるのだろうか。ようやくホテルの近くに1軒の小さな中華料理屋を発見した。先ずは入ってみる。インド人従業員が英語で話し掛けるが、無視して奥に居た中国系とみられるオジサンに北京語を使ってみた。彼はすぐに北京語で反応した。

先祖は南京から来たという。ただ南京などと言う都市はインド人にはわからないので分かり易い「香港食堂」とい名前を付けている。見れば壁には中国の暦が架けられ、商売の神様も祭られている。オジサンはコルカタ生まれ。食堂は小さい頃からやっているという。

「コルカタの華人は10年前には1万人はいたが、今では1000人だよ」と笑う。後の9000人はどこへ行ったのかと聞くと「それはお前、インドで商売するのは大変なんだよ。祖国が貧しい時には我慢していたが、この10年あれだけ発展したんだ。皆中国を目指すよ。と言っても親戚もどうなったか分からないから、直接中国へ行かないで、英連邦の誼でカナダやオーストラリアなど、中国系移民の多い所で商売替えだ」と言う。なるほど、その通りだ。やはりインドは中国人にとってはとても厳しい場所だったのだ。

10人ちょっとで満員になる1階、それに2階もあるが、使われることはないようだ。お客は旅行者が多く、インド人は限られた人しか入ってこない。「値段が高いんだ。インドの食べ物は物凄く安いから」、それもそうだ。チャーハンが50rp、と言えば、低所得にインド人には厳しい。

主人と北京語で話していると3人連れが入ってきた。日本人の若者男女。その一人が私に「ニーハオ」と笑いかける。私が日本語で応じるとかなりびっくりした表情になる。彼らは近くの安宿に泊まっており、カレーばかりのインド料理で体調を崩した仲間の為にここにやって来たらしい。

彼らは学生でもなく、社会人でもない?ように見えた。コルカタでは「マザーテレサの家でボランティア活動をしている」という。彼らの泊まる安宿に居る日本人は大抵がそうだとも言う。確かにマザーテレサの家はこの近くらしい。具体的にどんなボランティアをしているのかと聞くと「用事があれば手伝っている」との答え。そんなに仕事があるのだろうか。後日インド人に聞くと「彼らは毎日テレサの家にたむろしてお茶飲んで話しているだけ」と言われてしまった。それでも彼らには意義があり、楽しいのだろう。ボランティアとは何か、日本の若者が何故海外でボランティアするのか、興味深いテーマのように思えた。

ところでこの食堂の味だが、正直塩辛い。スープも野菜炒めも同じ。これはインド的な味付けなのだろうか。それでも久しぶりにチャーハンなどを食べると何となく嬉しい。インドから中国が駆逐されてしまうとこれも食べられなくなるということだろうか。

お茶も頼んでみたが、烏龍茶が出される。インドに居る中華系は烏龍茶など飲まないだろうが、これもお客を見たのだろうか。オジサンもお客が来ると忙しいので、早々相手はしてもらえない。インド人が一人、フランス人の女性は一人入ってきて、何やら頼んでいたので、店を出た。

10月8日(土) (9) メトロ

朝6時には周囲がうるさくなり、今朝も早起きして散歩に出る。昨晩香港食堂のおじさんから聞いた「中国系が多い場所」の一つBowという所へ向かう。インド博物館の道を北へ真っ直ぐ行くだけなので迷うことはない。しかしコルカタの道には道路標示は殆どないため、どこを歩いているのか不安になる。

途中道路脇の地面に大工道具を前に座っている男性が沢山いた。恐らくここは人材市場なのであろう。雇い主が現れるまで、じっと座っているらしい。更に先へ行くと交差点付近で大勢の人がトラックに向かって手を振っている。どうやらこちらも今日の仕事を求める日雇い労働者の集まる場所らしい。植民地時代の建物を背景に、そして古いトラムが通る横で、繰り広げられる職の争奪戦、また自分の位置が分からなくなる。

それからかなり歩いたが、チャイナタウンも漢字の看板も現れない。コルカタは交差点ごとにインド警察がいるので道は聞きやすい。Bowの場所を聞くと、丁寧に教えてくれた。しかし教えられた場所とは異なる場所で、どう見ても中国人のおじさんが家の前に椅子を出して座っているのが見えた。

しかしそれ以降、歩き回るも中国を示すようなものは何も発見できずに終わる。そしてある道でメトロの駅の入り口を発見し、そのまま地下へ降りていく。地下鉄で帰ることにした。切符はどこで買うのだろうか。ここには自販機はなく、窓口へ。ところがどこまで買ってよいか、駅の名前すら分からない。ホテルの最寄駅を知らなかった。取り敢えず地図を見て、適当な場所を告げると、4rpと言われ、あの昔ながらの固い切符が渡される。懐かしい。

ホームへ降りると何とも暗い。そして人は殆どいない。今日は土曜日だからだろうか。いや、デリーならどんな時でも沢山の人がホームに溢れていた。ここコルカタでは、どうやら地下鉄は認知度が低い。路線が少なく利用価値が無いということだろうか。車両も非常に古い。乗っている人も少なかった。3駅ほど乗って降りる。後で気づけば4駅目がホテルの直ぐ近くだったが、これは仕方がない。それ程、駅は目立たない。

(10) セットさんのセット

ホテルに戻るとセットさんがやってきた。昨日はお爺さんの葬儀があったらしいが、プロとして頼まれた仕事はきちんとこなしていた。私が頼んだ仕事とは、①ダージリンの茶園までの車、②ダージリン・カリンポン・ガントクのホテル手配、③シッキム行きの入境証、である。

彼は手際よく、紙を出し、一つずつ説明を始める。私にはいいか悪いかもわからないので、ただ従う。ついでに明日の空港までの送りの車も用意されていた。それならばと「今日の午後、ベルルマートという所へ行くこと、またタングラと言う場所へも行って見たい」と告げ、車の手配を頼んでしまう。本当は自力で行くべきであるが、既に相当面倒くさくなっている。特にインドでは何をするにも大変だ。そして今はお祭りの直ぐ後、色々とスムーズにはいかないような気がした。この予感は大いに当たる。

セットさんに中国人について聞いてみた。「中国人は金だけしか考えていない。観光客の行儀は悪いし、旅行会社は契約を守らない」と散々な答え。「中国は金持ちかもしれないが、インドは中国なしでも十分やって行ける」と言い切る。今の日本にこの言動が欲しい。そうでなければ対等な交渉などは望むべくもない。

しかしインドにも大いに問題はある。「従業員のストライキ、これは民主主義とはいえ、経営に大きな影響がある」とも言う。実際彼の旅行会社では、以前20-30人いた社員を必要最低限の8人にまで減らし、ガイドその他の多くを契約社員としたらしい。これにより経営上の負担はかなり減ったという。

またコルカタの街について、「何故植民地時代の建造物をそのまま綺麗にせずに残しているのか」と聞くと、「建物を維持・修理する費用がコルカタには無い」と一言。何とも残念は話だが、プライドは非常に高いベンガル人は、それをこともなげに言う。

(11) カルダモン

買い物を一つ忘れていた。Hさんご依頼のカルダモン。料理音痴の私の為に、わざわざサンプルまで授けてくれた。買って帰らない訳にはいかない。カルダモンとは「香りの王様」とも呼ばれるカレーには欠かせないスパイス。きっとこれでHさんが料理すれば美味しいカレーが出来るのだろう。

セットさんに聞くと「その辺でいくらでも売っている」と言うが、そういうのが困る。市場まで行くのだろうか。ホテルを出たあたりのお店では、置いていなかった。直ぐ近くにスーパーが1つあったので、そこで聞く。店員は「イライチか」と聞き返す。その名前は何だろう。ベンガル語らしいので、例のサンプルを取り出すと「イライチ」と再びいう。そして売り場を指す。確かにあるある。

しかしカルダモンと言うものも、ピンからキリまであるらしい。値段が相当に違っている袋がいくつかある。いずれにしても日本円で換算すれば大したことが無いので、髙めの袋を2つ購入してみる。結果はどうだっただろうか。

そのままランチへ行く。スーパーの直ぐ近くにベンガル料理と書かれたレストランがあった。ベンガルに来たのだから一度はベンガル料理をと思うが、メニューを見ても、どれがそれか分からない。ちゃんとしたレストランなので慇懃な態度の店主が大仰に応対してくれる。「魚を食べろ」と言うので注文。出て来た魚は味付けが濃く煮込んであり、うーんそれほど、という味。ライスと魚で70rp以上取られると、髙いと言わざるを得ない。チャイを頼む気にもなれずに早々に退散。

(12) タングラ&植物園

午後は車をチャーターし、観光へ。ところが2時に来るはずの車が全く来ない。それでも慌てることもなく、15分過ぎて電話を掛けて呼び、30分遅れで何事もなかったようにやって来る。これがインド流であり、結構重要な経験。怒ってもいいことはない。

先ずは昨日香港食堂のオジサンから教わった唯一中華料理屋が連なっているタングラと言う場所へ行って見る。ホテルから15分ほど行くと、住宅密集地帯から離れ、高級住宅がある。そのあたりに一軒家がレストランになっている所がいくつかあった。言われなければ通り過ぎたと思うほど、控えめに看板が出ており、よく見ると漢字表記もある。

しかし人通りは殆どなく、お客がいるようにも見えない。勿論時刻は3時前なので仕方がないのか。中には廃墟になっている家もある。中国系の墓も見える。確かにここに中国系が多く住んでいた様子は分かる。そして昨日のオジサンの言葉、「みんな出国した」は事実だったようだ。特に見るべきものもなく去る。

次にコルカタの中心、フーグリー河に掛かる橋を渡り、植物園へ行く。これはセットさんの推薦。5時にベルルマートへ行くには時間が余る。比較的近くて、見るべきものがある場所として選ばれたようだ。4時に出れば余裕で間に合うと言うので、30分ほど、見学する。ここは東インド会社が薬草を集めていた場所だという。興味深い。

しかし入場したもののどこへ行ってよいか分からない。特に掲示板もない。まっすぐ進むと「グレートバヤンツリー」と書かれた林が見える。林だと思ったのは実は間違いで、何と2000本以上の枝に分かれた1本の木だという。信じられない大きさ。ちょっと感動。

この植物園は実に広大な敷地を持つ。とても30分で歩けるものではない。でもせっかくなので出来るだけ歩いて行く。池があり、家族連れがボートに乗っている。カップルが池のほとりで囁きあっている。若者が楽しそうにはしゃいでいる。こんなインドを見るのもよい。どんどん歩いて行くと、戻るのが辛くなった。






コルカタ散歩2011(2) コルカタ街歩き

10月7日(金) (4) 朝からインド

昨日は疲れていたのか、ぐっすり寝る。朝早くから、鳥のさえず、ではなく、カラスの大声で起こされる。コルカタはカラスが多い。取り敢えず散歩に出る。ホテル前の店では、数人の男性がチャイを飲んでいた。私も飲んで見たかったが、その輪に入るにはちょっと勇気が必要だ。遠目に彼らを観察する。チャイを飲む姿が皆実に様になっている。女性は一人もいない。カップは昔の素焼きではなく、プラスティック。カップから湯気が立っている。明らかに常連さんばかりで、お互い何やら話している。

隣の大きな建物から子犬が一匹飛び出してきた。危ないなと思ったが、さっと道路に出て行き、真中を闊歩した。さすがインドの犬は堂々としているなと思った。しかし次の日、同じ場所にこの子犬が横たわっていた。寝ていると思って通り過ぎたが、更にその次の日、この犬の周囲にハエがたかっており、死んでいることが分かる。大きな建物から同じ形の子犬が数匹出て来て、周りを囲む。兄弟だろう。人間は誰もこの死骸を片付けようとはしない。

少し行くとカラスが数十匹も密集している場所がある。よくよく見ると、そこはごみ集積場。そしてそのカラスに埋もれて一人の女性がごみの仕分けをしていた。彼女にとっては日常、私にとっては異常な光景であった。その横には石の塀があったが、男たちがそこへ行くとしゃがむ。どうやらトイレらしい。中国のニーハオトイレより凄い。更に横には水道の蛇口があり、男が裸になり、朝日を浴びながら、石鹸をこすり、水浴びしていた。朝からインドを感じた。

朝食はホテルで。ビュッフェスタイル。トーストは古めかしいパン焼き器に入れ、バターを塗る。ゆで卵を自分で割り、塩を掛ける。フルーツは避け、バナナだけに。食後にチャイを頼むとオジサンが実に丁寧にティパックをカップに入れて、作ってくれた。勿論街中の味ではないが、それも一つのチャイ。

(5) Himarayaを求めて

1時間ほど、ネットで仕事。しかしこれから私はどうしたらよいのだろうか。旅行社のセットさんに電話してみた。彼とは偶然1か月前に代々木公園で紹介され、コルカタまで来て連絡した。「実はお爺さんが亡くなりまして」。セットさんは申し訳なさそうに今日は葬儀に行くという。こちらこそそんな時に電話してしまい、恐縮。でも彼は旅行業。私の希望を聞き、明日の朝までにセットすると言って電話を切る。

では次にすることは。そうだ、事務所のとまこさん(http://tomako.tv/)に頼まれた石鹸を買いに行こう。Himarayaというそのブランドは、とまこさんによれば、品質が素晴らしく、海外からも買いに来る、インドの街ではどこにでもあるという。しかし用心深い私はネットでコルカタのショップを確認していた。4店舗あった。フロントの男性にどれがいちばん近いかと聞くと一番近くても車で15分は掛かると言う。「では歩いて行けるな」と言うと、彼は相当怪訝な顔で、「いつかは着くだろう」と答える、それで十分だ。

ホテル近くの大きな通りを南へ進む。今日は天気がよく、結構暑くなりそう。CitiBankやスタチャンの支店が店を構える。インドにかなり食い込んでいる。途中、セントポールカテドラル、という立派な教会がある。流石植民地、と言わざるを得ない。1847年建造。何と1897年と1934年に大地震があり、崩壊したとある。そうか、この辺には地震があるのか。新たな発見。

中に入ると荘厳な雰囲気が漂う。観光客もいくらかいるが、話声がすると座っているオジサンが鋭い視線を投げる。大きな教会だ。ステンドグラスも大きい。1800年代にカルカッタへやってきて、布教した宣教師たちはどんな気持ちだっただろうか、と考えてしまう。勿論インドにはイエズス会の宣教師が1500年代には来ていたので、それほどの覚悟は要らなかったかもしれないが。

そこから更に歩き出す。しかし目指すお店の場所はトンとわからない。コルカタの街には交差点ごとに警察官詰所?がある。場所を聞くと丁寧に教えてくれる。中には「日本から来て何でそんな所へ行くんだ」と聞いてくるオジサンもいる。英語が分かり難かったのか、私の理解力の問題か、3回ぐらい聞いただろうか、結構歩いた。やはりインドは歩くところではないかもしれないと思い始めた頃、ようやくHimarayaの看板が見えた。小さなお店で、教えられなければ見逃したかもしれない。

店自体は小さいがきれい。お姐さんが一人、客の相手をしていた。私の番になると早速コピーした内容を突き出し、「これをくれ」と言う。先方も心得たもので、どんどん探していく。石鹸、クリーム・・・。ただ無い物もいくつかある。「プージャの翌日で品物は入って来ていない。昨日まで休みだったから」と。そうか、それはラッキー。多少の欠品は我慢しよう。紙袋一杯買った。何とかとまこさんに面目が立ちそうだ。

因みにこのお店には韓国人女性が良く来るという。ここの商品を1度使ったら病み付きになる、とはお店の宣伝であった。

(6) 卵焼きそばと両替

歩いて戻る。途中で道端に人だかりがある。見ると何か焼いている。とてもいい匂いがした。焼きそばらしい。急に腹が減る。確かに昼は過ぎているし、これだけ歩いたのだから、当然か。注文したいと思ったが、狭い道路脇に人が多く、なかなか近づけない。しかも荷物が大きい。

ようやく屋台の前へ出て、「ヌードル」と叫ぶ。おじさんは卵を指す。思わず頷く。卵焼きそばになった。目玉焼きが上に乗る。隣の人を見ると8rp払っているから、10rp出すとダメと言う。16rpらしい。卵が入っただけで値段が倍に。昔中国でも卵は高かったな、と思いながら、列から離れ食べる。うーん、これは中国の焼きそばと大差ない。熱々で美味い。こんなウマい物がこんなに安い。インドは幸せな国である。

ホテルに向かって更に歩く。朝見た銀行スタチャンが見えた。そうだ、ルピーに両替しよう。銀行の建物はかなりのオールドファッション。なかなかムードがある。窓口で聞くとここでは外貨両替はやっていないという。お姐さんは親切に両替できる場所を教えてくれた。トーマスクックだという。

また歩いてトーマスクックを探す。これまた古めかしい建物。中へ入ると実に狭い空間に人が沢山働いていた。警備のおじさんに咎められる。「俺は客だ」と言って見たが、何と英語が通じない。それでもそのおじさんも親切に何かを言っている。どうやら両替はこの場所ではないと言っているようだ。オジサン、紙を取り出し、住所を書く。しかしそれが何処にあるのか、全く分からない。残念ながら両替は諦めて、ホテルへ戻る。

(7) インド博物館

疲れてはいたが、近くのインド博物館へ向かう。朝の散歩で場所は確認済みであり、スムーズに行ける。ガイドブックでもホテルの近くで載っているのはこの博物館のみ。今日は金曜日だが休みではないだろう。

入り口付近は大変な混雑であった。外国人の姿はまばらで、多くはインド人。チケット売り場に殺到している。私は過去のデリーなどでの経験で知っていた。外国人は別料金だから専用窓口で直ぐ買えることを。探すとやはりある。外国人100rp、インド人1rp。何と100倍である。どうしても納得できない。以前中国でもこんな理不尽な価格設定があったが、今や世界でも6-7位の経済大国インドでこのような二重価格が存在するのは許せない。ただ考えてみれば、これは外国人との二重価格ではなく、カーストなどで阻まれた下層者への配慮であるかもしれない。

1814年建造のこの博物館、イギリス植民地時代は何であったのだろうか。相当大きな規模である。裏にはきれいな庭もあるが、参観者は立ち入り禁止である。2階建ての建物は四方を囲み、中庭もある。ドーム型の柱がコロニアルである。

1階の廊下も広く、仏像、彫刻などがずらっと展示されている。ブッダガヤから出土した仏像には、味がある。欧米人も興味深く見つめている。インド人にはあまり関心が無いようだ。インド人にとって、仏教は既に過去の物であり、興味の対象でないことが分かる。

見学は各部屋の展示室に行って見る。ヨーガの原型を描いた絵画があった。ユニーク。原始時代からの模型はどこの博物館でもあるものだった。インド人に一番人気は何と2階にあったミイラの特別展。インド人の頭の中には「体は仮の物。死ねば体は終了するが、心は残り、転生する」と言われているが、そんな人々がミイラを見てどうするのだろうか。何を思うのだろうか。中は押すな押すなの満員で、とても見ることが出来ない。外へ出ようとしても、入口へ人が押し寄せるために、出られない。何とも不思議な光景だった。

帰りは少し回り道して散歩。スチワート・ホッグ市場と言う名のレンガの建物が見える。近づくと物売りか、案内志望か、何人もが声を掛けて来る。構わず中に入ると狭い売り場がひしめき、更に声が掛かる。どうもインドは面倒くさい。かなりしつこい。紅茶屋さんでも探したかったが、諦めて外へ出る。市場の脇ではドルガプージャの余韻か、太鼓が叩かれ、ドルガの前でお祭りが続いている。



コルカタ散歩2011(1)ドルガプージャの夜

《コルカタ散歩》 2011年10月6日-9日

10月6日(木)
1. エア・アジアでコルカタへ

どうにか飛行機には乗った。が、いまだに信じられない。私は本当にコルカタ行に乗ったのだろうか。慌ててジャカルタ行に乗ってしまったのではないか。バックを忘れたように何か大きな忘れ物、勘違いはないのだろうか。

そんなことにはお構いなく、飛行機は雨の中を離陸し、そして何ごともなかったように水平飛行に入った。今回は何故か窓側の席しかなく、不慣れな席で小さくなっていた。隣はマレーシアのパスポートを持つインド系カップル。早々に注文しておいた機内食が来て、食べ始めた。何だか美味しそう。カレーか。でも、不慣れな席から不慣れな注文は出来ない。じっと我慢する。

その内にそのカップルは不意に居なくなり、そのまま帰ってこなかった。どこかにもっといい席を見付けたのだろう。そうなれば、3席を独り占め。そしてCAにメニューにあったチキンライスを注文する。さっき空港で食べたばかりだが、何度でも食べたい。ところがこれは売り切れ、仕方なく別のチキンを頼むがこれが予想外に美味しい。今度は事前に予約しよう。そうすれば少し安くなる。

4時間ほどして、飛行機は高度を下げた。コルカタが近づく。窓から外を見たが、暗くてよく見えない。インドの大地はそう簡単には姿を現さない。さて、どうなるのだろうか。

2. コルカタ (1) クラシックタクシーで

今回ビザを取ろうと茗荷谷のインドビザセンターに出頭すると「あなたのビザはマルチですから必要ありませんよ」と言われる。え、7月のラダック行きに取ったビザは何とまだ有効であった。2か月間入国禁止が頭にあり、混同する。

それでも何となく、入国時には緊張する。何か間違いがあって入国できない、ということはないだろうか。心配性なのである。今回も直ぐに飛行機を降り、真っ先にイミグレに進む。イミグレの係官は「このビザを使うのだな」と念を押す。緊張が走る。そして呆気ないほど簡単にスタンプが押される。荷物も簡単に出て来る。

さて、心の準備が出来ていない。こんなに早く出て来るとは。これからどうやって、街へ行くのか。確か旅行社のセットさんのメールでは誰かが来るようなことが書いてあったが、どうやって会うのだろうか。

出口を探していると、一般ゲートよりだいぶ前にミニゲートがあり、そこに目をやると一人の男性が立っていた。彼は慌てて紙を上げる。そこには私の名前があった。迎えがあった。旅行社の人だから中まで入れたようだ。「タクシーチケットを買って」と言われ、横を見るとプリペイドタクシーの窓口があった。しかしどこへ行くのか分からない。ホテルの名前すら知らないのだ。

その男性はとうとう中に入ってきて、代わりに処理してくれた。本当はいけないことのようだが、外国人だし仕方ない、と警備員も諦め顔。そして2人で外へ出ると、特に秩序だって待っている訳ではないタクシーの方に近づき、何か言うと、極めてクラシックなタクシーに乗り込む。私一人ではとても対応できなかった感じ。何しろ暗い。

そうして、タクシーが走りだし、市内へ。市内に向かう道も何となくクラシックなイメージ。何故だろうか、その時音楽が聞こえ、何かが押し寄せてきた。

(2) ドルガプージャの夜

窓から外を見ると、何かが煌めく。人が大勢で、人形のようなものを山車に載せて、行進している。太鼓が叩かれ、所謂お祭り騒ぎだ。これは何だろうか。隣の男性は「今日はドルガプージャの最終日で盛り上がっています」という。人形はドルガであるわけだ。ドルガプージャは、ベンガルの1年に1度のお祭り、その最終日の夜ともなれば、相当の盛り上がり。

道には大勢の見物人が出ていて、凄い状態。交通は遮断されるし、タクシーの奪い合い、バスやリキシャーには人が詰め込まれている。これは本当のお祭り騒ぎだ。そして我がタクシーも何とか喧騒を抜ける。ホテルはどこだろう、いやここはどこだろうか。それから長い時間タクシーに乗っていた。さっき見たのは市内ではなく、郊外だったのだ。

市内中心に入ると、やはりライトアップされている。それは何とも言えない、不思議な空間。まるで映画のセットに紛れ込んだような錯覚を覚える。この街は何と古めかしい、とても素晴らしい、植民地時代の建物を残した街であった。かなり細い道を何度か通り、ようやくホテルに着いた時には結構疲れていた。

それでもホテルをすぐに出て、お祭りを探す。この辺は繁華街なのか、人通りは多いが、お祭りは見られない。兎に角暑くて、のどが渇く。冷たい飲み物を買おうとしたが、なかなか見つからない。冷蔵庫を使う所は多くない。大通りに出て、何とか冷蔵庫を発見、自らスプライトを取り出す。お爺さんに渡すがいくらか分からず、100rpを差し出す。おつりが来た。30rpだったようだ。

スプライトを飲み始めると急に腹が減る。明るくはないコルカタの街に徐々に慣れている。チキンエッグロールと英語で書かれた店の前で止まる。これなら食べられそうだ。息子が卵を溶き、大きな鉄板に敷き、そして後は親父がひっくり返す。ようはクレープだ。出来上がるとそこにチキンを混ぜて丸める。一口食べると周りの卵の温かさと中のチキンがマッチしている。まあ、親子丼と同じ発想か。35rp。

マクドナルドでは多くの若者がハンバーガーを頬張り、ポテトをつまむ。外では老婆がそのような金持ちに小銭をせびる。最後に路地に入ると、テントが張られ、中にドルガが祭られていた。写真を撮らせてもらったが、何だか人形劇の舞台のよう。インドは多様だ。

(3) お湯が出なくても

ホテルは小さな門を潜って中に入った。門番がちゃんといる。建物は結構きれいで安堵。最近出来たと思われる。部屋もそこそこ広くOK。天井に大きな扇風機があり、早速回す。懸案のネットは「部屋で使うなら、一日500rp。だけど、ロビーならタダ。」というので、この狭いロビーでやってみる。机が一つだけあり、そこを使うと電源も確保できて、すぐに繋がった。これはいい。

このホテル、外国人の団体が多い。フランス、イタリアあたりか。やはりそれなりにきれいだからだろう。また博物館に近いという利点もあるかもしれない。ネットしながら見ていると、様々な人種の人が出入りしていた。

部屋に戻り、シャワーを浴びようとしたが、何故かお湯が出ない。結構暑かったので、そのまま水浴び。ちょうど良かったが、湯が出ないのはちょっと。TVは壁に掛かっているサムソンの大型。これで衛星放送を見る。インドに来たのだからとこの日から、毎日クリケットを見て勉強した。ムンバイインディアンズが強くて人気のあるチームだと分かる。

因みにその後もシャワーのお湯は出なかった。フロントに文句を言うとその度に「必ず出ます」と言うのだが。3日目には泥水まで出て来た。何か修理はしたのだが裏目に出たようだ。まあラダックでのホームステイ体験などで、お湯が出来ることが必須ではなくなっていたので、我慢する。サラリーマン時代の私なら、切れて大変だったことだろう。自分を冷静に見つめられるようになったことは進歩か。




『インドで呼吸し、考える2011』(20)デリー 全ては安全上の理由から

世界遺産へ行き損ねる
地下鉄に乗って市内に戻る途中寄り道する。高架から立派な遺跡のようなものが目に入る。チャタプールと言う駅で下車。駅のすぐ近くに何やら像が立っていたので行って見ると、何とテーマパークのような場所。ここで降りたインド人達は次々と乗合タクシーやリキシャ-に乗っていくが、私は行先が不明?のため、徒歩で目指すことにした。

途中かなり大きなイスラム寺院があり、多くの人が入って行ったが、靴を脱ぐのが億劫で入るのを断念。ここを過ぎると歩く人もまばらとなり、目的地の方角も定かでなくなる。駅から見えた遺跡がそんなに遠いわけがない、とは思ったが、歩いても、歩いても見えてこない。

タクシーもリキシャ-すらも通らなくなり、諦める。しかしどうやって戻るか、目的地に着けなかった落胆も含め、曇りの天気にも拘らず、相当の疲労感がある。今来た道を戻るのは本当にしんどい。前をよく見ると高架が見える。ここは地下鉄の次の駅へ向かう道のようだ。それから20分ほど歩いて、ようやくクタミラーと言う駅に着き、地下鉄で戻る。

この寄り道は一体なんだったのだろうか。あまりにも計画性がない旅を戒められたのだろうか。兎に角近くまで行きながらチャルタプールと言う世界遺産を見逃したことには違いはない。

全ては安全上の理由で
YMCAに戻り、シャワーをたっぷり浴び、通いなれた1階のビジネスセンターへ行く。今回は1日2回ここでメールチェックなどを行っており、すっかり顔なじみに。何だかデリーも名残惜しい。

最近出来たと言うエアポートエクスプレスに乗れば、ニューデリー駅から空港まで僅か18分、しかも駅でチェックインもできると言うので、早めにYMCAを出る。これまた顔なじみになりながら一度も使わなかったリキシャ-のターバンおじさんが待っていた。「最後ぐらい乗れよ。駅まで30rpで行くよ」と言われたが、今回は地下鉄で通そうと思い、断る。

大きな荷物を持って、地下鉄へ。何だかこの格好でいるとちょっとインドに入り込んだ気がする。地元の人と一緒に危ない道を急いで渡り、地下鉄の荷物検査に耐える。インドに居ると時々顔を出す「俺はいったいなぜここに居るんだ、何しているんだ」という思いが出て来る。

ようやくエクスプレスのチェックインカウンターへ。ところが・・・。国際線のカウンターが何処にもない。聞けば「ここでチェックインできるのは国内線のみ」と言う。ここまで重い荷物を運んできた疲れからか急に怒りがこみ上げる。「広告のどこにも書いていないと」と責めると、「その通り、我々も不思議に思っている、全ては安全上の理由だ」と。

エクスプレスの職員はそれでも私の荷物を見て気の毒に思い、「先ずは空港に行ってくれ」と自ら荷物を持って切符売り場で切符を買ってくれた。空港まで何と65rp。空港から来たプリペイドタクシーが320rpだったから、格安ではある。

実は計画ではチェックイン後に夕食を市内で食べ、悠々と空港へ向かはずだった。しかしこうなれば仕方がない。空港へ向かう。ホームに降りるとすぐに列車が来た。見た感じは香港のエアポートエクスプレスと同じ。記念に写真を撮ろうとすると・・。

係員が飛んできて「写真不可」を言い渡す。思わず「何で!」と大声になる。「安全上の理由で」との答えに納得できない。どこにも禁止の表示はない。すると一旦列車に乗ったインド人の品のいい紳士が降りて来て「どうした」と聞く。彼に理由を話せば、この理不尽な対応に何か言ってくれると期待したが、彼の口から出た言葉は「すべては安全上の理由です。我慢してください」というもの。確かに先月もムンバイでテロがあったばかり。しかし・・・すべて安全上の理由で片づけられては。

デリー空港で一波乱
エクスプレスは確かに18分で着いてしまった。しかし私にはまだ出発まで4時間半もの時間が残されている。先ずはチェックインが出来るかどうか。恐る恐るカウンターへ向かうとチェックインはいとも簡単にできた。そこでつい、「何故市内でチェックイン出来ないのか」と聞いてしまった。

職員は誇らしげに「それはインターナショナル・ルールだから」と答える。これまで大抵のことには我慢できていたが、この近代的な空港でインドのことしか知らないにいちゃんにインターナショナル・ルールを持ち出されるとちょっと怒る。香港だって、他のアジアの都市だって、市内でチェックインできるぞ、と言い返すと、彼も本気で応戦してきた。

とその時、後ろに一人だけいたインド人のおばさんが「そうよ、香港ではチェックインできたわ」と助太刀してくれる。職員もおばさんの勢いに押されて私にボーディングパスを渡す。しかし更におばさんが「あんた、香港人?香港はひどいわね、英語が全く通じない、何アレ」と怒りの矛先を私に向けて来た。確かにおばさんのインド英語は相当凄まじく、ほとんど聞き取れない、香港人も参ったことだろう。早々に退散する。

イミグレは結構並んでいたので、早めに通過しようと列に並ぶ。後ろに中国人の団体が20人ほど並び、口々に「インドって、なんでこんなに遅いんだ」と北京語でまくしたてる。私にしてみれば10-20年前、あんたの国もこれと同じくらい遅かったんだと言いたくなる。

30分ほどしてようやくイミグレを通過、ホッとして荷物検査を通過しようとすると、お姐さんが「タッグが無い」とつぶやく。そして私に目配せして、「キングフィッシャーのオフィスへ行け」と小声で言う。私は意味が分からず、何言っているんだ、と聞き返すと、万事休す、といった表情になる。彼女の上司がやって来ていきなり、「タッグが無いなら航空会社カウンターへ戻れ」と叫ぶ。一瞬何が起こったか理解できない。説明を求めてもおじさんは私のボーディングパスに押された2つのハンコにバツ印を付け、イミグレを指さす。しかしここから戻る方法すら分からない。どうするんだ、途方に暮れる。

仕方なく、イミグレへ向かうと銃を持ったおじさんが「なんだ」と怖い顔でにらむ。検査台を指して、訴えるとそのおじさんが、検査台で状況を確認して、ちょっと来い、と手で合図する。とうとう一からやり直しか、はたまた賄賂でも要求されるかと思っていると、おじさんは自分の席から何かをポーンと投げてよこした。見るとタッグである。それを持って検査台へ行くと、何事もなかったかのように通過できた。一体今のナンだったのだろうか。しかもよく見るとそのタッグは私の搭乗するキングフィッシャーではなく、エアアジアのものであった。これがインドの柔軟性か。

中に入ると、そこはインドではなかった。高級車の展示あり、マックやビザ屋あり、広々とした空間で人々が飛行機を待っていた。「インドは一度トラブルと大変なんです」と言われていたが、厳しくもあり、また楽しくもある場所である。それにしてもあのタッグはカウンター職員がドサクサに紛れて、わざと渡さなかったのだろう。それでも何とかなってしまう所がやはりインド、ということか。今回もまた大いに勉強になり、人生を考える上で大きな意味があった、と思う。




『インドで呼吸し、考える2011』(19)デリー いくつもの顔があるデリー

インドの価格差とは
メインバザールをずっと歩いて行くと地下鉄アシュラムマグ駅に到着する。地下鉄と言っても高架であるが。午後は博物館に行きたいと思っていたので、セントラルセクリアット駅へ向かう。駅から地上に上がったが、広大な場所であり、どこへ行ってよいか分からない。とても立派な建物が見えたのでそちらへ。そこは国会議事堂と官庁街であった。建物の一つは財務省、つかつか入っていくと警備員は建物の前まではノーチェック。入り口で初めてチェックが掛かったが、実に丁重な英語で入館を断られる。とても不思議な感じだ。

反対側の遥か遠くにインド門が見える。あそこまでオートリキシャーで行きたいが、流しが走っていない。皆チャーターしている。またクラシックカーかと思う立派な車で来ている者もいる。仕方なく、とぼとぼ歩く。途中まで来ると突然流しのリキシャ-が大量にいる。そうか、流しは入れないのか。しかし彼らは私の(疲れている)足元を見て50rpだ、100rpだと法外な料金を要求する。行先は見えているのだから、彼らの足元を逆に見て、メーターの最低料金である20rpを下回る10rpを提示。誰も受けないと見るとさっさと歩きだす。すると、1台が追いかけて来て、10rpでいいから乗れ、と合図する。とうとうインド人に打ち勝った気分。しかしそれは僅か1㎞の距離であり、当然の値段。

インド門を一周して、博物館が何処にあるかよく分からないまま再び歩き出す。またさっきのリキシャ-が来て、10rpで乗れと言う。何となく癪で歩き出す。のどが渇いた。道端のスタンドでスプライトを1つ買おうとすると何と150rpだという。あまりに高いので驚いて見せると120rpになったが、買わずに離れる。そしてすぐ隣のスタンドで同じ物を買うと何と30rp。それでも普通の店より高いが、この価格差には唖然とする。何でもアリだな、この国は。

博物館をようやく見付けて、見学する。なかなか雰囲気のある仏像が多数あり、見とれる。そして出口の門から外へ出ると、クラシックカータクシーが目の前に登場。これまでなら無視してやり過ごすが、面白そうだし、疲れているので乗ってみることに。料金はメーター通り50rp。それほど高くない。

運転手は私が香港から来た、と告げると最近中国人観光客が多いと言い、自分の知る限りの中国語を話しだす。ちょっとビックリ。そして仕切りに以後の私の予定を知りたがる。車をチャーターしてもらいたいのがありあり。その手に乗らずかわしていると、最後は50rpを受け取り素直に分かれた。リキシャ-から1㎞100rpと言われたり、タクシーが数キロ走って50rpだったり、何とも分かり難い国である。

7月23日(土)
17.デリー3日目
隠れ家的日本人経営の宿
デリー3日目、今日は観光ではなく、街歩き。先ずはデリーで日本人が経営している宿を訪ねる。今回出発前に何人かに聞いたり、ネットで見たりしたのだが、デリーの日本人経営宿は見付からなかった。ところが昨日日本語のフリーペーパーを発見し、見ていると、広告が出ていたので行って見ることに。

リキシャーで来るように言われたが、例のごとく地下鉄で。昨日も行ったセントラルセクリアットでバイオレットラインに乗り換え、カイラスコロニーで下車。5分ぐらい歩いて行くと高級住宅街に入る。ところが住居表示が非常に分かり難く目的地になかなか着けない。最後はまたまた携帯で電話してようやく到着。

ここサプナ(http://sapna.exblog.jp/10136506/)は「デリーの小さな宿、日本人のためのゲストハウス」と言う謳い文句とはちょっと様子が違う。高級住宅の貸部屋。中に入ると日本人の中年男性が3人、PCを触りながら朝ごはんを食べていた。その光景はゲストハウスではなく、高級下宿。

朝食付きで1泊7,500円からというのは頷ける。朝食は和洋印から選べ、広々としたリビングで取る。インドの住宅は各部屋にバストイレが併設されており、宿泊者はトイレで悩むこともない。非常に清潔感があり、またゆったり感がある。

店主の日本人女性Mさんにお話を伺うと「初めは自分が食べていければよいと開始、近所に有名な女性向けファッション・雑貨市場があるので、女性の一人旅などで泊まって欲しかったが、実際には企業駐在出来た人々の始業時の宿となっている」とのこと。現在N-34に3部屋、N-22に6部屋を有する。Mさんはデリー滞在15年、働かないで暮らすつもりだったが、その後自分にできることとして7年前にこのゲストハウスを開業。インド人パートナーもなく、数人のインド人従業員を使って運営している。

お話の端々に「デリーには建築上の高さ制限あるが、最近は1階に駐車スペースを作れば4階まで可」「グルカオンは別の州で制限がなく、日系企業もかなり引っ越した」「インド人は土地を分割しない。銀行の抵当品でも内部で購入してしまう」など、インド事情が溢れだす。Mさんはお母さんのような存在であろうか。

デリーに行ったら、インド人の高級家庭を体験する意味でも、決まりきったコースを外れてこのような宿に泊まってみるのも面白い。周辺にはブティックやレストランなどもあり、観光では見られないデリーの一面に触れる機会にもなる。

インドの中産階級を見るグルガオン
午後は地下鉄でグルガオンへ。先日会ったM先生からも「インドの発展を見るのであればグルガオンへ行け」と言われたので、訪ねた。デリー中心からほぼ1時間、地下鉄が高架に変わっている駅に前には、大きなショッピングモールがいくつも見える。グルガオンのどこへ行くかではなく、その辺に行けば分かる、と言われた意味が分かる。

MGロードと言う駅で降りてみる。駅前にはCitibankや携帯のサムソンの大きな看板がかかるショッピングモールが見える。本日は休日と言うこともあり、大勢の人が中へ吸い込まれていく。

中へ入ると作りは日本のデパートとほぼ同じ。1階の化粧品コーナー、2階の婦人服と続いていたが、その人の多さは私が子供の頃体験したデパートを想起させる。そして来ているだけではなく、大量に買い込んでいる。ちょうどバーゲンだったのだろうか。

値段は物にもよるが、中国並み。インドの中産階級と言われる人々のバーゲニングパワーを見る思いだ。正直あまりに人が多く、そして勢いがあるので、こちらは何となく気圧されて外へ出る。押し出される感覚だ。外には駐車場を求めて車が殺到する。

どのショッピングモールにも、マックやピザ屋が付いており、ここも家族連れなどで超満員。また映画館併設のシネコンもあり、ボリウッド映画も上映されている。ここはある意味ではインドではない。資本主義に刺激された人々が増えるにつれて、インドも内面から変化していくのであろうか。




『インドで呼吸し、考える2011』(18)デリー 生きてると感じられる場所

リキシャーの後姿
チャンドニーチョックで降り、上に上がるとデリー駅がある。ここはコロニアル風の駅。雰囲気は良い。しかし人は多い。トイレはデラックストイレ、などという有料トイレが見られる。駅前の雑踏にはリキシャーがたむろし、チャパティなど朝ごはんを売る屋台が沢山出ている。しかしいくら探しても、ラール・キラーへ行く道を示す表示はない。

この辺が中国同様親切ではない。むしろわざと分からなくしており、リキシャーなどに乗せる作戦・・とも思えない。分からない場所に行くのに値段交渉も怖い。リキシャーと言っても昨日のオートと違い、自転車を足で漕ぐ、サイクルリキシャ-が多く見られる。ということは目標物は近いと判断できる?

一台のリキシャ-が近づいてきた。値段を聞くと20rpという。首を振るとすぐに次がやって来た。乗る気のない振りをしながら近づき、15rpで妥結した。動き出すとなかなか快適。しかし坂道では登りきらず、自ら押して動かしている。これは結構な労力。これで15rpはきつい労働だ。

運転するにいさんの後姿を見ながら、彼の人生を考える。今の日本ならとてもやってられないようなこの仕事、彼はどう考えているのだろうか。ここで数年頑張れば、オートリキシャーが買え、それからは楽な生活が出来る、などとはとても思えない。恐らくは一生涯、サイクルリキシャ-ではないだろうか。何だか老舎の「駱駝祥子」の祥子を思い出す。「現世は前世のカルマによりこんな人生だが、来世は違うぜ」などと思っているのだろうか。

10分ほどで、ラール・キラーに到着。にいさんは決められた15rpを受け取ると文句も言わずにさっさと立ち去る。代わりにおじさんが地図を売りに来た。普通なら見向きもしないのだが、地図が欲しかったので、買うことに。ところがそのおじさんの持っている地図は何とホテルなどで無料で配られる物。それに40-50rpの値段を付けている。信じられない。交渉により20rpまで下がったが買う気もなく、立ち去る。すると後ろからおじさんが10rpでいい、手間賃だ、という。確かに無料の物でもここまで持ってくるのだから、それぐらいはと支払う。

それを見ていたゲートの警備員が「お前、気を付けろよ。財布取られるぞ」と忠告してくれた。確かにそうかもしれない。ラダックでの生活から完全に抜け切れていない。誰が良い人で誰が悪い人が全く区別できない。中国ではなかった混沌を肌で感じる。

生きていると感じられる場所



広大なラール・キラーをだらだらと見学し、外へ出た。さてこれからどうしようかと思っていると沢山のリキシャ-が近寄ってくる。面倒なので適当に歩き出す。少し歩くとジャマ-・マスジットという大きなイスラム寺院が目に入る。中に入り階段から上を見上げて写真を撮っていると、おじさんが「今日は金曜日の礼拝。午前中は入ってはいけない」と注意しに来た。

しかしこのおじさん、それから「どこから来たのか」「何日滞在するのか」「午後まで案内してやる」などとまるでガイドのように声を掛けて来る。いや、ガイドのようにではなく、ガイドなのだ。観光客目当てのこんなガイドに引っ掛かっても仕方がないと思い、振り切って外へ。

この寺院の裏手は人ごみがすごかった。そろそろ疲れて来たので、リキシャ-に乗ろうとしたが、全く動きそうもない。取り敢えず適当に歩き出す。デリーでもオールドデリーと言われるこの付近は、私の思い描いていたインドの雑踏。細い道の両脇には昔ながらの2階建て商店が並び、鋼材や木材、胡椒などを扱っている。問屋街であろうか。道にはリキシャ-や自動車から大八車までがひしめき合い、まさに全く動かない状況。インドの喧騒。

私はどこへ向かって歩いて行くのか、何をしているのか、なぜこんな所に居るのか、しばしば立ち止まって考える。しかし考えても、何も出てこない。ただ一つわかることは「生きている感じがする」ということ。東京を思い返すと「あの震災ですらが、何だか他人ごとであり、テレビドラマのように現実味がない」のである。日本の暮らしは便利であり、不自由はないが、しかし生きている実感は掴めない。震災のような大災害時にはっと目を覚ますものの、またすぐに夢の中へ埋没する。

このデリーの古い町は全てオールドファッション。しかし人々の生み出す活力、むせ返る熱、漲る汗、作り出される喧噪が、古い映画の一場面のようでいて、しかし生きている。歩き疲れ、幻想を見ているかのようでいて、しかし生きている。不思議な空間だった。歩いていたのは15分か、20分。もう耐えられないと思った瞬間、目の前に地下鉄チャウリバザールの駅が出現した。科学技術の進歩は人を救うのか、それとも退化させるのか。

日本の原発がこんな所に影響?
チャウリバザールから地下鉄で一駅、ニューデリー駅で下車。バックパッカーが良く泊まると言う安宿が多いメインバザールを目指す。ところが・・、そこはニューデリー駅のちょうど反対側にあり、駅を突き抜けようとするとセキュリティが厳しく、相当遠回りすることになる。しかし駅構内を通過するため、何故か切符もないのにホームに降りられ、インド鉄道の車両を写真に納める。何だか仕組みはよく分からない。

ようやく反対側に辿りつくと、そこには両側に商店、両替屋、安宿が連なる道があった。欧米人の姿が多く見られ、安物を買い込んでいる。ここがメインバザール。昼時になったので、レストランを探す。すると一軒のお茶屋が見えた。

ホワイトティー、シナモンティー、バニラティー、など多彩な紅茶が並んでいる。とても興味があったが、空腹でお茶を飲むのは堪えると思い、話だけ聞く。しかしこのお茶が何処で採れ、どのように運ばれてきたかは分からない。

お茶屋のおじさんに美味しいレストランを聞くと「そこに日本人がやっているのがある。日本食も食えるぞ」と言ったので、行って見る。クラブインディア、は目の前の建物の3階にあった。お客は韓国人の若者。音楽も若者向け。ここはバックパッカーのたまり場なのだろう。後で見ると地球の歩き方にも一番先に載っている。

メニューを見ると確かにさるそば、唐揚げ、オムライスなど日本食が並ぶ。インド料理、ウエスタンもある。折角なのでチキンカツ丼を注文したが、答えは「ない」。注文を取りに来たおじさんによれば、そばもうどんも、そして白米もすべて日本から輸入していたが、震災原発後はその輸入を止められ、日本食は作れなくなっていた。

おじさんは最初英語で話していたが、私が日本人と分かると(普通は日本人と分からないらしい)、流暢な日本語で説明してくれる。店の壁には日本語で「病気などのお手伝いします」といった張り紙もある。インドで苦労しているバックパッカーの見方であろう。おじさんから「震災、原発大丈夫か」と聞かれた。ラダックでは震災を考えることもあったが、デリーでは日本のことなど忘れていた。突然現実に引き戻された気分。結局カレーとナンを食べた。



『インドで呼吸し、考える2011』(17)デリー 日本企業の問題点とは

デリーのケンタッキーで
Nさんのお店を辞して、ホテルへ戻る。今度はリキシャーに乗り、黙ってメーターで行く。80rp。私は少しデリーに身構えていた。デリーはある意味では普通の都市になっていた。ホテル近くで降りる。コンノートプレースを歩く。

横断歩道を渡っていると「危ないぞ」と声を掛けてきた若者がいた。少し話していると、友人と称して、日本人から金を貰おうと言う輩だと気が付いた。かなりしつこかった。ようやく我を振り払うとまた別の人間がやって来る。皆が私に声を掛けて来る錯覚に陥る。必ず国籍を聞いてくるので思い付きで「香港から来た」というと、彼らの態度が全く違うものになったのには、驚いた。日本人は本当に御しやすいカモなのだ。

お腹が空いたのでどこかに入ろうとして、ケンタッキーの前で足が止まった。ラダックでは考えられないこのジャンクフードの店で。この店、なかなかハイカラなのである。マックカフェを模したケンタッキーカフェがあり、若者が楽しそうにおしゃべりしている。

しかし注文しようにもシステム的にずさんでなかなかオーダーを聞いてもらえない。順番を無視する客についに声を荒げてしまう。ラダックの魔法はここで解けてしまったようだ。ようやく席について周囲を見ると、デートに使っているカップルが多い。隣は韓国人と日本人、そして西洋人が怠惰な姿勢でだらだら話している。これはインドか??

ホテルの周囲を歩いてみたが、近代的なビルが立ち並び、地下鉄もあり、車も多い。人がインド人であることを除けば、ここはインドか、首を傾げるほど、私の想像していた街とは異なっている。

インド人が指摘する日本企業の問題点
夜はデリーの大学教授M先生のお話を伺った。M先生は日本語の教師と言うことで紹介を受けていたが、お会いしてみると、日本語は実に堪能であり、かつ専攻は近代日本史、特に明治末の思想。また最近に日本企業のグローバル化を研究しているとのこと。

昨日日本から戻ったばかりだとは聞いていたが、某大学に客員教授として呼ばれ、何と2か月半も日本に滞在していた。何という偶然か、まさにドンピシャなタイミングでお会いできたわけだ。しかもわざわざホテルまで迎えに来てくれ、そしてご自宅に招いてくれた。

以下M先生の言葉。
「日本企業のトップは分かっているが、下が着いて行かない」
「雇用を維持して日本の技術の良さを出すためには、日本国内で薄利多売生産しかない」「日本人は日本が必ず再生すると信じている。しかし誰がやるかは明確ではない」
「あと10年すれば日本の技術の優位性はなくなる。その時中国・韓国には勝てない」
「タタの会長は来年引退。海外利益が65%の企業グループ、当然次期会長は海外から招へい。現在今後20年できる人を募集中。日系企業は・・」
「日本企業の研究拠点は本社中心。グローバル企業は世界の数拠点で並行して開発を行っており、ニーズの取り込みのスピードが違う」
「韓国企業は技術的に優れているとは思わないが、冷蔵庫、洗濯機のインド市場を独占した。日本企業に出来な訳はない」

至極もっともなお話ばかり。先生は日本滞在中に何度も企業経営者などを前に講演したと言うが、反応ははかばかしい物ではなかったらしい。「分かってはいるけれど、出来ない」ということが、日本には多過ぎると感じられた。

厳しい話ばかり書いてきたが、先生は実に温和な方で、話し方は上品。夕食も私の為に、奥様が家庭料理を作ってくれた。それにしてもインド人から「明治末の思想」「水平社」「幸徳秋水」などの言葉が出る度、正直唖然となる。今や日本人でこのあたりを語れる人はどれほどいるのだろうか。文化人と称している人でも難しいのではないだろうか。

そばでは先生の愛犬が常に吠えていた。2か月半も留守にして、更に今日もおれを構わないのか、といった不満が爆発していた。そういう意味では奥様や息子さんも同じだったはずで、その中を招いて頂いたことには実に感謝したい。

7月22日(金)
16.デリー2日目
地下鉄 
朝ホテルで朝食を取り、その足で地下鉄へ。デリーは2002年の開設以来、地下鉄の整備が進み、現在6路線が運行。街のかなりの部分がカバーされてきている。ただ外国人にはちと分かり難い。例えば私が泊まっているコンノートプレースは地下鉄名ではラジブチョックという名前であり、知らなければピンとこない。

今回初めてのデリーながら、「進化するデリーと進化しないデリー」をテーマに動いてみた。一番良いのは地下鉄に乗り、観光地や繁華街などいくつかの場所に行って見ることだと思い、実行する。

ラジブチョック駅はYMCAから徒歩5分ぐらい。地下に潜ると荷物検査があり、大勢の人々が足止めされる。そしてチケット売り場はかなりの混雑。私も観光地カールキラーに行くための路線を窓口で聞いたが、英語がよく分からず、窓口で時間をかなり使った。耳寄りの情報があった。それは3日間乗り放題のトラベルパスが300rp(50rpはデポジット)販売されており、いちいち行列しなくてよいこと。但し1回の料金は15-25rp程度。とても使い切れるものではない。結局余ることを覚悟の上で、購入。

因みに駅には飲み物などを売るキヨスク、書店、そしてCitibankのATMもあった。この辺は現代的で違和感はない。

ここの地下鉄は色で分けられている。私はイエローラインに乗り、チャンドニーチョックへ向かう。ここはデリー駅(ニューデリー駅とは別)であるが、駅名はチャンドニーチョック。何でだ?地下鉄の車両はきれいだが、混雑しており、中国同様?降りる人に譲る姿勢はない。インド人の風貌からして、どいてくれないと結構痺れ、怖い感じがする。これはやはり「他人に隙を見せない」ためであろうか。

この地下鉄、日本のODAで作られたと聞いていたが、車両は韓国製とか。車内には携帯やPC用の電源も備わっており、良い。が、いつも混んでいる車内で充電している人を見かけることはなかった。

 

『インドで呼吸し、考える2011』(16)デリー インドは生きているだけで価値がある

空港のセキュリティ
空港までは僅かな時間、沈黙が流れる。突然インドの空港ではチケットがいることを思い出す。Eチケットに慣れた我々は直ぐに忘れてしまうが、チケットなしでは空港入り口すらクリアーできない。慌てて鍵を開けようとしたが、間に合わず入り口到着。しかし何故か車はフリーパスで侵入。ここではお坊さんは信用がある、ということ。

そしてターミナル入口。P師が付いてきてくれたが、ここまで。有難う、すら言えない内に中に引きこまれる。何だか全てが終わったような気分になる。気を取り直して、チェックインへ。多くの人が並んでいる。カウンターは2つしかない。ここでP師の言葉が頭をよぎる。「急ぐ必要なんかない。ゆっくりやりなさい」

いつもなら、どちらのカウンターが早いとか、イライラして待つのだが、今日は完全に無の境地?もう一つのカウンターが相当早く手続き出来ているのを見てもゆっくり待っていた。そうしたら何とチェックイン最後の1名になってしまった。だが、カウンターの女性が「ビジネスクラスにアップグレードします」というではないか。何だかいきなりのご利益に仰天。

今回は比較のため、ジェットエアーを選んでいた。好感度は急上昇。というか、いつものようにちょろちょろせずにいたことが、この結果か。そして手荷物チェックを経て、待合室へ。出発時間より早く何回かアナウンスがあったが、気にせずにいる。しかしどうも変だと思い、係員の居る外へ出てみた。するとそこには何とさっきチェックインした私の荷物が2つ、取り残されていた。何かまずい物でも入っているのだろうか?

係員がチケットを確認、そして荷物に印をつけて終了。ようするにチェックインした荷物が本当に搭乗する人の物か再チェックしていたのだ。そこまでするか、と思うと同時に、やはりここは国境紛争地帯の一つなのだと再認識。これまでの穏やかな生活の陰で、全く危険が無いとはいない状況もあると言うこと。

更に搭乗時には再度手荷物検査、バスで移動する際にもボーディングパスの検査。そして搭乗時にも再検査と、都合5回のチェックがあった。いや、空港入り口で検査が2回あったから、合計7回ものチェックを潜る。国内線でここまでやる地域は珍しい。

座席は一番前の窓際。離陸時からラダックの余韻に浸る。上空でもあそこが、スピトクなどと地名を思い出し、何故か感激。ジェットエアーは格安航空会社ではあるが、キングフィッシャーより何となく雰囲気が良く、CAも美人ぞろい。段々俗世に引き戻される。

隣のインド人が話し掛けてくる。「お前の持っている本は中国語か、日本語か」何故そんなことを聞くのかと思えば、彼は中国語を半年勉強したのだと言う。それで本の漢字に反応したらしい。ラダックにオフィスがある、と言っていたが、何の会社だろうか。中国語学習は仕事ではなく遊びだと言っていたが、本当だろうか。インド人にも中国語ブームが来たのだろうか。

飛行機はあっと言う間に下界に降りてしまった。僅か50分で、私のラダックは全く視界から消え去った。

【デリー編】
15.デリー1日目
携帯とプリペイドタクシー
2度目のデリー空港。何となく慣れた気分で荷物が出て来るのを待つ。怖い物が無くなったような気分。今日のホテルは予約されているし、交通手段はプリペイドタクシーを使えば、安全とのこと。何の問題もない。

ただラダックで果たせなかった携帯のSimカードを購入してみたいと強く思う。空港を出た所に携帯会社のカウンターがあった。試に聞いてみると「買える」との答え。半信半疑ながら手続きを進める。係員はジョークなど交えて非常に愛想がよい。

「写真持ってる?」と聞かれ、困る。持ってないと答えると何と自分の携帯で私の写真を撮り、処理してくれた。実に臨機応変、この機敏さが日本に欲しい。結局20分ほど掛けて書類に5枚ほどサインして、手続き完了。しかし料金は1000rp。カードは10年有効だが、3か月に一度チャージしないと、無効になる。3日の為には高過ぎたかもしれないが、これが危機を救うことに。

携帯ブースの隣にプリペイドタクシーカウンターあり。この場所は分かり難い。何故もっと分かり易くしないのか。何となく既得権益のにおいがする。市内YMCAまで320rp。タクシー番号が指定され、白黒のタクシーを探せと言う。正直初めての人間には不親切か。

ようやくタクシー乗り場を見付けると、係員が愛想よくレシートを受け取り、誘導してくれる。と思うと、彼は実は運転手で、番号の違う自分のタクシーに乗せようとする。流石、インド。その手には乗らずに、番号の所へ。この運転手はなかなか真面目そう。

クラシックカーのようなタクシーに乗る。料金所まで来ると誰かがいきなり乗り込んできた。「いいか」と聞かれたので、素直に首を縦に振る。中国ではこれは危険な行為。助手席に乗り込んだ人間がグルで、法外な料金を取られる可能性もある。しかしこの時はまだラダックの慈悲の心が残っていた。結局運転手とその男は楽しそうにお話、彼は途中で降りて行った。何度も私に感謝していた。不思議なものだ。

エレベーターに閉じ込められて
難なくYMCAに到着。タクシーンの運ちゃんは結局よい人だった。まだ午前中ではあるが、チェックイン可能とのことで待つ。これも普段であればかなりイライラしてしまう所だが、ただジッと待つことはが出来るようになっている。

ようやくチェックインがやって来て、非常に厳格なフロントのおじさんから内容を聞く。ところが、宿泊価格が2倍になっている。その点を指摘するとそのおじさんは、リストを指さし、「お前はこれだろう」と全く違う名前を指す。よく見るとその下が私。単に一段違っていただけ。おじさんはニコリともせず、謝ることもなく、金額を半分にして、再度最初から説明を始めた。これは一つのインドだな、と思いながら、この説明を楽しむ余裕がある。

そして客室へ向かう。エレベーターに乗り込み、3階のボタンを押す。ところがどうしたわけか動かない。少し慌ててドアを開くボタンを押すがやはり反応が無い。流石に慌ててベルを押す。昼間だし、警備員も居たし、誰か気が付くだろうと心に余裕はある。しかしエレベーター内の扇風機も停まってしまい、ちょっと息苦しくなる。

そこへ外から音がした。手でドアを開けている。よかった、とその助けに来てくれたスタッフを見て、ビックリ。どう見ても日本人に見える。まさか日本人エンジニア?彼は英語で大丈夫かといい、エレベーター内を点検、3階のボタンが反応していないだけだと言う。そして私に乗れと言う。嫌だったが、言う通りすると、何の問題もなく動き出す。彼は一体何者?

部屋は広かったが、ドアのカギは壊れそう。値段が半分なのは、実はトイレとシャワーが共同だから。ということはイチイチトイレに行くのに鍵を掛けることに。本当にシャワーを浴びたかったが、約束があり、直ぐにホテルを飛び出す。

インドでは生きているだけで価値がある
今回紹介されたNさん、日本食スーパーを経営されている。電話で確認し、オートリキシャーで来るようにと言われる。ホテルの外へ出ると、待ってましたとばかり、ターバンを巻いたおじちゃんが近づいてくる。どうみても、観光客向けの客待ち。この手には乗らない。さっと身をかわし、通りかかったリキシャ‐に飛び乗る。

Nさんから100rpあれば行けると聞いていたので、100rpで行くかと聞くと、首を縦に振り、しかも横についていたメーターを作動させる。場所も何回も確認していた。これはいい運転手だと・・。

30分ぐらい走っただろうか、結構遠いなと思っていると、いきなりここだと言われ、有無を言わせず降ろされる。メーターでは70rpだったが、100rpの支払いを要求される。確かに私も口にした数字だからまあいいかと支払って。ところが・・・。指定された場所はどこにもない。周囲の人に聞くと「ここから2㎞は離れている」と言う。何ということか。

そこからお店を探すのに悪戦苦闘した。人に聞くと皆答えてくれるが土地勘がないので正しいかどうか皆目わからない。とうとう例の携帯電話を取出し、確認する羽目に。それでも携帯があったのでよかった。もしなければ、途方に暮れていかもしれない。

ようやくお店に着き、延着を詫びるとインド在住20年を超えるNさんは一言、「インドは生きているだけで価値があるんです」非常に納得。そして「インドは発展していくが、その変化は100年、1000年単位で見て行かなければならない。自分の目の黒い内に大きく発展することはない。来世で見られるかな」「インドは変化していくが、変化しない頑固さもある」などと。うーん、これは奥が深い。

元々お坊さんであったNさん、仏教界への意見は厳しい。「日本の仏教界は既に死んでいる。 仏教がビジネスになっている」「ラダックの仏教は生きている。洪水に遭っても、皆が理解できるベースがある」「世界は今末世であり、この状態は一万年続く」「戦後アメリカの愚民政策により、日本は仏教を捨てた。基地問題など、アメリカ依存を捨てない限り、日本は立ち直れない」と次々私がラダックで考えていたようなことが飛び出す。

また教育では「子供はインドの環境で育てるのが正解。英語力やインドの泥臭さ、人間臭さが身に付けば、世界で怖い所はない」とも。また「日本人は英語は上手いが、執念が無いので韓国企業に負ける。韓国人は物怖じしないし、インドに合わせた商品を用意する」と日本企業の弱点もズバリ。インドで最近成功しているピザのようにインド人好みに合った商品提供が必要のようだ。