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インド アユルベーダの旅(3)プネー 公共バスで街へ出る

1月16日(木)

朝はチャイ

翌朝もまた日が出る頃に火をおこし、お湯を沸かす。これが一日の生活リズムなのだ。そのお湯でチャイを作る。これは何とも言えず美味い。ゴレ夫人はご主人が長期不在のためか、いい話し相手が来た、という感じで、実に様々な話をしてくれた。

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ここは元々農村だったが、都市化が30年近く前に始まった。一応家は建ったが生活は農村に近い。そして人々の概念も農村に近い。ゴレ夫人は日本で言えば民生委員の様な仕事をしており、近隣の人々の為に様々なアドバイスをしている。このような場所にはゴレ教授夫妻のような知識人はいない。貴重な存在だ。

 

公共バス

今日はどのように過ごそうかと思っていると、夫人が『私はこれから親戚の所へ行くが、一緒に行くか』と聞く。公共バスに乗るというので付いてくことにした。インドでバスに乗ったことが殆どなかったからだ。確かラダックで尼さん達と乗ったきりだ。出掛ける時、2匹の犬は『我々も連れて行け』とばかり、泣き叫ぶ。そして悲しげな目を向ける。

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先ずは近所のパン屋さんを見学。薄暗い場所で朝からパン作りが行われていた。お父さんが始め、今は息子たちが作っているという。インドでは身内しか信じない傾向がある。このような商売も身内のみで経営し、店を広げる場合も兄弟の誰かが行って経営する。あるところに工場を設け、販売店は市内に作る、などという考えはないようだ。作り立てのパンを近所に届ける、これはいい。この辺りにはこのような家内工業的な生産基地が細々と多数存在している。

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街外れの大きな道でバスを待つが、大勢の人が待っている。夫人はリキシャを拾い、バスの始発駅まで行く。インドのバスもいつ来るのか分からないようだ。始発と言っても目的地への直通バスはなく、乗り換えるらしい。バスは古く、きれいとは言えない。車掌が料金を集めに来た。15rだった。バンコック並か。すぐに先ほどのバス停に着いたが、その頃にはバスは超満員になっており、乗り切れなかったかかもしれない。我々はゆっくり座っていけてよかった。

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市内を30分ぐらいで走り、乗り換えた。乗換と言ってもバス停は離れており、人に聞きながら進む。これは普通の外国人では乗るのに無理がある。更にはどのバスに乗るのかは車掌に聞かないと分からない。慣れていないとインド人と言えども一苦労だ。

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ようやく目的地近くでバスを降りたが、これまた訪ね先が分からない。夫人も始めてきたようだ。結局リキシャに乗り、案内を乞う形で、あるアパートに到着。そこには夫人の親族が集まっていた。どうも親族の人が手術をするらしい。その為の祈祷、プージャが奥の部屋で行われていた。それが終わると皆にタピオカご飯が配られ、儀式が済んだ。居間と台所、それに寝室が2つのアパートに10数人が来ていた。ここにもインドの親族主義の一端を見ることが出来た。

 

懐かしのシュレイヤホテルでターリー

夫人は用事を済ますとすぐに部屋を出た。そして『ホテルへ行こう』という。何でホテルへ行くのか分からなかったが、付いて行く。またバスに乗り、どこかわからない場所でおり、それからそのホテルを探し回った。彼女もあまり市内には来ないらしい。

 

人に聞きながら歩いて行くと、何となく懐かしい雰囲気になってきた。この辺りには既視感がある。そして着いたところは、何と5年前私が初めてインドに来て最初に泊まったシュレイヤホテルだった。それにしてもなぜホテルへ?どうやらインドでは宿泊以外でホテルと言えば、レストランへ行くことを指すらしい。

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このホテル、5年前と特に変わっていないように見えた。1階の食堂に入り、ターリーを注文。ターリーは丸いお盆に様々な料理が少しずつ盛られ、食べる。お替り自由でなくなるとボーイがまた入れてくれる。わんこそばの様でもあり、取りにいかないビュッフェともいえる。これは香港のインドランチにもあったが、本当に腹一杯になる。見た目より遥かにボリュームもある。美味しく頂く。どうやらゴレ家はこのホテルと関係があり、わざわざここまでやってきた。『老人には割引があるのよ』と笑いながら支払いをしてくれた。夫人は実に茶目っ気のある人だ。今回の私の訪問を面白がっている。

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インド アユルベーダの旅(2)プネー たき火を見つめる心

2.プネー1

27年かけて作っている家

本日私はプネー郊外の家にホームステイすることになっている。車はプネー市内から少し外れた道を行く。農村、と聞いていたが、そこには建物が立ち並び、郊外の住宅地のような雰囲気だった。一軒の家の前に停まると、犬が大声で吠え始める。

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ここは大学教授、ゴレ氏の家だった。27年前にここに引っ越してきたという。庭には沢山の木が植わっており、自然の中で生活している。母屋の脇に小さな建物があり、そこが私のねぐらとなったが、ここはこの夫婦が最近自分たちで建て増ししたという。簡易なベッドとトイレもちゃんとついていた。何とも不思議な感覚だ。中国でも農民が自分で家を作るという話は聞いたことがあるが、大学教授が自ら家を作る、何とも変わっている。

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尚ゴレ家はゴレ大学教授と夫人の2人暮らし。息子と娘はアメリカで暮らしており、当日ゴレ教授は息子の所へ行っていて、家には夫人しかいなかった。全く私には縁もゆかりもない所、A師の導きはあるものの、こんな所へホームステイしてよいものなのだろうか。

 

因みに2匹の犬はチャボーとマヌンという名前で、実に忠実に吠える。そして遊んでほしいのか、物凄い勢いで飛んできて、やたらに絡みついてきて困る。ゴレ夫人は容赦なく2匹を一角に閉じ込めて平穏を保つ。これがまた面白い。

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ATMの横にはガードマン

夕方暗くなる前にゴレ家の周囲を探索した。プネーの街の郊外ということだが、農村ではなく、小さな街のようになっており、商店なども立ち並んでいた。先ずはATMを探し、キャッシュカードでインドルピーを引き出すことを試みる。ところが、地元の銀行のATMはいくらでもあるのだが、カードを入れても一向にお金は出て来ない。どこでやっても一緒なので、カードの問題らしいと分かる。

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尚インドのATMの入り口には必ず銃を持ったガードマンが座って見張りをしており、この国の安全には問題があることが分かる。それにしてもこんなに沢山のATMに一人ずつガードマン、ある意味で雇用対策ではないだろうか。

 

街を歩いているとのどが渇き、その辺の屋台でマンゴジュースを飲んだ。10rで冷たいがかなり甘いジュースだった。あとでA師にその話をすると『それはよく中る飲み物だ』と言われたが、私自身はインドで何にも中ったことがなく、今回も問題はなかった。

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またインドでも少しずつペットボトルが普及し始め、その中に見慣れない飲み物があったので買ってみた。ニンブー、というらしい。ようはレモンジュースだ。これも後でA師に聞くと、インドでは家を訪問すると先ず水代わりに出て来るものだそうだ。これがペット飲料になるということは、インドにも変化が出てきているということではないか。

 

コラム ⇒ http://www.chatabi.net/colum/606.html

 

手作りチャパティ

ゴレ家にはWIFIもあり、特に普通と変わらない都会生活のように見えた。だがゴレ夫人は『お茶を淹れよう』と言って外へ出ていき、何と庭に落ちている木々を燃やして、お湯を沸かしてくれた。これがゴレ家の自然な生活だと分かる。夕暮れ時、庭の火を見ていると、幼い頃たき火をしたのを思い出す。あの頃はどこに家でもたき火をしていた。そして焼き芋などもしていた。何とも懐かしい気分になる。人間は火を見つめる時間が必要なのではないだろうか。都会生活では火は使うものの、見つめる時間は殆どない。

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そして夕飯の前に沸かした湯を使って、体を洗った。湯はスイッチをひねったら沸くものではない。沸かした時にできるだけ使うのだ。至極当たり前のことが分からなくなっていた。部屋の奥に体を洗う場所があり、じっくり沸かした湯を大切に使う。世の中では『エコ』などという言葉が氾濫し、何をするにもエコなのだが、本当のエコとは、『人の心が大切に使うことを知る』ことではないだろうか。それを教えてくれるのが、この生活なのである。

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ゴレ夫人がチャパティを作ってくれた。これは台所のガスを使っていた。あとで聞くと普段はあまり食事なども作らないらしい。わざわざ私に家庭生活を見せてくれていた。有難いことだ。インドの食事は如何にチャパティやご飯を美味しく食べるかの為におかずがあることが分かる。とてもシンプルで満足した食事を取り、早めに寝る。

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インド アユルベーダの旅(1)インドで健康診断?

《インド アユルベーダの旅》 2014年1月15日-29日

 

アジア放浪の旅に出てから、もうすぐ3年が経とうとしていた。我ながらよくこんな旅が続けられている、と思う日々。疲れが溜まってきている気がする。またなぜか最近は腹回りがちゃぷちゃぷしている。その辺をインドの大家A師は見逃さない。2013年初めのインドの旅の頃から『インドでアユルベーダを受けてはどうか』と耳元でささやき始めた。

 

私は拠点を移したバンコックで人間ドックを受けることを検討したので、答えを曖昧にしていた。何しろバンコックの人間ドックは日本語で出来、そして費用も安いらしい。にも拘わらず、A師からのお誘いは続き、バンコック在住の共通の知人数人からもA師の伝言として、アユルベーダという言葉が出てきた。

 

そして11月、バンコック郊外のヨーガキャンプに参加したところ、A師が『今はインドでもネット予約です』と自身のタブレットで予約を始めてしまった。これはもう仕方がないと観念し、インド行を決める。

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12月に東京に戻った際、インドビザを申請した。これまで4回インドを訪問しているが、ビザではトラぶっていた。今回も1年前と申請方法が変更になっており、全てオンライン事前申請、その後茗荷谷のインドビザセンターに書類を持ち込んだ。すると、書類に一点不備があるとして、受理されず、おまけに写真も5×5㎝という特殊サイズしか認めない。やっぱりインドだ、と思うしかない。最終的に2度目の申請後、4営業日でめでたくビザが取得できた。

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1月15日(水)

  1. プネーまで

バンコック封鎖

バンコックは昨年からデモが起こっていた。そして年明けからこれが本格化し、何とスクンビットなど主要道路をデモ隊が封鎖するという暴挙に出た。いくら主張したいことがあると言っても、天下の公道、それも主要道路の真ん中を封鎖してしまう、そしてそれを排除することなく黙認してしまう国、それがタイである。これはこれで凄い。1₋2日はどうなることかと緊張していたが、実際は何も起こらなかった。ただ通勤や通学に大きな影響が出ただけ。

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インドへ行くため、空港へ行かなければならない。果たしてタクシーなど捕まるのだろうかと危惧していたが、我が宿泊先付近は全くの平穏で、ただの日常風景が広がるだけだった。運ちゃんも1₋2日なら仕事も休めるが、稼ぎが無ければ食えない。ほんの一部の場所以外は通常営業だ。このデモ、結局割を食うのは一般庶民という構図。タクシーは簡単に拾え、空港には予想より早く着いた。デモのお蔭で道も空いている。

 

インドのLCC スパイスジェット

今回初めてスパイスジェットというインドのLCCを利用する。これまでプネーに行くにはデリー経由か、ムンバイで降りて車で行くか、どちらにしてもかなり不便だったのだが、バンコック-プネー直行便が就航し、A師などは大喜びだった。

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空港で東京から来るHさんと合流、飛行機に乗り込む。機体は比較的新しく、機内はインド人乗客が多い。LCCと言っても普通の飛行機と変わらず、快適。ただ飲み物は水が配られるだけ。私は好奇心からベジサンドイッチにトライしてみたが、量はほんの少しでその割にはかなり高かった。まあこの飛行機代自体が片道、1.2万日本円程度で格安。やむを得ない。

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飛行時間の4時間はちょっと目をつぶっているとすぐに過ぎた。ちょっと気になったのは意外と空いていることだった。案の定、このフライトは僅か3か月で運行停止となり、プネーからバンコックへ行くのはまた昔の道を辿ることになる。

 

プネー空港はとても小さな空港だった。イミグレもスムーズで荷物も比較的早く出てきた。だが外へ出てみても迎えの姿はない。今日はH師とラトールさんが来てくれているはずだが。Hさんの日本の携帯などを使ってみたが、電話は繋がらず、その辺にいるインド人の携帯を借りて電話してみるも、誰も出ない。これは困った。今は午後1時過ぎだからまあいいが、これが夜ならちょっと心配になるところ。

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どうしようかと相談しているところへ、何事もなかったようにゆっくりとA師が現れた。そしてラトールさんが買った車に乗り込む。聞けば、インドに25年も住んでいるA師でも居留の届けなど、いまだに面倒な手続きをしているらしい。さすがインド。

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デリー・リシュケシュサバイバル (8)デリー インドで一番美味かったのは中華丼

(5)日本食

昼には紹介された日本人Uさんと会う。彼は大学の後輩だが、会うのは初めて。学生時代にインドに留学し、その後もインドと関わっている強者。インドと日本の考え方の違い、日本企業のインドでの活動とその弱点、インド生活の楽しみなどについて、たっぷりと話を聞いた。

「インドでビジネスして成功するのは時間が掛かる」「日本的な考えは捨て、インドのビジネスはインド人に任せるべき」「インドで一から日本的ビジネスを追求するほど、日本企業には余裕はないはず」「インドを起点に中東やアフリカを目指す戦略を取るべし」など、成程と思う話満載。

食事は初め、こぎれいなイタリアンへ行ったが、日曜日ということでビュッフェしかなく、その値段は一人当たり日本円で5000円を超えていたので驚く。確かに豊富な食べ物、ワインなどの飲み物、そして爽やかな中庭など、見るべきものはあったが、一体誰が来るのだろうか。マネージャーと交渉したが、少し安くなっただけ。早々退散。

そして今度は日本食レストランへ。日本人が多く訪れる所ということで行って見たが、確かに普通の和食屋。前日の日本食とはかなり違い、豚生姜焼きやかつ丼があり、インドではない感じ。迷わずかつ丼を所望。ご飯が日本的ではなかったが、十分に食べられる水準。これで日本円1000円程度であれば、良いということか。

デリーには本格的な日本レストランが少なく、日本のシェフがいる店も多くない。いても、コストが高いことから、高級となり日本人駐在員は行けず、インド人金持ちの為にインド風に味を変えているらしい。中華は昨晩分かった通り、インド風になっていて、本格中華は街では見掛けないとのこと。

Uさん曰く「この店で一番美味いのは中華丼です」。成程、やはりとろみが無いとインド人には受けないのだろうか、いやインド人が作る場合、一番作り易いメニューなのだろうか。次男は中華丼を頼み、ウマいウマいといいながら、あっと言う間に平らげ、ホッとした表情をしていた。インド料理はそれほどまでに厳しかったのか。私は敢えてかつ丼を食べてみた。肉は若干固かったが、許せる味だった。この店は日本人御用達の老舗、ということで、店内は日本人駐在員とその家族で埋まっていた。ここに来たことは良かった。

(8)    別れ

Uさんに車で送ってもらい、ホテルへ戻る。今晩次男は帰国する。ホテルの部屋をツインからシングルに変更しようとしたが、料金は同じだと言われ、そのまま部屋に残る。次男も中華丼を食べて復活し、元気になる。これなら夜行便でも大丈夫か。夕方Sさんが車で迎えに来てくれた。S氏のご親戚で最後まで残っていた女性と次男は二人、エアインディアで帰国することになった。彼女と次男も相当に打ち解けていたし、何とか飛行機に乗ることはできるだろう。彼女も実は相当に参っており、体調は心配されたが。

車が行ってしまうと、何故か虚脱感がある。私の旅は通常一人、これが普通なのに何故か寂しい。インド最後の晩なのに、食事をとる気もしない。近所でバナナを買い、それで仕舞にした。一人でぐっすりと寝た。翌朝次男から無事東京に着いたとの連絡があった。しかし何故か東京は大雪。今回は最後までイベント続きだったようだ。

1月14日(月)   (9)    霧の空港へ ネットダメ

翌朝は私がバンコックへ戻る日。ホテルのフロントは親切でタクシーを手配してくれた。当初は550rpと言っていたが、当日になり450rpで手配できたという。後はちゃんと来てくれるかどうかだが、これもほぼ定刻に登場。車は霧の深い中を走る。飛行機、大丈夫だろうか、と心配していると僅か30分で空港に着いてしまった。3時間以上前に空港に、これからどうするんだろうか。霧は晴れずに遅延するフライトが出ていた。心配だ。

チェックインもスムーズで出国手続きも直ぐに終わった。この辺はどんどん進化している。仕方なく、土産物を眺めると、至る所で中国語の表示が出ている。あまり見かけなかった中国人観光客、やはりここにも来ているようだ。そしてどうやら大量にみやげを買っている。

空港内には無料WIFIがあったが、そのパスワードを受け取るには携帯電話が必要だった。インドでは基本的に外国人観光客は簡単にシムカードを取得できない。カードを買っても直ぐに使えない事例が今回も出ていた。そんな中で、この対応はアジアの空港の中でもかなり遅れたサービスと言わざるを得ない。仕方なく今回の旅を思い出しながら旅行記を書き始めた。幸いにもフライトは左程遅れずにデリーを離れた。緊張感のあるインドの旅は今回も無事に終わった。

後日次男にインド旅行の感想を聞くと「寒かった」の一言、余程堪えたのだろう。良い経験だったと周囲は言うが、さて、どうなんだろうか。

デリー・リシュケシュサバイバル (7)デリー インドの病院を見学する

(2)ホテルはどこ

ようやく買い物が終了し、ホテルに戻る人、空港に向かう人などに分かれた。我々は今日から皆さんと離れて新たに予約したホテルに向かった、のだが。ネットできちんと予約を入れていたが、何とその地図が間違っており、運転手が幾度も道を聞き、迷い、そして思いもよらない場所に連れて行かれた。地下鉄の近くにしたつもりだったのだが、何と歩いて3㎞の道のり。幹線道路は走っているが、周囲は住宅街でレストランや店すら見当たらない。しかも隣は改修工事中で砂埃が舞い上がる。

しかしフロントの女性は実に気さくで雰囲気は良かった。ファシリティが充実している訳ではなかったが、居心地は悪くない。ネットも何とか繋がった。部屋に荷物を運びこむと、次男がベッドに倒れ込んだ。これまでの緊張と疲労が一気に出たらしい。完全に寝込んでしまった。

夜はリシュケシュで一端別れたラトゥールさんと合流して食事をする。彼は家族を先に返して、日本から来た人々の空港への送りなどを担当していた。いつも律儀な人だ。同窓生Sさんと3人、リキシャでデリーのアメリカ村とも呼ばれるサケットへ向かう。次男は完全にダウンしており、ホテルにおいて行く。

サケットはデリーで最もモダン、アメリカナイズされたショッピングモールでその規模もアメリカ並み。驚くほど大きい。ショップはアジアのショッピングモールに入っているような所ばかり。インド的な部分は殆どない。これが現代インド、ということだろう。食事はフードコートで、タンドリーチキンを食べる。何だかんだ言ってもこれが落ち着く。

1月12日(土)  (3)デリーの病院

今朝も次男は体調不調だった。余程疲れたのだろう。考えてみれば初インドにしてはやはりハードだったのか。特に発熱や下痢はなさそうなので寝かせる。朝食は部屋で食べる仕組み。ところが電話が繋がらない。このホテルにはレストランが無いこと、インドでは基本的に電話で何でも頼むことから、朝は大忙しだ。午前中はゆっくりとネットなどをして過ごす。

昼前に私だけ出掛ける。今日は紹介された外科医を訪ねることになっていた。インドの病院、どんなところなのだろうか、興味が涌く。指定された待ち合わせ場所はYWCAの前。これは私が分かる場所に配慮した措置だが、何とそこに運転手が迎えに行くのでその車に乗るようにとのこと。何となくアクション映画のようだ。

3㎞の道を歩いて地下鉄に乗り、YWCAへ。しかしいくら探しても指定された車は見付からない。10分ほど、周囲を見ていると突然声が掛かる。そして車に誘導されたが、指定とは違う車。どうする、乗るか降りるか。ここは勘に頼るしかなかった。勿論私の名前を知っているのだから、乗るしかないのだが。運転手も気のいい男で問題なさそうだ。彼も一応確認の為お医者さんに電話を入れ、双方了解した。

車はどこをどう走ったのか分からない。途中でデモ隊と遭遇した。昨年末に起こった女性のレイプ事件に端を発した抗議デモ。インドの闇が透けてくる事件だ。抗議者は警察や政府の対応を非難している。宗教的、地域的な要因も孕んでいるのかもしれない。

病院に着いて驚いた。非常に大きい、そして立派。国立病院らしい。GB Pantという名前か。早々に紹介されたアニルさんの部屋へ行く。何とこの病院の外科部長だった。偉い。そして患者や助手などが沢山来ており、とても忙しそう。先に運転手が病院内を案内してくれた。

病院は相当に広く、設備自体の質はは分からないが、何でも揃っており、規模的には日本の大病院だ。中国なら人で溢れて居そうだが、そんなことは無く、入院患者の部屋もゆとりが感じられた。ある一定以上の層しか来ないのかもしれない。アニル先生に聞くと「この病院は誰でも来られる」とのことだったが。今日も天気がよく気温も上がっていた。入院患者に付き添っている人が陽だまりで寝入っていた。

アニル先生はインドで医学をおさめ、その後イギリス、アメリカにも滞在経験があり、今でも海外の学会にも良く出向くという。日本にも何回も行っており、日本びいきだ。部屋には日本の医師から来た手紙や記念の盾など飾られている。インドの医療に関しては「問題ない水準だし、一般市民への医療もかなりカバーされている」という。確かに他のアジアのイメージからすると、インドの医療は都市部では進んでいるのかもしれない。

デリーの中華レストラン

時間は既に午後3時近くなり、慌てて食事に向かう。本当に忙しい中、良く付き合ってくれた。会員制クラブへ行ったが、既にランチは終了しており、近くのレストラン街へ。そこで何と日本食屋へ入る。だが、日本食というか、「タイ、中華、日本食」とあり何でもある。ご飯と中華スープ、点心と野菜炒めを食べたが、これは日本料理ではなく、さりとて中華料理でもない。面白いと思ったが、何とも不思議。店員は全てインド人で中華系も一人もいなかった。食後には別の店でアイスクリームまで買ってくれた。インド的にはデザートは必須なのだろう。そして自ら車を運転してホテルまで送ってくれた。何とも親切な人だった。

夜は少し回復した次男とSさんとで、食事をした。インド料理は食べられないという次男に配慮して中華料理を探す。ホテルで聞いた場所に行ってみたが、なかなか良さそうな店は見付からない。表から中が見えないようにしているレストランがあった。中国なら絶対に入らないような雰囲気があったが、インドが長いSさんは「ここが良い」と言って入る。確かにこぎれいな場所で若い男女が食事をしていた。成程、これは中国とインドの違いか。

しかし出てきた料理はやはり中華ではなかった。野菜炒めがドロドロしていた。「インド人はご飯に掛けておかずを食べるのでとろみが無いと食べにくい」のだという。うーん、その通りだとは思うが、他国の料理を簡単に受け入れないあたりもインドらしい。次男はスープを飲み、何とか料理を口に運んだ。

1月13日(日)  (4)散歩

今朝息子は自分からパラタをたのんで食べた。体調の回復とインドへの微かな思いを感じる。でもコーヒーはミルクなしと注文したが、やはりミルクが入っていた。私はトーストと卵。悪くはない朝食だ。

今日もいい天気だ。初めてデリーに来た時の寒さが嘘のように快適。次男も誘って散歩に出た。ホテルの周囲は巨大な住宅街。相当前に開発された場所のようだ。広い敷地、立派な家々、環境は良い。きっと今ではこの土地、かなりの値段になっていることだろう。地下鉄からは遠いが、幹線道路も近く、車社会となったデリーとしては便利な場所でもあるらしい。

立派な車が沢山駐車され、可愛いペットの犬が大切に飼われている。住人は皆満足そうに陽を浴びている。喧騒のインド、というイメージとは程遠い光景がそこにあった。実に気持ちの良い散歩だった。次男は「インドには貧しい人もいるが、豊かな人もいる」ことを実感したのではないだろうか。この貧富の差、それ無しではアジアは語れない。その中で自分の立ち位置を考え、生きていく必要があるだろう。




デリー・リシュケシュサバイバル (6)アグラ 土産物屋は日本人経営?

(3) アグラ城

タージマハールを後にして、そのままアグラ城へ向かう。この城はヤムナー対岸にあり、タージマハールから見ることも出来た。タージもアグラ城も世界遺産に登録されている。ムガル帝国第3代アクバルによって建造され、5代シャージャハン時代に白い大理石を使った宮殿が作られた。ところが彼は3男によってここに幽閉され、8年間、亡き妃の為に建てたタージマハールを眺めながら外へ出ることが出来ないまま息を引き取ったという。

そう言われてみれば、何となく物悲し雰囲気があるような気がする。いや、それはシャージャハンのことだけではなく、その後ムガル帝国、インドの歩んだ苦難が反映されているのかもしれない。外側の城壁は赤砂岩でできており赤っぽい。ヤムナー河に2.5㎞に渡り面していると言われ、その規模は壮大。強大な帝国の城、という武骨なイメージが強い。ところが中へ入ると白を基調とした優美な宮殿が続く。そのコントラストが面白い。

城内はかなり広く、日差しも強くなり、歩いていると結構疲れる。モスクに入ると一部は入室禁止。河に面した場所からタージマハールを眺めると、風情が感じられる。城内の一部は後世の反乱などで破壊されており、ムガル帝国のデリー遷都後の衰退の様子が見て取れる。

ここもタージも観光客が多い。特にインド人観光客が増加しているらしい。最近の中産階級の勃興により、国内旅行は花盛りになって来ている。ヒンズー教徒もイスラム教徒も区別なく訪れる。インドの多様性も見えてくる。

(4) ランチと買い物

2つの見学を終え、食事に向かう。レストランは運転手が紹介する。何となく観光地で運転手が紹介すると聞くと、店側とつるんでいるようだが、この運転手はそういうことはないらしい。今回の店もきれいでなかなか良かった。ただ皆そろそろ食欲がなくなっている。インドの料理に飽きてきている。確かにいい料理が出ても、毎回食べるのは辛い。チャイを飲めばそれでよい。

今日宿泊するホテルにチェックインした。ネットで予約していのだが、「予約が無い」などと言い、なかなか進まなかった。部屋は一応綺麗であったが、観光地料金で水準以上に高い。ネットはロビーで辛うじて繋がる。外国人も多く使うホテルなのに、そのあたりの整備が遅れている。

アグラの街に買い物に出た。土産物屋の前に行くと運転手が「この店のオーナーは日本人だ」という。こんな所で日本人が店を開いているのか?と興味を持つと、出てきたオーナーはインド人。聞けば奥さんが日本人で、何と東京の我が家の直ぐ近くでインド雑貨の店をやっているという。

そうなると私は買い物そっちのけで彼と話し込む。彼も奥さんとの馴れ初めから、色々と話し出す。Google Earthで東京の店を見たりする。その間、他のメンバーはお土産を物色。通訳は次男が担当。インド人相手に何とか値切り交渉などしている。その内次男が何故か興奮して服を買いだした。買い物は人を躁状態にするのだろう。

皆さん、それぞれ頼まれ物などがあり、それから何軒もの店を見て歩くがなかなかピッタリくるものが無い。お土産、それは旅の一部だけれど、探して歩くのは本当に大変だ。とうとう夕方まで街を歩く。日が暮れてホテルに戻ると、ロビーでダンスが披露されていた。まさに観光客向け、サービス。私はこういうのに慣れていないと改めて知る。

5.デリー2  (1)土産

デリーでは皆さんの買い物に付き合った。普通の観光旅行をする機会が殆どない私にとっては実に新鮮だった。先ずは土産物を売る高級ショッピングモールへ。外国人が買いそうな、きれいな物がたくさん並んでいたが、値段はかなり高い。ディスカウントも受け付けない。日本的でよいのかもしれないが、インドに来てこれでは詰まらない。

スイーツを売るお店にも行った。こちらは庶民が買いに来るところで、値段も手ごろ。ただどんな味か分からないのでなかなか手が出ない。英国風のクッキーがあったのでちょっと買ってみる。紅茶を飲む上流家庭には美味しいクッキーがあるものだ。そこの2階は簡単なレストランにもなっており、そこでお昼を取る。買い物の時間というものは私にとっては短ければ短いほど良いのだが、女性にとっては長ければ長いほど良いらしい。インドで買い物するのは疲れると思うのだが、皆ランチもそこそこに次へ移動する。

次はこの店の直ぐ近くにあるM教授のご自宅へ。M教授はハリドワールの儀式で喪主を務めた方。忙しく飛び回っている彼は自宅には居なかったが、奥様とお目に掛かる。実は私は1年半前この家に招かれている(http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4583)。

今回は紅茶を頂く。美味しいクッキーも出てくる。「紅茶はやっぱりミルクティがいいわね。砂糖も入れるわね」と言われると、そうだなと思ってしまう。ある意味で紅茶は雰囲気で飲むものなのかもしれない。

紅茶と言えば、日本人女性がデリーで新しく開いたお店、「ハッピーハンター(http://www.makaibari.co.jp/info2013happyhunter/)」にも行った。ここは以前行ったインドダージリンのマカイバリ茶園の紅茶を扱うマカイバリジャパンの姉妹店としてオープン。ファミリーのお嬢さんが切り盛りしている。インドで日本人女性がお店を開く、並大抵の苦労ではないと思うのだが、インドとの付き合いの長い石井さん、か細い雰囲気からは想像もできないほど、バイタリティーのある人なのだろう。きれいな店内には喫茶スペースもあり、紅茶とクッキーをご馳走になる。ここで大量にお土産を買い込んだ人もいた。やはり日本人向きのパッケージ、手頃な量など、ニーズは高い。




デリー・リシュケシュサバイバル (5)アグラ 初めてタージマハールを見る

(10)  デリーへ 車の旅

午後早く、アシュラムを離れる。行きは列車だったが、帰りはA師等と別れ、S氏ご親族一行に便乗し、共に車でデリーを目指す。車はなかなか快適なのだが、何しろ走る道は一般道。道はでこぼこ、対向車は来る、人は横切る、牛も居座るでは、なかなか進まない。屋根に載せた私の荷物は大丈夫だろうか、と心配になる。覚悟はしていたものの、そう簡単に前に行かない。これもまたインドだろう。それにしても聖地への道なのだから整備してもよさそうに思うが、聖地だから簡単には行けないのだろうか。

途中でトイレ休憩する。トイレ探しも一苦労なのかもしれない。そんなにきれいなトイレは見付からない。周囲では色鮮やかな野菜やフルーツを売っている。本当に普通の田舎なのだ。かなり夕陽が西に傾いた頃、きれいなドライブインがあり、本格的に休息した。チャイを飲み、スナックを食べる。車の狭い空間から解放されるとそれだけでうれしい。インドで日差しと言えば灼熱を想像するが、この寒さの中、陽が当たるのもうれしい。段々車に飽きて来たのかもしれない。

デリーが近づくにつれ、マンション・商店建設現場が増えて来た。この辺がインドの経済成長の証拠なのだろう。道もよくなってきている。そしてデリー市内に入ると日も暮れていたが、大渋滞。何とかホテルに到着した時は既に午後の9時近かった。列車の4時間の所を8時間近く掛かったことになる。正直疲れた。

今日のホテルはそれまでのアシュラムとは別世界。次男は目を輝かせて、「素晴らしい」という。厳しい所を経験していれば出る言葉だろう。夕飯はホテルで取るが、イマイチ。ネットも何だか繋がらず。ただいいベッドだったので、ぐっすりと就寝。

4.アグラ   (1)アグラまで

翌朝は早く起き、ホテルをチェックアウト。インド最大の観光名所タージマハールへ向かう。何といってもデリーの渋滞は凄いため、朝6時台には出発。最近出来たという高速道路にスムーズに乗る。朝日が昇る頃、高速には車の影もなく、実に順調に進む。インドでは驚くべき光景だ。これもインドか。朝8時前にきれいなドライブインでチャイを飲み、ホテルで貰って来たサンドイッチや卵などで朝食を取る。この高速は昨年後半オープン、ドライブインは新設で、インドの会社が経営している。

本当にあっと言う間にアグラに着いてしまった。2時間ちょっと、以前友人から「デリー―アグラは悪路で6-7時間はかかる」と言われたことが嘘のようだ。昨年前半に行った人でも「高速で4時間以上掛かった」ようだから、この第2高速?の存在は驚異的だ。運転手によれば、高速料金が少し高いので多くの車は使わないらしい。

アグラの市内は我々が思うインドであった。ただイスラム教徒が多いな、と感じられる。当たり前か、タージマハールだって、イスラム建築なのだし。それにしてもインドはヒンズー教、というステレオタイプな考え方はちょっとな、と思う。

車が停まる。タージマハールに着いたのか。何となく小さいがタージマハールに似た建物が見えた。あれ、と思う。地元ではベビータージと呼ばれる建物。ここには観光客は殆どおらず、ゆっくり見学できる。建物の中に入り、つぶさに柩の周囲も見ることができる。実は本当にタージの内容を確認したければ、ここに来た方が良いらしい。

鮮やかなモザイク、シンプルな壁画。私が思うタージマハールがそこにあった。規模も小さく、それほど疲れずに回れるのも嬉しい。それにしても今日は天気が良い。気温も少し上がり、ちょうど良い。こんなインドもあるんだ、素晴らしい。

(2) タージマハール

そして、そしてついにタージマハールにやって来た。先程のベビータージとは当然ながら規模が全く違う。先ず建物の近くまで車が入れない。大型の駐車場に車を停め、そこから参道のようになっている道を歩く。土産物を売り込む若者がしつこい。その熱意にうちの若者二人はかなり驚く。馬車やミニバンに乗れとの攻勢もすごい。これが観光地だ、そして私の苦手な所だ。

何とか敷地内に入るがそこからもタージマハールまではかなりある。今日は良い天気なので気分よく歩く。サルがいたり、鳥が鳴いたり。そしてあのテレビでもよく見た荘厳な建物が見える。記念写真を撮るインド人がはしゃいでいる。写真スポットだけでも何か所もある。

人々が中央の建物に集まって行く。靴を脱いで上がり、中に入るが人が多く薄暗い。更には柩の付近には行けない。外側から眺めるだけ。ベビータージを見学した後では不満が残るが、本来はこんなものだろう。

左右にも大きなモスクなどがあり、とにかく規模が大きい。横には河が流れ、壮大な感じがする。今日の天気は快晴で、タージマハールが実にくっきり浮かび上がる。こんなタージを見るのは初めて、と何度もここを訪れているSさんがつぶやく。我々は日頃の行いが良いのだろうか、それともこれまでの修行生活のご褒美だろうか。




デリー・リシュケシュサバイバル (4)リシュケシュ 次男と見たインドの散骨儀式

1月8日(火)  (4) ハリドワールはお伊勢参りか

アシュラムでは朝5時から修行が始まるようだが、我々は大事を取り、7時に起床、8時に朝ごはんを食べた。7時半ごろチャイが飲みたかったがなかった。あの寒い中、同行のタイ人は5時に起きて祈祷に参加していたと聞く。余程寒くて眠れなかったのだろうか、それとも熱心なのか。

アシュラムを9時に出発。ハリドワールへ向かう。午前中は観光、ということで、ヒンズー教徒なら必ず行きたいという、寺院を目指す。これはお伊勢参りのノリであろうか。そこにはロープウエイを使わないと行けないらしい。ロープウエイは2か所あり、寺院は数か所あるとか。今日は1つしか動いていなかった。高所恐怖症の私はロープウエイを見て断念。下で待つ。

30分ほどで一陣が戻る。下の景色は霧で見えず、そのまま降りてきた。次男とラトゥール一家はそのまま寺参りに行ったようだ。結構高い所で怖かったとか。ラトゥール家の娘はロッククライミングをやっているとかで、山登りは平気とか。

そしてガンジス河沿いへ出る。橋の袂に立派なホテルがあり、そこが日本人グループの宿泊先だった。これはいいホテル、アシュラムとは大違いだ。そこで合流。一緒に昼食。昼食は簡単にスープとバラタ、それにチャイ。このスープを飲むと次男が「美味い」と一言。アシュラムの食事はスパイスが効いていない、ことを実感できたようだ。

(5) ヴィサールジャン

そして今回のメインイベント、ヴィサールジャンの会場へ移動した。ヴィサールジャンとは死者の骨を河に流す儀式。今回はインドに深くかかわった日本人S氏の供養の儀式となった。S氏はインドの「ラーマーヤナ」をアニメーション化するなど、インドの伝統的な文化を尊重し、多くのインド人と交流を深めた人物。惜しくも昨年84歳で亡くなった。

7年前に奥さんを亡くしたS氏はインドでの供養を行い、自らも死後はその供養を望んでいたようだ。そして今回の儀式に際しては、S氏に世話になったインド人M教授が忙しい中、わざわざ聖地ハリドワールのガンジス河、それもVIP専用ガートを抑えて、日本で言う喪主を買って出た。またインド映画のハリウッドと言われるボリウッドの大物も参列、S氏が如何にインドの人々に愛されていたかを伺わせた。

VIPガートは一般と反対にあり、橋を渡って行く。風は冷たいが、太陽の光は眩しい。ガンジス河と言えば、何となくゆっくりと流れ、淀んで濁っているといったイメージがあるが、ここハリドワールでは濁りは少なく、流れはかなり早い。そんな中でも鳥が河の中の魚をさっと咥えたりしている。

今回の儀式にはS氏の親戚も参列、代表して16歳の高校生がM教授に補助されながら、儀式を務めた。格好の良いバラモンの僧侶が現れ、厳かに儀式を進行していく。頭に白い頭巾を掛けた16歳は緊張した面持ちで、言われた通りにこなしていく。ガンジス川の水もすくって飲んだようだ。M教授が後ろから全てを指示していたが、それでもものすごく緊張したようだ。

全ての儀式は30分以内で終了した。皆で記念写真を撮り、故人の冥福を祈った。太陽が出ており、極寒ではなかったが、やはりこの寒さは故人が「俺のことを忘れるな」と言っていたような気がする。

(6) 市場

アシュラム滞在組は河近くにある市場を見学する。本来は日本からの組もアシュラムへ1泊する予定だったが、あまりの寒さに防寒具が無いこともあり断念して、ハリドワールに残る。

市場は昔ながらの建物が建つ狭い道の両側に店があり、客が道を歩きながら品物を物色する。南のプネーから来ているラトゥール一家はやはりスカーフやセーター、帽子などに目が留まる。タイ人も寒さ対策で買い込んでいる。

寒いせいもあるが、それほどの喧騒もなく、ここがインドかと思うほど穏やかな午後。道を長閑に歩く牛、午後の日差しがその牛を照らすと、寒さが忘れられ、極楽が見えたような気がした。A師がサモサを買い、皆に配ると歓声が上がる。やはり寒さには食べ物だろうか。

(7) 美味しい食事

アシュラムへ帰ると、また寒さが堪える。次男はここの食事に恐怖感が出てきている。あまり好き嫌いの無い子だが、相当食べにくい。やはい味気ないのだろう。そしてここの米は日本人には合わない。

だが、今晩のおかずは何故か我々の口にも合った。ご飯を少ししか貰わなかった次男は後悔し、もう一度並ぼうか迷っていた。インドでは何が起こるか分からない、その時々の自己判断で全てが決まる、ということだ。

部屋では熱いお湯が出る。次男は何とか体を洗おうと試みた様だが、湯を浴びる前に部屋の寒さに耐えきれず、また浴びた後の湯ざめが凄く、「インドに居る間は風呂には入らない」と宣言。ぶるぶる震えていた。それ程に寒かったのだろう。私は最初から諦めていた。寝袋に早々に入り、寝入る。ここでは他に出来ることはない。

1月9日(水) (8) 極寒の中 朝の儀式

前日はサボったので、午前5時の儀式に30分遅れながら参加する。次男は無理そうだったので放置する。河沿いの石造りのお堂の中は、まさに極寒だった。5時からの儀式は特別のようで、真ん中に備えられた像に司祭者が火を近づけたり、カーテンで我々から見えないようにして、中で何かをしていたり、全く内容は分からなかった。年配の女性と男性の二人が祈りを唱え、後の者はただただ祈るのみ。

少しずつ辺りが明るくなるが、濃い霧が立ち込め、荘厳な儀式を彩る。一体私は何故ここで寒さに震えながら、座っているのか、私の存在は何なのか、どうしても考えざるを得ない。目を閉じると眠気が襲うが、寒さがそれをも妨げ、ただただ考えろ、と告げていた。

最後は次男も参加して、儀式を見る。その後また甘い物が出され、そしてチャイを飲みに行く。A師から1時間ほど、様々なレクチャーを受ける。特に次男に対しては「宗教を学ぶというより、先ずは文化人類学の基礎を学べ」など、今後の学習の仕方も教えてもらう。そして朝ごはんも美味しく食べられるようになり、次男の修行も1つの区切りとなった。

(9) バンダーラ

本日は昨日のハリドワールでの供養に続き、アシュラムでバンダーラが行われた。バンダーラはサドゥウと呼ばれる修行者、世捨て人、全てを他者に任せて生きる人々を集めて行われる。日本だったら軽蔑の対象になりそうだが、インドではこのような人々の存在が認められ、一般人は彼らに食べ物を与え、支援する。

今回のバンダーラは、S氏の供養のために行われる。午前11時前、いい感じの日差しの中、次々にサドゥウが集まってきた。確かにきれいとは言えない格好の男たちが招かれて、アシュラムの庭にやってくる。庭にはござが敷かれており、その上に座る。

S氏の親族代表として、昨日も活躍した16歳が一人ずつに、食事を届ける。その父親も加わる。また別の参加者も亡き親族の供養として、食事を配る。暖かい日差しの中、サドゥウが食事をしている姿を私はじっと見ていた。その姿に昔のお坊さんの姿勢を見る。ただサドゥウはもっと欲しければ自ら要求していた。本来お坊さんは要求することができない。施しというものは人のためにするのではなく、自分のためにするものだ、と改めて思う。



デリー・リシュケシュサバイバル (3)リシュケシュ アシュラムに泊り、ガンジスを歩く

3.リシュケシュ  (1)リシュケシュのアシュラム

ハリドワールでガンジス河を見る。イメージしていた大河とは少し異なり、川幅もそれほどない普通の河に見えた。そこから30分、聖地リシュケシュに到着。ダヤナンダアシュラムという場所が宿泊地だった。

ここはアシュラム、修行場であり、ホテルではない。が、施設は予想外に立派。ただ部屋に暖房は全くなく、相当の寒さだ。最初1階の部屋を割り当てられたが、あまりの寒さに2階へ引っ越し。それでも殆んど変わらない。部屋はツインで毛布と掛布団が用意されているが、果たして寝られるだろうか。

直ぐにランチとなる。以前ロナウラのヨーガ学院で食べた方式。プレートを持っていくと、ライスやチャパティ、そしておかずを入れてくれる給食式だ。茹でたカリフラワーとジャガイモも入っており、塩を付けると結構イケタ。おかずは美味しいものとそうでない物が半々。ただ入れられたものは残さずに食べることにする。そしてセルフサービスで食器を自分で洗う。

食後は寒いので部屋に帰らず、陽だまりへ避難。椅子を出してPCで何やら書いているドイツ女性、おしゃべりに励むインド人、色々な人がいる。共通しているのは陽のある所へ行くことだけ。こんなに太陽が有難いと思うことは最近ないなと思う。それ程に部屋は寒い。

このアシュラム、ダヤアナンダという高名なヒンズーの師が寄付で建てた物らしい。ヒンズーの世界では偉い師が登場すると、そこへ信者が殺到し、一代を築くが、彼が死ねば、弟子は分裂し、また新たな師の出現を待つとも聞く。何とも不思議な世界だ。ダヤナンダ師は3-4月頃、ここに来てレクチャーをするようだ。その頃には世界中から人々が集まって来て、宿舎は満員だとか。今月が唯一のオフシーズンらしい。

アシュラムは広い。宿泊施設だけもかなりある。レクチャーホールからダイニングまで、そして何よりガンジス河の流れを直接目にすることができる。その脇には祈りの場もあり、如何にも修行場。

流石にアシュラムにはWIFIはないと思っていたが、何とあった。ただ普通には繋がらず、IPアドレスを入力する途上国によくあるタイプだった。ちょうど詳しい女性がやって来て入力してくれ、無事に繋がった。俗世との糸が微かに見えた。

(2) リシュケシュ散歩

アシュラムの脇を流れるガンジス河沿いを歩いて見る。良く見ると薄い霧の向こうに山影が見える。リシュケシュの河沿いはヒンズー教徒憧れの場所。ここにアシュラムを持つことはステータスであり、ここの土地の価値は想像以上に高い。確かに河沿いには立派なアシュラムや綺麗なホテル、レストランが建っており、建設中の所もある。

河は乾季で水量は少ないが上流にダムが出来、水の量は調節されているようだ。川岸で子供達が元気に遊んでいる。向こうで大人、男性のみが川岸でたき火をしている。しかし近づいてみると、何とそこでは火葬が行われていた。木の枠組みの中に、何となく頭のような物が見えた。火は盛んに燃えているが、全て燃えるまでに半日近く掛かるという。当日は余熱で熱いので、骨は翌日改めて拾いに来るらしい。

インドでは死者の遺体は抜け殻としてすぐに処理される。日本では遺体は非常に重要視されおり、考え方の違いが浮き彫りになる。だが、良く考えてみれば、遺体を単なるモノのように扱うインドで火葬は半日掛かり、一方遺体重視の日本が現在では工場の処理施設のように、僅か45分程度で焼いてしまい、悲しみもそこそこに骨を拾って終了してしまうのは何故だろう。どちらが死者に対して哀悼の意を表しているのだろうか。

更に行くときれいな橋が見える。向こう岸には相当立派な施設も見えてきた。ヨーガで有名なシバナンダのアシュラムもある。リシュケシュは欧米人もヨーガの聖地として崇めている。またビートルズが逗留し、特にジョージ・ハリスンがここの音楽に入れ込んだことで世界的な場所となった。有名人が行って有名になった場所にはロクなことは起こらない、と思っているが、ここはどうだろうか。

(3)アシュラムの儀式

ダヤナンダアシュラムのプージャは午後6時に始まった。私は一番後ろの椅子席に座り、見学する。室内は明るく、怪しげな雰囲気はない。リーダーの声に合わせて経を唱えたりしている。リーダーは時々室内の中心にある囲いの中の像に向かい、火を焚いて近づけている。ナンディと呼ばれる像にも、火が近づけられる。これが儀式だ。本来は護摩壇で火を焚いて行うようようだが、現在では形式を変えている。

20人ほどが参加したプージャ。三々五々人が集まり、途中から入ってきた人は部屋の四方に置かれている像の所で手を合わせ、頭をくっつけ、祈る。そして皆の後ろに座る。夏はヒンヤリして気持が良さそうな床、今は冷たいため、茣蓙が敷かれている。それでも皆、相当の厚着をして出てきている。

終わりの合図もなく、終了。その後皆小さな花が入った入れ物を手に、河へ向かった。実は今日はブラジルから訪問団が来ており、彼らの希望で特別に灯篭流しの原点のような儀式が追加されていた。真っ暗な河の中に、蝋燭に火を点けた花籠を流していく。これは先日タイで経験したロイクロトーンとも共通している、願いを叶えるための儀式だそうで、日本の灯篭流しとは意味合いが違う。

終わると、甘い物が配られ、手で食べる。バナナも出て来たので食後のデザートに取っておく。そのまま食事となるが、相変わらず、美味しいとは言えない。これも修行の内、として飲み込む。

夜は当然ながら冷える。部屋は相当に寒い。ある程度着込んで、毛布をベッドに敷き、寝袋にすっぽりと包まり、その上から掛布団を掛けて寝た。これでようやく凍死せずに寝られた??1年前の香港ラマ島での2週間の寝袋生活が今回生きた。10時間以上ぐっすり眠れた。次男は初めての寝袋であまり眠れなかったようだ。これも全て修行か。




デリー・リシュケシュ サバイバル (2) デリー 44年ぶりの寒波 寒いインド

(4) 次男がやって来た

夕方エンポリアムという場所へ買い物に行った。私とA師は買い物に興味がないのでコーヒーショップで仏教、ヒンズー教談義。その間、タイ人女性が2時間に渡り、スカーフやテーブルクロスなどと格闘し、相当の戦利品を収め、7時の閉店まで頑張っていた。

腹が減ったのでYWCAで簡単に食事を済ませる。今回の旅にはタイ人の他、インドのプネーからラトゥールさん一家も参加していた。彼は私が初めてインドへ行った3年前に案内してくれた人でその後も親交がある。3年前に彼の自宅で会った奥さんとお嬢さんとも再会した。

ラトゥールさんは空港に日本から来る供養の旅一行を出迎えに行く。基本的には昨年亡くなったS氏の親戚及び友人達だが、その一行に我が次男も加わり、初めてインドの地を踏んだ。一行は良いホテルに泊まり、ラトゥールさんが次男を連れてYWCAに来てくれた。そしてこの日から次男との旅が始まった。彼は一体どんな体験をし、どのように感じるのだろうか。興味深い。

先ず試練は東京から来たのに、こちらの方が寒いこと。ヒーターは音ばかり大きく、部屋全体を暖めることはない。我々は寝袋を持参しており、毛布の上から寝袋を掛けて寝る。シャワーは怖くて浴びられない。ニュースではインドに大寒波が来ているという。明日はどうなるのか分からない、それがインドさ。

1月6日(日)  (5)  デリ―観光 午前

本日はデリー観光。インドが初めて、デリーが初めての人もおり、名所へ行く。先ずはラール・キラー。車で行くとすぐに着く。前回はメトロに乗り、デリー駅からリキシャで辿り着くのにずいぶん時間が掛かったものだ( http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4585 )。寒さの為か、観光客は少なめ。帰り掛けにドームのような場所を通った時、何と天井の一部が落ちて来た。幸い誰も下を通っておらず、けが人もなかったが、日本では笹子トンネル崩落事故直後であり、皆青ざめた。神のご加護があったのかもしれない。

ラジブガートというガンジーのお墓のある場所へも行った。ガンジス川のほとりにある静かな場所だったが、表では物乞いをする子供達が沢山おり、次男は目を丸くしていた。結構優しい子なので、心が痛むだろうが、それもまた人間界の試練かもしれない。

昼はインド料理のビュッフェランチを食べる。次男も美味しいと言ってそこそこ食べる。同行者最年少、16歳の男子高校生は大きな皿で三杯食べていた。私が普通に旅行していては有りつけないご馳走だ。日本人はインド料理ではカレーとナン、そしてタンドリーチキンというイメージだろうが、ナンは高級品であり、ベジ料理が好きな私にはチキンも不要だ。

(6)  午後

クブミナールという古い塔がある所へ行った。何だか落ち着いた雰囲気でよい。私は何故かカメラのメモリーが一杯で、しかも予備カメラを忘れたため、写真は撮れなかった。きっとまた来い、という誰かの意思なのだろう。カメラが無いと、それはそれで自由になる。この雰囲気を十分に堪能した。

ロータステンプルにも行った。実は時間がかなり押しており、日本人はここをカットして買い物に行きたかったようだが、インド人母子からどうしてもという希望があり、進む。新興宗教のようだが、大きな蓮の形のドーム型寺院へ行くのに、結構歩き、靴を預け、寺院の前で並ぶ。一体何があるのだろうか。

中に入ると高い天井があり、下には無数の座る場所が。一斉に入場した人々は思い思いの場所に座り、目を閉じる。瞑想に入ったようだ。ここが何らかの精神的な聖地だと思う。だが我々は一瞬座っていたものの、時間がないということで直ぐに外へ。インド人母子は納得しただろうか。同時にタイ人も静かに瞑想に入っていたが、そこを妨げられた。

後で聞くと「タイ人には一日中遊んでいるという感覚があり、時間通りスケジュールをこなす日本人のやり方はつまらないと感じていた」という。確かに自分の気に入った場所でゆっくり過ごすことが私もよいと思う。日本的な旅は果たして面白いのだろうか。中国人観光客の弾丸ツアーを笑うことは出来ない。

昼ごはんの食べ過ぎで、夜はパラタとチャイとで済ませる。次男もパラタのファンになる。特にキャベツパラタは焼き立てだとかなり美味しい。少しお好み焼きを連想した。シャワーは無く、お湯を体に掛けて何とか洗い、就寝。

1月7日(月) (7) インドの鉄道に乗る

今朝は5時に起きて、6時前にYWCAをチェックアウト。あたりはまだ暗く、冷え込みは尋常ではない。後で聞くと昨夜の最低気温は1.5度。デリーでは44年ぶりの寒さだったらしい。それでも寝袋を使うほど部屋は寒くなかった。

車2台でニューデリー駅へ向かう。案の定チェックアウトに手間取り、6時50分発の列車に乗るのにホテルを出たのが、6時15分。10分ほどで駅に着いたが、寒さの為かそれ程混雑していない。それでも広い駅のこと、列車の出発ホームの場所も分からない。皆大きな荷物を持っている。そこへ荷物担ぎのポーターが数人現れ、荷物を頭に乗せ、サッサと進む。そして一番端に停車していた我が列車に乗り込み、荷物を上の台に乗せて行ってくれた。何とも力強い助っ人たちだが、あとで料金のことで相当に揉めたようだ。インドは簡単には行かない。

兎に角列車に乗り込んだ。我々親子は後からチケットを取ってもらったため、別の車両となる。シャダブディ特急、車内は思ったよりきれいで整然としている。この特急列車、普通列車が通常100rp以下で行ける所を450rpするらしい。全席指定、全車両エアコン付き(今はヒーターが欲しい)。そして食事やお茶が無料で提供される。小さなプレートが配られる。ビスケットと飴が乗っている。その他紙の袋に何やら入っている。開けるとティバックと砂糖が入っていた。そこへポットが運ばれてくる。一人1つだ。蓋の部分をカップにして、ティバックを入れ、自分でチャイを作る。これはなかなか優れものだ。

ただ朝食が出ると聞いていただけに、ビスケット2枚は如何にも寂しい。と思っていると乗車から1時間半ほどして、ちゃんと朝食が出てきた。日本風のコロッケが2つ。小さな食パンが2枚、そして先程と同じチャイ。十分な朝ごはんだった。ベジかノンベジかも選べるらしいが、我々にはベジが配られた。これが無料で付いている、ということは如何にこの特急の料金が高いかを物語っている。

車両には日本人も乗っていた。外国人も少し乗っていたが、圧倒的にインド人だった。ある程度上流階級の人が乗るのだろう。車内は子供の泣き声を除き、静かなものだった。新聞が配られ、それを読んでいるか、寝ているか。全席指定、座席は2+3、我々は3席の窓側2つで、隣はドイツ人の女性だった。彼女はインドで2か月ほど何かの勉強をしており、これからインド各地を回るらしい。

本日曇りで、相当深い霧が出ていた。時間が経つにつれて、霧が晴れてきたが、そこに見えた風景は、冬枯れの大地。小麦畑も少しは見えたが、原野も多かった。いくつか駅にも停まったが、如何にも寂しい、プラットホームに人々が寒々と待っていた。

車掌の権限は強いようだ。席は指定だが、その差配も全て彼がしている。我々の所にチケットのチェックに来たが、チケットを出す前に「いいよ」と言って立ち去る。外国人が座っており、特に問題が起きていない、ということで無駄は省かれた。今の日本では何でもマニュアル化され、裁量とか、差配といった概念を持ち込む場がない。それではマネージャーの居る意味はないし、返って円滑な運営を阻害しているケースも多い。

列車は4時間半走り、ほぼ定刻にハリドワールに到着した。ハリドワールは神の入り口、という意味で、聖地への玄関口。駅には迎えが来ており、車に乗り込み簡単に出発した。インドでは簡単に物事が進むだけでうれしい。