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『インドで呼吸し、考える2011』(5)ラダック チベット仏教

7月12日(火)
6.ラダック2日目
高山病寸前
6時前に起きたが、体調がすぐれない。7時になると小さな子達(6-8歳ぐらい)4人が教科書を持って2階に行く。ハーディの部屋で朝のイングリッシュレッスンだった。これだけ小さい時から英語をネイティブから習う機会があるのはよいことだ。朝ごはんはチャパティにラダックのベリージャムやピーナッツジャムを付けて食べた。美味しかったが、その後体が重くなり、少し頭が痛い。うーん、来るものが来たのか。

今回は特に予防もせず自然体でやって来た。P師の診断を受ければよい、ぐらいの軽い気持ちで来たがP師はまだ戻っていない。どんどん体が重くなり、寝込む。本を読む気力もない。PCに触る気も起らない。昨日読んだ五木の本にあった「人生の苦しみ」を味わい始めた気分。兎に角ひたすら寝る。ランチも取らず、お湯も飲まず。日中6時間も寝たのは久しぶり。それでも回復せず、難渋する。

夕方ようやく起き出し、チャイを飲む。そこへとうとうP師が帰ってきた。南部へ行っており、車で1日12時間掛かるところを8時間で止めて1泊したため、遅れたと言う。それにしても車の荷台から大量の物資が降ろされる。何か調達したのかと思ったが、ガスボンベに鍋釜を見るとそれが野宿のための必需品であることが分かる。

今回は各地で宿泊先を提供してもらえた、というが、南部の山間部がどんなところか、およその想像はつく。それでも彼女たちは活動を続けている。これは凄いことではないか、と思う。そしてこれだけの困難なことをしながら、私のような者にも気を配ってくれるP師の本当に凄さを少しずつ感じ始めた。

本日ネットは繋がらず、P師も困った様子。私も何か重要な連絡でもあればと気をもむところだが、今はいつでもポジティブ。明日にしよう。相変わらず食欲はなかったが、スープは飲むよう言われ、無理やり口に入れる。そして夕飯も食べずに寝入ってしまう。

そういえばお土産に渡したヨックモックのお菓子が私の元にも回ってきた。見るとビニールの包みがパンパンに膨らんでいる。私の体もパンパンなのであろうか。やはり気圧が違うことを実感した。

7月13日(水)
7.ラダック3日目
ラダック尼僧協会(LNA)とP師
朝は無理せず、ゆっくり起きる。食欲もあり、チャパティと白身の卵焼きを頂く(基本的に卵の黄身は食べない)。頭痛は殆ど消えていた。体調が良くなると少し乾きが出て来た。ここで普通ならば冷たい水が飲みたいところだが、ここにはボイルウオーターしかない。チャイもあまり沢山飲めない。電気も来ておらず、唯一ある洗濯機も使えない。数人が手で洗濯を始める。

午前8時半にP師からお声が掛かる。P師の歩みやラダック尼僧協会(LNA http://www.ladakhnunsassociation.org/)設立の経緯などを伺う。1996年に設立された協会は尼僧の減少に危機感を覚えたP師らが政府や社会に働き掛け、尼僧の地位向上、社会への貢献を掲げて理解を得た。海外のNPO団体の支持も仰いだ。

現在ラダックには1500人ほどの尼僧がおり、協会には28の尼僧院が所属している。基本的には30歳以下の尼僧が多く、小学校から高校まで学校に通うもの、田舎で学校に行けない場合は尼僧院での勉強、そして希望者にはインド各地での勉強の機会が与えられている。実際私がお世話になっている尼僧院でも高校に行くものが5人、結構遠くまで通っている。小学生、中学生も時間になるとバスに乗って通学している。

話の中で特に興味深かったことは、P師が幼い時から尼僧を目指したこと。父親の死で医学に目覚め、ダラムサラの学校に入ったこと。当時ラダックでは尼僧になることは家事労働者や奴隷のようになることを意味しており、決して普通は勧められる境遇ではなかった。それを彼女達は変革した。この尼僧院の土地も政府から提供され、援助も受けている。徐々に周囲の認知度も上がり、今では女の子の一人は尼僧にしてもよいと言う家も出て来た。実際LNAに来る子達は、貧しくて養えないからと親に送られるわけでもなく、ある程度の年齢であれば自発的にやって来ると言う。これはミャンマーなどで聞いた話とは大部異なり、意外な感じがした。

チベット伝承医学も治めたP師は近くにクリニックも開き、人々のために尽くしている。薬は自分たちで作っている。実は私がこの尼僧院に到着してからずっと響いていた音がある。見ると老人がひたすら穀物を砕いているように見えた。それが実は薬草づくり。目が悪いその老人にも役割を与えている。その作業は実に大変なものだと思うが、老人は一心不乱に行っている。そのような生き方もあるのだろう。4時のお茶で音が停まった。恐らく彼の今日の仕事は終わったのだろう。でもその仕事は永遠に続く、まるで自分の人生を打ち付けるかのように。

日本の仏教は我々の考える仏教ではない
途中で2人もお客さんが来訪。その忙しさが分かる。そして私はキーワードを尋ねる。茶については、チャイはチベット発祥。インド人が言っているチャイとは英国風ミルクティ。こちらでは刺激の強い紅茶葉は使わず、しかもミルクとバターを半々に入れる。バターには心を落ち着かせる作用があり、効果的。但し一日に何杯も飲むのはよいとは言えない。

ロングスティについては、確かにラダック人にとってこの地は平和であり、来世を考えるのに最適。しかし外国人に対してはビザが出ないので、定住は不可能。タイあたりに定住し、時々来るのが良いのではないか。

また昨年当地を襲った洪水では、多くの人が一瞬にして家族が流され、家や財産をすべて失い、相当な肉体的、精神的なダメージを蒙った。今も復興に取り組んでいるが、仏教がベースにあるため、全体の80%の人が今回の水害をポジティブに捉えており、今後の生き方を見直す良い機会だと言っていると言う。これは凄いことだ。

P師は日本に2度行ったことがあるが、日本の仏教にはかなりのショックを受けており、「あれは我々の仏教とは違う。中国・韓国経由でもたらされた別の物だと思っている。前世や来世を考えない生き方は我々とは明らかに違う。」と述べている。

確かに5年前に東京で会った時にも「日本のお坊さんの仕事は我々とは違う。彼らは人が死んでから葬儀に出掛ける。我々は日頃から人々と接し、病があればその治癒に務め、もし死が近づけば駆けつけ、最高の状態で次の世へ送り出すのが仕事だ。」と述べており、強い印象を受けている。日本人が今求めているのはこのような宗教ではないだろうか。

また「メディアは最悪。皆に見ないように伝えている。自分も10年は見ていない。」とキッパリ。ニュースになっているのは、殺人や政治、金儲けなど、自分たちの生活には関係がない。ニュースを見なければ1日8時間修練できる時間が増える。もしニュースを見るなら、それは「痛みを感じるため」。

ラダックの良い所はインドでありながら仏教がメジャーであること、最近はカーストの概念もなくなったこと。

昼になる。ナスを煮たものとご飯。味付けは美味しいが、枝が付いている物が入っており、取り除いて少しずつ食べる。これも天然の果実であろうか。

『インドで呼吸し、考える2011』(4)ラダック 尼僧院に宿泊して

ラダック1日目
出迎え
空港は周囲に何もなく、ただ銃を持った警備員が警備しているのが目に付いた。外国人だけが登録書を書かされているが、それも直ぐに終わる。特に緊張はない。空気が希薄との印象も受けない。荷物はすべて手作業であり、なかなか時間が掛かった。そして荷物を持って外に出る際、再度チェックがあり、番号の確認が行われた。一応の警戒があるようだ。

外に出ると迎えの紙を持った人々が幾人も立っていたが私の名前は見えない。普段なら慌てるだろうが、朝の10時でもあり、その内来るさ、と言った気楽さがある。ただ紫外線が予想以上に強く、帽子を忘れて難儀だな、と思っていると、尼僧が2人近づいてきた。そうだ、私は尼僧院にお世話になるのだから、彼女らを見付けるのは簡単だったのだ。

尼僧の一人が運転する車で出発。ドライバーは男との固定概念がいけないのだ。そして驚いたことに道を二つ曲がったところで到着してしまった。空港から近いとは聞いていたが、歩いても行けそうな距離だ。

尼僧院に迎えられる
そこには門があり、中はコの字型に建物があったが、真中は工事中。私は何処に泊まるのかと思う間もなく、荷物が部屋に運び込まれる。チェックインなどない。ベットが2つあり、絨毯が敷かれていた。シャワーとトイレもあり快適。

女性しかいない所にいいのだろうか、などと思うこともなく、尼僧さん達も笑顔で「ジュレ(ラダック語でこんにちは、有難う等の意味)と挨拶してくれる。直ぐに部屋にチャイとビスケットが運ばれる。歓迎されている。チャイは美味しい。チベットと言えば、バター茶だが、あれはちょっと苦手。最近はラダックでもインド化してチャイを飲むらしい。ビスケットも素朴で美味しい。しかし食べ過ぎは禁物。高山病対策を取る必要はある。

誰かが挨拶や説明に来ることもなく時が流れる。電気も来ていないので充電もできない。こうなれば休むしかない。それでいい、と体が言っている。横になるとすぐに寝られた。外の強烈な太陽とは異なり、意外と部屋は涼しく、掛け布団を掛ける。1時間ほど寝るともう12時、ランチはあるのかどうかも分からないが、それもそれでいい。

1時頃、当然尼僧さんが一人部屋に入ってきて(これまでもノックなどはなく、皆入ってくる)、ランチを告げる。行ってみると部屋に鍋が2つ。一つにご飯、もう一つにおかず。実にシンプルだが、それでいい。おかずはキャベツを煮たようなもの。これが実にあっさりしていて美味しい。高山病警戒で量を少なくしたが、後悔。

尼僧さん達は外国人に慣れているようで、英語で話し掛けてくる。英語教育がなされているようで、かなり流暢な子もいる。中には「日本は落ち着いた?」などと聞いてくる子もいる。 一人小学生ぐらいの子が混ざっている。服装からして最近来たらしい。どこか動作がぎこちない。恐らくは事情があってここにやって来たのだろう。一人が言う「私達は一生ここにいるだろう」と。

子供達
午後はコックのおばさんの子供(幼稚園生ぐらいの男の子)と遊ぶ。階段も上ったが特に呼吸が荒くなることもない。尼僧さん達も時々心配して声を掛けてくれる。さっき気になった新入りの子にも時々誰かが声を掛けている。やはり事情がありそうだ。今の日本に必要なのはこのさり気無い声掛けだと気付く。

4時頃お茶の時間となり、再びチャイが配られた。高地でかつ乾燥地帯であるラダックでは水分補給は重要。外では子供の声が増えている。学校からでも戻ったのだろうか?ということは子供と一緒に尼僧院に入った女性もいるということか。30名ほどが滞在していると聞いたが、その実情は全く分からなかった。

後で聞くと親子はあのコックの女性と男の子だけ。しかも子供も全員女の子と聞き驚く。6-8歳で頭を坊主にしていると男女の区別はつき難いが、彼女達には日本の女の子のような女の子っぽい仕草がないことに気付く。それでも実に可愛らしい。日本でいえば、昔の、自分が子供の頃の子供なのだ。今の日本では子供らしさ、可愛らしさも、作り物のように思えてくる。

1日目、何のプランもなく、何の働き掛けもない。頼みのP師はどこかへ出掛けて戻ってきていないが、急ぐことは何もない。既に自分の心が実にゆったりとしていることに自分ながら、驚く。

夕方7時でも外は明るい。そろそろ夕飯だろうかと思っていると尼さんがスープを持ってきてくれた。廊下に椅子を出し、風に吹かれながら飲んだ。豆が少しだけ入っているこの1杯は至極の味。もう夕飯は要らない気分。

電気が無ければ寝てしまう
椅子を外に出して五木寛之の「海外版 百寺巡礼 インド2」(講談社文庫)を読む。この本は成田で偶然目の前に飛び込んできた。上巻があるとは知らず下巻のみ購入。ブッダ最後の旅を五木が辿る物語だが、何となく胸に響くものがある。このままここで風に吹かれながら、一生を過ごしてもよいのではないかという気にさせる本。

少しして部屋に入ると電気が来ていた。この尼僧院では通常電気は一日に数時間のみ配電される。基本的には朝と夜。昼間に電気があれば嬉しい。ネットもブロードバンドの機嫌が良ければつながる状態。日本では考えられない。しかし電気が無い、携帯やネットが繋がらなければ、それは仕方がないこと。日本の電力不足、節電とは何か、再度考えてしまう。

それでも悲しいかな、電気が来れば途端に俗世に引き戻される。PCの充電を開始。デジカメの電気を使ってしまおうと外に出て、真っ青な空の写真を撮っていると尼僧のソーナムが走ってきて、携帯を渡す。何と日本のSMさんが無事を確認するため電話してくれたのだ。電気が無い、この状況での電話は天からの声にも聞こえ、有難い。

7時半に鐘が鳴る。比較的小さい子達が一室に集まり、お祈りを始める。外から覗いていると中へ入れと言われ、端に座る。年かさの一人が小型マイクで祈りを捧げ、残りの子たちが付いていく。この音楽のようなメロディーは頭に残る。小さい子供は着いて行けず、そしてまた一から繰り返す。

途中で電気が切れた。ここでは電気はいつ切れるかは分からない。それでも自家発電もあり、ロウソクも付けて続けられる。計画停電などという言葉が頭をよぎったが、ここでは似つかわしくない。一人が皆にお経の書かれた大きな紙を配る。各自練習するようだ。小さい子は2人で1枚の紙を見て、相互に学んでいる。

8時半、夕飯。チベット風うどんというものだろうか。どちらかというとすいとんを思い出す。実に美味しく、2杯も食べてしまう。

ここにはアメリカ人英語教師のハーデイがいる。彼女はダラムサラにもいたようで、2年間をインドで過ごす予定とか。インドスタイルの服装をしており、非常に目立つ存在。もっと彼女に話を聞こうとしたが、その時再度停電。

部屋に戻ったが、灯りはなく、自らの荷物すら分からないほどの暗闇の中に呆然と立つ。東京ではあの地震の際でも、こんなに暗いことはなかった。歯を磨くこともできず、着替えることもできず、ただベッドを探り当てて横になる。朝の光が起こしてくれるだろう。電気が来なければ寝てしまえばよい。




『インドで呼吸し、考える2011』(3)インドでは怒った方が負け

病は気から
車はタタ製。走り出すと空港の敷地が広大であることが分かる。何しろホテルは空港のすぐ隣という位置なのに何と20分も掛かった。特に道が悪いわけでもなく渋滞もないのに。ホテルに着くと門番が門を開ける。なかなか綺麗なホテルであった。既に時間は夜の10時、しかし航空機の離発着の音が響く。部屋はきれいで広く、これまでの貧乏旅行が板についた身としてはかなりの贅沢。

フロントでネットが繋がると確認していたが、上手くできずに電話する。そんなはずはないと言うが、ボーイがやってきてネットカードを持参し、これがないと繋がらないと言う。あーこれはチップを貰う手口かと思い、諦めて操作してもらう。特にインドの携帯を持っていないとID番号が取れないことが分かり、ボーイが自分の携帯でやってくれた。いくらチップを弾もうかと考えていると、彼は作業終了と同時にあっと言う間に部屋から消えていた。何だか申し訳ない気分になる。

ただ問題は電源。香港空港でソケットを買おうとしたが、インドに合うものが分からず、断念。結局ホテルでも日本製のコンセントは入らずに充電できず。余程ホテルに借りようかと思ったが、夜も更けて来ており、明日早いことを考えて寝る。

7月11日(月)
ふかふかのベットでぐっすり眠り、体調はかなりいい状態。取り敢えずホテル内を散歩。ここにはインドの喧騒は全くなく、涼しくて気持ちが良い。今日は3500mの高地に行くのだから体調だけは整えなければ。と言いながら朝ごはんを食べておこう。出発は7時だが、朝食は6時半から。微妙な時間帯だが、一番に乗り込み食べる。何だかインドに居ることも忘れ、マンゴジュースを飲み、マンゴのカットフルーツを頬張る。普通の日本人なら一番気を付けていることを平気で無意識にやっている。その自然体が重要だ。基本的に私はインドでこれまで中ったことはない。「病は気から」ではないだろうか。

インドで水を飲んだり、食べ物を食べると中る、という話はよく聞くが、日本におけるインド情報はつい最近まで「バックパッカー情報」が主だったことを思い出そう。彼らは敢えてインドの下層階級の暮らしを志向しているのであり、中流以上のインド人に言わせても「それを飲めば私も中る」ということになる。

また気候の違いも大きい。非常に暑い中を、日本人感覚でいくつもの観光地巡りをしたり、ビジネスに励めば、当然疲れ、消化力も落ち、体調不良になる。だから、私の旅は極めてゆっくり無理をしない。今回も空港で一夜を明かすこともできたが、敢えてホテルを取った。心のゆとりは大きい。

インドでは怒った方が負け
7時前にチェックアウトし、空港へ。昨晩20分掛かった所が本日は10分。ようは道の車線の関係などで行きは大回りしていただけであった。空港ではキングフィッシャーのチェックインにかなりの行列。主要都市行きもレイ行きも全て同じカウンターで行っている。昔ならイライラしただろうが、今は平然と順番を待つ。特にインドでは中国のような混乱はないので、待てば必ず順番が来る。

後ろの中国人はかなりイライラしており、しきりに係員に働き掛け、とうとう優先的にカウンターに進んだ。彼を見ていて昔の自分に重ねる。彼は相当のエネルギーを使って一見勝利を得た様だが、実は相当の疲労と興奮で、次にステップで躓きそうに見える。インドでは「怒った方が負け」「イライラした方が疲れるだけ」という感覚を彼から学ぶ。

チェックイン後の荷物検査はかなり厳重であったが、何故か水は取られなかった。空港内では香港と異なり、至る所に電源があり、座ってPCを打ちながら充電で来た。但し充電のスピードは遅く、半分しかできなかったが。電気店でソケットを購入。これがあればコンセント違いの心配なく、充電できるだろう、ラダックでも。尚ネットは無線を登録すれば使えた様だが、携帯番号が必要。私が持つ中国携帯はデリーでは繋がらず、登録は出来なかった。

天候によっては飛行機がディレーし、最悪翌日回しになることもある、と脅かされたレイ行きの飛行機も呆気ないほど順調に、定刻通り飛んだ。飛行機は昨晩同様キングフィッシャー。こちらは座席が昨日よりゆったりしていた。乗客は西洋人が多く、定員の半分程度であったので、特にゆったり出来た。それにしてもガイドブックなどには「この時期、レイ行きの国内線は予約が取りにくく・・」などとの解説があったが、なんだっただろうか。レイの街でも航空券を格安で販売している所もあった。

40分ほどでレイの上空へ。窓の外は素晴らしい景色になっていた。雪を頂き聳える山々、低い山には雪がなく、木々も見られない。その横に斜面にへばりつくように家々が点々と見える。うねるような大地に這うように生きる人間たち。不思議な感じがした。

『インドで呼吸し、考える2011』(2)キングフィッシュ―でデリーへ

3.キングフィッシャーで行く
今回の旅のルートを決めるのに意外と手間取った。これまでであればバンコック経由にして、バンコックに滞在し、知り合いに会うなどしていたから。しかし今回は料金を重視した。何しろ燃油チャージが相当上がり、しかも夏なので、以前聞いていたような値段ではとても取れない。

我がオフィスは旅行のプロが多数おり、どうやって安く上げるか聞いた所、「電話を掛け捲る」との答えだったので、取り敢えずHISあたりに掛けてみた。すると香港経由が安いと判明。ちょうど香港に行く用事があり、願ったり叶ったり。しかも香港まではJAL+ジェットエアーというから何となく安い。しかし念の為、インド関係の旅行社に問い合わせたところ、何とキャセイ+キングフィッシャーが更に安いと言う。

キングフィッシャーと自席で叫んだ瞬間、前の席に座る旅行お絵かき作家女史が「それだ、それに乗れ」とのたまう。聞けば前回インド行で乗ったそうで、そのCAの颯爽とした姿、機内食の美味さ、など申し分がなかったらしい。しかも何故か格安航空のジェットより安いとなれば、これで決まりだ。

因みにキングフィッシャーはビール会社が航空業界に参入したものだが、ビールでもアジアでは相当美味しいらしい。

7月10日(日)

香港で毎日たらふく食い、人と会い、そして節電日本にはない強烈な冷房のシャワーを浴び、満喫した雰囲気で空港へ。第2ターミナルは初めての経験。行ってみるとかなり空いており、キングフィッシャーのカウンターにはかなり列があったものの、デリーとムンバイ行は専用カウンターで直ぐにチェックイン完了。しかし何故かこのターミナルのイミグレが閉鎖されており、第1へ行き、そこから搭乗する。

キングフィッシャーは新参者のせいか、ゲートは空港の一番端に固まっている。機体はなかなか格好の良い鳥が描かれており、合格。CAはうーん、赤い服で颯爽としている感じはあるが。

機内に入ると後ろの方の座席のシートがおかしい。私の所から急に4席が3席になり、座席と前のシートがずれている。片足は椅子に下からはみ出すわけで、時々CAに踏まれる。隣に座った若者はインド人だがオーストラリアのボーイングで働いていた。彼曰く「やっぱりおかしい」。

乗客は満員で半数以上はインド人。中には飛行機に乗るのが初めてかと思うほど、はしゃいでおり、昔の中国を思い出した。騒がしい機内だったので、早々にインド音楽など聞く。気分は盛り上がる。

食事の時間となる。ところがこれが非常に効率の悪いもので、私の所に食事が来た時はもう片側は全員食事が終了していた。これは慣れていない証拠。食事の味はまあいいか。しかしコーヒーを頼んでももらえず、インド人達は盛んにボタンを押して要求を告げる。気の弱い私は仕方なく、後方へ行き、CAに頼むことに。

CAも如何にもビール会社のコンパニオン的な人もいるが、私のあたりの担当は韓国人かな、とにかくバタバタしていた。男性はCAきちんと服を着こなし、まあまあか。6時間近いフライトでこれだけバタバタするのは珍しい。どうやらこの航空会社、私には合わない。そして、帰り便のデリーで問題が発生する。

4.デリーの一夜
デリー空港
デリー空港に到着したのは定刻より30分以上早かった。さあいよいよインドだ、という気負いもなく、前回のムンバイ空港同様に淡々と進む。デリー空港はかなり大きな空港で、キングフィッシャーは相当端に停留するため、かなり長い時間を歩いてようやくイミグレへたどり着く。他の空港なら電車を走らせていることだろう。

イミグレは空いていて、直ぐに係官へ書類を渡す。ところが彼はパスポートと睨めっこで一向に進まない。昔中国や東南アジアでよくあった光景だが、最近は見慣れない。ようやく口を開いた言葉が「このビザで初めてインドに来たんだな」。何でそんなこと聞くの?と思わず言いそうになったが、さらに時間が掛かるのを恐れて、神妙に頷く。それでもまた書類に目を通し始め、進まず。次の質問は「どこに泊まるんだ」。既に書類に書き込まれているのだが、「読めない」と言う。結局暇潰しだったようで、次のお客がやってきたら直ぐに解放された。

イミグレの次に普通はバッゲージクレームがあるはずだが、この空港は何と免税店がいくつもある。その向こうで荷物を受け取り、出口となっている。北京などでも、ひっそりと免税店が置かれていたりはするが、この空港はちょっと異常。ここで買い物をするのはインド人であろうか。であればインドの商業化の象徴か。

イミグレを出るとホテルやレンタカーの運転手がきちんと待っており、混乱はない。予約したドライバーも直ぐに見つかる。出口付近の両替所で両替。日本円4万円を出すと「5万円なら免税だぞ」と言われて、あわてて1万円追加した。何でも免税?前回はA師の手配で両替をせずに100p札を大量にもらって便利だったが、今回は500p札を大量にもらう。今後使えるか心配である。空港内にはCitibankのATMがあり、カードがあれば、現金なしでもルピーを調達できそうだ。次回はチャレンジしよう。

車は4階建ての駐車場ビルにあり、大勢の人々がエレベータに乗る。この光景はムンバイと同じだ。少し前のインド、デリー空港を知る人からすると相当の進歩を遂げているらしい。我々は自分の持つインドのイメージを変える必要があるのではないか。

『インドで呼吸し、考える2011』(1)ラダックまでの道

【インド ラダック/デリー紀行~インドで呼吸し、考える】

1.ラダックまでの長い道のり
3月のある日、思い立って表参道にあるブティックを訪ねた。知り合いのHさんが開いた店である。Hさんは本業以外にヨーガを教えるなどの副業をもっている。私のようなものがブティックに居ることはどう見ても望ましくはないが、何となく時々訪ねるのである。

その日店でお茶を飲んでいるとHさんのPCが光った。スカイプでの電話であった。相手はインドのプネー在住のA師。世の中便利になった物だ。インドと日本で顔を見ながら話が出来るなんて。Hさんが今日は珍しい人がいるよ、と言って、私を電話口、いやPC口に出した。

突然のことで何を話したらよいか分からず、「何しているんですか」という超月並みな愚問を発してしまった。当然電話しているだよ、と返って来るかと思うと、さすがA師、答えは違った。「今ドネーションの小切手を切っています」と。ドネーション、一体誰に?

「ラダックのP師、知っているでしょう」、意外な名前が出て来た。P師はチベット伝承医学を納めた尼僧、将来のインド領ラダックを背負って立つ人物と聞いていた。5年前、彼女が初来日した際、ご縁があり、東京で会っている。

「あなたも寄付したんでしょう、それならラダックに行かなければ」とA師が畳み掛ける。確かにあることで2度ほどドネーションに参加している。しかしそれとラダック行きはどう繋がるのか。頭が整理できずにいると「P師はきっと何かをあなたに見せてくれますよ、何かを。それがインド的なんです」と背中を押しだす。日本では寄付したらそれでお終い、寄付したことをわざわざ知らせることも恥ずかしいような感じだが、どうやらインドは違うようだ。

確かにP師からも「一度ラダックにいらっしゃい」とは言われていた。東京に比べて格段に空気が良いと聞いていた。そうは言っても、3500mの高地、2-3日行くわけにはいかない。最低10日は来てほしいと言われるともうお手上げ。サラリーマンの限界を超えていた。

そのサラリーマン生活を終了した今年、ちょうどA師に背中を押されて、決意した。しかしどうやって行くのか、全く分からない。A師より「夏にヨーロッパ人のツアーがあります。全て面倒見てくれるし、ヨーロッパ人がインドやチベットをどう見ているか分かって面白いですよ」との助言もあり、早速申し込む。ところが・・1か月経っても何の返事もない。おかしいなと思い、知り合いのS女に尋ねてもらうと、何と「今年はヨーロッパが不景気で、ツアー募集が中止になりました。来年また計画するのでその時に」とのメッセージを受け取る。

これはご縁がなかったな、と諦めようとしたところ、S女がSMさんに相談。SMさんはご主人がラダック人で、P師の活動も支援しており、直接問い合わせてくれた。するとP師の答えが「アクセプト」であったとのことで、あとはSMさんが色々とアレンジしてくれ、単独でラダックに行く運びとなった。

2.インドビザ
前回北京でインドビザを取得するのに大変な労力を要した。あと一日遅ければインドへ行けなかったほどだ。そのトラウマは大きい。旅行社からはビザ代行しますとのメールが来ていたが、代金が1万円もした。自分で行けば2135円と聞き、しかもビザセンターはオフィスの近くとのこと。自ら出向く。

場所は茗荷谷の近くでありオフィスからは徒歩30分。夏としては決して近くはない。10時半ごろ行ってみると既に沢山に人々が順番待ちをしていた。申請書を書こうとすると前回の訪問地など色々と細かい項目がある。何と私は英語でデリーすら書けない。前回訪問地も書けずブランクとした。書類は一応英語書きなのである。普通の日本人には辛いのでは?

意外に早く順番が来て書類とパスポートと写真を提出。受け付けたのは実に小柄な外国人。インド人にも小さい人がいるな、などと勝手に決め込んでいたが、後で事情通に行くとあれはフィリピン人でボスがインド人にため、英語が出来てコストの安いフィリピーナが使われていると言う。知られざる東京の外国人マーケットを垣間見る。

彼女の私への質問は2点。1点目は案の定前回訪問地。英語で書けないと言ったらカタカナで書けとの指示。なーんだ。もう一つはインドを出国した後、2か月以内に再入国の可能性があると言うもの。基本的にはないと答えたが、2か月以内再入国禁止の意味はよく分からない。当然仕事の場合はOKだろうが??

そして面白いのがビザの受け取り。翌日の午後5-5時半の30分しか受け取れない。そんな馬鹿なと思うがこれがルールで例外はないと言う。実際に翌々日に取りに行ってみると5時前に屋外に長蛇の列が出来ていた。半数は旅行社の人らしく、インド人ボスに挨拶している。受取は呆気なく終わり、北京の時との違いがあまりにも大きかった。因みに北京で日数と費用が掛かったのは東京のインド大使館に照会を出すため。東京に住む外国人も同じ目に遭っている。