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《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》東北三省、山東—長い長い一人旅の果てに

〈11回目の旅−1987年5月東北3省、山東省〉
—長い一人旅

1.ハルピン
留学終了まで3ヶ月を切ってきた。前回のチベット、三峡下りですっかり自信をつけた私は遂に長期一人旅を決意した。これまでは何やかんや言っても誰かと一緒である。しかし本当の旅は一人旅。場所は東北を選んだ。5月初めであるからそう寒くないだろうという理由である。(私は旧正月後の後期授業を語学班から文学班に変更した。文学班は授業より論文重視であったので、時間的な余裕が出来今回の旅行も実現した。尚恐らく銀行派遣生で文学班に入ったのは、後にも先にも私だけではないだろうか?とても貴重な経験であった。)

取り敢えず何処へ行こうかと地図を眺めるとソ連の国境が目に入る。ここだ、と思い突然ハルピン行きの飛行機を予約する。チケットを得てから、先日昆明で再開した大学の同級生のKさんを思い出し、連絡を取る。また瀋陽に留学中の同級生KMさんにも手紙を出す。やはり一人旅は不安なものである。

第1日目。ハルピンまでは飛行機で4時間近く掛かる。当時上海—成田で3時間であるから、もっと遠い。結構長く感じられたのは、旅への不安であろうか?このまま着かないで欲しい、と思うのも、当時の中国の旅の特徴である。

ハルピン空港に降りると暑い。5月初めなのに何と24度もある。目一杯着込んでいた私はロビーで殆ど脱いでしまった程。空港からバスでハルピン駅に直行した。先ずはソ連国境、満州里までの汽車の切符を買わなければならない。これは一苦労だろうと覚悟して行くと、案に相違して、軟臥は簡単に買えた。しかも今夜の列車をである。ハルピンは帰りに見れば良いと思い、夜9時発の列車に乗ることにした。

2-3時間駅近くで時間を潰し、かなり早いが駅に行くと、何と軟臥の客のためにVIPルームがある。人民の雑踏と完全に切り離された静かな空間が駅の一角にあった。その部屋が又実にレトロであり、高い天井に大型扇風機がゆっくり回っている。恐らく戦前日本の満鉄が作ったものをそのまま利用しているのだろう。歴史が感じられるが、日本人としてどうして良いか少し戸惑う。

8時半頃駅員が列車へ案内する。駅構内はかなり暗く、一人で歩くとかなり恐ろしい。数年後ラストエンペラーという映画を見たが、その冒頭のシーンで溥儀が瀋陽駅で連行されていく場面があったと思うが、その時の映像とそっくりの情景が目の前にある。正に戦後40年、変わっていないのである。

2.ハイラルへ
列車に乗り込むと中国人が2人乗ってきて相部屋になる。当時は荷物を取られることも無かったが、一人旅だと何となく心配になる。動き出して1時間ほどで消灯になり、直ぐに寝込む。寝たときは結構暑かったので、Tシャツ1枚。

2日目。朝起きてビックリ。途轍もなく寒いのである。外を見ると川が凍っている。冬景色なのである。車掌が入ってきたので、聞くとマイナス10度だと言う。信じられない。昨日のハルピンの昼間が24度で、今が氷点下10度。中国は本当に恐ろしい国である。ベットを見ると毛布が2枚もある。車掌が夜中に私の為に掛けてくれたそうだ。感謝、感謝。

車掌が朝ご飯は何が良いかと聞く。こんなことは初めてである。部屋まで運んでくると言う。何でこんなに親切なの?暖かいおかゆを頂く。昨日乗り込んできた中国人も朝には居なくなり、4人部屋は私一人の利用となっていた。それで車掌が気を使ってくれている模様。食後も車掌が話し相手になる為、部屋に来る。不思議な気分だ。普段中国人に親切にされることが少ない私は、当初何か裏があるのではなどと考えてしまっていたが、その内本当の親切だと分かると心から感動した。

車掌曰く、この近くに大興安嶺という山脈があり、1ヶ月も前から大規模な山火事だと。1ヶ月消えない山火事。そのスケールの大きさに悪事であるにも拘らず、感心する。しかしここは寒くて仕方が無いのに一方では暑くて仕方が無い。何か不思議だ。昼も一人で部屋で食べる。しかし列車の食事にしては、結構いける。その頃から腰が痛くなる。何しろ既に乗車してから10数時間経過している。満州里までは未だ10時間近く掛かる。車掌がノートを前に差し出す。乗車した外国人にはサインを貰っているという。ノートを広げると多くの日本人の名前がある。よくよく見ると老人と思われる名前が多い。戦前の満州開拓団の人々が慰霊に訪れるという。

日本に居る時は満州開拓団など全く理解していなかったが、丁度留学中に残留孤児問題で孤児の多くが開拓団の子供であることを知ったばかり。後で知ったことは、その頃日本に戻った親が必死に子供を捜しており、その人々もこの列車に乗っていたことである。車掌は多くの日本人はハイラルで降りるという。お尻も痛いことだし、私も突然ハイラルで降りた。切符は3日間有効で明日満州里に行けば問題ない。ここまで20時間掛かった。

(3)ハイラル
ハイラルの駅前で地図を買おうとしたが、ここにはそんなものは無いと言われる。突然降りてしまったので、どうして良いか分からない。駅でホテルを聞くと国際旅行社へ行けという。国際旅行社の場所はバスで賓館前だという。何だか変である。ホテル前というバス停があればホテルもあるのである。兎に角バスに乗ると直ぐに到着した。やはりホテルの1階にあった。取り敢えずホテルの部屋を確保。何と外国人であるというとスイートルームに通される。しかしこのスイートルーム、窓ガラスは割れているは、お湯は出そうに無いはで散々である。既に夕日が西に傾いており、1泊は我慢することにした。15元。

国際旅行社に行くと、流暢な日本語を話す人が出てきた。聞けば吉林大学で日本語を専攻したという。吉林大学日本語学科といえば、中国一レベルの高い日本語学科である。しかしその頃は『分配』の時代。彼は卒業後故郷に戻らざるを得ず、その日本語力で開拓団の人々のガイドなどをして過ごしていると言う。実に勿体無い気がした。彼ほどの日本語力があれば活躍の場は幾らでもあるのに。分かったことはハイラルには特に見るべきところはないということ。夜はかなり冷えており、割れた窓ガラスが恨めしい。風邪を引かないように苦労して寝た。

3日目。昨日降りた時間に駅に行き、満州里行きに乗りなおす。駅で待っている時、中国人ではない人を見かける。先方も私を見ている。きっと華僑だろうと思い、思い切って中国語で声を掛ける。すると相手は『日本人ですよ。』という。驚いた。こんなところで同年代の日本人に会うとは。しかも彼もこれから満州里へ行くという。結局2人で行くことにする。

(4)満州里
4時間で満州里に到着。夜8時であるが5月で未だ外は明るい。同行の日本人Kさんの情報で近くのホテルに宿泊。2人で1部屋。夕食は食堂で。中国人は食券を買っていたが、我々は行き成り食事が提供される。これが美味いので勢い込んで食べる。2人で6元。その後も何が出ても同一料金であった。

4日目。愈々国境に行こうと思い、Kさんと一緒に国際旅行社に出向く。実はKさんは政府関連の機関から派遣された留学生であることが分かり、無用のトラブルを避ける為にもし聞かれた場合は私の同僚とすることにした。今でもそうだが、他国ではこちらが予期せぬ疑いを掛けられるもの。単なる旅行でも注意が必要である。旅行社では明日ジープを出してくれるという。確か200元はしたのでは?この辺りでは相当に高額であるが、ここまで来て国境を見ないわけには行かない。

満州里は国境であり、かなりの緊張感があるものと思っていたが、実際着てみると普通の街とあまり変わらない。特にロシア系の人々が目立つわけでもない。ホテルに商人風の男が多く出入りしていることぐらいか?国境貿易に従事しているのだろうか?

駅に行く。ここからソ連側は所謂シベリア鉄道である。モスクワまでは7日間掛かるという。この駅で面白い光景がある。何と中国とソ連では線路の幅が異なる為、この駅で列車の車輪を取り替えるのだ。2時間ほど見ていたが、遂に車両交換の場面を見ることは出来ず、どの様にして交換するのかは分からなかったが、確かに立橋の上から見ると駅の先で線路の幅が異なることは良く見えた。しかしどうして幅が違うのだろう?戦前の日ソ関係の影響であろうか?

5日目。とうとう国境へ。ジープは大草原、というよりも本当に何も無い原野を走り続ける。どうやってこの方向が正しいと分かるのだろうか?道も無いのである。このまま何処にも着かなかったら?かなりの恐怖を感じる。私はこれまでの人生でこんなところを走ったことが無い。

1時間ぐらい経っただろうか?ここが国境だと言われる。しかし何も無い。私が漠然と抱いていた国境とは柵があったり、兵が居たり、はっきりとした何かがある場所、境であるはずであった。ところが現実には向こうに微かに何かが見えるだけである。運転手は『あれがソ連の村だ』という。双眼鏡を貸してくれる。覗くと確かに家があり、煙が棚引いている。人の動く気配もある。よくよく見るとどう見ても中国人にしか見えない。運転手は『当たり前だ。ここは殆ど中国なのだから。』とことも無げに言う。その通りだ。私たちは見世物を見ているわけではない。中国領とソ連領の境である。中国系の人が多くてもなんら不思議は無い。突然オリンピックの体操選手でネリー・キムという美人選手がいたのを思い出す。あのころは何故韓国人がソ連選手をやっているのかと思ったものだが、皆地続きである。

ジープの停車した場所からもう少し先に行こうとした。突然運転手がそれ以上動いてはいけないという。教えられた国境線(微かな黒い線)までも未だ相当距離がある。何故と思ったが、素直に従った。周りに木も無く、隠れるところはまるでないのだが、もし中国の規則に違反した場合、最悪撃たれる可能性も考えなければならない。あの頃は妙な緊張感、危機感はあったのである。結局20-30分で引き返す。国境の感慨は何も無いが、何故か強く印象には残った。

昼ご飯を食べる為、草原の中の湖の湖畔に行く。正に一軒家である。そのレストラン以外に見渡す限り建物は無い。どんな料理を食べたかは、全く記憶がないが、強烈な記憶がトイレである。ウエートレスにトイレの場所を聞くと外だという。ところが外には何も無い。建物はこのレストラン1つだけである。もう一度尋ねると入り口を出て彼女は外を指す。指された辺りに行ってビックリ。そこには穴が2つあった。中国のトイレは扉が無いとか、何とか文句を言っていたが、究極のトイレが目の前にあった。

用を足せば丸見えである。更に使用後は穴に土を掛け、隣に新たな穴を掘るのだという。私は『小』だったので、大地に向かって思いっきり、気持ちよく放尿したが、これが『大』だった場合、果たしてことを成すことが出来たであろうか?当日は雲1つ無い快晴であったが、雨の日はどうするのだろうか?疑問は幾らでも出てきたが、とても聞ける雰囲気ではなかった。今もあのレストランはあるのだろうか?

6日目。国境の街、満州里を離れる。又24時間を汽車で戻るのである。今度は2人旅であったので、時間は直ぐに過ぎたような気がする。

(5)ハルピン
7日目。昼頃ハルピンに戻る。ハルピンに最初に着いた日がかなり遠い過去のような気がする。やはり列車で1日の旅を往復するとかなり疲れる。
ハルピン駅と言えば、伊藤博文だろう。1908年この駅で暗殺された。安重根は戦後韓国の英雄となっている。伊藤はどの様な思いで、異国の地で命を落としたのだろうか?
ハルピンは日清戦争後に東清鉄道が起工された時、本当に何も無い漁村だったと言う。その後鉄道開通と共に、東のパリ・モスクワと言われるほどの繁栄を極めた。鉄道の威力は恐ろしいものである。

Kさんと一緒にホテルを探す。確か駅からそう遠くない、華僑飯店に部屋を取ったと思う。2人で1部屋であり、まあまあ清潔でかなり安かった。

駅では明後日の長春行きの軟座が取れた。ハルピンでの行動は2日と決まる。
早々ハルピンで日本語教師をしているK女史に電話する。彼女とはこの前昆明で思いがけず再会し、その際東北旅行の際に寄る事を伝えておいた。明日の夜会うことにする。

初めてハルピンの街を歩く。他の中国の都市とは明らかに違う。道が何となく綺麗である。ロシア正教(?)のモスクが見える。坂道が洒落て感じられる。5月の東北は気持ちが良い。松花江は大河である。向こう岸が辛うじて見える。中州のようなところがあり、近くは感じるが川幅はかなりある。冬はこの大河が凍り、スケートが出来るという。中国とは本当に広いところである。

8日目。K女史と会うため、彼女の勤務先のハルピン師範(?)を訪ねる。建物は結構古かったが、上海の我が大学よりは歴史があり、洒落ているように感じる。ロシア建築なのか?彼女はここで一人で日本語を教えているのだという。私にはとても出来ない。冬はどうして過ごすのだろうか?

彼女がレストランに案内してくれる。ロシア料理屋だという。ビーフストロガノフやピロシキを食べた。何よりも驚いたのは、筋子であろう。どんぶりに山盛りの筋子が2つ運ばれてきた。1つ5元だという。そのまま食べられるというので、思い切って口に入れる。美味い、イクラのプチプチした感じがとても良い。食べている間に涙が出そうになる。私は決してイクラが好きだと思ったことは無いが、この北の果てで口に出来ることは感動物である。

夜街を歩くと、ロシア系の白人や中央アジア系の彫りの深い顔立ちの人が歩いていることに気付く。国境ではお目に掛かれなかった人々は実はここに居たのだ。出入りの厳しかったこの時代でも、北の外れでは国境貿易が盛んに行われ、人の往来はあったのである。K女史には『頑張って』と一言言って分かれた。しかしあれから一度も会っていない。

2.長春
9日目。佳木斯・牡丹江方面に行くというKさんと別れ、昼前の列車で長春へ。Kさんとはその後全くコンタクトを取っていなかったが、人生とは面白いもの。12年後に北京に赴任した際、長男同士が日本人学校の同級生となり、奇跡的に再開を果たすことになる。尚Kさんは私と最初に会った場所を満州里だと思っていたが、私は自分の記憶が正しいと今でも信じている。

軟座で快適に過ごす。ハルピンを出て少しすると、もう一面北の大地である。所謂地平線が見える。山も無い、建物も無い。その風景は延延と続く。戦前一旗揚げようと内地から来た青年の気分である。

午後長春着。ここが旧満州帝国の首都であった新京である。駅前から人民大街が真っ直ぐに伸びている。風が強い。かなり強い。砂が舞う。黄砂である。砂が目に入って痛い。見ると自転車に乗る女性がスカーフを顔に掛けている。驚くのはおじさんが何と、パンストを被って顔を覆っている。駅で瀋陽行きの切符を買おうとするが、何といっても無いという。途中駅から軟座を買うことは不可能だそうだ。硬座も難しい。初めて『無座』という切符を買う。自由席とでも言おうか?

ホテルは確か長春飯店ではなかったか?受付に行くと『1元だ。会社の紹介書を出せ。』とぶっきらぼうに言われる。紹介書などは無いと言うと『お前は華僑か?なら25元だ。』という。同じ部屋が何故そう違うのか?更に華僑でないというと『外国人は50元。』だと。驚く。そんなに違うのか?最後に学生証を出すと『じゃあ、華僑料金だ。』と25元を取られる。

街を歩いて行くと直ぐに新民大街に行き着く。ここら辺りは東京駅のような建物があり、旧満州国時代の建物だと分かる。今でもこのような建物が残っていること自体が意外な感じがする。しかもその建物を病院や役所として現在も使用している。中で働いている人々はどんな気持ちなのだろうか?既に戦後40年、特に感慨も無いのだろうか?

よく見てみると一人の老人が感慨深げに佇んでいる。この風の中で立ち止まっている人は珍しい。近づくと今にも涙を流しそうな顔をして、遥か遠くを見つめている。服装から日本人と判断される。きっと若かった時代に何らかの関わりがあったのだろう。このような老人は上海のバンドでも見かけた。一度などは本当に泣いていたので、物取りにでもあったかと思い、声を掛けると『50年前とちっとも変わっちゃいない。』とポツリと呟き、又一人の世界に埋没していった。

1987年の丁度この頃、上海ではスピルバーグが『太陽の帝国』という映画を撮っていた。バンドの裏道では看板の字を書き換えれば、そのまま撮影出来たそうである。そう言えばエキストラとして留学生が多数出演した。但し日本人は必要ないということで、専ら西洋人とインド人、アフリカ人が採用された。

ラストエンペラー、この映画は大分後に見た。長春に行った頃はあまり知識が無かったと思う。溥儀の人生は本当に時代の波に翻弄されたと言えるが、同時に旧満州に集まった幾多の日本人も時代の波に翻弄されたと言えるのではないか?最近はそう思うようになった。大杉栄を殺害したとされる甘粕大尉を坂本龍一が好演していたが、満州の映画水準は高かったようだ。李香蘭などを輩出した背景はもう少し勉強してみたい(日経新聞に本人が私の履歴書を掲載。非常に参考になる)。又満鉄も興味のある対象であろう。確かに日本は悪いことをした。しかしその時代に行われたことは今に繋がっているのではないだろうか?建物だけが残っている長春でそう思う。

余談だが、満州で活躍した民間人に小沢開作という歯医者がいた。その息子は陸軍大将板垣征四郎と関東軍参謀石原莞爾の一字ずつを取り、征爾という名前がつけられた。世界的な指揮者、小沢征爾である。戦争犯罪人(?)の名前を付けた指揮者を中国は受け入れるのだろうか?不思議な気分である。

夜今日が自分の誕生日であることに気付く。25歳になる。どうも毎年誕生日は寂しく過ごしていた気がするが、特にこの日は寂しかった。ホテルのレストランで夕食を取っていると日本人の女性が一人で食事をしており、向こうから声を掛けてきた。何時もであれば存分に話したであろうが、この日だけは何故か全く話す気になれず、直ぐ失礼してしまった。やはり新京の夜だったからであろうが?

10日目。午前中に長春を出発。無座の切符は本当に席が無かった。少し行けば席が空くだろうと思っていたが、案に相違して人は増えてくる。仕方なく、車両の連結部分で荷物の上に座る。ところが途中で掃除のおばさんが来る。おばさんは容赦なく、モップを使う。荷物があろうが人がいようがお構いが無い。おまけにバケツの水を思いっきりつけるので、床は水浸しで、座ることも出来なくなる。長春—瀋陽間の4時間は本当に長く感じられた。

3.瀋陽
瀋陽到着。旧満州の奉天である。駅前の遼寧賓館に向かう。旧大和ホテル。1927年創建と言われる。先日武漢で旧大和ホテルに宿泊し、その歴史的な建物に感動した。ハルピン、長春では既に無くなっていたのか見つからなかったが、ここ瀋陽では健在であった。簡単に泊まれないと覚悟していったが、意外や直ぐにシングルの部屋が出てきた。こじんまりしたその部屋はかなりレトロな雰囲気で気に入った。ロビーは昼間にも係わらず薄暗かったが、天井も高く非常に雰囲気が出ていた。

午後瀋陽故宮を訪ねる。清朝の前身、ヌルハチ、ホンタイジにより建立された宮殿である。その後北京に遷都されたため、かなりこじんまりしている。歴史好きの私はあの強大な清朝を築いた満州族のことを考えた。少数民族が中国を支配する、これは想像を絶する苦労があったはずであるが、我々はそのようなことを学んだ記憶が無い。

関東軍によって張作霖が爆殺されたのも、1931年に柳条湖で満州事変が勃発したのも、この瀋陽近郊である。本当に歴史がある街である。現在では9・18事変陳列館や張学良旧居陳列館などが整備されており、歴史を見ることが出来るが、当時は博物館があった程度か?あまり記憶が無い。

夜Kさんに教えられた朝鮮族の開いている焼肉屋に行く。ある道に所狭しと屋台がある。場所柄か朝鮮族はかなりいるようだ。キムチを食べると美味い。久しく味わうことが無かった味だ。焼肉も久しぶり。美味い。

11日目。遼寧大学を訪ねる。満州里で会ったKさんは未だ帰っていなかったが、大学の後輩Oさんが面倒を見てくれる。彼女は以前上海の我が大学に来て、1年後輩のKS君の部屋にもう1人の女性と泊まっていったことがあり、面識がある。当時上海では宿を確保することが難しく、市の中心から1時間も掛かる我が大学に宿を求めてやってくる人が結構いた。彼女は更に節約する為、KSくんの部屋に寝ることにしたようだ。確か余った布団を運んだ記憶がある。実はここには私の大学の同級生KMさんが留学しているが、今回は他に旅行に行っていて会えなかった。私は日本で大学に殆ど行かなかったが、同窓生たちは皆中国で活躍しており頼ることになる。不思議である。

※後輩OさんによるとKSくんの部屋に泊まった事情は違っていたようだ。以下説明。

『どうでもいいことですが、復大のKS先輩の部屋に泊まらせてもらったのは「更に節約する為」ではなく、前日はちゃんと宿泊料を払って復大に泊まりましたが、その日は便利な音楽学院に宿を移そうと復大をチェックアウトしてしまったところ、音楽学院へ向かう途中で連れの同学がバスから転落して腰を痛めて動けなくなった上、やっとたどり着いた音楽学院は満室で断られ、途方にくれてKS先輩に迎えに来てもらい復大に舞い戻ったものの、急だったので专家楼の高級部屋しか空いていなかったためです』

遼寧大学は北陵公園の近くにある。北陵はホンタイジの墓陵である。かなり広い敷地であるが、風が強く早々に引き上げる。留学生宿舎に行くと大騒ぎである。何と各国の留学生が散らし寿司を作っている。皆楽しそうである。我が復旦大学とは雰囲気が大分違う。やはり規模が小さいこの大学では各人の距離が近いようである。

Oさんの勧めもあり、夕飯をご馳走になる。散らし寿司と巻き寿司である。しかし当時の留学生としては凄いご馳走である。ワイワイ食べるのも良い。驚いたことにその輪の中に、ドイツ人の留学生が2人いた。何処かで見たことがあると思ったら、何と雲南省のシーサンバンナで夜一緒に歌って踊った人達であった(彼女らはドイツ民謡を歌い、我々は炭坑節を披露。)。日本人留学生の中には可愛らしい彼女らと文通しようと試みた人もいたので、思い出した。

留学生の話では、この宿舎は真冬で氷点下20度になっても、夜10時にスチームが切れる。その寒さと言ったらない。またシャワーの湯も一日3-4時間しか出ない。我が復旦大学はスチームもシャワーも何時でも使える。文句ばかり言っているが、如何に恵まれているかが分かる。

4.大連
12日目。大連へ。遼寧大学の日本人留学生も1人一緒に行くというので、2人旅となる。また驚いたことに例のドイツ人留学生も別途大連に行くというので、後日の合流を約す。前回の無座に懲り、今回は何とか軟座を抑える。軟座は6人掛けと4人掛けが左右にある。今回は6人掛けの真ん中に座る。風景を見、本を読んで過ごそうと思ったが、他の乗客が色々と質問してくる。この辺りの人々の日本に対する関心の高さが伺われる。6時間の旅があっと言う間に過ぎる。大連駅着。この駅は大きく感じられる。立派な作りである。遠めに見ると駅が高台にあるように見える。2階が出発、1階が到着だった気がする。空港みたいだ。

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大連には大学時代の知り合いの方がいた。実は昨年12月にその方を訪ねるべく、上海から飛行機に乗ろうとしたことがある。ところがどうしたことか、1日目は飛ばなかった。仕方なく、華東師範の宿舎に泊めて貰った。ここには同じ会社から派遣された留学生が居たのだ。何しろ復旦大学に戻るには時間が掛かるし、何よりも翌日又来ることは不可能に近い。一般の中国人は民航がアレンジする宿に泊まるらしいが、外国人が泊まるのは結構厳しい環境のようだ。

翌日も朝7時に集合したのに何のアナウンスも無く、飛ばない。昼に飛ぶのではと言う話があり、1時まで待ったが飛ばない。昼飯を食っていない。見ると日本人の出張者らしい人が揉めている。流石に1日以上待たされて何の情報も無いことに耐えられなかったらしい。私ももし仕事であったら到底耐えられないだろう。結局その騒動に巻き込まれる。通訳をしてくれと言う。しかしその罵るような日本語を訳すのは難しい、と言うより訳しても意味が無い。状況は民航側も良く分かっており、皆が関わらないように努力している。

最後は昼の時間が終わってしまった国内線の食堂ではなく、国際線のロビーに入れてもらい昼食を取った。中国で仕事するのは大変である。その後大連ではなく、ハルピンに行く飛行機が手配され、その出張者は去っていった。私も乗ることが出来たが、ハルピンー大連間は汽車で十数時間掛かる。ましてや12月、ハルピンは零下20度以下である。結局諦めてチケットを払い戻す。飛行機の飛ばなかった理由は大連の天候が悪いと言うことであったが、大連に電話すると快晴だと言う。後日我々の乗ろうとしていた飛行機が上海に着く前に墜落していたことが分かる。これにはかなりビビる。

それは兎も角、大連では知り合いのIさんにホテルの手配をして頂いた。場所は南山賓館、Iさんは南山賓館別館の戸建に住んでいた。ここは戦前日本人が住んでいた場所である。部屋は古いが清潔であった。

大連に着いて直ぐ、中山広場の近くに新しいホテルが出来ているのを発見した。例のドイツ人留学生も合流したので、洋食でも食べようということになり、その中のレストランに入ったが、そこは留学生には場違いなほど立派な洋食で貧乏留学生の我々はパンとスープとサラダを食べて早々に退散した。

その頃は確か港への道はスターリン街といっていたと思う。その道を行くと突き当たりに立派な港が見えた。大連港である。荷物を持ち上げるクレーンなども見え、規模はかなり大きかった。この港から40年前命からがら逃げたようとした日本人が居たかもしれないことなど全く感じられない。大連の街並みは極めて日本的である。低い日本家屋が彼方此方に残り、アカシアの木がいたるところにある。

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特に宿泊先の南山賓館付近はその面影を色濃く残しており、ここは日本かと思ってしまうほど。5月は季節的にも最高で爽やかな風が心地よい。最も相応しい時に来たものだ。昨日までは何で黄砂のシーズンに東北旅行に来たのかと思っていただけに喜びもひとしおである。

夜はIさん宅で夕食をご馳走になる。もう何ヶ月も味わったことの無い、日本の家庭の雰囲気である。奥さんが丁寧にお皿をテーブルに置くだけで感激してしまう。日本食である。これが私の求めていた日本の家庭料理である。この時私には分かった。我々は日本飯が食べたい、食べたいと何度も言っていたが、それはてんぷらや寿司ではない。テーブルに載っている醤油をちょっとかけたお浸しであり、サラダにかけるマヨネーズが日本飯なのであると。

大連の駐在は退屈だというIさんは毎晩テレビゲームで野球をやっている。物凄く上手い。その晩他の駐在員もやって来て試合をしていたが、一体どれだけ練習したのかと言うほど熟達している。私などは全く出来ないので観戦していた。しかし駐在員と留学生では待遇がこうも違うのかと思うほどIさん夫妻の生活は恵まれているように見えた。

13日目。街をうろついたが、よく覚えていない。昼に『清水』という日本飯屋に行く。昨日は日本飯の本来の姿を見つけた気がしたが、さりとて刺身が食える店があると聞いては行かざるを得ない。その店は純日本風であった。12時に行くと客は誰も居ない。メニューを見ると刺身定食が20元もする。当時の20元は上海でも相当使い出がある。かなり高い店だと思いながら、やはり刺身定食を注文。その定食が来てビックリ。何と刺身の船盛といった様相で、刺身が物凄い量載っている。これはとても食べきれないと思いながら、一口食べるとこれがこの世の物とも思われないほど美味い。この感激は今でも思い出すことがある。結局一人で全部平らげた。

午後ぶらついてホテルに戻るとIさんから電話で、『明日は海が荒れるので船が出ない可能性がある。今晩の船で行け。』と言われる。このあと私は山東半島に渡るつもりにしており、その切符をIさんにお願いしていたのだ。少し心残りであったが、今晩離れることにする。

実は私は大連でどうしようか迷っていることがあった。それは旅順に行くことだった。当時軍港である旅順は外国人未開放地区。しかしあの日露戦争の203高地・旅順監獄などは是非見たいと思っていた。Iさんには『中国人に成りすましてツアーに入ればお前なら大丈夫』と太鼓判を押されていた。ただ問題は昼飯の時に『糧票』という米配給券を持っていないと怪しまれる可能性があるとのことで、結局断念して船に乗ることにした。あの時旅順に行っていたらどうなっていただろうか?何かを見ることが出来たのだろうか?数年前に外国人に解放された後も結局未だに旅順に行っていない私なのである。

南山賓館をチェックアウトしようとすると問題が起こった。国際電話代を払えと言う。私は昨夜確かに日本に電話を試みた。しかし繋がったと思うと切れてしまい、話が出来ないで終わっていた。ところがホテルの記録では通話したことになっている。フロントに何度説明しても払え、の一点張り。支配人を呼んでもらい更に説明したところ、何と『支払わないなら、公安に連絡する。全国のホテルにもお前のような人間を泊めない様触れ歩く。』と脅しを掛けてきた。

日本人が良く利用するホテルでこのような扱いを受けるとは心外だ。しかし船の時間が迫っていた。Iさんに迷惑を掛けるわけにも行かず、しぶしぶ支払う。これまで最高の印象であった大連に汚点が残った。

5.煙台
煙台行きの船は夜8時に出航した。Iさんのお陰で1等船室に乗る。1等は2人部屋である。相方は山東地方の幹部のようだ。彼は最初二言三言話しかけてきたが、私にはそれがとても標準語には聞こえなかった。分からないで居ると先方も諦めて早々に寝入ってしまった。私は夜景などを眺めようとするが漆黒の闇である。何も見えず仕方なく、まどろむ。

どのくらい時間が経ったのか?船が停止する気配である。時計は午前3時。そういえば何時に到着するか聞いていなかったが、こんなに早いとは。船を下りると乗客は迎えのものや宿屋の者に伴われて何処かへ行ってしまう。下手に宿屋に着いて行くと危険だと考えた私は気が付くと完全に取り残されてしまった。全くの夜中である。全く知らない街である。これには途方に暮れた。しかも一人である。初めて一人旅の孤独をもろに味わった。

とうとう港の明かりも消えて、少しでも明かりのあるほうに歩き出す。しかし中国の田舎町の夜中は暗い。それでも不思議なのはたまに人が自転車に乗っていたりする。それが救いであった。それと外国人は絶対に襲われない、という観念である。これが無かったらとても歩くことは出来ない。フラフラ歩いていると明かりが見えてきた。今地図で見ると1kmもない所に煙台駅がある。そこに辿り着くのに物凄い時間が掛かったように思われたのは孤独のせいか?兎に角駅で腰を降ろす。6時に切符の売出しがあると言うので、2時間待つ。それ程寒くなかったのも救いである。

6時に青島行きの軟座を取る。本日12時発である。それまで煙台の観光をしようと思ったが、疲れで眠たい。小山の上の公園のベンチで寝ることにした。ところが太極拳が始まり、直ぐに起こされてしまう。他に寝る所も見つからない。仕方なく、郊外行きのバスに乗り、その中で寝ようとした。しかし中国のバスである。物凄い揺れである。道もでこぼこである。何回もしこたま頭を窓ガラスに打ち付けて寝られない。観念して駅で寝て待つことに。しかし不幸は続くもの。12時発の青島行きは何時になっても列車が来ない。相当遅れるようだ。食べ物も無い、寝ていない、極限状態に陥る。あの大連の幸せな生活は何だったのか?奈落の底に突き落とされるとはこのことだ。

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結局列車は夕方6時に煙台を離れた。私は既にグッタリしていた。隣の中国人が心配してくれた。ありがたいものだ。青島の泊まりはどうする、そうだこれが喫緊の課題。何と青島着は夜中の12時である。昨夜の二の舞だけは避けないと。中国人が言う。『駅前に華僑飯店がある。あそこなら外国人も泊まれるし、何しろ便利だ。』

6.青島
列車は12時に青島に到着した。今回は余裕があった。何しろ駅前のホテルに行けばふかふかの布団に寝られるのだから。しかし中国はそんなに甘くは無かった。一瞬でも甘い夢を見たものは地獄に落ちることがある。あの時の私が正にそうだった。駅前は暗かった。そしてきょろきょろしたが、ホテルらしい建物は無かった。ガイドブックで見ると確かに駅前にあるはずだ。その場所を探り当てると何だか工事現場のように見える。通り掛った若いカップルを捕まえて『華僑飯店はどこ?』と聞いて驚いた。なんとここだと言う。と言うことはつまり、・・・建て替え工事中だったのだ。目の前が真っ暗になり倒れそうになった。

それを見ていたカップルは心配そうに『ホテルを探しているのなら、一緒に探そう。』と言ってくれた。地獄に仏である。当時中国でこのような親切な言葉を聞くことは極めて稀であったから、涙が出るほど嬉しかった。しかし駅付近に明かりは乏しかった。彼らも当てがあるわけではなさそうで、つい言ってしまって後悔していたかもしれない。

3人で5分ぐらい歩くと明かりのある建物があり、3人の人が丁度中に入ろうとしていた。カップルの男性がそこに行き、そこの人と何やら話している。きっと説明してくれているのだろう。5分ぐらい問答があって、彼が戻ってきてOKを出した。泣きたいぐらい嬉しかった。お礼もそこそこに中に入った。中に居た男は無表情であった。確かにこんな夜中に突然客が来ては迷惑なのだろうと解釈した。登記は?と聞くと要らないという。宿賃は?と聞くと1元と答える。何だか妙だが、兎に角眠たい。部屋に案内されると既に数人が寝ていた。ベットが1つ空いており、そこを指されたので、直ぐに寝入った。本当に倒れ込むように。

翌朝朝日が目に入った。既に同室の何人かが起き出していた。6時である。未だ早いと寝ていると7時前に一斉に何かの音がした。目を開けて驚いた。同室の5人が皆同じ服を着て、ベッドの布団を片付けて居たのだ。それでも未だ夢現で、やけに礼儀正しい中国人だな、と思った程度であった。しかしベッドの中で何か引っかかるものがあり、再度目をあけてよく見ると恐るべき事態が認識できてしまった。彼らの服は紛れも無い人民解放軍の制服なのである。それが全員同じ服ということは・・・??

慌ててジャージのまま外へ飛び出す。建物の入り口の看板はやはり見ていけないものであった。『山東人民解放軍宿舎』それは今でも同じだと思うが、どう見ても外国人が立ち入れる場所ではなかった。昨夜のおじさんを探したが、居ない。と言うことはここで誰かに身元を尋ねられた場合、最悪のケースで逮捕連行されることもあり得る。咄嗟にそう判断し、急いで着替えて一目散に外へ飛び出した。

当時は今と異なり、中国人女性と街を歩いているだけでも公安の尾行がつくと言われた時代。知らなかったと言えば済むのかどうか?まあ冷静に考えれば、説明すれば何とかなったではないかと思うが、その時の異常な恐怖は今も鮮明に思い出せる。それが中国の怖いところなのである。まあその後日本人で人民解放軍宿舎に泊まったことのある人にお目に掛かった事はない。かなり異例、特異な体験であった事は間違いない。

何とか駅に向かった。先ずはこの地を離れなければ。駅で並んでいる間も誰かが追いかけてこないか心配であった。私の順番になったが、上海行きは3日先だという。一番早い列車は西安行きの硬座が今日あると言う。一瞬考えたが、その体力は無さそうなので、バスに乗り、中国民航のオフィスに直行した。

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オフィスに着くと人を掻き分けて係りの人に『今日の上海行き』と怒鳴る。当然の如く『没有(ない)』との答え。必死の私は『今日乗せないで俺が死んだら全てお前のせいだ。』と怒鳴る。先方もその剣幕に尋常でないものを感じたのか奥に引っ込んで5分ほど出てこなかった。逃げを打たれたかと思っていると、何故か『有(ある)』と言って切符をくれた。それは午後の上海行きだった。

何だかホッとしてしまい、力が抜ける。と腹が減る。よく見ると海岸が見える。そうここは風光明媚な青島である。昨夜の駅前は悪夢である。そう言っている様だ。王朝大飯店と言う立派なホテルがある。そこで飯を食う。美味い。景色も良い。このホテルには日系企業の事務所もあるようである。何だ、このホテルまで来れば何の問題も無かったのだ。しかし昨日の状態ではここまでとても来られなかった。兎に角早く脱出しよう。

青島の海は有名なようで中国銀行だの、何とか企業だのの保養施設が目に付く。中国では一生海を見ないで死ぬ人も多いと聞く。海辺では一生に一度海に入る人のために??海パンをレンタルしている。しかし人の履いた海パンを履く気分はどんなものであろうか?

昼民航バスで空港へ。道が悪く1時間半ほど掛かる。しかしこの頃にはかなり安堵しており、逃げ果せたという感じで夜上海で何を食うかなどと考え始める。ところがチェックインが始まり切符を渡すと横で待てと言う。どういうことかと食い下がると、係員は親切に『お前の切符はダブルブックだ。ほれ、ここに井桁のマークがあるだろう。これが証拠だ。もし満員でなければ乗れる。』と言われる。

また奈落の底である。どう見ても乗客は沢山いる。私が乗れない確率は高い。オフィスの人間は私の剣幕に恐れ、取り敢えず切符を渡したのである。しかしここはどうしても乗らなければならない。また青島の街に戻ることなど考えられない。係りを捕まえて『外国人は料金を3倍払っている。当然優先されるべきである。』と必死で訴える。とうとう係りは根負けして切符を出す。私はタラップに向かって走る。ドアが閉まる。漸く長い戦いが終わる。2時間後上海上空に来た時、あんなに嫌っていた上海が妙にいとおしく感じられた。

今回の旅は前半が快適、後半は中国の恐ろしさを嫌というほど味わった、特に青島では。1987年の中国とはこのような所なのである。今にして思えば、困っていた私を親切にも泊めてくれた解放軍のおじさんがいた、無理やり切符を出してくれた中国民航の人がいた、とも思えるのだが、その当時はやはりかなり社会が緊張していたのだ。杓子定規な社会主義国家であったのだ。自分も常にその緊張の中にいたということだ。

その後中国ビジネスに携わった時も今回の教訓は大いに参考となった。また余談を言えばその2ヵ月後会社の仕事で通訳をする機会があったが、相手は山東人。訛りが酷く言っている事は殆ど分からなかったが、この山東旅行のお陰で最低限の会話を成立させる事が出来、何とか面目を保った。

百聞は一見に如かず、とはやはり中国の諺である。

 

 

《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》四川、ラサ、武漢—天国に一番近い国と大河を旅する

〈9回目の旅−1987年4月チベット、三峡下り〉
—天国に一番近い国と大河を旅する

1.高級アル中
あまり書きたくないのだが、私は留学の途中から、ブランデーを飲むようになった。きっかけはこうだ。ある日和平飯店の売店に行くと、洋酒が目に留まった。誰かが、『あれは日本で買えば3万円はする。ここでは8千円だ。安い。』と言ったの聞いて、ヘネシーXOなるブランデーを1本買ってみた。夜数人で飲んでみるとこれが美味い。何しろここには氷が無い、と言うより水が無い。普通の水は硬水で飲めないし、ミネラルウオーターなど簡単に手に入らない。ストレートで飲んで美味しい飲み物がベストなのだ。

次に町に行った時も違うブランドを買った。その後1週間に1本ぐらいのペースで買い続けた。最初は数人で飲んでいたのが、その内一人で夜中に飲むようになる。3ヶ月で10本以上飲んでしまった。その頃には朝起きると頭がジーンと痛くなり、無意識にコップを掴むようになっていた。これはいけないと思い、隣で中医を勉強している人に、この症状は何かと聞くと、ずばり『アル中の初期症状だ』と言う。どうすれば治るかと聞くと『チベットに修行に行け。酒の飲めない同行者を1名選べ。』とのアドバイス。

勿論冗談だと思ったが、いっその事この際チベットに行ってみようかとの思いを抱いた。早々お酒の飲めない留学生Kさんに声を掛けた。二つ返事で決まった。但しKさんは好奇心は旺盛だが、体が弱い。因みに高いブランデーばかり飲んでいたので、その後暫く安い酒が飲めなくなった。これを称して『高級アルコール中毒』と呼ぶ??

2.成都
上海より空路成都へ行く。このルートは旧正月の折に逆ルートで帰っているので、既に経験済み。空港から何とか車を捕まえて、前回泊まった錦江飯店に向かったが、前回は簡単にチェックインできたホテルが、今回は何と言おうが泊めてくれない。時刻は既に夕方となり、どうしようかと思っているとホテルの従業員から『近くに外国人も泊まるドミトリーがある。今日はそこへ行ってくれ。明日は朝来れば部屋があるだろう。』と言われる。そう言われてしまえば、諦めるしかない。と同時に未だに中国のドミトリーに泊まったことが無かったことを思い出し、良い経験と思い直す。

そのドミトリーは古ぼけた大きな建物だった。沢山の中国人が泊まっているのが見える。受付で外国人である旨を告げると、別棟に案内される。別棟は多少きれいである。部屋にはベットが6つ、既に先客が4人居た。確か部屋代(ベット代)は5元。外国人料金だろう。4人の先客には驚いた。何しろ2人が女性だったから。フランス人のカップル、ドイツ人の女性、シンガポール人の男性と分かる。皆中国中を貧乏旅行している若者だ。我々は暫しの間、どうすればよいか分からず呆然としていた。シンガポール人が親切に仕来りを教えてくれる。

夕飯に出るとき荷物をどうするか迷ったが、持って出るわけにもいかず貴重品だけ纏めた。シャワーを浴びるときも貴重品をビニールに入れて持って行く。こんな基本的なことが分からない。何しろ初めてだから。消灯は10時だったか?女性はトイレで着替えをしたようだ。皆一斉に寝た。何だか変な気分だった。朝上海を出て疲れているはずなのに、眠れない。そのうち隣のベッドがごそごそ動く。フランス語らしい囁きが聞こえる。キスの音が響く。全く驚きだ、始めてしまったのである。皆一緒に寝ているのに、彼らは恥かしくないのだろうか?こちらが恥かしくなる。漸く寝静まった頃、時計を見ると午前2時になっていた。そうだ、今日から夏時間だ。午前2時が自動的に午前3時になる。またまた変な気分だ。明日は朝早く起きて、ラサ行きのチケットを買わなければ。

2日目。朝8時に民航オフィスへ。何とか明日朝のチケットを手に入れた。その足で錦江飯店に行き、部屋も確保。ドミトリー生活は一日で終了。既に前回成都の観光も終わっており、今回どうやって過ごしたか記憶が無い。

3日目。朝7時のフライトでラサへ。搭乗した人々(中国人が多いが、外国人も居る)は、皆一様に緊張していた。やはり海抜3,700mへの旅には興奮を覚えるのか?スチワーデスが『ラサは酸素が薄くなりますので・・・』と言ったところ、いきなり数人の中国人が自席の酸素マスクを落とす。そう言えば、飛行機に初めて乗る人はライトでもスチワーデスコールでもボタンを押し捲るので、当時中国ではスチワーデスは呼んでも来ないものであった。ただこの時は流石に数人が走り出し、大声で客を罵りながら体勢を立て直していた。

2時間後、ラサ空港に到着。皆空気が薄いと聞いているので、恐々歩く。まるで月面着陸のアームストロング船長のよう。その内慣れてくると普通に歩けることが分かる。バックパッカーなどは青海省よりゴルムト経由でラサに入るが、これだと最高5,000m以上の高さを越えて来るので、ラサ到着時に問題は無いが、飛行機で来るとやはり空気の薄さは実感できる。いきなり富士山の頂上に下りたのだから、無理も無い。空港の周りには何も無い。空港を作る為の平地がここにあっただけと言った感じ。しかし風景は素晴らしい。空は本当に青い。山々もくっきり見える。生まれてこの方、こんな原色の景色を見たことは無い。

さて、これからどうするかと考えていると1台のバスが来た。『ホリデーイン』と書かれたホテルのバスのようだった。民航バスならラサ市内まで4時間半掛かると言われて、このバスに乗る。バスの旅も素晴らしい。兎に角全てが原色。『空が青い、水が青い』というのはこういう色なのか、と思わず唸ってしまう。途中河が流れており、筏のような乗り物で人々が渡っていたり、湖の湖面が太陽の光で、キラキラと輝いていたり、目を奪われることが多かった。

ラサ市内まで2時間ほど掛かった(約100km)。こんなに遠いとは思っていなかった。バスから降りるとそこはホリデーイン、簡単にチェックインできる。そこでカウンターの女性が皆を集めて一言、『スリに財布を取られても絶対に走らないように。』。これで状況が分かった。やはり空気が薄く、走れないことと治安はあまり良くないことを。

バスの運転手が料金を集めに来た。FEC20元。ところがカウンターの女性がそれを聞いて、凄い勢いでバス運転手を罵り、逃げ出した彼を追いかけ、金を握り締めて戻ってくる。どうやらホテルの規定では10元だったようで、我々は10元の返還を受ける。彼女は信頼の置ける人のようだ。

直ぐに昼食の時間となり、ホテルの食堂に行くと普通の中華を食わせる。想像では食事が不味いと思っていたので、大いに食べる。おまけにビールも頼んで、1本飲んでしまった。食後部屋に戻ろうと思い、2階まで階段で行こうとしたが、5段ほどで息が上がってしまう。ビールのせいもあり降りることも出来ず暫し休憩し、何とか1階に戻る。エレベーターが必須なのも当然だ。

部屋で休んでいるとそれまで元気だったKさんの様子がおかしい。気分が悪いと言ってトイレから出てこない。どうやら高山病に罹った様だ。フロントに電話すると薬を持って行くがベットに酸素マスクがあるので、使うようにと言われた。Kさんをベットに寝かせてマスクを口に押し当て、スイッチを入れるとその内バタバタしだした。何と空気が出ていなかった。危うく人殺しだ??結局薬も飲んだが、Kさんは回復しない。

4日目。一人で外に出てみる。ホテルの前から、大きな通りを真っ直ぐ行くと左手にポタラ宮が見える。チベットのシンボル。市内から約100m上がる為、最終日に上ることになっている。もう少し行くとチベット最大の寺院、チベット仏教の聖地、大昭寺(ジョカン)に着く。寺院前に広場があるが、遠くから見ると何だかごみの山が見える。近づいて見ると、何とそれは女性であった。朝から蹲っている。チベットは太陽に一番近い国、一生の中に数回しか風呂に入らないと聞く。体中ボロボロに見える。その近くでは、多くの男性が所謂『五体投地礼』を行っている。ただひたすら水泳の飛び込みのようなことをやっている。

その横を通ると、子供が何人もやってきて、『お金を頂戴』と言う。皆ボロボロの服を着ている。可哀想に思い、一人にあげようとしたが、あっという間に数十人の子供に囲まれる。逃げるのが精一杯、寺の中に駆け込む。しかし・・・?チベット仏教では、男子は聖地に来て祈るのが本懐。家族を帯同するが、収入も無い。結果妻は路上に蹲り、子供は物乞いをする。宗教とは一体なんだろう?我々の常識は家族のために働くことである。彼らにはそのような概念は無い。家族も十分に理解しているはずである。全てが違う世界。違う世界がここにある。

大昭寺の中は四角形で、伽藍には触れて回すだけで功徳が積めるという円形の物体が無数にある。歩きながらそれに触れて一周する。外で五体投地している人間を見た後だけに、そんなお手軽なものはある筈が無いと思いながらも、一周回る。

外に出ると今度はおばさんが土産物を売りに来る。欲しい物は無く、断ったがどうしてもと言う。20元と言われたが、必要ないので1元なら買うと言ったところ、それで良いと言う。1元でそのペンダントを貰う。本当に後悔した。彼らは現金が必要なのだ。例え損しようが現金なのだ。そのような人間に対しては、安易に値切ってはいけない。その後旅をする場合は相手を見て値切ることを強く誓った。

午後帰りのチケットを買いに行く。民航のオフィスには午後1時半よりと書いており、多くの旅行者が既に待っている。しかし待てど暮らせど担当者は来ない。漸く3時になり、当然のような顔をして、担当者が業務を開始する。数人が抗議の声を上げたが、それに対して『ここはチベットだ。午後1時半とは中央の北京時間であり、我々の時間は正確だ。』との答え。確かに朝は9時に明るくなり、夜は10時に暮れる場所だ。アメリカのように国内にも時差を設けるべきである。但し担当者の発言は時差の問題ではないと感じられる。やはりここにはチベット問題が存在する。今年は入境制限が無かったが、前年も翌年も制限されたと聞く。漢民族が町にかなり見られたことから、中央も常に意識している場所なのだ。

5日目。Kさんは漸く起き上がれるようになりリハビリを開始。私はホテルで自転車を借り、ノルブリンカへ。ゆっくり自転車を漕ぐ。ノルブリンカはダライラマの夏の避暑地。確かに涼しげな林に囲まれている。実に爽やかな居場所である。建物が中国風でなく、西洋風であるのが目を引く。高原ホテルのようでもある。

午後南にある川を見に行く。比較的大きな川で小船が向こう岸に渡っている。もう少し上流に行くと橋が架かっていた。橋と川と向こうの青空は素晴らしい写真ポイントである。思わず数枚写真を撮る。すると後ろから背中を押す物が在る。振り返ってビックリ。何と人が立っている。この制服は人民解放軍だ。更に驚くには私の背中を押しているものは、銃剣なのである。声もでなかった。何が起こったか分からない。時間が止まる。

『何をしているのか?』北京語で兵士が尋ねて来た。思いの他柔らかい口調である。咄嗟に何と答えてよいか分からない。『空を撮っているのではないのか?』何故そんなことを言うのだろうか?えっ、えっ・・・?分かった。橋は解放軍の軍事機密。勿論私がスパイとも思えないので、彼は空を撮っていると言わせたいのだ。

『空を撮っている。チベットの空は素晴らしい。』と答えると、彼は大きく頷き、『そうだろう。』と言うと向こうへ行ってしまった。私はこの乾燥したラサで背中に大いに汗を掻いてしまった。連行でもされればどんな嫌疑がかかるか分からない。兎に角自転車をゆっくり?全速で?漕いで逃げた。

6日目。当ても無く道を歩く。Kさんも同行する。明日のポタラ宮見学に備える。ラサには路線バスは無い。遠くへ行くにはジープをヒッチハイクすると言う。我々も少しやってみる。比較的簡単に乗せてくれる。必要な人がいれば助け合うのは普通のことのようだ。小さな寺に入ろうとすると、ミルクの強烈な臭いがしてくる。おばあさんは腰に缶を下げており、お参りする時はその中からヤギの乳を出し、仏像などに掛けている。私はこの臭いが苦手である。結局お寺には入れない。そう言えば町全体が乳臭い感じはある。

7日目。愈々メインイベント、ポタラ宮へ上る。チベット仏教の統治のシンボル。階段ではなく、緩やかなスロープになっている。黙々と上る。Kさんは這うようにして、上る。3,700mから100m上がるのがこれほど大変とは思わなかった。上るとそこには無数の部屋があるようだ。我々に開放されているのは極一部。部屋に入ると何処も荘厳な感じはする。しかし所々の壁に曼荼羅が描かれており、一部に紙を張り見えなくしている。何気なく触ると捲ることが出来る。何とそこには男女の秘め事が描かれており、現在の中国政府の方針には合わないため、隠しているようだ。何となくお茶目な感じ。チベット仏教は特に男女の問題を隠したりしておらず、寧ろオープンにしている。確か日本でも後醍醐天皇の頃、立川流という密教が流行ったが、怪しい感じの流派であった。

ポタラ宮は100m高いだけあって、見晴らしは良い。ここから眺めていると天国に来た気分になる。下界には高い建物も無く、全てを見渡せる。遠くまで何もない、更に遠くに山が見える。あの山まではどのくらい掛かるのだろうか?ダライラマ14世が亡命するまで歴代ダライラマによって使用されていたのも頷ける。

河口慧海という日本の僧侶が100年前に鎖国状態のチベットに潜入した記録、『チベット旅行記』を読むと、ポタラは観音の浄土(スリランカ島を指す)と言う意味だそうで、100年前も見る人を引き込み感動させる、光り輝く場所と記させている。因みにこの旅行記は実に面白い。100年前に日本人が中国人に成りすましてチベットに潜入。様々な体験を経て、日本に無事帰国するのである。今書いている旅行記など恥ずかしくなってしまうほど、凄い内容の本である。機会があれば触りだけでも読むことをお薦めする。(流石に私は彼の足跡を辿る旅だけは出来ないだろうと思っている。)

8日目。本日成都へ戻る。真っ暗な中を先日来た道を戻る。空港に着くまで明るくならない。漸く明るくなった頃、出発。困ったことに私とKさんの間(3人掛けの真ん中)にチベットのおばさんが座る。これは地獄であった。決しておばさんが悪いわけではない。しかし乳臭いのだ。満席で席を替われず2時間耐え続けた。

成都到着後、また錦江飯店へ。すんなりチェックインして、明日の重慶行き軟座の切符も手配できる。体力の回復したKさんと相談し、重慶より三峡下りをすることにしたのだ。その後Kさんの為に以前も行った陳麻婆豆腐店へ。今回は全て上手く行き、美味しく食べる。

しかし翌日(9日目)成都駅より重慶行きに乗ったところ、Kさんが腹痛を訴える。どうやら昨日の麻婆豆腐が利いた様で、かなり腹に負担が来たようだ。ちょっとトイレに行くといったきり、何時までも帰ってこない。結局この汽車の旅は11時間ぐらいあったと思うが、その半分は1人で窓から外を眺めていた気がする。

その夜重慶着。取り敢えずバスに乗り市内中心の重慶飯店へ。重慶はアップダウンが多い。バスはかなり重い足取りで坂を上がる。自転車は少ない。暗い重慶の街をのっそり動くバス、それが第一印象。重慶飯店には簡単にチェックイン。Kさんはかなり疲れた様子でへたり込む。とても三峡下りなど出来る状態ではない。

10日目。Kさんの状態も省みず、朝から三峡下りのチケットを買いに行く。流石に混んでいて、1等船室(2人部屋)は何と2日後しか取れない。しかしKさんの為には良い休養だ。その後市内を見て回ったはずだが、全く記憶が無い。きっと印象に残る場所が無かったのだろう。

午後ホテルの中にある大手商社の事務所を訪ねる。旧正月に成都で訪ねた際、K先輩は既に重慶に異動になったと聞いていたので。商社の駐在員とはどんなものか非常に興味があった。何しろ2年の間に北京、成都、重慶と3場所目なのだから驚く。

事務所のある部屋の前に行くと確かに看板はあった。ホテルの2部屋を改造した事務所。しかし中からはけたたましい北京語の話し声が聞こえる。中国人スタッフが客と口論していると思い、暫し待つが止まない。終にノックして部屋に入る。正面にK先輩はいた。彼は台湾育ち、言葉の問題は無く激しい口論の主役であった。この激しいやり取りに押されて早々退散した。K先輩はかなり驚いた様子であったが、取り込み中で構う暇がなかったはずだ。その後10年以上経過した2000年に北京のゴルフ場で偶然再会したが、その時は広州駐在だった。一体どれだけの中国を経験したのだろう。私など足元にも及ばない。

夜はホテルで食べる。成都で体調を崩したKさんの為に出来るだけ辛くない中華を食べさせようとホテルのフロントで相談したところ、このホテルのレストランは大丈夫と言われる。そう言われても信用できないといった面持ちだった彼だが、本当にここの料理は辛くなかった。食事は毎日ここになってしまった。

11日目。体調の戻ったKさんは折角だから観光に行こうという。郊外に見るところはないかと調べると大足という地名がある。仏像が物凄い数安置されていると言う。成都に行きながら、樂山の大仏も見ていなかった私は行く気になる。大足までは168km、車をチャーターしたが、道が悪く、何と片道4時間以上掛かった。着いてみるとそこはかなりの田舎であったが、観光地でもあるらしく、人はそこそこいた。確か宝頂山と北山の石刻群を見たはずであるが、記憶が薄い。思い出すのはひらすら壁に仏像が並んでいる風景と、かなり大きな涅槃物があったことぐらい。しかし800年も前に良くもこんな所に仏像群を作ったものだと感心した。

又覚えている事はホテルの人が大足のレストランは衛生面に問題があるので、必ず箸を持っていくようにと言っていた事。当時レストランが不衛生なのは当たり前でそんな事を言う中国人は少なかったが、彼女はホテルの食堂から箸を二セット持って来てくれた。昼食のレストランは確かに奇麗とはいえなかったが、何故か中国人観光客も皆箸や食器をお湯で洗っていた。きっと何か謂れがあるのだろうが、とうとう分からなかった。

12日目。三峡下りに出発した。船着場に行くと既に大勢の人が来ており、ごった返していた。午後に出発となったが、乗船する人も多く、なかなか出発しなかった。後になって考えればその時の遅れなど大したことはないのだが。船は大きかった。1等から5等まであったのではないか?我々は贅沢にも1等船室で、2人部屋である。一般船室とも仕切られていて、まるで貴族のような待遇であった。一生に一回ぐらいはいいか?船室は広くはなかったが、快適。それに服務員のお姐さんがほぼ専属でついていた。船が動き出すと彼女はお茶を運び、夕飯の注文を取る。なかなかきびきびした愛らしい女性であった。

夕食は部屋に運ばれてきた。中国でこのようなサービスを受けることは先ず無い。素直に大感激。Kさんも元気にパクついている。夕食後船内を見学に。5等は船底といった感じで、行商の人が大きな荷物を置いて乗っている。きっと途中で降りるのだろう。2−3等には西洋人や日本人なども乗っており、4−6人部屋で外人向き。船内は暗い。デッキに出てみると外はもっと暗い。漆黒の闇が目の前にあった。部屋でもすることが無く、早々に床に就く。

13日目。朝5時頃突然部屋のドアが叩かれ、外ではお姐さんが『三峡に着いた。』と叫び声をあげている。そう、三峡下りとは3つの峡を見るのがメインのである。最初の『瞿塘峡』に着いたのだ。瞿塘峡には有名な白帝城がある。三国時代に蜀の劉備が死んだ場所で、現在は劉備を祭る白帝廟が建つ。李白にも白帝城を詠んだ有名な詩がある。

実際に外に出てみると白帝城は既に通り過ぎており、断崖絶壁が見えるが何処が何処かは良く分からない。但し歴史的な名所に到着し、早く見ないとどんどん流れて行ってしまうという観念から皆異常に興奮している。Kさんも写真を取り捲る。僅か20-30分だったと思うが通り過ぎた後は虚脱感があった。部屋に帰り寝直す。9時頃又お姐さんが騒ぐ。2番目の『巫峡』に到着。巫山などの山並みが美しい。前回より三峡に来た感じがする。長さも大分長い。ゆったりと鑑賞した。

ふと気が付くとKさんが居ない。部屋に戻ると寝ている。声を掛けると熱があると言う。先程の瞿塘峡で写真を撮った際、かなり水飛沫を浴び、寒気がしたとのこと。あんなに元気だったのに。お姐さんも心配して見に来てくれる。お粥が運ばれてくる。三峡どころではなくなってきた。しかし船旅とは退屈なものである。似たような景色をずっと見ているしかない。ましてやKさんのように寝込んでしまった場合、兎に角一刻も早く陸地に上がりたいだろう。

昼過ぎに3番目の『西陵峡』に着いたが、その頃にはもう他の客も含め、あまり関心を示す者は居なかった。この西陵峡は中国四大美女の1人、王昭君と戦後時代の詩人屈原の故郷であるが、船の上からでは思い描くものもない。その後宜昌と言う所で珍しいものを見る。河が堰き止められており、河に段差がついている。上手い具合に船は段差を渡って行く。水が上から下へ。不思議である。その夜はKさんの疲れが心配であったが、明日の朝には武漢に上陸できるので、問題は無いと思っていた。

14日目。朝武漢の近くに来ているのが分かる。船のスピードが落ちている。さあ、もう直ぐ上陸だ、と思っていたが、昼になっても到着しない。昼飯が出るがもう食べる気がしない。Kさんは寝ているのもウンザリといった表情である。結局上陸できたのは夕方。ほぼ1日武漢近くで待たされていた。フェリーターミナルが塞がっていたとの理由であったが、本当のことは分からない。上陸すると体が揺れている感じで歩くのも上手くいかない。ましてやKさんは体を支えてあげないと歩けない感じ。兎に角手近なホテルを探す。旧大和ホテルにチェックインできる。ホッとした。

このホテル、非常にレトロな雰囲気があり、天井が高い。実はこの日武漢は相当の暑さで4月だと言うのに日中は30度を越えていた。この気温も我々の体力を奪う原因になっていたがその高い天井に大きな扇風機がゆっくり回っているのが印象的であった。部屋も広めで窓も洒落ていた。勿論相当古くなっていたが。

武漢三鎮、武漢は3つの街から成っている。漢口、武昌、漢陽。我々は今漢陽に居る。夕飯を食べる為にレストランを探している。長江の辺を歩く。爽やかな風が吹いているがそれでも汗が噴出す。所々にヨーロッパ風の建物がある。

夜部屋に戻ったが、暑い。また船から上がったばかりで未だ揺れている感じが残り、寝付かれない。それでも何とか眠っていたが、朝5時には辺りが明るくなる。ふとトイレに起きてビックリ。窓も部屋のドアも全て開いている。おまけにKさんが居ない。泥棒が入ったのか?天井の扇風機だけがゆっくり回っている。慌てて部屋の外へ出ると、何と廊下にKさんがへたり込んでいる。愈々事件が起こったのかと焦ったが、実はKさんが暑さのあまりどうしても寝付かれず、あらゆる手段を取った結果だったのである。と言うことは私は結構暢気に寝ていたことになる。

15日目。Kさんの衰弱は激しい。これは上海に戻ったほうが良いと言う判断になり、朝民航オフィスへ行く。しかし案の定チケットは無いと言う。どうしても帰る必要があったので、思わず『この人の様子を見ろ。外国人を見捨てると問題だぞ。』というとあっさり明日の上海行きを2枚出してくれた。

チケットを手に入れると安心したのかKさんは急に元気になった。折角武漢に来たのだから観光しようと言う。午後車をチャーターして、黄鶴楼に行く。やはり武漢と言えば黄鶴楼であろう。三国時代に建てられ、南昌の騰王閣、岳陽の岳陽楼と並ぶ中国3大名楼の1つ。李白の有名な『孟浩然を送る』の詩が印象的。現在の楼は1981年に再建されたもので新しい感じであった。階段がかなり多かったのを覚えている。

武昌地区では東湖に行った。大きな湖である。博物館があったと思う。武漢と言えばもう1つ、辛亥革命であろう。1911年10月10日の武昌蜂起から始まった。聖地とも言える。但し日本を含めた列強の侵略を受けた都市と言う面もある。交通の要所であった武漢は歴史的には様々なことが起こった場所である。

尚武漢と言えば中国3大竈の1つでもある。昨日も4月だと言うのに30度を越えており、上海などからは考えられない暑さである。何故こんなに暑いのか?残りの2つは重慶と南京であり、何れも揚子江沿いの場所である。内陸部である以外にも何か理由がありそうである。そう言えばその後重慶を訪れた際、工場は40度を越えると自動的に休業となると聞いたことがある。その為、平日はどんなに暑くても39度以下でしか気温が発表されない。本当はもっと暑いらしい。

16日目。半月続いた旅が終わろうとしている。今回は結構色々とあった。飛行機は12時発。当時国内線は一般的に1-2時間は遅れる。空港も近いと言うことで、30分前に到着するように車に乗る。

空港に到着するとやはりカウンターに上海行きの案内が無い。また遅れているな、と思ったが、念の為係員を探して上海行きが何時に出そうか確認した。係りの女性は我々のチケットをチラッと見て、ビクッとしたように『急げ、走れ。』と叫ぶ。何が起こったのか?

滑走路の近くを見ると飛行機が一台停まっていた。『あれだ。』後ろから声が掛かる。荷物を持ってKさんと走り出す。当時地方空港で搭乗する時は普通歩いて飛行機の所へ行く。我々は走る。近づくとスチワーデスが扉を手で閉めようとしている。大声で待て、と叫ぶ。何とか間に合った。我々が乗り込むとそのまま飛行機は滑走路に向かい、即座に飛び立ってしまった。まるで映画のようだった。

飛び立ってから急に不安になる。本当にこれは上海行きだろうか?スチワーデスに確認すると間違いないという。何故定刻前に飛び立ったのか?スチワーデスの話だと政府要人が来ることになり急に空港を空けなければならなくなり、出発したのだと言う。ここでも中国の恐ろしさを感じた。国のトップクラスが来ること自体が重要機密なのである。もしかすれば鄧小平が来たのかもしれないが?

横でKさんが又グッタリしていた。チベットと三峡下りを一度にこなすのはかなりしんどいものであったが、本当に貴重な体験の連続であった。上海が妙に懐かしい旅となった。

 

《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》桂林、広州、福建—いきなり桂林、ようやく福建

〈8回目の旅−1987年3月桂林、広州、福建省〉
—いきなり桂林、漸く福建

1.上海空港
旧正月のシンガポール、香港旅行の余韻は大きかった。その後半月は日々ボーっとしていた。生活にあまりにギャップがある場合、所謂腑抜けになってしまうことがあるのをこのとき知った。どうにも仕様が無くて、また香港でのアドバイスに従って、何処かへ旅行に行くことにした。留学生仲間からアモイがよいと言われたので、福建省に行くことにした。特に目的は無かったが、何となく行って見たくなる場所だった。台湾に近いからか?

いつものようにチケットを入手し、当日意気揚々と空港へ。ところが着いてみると直ぐにアモイ行きの欠航が決まってしまった。明日朝飛ぶからと言うことだったが、信用できない。人民と一緒に民航が安配する宿に泊まる気にはとてもなれない。調べてみるとこの後何便かが、他の都市に行くことが分かった。同行のCさんと相談して、桂林行きに乗ることにした。

しかし当時チケットの行き先を変えることは容易ではない。意を決して弁公室へ行く。普通のトランスファーカウンターなど無い時代だ。だが案の定誰も相手をしない。相手をすれば自分の仕事が増える上、外国人だから下手な応対も出来ないからだ。なおもこちらが粘っていると一人が面倒くさそうにチケットを見て『ダメ,ダメ、満員』と手を振る。そのやる気の無い素振りに闘志が沸く。私も既に中国流に慣れてきている。『主任(責任者)を出せ』と迫っていると何と偶々その主任が出てきた。私の要請を聞くと『OK』と一言。サッとサインするとさっきまでやる気の無かった係員もサッと動く。これが中国だ。

1時間後搭乗してみるとガラガラ。流石桂林は外国人の行く観光地だけあって機体もかなり綺麗だ。2時間のフライトで桂林に着いてしまった。上海で大学に戻るのと大差ない時間だ。しかし空港に降りた途端、驚いた。あたり一面あの山水画の桂林だ。山、山。少し霞んだ夕暮れの景色。暫し見とれてしまう。

2.桂林
空港を出るとはたと困る。何しろ桂林に来る予定は全く無く何の情報も入手していないのだ。何処に泊まればよいのだろうか?ところが出たところに沢山の客引きが待っている。皆ホテルの従業員のようだ。日本で言えば、温泉町に来たような感じだ。皆口々にうちに泊まれと言う。今ではこの手合いに係わるととんでもないことになるかもしれないが、当時このような風景を見ることも無かったため、そのうちの一人に付いていくことにした。

離江飯店というまあまあのホテルに簡単にチェックインした。これまでの旅がいつも自ら自力でホテルに辿り着き、交渉を重ねてチェックインしたことを思えば、極楽旅行だ。流石観光都市桂林だ。ホテルの部屋からも山並みが見える。養毛剤のコマーシャルで『不老林』というのがあったが、正にあの景色だ。感激。

夕食をホテルのレストランで取る。味もまあまあ。その後散歩に出る。小さな湖の横を歩いていると土産物を売っている店がある。中国の都市は当時夜は暗くて店も早く閉まるのが普通。露店を見るのも久しぶりで、何となく浮き立つ。歩いている我々の横を男が走り去ったのは一瞬だった。どうやら泥棒のようだ。今ではよくある光景だが、その時は驚いた。泥棒を初めて見た。既に桂林は資本主義社会に入りかけていたということか?

2日目。昨日ホテルに2つのことを頼んだ。1つは本日の河下りのアレンジ。もう1つは明日の広州行きの航空券。ホテルにこんな手配を頼めるのも桂林ならでは。灕江下り、桂林観光のメインイベント。これは今も変わらない。あの山水画の風景が堪能できる旅だ。ところが3月は水量が少なく、全行程は出来ないという。ガッカリしてバスで途中まで行く。1時間ほど行ったところから乗船した。一緒に乗っているのは華僑と思われる観光客が大半だ。シンガポール人などもいた。船が動くと皆上に上がり、写真を取り捲る。歓声が上がる。大騒ぎだ。ところが30分もすると皆下に降り、席に座る。飽きてしまうのだ。いくら凄い景色でもずーっと同じものを見ているのは流石に飽きる。船内で食事も出てきたが、不味くて食えない。河では洗濯している人や野菜を洗っている人が見え、その方が興味をそそられた。

2時間後陽朔に着く。皆ホッとしている。してみると水量の多い夏場にこの船に乗った人々は6時間の辛さを味わうわけだ。3月でよかった。陽朔は船下りの終点であり、土産物屋が待ち構えている場所である。おばちゃんが煩く言ってくる。今では閉口してしまうが、当時は声をかけられることも珍しく、色々と話したりした。でも売っているものはとても買える様な代物ではなかった。帰りは80kmのバスの旅だが、殆ど寝ていた。

3日目。広州行きの航空券は簡単に手配され、夕方出発。その前に桂林市内を観光した。鍾乳洞と動物園のある七星公園、桂林で一番高い独秀峰など。何となく覚えているがあまり印象には残っていない。桂林では何といっても社会主義でない旅行のアレンジが一番の感激であった。

3.広州
夕方桂林空港に行ったが、雷雨となっていた。飛べば僅か1時間のフライトであったが、4時間は遅れた。広州白雲空港に到着したのは夜10時頃だったと思う。当時この時間に見知らぬ空港に着くのは恐怖であった。何故なら空港は町の郊外にあり、市内へのバスなどがあるかどうかも不明であったからだ。更に市内に入っても宿泊できるかどうかは分からない。

広州に関してはこのような不安は全て杞憂に終わった。空港から出ると多くのタクシーが整列して待っていた。直ぐ乗り込んで市内のホテルを頼むと東方賓館に連れて行ってくれた。僅か10分ぐらいだった。何とタクシーにはメーターが付いており、メーターが示す料金が請求された。当たり前のことではあるが、中国では当たり前のことが無かっただけに非常に驚いた。ホテルも直ぐにチェックインできた。他の都市とは全く違っていた。

4日目。先ずは民航オフィスへ。上海に帰るチケットを押さえなければならない。ところが、オフィスは人でごった返していた。上海も酷いが広州は何倍も人が居る。30分ぐらい待ってやっと窓口に辿り着いたが、何と上海行きは半月先しかないと言う。何と言っても梃子でも動かないし、後ろには大勢の人が待っている。思わず『上海付近』と言った。すると明後日のチケットがあると言う。てっきり杭州か南京だと思っていたが、何とこのチケットは『福州行き』だったのだ。

後ろの人が急かすのでとうとうそのチケットを買ってしまった。しかし上海付近が福州とは?上海−福州間は列車で何と22時間もかかっていた。これを付近と言うのだから中国も大きい。我々は元々福建省に行こうとしていたことを思い出し、大いに妥協することにした。(恐らくは付近と言う単語と福建と言う単語を聞き間違えたのではないだろうか?)

それから広州市内を観光した。中山記念堂、越秀公園、広州動物園などを見て回ったが、あまり印象に無い。それより街中でメーターを付けたタクシーを簡単に捕まえられることに有頂天になり、何度も乗ったのを覚えている。広州の友誼商店では、ゼブラの黒のボールペンを買った。当時中国では青のボールペンを使っており、黒は無かった。無いとなると欲しくなるのが人間というもの。探し回っていたが、とうとう見つかった。2ダース買ってお土産にした。

夜は白天鵝賓館に行く。ここに平田と言うに日本料理屋がある。味も良く、嬉しくなって食べる。このホテルは非常に素晴らしいホテルでロビーから吹き抜けで大きな壁画がある。場所も珠江に面しており、ロケーションも良い。(因みにこのホテルもこのレストランも現在も健在)

夕食後、ブラブラしていると清平街という市場に出る。ここは正に『食在広州』と言われる場所で、何でも売っている。牛、豚、鳥は勿論、アルマジロ、狸、大蛇、犬、猫なんでもござれ。とても我々が食べられると思えないものが並ぶ。ペットショップと勘違いしそうだ。また人が多い。薄暗い中皆熱心に買い物の品定めをしている。食にかける情熱が伝わる。因みにこの市場は2003年のSARS騒ぎの時、に急に廃止されたと聞く。やはりSARSの原因はゲテモノ食いにあるようだ。

5日目。前日と同じように町をぶらつく。兎に角広州という町は当時中国で最も進んでいたのではないかと思う。今行ってみると北京、上海と比べて、発展の度合いが少ない。ある時発展が止まってしまったのか?憧れの街広州、今では考えられないかもしれないが。

4.福州
6日目。愈々福州へ。今度は飛行機も遅れることなく、出発。2時間ほどで到着。福州の空港は閑散としており、田舎。空港内でCさんが上海行きの切符を求めたところ、今日でも明日でもあると言う。広州ではあれほど手に入らなかったのに、何故なのだろう?

結局Cさんも1泊することになり、市内へ。福州は小さな町であるが、何となく古都の趣がある。取り敢えず華僑大廈にチェックイン。華僑の出身地である福建、広東などで困ったときはこの華僑大廈(ホテル)が便利。安くて確実と聞いてがその通り。ここの料金は中国人、台湾香港同胞、外国人の3種類であるが、我々留学生は同胞料金で泊まれる。確か1泊30元ぐらいだったと思う。町の中心に白塔がある。車は少なく、歩いて散歩しながら見学。広州に比べて肌寒く、特に夜は涼しかったのを覚えている。

7日目。開元寺に行く。ここは空海が訪れた寺で『空海入唐の地』という石碑があった。こんなところに来て、日本を感じられるなんて、やはり日中は深く歴史で結ばれていると感じた。その後上海に帰るCさんと別れて、華僑大廈にもう1泊。これが中国で1人で泊まった初めての晩となる。何となく寂しい感じがして寝付けない。

5.泉州
8日目。折角ここまで来たのだからと、アモイを目指す。バスで約8時間と聞いていたので、かなり緊張する。以前南京から揚州に行くバスに乗り1時間で故障した事実もあり、もし一人で取り残されたらどうしようと不安になる。

案の定外国人は1人だけ。但しバスは古いが豪華バスといった感じで、テレビが付いており、台湾映画を上映していた。やはりここは台湾に近く、かなり影響を受けている気がした。道中の景色も以前行った台湾を思わせる木々があり、長閑で良い雰囲気だった。5時間ぐらい行った所で、バスが停まり昼食となった。何とこのバスは昼食付きなのだ。まあ中国人は食べることを一番重んじる民族であるから、当然かもしれない。但し飯は不味かった。

再び乗車したが、何だかバスに飽きてしまった。どうしても降りたくなった頃に数人が下車しようとしたので、地名を聞いたところ泉州という。これは聞いたことがある地名だと思い、一緒に降りることにした。ところが降りてビックリ。市内ではなく、郊外で下ろされたらしく、周りに何も無い。下車した人々はどんどん何処かへ行ってしまう。また取り残された。車も全く見えない。そこへ自転車の後ろにリヤカーを付けて引いているおじさんがやって来た。町まで乗れという。何だか騙されそうな気がしたが、他に交通手段はないという。

乗って正解だった。確かに市内まで結構離れていたし、何より車が一台も走っていない。市内に行くバスも全く無い。取り敢えず福州と同じ華僑大廈があると言うことで、そこにチェックイン。福州よりみすぼらしい建物だった。確か20元ぐらいでは?町は本当に小さかった。福州と同じ開元寺という名の寺に行った。ここはその当時は孫悟空のモデルになった壁画があると言うことだったが、全く見つからなかった。今のガイドブックにも書いていないのでガセネタだったか?

夕方華僑大廈に戻ると中国旅行社の看板があった。何気なく入って聞いてみたら、何とアモイ−上海のチケットが買えると言う。嘘みたいな話だが、当時は広州でもそうだったように現地ですら買えないことが多かった。ましてや違う都市の切符の手配など出来るはずも無かったから、驚いた。騙されるつもりで買ったのを覚えている。

夜はホテルの食堂で食う。一人だから、仕方なくチャーハンを頼む。出てきたチャーハンを見てビックリ。日本のチャーハンとそっくりで、お椀をひっくり返して狐色に焼かれていた。一皿1元。旨い。思わずお替りした。日本のチャーハンのルーツはここにあったと確信した。

6.アモイ
9日目。苦節9日、とうとうアモイに着いた。泉州よりバスで2時間。前日の6時間があるからあっという間に着いた感じ。アモイは泉州に比べて大都会であった。取り敢えずまた華僑大廈を探しチェックイン。本当に便利だ。ホテルを探す手間もないし、何時でもチェックインできる。

ホテルを出て海の方へ歩き出す。フェリーターミナルまで行くと、人が大勢居てごった返している。海を眺めているとなんとも良い風が吹いてくる。極楽、極楽。私が求めていたアモイはこれだよ、といった感じ。そのまま1時間ほど海を眺める。向かい側に大きな島が見える。明日はあそこへ行こう。

時々近づいてくる人が私に向かって、『香港ドル、米ドル、日本円』などと言って来る。どうやら闇両替も盛んなようだ。確かにここは港町。台湾にも近く、外貨は入り易い。両替レートも良いようだ。おじさんが押し付けがましくなく、『家に来ないか?』と言う。普通なら警戒して行かないのだが、興味をそそられ付いて行く。

その家は港に程近く、小さな家が並ぶ長屋風の一軒だった。入り口を入ると薄暗い中にテーブルがあり、奥さんがお茶を出してくれた。それが鉄観音であったかどうかは分からない。中国人民の家に入る機会はあまりないので、中を眺め回すとテレビも冷蔵庫もある。聞くとアモイでは外貨さえあれば、直ぐに手に入ると言う。上海では外貨を持っていても日本製テレビなどは先ず手に入らない。どうやらここは密輸地域であるらしい。おじさんが『洗濯機を買うから両替してくれ』と言う。お茶のお礼に両替するとFECの1.5倍の人民元をくれる。何だか不思議な気分だった。

夜はまたホテルでチャーハンだ。現在香港では福建チャーハンと言えば、海鮮あんかけチャーハンを指すが、アモイでチャーハンと言えば、泉州と同じ日本スタイルのあれだ。シンガポールにシンガポールスリングやシンガポールビーフンと言う名の食べ物が無いように、福建にも福建チャーハンは無いのである。

10日目。対岸のコロンス島(鼓浪嶼)に渡る。フェリーターミナルに行くと大きなフェリーに人が吸い込まれていく。誰もお金を払っている様子がない。行きはただで帰りに払うことを知る。10分ほどで島に到着。島には車も無く、ゆったりとした時間が流れている。

アモイは1842年の南京条約(アヘン戦争)で、開港された5港の内の1つ。その後外国人が洋館を建て始め、コロンス島も洋館が多い。コロニアル風の建物が多くあり、異国情緒が漂う。3月の風は心地よく、今までの色々な出来事を全て忘れさせてくれた。鄭成功、彼の記念館がある。1600年代に台湾を一時占拠し、清朝に盾突いた人物。彼は漢民族にとって英雄なのだ。現在は夜ライトアップがきれいで、対岸から見る景色は名所の1つであるが、当時そのような趣向も無く、夜は暗かったと記憶している。バナナを買って食べる。旨い。バナナはやはり心地よい風に吹かれながら、食べるのが良い。台湾と同じ味がして懐かしかった。

午後南普陀寺に行く。唐代に建造された古いお寺。ここを出て歩いているとアモイ大学の敷地に出た。かなり大きな大学だが、午後人影が無い。非常にゆったりした雰囲気で、一瞬こんなところでのんびり勉強してみたいと思う。

11日目。上海へ。泉州で買ったチケットも無事使える。今回の旅は全く予期せぬ目的地に行く面白さを味わった。

《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》バンコック、香港ー中国との違いを知る

4.バンコック

5日目。バンコックに向かう。何せ行く予定に無かった場所に急に行くのだから、戸惑ってしまう。飛行時間は僅か1時間。シンガポール航空を堪能する間も無く、到着。チャンギ空港と違って、バンコックの空港はごちゃごちゃしていた。かなり蒸し暑い空港と言う印象がある。何とかホテルカウンターに辿り着き、車を手配して貰う。でもなかなか来ない。どうも余り合理的ではない国のようだ。

漸く乗り込むと数人の客の相乗り。道に出るとシンガポールとは大違い。シンガポールは道もしっかり舗装され、綺麗な風景だが、バンコックは寧ろ中国に近い感じがした。田園、バラック小屋、のそのそ牛が歩く。1時間近くして市内に入ったが、各ホテルを回る為、何時になっても着かない。その内運転手が市内ツアーのパンフレットを出して、しきりに勧める。どうやらツアーに入らない旅行客と見て、商売を始めた様子。こういう手合いに係わらないようにするのが鉄則と思い、断り続けるが、その分ホテルに到着しない。最終的に2時間後に漸く開放された。暑いし疲れた。

その夜、ホテルのツアーカウンターで明日の予約をする。可愛らしい女性が丁寧に応対する。さっきとは大違いだ。気分が良くなり、勧められるままに予約したところ、4つのツアーを1日でこなすことになってしまった。

6日目。朝の水上マーケットツアーに参加する為、5時半にロビーへ。誰もいない。どうしようと思っていると昨夜の女性がにこやかにやって来る。車は普通の乗用車。説明では、4つ回るには団体と一緒では無理、と言うことらしい。兎に角可愛いガイドさんといっしょなので即座にOK。

水上マーケットはバンコックの中心を流れるチャオプラヤ川を遡り、支流に入ったところに市場があり、また川に無数の小船が出て、船の上で物を買ったりするところ。バナナを買ったり、帽子を買ったり。中国並みの安さだったが、きっとこの国の水準からすれば高いものを買ったに違いない。朝の気持ちの良い風に吹かれて、情緒はたっぷり。観光市場なのだ。でも、川は綺麗とは言えない。

その後休む間も無く、王宮、ワット・プラケオ(エメラルド寺院)、ワット・ポー(涅槃寺)を訪れる。ワット・プラケオは王宮の一角にあり、高く洒落た建物だ。中には大きくはないが翡翠で出来た本尊がある。タイの人々も信仰心が厚く、熱心にお祈りしている。その脇で観光客、特に日本人が大声で話をしているのは恥かしい限りだ。私は時折日本人でない振りをすることがある。中国ではこれが通じるが、タイでは一発で見抜かれる。

ワット・ポーはその名の通り、涅槃仏がある。かなり大きい。奈良の大仏が横になったようなものだ。タイ語は難しくて全く読めないが、寺では時折漢字が目に入る。寺は全て靴を脱いで上がる。中国の寺には無い習慣であり、新鮮な気持ちになる。

実は本当に行って見たい寺は、ワット・アルン(暁の寺)であった。残念ながら、コースに入っていないと言う。ワット・ポーの対岸にあるので、川沿いに眺めたが、よく見えなかった。『暁の寺』は中学時代に読んだ三島由紀夫の名作。最後の作品4部作の3番目だ。三島は輪廻転生を信じていたようで、4部作でも主人公が転生していき、3人目がタイの王室の人間と言う設定だったと思う。三島はどんな気持ちで、暁の寺を書いたのか、バンコックの暑さの中で微かに思った。

昼はチャオプラヤ川沿いの水上レストランで食事。多分日本人向けに辛く無いものを注文してくれたのだろう。美味しく食べた。川を眺めながらの食事は暑さを忘れさせた。食事を終えて外へ出ると、時間が止まったように暑い。運転手が車のバンパーを叩く。何をしているかと見ていると、下からのそのそと猫が出てくる。暑さのため日除けをしていたのだ。長閑な光景。

午後はローズガーデン、スネークファームなどを見学。ローズガーデンでタイ舞踊、タイ式キックボクシング、闘鶏を見学。確か生きたトラと記念写真を撮った。観光用と分かっていても怖かったが、トラのほうは平然としている。途中で象のサッカーを見せるところへも行った。象が人々の中に生きている感じはあったが、なんだか可哀想にも思えた。

ローズガーデンはバンコックから30kmは離れているので、往復すれば半日が過ぎる。帰りはぐっすり寝込んだ。夜ホテルの近くのビアガーデンでビールを飲んだ。夜風が気持ちよかった。

バンコックには子供の物乞いが多かった。皆路面に座り込んでいる。当時中国は『乞食と娼婦はいない』と言われる社会主義国。実際には多少はいたが、何故タイはこんなに慈悲深い(深そうな)国家なのに、このように貧しいのか?我々は彼らに何か出来ることがあるのか?中国は社会主義と何度もいっているが、本当の社会主義国家は日本ではないのか?その頃そう思い始めていた。平等、の名の下に個人の富は制限される。中国は貧しい社会主義、日本は豊かな社会主義。(実際には中国は幹部、軍の汚職に相当蝕まれ、日本も政府、政治家、役人などに蝕まれていたのだが)

5.香港、マカオ
7日目。香港に移動。バンコックは初めからおまけであったので、あまり期待していなかったが、中華世界と違う場所を経験できたことは良かった。香港カイタック空港へ降りた。聞いてはいたが、凄まじい光景だった。ビルを掠めて飛行機が降りるなど想像できない。雲南のプロペラ機も怖かったが、こちらは文明社会だ。国際空港なのにタラップを降りる。汚水の臭いがする。とても文明的ではない。

同行しているYさんの同僚が香港におり、出迎えてくれた。空港内はやはりごちゃごちゃしていた。迎えが無ければバンコック同様迷ったことだろう。ここは中国なのだろうか?私はその後香港支店に行き、大学の先輩Tさんに会う。香港島に入ると高くて立派な建物が増えた。金ぴかのビルに東京銀行の文字も見える。これぞ香港だ。支店のあるビルもとても立派に見えた。階下にはブランドショップが並んでいた。何しろ上海から来たのだ。何を見ても立派に見える。

その夜Tさん宅に泊まる。家族はまだ赴任していなかったので、遠慮なく泊まる。Tさん宅はブレーマーヒル、まさか4年後に私がここに住むことになるとは思ってもいなかった。

8日目。朝起きると香港とは思えない鳥のさえずり。ここブレーマーヒルは香港島の高台にあり、広い敷地内に大きな公園もあり、後ろは山。静かな場所であった。Yさんと合流し、マカオへ。同僚の人がマカオ1泊旅行をアレンジしてくれていた。香港島からフェリーに乗り、1時間。フェリーはあまり揺れることも無く、到着。呆気なく英国領香港からポルトガル領マカオへ。日本では考えら得ない移動だ。

降りるとタクシーが待っているが、言葉が通じない。マカオは陸続きで広東省と繋がっているので、北京語は可能だろうし、観光地だから英語でもいけそう、と思っていたが、意外にもここは香港の出先に過ぎず、広東語圏。ショック。ポルトガル人も殆ど見当たらない。おまけにタクシー乗り場の物乞い(タクシーのドアを引くだけ)にチップをせがまれ、パタカ(マカオの通貨)の小銭を出すと、指で弾いて返して寄越す。通貨まで香港ドルなのか。両替など全く不要。寧ろパタカを持つと自動的に価値が下がってしまう。

運転手と何とか交渉し、3時間の観光を行う。セドナ広場、モンテの壁、砲台、教会などを見て回る。何処も古い建物で、歴史的な意味はあると思うが、観光として如何なものか?と言った感じ。

ホテルは第一ホテルのスイートルーム。なかなか良いホテルを格安で押さえてくれていた。感激。夜はポルトガル料理(マカオ料理)を食べに行ったが、さして美味しいとは思われない。やはりポルトガルは貧しい国なのか?

食後リスボアホテルのカジノへ。観光名所なので見学に行ったが、その活気には驚いた。平日だと言うのに多くの人がカジノにいた。香港から来たと思われる広東語を話す人も多い。彼らは平常何をしている人なのだろう?

取り敢えず何をしてよいか分からず、スロットマシンへ。これは香港ドルのコインをそのまま使えるので挑戦。何回目かでかなりのコインが出てきたが、何が当たったのかも分からない。夢中で全部使ってしまった。内側の会場ではブラックジャック、ルーレットなどが行われていたが、何よりも見慣れない『大小』と言う遊びが大人気。ようはサイコロを3つ転がして、10以下なら小、11以上なら大。簡単な遊びだが、これがなかなか奥が深く、連続して勝てない。

最初は恐る恐るやっていたが、その内面倒になり、千香港ドル札を大に賭けたら、大当たり。2千ドルになった(お姐さんが100ドルをチップとして取り上げて返してきた。)ので、もう一度2千ドルを賭けたら、また大当たり。4千ドルになり、そこでやめた。当時の4千香港ドルは中国で半年は暮らせる金額。気が付いて時計を見ると既に午前2時。実にカジノとは恐ろしいところ、時間を忘れさせる。ホテルの外に出るとこんな時間に人がウロウロしている。たいした金額を稼いだわけではないが、何だか襲われるような気分になり、直ぐ近くの第一ホテルまでタクシーで帰った。

9日目。香港に戻る。香港ではピーク、レパルスベイなどに行ったが、印象に残っていない。印象に残っているのは、『大丸』だけだ。兎に角大丸には感激。何でもある。本もあれば日本の食料品もあり、居るだけで楽しい。今で言えば、大陸に住んでいる日本人がユニーに行って感激するようなもの。因みに後に我が家も北京より旅行で来てユニーで棒立ちになったのはつい最近のこと。

でも当時日本関係のものが何も無い上海から出てきた人間にとっての大丸は正に衝撃。確か毎日3時間は大丸の中を歩き回っていたような気がする。

10日目。支店に挨拶に行く。私は社会人生活の経験が1年しかなく、日本のことはよく分からないが、この支店は広くて恵まれているなと思った。また香港人スタッフの中にはTシャツ、ジーンズといったラフな服装の人も居て、自由な雰囲気があった。

支店の中国担当のAさんは上海華東師範大学の留学経験があり、重要なアドバイスをしてくれた。『中国は広い。北京語といえども訛りも強くて、地域によって大いに差がある。更に行ったことがあるかないかは、業務上決定的な差となる。是非とも上海に篭らず、中国各地を旅行することを勧める。』というもの。この話は後に大変参考になり、また実際大いに役に立ったのだが、その時は『上海を抜け出す絶好の口実』として、喜んで聞き入れたものだ。

11日目。愈々上海に帰る日が来た。空港に向かう前に大丸でどら焼きを30個買う。皆へのお土産だ。荷物は上海を出てきたときの数倍になっている。大きなバックが2つ。小さなバックが2つ。どら焼きを入れた袋を何とか持つ。

空港で超過料金を取られた記憶は無い。空港での唯一の記憶は、バスで飛行機に向かう場面。当時カイタック空港はタラップを使って搭乗するパターンが一般的で、タラップまではバス。このバスに乗った瞬間、なんとも言えぬ気分になる。『刑務所に護送される囚人はこんな気分なのかなあ』と思う。私の資本主義生活は終わる。

上海空港に着くとこの気分は更に悪くなり、唯の抜け殻となる。我々は何と資本主義、物質主義に毒されていたのだろう、などとは決して思わない。ただただ『あの素晴らしい日々をもう一度』と願うのみであった。

《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》シンガポールー資本主義世界への逃避

〈6回目の旅-1987年2月シンガポール、バンコック、香港〉
―資本主義世界への逃避

1.留学生ビザ

中国に留学した当初、私たちがどの様なビザで入国したかについては、あまり関心を持たなかった。兎に角早く留学期間を終えて、日本に戻りたかった。指折り数えて待つ状態だったのだ。ところが旧正月休みの前になると皆そわそわし出した。何とかしてこの社会主義中国から一時的にも脱出する道を探り出したのだ。今では笑ってしまう話だが、本当に真剣だった。私は寿司が食いたくて、香港に行く道を選んだ。香港には支店に1年先輩が居て、面倒を見て貰えると考えていた。(日本に帰ることは会社から原則許されていなかった。)

ある日とうとう先輩に電話した。そして愕然。『香港は今コレラが流行っているので、なま物は食べられない』という答え。途方に暮れていると『そんなに寿司が食いたければシンガポールにでも行け』とのお言葉。考えもしなかったシンガポール行きとなった。

ところでビザであるが、留学生のビザは一次ビザ。つまり一度出ると入れないので、今後留学出来なくなる。そこで公安に行き、リエントリーのビザを取ることになるが、当時は出入国が厳しく、噂では業務出張の命令書を持参しないと取得出来ないと言われていた。後で考えると可笑しな話(一般の学生はどうするのだ?)であるが、一部の企業派遣生は本当に出張命令を自ら作成して持ち込んだようだ。但し結局は説明書のようなものがあれば、1-2日で取得できたと思う。

2.準備

航空チケットを買いにシンガポール航空のオフィスへ行く。国外に出るのだから、中国民航に乗る必要が無い。シンガポールへ行くのだから、シンガポール航空、この程度の発想。チケットは上海―シンガポールー香港―上海というラウンドトリップ。当時中国にはディスカウントチケットなど全く無いので、何も考えずノーマルエコノミー。贅沢な話だ。これが後で色々と役立つから旅は面白い。

カウンターのお姐さんが、『ホテルは?』と聞く。中国の旅でホテルを予約する習慣が無くなっていたので、この質問は新鮮。予約出来るならとお願いすると予算を聞かれる。全く考えていなかったので、取り敢えずUS$100と答える。『そんな部屋は無い』、えっ、そんな安い部屋は無いのかと思いきや、『そんな高い部屋は無い』とのこと。やはり上海だ、中国人で高い部屋に泊まる人がいないのだ。そう思った。『US$80でシャングリラというのがありますが?』『それでいいや』とんでもない部屋なら現地で代えるつもりで予約した。恥かしい話だが、その時シャングリラホテルがどんなホテルかを知らなかった。

3.シンガポールへ

2月上旬。心ウキウキ。上海に来て最高に高揚した気分。監獄から釈放される囚人の心境(経験が無いので本当は分からないが)。前日予約したタクシーで空港へ。カウンターを探すのが楽しみ。シンガポール航空のカウンターでチケットを出すとお姐さんがニッコリとして『US$40プラスするとビジネスクラスに乗れますよ』とセールス。そんなものに乗る気は無いが、中国でセールスをされたのが初めてだったので、思わずOKしてしまう。ビジネスっていったいどんなクラス?

座席は恐ろしく広かった。機体は恐ろしく?綺麗だった。そうだよ、これが普通の飛行機さ。離陸する時気が付いた。我々以外に2人しか乗っていない、ビジネスクラスに。 スチワーデスのお姐さんがやってきた。前スリットの例の衣装。ああ感激。しかもこのクラスには4人のスチワーデスがおり、客も4人。しかも我々2人を北京語が話せる日本人(珍しいという意味)として、歓待してくれ、常に2-3人が座席の横でお話してくれる。正にハーレム状態。嬉しかったなあ。食事も美味しかった。

夕方6時間のフライトを経てシンガポールに到着。素晴らしい空港。成田より立派。驚き。入国審査もあっという間。何とシステマティックな国。出口でまごまごしているとさっきのスチワーデスが出てきて、タクシー乗り場に案内してくれる。全てに感激。タクシーに乗り込む。北京語で話しかけられる。何の問題も無い。唯一の気掛かりはホテル。上海で予約したホテルは??運転手がここだと告げる。30分ぐらい乗ったろうか?思わず外を見て『違う』といってしまう。運転手を待たせ(同行者のYさんも待たせ)、ホテル内へ。恐る恐る英語で予約の確認をすると何とある。この幸せは表現不可能。何しろ当時オーチャードロードのシャングリラはシンガポールNo.1。あまりに立派で我々が泊まるホテルとは思われない。

ところが『現在部屋は掃除中でしばらくお待ちください。』と言う。やはりここも中国系か、と思ってしまう。中国でも何回も直ぐに部屋に入れてくれなかったので。ちょっと残念な気分になる。ここまでが良過ぎたのだ。仕方が無い。カウンターのおじさんが『あちらのラウンジでドリンクでもどうぞ。』と勧める。無料らしい。そのラウンジは1Fにあった。ソファーがあり高級感抜群。チャイナドレスのお姐さんにビールを注文。また気分が盛り上がる。クーラーが利いており、ソファーにゆったり腰掛ければ、上海の生活も全て忘れる。お姐さんが膝を着いて、ビールをサーブする。この瞬間を私は一生忘れないだろう。やはり資本主義だ、意味も無く大感激。

部屋にチェックインして、また感激。中国では碌な部屋に泊まらなかったこともあるが、今まで泊まったことが無いような豪華な部屋。これまでの生活を超えた資本主義。夕飯はどこが良いか分からずホテルの日本食屋へ。立派そうなレストラン。兎に角寿司を頼んだが、お姐さんが運んでいるざる蕎麦やてんぷらやおひたし等、目に入ったものを全て追加注文してしまった。酒も飲んでしまった。もう全てが幸せで、先のことなど何も考えられなくなった。これまでの人生で味わったことの無い、快感。4人掛けのテーブルに料理が目一杯並ぶ。とても食べることは出来ないが、あるだけで幸せ。したたか酔った。会計もシンガポールドルのレートも分からず、サインする。翌日よくよく計算してみると2人で5-6万円食ったことになる。中国での数か月分の生活費を一晩で??

2日目。特にすることも無いので、観光。申し込んだツアーが英語ツアーで、マレーシアのジョホールバル行き。1日ツアーだ。バスに乗り込むと我々2人以外全て西洋人。ガイドに一番前に座らせられる。英語が分からず、迷子にでもなったら困るということか、我々を徹底マークする。後ろの席はスイス人だったが、第二次大戦では従軍しマレーシアに駐在したとの事。日本軍は強かった、などと笑っていたが、初めて戦争に触れた気分。

国境を越えるとマレーシア。僅か40分ほど。シンガポール水道を越えると道が急に悪くなる。これが国力と言うものか?色々と考えさせられる。ジョホールバルではランの花園などを見た気がするが、良く覚えていない。土産物屋に沢山いった気もする。我々はガイドの予想通り集合時間に遅れないことのみに神経を使ってしまった。

3日目。昨日に懲りてパンダツアーと言う日本語ツアーに参加。セントーサ島へ行く。我々以外は2組の新婚さん。ガイドの言うことなどまるで聞いていない。勢いガイドの注目は我々2人。日本人で上海に住んでいて、北京語が分かる。彼女が見る初めての日本人だったようで、何と途中から日本語ツアーなのに北京語でガイドする始末。何処でも我々3人が一緒。不思議なツアーとなった。シンガポール人は北京語が出来ることをこの3日で十分理解した。英語も北京語も訛りは強いが。尚セントーサの帰りはロープーウエーで戻る。かなり高くて怖かった。

午後は自分たちでチャイナタウンへ。外国のチャイナタウンは怖いというイメージがあったが、ここはお寺があったりするだけで特に中国を感じなかった。オーチャードロードの伊勢丹や、大丸で日本の本を買いまくる。上海生活で見つけたものは全てその場で買う習慣がついている。昼に食べたカツどんも旨かった。

夕方サンセットクルーズへ。未だ暑かったが、船が出ると風が心地よい。冬の上海から来ると南は良い。水は綺麗とは言えないが、気分は良い。

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クルーズが終わるとその足で会社のシンガポール事務所へ。もう直ぐ支店に昇格するという時で忙しそうであったが、Hさんが夜付き合ってくれる。実はこのHさんが私の留学を上に推薦したと言う噂があり、当時結構恨んでいた??こともあり、寿司をご馳走してくれたが、当然と言った気分があった。場所は確かシェラトンの雲海だった。勿論とても旨かった。

4日目。昨夜Hさんから『実は偉い人が明後日からシンガポールに来られる。何と君と同じホテルだ。悪いけど出て行って欲しい』と言われる。えっ、えっ、何で??そうシャングリラは当時シンガポール最高級のホテル。役員が来れば泊まるホテルに入社2年目が泊まっていては何かと都合が悪い。Sさんの提案は『バンコックにでも行って。シンガポール航空のストップオーバーを使えば無料で行ける筈だから』というもの。飛行機に乗るのにお金が掛からないということが理解できなかった。

シンガポール航空に行って見ると、簡単にバンコック行きのチケットを予約できた。魔法にかかったよう。更にバンコックのホテルも格安で予約できると言う。これは我々のチケットがノーマルエコノミーであった為、かなりの融通が利いたもの。現在普通の旅行する時は、当然ディスカウントを使うので、行き先変更などに制限が出る。昔の映画で西洋人などが急に行き先を変更してリゾート地に滞在したりしているのは、この優雅なチケットのお陰かなと思ってしまう。

ところでこの日は既にやることがなくなっており、昨日ツアーで訪れたセントーサ島でゴルフをすることになった。日本でも2度しかコースに出たことが無かったのに、昨年北京で風呂に入りたいばかりにコースに出、いままた暇だからと言う理由だけでコースに出る。日本では考えられない、いや日本の生活は何をするにも窮屈だなあ、としみじみ思ってしまう。

セントーサゴルフクラブは南国のゴルフ場の趣がふんだんにある立派なコース。特にアイランドグリーンになっているショートホールは大海原に向かって打つ景色の良いホール。また途中池にボールを入れてしまったら、池の中の鰐(いやは虫類)がむっくり起き上がってきて、驚いたりした。熱帯でゴルフをするのは非常に厳しい。確か暑さで殆ど脱水症状に陥った記憶がある。

《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》雲南・四川ー3泊4日列車の旅とこの世の楽園

〈6回目の旅-1987年1-2月雲南、四川〉
―3泊4日列車の旅とこの世の楽園

1. 留学生旅行
私は大学の授業には熱心ではなかったが、大学に所属はしていた。中国の大学は9月始まりの前後期2期制であり、中間には旧正月休みが約1ヶ月ある。1月中旬には旧正月休みに入った。

これまでの数回旅は全て自費。誠にセコイ話だが、1度ぐらい社費で研修旅行が出来ないものか人事部に相談したところ、大学主催の旅行であれば、費用を出してもよいとの返事があり、この旧正月に行われる留学生旅行に参加することになった。この旅行は留学生事務室の先生が同行し、留学生のみが参加できる。今年の目的地は雲南省。費用は計日本円約2万円、全工程12泊程度の旅である。参加者は日本人の他、西洋人、ロシア人、アジア人など様々であった。

2. 雲南へ
1月18日であったと思う。恐らく参加者30人以上が宿舎をバスで出発し、上海駅へ。上海駅は既に何度か利用しており、慣れたものになっていた。夕方出発。今回の車両は硬臥、但し留学生特別の綺麗な車両であった。硬臥は1部屋にベット上中下3段が2つ。6人部屋だ。我々日本人は大人数であり、同国人同士で部屋を占領した。今思えば各国の人間と交流すべきであるが、当時どうも日本的な村社会になっていたのは極めて残念。

直ぐに夜になり、食堂車へ。旧正月前で混雑しており、飯も相変わらず不味い。寝る前には企業派遣生同士で下らない話をして過ごししたが、他の学生は我々より若い本当の学生なので修学旅行気分で大騒ぎする。確か10時頃には消灯になったと思うが、夜中までうるさかった記憶がある。

1月19日、列車の旅2日目。朝から持参のビスケットをかじる。当時の旅行の必須アイテムは、トイレットペーパー1巻とビスケット・カップヌードル。何時何が食べられるか分からない中国の旅で食料は重要。因みにビスケットはマクビティ、ヌードルは日清。トイレットペーパーはトイレの必需品。例え紙があったとしても、新聞紙のような硬いものが多く、多用すると痔を患う危険があるため、柔らかい紙を上海で買い込み乗り込むのである。

ところで窓の外の眺めであるが、前回の江南の旅とは大違いで、何も生えていない荒涼とした台地が続いている。最初は中国らしいなどと尤もらしく眺めていたが、この風景が5時間経っても,10時間経っても変わらない。中国大陸の広さを実感する。と同時に、中学の社会科で勉強した『面積は日本の26倍、但し可耕地面積は僅か5倍』を思い出す。土地があれば良いというものではない。

その内皆やることが無くなり、トランプを始める。所謂『大富豪(大貧民?)』。結局1日中、熱中する。トランプは中国人も好きである。何処からともなく、中国人の学生が紛れ込み、ルールを覚えて輪に加わってしまった。彼も上海の大学生で帰省するところだった。上海でも多くの大学生が我々留学生に近づいてきたが、多くはタバコがほしいとか、人民元を両替したいとか、外国人を利用しようとするものであまりよい印象が無かったが、彼は一生懸命トランプをしており、好感が持てた。

夕飯もカップヌードルで済ませる。夜10時頃、真っ暗な中、大きな岩山が連なっている駅に停まる。桂林だった。いつかまた来ようと思った。この頃には皆列車に飽き飽きしており、争って列車を降り写真を撮った。既に乗車後30時間が経過していた。

1月20日、列車の旅3日目。もう起きあがる気力も無い。私のベットは一番上であったが、天井までが近くて圧迫感がかなりある。仕方なしに下に降りるが、皆虚ろな状態だ。運動もしていないので食欲も無い。日本ではこんなに長い列車の旅は考えられない。よい経験をした、と後では言えるが、この時はもう2度と乗りたくないと思ったものだ。

景色も相変わらず、荒涼とした大地。かなり塞ぎ込んでいた一人が行き成り立ち上がり食堂車へ。心配で付いて行くと、何とご飯を貰いその上からカップヌードルをかけて食べている。『旨い,旨い』冗談で言っているように聞こえず、ぞっとした。

3.昆明
1月21日、4日目。愈々雲南省の昆明に到着だ。予定より3時間遅れて(はっきり言って誤差の範囲内だが、この3時間は長かった)、合計66時間、朝8時であった。ある日の夕方上海を出て、ある日の朝昆明に着いた、という表現が正しい。兎に角全員伸びをした。列車から降りても上手く歩けない感じがした。

さて、ここで2つの班に分かれた。私は先にシーサンバンナを目指すB班となった。A班は何とこれから直ぐにバスで大理を目指す。一瞬気の毒に思ったが、大理には大理石の風呂があると聞いて、そちらに行きたくなった。3日も風呂に入らないのは耐え難いものがあった。後で分かったことには行かなくて本当によかったのだが。

大学の旅行であるから、宿舎もホテルではなく、昆明の大学の招待所であった。B班は即座に招待所に入った。シャワーを探したのは言うまでも無い。だが、『湯は5時』からしか出ないとの答えであった。とてもがっかりしたが、ここは中国、仕方が無い。

頭を切り替えて昆明の町に出る。昆明飯店か雲南飯店か忘れたが、そこの小売部(売店)で冷たいビールを買おうとした。1月とはいえ、昆明は南国で暖かかった。列車の疲れを冷たいビールで癒す、実に日本的な発想。『冷たい(冰的)ビール下さい。』と言ったところ、ここのビールは全てビンで、カンは無い、と言われる。冰は北京語でビンと発音する(その後駄洒落として使用)。結局生ぬるいビールを渡される。彼女にはビールを冷たくする発想は無かったのだ。当時中国で冷えたビールを飲むことは至難の技であった。因みに日本以外ではビールを冷やさないで飲む方が多いと聞いたのは後のことであった。

午後車をチャーターして、どこかの寺に行った。風呂に入るまでの時間潰しだ。山の上にあるその寺は観光地のようであった。運転手も観光客慣れしていて、油断のならない相手であった。隙あらば、金を掠め取ろうと狙っている。普通の地方都市とは少し違う印象を受けた。

早々に招待所に戻り5時を待つ。企業派遣生には暗黙の了解で年功序列がある。5時に年上の2人が先ずシャワー室に向かう。直後悲鳴。『熱い、熱い』。何とお湯は出るが水が出なかった。4日風呂に入っていないので、行き成り浴びようとしたらしい。直ぐに文句を言いに行く。ところがそこのおばさん曰く、『5時に湯が出るとは言ったが、水が出ると言った覚えは無い。』中国人のああ言えばこう言うが始まる。参った。私は最年少、最後に入ろうとしたら、何とお湯も出なくなった。文句を言うと『今日はお仕舞い。』流石に激怒した。責任者を探したところ、うちの先生と談笑中であった。あの時は既に理性を失っていた。行き成り相手の先生に掴みかかろうとした。うちの先生が驚いて止めに入った。この件があったので、その後私は先生の間で札付きとなった。

今日風呂に入れないことはどうにも我慢が出来なかった。今でも我儘ではあるが、当時は皆さんに色々と迷惑を掛けたことだろう。先生に怒鳴り込んだ一件を聞いて、日本人の女性が部屋の風呂に溜めていた湯を使わせてくれることになった。涙が出るほど嬉しかった。この時私は砂漠では暮らせないことを確信した。旅行団に誰がいたか忘れたが、他国人にとって風呂は大きな問題では無いのだろう。誰も文句を言っている人は居なかった。

4.石林
1月22日、旅の5日目。当初の予定では本日シーサンバンナに向け出発するはずであったが、飛行機が明日になり、石林に行くことになった(と思う)。バスで3時間ほど行くと、カルスト地形の景勝地、石林に着く。

可愛らしい赤い民族衣装を着た若いガイドさん(何族かは忘れた)が、案内役として石を説明して行く。若い女性がニコニコして話してくれること自体、上海の漢民族では考えられない時代であり、それだけで嬉しかった。留学生は皆北京語力を試すと称して、盛んに話し掛けていた。少数民族とは漢民族に圧迫されてきた民族なのである。彼女たちがにこやかなのも抑圧の歴史の結果生まれたものではないか?

話に夢中になっている間に、大きな石を上り始めた。気が付いてみると数十メートル上ってしまった。しまったと思い、戻ろうとしたが、後の祭り。後ろには数十人が上ってきており、降りることは不可能。前方はほんの30センチぐらい間が開いており、向こう側に飛び移る(跨ぐ)仕掛けとなっている。

私は極端な高所恐怖症である。30センチとはいえ、下が数十メートルでは足が竦む。後ろに人が待っている。絶体絶命。その時ガイドのお姐さんがやってきて、私を抱えて向こう側に跨がせてくれた。皆は『羨ましい、俺もしてもらいたい。』などと軽口をたたいていたが、私は顔面蒼白だったと思う。あんな怖い思いは2度としたくない。たとえどんなに可愛い女性に抱きかかえられようとも。

5.シーサンバンナ
1月23日、6日目。愈々シーサンバンナ行く。現在は空港があり直接行けるようだが、当時は思茅の飛行場で降り、バスでシーサンバンナの中心景洪へ行った。昆明の飛行場へ行くと小さなプロペラ機が待っていた。何だか遊園地の遊具のようで、皆に不安がよぎる。誰かが『これはソ連製のアントノフだ。』と言った。一斉にソ連人留学生に視線が注がれる。ソ連人の一人が恐る恐る言った。『俺も図鑑でしか見たことが無い。』皆の恐怖は頂点に達した。

この事態を収拾すべき立場にあった先生は敢然として『没問題。』と言い、ソ連人留学生を機内に押し込めた。我々ももうどうにでもなれていった感じで従う。機内は椅子が全て倒れており、自分で引き上げて座る。50人程度しか乗れない小型機だ。

飛行機が動き出す。まるで死刑執行を待つ囚人のようだ。誰も何も言わない。『ブウーウ、ブウーウ』凄い音を立てて、滑走路を行く。皆自分の足を踏ん張る。さあ、上がるぞ,と思った瞬間、機体に力が無くなり、スピードが弱まる。皆がフーウ、とため息をつく。そうだ、力不足で飛ばないのだ。もう止めてくれ、降ろしてくれ、きっと皆が心で叫んだことだろう。無常にも飛行機は引き返し、再度トライする。通算4-5回目で漸く機体が上がった。皆が歓声を上げる。まるで小学校で逆上がりが出来たときのようだ。

上空に上がって一息ついたものの、窓から下を見るとはっきりと見える。ごつごつした岩場とか、水が多そうな湖とか。もし落ちたら痛いだろうな、と考えてしまう。機内はまるで外の空気が入ってきそうなほど、所々揺れている。

スチワーデス(そんな人が居るのです、こんな飛行機にも。)が紙パックジュースを投げてよこす。話には聞いていたが、初めて見た。当時サービスという単語は北京語には無かったのではないか、と思うほどサービスの概念が無かった。

1時間後、思茅の上空に来た。相変わらず、下はよく見える。山々に囲まれた中、とても空港があるとは思えない場所にそれはあった。小さいアントノフはスルスルと降下し、無事着陸した。何故アントノフなのかよく分かった。これより大きな飛行機では降りられないのだ。

タラップを降りると、暖かい日差しがある。近所の人が飛行機を眺めている。実に長閑な光景だ。ああ、よいところ来た、という予感があった。空港近くの招待所で昼食を取る。しゃぶしゃぶのような鍋が出る。美味かった。豚肉だったろうか?野菜も美味かった。疲れが吹き飛んだ。食後出発までの間、庭の庇の下で、体を伸ばした。気持ちがよかった。上海の1月は東京並みで0度前後。ここは25度程度で日差しも柔らかい。極楽、極楽。

バスはトヨタのコースター。2台に分かれて景洪を目指した。4時間の間、山の中のジャングルのようなところを上ったり降りたり。ソ連人は運転手に頼んで持ってきたテープを掛けてご機嫌。何と歌はビートルズで、ソ連で流行っているそうだ。時代が違う?途中から皆寝てしまったが、日本人が一人、運転手の横に座っていた。後で聞くとおしっこを漏らしてしまったそうな。何しろ4時間の間、運転手は一度もエンジンブレーキを使わず、フットブレーキのみで運転していた。その怖さといったら無かったようだ。中国では当時エンジンブレーキの概念は無かった気がする。故障が多いわけだ。

夕方景洪の町に入る。バンナ賓館(?)が今日の宿。2人部屋で清潔ではあったが、窓ガラスが割れていた。寒くは無いので問題なかったが、虫は入ってきたかもしれない。夕食までの間に町を散策。小さな町で直ぐ歩けた。皆一度で気に入った。先ず町の時間がゆっくり流れていた。暖かかった。人々がにこやかに笑いかけてきた。そして何よりも若い女性が綺麗だった(タイ族)。やさしそうな笑顔であった。そう我々は合計5日掛けて、この世の楽園に到着したのだ。上海には2度と戻りたくない。

夕食後、泊まっている人々と地元の人が交流した。宿舎の外国人向け企画だったのだろうが、非常に素朴でよかった。踊りが出た。歌が出た。うちの先生も歌った。我々も国毎に芸を披露する羽目になった。アメリカ人は映画の主題歌を歌い、イギリス人は民族舞踊を踊った。困ったことに日本人は突然皆で日本らしい芸をする習慣が無い。また団結する国の歌を持たない。これは問題だ、と痛感。最後はS銀行のHさんの音頭で炭坑節を歌った。踊りは殆どご愛嬌。兎に角楽しかった。
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1月24日、7日目。今日は川下り。瀾滄江(らんそうこう)はラオスとミャンマーの国境に流れている川。そのまま流れていけば国境越えになるが、その当時密出国しようとした中国人が撃たれたらしいなどという物騒な話もあった。

比較的大きな船に乗り込む。川幅が1km近くあったのでは?途中川べりで洗濯しているおばあさんや遊んでいる子供の姿を見かけた。圧巻は若い女性が水浴びしていた風景だ。船に気づくと恥ずかしそうに逃げていってしまったが、その光景は印象派の水彩画のようで、全くいやらしさが無く、感動してしまった。昨日に続いて楽園を感じる。

2時間ほど下り、ガンランバというところで下船。昼食を取る。ここはもう木々が生い茂り、農家が点在するだけの気持ちのよい田舎。小屋で飯を食べているとテーブルの下に家畜の豚が鼻をくんくんさせてくるのはご愛嬌。昨日に続き気持ちのよい食事。

景洪に戻り、近くの仏塔を見学。このあたりはタイ族が多く、タイ国のチェンマイあたりと同種。仏教への信仰も厚く、仏塔、仏寺が点在。この時タイに行ってみたいと思った。そしてこの後シンガポールに出国する予定を考え、この感動をシンガポール駐在員のH氏に伝えたく、絵葉書を出す。

1月25日、8日目。悲しいことにこの地を去る日が来た。分かれ難い、思わず涙が出そうになる。もと来た道を4時間バスに乗り、思茅の飛行場へ。飛行場でアントノフを待つと、やがて山の陰からスーッと飛行機が降りてくる。機内からA班の面々が降りてくる。声を掛けたが、皆疲れており誰も話もしない。これはどうしたことか?訳が分からず乗り込む。2回目はかなり余裕で乗れる。力も入らない。A班は揺れたのだろうか?

後で聞いた話だが、A班は悲惨だった。昆明に到着後そのままバスに乗ったが、そのバスがユーゴスラビア製のオンボロで、大理に向かった後、5時間後に故障。運転手は直らないと見るとヒッチハイクで何と昆明に引き返し、修理工を連れて戻ったが、その間1晩バスの周りで焚き火をして過ごしたそうだ。結局昆明―大理間を24時間掛けた。66時間汽車に乗り、それから24時間。気が遠くなる。

6.大理
無事昆明着。何処に泊まったか、全く記憶が無い。但し何故か例の大学の招待所ではなく、ホテルであった。お湯も出た。

1月26日、9日目。今日はもう1つのイベント、大理行きだ。大理石の風呂、朝からそれしか考えていない。バスはやはりトヨタのコースター(ユーゴスラビア製でなくて良かった。)。10時間掛かるという。途中川沿いや山沿いでは、下に転落しているトラックが何台もあり怖かった。例のフットブレーキのせいでブレーキが焼き切れたのだろうか?

本当に10時間掛かって、大理に到着。大理は古城と下関の2つの町がある。我々は古城の大理賓館に泊まる。確かにロビーも大理石で出来ているようで、大理石の風呂への期待が高まる。ところがこのホテルはあまり清潔ではなく、設備も良くない。その上、今日はお湯が出ないという。がっかり。

夕方町を散策すると古城の真ん中あたりに、喫茶店があった。勿論日本のそれとは全く違うが、お茶を飲ませてくれる。ウエートレスは白族のお姐さん。民族衣装も鮮やかで、記念写真にも応じる。一部の人々は明日も行くぞと張り切る。

1月27日、10日目。私はAさんと2人、下関へ行ってみる。他の人々は昨日の茶屋へ行く。下関は大きく、青空市場が盛大に開かれていた。民族衣装を着込んだ人々が沢山行き来していた。正月前の市であったのかもしれない。何とその中に昨日のウエートレスも居た。皆は空振りした、と可笑しかった。市で何を売っていたのか記憶が無い。

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市を外れると土で作られた家々が並んでいた。子供や若い女性が着飾って歩いていた。その様子が実に家々とマッチしている。民族衣装とはそういうものだとつくづく思った。

1月28日、11日目。10時間掛けて昆明に戻る。市内のホテルに泊まる。翠湖賓館?

7.再び昆明
1月29日、12日目。ホテルのロビーで知人と会う。その人から大学の同級生の女性がここに泊まっていると聞かされ、連絡し、昼飯を食う。大学時代ろくに授業にも行かなかった私は彼女、Kさんと話したことは無かった。彼女は卒業後日本語を教える勉強をし、今は何とハルピンで日本語教師をしているという。途轍もない人がいると思った。私のように北京語から逃げて、結局上海にいる人間もいれば、彼女のように志願して中国と係わろうとしている人もいる。確かこの時、昆明名物として、鹿の肉と過橋麺を食べた。

午後Aさんと相談して、旅行団と離れることにした。またあの長旅をして上海に戻る気にはなれなかった。駅で明日の成都行きの軟臥を買う。

Cさんが体の不調を訴える。恐らく長旅の疲れと高地である昆明の影響のようだ。急な山を登ったりしないので気が付かないが、昆明は海抜1,800mの高地なのだ。ホテルで近くの病院を紹介してもらい、頼りない通訳として付き合う。病院は当時の中国としては、割と綺麗であった(当時は本当に汚いところが多かった)。規模も大きかった。旧正月前で心配したが、かなり年配の女性が見てくれた。簡単な問診だけだったと思う。驚いたことに先生の言っていることが全く分からない。Cさんは心配そうにこちらを見ている。困った。若い女性が入ってきて、我々に分かる北京語で通訳してくれた。といっても、彼女によれば、年寄り先生の言葉も立派な北京語であるが昆明訛りが強すぎるとの事。

先生が病名を告げ、若先生が通訳したが、分からない。この時実感したのが、病名のような専門用語は知らなければ分からないという事。通訳を本業にするにはその地に住んで様々な経験をする必要があり、訛り、方言も考えれば、中国の場合は広すぎて全てに完璧な通訳は難しい。結局老先生が紙に一言、『不整脈』と書いて、決着。中国では最後は筆談である。中国では30歳以上の5人に1人は不整脈だと言っていたが、本当だろうか?

夜町中に爆竹が鳴り響いた。上海など大都市では危険だと言う理由で禁止になっている爆竹が地方都市昆明では堂々と鳴っている。正月気分は十分に出た。しかし一晩中には参った。

8.成昆鉄道
1月30日、13日目。成都へ向けて出発。何しろ66時間の経験があるから、24時間の旅と聞いても『何だ一晩か。短いな。』などと思うようになっている。この旅では、自分が成長した気分だ。

成都-昆明間の鉄道は成昆鉄道と呼ばれ、鉄道マニアの間では、有名。24時間の間に千を越えるトンネルがある。私は大学2年の時、桜木町で開かれた中国鉄道展でバイトをしたことがあり、写真集を売ったことがある。その時、来日した汽車の運転手から成昆鉄道のトンネルの多さを聞き、売り文句に使ったものだ。お客の一人に、『お前は行った事があるのか?』と聞かれて、恥ずかしい思いをしたのが今回の乗車の直接の動機になった。

夜7時に出発した。軟臥にはもう一人、三菱系企業より派遣された留学生が乗って居た。日本人で同じ境遇ということで気を使わずに助かった。特に昨日良く寝ていないので。

良くバックパッカーの旅行記などを読むと、行く先々の乗り物で市民と交流したりしているが、中国でこれをやると好奇心が人一倍強いのか、質問攻めにあったり、食べ物を無理やり食べさせられたりと、大変なことになる。私のように旅は出来るだけ静かにしたい人間にとっては、時に最悪の結果となる。

直ぐに夕食となった。食堂車に行くと香港人の団体で溢れて居た。但し彼らは麺を二口、三口口に入れると部屋に戻っていき、我々だけになってしまった。そう、この列車は成都管轄(中国では長距離列車の場合始発と終点のどちらかの管轄となる)で、食事も四川風。本日は旧正月でメニューは何と麺のみ。香港人が辛いものが食べられないことをこの時知った。我々もあまり食べられないくらい辛かったが。

部屋に戻ると腹が減った。3人で色々と旅の話をした記憶がある。窓の外は真っ暗で、ここが断崖絶壁なのかどうか全く分からない。トンネルは確かに沢山通っているようだ。Aさんが『キュウリのキュウちゃん』という漬物を持っており、皆にご馳走してくれた。こんなに旨いものを食べたのは久しぶりだった。

1月31日、14日目。朝から沢山のトンネルを通過。確かに多くの山を切り開いてトンネルを作っただけあって、山を越えるとまた山、トンネルを潜るとまたトンネル。当然途中で飽きてしまったが。

この間のことは良く覚えていないが、宮脇俊三氏の『中国火車旅行』を読んだところ、何と氏は1987年4月にこの鉄道に乗っており、克明に記録されている。以下抜粋したい。

『成都―昆明間は1,100kmの山岳路線。標高2,300mの高みに上がったかと思うと980mまで下がり、又1,900mまで上がるというように起伏も激しい。427のトンネルと653の鉄橋があり、ループ線やS字カーブの連続する区間もある。1970年の開通だが、大変な難工事だったという。』これだけの事を覚えていないとは、耄碌したのだろうか?列車酔いした記憶も無い。

『成昆鉄道は鉄道ファン云々というような生易しい鉄道ではない。辺境警備の為の軍事路線としての役割が強いのだ。鉄道局ではなく、軍の管轄下に置かれている。写真撮影は厳禁、スパイ容疑で逮捕されるという。』私はこんなことは全く知らないで乗っていた。恐らく何枚かの写真は撮ったはずである。怖い、怖い。

9.成都
夕方24時間きっちりで成都に到着。確か終点の一つ前の駅(成都南駅)で降りて、バスに乗って市内に向かう。兎に角暗かった。もし方向が間違っていたらどうしようと思うほど暗かった。これまで大勢で旅行しており、大変でも自らアレンジすることも無く来た為、心細さを強く感じた。

この町には錦江飯店しか良いホテルはないと聞いていた。迷わずそこへ行き、簡単にチェックインできた。これにはホッとした。このホテルは立派なホテルであった。上海にはこんな立派なホテルがあったろうか?ロビーの壁は大理石である。ディスコなどもあり、若者の服装も都会的であった。夕食はコーヒーショップでパンを食べた。いくら四川に来たからといって、行き成り四川料理を食べる気にはなれない。

夜ホテル内を散策していると、大手商社の成都事務所の看板を目にした。日系企業も殆ど無い時代であったが、流石に商社はある。私は一時就職活動で商社を志望し、この会社も真剣に検討したが、最後に『君は30年の商社生活のうち、15年は中国だろうね。』と言われて退散した覚えがある。その時熱心に誘ってくれた大学の1年上の先輩が成都に転勤になったと風の噂で聞いたのを突然思い出す。彼は10歳まで台湾で育った人で北京語はペラペラ。中国語を専攻する必要は全く無いと思われるが、何故か在籍していた人で、商社に入っても当然その語学力を買われ、中国で活躍していた。

思い切って事務所のドアを叩いた。偶々中に駐在員が居た。彼のことを尋ねると重慶に転勤したという。何ということだろう。これで北京、成都、重慶と3箇所目。僅か入社3年目である。本当に商社に入らず良かったと思った。

2月1日、15日目。朝も洋食。食後、杜甫草堂、武侯祠を訪ねる。両方とも歴史上有名な人物(杜甫、諸葛孔明、劉備)縁の場所。歴史に興味のある私は期待していったが、特に何も無くガッカリ。今は違うと思うが、当時成都は大都市ではあったが、地味な所という印象。強いて言えば、杜甫草堂の竹林が見事であった。

昼は有名な陳麻婆豆腐店に行く。麻婆豆腐一筋100年と言われる超有名な店。入ると早速注文。真っ赤な麻婆豆腐が出て来る。兎に角辛そう。とてもご飯無しでは食べられないと、ご飯を頼むが、これが大変。飯盛り30年といった感じのおじさんが、『糧票』を要求するのだ。これは中国人が米を買う時使う米購入券のことであるが、外国人は所持していない。代わりに外貨兌換券を使うことになっている。但し田舎ではこれが理解されない。金があっても買えない典型的な例。飯が無いと豆腐が食えないのでこちらも必死。最後はマネージャーのおじさんに泣きつき、何とか飯をゲット。無事に豆腐を食う。辛かったあ、飯があっても。

飯の縁でマネージャーに頼み、厨房に入れてもらう。鍋の中の麻婆豆腐は真っ赤。麻とは麻痺という意味。意味が良く分かる。

午後青葉山へ行く。特に行くところも無くて行ったのだと思う。道教の寺であった。寺は小山の上。かなり急な坂道で日本で言う駕篭かきがいて客を乗せている。珍しい光景だった。頂上まで上り寺に入るとかなり疲れた。寺の脇に茶を飲むところがあり、頼むと茶杯に茶を入れてくれる。成都は冬でも比較的暖かいところで、この日も15度ぐらいあった記憶がある。日本なら冷たい飲み物だろうが、中国では冷たい飲み物などは望むべくも無い。熱いお茶が旨かった。お湯を足してもらおうと小坊主(?)を呼び止める。中国ではその頃、レストランでウエートレスを呼び止めても、無視されることが多く、何か物を頼むとなると先ずいやな顔をされるのが普通。ところがこの小坊主はきびきびと動き、直ぐに薬缶を持ってきて丁寧に注ぐ。私が『謝謝』と言うと『応該的』と答えた。これには感動した。『応該的』とは、当然のことです、と言う意味。中国国内でこの言葉を聞いたのは、留学中この1回きり。実は謝謝でさえも、滅多に聞くことは無かったこの時代に本当に感動した。人間は態度と言葉で、随分違って見えると思う。社会主義の当時、サービスと言う概念は無かった。物を売る側も買う側も公務員だったから、礼を言う必要も無い、そんな時代だったのだ。金で頭を下げる時代もどうかと思うが、やはり社会主義は人間の根幹を駄目にする制度であったかもしれない。

同じ寺でも何処の寺か忘れたが、坊さんの写真を撮ってエライ目にあったこともあった。出てきた坊さんの服装が少し変わっていたので、寺の門を撮りがてら坊さんを入れてフラッシュを焚いた。いきなり数人の付き人がやって来て何やら喚いている。どうやら写真を返せと言っているようだ。私もむきになって、フィルム代を払うならあげても良いなどと押し問答をし、ふと気付くと回りは100人以上の野次馬に取り囲まれてしまった。こうなると先方も引き下がらない。面子の問題だ。30分ぐらいやりやって、何とか逃れた。勿論フィルムは渡さなかった。但し後で現像してみても、そんなに恐ろしい思いをしてまで守るような代物ではなかった。

2月2日、16日目。
飛行機の切符が取れたので、上海に戻る。流石に16日居ないと上海でさえも懐かしい。成都から2時間。初め飛行機は怖いと思っていたが、今回アントノフと言うプロペラ機に乗り、自信が付いてしまった。何しろ、成都から上海まで汽車だと50時間掛かるのだ。もう汽車には乗れない。飛行機では、スチワーデスが紙パックジュースを投げており、中国人の乗客がファーストクラスのトイレを使おうとしているのを文字通り摘み出していたが、そんなことにも慣れてしまった。

兎に角今回の旅は私を大いに成長させた。自信を付けさせた。怖いものが無くなり、今後の多くの旅行を可能にさせた。また同時に中国の広さを思い知らされ、少数民族の存在も意識させられた。極めて有意義な旅だった。

《昔の旅1987年‐激闘中国大陸編》蘇州ー寒山寺で厄払い

〈5回目の旅-1987年1月1日蘇州〉
―厄払い

1.上海のデモ
クリスマス休みがやってきた。何故か旅行の計画も立てず、ぶらぶらしていた。この時期本当に人生に迷っていたかもしれない。忘れもしない12月25日のクリスマス当日、私は何か美味しいものでも買おうと町に出ようとした。我が復旦大学からバンドと呼ばれる市内までバスで1時間ほど掛かる。距離にして10km程度だが、バスは小刻みに止まり、多くの乗り降りがあるため時間が掛かる。特に出入り口付近の人間は一度降りたら2度と乗れないといった形相で必死に手摺につかまる為、乗り降りがスムーズなわけが無かった。

その日も満員のバスの車内に立ち、何気なく外を眺めると、前の方に大勢の人が歩いている。どうやらデモのようだ。そういえば最近復旦のキャンパスにも何やら張り紙やビラがあったような気がする。横を通り過ぎると各隊が旗を持っている。復旦あり、同済あり、上海外語あり、この付近の大学が皆参加している。

多分友諠商店と和平飯店あたりで用事を足して、さて戻ろうとしたがタクシーは1台も大学方面には行かないという。デモを嫌っている。仕方なしにご愛用の55番バスを探したが、デモが収まるまで走らないらしい。とうとう歩いて帰る決心をした。歩いて帰るのは初めてだ。

外白渡橋、昔租界時代犬と中国人は通るべからず、と立て看板があった橋を渡り、四川北路から虹口公園(現魯迅公園)に向かう。このあたりは日本租界だった。魯迅を匿った内山書店(神田神保町に今もある)もこの辺りにあった。しかし12月だ。北風は冷たい。それを北に向かって歩くのはかなり難儀だ。四平路に出ると建設中の建物が多く、遮る物が少ない。愈々吹き曝しだ。

2時間ぐらい掛けて宿舎に辿り着く。もうクタクタだ。倒れ込むようにベットに横になる。この頃は既に一人部屋を確保しており、そのまま翌日まで寝てしまった。翌日熱が39度以上となる。苦しくて何も食べられない。昼間は1度下がるが夜は39度。これが何と4日も続く。この時は本当に死ぬのではないかとさえ思った。食べ物は1日1度粥を食べた程度。唯一の救いは、恥ずかしいがフィアンセ(現かみさん)が送ってくれた松田聖子と中森明菜のテープ。繰り返し繰り返し聞いた。これが日本だった。1度は遺言も書こうとした。兎に角当時医者には行けなかった。大学の医務室などに行こうものなら、どうなるか分からない。肝炎でもないのに医者に行き隔離され、本当に肝炎になった日本人もいたのだから。

4日目、H君が来る。まさか居ると思っていなかったようで酷く驚いて何くれと無く世話をしてくれた。これで何とか回復した。大晦日には蕎麦も食べた。本当に有難かった。

2.蘇州へ
蕎麦を食べながら、今回の熱は何かの祟りかと冗談を言った。そうだ、厄払いに行こう、蘇州の寒山寺の鐘を突きに行こう。初詣の気分になる。

タクシーをチャーターし、1月1日に蘇州に向かった。H君の他,家庭教師をお願いしている日本語学科の徐さんも一緒だ。彼女は日本語学科4年生で主席(成績が一番)、日本語はべらべら。赤川次郎の小説は2時間で読むし、源氏物語も読んでいる。私が受けた最初の質問が『松尾芭蕉の奥の細道の文中の古文法』であった事を見ても実力の程が分かる。正直言って質問には答えられなかった。彼女の実家が蘇州ということで里帰り同行となった。

蘇州への道は、途中から小さな橋を飛び跳ねる感じで越えて行く。周りは水郷地帯である。1時間半ぐらいで到着。徐さんを実家で降ろし、我々は寒山寺へ。

寺には何と日本人の団体がいた。やはり鐘を突くためにである。50人の団体全員が鐘堂の前で入場券をもぎるおじさんに『ニーハオ』と言う。これにはおじさんも面食らっている。止むを得ないとはいえ、日本人の柔軟性の無さを感じた。

50人の後ろについて、鐘を突いた。生まれて初めてで、且つダウンジャケットが厚手でうまく突けなかった。いや実際は病み上がりで体力が無かったのかもしれない。鐘を突く意味は分からないが、兎に角日本人らしく仕事をこなした。

蘇州の印象はかなりこじんまりした街。古都であり、色が無い街。国営工場からは煙がモクモク出ている。古い庭園がいくつかあったが、あまり深く印象に残っていない。

昼はホテルのレストランで食べた。麻婆豆腐を頼んだところ、甘い物が出てきた。あのまるみやの麻婆豆腐の味である。以前行った無錫もそうだったが、このあたり料理は比較的甘く、日本的だ。

食後徐さんを拾いに行った。ちょっと家に入れてもらった。初めて中国人の家に入った。聞いてはいたが、広くなかった。6畳2間といった感じ。家族3人(徐さんは勿論一人っ子)でどうやって寝ていたのかと思えるほど家具がある。日本なら布団を敷くわけだが、こちらはベッド。ソファーも夜はベッドになるのだろう。徐さんの母親が甘い団子の入ったスープを出してくれた。これは旨かった。

帰りは皆寝てしまった。正月早々疲れてしまったのは、なぜだろう。

《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》南京ー金陵飯店とバスの故障

〈4回目の旅-1986年12月南京〉
―金陵飯店とバスの故障

1. 南京
(1)南京まで
上海も冬になり肌寒くなった12月、良いホテルに泊まり湯船にゆっくり浸かりたいという日本的な理由で南京に行くことになった。何しろ南京には金陵飯店がある。当時としてはレベルの高いホテルと聞いていたので、早速電話すると250元で予約が取れた。ホテルの予約を電話でできるとはその当時非常に稀なことであり、かなり期待できるホテルであることが分かった。

今回は同室のAさんと2人で旅。と思ったら、同窓で1年先輩のMさんと華東師範で日本語の先生の女性2人も同行することになった。彼らは南京大学の知り合いに会いに行くところだった。

以前無錫に行くとき乗った列車に乗り、今回は終点の南京まで約5時間の旅である。前回は10月で気候の良い時であったから、非常に爽やかな秋の風景であったが、今回は畑も一面刈り取られ何も無い非常に寂しい冬景色だった。

(2)南京の夜
駅に着くと直ぐに金陵飯店へ。部屋はまあきれいな方であったが、湯船はそれ程大きくなかった。それでもホテルのチェックインで何時間も交渉することを考えれば満足、満足。

それから4人で南京大学へ行き、留学生と会う。南京大学は金陵飯店の直ぐ北にあり、町の中心にあるこじんまりした大学。金融機関から派遣された留学生も何人かいたが、今回は学生で留学している人々と会う。大学の先輩、後輩もいた。かれらは月に1度は上海に来ると言う。我々にとっては物の無い上海でも、南京から見ると憧れの町であるらしい。学生らしく書籍を購入しに来る人も居る。我々が実は恵まれていることがこの時分かる。留学生宿舎も我が復旦大学の方が整っている。お湯のシャワーが24時間出る、暖房(暖気)も24時間出ているのは全国の大学でも復旦だけ。南京大学ではそんな贅沢は無いと言う。

夜は近所のレストランで食事を取る。何時も旅行中はホテルでばかり食事をしている我々にとって、地元レストランは結構新鮮。かなり薄暗い中、料理も美味しかった気がする。ちょっと塩辛かったけれど。

ホテルに戻り今回の目的である風呂に入る。今でも海外生活では湯船に湯をたっぷり張ってゆっくりと浸かりたい願望はある。ましてやこの当時、上海の宿舎では泥の混ざったような茶色いシャワーを浴びていたのである。その切実さは計り知れない。湯船に体を沈めれば、何ともいえない心地であった。

(3)南京観光
2日目。南京観光。先ずは中山陵へ。孫文の遺体が安置されている場所で革命の聖地と言った感じ。台湾旅行で行った中正記念堂の蒋介石像は南京の中山陵の方を向いていると教えられた。何時か大陸に戻るという願望の表れだ。

階段がかなり沢山あり、上るのに難儀したのを覚えている。その横を日本の高校生が修学旅行で訪れており、ぞろぞろと同じ服(学生服)を着て詰まらなそうに歩いているのが印象的だった。私は常々日本の学生にこそこの物の無い生活を体験させたいと考えていたが、見た感じとても耐えられそうに無い。日本の将来が思いやられた。

雨花台烈士陵園にも行った。紀元前に越王が城を築いたと言うから歴史はかなり古い。しかし雨花台といえば、何と言っても国民党の処刑場として使われ、多くの人間が殺された場所である。今は静かな公園になっている。

午後南京長江大橋に行く。1968年に完成された中国最大の橋。当初はソ連の技術を導入したが、中ソの仲が悪くなり最後は自力で完成させたと誇らしげな解説が見える。確かに長江は大きい、広い。河の向こう側は煙ってよく見えない。日本にはこんなに広い川幅は見ることが出来ないと思う。しかも橋は2段になっており、下は鉄道が通っている。

橋の近くに南京虐殺記念館があったと思う。今地図を見ると大橋からは少し離れているが。ここは文字通り1937年の南京大虐殺関連の資料が展示されている。一歩中に踏み込むと言い知れぬ重圧がある。先ず映像室に案内され、ビデオを見るのだが、これが虐殺シーンの連続で見ている最中後ろから切り付けられるような気分になる。ビデオを見終わって外に出ると流石に誰も日本語を話そうとしない。無言で展示物に目をやる。殺された30万人の内訳などが詳細に記入されており、日本などの『虐殺は無かった、でっち上げ。』などの意見に真っ向から反対している。

帰ろうとするとアメリカ人が英語で『日本人は虐殺をどう考えているのか?』と質問してきた。これまで事実かどうかといった話はしたことがあったが、アメリカ人に英語で話すほどの回答を持ち合わせていない。こういう時に情けないなと思う。同時に日本の歴史教育とは何かと考えさせられてしまう。さっきの高校生なら『知らない、何それ。』などと平気で答えてしまうだろう。

夜は金陵飯店で中華を食う。旨かった。久しぶりに旨い中華を食った。夜遅くロビーに下りるとコーヒーショップがまだやっている。何と24時間営業。中国で24時間営業の場所を初めて見た。別にお腹はすいていなかったが思わず入ってしまう。ここで生まれて初めて『海南チキンライス』を食べる。鳥好きの私はこの後十数年海南チキンと付き合うことになる。今でも最も好きな料理である。コーヒーも飲んで大満足。

2.揚州へ
3日目。今日は南京を離れ、揚州に行くことにした。揚州まではバスで3時間。前日バスターミナルで日本製のバスであることを確認して予約した。南京大学の人々が口を揃えてバスが良く故障するので、気を付けろと言っていたからだ。

揚州と言えば、揚州チャーハン。勿論鑑真和上の大明寺もあるが、先ずは食い気である。意気揚々とバスに乗り込み、チャーハンのことを考えていた。きっとAさんも同じだったろう。バスは日本製。問題無し。

バスは快調に1時間ほど走っていたが、その辺りから雲行きが怪しくなる。まさかと思っていたが、日本製のバスのご利益も無く、何と故障。20分ぐらい停車し運転手は懸命に修理を試みていたようだが、最後にスパナをポンと放り投げる。それが合図なのか乗客が皆降りはじめ、何と思い思いにヒッチハイクを始める。そして手際よくバスを捕まえどんどん乗り込んで行く。我々2人の日本人は呆然と見つめるだけ。あっという間に取り残された。

やむを得ず運転手のところに行き、外国人の我々を何とかしろと迫る。必死の形相が功を奏したか、運転手がヒッチハイクを始めた。ところがなかなか来ない。そして何と反対側のバスを捕まえて何か話し込む。これに乗れという。我々ももうどうでも良くなっていたので、南京に引き返すそのバスの乗ってしまう。

乗っても席が無い。当時交通機関は何処でも満員なのだ。運転手が手招きし、運転台の後ろの空間に座れと言う。色々話しかけてくるが、この地域も訛りが強い。何を言っているか良く分からない。しかし最後に分かったことには、どうやら最初のバスの運転手が『この日本人は非常に急いでおり、南京駅から汽車に乗らなければならない』と嘘をついて乗せてくれていたことだ。

まさか嘘だとも言えず、頷いていると何と運転手は路線バスにもかかわらず、いの一番に南京駅の前にバスを付けてくれた。これには驚いた。本来は感謝すべきであるが、当方には南京駅に行く理由は無かったから、キチンと挨拶もせず降りてしまった。悪いことをしたと今でも反省している。

駅に着いてしまったからには、何とか今日の上海行きの切符をゲットしたいところ。しかし中国はそんなに甘くない。係員は全く取り合わない。やる気の無い姿勢でウンでもなければスンでもない。私はもうこんな状態には慣れていたので、粘り強く交渉しようと思っていた。ところが、普段温厚なAさんが突然キレた。あれは正にキレたのだ。最初は北京語で何故売らないんだと言っていたが、途中からは日本語で捲くし立てた。こんなAさんを初めて見たので、私の方が慌ててしまった。翌日の切符を?ぎ取るとAさんを外へ連れ出した。普段大人しい人が怒ると本当に怖いとその時知った。

兎に角泊まるところが無いので、金陵飯店に戻って事情を話したところ、快くもう1泊させてくれた。しかしもう観光もしてしまったので、行くところが無い。部屋でゆっくりしたのを覚えている。

4日目。上海に戻る。結局揚州チャーハンは次回の機会を待つことになった。

《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》紹興・寧波-魯迅会議と修学旅行

〈3回目の旅-1986年11月紹興、寧波〉
―魯迅会議と修学旅行

1. 紹興
ある日H君が『紹興行きません?』と私に聞いた。上海に来て2ヶ月、正直退屈していた。既に授業には飽きてしまっており、夕方来る家庭教師の学生相手に、テレビを見て語彙を増やしたりしていた。

紹興と言えば、紹興酒と魯迅。どちらも中国を代表するもの、是非行って見ようと思った。何故か紹興行きの列車は夜の出発である。夜9時上海発の寧波行きに乗る。前回の無錫行きと違い、非常に暗い印象。当然幹線である上海―南京線より落ちる車両を使っている。先が思いやられる。ただ今回は中国通のH君が付いている。特に問題は無かろうと高をくくっていた。

紹興は紀元前500年頃には既に越の都であった実に古い街である。越といえば臥薪嘗胆で有名な越王勾践がおり、古代は華やかな街であったろう。しかし私の紹興のイメージは、魯迅の『故郷』という作品に出てくるあまり明るくない街なのである。

紹興に着いたのは夜中の3時過ぎである。この時間ではホテルも探せない。11月にしては暖かかったので、町をふらふらする。町には運河が張り巡らされており、暗い中で仄かに紹興酒の香がする。実に不思議な感覚だ。まるで異次元に迷い込んだみたい。全てが幻想的。ところが少しずつ夜が明けてくるとこの幻想が現実に変わる。朝6時に幾つかのホテルを訪ねるが、何処も一杯といわれる。初めは中国に良くある『部屋があっても泊めない』社会主義的対応だと思っていた。ところが今回は事情が違った。『全国魯迅会議』。魯迅研究者が一堂に集まって会議をするらしい。紹興はそれ程大きな町ではない。本当に部屋がないかもしれない。

8時頃には諦めて、朝食を食う。粥とまん頭。これでも上海の宿舎に比べれば遥かにマシ。その後近くに居た人力車を捕まえて町を散策。清代の詩人で女性革命家秋謹の故居を見た後、今回の元凶、魯迅博物館に。横には『孔乙巳』に出てくる紹興酒を売る店があった。朝9時、何と沢山の人が朝から紹興酒を買いに来ていた。中には入れ物に事欠いて哺乳瓶に紹興酒を入れていたおじいさんもいた。何というところだ。きっと赤ん坊の頃から紹興酒を飲んでいるに違いない。我々も朝靄の中で嗅いだ香が忘れられずに、ついに人力車のおじさんと3人で店の汚い椅子に座り飲み始めた。とても旨かった。日本で飲んでいたビンに入ったものなど問題外だ。樽から直接椀に入れる。椀は綺麗とは言えないが、それまでもが時代を感じさせた。何杯か飲んでしたたかに酔った。当然だ。昨夜あまり寝ていないのだから。

何とそのまま人力車に潜り込み寝てしまった。昼近くに起き上がったが、もうこの町に居ようとは思わなかった。人力車で駅へ送ってもらい、寧波行きの切符を探した。幸い午後の切符を手に入れた。これは幸先がよい。これで今日はゆっくり寝られる・・はずだった。

2. 寧波
列車の中でも殆ど寝ていたと思う。駅に着くと這い出すように列車を降りる。駅前は閑散としていた。地球の歩き方、これが私の旅の唯一の道具だった、を見ると泊まれそうなホテルは1つしかない。駅に近い華僑飯店だ。当時中国では外国人が泊まれるホテルはかなり限られていた。ドミトリーはあるにはあるがバックパッカー用と言った感じで、上海以外で気分のよい生活をしようとする我々にとっては無用の宿であった。駅の外国人窓口で上海行きの切符を買う。ところが何度聞いても3日先しかない。これは大変なことになった。もしここで泊まれなければ今度こそ野宿だ。

ホテルのロビーに入るとき何故か緊張した。いやな予感。案の定、カウンターのお姐さんは『部屋はない』と素っ気無かった。しかし我々はここで引き下がれない。日本人で、留学生で、その上昨夜の紹興の出来事があって、などと切々と語る。それでも先方は動じない。1時間ほど経過してロビーにへたり込む。絶望的状況だった。お姐さんは仕方ないと言った感じで『部屋が無いのは本当。あなたの同胞が全て予約したのよ。嘘だと思ったら表に出てみれば。』と言う。表に出ると何と入り口のところに大きな横断幕で『歓迎 ××女子高校様』と書いているではないか?『えっ?修学旅行?何で?何でこんな所まで来るの?』その頃日本の高校では中国への修学旅行がブームになりつつあった。事実翌年にはあの高知学芸高校の列車事故が上海近郊で起こる。

ロビーに戻ると『ほらね』と言った顔でお姐さんが見る。もう動く気力がなくなっていた。本当にへたり込んだ。ロビーで寝そうな勢いだったに違いない。マネージャーらしき人が来て『どうしても泊まりたいなら、従業員宿舎に泊めてやる』と言う。もう何でもよかった。45元、確か45元取られた。部屋に窓は無かったが、予想外に清潔だった。満足した。直ぐに横になって夜まで休んだ。

夕食はホテルの食堂に行った。どうもホテルの周りで清潔に食事が出来そうなところは無かった。今では信じられないがかなりの田舎と言った印象である。食堂の席の1つに何故か日本の醤油が置かれているのが目に留まる。その席に着こうとするとここは指定席だと言う。何と寧波に駐在している専門商社の駐在員が毎日ここで食事をするのだと言う。そうこうしている内に本人がやってきたので、思わず声をかける。ここに駐在する苦労話を聞く。彼はここ寧波唯一の日本人駐在員。出張が無い限り365日、ここに泊まりそしてこのレストランで食事をする。コックにカツどんのような日本料理を自ら教えて作らせるなど何とか生活を充実させようと努力していた。テーブルの上の醤油やソースもそのようにして出来たエセ日本食を食べる為のものであった。

通算3日目、やる事も無く、郊外の観光を計画。ロビーでタクシーのチャーターを頼むが車が無いと言う。何というところだ。仕方なく、1日中寧波市内を歩く。といっても殆ど見るところもなく、港付近でぼっーとしたりするだけ。港といっても少し大きな川に小型の船が停泊しており、朝地引網を行ったと思われる網が放置されていて、小魚が引っかかっていたりする。日本で言えばかなり地方の寂しい港町になすことも無く、無為に時を送るといった風情。

寧波郊外には例えば蒋介石の故居があったり、日本で曹洞宗を起こした道元が学んだ天童寺があったりするのだが、とても歩いて行ける距離ではない。バスも不便であると言われては、成すすべが無かった。今寧波に行く人がいれば、今回の話は全く異次元の話であろう。私はその後一度も寧波を訪れていないが、聞くところに寄れば現在はかなりの発展を見せており、浙江省の中でも豊かな地域であるらしい。上海―寧波間は高速道路で僅か4時間で結ばれている。海外から進出する企業も多く、港も整備されているという。

4日目午後漸く車が手配出来、阿育王寺に行く。これだけ待って何故この寺に行ったのかは残念ながら全く記憶が無い。また折角行ったのに寺の記憶もあまり無い。一体どうしたことだろう?黄色の山門を潜り、広い境内を歩いた。282年建立の古刹であるが、何があったのかはとうとう思い出せない。兎に角毎回3食をホテルのレストランで食い、何もせず過ごした。ホテルの部屋は修学旅行生が1晩で去り、2日目からは普通の部屋となったが、かえって最初の従業員の部屋が懐かしかった。これがこの旅の収穫。

5日目の夜、寧波を後にする。また夜の列車で上海に着いたのは夜中の3時。今回はずっと暗い印象のまま終わった。最後に宿舎に戻った時、当然ながら門が閉まっており、管理人のおじさんを叩き起こしたのは申し訳なかった。しかし今思い返してみれば、この頃が心身ともに一番きつかったかもしれない。季節は暗く寂しい冬に向っていた。あのセピア色の80年代の風景が蘇る。毎日日本に戻りたいと考えていた私は遣唐使や留学僧侶と実は同じ体験をしていたのかもしれない。

 

《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》-無錫旅情と口げんか

 

〈2回目の旅-1986年10月無錫〉 
―無錫旅情と口げんか

無錫と言えば、『無錫旅情』。尾形大作が既にこの歌を歌っていたと思う。北京旅行で自信を付けた私は、直ぐにも次の旅行に行きたかった。それは留学生生活がとてもつまらなかったのと上海を離れたい思いが強かったからだ。上海、今ではいいイメージも強いこの町は、この頃何も良い事がないように思えた。上海人は顔ではニコニコしているが、お金のことしか考えていない。食べるものもない。授業も北京の北京語に比べれば、これが北京語?といった上海訛りの標準語。そんな風に考えていた。

10月中旬、同室のAさん、H銀行のCさんともう一人の4人で無錫に行った。もう一人はTのIさん?何故この時無錫に行ったかは覚えていない。もし理由があるとすれば歌ぐらい?列車の切符は和平飯店?の中国国際旅行社で予約。軟座を確保。当時列車の料金は外国人が中国人の1.8倍、且つ外国人は外貨兌換券(FEC)という人民元とは異なる通貨を使っており、この兌換券をもし闇で両替すれば1.5倍になったことから実質2倍以上の料金を取られていた。但し留学生証があれば中国人料金になった。でも軟座を取るには兌換券は必要。どちらにしても日本円にすれば何百円の話であるが。

無錫までは列車で僅か2時間半。軟座は4人掛けの柔らか目の椅子席である。席に付くと車掌さん?が早速薬缶にお湯を入れて持ってくる。茶を飲むコップは例の蓋付きがテーブルに置かれている。なかなかよいサービスだ。窓からの眺めもなかなか良い。日本の田舎と同じような畑や田んぼが続く。江南の春ならぬ秋である。春は菜の花が一面に咲き乱れ見事なものであるが、秋は稲刈りが終わった感じで物悲しい。

同じ列車にはT銀行の上海所長がスーツ姿で乗っていた。南京に出張のようだ。何となく後ろめたい思いになったが、当時駐在員は我々よりずっと良い生活をしていたので、自費で旅行するのに文句があるかなどとも思っていた。(勿論この所長には何の恨みもない)

無錫に到着すると駅前はやはりごった返していた。と言っても上海ほどではない。先ずは駅で帰りの切符を手配。外国人専用窓口があり、2日後の軟座が簡単に手に入った。これで今回の旅行は2泊3日と決まった。順調だ。次はホテル。駅から少し歩いた無錫大飯店というそこそこ綺麗なホテルを見つけて宿泊交渉。左程時間も掛からず、チェックインできた。

当日は小雨が降っていたが、ホテルからまた歩き出す。大分歩くと漸く湖が見えてきた。太湖だ。小雨に煙っているが、大きい。中国で4番目に大きいという。湖畔には大きなホテルが幾つか見え、こちらの方が旅情を誘う感じがして少し残念な気がした。日本人には極めて好まれる風景ではある。散歩を少ししたが、雨で引き返した。

夕飯はホテルで無錫料理を食べた。何と言っても無錫排骨が旨い。味付けが甘めで,日本人向き。他の料理もなかなかいけており、上海の留学生食堂で食うより余程良い。

2日目はタクシーをチャーターし、宜興へ行く。宜興、現在の私なら何としても行きたい町。紫砂の茶器で有名な町であるが、当時は全く興味がなく、目も呉れなかったのは残念。あの時買い求めていれば今頃素晴らしいコレクションになっていたのに??その時は洞窟があり、小さな船で洞窟探検が出来るという事で行ってみた。確かにちょっとした観光地であったが、印象はあまり強くない。

帰りにチャーターした車が他の車と接触したことの方が印象に強い。我が運転手は敢然と車外に飛び出し、ものすごい勢いで口げんかが始まった。中国では口角泡を飛ばすといった口論が町の彼方此方で見られる。ただその時は自分達も当事者となった為、事態の推移を固唾を飲んで見守った。周りに野次馬が殺到した。他に楽しみがないのか、何処でも野次馬が多い。かなり言い合った後、とうとう我々の所に来て、証人として証言してくれと言う。当時の北京語力ではとても証言など出来るわけがない。第一実際にどちらが悪いのか見ていたわけではない。一瞬の出来事だったから。

我々が証言出来なかったことが祟ってか、運転手は捨て台詞を残して車に戻ると乱暴に発進させた。きっと彼は会社に戻り、社長に色々と言い訳をしないといけないのだろう。私は彼に悪いことをした気がしてならなかったが、どうしようもなかった。中国では口論で相手を言い負かす言語力が求められることを痛感した。但しこれはネイティブではない我々には実際は不可能なことに思えるが。

3日目は帰る前に恵山泥人形工場に行った。泥人形は無錫の特産。お土産に1セット買った。劇の役者の顔を模った物が多かった。無錫は元々錫の産地であったが、早くに掘り尽くしたという。それで錫がない無い、無錫となった。その後泥人形が出来たのかもしれない。

帰りの列車も何事もなく上海に着いた。今回の旅ほど何のハプニングも起こらなかったのも珍しい。