【積水潭付近】2008年2月16日 旧正月が明けた。まだまだ寒いが、日中零度を超えるようになった。この頃天気が極めてよい。やはり青空は気持ちが良い。オリンピックイヤーだからだろうか??健康診断を受けた感じでは、体調管理が求められることになりそう。散歩の再開が不可欠となる。また最近中薗英助の『北京飯店旧館にて』を読み、老舎への関心も高まる。老舎の生家近く地下鉄積水潭駅へ向かう。 1. 太平湖 老舎は1966年8月に文化大革命の犠牲となり、紅衛兵から暴力を受け、その後太平湖西岸に死体が上がった。未だに他殺か自殺か、真相は不明ながら文革の犠牲になったことは間違いない。今回読んだ中薗英助の『北京飯店旧館にて』では、老舎のような老北京人は自分から城外へ出て自殺することは考えられないとして、太平湖で死んだのであれば他殺であろうとしている。(一方『北京歴史散歩』ではこの死には抗議の意味があり、覚悟の自殺ではなかったかとしている) 太平湖とは一体どこにあるのか??この湖は以前積水潭にあった城壁に沿った西にあったようだ。しかし老舎の死を隠すかのように1972年、地下鉄工事の影響で埋められてしまったらしい。いやよく調べてみると北京の地下鉄は何と1969年10月に2号線が開通している。資金の一部は例の日本のODAである。工事期間4年、文革中によくも工事が出来たものだと思う。それにしても40年も前に地下鉄があったことは意外である。そして何でこの2環路を回る線が2号線なのか??分からない。 今回積水潭駅で下車し、地上へ出ると、西側の護岸河は凍結していた。かなり長い河を端まで行ったが、その先は団地になっており、行き止まり。しかし近所の地図を見ると何と『太平湖』という文字が見える。そこまで足を伸ばすと『北京市地鉄運営公司』の敷地が見えてきた。中に入るとかなり古い建物もあり、ここが1972年に埋め立てられた所ではないか、と思われる。奥には線路の引込み線も見え、この辺りが湖であったのでは??何一つ往時を偲ぶ物はないが、何となくそんな気がした。 そうか、地下鉄工事で埋め立てられたのではなく、地下鉄の会社の用地として使われたのだ。それにしても当時の北京、土地は幾らでもあったであろうに??不思議な気分はすっきりしない。長閑な休日の午前中、昔からここに住んでいると思われる人々が楽しそうに談笑していたりする。文革は今や昔の出来ことなのである。 2.西直門内大街 徳勝門西大街を渡り、高層ビルの建設現場の横を通り抜ける。道が工事によって複雑に蛇行している。その裏は昔ながらの団地、そこを抜けるといきなり西直門内大街に出た。そして目の前に教会が。 天主教西堂、北京には東西南北の名の付いた教会がある。その中では最も名前を聞かないのが西堂。4つの中で最後に出来た教会である。1723年創建。その後1811年、1900年(8カ国連合軍)に破壊され、現在の建物は1912年建造。 土曜日のせいか、教会の門には鍵が掛けられていた。そして少し改修している様子が見える。この建物、一般の教会のようにシャープな印象は無く、どちらかと言うと公会堂のような横長。ちょっと不思議である。(てっぺんの尖塔系の鐘楼は既に取り壊されている)横の小門を潜るが何となく入ってはいけない雰囲気。教会は一般的に開放されているはずだから、きっと何かあるのであろう。 教会から東へ。明最後の皇帝、崇禎帝時代に宦官のトップ、太監に就任し、権力を欲しいままにした曹化淳が建てた曹老公観の跡があるはずであった。曹老公観とは巨万の富を築いた曹化淳自らを祭る廟である(正式名称は崇元観)。その権力が窺い知れた。曹化淳は明が滅ぶと李自成に(李自成に城門を開いたのは曹化淳)、李が倒れそうになると清朝に付くという稀代の身のこなしを見せた人物。 1769年に修復された後は衰退したが、ここの廟会は大規模なものであったらしい。民国時代には見る影も無く、1931年には国民党の陸軍大学となり、その後張学良の東北大学が瀋陽より移転してきて、その校舎として使われたという。因みに東北大学は当時の先進的な大学で男女共学、欧州留学制度など、近代化と愛国を理念とした。
歩いて行って見たが、通りに面した場所には何も無い。奥に入ってみるとそこには児童図書館と映画館の入ったビルがあったが、往時を偲ぶ物は何一つ無かった。やはり悪徳宦官のイメージが強いのであろうか?? 3.老舎生家 新街口を南へ行く。一筋一筋丹念に道を確認していく。ない??地図にも載っていないこの胡同を探す。途中バックパッカーのためのゲストハウスなどもあり、この辺りにまで外国人が出入りしていることに驚く。 小楊家胡同、あれっと言うほど小さい入り口にびっくり。表示が無ければ通り過ぎていただろう。鍵型に曲がるとそこにじいさんとばあさんが日向ぼっこしていた。老舎の生家を探したが、またまた通り過ぎる。住所表示がないのである。 辛うじてこの入り口に違いないと思えるところに当たる。写真を撮っていると後ろからじいさんがじっと覗く。ここに間違いない。箒がさかさまに立て掛けられている。何となく長閑な光景である。 老舎、満州族。北京市井の作家。1899年生まれ。翌年義和団事件が起こり、父親は八カ国連合軍の攻撃から正陽門を守って戦死。母親は苦労しながら老舎を育てた。 学生時代に読んだ『茶館』は今のお茶好きの原点であろうか??日本軍政下の北京を描いた『四世同堂』、もう一度読み返そう。そんな気にさせる何気ない胡同であった。小楊家胡同は旧名を小羊圏胡同といい、昔は羊を飼っていたらしい(また入り口が小さく中が大きいことから羊の腸に似ているとの意味?)。生家の壁を越えて見える大木がその様子を見ていたのだろう。
4.梅蘭芳 新街口から護国寺街へ。寺はないらしい。しかし門前に小さなレストラン、商店が並ぶ。徳勝門内大街との交差点に梅蘭芳記念館と書かれた(鄧小平揮毫)立派な門を発見。門を潜ると梅蘭芳の胸像がある。 梅蘭芳は祖父、父共に京劇役者。幼くして両親を無くしたが、胡琴の名手であった叔父に育てられ、11歳で初舞台、20台で既に名声を博し、1922年の溥儀の結婚式では清朝最後の余光を飾った。 日本も訪問している。1918年に帝国劇場で公演。歌舞伎役者との交流も展示されている。1930年代は拠点を上海に移し、愛国主義的な活動を展開。日本侵略主義に断固反対の態度をとる。チャップリンやバーナーショウなど多くの著名外国人との交流もあり、国際的な評価を得ていた。 解放後周恩来の要請もあり北京に戻り、故居に居住。自ら作品を作るなど精力的に活動した。晩年10年を過ごした四合院の旧居をそのまま展示室にしている。正面奥にはベット、机など生前使用していた家具がそのまま展示されていた。 尚徳勝門外大街の道を挟んで反対側には慶王府があった。ここは清末の愛親覚羅亦?の邸宅。現在は一般住居なのか非公開。 1900年の義和団事件では李鴻章と共に連合軍と辛丑条約を締結。その後外務大臣、軍機大臣を経て、総理大臣も勤めた。但し彼は才能も品性も無く、賄賂を受け取っていた。東交民巷のHSBCに多額の資産を預金していたと言う。
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《北京歴史散歩2007》(7)后海付近
【后海付近】2007年9月9日
実に久しぶりに歴史散歩に出た。元々の予定は今日から出張だったが、一日伸びた為時間が取れた。こんな日は良い事がある、と思い地下鉄で鼓楼へ。
(1) 竹園賓館
駅から旧鼓楼大街を南へ。右手に小石橋胡同がある。胡同の入り口に新しい牌楼があり、『竹園』と書かれている。何となく不思議。歩いて行くと通り過ぎそうな家並みの中に看板があり、竹園賓館が分かる。
ここは四合院ホテルとして紹介されているが、それにしては大きい。かなり立派な人の屋敷だったはず。入り口正面の大木がそれを物語っている。古くは西太后お気に入りの大監(宦官の親玉)李英蓮、その後清末の大臣盛宣懐の屋敷だったと言われている。文革中はあの悪の大立者中央宣伝部長の康生が住んだと言われている。
服務台のある建物も少し物々しい。お姐さんは流暢な英語を話していた。日本語の解説もあるようだ。どう見ても外国人が泊まるところ。庭と庭の繋ぎは朱塗りの回廊。横には建物があり、レストランになっている。西洋人がゆっくりと粥をすすっていたりする。私も食べたくなったが、何となく場に合わない感じがして止めた??
回廊の奥左手に竹林がある。小道になっていて素晴らしい散歩道である。このホテルの名前がここから付いたことが分かる。更に行くが聴松楼。建物の前に松の大木があり、松の音を聞いて寝る、という風雅な名前である。
素晴らしい庭園ホテルだが、宿泊代は780元、880元と高い。外国人料金だろうか。警備はかなりしっかりしていた。竹の林が美しい。海棠、石榴など木々に埋もれている。一度は泊まってみるか。
(2) 鐘楼と鼓楼
鐘楼に到着。急な階段が何とか上がり上へ。息が切れた。上には大きな釣鐘が置かれている。この鐘が朝夕北京に鳴り響き、城門の開閉を告げていたのだ。元の時代、鐘楼は大都の中心であった。万寧寺の中心閣があった場所である。
1420年明の永楽帝の時代に創建され、1745年清の乾隆帝の時に改修された。北京の時計として日に108回鳴っていたというが、1924年に民国政府が溥儀を紫禁城より追い出し、鐘の音も聞こえなくなったという。
この鐘には伝説がある。永楽帝は鐘楼完成後、大きな銅の鐘の作成を命じたが、いくらやっても上手く出来ず、期限の最後の一日に親方の様子を見に来た娘が炉に飛び込むと、鋳上がったというもの。『鋳鐘娘々廟』が近くに建てられ、娘を祭っていたが、今ではその廟も見当たらない。
楼の下には何故か茶芸館がある。こんな所でお茶を飲む人がいるのだろうか??不思議な感じ。その南に鼓楼がある。大量の太鼓が展示されている。何故こんなに太鼓が必要だったのだろうか??外が良く見える。周辺の胡同が破壊されていく様子がよく見える。非常に残念な光景ではあるが、都市の発展とどちらが大切なのか、永遠に分からない謎なのだろう。
1272年元代の創建。1420年鐘楼の建造と共に改修される。その後1900年の義和団事件に際しては日本軍の略奪に遭い、大太鼓が軍刀で切り裂かれたと言う。1924年に日本軍の略奪行為を展示した際には、悲憤の青年が飛び降り自殺したとのこと。当時の日本軍の侵略は北京にも大きな爪あとを残している。
以前景山公園の頂上から見た風景を思い出す。故宮と反対側、北側を見ると故宮から真っ直ぐ北に一本の線が伸びている。その線上の中心に鼓楼と鐘楼が位置していることがよくわかる。都市計画とはこのようなものであろう。
(3) 広化寺
什刹海に出る。什刹海は西海、后海、前海からなる。元代は水路が繋がっており、物資がここまで運ばれてきていたため、商業の中心地であった。明代には水路が機能しなくなり、高官の邸宅が造られるようになった。名前の由来は什は十、刹は寺を指す事から、この辺りに10の寺があったらしい。
しかし今寺はあまり見られない。后海の湖岸を歩いて行くと風は爽やか。柳も枝垂れかかり、気持ちのよい散歩となる。見ると獅子の像が2つ。寺があった。入れるのかなと覗くと入れた。こじんまりした造り。鐘楼と鼓楼あり。信者が熱心に祈っている姿が印象的。檀家以外は奥には入れない。
広化寺は元代の創建。浄土宗。ある僧が一生かかって托鉢を行い、その喜捨で建てられたといわれる。仏教の教えを広めたと言う意味で名前が付けられた。現在は北京市仏教教会の本部になっている。
1908年に張之洞(洋務派官僚として重要な役割を果たし、曽国藩、李鴻章、左宗棠とならんで、「四大名臣」とも称された)がここに京師図書館を設立。清朝皇家蔵書、敦煌石室写経など10万冊の蔵書が集められたが、洋書は禁書となる。
(4) 宋慶齢故居
醇親王府がある。非公開、現在は衛生部が使用しているらしい。その庭園部分が宋慶齢故居になっている。醇親王は清末の混乱期に摂政を勤めた人物であり、あのラストエンペラー溥儀の父親である。
溥儀はここで生まれ、皇帝となり、皇帝を退位し、故宮から退去した後、1924年一時的にここに戻ってきた。宋慶齢は1949年に建国以降、1981年に死去するまでずっと北京に住み続けた。この邸宅に住んだのは1963年から亡くなった1981年まで。慶齢は自らの住居を建てようとする共産党幹部に対して何度も断ったという。最後は1962年に周恩来が自ら場所を選定し、引越しを促した。
厳しい門を潜ると兎に角広い。公園のようだ。庭が整備されており、綺麗。築山あり、池あり、水は后海から引いている。流石は国歌名誉主席の家に相応しい構えである。四合院造りの3棟の建物に展示物がある。宋家については言うまでも無いが、上海の財閥。3姉妹はいずれも歴史に大きな役割を果たした。特に慶齢は国父孫文の妻として、その役割は重要。好きだった鳩を沢山飼っていた彼女、平和への思いも深かっただろうか。
展示室には彼女の歴史が表示されている。1949年の建国では天安門で毛沢東と並び、1954年にはダライラマと撮った写真もあった。しかし文革中の展示は何も無い。どうしていたんだろうか??主楼は慶齢が住むのに合わせて、あの変法維新のメンバー梁啓超の息子で著名建築家である梁思成が設計。外見は中国伝統建築、中に入れば洋風の内装。見事な折衷である。1981年5月に亡くなった時、私は大学に入学したばかり。台湾に渡った妹美齢(ニューヨーク在住)が中国の葬儀に出席するかが大きな注目を集めていた気がする。
(5) 高廟と李橋
后海南沿に回る前に西海に行ってみた。橋を渡ってすぐの所に高廟と呼ばれた明代の関帝廟があるはずだった。しかしいくら探しても見つからない。既に取り壊されたらしい。印刷工場になっているとの情報もあったが、見当たらない。付近は昔ながらの胡同の雰囲気が残っているのだが。
高廟は1860年のアロー号事件の際、イギリス人ハリー・パークスが幽閉された場所である。パークスは英仏連合軍の交渉役として北京にやってきたが、交渉が決裂。清朝軍に捕まってしまう。後に釈放されるが、英仏軍による円明園略奪などを引き起こした。
パークスはモリソン号事件で知られるモリソンから中国語を学び、中国侵略の尖兵となった人物。13歳で清にやってきて苦労を重ね、最後は駐日公使、駐華公使を歴任。立志伝中の人物と言える。
(6) 茶家傳
南沿に戻る。大好きな紹興レストラン、孔乙己の2号店(10年前に開店)がある。なかなか雰囲気のある店であるが、遠いので殆ど来ていない。后海を眺めながら、紹興酒を飲むのも乙なものか。
その横にお洒落な6角形の建物が見えてくる。茶家傳、有名な茶芸館である。中に入ると広々とした空間があり、九官鳥が迎えてくれる。木製のテーブル席あり、心地よさそうなソファーあり、個室も大小あって、顧客の嗜好に合わせている。ソファーに寝転んで本を読んでいる西洋人がうらやましい。お茶は種類が多く、質もそこそこよい。お茶を頼むとお茶菓子6種類が付いてくる。休日の午後、何も考えずにここで寝転がっていたい。お茶の香りに触れながら。
尚店内には多くの骨董品が置かれている。店員に聞くと、『オーナーの趣味が骨董で、元々この店も骨董を置くための倉庫として建てた』とか。なるほど、商売でやっている雰囲気があまりないわけだ。
のんびりした後、裏へ歩いて行く。柳萌街、柳が風に揺れ、緑が多い。ここも気持ちがよい道であるが、何しろ人手が多い。そしてやたらに人力車もいる。何だこれは?柳萌街は1965年以前李広橋と呼ばれていた。李広とは漢代に匈奴と戦った将軍李広とは関係ない。李広とは明代孝帝の寵臣であり、太監となった人物。孝帝は幼少の頃不遇であったようで、その際李広の世話になったらしい。ところがこの人物、金の亡者であくどいことをかなりやっていた。後宮では有名であったが、皇帝は気が付かず、また気づいてもなかなか関係が改善できなかったとか。
1498年、今の景山公園の頂上に李広の指示で亭が設けられたが、この時偶然皇帝の愛娘が亡くなり、これを李広の非として、彼は毒をあおって死んだ。死後家を調べた所、金銀財宝が山のように出て来たという。李広橋は1488年に作られたが、庶民はこの橋を渡るのに、料金を徴収されたと言う。これも悪徳李広の評判を悪くしている。
(7) 恭王府
中国の有名小説紅楼夢の舞台となった大観園のモデルと言われている庭園がある(紅楼夢の作者曹雪芹の死後庭園は出来たらしいが)。元は乾隆帝の寵臣として富と権力をほしいままにした和珅の邸宅。1777年建造。乾隆帝の死後(1799年)即位した嘉慶帝は即座に和珅を汚職の罪に問い、自殺。巨万の富が蓄積されていたと言う。邸宅は没収。清の道光帝の第六子恭親王、愛親覚羅亦訴に下賜され、改造されたもの。
恭親王は清末に西太后と組んで、政治・外交に支配力を発揮した人物。この庭園も外国施設の接待用に中西混合の造りとなっている。正面の門を見ると石造りのアーチ型、ギリシャ風の円柱、唐草の装飾と言った感じ。
その後孫の溥偉が相続、清朝が倒れ、1921年に西什庫教堂から借金をした際、担保として差し出される。1932年にはローマ教会が買い取り、溥偉の借財を返済、カトリック教会主導の私立学校、輔仁大学の所有となった。因みにこの輔仁大学は戦後台湾に渡り、現在は台北にある。また北京時代の学校の跡は、恭王府の直ぐ南に重厚な建物が存在している。
入り口には中国各地からやって来た団体さんが屯している。入場券を持って列の後ろに付く。中に入ると正面を登る。独楽峰、孔の開いたぶつぶつの石が配置されている。この山を越えると池。純中国風。さすが中国最大の王府と言われるだけあり、内部は実に広い。山水がふんだんに配置され、花園もいくつもある。
奥に福字祠と言う半地下洞があり、中には康熙帝直筆の『福』の字を刻んだ石碑がある。1962年周恩来の指示で改修した際、発見された。康熙帝の書は極めて少ない上に福の字は縁起がよいことから好まれているらしい。現在は洞の中に入り、滝のように流れる外を見ることが出来る。
《北京歴史散歩2007》(6)日壇公園・東嶽廟付近
【日壇公園・東嶽廟付近】2007年12月22日
いよいよ今年も終わりに近づいている。今日は冬至。中国では餃子を食べる習慣があるそうだが、旧正月も食べて冬至も食べるのか??
天気はさほど良くないが、風も無く歩き出す。ちょっと肌寒いが、気候温暖化のせいか例年の寒さはない。ただ空が暗い。自宅内の街路樹は全て枝を切られ、寒々としている。家の直ぐ近くの日壇公園を目指した。
1. 日壇公園
家の周りは大使館街。アメリカ大使館の前には自動小銃を持った警備員が。日本大使館の前も二重の柵が巡らされ、昨今の国内情勢を反映している。ゆっくり歩くこと10分、公園南門に到着。この門の並びにはいくつかレストランがある。日壇会館は立派な建物で、中庭が素晴らしい。ここで食事を取ると気分が高揚する。但し今は冬、人は誰もいない。
その隣の中国芸院は広東料理。かなり香港に近い味で広東語も飛び交う。大使館勤務の西洋人の姿も多い。飲茶が手軽。更に行くと和平茶苑。ここは中国茶を飲むスペース、食事も可能。お茶を飲みながら、公園を眺めるのも一興。家具は骨董。地下には骨董品が多数展示されており、オーナーの趣味が分かる。
公園の門の前には自転車が多数。老人が乗ってくるのだろう。日壇公園は1530年建造。明・清両時代の皇帝が春分の日の朝、太陽神を拝むために作られた。当時の名称は『朝日壇』。太陽神を拝むことで五穀豊穣を祈願したのだろう。一般庶民には無縁の場所だったのだが(当然当時は街の外で人もまばらだったのでは)。
国共内戦で公園は荒れ果てたと聞く。1950年代に改修し現在の名称になり、庶民の公園となる。70年には周恩来首相の指示によりここに日中友好の大山桜??が植えられた。どこにあるのだろうか。
中に入る(無料)と目の前に旗を揚げる台がある。真っ直ぐ進むと皇帝が参拝した様子を描いた鮮やかな壁画がある。左に曲がって進めば、池が凍っている。その上を人々が散策??している。冬の北京である。池の周りには東屋が配置され、風景を眺めながらゆっくり出来る。
公園中央に祈りを捧げる場所がある。四角く区切られた真ん中に拝台がある。しかし特に何もない。祭壇と思しき四方の台が10段ほどの階段に上げられて中央にあるだけ。ここでどのような儀式が行われたのか??思いをはせるものは何もない。やはり破壊は恐ろしい。
隅っこの方で数人のおばさん(中にはおじさんも)が何かを話し合っている。こんな所で会議でもあるまいし、と思ってみていると、一人が何か紙を取り出す。また一人は写真のようなものを取り出した。一体なんだ??
どうやらこれが噂の親による息子、娘の結婚相手探しらしい。結構皆真剣である。昔は皇帝の祭式で使われた神聖な場所?で相手を探す。ご利益があるのかも知れない。それにしても寒いのにご苦労さんなことだ。
東側には神庫が残っており、祭器等が収納されているのかもしれないが、今はそれを知るすべもない。北門の近くには小王府という私のお気に入りのレストランの2号店が綺麗な概観を見せている。
2.東嶽廟
公園東北の角から北京八景の1つ『金台夕照』を探すが全く分からない。著者によれば八景のうちその場所が全く分からないのは『金台夕照』だけらしい。ところが08年に入って、東三環路に新しく開通する地下鉄10号線の駅の1つに何と『金台夕照駅』が出来る。どういうことだろうか??
北に向かい朝陽門外大街に出る。小雨がぱらつく。道の南側に『永延帝祚』と書かれた楼牌が見えた。これは新しいものであろう。その南側は既に開発が進んでいるようで、広い道になっている。
その楼牌の正面に東嶽廟の正門がある。東嶽廟は1319年道士張留孫の創建と伝えられる。華北地区最大の道教廟。清の康熙帝時代に火災にあって再建。歴代皇帝が東陵に墓参に行く際、ここで昼食を取ったらしい。
中に入ると正面大斎殿には五嶽大帝が祭られている。周囲の伽藍には76の塑像が新たに作られ、収められている。とっても一つ一つ見ることは出来ないが、自分の気に入ったところで皆立ち止まり、拝んでいる。お金に関係ある神さまに人気があるらしい。一番霊験あらたかなのは南宋の岳飛を祭ったものであるらしい。
寿槐という樹齢800年以上の古木もある。冬枯れの木々であるが、それはそれで趣がある。乾隆帝、康熙帝などの碑もあり、なかなか面白い。また日本で言うところの絵馬がある。赤い札であるが、沢山括り付けられている。ここには学問の神様文昌帝も祭られているようで、合格祈願が中心。清代は科挙の試験場が近いこともあり、試験の時には賑わったとか。
毎月1日と15日、3月の15日から半月はご開帳があって賑わったと言う。現在もあるのであろうか??
3.日本人墓地
東嶽廟を東へ行く。東大橋路の先で道が二つに分かれている。朝陽北路を行く。核桃園という所を入る。ここに戦前日本人墓地があったらしい。現在はかなり古いアパートが立ち並び、墓地の面影など全く感じられない。
著者によれば、ここに中江兆民の子、中江丑吉の墓もあった。彼は30年余り北京に住み、中国古代思想史の研究に没頭稀有な人。五四運動時に焼き討ちされた旧知の曹汝霖を助けに来て、たまたま当時の駐日公使、章宗祥を助けるなど、その行動は極めてユニークであった。それにしても戦前一体どれほどの日本人が北京には住んでいたのだろう??
今では考えられないほど、日本と中国は緊密であり、人的往来も激しかった。満州浪人のような一旗挙げるための人も大勢いただろうし、駐在員も居ただろう。そしてこの地で亡くなった人も多かったはず。我々はもっと彼らのことを知る必要がある気がする。
アパートは一部取り壊されたのか、道に面した一角が公園になっていた。そこになにやらモニュメントがあったが、ハングル語で書かれていてよくわからない。もしかするとこれが墓と関係あるかもしれないが、これ以上墓を暴かないで、と言われているような気がして、早々に立ち去った。
《北京歴史散歩2007》(5)東交民巷と南池子
【東交民巷と南池子】2007年12月9日 昨日に引き続いて風がない。最高気温が5度だと言うが、もう少し暖かい感じ。2日続けて散歩に出ることに。今回は軽い散歩にしようと思ったが、以前より気になっていた東交民巷に行って見たくなり、実行した。 1. 東交民巷
当時新僑飯店には日本人駐在員が多く住んでいた。今では考えられないことだが、上海には日本料理屋がなかったので、態々北京まで汽車で17時間をかけて食べに来た、その締め括りが北京駅近くの新僑飯店のラーメン。味は良く覚えていないので美味しくはなかったかもしれないが、物はあるかないか、が大事であり、あることに満足する物である。 そこで思いがけず大学の同級生A君に遭遇したことも忘れ難い。彼も私も共に中国語を捨てて別の道を歩んだはずであった。その彼が北京にいた。人生とは何と皮肉なことか??自分で嫌がった人ほど、そちらに引き寄せられる、とも言われている。そのA君とは先日場所も同じ北京で21年ぶりに再会を果たした。北京は約束の地??である。
今日ホテルの横にはパン屋があった。人で賑わっている。思わず中へ入る。勿論20年前とは比べられない綺麗さがあった。2つほど買って食べて見た。今の北京では標準的な味。これが20年間の味かどうか分からないが、とても懐かしい気分になり、道を歩きながら立ち食いした。 (2)東交民巷
明清代には五部六府の官庁街になり、また王府も多く存在したが、義和団事件後の1901年から各国大使館専用地として実質租界への道を歩む。当時は清朝崩壊等もあり、周囲は騒然としており、武器を持った兵隊が守る場所であった。 今歩いてみても特に何ということはない斜めの道であるが、所々に洋館が残っている。本当に短い道。あっと言う間に大きな通りに出た。 (3)天主堂と外国大使館街
教会の向かいに洋館が見える。紫山賓館との表示があったので中へ入ろうとすると警備員に止められる。ここは特定の人専用のホテルらしい。確かに上海辺りにある洋館ホテルの雰囲気がある。仕方なく外から写真だけ撮る。
1900年の義和団事件でこの辺り一体は焼け野原になった。義和団は山東省より『殺せ!殺せ!』と叫びながら入城してきたとあるから、恐ろしい。英国大使館に皆逃げ込んだらしい。何とか持ち応えている間に8カ国連合軍が救援に来て、結局義和団は崩壊、西太后も西安に逃げ出した。
2.正義路
1901年以降ここ大使館街は外国人居留地、実質的な租界。1910年に日本人建築家妻木頼黄の設計により地上2階、地下1階の建造。南の端の天辺は半球形となっており、少しロシア風。そこから北へ細長い建物となっている。尚中に入ることは出来なかった。 (2)旧日本大使館
旧日本大使館の大門である。中薗英助著『北京飯店旧館にて』には『ロココ風の彫刻のある門の中央上部、かつての菊の紋章のあった場所には赤い生地に五星をあしらった中国の国章が打ち付けてあった。』とある。また『侵略の出先機関が首都の行政機関とは大変な優遇振り』とある。その通りかもしれない。
この大使館の中で1915年袁世凱大統領が対華21か条の要求に対して署名した。中国では売国奴と言われる所以となっている。1919年の五四運動では学生達が最初に目指した場所はここであったわけだ。 頼みの綱の人民政府来訪接待室も日曜日で扉が閉まっており、中を窺う事は適わなかった。次回再チャレンジしよう! 3.南池子
皇城とは何か??明清代の北京は内城と外城に分けられる。内城の中心は紫禁城、この外側に工房や倉庫などの朝廷の生活を支援する部分、中南海のようなリゾート施設が構成され、これを囲む壁が皇城である。現在はその殆どが取り壊されて見る事は出来ない。
100年前のこの辺りの写真を見ると木々は殆ど見えず、かなりスッキリと空が見える。アーチがやけに大きく感じられる。満州八旗の子孫という方はここで生まれ、育った。当然周りは貴族ばかりが住んでいた。今はその面影も無い。 (2)皇史?
現在の建物は南北6m、東西3mの巨大な切り石を積み上げており、木材が全く使われていないことは完璧な防火、防虫を目指してのことであろう。室内には永楽大典の他、清朝皇帝の記録などが収められていると言うが勿論見ることはできない。正面に5箇所アーチ型の入り口があるが、どれも硬く閉ざされている。
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《北京歴史散歩2007》(4)東単付近
【東単付近】2007年12月8日
『北京ひまつぶし』というブログを持っているS氏。そのブログでご自分の通勤経路を紹介していた。それに何故か非常に興味を引かれ、歩いて見ることにした。 1.北極閣三条 冬枯れた葉の無い木が良い風情で立っている。よく見るとその家の前には落ち葉を集めて瓦で重石をした壷がいくつも置かれていたりする。実に何ともいえない佇まいである。 その反対側には結構立派な古めかしい門があり、その木戸を潜ると、朽ち果てた洋館があったりする。もしやすると昔は劇場だったのだろうか??ガラスも割れて手入れもされていないが、そんな気がする天井の高い平屋がある。
その向こうには2階建ての洋館が。2階にはちゃんと洗濯物が干されており、現役として住まわれていた。中を覗き込もうとするとおじいさんが怪訝そうにこちらを見たので、曖昧に笑みを浮かべて立ち去った。 (2)協和医院住宅
協和医院とは、1921年にアメリカロックフェラー財団により設立された北京屈指の病院であり、党幹部も多く治療を受けるという大病院である。この医院で思い出すのは、やはり北京原人の骨。元々ここに保管されていたが、日本軍の真珠湾攻撃で保管場所を移すことになり、その後忽然と消えて現在に至る20世紀のミステリーの舞台でもある。 また最近ではSARSの際、外国人患者を収容したことでも名前が出てきていた。今でも一流病院として東単北街に立派な建物が聳え立っている。今目の前にあるのは恐らくはアメリカから派遣されてきた医師やその家族、看護師などが住んでいた場所であろう。いや現在も住んでいるのであろう。 (3)四合院ホテル
その隣にこれまた小さな四合院が。中に入ると可愛い庭があり、女性が出てきた。『泊まるの?』と聞かれて、ここがホテルであることが分かる。部屋は全部僅か3つ。一番大きな部屋でもベットとソファーがあるだけ。それでも清潔そうであり、欧米人が喜びそうな造りであった。
2.新開路 『”新”と言っても相対的に新しいだけで、清の時代からの胡同。』とブログに書かれていたが、その通り。特に目新しい物はない、と思っていたら、洋館が一軒。なかなかお洒落な建物であったが、門は硬く閉ざされていた。
そう考えると新開路という名前が俄かに新鮮味を帯びてくる。不思議な物である。
3.西総部胡同 西総部胡同は全体的にお洒落な雰囲気があった。何故ならば壁に福の字が入った飾り窓のような物がどこにでも付いていたから。その飾りが一際目立つ建物があった。何気なく近づくと端にプレートが嵌っている。『李鴻章の家祠』と書かれている。そうか、ここは李鴻章が亡くなった後に作られた祠があった場所だったのか?? 李鴻章と言えば、安徽省の出身で科挙に合格した文人であったが、太平天国の乱に際して、故郷が危機に晒されたことから義勇軍である淮軍を組織。その頃から外国人との交渉に慣れていた。日清戦争では暴漢に襲われながらも下関条約に調印。外国と対等以上に交渉できる唯一の人物として『東洋のビスマルク』とも呼ばれた。李鴻章に関しては、現在でも様々なことが言われている。英雄、売国奴、策士。これだけ色々な顔を持つ男とは一体??今は辛うじて壁だけが残る祠。彼はどんなことを考えているだろうか?? (2)宝善堂薬局跡
1938年に開設されたこの薬局は、どうやら一世を風靡したらしい。打ち身や風邪に効く薬を販売し、ロシアにも輸出していたとある。 2階の壁の部分に『張氏追風丸 万霊筋骨膏』と言う文字が目立つように書かれているのが、何とも微笑ましい。しかしこの店も共産党時代になり、1954年には政府機関傘下の企業に衣替えしたようだ。
翌年夫人をがんで亡くすと、意気消沈。その面倒を見たのが、復興病院の看護士、胡友松。彼女の献身的な対応は話題になったようだ。彼女の母親は30-40年代のスター、胡蝶。 4.外交部街
外交部街という名前を見ただけでここがその後どうなったかが分かる。700mほどの道の中間辺りに迎賓館がある。説明書きによれば『1908年建造。袁世凱がここで政治を行い、孫文もここに滞在した』とある。しかし何故迎賓館??ドイツの皇太子が来訪した際、アメリカ人の設計を依頼し、当時の北京で最も豪華な建物を建てたのである。 清国滅亡後、袁世凱の臨時内閣がここにあった。1912年8月に孫文が北京にやってきた時、ここに宿泊し、袁世凱と13回も会談したと言う。1912年から1928年まで北洋政府の外交部であり、胡同の名称も変更となった。1949年に中華人民共和国建国時も外交部はここ。初代は総理兼務の周恩来、その後陳毅が外相を勤め、ここで執務した。1966年に現在の朝陽門外に移転、今は立派な門だけが残っており、後ろはマンション群。歴史を感じさせる。 (2)協和医院住居群
20世紀20年代のアメリカの農村別荘型住宅とのことで、各戸に煙突が付いているのが、如何にも時代を感じさせる。また入り口から中には入れてもらえないが、丸いドームを潜ると中国から離れる感覚がある。 東単北大街の向かい側、医院の並びには中華径経会旧址とある建物が。今は北京市キリスト教務委員会が使っている。どうみてもアメリカがやってきた時に、宗教もやってきたのだろう。病院と宗教は一体のはずである。 5.東堂子胡同
京師同文館跡があるという。京師同文館は1860年のアロー号事件で英仏が北京を侵略した後、外国語を学ぶ必要性が生じ、洋務派グループの恭親王が提案。1862年に先ずは英語科が開かれ、翌年にはロシア語とフランス語を追加。学生は当初満州八旗の師弟のみであった。 卒業生は皇帝の外国語教師の他、外交官、通訳等の業務についたという。語学以外も教えられ、1902年に北京大学の前身である京師大学堂に編入された。尚日本語は1899年にようやく設置されたと言う。日本の国力と中国の日本に対する見方が良く分かる。
場所は総理衛門の隣にあったということだが、今やどこにあったのかは分からない。一体は住宅、アパートになっている。
(2)総理衛門 この周りは取り分け古い建物が多く、瓦屋根に落ち葉が載っていて雰囲気が良い。冬の日にくる場所であるような気がする。またこの道には洋館がまだ残されており、現在も使われている。往時を偲ばせる何ともいえない味わいがある。
6.王府井 西に向かうと金魚胡同。何だか風情のある名前で屋台でも出ていそうだが、ここもペニンシュラーホテルなどが立ち並び、風情を味わいながら歩く環境にはない。 王府井に到着。角には大きなイベント会場が設置されている。オリンピックバレーチームの写真を頂いたゲートを潜る。この道の至る所にオリンピック関連の広告宣伝がある。横には新東安市場、しかし市場とは名ばかりの巨大ビルが改修中である。前には香港企業が設置した巨大クリスマスツリーもあり、子供たちが楽しそうに周りを走り回る。中国にクリスマスの習慣などあっただろうか??
王府井の名前の由来は明代の永楽帝に遡る。親族から帝位を奪って北京に遷都した永楽帝は兄弟をこの辺りに住まわせた。王府とは皇帝の親族の住まいである。清代には八旗の練兵場となり、清末には大使館街(東交民巷)に近いことから、高級品を売る市が立ち、また同時に東安市場等庶民の市も立ったことから、北京の市場として栄えることになった。
それにしても以前の王府井は人が多過ぎて歩くのが大変であった。それが現在ではおのぼりさんが来るところとなり、人数もそれ程ではない。熱気もあまり感じられない。庶民の味方であった東安市場もただのデパートとなり、北京人が来るところではなくなっている。
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《北京歴史散歩2007》(3)国子監付近
【国子監付近】2007年5月27日
昨日の北京は37度、とうとう夏がやってきた。北京の夏は40度を越える猛暑。日中に散歩するなどはもっての外。朝起きると同時に家を出た。8時前で既に陽が燦々と降り注いでいた。地下鉄2号線で安定門下車。
1.京師図書館跡
安定門を二環路の内側へ歩く。日差しは強いが木々の陰を行くと爽やかな風が吹く。北京の乾いた夏の朝である。この雰囲気は嫌いでない。直ぐに永康胡同という名前に反応する。家内の大好きな香港歌手の名前である。早速写真を撮り、帰宅後直ぐにメールで送っておいた。
更に歩いて行くと『国子監』と書かれた石碑が壁に嵌っている。その道には大きな門が出来ていて『成賢街』となっている。牌楼と呼ばれるこの門は北京で唯一残されている。ここが天下の秀才が歩いた国の最高学府。
その南方家胡同に京師図書館があったはずだ。清の時代には蔵書楼の1つとしてここに南学があった。四庫全書など貴重な本が納められていた。清朝崩壊後、北洋軍閥が貴重な蔵書を引き継いだが、当時の蔵書楼、広化寺は湿気がひどく利用者が少なかったと言う。
そこで移転先として国子監南学が選ばれた。1917年の事である。その際移転計画に奔走したのがあの魯迅であったのは興味深い。しかしその後1931年までに全てが再移転され、その役割は終了した。
方家胡同は今もあり、地図では図書館のあった場所には小学校があるはずである。ところが胡同を歩いてみても、小学校の入り口が無い。どうやら廃校になったらしい。再度国子監街を歩いていると方家胡同小学と言う学校があった。恐らくはここに吸収されたのであろう。
因みに方家胡同には1918年毛沢東、蔡和森などが組織したフランス派遣留学生の連絡事務所があったとされているが、今は確認のしようも無い。毛沢東と魯迅が同じ道ですれ違った場面があったのでは??
2.国子監と孔子廟
国子監街は両側を木々に囲まれ、閑静な住宅街を思わせる。しかしこの辺りにも開発の波は容赦なく押し寄せており、通りの何軒かは改修中であった。以前の胡同、四合院などが次々と綺麗な建物に変わっていく。それは時の流れではあるが、少し物悲しい。
国子監の前に来ると何とここも改修中で、正門から入ることは出来なかった。仕方なく隣の孔子廟へ。入り口でおばさんが『全部改修中、何にも見れなけど入るかい??』と聞いてくる。10元払って中へ。
いきなり正面に孔子の像。その前に女子高校生ぐらいの3人組がなにやら真剣に祈りを捧げている。もう直ぐ受験シーズン。やはり合格祈願か?かなり長い時間頭を垂れたままである。
その両側には石碑の林が。科挙で都に上り、進士に合格した人々の碑である。元、明、清と揃っている。歴史上有名な人の碑の横には説明書の小さな碑が添えられている。私には知っている人はいなかったが、中国人は熱心にその説明を読んでいる。科挙の難度を考えると、ここに碑が残されている人々は如何にすごい人たちであるか。
孔子廟は元の時代、1302年の創建(完工は1306年)。1916年に現在の規模(2万㎡)・様式(三進式)となる。奥に入ると各地の孔子廟の写真が展示されている。中国だけではなく、ベトナム等にも広がる。そういえば、ハノイ旅行に行った時に旧正月の混雑の中を歩いた記憶が蘇る。子供達に亀の像の頭を撫でさせたのだが、ご利益はあったのだろうか??
硯水湖、と書かれた井戸がある。かつての文人たちがここの水で墨を磨ったと言われている。水を飲むと頭が良くなると言われており、多くの受験生が訪れるようになった。どれほどの御利益があるかは不明だが、孔廟文物管理所では硯水湖の水は生水なので飲まないように呼びかけているそうだ。
改修中なので早々に国子監へ。国子監も『集賢門』と呼ばれる正門が改修中。横から入るとすぐに鮮やかな瑠璃色の楼牌がある。その裏が主堂、周の天子の学舎を真似た建築。周りは円形の池『月の河』である。
更に奥には大学図書館であるい倫堂。歴史的には魯迅が歴史博物館の展示場とする準備を進めたことがあるが実現しなかった場所である。
国子監は1306年にモンゴル族の子弟に漢語を、漢族の子弟にモンゴル語を教える目的で建てられた。中国最古の大学。その後朝鮮、ベトナム、ビルマ、タイからも留学生がやってきてここで学んだ。この敷地内には琉球の留学生が学んだ記録もある。ここは国際色豊かな、賢者の集会場であったのだ。
3.留賢館
孔子廟の向かい側に古びた建物がある。茶芸館、留賢館。中に入ると実に緩やかな時間が流れている。ゆったりとして空間、落ち着いた家具。さすが孔子廟の前にあるだけはある??
名前の通り賢者を留める館である。一番奥の窓際に座り、鉄観音を頼む。50元程度で十分飲める。ここではお姐さんが茶芸を披露してくれる。一人で来ても話し相手がいてよい。香港時代の知り合いYさんにこのお店出身で最近お茶屋を始めた女性を紹介された。それが我が家のお茶会の先生となる張さんだ。
ここではお茶を飲むだけでなく、茶芸を教えてくれる。それも日本語で??張さんなき後日本語での講座は中止されているらしい。こんな環境でお茶を習うのは気持ちがよさそうだが。簡単な食事も出来る。日がな一日、ボーっとここに座っているのも良いかもしれない。窓から孔子廟が見える。
4.擁和宮
擁和宮は北京最大のラマ教寺院。この地は明代宦官の住居、清代は5代雍正帝が親王時代の住居であった。雍正帝は綱紀粛正に極めて熱心で帝位に付いた後、この地に秘密警察を設置、厳しく取り締まった。雍正帝が死去した際、葬儀の後、1年余りここに遺体が安置されたと言う。
1744年乾隆帝の代に雍正帝時代の弾圧に対する宥和政策及びチベット、モンゴル族の不満解消のために寺院が建造された。現在寺院周りには仏具や線香を売る店が立ち並び、北京の中でも独特な雰囲気を持っている。
瑠璃牌門を潜ると参道の両側に木々が生い茂り、良い風が吹いてくる。天王殿、雍和宮、万福閣共に黄色い屋根瓦、皇帝の色である。本殿の当たる雍和宮には過去・現世・未来を現す3体の仏像が安置されている。万福閣には高さ26m、チベットから運ばれたと言う白檀の一本木による弥勒仏が安置されている。聳え立つこの仏像を見ていると、ラマ教の厳しさを感じる。
中野江漢に連れられてここを芥川龍之介が訪れている。彼はラマ教等には何の興味も無く、寧ろ嫌いであるが、北京の名所で紀行文を書く必要上、已む無く出かけたと書いている。行って見ると歓喜仏が4体あり、金を渡して見ている。なかなか凄い物だったようだが、共産中国以降このような快楽に関係する物は公にされていない。芥川によれば、それは決してエロチックではなかったというが。
思い出すのは20年前、チベットのラサに行った時の事。ポタラ宮に登ると、建物の壁画に何故か一部紙が貼ってある。そしてその紙は捲って見ることが出来るようになっていた。まさに密画と呼ばれた男女混合図などであった。首都北京では公開不可であろう。
またダライラマは1954年北京にやってきてここに滞在した。『ダライラマ自伝』によれば毛沢東や周恩来とも親しく交流し、教えも受けたという。しかしその後のチベット暴動、インドへの亡命となる。
そもそもラマ教とは何だろうか??ラマと言う言葉はチベット語で優者を表し、仏の上に位置する。7世紀にインドから伝わった仏教とチベット在来宗教が混在したものらしい。14世紀には宗教革命があり、戒律の厳しい現在の黄教が主となる。ダライラマの属する派である。
1987年留学中に訪れたチベットのラサは衝撃だった。これ以上ない青い空、青い水、それに引き換え黙々と五体投地を続ける信者、その横で貧しい姿で物売りをするその妻と物乞いする子供。宗教とは何か、考えさせられた。そんなことを思い出していると、若いラマ僧がスーッと横を通り過ぎた。まるで何事も無かったように。
《北京歴史散歩2007》(2)寛街
【寛街付近】2007年11月3日
11月初旬、最低気温は氷点下に下がり、既に季節は冬。今年の歴史散歩も時期が過ぎたと諦めかけていたが、何と今日は一日時間が取れ、しかも日中暖かい絶好のお散歩日和。この日を置いてはない。北京で一番のお気に入り、寛街を目指した。
寛街は行き難い場所。いつもはタクシーで行くのだが、今回は地下鉄で。建国門から一駅歩き、東単に。10月にオープンした地下鉄5号線の駅がある。何と入り口も新しくなっている。新地下鉄はこれまでの4線と異なり、ホームに二重ドアが設置されている。転落防止だが、シンガポールやバンコックで見た物と同じだと思う。この5号線により朝晩の交通渋滞が多少緩和されたらしい。
(1)北洋軍閥政府
地下鉄の新駅、張自忠駅で下りる。地上に出てくると正面に北洋軍閥政府の国務院があった洋館が見える。かなり古ぼけているが、現在も使っているのだろうか??
北洋軍閥とは元々袁世凱が清朝末期に北洋大臣に任命され、その後軍を纏めて清朝を倒し、最後は中華民国総統を目指すまでになる。しかし1916年袁世凱が亡くなると分裂を繰り返す。孫文が北京にやって来た時期は丁度段祺瑞が臨時執政として政権を担当していた頃だ。
この重厚な建物は当時異彩を放っていたことだろう。特に清朝滅亡後も溥儀は紫禁城に留まっており、古い体制を打破する建物であっただろう。
この建物には孫文も来訪したらしい。孫文はそこで何を見ていたのか??『革命未だならず』の有名な言葉を残して北京で亡くなったのだが、その胸の内はどうだったであろうか??若い妻宋慶齢の事が心配だったか??(この夫婦は英語で会話していたらしい??)
孫文の遺体は当時の中央公園に安置された。今の中山公園は孫文の名前から取られ、改名されたものである。
現在この建物は国務院が使用しており、参観できない。残念。そしてその門の脇には小さな石碑が。『3・18事件』、1926年この地で軍閥政府に対して反日の抗議に立ち上がった学生、市民など47名が殺され、160名が負傷する惨事が発生。魯迅は『民国以来最も暗黒の日』と呼んだ事件である。その後1928年に張作霖が奉天で爆殺され、北洋軍閥は終わりを告げた。
(2)欧陽予倩故居
旧顧維釣邸から西へすぐ、低いがお洒落な建物(お店)が連なっている。その中心に『欧陽予倩故居』と書かれている。欧陽予倩とは誰であろうか??恥ずかしい話だが初めて聞く。本によれば『南欧北梅』とある。北の梅とは京劇の名優梅蘭芳のこと、すると南の??
彼は湖南省の出身、1949年に北京にやって来て中央戯劇学院の校長となった。彼は京劇の名優であったと同時に京劇、話劇の指導者であり、この分野の貢献は梅蘭芳をしのぐと言う事である。
15歳で日本に留学。日本時代に春柳社という話劇の団体に参加、これは中国人で最も早く話劇に参加したことになる。帰国後も上海で話劇『新劇同士会』を結成。この家には1949年から亡くなった1962年まで滞在。郭沫若、田漢、老舎など著名人が集ったという。日本の松山バレー団もやって来たらしい。
立派な門構えの下の扉が開いていた。つい中に入る。瀟洒な洋館が目に入る。その前で数人が談笑していた。玄関前に洗濯物が干してある。ここは一般人の住居である。入ってきては行けなかった。しかし彼らは私を一瞥したが、誰も咎めなかった。本によればここは戯劇学院の職員の宿舎らしい。
練炭が積まれている。かなりこじんまりしたこの空間は結構安らげる。特別な保存はしていないらしいが、そこがまた良い。
(3)和敬公主府
更にその隣に和敬公主府と書かれた入り口があったが、きつく閉じられていた。入れないのかな、と思ったが、隣に和敬府賓館と書かれた入り口が。中に入ると何故か『中信証券』の看板が??中信証券は中国有数の証券会社だが、何故ここにあるの??結局本日は休日でオフィスすら分からなかったが、どうやらここで投資信託を売っているらしい。和敬公主は清朝乾隆帝の第3皇女、その由緒ある王府の中でちょっと不謹慎では??
中は三進式の四合院造り。真ん中は清末の建築でその風格を残している。また至る所に獅子や龍の像が置かれている。一番後ろは和敬府賓館というホテルになっている。このホテルへの道が銀杏並木、丁度葉が色付いており、紅葉を見ることが出来た。
(4)文天祥祠
張自忠路を西に歩き、北に折れることが出来る道で曲がる。そこは昔の中国の路地。胡同には曲がって伸びた木が道を塞ぎ、少し歩けば道の両脇で野菜や果物を売っている。以前夜ここを歩いたことがあるが、あの暗さはまるで80年代の中国を再現したセットのような雰囲気があった。
府学胡同、府学とは順天府学のこと。元々元代には寺があったそうだが、明代に学校へ。現在も府学胡同小学校と書かれており、学校である(現在入ることは出来ない。横には南宋民衆の英雄、文天祥の祠(記念館)がある。
中に入るとこじんまりした庭が。壁には有名な『正気の歌』が彫られており、正面には碑が。丁度の庭の柿木の柿が色付いている。1つ貰いたいような、美味しそうな柿であった。門の裏には『浩然の気』と書かれた額もある。孟子の言葉だそうだ。
文天祥は優れた官僚だったが、元との戦いに参戦。囚われの身となり拷問も受けるが、彼の才を惜しむクビライハンの誘いを断り、最後まで帰順せず、柴市で処刑された人物。その気概は凄まじいものがあったようで、大石内蔵助が愛唱したとも言われている。
奥の庭には、文天祥自らが植えたとされる棗の木が枝を大きく広げて伸びている。ここは文天祥幽閉の地とされている。この木は文天祥の代わりに今も生きていることになる。
尚芥川龍之介は『北京日記抄』の中で文天祥祠を訪れたと書いており、『英雄の死も一度は可なり。二度目の死は気の毒過ぎて到底詩興などは起こらぬもと知るべし』としている。
(5)都江園
交道口という道がある。ここにはトロリーバスも走っており、木々もかなり枝を伸ばして、80年代の北京の風景を演出している。このあたり寛街は胡同も昔のまま保存されており、私の好きな場所の一つである。
本日このあたりを歩くと至る所で地面が掘り返されている。オリンピックに備えて補修工事をしているのだろうか??この辺りは西洋人観光客が多い場所であるからありえるかもしれない。
都江園は私が北京に来てから最も多く通ったレストランである。半年で20回以上??このレストランは四合院造りを改造しており、胡同の中にあること、及びメニューがコースのみで注文する手間が省ける上、何よりも料理が美味いことから、北京を知る上で是非とも連れて来たい場所である。
都江園は四川省の世界遺産である水利施設『都江堰』(成都の西北60キロの都江堰市の西に位置)より名を取った。都江堰が作られる前、岷江はしばしば氾濫して災難を引き起こしていたが、今から約2250年前の秦の昭王の時代に、李氷とその息子が先人の治水の経験を生かし、地元住民を率いて水利工事に着手。その主要な工程は、「魚嘴」という堤防を川の真中に建造し、川の流れを真中で分けたことで、激しく沸き立つ岷江を外江と内江に仕切り、外江で余分な水を排し、内江で水を引いて灌漑に利用した。これらの水利施設以来、成都平原の肥沃で広大な平野は、豊かな土地となり、四川省の経済、文化の発展に大きな貢献を果たしたといわれている。
という訳でここは四川料理屋であるが、夜のライトアップが美しく、また閑静な場所にあることから西洋人の利用客が多く、頼めば辛くない四川料理が出て来る。しかもこれが美味しい。更には極めつけのタンタン麺はスープ麺で、肉味噌とピーナッツで味付けしたスープにソーメンのような柔らかい麺が絶妙。
昼間もオープンしているがお客は殆どいないので、顔馴染みの店員に建物の由来を聞くと『100年以上前の建築。清末の将軍が住んでいた。その将軍はモンゴルと戦ったと聞いている。』とのこと。アンティークな家具が配置され、何ともいえない優雅な雰囲気の中で今日は特別にタンタン麺だけを作って貰った。その美味さに思わずスープも飲み干し、後で痛い目にあってしまったが??
(6)南鑼鼓巷
都江園から西に歩くと直ぐに四合院ホテルとして有名な侶松園賓館がある。ここは僧王府と言われたモンゴル親王、僧格林泌の邸宅の一部を改造したもの。ここのお客さんは殆どが欧米人。日本人はあまり見たことはないが、ガイドブックには必ず載っている。中庭に実に気持ちよい空間が存在し、夏の夜などはキャンドルライトでビール等を飲む姿がチラホラ。欧米人は旅の楽しみを知っていると思う瞬間である。
更に西に行くと流行のスポット南鑼鼓巷。ここには欧米人が好きそうなバーが立ち並び、それに釣られてちょっと粋を自称する中国人の若者が集まる。しかしこの週末の昼下がり、開いている店も少なく、人影もまばら。
先日出張者を案内して夜あるバーに入ると『2階へどうぞ』と言われる。あれ、2階なんかあったけ??と思って階段を登ると何とそこは屋上。薄暗い中に数々の家具が雑然と置かれ、ソファーに腰を落ち着けたが、何とも落ち着かない。月明かりもなく、暗闇バーとなっていたが、東京から来た人間には新鮮だった様だ。
南鑼鼓巷を北に上る。東西の道はどこもかしこも道路工事中。若干興ざめするものの、歩く。そういえば南鑼鼓巷は別名をムカデ街と呼ぶそうな。理由はこの道を中心に両側に沢山の胡同が展開されているから。そして最後に目指す後円恩寺胡同へ。小さな入り口に『茅盾故居』とある。
(7)茅盾故居
茅盾、この革命作家については良く知らない。恥ずかしい話だが、作品を読んだこともない。『子午』『蝕』『林家鋪子』など有名な作品がいくつもあるのに、一度も手を出さなかった。何故だろうか??
茅盾の故郷は浙江省桐郷県烏鎮。太湖の南岸に位置する水の豊かな田舎町。その風情が展示室に写真で飾られており、興味を引く。共産党結党と共に入党したが、その後日本にも亡命。文革の嵐の後、息を引き取る直前に共産党党員資格を回復する等数奇な運命を辿っている。
故居には晩年孫と遊んだ小さな庭があり、胸像が配されている。奥には住居があり、入ることは適わないが、書斎、客間、居間が全て生前のまま保存されている様子が見える。戸外には奥さんが買ってきたと言う旧式の冷蔵庫が大切に??放置されている。
心地よい午後の日差しを浴びて、この殆ど人影のない庭で欠伸をすると、北京も満更ではないな、と思えてくるか不思議である。
(8)友好賓館
茅盾故居の横に立派な洋館が建っていた。その名を見てビックリ。友好賓館、しかもその看板には日本料理割烹白雲の字が。
白雲と言えば、1986年初めて北京に来た際、寿司をご馳走になった場所。上海に日本料理屋が無かった時代、北京まで食べに来たのだ。創価学会系ということで特別に認められ、大連から新鮮な魚を輸入しているとのことで、その夜は大満足だったことを記憶している。
1984年に北京には既に3つの日本料理屋があったと知人が言う。北京飯店の五人百姓、建国飯店の中鉢とこの白雲。私はこの全てを1986年に体験していたが、場所が分からなかったのは、この白雲だけ。
その薄暗い胡同はどこにあったのか??前回の駐在の際も思い出してみるものの結局探さなかったその場所に居間偶然辿りつたのだ。歴史散歩の面白いところである。80年代に北京に住んでいた日本人なら誰でも知っていたレストランであるが、時代は流れた。
本日中に入ろうとしても門は硬く閉ざされていて入れない。既にレストランだけでなく、ホテル自体が閉鎖された物と思われる。門から中を覗くと柳がしな垂れ、その後ろに洋館が見える。しかしプレートには四合院の文字がある。西側が見事な四合院だそうで、東側には円明園から運んできた築山もあると言う。見られないのが残念である。
因みにここは1875年にイタリア人により設計され、乾隆帝のひ孫が住んだらしい。ところがこのお坊ちゃんは博打好きで借金のカタに屋敷を手放し、その後持ち主が転々、蒋介石が別邸として使っていたことでも有名。歴史的な場所がまた一つ役割を終えた。
《北京歴史散歩2007》(1)貢院と智化寺
【貢院と智化寺】2007年4月28日
北京に住み始めて1ヶ月。6年前まで2年住んでいた北京についても、やはり何も知らなかった。慣れてくると同じ場所を行き来するのみで、新たな発見も無かったし、北京の歴史を調べる心の余裕も無かった。
そして何よりも北京は散歩をする雰囲気の無い町であった。夏は40度を越え、冬は零下10度にもなる。春は短く、しかも黄砂と柳の綿、突風に吹かれると、歩くことも出来なくなる。僅か短い秋だけが何とか外へ出る気分となるといった具合だ。
ところが今回3月に来て以降、黄砂は殆ど無く、連日良い天気が続いている。爽やかな風が吹けば、空のスモッグも吹き飛び、快晴となる。思わず外に出て歩き回る。無闇に歩いても勉強にならないので、今回は約20年前に書かれた『北京歴史散歩』(竹中憲一著 竹内書店新社)を参考に歩いてみることにした。
1.貢院
(1)貢院
私が居を構えた建国門外の地下鉄の出口の一つに社会科学院という建物がある。社会科学院とは現在中国における社会科学分野、経済は勿論哲学や文学を含む最高のシンクタンクであり、3000人以上の人材を抱える中国の頭脳と言える。10階を越える立派な建物が広がる。
社会科学院に所属する研究者に何人か知人がいるが、その全てが明らかに優秀な人々であり、日本語の出来る人材も豊富である。『日本のバブル経済とその幻影』などと題した過熱する中国経済への警鐘を鳴らしている人もいる。多才である。
その建物の両側の道が貢院東街と西街とある。貢院、それは隋の時代から1905年まで続いた中国の公務員登用制度である科挙の都での試験場なのであった。社会科学院はその歴史を受け継ぐべく跡地に建てられたと言うわけなのである。
科挙は先ず地方で『県試』『府試』『院試』の3段階の試験を潜り抜け、そして役人の末席である生員となる。その後3年に一度各省の省府で行われる『郷試』に合格して初めて首都北京に上り、『順天会試』をここ貢院で受験するのである。気の遠くなる道のりであり、またここにやってきた人々が如何に秀才であったかは想像を絶するものがある。
科挙は王朝が変わっても継続された独特の制度である。どうしても王朝、支配者一族の専横が起こりがちな中国で、閨閥に縛られず優秀な人材を登用し、国を治めていくという実務的な、そして合理的な制度と言える。
今はこの貢院の通りにその名残は見つからない。僅かに胡同が点在し、老人たちが中国将棋に興じている姿が見られるのみ。南京にも貢院があるようだが、どのようになっているのやら??
(2)四川省政府北京事務所
貢院の北を少し歩くと貢院頭条という道がある。その真ん中に『四川省人民政府駐北京弁事処』と書かれた立派な建物が見える。北京には地方政府の北京事務所が大体ある。やはり北京が国の首都だと感じるのはこういう場所を見た時である。
上海は経済の中心であるが、政治の中心は北京なのである。各省は何かあると北京の中央と連絡を取り合う必要があり、また全国人民代表大会の代表をはじめ地元要人の北京訪問も多い。事務所が必要なのである。私の立場と変わりは無い。
しかし普通の人が何気なく入っていく。子供も入って行く。ここは招待所でもあり、泊まることも出来るのであろう。興味本位で中に踏み込むと、奥にレストランがあった。はたと思い出す、そうだここが会社のスタッフが言っていた安くて美味い四川料理屋なのである。
中に入ると普通のレストランである。しかし客でごった返していた。ぷんぷんと山椒の匂いが漂ってくる。本場の四川料理は北京人にも人気のようだ。値段も数十元で食べられる。飲み物は頼むとコーラでも水でも大きなペットボトルで運ばれてくる。辛さに耐えられない人のためにそうしているのだろうか??今度皆に紹介したい場所である。尚もし土日に行くのであるなら、5時前に行かないと席がない。これは本当の話である。2階の個室は個室料を払えば予約可能なので人数を集めて予約しよう。
2.智化寺
更に北に歩いていき、小牌坊胡同に至る。ここを北に上がっていくと一角に人が屯していた。何だろうと見ると観光バスまで停まっている。胡同巡りツアーか??と見てみるとそこに寺があった。智化寺と書かれていた。
北京歴史散歩によれば、この寺は80年代当時一般公開されておらず、筆者は僅かに開いていた門から中に入れてもらったようだが、今や入場料を取る立派な観光地に変身している。10元支払って入場券を買い中へ。
中は中国の地方から来た団体観光客ばかりで、皆ガイド付きであるが、ガイドが『私の言っている言葉が分かるか??』などと聞いているのには笑ってしまった。しかしよく見てみると仏像に触るな、などと書いてあっても無視してしまうおじさんもおり、ガイドは完全に地方出身者を馬鹿に仕切っていた。ここにも中央と地方の格差??軋轢??が見えた。また北京人のプライドの高さが鼻につく。
寺に入ると左に鼓楼がある。明代建築の名残がある。右には鐘楼、この佛鐘は1444年に造られた銅製の鐘で、高さ1.6m、仏語が彫られている。真ん中には智化門という建物があり、その裏には庭がある。
庭の左側には蔵殿がある。中を覗くと薄暗い中に大きな柱のようなものが。その柱の中に無数の小さな仏様が安置されている。この場所にしかない明代の転輪蔵という蔵らしい。観光客がガイドに促されてその周りをグルグル回る。恐らくご利益があるのだろう。
智化殿には釈迦、薬師、阿弥陀の3像が安置されている。この殿のあった物の一部は1930年代のアメリカに持ち去られたとある。どうやって持ち去ったのだろうか??更に奥に行くと如来殿がある。2階建て、上に上ると横の胡同が良く見える。像もどっしりとしていて良い。
智化寺は音楽で有名な寺である。500年余り前の明代に始まり、口頭での伝承が行われ、27代目が現在に伝えているとか??寺では定期的に音楽の演奏も行われているようだが、当日は聞く機会には恵まれなかった。
《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》揚州ーバスごと長江を船で渡り揚州炒飯へ
〈12回目の旅−1987年6月揚州〉 —炒飯を求めてリベンジ
杭州が留学最後の旅だと思い込んでいたが、どうやらそれは違っていた。それまでのチベット、満州里、シサンバンナなどの旅が強烈過ぎて、記憶が薄れていたのだ。そう、前年12月に南京に行った折、バスが故障して行けなかった場所、揚州。そこに行ったはずだ。
1. 揚州まで
揚州までは3度目の上海‐南京線。いや、この列車は南京より先に行く長距離列車だったかもしれない。ただ揚州には鉄道駅はなかった。南京に行く途中の鎮江で降り、そこからはバスで向かう。
鎮江駅に着いたのは午後1時を少し回っていた。駅前で昼ご飯を食べようと思ったが、すでに遅し。どこの食堂もランチタイムが終わり、後片付けの最中だった。何でもいいから作ってくれと頼んだが、無駄だった。この当時、いまだ国営気質が十分に残っており、お客さんのことなどは誰も考えない。自分の仕事時間が終われば、終わりだった。本当にピタッと1時でどこの食堂も停止した。
仕方なくすきっ腹を抱えながら、バスを探して揚州へ。そのバスは途中まで進むと大きな河を目の前にした。長江である。橋などはない。何と渡し舟にバスごと乗り込んで進んだ。今もこんな光景、あるのだろうか。船はかなりゆっくり進み、そして向こう岸に着く。何となくハラハラして記憶がある。何故だろうか、波が高いとも思えない。
結局揚州には2時間近くかかって着いた。ホテルは直ぐに見つかり、チェックインできた。この頃になると、ホテルの部屋の取り方もプロになってきていた。古いが大きな部屋だった。これも国営体質のホテル。当然食堂も午後5時からしか開かない。
2. 揚州
大明寺
腹が減って仕方がなかったが、本当に仕方はないのだ。今なら近所に行けばいつでも開いている食堂があるだろう。だがあの頃はそうではなかった。時間になると開け、時間になると閉まる、当たり前のことだった。
空腹を紛らわせるために、観光に出た。揚州では大明寺にだけは行ってみたかった。大明寺と言えば鑑真和尚。ここの住職だった時に、乞われて日本への渡航を決意、幾多の苦難を乗り越えて日本に渡り、大きな影響をもたらした人物。
揚州は唐の時代、隋の煬帝の切り開いた大運河により、大発展を遂げ、経済の中心となっていた。明代以降は塩の集積地として活発な交易がおこなわれ、富が集まったと言われている。現在の揚州は鉄道からも見放され、長江の北側という地理的にも不利な場所とみられている。江沢民の出身地、ということで、近年は高速道路が通るなど、少しは発展してきているようだが。
大明寺についての印象は薄い。特に他の寺と変わったところはなかったということだろう。鑑真記念堂、という建物があった気はするが、どんなものが展示されていたのか、記憶はない。あの時代、文革後10年、いまだその影響は大きく、仏教もお寺も立ち直ってはいなかったのではなかろうか。日本人は鑑真の名声に釣られて訪れていたが、文革後の中国人にどれほどの信心があっただろうか。
揚州炒飯
4時半過ぎにホテルに戻る。今は6月で1年でも一番日が長い時期。だがその日はどんより曇っていた。私の腹も早く暗くなってほしいと言っている。5時前に食堂に行くとまだ開いていなかった。それでも私は食堂の扉の前に立って、待っていた。それほどに腹が減っていた。
5時ちょうどに扉がいた。すぐに中に入り、席に座る。だが服務員はそんなにスピーディではない。ゆっくりとした足取りでメニューを放り投げるように寄越す。私はメニューなど見ずに『揚州炒飯』と大声で注文をした。すると服務員は一瞬『えっ』という顔をしたが、何も言わずに出て行った。
あの頃、上海で炒飯と言えば揚州炒飯が基本だった。一度は本場の揚州で炒飯を食べてみよう、たったそれだけの理由の旅だった。おまけに昼飯抜き、これは期待せざるを得ない。随分長い時間待たされたような気がするが、実はそれほど待ってはいなかったのかもしれない。
出てきた揚州炒飯は美味そうだった。何も考えずバクバク食べた。腹が減っていたからだろうか、本当に美味かった。他に何のおかずもいらなかった。ただひたすら食べた。あの頃は、無心に食べる、ことがよくあった。若かったからだろうか、それとも食に飢えていたのからだろうか。
揚州炒飯は肉と野菜を適当に混ぜて炒める、日本的に言えば五目炒飯である。あの頃はかなり油っぽかったように思う。服務員に聞いたが『特にこの炒飯が揚州の名物』という雰囲気はなかった。揚州料理と言えば、山東料理(魯菜)、四川料理(川菜)、広東料理(粤菜)と並んで、昔の中国4大料理にも数えられている。他にも美味しいものはいくらでもあったのだろう。私の頭にはそんなことは全く入っていなかった。満腹になると夜もやることはなくすぐに寝てしまった。
翌朝はスッキリ目覚めた。朝ごはんもまんとうを食べた。気分よく散歩に出た。湖があったと思う。その湖畔を巡りながら、留学中に出来事を思い返した。正直かなり痩せた。精神的にもきつかった。でも『生きる』ということを考える絶好に機会が遭遇したことには間違いがない。
帰りも来た道を戻る。船に乗り、鎮江へ出た。鎮江に泊まらなかったということは、その日の上海行の切符が手に入ったことを意味する。今や中国でもネットの時代。行ってみたいと分からない旅、そんなものは遠い昔になった。でもそんな旅が今な何ともなつかく感じられるのも、事実である。
《昔の旅1987年ー激闘中国大陸編》杭州—留学最後の旅、あれは幻だったのか
〈11回目の旅−1987年5月杭州〉
—留学最後の旅
留学中最長の一人旅、東北・山東一人旅を終えると、いよいよ留学終了が近づいてきた。あれ程嫌だと思っていた中国であるが、最後にどこへ行こうかと迷うほど慣れてきている自分にびっくり。
元々は最後の旅は新彊ウイグル、シルクロードの旅と決めていたのであるが、その夢を打ち砕いたのが勤め先の事務所設立。7月の帰国時には設立パーティーが開かれるとあっては、手伝わないわけにはいかない。とてもシルクロードを回る時間は無い。
元同室のAさんに聞いてみると『そりゃ杭州だろう』と言う。中国人も『死ぬ前に一度は杭州を見たい』らしい。『上有天堂、下有蘇杭』と呼ばれるほどに蘇州と杭州はよい所である。一度はお出でである。
毎度のことになったが、国際旅行社で杭州行き列車のチケットを取る。流石に観光地のせいか、外国人向け軟座はすぐに取れた。幸先がよい。また今回は昨年末の南京に習ってホテルの予約を電話で試みる。これも何故か簡単に成功。180元でツインの部屋を確保。
杭州まで列車で約4時間。もう少し早く着きそうなものだが、そこは中国。実はこの年私の帰国後高知の高校生が修学旅行に来て、この線で事故に遭い、多数の死者を出した。私に不思議だったのは、何故上海を通らずに蘇州と杭州を行き来できたのか??それは私が乗った時は出来ていなかった迂回線が出来ていたのだ。不慣れな運転手が事故を招いたと思われる。途上国では経済発展に人々が付いていけない。それにしても痛ましい。
駅に到着すると荷物持ちを仕事とするおじさんが寄ってきたが、これを無視して切符売り場へ。帰りのチケットも難なく買える。2泊3日に決定。バスに乗る。今回は宿が決まっているので、安心して進める。
宿は駅から程近い友好飯店。このホテルは今年出来たばかりの新築。岐阜県と中方の合弁とのことで安心して予約したのだ。しかし、ここは中国。そんな簡単に行く分けが無い。上海滞在も10ヶ月になれば自ずと身に付いている。
確かに建物は新しいそうだ。当時中国は新築といっても壁がボロボロだったりしたので新鮮。フロントへ行くと確かに予約があると言う。オー凄い。そしてパスポートを出すと『日本人か、ならば半額』と驚くことを言う。
更に上海での職業を聞かれて『留学生』と答えると『それも半額』と言うではないか??一体いくらなんだ??何と180元で予約した部屋が45元になってしまった。これまで日本人だということで不当に高い料金を取られていたので、これはうれしかった。(お金が惜しいと言うより、そう言ってくれる事だけで嬉しいのだ)これだから中国は分からない。
部屋はきれいなツイン。久しぶりに優雅な気分になる。やはり中国生活が長くなったことを実感。外に出ると柳が下がっており、風景もよさそう。早々に西湖へ向かう。西湖は何の変哲も無い湖であった。中国人は何でここがよいのだろう。
湖岸を歩いて行くとやがて杭州飯店に着く。この付近では一際立派なホテルである。シャングリラが経営しているが、まだサービス、設備両面でシャングリラの名称を使用できないらしい。それでも上海と比べて十分満足できる綺麗さを持っていた。
清潔さ、当時中国で最も我々が欲していたものかもしれない。綺麗な場所に来るとホッとするし、その場所を動きたくなくなる。天下の西湖を横目に見ながら、ホテルのロビーにうっとりする、それがあの頃の中国の現実だったかもしれない。
夕飯もこのホテルで食べた。値段はかなり高かったが、満足した。帰りに湖岸を歩くと、真っ暗であった。観光地と言っても当時はこんなものだった。
2日目の朝、ホテルで粥を食べて、再度西湖へ。昨日と反対に南側から回る。南の端まであるいていくのに3kmも掛かる。何と大きな湖だ。南の端から蘇堤が北に伸びる。ここは宋代の詩人、蘇東坡が杭州知事だった時、20万人を動員して築いた堤防である。もう夏に近い日差しが照り付け、何も遮る物の無い堤の上はかなりの暑さだ。観光客も沢山いるが、皆只管写真のポーズを決めている。
お気に入りの杭州飯店の前まで来て、疲れ果てる。また中で休む。午後外へ出ると天外天という名前のレストランが目に入る。人が行列していた。聞けば有名な店らしい。中国人がブランドに弱いことはこの時知った。何しろ全国は広い。名前が知れている店は強い。
その後どうしたんだろう??ここで見事に記憶が途切れている。既に20年もの歳月が過ぎている。言い訳であるが、当然忘れてしまうこともある。しかしこの杭州行きは私の上海留学の最後を飾る旅。忘れるはずが無いものを忘れる。やはり中国は私の夢の中であったのだろうか??