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新疆北路を行く2011(7)石河子 新疆兵団の街

8月16日(火)
2.石河子 (1)石河子は80年代の中国

翌日午前中はウルムチ市内の企業を3社回り、そのままウルムチを後にする。いよいよ新疆北路を行く、旅が始まった。この1週間は、小型バスを借り切り、J氏、S氏、そして運転手さんと共に旅を続けることになる。

道は真っ直ぐ西へ延びている。本日の目的地は150㎞離れた石河子市。何でこの街へ行くのだろうか。私は事前に各訪問地に関して何の予備知識も与えられてはいなかった。それが良いと思って敢えて聞くこともなかった。片道2車線の高速道路をバスは疾走する。周囲の風景は原野、といった様相で、砂漠でもなく、耕地でもない。シルクロードと言うイメージからも少し離れている。双方向共に車は多くない。

少し緑が出て来た。水田が見える。空も青い。もうすぐ石河子市だと言う。都市の周囲に緑があるのは、オアシス。やはりここにはシルクロードのイメージがある。2時間弱で市内に入る。街は大きくはないがゆったりしている。どこかで見たような・・。この風景を説明することは難しいのだが、何となくこの街には昔の中国の街のにおいがする。80年代、私が留学していた頃に旅した都市の香りがする。何故かはわからない。そんなことを考えていると、ホテルに到着。

ホテルの周囲も昔の雰囲気だった。冷たいコーラでも買おうと思って歩いたが、冷蔵庫があっても電源が入っていない。店の人もゆったりと構えていた。子供たちが楽しそうに遊んでいる。実に不思議な街だ。

(2)新疆兵団

博物館に向かう。新疆兵団軍墾博物館。新疆兵団とは、日本では馴染みがないが、建国後、新疆での治安維持と開拓を進めるべく、組織された日本でいう屯田兵制度。軍の兵士が帰農し、国境などで変事があれば兵となる。この複雑な国際環境を持つ新疆で、特に建国直後は様々な問題があったであろうから、兵団の意味は大きい。同時に未開の地に、鍬を入れ、開拓した土地もかなりに達している。現在兵団の規模は相当数に達しており、兵団イコール街という図式となっている。

一方ウイグル族など少数民族から見えれば、共産党や兵団が有望な土地を取り上げて開拓した、と見るかもしれない。ある意味ではウイグル族にとっては自分の土地でも、漢族から見えれば未開の土地、という場所が多かったのかもしれない。

この博物館にその歴史がかなり多く展示されており、一般的な博物館より遥かに見ごたえがある。特に何度も起こった少数民族の反乱の歴史が漢民族の立場から語られている。また現在民主活動家として物議を醸しだしている艾未未とその父、詩人の艾青がこの地の労働改造所に送られていたことなども展示されている。

石河子がなぜ80年代の中国の街に見えるか、それはこの街が50年代の人工的に兵団によって作られ、そのままの状態を維持しているからであろう。ある意味では発展から取り残された革命の地、といった雰囲気である。

夏休みということもあり、多くの見学者が押し掛けてきており、入場制限がされていたほど。新疆観光の一つとして、石河子と新疆兵団は一般民衆にとっても欠かせない所らしい。と言っても石河子に宿泊することはなく、バスで通りがてらに立ち寄るだけ。

夜市に行って見た。これまたひどく懐かしい。まるで台湾の夜市と言った雰囲気もあり、娯楽が少ない当地では、相当の人出もある。薄暗い露店では、怪しげな物を売っていたり、親子連れがのんびりと夜景を眺めていたり。

8月17日(水)
(3) 日本人の寄付で出来たジュース

翌日は朝から石河子の招商局へ行き、当地の企業誘致状況を聞く。日系企業の進出はないとの事であったが、何故か「神内」と言う日本的な名前が飛び出す。10数年前、この地を訪れた日本人、神内良一という人が、この地に寄付をして、石河子大学との共同研究を開始。結果として当地で取れるニンジンや桃を使ったジュースが出来上がったと言う。試飲してみたが、なかなか美味しかった。

この興味深い日本人は誰なのか?帰国後ネット検索すると神内良一氏とは消費者金融「プロミス」の創業者、とある。東証一部の上場を果たした翌年1997年に、ご自身は金融から農業へシフトしたとあるから、その頃、何かのご縁でここへ来て農業関連事業に寄付を出したのだろうか。その事業が今も根付いている所が面白いし、素晴らしい。

もう一つ面白いと思ったのは、石河子大学。正直この田舎の大学の研究レベルはどんなものだろうかと思ったが、聞けば、ここは新疆ウイグル自治区でウルムチ大学と並ぶ、全国重点大学。北京大学などから教授が送り込まれ、レベルは相当に高いと言う。これは石河子と言う街が共産党にとって、いかに重要な場所かということを端的に表している。

そして今回我々の案内を買って出てくれた招商局の若者は実は山東省の出身。ウルムチ財経大学で修士を出た後、内地に帰ることをせずに、石河子市に就職した。「内地にチャンスはない。ここはいいですよ」と言い切り、既に住宅も購入、彼女も出来たとのこと。中国は広い、沿海部だけが良いのではない、ということを感じさせる彼であった。

因みに昼は女性招商局長を交えて大宴会となる。彼は飲めないお酒をがむしゃらに飲み、へべれけに酔い、それでも我々のアテンドを続け、最後に我々がバスに乗り込むと、その場にへたり込んでしまった。こんな若者、昔いたような。実に懐かしさを感じさせる漢族の街、それが石河子であった。

3.博楽
(1) 西へ西へ流れ行く

石河子を出発し、一路西へ針路を取る。今日は博楽まで350㎞。いよいよ過酷な車の旅が始まった。昼からお酒を飲んでしまったこともあり、いい気持ちでバスに乗る。天気は上々、空も青い。

片道2車線の高速道路をスイスイ走る。途中路肩に大量のトラックが停まっていた。聞けば、トラックは日中、この道を走ることが出来ないと言う。確かにトラックがいないので、走りやすい。トラックの荷台に目をやるとものすごい数のトマトが積みこまれて、動き出すのを待っていた。このトマトがラグメンの具になるかと思うと、さっき食事をしたばかりなのに、腹が減る。それ程に美味しそうに見えるトマトであった。

道の脇に時々表示が出ている。第XX兵団、この付近も多くは兵団の開拓地のようだ。石河子は大きな街であったが、多くの兵団員は、更に奥地の未開の地を開拓していったのだろうか。そしてそこには少数民族は住んでいなかったのだろうか。バスから眺める限り、何一つ分からない。

ちょうど中間ぐらいでトイレ休憩があった。運転手は他のドライバーと言葉を交わす。どうやらこの先の道路事情を聞いているようだ。こんなにきれいな道路があるのだから、情報など要らなそうに見えるが、そこは昔の伝統か。いや、博楽市はこの幹線から外れた場所にあり、情報は重要だった。

右側に列車の線路が見えたと思ったら、長い長い貨物列車がバスと並行して走っている。この列車は一体どこへ行こうとしているのだろうか。一体何を運んでいるのか。我々もこの列車も何だか、流れに任せて西へ西へ流れていくようだ。

夕方ようやく博楽市に着いた。夕陽が見事に傾いていた。街の外れの立派なホテルにチェックインした。

 



新疆北路を行く2011(6)ウルムチ 踊りの上手いウイグル人

新疆は踊る

夜はJ氏に連れられて、ウルムチの高級レストランへ。ここではウルムチの音楽や踊りが見られると言う。まだ陽が高い7時に到着、続々と観光客が集まってきて、徐々に盛り上がっていく。中国人の団体客が多い。我々は既に慣れた手つきで最初に出て来るスイカを食べながら、ビールを飲む。

ショーは意外に早く始まった。歌あり、踊りあり、楽器ありのエンターテイナーショー。結構迫力があり、面白い。子供の雑技なども披露される。途中から、皆さん踊りましょうと言うことで、フロアーで踊る。我々のテーブルでも遅れて来たN嬢とS氏夫人が大活躍。まるで西洋のようにカップルでフロアーに出ていき、見事に踊る。これは幼少期から事あるごとに踊る習慣があるウイグル族ならでは。N嬢いわく、「ウイグル人なら誰でも踊れます」、凄い。

同時にテーブルには羊から魚まで数々の料理が並んでいる。ビールの後は持ち込んだ白酒を2本開け、大宴会となっていた。まさに飲めや歌えや踊れや、でこれも凄い。飛行機が遅れて途中から登場したN所長などは、訳も分からずこの宴会に巻き込まれ、あわや倒れる寸前に。それにしても全員がしたたか酔い、踊り、実に楽しい宴会であった。新疆の底力を見た気がした。

8月15日(月)
(5) 学院長は36歳

翌朝はJ氏やS氏が所属する新疆某大学にお邪魔した。同大学は1950年に党の幹部学校として設立され、現在は数校が合併、学生数3万人という大きな大学になっている。校内に案内されると流石に広い。立派なグランドは市の競技施設並み。そして学校の北側にはだだっ広い公園があり、これも学校の敷地だと言われて驚く。

経済学院のG学院長と面談。中国の大学は学院毎に分かれており、日本でいえばちょっと違うが学院長は学部長か。いや、学院毎に独立採算性、独自性が求められる中国では、経営者と言えるのではないか。そのG氏、僅か36歳でこのポストに就いた。これはこの大学でも異例らしい。全国の優秀教師にも選ばれている。確かに話し方はしっかりしているし、中国の幹部教育を受けた人、というイメージが強い。勿論漢族である。

大学の校舎内に張り出された紙。よく見ると、漢族とウイグル族の学生が喧嘩したようで、その処分が張られていた。双方ともに退学処分だったが、それが公平な裁きであるかどうかは、部外者には全く分からないが、新疆の複雑さの一端を見る。

学内に大学を紹介する展示室があった。日本の大学にはこのような場所があっただろうか。そこには大学の歴史が書かれていたが、海外の大学で最も早く提携したのは実は日本のA大学であると、式典の写真も掲示されていた。日本は80年代、その経済的な優位性を生かして、様々な活動を行ってきた。しかし経済低迷の今、その多くが忘れ去られている。一方中国では現在経済優先社会となっているが、それでも昔のことを忘れない姿勢はある。日中の基本的な姿勢の違いがすれ違いを生む場合もあると感じる。

(6) フライトチケットネットと電話で

午後はウルムチ市の経済開発区、開発区内企業を訪問。色々と参考になる話があった。尚日系企業の姿はここにはなかった。

実はこの先、新疆北路の旅を終えると、私一人は皆さんと別れて、青海省西寧市へ行くことになっている。全省制覇まであと2つ。いまだ未踏の青海省にはこの機会に行っておこうと思う。幸い元部下の知り合いが西寧に滞在しており、面倒を見てくれることが決定。フライトを取る必要が出て来た。

元々ウルムチ→西寧は一日2本程度しかなく、便がタイトだと聞く。その為、ホテルに入っている旅行社へ行き、急ぎ押さえる。お姐さんが丁寧に調べてくれ、何とか20日の夜便を買う。この時期割引はなく、結構高い。支払いも現金決済。横には札束を握りしめた地元のオッチャン2人が真剣にフライトを探している。高度成長期の雰囲気がある。そして西寧から北京に戻るフライトを聞くと、「夜中の12時に到着する便しかない。まだ十分席はあるから、どうするか考えてから買え」と言われる。確かに北京に夜中到着はきつい。

ところが翌日ネットでこのフライトを検索すると既にすべて売り切れており、22日に北京に戻る便の席は全くなくなっていた。一瞬唖然となる。23日の午後便で東京へ戻らないと、ノービザ期間の15日を過ぎてしまい、オーバーステイとなる。これは何とか避けたい。西寧は諦めて、ウルムチから北京に戻るか。

シートリップ(携程)という旅行サイトを眺めながら、思わず電話をする。事情を説明すると「直行便は満席ですが、西安経由でどうですか、ちょうどいいのがありますよ」と言うではないか。そうか、経由便は思い付かなかった。海外クレジットカードの決済も電話で出来た。料金も西安経由には割引があり、安く上がったし、時間も夕飯頃には北京に着いていた。中国語が出来ることが前提だが、便利になった物だ。既に現金を握りしめて旅行社へ行く時代ではない。




新疆北路を行く2011(5)ウルムチ やっぱりラグメンは美味い!

8月14日(日)  (4) ウルムチ2

毛沢民

翌日は日曜日、夕方まで自由時間となる。N先生、M先生と街の探索に出た。M先生は実は歴史フェチ。タクシーで街の南にある八路軍新疆駐在事務所記念館へ向かう。ホテルからは30分ぐらい掛かった。突然道の脇にレンガ造りの独特な建物が出現。共産党の秘密基地といった雰囲気は全くないモダンな造り。

観光客でここを訪れる中国人はいないようだ。入り口のおじさんも暇そう。「写真は撮らないように」と言って中へ引っ込む。2階建ての建物に入ると意外と展示物が多い。新疆における共産党の歴史がきらびやかに書かれているが、恐らく当時は相当に大変な状態であったはずだ。

同時にここが同盟国ソ連との最前線になっており、何と初代の所長は陳雲。陳雲と言えば改革開放後、鄧小平に対峙した経済理論をもっていた人物。その後も共産党設立メンバーの一人陳潭秋が所長を務め、1942年に逮捕、翌年新疆軍閥の盛世才によって毛沢民・林基路らとともに殺されている。

毛沢民、毛沢東と一字違いのこの人物は実弟である。元々財務金融に明るかったのか、初代国家銀行総裁、経済部長などを務めていたが、1938年に新疆に派遣され、犠牲になっている。毛沢東はこの弟のことをどう思っていたのだろうか。

今の心境の情勢と当時の情勢は全く違っていたかもしれないが、漢民族である共産党がこの地に入り込み、そして制圧していく過程は1つのドラマかもしれない。毛沢民は華やかな共産党の勝利を見ることもなく、ましてや自分が毛沢東の弟として、飾られることなど想像すらしていなかっただろう。

書店の自動保管箱

道を歩いているととても雰囲気のよさそうな茶店があった。入ろうとしたが残念ながらラマダンで休業中。店の入り口からするとトルコチックなお店。どんな茶が出て来たのだろうか。

次に向かったのは新華書店。大学の先生、研究者は常に資料収集を行う。これは意外と大変な作業だと思う。ウルムチ、新疆の資料を探す。ここの新華書店もご多分に漏れず、どこに何があるかは分かり難い。しかしN先生などは初めて来たとは思えないほどの素早い行動力で、次々と関係資料を掘り出している。私が新疆の歴史に関する資料を手にすると「これは日本語版がここにあります」などと教えてくれる。凄い。取り敢えず1冊購入する。

今回驚いたのはバックを預ける保管箱。コインロッカーのようになっており、すべて自動化されている。最近北京に行っても書店に入ることは少ないが、北京や上海もそうなのだろうか。そして一番驚いたのは、取り出す際に預けた時に出て来たシートをかざすだけでロッカーが開いたこと。日本にこんなのあるかな。

また道を歩く。昨日来た大バザールを通過。その先にCDショップあり。いい民族音楽が流れて来て、N先生思わず中へ。「ウイグル音楽で一番人気があるもの」とのリクエストを出すと、CDを掛けて聞かせてくれるから有難い。周囲には物珍しそうに人々が、「こっちの方がいいぞ」などとちゃちゃを入れながら、皆で聞く。

それから民族博物館へ。ところがその場所に博物館はなかった。あったのは大きなビル。中では和田(ホータン)の玉が売られていた。ここは玉の市場かな。新疆民街と書かれており、政府がここを10年前に整備したことは分かったが、その後博物館は閉鎖し、市場になったようだ。

玉と言えば、ホータンの玉の値段はどんどん上がっており、石炭などで巨額の富を得た漢族が高値で買っていくと言う。たった一つの玉を4000万元で売り、その金で市内中心にビルを買った、などという豪勢なエピソードも飛び出す。今や博物館など儲からない、といった雰囲気が漲る。とても残念なことだが、これが現実。

バスとタクシー

先生達はもう一つの新華書店に向かう。不熱心な私はここで別れる。そして折角なので市内のバスに乗ってみる。ところが地図を忘れてしまい、停留所の名前を見ても、どのバスに乗ればよいか分からない。仕方なく適当に乗り込む。1元。

日曜日の昼間、バスは意外と混んでいた。ラマダンの時は家でジッとしているのかと思い込んでいたが、どうやら違うらしい。数駅乗ると紅山公園にやって来たので、ここが市内の中心であると思い、降りる。ところが、この公園は相当の広さの上に高さもある。ここを登るのは大変だと思い、目の前にやって来たタクシーに飛び乗る。

運転手は漢族ではないが、どの民族かは分からない。最近は景気も良いし、給与も上がっていると上機嫌で言う。「ウルムチは田舎だと思ってきただろう」とズバリ言ってのけたりもする。「最近この辺のマンションは8,000元/㎡はするよ。一番高い所は18,000元」街の発展を喜んでいる。「俺たちは民族なんかどうでもいい、平和に暮らせればそれでいいんだよ」とも言う。確かにその通りだ。

 

一人昼飯
ホテルに戻ったが、時刻はまだ2時台。何となく腹も減るが、それほど沢山食べたくもない。そこで麺を食べようとホテル内のレストランへ向かう。ところが・・「四川の担担麺ならあるが、ウイグルのラグメンはない」と言われてビックリ。仕方なく、ラグメンレストランの場所を聞き、向かう。歩いて5分、

店を覗くと沢山の人が食べていた。入り口で先ず食べる物をオーダーし、金を払う。私は迷わずナス肉ラグメンを注文。10元。ついでにシシカバブーも頼んだが、「1本なんて焼けないよ」とお姐さんに冷たく言われる。しかし後ろで順番を待っていた女性が「あたしも食べるんだから、一緒に焼こうね」と実に優しく言ってくれた。これだけも感激。カバブー1元。

昔の学生食堂のように、厨房が見える。自分のオーダーした物をその前で待つ。なかなかいい雰囲気だ。スープ麺もあり、こちらは出て来るのが早い。これも美味そうだが、熱いのだから、汗が出そうだ。10分近く待ってようやく、私の麺が出て来た。

ナスと羊肉の具と麺は皿が分かれていた。具を麺に載せ、思いっきり?かき混ぜる。ナスの香りが飛ぶ。食べなくても、既に美味い。麺は本当にしっかりしており、実に満足できるスパゲッティーである。日本では食べられないのだろうか。カバブーが遅れて到着。こちらも肉が柔らかい。

食事が終わってレストランを出ると、そこは下町の風情。ちょっと散歩。道沿いに木々が緑に映え、その下でカバブーを食べながらビールを飲む人々。昼からビアガーデン状態だ。N先生に早速知らせねば、と思う。

脇道を入ると果物を売っている。スイカにハミウリ、ブドウ、何でもある。一人ではスイカ一つでも多過ぎる。諦める。横を見ると携帯ショップがあった。そうだ、デジカメのカードリーダーを持ってくるのを忘れていた。店で聞くと、おにいさんが親切に私のカードに合うリーダーを探してくれた。価格は僅か10元。何となくその優しさに癒される。

更に歩いて行くと、靴磨きのおばさんと目が合う。そうだ、昨日砂漠に足を突っ込み、靴を汚していた。試に足を出して聞いてみると「これは革靴じゃないから、ちょっと高いよ」と言われる。いくらか聞くと「3元」との答え。磨いてもらう。磨くと言うよりクリームをつけて落とす感じか。

おばさんは河南省から出て来た出稼ぎだった。ここでの生活を聞くと「生活はどこだって同じだよ」と。でもウルムチは景気が良いそうで、商売は繁盛しているとも言う。僅か2-3元の商売だが、彼女は実に明るい。話していてもよく笑う。隣の2人も同郷らしく、話に加わり楽しく過ごした。



 

新疆北路を行く2011(4)トルファン ラマダンにさ迷い歩く

灼熱の交河城址

次に訪れたのが、トルファン市内から西に10㎞、交河城址であった。ここは2つの川の交わるところ、交通要衝の地であった。三蔵法師も訪れたと言う高昌国の隣。現存する城址は唐代以降のものだというが、見ると一面の廃墟。遮るものもまるで無し。今日はそれほど暑くはないと言われたが、それでも38度はある。何故なら夏のトルファンの昼間、38度を下回ることはないらしい。

しかもこの廃墟、説明文はどこにもない。行けども、行けども何もわからない廃墟を歩く。これは1つの修行ではないだろうか。いや、その昔三蔵法師はこのような砂漠を延々と歩いてインドへ行ったと言うことを我々に語っているのだろうか。

何事にも熱心なM先生を除き、皆かなりの疲労を覚え、出口へ向かう。まさに兵どもが夢のあと、といった感じだ。のどの渇きがすごい。この荒涼とした感じは如何にもシルクロードだが、直射日光と乾燥には耐えられない。砂漠を行くとは大変なことだ。

出口の所に博物館がある。中に入るとこの城址の由来その他が説明されており、初めて意味が分かる。我々は順番を間違えた様だ。先にここを見ておけば、あの暑さにも耐えられただろうか。いや、それはないだろう。

交河城とは我々には想像もできないし、現在見てもピンとは来ないが、陳舜臣氏によれば、「彫刻都市」なのだそうだ。交河というぐらいだから、2つの河に挟まれている。しかも20mの絶壁が城壁を作る必要性をなくしている。交河城は上から彫られた世界でも稀にみる都市なのである。上から彫られたと言えば、以前訪れたインドのエローラ石窟を思い出す。

実はトルファンには交河城址の他にもう一つ、高昌古城という場所がある。こちらの方が規模は大きいが、街は殆ど残っていない。理由として交河は日干し煉瓦を殆ど使っていないこと。農民は古い日干し煉瓦が肥料としてよいことを知っており、かなり掘り出して使ってしまったらしい。

尚高昌国は唐の時代、玄奘が立ち寄った場所。国王麴文泰は玄奘を気に入り、この国に留まるよう無理に要請。自ら給仕までしたらしい。天竺行きの使命を帯びる玄奘は4日間絶食し、対抗したという。結局1か月滞在し、国王はじめ300余人に講義をしたと言う。

当時高昌国は唐と突厥に挟まれて、苦しい立場にあった。王はこの難局打開の一つの方策として仏教の導入を進めたのかもしれない。結局麴文泰は玄奘が去って10年後には死を迎え、高昌国は唐に敗れて滅びる。唐は強国といえども、建国直後でまだ勢力が弱いと見ていたところ、それが誤りであったと言うことらしい。玄奘の「大唐西域記」には1か月も滞在したのに、高昌国のことは一言も触れられていないと言う。

交河城には高昌国滅亡後、唐の太宗により安西都護府が置かれ、唐は直接西域経営に乗り出した。玄奘はインドの帰路、この道を通らなかった。因みに後年マルコポーロも南道を通り、トルファンには立ち寄っていない。

ラマダンに彷徨う
既に午後3時、昼食場所へ向かう。J氏の教え子と言う男性が現れ、先導してくれる。先生はいいな、どこにでも教え子がいる。しかし教え子とは言っても堂々とした人。市政府に務めているらしい。

少し郊外の雰囲気のよいレストランに到着。観光客も外で待っている。中に入るとぶどう棚、その下に桟敷?があり、とてもいいムードで食事が出来そうだ。ところがどっこい、追い出される。何とラマダン中で昼間店はクローズ。期待は大きく裏切られる。

ようやく街中のレストランに入ったのは午後4時。しかし新疆時間ではまだ昼ごはん時間だった。地下へ降りていくと数組が食事中。我々のテーブルには薬缶で茶碗にお茶が配られる。冷たい物が飲みたい気分だが、それは仕方がない。ところがもう一つ薬缶が出て来た。白湯かな、と思っていると、冷たい。そして色はお茶のそれだが、何故か泡が立っている。N先生の目が輝いた。外国人待遇が得られたようだ。

腹が減っていたことはあるだろうが、ここのラグメンは本当に美味しかった。ニンジン、ピーマン、キュウリ、インゲンなどの具が程よく上に乗り、麺も細いがしっかりしていて、味わいが深い。思わず、お替り、というか日本のラーメンでいう替え玉を頼む。具は残しておいて、麺を追加する。いくらでも食べられそうな。

火焔山

そして一行は火焔山へ向かった。火焔山と言えば、西遊記が思い出される。山とは言いながら、かなり広い範囲を指すらしい。我々は一路、ベゼクリク千仏洞を目指した。山が傾斜する砂漠に見える。その空が広がる渓谷に千仏洞はあった。

この千仏洞は6世紀の高昌国の時代に作り始められ、9世紀に最盛期を迎えた。13世紀のイスラム侵攻により破壊されたが、現在いくつかの石窟が残っている。しかしその内部は19世紀末にやって来た外国探検隊に殆どをはぎ取られている。正直見学できるいくつかの石窟に入っても、どこに壁画が描かれているのか分からない。係員が下の方を指さし、足の部分だけが辛うじて見えた、と言った状態。また僅かに全景が見える壁画が薄く残っているのみ。

千仏洞の入り口にウイグル人と思われる老人が一人で楽器を弾いていた。その音色がこの風景のマッチしておりなかなか良い。顔も日焼けして如何にもこの辺りの人。音楽好きで大バザールでタンバリンを購入したN先生、老人に近づき、その音楽に合わせてリズムを取り、タンバリンを忘れたことを悔やむ。老人にチップを渡すと、何と「昴」を演奏してくれた。お客の国籍をちゃんと把握している。

外に出ると「火焔山」と書かれた石碑の横に駱駝が待機している。観光客を乗せて、斜面を登るようだ。まるで月の砂漠を想起させる景色。そして火焔山の中心に。トルファンでも最も暑い所であり、50度を超えることもしばしばとか。火焔の由来は砂岩の浸食によりできた山肌の赤とその形状。

そしてウルムチへ。帰りの道路に検問があった。以前は全員の身分証を確認するなど厳しいチェックがあったようだが、今回は運転手だけがチェックされ、後ろのトランクを開けることすらなかった。中国政府はウルムチ市の治安に問題が既に無いことを確認しているようだ。

ネット騒動2

夜、ホテルの部屋を移動した。元々の予約は今日からであったので、予約した部屋に移った。昨夜の騒動もあり、これでネットも繋がるだろうと期待していたが、何と部屋にケーブルが無いばかりか、ケーブルを繋ぐジャックすら見当たらない。またフロントに電話を掛けると、困った声で「没法子」と言う。一体どうなっているのか?

部屋に若いマネージャーがやって来て事情を説明される。そしてやって分かった。このホテルには元々僅か10部屋にしかネット設備が無いのだと。今時中国でこんなホテル、あるのだろうか??昨日の部屋に戻せと言った所で、今日は全室満員で移りようもないとのこと。何でそれを昨日言ってくれないのだ。

マネージャーも困った顔をしていた。彼が悪いんじゃないのだ。自分にそう言い聞かせて寝ようかと思った瞬間、彼が「PCを持って下に来てくれませんか」と小声で言う。何故?よく分からないが、着いて行くことにした。彼は私を1階フロントに案内し、フロントで使用していたPCからケーブルを抜き、「これを使って下さい」と差し出した。呆気にとられたが、折角なのでPCに接続し、メールをチェック。こんな時に意外と大事なメールが入っており、助かった。夜中の人気のないロビーに背を向けてフロントに向き合い座る。何だかとても滑稽だが、ちょっと感動。

部屋に戻ろうと3階でエレベーターを降りると、何故かそこはカラオケ屋。受付の男女スタッフが私を見て「なんでそんな恰好でPC持っているんだ。PCよりカラオケだろう、この時間は」と笑いだす。私は初めて自分が短パンにTシャツの寝姿であることに気が付く。確かに真夜中にPCを持ってこの格好で歩く異邦人は滑稽以外の何物でもない。




新疆北路を行く2011(3)トルファン 風力発電とカレーズ

スパゲティーをイタリア人に教えたのは
そのレストランは1階と2階に分かれており、1階は庶民的、2階は豪華な感じであった。我々は真っ直ぐ2階へ。しかし2階ではちょうど従業員のミーティングの最中。開店前に入ってしまったらしい。外国人だからだろうか。

実はこのお店、S氏の知り合いが経営者であった。その経営者はやはりウイグル人で、しかも大阪に留学していたという。帰国後大学で教えていたが、辞めて友人とレストラン経営をはじめた。経営は順調かと聞くと「ボチボチですね」と日本語で答える。実に落ち着いた雰囲気。日本の料理を参考にしたか、と聞くと、サラダにわさびを入れただけとか。このサラダ、後で食べるとなかなか美味しい。

ようやく従業員が動き始めた。先ず大皿にスイカとハミ瓜が運ばれる。このハミ瓜は日本のメロンのようで本当に美味しい。どうしてこれを日本に輸出しないのか、と食べた人は皆思うフルーツ。ハミ瓜にかぶりつく。これは美味い。スイカも大きく切られていて、甘い。取り敢えず料理の前のフルーツ。そしてなぜか主食の麺が登場。

このラグメン、という名前の麺。麺にこしがあり、かつ上にニンジン、トマト、などの具を炒めた物を載せて、かき混ぜてから食べる。実に美味しい。まるでスパゲティーのようだと言うと、J氏が高らかに言う。「スパゲティーをイタリア人に教えたのはウイグル人である」、なに、それは初耳だが、確かにこの麺と具はスパゲティーである。説得力あるなあ。

更にJ氏は続ける。「ピザもイタリア人に教えた!」、えー、それは・・。しかし確かにピザの生地はある意味ではウイグル人がいつも食べるナンである。具もスパゲティーと同じような物か。それにチーズは山羊のチーズを使えば・・、ピザもできるね。これは驚きである。

そしてシシカバブ‐が登場した。このカバブー、羊の肉が実に柔らかい。塩味も程よく聞いている。うーん、この店は実にウマい。東京に出店欲しい、と伝えたがオーナーは、「日本でのビジネスは難しい。材料もない。ウルムチで十分」と断られた。

そして周囲を見てみるとビックリ。いつの間にか日が落ち、お客さんが集まっていた。皆いい服を着て、社交場のように集まっている。女性が多い。S氏によれば、「男性はラマダン中、各人の家に集まり、毎日宴会をしている。女性たちはレストランにやって来て、食べている」うーん、ラマダンのイメージは崩れる。面白い。

外へ出るとまだ完全には暗くなっていなかった。突然大きな音がした。道路を見ると車がぶつかっていた。そのぶつかり方が普通ではない。道のど真ん中で、前の車が急に左に曲がり、後ろの車がその横腹に突っ込んでいる。どうしてこうなるのか。両方の運転手が言い合いをしていたが、何故か警察は来ない。その内話が着いたのか、両車は何事もなかったように走り去った。

ネット騒動
長い一日が終わり、ホテルへ。荷物をM先生の部屋に預けており、それを引き取ってようやく自分に部屋に落ち着く。そして唯一の懸念、インターネット接続を試みる。が、普通ホテルの机の上にあるネットケーブルが出ていない。引出しにも入っていない。どうなっているんだ。ある程度以上のホテルでネットが繋がらないはずはない。

仕方なく、フロントに電話。しかし、「ネットケーブルが無いのなら繋がらないわね」とすげなく電話を切られそうになる。そんな馬鹿な、何とかしてと訴えると、「でもケーブルの予備はない」と言い放つ。訳が分からず食い下がると「じゃあー誰か見に行くから」と如何にも困ったといった感じで答えが来る。

そしてやって来たのはトランシーバーを持った警備のおばさん。私の訴えを聞いても、「なければ仕方がないわね」と帰ろうとする。そんな、何とかしてくれ、と再度叫ぶと「そんなに困っているなら探してきてあげる」と言って出て行った。

一体どうなっているのだろうか。ネットケーブルの予備が無いとは。お客の中にはケーブルを持ち去る人もいるだろう。その予備ぐらいは当然備えていなければいけない。顧客サービスの基本がなっていない。

5分ほどして警備のおばさんが戻ってきた。手にはやけに短いケーブルを持っている。繋いで見てくれというと「あたしは何にも分からない」と答える。じゃあーこのケーブルはどうしたんだ。「予備はないから、オフィスで使っていたケーブルを引き抜いてきてあげた」と言うではないか。これはトンデモナイことだが、私にとっては実に有難いことだ。

その短いケーブルを電話線ジャックに繋ぐと確かに接続できた。但し線が短すぎて机の上にPCを置くことは出来ず、荷物置きの上にPCを備えて何とかメールチェックした。それでもおばさんの行為には懐かしい何かを感じ、無性に感動していた。

8月13日(土)
(3) トルファン
時差の関係から日の出は遅いと思っていたが、北京時間午前7時過ぎには既に明るくなっていた。しかしホテルの朝食は8時から、今日の出発も10時からと基本的には新疆時間感覚で動く。ウルムチは日中の日差しは強いが、朝夕はだいぶ涼しく、気持ちが良い。

10時にJ氏、S氏そしてN嬢が登場した。N嬢は今年の3月まで横浜の大学の大学院に留学していた才媛。正直服装からしても眼鏡一つとってもウイグル人には見えない。彼女自身も「日本ではよく日本人に間違えられた」というぐらい。ウルムチでは目立つ存在か。7月から新疆財経大学に正式の採用になったとか。立派な先生である。

今日は元々列車で夜到着予定が昨日着いてしまったエクストラデー。協議の結果、トルファン日帰り旅行となった。車も急遽手配。観光シーズンで難航したが、何とかJ氏が確保してくれた。そのバンに乗り込んだのだが、S氏は「まだ朝ごはん食べてない」と車を街中に停める。ついでに水も確保して出発。

トルファンの風力発電
トルファンは中国でもっとも標高が低い場所。何と海抜‐154m。ウルムチからだと一気に1000m近く駆け降りることになる。片道2車線の道を車は軽快に飛ばす。天気も良い。絶好のドライブだ。

途中付近一面に巨大な風車のようなものが見えてきた。思わず車が停まる。何だこれは。白い羽がグルグル回っている。風力発電の設備がどうだろうか、数百台設置されている。確かにこの辺りは盆地で風が強い。風力には適しているかもしれないが、これだけの規模とは。流石中国。

現在中国全土には3万4千本の風車があると言う。この5年間で設備容量は20倍に伸び、アメリカを抜いて世界一になっている。しかし中国国内では内モンゴルが約3割のシェアを持ち、新疆は上位5位にも入っていない。恐らくは新疆内の電力は十分足りており、もし内地に電力を送ろうとすれば、送電線の問題があるのだろう。

思い出すのはお知り合いの経済作家黒木亮氏が「排出権商人」(講談社)執筆の為、単身ウルムチに乗り込んだ話。彼が見た風景もこれだったのだとようやく合点がいく。因みにこの本には私も色々と協力している。

観光客が見学するための博物館も建設中だ。これは中国が国家政策として推し進めているプロジェクト。実際に目の前で見ると壮大だ。もしこれで本当に電力が賄えるのであれば原発は不要なのだろうか・・。組み合わせが重要か。

中国人観光客が工事現場に足を踏み入れ、写真を撮っている。私も撮ろうと思い、踏み込むと何とそこは砂漠の砂。一瞬にして足が砂だらけになり、靴に砂が入り込む。これには参った。砂を落とそうにもそう簡単ではない。

カレーズ
180㎞、約2時間のドライブでトルファンに入る。先ず訪れたのが、カレーズ。カレーズとは地下水路のこと。イランでは「カナート」と呼ばれるらしい。トルファン名物のぶどう棚の下を通り、博物館へ。

博物館で一通り説明を見る。そしてそのまま地下へ。カレーズは新疆全体で1700本以上存在するが、トルファンだけで400本を超える。2000年の歴史を持ち、今でも一部農村では飲料、灌漑用水などとして使用されている。

この地下水路、2000年も前にどうやって作ったのだろうか。説明を読むと、勾配を利用していかなる動力も使わず、地下水を地上に組み上げていると言う。「トルファンの母なる川」と評されているが、それは本当にそうであろう。この水が農作物を育て、人々の生命を維持し、オアシスを繋いできたのである。

しかしなぜ地上ではなく地下だったのか。一つは極度の乾燥地帯であるため、地上では砂に水分を吸い取られること、もう一つは地表の塩分を吸った水は農業に適さなかったかららしい。この地区では富がたまれば水主になる、と言われていた。それ程水は重要だったのだ。水枯れはイコール滅亡である。

地下へ降りると、狭い空間があり、柵が施された僅かな合間に水が流れている。我々が狭いと感じるのであるから、この工事をした人々は大変な苦労をしただろう。治水とは命懸けであり、それほどまでに重要である。

上に上がると明るい陽射しに包まれて目がくらむ。外では民族衣装を着た女性がブドウジュースを販売。飲みたかったが・・。ウイグル人にとっては観光地でジュースなど飲みたくないだろうな。駐車場脇に水が流れている。見るときれいな水だ。思わず降りて手を洗う。少し冷たく、そして心が洗われるような気がした。

 

新疆北路を行く2011(2)ウルムチ 楼蘭美女と地下商店街

楼蘭美女は出張中
M先生が博物館に行きたい、ということで、市内中心にある自治区博物館へ。北京時間4時までに入場しないと閉館と聞き、急いで行く。現在中国の博物館はどこも無料。これはとても嬉しいサービスであるが、中には参観者が多過ぎて困る所もある。

ここは閉館間際でもあり比較的空いてはいたが、それでも団体観光客が多数いた。我々は勝手に参観しようと思っていたが、J氏はどこかへ消え、何かを探している。10分ぐらい待つと、何と日本語の若い女性ガイドさんが登場。13の少数民族について詳しく解説を始める。

私が注目したのは中国東北地方から清朝時代に移住させられたシボー(錫伯)族。実は中国では既に満州語は死語となっており、満州語が読み書きできる人々はかなり限られている。満州族はとっくに漢族化してしまったと言うこと。清朝時代の資料もある程度は漢文で書かれているようだが、勿論満州語で書かれている物もあり、現在この資料が読める唯一の民族として、中央政府もシボー族を北京に呼んで、解読に当たらせていると聞いたことがある。何だかとても不思議な話だが、中国の少数民族を考える場合、示唆に富むエピソードかもしれない。

そしてこの博物館のメインは「楼蘭美女」。約3800年前に埋葬された女性のミイラであるが、その保存状態の良さなどは驚くべきものがある。1980年にタクラマカン砂漠の東、楼蘭鉄板河遺跡で発掘され、世界を驚かせた。NHK特集シルクロードでも放映され、鮮烈な印象がある。

ガイド嬢が「楼蘭美女は出張中です」と残念そうに、そしてちょっとユーモアを持って宣言する。中国国内の他の博物館に貸し出されている。しかしこの博物館には他に2つのミイラがある。おばあさんと男性である。楼蘭美女は美女と言うのに、隣はおばあさん、彼女が言うには「楼蘭美女は身分が高い女性、このおばあさんは普通の女性」だそうだ。死んでも身分を問われるとは何となく悲しいが、歴史的な遺産としては大事なこと。男性のミイラは張さんと言うらしい。これはこれで面白い。

このガイド嬢、聞いてみると今年大連外国語学院日本語学科を卒業して、ウルムチにやって来た。小声で「新疆のことはまだよく分かりません」と言うのが初々しい。今日は日本人のお客さんも多く、我々が5組目とか。最後はかなり疲れていたが、元気に手を振って見送ってくれた。それにしても人材不足の新疆、内地(新疆では中国他省をこう呼ぶ)から沢山の若者がやって来ている。

ウルムチの日系地下商店街
ウルムチの市内中心に日本人が作った地下商店街がある、という話は以前より聞いていた。辰野名品広場、新疆人なら誰でも知っている。我々も連れて行ってもらった。1998年に建築面積約3,300平方メートルでオープン、現在では当時の約3倍の11,000平方メートルにまで拡張された。

なぜこんな所に日本企業が?それは大阪の辰野と言う会社の辰野専務による決断だったらしい。ウイグル人留学生の誘いで訪れたウルムチ、そこに可能性を感じたとあるが、それは当時としては凄い決断だろう。この感覚は見事的中し、政情不安などがありながらも、今では辰野の地下街はウルムチの名物。

実際行って見ると、地下商店街という感じではなく、先端ファッションを扱う日本のブティック街。DHCなど日本メーカーも店舗を構えていた。ウイグル人によれば、個々の価格はかなり高いということらしい。

09年ウルムチ暴動があった年、辰野氏は亡くなった。暴動を見ていたらどんな思いだったろうか。名誉市民の称号が与えられている。

堂々とした両替
辰野の地下街に入る所に、中国銀行があった。そこの前にはウイグル人のおじさん達がたむろ。一瞬にして25年前の上海が蘇る。当時外国人はバンドにある中国銀行に口座を開き、送金があるとそこへ手続きに行く。外にはウイグル人が待っており、必ず「チェンジマネー」と声を掛けられる。闇両替はレートが良いとのことだったが、当然違法であり、時々外国人留学生が捕まって、新聞に載ったりしていた。

ウルムチのおじさん達は何と正にその闇両替屋であった。がどうみても闇ではない。実に堂々としており、人民元の札束を手に握りしめ、お客が来ると銀行内に一緒に入り、お客の外貨を確認している。そして何と店内に備えられた現金数え機に自分の人民元の現金を入れて見せ、偽札でないことを証明していた。これは一体何なんだ。銀行も黙認している両替である。

実は北京ではこれほど大胆ではないが、非合法の両替は存在している。そして銀行側も顧客サービスの一環として彼らを紹介していると言われている。中国における外貨両替は一人年間5万米ドルまで。どうしてもその枠をはみ出す人は非合法の手段を使わざるを得ない。それは違法と言うより庶民の知恵のようなものだが、ウルムチのそれはちょっとした知恵の域は遥かに超えている。中国経済の規模が拡大する中、外貨両替枠の拡大があってよいのでは、と思うのだがどうだろうか。

大バザール
車で大バザールに向かう。市内の南、モスクが見える。するとその横の建物に何とカルフールのマークが地味に溶け込んでいた。そういえば、確か以前イスラム社会とカルフールで悶着が起きていた気がする。そうするとこれはカルフールが出来るだけの配慮をした結果なのだろう。中にはケンタッキーもあったのだが、いずれも自らのブランドカラーは消している。商売はお客様次第ということか。

確かに大バザールと言うぐらいだから規模は大きい。何でもイスタンブールに次ぐ規模とか。私のイメージのバザールは屋外だが、ここは屋内。大きな建物が3つほどあり、店舗は中にある。干しブドウが目に入る。名産品である。ジュータンがあり、玉など宝飾品がある。内地から来た観光客が、土産物を買い込んでいる。ここでは基本的に北京語で事が進んでおり、観光客向けの市場である。中東からも多くのバイヤーが来ていると聞いたが、その姿は見られない。

N先生が楽器の前で止まる。ウイグルの民族楽器、タンバリンのような楽器を買う。J氏は折角ウイグルの楽器を買うのだったら、ウイグル人から買って欲しいと言ったそうだ。そのあたりにこの地域の難しさが顔を出す。売り子は少数民族が多い。ベールをすっぽり被っている女性が携帯電話をいじっている姿は何となく微笑ましい。

夕方も6時半を過ぎたが、日の高さから見ても午後の早い時間帯にしか見えない。新疆には新疆時間と言う時差がある。北京とは2時間。まだ4時半と言うことだ。しかもさっき3時前に昼食を取ったばかりだが、レストランに向かう。





新疆北路を行く2011(1)ウルムチ ラマダンの食事はフルーツから

《新疆散歩》 2011年8月12-20日

中国の新疆と言えば、シルクロード。ちょうど私が大学に入る頃、NHKが「シルクロード」という番組を放映し、改革開放政策と相俟って、大ヒットを飛ばした。あの喜多郎の雄大な音楽と石坂浩二のナレーションは未だに耳に残っている。中国ブームのはしりだ。

どうしても新疆に行きたい、いやシルクロードを辿ってみたい。その希望は何度も打ち砕かれてきた。1987年上海留学の最後に計画した西安‐カシュガル横断旅行は、仕事でダメになった。2000年、北京在住中には、内モンゴルにはよく行ったが、それより西に行く機会は訪れなかった。

2007年に再度北京に住んでからは、兎に角毎年夏になると計画した。しかしその度に、航空機爆破未遂、ウルムチ暴動などが発生して、旅行は中止になった。辛うじて西安に初めて行き、蘭州にも行った。こんなメジャーな都市にこれまで一度も行かなかったのかと、友人には笑われた。しかし個人的には「新疆は老後の楽しみ」と割り切り始めていた。

今年に入り、お世話になっているA大学のN先生より、「夏の辺境調査は新疆だ」と聞き、俄然行く気になった。幸い会社に行かなくなり、時間は自由になった。この辺境調査、単に辺境に行くだけではない。各地の政府、大学、工業団地、企業などを訪問し、話を聞く。これまで広西壮族自治区、ウランバートル、延辺朝鮮族自治州の調査に同行しており、その有意義な様子は理解している。イメージと違った新疆が見られるかもしれない。

北京からウルムチまで33時間を列車で行く、というN先生に最初から同行することにした。しかし夏の新疆は旅行のハイシーズン。結局列車の切符は取れずに飛行機で行くことに。ちょっと残念でもあり、ホッとした面もある。やはり体力の衰えを自覚し始めている。

 2011年8月12日(金)
1. ウルムチ
(1) ウルムチ行きにテロ警戒の気配なし

北京空港は夏休みのせいか、乗客がいつもより多い。荷物検査も混んでいた。以前成都行きに乗った時、何故か特別検査ゲートを指示されたことがあった。そこでは靴も脱ぎ、ベルトも外して検査する念の入れよう。理由を尋ねたが誰一人答えなかった。後で分かったことはその飛行機が成都経由でチベットのラサ行きであったこと。経由便でもそれほどの警戒があるのであるから、ウルムチ直行便などは当然特別検査対象と思っていたが、結局すんなり通過してしまう。どうなっているのか。

因みにこの時は全ての荷物を機内持ち込みにしたが、何も引っ掛からなかった。ところが最後に北京から東京に帰ろうとした国際線の荷物検査でシャンプーを取り上げられた。係官は「容器が100ml以上の場合、中身が100ml以下でも没収の対象」と説明。何となく納得が行かずにいると係官は対象法令を指さす。そこには「容積が100ml以上・・」とある。容積とは中身ではないのか?しかもこれまで一度も引っ掛からなかったことを主張してみたが、「荷物を預けろ」と言うばかり。これを見ても中国の検査が結構いい加減なことが分かる。テロ対策大丈夫か。

N先生ともう一人M先生と空港内で合流した。M先生も80年代北京に留学したつわもので、毎年中国に学生を連れてやって来ており、今回も北京師範大学に学生を送り込んでこのツアーに参加している。更にはこのツアーの後、モスクワに行く予定もあり、日本に戻るには何と9月下旬という凄いスケジュールの持ち主だ。このように熱心な先生がいるんだなあ、と妙に感心。

3人でコーヒーを飲んで話し込んでいると、出発30分前になる。最近国内線は招集も早く、どんどんドアを閉めて出発する傾向にある。慌ててゲートへ行くと案の定殆どの乗客は既に乗り込み、我々は完全に出遅れていた。客室内は満員、自分の席に行くと、隣の中国人が「友人と席を替わって欲しい」と言う。満員の為一緒の席が取れなかったようだ。替わってあげたが、私の荷物を納める所がなく、苦労する。夏休みで子供の姿も多く、本当に観光シーズンを感じる。日本で言われているテロや暴動を想起させる新疆のイメージは全くない。

国内線で4時間のフライトは初めて。エアーチャイナのサービスにははじめから期待してはいないが、機内食は相変わらず不味い。隣のおじさんはイスラム教徒(回教徒か)らしく、ベジ料理を頼んだが、「予約の時に言ってくれなければ困る」などとCAから言われ、しょぼんとしていた。そうは言っても結局はベジが出て来たところを見ると、やはりこの路線でのニーズは高いらしい。

(2) ラマダン中の食事はフルーツから
午後2時にウルムチ空港に到着。非常に近代的な空港で驚く。何とターミナルが3つあるとか。既に規模は北京並みか。空港内には経済開発区の宣伝や、中欧博覧会の開催を知らせる案内が出ている。ウルムチは政治や民族ではなく、経済都市をアピールしている。外に出ると日差しが強い。

空港には新疆財経大学の副教授J氏とS氏が迎えに来てくれていた。J氏はA大学で博士号を取得、S氏は京大で取得している秀才である。私はS氏が運転する車に乗り込む。空港から市内まで20㎞だが、道は空いており、どんどん進む。「空港に来るときは渋滞があり、かなり時間が掛かった」と言われるがピンとこない。

ウルムチ市の北側、空港から20分ほどでホテルの到着。ここは元々イリのウルムチ駐在員事務所。メインの建物の後ろには新しい建物も建っている。従前の計画では列車で33時間掛けて来る予定であったから、到着は明日。急遽本日のホテルを予約したようだが、メインビルは満室で今日のみ別館に泊まる。

行って見ると部屋はきれいだが、掃除が出来ておらず、荷物だけ置いて昼食へ向かう。既に午後2時半を回っており、どこでご飯を食べるのだろうか、と思っているとホテル横のレストランに。案の定誰もお客はいない。従業員も手持無沙汰。入り口には「安全検査」と書かれた紙がテーブルの上にあったが、誰もバックを開けようとはしない。

このレストランはメニューが壁に写真入りで張り出されており、外地から来た人間にも分かり易い。N先生は兎に角ビール。新疆ビールと書かれた冷蔵庫があったが、それほど冷えてはいない。私は「チャイ」と書かれたお茶を所望。しかし出て来たのは所謂羊のバターを入れたバター茶。S氏いわく「ここは漢族のレストランで美味しくない。本物はまた別の機会に」と。

驚いた事には先ず食事の前に出て来たのがスイカ。私は大好きだし、のども乾いていたので問題ないが、スイカをつまみにビールは大変。何故スイカかと聞くと、「ラマダン中本来日中食事は勿論、水すら飲んではいけない。夜食事の前に先ずは水分を取り、かつ糖分を補給して、胃腸の活動を促すため」という。まさに知恵である。



《北京歴史散歩2008》(11)西単付近

【西単付近】2008年7月6日

夏がやって来た。6月まではオリンピックの為に雨を降らせており??例年になく雨が多い、そして涼しい夏だったが、7月からはオリンピックムードを盛り上げる必要もあり??快晴、そして暑い。といっても先週出張した香港に比べれば気温が高くても湿度が低い。木陰に入れば何となく爽やかな風が吹き、何とか散歩が継続できる。これぞ、北京。

 1.西単双塔

地下鉄で西単へ。7月からは手荷物検査が導入されたと聞いていたが、建国門も西単も検査は全くなかった。心配ない場所なのだろうか??兎に角全部を検査していては大混乱必定。駅を出る。目の前に文化広場があるはず、だったが、何と全て覆いが掛けられており、前が見えない。これもオリンピック用の改装だろうか??

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実はこの広場の辺りにはかつて九層と七層の2つの塔があった。金代に元刑場だったこの場所から夜な夜なうめき声が聞こえる、との話から鎮魂のために寺を創建。元の大都築城の際はこの塔を避けて城が築かれたと言われている。

 

残念ながら解放後長安街拡張のため、2つの塔は取り壊されて、今はその面影を偲ぶものも無い。西単は元々庶民で賑わう街。特に近年は若者が多く集まり、東京で言えば原宿のような雰囲気を持つ。原宿には明治神宮があり、西単には双塔があった。何かの偶然だろうか??

 2.都城隍廟

西単を北へ向かおうとしたが、暑さボケか西に歩き出す。民族文化宮の前には『西蔵今昔』と書かれた看板が出ており、大チベット展が開かれている。4月末からとあるから、どうみても政府が自らの政策を正当化するためのものであろう。あまり見る気が起こらない。

 

民族飯店、工商銀行本店の前を過ぎ、復興門内大街から太平橋大街を北へ。直ぐに左に曲がると成方街がある。ここは人民銀行本店の裏手になり、北側は比較的古いアパートが並んでいる。都城隍廟はこの辺りにあったであろうことが想像される。城隍神とは城の堀や壁の神である。唐の時代あたりから全国の城で城隍神が祭られた。但し祭っている神は場所によりマチマチ。城内で悪いことをした人間はあの世でもこの神に裁かれると恐れられていた。

 

木々がせり出した道を歩くが城隍廟に関連しているものは全く見当たらない。その内に最近新しく形成された金融街に出る。ここは政府主導で中国系金融機関が集められている。7-8年前突然にビルが建ち始めた。そしてあっと言う間にビルが群生した。

 

その中に都城隍廟後殿を発見。しかしどう見ても最近再建されたもの。しかも建物が一つあるのみで中にも入れない。北京市の文物保護単位を表示するプレートだけが古びており、1984年に指定されたことを示していた。

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ここは1260-70年代に創建、その後数度の再建が行われたが、民国時代の邪教禁止政策で荒れ果てたようだ。元々は山門、鼓楼などがあったようだが、だいぶ前に後殿だけになっていたようだ。荒れ果てた廟を再建したのは、金融街の発展を願う政府の思惑なのだろうか??ビル群の合間には所々庭園があったりする。

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その後金融街を北上し、太平橋大街へ再度出た。立派なしっかりした建物が目に入る。古びているがどっしりしており、風格がある。見ると全国政治協商会議礼堂とある。1949年の建国後建てられたものであろう。久しぶりに社会主義的な建物と出会った。

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3.白塔寺

太平橋大街と阜成門内大街の交差点付近に白塔寺はあった。最近は建物が立ち並び交差点からでは白塔を見ることは出来ない。交差点西側に白塔寺の門がある。妙応寺と書かれている朱塗りの門。

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寺の内部には両側に四天王を従えて弥勒菩薩が安置されている天王殿。多数の精銅の小さな仏像もケースに入って飾られている。これはミャンマーなどで見る奉納された仏像だろうか??釈迦無二、阿弥陀、薬師の三像が収められた大覚宝殿や七仏宝殿などがある。

 

そしてその奥に白塔。1096年に建立された仏舎利塔。その後破壊されていたが、1271年に元のフビライがチベット式に改装させた。1279年再建。中国最古のラマ塔。この塔の作成にはネパールの有名な職工アグニが招かれている。現在白塔の前にアグニの像が立っていることからもその功績の大きさが分かる。尚像から見るとアグニはかなりスマートな好青年と言った印象。

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塔は約30メートルの高さがあるが、現在は改修中で登って見ることが出来ない。釈迦の仏舎利塔は世界に84000あるが、その中の重要なものは8基あり、白塔はその一つ。尚フビライの頃この塔は赤かったと言う。その後明の永楽帝の時代に白くなったそうだ。清代には北京一有名な廟会が開かれていたとか。また1976年の唐山大地震では塔の一部が傾き、修理中に乾隆帝直筆の箱書きが出てきたらしい。

 

白塔寺から東に少し行くと交差点の向こう側にクラシックな建物が出て来た。見ると北京大学人民医院。どんな歴史があるのだろうか??

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その少し向こうに歴代皇帝廟がある。1530年に建造され、明、清両代の皇帝が皇五帝をはじめ歴代皇帝、諸葛孔明などの名臣を祭っている。「三皇五帝」とは、神話時代の中国を治めたとされている伝説上の八人の帝王たちの総称(文献によって人物は異なる)で三皇五帝をまとめて祭っているのは中国内でここだけ。広大な敷地ではあるが歴史的な価値はあまり感じられない。1949年以降は学校として使用されていたためか。

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 4.広済寺

また東に歩くと古めかしい門が。中国仏教教会と書かれている。何だろうかと中を覗く。入場料も無いようなので中へ。丁度よい状態の木々が立ち込め、その奥に天王殿がある。更に行くと非常に静けさが漂う日本的な寺の姿があった。

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線香が立ち込め、皆木陰でお経を唱えたり、仏典を読んだりしている。これぞ寺、と言う感じである。横の伽藍には簾の掛かった庫裏が続く。ここに修行僧が宿泊しているのだろう。広済寺は金代の都中都の北の郊外に創建。元代に再建。明代の1457年に改修され、広済寺と名付けられる。清代には皇帝が立ち寄る場所として重視され、重要寺院に指定される。1934年の大火で所蔵の経典などを焼失。1935年には再建され、現在に至る。

 

鐘楼、鼓楼、天王殿、大雄殿、円通殿、蔵経楼などがコンパクトな境内に並ぶ。極めて伝統的な寺院。この静けさは今の北京には重要。境内には日中韓の仏教友誼樹も植えられており、この地が北京、いや中国の仏教の中心であることがわかる。

 5.西什庫教堂

更に東に進んでいくと北海公園が近づく。その手前に西什庫教堂(北堂)がある。1703年康熙帝の寄付で西安門に創建。康熙帝がマラリアに罹り、フランス人神父フォンタネーがキニーネを献上し、治癒したことから建設が認められた。

 

但し場所が紫禁城に近いこともあり、1887年に西太后により現在の場所に移転された。1900年の義和団事件では、外国人がここ北堂に逃げ込み、義和団が包囲。今でもその銃弾の跡が残っているとか。

 

結局義和団は八カ国連合軍に撃退され、逆に連合軍が略奪の限りを尽くす。当時北堂の神父ファビエが大官僚立山の屋敷から大金を奪ったことは有名である。尚浅田次郎の『蒼穹の昴』の中に北堂とファビエ神父が登場する。小説ではファビエはベネチアンガラス細工を造り、孤児院で孤児を育てている。真実はよくわからないが、或いは単なる略奪ではなかったのかもしれない。

 

門を潜るとそこには『勅建』の文字が。これは西太后が公金を与え、建設されて事を指す。当時フランスは革命があり、中国の教会に援助することなど無くなっていた。中国で援助するものも無かったであろう。何故西太后が??

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現在の建物は1985年に改修されたもの。ゴシック建築の立派な建物。日曜日の昼時、礼拝堂に人影は無く、中に入る。静けさに包まれていた。疲れた体を休めた。目を瞑ると昔が見えるような気がした。

 6.礼親王府

ちょっと南に下ると礼親王府がある。門は硬く閉ざされ、中を窺うことは出来ない。礼親王は清朝の開祖ヌルハチの第二子代善に始まる名家。ヌルハチの長男が早くに亡くなったこともあり、実質代善が長男としてヌルハチを補佐。この代善、礼親王府の建設時には、ヌルハチの命令で各省の総督が皆資金を出したほど、一時は時期皇帝の最有力であったが、ヌルハチ最愛の女性アバガ(ゴルドンの母)と過ちを犯し、その地位を失ったという。

 

当時の満族の習慣では、皇帝が亡くなった場合、その妻は時期皇帝の妻になるので、二人は早まってしまったということか?因みにアバガは終生ヌルハチの愛を受け、ヌルハチの死に際しては、夫に従い殉死した。その後嘉慶年間に屋敷は焼失。嘉慶皇帝より資金を賜り、再建。1943年には一時満鉄の所有になったこともある。現在は国家機関と民家となっており、内部を窺うことは出来ない。

 7.万松老人塔

西四南大街に戻る。北京基督教会がある。ハングルが書かれており、チマチョゴリを着た女性が中に入って行く。ここは1922年洗礼を受けたばかりの青年、後の老舎が住んだと言う教会ではなかろうか?老舎は半年あまりこの教会の日曜学校の主任を勤め、日々磚塔胡同を散歩していた。その様子は著作『離婚』に描かれている。

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その北側に万松老人塔があるはずであった。ところが見ていくと建設現場があるのみ。よく見るとその道沿いに門だけがカバーを掛けられて頭を覗かせている。その頭にははっきりと『万松老人塔』と書かれている。

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これは塔ではないから、入り口の門と言うことか。とすれば後ろの建設現場の中に塔は埋もれてしまったのか。レンガ造りの九層の塔とあるのだが。建設者はこの門を残すことを条件に許可を得たのだろうか??

 

万松老人は金末元初の僧。仏教大師の称号を得る大物だが、北京郊外で修行を積んでいた。彼の弟子には有名な元の宰相耶律楚材もいた。僧の死後、弟子たちは郊外に塔を建てたが、明の永楽帝の遷都でこの場所が中心に近い繁華街になってしまう。これは老人にとって不幸だった。その後200年余り行方が知れなかったが、明末に僧が発見、清の乾隆帝時代の僧も、既に朽ち果てつつあったレンガが載った塔を危ぶんだ。

 

最近でもこの塔は粗末に扱われているようであったが、ついに取り壊されてしまったらしい。残念でならない。

 

《北京歴史散歩2008》(10)宣武門付近

【宣武門】2008年5月17日

朝の鍼灸を終わって外を見ると雨が降りそう。しかも肌寒い気温。うーん、偶には散歩しようと決めていたのだが。今週の四川大地震は未だに救助活動が続いている。雨が降っているようだ。私も雨の中散歩を決行することにした。

1. 楊継盛故居
地下鉄2号線、宣武門駅下車。地上に上がると斜め向かいにそごうデパートが見えた。9年前北京に赴任した際、そごうがあるというので一度来たことがある。当時の家からは相当遠かった。結果的にはそれ程の成果が無く(欲しいものがなかった)、空しく帰った記憶がある。

当時既にそごうは傾いていたはず。香港のそごうも名称だけになっていた。しかし今回仰ぎ見るとビルが2つになっており、大きくなっている。一つはそごう百貨、もう一つは庄勝広場とある。どうしてこうなったのか??

 

そのそごうの道(宣武門外大街)の反対側をふっと横に入る。達智橋胡同である。近くに近代的なビルがあるのとは対照的に昔ながらの横丁。小さな店が軒を並べていた。この中に楊継盛故居があるはずだが・・??

すっと通り過ぎてしまった古びた建物、前では野菜を売っているなんでもない建物、そこにプレートが嵌っていた。『楊椒山祠』、楊継盛は椒山と号していた。明代の英雄、楊継盛は科挙の進士に合格し、将来は宰相の器であったが、皇帝のお気に入り、厳嵩の恨みを買い獄に繋がれる。硬骨の士は三年間の苛烈な拷問の果て、祠近くの菜市口で処刑された。

それから230年、清代の1786年、御史によってこの祠は建てられた。現在は中にも人がいて、商売に使われている。この祠が歴史に登場するのが1895年、康有為ら挙人1000名以上が集まって光緒帝に奏上した『公車上書』事件の舞台となる。また裏には1848年建造と言われている諫草亭がある。但し今は入ることが出来ない。諫草亭はその名の通り、楊継盛が厳嵩に関する諫言、『十罪五賊(十の罪と五つの裏切り)』を書いた場所。

芥川龍之介は1921年にここを訪れている。『北京日記抄』の中で「故宅といえば風流だが、今は郵便局の横丁にある上、入り口に小便壺があった。椒山の碑をランプの台に使っているのも滑稽。後生まことに恐るべし。」と書いている。当時既に全く保護されず放置された様子が分かる。僅か30年前に清朝崩壊の先駆けとなったこの場所を何でこんな風にしたのだろう。

2.聶耳故居

東西に走る達智橋胡同に対して南北にクロスするのが校場頭条胡同。この通りは既に新しく改装されており、ちょっと雰囲気が違う。その無機質に近い胡同の中に旧雲南会館がある。特に表示も無く、通り過ぎてしまう。

中を覗くと昔ながらのレンガ造りの家々がある。この中にあの中華人民共和国国歌を作曲した聶耳が住んでいたのかと思うと感慨深いものがある。最も本人は自分が作った曲がよもや共産国家の国歌になるとは思っていなかっただろう(国歌『義勇軍行進曲』は映画『風雲児女』の主題歌であり、抗日の歌でもある)。

何しろ聶耳は1935年24歳の若さで鵠沼海岸で水死しているのである。私は子供の頃鵠沼海岸で育った。確かにこの中国の作曲家の名前を耳にしたことがある。慰霊碑もあるし、毎年7月には慰霊祭が今も開かれている。1912年雲南省昆明で生まれた彼が何故日本で死んだのか??それは友人の援助でソ連に音楽留学する途中に立ち寄ったと言う偶然の産物であったらしい。人の一生とは分からないものである。

雲南生まれの彼が北京の音楽学院を目指して上京した際、郷土の会館に身を寄せたのは当然であろう。但し環境は良くなかったようで、薄暗いかび臭い部屋で練習に励んでいたと言う。(彼は4歳で父を失い困窮の中、音楽を続けていた)現在の旧雲南会館は単なる胡同の1つ。数十世帯が普通に暮らしている。更に歩いて行くと大きな古木が胡同からはみ出すように歴史を刻んでいた。

3.共産党地下印刷所跡

校場頭条胡同の南の突き当りを右に折れると校場口胡同。その中心辺りに洋館風の2階建ての建物があった。現在は鍵屋のようだが、恐らく昔は由緒正しい、何かであったろう。

この付近から定居胡同辺りは極めて昔の風情を残していて心地よい。特に木々が生い茂り、少し曲がりくねっている所に誘惑される。地図を見ずに歩いてしまい道に迷うが楽しい。しかも次に向かう目的地は共産党地下印刷所跡。勿論現存しているはずは無い。80年前を髣髴とさせる路地だけが歴史を語る。

1921年創立の中国共産党は当初非合法地下活動が中心。機関紙を発行し、その主張を人づてに伝えていく。1925年に僅か半年ではあるが、機関紙『響導』を印刷した場所が広安西里という如何にも目立たない小さな胡同の中にあったという。

1925年と言えば第一次国共合作が成立していたものの、3月には孫文が亡くなるなど、極めて不安定な時期。この印刷所が果たした歴史的な役割は意外と大きかったのかもしれないが、今では誰も知る人はいない。

本日訪れてみるとその目印と言われる、槐樹の大木は胡同の中ほどに見えたが、そこには既に建物は無く、取り壊されて建替え中であった。周囲は昔ながらの人々が住み、雨が降りそうな薄暗い中、そこ彼処に立って、まるで共産党を守るように、よそ者を監視していた。

 

 

4.康有為故居
雨が降ってきた。傘を差して菜市口大街を東へ渡る。昔はその名の通り菜を売る市場があったのだろうが、今では通り沿いには近代的なビルが建っている。東南の角には大型開発が行われており、近い内に巨大ビルが出現する。

目指す米市胡同に入り込もうと道を探すが大通り沿いからは一切入れなくなっている。全てが開発対象なのである。僅かに残る昔風の建物には『取り壊し』の文字がペンキで空しく書かれている。

やむ終えず交差点に戻り驢馬市大街を東に歩き、米市胡同の入り口を探す。この胡同は幅が比較的広い。背の高い煙突が見える。しかし両側の店は殆どが閉まっている。康有為故居(旧南海会館)は一段下がった右側にさり気無くあった。しかしこの周りの建物も全て取り壊しマークが付いている。ここだけは保存するつもりかマークは無いが??

南海会館は1823年在京の南海官僚が資金を出し合い、朝廷高官の旧宅を購入。190室、13の庭を持つ地方会館の中で最大の規模を誇る。

広東省南海出身の康有為が初めて北京にやって来たのは1882年、科挙の試験を受けるためであった。その時から1888年、1895年と上京し、郷土の会館であるここ南海会館に住んだ。『康南海先生』と称される所以である。

康有為は若くして科挙の地方試験に失敗、香港で植民地の実態を体験、自国の遅れに気が付いた。北京でも清国の弱体化を知り、変法運動へと進む。1895年には先程の楊継盛故居で光緒帝に奏上した『公車(挙人)上書』事件を起こし、注目を浴びる。時は日清戦争の後、下関条約で屈辱的な講和を迫られた自国に対して、講和を拒否する内容。

1898年の変法運動は皇帝の権力を高める立憲君主制を主張したが、西大后によるクーデターより僅か100日で潰え、康有為は日本へ亡命する。その後はアメリカ、カナダ、インドを経て、辛亥革命で帰国するも、清朝復古運動に参加した程度、最後は青島で死去。

菜市口大街を挟んで反対側には譚嗣同故居がある。譚嗣同も変法運動に同調し、逮捕され、処刑された人物。尚南海会館も取り囲まれ、康有為の弟康広仁も逮捕され、譚と同じ道を辿っている。康有為、譚嗣同の活躍は浅田次郎『蒼穹の昴』に詳しい。

譚嗣同は康有為の弟子、極めて繊細な人物として描かれている。湖南省瀏陽の出身でこの故居は瀏陽会館であった。幼い頃に家族を亡くし身寄りがなく、一人生き残った彼は『復生』と称される。

変法失敗後、逃げることも出来た譚嗣同は自ら捕まり、『改革の礎になる』として処刑される。清廉潔白、高潔な人物である。

 

5.法源寺

譚嗣同故居より西に向かう。この辺りの開発は激しくビルの建設現場を通り抜ける。そして西磚胡同という昔風の胡同を南へ。しかしこの胡同、外壁は綺麗になっており、しかも道の真ん中を工事中。胡同の保存が進んでいるのはわかるが、道の真ん中に掘削車が放置されている光景は何とも醜い。

そして法源寺へ。唐代に創建されたこの寺の正門は決して広くは無い。脇の門を潜り中に入ると荘厳な雰囲気が漂う。小雨にも拘わらずお参りに来る人々がいる。線香がたちこめる。

左右に鼓楼、鐘楼が配される典型的な寺院。獅子像が並ぶ天王殿、中には綺麗な3つの観音があり、その奥の大雄宝殿には布袋様が安置されている。ここには先日の四川大震災の冥福を祈る大法会の横断幕が掲げられている。私もこのお寺に導かれて来た者として、深く手を合わせる。

法源寺は唐の太宗が高麗遠征した際の戦死者を弔うために創建されたといわれ、その時の名前は憫忠寺(境内には憫忠閣という建物もある)。唐代、安史の乱を起こして都を占拠した安禄山と史思明は節度使として北京に駐在。この寺に塔を建てたと言う。

また北宋の徽宗は金との戦いで捕虜となり、この寺に幽閉された。金代には女真族の科挙の試験も行われたようだ。1734年の大改修後に現在の名前となる。

更に奥には観音堂、そして一番奥に法堂がある。法堂には涅槃仏が横たわり、周りには古い仏像が多く安置されている。大銀杏の木が生い茂り、鬱蒼とした印象。何だか鎌倉の寺を思い出す。ここは禅宗なのである。

実はこの寺を訪れた3日後、一つの仏縁がありました。以下私のメルマガです。

縁は確実に繋がっている、そう確信する出来事がありました。昨年末あるホテルからカレンダーが届きましたが、そのホテルは北京には無く不思議に思っていると、このカレンダーをくれたのは、事務所の斜め向かいの会社にいたLさん。彼はこの会社を辞め、新しく北京に出来るそのホテルに転職。しかしトイレで偶に会い、笑みを交わすだけだった彼がなぜ??セールス??そこに本人から電話が。『実は私7年前は○○ホテルに勤めておりまして・・・』、あー、思い出した!!そうだ、彼、Lさんは7年前私が北京で開いた大学の同窓会のクリスマスパーティーをホテル側で仕切った人。道理で見たことがある。

彼の方も『トイレで会った時は思い出せなかったが、ホテル業界に復帰したら思い出した。』と。彼と出会った7年前、なぜ高級ホテルでパーティーを開いたのか??それは21年前に上海に留学した際、同時期に留学していた女性がセールスをしていたから。えー、あのOさんはどうしたんだ??彼女は当時パーティーのアレンジはしてくれましたが、その後産休となり、後を託されたのがLさん。この7年Oさんとも連絡していませんでした。

Lさんから早速アドレスを聞きバンコックのいると言うOさんにメールすると『1月にバンコックに来るなら会いましょう。但しその日北京に引っ越しますが。』と。驚いたことにOさんは何と私がバンコックにいる日に北京へ引越しするところ。何という偶然、しかもそんな忙しい時にも『午前中会いましょう、飛行機は午後ですから。』と言い、チャイナタウンを案内してもらいました(http://hkchazhuang.ciao.jp/chatotabi/thai/bangkok01.htm)。そして今では毎回北京のお茶会に7年前出産した息子と来てくれています。

そして先週末、地震災害への祈りを捧げるために、唐代からある由緒正しい法源寺に初めてお参りに行きました。その3日後、約1年ぶりにLさんと再会。法源寺の話をすると、何と何と彼は15歳からこのお寺で修行していたのです。しかも取り出したお寺の手帳を開くとそこにははっきりと『仏縁』と書かれていました。私がミャンマーに惹かれるわけが少しずつ解明されてきています。

 

法源寺を出ると横に中国仏教学院がある。ここでは20名の学生が仏教を学んでいる。どうりで法源寺の境内で若いお坊さんを見かけたわけだ。更に学院の横には何故か雑技団のオフィスもある。修行と関係あるのだろうか??

 

 

6.礼拝寺

輸入胡同という不思議な名前の道を通り(牛肉解体業者が軒を連ねている)、牛街に出る。この辺りにはイスラム式の食材を扱う『清真』のスーパーやレストランが並ぶ。大通りに『回民小学』と言う建物がある。牛街一体はイスラム色が強い。因みに牛街の名の由来はイスラム教徒が豚を食さないことから来たものではなく、この一帯に昔柳の茂る湖(柳湖)があったことから、柳(Liu)が訛って牛(Niu)となったと言う説があるようだ。

礼拝寺は996年にアラブの学者ナソルディンによって創建された北京最古のイスラム寺院。明の時代に礼拝寺と名付けられた。寺院の殆どは1442年に建造されたもの。寺院の裏には元代にこの地で亡くなった二人の伝道師、モハメド師とアリ師の墓がある。

元代には『色目人』と呼ばれたアラブ、ペルシャ商人が多く滞在していた。彼らと漢族、蒙古族が混血して回族が生まれたそうだ。回族は現在全国に700万人以上の人口を持つ。清真料理は豚肉の入らないあっさりした料理。22年前の上海留学中、外国人未開放地区などを通ると、食事は必ず清真であったことを思い出す。清潔であっさりがよかったのだろう。

入り口は小さい。中に入るとおじさんが『チケット?10元』と英語で声を掛けてきた。そして『日本人か、よーし』と何故か日本語が。カメラOKなど親切に教えてくれる。外国人慣れしている。恐らく一般の中国人は来ないのだろう。

本殿に向かう小道が素晴らしく綺麗。特に小雨が降る様子がよい。鮮やかな花壇。そこを抜けると伽藍があり、1273年創建の喚礼楼がそびえる。2階に上り四方に向かってコーランを叫ぶ場所だとか。

その前には礼拝殿がある。1000人を収容できると言われているが、残念ながら信者以外は入れないとのこと。一日5回のお祈りのときは大勢の人が集まるのだろうか??今はひっそりしている。因みにイスラムは男女の区別に厳しい。寺の後方には女礼拝堂が別途ある。

寺の入り口には物乞いの女性が二人。さも当然のように手を出してくる。イスラムは女性に厳しい社会なのであろうか??

 

 

 

《北京歴史散歩2008》(9)龍譚湖公園付近

【龍譚湖公園付近】2008年3月16日

いよいよ春到来。今日も朝から天気がよい。オリンピックのマラソンで世界記録保持者が大気汚染を理由に北京マラソン出場辞退、この衝撃か今日の北京は空も青い。散歩日和だ。

 

しかし北京歴史散歩の本も有名どころは大体歩いてしまった。さて、どうする??悩んでも仕方がない。歩いてもその後文章にする時間も無く、調べる時間もない状態。取り敢えず買い物ついでに1ヶ所行けばいいや。買い物はイトーヨーカ堂へ。一番近い東三環路の徑松橋辺りの地図を見ると西の方に龍譚湖公園の文字が。ここだ、さあ、行こう。

 

  1. 体育館路

タクシーで行けば直ぐだが、そこは散歩。基本は地下鉄。崇文門まで2号線、そこから5号線に乗り換え、天壇公園東門駅下車。西を見えれば天壇公園が見えたが、無視して??東へ。この道の名は体育館路。体育館でもあるのだろうか??歩いて行くとやたらとスポーツ用品店がある。人気のバドミントや卓球用具を売る店が多く見える。スポーツウエアーも多彩。多くの人が買いに来ている。本当に中国も余裕が出てきている。

 

そして体育館があった。入れてもらえるのかどうは不明であるが、外から見ると西洋風の建物。中はどうなっているのだろうか??その東側にも洋風クラシックな建物が並んでいる。よく見るとここは国家体育総局という役所。更には中国オリンピック委員会などという名前も見える。

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そうか、ここが中国スポーツの総本山か。今年は忙しいんだろうな。しかしこの由緒正しそうな建物は一体なんだったのか??1952-1955年の間にこの路は建設された。その際に体育館と北側に国家体育運動委員会が建てられる。その後総局は後に移転されたのだろう。

 

その先を南へ下るとそこは昔の北京。胡同が立ち並ぶ。しかもしっかりしたレンガ造り。かなりの歴史を感じさせる。名前も『幸福南里』という。幸せそうな雰囲気がある。天気がよいので老人を中心に皆外で日向ぼっこ。胡散臭そうに私を眺める。そうそうに退散。

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龍譚路に出た所には沢山の腕章を巻いた警備の人が??捕まるかと思うほど。その後も多くの警備の人々を見た。これは全人代のための警備か??昨日で終わったはずだが。それともチベット暴動への対応??遠すぎるような気もするが。

 

そこから直ぐの交差点、西側には北京遊楽園という遊園地がある。ここは昔からあるが一度も行ったことはない。日本企業が関係していると思うが、果たしてどんなところなのだろうか??天気のよい日曜日、バスが何台も入っていた。

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 2.龍譚湖公園

東側に龍譚湖公園の入り口がある。なかなか立派な門である。入場料2元。多くの人々が入っていく。龍譚湖公園は戦前墓地が点在していたという。二環路の外は城外という時代、この辺りは荒涼とした荒地であったのであろう。

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1952年市政府はこの地を開墾し、人工湖を作った。龍譚湖である。今では市民の憩いの場であり、毎年旧正月にここで盛大な廟会が開かれているという。墓地の跡、ということもあるのであろうか??

 

今日は天気もよく、人出が多い。社交ダンスをする男女、子供の遊び場では歓声が聞こえる。しかしなぜここで歴史散歩??実はこの公園の中に『袁崇煥廟』がある。袁崇煥は明末の英雄。満族ヌルハチの北京侵攻を防いでいる。この戦闘で負傷したヌルハチは後日亡くなっている。

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硬骨漢であっただろう。宦官に陥れられ、職を奪われたが、その後復職。ホンタイジ(ヌルハチの子)の北京侵攻の際も守り抜いたが、計略に遭い、猜疑心の強い明朝最後の皇帝崇禎帝により処刑された人物。その後この皇帝も李自成の乱で北京を占拠され、宦官一人を連れて故宮の裏山景山で首を吊った。その際さぞや袁崇煥を処刑したことを悔いたのではあるまいか??

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今日訪ねた公園内の廟はひっそりと、そしてこじんまりと建てられていた。殆どの人は気が付かず通り過ぎていく。廟内には袁崇煥の遺筆が飾られている。また康有為の書も数点飾られていた。康有為は恐らくはこの袁崇煥を手本の一人として、皇帝を立てながら国を守った人物を尊敬していたに違いない。

 

因みに民国初袁世凱が大統領になろうとした時、彼の出自を華麗にするため、同じ姓の袁崇煥の末裔であると名乗ろうとしたらしい。一部学者に袁崇煥を称えさせたことにより、この名前は復活した。奇妙な巡り合わせである。しかし最後は袁世凱も野望を果たせず死ぬ。

 

これだけ大きな仕事していた袁崇煥に対して、この廟は如何にも小さい。現代の中国人は彼についてどのような印象を持っているのだろうか??評価が大きいとはとても思えない。