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西の果てカシュガルへ行く2012(4)カシュガル 少数民族の悲哀

2月13日(月)

(3)   3日目   カシュガルの小学校

月曜日の朝、ホテルの部屋から外を眺めると、隣の学校で雪の中、朝礼のような物が行われていた。ウイグル族の子が多く見えたが、先生の声は普通話。しかも朝から大声で何か怒鳴っているように聞こえる。

新疆では漢族の学校と少数民族の学校は分かれていると聞く。だが、例えばウイグル族が将来良い職に就くためには、漢族の学校で普通話に慣れて、大学入試試験をパスして、良い大学に行く必要がある。そのため、小学校から成績の良い子、親が将来を考える子は漢族学校へ行く。

最近ではウイグル族の子でもウイグル語が上手く話せない、お爺さんなどとコミュニケーションが取れなくなる子が出て来ているという。経済至上主義で考えればやむを得ないことかもしれないが、少なくとも新疆に住んでいるのに、自らの民族の言葉が不自由というのは、如何なものだろうか。前回の訪問でも聞いたいが、ウイグル族の学校で高校まで過ごした人が、内地の大学に行くには、1-2年の普通話教育を別途受ける必要があるほど、不便ではある。しかし何が幸せであるかは、人により違うのではないだろうか。

カシュガルの高校生

お昼はまた立派なウイグルレストランでたらふく、羊肉とポーラ(ウイグルチャーハン)、ラグメンを頂いた。相変わらず幸せな日々が続いている。人によっては飽きてしまうかもしれないが、私はいくら食べても飽きることが無い。かなり適合している、いや本当に美味い物は飽きないのでは。

この席にはJ教授の同窓生が参加していた。某局課長クラスなど、カシュガルではエリート層だろう。皆慎み深く、我々に配慮して、色々と世話を焼いてくれる。勿論内地では漢族も同じように面倒を見てくれることがあるが、新疆で見られるウイグル族の配慮には更に深い絆のような物が見え隠れする。

その席に何故かウイグルの女子高校生が一人座っていた某課長の娘さんだという。確かに昨日も一部我々に同行していた。彼女は仕切りに隣のA教授と英語で会話している。まるで英語のレッスンのようだな、と思っていると、課長が「娘は最近英語を習い始め、外国人と会う機会が殆どないので、今回同席させた」という。まさにレッスンだった。

彼女は高校卒業後、出来れば海外留学したいという。高校1年生で既にはっきりした意志を感じる。英語を習っているので行先はアメリカかイギリス、はたまた香港かなどと思っていると「行きたい所はフランス」とあっけらかんと答える。その表情が少し子供っぽく、ホッとする。日本の印象を聞いてみると「あまりよくは知らないが、印象は良い」と答えたが、日本への留学はどうかと聞くと、一言のもと、「全く考えられない」とバッサリ。日本の大学の先生達もこの一言にはちょっとショックだったのか、「これが今に日本の大学の現状ですね」としんみり。

故郷である新疆に止まることは、彼ら若者には少し苦痛なのかもしれない。それは今の置かれている現状を見れば、仕方がないことだろう。日本の若者は相当疲弊しているが、まだ余力のある日本と言う国に甘んじているが、もう10年もすれば全く別の行動が出て来るだろうか。

香妃の墓

午後も観光に出た。カシュガル郊外、イスラムスタイルの建築物を目の前にする。なかなか格好が良い建物だ。冬は観光客がいないのか、係員も探さないと出て来ない。アパク・ホージャ一族の墓、15世紀以降、この地を支配した一族の墓と聞き、ちょっと意外な感がある。

1640年、この地の王であったホージャーが創建。建物の外壁は継ぎはぎのように様々な色のレンガで組み立てられており、面白い。1族5代、70人以上が眠ると聞く。建物の入り口には精緻は模様が描かれており、栄華が忍ばれる。

このお墓が注目されるのは、何と言っても清朝の乾隆帝に見初められ、北京に連れて行かれた香妃の墓があるからであろう。香妃は伝説で満ちている。彼女は香水もつけないのに体から花の香が漂っていたので、「香妃」と呼ばれたとか。1760年、乾隆帝の妃に召されるも、皇帝の愛を拒んで自殺したとか、故郷を想うあまり病死したとか、また皇太后に殺されたとも伝えられている。遺体がカシュガルに送られ、この墓に葬られた。また全く別の話としては、香妃は皇帝の愛を受け入れ長く共に暮らし東陵に葬られ、後にカシュガルに移されたとも。真相は不明。

いずれにしても少数民族の悲哀が出ている墓である。現在でも香妃のような女性はいるのだろうか。想像していくとどんどん膨らんでしまうのは、昔の人と同じだろうか。

ハウス栽培農家

カシュガル郊外の村を訪ねた。この付近の村は先進的な取り組みをしているということで出掛けたのが、既にはが一本もない街路樹、冬の冷え冷えとした街道を走った先には思わぬものが待っていた。

雪が残る農地、その一角に不思議な建物があった。低いドーム型、土で固めた外壁、天井はビニールが何重にも巻いているように見える。この付近は風が強いのか、麻袋に土を詰め、重しとして天井から吊るしている。一体これはないんだろうか。村長さんが案内してくれ、中へ入る。何とそこには鮮やかな緑の野菜畑が出現。

この村では2005年から、政府方針である緑化政策に合わせて、野菜の室内栽培を始めた。それまでは冬は農閑期で仕事が無かったが、村長が決断し、政府の補助も受け、自らハウスを建設し、栽培を開始。その成功により、今は数十軒の農家が個々にハウス栽培をしているという。

ハウス内は零下10度の外からすると別世界。少し暑いぐらいの温度に保たれ、野菜が順調に育っている。作物は主に新疆内で消費されるようだが、各都市の消費が上がるにつれ、このような近郊作物栽培も増加していくだろう。





西の果てカシュガルへ行く2012(3)カシュガル 実に楽しい街散歩

最も印象的な市場 シュウフ県

帰りに偶然見付けたカシュガル郊外の市場に寄る。ここは観光客が来るような場所ではなく、全くのローカル市場。それだけに人々の生活が見事に迫ってきた。日差しがあるとはいえ、寒い日、人々はアツアツの羊スープをすする。その美味しそうなこと。どうしても飲んでみたかったが、その後の予定から断念。

焼いた羊肉をグルグル巻きに積み上げた奇妙な食べ物にも出くわした。あれは一体なんだろうか。聞いてもよく分からなかったが、売っている家族の表情が実に明るい。いや、この市場に来ている人々全体が妙に明るい。日曜日に市場に来るのが楽しい、売る方も楽しい、といった雰囲気が流れている。

パンやお菓子や、日用雑貨まで、何でも売っている。ロバに大量の藁を積んで売っているのを見ると、何となく物悲しい気分にもなる。空き地では大勢の人が集まり、何かを取り囲む。見てみると、闘鶏が行われていた。ルールはよく分からないが、白熱している所もあり、賭けが行われているのかもしれない。

羊の売買も盛んに行われていた。羊を引っ張って来て、買い手を探す者。農業車に乗せて見せている者、真剣に羊を点検し、指値する者、流石羊が主食の地域だけあり、その賑わいと緊張感は、冬の大地に響く。

帰り掛けに市場に入り口でヨーグルトを売る女性たちを見掛ける。如何にも美味しいよ、という笑顔で我々に語りかけるが、言葉は通じていない。でも、何となく通じているような気分になり、心が和む。少数民族のローカル市場は何ともいいもんだ。

都市のバザール

お昼はまたいい雰囲気の店でローカルフード。羊肉入り包子。蒸籠の中の包子の上にナンを載せて、その汁を少し吸い取る。その後そのナンはシシカバブーの皿になり、我々の目の前に登場する。このナンの味が忘れられない。ナンには塩気があり、羊肉汁との融合が素晴らしい。しめに小椀のラグメンを食べれば、もう完璧。

午後はカシュガルの街中にあるバザールを見学する。こちらは物凄い人出で、迷子にならないか心配になるほど。先程の穏やかなローカル市場と異なり、人ごみで緊張してしまう。

ここでのお目当ては帽子。カシュガルの男性は皆帽子を被っており、帽子には相当の拘りがあるように見える。私とA教授は冬用の帽子を持っていなかったので、勇んで買いに走る。しかしあまりにも多くて、選ぶことが出来ない。結局私は適当な物を選んでしまったが、A教授は実にハイカラな帽子を購入。早速被って歩き出すと、周囲の人が皆振り返って彼を見る。彼が帽子を指さすと「いいね」という合図で指を立てて来る。これが一人や二人ではないので、驚く。確かによく似合っているのだが、それにしても何かある。

楽器や絨毯を売る店が多い。こちらは観光客もたくさん来るので、日用品と言うよりお土産物が多い。売り子も何となく座っている感じで、先程のローカル市場の楽しそうな明るさは全くない。こちらは仕事場なのである。

カシュガル老城

昨日は気になる一角があった。道沿いに高台があり、古ぼけた建物がいくつも見られる場所。そこはカシュガル老城と呼ばれ、1,000年の歴史を有する古来の街であった。古代カシュガルは疏勒(そろく)国と呼ばれていたが、10世紀に興ったカラハン朝の都がこの場所にあったという。

その王室の末裔たちが住み続け、その間人口も増えて行き、街は迷路のように複雑になっていった。まるで90年代に取り壊されるまで香港に君臨した治外法権後、九龍城を想起させる。現在も2000戸、1万人が暮らしていると説明板にはあるが、日中中に入り込むと人影はまばら。

その迷路を進むと古びたレンガの住居が並ぶ。継ぎはぎだらけの家、通路を挟んだ2つの家を上に板を通して繋いだ家。何となく郷愁をそそられる。家の入り口には木の門があり、その色やデザインは独特である。

偶に行き交う人も、我々を避けるように通り過ぎていく。観光客慣れしているのか、それとも何か訴えたいことがあるのか、その目は何となく沈んでいる。すっぽりベールをかぶった女性が薄暗い通路から出て来ると、アラブの国を歩いている錯覚にもとらわれる。

横を見ると一部取り壊しが始まっている形跡もあり、ここにも政府の意向が垣間見える。確かに耐震性の問題などもあり、建て替えた方が良いのかもしれないが、ここは歴史遺産であるから、本来であればきちんと保護すべきであろう。

街をふらふら散策すれば

その後は市街地を自由散策。ウイグルの街を歩いていると様々な物が目に入り、とても楽しい。ミシンを売っている店がある。今では日本では見ることが出来ない旧式のミシンとミシン台。自分が子供の頃を思い出す。

ケバブの焼き方も豪快で、煙がもうもうと上がって行く。お茶の時間なのか、その脇で老人が格好良い帽子を被り、茶をすする。お茶請けは焼き羊肉まん、肉汁がかなり出ていて、熱々で食べると火傷しそう。ナンを売る老人も格好良い。ナンの種類も豊富で、どれが良いか目移りしてしまう。鍛冶屋の老人が、路上で火をボウボウと燃え盛らせて、何や打っている。この街では老人の姿が多く、しかも元気が良さそうだ。

カシュガルは古来、西域の重要拠点。19世紀にはロシア、イギリスなどがこの地を巡って激しい駆け引きを繰り広げていた。グレート・ゲームと呼ばれている。文献にはロシア領事館、イギリス領事館が非常に立派であり、ここを行き交う旅人達が宿泊したとある。確か大谷探検隊のメンバーも泊まったと記憶する。その領事館は残っていないのか、地元で聞いてみたが、既に取り壊されているという。それでもロシア領事館のあった場所に案内される。今はその敷地を改造し、建物も完全に立て替えて、ホテルになっていた。100年前の外交にひと時、思いを馳せる。

カシュガルではどんなお茶が飲まれているのか、と聞くと、すかさず街中の店に案内される。店先には四角い形の黒茶が並んでいる。これを解して、そのまま飲むか、横にある薬草類を混ぜて薬用茶とするか。新疆では昔から肉を食べた後の消化を助けるほか、ビタミン補給のためにもお茶は欠かせない存在であった。特に薬用茶の効用により、長生きする人が多いとも言われており、単にお茶を飲むのではなく、生活の一部、いや重要な要素として茶を飲む。ただ新疆では茶葉は取れないため、多くは湖南省からの輸入。磚茶と呼ばれるレンガ上の形状は、輸送に便利であったから。尚伏茶の由来は夏の三伏から来ているらしい。

夜はエデンというおしゃれなレストランで食事をする。最近はこのようなおしゃれな高級なレストランが市内に多数オープン、富裕層に人気があるらしい。





西の果てカシュガルへ行く2012(2)カシュガル 奇跡の乗継を経て美味い飯にありつく

(4)   乗継で走る

私は今日中にウルムチからカシュガルに行かなければならない。余裕を持って1時間50分の乗り継ぎ時間を設けたつもりでいたが、その時間は既にシンセン空港の遅れで使い果たしていた。蘭州出発時に遅れは1時間となっていたが、乗り継ぎ時間は50分しかない。通常国内線であれば、50分は十分な時間であるが、ウルムチ空港はターミナルが分かれており、前回の経験から、現在乗っている海南航空は第2、これから乗る南方航空は第3ターミナルとなる。このターミナルは少し離れており、第2を一度出て第3に行くには、少なくとも5-10分は掛かる。

先ずは機内でチーフパーサーに相談した。彼は直ぐに機長に聞いてみると言い、その結果、1時間前に着陸するので大丈夫と回答した。しかしその後、やはり50分前しか着陸できないと分かり、私をエコノミーの一番前に座らせた。その席に居た人間は黙って後ろへ移った。彼は航空会社従業員か、はたまた公安か。

そして着陸後、ビジネスクラスの乗客を飛ばして、私を一番先に降ろす。ところがそこはタラップで、バスが待っていた。地上従業員は一般バスに乗れと指示を出したが、私が日本人と分かると何と日本語で話しだす。時間が無いと告げると、横に来ていたビジネスクラス用のミニバスに私を乗せ、中にいた女性従業員に託した。

バスは直ぐに出発し、直ぐにターミナルへ到着。そして女性と私は走り出す。女性は途中、カウンターで南方航空チェックインの可否を確認、ダメと分かると直ぐにタクシーを拾えと指示する。ターミナルから外へ出ると、タクシーは見付からない。第3ターミナルが遠くに見えたので、取り敢えず走り出す。道は整備されておらず、雪が積もる車道をひた走る。途中から上りになり、相当きつくなるが、がんばる。そしてとうとう第3に到着。時間は4時を過ぎていた。出発階は2階、エスカレーターに乗り、南方航空カウンターへ。

チェックインカウンターには人は殆どいない。しかし係官は悠々と電話している。大声で、便名を叫ぶ。流石に反応した。直ぐにボーディングパスが出て来た。その時、私の便の搭乗アナウンスが流れた。それから荷物検査に進む。ここは混んでいたので、ファーストクラス用を通してもらう。靴を脱ぎながら、カシュガルのN教授に電話。その後、搭乗口まで走り、何とか間に合った。離陸予定時間の15分前であった。ドーッと疲れが出た。奇跡的に乗れた。

3.カシュガル  (1)   一日目夜

カシュガルまでのフライトは1時間45分。食事は出ずに、何と飲み物とパンが1個だけ。近頃の国内線はスリムだ。機体はE190と見慣れないもの。エンブラエルと言う名前らしい。機体は新しく、2人ずつ左右に席がある。私の隣は太ったハイティーンの若者。絶えず、体を動かし、落ち着きがない。一体なぜ乗っているのだろうか両親が横の席に居ることが分かる。

カシュガル空港はこじんまりしていた。着陸後、手荷物で外へ出るとウイグル人のJ教授が待っていてくれた。いや、J教授だけではなく、S教授、そして日本人N教授、A教授、O教授と勢揃いしていた。何だか恐縮。

市内は直ぐに行けるほど近い。ホテルは金座大飯店、名前は立派だ。部屋に入ると、正面道路に面しており、非常にうるさい。先生たちは反対側だったので、私もそちらに移動したいと申し出る。服務員のお姐ちゃんに伝えるが、何だか要領を得ない。何と北京語が通じているのか怪しいことが分かる。言葉が何とか分かるお姐ちゃんが出て来て、他の部屋を見せてもらう。静かな部屋、というと、内側の窓のない部屋に案内される。そこには木の浴槽があり、ちょっと魅力を感じたが、数日間窓のない暮らしはどうかと思い、反対側へ。

そこではちょうどカーテンの取り換え中で、私がこの部屋に泊まれるのか聞いても、返事すらない。とうとう少し大きな声を上げ、回答を促すと、ようやくこの部屋を使えと言う。何ともおおらかなサービス。そして懸案のインターネットがまた繋がらない。しかしそこでカーテンを付けていたニーちゃんは、ITに強く、日本語PCを苦も無く操り、直ぐに繋げてしまった。お見事。この意外性が良い。

夕飯とマッサージ

その日の夜はJ教授、S教授の同窓生、恩師などが数人集まり、宴会となる。ここカシュガルは南新疆最大の都市であり、かつウイグル族の割合が高い地域。ウルムチなどとは違い、街を歩いていても伝統的な帽子をかぶったウイグルの人々が多く見受けられる。我々が思う新疆の様子に非常に近い。

学生時代をウルムチで送った優秀な人材ばかりが集まった宴会。家庭の都合や本人の意思で故郷に戻り、カシュガルの役所や銀行に勤めているという。恩師によれば、「もしあのままウルムチに残って勉強していれば、相当な幹部になっていただろう人材もいる」とのこと。

料理は伝統的なウイグル料理で羊の肉は勿論だが、大豆や野菜など庶民的な料理も並び、実に美味い。カシュガルは不思議なくらい料理が美味い、何故なのだろうか。

食後、数人で脚マッサージに行く。夜は零下10度の街を息を白くしながら歩いて行くと芯まで冷える。香港も寒かったが、ここの寒さは本物だ。マッサージ店は大きかったが、お客が多く、マッサージ師はなかなか来ない。ようやくやって来たマッサージ師は全て漢族で内地からの出稼ぎ。ウイグル族のマッサージ師は珍しいらしい。この辺にも労働概念の違いが出ているようだ。

2月12日(日)   (2)   2日目

ムハマド・カシュガリの墓

朝起きて、ちょっと外を散歩する。相変わらず寒く、日も差さない。正直新疆の冬、というイメージを全く持ち合わせていなかったが、当たり前だが、夏のカラッとした暑さとは異なり、少しジメッとした空気が漂う。

郊外の観光地に行くという。途中で水を買いに寄った商店では、新疆でよく飲まれている湖南省のレンガ茶が沢山売られていた。昔は地味なパッケージだったが、最近は明るい包装なども出て来て少しオシャレになっている。

田舎道を30分ぐらい行くと、モハマド・カシュガリの墓があった。彼はその名の通り、ここカシュガルの地名の由来ともなった人物でウイグル人にとっては偉大な存在のようだ。11世紀に出たウイグルの大学者で「トルコ語辞典」を編纂した。1008年から1105年まで生き、長くバグダッドに滞在し研鑽に励み、1080年にこの地に戻ると、学院を創設。多くの学生を輩出し、ウイグル文化に貢献した。

この地には彼の墓があり、また記念館にもなっている。敷地は広大で、雪が積もる中、歩いて行くのは大変だった。残念ながら観光客の姿は殆どなく、地元の子供が薄着で走り回っている光景が長閑な雰囲気を出していた。





西の果てカシュガルへ行く2012(1)シンセン 香港からカシュガルへの遠い道

《新疆カシュガル散歩》

2012年2月10-15日

昨年8月に初めて行った新疆ウイグル自治区。何となく危険な香りがするその場所に私は嵌ってしまった。美味しい食事、楽天的なウイグル族の人々、美しい風景、どれを取っても、それは素晴らしく、また中国ではなかった。

また行きたい、という思いは直ぐに通じ、A大学N教授より「また行くよ」の一声で私は乗ってしまった。しかも今回はまた未知の世界、カシュガルへ。否が応でも期待は高まる。

しかし、私はその時点で香港に滞在している。お世話になっている大学もある。東京にも用事がある。それをクリアーできるのか。香港から中国に行くことは想定内だが、正直新疆は遠過ぎる。それでも行けるのは運しかない、いや運命しかない。そして運命は私に新疆を指差した。

2012年2月10日(金)

1.シンセン   (1)   シンセンまで

前日午後の飛行機で東京より香港に戻り、ラマ島の自宅に辿りついたのは夜中の12時半。溜まったメールを処理して寝たのは午前2時。そして8時に起床し、準備を整え、重い荷物を持って再びフェリーに乗り、香港大学へ。大学の階段を喘ぎながら進み、そして日本企業研究のゼミに出て、またセントラルへ。そこから九龍駅へ行き、そして。

何とも長い旅をして、初めてシンセン空港行きのバスが出るという九龍駅バスターミナルを探す。そこはイメージしていたターミナルとは異なり、エレメンツと言う綺麗なビルの中に切符売り場があり、あっと言う間にチケットを買い、下に降りると直ぐにバスに乗り込み出発する仕組み。やはり香港の合理的な処理は早い。

バスは普通の大型バスで乗客は7割程度。中国人と香港人は半々、外国人は欧米人の夫婦が2人と私。バスがスーッと出発すると、私も昨晩までの疲れがドッと出て、直ぐにスーッと眠りに着く。どこをどう走ったのか分からず、目を覚ますと国境に着いていた。ここまで約40分。

バスでは何のアナンンスもなく、荷物を持っていくのか、どこへ行くのか、そしてその先でどうするのか、全く分からない。中国人が同じ疑問を聞いてきたが、答えられない。この辺は香港の悪い所。知っている者がどんどん進み、知らない者は確認しないと先に進めない。

取り敢えず荷物を持ってシンセンと書かれた建物に入る。そこは広々とした空間で大量の出国者をてきぱきと捌いていた。ここで数人の日本人がいるのを確認。続いて中国側の入境。ここでは中国人は早いが外国人は相当ゆっくりとなる。またイミグレカードが相変わらず備えられておらず困る。

それでも合計20分で中国側へ出る。ここは一体どこか。ようやく見つけた名前はシンセン湾。これまでのイミグレよりは香港側と中国側の距離が近く、スピードが速い。そしてバスチケットを出してバスを探すと、直ぐに出発。昔は自分が乗って来たバスに乗らなければならず、探すのも大変、誰からイミグレで引っ掛かると待つのも大変だったが、この辺が合理的な運営に変わっていた。

国境から30分弱でシンセン空港に到着。今日は取り敢えず空港ホテルに泊まるのだが、その場所が分からず、また困る。地下鉄駅の方へ行くとその向こう側にホテルがあり、無事に到着。

(2)   シンセン空港周辺

ホテルは外見は古そうだが、内装は立派。最近経営が変わったようだ。英語で話し掛けると一人の女性がきびきびと応対。部屋に入ると結構立派な作りで、驚く。これで2300円。しかし聞いてみるとこの部屋はダブルルームで結構高い。普通のツインならばもう少し安くなるのかもしれない。いや私の予約には朝食が付いていなかったが、朝食付きで同額か。ネットはケーブルで簡単に繋がり、快適。風呂はシャワーしかないが、部屋が暖かめなので、問題はない。ベットもフカフカで久しぶりに快眠できそう。

取り敢えず腹が減ったので外へ出る。外は非常に寒く、新疆行きの服装がそのまま通じる。ホテルの周囲を見渡しても何もなかったが、もう少し入って行くと、そこは昔の中国の街。シンセンも空港を別にすればこの辺りはまだまだ田舎である。

簡単に食べようと思い、探すと、「木桶飯」と言う字が見える。面白そうなので入ってみると、皆米櫃に箸を入れて食べている。回鍋肉飯を頼むとスープと共に米櫃が登場。下は米、上におかずが乗っている。決して質が良いとは言えないが、これで12元なら安いか。一人でご飯を搔き込んでいる人が多い。出稼ぎ者だろうか。

又歩き出す。今度は潮州料理が目に入る。既にお腹は一杯だが、あの潮州料理の鴨肉、内臓系には目が無い。思わず入る。15元で、大盛りの御飯に汁が掛かり、その上に鴨、鳥の内臓、などが乗る。ウマい。が、とても食べ切れない量だ。残念。

この店、店先で肉を切り、鴨や鳥を吊るしている。お客がどんどん入ってくる。繁盛している。小さい女の子がおばさんに絡み付くが、おばさんは忙しい。母親だろうが、構っている暇がない。女の子はいきなり店先に走り出し、しゃがむと、おしっこを始める。そうか、トイレに行きたかったのか。既に街は暗くなっており、公衆トイレに一人ではいけない。すっきりした顔で戻ってきた彼女、うーん、ちょっと寂しい。

その日は翌朝に備えてシャワーを浴び、早く寝ようとしたが、こんな時に原稿の依頼やら、参画しているプロジェクトの案内を出す羽目に。結局11時過ぎに寝る。しかし快適過ぎてか、夜中に起きる。

2月11日(土)

2.カシュガルまで   (1)   空港出発が

朝早く起きた。これからネットが繋がるかどうか不安なので、早朝からメールをやり取りする。気が付くと6時を過ぎて出発の時間に。チェックアウトし、空港までのシャトルバスを待つが、待っていたのは30元で行くVIP車。断って歩き出す。昨日来た道なので慣れた感じ、10分弱で到着。既にかなりの人混みだったが、何故か海南航空の空いているカウンターがあり、直ぐにチェックインできた。荷物検査台では、これまた何故か傘を出すように言われる。分からない振りをしてみたら、「かさ」と日本語で言われる。日本人には傘を出す意味が分からないだろう。

非常に順調に搭乗も出来た。フライトは満席。後は出発を待つのみ。ドアも閉まった、さあ。ところが、出発しなかった。エンジントラブルらしい。一度出掛かった機体は元へ戻る。そして音がしなくなる。不安が過る。機長からアナウンスがあり、当分出ないことが分かる。するとCA達は慣れた様子で、あっと言う間に暑いお茶を配る。そして30分後には機内食も出してしまう。こちらが心配になる素早さである。しかしこれが中国だ、乗客の不満を和らげる一番の方法は先ず口に物を入れること。これは鉄則であろう。実に見事。そして1時間45分後、機体はゆっくり動き出し、離陸した。

私の隣には小学生が二人、折り重なるように寝ている。彼らはどうやら家族でシンガポール旅行へ行った帰りらしい。旧正月の休みは今週までのようだ。周囲に子供たちが多いのはそのせいか。中国の地方都市の人々も海外旅行を楽しむようになってきている。

ジャスト3時間で蘭州に到着。このフライトは安いのだが、その分時間が掛かる。全員が一度飛行機から降ろされ、ターミナルへ。遅れているためか、実に素早い対応で20分後には機内へ戻る。よく見ていないと置いて行かれそうな雰囲気。そして一部乗客が入れ替わって出発。私の横の二人は今度は座っているのに飽きてきて、活発になるが、私に被害はないので好ましく思う。蘭州からウルムチまできっちり2時間掛かった。



西寧散歩2011(3)バブル崩壊?ゴーストタウン

8月22日(月)
(7) 博物館では骨董市が

翌朝も早く起きた。陳さんから朝ごはんの場所も聞いていたが、やはり昨晩の食べ過ぎが効いて、何も食べられない。取り敢えず散歩へ。隣の公園では数人のおじさんが鳥かご持参で集まっていた。皆自慢の鳥を連れているらしく、朝から元気よく批評会をしている。

清真と書かれたレストランの前には長い行列が出来ている。名物の麺でも売っているのだろう。皆立ち食いしているから、余程美味いのだろう。それでも私は近づく気にもなれない。市内は至る所で開発や改修の工事が進められている。6階建てのビルがあり、1階にケンタッキーが見えた。そうだ、ケンタッキーで粥を食べてみようと、中へ入ると従業員が数人こちらを見て、あれ、という顔をした。何か悪い事でもしたかと思っているとマネージャーがやって来て、「今は営業していない」と言う。何故だろうか。

反対側に道を見ると、どこから店の従業員が皆整列し、訓示が行われている。その後突然皆が踊り出す。いや、踊りではなく、朝の体操らしい。中国ではよく見られる光景ではあるが、皆で体操するというのは、日本からでも取り入れたのだろうか。何となく、天下の公道でするようなことではない気がするのだが。これも宣伝?

陳さんから「折角だから博物館へ行け」と言われていたので、博物館を目指す。地図はあるのでその通り行ったつもりだったが、通り過ぎてしまう。図書館はあったが月曜日で休み。何やらいやな予感。ちょうど陳さんから電話があり、再度博物館の場所を聞いて辿りつく。

この博物館、実に立派。しかも前の広場がやけに大きい。これは北京の天安門広場や歴史博物館をイメージして作られたものかもしれない。しかし、入ろうとすると、警備員が「今日は休館日」と冷たく告げる。実は扉は空いていたのだが、何と中では骨董市が開かれていた。骨董市に貸し出したのなら、博物館も開けて欲しい所。しかしやむを得ない。

(8) ゴーストタウン

そのままホテルへ戻ろうかと思ったが、まだ時間もあるし、ということで、気になっていた駅へ行く。駅、ここは青蔵鉄道の起点、一応話題の場所かなと思ってみる。バスで行こうとしたが、よく分からないのでタクシーに乗る。

聞けば、青蔵鉄道の駅は昨年新駅に移ったとか。西寧の市内ではかなり西の方に新しい駅があった。その途中、旧市街から離れると、そこには巨大なマンション群が。新市街地を造成したらしい。運転手によれば、「3年前開発が始まった時は1㎡1,000元だったが、今は6,000元と言われている。基本的に売り出された所は全て売れているはず」と。

それにしても何棟ものマンションがあるのに、人が歩いている気配もない。運転手曰く、「ガスに問題があるとかで、誰もまだ入居していない。今はちょうどいいが、冬にガスが無ければ死んでしまう」と。確かにガスが通っていなければ生活は出来ない。しかしこの巨大なマンション群に誰も住んでいない、しかも今後いつ入居するか分からない、というのは如何にも中国らしい。

帰りはバスに乗ってみたが、いくつもある新区のバス停は全て素通りだった。当たり前か、誰も住んでいないのだから。それにしても、もしこれが不良債権だったら・・・。ちょっと怖くなるゴーストタウンであった。

因みに駅はプレハブの出来合い。取り敢えず新区に合わせて移したのかもしれないが、それは誤算だったかも。ただこの季節、どこへ行く切符もなかなか手に入らないらしい。駅前には乗客以上に多くの人々が切符を買うために並んでいた。そうか、切符を買うために暴動にでもなったら大変なので、人が少ないこの場所に移したのかもしれない。

(9) お気楽タクシー運転手 嘆く

バスで何とかホテルに戻り、チェックアウト。陳さんより「空港へはタクシーで行くように。運転手はメーターは使わないので100元で交渉せよ」と言われていた。ホテルのフロントのお姐さんも「今は観光シーズン、100元では行かないかもね」と脅かす。

本当は空港バスにでも乗って行きたいが、バス乗り場までが離れており、荷物があるからそこまでタクシーで行かねばならない。流石にそれは面倒である。ホテル前でタクシーを探す。午前11時なのに意外と来ない。そんなにタクシーはないのか。

ようやく空車がやって来て、運転手に「空港」と告げるとすかさず、「100元」との答えが返ってきた。想定問答のよう。運転手は話好きでこちらのことなどお構いなしにどんどんしゃべって来る。

「ここいらのタクシーは殆どが自分の車で商売している。だから賃料を払う必要もなく、焦るやつはいない。行きたくない所には行かないから、空港行きは交渉になる」のだそうだ。夏は観光シーズンでかき入れ時だと思うのだが、働きたくなければ家でテレビを見ている、そうで、いい暮らしである。

空港へ行く高速に乗ると「この辺の不動産は高くなったなあ、どんどん再開発しているけど、金は外の省から来るんだ。損しても彼らの金さ」と言い放つ。確かに省都であるし、他の都市と比べて開発が遅れていたのだから、資金が流入する訳だ。投資資金は彼らの金ではあるが、それで潤う地元民もいることは話に出ない。

ただ地方政府の汚職はひどい、と嘆く。「賄賂が横行しているのに、公務員の給料はどんどん上がって行く。民間人は上がらない。どういう訳だ?」と憤慨する。中国の不安が溢れていた。

3. 北京まで  (1) 1杯58元の緑茶でネット接続

僅か20分で空港に到着。やはりこれで100元は高い。特に地方では相当高いのだろう。運転手は満足げに帰って行った。西寧も立派な空港である。冬は殆ど観光客が来ないようで、夏だけの空港という感じもするが、さらに追加の建屋を建造中。一体何に使うのか。

今回は東方航空へチェックイン。今回は特に何もなかった。当たり前か。また空港でネット探し。ウルムチではネット屋さんがあったが、ここではカフェ。コーヒーは飽きたので緑茶を一杯58元も払って、パスワードを教えてもらい、無事接続。

周囲を見ていると、観光客と思しき、男女が高いコーヒーを平然と頼み、リラックスしてお話している。このカフェ、常時ほぼ満員だ。市内で牛肉麺1杯6元なのに、この落差は何だ。空港側も新しい建屋を立てる前に空港のネット環境を整えて欲しいが。いや、商業主義のご時世、それは無理か。

そして遅れることもなく、搭乗が開始され、機内へ。ここもまた満員。この便は北京行でなく、西安行。北京直行便は全て売り切れており、仕方なく、乗継便に乗る。それでも戻れるだけマシ。

(2) 西安空港で
1時間半ほどで西安に到着。預けた荷物をターンテーブルから取り、そのまま2階のトランジットカウンターへ。東方航空から東方航空への国内線乗り継ぎなのに、荷物がスルーされない、何故だろうか。いや、スルーされて無くなるよりマシと考えることに。

しかしカウンターでチェックインする際、一番早い便に乗りたいと告げると「ちょうど今締め切ってしまった。残念」と言われ、本当に残念。やはり荷物を取る時間が命取りに?西安空港で2時間待つ。

西安は大きな空港なので、手持ちの銀行カードで利用できるラウンジがあるはずだと探すが見当たらない。他のラウンジに入って聞くと何と「荷物検査場の外にある」という。そんなー、殺生な。それならトランジットカウンター行かずに、一度外へ出たのに。後の祭り。

そしてまたまたネットを繋ぐためにカフェへ。また58元コーヒーを飲み、電源を確保し、パスワードを教わる。何だかすごく浪費している感じ。ネットなど繋がなくても、空港でボーっとしていればよいのに、と自分でも思う。でもなぜかそれが出来ない。中毒か?

このカフェは搭乗口のすぐ横にあり、ウエートレスが親切に搭乗開始を教えてくれた。こんなちょっとしたサービスが意外と大切。これまた中国の進歩の一つを見た思い。でも私はトイレに行きたくなり、そこから走ってトイレに行ったため、最後尾になってしまったが。

(3) 東方航空
実に久しぶりに東方航空に乗った。自分では先ず選ばないエアラインに乗れることに感謝し、観察しなければならない。南方航空も10年ぶりだったが、東方は記憶にないほど前。当然サービスは大幅改善していると思ったが。

東方のサービスについては、以前より態度が悪い、飯が不味い、などいたって不評。また近年は待遇改善で抗議したパイロットが、飛行中一斉に上海に戻るなど、とんでもない話が横行していた。

西寧‐西安、西安‐北京間、乗ってキョロキョロ見回してみたが、特に目立つ所もなく、目に付くほど悪い所もない。これが中国の標準かと言われると厳しいが、当方の基準も近年大幅にダウンしており、一概に計れない。

まあ、この観光シーズンに定刻に到着すれば御の字か。私の長い長い、新疆・青海の旅は時間に遅れることなく、終わりを告げた。




西寧散歩2011(2)青海湖で五体投地

(3) タール寺

車を飛ばして、タール寺へ向かう。先月インドのラダックへ行き、チベット仏教に関心を持った者としては、ぜひ訪れたい場所。タール寺は西寧郊外にあり、車で30分ほど掛かった。ここは西寧最大の観光地らしく、朝から大勢の観光客が訪れており、チケット売り場には長蛇の列。仏塔や建物は見慣れた風景であるが、やはりラダックの静寂はここにはない。というか、漢族の観光客には聖なる場所ではないということか。

それにしても壮大な寺院である。山の斜面には僧院が並んでおり、多くの僧侶がここに滞在し、修行している様子が伺われる。本日は日曜日であり、坊さんたちも外に出て来ている。その袈裟姿は懐かしい。

1560年創建という古いお寺ではあるが、近年改修されたと思われる場所も多く、これは文革の影響なのか、チベット問題と繋がりがあるのか、皆目わからない。ただいくつもの建物を見学でき、そしてどこへ行っても人だらけ、ゆっくり見学する雰囲気もなく、人に押されて通り過ぎて行く。これが今の中国なのだ、宗教も静寂も何もない、ただの見世物なのだ、とがっかりすること仕切り。ラダックを思い出そうとしたが、完全に失敗に終わる。

ただ一か所だけ、若い僧侶が数十人で五体投地をしている場所があった。25年前にチベットのラサの聖地、大昭寺の門前で大勢のチベット人が真っ黒になりながら、一日中これを繰り返していたのを鮮明に思い出す。一体何のためにこれを行っているのか。寺の中であれば修行と割り切れるが、信仰とはすごい力がある。これを見せられると漢族は恐怖を感じるのではないだろうか。

 

(4) 青海湖

そして車は山道へ。両側に建物など何もない高原が続く。ゆっくりゆっくり上って行く。途中で馬の放牧に出会う。何とも言えないのどかな風景。と思っていると運転手が突然一眼レフを構えて車を降りていく。聞けば、彼は写真が趣味で、運転しながらいい風景を撮影しているらしい。彼によれば、この馬の放牧風景はこれまでに見たものの中でもとりわけ美しく、写真を撮りたいという。私も撮影に挑戦したが全く上手く撮れない。これはカメラのせいだけではなさそうだ。

そうこうしている内に、随分高い所まで登ったな、と感じたころ、突然看板が見える。海抜3820m、え、私は知らない内に富士山より高い所へ来ていた。ここでは皆が車から降り、写真撮影などしている。私は高所恐怖症、3820mを見て、急に眩暈が・・。これだけ高い所に来たのは初めてかもしれない。

とてもきれいな山並み、高原、雲、続く。ここはいい。広々として、雲が流れ、山が流れ、そして、羊が。途中急に雨が降り出す。山の気候は変わりやすい。天気は悪いが、何だか救われる思いがする。特に低く垂れこめる雲の形が素晴らしい。この風景も表現が難しい。

1時間近く走って、ようやく青海湖が見えてきた。湖というより海だと思えるほど大きい。そして平たい。湖が近づくと、少数民族が盛んに旗を振り、こちらへ来いと合図する。湖へ続く道を確保し、彼らは独自の場所へ案内するらしい。駱駝などン観光客を乗せて日銭を稼いでいる。

時間は昼を過ぎていた。昼ごはんは湖畔のレストランで。何軒かが並んでいる中の一軒に入る。陳さんは以前もここに来ているようだ。しかし兎に角混んでいる。ひっきりなしに観光客が入ってくる。我々は何とか席を確保したが、注文を聞きに着てくる気配もない。陳さん自ら立ち上がり、オーナーを探しに行く。オーナーは漢族のようで、話がついて、オーダーが通る。

出て来たのは青海湖で取れた魚の甘酢あんかけ。結構大きな魚だ。野菜炒めなどは普通の物。そして白いご飯を魚の汁にかけて食べようと注文したが、なかなか出てこない。催促してようやく出て来たご飯を一口食べて「あれ、」。このご飯、芯がある。どこかで食べたような気がするが、決して美味しいものではない。陳さんは「僕は結構好きだけどね。ここは標高が高く、沸点が低いため、ちゃんと炊くことが出来ない」という。そうだ、それだ。どこで食べたかは忘れたが、何となく懐かしい味がした。

食後、湖面を眺める。湖の直ぐ近くまで車を寄せて、観光客が波打ち際で写真を撮っている。本当に海のようだ。駱駝が「美しい青海」と書かれた看板の前にどん、と構えてお客を待っている。しかしこんな所で駱駝に乗る人間などいるのだろうか。いや、中国人のこと、お調子者は必ずいるということか。

帰りに道路で異様な集団と遭遇。先程タール寺でも若手の僧が行っていたが、五体投地をしている。寺の中でするのは何となく運動という感じであるが、こちらは厳しさがひしひしと伝わってくる。剣でいえば、木刀と真剣の違いか。4人の集団だが、一番前は何と女性。エプロンのような前掛けを掛け?肘をかばい、完全防備で臨んでいる。彼らは一体どこまで行くのだろうか。ラサまでだろうか。この標高の高い大地を一歩一歩、いや一体一体、進めていくことの苦難は想像だに出来ない。凄いとか何とかいう次元ではない。25年前ラサでの大昭寺で見た、あの五体投地、宗教とは何かを再度考えさせられる。

(5) 陳さん

今回案内役を買って出てくれたのは陳さん。彼は私の元部下だった中国人の現在の部下。ある意味業務命令でアテンドしていた。しかしそこは中国、今日は日曜日だが、嫌な顔一つせずに、いや寧ろ楽しんで案内してくれている。これは嬉しい。

彼と一緒に車に乗っていると実に様々な質問が出て来る。「自分たちは日本のアニメやドラマを見て育った世代」として、日本には特別な親近感があるという。ただ自分たちの描いている日本は、経済的にも科学的にも、強い国であるが、昨今の報道を見る限り、それが幻想になりつつあるとのこと。私は何も言い返すことが出来ない。

しかし日本経済だけが心配なのではなく、中国経済も厳しい局面が近づいているという。彼は金融機関職員だが、北京からここ青海に派遣された理由を詳しくは語らないが、不良債権の処理のようだ。これは10年前の私と私の部下が経験したあの状況だ。10年経って後輩がこれに苦しむことになる。金融業は因果な商売なのだろうか。

彼はこの地にあっても、世界の様々な情報に耳を傾けている。本当は海外勤務を希望していたが、残念ながら事情でその道から外れ、国内業務をやっている。日本で仕事をしたかったかと聞くと力なく首を振る。やはり日本は憧れの国であり、現実に行く場所ではないらしい。

(6) 別れは難しい

夕方5時には西寧に戻った。陳さんは車の都合からか、ホテルへ行かずにそのまま夕飯を食べようという。左程お腹は空いていないが、従う。彼が連れて行ったのは火鍋屋。結構大きな店だが、既にお客で満員だ。まだ陽のある時間に、これだけの客が来るとは。勿論日曜日と言う理由もあるだろうが、驚きである。

ようやく一番端に席を確保し、火鍋を頼む。周囲を見渡すと、地元に住む漢族の家族、カップルなどが多い。ビールを飲む人もいるが、いきなり白酒がテーブルの上に載っている所もある。真夏に火鍋、と言うだけでも驚きであるが、これは一体なんであろうか。

気が付くと我々のテーブルにも牛肉、羊肉、きのこ、野菜が所狭しと並べられた。とても食べ切れない。これが昨今の中国である。取り敢えずたくさん頼むのが、礼儀。たれは自分で好きな物を選ぶ。味は中々であったが、何しろ量が多い。まだ昼ごはんから4時間しか経っていないのが残念。最後は陳さんが「寮のおばさんに上げる」と言って打包した。あー良かった。

陳さんは明日朝北京からビックボスがやって来るらしく、済まなそうに明日は付き合えない、という。当方からすれば、既に十分対応してもらい、これ以上彼に付き合わせるのは悪い。食後何をしようかと誘う彼に「今日は原稿書きがあるのでホテルに帰る」と告げ、お別れした。こういう時、日本人なら相手の事情を考えて行動するが、中国人は先ずは自分が十分に誠意を尽くすので、なかなか別れられない。これが恋人なら、と思うだけでも大変なことである。





西寧散歩2011(1)朝から牛肉麺

《西寧散歩》2011年8月20-22日
2011年8月20日(土)
1. 西寧まで (1) ウルムチ空港

西寧行きの飛行機はまだ離陸まで3時間半もあった。遅れるよりはマシであり、感謝しなければならない。南方航空でチェックインできるか心配だったが、簡単にチェックインは出来た。しかし通路側の席を希望すると「既に満員です」との答え。3時間半前に通路側の席が1つもない?一体どんな機体なのだろう。そんなに混んでいるのだろうか。

取り敢えず窓際の席を予約し、ボーディングパスを貰う。しかし時間は余りに余っている。インターネットでもできる所はないかと探すと、PCが置いてある店が目に入る。脚マッサージもあるようだ。聞くと68元もする。しかし他に行く所もなく入り、自分のPCを繋ぐ。70元支払ったが、おつりの代わりにおしぼりを持ってくる。よく見ると2元と書かれている。うーん、こういう所が中国の悪い所だな、と思わずつぶやく。いや、Facebookは中国では繋がらないので、自分でつぶやいただけ。

見ていると若者が何人かネットに向かっている。アニメを見る者、ゲームに興じる者、この値段でよくもこんなことがしていられるなと感心してしまう。その内の一人はこの店のオーナーらしい。遊んで暮らすとはこのことか、このゆるさが良いのかもしれない。

(2) サービスが改善された南方航空

ネットに夢中になり、気が付くと3時間が経過しており、何と私のフライトは搭乗の最終案内になっていた。あれほど時間があったのに、走ってゲートに向かう羽目に。しかもセキュリティ検査が結構厳しく、前の中国人が係官と揉めている。いや、困った。

何とか他の台で検査を終了し、走る。私が飛行機に乗り込むとドアが閉まったので、最終搭乗者だったのだ。自分の席を探すと、ビジネスクラスのすぐ後ろにプレミアエコノミーなる席が4列だけ存在し、私の席はその一番後ろの窓側。ところが窓側には既に先客があり、通路側が空いている。こちらに座っていいかと聞くと、彼も窓側が良いと言い一件落着。

確かに航空券は正規料金を支払ったが、これほど待遇が違うとは思わなかった。席は結構広いし、食事も出た。普通のエコノミークラスは飲み物しか出なかったようだ。中国南方航空と言えば、昔乗った印象は悪い。サービスの概念が無かった気がする。しかし今回乗ってみるとかなりの改善が見られ、エアーチャイナよりいいのでは、と思ってしまう。中国の変化の速さを感じた一瞬であった。

2.西寧
(1)ネットの接続には身分証

西寧の空港に到着したのは、午後10時を過ぎていた。今回は昔北京で働いていた時の部下が西寧のアレンジをしてくれた。彼の部下が西寧に常駐しているのだそうだ。その陳さんが空港に出迎えてくれた。こんな遅い時間に申し訳ない。

陳さんの車でホテルへ。陳さんが恐縮して言う。「実は今西寧ではホテルの部屋を押さえるのが大変である。今日も何軒かを回ったが、一つも部屋が取れなかった」と。そんなに大変な状況なのか、西寧は。

西寧の観光シーズは6-9月、それ以外は殆ど人が来ないため、ホテルは多くない。投資ラッシュと聞いていたが、ホテル投資はないようだ。

20分ぐらい走って到着した所は市内中心部。夜も遅く既にひっそりしていた。南川という川の横のこじんまりしたホテルに入る。陳さんが予約した旨告げたが、「来ないと思っていい部屋は全て埋まってしまった」と言われる。それでも何とか2階の一部屋があてがわれ、陳さんは帰って行った。

しかしここでまたネット問題が発生。無線なのになぜか2階は繋がらないらしい。1階のうるさい部屋なら空いているが、どうかと言われ、即座に部屋を変更。何がうるさいのか分からなかったかが、確かに夜中でも車が通り、少し気になる。

そしてネットを繋ごうとすると、「身分証番号がいる」との表示が出る。外国人が止まることなど想定していないホテルなのだ。外国人である私は身分証を持っていない。どうするかと見ていると、フロントのお姐さんは仕方がない、という仕草をして机の中から1枚の身分証を取り出す。そしてこの番号を入力するようにと言われる。ここでもネットの管理が行われていると同時に、身分証の管理の甘さが、私を救った。「上に政策あれば、下に対策あり」と言う懐かしい言葉を思い出す。

8月21日(日) (2) 大音響で目覚める

翌朝は早く目覚めた。というより昨晩フロントのお姐さんが言っていた通り、外の大音響で叩き起こされた。部屋は道路に面していたが、反対側は川。その川と建物の間に細長い公園がある。そこでは太極拳など、朝早くから老人を中心に活動が行われていたが、近年流行りのおばさんダンス??も行われる。この音楽がでかい。周囲お構いなしだ。

散歩がてら覗いてみると、実に元気の良い女性達が朝から汗をかいて踊っていた。本当に健康そう。どこの国でも女性は強い。それにしても西寧の朝は爽やか、というより、涼しい。昨日までの暑さが嘘のよう。ここは標高2200m、高原の避暑地に来た気分。

陳さんがやって来た。朝ごはんを食べることに。彼も北京の出身であり、ここには数か月の滞在。その中で気に入った朝食は牛肉麺。専門店へ向かう。如何にも昔中国を旅した時に行ったような大衆麺屋。懐かしい。値段も安いし、会計も注文を紙に書いて先に払う。羊肉もあるようだが、彼は牛を選択。ここ西寧の人口は8割が漢族だが、白い帽子を被った回族も多く住んでいる。回族は羊を食べるのだろう。

熱々の麺が運ばれる。ちょっと涼しいこの気候にマッチしている。麺はやや太めながらこしがあり、スープにはコクがある。パラパラと載っているネギが良い。うーん、朝から満足。





新疆北路を行く2011(10)伊寧 感動の十二ムカム生演奏

(4) 砂絵

かなり暑さを感じる昼前。ウイグル族のやっている画廊を訪問。ここは観光スポットにもなっているようで、漢族の観光客も出たり入ったりしていた。ここでは特殊な絵が作られていると言う。

当地の風景を描いた絵が部屋の壁中に飾られていた。がよく見るとギャラリーに飾られている絵は全て砂で作られていた。タリム盆地の砂だと言う。砂漠の砂を使うあたりはウイグルらしい。この絵は一人の人が作るのではなく、共同作業で製作していくらしい。しかし中には障碍者が作った絵もあり、名前が書かれていた。色々な形態があるのだろうか。

N先生は気に入った絵があるようだが、大き過ぎて荷物として持ち帰るのは辛いらしい。郵送もすると言われるが、妥協して小さな絵を購入。これはよい記念になるのではないだろうか。

それから昨晩行ったレストランにまた行き、今度は屋内で食事をした。ラマダンのため、流石に昼、外で食べさせるのは憚れるのだろう。この日はデザートにアイスクリームが出て来たが、これは非常に濃厚で美味しかった。

バスの駐車している場所まで馬車に乗ることにした。ゆっくりゆっくり進む馬を後ろから眺めていると妙に落ち着く。馬車が日陰には行った時、爽やかな風が通り抜けた。ウイグルを感じた。

(5) 村に出現した巨大工場

午後は伊寧郊外に行く。どこへ行くのだろうか。昨晩もご一緒したS氏の友人を拾い、北西へ車は進む。40分ぐらいすると田舎町が見えた。そしてそこから更に農村部へ。舗装されていない道路をデコボコ進む。

しかしこんな田舎に何の用があるのだろうかと訝り始めたその時、目の前に巨大な門が見えてきた。あれは一体何であろうか。周囲は高原のようになっており、何もない中、その場所の一群だけが、異様な感じで建物が建てられていた。

門を潜ると、左右に平屋だが相当大きな建物がある。正面には更に柱の太い、大きな建物が。ここは何なんであろうか。まるで北京の天安門広場を意識したような造りである。よく見ると看板があり、企業集団と書かれている。この地方の街にこのような巨大な設備を持った工場があるのだろうか。よくよく見ると向こうの方に工場が建設中であることが分かる。正面の建物はオフィスなのだろうか。

中に入るとコンパニオンがマイクを持って、案内に立つ。1階の広いスペースが会社紹介となっていた。皆必死にこの集団が何であるかを確認に走る。この工場が完成すると16,000人の雇用が生まれると言う。当然この村だけでは賄いきれいない。両脇の建物はそのための従業員宿舎。その規模は壮大で信じられない。

ようやく化学プラントであることは分かったが、創業者の名前を聞いてもピンとこない。これは調べないと分からない、と思い、後日検索してみたが、やはりよく分からない。新疆には資源目当ての漢族の投資が次々に投入されているとは聞いていたが、これだけ規模の大きな、何百億元という単位の投資を目の当たりにすると、政府の意図が分かるような気がする。

この工場群の周囲をバスで1周する。途轍もなく広い。更には先ほど入った巨大な建物の裏にもう一つ迎賓館のような建物が見えた。集団総裁の執務室だと言う。一体どんな人間なんだ、こんな所にこんなものを作るのは。基本的には内モンゴルで成功した漢族の投資とのことであったが、その実態は最後まで謎であった。

建設中の工場を眺めながら、銀行時代のプロジェクトファイナンスを思い出す。タイや台湾、韓国などで10年以上前、こんなプロジェクト予定地を視察、数字を弾いて融資するかどうか決めていた若き日の自分を思い出す。あの頃は物事を単純に考えていたな、今ではとてもこのようなプロジェクトに巨額な融資は出来ないな、と感じてしまう。規模が大きければ良いと言う論理と、それを恐れてしまう今の自分、どちらが正しいのだろうか。

(6) 感激のもてなし 十二ムカム

工場のあまりの規模に圧倒され、早く伊寧市に戻りたいと思ったが、前の車が先導してどこかへ行く。確か前には女性が乗っていたような、あれは誰だ。

街中へ行く。ある家の前に車が停まる。何でもモデルハウスだと言う。何のモデルハウスだろう。きれいな庭にきれいな家、貧困の村を救う政府の政策だろうか。説明を聞き損ねたので詳細は分からない。

彼女の正体が分かった。何とこの県政府のトップ常務委員さんだった。まだ30歳代ではないだろうか。ウイグル族出身の彼女は苦労して天津の南開大学に進み、地元に戻ってからは、党学校の教師をしていたらしい。それが先日抜擢されてこの県に赴任してきたとか。新しい力が必要なのであろう。

食事の場所として連れて行ってくれたのは、閑静な庭園を持つ、リゾート風宿舎。池などが配されたその庭を歩いて行くと、大きな屋根の下に桟敷がある。絨毯も敷かれている。この自然空間の中でご飯を食べる、と想像しただけで嬉しくなるような場所であった。更にその桟敷には先客が3人いた。県のお役人だろうか、などと思っていると、常務委員が「彼らはウイグル伝統音楽の奏者です」と紹介。確かに脇には楽器らしきものが置かれていた。

話の中に「十二ムカム」という言葉が出て来た。1547年、音楽と詩歌をこよなく愛するアマンニサと言うウイグル女性が新疆ヤルカンド(現在のカシュガル地区莎車県辺り)にあったヤルカンドハン国の王妃になり、多くの楽師やムカム音楽家を集め、大規模な整理作業を行い、その規範化を実現。歌詞の中にあった難解な外来語や古ウイグル語の単語、さらには古い宮廷詩的修辞などを取り、完全且つ厳密な構造体系を持ち、口語的で分かりやすい全く新しいムカムを誕生させた。

19世紀にはムカムはしだいに12曲の組曲に編成され、一曲ごとの組曲の演奏には約2時間を要した。この洗練されたムカムが『十二ムカム』である。従来は師匠から弟子への口承のみであったが、新中国ではそれを録音するなど保存に努めている。

その演奏は見事であった。日本人と言うことで、すばるや赤い絆など、日本の曲も披露された。やはりプロである。「日本にはもったいない、という精神があると聞いた。コーランの教えにも同じ物がある。相通じる」そして我々の希望を聞き入れ、食事の量を少量にしてくれた常務委員さんの心遣い、とても嬉しくなってしまった。爽やかな風が吹き抜ける桟敷の上で強かに酔ってしまった。

8月20日
(7) 帰路

翌日は朝早く出発した。それは私が青海省へ行くために、飛行機の時間に間に合うように皆さんが協力してくれたせいである。朝7時出発、これはこの地区では驚異的に早い。周囲は真っ暗。それでも漢族観光客は我々より先に出発して行った。彼らの観光は一日いくつ回るかが勝負。すごい。

今日の行程はウルムチ市に戻るだけ。その距離、680㎞。予想時間は10時間。これは長い。朝飯もない。どうなるんだろうか。兎に角先ずは寝る。皆ひたすら寝る。運転手だけが可哀そうに懸命に車を走らせる。

途中朝日が昇る。良い風景だ、西の大地に朝日が昇る。殆ど対向車のない道路をバスはひた走る。2時間半ほどして、最初のトイレ休憩。ガソリンスタンドの後方には4000m級の山がそびえる。今日は天気も良く、実にクリアーである。

またバスに揺られて2時間、高速道路を降りる。昼飯かと期待したが、なかなかレストランに入らない。どうやら当地の名物、大盤鶏という料理のいい店を探しているようだ。この辺のこだわりは凄い。ラマダン中でもあり、中には店を閉めている所もある。ようやくバスが止まり、店に入る。かなり繁盛しているようで、席が外まではみ出している。

その大盤鶏は鶏を一羽潰して、ジャガイモなどの野菜と唐辛子などを煮込んだ物だったが、実に満足できる味だった。食べている時は大粒の汗が出るほど辛いが、これは癖になる。更には残った汁の上から太い麺を掛け、混ぜて食べる。もう堪らない。こんな料理が日本で出せるのであろうか。新疆で食べるから美味しいのであろう。

今月はラマダンのため、午前中しか営業しない、と張り紙があったが、午後2時を過ぎても大繁盛であった。新疆時間ではまだお昼だったか。ここの食事ではビールが進む。久しぶりに昼から酒を飲み、そして大量の汗をかく。バスに乗り込むとすぐに寝る。

次にトイレ休憩があった時、持ち込んでいたスイカが切られた。J氏は器用にナイフを使い、鮮やかに切った。このスイカは酒を飲んだ後で、甘くて美味かった。こんな豪快な食べ方も久しぶりだ。

そして運転手の努力もあり、午後5時にはウイグル市内に入り、空港で降ろしてもらった。私の新疆北路は終了した。





新疆北路を行く2011(9)伊寧 絶品カバブーと羊スープ

4.伊寧
(1) 外国人が泊まれないホテル 

とうとう西の端、伊寧市に到着した。今回の旅は僅か170㎞だったが、時間的には相当に掛かった。道が悪いと言うのは大変なことだ。まだ陽のあるうちに着いたのが救いだった。ホテルには当地の旅行社の人間が来てアレンジをしていたが、我々を見て驚いた顔をした。何故だ。J氏、S氏と旅行社の人間は協議に入った。何か問題が発生したのは確かだ。聞けば、予約したホテルは外国人を泊めることが出来ないと言う。何と時代錯誤な、20年前の中国がそこにあった。

勿論日本人だけではなく、外国人は指定されたホテルに泊まらなければならないらしい。この制度は今年始まったのではなく、3年前からあるそうだ。こちらが予約した際、人数しか言わず、外国人がいることが分からなかったのが原因らしい。それにしても、夏のベストシーズンに、少なくとも我々日本人4人分の部屋がこの時間に確保できるのか、ちょっと心配になる。

30分ぐらい待っていると、J氏が済まなそうにやって来て、「4つ星ホテルの部屋は全て満員で、三ツ星になりました」と言う。こちらは泊まれるかどうかの問題であり、部屋があればそれでよかった。しかしこの辺境の地、それほどに漢民族は少数民族を恐れ、外国勢力との結びつきを恐れているのだろうか。花城賓館という実に昔懐かしい中国のホテルにチェックインした。

特に期待はしていなかったが、残念ながらネットは繋がらなかった。それは設備がなかったからではなく、普通なら線を繋ぐだけで良い所を、複雑な番号を入力しないと繋がらない仕組みになっていたからだ。中国でもこんな番号は見たことが無い。係員を呼んだが、私のPCを見て、日本語は読めないからお手上げ、と言って帰ってしまった。この暗号は何を意味するのか。確か他の国でも情報統制がある場合はこのシステムだったような。そして現在のWindows7というソフトには以前のようにこの暗号を入れる仕組みが見出せない。どうなっているのか??

(2) 気持ちの良い夕食と屋台(子供働く)

ここでもS氏の友人のウイグル人が登場し、我々をレストランに案内してくれた。流石に中国の西の端、まだまだ空は明るい。ラマダン中でもあり、どうかと思ったが、外国人と言うことで、店の外の木の下にある気持ちの良い桟敷に落ち着くことが出来た。但し喫煙は厳しく制限された。外を歩くウイグル人への配慮であろう。

店の外にはカバブーを焼くブースや茶を入れる薬缶が並べられた場所がある。まだ稼働はしていなかったが。我々の目の前には早々にリンゴとプラムが運ばれてくる。これまでのスイカとハミウリの組み合わせから変わった。飲み物はヨーグルト。嬉しい美味しさである。

気持ち良い夕暮れの風が吹く中、外で食べる食事は実に美味しい。カバブーも殊の外柔らかく美味しく感じる。店内でトイレを借りると、この店がとても立派な店であることが分かる。ちょうど日が落ち、沢山のウイグル人が食事を始めたが、食の豊かさが見えていた。

レストランを出てイリ川の橋を渡る。この大河は濁流のように勢いがあると聞いていたが、真っ暗で何も見えない。ただ川の音がするのみ。橋の袂には検問があり、バスはそれを避けて、遠くに駐車する。ここは市内に入る要所であろう。若干緊張感がある。

ホテルに戻り、コーラでも買おうと外へ出るとN先生やJ氏がちょうど、ホテル前の屋台に繰り出すところに出くわし、付き合う。夕方は何もなかった道端に多くの店が出て、いすやテーブルが出され、大勢の人がビールを飲み、カバブーを咥え、夏の夜を謳歌している。

よく見ると店では子供たちが良く働いている。中学生ぐらいのおにいちゃんは既に一人前にカバブーを焼き、小学生ぐらいの女の子は注文を取る。もっと小さい子は片づけをし、皿を洗う。おじいさんの白い帽子は回教徒か。貧しい暮らしなのかもしれないが、それが何故かとても羨ましく見えてしまうのは私だけなのだろうか。

8月19日(金)
(3) ウイグル系市場の豪快な朝食

翌朝、ホテルの朝ごはんも味気ないというN先生の主張が通り、S氏友人の案内で、ウイグル系市場へ向かう。途中歩いた道が北京の胡同のような雰囲気で、何となく好感が持てる。四合院と同じような作りで、中に何家族か暮らしているらしい。やはり古い街なのであろう。

市場の店先には羊が沢山吊るされていたが、人影はまばらでひっそりとしていた。既にひと仕事終わったのだろうか。我々は一軒の店に案内される。店の入り口では大きなドラム缶鍋?に羊の肉と骨がぶち込まれ、豪快に料理されていた。湯がいた骨付き肉は端に出され、そこにナンが並べられる。このエキスをナンに吸わせるのだろう。

そして我々がありついたのが、その骨付き肉。ニンジンなどの野菜も一緒に煮込まれており、大盛りで登場した。この肉は柔らかい。そして臭みなどは全くなく、むしろ甘い。また羊でだしを取ったスープも一口飲んで幸せが感じられる絶品。コクがあるがあっさりしている。これは朝からトンデモナイ物に出会った。

ミルクティーも丼で出て来た。煮出した茶にミルクパウダーを入れ、塩を混ぜる。これは豪快な作り方だ。ヤギの乳があればそれを入れるらしい。味は少ししょっぱいが、味わいがある。

爽やかな朝に爽やかない朝食、これぞウイグル、と言える料理ではなかろうか。肉汁の沁み込んだナンを食べながら、幸せを噛み締めた。




新疆北路を行く2011(8)博楽 アラシャン口岸で行く手を阻まれる

(2) ウイグル人医師の嘆き

ここでもウイグル人にお世話になる。今回はお医者さんだった。日が落ちると市内中心部で食事をした。「ここは小さな街で」と言うが、本当に小さな街だった。小さな店に入り、シシカバブーを頬張り、ラグメンを食べる。既に常態化した美味しい夕食だ。

お医者さんは言う。「地域医療は本当に大変だ。昔に比べて病気になる人が増えている。医師の数は足りない。若者は皆都会に行ってしまう」どこかで聞いた光景である。少数民族も以前とは生活形態が変化し、それに対応できずに病になるのだろう。病の急増は体ばかりではなく、心にも及んでいる。経済が発展すると言うことが本当に人間にとって幸せか、との問いにはっきりした答えが出せない。

「日本にも行って見たいが、忙し過ぎる」というお医者さん、実にしっかりした人物である。聞けば、今日泊まっているホテルで明日地区の共産党会議が開催されるが、そこのメンバーでもある。本当に忙しい中、我々の為に食事を付き合ってくれていたのだ。「明日会いましょう」と言って早々に別れる。その後ろ姿に、疲れと諦めを見たのは私だけだろうか。

8月18日(木)
(3) アラシャン口岸

我々は何故博楽にやって来たのか、正直ここに見るべきものはない。それは今回の調査の主眼である辺境調査、ようは国境へのアクセスの為である。カザフスタンと国境を接するアラシャン口岸は博楽から40㎞の距離。朝からそこを目指して出発する。同行する地元の人も別の車で先導してくれる。

バスは順調に進み、国境近くの検問所にやって来た。流石中国の国境、かなり厳しい検問だなと待っていたが、我々の車だけが一向に通過できない。他の車が去るのを眺めながら嫌な予感が走る。

それから少しして、ようやくバスが動き始めた。よかった、関門を越えたと思ったとたん、道に脇に駐車していた車から若者が手を振り、バスを止めた。バスに乗り込で来た険しい表情の若者は誰であろうか。ウイグル人であるらしく、J氏、S氏とウイグル語で話していたい。途中で急に両者の声が和んだ。何と財経大の卒業生だと言うのだ。

では、これから先は何とかなるのだろうか。そう簡単に事は運ばなかった。我々のバスは若者の先導で、公安に誘導され、そこで「口岸付近を1周すること、駅前広場と土産物売り場への立ち寄り、写真撮影」が許可されただけであった。調査どころではない。というか、こんなに厳しいのに、辺境貿易が正常に行われている訳がない。

土産物売り場にはロシア製品と思われるチョコレートや工芸品、衣服などが置かれていた。売り子の英語は片言。基本は中国語を話したが、お客は殆どいなかった。駅も表示を見るとカザフからの国際列車が一日1-2本通過しているようだが、人気は全くなかった。貨車が中心であろうか。街を1周したが、普通の街と変わりはなかった。ただ人が殆どいなかっただけ。我々は記念写真を撮り、早々に引き揚げた。

最近カシュガルやホータンで、テロ事件が発生していた。この件と関係があるのだろうか。説明は一切ない。兎に角過敏になっていることだけが分かる。この結果、明日行くはずだったもう一つの国境、コルゴスへの訪問も断念した。新疆の厳しいさを見た。

皆ガッカリしながらバスに乗る。近くになった皮革工場にはアポが入っており、案内してもらえた。しかしどのようにしてこの場所を確保できたのかなどの疑問には曖昧な答えのみ。やはり国境には複雑な事情がありそうだ。

(4)涼皮と嵐

今日の目的地、伊寧に向かう。ただ博楽に戻り、また高速に乗るのはつまらないと言うことで、北側を通りサリム湖へ向かう。ここには高速はない。運転手は何となく嫌がっていた。何故か。

昼ごはんは地元の人が教えてくれた麺を食べる。道沿いになかなか味のあるお店。外国人が来ることなど、滅多にないようで、夫婦が大慌てて支度にかかる。涼皮と書かれている。涼皮とは小麦で作る春雨の太いの、というイメージか。上に肉片を乗せ、熱々の涼皮が登場した。スープはコクがあり美味い。付け合せの漬物が絶品。炭火で焼いたナンも焦げ目があって美味しい。やはり地元の人が連れて行く店だけのことはある。

天気が急速に悪化してきた。突然の変化はまるで山の気候。この辺りは4000m級の山が近い。大粒の雨が降り出した。私はトイレに行きたくなり外へ。そこへ凄い突風が吹き、危うく吹き飛ばされるところであった。このあたり、遮るものは何もない。慌てて店に飛び込み、しばらく茶など啜っていると、嘘のように収まり、そして晴れて来た。通り雨にしては激し過ぎる。新疆の気候の恐ろしさを垣間見た。

店を出てバスに乗るが、直ぐにガソリンスタンドへ。そこでは素晴らしく晴れた山並みの景色が見える。驚くほどの変化。その辺に停まっている大型バスは軒並み後ろを開けてオーバーヒートに備えている。雨が降った様子は全くない。我々は幻を見たのだろうか。

(5)サリム湖 馬オジサン

天山山脈の山中にあるサリム湖は標高2000m、新疆で最も高い所にある湖。サリムとはモンゴル語で「屋根の上の湖」という意味らしい。湖は青く澄みきっており、いかにも高地の湖らしい。周辺は牧草地帯、いくつものゲルが見られ、遊牧民が羊を追っていた。

湖の風景も美しい。水も透き通っている。ここには汚染というものが感じられない。バスが止まったので降りる。そこにはモンゴル族と思われるオジサンがただ一人、馬を引いて待っていた。好奇心旺盛のN先生、早速馬に乗る。1周2元とか。こんなので商売になるのだろうか。

オジサンに聞いてみると、昔は多くの観光客が馬に乗り、一日で500元稼いだこともあったそうだ。2元なら、250人が乗った計算になる。最近は商売にも陰りが見えているらしい。実はこの場所は多くのバスが停まる場所ではない。オジサンは賭けに出ていたのだ。競争を排除し、少なくても客を独占する。

N先生とオジサン、意気投合してタバコを分け合う。タバコを吸うオジサンの後姿が実に哀愁を帯びていて、何とも言えない雰囲気がある。この美しいサリム湖とオジサン、そして馬、何とも言えない味わいがある。しかしもう少し経つと道が良くなり、オジサンはいなくなり、この風景も失われてしまうだろうか。寂しさを感じる。

綺麗な湖を後にして、そして我々は苦難にあった。山越えの道が相当に悪いのだ。昔はもっと悪かったといい、現在改修中の場所が多い。それはそれでデコボコなのだ。1時間ぐらい揺られただろうか。平らな道に出た時には腰が相当にいかれていた。