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バングラディシュ・スタディツアー2011(10)空港 奇跡の救出劇

一人旅に出たバックを探す

私はラジョウに手伝ってもらい、バック探しを始める。ベトナムのホーチミンで預けたバックが積み間違いでチッタゴンに届いたのは2日後と聞いていた。だが空港職員に聞いても要領を得ない。仕方なく、到着ロビーの方に押し入る。中に職員がいたが、そんなバックはないと軽く言われるがここで諦めては何もならない。そんなことはない、と言い張り、自らバックを探させてもらう。

倉庫には古そうなバックが山積みされていた。引き取り手のない荷物だった。私のバックもこうなる運命か。到着し時に見たターンテーブルの脇にも沢山荷物があったことを思い出し、そこへ行って見る。すると何のことはない、直ぐにバックバックが見付かった。このバック、パリ、ドバイ経由でやってきたと聞く。一人だけいい旅してきたな。

職員は面倒そうに「一度バングラに入国する手続きを取り、その後引き取れ」と言い、待たされる。それでも20分程度でもう一人の職員が登場し、無事解放される。未だチェックインは始まっていなかった。

バックが戻ったことで気を良くした私は、腹が減る。売店でビスケットと飲み物を見付け、学生達に分ける。両替したバングラタカも殆ど使わなかったことが分かる。ようやく8時過ぎにチェックインが始まり、搭乗客が長い列を作る。チェックインカウンターは沢山あるが空いているのは1つだけ、何だか昔の中国を思い出した。ボーディングパスを手にした。すべて順調だ。ロビーは2階にあり、上がって行くと出国手続きが始まっていない。

イミグレの怪

ここで面白いことが起こる。椅子はイミグレの向こう側にしかなく、イミグレに職員はいないが、ゲートは空いている。バングラ人は数人イミグレゲートを越えて向こう側へ行き、椅子に座る。我々も従う。誰一人止める者もない。こんな経験は初めてだ。


   

かなり待っているとイミグレ職員がやって来た。皆ゲートを戻り、列を作る。やはり滑稽だ。誰かが隠れていたら、どうするんだろうか。勿論この空港を使う便は少なく、人海戦術でも探し出せるとは思うが。イミグレ手続も非常にゆっくり進んでいる。

イミグレを潜ると手荷物検査がある。私が荷物を通すと「日本人か」とオジサンが気さくに声を掛ける。「日本人とは友達だ」と私の肩に手を掛けて話す。これまた不思議な人だ。学生達が次ぐ次通るとその度に日本人は友達だ、と言い、ニコニコしながらチェックする。ボディチェックもある。女性は仕切りのある中で行われる。イスラム的だ。

そして本当に定刻に飛行機はバンコックに向けて飛び出した。私たちのバングラの旅は終わった。



バングラディシュ・スタディツアー2011(9)運動会は大成功

11月12日(土)  (11)  七日目

運動会

翌朝運動会当日、空は快晴だった。今日は学生達に緊張感がある。前日の練習ではどうもうまくいかなかった。一日でそれを修正するのはかなり大変なことだ。先ずは自分達で昨晩検討した内容を実行してみる。大縄跳びなどはやらないことにして、台風の目と二人三脚にかける。

台風の目は5人が横に並び、一本の棒を持って進む競技。小学生だけでこれを行うとなかなか進まないため、各グループに一人大学生が参加して、リードすることとした。また4列に並んで前へ習えをしている。これはうまく行った。子供達も安心して前へ進めた。初めは心配そうだった校長先生や他の先生達も楽しそうに見ていた。子供達は実に生き生きと躍動した。

次は難関の二人三脚。二列に並んだ小学生の足に布を巻く。これで大丈夫なのか。案の定、低学年の子達は自分で進めず、先生が両脇から抱えたり、二人で走って転んだりしていた。それでも泣いたり叫んだりする子はいない。皆ちょっと恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべ、楽しそうだ。そう、子供はこうあるべきだ。自分が子供の頃の照れ笑い、思い出した。

今の日本の小学校には運動会はあるが、危険は極力避けること、競争も避けること、が命題だと聞いたことがある。しかしそんなことでは、運動会をやる意味がない。新しいことに挑戦する、みんなで競い合うことこそ、重要だと思う。バングラの学校には運動会はないだろうが、既に生活その他で厳しい競争に晒されている。

最後にもう一度台風の目が始まる。皆気に入ったようだ。更には先生チームが登場し、会場は沸いた。校長先生も参加した。先生のこんな姿を見ることは日頃はないのであろう。いいことだ。皆で一緒に記念写真を撮り、お菓子を分けて閉幕した。お菓子を食べる時にごみを屑籠に捨てることを徹底していたのもよい。

お土産を買う

午後は少し休み、夕方お土産物屋さんを訪問。街の大通りのビルの中にあるこのお店、少数民族が手で作る服や小物、そして仏像などが置かれていた。このお店はドイツのNPOが支援しており、材料費などを負担し、手間賃を与えている。

面白いのはこのお店の売り子さんは、例の小学校の先生だったこと。午前は学校の先生、夕方からはNPO職員。これが今の学校の現実であり、先生という職業だけでは食べていけない。我が下宿先の先生も、実は家で子供たちを教える塾をやっている。

普通私はお土産を買わない。特に最近は荷物が多くなることもあり、また常に旅をしているせいもあり、買わない。だが今回何故か、目に付いた仏像があった。刺繍が施された小さな袋とピッタリで買ってしまった。これもご縁であろう。今後この仏像が何かの時に出て来るような気がする。ご加護あれ。

最後の夜

最後の夜がやって来た。食事は最後まで美味しく、豪華だった。海鮮がふんだんにあり、エビやイカなどが使われていた。またゆで卵をちょっとあげた卵が美味だった。野菜も新鮮で味付けも日本人に合っていた。ある意味ではここはバングラディシュではないのかもしれない。結局カレーの様なものは一度も食べずに終わる。


   

先生の家族も別れを惜しんでくれる。13歳のチュミは小遣いがあるのかどうか分からないが、大学生全員と私に個別に記念品をくれた。これには本当に参った。何だかとても温かい気持ちが籠っていた。これは他の家族も一緒で、記念品が大学生に渡されて、名残を惜しんでいた。私もTシャツを貰った。少し小さく体にぴったりだったが、そのフィット感が、バングラを忘れるな、と言っているようだった。

家族の記念写真を撮った。お爺さん、お婆さん、先生と奥さん、息子、先生の妹そしてチュミ。皆いい顔をして収まった。我々がいた一週間、彼らは実に不便な生活をしていたはずだ。部屋を明け渡し、トイレやシャワーも提供してくれた。日本の家庭ならとても受け入れられないというだろう。そこには何かが流れていた。そして夜は深まった。

(12)   八日目    帰国へ

午前3時半、起床。飛行機出発は午前10時20分だが、この地では何があるか分からない。朝早く出て、兎に角チッタゴン空港に到着しておくことが大切。ましてや私はバックパック救出という別のタスクもある。

皆流石に眠たそうだが仕方がない。勿論外は真っ暗だ。だが、バスが来ていなかった。不安が過る。バスが来なければ何ともならない。ラジョウも焦って携帯で電話している。勉強している学校のあるチッタゴンに戻るため、同乗するという先生の妹もちょっと不安そうだ。その時バスが闇の向こうから音を立ててやって来た。とうとうコックスバザールに分かれる時が来た。そしてあっと言う間にバスは我々を乗せて走り出した。

それからは1週間前に来た道をひたすら逆走したはずだ。だが殆どの者は寝ていただろう。外を見ても暗くて何も見えないのだから。7時前にはチッタゴンの街に入り、先生の妹は降りて行った。そして何の障害もなく、空港に着いた。外はすっかり明るくなり、日も差して来ていた。

空港内に入るとチェックインは始まっていなかった。だがS氏は目を輝かせて「カウンターにバンコック行きの表示がある」と喜ぶ。飛ばない場合は表示されないらしく、定刻出発が見えてきた。これは奇跡的な出来事らしい。

バングラディシュ・スタディツアー2011(8)難民キャンプに突入する

11月11日(金)  (10)  六日目
チョイバラ お寺

今日は朝からテクナフ方面へ遠足。朝食はもち米ご飯とココナッツのスイーツ。朝からちょっと甘かったか。

8時半にチャーターしたバスで出発。バスはラジョウ家の前まで入ってきており、相変わらずの混雑でメインロードへ出るのには苦労した。その後南下。今日はバングラディシュの一番南の街へ行く。

実に見事な水田が広がっていた。その間に村が点在し、そこにはバザールと書かれた野菜市場、魚市場が道の両側に店を出していた。殆どは露店だ。バスは中々進まない。1時間ほど行くと、チェックポイントと言う名前の警備ゲートがあり、軍が管理しているようだ。しかし警備兵がバスの車掌?に話し掛けると先生が「外国人だ」と叫ぶ。行け、というジェスチャーになる。ミャンマーならすべて身分証チェックだから、かなり軽い。

道の前方両側に山が見えてきた。右はバングラの山、左はミャンマーの山。とうとうミャンマー国境まで来た。何となく感慨深い。タチレイに行って以来5年ぶりの国境だ。郷愁も涌く。ミャンマーとの国境はこの山ではなく、川が間にある。

1時間半ほどで、チョイバラの村に到着。お寺のようだ。バスを降りるとお寺の門から参道に子供たちが列をつくり出迎えてくれた。皆恥ずかしそうに、控えめな表情だ。聞けば、今日は金曜日で学校は休み。我々が訪問するということで、その為だけに来てくれたようだ。

本堂で休む。黄金のブッタがここにもある。何となく落ち着く。ここの老僧は80歳を超えているが、元気。昔日本にも行ったことがあると言う。英語も話す。若者の写真撮影にも気軽に応じている。もう一つの堂にはミャンマー同様あのパチンコ屋を想起させるライトが点滅する。どうしてこれが必要なのか、未だに不明だが、ここがミャンマーと同系統だということはよく分かる。

難民キャンプ

実はお寺に行く前に、街道沿いに奇妙な集落を見た。Sさんに聞くと事もなげに『難民キャンプ』と答える。難民キャンプ?一体どこからどんな難民が来るのだろうか。川向こうの隣の国、ミャンマーは今何となく対外開放ムードが漂い、軍事政権であることも忘れられがち。だが、ミャンマーに居る少数民族は何らかの圧力を受けているようだ。このキャンプに来ている人々はミャンマーに住んでいたイスラム教徒述のベンガル人。昨年あたりからキャンプ人口は急増しているらしい。

ちょっと降りて遠くから見るつもりが、何だかキャンプに紛れ込んでしまう。コックスバザールの学校同様、子供達がワッーと大学生を取り囲み、交流が始まってしまう。正直貧しいキャンプ、家も掘立小屋のようで、中には簡単な調理器具が見えるだけ。食べる物も支給されているのか不安になるような場所。私だったら絶対に入って行けないな、という所に学生達はどんどん入って行き、言葉が通じなくても笑顔で進んでいく。

きっと普段は楽しいことも少ないのだろう。知らない人が来ただけで子供が喜び、子供が喜べば、大人も何となく笑顔になる。こんな連鎖、今の日本に必要な気がする。皆が厳しい顔をしていれば、子供達も不安になる。

数千人が暮らすというキャンプの一部を歩いて、街道に戻る。大勢の人が付いてきて、別れを惜しむ。こんな光景、これまで想像できなかった。若い力は恐れを知らない。この力に日本を委ねれば、何とかなるかもしれないのだが・・。

テクナフの市場

再びバスに乗り、国境の街テクナフへ。左側に川がはっきり見えて来てくる。ビューポイントでバスを降り、ミャンマーを撮影する。その先左側には港も見えたが、門は閉じられていた。

 

テクナフはそれほど大きい街には見えない。我々はバスを降り、ラジョウに従い、街中を通過し、マーケットへ。ちょうど昼時のせいか、人通りは少なく閑散としている。このマーケット、何でも売っている。服や雑貨から、携帯や電化製品まで。全て国境を越えて来た輸入品で、良く見ると漢字やタイ語が表示されている。この街からバングラディシュ中に商品が送られていくらしい。

 

 

 

 

リンゴを売っている店で聞くと、中国北部から来たものだという。一体どうやってくるのだろうか。雲南省までは中国国内をトラックで、ミャンマーに入って積み替えるのか。そして最後が船で渡って来るらしい。何日かかるのだろう。このリンゴの鮮度はどうなのだろうか。一度このルートでバングラから中国まで辿ってみたい。しかしS氏によると、アジアンハイウエーもミャンマーで切れており、個人がこのルートを取ることは難しいようだ。

 

川は国を隔てているが、あまりにも狭い。小さな船が沢山停泊し、いつでもミャンマーへ行くことが出来る。但し外国人は実質的に通行禁止らしく、簡単ではない。行けないと言われると行きたくなる、特にミャンマーは過去4回も行った土地だが最近ご無沙汰している。ミャンマー旅行が思い出される。

チョイバラ② 穏やかな村と街道の大喧嘩

テクナフを離れ、チョイバラの村に戻る。何とランチの用意がされており、頂く。魚の煮つけが美味い。ご飯にかけるふりかけの様なものがまた美味く、ご飯が進む。

食事が終わると皆思い思いに村を散策する。午後の日差しが心地よい。村は時間が止まったかのように静まり返り、人々もお昼寝しているに違いない。そんな中をミャンマーが見える川沿いに行って見る。防砂林がある土手、その向こうにミャンマーの山々が広がっている。本当に近い。

村の中には池があり、生活用水をここから汲んでいる。これは大変な作業だが、子供達も一生懸命運んでいた。豆を突いているおばさん、一体何が出来るのだろうか。一軒の大きな家に皆が集まる。高齢のお婆さんが嬉しそうに我々を迎える。ここでも学生達は言葉が通じなくても、心を通じさせようとしていた。道では子供達とシャボン玉で遊ぶ。ここでも皆が笑顔になる。

帰りの道は心地よく眠りに着いた。だがある街を通過した時、事件が起こった。相当人が集まっていた道沿いで、バスが前方を塞がれてしまう。どうするのかと思っていると、突然前のバスの運転手と通行人の一人が大声で口論を始める。どうやら動いたバスに体が触れたようなのだが、それにしては相当の勢いだ。

そして怒った通行人の若者はバスに向かった石の塊を投げた。ところがその石の塊は目標をそれて何と我々のバスを直撃。幸い大事にはならなかったものの、窓ガラスでも割れればけが人が出たかもしれない。バスの運転手は一瞬で立ち上がり、外へ飛び出していった。多くの群衆がいる中では身動きも出来ず、石を投げた若者を捕まえることもできず、戻ってきた。

もし若者と乱闘にでもなっていれば、我々の帰路も不安となっていた。最悪の事態は免れたが、こういう時は学生と一緒なので少し心配になる。学生達は何が起こったのかもわからず、ただただ事態を眺めるのみ。何と3時間ほどでコックスバザールに辿りつく。

夜は明日の運動会の打ち合わせ。今日の問題点を確認し合い、何とか自分達で異国の小学生をまとめ上げ、運動会を成功させようと夜遅くまで真剣な討議が続いた。果たして結果はどうなるのだろうか。

 

 

バングラディシュ・スタディツアー2011(7)マングローブの植樹をするも

ビーマン航空オフィスはダラダラと

途中まで見学して学校を抜け出す。Sさんとラジョウと3人でビーマンバングラディシュ航空のオフィスへ向かう。オフィスは海外沿いにある。基本的に飛行機に乗るような人は、ビーチ観光に来て、高級ホテルに泊まる人だからだろう。

中に入ると殆どお客は居らず、職員もお休みモード。昔中国であった嫌なムードを感じる。お客と航空会社の立場が逆転している。お客が載せて頂くのである。先ずは全員の帰りのリコンファーム。既に多くの国で無くなっているリコンファームであるが、未だ何が起こるか分からないこの国では必須のようだ。十数人分ということで、長い時間を要する。PCはあるのだが、作業効率が恐ろしくノロい。

そしてそれが終わってようやく、私の要件。例の無くなったバッグの確認だ。既にバンコックの旅行社の人がタイエアーにコンタクト済みで、バッグは何と、パリへ行き、パリからタイエアーでドバイに運ばれ、チッタゴンへの便が無いタイエアーはアラビア航空という航空会社に委託して、ドバイ‐チッタゴンを飛ばしているという。一昨日にはチッタゴンへ到着との連絡であった。

しかし、このコックスバザールのオフィスではまるで難を避けるように誰も取り合おうとはしない。確かに空港はチッタゴンにあるが、同じ航空会社だろう、などと言ってみても始まらない。ラジョウがバングラ語で、Sさんと私は英語で何度も訴え、ようやく、職員がチッタゴン空港へ電話したが、誰も出ないということで、その電話番号を渡され、ジ・エンド。バッグの行方は要して知れず、帰国する際、空港での拾い上げる、一発勝負となった。

(9)    五日目午後   クラクシ村へ

航空会社から戻ると、授業は終わっていた。学生達もホッとしたように和やかになっていた。子供達も更に打ち解けて来ていた。やはり1回限りの訪問ではダメ、毎日通って少しずつ成果が出て来るようだ。

昼はクラクシ村へ行くという。もう一つのボランティア、川にマングローブを植えるという活動だ。またオートリキシャーで行く。村の外れのお寺へ入る。外は結構暑いのだが、お寺の中は涼しい。

ここでもお昼が振舞われる。学生達は積極的に食事の用意を手伝っていた。食事は美味しかった。最近食べ過ぎだと感じる。この村には見事は水田が広がっていた。何とも懐かしい光景だ。その向こうに川があり、魚を取る小舟が浮かんでいる。何とも癒される風景だ。

そしてマングローブの植樹が始まる。午後の日差しは思いのほか強く、また川の中を歩くのはかなりの体力を要するようで、学生達は苦戦する。それでもラジョウに先導され、徐々に川に慣れ、植えていく。

この活動、去年も行われたようだが、実は植えたマングローブは殆ど育っていなかった。植えるのも大変だが、その後の管理はもっと大変なのだろう。日本のODAは導入はするが管理はしない、と言われ、実は評判良いとは言えない。この企画も管理を考えないとまさに根付かない。自己満足に終わる可能性が高い。地元の人々も、まるで何かの出し物を見物するように、河川敷に集まり、見ているだけ。因みに私も傍観者。

活動が終了し、お寺に戻り、足を洗う。地元の少女が一生懸命、水を汲んできて渡す。彼女達はこの活動をどう見ているのだろうか。聞いてみたが、言葉が通じない。お互い笑顔を送るだけ。先日訪れた村もそうだったが、郊外には自然が残り、素朴な人々が暮らしている。我々が本当にすべきことは何か、考えさせられる。

ネットカフェ

村から戻り、休息。何となくボーっとしていると、やはりメールチェックはしてみたくなる。ネット病だろうか。ある意味で現在の状況は世の中から隔離されている。基本的にはそれでよい、いやむしろそうあるべきなのだが、時々応対が必要なメールも来るので、仕方がない。

それで思い出したのが、先生の家からお寺に行く途中にあった『ネットカフェ』。名称は『Google Cyber Café』というから凄い。英語も通じそうだ。PCを持って行って見ることにした。

この店には3台のPCが置かれ、小さな個室になっていた。何を見ているか知られないような配慮か。オーナーは英語が出来、会話した。最近バングラディシュ、コックスバザールでもインターネットの普及が著しい。若者はPCへの抵抗もなく、高校生などが良く来ているという。1時間25タカの料金が高いかどうかわからないが、実際にPC3台は高校生に占拠されていた。

一体何を見ているのかと気になってちょっと覗いてみると、何と2組はFacebookだった。かなりの高校生がアカウントを持っているらしい。盛んにアップし、盛んに書き込みしていた。アラブの春、などと言われたFacebook革命、ここバングラにも届いているようだ。

ところで私のPCを接続してみたが、全て文字化けとなる。何度やっても駄目だ。分かったことは日本語を読むためにはソフトを入れないといけないのだが、その金額が50ドルぐらいする。これでは誰も入れない。バンコックあたりでソフトを買ってきて、導入すべきだが、今はどうにもならない。結局メールチェックできずにトボトボ帰宅する。

ハローウイン?

夕飯を頂く。今日はエビの煮つけが出た。いよいよ日本食に近づいている感じがする。ご飯を一緒に食べると食が進むし、日本を思い出す。

外が何だか騒がしい。真っ暗な中、子供達が何人かやって来て、口々に何か叫んでいる。先生の奥さんがその子達に何やらお菓子を渡している。子供達は嬉しそうに受け取り、また別の家に向かう。

これって、西洋ではハローウインじゃないのか。香港に住んでいた時、ハローウインは恐怖だった。団地の子供という子供が家のベルを鳴らして、押し寄せてきた。当日外出したり、居留守を使ったり、日本人はまじめだから大変だった。

何かラカインのお祭りと関係があるのだろうが、説明を受けることが出来ず、事情は分からない。それでも偶然、このような行事が見られることはラッキーなのだろう。

バングラディシュ・スタディツアー2011(6)運動会の準備をしたが

ライスマーケット

帰りは歩いて。メイン通りの一本北側を歩いていると、ライスマーケットに通じていた。ライスマーケットと言っても、米屋が並んでいるだけではある。しかしそのコメの種類が多いこと、そして我々にはとても区別できないが、かなりきめ細かく等級などが分かれていること、が面白い。

店先にはカップに盛られた米が並んでいる。お客はこのコメを眺め、触り、そして品定めを行うのだろう。米を入れた袋はジュートなのだろうか。私は自分が何も知らないことを少し恥じた。しかし我々が現在生きている世界では、既に何も知らなくても生きて行けるし、エコなどと言われても、あまり理解しようとしなくなっている。

コックスバザールの街は非常にシンプルで落ち着いていた。まだ車もそれほど走っておらず、空気がゆったりと流れている。カラフルな幌を付けたリキシャーが行く。そんな中に、真新しい建物も出て来た。何とベンツの代理店も兼ねている。この街にも嵐がそこまで来ている。

校庭整備

夕方4時に集合して、学校前の校庭を整備する。学校との交流イベントとして、運動会を開催することにしたのだ。ここはある程度の広さがあるが、砂と土が入り混じり、髙さも一定ではなく、運動会をするには、整備が必要。またゴミも大量に落ちている。

ラジョウがどこからから鍬を借りて来て、多少平らになる。大量のごみを丹念に集め、火を点けて燃やす。一部の学生及び地元の子供たちは火が点いている上に土砂を投げ込むため、火が何度も消える。焚き火の経験はないのだろうか。

この一連の行為を遠巻きに地元民は見ている。大半は学校と関係ないイスラム系だと思うが、何だか不思議な感じ。日本から来た人間がごみを拾い、地元民がそれを眺める。これがボランティアと言うものだろうか。子供たちは遊び半分に見よう見まねで参加するが、大人が行動を起こすことは少ない。

学校の先生では我が家の家主ただ一人が作業に参加している。そんなものだろうか。疑問を呈せざるを得ない。作業は暗くなるまで続いた。

その夜学生は明日の準備、我々は昨晩同様反省会を屋上で行った。

11月10日(木)   (1)   五日目午前

ラカインの祭り

翌朝も快晴だった。普通同じ場所に数日居ると飽きて来るのだが、ここはなかなか居心地が良い。それは先生一家の献身的なサポート、日本の大学生の積極性、そして何より日々起こる変化のなせる技だろう。

今日も朝は学校でのボランティア活動。いつものようにお寺に行くと、様子が違っていた。大勢の人がいて、飾り付けがなされていた。先日はイスラムのお祭りであったが、今回はラカインのお祭りらしい。独特の雰囲気がある。

通りの方から人々が歩いてくる。よく見ると先ずは若者男子がやってきた。造花に飾りのお札が付けられた物を持っている。供え物だろう。ミャンマーでも見られるロンジーを穿いている。Tシャツにジーンズというラフなスタイルもいる。

次に若い女性たちがやってきた。こちらはほぼ統一されており、白いブラウスに黒っぽいロンジー、肩から胸にかけて、布が掛かっていた。手には供え物として、布や飾り物を持っている。そして子供たち、女の子がやってくる。お姐さん達と同じ格好の子もいれば、洋服の子もいる。何とも可愛らしい。

このお祭りがどのような意味を持っているかは聞き漏れたが、何とも素朴な雰囲気が良かった。

学校② 体育授業の意味は

学校へ行く。2回目のこともあり、子供達も笑顔で迎えてくれる。学生は2-3人ずつに分かれて教室に入り、日本語を教えるなど、何らかの活動を開始。いい雰囲気になってきたが、未だに子供達に戸惑いが見える。

外では大縄跳びが始まった。日本では小学校などでやっているので違和感がないが、説明を受けた女の子たちは怯えて動かない。学生が見本を見せると、なるほどという顔をしたが、いざ自分がやるとリズムも取れないし、縄が当たるのでやりたがらない。この種目は運動会では使えない。

校庭では一列に並んで、走る練習。こちらは比較的スムーズ。しかしこの地の学校には体育の授業はあるのだろうか。運動会企画はどうなるのだろうか。体育の授業などなくても、皆外で楽しく遊んでいるのだろうに。運動を教えるとはどういう意味があるのか、今まで使っていない身体機能を使うことを促すのだろうか。その後は寄贈したサッカーボールを持ち出し、男子チームが炎天下で大活躍。





バングラディシュ・スタディツアー2011(5)日本の学生もなかなかやるね

(5)    三日目午後  帰りトラブル

それから豪華な昼ごはんが出た。特に鶏肉が美味しかった。村を走り回っていた地鶏であろう。その後は何となくダラリ。学生達は村中を歩き回り、その後ろをちょこちょこと子供達が着いて行く。村外れの田園風景はキレイだった。

彼らは村の学校に向かった。男子チームは校庭でサッカーを始める。皆暑い中、真剣にボールを蹴る。いいね。女性チームは隣のお寺の境内で、みんなで輪になって踊る。こっちも最初はちょっと恥ずかしそうだったが、直ぐに笑いがこぼれる。何だかとても懐かしい、昔の子供たちを思い出す。

校庭の向こうに校舎があった。そこを訪ねると、プレートが嵌っていた。何とこの校舎、日本政府の寄付だった。しかしその後のケアーがされている様子はない。これが日本の現状だ。やる時はやるがアフターケアーが無い。中国でも他のアジアでもよく聞く。考え方を変えないと支援は逆効果となる。

帰りも分乗して戻る。ところがオートの運転手が途中で燃料を入れにガソリンスタンドへ。そしてその料金を払えと主張し出した。言葉は通じない。ラジョウとの話がどうなっていたのか分からない。携帯もないから連絡も付かない。私は支払いを拒否した。

すると男子チームリーダーS君が『運転手は金が無いからどうにもならないでしょう』と言って、ポンと500タカを渡した。これで運転手もニコニコして走り出す。その後ラジョウには事情を説明したが、その金が戻ったのか、料金はどうなったのか、忘れてしまった。

しかし、中国などで我々がやって来た交渉はこのような場合、決して譲らない。譲れば相手のペースとなる。勿論運転手は悪い人ではないが、こちらを試している、そう見てしまう。しかし若い学生はそんなことに頓着はない。金で何でも解決するのはどうかと思うが、場合によっては見切る、ということも大切かも知れない。学生に教えられたような、ちょっと釈然となしないような、不思議な気分となる。

ネットと髪の毛工場

村から戻る。既に2日以上インターネットに接続しておらず、メールチェックもできていない。何とかしたいと思っているとSさんが『オフィスで出来るのでは』と誘ってくれる。どこのオフィスかよく分からなかったが、あるビルの2階に行くとPCが3台並んでいた。これなら繋がるだろうと期待する。

ところがこれが繋がらない。Sさんはちゃんと繋がる。何が違うのかと見てみると、SさんはWindows XP、私はWindows7という違いだ。私の方が新しいのに繋がらない。パスワードを入れる場所がどうしても見つからないのだ。これは面白い現象で、新しい方が先進的であり、社会も進歩しているという前提で作られる。ところがバングラでは未だにアナログなのである。昔のソフトはそれに対応できるが最新版は既に想定していないらしい。新疆でも一度経験した。これは意外と重要なヒントかもしれない。

仕方なく置いてあるPCを使うが、何とメールチェックするためのパスワードが合わない。こちらは私の記憶の問題か。本当にやむを得ず、仕事中のSさんのPCを借り、メールチェックすることに。恥ずかしい。

ラジョウがこのビルの1階を見学しないかという。なぜだろうと思いながら、中に入って驚いた。だだっ広いフロアーに数人の女性がいたが、彼女たちの前には大量の髪の毛が・・・。それも人の髪の毛だという。

ラジョウが説明する。『これはバングラ内で人から髪の毛を買い、ここで仕分けし、中国に輸出する。最終的には中国で加工され、日本へ輸出される』。一体何??それは何とかつらであった。これは日本との繋がりを示すものではあるが、何となく、微妙な雰囲気になる。かつらの髪の毛はバングラディシュ人の人毛。うーん。

11月9日(水)  (6)   四日目午前   学校①

とうとう今日は学校に生徒が登校してくるらしい。学生たちの主目的である『学校でのボランティア』が実行できる日が来たのだ。朝から何となく、皆ソワソワ、ウキウキ。

S君などは、学校で子供達と遊ぶシャボン玉を取り出し、試に吹いている。家の子供達がなんだなんだとやって来て歓声を上げる。こういうものは万国共通、子供は喜ぶものだ。そのシャボンは家の庭髙く舞い上がり、青空によく映えた。

学校へ向かう。今日もイスラム系の子供達が出迎えたが、適当に挨拶を交わし、学校の中へ入った。学校の子供達は我々日本人に似ていた。積極的に交わって来るイスラム系とは明らかに異なり、ハニカミながらこちらを見ていた。

校長先生が来た。校長室でお話を聞いた。学校は厳しい状況に直面していた。老朽化した校舎を修理する費用はなかった。教師への給与支払いすら苦労していた。18年前にボランティアで始まった学校は転換期に来ているように見えた。

実は今回一人の日本人女性が同行してきていた。Nさん、公務員であったが既に退職しており、縁あってこのプロジェクトに関わっていた。彼女は過去に優秀な生徒がダッカの大学に行く費用を援助したり、この学校ヘも多大な支援をしていた。『未来のある子供達へ支援したい』という熱意があり、この困難な旅も何回か経験していた。

今回も学校で使用するPCを購入し、重いにもかかわらず、携えて来ており、校長に寄贈した。『たまたまご縁があって』というが、一体何がそこまでNさんにさせるのか、気になる所だが、あまり詮索するのも、と思い、聞かずに過ごす。学生代表も使い古したサッカーボールを寄贈。それから各教室に分かれ、子供たちの中に入り、日本語を教えたり、折り紙を折ったり、様々な工夫をして交流を始めた。最初は戸惑う子供もいたが、徐々に慣れ、少しずつ笑顔が出て来る。

そして休み時間にシャボン玉が飛び交い、皆が笑顔になって来た。授業と言いうより交流会。子供達が学生を取り囲み、ワイワイ始まった。こんな時間が嬉しい。

(7)    四日目午後    銀行

学校は午前で終了。午後はSさんと市内の銀行へ行って見た。バングラディシュの銀行と言えば、例のマイクロファイナンスのグラミン銀行ばかりが有名であるが、普通の銀行はどうなのだろうか。とても興味があり、出掛ける。

市内にはいくつかの地場銀行があるようだったが、驚いたのはビルの1階に銀行が無かったこと。2軒行ったが2軒とも2階にあった。これはどうしてであろうか。強盗が多いのだろうか??

1軒目は古い国有銀行とのイメージで、店内は薄暗く、椅子も汚れていた。正直銀行というよりどこかの中堅企業のオフィスに来た感じだ。預金レートや両替レートを聞きたかったが、担当者がいないなどで、なかなか話が進まなかった。この銀行、日本で言えば数十年前の雰囲気か。銀行が床の間を背にお客に対している。資金不足のバングラでは、これが実態だろう。

2軒はすぐ近所になったが、1軒目とは全く異なっていた。明るい雰囲気、きれいなオフィス。最近出来たらしい。担当者は英語を話し、スムーズに応対していた。でも面白いのが、高の預金金利はこの新しい銀行の方が高いということ。新設銀行で信用が不足しているのだろう。やはり国有は強いのか。

タカの金利は年率で10%を超えているようだ。ただ外国人が口座を開設するのはかなり面倒に見えた。昔の中国を想起させる。金は欲しいが、変な金は困るということだろう。因みにどちらの銀行もお客は少なかった。ATMはあったのでそれを使っているのか、それとも銀行に預ける習慣が無いのか。

 

バングラディシュ・スタディツアー2011(4)ボランティアは誰の為に

タナカ

また子供達が庭に遊びに来た。珍しい人間が来たので興味津々なのだろう。学生達はどこかへ行ってしまったので、私が相手をした。バドミントン、もう何十年もやっていない。無理をすればけがをするので、おっかなびっくりだ。でもその内、だんだん真剣になり、そしてとうとうサンダル履きの足がスリップ。危うく肉離れを起こしそうになる。歳だ。

さっきランチを食べたばかりだが、3時のおやつになる。チャイを入れ、ビスケットが出る。インドでも感じたが、この辺のビスケットはかなり美味しい。チャイにも合う。イギリスの影響なのだろうか。

学生のうち2人がいないなと思っていると、何と顔に白い物を塗って登場した。ミャンマーでも見たあのタナカである。木片を臼のようなもので擦り、その汁を塗る。一種の化粧だが、日焼け止めなどにも良いらしい。ラカイン族がバングラディシュとミャンマーに跨って生活してきたことがよく分かる。

学生達はかなり積極的に現地の物にチャレンジしている。でも男子がタナカか、まあいいか、何もしないより。最近日本の若者が海外に行かなくなったと言われて久しい。しかし勿論海外に行く者もおり、そしてそこで何かを得、エンジョイして帰る者もいる。同行している彼らは少数派なのだろうか。

世界一長いビーチ 

夕方Sさんが『ビーチに行こう』というので出掛ける。何と男子は私が昼寝?している間にビーチまで歩いて行き、帰りはリキシャーで帰って来たという。いいね、このバイタリティ。

 

我々は女子チームと一緒にビーチに向かう。ラジョウがいるので、道に迷うこともなく行けるが、男子チームはよく訳も分からず行ったものだ。歩いてもそう遠くはない、ということだったが、結構歩いた。メインの通りをひたすら歩くということだったが、途中でショートカットした。それでも20分以上は掛かったか。

 

ビーチが近づくとホテルなどが見えてきた。Sさんとラジョウはホテルへ向かう。外貨の両替をするためだ。何しろお祭りで銀行も閉まっている。ホテルなら両替してくれるだろうと行ったようだが、結果はダメだった。やはりまだ金融面は相当遅れていると思われる。

 

夕方だから人がいないだろうと思ったが大間違いだった。何とビーチには人が溢れていた。しかもおかしいのは誰も水着を着ていないこと。この国では裸になって海水浴する習慣はないようだ。そうであれば暑い日中より少し涼しい夕方に人が出て来るのは道理。それにしてもどんどん増えて来た。

 

このビーチ、ガイドブックによれば、世界一長いビーチとある。確かに向こうまで繋がっているが、これが120㎞も繋がっていると聞くとちょっと首を傾げたくなる。でも、この国ならば繋がっているような気もする。砂遊びする子供がかわいい。

 

女子チームが写真を撮り始める。すると大勢の視線が一斉に彼女達に注がれる。イスラム圏で肌を露出している女性は極めて珍しい。しかもビーチに居るのは多くが男性。どうしても目立ってしまう。それでも彼女達はめげない。記念写真を撮りまくる。その光景を周囲のバングラ男性が写真に撮る。実に不思議な光景が繰り広げられる。Sさんによれば、毎年の光景だそうだ。

 

とうとう暗くなる。引き上げようとするとお店がいくつか出ていた。女の子たちは土産物を手に取る。その間、私はようやく見つけたTシャツとタオルを物色する。ちょっとゴワゴワしているがしっかりしたタオルだ。Tシャツは何だか英語が書いてある。取り敢えず、必要枚数を買い込む。これで何とか生活できる。

 

帰りは電気自動車に乗る。中国製とかで、小型だ。後ろに漢字が書かれている。中国から中古を輸入したのだろうか。

 

夕飯は魚に鶏肉。豪勢だった。イモの煮込んだ物も美味しい。食事には本当に満足している。シャワーを浴びる。水しか出ないが十分だ。男子チームが次々に入りに来る。私は12時過ぎまで寝られない。

11月8日(火)   (4)  三日目午前    薬

翌朝起きてみると男子チームの一人、T君が何やら顔をしかめている。聞けば、昨晩何かに刺され、右腕が張れ上がるほど、食われている。私も先日インドのデリーで同じような症状になったが、結局何もせずに放置。相当の痒みがあったが、いつしか治っていた。

先生の奥さんが何か塗り薬を持って来た。何かを磨り潰して作った自家製薬かもしれない。かなり毒々しい色の薬を腕に塗られたT君、痛々しい。ただ後で聞くと、かなり良くなったという。ラカイン族の人々の昔からの知恵は偉大であった。

朝ごはんにもち米が出た。実に餅もちしていた。ココナッツをかけた所はミャンマーのシャン州で食べたものと同じだった。

ゴミ拾い

食後、昨日延期したパゴダ周辺のゴミ拾いに出掛けた。今日もいいお天気。お寺を通って学校の前に行くと今日もイスラムの子達が待ち構えていた。学生達が教えた日本語も段々流暢になり、挨拶も『おはよう』になる。

パゴダ周辺のゴミは相当あった。初めはどうするのかと見ていた学生達もバラバラになり、拾い始める。ラジョウが焚き火を始める。拾ったゴミはそこにくべられ、焼かれる。日本では今や焚き火禁止の所が多い。久しぶりに焚き火した。焼き芋したい気分。

燃える火を見ながら、各人考える所があったと思う。しかしこのボランティア、ちょっと空しい物がある。地元の人が殆ど参加していない。地元の人がしないことをしている外国人は自己満足に過ぎないのではないか、私はそんな風に感じた。学生はどうだったろうか。

パルディソ村へ

活動後、昼飯前に出掛ける。パルディソ村というラカイン族しか住まない場所へ行く。オートリキシャーと電気自動車に分乗して行く。コックスバザールの市内を抜け、農村地帯に入った。かなり豊かな田園風景が広がる。風も心地よい。木で作られた素朴な家が続く。

30分ほどで村に到着。そこはこじんまりした、のどかでいい感じの村。ある大きな家に入る。高床式の家の下にテーブルとイスがあり、座る。風が爽やかに吹きすぎる。今日は村のミーティングに参加した。

実は村には以前交通手段がなく、2年前に我々が乗って来たオートリキシャーと電気自動車が買いこまれたが、この運営がなかなか上手くいかない。車の修理費の方が乗車料金よりかさむこともあるようだ。ではどうするか。

我々日本人なら『何とか収入増加の道を探る』『経費節減方法を検討する』などの話が出るだろう。勿論この会議でも出た。だが、村人たちは今一つ煮え切らない。『車が必要か』と聞けば、必要と答えるが、その為に努力するか、と問えば沈黙する。この考え方の違いはビジネス上でも必ず押さえる必要がある。結局結論は出ず、もう少し様子を見るということになる。不思議だが、結論を急がない会議もよいかと思う。

バングラディシュ・スタディツアー2011(3)イスラムの浸食とは

少数派 ラカイン族

そして9時過ぎに集合場所であるお寺へ向かう。お寺は先生の家から歩いて3分ぐらいと近い。実はイスラム教徒が90%を占める国、バングラディシュにおいて、極めて少数派であるラカイン族という仏教徒にお世話になっているのである。先生も、空港に迎えに来てくれて、全てを取り仕切ってくれているラショーもラカイン族なのである。

お寺は外の喧騒から外れており、静かな空間だった。階段で上に上がると、気持ち良い風が流れる一角があり、腰を下ろす。お坊さんがやって来て、中を見せてくれる。これも長年このお寺及び仏教徒に貢献してきたSさんのお蔭だ。

そもそも何故、ラカイン族との接点が出来たのか。それは1990年に森智明さんという現地でマラリアで亡くなったジャーナリストの遺志を継ぎ、友人であったS氏が中心となり、立ち上げたボランティア団体だった。学校の脇には森さんを偲ぶ記念碑が建てられており、長く学校を見守っている。

イスラムの浸食とは

そして今日の活動は学校の横の小山の上にあるパゴダ付近の掃除と決まる。お寺から学校の前を通る。するとどこからともなく、子供たちが出て来て学生の方に近づく。学生たちは学校の生徒だと思い、挨拶をし、交流が始まる。言葉は出来ないが、お互い何となくよい雰囲気になり、笑い声が広がり、学生から離れない子も出て来る。

ところがこの光景を苦々しく見ていたのが、お寺の坊さんと学校の先生。一体何故か。それはこの子供たちがラカイン族ではなく、イスラム教徒、ベンガル人だったからだ。彼らは何らかの理由でよそからこの土地にやって来て、お寺や学校の敷地に勝手に小屋を建て、住み始めていた。当然ラカイン族は面白くはないが、しかし少数派。多数派に押されて、黙っている。

学生たちはとても楽しく、仲よく遊んでいたが、途中でそれを遮られ、訳が分からないという顔をする。仏教徒でもイスラム教徒でも子供は子供。仲良くしてどこが悪いのか、という表情だ。その気持ちは分かる。そして彼らは気が付く。何故宗教間の対立があるのか、何故子供同士が仲良くできないのか。この問いは本来小学生の時にでも考えるべき課題だが、残念ながら日本ではその機会は与えられていない。彼らは突然襲ってきた難問に頭を抱えている。簡単に片づけようとしても出来ないだろう。

結局イスラムの子供たちはそのまま小山の上まで付いてきたが、さすがに仏教徒の大人に阻止され、途中で止まる。もし彼らの侵入を黙認すれば、翌日からどんどん小山に上がり、パゴダが侵食されていくだろう。現に他のパゴダでは、何と小山が削り取られ、とうとうパゴダが倒れた、という信じられない話も出た。まるで砂場の山崩し遊びのようだ。

なぜそのようなことが起こるのか。バングラディシュは国土に比して人口が圧倒的に多い。北海道2つ分に1.5億人、いるというのだ。そして悪いことに洪水も多い。家を失った人々はよそに土地を求めて入り込む。結果として少数民族の土地が侵される。勿論バングラにも法律はあるだろう。不法であることには違いない。しかし土地を失っている人々に配慮して、強制排除などの手段には出ないという。こうして、どんどん浸食が起こる。

パゴダ付近もゴミだらけだ。仏教徒はきっとゴミは散らかさないだろう。実に考えさせられる問題だ。結局この日はイスラムのお祭りの日と言うことか、ゴミ拾いも明日に延期となった。

しかしここで驚くべき事実が。今日はイスラムのお祭りの日であり、学生がボランティア活動をする小学校は休みであることが判明。しかも明日以降も休みかもしれないとのこと。どうなるんだろうか。日本の旅行社主催ツアーなら、ここでクレーム続出かもしれないが、Sさんは少しも慌てず、『こんなことは時々あるんだよね』と言い、学生達もそんなものか、と思っている。それが良い。

衣装作り

パゴダの小山から降り、お寺とお別れ。女子学生達のお楽しみ、地元の人が着る民族衣装を作りに行くというので、見学に行く。朝の散歩でも分かった通り、今日はイスラムのお祭りで通りの店はどこも閉まっている。が、表通りを一本入ったラカイン族のお店は普通にやっていた。

狭い間口の店に一気に10人以上の日本人が押し寄せたので、店内は身動きできなくなる。女の子たちはあっと言う間に生地に手を伸ばし、どれが似合うか、などと始まる。我々は店の人が座っている側にスペースを貰い、茶を飲みながら眺めている。

ラカイン族の民族衣装は何という名前か聞いたような気もするが忘れてしまった。上下セパレートで、同じ柄でも違う柄でも生地を買えば作ってくれるという。この辺の臨機応変さが良い。値段も500-600タカ。しかしそうなると選ぶのに相当な時間が掛かる。選んだ生地は2-3日で仕立てられるという。数日後にファッションショーがあるだろうか。

適当な所で失礼して、先生の家に戻る。昼ごはんの支度が出来ている。野菜とエビの入ったスープが美味い。野菜も軽く炒めている。ラカイン族の食事は実にシンプルで健康的。昔からの伝統が生きているのだろう。

(3)    二日目午後  ココナツオジサン

夕方まで予定はない。そこそこ暑いので昼寝でもするかと思っていると、既にテラスで昼寝している子がいた。先生の息子。何とゆりかごでお休みだ。これはいい。奥さんがゆっくりゆっくり押している。心地よさそうにスヤスヤ眠る。いいね、実に。

すると門からおじさんが一人、するすると入って来て、庭のヤシの木にするすると登って行く。一体誰だ、泥棒か、とも思ったが、白昼ヤシの実泥棒もないだろう。おじさんは実に鮮やかに木に登り、そしてお尻に付けていたロープを使い、ヤシの実をするすると地上に下ろした。

この技術は凄い。慣れているというだけではない、何かがある。そしてまたするすると降りて来て、ヤシの実の束を掴み、するすると門の方へ。門の外にはリキシャーが用意されており、摘みこむとさっと行ってしまった。

これは契約作業なのだろうか。ヤシの実は売れれば先生の家の収入になるのだろうか。家の人は誰一人見ていない、そんな中でこの仕事は信頼で出来ているのだろう。面白い。

 

バングラディシュ・スタディツアー2011(2)コックスバザールでホームステイ

(2)   延々と

それから市内メインの通りに入った。そこには驚くばかりの人、リキシャー(インドと同じでオートと人力)、そして車。空港を出た時は快適だったが、この通りではバスは一向に動かない。Sさんが『これは6時間は掛かるな』とつぶやく。通常3-4時間と聞いていたので、先の長さが思いやられた。

チッタゴンの街はこの通りを中心に延々と続くようだ。何でこんなに道が長いのだろうか。あたりはだんだん暗くなり、バスに薄暗い電燈が点く。何だかとても怖い物を見ているようだ。その中でクラクションと人の叫び声が響く。

学生たちは旅に疲れで寝入る。私はずっと外を見て過ごす。それしかやることがない。道はガタガタで、また車内は暗く本などは読めない。気持ち的には完全にバングラに圧倒された。この渋滞はイスラムの祭りの影響だと聞く。はた迷惑だと一瞬思ったが、ここはイスラム教国。我々は完全なアウエーだ。

市内を抜けバスが漸くスピードを出す。しかしそこからが長かった。3時間以上経ち、そろそろつくかと思うと何と中間の休憩だった。ドライブインとは言い難いが、食堂があり、トイレもある。チャイが出て来て一息つく。正直食欲はない。

一部元気な学生は建物を飛び出し、道の向かい側に見学に行く。そこには様々な食べ物を売っていたが、暗くてよく見えない。焼き鳥のようなものがあった。言葉が通じなくても彼らは積極的に身振りでコミュニケーションを図ろうとしている。だが一部の学生は既にぐったりしてしまい、この先が思いやられた。

(3)   遂にコックスバザールへ

それから夜道を延々と走った。外は暗くよく見えないが、畑らしい。時々村々を通過すると灯りが見えるが、それも直ぐに遠退く。確かに遠くへ来たもんだ。このままずーっと走り続けるような錯覚に陥る。気が滅入るが、感覚もマヒしてきたかもしれない。

突然灯りが見え、バスが街に入った。既に時間は11時近い。チッタゴンの空港を出てから6時間は過ぎている。恐ろしく長い旅は突然に終わる。街には人影もまばらで、店も閉まっている。バスから降りて腰を伸ばす。流石に疲れた。腰も重い。バスの椅子はそれ程に堪えた。

Sさんからの指示で男女が分かれた。私は5人の男子と共に、迎えに来ていた人に連れられて行く。彼が誰かもわからないが、兎に角休みたい気分。バックパックはないので、コロコロを引っ張る。道が悪く、ちょっと苦労する。小道に入り、一軒の家の門の前で止まる。

3.コックスバザール  (1)   一日目夜

ホームステイ
中に入ると広い中庭があり、一段上がった所にテラスがある。私はその脇の部屋を指定される。指示している人は30代の男性、この方がこの家の大黒柱Aさん、通称先生だ。先生は我々が訪ねる学校の先生をしている。流暢な英語を話す。

 

学生5人は2階の一室をあてがわれる。私はチームリーダーのような存在になった。しかし何も分からず、明日の予定すら知らない頼りないリーダーだ。私の部屋には大きなベットがあり、シャワーとトイレが付いていた。有難い。

夕飯

夜11時だというのに、彼らは我々の為に夕飯を用意して待っていてくれた。かなり疲れている学生もいたが、取り敢えず食卓に着く。どんな料理が出るのか興味津々。焼き魚は日本とそれほど変わらず美味しい。きゅうりとトマトのサラダは生野菜だが、特に気にすることなく頂く。これも新鮮。

オクラの煮込み、鶏肉の煮込みもご飯に混ぜて食べると美味しい。初めはおっかなびっくりだった学生も、『これはイケル』とせっせと食べ始める。人間、食事が出来れば幸せな気分になる。

周囲の様子もこの家全体の様子も殆どわからないまま、一日目は終了。疲れていたので、あっと言う間に就寝。

11月7日(月)  (2)   二日目午前
初めての買い物

翌朝は鶏の鳴き声で起きる。快適な朝だ。庭に出ると木造2階建ての家と分かる。ヤシの木などもあり、南国ムード漂うが、朝はそれほど暑くはない。学生たちはまだ寝ているようだ。

散歩に出る。朝7時だが、もし可能であれば買いたいものがいくつかあった。それはバックパックに入っていたものの中で必需品に当たる。Tシャツ、タオル、ビーチサンダル、と数えながら進む。

ところが街の中心と思われる通りを歩いても、店は皆閉まっている。雑貨屋などは早くからやっていてもよさそうなのに。小道に踏み込むと1軒、店が開いていた。それがサンダル屋だった。実に様々な種類のサンダルを売っていた。若い店番に英語で話し掛けると英語で答えが帰って来た。

180タカ、は日本円で180円。この国の物価が高いのか安いのか想像が付かないが、日本的に言えば、問題ない価格だったので、取り敢えず1つ購入。店番は名刺までくれ、兄貴の店だ、としきりに言っていた。何だかいいやつがいる街のようだ。

しかしその後、タオルやシャツを売る店はとうとう見付からなかった。後で聞くと、今日はお祭りらしい。食事を終えて、集合場所に向かう時、牛が捌かれているのを見た。イスラムの世界では、牛を祭りに使うようだ。

朝ごはん

8時頃朝ごはんとなった。パンを軽く揚げた物やピラフのようなあっさりしたご飯が出た。今日も朝から美味しい。学生たちも昨日の疲れが少しずつとれ、緊張もほぐれた様だ。ご飯の時、食べているのは我々だけ。先生の奥さんや妹さんが気を配って、お替りなどをしてくれる。何とも恐縮。

食後、顔合わせという感じで、学生から家人にお土産が渡される。お爺さん、先生、先生の奥さん、妹さん、次々に持って来た物を渡す。こんな交流はちょっと恥ずかしいが、心が通い合う第一歩だ。

外では、親せきの子供だという13歳のチュミちゃんと先生の一人息子が遊んでいた。その内、隣の家から男の子が二人、遊ぼうとばかり侵入。日本では既にないこのような光景が懐かしい。そしてみんなでバドミントを始める。当方の女子もやって来て、バドミントンで盛り上がる。


バングラディシュ・スタディツアー2011(1)預けた荷物紛失 乗るか降りるか

《バングラディシュ・スタディツアー》   2011年11月6日-13日

11月6日(日)
チッタンゴンまで   (1)  TG荷物紛失事件

ホーチミンから無事にバンコックの到着。まだ3時間もあると思い、ゆっくり活動する。ところが、バングラに向かうビーマン航空のトランスファーカウンターが見付からない。結局あの広いスワナンプーンを端から端まで歩いた感じ。そしてトランジットの安全検査を経て、ようやくカウンターに辿りつく。

周囲にカタール航空、トルコ航空、ケニヤ航空などが並ぶカウンター。中東、アフリカ方面を纏めているのかもしれない。私の前で西洋人の女性が一人手続きをしているだけで他には誰もいない。ところが、この一人の手続きに何と10分も費やしている。タイって、こんなに非効率なの?

ようやく私の番が来て、手続きするとやはり10分掛かる。PCに何かを打ち込んでは、トランシーバーでどこかへ連絡する。遊んでいるようにしか見えなかったのだが・・。それが後で問題となる。

ボーディングパスを貰い、安心する。空港内はネットフリーと聞いたので、充電できる場所を探し、繋ぐ。しかし・・・。繋がることはなかった。おまけに30分経って、充電していると思った電気が来ていなかった。踏んだり蹴ったり。結局ネットフリーゾーンにあるPCのネットケーブルを引き抜いてメールをチェック。その横で寝ながら携帯を充電していたにーちゃんにコンセントを分けてもらい、充電。昼飯を食い損ねる。

PGの搭乗時間は何故か出発時間の1時間前。早過ぎると思ったが、行って見ると乗客はそろっていた。そこには今回行動を共にする大学生13人も来ていた。引率者のS氏に挨拶し、話していると、先程カウンターでチェックインをしていた女性が近づいてきた。なぜかとても嫌な予感がした。彼女は私の預けた荷物番号を確認すると戻って行った。これは・・。

案の定、5分で彼女が戻ってきて「あなたの荷物の1つはTGより渡されませんでした」と淡々と告げる。「TGより何の情報もないので、文句があればTGのオフィスに言って欲しい」とも言う。但し出発時間は迫っている。S氏はバンコックの知り合いに確認を依頼してくれている。

またスタッフが来て、「搭乗時間です。乗りますか、荷物を探しますか」と聞く。そんな理不尽なことがあるのだろうか。ここはタイ航空の本拠地。BGが責任を持ってTGと話すべきだろう。しかしそうはなっていない。責任者の男性の所に行っても、埒が明かず、私とS氏以外の全ての搭乗が終わってしまった。「さあ、どうします?」と再度聞かれ、途方に暮れる。

「TGと交渉して、荷物をバンコックのTGオフィスに届けてくれ」と言い残して飛行機に乗るのが精いっぱい。バングラディシュ行きはこうして、行く前に躓いた。

(2)   BG機内で

機内はガラガラだった。3人掛けの深いグリーンのシートに一人で座る。S氏が「今日はなんてラッキーなんだ」と囁くのが聞こえた。このBGのバンコック→チッタゴン線が定刻に飛んだのは、彼の長い経験でも今回が2回目だと言う。遅れるのが当たり前路線だった。私の荷物事件にもかかわらず、十分すぎる余裕時間のせいで本当に定刻にテイクオフした。

機内には我々の一団、日本人が16人。後は西洋人の女性が一人で、残りはバングラ人。日本の大学生は実に積極的にバングラ人との交流を展開。機内は英語と笑い声、そしてカメラのフラッシュに包まれる。

私の横にも一人のバングラ人が「話してもいいか」と英語で言いながら座る。聞けば、チッタゴンの大学の准教授で、バンコックでの会議の帰りとか。このグループは10名。洪水でサファリパークが閉鎖されたなどと言っていたから、観光も入っていたのだろう。

彼によればバングラ経済は急速に成長しており、チッタゴンにも韓国、インド、中国などから投資が入ってきていると言う。その分、物価の上昇も激しく、一般庶民は大変だとも言う。どこの国も同じような状況だということ。

2時間の飛行時間で、1時間が過ぎて、ようやく食事が出た。ベトナム航空国内線のトラウマがあり、食事が出ないものと考えていたが、ありつけた。ベンガル風のチキンカレー。なかなかイケた。CAが持っていた紅茶のポットが古い真鍮であったのが目を惹いた。2時間のフライトはあっという間に過ぎた。私の懸念はチッタゴンの空港で、出て来る荷物が2つの内のどちらかという問題に絞られた。でもきっといい方向に向かう、と信じた。

(3)   入境と両替

チッタゴンの空港は思ったより遥かに立派だった。ちゃんとジャバラでターミナルへ到着。階段を降りるとイミグレがあった。外国人のカウンターは一つしかなく、そこに並ぶと、「台湾人がいるだろう」とイミグレから声が掛かり、彼は先に行く。西洋人の女性も呼ばれ、何か手続きを行っている。結局残ったのは日本人の団体。そして3つのカウンター全ての前に並ぶ。本当に数えるほどしか乗客はいない。しかしその手続きの遅さは20年前の中国を思い出させる。30分ぐらい掛かって半分チョットが出た所で、何と次の便が来て、急に速度が速くなる。ワークシェリング。

荷物は当然全て出ており、私のコロコロも出ていた。助かった。殆どの物がここに入っており、生活への支障が無くなった。因みに無くなったバックパックはパリに飛んだと言う。果たして取り戻せるのだろうか。

両替がターンテーブル脇にある。時間が掛かる、とのことで、私がはじめにトライ。日本円の1万円札を差し出してみると、おにーちゃんはどこかへ電話したが、直ぐに首を横に振る。ニーズがないようだ。仕方なく、40ドルほど両替した。

しかしそれから15人が次々と両替するのである。彼らも現金が足りなくなり、また端数の細かいお金が無くなり、一人ずつ少しずつ違う札、違うレートでの両替となる。何とものんびりした雰囲気。でもにーちゃんたちはとてもフレンドリー。

2.コックスバザールまで  (1)   空港を出ると

ようやく空港の外へ出た。その瞬間、実に多くの出迎えの人々が空港外で待っていた。と思ったが、それはただの見物人だった。学生達は意味が分からず、自分がスターになったような気分になる。

なかなか凄い迎えのバスが到着する。ところが学生たちは気分が高揚してしまい、ライフル銃を持つ警備のおじさんと記念写真を撮り始める。普通だとそっぽを向くだろう警備員が学生の要求に素直に応じるから不思議だ。やはり素直な学生の気持ちが通じるのだろうか。

何とかバスに乗り込む。しかしこのバスは年季が入っている。椅子はガタガタで座れない所もある。天井には扇風機が備えられ、エアコンなどはない。バスが進みだすと、周囲の見物人が手を振る。実に不思議な光景だが、確か中国でも20年以上前にはあったような気がする。

空港を出ると直ぐに港が見えた。バングラディシュ第2の都市、チッタゴンは港町。中心はここだろうか。遥か向こうに『Kafco』の看板が見えた。このバングラディシュ最大の国営肥料会社には、確か銀行員時代に融資したことがある。あれは15年以上前ではないだろうか。こんな所でこの名前に出会えるとは、驚きと感激。