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ある日の台北日記2019その2(8)涼しいので麺ばかり

4月26日(金)
台湾大学で

久しぶりに調べものがあり、台湾大学へ向かう。大学裏門にUバイクを停めて、早餐店にて、ハンバーガーを食べる。さすが大学近くの店だから、他よりもボリュームがあり、安い気がする。と言っても台湾大学の学生はお金持ちも多いようで、こういう店よりスタバの方が人気は高い。

 

大学の図書館には何度も行っているのだが、その度に前回探した資料の場所を忘れてしまい、また一からやり直すことになるのは、本当に困ったことだ。今日は呉振鐸茶業改良場元場長の論文集を見に来たのだが、何とその本はご本人から大学に献本されたもので、直筆の署名がされていて驚いた。そういえば、呉氏は台湾大学教授という肩書も長年持っていたのをうっかり忘れていた。

 

夕方学内で、日本語中心主催のセミナーがあるというので、覗いてみた。講師はよく見たら、以前ロータリークラブであった蔡さんという方だった。そしてご専門がマーケッティングだと初めて知り、かなり細かい動向調査と分析がなされ、ちょっと勉強になる。パワーポイントは日本語だが、お話は中国語で進められる。

 

SNS利用率は、台湾の方が日本より高い。特に高齢者世代も使っている点は時々感じている。スマホ決済も中国のようには進んでいないが、今後どのように活用するのだろうか。世代間格差、経済低迷による若者の不安定さ、など共通の話題も多く出てくる。日本に比べれば、フットワークが軽いと思える台湾だが、どうだろうか。

 

確かに日本と台湾、似ているようにも思えるが、消費者の行動パターンなどはかなり違うようだ。参加者は学校の先生と学生、そして一般人もいた。日本人も数人おり、無料でお話が聞けるのは素晴らしい。お茶の勉強ばかりせずに、偶にはこのような刺激を受けるのも良いかと思う。

 

4月27日(土)
寒いので麺ばかり

4月も終わりだというのに、雨が続き、気温が低い台北。これはちょっと異常なのではないだろうか。原則週末は出掛けずに、資料整理などに使う予定なのだが、ご飯だけは食べるために外へ出る。いつもなら、もう暑くて汗が噴き出すので、スープ麺など食べないのだが、この気候だと麺だな、と思ってしまう。

 

まずは小雨の降る中、久しぶりに焼鍋麺を食べに行く。ここのスープは海鮮出汁が効いていて、結構うまい。そして揚げた麺との相性がかなり良い。もう今シーズンは食べる機会もないかなと諦めていたのだが、ちょうどよかった。これで75元はお値打ちと言えよう。さすがにお客さんが多いのもこの気候のせいだろうか。帰りに近所にできた、ミニ鯛焼き屋にも寄ってしまう。寒からな。

 

夕飯もまた雨。気温も20度ぐらいしかない。これなら矢張り麺か、でも遠くには行きたくない。その場合は、刀削牛肉麺に行くのがよい。近年牛肉麺屋はどんどんでき、そしてなぜか値段もどんどん高くなっている。だがここは120元で、肉がゴロゴロ入っており、麺もしっかりしている。いつも更に安い牛肉湯肉糸麺を食べているのだが、今日は奮発した。豚足麺でも良かったかもしれない。

 

日曜日の昼、雨が降っていなかったので、少し歩いてみる。偶には米を食べようかと思ったのだが、やはり麺に引っ張られた。温州雲吞麺、これはチェーン店でもどこにでもあるのだが、なぜかたまに食べたくなる。あっさりしたスープと大きな雲吞がよい。そして小菜を食べてちょうど100元という価格設定も悪くない。

 

台湾にはかなりの種類の麺があり、麺が好きな私には有り難い。確か以前トルコに行った時、麺が殆どなかった(豚肉もなく中華もなかったか)時は、2週間が本当に長く感じられたものだ。特に今回のように涼しいときに温かい麺を食べると体にも優しく元気が出て有難い。台湾はご飯ものや小龍包だけではないのだ。

 

4月29日(月)
張さんがやってきた

今日は天気が良く、暖かくなってきた。先日ホーチミンの張さんから連絡があり、今台湾に帰省中だが、1日だけ、台北にやってくるという。その理由は師匠に会いに来るというものだった。彼が師と仰ぐのが、意翔村の陳さんだ。張さんは大学時代の卒論が茶貿易というだけあって、色々な知り合いがおり、お茶の歴史だけではなく、茶作りにも真剣に取り組んでいる。その師匠として、陳さんは適任と思える。

 

店までは歩いて10分ちょっとと近い。入っていくと、奥さんと張さんがいた。なぜか奥さんに会うのはこれが初めてだと思う。いつも店にはベテランの男の人しかいない印象だった。張さんは今年旧正月休みで帰省中、故郷豊原で会っていたが、何度会っても面白い人物だ。

 

今回は3月の四川旅行でゲットしたお茶を渡すのが目的だった。彼は探求心が旺盛で、様々なお茶に興味を持っていたので、合わせて日本の茶も少し渡しておいた。相変らず陳さんから少し歴史談義を聞き、いくつか質問をして、収穫を得た。その後は子弟再会の邪魔をしないように退散する。張さんには茶作りに関して聞きたいことが山ほどあるはずだ。

ある日の台北日記2019その2(7)お茶の歴史調査で

4月21日(日)
本屋へ

茶の歴史調査、ここのところヒアリング調査が主になっていたが、やはり資料との睨めっこも必要だと思い、偶には本屋に足を運ぶ。図書館では色々な資料を見てきたが、出来れば手元に置きたい本もある。最近出た雑誌にも興味深いものがある。なぜか南京路の方に出向いていく。

 

この辺に本屋があったな、という辺りに来てみる。よく見ると何とそこはフランス語専門書店?ちょっとおしゃれだなと気になっていたがよく見ずに失敗した。そこには入らず(入っても読めない)、歩き出すとオシャレな出版社?が見える。中に入るとレストランになっており、大勢が食事をしていた。

 

本を読みながら食事する、お茶を飲みながら本を読む、そんな空間のようだ。最近台北にはこんなところが増えている。2階には本の展示があるというので上がってみたが、何と硬派な政治家の本が並び政局が語られている。出版社も不況で、硬軟取り混ぜた様々なアイデアを出している。日本の出版社はどうなんだろう。本が売れないとただ嘆いても何の解決にもならない。

 

結局歩きに歩いて、誠品に行きつく。ここの売り場は広く、探そうとしていた茶関連の雑誌は、何と2冊も置かれている。台湾史コーナーも充実していて驚く。図書館で読んだ本も何冊かは販売されており、思わず購入してしまった。UCCのインタントコーヒーが1つ無料で付いてきた。

 

 

こんな近くに立派な書店があるとは気が付かなかった。これからは偶に顔を出してチェックしよう。そういえば中高生の頃は本屋に行くのが楽しみだったことを急に思い出す。台湾の書店は、若者が通路に座り込んで本を読んでいてもOK。買った本を隣のカフェで読んでいる人もおり、何となく楽しそうだ。そういえば誠品は東京に進出するらしい。本屋もあるのだろうか。

 

一度家に帰って、夕方またバスに乗り出掛けた。先日突然30年来のお知り合いであるTさんから連絡があった。ずっと北京にいると思っていたのだが、何と台北に来たらしい。しかもこれからはここに駐在するという。早々宿泊先のホテルを訪ね、久々の再会を果たす。実はこの界隈は、私が30年前に住んだ場所だが、殆ど変わっており、店もよくわからない。

 

Tさんはスタスタと歩きだし、一軒の日本食屋に入った。東京でも有名なうなぎ屋らしい。こういう店が、フラッとあるのが今の台北だろう。店員の案内も待たずに空いた席に着く。店員がちょっと困った顔をする。Tさんはまだ何となく、中国大陸的振る舞いが抜けていないようだ。それは私も十分に分かるのだが、これで北方の普通話を話せば、台湾で嫌がられる可能性もあるので、そのことだけは伝えておいた。今の空気感、北京と台北ではかなりの差があるだろう。あなご丼は美味しかった。これからはTさんが台北にいるので楽しみだ。

 

4月23日(火)
製茶公会へ

今日は製茶公会に黄顧問を訪ねることにしていた。その前にいつもの銀行で両替。順番を待っていると、前のお客が窓口で日本円への両替を申し出た。そして出てきた札を見て、『このお札、まだ使えるの。大丈夫?』と何度も聞いていた。係りの女性は『使えます!』ときっぱり答えていたが、私の番が来ると小声で『日本って、いつからお札新しくなるの?』と聞いてくる。

 

私は思わず、『心配ご無用、確か2024年からだから』と答えると、そこにいた全員が唖然とした表情を浮かべ、『なんでそんなに時間がかかるの?』と聞かれても、『それは日本だからさ』としか答えようがなかった。余りのスピード感のなさに驚く、というか、なぜこのタイミングで5年先のことを発表するのか確かに理解に苦しむ。

 

昼過ぎに公会近くまで行き、久々に客家料理屋に入る。やはりここのホルモン系はいつ食べてもおいしい。肉はささみやヒレではなく、脂身や皮、そして内臓系がうまいと思う。でも我が家では私は完全少数派であり、台湾などで一人楽しむしか仕方がない。本当にうまいものとはなにか、を考える。

 

公会では黄顧問と総幹事がいつものように、色々と教えてくれた。黄さんは理事長として、林復氏と一緒に活動したこともあり、勿論呉振鐸氏とは常に顔を合わせていた。林馥泉氏、林復氏は共に製茶公会の総幹事を長く勤めているが、残念ながらその資料はさほど残ってはいないらしい。

 

理事長は注目されるが、縁の下の力持ちで、実質的に会を取り仕切る総幹事については、書き残されていない(自分で書くわけにもいかない)のが実情だ。ただ両氏には文才があり、公会の雑誌にはかなりの文章を寄せていることが後で分かった。ただこれとて、本人の履歴を知る手掛かりとはなっても、決定打にはなり難い。資料集めは苦労が絶えない。

 

帰りに中山の誠品に寄ってみた。本は先日見たので、地下に降りると、きれいなフードコートがあった。日本食店も見られ、私はなぜか讃岐うどんに引きずられた。急に食べたくなるのだ、うどんは。温泉卵入り豚肉うどん、美味し!丸亀製麺は時々食べるけど、こっちの方が美味しいかな。時間が早かったから席があったけど、夕飯時なら座れないかもしれない。何となく幸せに一日が終わる。

ある日の台北日記2019その2(6)鹿谷にて

4月20日(土)
鹿谷で

翌朝は早く目覚めた。この宿は朝食付きだというので8時に降りていくと、カウンターにハンバーガーと豆乳が置いてあった。宿泊客は私しかいなかったようだ。金曜日の晩だったが、雨のせいだろうか。そうこうしている内にUさんが迎えに来てくれ、一緒に農会へ向かう。

 

農会がちょうど開店した瞬間にオフィスに入っていくと、林さんが待っていてくれた。お茶を飲みながら、茶の歴史、今回は特に林さんの師匠である呉振鐸氏について、突っ込んで聞いてみた。茶業界では最も有名な専門家の一人である呉氏だが、彼が外省人である、云々と言った話に出会ったことは殆どなかった。これから蒋介石と共にやってきた福建人の中で、台湾茶業に貢献した人物にスポットを当てたいと考えている。

 

呉元場長について、林さんは『自分より良く知っている人々』を数人挙げ、連絡先なども分かる範囲で教えてくれた。これは何とも有り難い。もう少し話を聞こうとした時、スタッフが林さんを呼びに来た。何と今日は農会の社員旅行で、林さんはその忙しい中、私に対応してくれていたのだ。何とも申し訳ない。外へ出ると大型バスが停まっており、すでに全員乗り込んでいたので、恐縮してしまった。これからどこへ行くのだろうか。

 

我々もこれからどうするのだろうか。Uさんが『ちょっと茶畑を見にいく』というので、バイクの後ろに乗る。そしてバイクは坂道を上がり、山の中へ向かう。到着したのは、茶工場。そこには林老師がいた。何となく雨を気にしている様子で、早々に皆で茶畑を見に行くことになる。

 

これまで何度も鹿谷には来たが、初めて見る茶園がそこにあった。そこでは今まさに茶摘みが行われている。かなりの急斜面であり、道路から登っていくのはかなり怖かった。地元の女性たちが元気に茶摘みしているのだが、最高齢は84歳とか。平均でもゆうに70歳は越えているだろう。これはかなり厳しい労働だと言わざるを得ない。

 

少し雨が降り出した。摘み取られた茶葉が計量されて(計量はどこの茶産地でも真剣勝負な雰囲気)、次々に茶工場に運ばれていく。ここのところ雨続きだったので、今日に期待していたようだが、残念ながらここまで、という感じになっており、皆さん少し緩んできていた。やはり山の茶摘みは時間との闘い、いつ天候が変わるか分からないのだ。

 

茶工場では、すでに多くの葉が萎凋されていた。これからいくつかの工程を経て、明日には凍頂烏龍茶になるのだろう。果たして出来はどうだろうか。皆さん、心配顔のように見えた。幸い雨は強くはなかったので、バイクで戻り、昼ご飯に麺を食べた。そのまま偉信の所へ寄ろうとしたが、隣に住むお父さん、林老師に招き入れられた。どうも彼は体調が悪いらしい。

 

林老師は茶作り中にもかかわらず、戻ってきて相手をしてくれた。何とも有り難い。私が更新しているFBも欠かさず見ていてくれ、コメントももらっている。せっかくの機会なので、凍頂烏龍茶の歴史を聞き、合わせてそこにかかわった人々についても詳細に聞いた。一体どのようにして凍頂烏龍茶はブランドとして生み出されたのか。当時の台湾の置かれた状況と併せて考えることが重要だ。

 

最後に張さんも訪ねてみた。張さんは今朝がた中国から帰ってきたばかりであったが、快く質問に応じてくれた。彼は改良場に勤めているから、呉元場長について、誰がよく知っているか、なども教えてもらう。勿論もう歴史の域に入っているので関係者も高齢でなかなか捕まらない。

 

張さんの話の中でも、1970年代、なぜ台湾が輸出から内需への切り替えを行ったのか、それは誰の指導で行われたのか、などを教えられる。これまた極めて重要な話であり、これは台湾だけに起こった事象ではなく、興味深い。特にそれを論理的に説明してくれるので非常にありがたい。

 

今日は土曜日なので、夕方になると台中行きのバスが混むだろうと言われ、バス停に向かう。渓頭で大勢が乗るので、途中のバス停では、地元民向けに少なくとも3席は空けておく政策がとられており、無事に乗車できた。今回もUさんには大変お世話になり、思いがけず収穫の多い旅となった。

 

いつもは高鐵台中から高鐵に乗って帰るのだが、何となくいつもと同じはつまらないと思い、バスを終点まで乗る。新しい台中のバスターミナルから台北行きのバスは頻繁に出ており、こちらの方がかなり安いのでそれに乗った。だがこのバスは台中市内を走り抜けてから高速に乗ったので、何と3時間もかかって台北に着く。ちょっとぐったりして1泊2日の旅は終わった。

ある日の台北日記2019その2(5)那瑪夏へ

4月19日(金)
那瑪夏へ

朝早く起きた。今日は高鐵で台中まで行き、そこで拾ってもらって、高雄の山中に分け入る予定だ。前日高鐵の予約を試み、何とかセブンで支払いを済ませて、チケットを手に入れた。午前6時台に家を出て、7時半過ぎの高鐵に乗る。朝が早過ぎて、台北駅のヤマザキパンすら開いておらず、ちょっと腹ペコ。

 

8時半過ぎに台中駅に着くと、トミーとビンセント、そして彼らの講義をわざわざ受けに来ていた香港人女性も加わり、4人で出かける。まずは高速道路で嘉義まで行き、そこから車は山道へ回る。何故高雄に行くのに、嘉義から入るのか、それは到着する時にようやく分かる。それにしても、思っていたより道がかなり良い。それでも、香港女性は山道に慣れておらず、気分が悪くなったようだが、普段から山に入っている我々には、相当楽な道に思えた。

 

勿論、車はほとんど走っておらず、対向車もない。標高300-400mのあたりで、カーブはあるものの、舗装もしっかりした、かなり平坦な道をひらすら走っていく。途中滝があったので、一休み。そして1時間半ほど走って、あとわずかで目的地、というところで、高雄と書かれた表記に出会う。原住民部落があり、観光客目当ての店などもあったが、人は殆どいなかった。

 

那瑪夏、我々が辿り着いたのはここだった。茶農家、詹宗翰さんとは、3月のFoodexで出会い、茶畑を訪ねたいと伝えてあった。実は昨年梅山瑞里に高山茶の勉強に行った際、『梅山から40年前に那瑪夏に移住して、高山茶を作っている人々がいる』と聞いていた。その息子が詹さんだったというわけだ。

 

ちょうど茶摘みが終わり、製茶機械が稼働していた。早々お茶を飲みながら、こちらの歴史を尋ねる。お父さんも加わり、話が具体的になっていく。1980年代、林業のためにこの地に移住してきたが、ちょうど高山茶ブームが始まり、故郷梅山から製法や機械を調達して、茶作りを始めたという。

 

一時は相当の茶農家が茶を作っていたが、高山茶に陰りが出てきた今、中海抜であるこの地も淘汰が始まっていた。そんな中、青年農家として息子がここに戻り、茶作りに精を出し、販売推進のため、台北はもちろん、遠く日本まで出掛けていたのである。この努力は素晴らしい。希少価値として、また比較的伝統的な製法がウケ、徐々に売り上げを伸ばしているらしい。

 

お昼は弁当を用意してくれ、引き続き話し込む。その後茶畑を見学。烏龍や金萱が植わっている斜面の景色は良く、自然環境に優れている。また車で更に上に上がると、山茶を集めて植えた場所もあり、特色ある茶作りを進めている様子が窺えた。茶樹の背丈は高く、葉も大きめだった。因みにこの山茶がいつからあるのかは分からない。

 

台湾ではみなそうだが、山には昔から原住民が住んでいても、お茶作りと無縁であり、また関心もない。茶樹がいつからあるのかもわからない。ここで茶作りが始まった時も、原住民の労働力が必要だったが、残念ながら、根付かなかったという。現在も一番の問題は労働力の確保であり、人材は本当に限られている。

 

畑から戻ると、激しい雨に見舞われ、動けなくなった。山の天気は変わりやすいとは言うが、まるで嵐のように叩きつけていた。それが収まると、朝来た道を引き返す。香港女性は辛かっただろうが、良い経験にはなったようだ。嘉義まで出て一休み。そこからまた雨が降り出す中、今度は私のために鹿谷へ向かった。

 

暗くなった頃、慣れしたしんだ鹿谷に上がってきた。そこで茶の買い付けに来ていたUさんと落ち合い、皆で晩御飯を食べた。やはり話題はお茶の将来についてとなり、活発な議論が展開されて面白い。食後、Uさんが予約してくれた宿に入り、トミー一行は台中に戻っていった。宿の部屋では引き続きUさんと茶についての話をし、気が付いたらかなり遅い時間まで話し込んでいた。茶業界はどうなっていくべきなのか、こういう雑談は非常に重要だと思う。

 

ある日の台北日記2019その2(4)お茶好きがやってきて

417日(水)

お知り合いがやってきた

 

前日の夜、いつものスーパーに買い物に行く。珍しいクッキーが安売りになっていたので、何気なくかごに入れ、レジへ行く。するとそのクッキーを見た店員のおじさんが小声で何かささやく。おじさんは『このクッキー美味しいのか?』と聞いてくるではないか。何かまずい物を買ってしまったのかと思っていたが、『もしうまいんだったら、俺も後で買おうと思って。今度来た時、美味いかどうか教えてくれ』というのを聞いて、さすがは台湾と頷く。

 

FBを見ていたら、先日四川の旅をご一緒したKさんが台湾にやってきたという。ちょうど時間に余裕があったので、連絡を入れたところ今日の午後茗心坊に行くというので、そこで会うことになった。何しろ茗心坊は宿泊先から歩いて5分なので、何とも便利だ。

 

 

店に行くと、Kさん以外に2人の日本人女性がいた。今回は薬膳関連の仲間3人の旅だというが、特にきっちり予定は決めていないとか。日本人女性の台湾旅で気の向くまま歩く、というのは珍しいのではないだろうか。3人ともお茶好きとのことで早々試飲を繰り返えし、この店の焙煎を見て勉強している。私は店主の林さんと奥で話し込んでいたが、特に困る様子もなく、気ままに楽しんでいる。

 

今日はここでお別れする。私は今晩、2年ぶりに会うことになっている人がいたのだ。その彼、北京時代からの知り合いであるHさんが指定したお店も、宿泊先から歩いて10分と近かった。このお店は2階にあり、何度か下を歩いていても気が付かなかった。よく知っているなと思ったら、Hさんの勤め先の人の親戚が経営しており、よく来るとのことだった。

 

 

ここは鍋料理屋さん。野菜と肉をふんだんに入れて食べる。味もなかなかイケる。〆の麺は、やはりの袋めんというのも台湾的だ。それにしても店の壁にはなぜか大量のプーアル茶が貼られていて、驚く。鍋と何か関連があるのかと聞いてみたが、単にオーナーがプーアル茶好きで集めただけだという。お茶が鍋のにおいを吸い込んで駄目にならないのか、ちょっと気になったが、どうだろうか。結局3時間以上に渡り、昔話に花が咲く。共通の知人の近況などが聞けてとても良かった。

 

418日(木)

お茶屋巡り

 

翌日は午前11時前に行天宮駅で3人組と待ち合わせ。先着していた彼女らは、既に裏の市場を物色していた。そこからいつものレストランへ行き、ちょっと美味しい台湾料理を食べに行く。11時半前に入らないと席がなくなるので、早めに動く。そして鶏肉、からすみ炒飯などをさっさと平らげて、満腹状態で、講茶学院台北へなだれ込む。

 

 

そこで評茶していると、突然地震警報が鳴り、かなりの揺れが来て驚いた。花蓮では震度6だったようだが、台北では被害はなかった。お茶を飲みながらSunnyと話していると、薬膳の話題となる。Sunnyが『実は知り合いにイケメン中医師がいるけど』というと、皆さんの目が輝き、すぐに明日のアポが取られた。通訳不在だったがお構いなし。何とLINEの翻訳アプリが優れていることなどが紹介される。

 

 

その後MRTに乗り(地震の影響で一時止まっていたが動き出してくれた)、次に場所へ。珍しく小楊の所にお客を連れて行く。ちょっと変わった雰囲気の店と人を、チラッと見て帰るつもりだったが、3人のうち2人は、茶器にも目がなく、きらきらした目で茶器を物色し始める。小楊も段々ノッテきてしまい、いいお茶もどんどん淹れられて行き、気が付けば、外は暗くなっていた。茶器の代金を払うため、ATMに向かうも、なぜか台湾元が出てこないで困る。

 

 

小楊のおごりで先にご飯を食べに行く。彼のレストランとご飯(料理)の選択はいつもながらなかなか良い。ホルモン系も大好きな3人組はバクバク食べて、驚かせる。食後、もう一度ATMに戻ると今度はちゃんと機能している。恐らくは昼間の地震後、メンテナンスでもしていたのだろうとの結論に達し、無事精算も終了した。結局丸一日お付き合いすることになったが、今日は珍しく愉快な日であった。

ある日の台北日記2019その2(3)基隆に向かう

《ある日の台北日記2019その2》  2019年4月15日-5月9日

香港、福建の旅で、またまた色々と収穫があり、今後の歴史調査に意欲を持って帰ってきたが、台湾ではどうなるのだろうか。

4月15日(月)
基隆へ

厦門滞在中から体調が優れなかった。食べ過ぎが一番の原因かとも思うのだが、腹の調子は悪くなく、何となく疲れやすいという状況は、一種の怠け病だろうか。取り敢えず台北に逃げ帰れば、ゆっくり養生できると思っていたが、何と帰国翌日は朝から基隆へ向かうことになっていた。

 

それは1か月ぐらい前、一度会ったことがあるAさんから『Hさん夫妻が世界一周クルーズで基隆に来るので、集合してほしい』というメッセージを受け取った。Hさんとは、大学の先輩でもあり、仕事上でも世話になった方なので、駆け付けることにしたのだが、基隆とは。更にはあと二人参加者がいるとのことだったが、それは誰が聞いていなかった。

 

何と先日香港で北京つながりのIさんと会ったら、『10日後に基隆に行く』というではないか。まさかと思い聞いてみると彼女も参加者だった。そうなると思う一人はBさんかもしれないと思い連絡すると『一緒に基隆に行きましょう』となり、台北市内からバスに乗った。

 

基隆行きのバスは市内何か所も乗り場があるらしい。そして40分ぐらいで基隆駅まで来てしまった。いつもは台北駅まで行き電車に乗るのだが、その必要もなくこの便利さには驚いた。基隆駅も新しい駅舎が出来ており、古い駅舎はお役御免のようだ。しかし指定されたレストランはこの駅からかなり遠い海岸線沿いにある。市内バスに乗ると、何となく反対方向に走っている。市内巡回バスだろうか。

 

30分近くかかってようやく目的地に着いた。ただまだ待ち合わせ時間には早いので、周囲を散策した。公園のような場所へ行くと、何と蒋経国の像が立っている。何故ここにこの像があるのかの説明はない。その近くには、プレハブの建物があり、中は海鮮市場になっている。ただ平日の昼間で、お客は殆どおらず、開いている店のおばさんが手持ち無沙汰に声を掛けてくる。小さなハーバーにはヨットが停泊しており、漁船の姿はあまりない。

 

ここのレストランはこの海鮮市場を背景に、週末の観光客を当て込んで作られているようだ。それでも観光バスが停まり、台湾人の団体さんが降りてきてテーブルを囲んでいる。Hさん夫妻も、クルーズ船から降りて、タクシーで駆け付け、我々は集合した6人でテーブルを囲んだ。

 

海鮮料理屋らしく、いけすから選んだ魚やイカが調理され、美味しそうに並んでいた。今回のメンバー、私はH夫人以外、皆知っている人であり、他のメンバーは元々旧知の間柄だから、昔話などに花が咲く。それにしてもよくこのメンバーが基隆に会したものだと感心しきり。やはりご縁というものはあるものだ。

 

H夫妻の世界一周クルーズも、聞いてみるとかなり壮大なもので、3か月を掛けてアジアから地中海を経て、大西洋から北中米にまで至る。かなりの時間を船内で過ごすらしいが、毎回美味しい食事が出て、イベントがあり、食事の席も変わり、その度に新たな出会いもあるようだ。ただ私はその狭い、船内に閉じ込められるのは無理だろうな、と勝手に想像する。今回のクルーズで台湾の寄港は基隆だけ、次はシンガポールだと言い、夕方出港する船に戻って行かれた。

 

我々もタクシーで基隆駅まで戻り、そこからまたちょうど出発するバスで台北駅へ向かう。結局基隆を歩くことはほぼなかったが、なんだか珍しい体験をしたような気分にはなる。香港から来たIさんはAさんの家に泊まると言っていたが、何と台湾入国時に、『日本で買ったカップ牛肉麺をお土産に持ち込んだところ、桃園空港の税関で没収された』と憤慨していた。現在肉製品の台湾への持ち込みは厳しい。桃園空港にも特別専用台が設置され、荷物検査をしていたことを思い出す。ただまさかカップ麺までとは、全く想定外だった。

 

宿泊先に戻ると、もう気力はなく、寝入ってしまった。やはり大陸の旅の直後は知らない間に疲れがたまっている。そして文章を書くなどの作業もたまっている。私のように常に旅をしている者は、当然旅の中で休息を入れないと続かない。そして年齢的にも厳しい状況になっていることに薄々気が付いているが、今のところ知らないフリをしている自分に対して、無理はないかと問いかけている。

福建茶旅2019(7)厦門にて

4月12日(金)
厦門へ

もう疲れはピークに達していた。朝はゆっくり起きて、ゆっくりご飯を食べた。そしてゆっくりと福州駅へ地下鉄で向かった。厦門北駅行きの列車は沢山あるのだが、私は敢えて厦門駅行の列車を予約する。厦門北駅は街から遠く、BRTの切符を買うのも大変で、しかも車両が狭いのでとても面倒だという印象を持っていた。しかも今回予約したチェーンホテルは厦門駅近くにあり、歩いて行けそうなので、こちらを選択する。

 

切符の予約はできるのだが、窓口でパスポートを提示して切符を受け取るのにどれだけ時間がかかるのかが心配で、相当早くホテルを出た。だが最近中国人は殆どが身分証とスマホ予約で窓口に来ることはなく、列はそれほど長くはない。それでも窓口に来る人は訳アリだから、時間的にはかかる。特に今回は、支払いを支払宝などで行おうとして慣れておらず、時間がかかっていたおじさんが数人いた。そういう人に窓口の女性は容赦なく、怒鳴り散らすからすごい。

 

何とか列車に乗り込み、居眠りすると、あっという間に厦門北駅を通過していた。だがここから速度がかなり落ちる。街中を走るからだろうか。厦門駅まではかなり長く感じられる。駅で降りて、ホテルへの道を探すが、駅周辺が複雑、かつ大きな道が邪魔をして、なかなかたどり着けない。駅から徒歩10分の距離だが、20分以上かかってようやくホテルに着く。大型ショッピングモールはあるものの、何となく懐かしい雰囲気の場所だった。

 

先日福州のフロントではちょっと嫌な思いをしたので、どうなるかと思っていたが、ここの人は親切で、このチェーンホテルの型通りだった。しかも本日のホテル料金を見ると、予約した時より安いのでそれを指摘すると、ちゃんと差額を返してくれた。部屋は狭くて専用デスクも無く、快適とも言えないが、そのようなサービスを受けると悪くは言えない。

 

食べ過ぎだったので、昼を抜こうと思っていたが、ホテルに着くと腹が減る。すぐ横に新疆料理屋があったので、なぜか入ってしまい、ラグメンを注文する。さすがに福建系の料理が続いたので、飽きてしまった感があり、ウイグル人が作るラグメンを欲していた。久しぶりのせいか、麺にコシがあり、味付けもうまく感じられる。その後は疲労回復のため、部屋で休息した。夕飯はあまり減っていなかったので、麺線糊という麺を軽く食べて寝た。

 

4月13日(土)
厦門で

翌朝はホテルで朝食を食べてから出掛けた。昨年お会いした張源美関係者の張さんから『父が書いた本の新版が出たのであげるよ』とメッセージが来ていたので、それをもらいに行ったのだ。待ち合わせ場所に行くと、『ちょっと見ていくか』と誘われ、訪ねた場所は張さんの知り合いが開設した私設博物館。中国中の奇岩が集められており、張さんが台湾人のお客さんを案内している最中だった。こんなところもあるのかと驚き、30分も石を眺めて過ごす。

 

午後はこれまた昨年会った王さんの工作室を訪ねた。王さんはこれまで福建茶の歴史をかなり掘り起こして、関係者にもインタビューしており、記事もたくさん書いていたので、色々な話を聞きたかったが、お茶好きが高じて、今やお茶屋になっており、注文、発送作業から、パッケージの打ち合わせまで忙しそうだった。私として何となく目的を果たせずに去る。

 

4月14日(日)
台湾へ

翌日はいよいよ台北へ戻る。ホテルから空港までは疲れたのでタクシーに乗ったが、日曜日のせいか、あっという間に着いてしまう。出発2時間半前だったが、チェックインは2時間前からだと言い、既に長蛇の列ができていた。この列がそのままチェックインカウンターに流れ込み、かなり長い時間待たされるのはかなわない。

 

そしてようやくカウンターでチェックインとなったのだが、『台湾から出るチケットを提示してください』と言われて慌てる。まさかそんなこと聞かれるとは思っておらず、既に中国移動香港のシムカードはリミットを過ぎていて、Gmail内に保管されているチケットを見せることができない。『見せないとどうなるのか』と聞くと、『この場でチケットを買ってもらう』というではないか。

 

驚いていると突然Gmailが開き、帰国チケットを見せて事なきを得た。だがその係員の態度にはかなりの違和感があり、『何度も台湾に入国しているが、他の航空会社では聞かれていない。入国時に確認を求められたこともない』と説明しても、『当局のルールです』と突っぱねてきたので、本当にびっくりした。しかし思い返してみれば、この華信航空、中華航空の子会社であり、中華だけがこの嫌がらせのような扱いをずっと続けていると聞いた記憶が蘇る。もうこういう会社には乗らないぞ、と思うのだが、最近安い料金が目を惹いている。フライトは順調であっという間に桃園空港に降り立った。やはりイミグレで帰国便を聞かれることなどなかった。

福建茶旅2019(6)張天福氏にまつわる人々を訪ねる

4月11日(木)
歴史探訪

泊っている定宿、いつの間にか宿泊数が規定に達したので、ゴールド会員になっていた。こうなると料金の割引率も高くなるし、何と朝食無料券が沢山ついてきたので、今朝は初めて食べてみた。粥、麺、パン食などが並んでおり、一定の水準だろうか。これまでの既存ホテルの朝食に比べて、少しだけおしゃれ感がある。まあ朝から食べ過ぎはどうかと思うが、無料で食べられるのは有り難い。

 

午前中は魏さんのオフィスに行くと、魏さんと鄭さんに連れられて、どこかへ向かった。そこはアパートが並ぶ一角で、その1階にきれいな茶室が設えられていた。そこに昨年もお会いして、包種茶について解説してくれた陳先生が待っていてくれた。もうお一人、89歳の寥さん。二人とも、張天福老師と一緒に働いたことがあるというので、特別にそのお話しを聞いた。当然一緒にいた期間のことは思い出せるが、戦争前がどうだったのかを知る人はいないようだ。何しろ張老師は一昨年108歳で亡くなっているので、生き証人は非常に少ない。

 

昼は鄭さんに近所の麵屋に連れて行ってもらったが、またもや激しい雨に見舞われる。そしてその麺屋は人気店で席がなく、外のテントの下の席になったが、ここは雨漏りがして大変だった。注文を終えると鄭さんが室内に席を確保してくれ、麺を美味しく頂く。涼しい日は温かい麺に限るな。スープは海鮮風で見た目よりあっさりしており、具たくさんで麺の上に目玉焼きを載せている。こういう麺が食べたくなるが、日本にはないだろう。

 

昼ごはん後は、オフィスに戻り、また図書館で調べ物を続けた。福建省の茶の歴史は正直掘り起こせばいくらでもある。午前に聞いた話の裏付けなども取りたいと思い、本をめくっていると本当に色々な話に引っかかってしまい、なかなか前に進めない。張天福関連の本を少し読み込んだところでまたも時間切れだ。

 

昼寝から目覚めた魏さんと一緒にまた車に乗り、出掛けていく。午後は張天福基金会に向かった。ここでも張天福氏の足跡を聞き、合わせて彼の教え子の情報を探る。やはり中国側には台湾に渡った教え子の情報はあまり入っていなかったが、1980年代以降里帰りした人々については多少の記録が残っている。

 

ここは基金会だけでなく、福建茶人之家という団体も存在しており、双方の事務局長から、色々と情報をもらう。ちょっと驚くような話も出てきて、調べも少しだけ進んだ。一歩前進。またこのオフィスの横には台湾の東方美人の製法で作ったという江山美人という茶を売る店があり、そこでこのお茶を飲ませてもらった。確かに東方美人のような香りがある。昔は台湾が中国から茶を入れて改良したものだが、今では中国が台湾で良茶と言われた茶をいつの間に作るようになっている。

 

一旦魏さんたちと別れ、前回も会った台湾出身の李さんに会いに行く。彼は張天福氏に師事しており、張氏と福安農学校について何か聞いていないかと聞いてみたが、その時代のことは知らなかった。まあ確かに後に有名になる張天福といえども、初期の頃の話は後世誰かが語らない限り、残らないだろう。恐らくは張氏自身がこの時代のことをあまり語っていないかもしれないし、それに興味を持つ人もいなかっただろう。因みに張氏が静岡に行ったこと、そこで具体的にどんなことがあったのか、もぜひ知りたいところだが、これは更に難しい。

 

夕飯は魏さんの友人も加わって食べる。以前貴州に一緒に行った劉さんも来ており、しきりに私に日本茶の歴史について聞いてくる。何故だろうかと思っていると『最近日本に行く中国人が増え、日本茶へ関心も高まっている。特に中国から日本へ渡った茶についてはあまり知られていないので、調べて本を出したい』と言い出す。昔なら『それはいいことだね』などと軽く言って、分かることは教えていただろうが、今は『人に何かを教えるとか、何かを調べることはそんな簡単ではない』と思わず言っている自分がいた。私みたいな素人に聞いて本を出してはいけない。

 

魏さんに連れられて、福安の鄭さんの店へ行く。魏さんはまだ福安から戻っておらず、福安でも会った店長が対応してくれた。それにしてもこのお店、古い家を改造して趣があり、実に整っていて、立派だ。しかもそれなりに広い。ここで飲む坦洋工夫茶はまた格別だ。今回の旅ではこれまで首を傾げることが多かった中国紅茶の新たな面を発見した思いだった。お土産に坦洋工夫をもらったので、日本の知り合いに分けて味わいたい。