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広東・厦門茶旅2019(3)芳村から潮州へ

527日(月)

芳村で

 

翌朝はご飯を食べると、ホテルを引き払い荷物を持って地下鉄に乗る。ラッシュ時間帯で、乗り換えもあり、ちょっと大変だったが、何とか乗り切り、芳村駅で下車。そしてそこから歩いて、茶葉市場方面へ向かう。かなり荷物が重く感じられる。張さんとの待ち合わせ場所に向かったはずだが、間違って着いてしまったのは、張さんの昔のオフィス。彼女が会を辞めたことは知っていたのに。今はどこにいるのだろうか。

 

 

 

結局電話して迎えに来てもらう。彼女は自らのオフィスを既に立ち上げ、活動を始めていた。これまでの古いやり方の茶葉販売を新しく変えたい、そんな活動だと理解した。折角着いたのに、すぐにまた出掛ける。タクシーが呼ばれたが、行先は芳村駅の向こう側、非常に近い場所だった。しかもここには以前来たことがある。そう、最初に張さんと会った時、予約してくれたホテルがある、インキュベーター向けオフィス群があるところだった。

 

 

 

その入り口付近に、瀟洒な建物がある。入口の前は竹で覆われていた。中に入ると広々としており、キレいな空間があった。器などがすごい数、置かれている。何と向こうの方には畳のスペースがあり、誰かが打ち合わせをしている。ここは一体何なのだろうか。老板はやはり潮州出身で、工夫茶の茶芸なども披露してくれる。『基本的に商売ではなく、趣味で集めている。その方が色々な人が古くてよいものを沢山もたらしてくれている』というではないか。

 

 

 

打合せしていた人を紹介されたが、何と大阪と神戸から来た華僑、しかも福清人だったので驚いた。ここには日本の物もたくさん集められているが、彼らのような人が持ち込んでいるのだろうか。それにしても、日本の茶道の道具が多い。やはり茶道をやっている人が亡くなり、その子孫には価値が分からず、骨董屋が集めて中国に流れていく、ということだろうか。

 

私が見たかったいくつもの、東南アジア各地の老舗茶荘の茶缶などが出てくる。錫製の茶缶は清代の物だろうか。先日訪ねた福建茶行の名前を見ることもできた。ここに居れば、いくらでも自分のおもちゃが出てくるような感じでワクワクする。もう少し勉強してから、もう一度訪ねてみたい場所だ。

 

 

 

昼時となり、老板とお客が食事に出るという。我々も一緒について行くことになった。車はどこからか郊外に出たような感じの場所に行く。そこはどう見ても田舎の村、こんなところにレストランがあるのか思うところだった。だが中に入るとお客で満員盛況。食にうるさい広州人が集まるのだから期待が持てると思ったが、期待以上の味付け、美味しさに思わず涙する。料理が来ると一口食べる間に皆が手を出し、すぐに無くなってしまう。それほどうまいということだ。久しぶりに満足感のある食事だった。

 

 

 

潮州へ

 

我々は広州南駅から高速鉄道に乗る時間が迫っていた。だが最後の最後まで食べた。そして急いで車を呼び、皆を残して失礼した。何とも申し訳ない話だが、効率は実に良い。南駅は遠かったが、何とか時間に間に合う。外国人である私はチケット取得に時間がかかると踏んで、昨日広州駅で取っておいたのが功を奏した。予約が別々のため、彼女らとは別の車両となる。

 

広州から潮州へは約2時間半かかる。そしてその時間以上に同じ広東省内なのに、文化や言語が異なる世界が待っている。そんなことを考えているといつの間にか着いている。だがそこは潮州駅ではなく、潮汕駅という名前だった。汕頭駅は別にあるのに、何故なのだろうか。この辺は複雑な事情がありそうだ。

 

 

 

駅には車の迎えがあり、30分ぐらいかけて、潮州の街に入る。潮州に来るのは2001年の春以来、実に18年ぶりであり、どこを見ても見覚えがない。何だか城壁の中に入り、路地に今日の宿があった。そこは今流行りの民宿であり、古い民家を改造して、宿泊施設にしていた。それはそれで雰囲気は良い。

 

 

 

すぐに夕飯の時間となる。潮州と言えば牛肉だそうで、牛肉のしゃぶしゃぶを食べる。確かにこれはうまかった。それよりも、張さんが実は非常にグルメであり、食へのこだわりが強いことに驚いた。聞けば、お父さんは湖北省で特級調理師だったというではないか。子供の頃から、その舌はお父さんに鍛えられたらしい。これは何とも頼もしい。

 

 

 

食後は、川沿いを散歩した。何と午後8時からは、ライトアップまであった。今や中国の多くの街で採用しているが、ここではお客さんが少なすぎだろう、経費はどうなっているのだろうかと思うほど、贅沢だった。特に1000年前に作られた浮橋が見事に浮かび上がり、かなりきれいだった。風も心地よく吹き、良い散歩となった。

 

 

広東・厦門茶旅2019(2)茶博で広州茶会の将来に出会う

5月26日(日)
お散歩

昨晩はずっとCCTVのスポーツチャンネルを見ていた。昔は世界の情報が何も入らなかった中国だが、スポーツに関しては、今や素晴らしい環境が整っている。各種目の世界大会は国営放送が無料で見せてくれるのは何とも有り難い。『世界バドミントン男女混合国別対抗戦2019 スディルマンカップ』を中国南寧でやっている。日本対インドネシア、日本は男女両エースが順当に勝ち、勝利。決勝の相手は中国になった。

 

朝ごはんはホテルで食べる。前回からこのホテルチェーンの朝食券が付くようになり、取り敢えずあるものは食べる。まあどこへ行ってもほぼ同じメニューではあるが、良しとしよう。本当は今日午前中からKさんとお出かけの予定だったが、彼女の都合により、一人で十三行博物館に向かう。

 

この博物館、開館当時に一度来たことがあったが、その後色々と歴史調査が進む中、また確認の意味を込めて地下鉄に乗って訪ねてみる。パスポートを提示すれば無料というのも有難い。展示物はおそらくそれほど変わっていないと思われるが、所々に気になるものが置かれており、茶の歴史としての統計数字などもあり、また当時の茶の名称から気づくこともあり、種々勉強になる。さらっと1時間ほどで見終わったが、何と土砂降りの大雨に見舞われ、動くことが出来ず、もう一度館内を巡ることになったから、気が付くことが増えたようだ。

 

雨は通り雨で、止んだ。外に出て、歩いて沙面に向かう。ところが道を間違えて、沙面の向こう側まで歩いてしまう。最近のボケ具合は相当のものだ。別の橋を渡り、沙面に入る。旧横浜正金ビルはちょうど真ん中ぐらいにあった。その裏のビルは、ギャラリーのようになっており、誰でも参観できる。かなりレトロな雰囲気で、写真に収めている人もいたが、総じて人がいないのもまたよい。

 

何となく疲れてしまい、宿へ戻る。駅近くの店に入り、ランチをテイクアウトした。ホルモン系のスープがうまそうだ。勿論中国の物価は以前と比べると高くはなっているが、こういう食事を見ていると、まだまだコスパは悪くない。これを部屋に持ち帰り、ちょうど始まったバドミントン決勝の試合を見ながら、ゆっくり食べた。日本チームは戦力的には有利に思えたが、アウエーの中で思うような試合が出来ない。ついでに明日からの旅に備えて洗濯もする。

 

茶博
夕方再度出かける。今日は広州で開催されている茶博の最終日。会場近くの駅まで地下鉄に乗り、Kさんと待ち合わせて見に行く。会場前ではダフ屋が入場券を5元で販売している。もうすぐ終わるので投げ売り状態だった。会場に入っても、既に大かたの人は帰ってしまったのか、ゆっくり見学できた。

 

私には特に目的はないので、Kさんの後ろをついて歩く。湖南安化茶は作り方から伝統的な飲み方まで再現している。雲南の高山茶があり、先日行ったばかりの四川雅安の蔵茶も出てくる。そして六安茶のブースでピタッと足が止まる。現在の六安瓜片とは異なる、老六安茶とは何か。その歴史には非常に興味があり、私も聞き入る。

 

2階に上がっていくと、茶空間の展示会場がある。近年中国でも単にいい茶を飲むだけではなく、どんな器で飲むか、そしてどんな場所で、どんな雰囲気で飲むかが、問われ始めている。そんな設計を競っているようで、かなり力が入っており、驚くような空間が演出されていた。将来は日本の茶道のような、いや中国独特の茶空間が出現するだろうと思えた。

 

Kさんと会場下で夕飯を食べる。ちょっと落ち着いた空間があり、お茶を飲みながら、簡単なものが食べられるようになっていた。やはり広州、そのちょっとしたものが美味しい。何気ないものが美味しいのが本当に美味しい料理だと思う。食は広州にあり。ついでにお茶も美味しい。

 

茶博の終了した夜8時から、広州茶文化促進会の黄会長などを中心となって、『広州の茶文化をどのようにしていくのか』といったテーマで、シンポジウムのようなものが開かれ、私もKさんと一緒に参加した。Kさんは日本の代表、そして以前知り合ったコロンビア人のジェロも発言者として登壇した。

 

100名上の参加者、それも広州で名のある茶関係者が一堂に会する集まりであり、6-7人ずつ分かれてテーブルに座る。そこはお茶席になっており、各席主が工夫を凝らした設えをして、かなり良いお茶を持ち込み、いい雰囲気で淹れてくれる。私の席ではいい岩茶が出てきて嬉しい。

 

一方壇上では、何人もの発言があり、ディスカッションがあり、これだけの人間が広州にはいるのだと伝わってきた。そしてそれぞれが本当に広州の茶の将来を考えようとしている、これからを指向した集まりを目指していく様子がよく分かった。中国茶は本当に曲がり角に来ているな、と思われる。すでに角を曲がった?日本にはこんな真面目な集まり、あるのだろうか。

広東・厦門茶旅2019(1)深圳 茶葉世界

《広東・厦門茶旅2019》  2019年5月25日-6月2日

5月25日(土)
深圳で

香港から深圳にやってきた。今晩は広州に泊まる予定なのだが、広州へ行く方法はいくつもあった。ちょっと混んでいても、新しくできた高速鉄道で行くのが、旅人らしい振る舞い」だったかもしれない。ただ私は羅湖を通過した。その理由はズバリ、暇だったからだ。早めに広州に到着しても、予定がなかったのだ。

 

それともう一つ、最近深圳の茶葉市場に行った、香港在住のお知り合いIさんが、鳳凰単叢の李さんの店を訪ねた所、『最近全然来ないわね』というメッセージを頂戴したと伝えてきた。恐らく2年以上訪ねていないだろう。それなら暇なのだから寄り道して、羅湖から広州へ行けばよいと考えた。

 

イミグレは相変わらず外国人窓口が少なかったが、スピードは速かった。荷物検査は面倒だが何も問題はなかった。羅湖駅前にも特に変わった様子はなかった。茶葉世界も変わっているようには見えず、お客もまばらだった。ちょうど昼頃着いたら、李さんは弁当を食べていたので、場内を一周してみたが、店もそれほど変わってはおらず、やはり活気はない。

 

李さんも相変わらず単叢を売っている。ただ一時のブームが去り、商売は落ち着いているようだ(なぜか今日本人の間では単叢が流行っているらしいが)。李さん自身も『もうあくせく商売する気はしない。時々お客が来て、飽きない程度にできればよい』などと言っている。昔勤めていた頃の年金がもうすぐ入ってくるともいう。ご主人は既に退職して、悠々自適。ついに日本へも旅行に行ったらしい。

 

そんなことだから、ご主人も呼んで、一緒にご飯を食べようと誘ってくれる。私はこの店に何らの貢献もしていない。自分では単叢を飲むことはあまりなので、茶葉を買うことすらない。夜まで待って食事をしていると、広州へ行くのが遅くなることもあり、今回は丁重に辞退した。

 

もう一軒覗いてみた。台湾茶を売る店。ここは元々台湾人が経営しており、仲良くしていたが、数年前にそのオーナーがなくなり、店の従業員だった桃姐が店ごと引き継いでいた。阿里山の茶を主に商っている。結構いい焙煎具合の茶なので、意外と好きで、偶に飲んでいる。

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この店も、桃姐はいるものの、既に娘が結婚しており、その夫婦の代になっている感じだ。私などはお母さんの古いお客さん、という位置づけになっている。桃姐ももう商売の話などしなくなっている。ちょうど今から勉強に行くんだ、と言って去って行ってしまった。勉強の内容は何と『社会貢献』だというから驚く。中国、いや深圳はもう本当に一時代が終わり、次に時代に移行していると感じる。

 

広州へ
羅湖駅に戻り、広州行きの切符を買う。ここの行列もかなり短くなっており、有り難い。相変らず10分に一本は列車が出ており、日本の新幹線並みに乗車できる。いつものように広州東駅までの切符を買ったが、掲示板を見てみると、私が乗る次の列車は東駅を越えて広州駅まで行くらしい。

 

今日の宿泊先は広州駅の近くに取ったので、広州駅へ行きたい。だが勝手に次に列車に乗ることは出来ない。仕方なく乗り込んでから確認することにした。最初に掃除のおばさんが来たので聞いてみると、『このまま乗っていけば着くよ』という。次に来た車掌に聞くと『東駅でも広州駅でも料金は一緒だよ』というだけ。どうやって乗り換えればよいのだろうか。

 

結局終点の広州東駅で列車を降りて、駅で聞いてみる。ところが『ここはそれを教える担当ではない』などと言われ、詳細が分からない。改札口で聞くと『広州行きは当分来ないから地下鉄で行け』などという始末。もうすぐ列車が来ることを伝えて初めて確認して『1番ホームに急げ』などというのだ。もう呆れる。

 

何とかその列車に乗り込む。15分程度なので立っていく。地下鉄だと30分以上かかるのでかなりの節約だと思ったのだが、節約したのは乗車料金だけで、無駄な時間が多かった。というのは、広州駅に着いたものの、結局一駅地下鉄に乗るが早いと言われ、その一駅乗るために延々と歩き、切符の行列に並び、荷物検査を受けるのだ。バス路線を簡単に調べられるとよかったな。

 

宿は最近の定宿、チェーンホテル。なんと駅からすぐで有難い。おまけに週末のせいか、部屋をアップグレードしてくれ、かなり快適な空間となった。昨日の香港の宿とほぼ同じ料金で、部屋の広さは5倍、快適度は10倍にもなっている。冷蔵庫のドリンクも無料で飲める。

 

夕飯は近所を散策。何だか昔の広州が残っている一角があり、ちょっと迷子になりながら歩く。腸粉と米麺を食べて、大満足。やはり広州の食事は安くて美味しい。しかしよく見ると、小さな食堂が並んでいるのだが、潮汕料理という看板がかなり多い。この付近は潮汕人が多いのか、それとも潮汕料理がうまいからあるのか。私はこれから潮州へ行くので食べるのを控えた。

香港1泊茶旅2019(2)福建茶行で劇的に

結局自力で福建茶行を探して行って見る。看板が出ており場所はすぐに分かった。この店は以前前を通ったことがあるが、中に入る勇気がなかったところだ。今回は調べに必要なので勇気を振り絞って入ってみた。香港のお茶屋さん、一見さんには厳しい所もあるので、かなり緊張していった。奥の方でオーナーがお客さんと茶を飲んでいるのが見えた。

 

そこまで行って普通話で声を掛けた。オーナーより先に、お客の女性が飛び上がった。よく見たら、旧知のKさんではないか。彼女とは3月にも四川の旅を一緒にしている。しかし何でここにいるんだ。彼女の顔にも同じ意味合いが浮かんでいた。聞いてみたら、彼女はお茶関連のイベントで香港に来ており、たまたま香港の友人に連れられて、この店に立ち寄ったというのだ。そんな偶然、あるのだろうか。でもあったのだから驚くわけだ。

 

私はこの機会を十分に活用した。オーナーは日本女性が来ており上機嫌だったので、私に対してもとても優しかった。こちらは聞きたいことをどんどん質問した。Kさんはさぞや目を白黒させていたことだろう。Kさんたちは次の予定があると言って、お茶を買ってスッと去っていった。僅か20分ぐらいの出来事だった。

 

オーナーの楊さん(2代目)は上機嫌で、その後もお茶を淹れてくれ、色々な話をしてくれた。私自身の確認事項は張源美と福建茶行の関連だったが、どうやらさほど関係なく経営されていたらしいことが分かる。そして今に至るまで、東南アジアへの輸出は続けている。古い茶箱が歴史を物語っている。これから上環に来たら、この店にも寄ることにしよう。これもみな、Kさんとの出会いのお陰だろう。

 

ホンハムで
またMTRに乗ってTSTで降りる。そこからホンハムまで、ダラダラ歩いて向かう。今晩は久しぶりにIさんと会うことになっていたが、なんと彼は広州出張からちょうど戻ってくるところで、待ち合わせ場所はホンハム駅になった。広州からの直通列車に乗ってくるという。

 

駅で待っているとIさんが出てきたので、Iさんが知っているという駅近くの串焼き屋に向かった。ところがそこは大流行りで、待っている人々が沢山いた。まあ、金曜日の夜だし、日本食ブームの影響もあるのかもしれない。我々は近所の海南チキンライス屋に入り、なぜかハート形のライスの付いた、海南チキンを食べる。これもまた一興。

 

Iさんは旅行会社を経営しており、鉄道(乗り物)オタクでもあるので、旅関連の人として認識してきた。ところが今日話してみて意外な事実が分かった。彼は学生時代、中国現代文学を学んでおり、私は上海に留学した頃、すでに北京に留学していたらしい。学生時代、殆ど勉強しなかった私だが、強烈な印象を受けたのが中国人作家の劉賓雁だった。彼はその辺の作家を真面目に学んでいたというのだ。まさかこの話題でお互い理解できる、盛り上がれるとは思ってもいなかった。相当の驚きである。

 

食堂が寒すぎて、そこを出て、その昔ヤオハンがあった舟形のショッピングセンターまで歩いた。今はイオンなのだろうか。懐かしいというか、何というか。海まで出て夜景を眺める。知らないうちにこの辺にもMTRの駅が出来ており、それに乗って帰る。便利なったんだな、とちょっと寂しい。

 

5月25日(土)
深圳へ

狭いながらもよく眠れた。翌朝は10時前にサムスイポーへ向かった。昨晩買えなかった、中国用シムカードを購入するためだった。これがないと中国で生きていけないから必須だ。帰りにうまそうにご飯を食べている人がいたので、道端で朝食をとる。インスタント麺にソーセージと目玉焼きを入れる。やはりこの辺はジャンクだが安い。悪くない。

 

ホテルをチェックアウトして、太子駅付近で銀行を探したが私の用事がある所はATMしかなく、九龍塘まで出て、ショッピングモール内の銀行で用事を済ませた。何とパスポートが切れてから手続きをしていなかったので、カード使用が止められており、新しいカードが発行された。

 

そこから昔なじみのMTR東線で、深圳を目指した。偶には良いかと一等車に乗る。意外と混んでいて驚く。むしろ普通車の方がよかっただろうか。料金も昔に比べて結構高くなっていた。深圳のイミグレはいつものように混んではいたが、それほど待たずに境は越えた。さて果たしてこれからどうなるのだろうか。

香港1泊茶旅2019(1)上環で下調べも

《香港1泊茶旅2019》  2019年5月24-25日

とても久しぶりに広東省の潮州に行くことになっていた。同行してくれるのは広州在住の張さんだったので、当然潮州の現地集合だと思っていたところ、何となく広州に来て欲しい、という雰囲気が漂う。まあ、それでも良いので、広州に行くことにしたが、ちょうど気になる茶荘が香港にあったので、まずそちらを目指す。香港は先月も訪問していたので何と2か月連続。こんなことは滅多にない。まあ1泊のショートトリップ。

 

5月24日(金)
中華航空で

香港へ行くため、桃園空港に向かう。いつものバスに乗る。今日のフライトは中華航空。中華に乗るのは何十年ぶりではないだろうか。基本的に日本線はスターアライアンスかLCCに乗るので中華の選択肢はなかった。何となく料金が高い、イメージがよくないというのもあったかもしれない。だが今回香港片道で検索したところ、一番安くて時間的に便利だったのが中華だったことは意外だった。

 

桃園空港の到着が意外と早く、搭乗まで時間があった。どこで時間を潰そうかと考えたが、取り敢えず搭乗口付近まで行こうと歩いていると、初めて見る空間に遭遇する。そこはラウンジのようにも見るが、誰もが使える無料の空間であり、知られていないのか、ほぼ人がいない。薄暗いところにテーブルがあり、充電も可能と理想的な環境。おかげで落ち着いて旅日記を書くことができ、満足。

 

中華の機内は当たり前だが、きれいで、映画を見ることもでき、美味しいとは言えないが機内食もチャンと出てくる。機内誌を見ると、何と紅茶関連の歴史を記した記事まで出ており、嬉しくなる。これでLCCより料金が安いとはどういうことだろうか。最近LCCの香港エクスプレスをキャセイが買収したとのニュースを見たが、そういうことが影響しているのだろうか。いずれにしても、有難い話だ。

 

1時間半のフライトで香港空港に着く。イミグレは簡単に通過。LCCではないので、キャリーバッグを預けずに済んでおり(LCCは重量制限が厳しく荷物を預けるが、香港空港の荷物待ちは非常に時間がかかる)、そのまま外へ出られるのもとても有り難い。先月来た時に買ったシムカードが使えるかを確認。50ドルのチャージで使えると分かり、チャージする。このシムの仕組み、初めて分かった。半年でシム自体は失効する。

 

先月はバスで黄大仙に向かったが、今回の宿は太子なので、TST行バスに乗る。さすがにTST行きは利用客が多く混んでおり、久しぶりに2階席に座る。40分ほどで最寄りのバス停で降りる。そこは広東省各都市行きのバスが出発するところで、大勢の人が荷物を持って待っていた。私も明日の広東行き、ここからバスに乗れば楽だな、と思ってしまう。

 

太子で
小雨の降る中、歩いてホテルへ向かう。この付近は、繊維問屋などが多く見られ、随分と昔の香港の雰囲気が残っている。ただそこで働いている労働者は、バングラ、パキスタン系、中東系など、とても香港の路上を歩いているようには見えない。いやこれが今の香港の現状をよく表している一つの光景だろう。

 

歩いて何とか、予約したホテルに着いた。先月はサムスイポーのドミトリーに泊まったが、今回検索してみると、そこの料金は倍以上に跳ね上がっており、それならば、と別のホテルの個室を予約した。そこはロビーもあり、フロントは英語を使い、きちんとしていたが、部屋は非常に小さく、殆どがベッドで占められていた。辛うじて窓から外は見えた。一応隣にバスルームもあったが、シャワーを浴びても体を捻ることが出来ず、体を洗うのには相当苦労した。

 

狭い部屋に居ても仕方がないので、取り敢えず外へ出た。MTR太子駅まで歩いていく。途中に飲茶屋があったので、フラッと入り粥を注文した。ついでに茶も頼んでみた。出てきたのはかなり焙煎の効いた水仙か。一体茶代はいくらだろうかと思っていたが、何と僅か3ドルだった。今もこんなところがあるんだなと感心する。これぞ本当の香港飲茶だ。

 

上環で
MTRで上環へ出た。今回の香港訪問の目的、それは茶荘を一つ訪ねることだけだった。だが初めての店は敷居が高い。まずは周辺情報を集めようと、茶縁坊の高さんの所へ行く。彼女も福建省安渓出身だから、同業者のことは知っていると思っていたが、全く知らないと言われ愕然。まあ高さんの大坪と西坪は同じ安渓と言っても離れているから仕方がないか。因みに高さんは今年の春、珍しく大坪に帰らなかったらしい。ついに張さんの鉄観音茶も見られなくなるのだろうか。

 

次に向かったのは、近くの堯陽茶行。こちらは西坪の出身だから、訪ねる予定の福建茶行を紹介してくれるだろうと思っていったのだが、馴染みの王さんに聞くとなんとこちらも、『あることは知っているが付き合いはない』と寂しい答え。同業者なのに、そんなものなのだろうか。折角なのでオーナーの三代目王さんに『1930年代に厦門から香港にお店を移したと言うが、その後厦門はどうなったのか』などの質問をした。厦門の建物はいまだに残っているとの答えだったので、今度厦門に行って確かめてみよう。

ある日の台北日記2019その2(13)台北高等学校

5月21日(月)
国家図書館で

今回は滞在が長いようで、台北から中国へ行くなどの予定が控えており、ゆったり構えている暇はなく、平日になると動き出す。まず今日は中正紀念堂の前にある国家図書館へ向かう。ここには以前一度だけ、古い新聞の調べで来たことはあったが、本格的に蔵書などを見る機会はなかった。

 

U-bikeに乗ると、さわやかに行き着くことができる。すでに入館証も作られていたので、簡単に入館する。そして館内PCで本を探したいのだが、ここのPC、なぜか日本語打てない?仕方なく、カウンターの人に頼んで探してもらった。多少の材料は見つかったが、核心的な問題に触れる本は少ない。今回私が見たかった新聞もここにはなかった。

 

そんな中、学生の修士、博士論文も沢山収蔵されていることを知り、こちらを丹念に当たり始める。同時に書庫に眠る論文も出してもらうように申請を行った。ところが、まるで日本の図書館のように?申請後1時間半も待たないとその論文を手にすることは出来ないと言われ、1時間半後に行ってみると『なぜかその論文、見付からないんですよ?』という始末。さすがにこれはまずいのではないだろうか。恐らくは人手も削減され、予算も限られているのだろうけれど、国家図書館なんだからなあ、と思いながら、お暇した。

 

5月22日(火)
資料探しで台北高校

昨日に引き続いて、朝から資料探しの旅。今日はまず師範大学へ行ってみる。この大学、名前は30年前からよく聞いていたが、一度も来たことがなかった。昔の企業派遣留学生は午前中師範大学で授業を受け、午後はTLIで個人レッスンに通うというのが一つのコースだったと思うが、私は既に上海で留学を終えており、同じ年齢の人たちが楽しそうに勉強している(上海ではあまり授業に行かず、旅ばかりしていた)姿は羨ましくもあったので、あえて来るのを避けていたのかもしれない。

 

門を入るとすぐそこに図書館棟があった。身分証(パスポート)を預ければ簡単に中に入れた。親切にも『日本人ですか?ここの8階には台北高校関連の展示室がありますよ』と教えられ、覗きに行くこととなる。一体どれだけの日本人がここに見学に訪れるのだろうか。8階まで登ると、建物の中央は空洞で、なかなかきれいな景色が見え、そして勉強している学生の姿も見える。

 

台北高等学校(その後身が現在の師範大学)と言えば、日本時代の1922年に設立された、台湾における唯一の高校で、ここを卒業しないと内地の帝国大学には進めない、と言われた学校だったと記憶している。李登輝元総統などの出身校だ。展示室は広くはなく、誰も見学している人もいなかったが、内容はかなり詰まっていた。

 

現在活躍中のタレント、ジョン・カビラ、川平慈英の父である川平朝清氏も台北生まれでここの卒業生。朝清が使用したノートなども展示されており、とても興味深い。他にも日本にゆかりの深い邱永漢や王育徳などの写真が飾られている。どちらもお会いしたことがある名前であり、何とも多彩だ。

 

教授陣も3分の2は東京帝大卒(歴代校長は全て)という、優秀な若手が送り込まれてきていた様子が窺われる。万葉集の研究で名高い犬養孝もおり、また子供の頃読んだ『次郎物語』の作者、下村湖人はここで学生のストライキに遭遇したという。

 

勿論光復後の台湾を支えた、立派な起業家になった卒業生も多くいる。私が今回注目したのは辜振甫氏。私は30年前、彼のグループ企業にお世話になり、2年程台北で過ごしたのだが、その中で1度直接お会いしていることも関係しているかもしれないが、何といっても光復前後に茶業を行っていたという歴史に興味があった。

 

この展示室には彼の一生に関する本が置かれていたが、鍵がかかっていて中味を見ることは出来なかった。彼のような台湾を代表する大物(日本でいう経団連会長を何十年も務め、最後は両岸海峡基金会のトップとして中国と対峙した)に資料がないはずはない。ここの図書館で、この本を見ることは出来なかったが、代わりにこの大学の卒業生の書いた論文は参考になった。本当に様々な研究をしている人がいるものだ、と今更ながら感心する。

 

辜振甫氏についてもう少し知りたいと思い、台湾大学に向かった。彼は台北高校から台湾大学に進んだ。ネット検索したところ、学内に辜振甫記念図書館があるというから、そこに資料があるだろうと思い、出掛けてみたわけだ。ところがそのきれいな図書館、名前は付いているのだが、それは遺族からの寄付で建てられたもので、決して彼に関する資料があるわけではなかった。なるほど、そんなものかもしれないが、ではどこに資料はあるのだろうか。

 

5月23日(水)
王将を覗いて

餃子の王将が台北に出店したらしいと聞いた。統一時代百貨は自転車ですぐなのもあり、また天気も悪くなかったので、ちょっと散歩がてら、覗きに行ってみた。地下2階の飲食街の奥にその店はあった。かなり広い店舗だが、夕方5時代だからか、お客は殆どいなかった。メニューを見ると、本格中華のような料理が並んでおり、簡単な餃子定食などはなかったので、かなり残念だった。

 

店員に聞いてみると『ここは日本とは違うんです』という。餃子の王将は中国大連に進出したが、すぐに撤退。その同じ年に高雄に店を出したらしい。当然中国での失敗を念頭に、きちんとした調査を踏まえて出てきたのだろう。そして満を持しての台北進出だから、私がとやかく言う必要はない。ランチにはセットメニューもあるようだが、一介の日本のおじさんとしては、餃子や回鍋肉定食が欲しい。

 

王将を諦めて、横にあったとんかつ屋に吸い込まれた。ここは5時代なのに、もうお客がかなりいる。とんかつ定食を頼むと、サラダが沢山出てくる、漬物が数種類出てくる、そしてさらっと揚がった美味しいとんかつが出てきた。これで日本円1000円ちょっとなら、これは満足できる料金と言えるのではないだろうか。

 

台北の日本食店は激戦である。ニーズは多いが競争相手も多い。少し油断するとすぐにお客を奪われる。そんな中で王将はどんなお客を描いているのだろうか。日本の中華、という、ある意味の日本料理で勝負できるのだろうか。焼き餃子なら、大手チェーン店が半額ぐらいで提供している。まあ、対象が日本人のおじさんでないことは確かだな。

ある日の台北日記2019その2(12)久しぶりに彭園湘菜館

5月18日(土)
久しぶりに彭園本店へ

週末は原則外出しないのだが、今日は北京からTさんが、台北に正式赴任したというので、夕飯を一緒に食べることになった。ちょうど住まいも決まったということで、まずはそちらを訪ねる。場所は旧市街地にあり、昔は飲み屋などが多かったが、今はきれいなホテルが出来、そしてマンションも建っていて驚いた。台北の変化、というのは、実はこういうところに出ているように思う。

 

周辺をぐるぐると歩き回って食事の場所を物色した。確かにお店は沢山あるのだが、2人でゆっくり話すのに適した場所は意外と見付からない。5分ほど歩いて行くと、Tさんが『ここにしてみましょう』と言って、スタスタと2階に上がっていく。よくわからずに後をついて行く。

 

このレストラン、かなりきれいな中華、いや湖南料理と書かれている。ウエートレスは妙齢の女性で、日本語を話してくれる。相当改装されており、昔の面影はないが、何となく、ここに来た覚えはある。店名を見ると『彭園湘菜館』とある。そうだ、ここは30年前によく来た店で、15年前には家族の台湾旅行でも訪れ、いつもは食べ物に無頓着な長男が炒飯を食べて、美味いと言いながら涙を流したという、我が家では伝説?のレストランだったのだ。まさかこんなところにあったとは、最近の記憶の悪さが顔を覗かせる。

 

だが、いや当然ではあるが、この老舗レストランも様子は変わっていた。勿論内装はきれいになったが、その分料金は高くなっている。更には日本人客にはしきりに日本語で書かれたセットメニューを勧めてきて、その料金は一人1000元もする。これで飲み物を頼んだら、いくらするのだろう。

 

Tさんは北京でもこういうことには慣れており、セットメニューを断り、食べたい物だけを注文した。その竹筒スープ、炒飯の味には昔が感じられ、鶏肉、家常豆腐の濃い目の味付けは何とも好みだ。本来湖南料理は激辛だが、ここではそれを避けて食べるのがよいと思われる。Tさんと二人、香港時代に偶に行った、湖南ガーデンという中環の店を思い出していた。

 

酒を飲まない私は2次会に付き合うことはないのだが、今日はTさんから、お土産を買う手ごろなお茶屋さんを紹介してほしい、と言われ、歩いて行ける新純香を目指した。Tさんも新米駐在員としての情報仕入れにかかっている。このお店、その昔から林森北路付近にあり、先代のお母さんの時に何度も行ったのだが、娘さんが店主となってからは、数えるほどしか行っていない。

 

お店は昨年改装され、とてもきれいな、すっきりした空間となっていた。2代目店主の王さんと私は早々にお茶の歴史の話を始めてしまったが、Tさんは何と『引っ越したばかりでお茶も湯飲みすらない』と言いながら、店内にあった物品を物色して、早々に買い込んでいる。お土産ではなく自分用か。まあ、このお店は日本語が通じるし、試飲が気楽にできるし、値段も手ごろだから、お茶初心者、お土産用にはよいかもしれない。

 

それと、パイナップルケーキだけではなく、舞茸チップスなどのお茶請けが充実しているので、むしろこちらを買いに来る人たちもいるようだ。私の横では、台湾茶についてかなり突っ込んだ質問をしている60代の日本人夫婦がおり、その質問内容には、講座で参考になるものが多かった。つい横から口を挟んでしまい、ヒンシュクもの。王さんが『この人はお茶の歴史を勉強しているので』と取りなしてくれたが。

 

それにしても、日本の台湾茶商さんたち、台湾茶の歴史をどのように伝えているのだろうか、とふと思ってしまった。まあお茶を売るだけなら歴史など語らない方が無難なはずなのだが、どうしてもうんちくが必要なのだろうか。そうであれば、日本の中できちんと茶の歴史を学ぶ場が欲しい、と思うのは、私だけだろうか。なぞと考えながら、トボトボと帰路に就く。

ある日の台北日記2019その2(11)初の茨城空港

《ある日の台北日記2019その2》  2019年5月16日-6月21日

一週間の東京滞在(自らの誕生日を祝う?)を経て、台北に舞い戻る。が、すぐにまた香港、広東、福建の旅が待っており、更にはよもやのもう一度福建、何やら全く尻が定まらない。果たして台湾茶歴史調査はどこまで進んでいくのだろうか。

 

5月16日(木)
初めての茨城空港

今日は台北へ戻る日。今回はタイガー航空で往復予約していたが、なぜかちょっとだけ安い便を見つけた。よくよく見ると出発は成田ではなく、茨城空港となっているではないか。以前より何度も話題には出ていたが、一度も使ったことがなかった茨城空港。荷物もほとんどないので、この機会に一度行って見ることにした。

 

しかしこの空港、どうやって行くのだろうか。ネットで調べると、東京駅からバスが出ており、予約すれば乗客は500円で行けるとある。ただバスの予約は搭乗1か月前からしかできず、ちょっと面倒だが、安い料金のため、きちんと日程管理して予約しておいた。予約時点でフライトから逆算して乗るバスが示されるのは良い。ただもしこのバスが使えないとなると、行くのは大変だろうな。

 

バスは東京駅八重洲側のバスターミナルから出ていたが、チケットは買えず、運転手に直接、しかも降りる時に払う方式だった(当然下車時は混乱する)。乗客は台湾人が多く、案内役の女性も在日台湾系であろうか。バスに乗り込むとほぼ満員になっている。出発するとすぐに寝込んでしまい、気が付くともう茨城県に入っていた。高速道路を使って約1時間40分、成田に行くより、40分ほど余計にかかるが、料金は半額だからお得かもしれない。

 

空港は外観からして小さかった。バスもフライトに合わせてしか運行されず、お客さんは限られていた。チェックインカウンターに既に開いており、行列が出来ている。自家用車などで来た人たち、いや台湾の団体さんだろうか。2階には空港が見渡たせるデッキも用意されており、そこから飛行機を眺めている人もいた。

 

今回はわずか1週間の東京滞在であり、荷物は最小限10㎏しか持ち込まないと決めて、追加料金を払うことは止めていた。だが行きの桃園空港でまさかの重量オーバー。そこでは何とか見逃してもらったものの、帰りもその重量はかかるので、色々と苦心の結果、おかげで何とかパス。更にはLCCで偶に聞かれる『帰りのチケット持っていますか?』も、力強く『6月に戻ります』と宣言すると、それ以上追及されなかった(実際に6月のチケットは手配済み)。何とも優しい空港だ。

 

荷物検査、イミグレも簡単に終了するのは、やはり有り難い。今回はお土産を持つ余裕もなく、免税店でお菓子を探したが、茨城名物はなく、北海道のクッキーになってしまう。しかも店員はやはり私に中国語で語り掛けてきて、クレジットカードはなぜか拒否された。ここはどこの国なのだろうか。でもなんだか緩やかな時間が流れており、感じは悪くない。

 

国際線、国内線合わせて一日数便しかないので、搭乗もゆっくりできる。何とターミナルから歩いてタラップへ向かう。何だか昔のKLのLCCターミナルを思い出す簡素さだ。そう、フライトはシンプルが有り難い。当然滑走路が混みあうこともなく、順調に飛行できる(着陸地側に問題がなければ)。ただやはりもうちょっと茨城空港が近ければもっと有り難い。空港存続のために様々な努力をしていると思われるが、それが報われることを祈るしかない。

 

機内は6-7割の搭乗率だっただろうか。フライトはいつもと変わりなく、LCCだから食事も飲み物も出ずに、寝ている間に到着する。勿論成田と茨城で所要時間が違うわけでもない。桃園空港では、新たに30日のシムカードを購入して、すぐに長栄バスに乗り込む。ただ降りる場所が毎回言えずに切符購入で戸惑うのは自分でも不思議なことだ。

ある日の台北日記2019その2(10)高雄六亀のブヌン族を訪ねて

5月2日(木)
高雄六亀にブヌン族を訪ねる

翌朝は5時に起床、6時前にはホテルをチェックアウトした。今日はまた高雄に向かう。ホテルに朝食が付いていたが、食べる時間がないというと、ランチボックスを用意してくれていた。台湾もこういうサービスがあるのか。でも中味はパンと水だったので、もう少し何とかし欲しいとの欲も出る。

 

トミーの車でまずは高鐵台南駅へ行く。ここでトミーの姉、サニーと落ち合った。今日はサニーの同級生に案内を乞うており、彼女もわざわざ台北から駆け付けてくれた。前回の高雄も嘉義から入っていったが、今回も台南から現地に向かう。高雄はかなり広い地域で山が多いのは意外だった。

 

小雨の中、1時間ほどで六亀の街に着いた。ここでサニーの同級生、ブヌン族のアンドリューと合流して、早々に山の中に入る。アンドリューは大学卒業後アメリカに渡ったが、今はこの地の住民代表をしているという。今ちょうど山で茶の作業をしている親族がおり、午後は大雨かもしれないというので、急いで向かう。その山道はかなり細く、山に慣れているトミーも運転し辛らそうだった。

 

山の中に茶畑が見えた。アンドリューは携帯で親族の所在を確認しようとしたが繋がらず、車から降りて大声で呼び始める。如何にも原始的な風景にビックリ。そして何とか親族夫妻を見つけ出し、老茶樹を見ることができた。この付近には山茶と呼ばれる茶樹もあるが、後から植えられた烏龍などが多い。茶業はいつから始まったのだろうか。

 

 

 

実は日本時代末期、茶業試験所の谷村愛之助技師がこの地に踏み込み、アッサム原生種を発見した、との記事を目にしたことがあった。それは当時の京都帝国大学演習林内にあったようだが、この付近のことなのだろうか。それをどうやって確認すればよいのか、今やその術はないように思われた。

 

アンドリューが村にある一軒の家に入っていく。そこには94歳のブヌン族夫婦が待っていてくれた。アンドリューとは遠い親戚にあたる。何と二人ともほぼ完ぺきな日本語で話す。ここで出てきた話はかなり衝撃的だった。いつものように原住民は製茶にはほぼ関わっておらず、ここの茶作りは最近始まったという。だが日本時代、ここにも公学校が出来て、日本人の先生一家が住み込みで教えていた。当時小学生だった奥さんは、先生の家で子守をしていたそうだが、先生の奥さんが『茶の葉を摘んできて、それを自分であぶって揉んでいたのをよく覚えている』というのだ。当時の日本人は、一般人でも簡単な茶作りが出来た、という証拠かもしれない。それでブヌン族も茶の存在を認識し、飲むようになったというのは面白い。

 

肝心の原生種の話。新聞記事に載っている地名をいうと、『この近くだ』というではないか。更には『そういえば、当時は様々な調査をしに日本人が来ていた』というから、谷村もその一人だったかもしれない。ここで発見された茶樹を使い、紅茶生産が計画されたが、戦争によりとん挫したため、詳細はやはり不明のままだが、興味深い事例だと思う。

 

94歳の夫婦は、話し始めると色々なことを思い出していき、その思い出をどんどん話してくれる。親族は大体内容が分かっているようで、日本語にも拘らず、時々合いの手を入れているが、アンドリューやトミーは全く内容が分からない。通訳してくれと言われても、そのスピードと内容、難しい。最後に奥さんは日本語の歌を歌い始める。戦前の流行歌だと思うが何という曲かはわからない。小学校唱歌などではないから、先生の奥さんか教えられたものだろうか。その歌が何曲も続き、遠くを見ながら子供の頃を思い出し、あふれ出てくる姿に、日本統治の意味を考えた。因みにここの地名は『桃源郷宝山村』である。

 

街に戻り、林業試験場六亀分場に行ってみる。行けば京大関連の資料があるかもしれないとのことだったが、昼時だからかそこは閉まっており、聞くことは出来なかった。日本時代、なぜここに演習林が置かれたのか、その中で茶業については何か研究されたのか、など、興味深いテーマではあるが、調べる術が見つからない。

 

昼ご飯に麺を頂く。付け合わせで出てきた小菜が美味しいとお替りする。その後、先ほどの茶業夫婦の家に行き、お茶をご馳走になる。非常にシンプルな製茶設備があり、原始的な作りとなっている。紅茶と緑茶があるようだ。もう少し原生種の特色が分かるようなお茶だと、注目を集めるのではないだろうか。基本的に歴史的にはかなり意義のある茶産地なのだから、何とか発展してほしいと思う。

 

帰りも行きと全く同じルートを取る。台南高鐵でサニーを下ろし、私は台中高鐵まで乗せてもらう。サニーと一緒に台北に帰ればよいのだが、一つは台中から乗った方が安いこと、もう一つはトミーと車中で今日のまとめ、反省会をすることが目的だった。この短期間に2度も高雄山中に連れて行ってくれたトミーには感謝しかない。

ある日の台北日記2019その2(9)南投で歴史を聞く

5月1日(水)
南投で

日本の元号が令和に変わった。昨日は天皇退位の儀をテレビで見ていたが、何とも淡々とことが過ぎていく。今日は新天皇の即位だが、勿論私の生活には特に変化はない。今日は埔里と魚池へ行くため、またもや早朝の高鐵に乗る。そしていつものようにトミーが車で待っていてくれ、また歴史調査が始まる。

 

今回はまず埔里に行き、昨年突然訪ねた劉さんの所に行ってみる。もし在宅ならば話を聞こうと今回もアポなしで出掛けて行くと、運よく、前回と同じ椅子に座っていた。ただ昨年足を怪我したということで、歩くのが少し大変になっている。それでも95歳にしては、まだまだ元気そのものだ。

 

劉さんは流ちょうな日本語を話してくれる。劉さんも光復後、この付近で茶業に長年携わっていたことから、魚池の分場長だった林復氏とはやはり面識があった。というより、彼は日本時代の持木茶園に勤めており、持木一族が引き上げた後、台湾茶業(後の台湾農林)に接収された持木茶工場の工場長をしていたというので、そちらの方に興味を惹かれた。劉さんは持木工場後、自ら茶の販売を長く行い、今でも一部の贔屓客より注文を受けているらしい。

 

次に魚池に王さんを訪ねた。こちらも89歳になっているが、とても元気で、日本語も話す。王さんは光復後茶業伝習所5期の卒業生であり、林復氏が所長(校長)を辞める頃卒業していた。勿論面識はあり、色々なことを教わったという。卒業後は故郷に戻り、台湾農林の茶工場で働いた(茶業伝習所卒業生の義務)。因みに王さんのお父さんは渡辺茶園の創設と関係が深く、ある意味魚池で最初に紅茶作りをした人々なのではないかと思われる節がある。またお兄さんは新井さんがいた試験場に会計係として勤務していたようだが、早くに亡くなってしまったという。

 

昼ご飯に鶏肉を食べると、まだ時間があったので、王さんの孫が整備中の茶工場へ向かった。ここは魚池農会の真向かい。小高い所に茶畑を配して、露営キャンプ場、横にはホテルも建設中だ。茶工場は最新設備を整えて既に稼働しているが、今月工場の上の階に売店、試飲室などが開業予定で、ついに本格的に動き出す。規模もかなり大きく、日月潭から近いこともあり、大勢の観光客の来場が見込まれている。これからの時代、単なる茶業ではなく、観光も織り交ぜた取り組みが必要かもしれない。

 

午後は8年ぶりに鹿嵩の和果森林へ行く。前回ここの石さんから色々な話を聞いていたのだが、91歳になった石さん、何と以前よりずっと若くみえるのはすごい。水泳、ウオーキングなどを日課としているらしい。記憶力も衰えておらず、こちらの質問にもはっきりと答えてくれるので有難い。

 

石さんは先ほどの王さんより2つ年上で、茶業伝習所の光復後3期卒。ということは、林馥泉所長から、林復所長に交代する時期であり、両者の学校時代、そしてその後の茶業でのかかわりについて、かなり有益な情報を得ることができた。やはり林馥泉氏は光復の時に台湾に渡り、日本の茶業資産を接収したメンバーだったのだ。また午前中に会った埔里の劉さんは石さんの先輩にあたり、何と持木茶工場での劉さんの後任が石さんだということも判明して驚く。

 

石さんは私のことは忘れていたかもしれないが、娘さん夫妻は覚えていてくれたようで、再会を喜んだ。和果森林はこの地域で観光を取り入れた先駆的な茶業者であり、DIYなど、素人に茶を自ら作らせる体験型を導入したところだ。娘さんは最近日本でもセミナーを開くなど、紅茶販売促進に努めている。最後に彼女から『実は持木さんの末裔の方とは交流がある』という有力な情報も得、後日連絡を取り合うようにもなった。やはり現地で聞きこまなければ情報は出てこないものだ。

 

トミーの車で台中駅まで送ってもらった。何と大学の同級生夫妻がGW休みで台中に来るというので、今晩は同じホテルを取り、夕飯を共にすることにしていたのだ。彼らのホテルには私も何度か泊ったことがある、駅前のとても便利な場所だった。台中駅も今や完全に新駅が完成して、様相は一変している。

 

トミーから聞いた鍋の店へ、タクシーに乗って向かった。そこは日本的な入口でちょっと不思議なレストラン。鍋もあったが、なぜか店員は薬膳料理を勧めてくる。まあ折角だから、と薬膳定食を頼んだが、なぜここでこれを食べているのか、よくわからなくなってしまった。翌日トミーにそのことを告げると『なんで鍋を食べなかったの?』と言われてしまう。勧められたものをちゃんと食べるべきであった。ホテルに戻り、そこでお茶を飲みながら、他愛もない話をして過ごす。これも同窓生ならではあり、リラックスできて有り難い。