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沖縄を旅する2019(3)最北端まで行くも

7月5日(金)
最北端へ

夜中から雨が降り続き、朝になっても止まなかった。今日はHさんが車で沖縄本島観光に連れて行ってくれることになっていたが、あいにくの天候となっている。Hさんには過去何度か車に乗せてもらい、色々な所へ行っている。そろそろ本島ではいく場所がなくなってきており、今回はお茶とは関係なく北部を訪ねることになった。

 

車は小雨の中、ひらすら走っていく。那覇やその郊外までは渋滞などもあったが、その後は車も少なく順調だった。そして2時間後には、ほぼ北の端までやってきていた。まずは沖縄最北端にあるコンビニとして、ファミリーマートに寄った。今はこんなところまでが、撮影スポットになっていることに驚く。まあ、これは商売上のことだろうが。

 

そこから更に20分以上走り、ついに最北端、辺戸岬に到着した。いつもは多少観光客などもいるようだが、この天気では駐車場に車は殆どなかった。車から降りて海を見に行くと、大きな碑が建っていたが、その先は強い風と雨により、傘が飛ばされそうになり、歩くのが難しくなってしまった。折角来たのだが、ゆっくり海を眺める時間もなかった。晴れた日には与論島まで見えるらしいが、残念。

 

ここに長居しても仕方がないと次に向かう。元々の予定では大石林山という奇岩や巨石、亜熱帯の森、大パノラマなどがある、自然環境豊かな場所を散策する計画だったが、さすがにこの雨では難しい。取り敢えず現地まで行ってみると、係員が『博物館だけでも見て行って』と言うので、見学だけした。もし天気が良ければトレッキングして、やんばるの自然を満喫できたのかもしれない。

 

昼ご飯は、この辺で一番有名だという、前田食堂を訪ねた。建屋は昭和の雰囲気だ。午後1時ごろだったが、店内はほぼ満員のお客さんで、辛うじて座ることができた。これは雨のお陰だろうか。名物の牛肉そばを注文した。出て来たものはどんぶりに山盛りのモヤシが乗った麺だった。確かに美味しいのだが、何となく台湾で食べる牛肉麺に通じるところがあるな、と思った。牛肉を入れる発想などはいつ頃からあるのだろうか。

 

雨が少し強くなる。少なくとも屋外活動は難しい状況となっていた。困ったHさんが『塩作りを見に行きませんか』という。まあ行けるところがあるだけよい。車で1時間以上かけて島の反対側、うるま市に向かう。その断崖?の近くに『ぬちまーす』の工場はあった。ここでは塩作りに適した海水を使い、独特の製塩法を用いて、ミネラルの多い、美味しい塩を作っているのだという。

 

工場見学もでき、案内の人が一通り説明してくれた。工場を見ても、機械があるだけで、正直内容はよくわからない。ただショップの方には、この塩を使った様々な商品、飴や菓子からみそなどまで、が販売されており、ちょっと驚く。ソフトクリームは美味しいそうだったが、涼しいのでパスした。社長には著書もあり、かなりの有名人らしい。外に出ると海が見える。断崖に近づくと、遠目に工場が見える。ここなら他社がこの海水を汲むこともできない。

 

それから車は南下して、那覇の方に戻っていく。途中に有名なうるまジェラートという店があり、寄ってみる。ここのジェラートは美味しい。そして味の種類も豊富で、沖縄の紅茶なども使われている。ただこの店の周囲、殆どが閉店しており、実に寂しい状況だ。この店にも客はいなかった。今後は那覇などでの展開が主になるのだろうか。2種類注文したら、もう1種類おまけでくれた。

 

徐々にあたりが暗くなる。那覇に戻る前に夕飯を食べようと、検索して沖縄らしい食堂に行くも、今日はもう閉店していた。仕方なく近くのモールへ行き、その食堂街を歩いてみたが、なぜか韓国料理が食べたくなり、ビビンバ定食を頼む。ここは食券制で事前に購入する。だが券を買ったのは我々だけで、他のお客さんは別のメニューを見て注文し、現金で払っている。きっとメニューも韓国語で違うのだろうし、料金も違うのだろう。キムチなどの小皿も沢山ついているらしい。この店の客は韓国系なのだろうが、こういう韓国的な取り扱いには不愉快になる。せめて分からないようにやって欲しいものだ。

 

一日中、何となく雨の中、Hさんには大変お世話になり、沖縄本島を北から南まで走ってもらった。やはり沖縄は車がないと何もできない。特に雨の日は動けない。明日明後日、バスに乗って出かける予定だが、どうか雨が降らないで欲しい。畳部屋には洗濯ひもが下がっており、濡れた衣服を掛けて寝る。

沖縄を旅する2019(2)ちんすこう屋さんで

7月4日(木)
ちんすこう屋さんへ

翌朝は曇っていた。知り合いのIさんと朝食を食べるために、旭橋の駅をまたぎ、前回私が泊めてもらったIさん所有アパート付近のベーカリーに行く。旭橋には昨年工事中だったバスターミナルがきれいに完成しており、その上に県立図書館が移転してきていたのは嬉しかった。昨年は歩いて30分ぐらいかけて行った図書館が、すぐの場所にやってきたのだ。

 

このベーカリー、やはりパンが美味しい。中国人観光客の家族なども食べに来ており、朝から満員だ。Iさんにも色々と変化があったようだ。昨年やっていた民泊は条例施行により取りやめとなり、普通のアパートになったらしい。私はまた泊まりたかったのに。相変らず朝から元気だったが、昨年1月一緒に訪ねた台湾人の死の話では、暗くなってしまったが、仕方がない。

 

実は1件、ワードファイルを印刷して郵送する必要があったので、Iさんと別れたその足でファミリーマートに行ってみた。勿論機械はあるのだが、何とPDFでないと印刷できないらしい。困っているとIさんがワードをPDFに変換してくれたので、何とか印刷のこぎつけ、そのままコンビニで切手と封筒を買い、コンビニ内のポストに入れた。21世紀もかなり経つというのに、今で原本主義とは、日本の会社も困ったものだ。

 

それから駅の横、バスターミナルの上にできた県立図書館を覗きに行く。当たり前だがきれい。5階にある沖縄関連本のフロアーに入ると、見たい本がたくさんあることに気が付き、急遽、ここで勉強することにした。土曜日のセミナーでも必要な内容が補足でき、とても有意義だった。それにしても殆ど人がおらず、なんとも贅沢に見える空間だった。これからも時間がある限り、ここで過ごそう。

 

昼ご飯は図書館のすぐ近くにあり、鶏料理屋に入る。ここも前回来たところだったので、勝手は分かっているつもりだったが、修学旅行生などが入ってきて混乱する。ここのタルタルソースと卵、意外とうまい。ボリュームがかなりあるので、食べ切ると腹がかなり膨れる。

 

今日は午後2時におもろまちまで行くことになっていた。雨が降っていれば当然ゆいレールで行くのだが、ちょうど雨は止んでおり、まだ時間もあったので、国際通りを歩いてみた。そこで思い出したのが公設市場。確か無くなってしまったというニュースを見たので行ってみたが、すぐ近くに移転しており、既にそちらでの営業が始まっていた。中国人観光客らが、料理してもらって食べようと真剣に魚を選んでいた。

 

あまり暑くないのでフラフラ歩いていると、いつしかやちむん通りに入る。陶芸の店やおしゃれなカフェがいくつもあるが、雨模様のせいか、お客は殆ど歩いていない。そこを越えていくと、おもろまちに到着した。そこにAさんが迎えに来てくれ、車で彼女のお店に行った。

 

そこは元祖ちんすこうの本店。首里駅からも歩くと15分ぐらいかかるというので、迎えに来てくれたのだ。ちんすこうは以前庶民の食べ物ではなく、王族の物だったから、お店がここにあるのも頷ける。工場はだいぶん前に移転しており、今は店舗が残っていた。観光客が来るような場所でもない。

 

ここでちんすこうについて色々と聞いた。土曜日のセミナー、実は『ちんすこうのルーツを訪ねる旅』の話もする予定なので、もう一度確認しておこうと思ったわけだ。ちんすこうは元々焼き菓子か蒸し菓子か、と言った問いにも、『ちいるんこう』という蒸し菓子があることも分かり、不明な点が多々あることを再認識した。

 

また沖縄茶の歴史についても、昨年お会いしたのち、色々な方に聞いてくれており、その辺の話も聞いた。勿論本に書かれていることは重要なのだが、書かれていない、生の声、情報も本当に必要だと痛感する今日この頃である。かなり昔のことだから思い違いなどもあるとは思うが、聞いたことを一つ一つ検証することが大切な作業となる。

 

お茶も沖縄産煎茶などを入れて頂く。お菓子はちんすこう、ちんるこうなどの他、特製の物までたくさん出して頂き、色々と味わった。本来はお茶とお菓子、この良い組み合わせを見つけて推奨するのがお茶の商売だろうが、私にはその力量はない。お菓子屋さんからの提案は重要ではないだろうか。

 

帰りもまたゆいレール駅まで送ってもらった。県庁前に差し掛かった時、那覇市歴史博物館がパレットに入っていることに気が付き、急に降りて向かった。那覇の博物館なら何か参考になる展示があるかもしれないと思ったからだ。ところが何と今日は休館日だった。これまで様々な博物館に行ったが、木曜日が休館というのは初めてで驚いた。どんな事情からそうなったのだろうか。

 

ちょっと気落ちしながらエスカレーターを降り、地下の食品売り場に向かった。ここで飲み物と、サーターアンダギーなどのお菓子を買い込んだ。レジ袋は有料だった。先進的だな。夜は雨だったので、持っていたお菓子などを少し食べただけで、部屋から出なかった。決して快適ではないと思っている場所でも、雨が凌げればよい、という感覚になる。

沖縄を旅する2019(1)昭和の下宿へ

《沖縄を旅する2019》  2019年7月3-7日

昨年1月、沖縄のお茶について本格的な?調査を実施し、様々なことが分かって来た。更にほぼ同時に『琉球人と茶』という本が刊行されるなど、沖縄のお茶への関心が少しずつ高まっていると感じている。今回はついに沖縄で、沖縄の人に、沖縄の茶の歴史(ついでにちんすこうも)を話す、という大胆な企画にチャレンジすることになった。これはかなりの緊張を伴うもので、果たして反応はどうか、とても気になる所である。

 

7月3日(水)
那覇へ

今回那覇に入ったのは、東京からバンコックまで行く安いチケットを探していたところ、LCCピーチの沖縄経由があったからだった。折角なら、沖縄にも滞在して、何かしようと思い、この便を予約した。成田から那覇まではピーチが飛ぶようになったのは、何とも有り難いことだ。

 

成田空港に行ってみると、第1ターミナルの脇の方に、ピーチのカウンターがあった。何とも小さな空間だが、こういう狭さが安さに繋がっているとも感じられるので、対顧客上は悪くない。そしてチェックインは原則機械で行い、預け荷物が必要な人は隣に並び直して行う。思ったよりずっと効率よく進むので問題はなかった。ピーチの良さは『効率と顧客目線』こんなところにある。

 

搭乗はバスで向かい、タラップを上がる。それから3時間、機内で殆ど何もせず、目をつぶっていた。特に疲れていたわけでもないが、これからの長旅を考えると寝るのが一番かと思われた。ふと気が付くともう着陸態勢だった。乗客は7割ぐらいの搭乗率で、隣も空いており、快適に過ごした。

 

那覇空港に降りると、すぐにゆいレールに乗る。スイカなどが使えないので切符を買う。そのオールドデザインの切符を機械にかざして入る。那覇に来るのは昨年1月以来。あの時はとても寒くて腰をやられたが、今回はちょうど梅雨明けの時期で、夕方は快適な気温だった。旭橋で降りて、予約した宿に向かう。

 

今回の宿、完全に昭和だった。実は半月以上前に国際通りにほど近い新しめの宿を予約していたが、何と昨晩遅くに確認したら、男女混合ドミトリーのベッド1つが予約されていて慌てた。さすがに4泊もドミトリーはおじさんにはきつ過ぎる。よく見ると、前日の23時59分までは無料でキャンセルできるとあった。時間を見ると23時55分、猛スピードでキャンセルに成功した。

 

だが、泊まるところが見つからない。既に沖縄は夏の旅行シーズンに突入しており、特に週末は部屋が取れなかった。今から明日の宿をとる、こと自体が至難の業になっていた。そんな中、一軒だけ4泊取れる宿があった。料金はさほど高くない。しかし一体なぜこの宿はこの時期に空いているのか。怖いもの見たさで予約してみた。

 

旭橋から10分もかからない場所にあったその宿に、昭和の下宿屋、XX荘を思い出した。受付に行っても、部屋番号を言われただけで鍵すら渡されず、お金もいつ払うのか分からなかった。3階の部屋は畳部屋。なかなか見られない骨董品のような場所だった。かなり広いのは2人用の部屋を予約してしまったかららしい。だから思ったより高かったわけだ。エアコンは100円玉を入れないと使えない。小型テレビの映りは悪い。トイレと風呂は共同で、廊下はきしむ。部屋は蒸し蒸しと暑く、学生時代の下宿を思い出した。

 

取り敢えず日も暮れていたので、夕飯を食べに出る。確か前回来た時に近くに手頃な食堂があったはずだったが、いくら探しても見つからない。ちょうどあった別の店に入り、なぜか茄子のみそ炒め定食を頼む。これは意外と美味しく、あっという間に平らげた。これは沖縄料理なのだろうか。因みにこの店の名物はとんかつらしい。

 

部屋の窓を開けておくとスコールが来た時部屋が濡れてしまうが、窓を閉めて出掛けて帰ってくると暑い。エアコンは使わないと決めて、この辺を工夫しながら過ごす。シャワーとトイレ、洗面が一緒なので他人の迷惑にならないようにと思ったが、どうやら3階にはお客はもう一人しかおらず、バッティングすることもなかった。アジアのゲストハウスも段々きれいになっている中、何とも懐かしい雰囲気だ。エアコンはないが扇風機はあるので、夜はそれほど暑くはない。夜中にかなりの雨が降り、その音で少し眠れない。

ある日の台北日記2019その2(18)台北国際食品展へ

6月21日(金)
食品展へ

19日の夕方、厦門から戻る。もう明後日には今年前半の台北滞在を終了して、東京へ一旦引き上げる予定となっていた。さすがにこの3か月でため込んだ資料の整理、持ち帰るものの仕分けなど、予想以上に細かい作業が続き、丸1日を費やしても終わらない。何しろ、ここから3か月は台湾に戻らないため、書かなければならない原稿用の資料は確実に持ち帰り、または今日書いてしまわなければならない。

 

しかし資料1つ1つに目を通すと、色々と思い出が頭をよぎり、ついつい読みふけってしまったりして、なかなか進むものではない。それほどに思い入れがある物、ということだろうか。そしてまだ足りていないところも浮き彫りになってくるので、片付けているのか、調べているのか、分からない状態になってしまう。

 

そして何より疲れが溜まっていた。さすがに安渓での濃い滞在を通して、体が消耗していた。自分のペースでできる旅だとそこまで消耗しないが、団体行動に振り回されるとあとが厳しい。特に食事をとり過ぎることが、どれだけ体力を落とし、疲れを増幅させるかは、今後の参考にしなければならない。

 

行けなければならないところもあったのだが、全て取り止めて宿泊先で荷物整理と格闘していた。前日の夜にはきちんとゴミ出しも行った。最終日の朝、葉さん夫妻に挨拶して、今後のことなど話していると、今ちょうど101で国際食品展をやっているから、ちょっと一緒に覗いて見ない、と誘われた。101ならそれほど遠くもないし、お茶屋の出店もあるとのことだったので、その話に乗っかっていく。

 

実は台北食品展は南港で行われていたのだが、規模拡大なのか、今年は101と2会場併用で開催されていた。葉さんたちの会社のブースは南港に出しているのだが、参考にするため101会場も見てみようということで出かけた。午前10時から開始なのだが、9時半には到着。既に会場前には出展者が列をなして入場している。

 

準備中のブースを回り始めると後ろから『久しぶり』と言われる。誰かと思って振り向くと4月に行った高雄の茶農家だった。彼は3月には幕張Foodexにも来ていたし、かなり活発に動いている。日本からも京都や静岡など数軒のお茶屋さんが出店していた。抹茶に興味ある葉さんは1軒ずつ回って、品定めを始めた。簡単な通訳をしながら一緒に話を聞いていると為になることも多い。

 

日本企業のブースで台湾人が売込みをしているのは台北開催だから当たり前だろう。勿論日本から来た社員がサポートして、うまく中国語で説明している。だがある一社はインド系社員が来ていた。彼の売り込みは、切り込み方がうまく、如何にもインド商法という感じで面白かった。今や日本でも外国人が普通に働いており、彼らは彼らのやり方で海外市場と対峙しようとしている。こういうアプローチがないと、日本茶はなかなか発展していかないように思う。

 

その後南投県のブースに行くと、日月潭紅茶を紹介していたが、そこの女性2人が突然『あなたのことは見たことがある』と言い出して驚く。聞けば、トミーの講座に参加しており、その中で台湾紅茶の歴史の講義を受けた時、写真に私も写りこんでいたらしい。確かにトミーとは何度も歴史茶旅を繰り返していた。今彼はその成果を講義の中で生かしている。これはとても大事なことだと思う。

 

タピオカミルクティーも大きなブースを構えていた。今や台湾だけではなく、日本でも、アジアでも大人気のドリンクとなったタピオカミルクティー。当然注目が集まっており、内外の多くのバイヤーが試飲をし、商談していた。このブーム、いつまで続くのだろうか。タピオカ、そんなに美味しいのだろうか。

 

宿泊先に帰り、荷物をまとめる。松山空港まではすぐなのでタクシーに乗ろうと思ったが、貧乏癖か、MRTに行ってしまう。大きなケースが2つもあるのに、何をしているんだ、効率を考えるべき。しかも空港でチャックインしようとしたら、1個の荷物の重さは23㎏までです、と言われ、3㎏を段ボール箱に移す羽目になった。合計重量には相当の余裕があるのだが、なぜこんな規則にしているのだろうか。ビジネスクラスは32㎏までOKなのに。(東京に着いてから、ケース2個と中型段ボール1個を持って家に帰るのは大変だった)

 

今回はマイレージでANAを使ったのに、とちょっと思っていたが、実は数日前からエバー航空は従業員のストライキに入っており、私がいつも乗る便も欠航になっていた。何か月も前から予測できるわけなく、何ともラッキーだった。機内では『飛んで埼玉』という映画を見たが、特に笑えなかった。そして私の上半期の台湾は終了した。

華人と行く安渓旅2019(6)元気な96歳に会う

6月18日(火)
更に歴史を知る

今朝は先日もちょっとお会いした張彩雲の親族で、張水存氏の息子さんと再会する。目的は今回紹介してもらい、無事に会うことができた大坪の張秀月さんに関する報告であった。水存氏と秀月さんはいとこに当たる。そして合わせて、5階建てビルの上に水存氏が書いた張家の歴史の碑を見たことも伝えた。

 

張一帆氏から、今回さらにこれまで知らなかったいくつかの情報を得ることができた。これは秀月さんと会って、彼女が言っていることを確認する過程で、出てきた新事実だった。勿論家族内のことであり、公にする必要はないのだが、『なぜ彼女はこう言ったのか』『なぜ大坪の秋月さんとヤンゴンの兄弟は疎遠なのか』などを理解する上では重要なことだった。やはり歴史は足で確認していくことも大切だ。

 

張源美の屋号、白毛猴についても、これはあくまで茶の品種名であり、他にもこのマークを使っていることなども分かる。張源美については、既に3回の連載を終えたが、どうしても秀月さんの現状など、歴史に翻弄され、埋もれて行った歴史を理解したいと考え、もう1回書くことにした。

 

昼ご飯に何を食べるか。以前樟州に行った際に食べた麺が美味しかったので、樟州麺を探して歩く。ようやく見つかった店の味も、私の意識している麺とはかなり違う。よく見ると隣のOLさんたちは土鍋麺などを食べている。今度はこちらを試してみたいと思う。まあ麺は、食べ過ぎないでちょうどよい。

 

午後は昨年一度訪ねた張乃英さんの家を再訪した。張さんも大坪の出身であり、前回は台湾木柵に鉄観音を持ち込んだ張乃妙についてヒアリングしたのだが、張彩雲についても知っているだろうと思い、聞きに行ったわけだ。やはり彼らは張家の資料を持っており、その中には彩雲の長男、樹根が周恩来と会っている写真などもあり、かなりの収穫があった。張さんも私が張彩雲の歴史を調べていることを喜んでくれているようだった。

 

更には中国茶業界の泰斗、張天福氏との交流についても訪ねたところ、現在も存命で一番親しかったのは、李さんだと言い、何といきなり電話を掛けてくれた。そして明日の朝会いに行く段取りまで付けてくれたのは、何とも有り難いことだ。実は李さんには会いたいと思っていたが、ここでご縁ができるとは。

 

乃英氏の息子も、歴史や文化に大変興味を持っており、張家一族の歴史を掘り起こしているほか、閩南語と日本語の相関性などについても、その研究成果を発表しているのには驚いた。日本語と台湾語は近い、それは台湾統治の影響もあるのか、などと近視眼的な感覚でいたが、その大きな流れの中では実に興味深い歴史が出てきそうだ。

 

6月19日(水)
96歳に会う

翌朝は早く起きて、昨日言われた場所を目指してバスに乗る。思ったよりスムーズにバスが動き、予定より早くバス停に着いた。李冬水さんは96歳だと言うが、何とバス停まで迎えに来てくれるという。それは申し訳ない、というより、96歳では歩くのも大変だろうと勝手な心配していたのだが、それは全くの杞憂に終わる。

 

私の前をスタスタと軽快に歩いていく老人がいたが、どう見ても80歳、いや70代にしか見えなかった。だがその人がバス停でキョロキョロと人を探していたので、思い切って声を掛けたところ、まさに李さんだったので、本当に驚いた。背筋は伸びており、腰も曲がっていない。

 

李さんは、やはり安渓の生まれで、家が貧しく、9歳から14歳までマレーシアのペナンに働きに行ったこともあるという。その後独学し、更に農業経済の勉強のため大学まで行った努力家だった。そして解放後の1952年、福建省農林庁に勤め始め、その時の同僚が張天福氏だったという。張氏はその後右派として迫害されるが、李さんは旧正月の初日は欠かさず張氏の家を訪ねて年賀を述べていたことから、張氏から『真の友人』として遇されていたらしい。

 

李さんの健康の秘訣はウオーキングや水泳などの運動だと言うが、体だけでなく、頭も気力もすごい。実は昨晩、彼は張天福氏に関する思い出や出来事などを、紙に纏めてくれ、私に渡してくれたのだ。こんな元気な96歳、考えられない。そして何よりその誠実さが素晴らしい。

 

李さんの中国語は非常に標準的だった。もし厦門や安渓で過ごしていたら、こうはならなかったと思う。長年福州で生活していたからこその中国語だろう。私にとっては、介添え者なしで、はっきりと理解できるのがなんとも嬉しい。そしてその話の内容は、苦労してきた人だからこそ、と思わせるものが随所にあった。

 

因みに李さんのお子さんは日本に留学し、日本企業で働いていたらしい。一緒に朝ご飯でも食べようという李さんのお誘いは嬉しかったが、中茶のお店で李さん持参のお茶を頂いただけで十分だった。漳平水仙、実は張氏も李さんもこのお茶が好きだという。理由は『昔の茶の味がするから』だそうだ。

 

またバスで30分ほど戻り、ホテルで休息した。このチェーンホテルの常連へのサービスは実によい。チェックアウトは午後4時でよい。フライトは午後5時だから、何とも有り難い。昼に鴨肉定食を食べに行き、更にフラフラしてからホテルを出て空港に向かった。今回は前回に懲りて、厦門航空にしたので、台湾から出るチケットを見せろなどとは言われず、さらっとチェックインして、さらっと搭乗、松山空港からフラッと宿泊先に戻れた。これだと厦門はやはり近いな、と感じられる。

華人と行く安渓旅2019(5)コロンス島で

6月17日(月)
厦門へ戻る

ついに今日は安渓を離れ、厦門に行くことになっていた。校長がまた車を出してわざわざ送ってくれた。陳さんは先日のホテルにチェックインして、明日帰国するというので、そのホテルまで同行して、そこで別れた。今回は本当に陳さんに世話になった。そして酒も飲めずに何らお役には立たなかった。

 

そこからタクシーでいつものホテルまで行く。5つ星ホテルよりこちらの方が私には落ち着く。しかしすぐに外出した。出来れば鼓浪嶼、コロンス島へ行っておこうと考えたのだ。もう何年も行っていない。聞けば、昔の船にはもう乗れず、船着き場も別の場所になったというのだ。バスでその船着き場にかなり迷いながら行ってみると、何と昔の金門行きフェリーが出ていた場所だった。色々と変化があるものだ。

 

 

しかも以前は空いていればすぐに乗れた船、今やチケットを購入して乗船時間が決まる。すぐ出ていく船は既に満員で、1時間は待たされる。そして何より昔は1元、その後10元だった船代が、何と50元になっている(35元の船もあるようだ)。船で10分の距離、どう考えても合理性はない。これは入場料ということか。待っている時間がとても暇に思えたが、よく見ると壁に100年ぐらい前の厦門やコロンス島の写真が沢山貼られており、結構楽しめた。

 

船は超満員で座る席さえない。まあわずか20分のことだからどうでもよいが、そう考えると船賃に納得がいかない。コロンス島には確か3つは船着き場があると思うが、そのうちの一つ、見覚えのあるところに到着。早々歩き出す。海辺は気持ちがよく、一体どこに来たのかと思うほどのリゾート気分。しかし途中から上り坂になり、結構疲れる。

 

今回態々ここまでして島に来た目的は1つ。先日紹介を受けた郭春秧の子孫が出演した番組によれば、郭はこの島に別荘を建てており、その別荘は今も残っているということだったので、是非見てみたいと思った次第だ。だがその別荘の場所までは意外と遠い。改めてこの島の広さを実感する。ようやくたどり着いたときにはヘロヘロだった。

 

今その別荘はホテルになっており、建物中に入ることはホテルゲスト以外できないと言われる。仕方なく外からその重厚な建物を眺めた。庭もそれなりにあり、お茶を飲んでいるお客もいた。ここ以外にも、春秧の茶荘の名称から取ったと思われる、錦祥路という狭い道もあるが、特にお茶に関連ありそうな風景は今や見当たらない。

 

しかしこの島、歩いている人が多い。静かで優美な、ピアノの音が聞こえてくる島、というイメージはもうない。人込みを避けて歩くと、旧日本領事館の建物に遭遇した。ここには往時各国の領事館が置かれていた、いわゆる租界地という面もあった。本来はもっとゆっくり昔の建物など眺めながら、歴史に浸りたいところだが、観光客の群れはそれを許さない。

 

仕方なく、近くにあった船着き場から厦門に帰ろうと思ったが、そこは厦門市民専用だった。観光客と島民、市民をここで区別して、観光客から高い料金を取りたてていたのだ。何だか釈然としないが、一方でこれだけの人が島に来てしまえば、島民の生活にも大きな支障が出たことだろうから、この処置はやむを得ないと理解し、歩いて10分ほどの観光客用に行って乗船した。帰りの料金は行きに含まれており、この船着き場から出る船は、すぐ対岸に着岸してくれたので、帰るのは楽だった。

 

バスで宿に帰る。腹が減ったので、近くの新疆料理屋でラグメンを注文する。夕方5時だというのに、漢族の若者が酒を飲み、大声で騒ぎ、そして料理の味付けに文句を言っている。それを黙って聞いているウイグル族の夫婦。もう慣れっこなのだろう。少なくとも同胞というイメージはない。若いウイグル女性はこの暑い中、冷房のない外で、串焼を焼いている。ウイグルの中にも格差社会はあるのだろうか。

 

夜はゆっくりと休んでいたが、なぜか眠れずに、ずっとテレビを点けていた。女子ワールドカップサッカー、中国チームはスペインの猛攻に耐え、何とか決勝トーナメントに進んだ。中国女子は90年代、日本などよりはるかに強く、世界の頂点に居たこともあるが、最近は成績が芳しくなかった。男子同様、奮起が期待されている。中国の監督が試合後涙しているのは特に印象的だった。

華人と行く安渓旅2019(4)大坪 張彩雲の娘

6月16日(日)
大坪で

今日は安渓滞在実質最終日。明日の朝には厦門に戻る。私は陳さんに我儘を言った。大坪に連れて行って欲しいと。陳さんは承諾し、何と校長先生夫妻が車で連れて行ってくれた。大坪、これまで張さんの茶作りを見に、何度も通った場所だったが、今回はミャンマーの大茶商、張彩雲の娘が生きているとの情報をもらい、その親戚とも連絡がついたので、どうしてもこの機会に訪ねたくなったのだ。

 

その前に一か所、寄り道した。そこは大きなビルの中。安渓県教育局の部屋に行く。陳さんは学校に寄付しているのだから、教育局に行くのは分からないでもない。しかし今日は日曜日、しかもそこに待っていたのは局長だった。実はこの局長、大坪の出身で、勿論張彩雲の名前も知っていた。校長が気を利かせてくれたのだろう。(いや、むしろうまい口実の下に、局長と陳さんを引き合わせた)

 

大坪はかなりの山の上にあり、安渓の街からはやはり1時間かかる。しかも最近新しい道路を造っているのか、車のナビと道路がマッチせず、工事中の道に突っ込むなど、ちょっとスリリングなドライブとなる。大坪に上るのに道がいくつかあることが分かる。その一本はかつて張彩雲が資金を提供したものだったはずだが。

 

その親族の工場は街外れにあった。何と茶を作っているではないか。高さんは、張彩雲の娘、秀月さんが嫁いだ高家の人間だった。すぐに小さな街の真ん中に行く。そこにはかつて栄えた古街があり、驚く。これまでこんな道を歩いたことはなかったからだ。そこには古い建物が残り、中には張彩雲が茶の商売をしたと言われる場所すら残っていた。だが今や、全く閑散としており、往時を思い起こすことは難しい。

 

その道は何本かあったが、その突き当りに家がある。その中で張秀月さんは暮らしていた。数え年94歳。お手伝いさんはいるものの、この歳で一人暮らしをしている。ご主人は早くに亡くなり、4人の子供もすでに他界、孫もすべて大坪を出ていた。手がしびれると言い、箸が持てずにスプーンで食事をとっている。

 

昔話を沢山聞いた。閩南語しか話さないとのことで、親族に通訳をお願いしたが、溢れるほどに話が出てきて、全てを理解することは不可能だった。大坪に生まれ、ヤンゴンで育ち、結婚で大坪に残り、ご主人が亡くなり4人の子を育て、文革の嵐に翻弄された。そこには全く大茶商の娘、お嬢さんという話は出てこない。彼女が大切に持っているのは、80年前彩雲から贈られたという旅行カバンに入った親族の写真。あまりに悲しい話に、親族が途中で話を打ち切るほどで、何とも言えない訪問となった。

 

ここで分かったことは、彩雲や長男の樹根は1950年代、故郷に帰ってきており、樹根などは北京で周恩来や毛沢東にも会っているという事実だった。それが1960年代、ビルマでも革命が起こり、中国も文革で往来は途絶えてしまう。その後も樹根らは秀月さんに援助をしていたようだが、彼らも皆亡くなってしまったということだ。

 

高さんに連れられて、1930年代に建てられたという張家を訪ねる。木造の古い建物だが、所々に彫刻などが残り、往時は街一番の家だった様子も分かる。この時期は土匪が横行し、この家も被害に遭ったらしい。それでもこの家が現存しているということが、張彩雲の生きた証のようにも見える。

 

その横には20年前に4兄弟の末裔が資金を出して建てた5階建てのビルがある。その屋上には張家の歴史と、既に無くなった方の写真などが飾られていた。彩雲には3人の男子がいたが、その一人は養子であったことも分かる。ここの碑に歴史を刻んだのは、あの『中国烏龍茶』を書いた、次男の息子、張水存だった。周囲には長男、次男、三男の古い家もわずかに残っている。

 

大坪からある程度降りたところで、休息だと言って、ある学校に入っていく。その校長が知り合いということで、ちょっと会いに行ったのだ。お茶を飲みながら、話題は教育になるのだが、聞いていると、陳さんたちの学校ができると、ますますこちらの過疎化が進むのでは、と思うような話になっている。確かに田舎の子もいい学校を目指して街に出てしまうからだ。大坪も鉄観音茶の産地として名高いが、昔から今でもずっと、ここで食べて行けず、外に出る人々がいる現実はある。

 

もう一軒寄り道がある。先日会食した建設関連の社長の別荘にも寄った。あの時既にこういう話になっていたのだろう。その別荘は建てたばかりで、皆に見せたくて仕方がない、という感じの豪華なものだった。裏の川の上に、屋外の茶の飲める場所があるなど、雰囲気も良い。そこで豪勢な夕飯も頂く。今日一日の出来事からかけ離れた世界に複雑な思いになる。

華人と行く安渓旅2019(3)華人の出た村で

6月15日(土)
故郷へ

今日はいよいよ陳さんの先祖の出身地に向かう。厦門から車に乗せてくれた親戚が送ってくれた。安渓県と言ってもかなり広い。その中でも山間にある村に行くのに1時間はかかった。天気は抜群に良い。山の道を上って行くと村は晴れやかだった。時折爆竹の音が聞こえる。今日は年に一度の村祭りがあるという。陳さんもそのためにここに来たわけだ。

 

彼と二人、途中で車を降りて歩いて坂を上る。所々に家があり、如何にも田舎、という雰囲気で鶏やアヒルがウロウロしている。古めかしい家もある。顔が見えると必ず『寄っていきなよ』と声がかかる。陳さんはここでも有名人だ。そして寄れば必ず、お茶が出て、お菓子か果物も出てくる。何ともお接待が行き届いている。

 

聞けば、普段は老人と子供ばかり100人程度しか住んでいないのだが、今日は数百人が祭りのために戻ってきており、1年で一番賑やからしい。中には陳さん同様、マレーシアから里帰りしている人までいた。今や故郷は近くなったものだ。100年前なら一度出て行ったら、2度と戻れないという覚悟だったのではないだろうか。

 

関帝廟がある。爆竹はそこで鳴らされており、皆がお参りに向かっている。その向こうには陳さんたちが建てた、村の集会所があった。そこでは今日の昼ご飯の用意が進んでいる。それを確認してから、更に上にある親戚の家に行く。最近建てたかなり立派な家だ。是非泊まって行けと言われる。普段は厦門に居るようだが、今日のために一家で帰省していた。商売に成功したのだろうか。

 

昼ご飯を食べるために皆が集会所に集まってきた。1卓10人として、20テーブルはあるだろうか。昨日の鉄工芸の工場をやっている人が取り仕切っている。今回の数百人分のご飯は全て彼が資金を提供したと聞き、驚いた。そしてもっと驚いたのが、その豪華なメニュー。これはいわゆるケータリングで持ちこまれた食べ物だが、魚や肉やエビやカニが、スープになり、焼かれ、煮込まれ、様々な料理となって登場した。

 

凄まじい数が出てきた。しかも食べている人は、到底食べきれないと見ると、半分も残っているのに、どんどん食べ物を捨てて、次のものに切り替えている。この壮大な無駄は一体何だろうか。これが往年貧しくて華僑を生み出した村の今日なのだろうか。本当に信じられない中国の様子に愕然となりながら、それでも箸は動いて食べていた。昼間なので酒がそれほど出なかったのがせめてもの救いだろうか。男性は大体タバコを吸っている。

 

食後、余りに腹が一体となり、陳さんと一緒に坂登をした。どこへ行くのかと思っていると、その上に家が見える。古い家は既に取り壊しかかっているが、何とここが祖先の住んでいた家だったというのだ。陳さんのお爺さんは、100年近く前にここを出て、遥かマレーシアに渡っていったらしい。今でも農作物もあまりできそうにない土地だ。厳しい生活を打開するために決意したのだろうか。そしてマレーシアで見事に成功するのだが、その具体的な内容をきちんと聞いたことはない。

 

古い家は改築して新しくなるのだろう。その横には現在の住まいがあり、そこには陳さんの親族が何人かいた。お婆さんが出てきて、陳さんが来たことをとても喜んでいる。その顔には『次に会えるという保証はないよ。今日会えてよかった』と書いてある。陳さんはひょうきんなところがあり、人気者なのだ。お茶を飲みながら、しばし話し込む。皆さん、当然閩南語で話しているから意味は分からないが、楽しそうである。帰りは安渓に戻るという親戚の車に便乗する。陳さんには一体何人の親戚がいるのだろうか。

 

昼ご飯をあれだけ食べたのに、また夕飯を食べる。陳さんには断り切れないほどのオファーが来ている。ここにいる限り、致し方ない状況なのだ。それが成功者の故郷ということがよく分かった。私などは文句を言えた義理ではない。何の関係もないのに、毎日贅沢に飲み食いしており、お金も全く払っていない。これでよいのだろうか。

 

さすがに疲れたので、夜は早めに宿に帰る。テレビをつけると、卓球だ。何と女子シングルスで、平野美宇と佐藤瞳という日本人同士の試合を、CCTVはゴールデンタイムに生中継してくれている。こんなこと、あるんだろうか。勿論そのあとの中国人同士の試合の合間だとしても、日本では絶対に見られないことだろう。他国の選手の試合を見て、初めて自国選手の実力が分かるということだ。

華人と行く安渓旅2019(2)故郷に錦を飾る学校

6月14日(金)
故郷に錦を飾る学校

さすが安渓のホテル、ちゃんとお茶淹れ道具一式が部屋に置かれており、陳さんからもらった茶を淹れて朝を迎えた。朝食はホテルのビュッフェ、既に食べ過ぎの兆候があるので、かなり抑え気味に過ごす。陳さんも元気に姿を見せたが、私に対して『なんで酒飲まなくなったんだ?』と何度も聞く。今回の旅、陳さんの作負担軽減のために私が呼ばれたらしい。その当てが外れて、かなり不満そうだ。

 

今日は陳さん一族が30年前に寄付して建てられた学校の見学に行く。陳さんのおじさんの名前が付いた学校だ。かなり広い敷地で、車を降りてから校舎まで歩くのも距離がある。現在は3000人の生徒が学んでいるという。陳さんは有名人なので、先生は皆挨拶しに来る。そして招かれて、お茶を飲む。この辺も安渓らしい。すぐにお茶なのだ。明日から中学校の統一試験があるようで、実な皆さんは忙しそうだったが、私がお茶の歴史について聞くと、さすがは先生、色々と情報を提供してくれる。

 

マレーシアで成功して財を成した陳 さんのおじさんが30年以上前に故郷にやってきた時は、大歓迎だったという。そして故郷のために何かしようと考えたが、教育が一番大切、ということで、学校建設となる。その時点では中国も貧しく、教育の機会を与える、という感じだったようだが、今や試験の成績とか、有名大学への進学とか、ポイントはかなりズレてきている。その中で陳さんは『今も貧しい田舎の子供にハイレベルの教育機会を与えたい』と訴えている。

 

そして現在建設中の新しい学校も見に行く。来年開校予定で、校舎建設が急ピッチで進んでいる。こちらは2000数百人を収容する中高一貫学校になる予定だ。今や資金も豊富になった中国だが、『お金はあるに越したことはない』ということで、陳さん一族が資金を提供したらしい。こういう学校ができることは地域にとって果たして良いことだろうか。中国ももう、自らの力で、自らの学校を建てた方がよいのでは、とふと思ってしまった。

 

昼は昨日の親戚の家に押しかけて、食べた。ここは雑貨店を営んでおり、小学生が小銭を握りしめて、ノートを買いにきたりして、何とも微笑ましいところだった。その店のテーブルに電気炊飯器がどんと置かれた。そこにはかなり煮込んだ鶏肉スープが入っている。これ、一口飲んだら、美味いと叫びたくなる。なぜ陳さんがあれほど拘ったのか、その理由は明確だった。

 

親戚としては、食べる場所もないし、大したご馳走でもない、と思っていたかもしれないが、陳さんは既にご馳走を一生分以上食べている。本当に食べたい物は、こういう素朴で、しかもマレーシアでは食べられないものなのだ。豚肉とタケノコも出てきて、ご飯をお替りする程食べてしまった。

 

午後は茶都へ行く。ここは安渓の茶市場で、過去にも来たことがある。午後はもう取引もあらかた終了しており、人影もまばらだった。一軒のお茶屋に入り、お茶を飲む。そしてその老板が立ち上がり、連れだってどこかへ向かう。茶都の本体ビルに突撃した。そこには博物館があり、鉄観音茶の歴史などが丁寧に展示されていた。これは私にとっては有難いことだったが、興味深い展示に関していくつか質問しても、案内の人は答えに窮したようで、話は進まない。インドネシア華僑から贈られたというものすごい数の急須の展示は圧巻というしかない。

 

夜は学校の先生たちと夕食会。立派なホテルの個室に向かうと、何と反対の会場では高校生の卒業記念会(謝恩会?)が行われており、若者たちが集い、かなりはしゃいでいた。これもまた現代中国の一つの現象だろう。我々の部屋にも立派なしゃぶしゃぶ、刺身などが運ばれ、美味しく頂く。陳さんは今日も酒を飲み続け、先生が連れてきた人々の陳情やら、関係づくりなどに付き合っている。これは故郷に帰るということは毎日大変なのだ、とよくわかる。

 

皆さんはカラオケに行くというので、私だけホテルに送ってもらった。今晩は女子ワールドカップの日本対スコットランド戦がCCTVで生放送されるので急いで帰ったのだ。第1戦を引き分けたため、予選突破が危ぶまれたが、今日はまあまあの出来で、何とかスコットランドを振り切った。その後、ゴルフの全米オープンの放送まで始まってしまい、寝られなくなる。