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タイ北部、中部を旅する2019(8)バンコックでは和食を

7月17日(水)
バンコックで

朝6時に北バスターミナルに着いてしまったが、宿へ向かうには早過ぎる。街もようやく動き始めたばかりだ。天気は悪くない。取り敢えずバスに乗ろうと思った。私がこれまで一番多く利用したバスはこの136番に違いない。このバスは北バスターミナルから定宿の横まで走っているのだが、これまで一度も全線乗ったことはなかった。時間がたっぷりあるこの機会に乗ってみることにする。

 

まず料金は昔の6.5バーツから8バーツになっていた。バスはボロボロとでエアコンはない。だがこれだけの走行距離を僅か日本円25円程度で乗れるというのはすごい。そしていつの間にか車内に掲示ボードが設置され、次の停留所が表示されているではないか。英語表記も出てきたのでビックリ。これが正確に機能してくれれば、言葉が出来なくても、何とかバスを乗りこなすことができる。

 

問題は渋滞だった。ただでさえバスは遅いのだが、ルート上、スクンビット通りをアソークで横切るのはある意味で最悪の混み具合を想定する必要があった。だがこれも杞憂に終わる。さすがに午前7時過ぎではまだピークではなかったらしく、多少の車が多いという程度で済んでしまった。それでも全行程約1時間半、8時前に定宿に着いた。

 

ちょうどYさんも出勤してきたので、コーヒーを飲み、時間を潰した。10時前には部屋にも入れてもらえたので、早々に洗濯物を出すなど、諸作業に追われる。そしてすぐに昼がやって来て、Yさんと合流した。いつも一緒に食べるスタッフと3人でなぜかタクシーに乗る。近くの日本町まで行くのにタクシーとは、と思うが、200m以上は歩かないともいわれるタイ人的には歩きの選択肢はない。

 

どうしてかここで昼から焼肉屋に入る。Yさんはいつも何も説明してはくれないのだが、何らかの理由で彼がスタッフにご馳走する日に、私が帰ってきてしまったので、このような状況になったらしい。日本町は日本関連の飲食店がずらりと並んでいる。ずっと続いているから、それなりにお客は来るのだろうが、店の入れ替えも常にある。バンコックの日本食は競争が激しい。だから焼肉セットも安い値段で食べることができた。それでも私にとっては贅沢なランチだったが。

 

午後は完全にお休みモード。1週間のタイ北部旅行の疲れをとる。定宿はまるで家に帰ったように寛げるから、不思議だ。ここで充電して、また次の旅に出る。これからはそんな方向性もありだな、とこの時確信した。旅ばかりを続けずに、1週間程度で得た情報を分析したり、調べたりする時間が必要なのだ。これは贅沢な悩みというべきだろうか。

 

さっき昼に焼肉を食べたばかりだった。だが連鎖反応というのはあるのだろうか。またどうしてもとんかつが食べたくなる。一週間前に食べた物が美味しくなかったのでリベンジしたい気持ちが芽生えている。やめろ、という心の声が聞こえる中、やはり外へ出ていき、初めての店に入ってしまった。

 

前から気になっていた近くの店。ゆったりしたカウンターがあり、ゆっくりとご飯が食べられた。結構タイ人のお客が多い。かつもまあまあで、満足した。それにしても、無ければ食べたいなどとは思わない和食だが、バンコックのような街に来ると、このような行動に出てしまうのは、老化のせいだろうか。いや、老化では焼肉ととんかつは続けて食べないか。

 

7月18日(木)
再会

朝いつものようにコーヒーを飲みに行くと、旧知のSさんが到着しており、久しぶりに話した。これから行く、マレーシア、シンガポールなどに関する最新情報を手に入れることが出来て有難い。結局旅を続ける上では、生の情報が役に立つ。ガイドブックは参考程度であり、その雰囲気をつかむことは難しい。ネットが発達した今、ガイドブックの必要性は問われているだろう。

 

午前中は気になっていたことを調べていた。一旦スイッチが入るとすごく集中してしまい、あっという間に昼を迎える。Yさんから連絡が入り、ようやく気が付く。この集中する時間はとても心地よいが、最近は長く続かないことが多くて困っている。気が散らない環境が求められているのだろうか。昼ご飯もSさん、Yさんと、いつもの食堂で食べる。ヤママーマーが実にうまい。

 

午後はバイタクでエンポリに行き、ユニクロを探して(向かい側の新しいビル)、そこでTシャツを買う。わざわざバンコックまで来てユニクロに行かなくても、という声が聞こえるが、先日東京のユニクロで買ってもらったTシャツがとても高かった。バンコックのセール品ならそこまで高くないだろうと思い出掛けると、案の定、1枚200バーツ程度で買えるので、こちらが正解か。

 

モールでの出入り口では、何やらイベントをやっていた。ロボットエキジビション、ガンダム系の展示が多くあり、その奥で販売もしていた。熱心に写真を撮るタイの若者がいる。いわゆるオタクと呼ばれる人々はどこにでもいるものだ。外の招き猫も色が変わっていた??

タイ北部、中部を旅する2019(7)チェンマイ散策

7月15日(月)
チェンマイ散策

ホテルの朝食には少し期待していたが、残念ながら少なくとも5つ星のビュッフェではなかった。従業員のサービスは悪くないが、パンにしてもフルーツにしても、何しろ食べ物が質量ともに絶対的に足りない。食べたいと思うものがない。いつものタイのビジネスホテルとそれほど変わらない。つまらない、としか思えない。コスパがよいとは言えないホテルだった。

 

実はこの宿に泊まった唯一の目的は、『チェンマイ博物館』だった。歩いて行ける範囲だと思ったので、ゆっくり見学しようという算段だったのだ。ところが、何と月曜日は定期休館日だった。しかも明日は祝日で、これまた休館。結局博物館に行くことは出来ずに、私の予定は一挙に崩壊した。

 

仕方なく、街の中心部に向かって歩いてみる。Googleだと1㎞ちょっとで城壁まで辿り着くようだが、何しろ暑いので、なかなか着かない。その城壁、そしてお堀を乗り越えて、城内に入ってみた。博物館があるというので訪ねてみると、何だか現代アートだったりする。市の博物館もやはり休館だった。

 

取り敢えず、城内には沢山のお寺が並んでいるので、端から順に入っていく。人気のない寺、お坊さんが道路まで出て、信者の相談に乗っている寺、規模が大きく観光客が沢山来る寺など、実に様々な寺が存在している。私は汗をかきながらも、5つほどの寺を回って、参拝した。

 

あまりに暑くなったので、引き上げることにしたが、また歩いて帰るのはさすがにしんどい。そこへバスが見えた。最近チェンマイ市内に我々でも利用できそうな路線バスがいくつか走っている。是非乗ってみたいと思い、バス停で待ってみたが、何と通り過ぎてしまった。乗る場所が違っていたらしい。ようやく乗り込むと20バーツ払う。乗ったバスは宿の近くのショッピングモールまでは行くので、有り難い。しかもバンコックのBTSで使っている、ラビットカードで乗れるので現金もいらない。

 

午後は休息に当てた。何故だか疲れてしまったのだ。しかも行くべきところもない。夕方気を取り直してチェンマイ大学へ行ってみた。昔も一度行ったが、その時は中国人観光客が押し寄せていると言われた頃。今回はどうだろうか。宿から城壁と反対方向におよそ1㎞歩く。最初は近道しようとしたが、門が閉まっており、入れなかったので、時間がかかった。

 

大学構内は既に授業もなく、閑散としていた。敷地は広いので一部だけ歩いて、また門から出てきた。観光客はいない。門の外に市場があったのでそこに寄り、夕飯を食べる。スペアリブのスープを頼むと、相当ごっつい排骨が入った椀が出てきた。それにご飯となぜか茶碗蒸しのような食べ物。これらは意外とイケており、胃袋はかなり満足していた。

 

7月16日(火)
バンコックへ

今日は夜行バスでバンコックへ行くので、時間はたっぷりあったが、何かをしようという気力が起きない。のそのそと起きだして、遅い朝ご飯を食べて、レイトチェックアウトで2時まではホテルにいた。それから荷物を預けて、市内へ出ていく。バスの乗り方も分かって来たので、マーケットまで行ってみた。

 

マーケットをちょっと見て、ターペー門の方へ歩いていく。途中で疲れたのでマッサージを1時間受ける。それからまたバスに乗り、一旦宿の方へ戻ろうとしたが、路線を間違えて、そのまま空港まで運ばれてしまった。空港には用がないので、また別のバスに乗り換え、宿の方へ行くと渋滞にはまってしまった。

 

何とかショッピングモールまで来てバスを降りる。そこにも屋台街が出ていたので、焼きそばを食べる。これが意外とうまい。料金も40バーツだけだ。ちょっと早いが宿から荷物を取り出し、バスターミナル行のバスに乗るつもりで、バス停で待っていたが、時刻表通りには来なくて焦った。何と30分も過ぎてから来るのだから、やはり当てにはできない。早めに出てきて正解だった。

 

それでもターミナルには早く着いている。予想外に道が混んでいなかったのだ。午後9時まで何もせずにボーっと過ごす。バスが入線して乗り込む。私の席は一人用の一番後ろだ。座席はほぼ埋まっていた。時間通りに出発すると、車掌がすぐにカレーとごはん、お菓子と水を持ってくる。食べるつもりはなかったが、カレーが美味しそうだったので食べてしまった。

 

その後はウトウトしながら過ごす。トイレの近くなので時折人の出入りがあり熟睡は難しい。更に車掌は私の横の僅かな隙間に布団を敷いて、寝る体制をとった。このバスは途中で休憩所に寄ったりはしなかった。朝5時になると車掌がコーヒーを淹れて持ってくる。定刻通り6時にはバンコック北バスターミナルに到着した。およそ9時間の旅は終わった。

 

タイ北部、中部を旅する2019(6)おしゃれなチェンマイ

7月14日(日)
チェンマイへ

昨夜はバカ騒ぎもなく、平穏な夜だったので、比較的よく眠れた。ただ夜半に雨の音が聞こえ、それが私不安にはさせた。やはり出発の時に雨が降るのは厄介なのだ。だが幸い朝、雨は降っておらず、チェンマイへのミニバスの出発は12時を予約していたので、腹ごしらえにブランチを食べに外へ出た。

 

パーイにはいかにもブレックファースト、と言った感じの朝食を出す店は沢山あると思っていたが、日曜日のせいなのか休みのところも多く、またベジタリアン、ビーガン用など特殊なところもあり、手頃なところはなかなか見つからなかった。ちょっとしたカフェを何とか見つけて、アメリカンブレックファーストを食し、心が落ち着いた。さて、いよいよチェックアウトして、出発だ。

 

ミニバスは事前に座席予約もできるようになっており、2日前の夜に既にチケットを買った私は、見事助手席をゲットしていた。ミニバスは安くてよいのだが、何しろ狭苦しいのが玉に瑕。だが、助手席だけは、かなりのゆとりがあり、足も伸ばせて楽だ。たまに席が足りずに助手席にもう一人乗り込んでくると、かなりきついが、今回はそれもなかった。

 

 

途中で一度トイレ休憩があっただけで、バスは順調に山道を降り、ほぼ3時間でチェンマイ郊外のアーケードバスターミナルに到着した。昨晩私はチェンマイに何日滞在するかを決めるために、バンコック行の列車を事前にネットで見ていたのだが、2日後は完全に満席だった。飛行機もなぜか通常よりかなり割高だった。

 

後で確認すると、2日後はカオパンサー(雨安居入り)で休日となっており、人の移動が多いことが分かった。仕方なく、夜行バスのチケットを買うことにして、ターミナル内で探した。だがこちらも結構チケットがタイトで、夜9時発の便の残り一席を何とか確保した。もう夜行バスの旅は止めようと思いながらも、背に腹は代えられない。

 

今日はちょっと珍しい場所に宿を取ってみた。私としては、極稀に気まぐれで行う、ちょっと良い宿に泊まる、だった。だがそんなに高い代金は払えないとなると、場所が不便であったり、とても古かったりといわく付きにはなる。今回はどうだろうか。まずはそこまでどうやって行くのだろうか。このバスターミナルは意外と面倒で、以前はバスなどの公共交通機関もなかった。

 

仕方なく、近くに停まっていたソンテウに聞いてみると、120バーツで行くというので、乗ってしまった。車は市内に入らず、周回道路を走ったので、思ったより早く着いてしまったが、それでもかなりの距離はあった。しかも大きな道路から中に入っているので、一人で来れば、探すのはかなり手間取ったかもしれない。西側のホテルに泊まるのは初めてだった。

 

宿の付近に何があるのかも分からないので、すぐに偵察に出た。5分ぐらい歩くと、かなり大きなショッピングモールがあり、食べ物も飲み物もそこで買えてしまった。しかもかなりおしゃれで、予想外。チェンマイにもこんなエリアが出来ていたとは。やはり偶には冒険しないと分からないことだ。

 

一旦買った物を持ち帰り、暗くなった頃に夕飯に出た。この付近、ホテルも多く、観光客、中国人や韓国人も沢山歩いていて、かなり賑やかだ。夜市もあり、そこでパッタイを食べたが、何だか物足りずに、屋台の餃子も食べてしまった。タイでは焼き餃子のことを『ギョーザ』と発音する。焼き餃子は日本からの渡来品であり、外来語だ。

 

今回泊まったホテルはフランス系大手ホテルチェーンの一つだが、その中ではビジネスホテル的な位置づけだろうか。部屋のデザインなどはちょっと凝っていて良いと思うのだが、さほどの高級感はない。周囲の環境もよいとは言えず、庭があるわけでもないので、窓からの眺めも今一つ。

 

ただ、バスタオルなどのふんわりした雰囲気が嫌いではない。またフロントの愛想はまあまあかな。昨年開業したばかりだと言うが、古いホテルを買い取って改装したのだろう。屋上には狭いプールがあったが、夕日が眩しくて、誰も入ってはいなかった。部屋にもバスタブがあるわけでもなく、日本人が態々泊まりたくなるホテルではなさそうだ。

タイ北部、中部を旅する2019(5)パーイの中国人村

7月13日(土)
中国人村へ

翌朝はゆっくりと起き上る。昨晩のバカ騒ぎで皆まだ寝静まっているようだった。あるいは早朝からトレッキングにでも出掛けただろうか。私はパーイでゆっくりするつもりだったが、予想外の展開に少し慌てた。そしてどこかへ出掛けようと考え、その行き先を探した。

 

郊外にいくつも観光地があるようだったが、ツアーに乗るか、レンタルバイクで行くような距離の物ばかりだった。その中で比較的近くに『中国人村』なるものがあることが分かった。恐らくはここも国民党残党の村だろう。レンタサイクルを探したがここにはないと言われてしまったので取り敢えず歩いて行って見ることにした。

 

Googleを使えば簡単に行けるはずなのだが、最近の方向音痴は凄まじい。簡単な道で違う方に歩いて行ってしまう。どう考えてもおかしいと気が付いて初めて地図を見返すと違っているのだ。約5㎞の道のりを1時間かけてゆっくり進んだ。途中は山間部ながら道が平坦で助かる。田舎の畑道、何とも懐かしい雰囲気が漂う。大きなお寺を通り過ぎると、何とか村にたどり着いた。

 

山地村、と書かれた門を潜る。急に漢字の看板が増える。その先には、まるで遺跡のような広い敷地に、テーマパークのような村が存在していた。なんだここは、という意外感。覗いてみると、一軒のお茶屋が目に入る。中から『お茶飲んでいってよ』と華語で声が掛かったので、これ幸いと入っていく。

 

ここはやはり国民党残党の村だったが、店主は国民党ではないという。『爺さんが雲南から移住してきたんだ。メーサローンの山向こうさ。あちこち歩き回る商人だったんだ。親父もその商売を継いだ』という。奥さんはここの村の出であるらしい。これは元々もお茶の商売ではないな、と感じる。ここで売っている茶はメイオ村とメーサローン近くから持ってきた茶だった。

 

それからこのテーマパークを歩いてみる。土曜日ということで、タイ人の家族連れなどが遊びに来て、写真などを撮っている。それにしても、中国人村か。中国風の大きな建物や門があるかと思えば、ちょっと古代の雰囲気を持つ池などが配されている。国民党残党とはかけ離れた世界がここでは展開されている。タイ人の中国に対するイメージって、こんな感じなのだろうか。

 

何となく腹が減ったが、どこでご飯を食べられるのだろうか。観光客目当ての食堂は避けた。少し離れた所に、村の食堂、といった雰囲気の店があったので、そこへ入る。メニューが漢字で壁に貼ってある。雲南米線と書かれていたので、迷わず注文すると、大きな鶏肉が骨付きでドーンと入っており、味も悪くなく、コスパは抜群だった。

 

先ほどの茶荘に戻ると、オーナーに『パーイの街に戻るバスはないか』と尋ねた。さすがに疲れたので、聞いたのだが、『定期バスはないが、ちょうどこれから配達があるから、乗せて行ってあげるよ』というではないか。しかも、『せっかくここまで来たのだから、雲来の景色も見て行きなよ』といい、まずはバイクで頂上まで連れて行ってくれた。入場料20バーツ、ここからは周囲が一望でき、いい眺めだった。観光バスがやってくる。歩いてはとても来られない道なので、ラッキーだった。

 

更に店に戻り、今度は車に乗せてもらい、近所にある彼の家に行った。立派な家だった。配達荷物を載せると、ついでに息子も乗せていく。街でアイスが買いたいらしい。有り難いことに5㎞の道を歩いて帰らなくて済んでしまった。これも一つのお茶のご縁、と言ってよいのだろうか。彼にはもっと話を聞くべきだったと後悔する。

 

午後は昨晩の睡眠不足と午前の歩き疲れのため、しっかりお休みして、また夕方から散歩に出た。小さなパーイの街を歩いてみると、川沿いにリゾートホテルがあったり、洒落たバーがあったりと、やはりただの田舎町ではなくなっており、白人が好きそうなアイテムを作って、タイ人も観光地として楽しめるように、店が広がっていることが分かる。

 

夕飯はどうしようかと迷っていたが、折角なのでパーイらしいものを食べようと思い、ハンバーガーを出す店に入る。そこのメニューには何と『鰐肉』があったので、それをチョイスした。一体どんな味だろうか興味津々だったが、ハンバーグになってしまえば、特に普通の肉と変わりはない。そういえば昔、中国深圳で、『タイ産ワニ』が売られているのを見たことを思い出した。

タイ北部、中部を旅する2019(4)喧噪のパーイへ

7月12日(金)
パーイへ

夜中にまたかなりの雨が降っていた。旅の途中で雨が降るのは何とも憂鬱なことだ。特に移動の際、車を持たない私は、常にそのリスクにさらされる。朝起きがあると雨が止んでいる。それだけでもう心が晴れる。朝食を食べたら、取り敢えず散歩に出ようという気になる。宿の朝食、昨日はビュッフェスタイルだったが、今日はメニューから選ぶ方式に変っている。お客が少ないとこうなるのだろうか。

 

この街は小さいので特に行くべきところはない。街の脇に標高400m程度のコーン・ムー山があるので、そこにでも登ってみようか。山に登る入り口にはお寺があり、若い坊さんたちが何やら集まっていた。そのわきの階段をひたすら上って行く。思ったよりずっと大変な行程だと気が付いたときはもう中腹まで来ており引き返せない。息がかなり上がった状態で山頂に着く。上からの眺めは、街の全景が見られなかなかよい。

 

山頂にはワット・プラ・タート・ドーイ・コーンムーという長い名前のお寺があった。メーホーンソン王国の最初の王によって19世紀後半建てられたという。雰囲気はビルマ様式だ。パゴダには曜日ごとの仏が収められており、生まれた曜日にお参りするのは、ミャンマーと同じだ。今日は何か行事でもあるのか、多くの信者が車で上がってきていた。しばらく休憩したのち、また階段をとことこと降りていく。

 

街を歩くといくつもの寺に出会う。この辺もタイというかミャンマーというか。メーホーンソンの父と書かれた、王国初代の像もあった。一旦宿に戻り、荷物を整えて、昼にチェックアウトした。荷物を預けて昼ご飯はチキンライスを食べた。あまり暑くはないので、街をふらふらしたがもう行くところもないので、足マッサージをして時間を潰した。片言の英語を話す女性は田舎から出稼ぎに来たらしい。

 

午後4時前に指定された郵便局脇でパーイ行バスを待つ。何の表示もないので、本当にここでよいのか心配になるが、通りかかったおじさんが、『パーイへ行くのか』と聞いてくれたので、安心する。それでも4時になってもバスは来ない。バスターミナルを出るのが遅れたか。10分ほど過ぎてからようやくロットゥが見えた。このバスも満員だったが、私の席はちゃんと空いていた。

 

山道を1時間ぐらい走っていくと一人が降りた。こんなところで、と思ってみると、何と瞑想センターがあるらしい。隣の隣に座っているおばさんが、何やら奇声を発したり、くしゃみを繰り返したりと忙しない。窓は開けないルールらしいが、それを破ったため、運転手が激怒する。それでもこの女性、自分勝手な行為をやめようとしない。

 

合計2時間半ほどで、パーイの街に着いた。ロットゥはターミナルに行くと思ったのだが、路上で我々全員を下ろした。宿は予約してあったので、後はGoogleを頼りに歩き出す。辿りつたい所は、ホテルとゲストハウスの中間と言った感じだが、プールもあり、部屋は思ったより立派だった。

 

既に暗くなってきたので、外へ出て、夕飯を探す。パーイというのは、チェンマイとメーホーンソンの中間にあり、昔はバス路線の中継点として、バックパッカーなどが宿泊した、とても良い田舎、というイメージだった。だが今回歩いてみると、すでにかなり発展してしまい、ある種の観光地になっていて、正直それほど面白い街とは思えない。夜市もかなりの規模になっており、今晩はそこで食べ物を調達して終了。

 

屋台を見ていると、小中学生の子供たちも一生懸命お手伝いをしていて好感が持てる。私がフライドチキンを買うと、少女がきれいな英語で『これは骨なしだよ』などと受け答えをしてくれる。外国人が多いせいか、ハンバーガーやサンドイッチ、ワッフルなどが少し単価を高くして沢山売られており、どうもタイの夜市とは少し雰囲気が違っている。中国人や韓国人の姿も結構見られたが、日本語に出会うことはなかった。

 

宿に帰ると夜のプールに入っている若者たちがいる。それが済むと、今度は夜市などで酔っ払った白人たちが戻って来て、夜中まで大声で話している。中国人は声が大きいとよく言われるが、白人さんも声は大きい。更にはそれが酔っ払っていればその音量は倍増する。しかも深夜まで延々と続く。眠りはかなり浅くなっていた。私も若い頃はそうだったろうかと反省しながら、耳をふさいだ。ここに静かな田舎町パーイはなかった。

タイ北部、中部を旅する2019(3)メイオ村の茶畑

続いて山の中に車は入っていく。そしてパントン宮殿という名前の所で降りた。宮殿と言っても、ちょっとした建物があるだけだ。この周囲の竹の庭、実に見事だ。一本一本の竹の幹も太い。ここはロイヤルプロジェクトでプミポン前国王妃が年に一度訪れていた場所らしい。それでパレス、となっているという。立派な椅子が飾られている。プミポン王はすでに亡く、最近は王妃も高齢でこちらに来ることはなくなった、とガイドは残念そうに話す。

 

因みに今日のガイドは私と同年配の男性で、実は生まれはここからかなり離れたイサーンだというので、驚いた。1970年代、まだかなり貧しかった頃、一家でこちらに移住してきたらしい。いい教育も受けられず、様々な苦労があったろうが、当地に根付き、民族や文化にも相当知識が深く、話していて楽しい。また『娘はチェンマイの大学に行っているが、彼氏が日本人なんだ』と気さくに話す。

 

その後、普通のツアーでは滝などを見学するらしいが、私の目的を知ったガイドはそこを飛ばして、一路メイオ村を目指した。こういうアレンジが貸し切りの良い所だ。メーホーンソンの街から45㎞、車で約1時間来ると、茶畑が目に入ってくる。ただその茶畑は、現代のかなり管理されたものとは異なり、株ごとに間隔が開いて植えられている。勿論これも昔誰かが植えたに違いないが、台湾人がやって来て、新たに植えたという感じはない。

 

村は池を中心にかなりこじんまりしていた。急に雨が降り出したので近くの店に入り、そこで茶を飲ませてもらった。ジャスミン茶と烏龍茶だった。やはり30年ぐらい前から茶作りを始めたという。ただそのお茶の質はそれほど高くはなく、メーサローンのように競争にもまれてはいないようだった。

 

雨が小降りになったので、池の周囲を一周した。やはり台湾からの支援で作られたものがいくつか見られ、また漢字で書かれたものもあり、国民党残党の村であることは確認できる。昼ご飯は中華を食べるのがよい、と昨日旅行社の人は言っていたが、ガイドは迷わず、現地の麺を選択した。それは『中華は観光客向けで料金が高いわりに美味しくない』という理由からだった。

 

とにかく私が彼の提案に同意したのは、その麺が『シャンヌードル』だったからだ。俄然ミャンマー国境の気分になる。この村の人口(約500人)の9割は中国系だと言われ、あちこちで華語が聞き取れていた。ヌードルを作っている女性も一見中国系に見えたが、何とワ族だった。『この村で生きていくには華語は必須だよ』といい、お茶を勧められたので、サンプルに2つほど買ってみた。

 

それから食堂の上に登る。ここの茶畑は間隔が狭く、現代的な茶樹の植え方だった。そこにはコテージも作られており、聞けば観光茶園として売り出すための物であり、茶畑を美しく見せる為の造作だった。1泊2000バーツぐらいで泊まれるようだが、果たしてどうだろうか。更に周辺にはいくつかお茶を売っている店があり、華語も通じたが、茶の歴史に関する有力な情報は得られなかった。皆茶作りを仕事とは考えているが、文化とは思っていないらしい。

 

その後車で5分ほど山道を入ると、タイ領の終わりに着いた。ミャンマーには入れないので、そこで引き返すつもりだったが、そこはミャンマー政府の管理が及ばない地域だと分かる。ゲートがあったがガイドと一緒になんなく通過して、ちょっと向こう側を散歩して住民に話を聞いた。難民問題は本当に簡単ではない、とつくづく思った。同時に国境とは何か、領土とは何かを改めて考えさせられた。これは稀有な体験だった。

 

目的は一応果たしたので、街に帰った。帰りはちょっと目をつぶっていたら、あっという間に着いてしまった。まるで夢でも見ているかのような時間を過ごした感じだった。旅行社に戻り、明日のパーイ行きのバスチケットを買おうとしたが、午後4時の便まで満席とのこと。迷った末に、この街ではやることもないので、次に進むことにしてそのチケットを買う。

 

疲れたので一度部屋で休み、また夕飯を探しに外へ出た。結構大きなスーパーがあったので、非常食としてお菓子と飲み物を買う。更に何とか食堂を見つけて炒飯にありつく。田舎町の夜は、ご飯を食べるのも一苦労だ。一軒の店の名前が『しゃぶ屋』と書かれている。しゃぶしゃぶの略だとはわかっているが、ここがある意味、ゴールデントライアングルの一部であることから、とても笑えない。何かやばい店かと思い中を覗くが、店員が暇そうにしているだけだった。

タイ北部、中部を旅する2019(2)メーホーンソンで

7月10日(水)
メーホーンソンへ

今日もコーヒーを飲み、そしてチェックアウトして、タクシーでドムアン空港に向かった。これももう恒例になりつつある。昔は荷物を引き摺り地下鉄からバスを乗り継いで行ったものだが、段々気力がなくなっている。ここでお金を払って時間を節約しても仕方がないが、さりとて、疲れを費用で賄えれば、とも思う。

 

国内線には一風堂のラーメンがあったのを思い出し、そこで食べようと考えたが、何とチェックインカウンターの端の方に、安い食堂があるのに気が付いた。空港にはありえないようなリーズナブルな料金。60バーツでおかず3つを取り、大満足。値段が高くなる一方だと思っていた空港施設にも、違った変化があるのだ。

 

ノックエアーに乗る。以前はLCCなのに、パンぐらいは配っていたが、今では水しかくれない。それでもバンコックからメーホーンソンへ行くにはノックしかないので、あるだけでありがたい。もしこの線がなければ、チェンマイ経由になってしまうのだ。1時間20分ほどで、北西部の地に到着した。

 

地図で見る限り、空港は街のすぐ横にあり、歩いて街に入れた。そのまま街中を1㎞ぐらい歩いていくと、お目当てのホテルにたどり着く。料金を聞くと、フロントの女性が愛想よく英語で答えたので、ここに泊まることにした。部屋は大きいのだが、特に機能的な物は何もない。

 

何となく腹は減ったが、既にランチの時間は過ぎており、ありつけなかった。仕方なく近くの旅行社に出向く。明日の日程を決めるためだ。今回も特に予定はないのだが、ここメーホーンソンに来た理由は、ずばり茶畑の目撃情報。昨年会ったHさん(既にバンコックからコロンボに転居)から、郊外で茶畑を発見、という知らせを受け、行ってみる気になったのだ。

 

茶畑に行く方法を相談すると、首長族の村に行くなど、いくつかのツアーに組み込まれてはいるのだが、いずれも最低参加人数は2人から。だが今は観光シーズンでもなく、平日に参加者がいるとは思えないので、2人分支払ってくれれば、車とガイドを手配すると言われて、なぜかあっさりと支払ってしまった。以前ならコストを考えて、バスを探すなど何とか自力で行くことを模索したものだが、この辺もまた疲れのせいだろうか。

 

それから周辺を散策する。すぐ近くに池があり、その向こうに何とも美しい寺院が見えたので、行ってみる。寺の前まで行くと、2つの寺が一つの場所にあることが分かる。左側がワット・チョーン・カム、右側がワット・チョーン・クラーンという名前だと書かれている。どちらも銀細工が見事なビルマ様式の寺だ。

 

ワット・チョーン・カムは1827年、この地に最初に建てられた寺院だとある。メーホーンソンの街の歴史はこの頃に始まった。建てたのはシャン族かもしれないらしい。比較的大きな大仏が安置されている。ワット・チョーン・クラーンは、建物自体が古風で銀細工が特に美しい。中に入るとかなり広く、薄暗い中に仏像がいくつも見える。小雨が降ってきており、参観者はほぼいないので、落ち着いてその空気を味わう。

 

雨が止んだので、池の周りを一周してから街を歩いてみる。大きな市場があったが、午後ですでに閑散としており、周辺の食堂も開いていない。メインストリートもお休みムード、神社のようなところもある。結局歩き疲れて宿で休でいるとかなりの雨が降る。そして夕方、飯を探してまた歩く。近所に麵屋があったので、そこで簡単に済ませる。この麺、スープが意外とうまい。食べ過ぎないでよい。夜はかなり静かな辺境の街だ。

 

7月11日(木)
茶畑へ

翌朝は宿で朝食を食べる。それから昨日の旅行社へ行くと、既にガイドが来ており、車も整っていたので出発。要は車とガイドをチャーターしたのと同じで、自由行動だが、取り敢えずガイドの行くところについて行く。車はすぐに郊外に出て、始めは平たんな良い道を行く。

 

最初に停まったのは、お寺があるところ。まあタイ観光と言えばお寺は定番だろうと思っていたが、高台のお寺は素通り。そして竹で編まれたきれいな橋を歩き出す。向こうの方には水田が見え、その向こうには村があることが分かる。何とこの竹の橋は、ここの僧侶が雨期に村まで来られるようにと村民が作ったというからすごい。全長何キロになるのだろうか。雨季はこの辺りも水没してしまうのだろうか。屋根の修理をしている人がいたが、材料は何だろうか。

 

村まで歩いて行くと、西洋人が数人、歩いてきた。彼らはこういうところに来てゆっくりと田舎ライフを満喫する。日本人や中国人はここへ来ても、ただ通り過ぎるだけだろう。私はこの村の中をちょっと歩き回りたいと思っていたが、ガイドはスタスタと歩いて行き、そこには車が待ち構えていて、そのまま乗車してしまい、何も見られなかった。ああ、残念。

タイ北部、中部を旅する2019(1)ヤワラー お茶屋再訪

《タイ北部、中部を旅する2019》  2019年7月8日-28日

年に1度のタイ旅行のシーズンがやってきた。今回こそは茶旅も忘れて、タイ国内の小さな街を回ってみようと思う。そしてこの2年間封印されていた、長期間の旅をもう一度やってみることにした。原則は2-3泊で移動していく。タイ以外に今回はシンガポール、マレーシア、インドネシアなどを加えてみた。更には偶然にもミャンマーに分け入ることになるなど、相変わらず訳の分からない旅となっているのは、我ながら面白い。

 

7月8日(月)
ルーティーンな1日

もう日付が変わった頃、那覇を出た飛行機はスワナンプーン空港に到着した。LCCなのにピーチはなぜかドムアンではない。それはそれで色々と有り難い。夜中ではあるが、空港は眠っておらず、入国審査には結構な列ができていた。それでもあまり苦にならずに通過した。出口を出るとシムカードを購入。今回は期間が長いことなどを考慮して、容量多めの物を買う。タクシーに乗り込めば、深夜だから30分もかからず、定宿に到着する。定宿ではいつもの顔が出迎えてくれる。日本時間ではもう3時なので、ベッドに倒れこむ。

 

朝はいつものようにYさんとコーヒーを飲みながら近況を話す。その後、外に出て、コムヤーンの朝食。一応これを食べないと私のバンコックは始まらない。その後は、深夜到着の疲れが出ているため、部屋でNHKなどを見て大人しく過ごす。昼になれば、またYさんとランチに行く。ヤンマーマなど、定番メニューを食べて、徐々にタイモードになっていく。

 

午後はバイタクに乗ってエンポリアムへ。銀行へ行き、カードを新しくした。これで海外でも使えるだろう?更にTシャツを2枚買う。なぜかTシャツが汚れたり、無くなったりしている。それから同級生のOさんと紀伊国屋で待ち合わせ。これも1年に1度の定番行事となっている。

 

まずはお茶を飲みながら、近況を話し合う。Oさんはお子さんも順調に就職し、着々と老後に向かっている。その後、食事に移り、豪勢な和食をご馳走してもらう。バンコックというのは、いくらでも和食の店があり、それもピンキリなのだとよく理解できる。焼肉を店員が焼いてくれたのだが、部屋が火事になりそう火の勢いだった?

 

7月9日(火)
お茶屋さんへ

翌朝はコーヒーを飲み終えるとすぐに出掛けた。今日は昨年出会ったヤワラーのお茶屋さんを再訪することになっていた。他の老舗を探す中で偶然見つけた所だが、今やバンコックの老舗茶荘では一番歴史に詳しいのではないだろうか。ファランポーン駅から歩いて近いのも有難い。

 

集友茶行の歴史について、詳しく聞き取る。その活動がタイの茶業界の一面を必然的に語ることになる。ついでに親戚筋の林奇苑についても更に資料がないか、探してもらう。この厦門の大茶商の歴史、意外とわからなくて困っている。タイとの茶貿易などについてももう少し何かあるとよいのだが。因みに集友茶行の老板のお父さんは今年100歳だが、まだご存命だという。ぜひお会いしたいと言ってみたが、『年寄りだし、住まいも遠いので』とやんわり断られる。確かに100歳の方が見ず知らずの人間に会うのは疲れるだろう。

 

武夷茶などを頂きながら、話しを聞いていると、白人の親子が店に入ってきた。かなりの中国茶好きと見えて、『寿眉茶はあるか』などとかなりツウなことを英語で聞いている。ここのおかみさん、ちゃんと英語で受け答えしているからすごい。やはり昔から海外とのつながりの中で商売してきた人々なのだな、と改めて感じた。

 

昼前ヤワラーを引き上げ、宿に戻るとYさんが待っていてくれ、最近行かなくなっていたおばさんたちの店で、久しぶりに豚足ご飯を食べた。豚足というのがまた、如何にも福建、潮州を想起させる食べ物だが、香港の老人が長生きの秘訣として、『朝から豚足を食べている』と言っていたのが忘れられない。

 

午後はアソークにある床屋へ行く。元々はQBハウスだったところが独立したのだと思うのだが、料金は数年前が100バーツ、その後120バーツに値上がりし、今回店舗が改装されて、サービス内容は同じだが、料金は150バーツまで上昇してきた。東京の家の近くの床屋、タイムサービスが690円だから、いつか料金も抜かれてしまうだろうか。

 

実は旅行カバンが壊れそうになっており、那覇空港でも危うく預け拒否に遭いそうになったので仕方なく、今回バンコックで新調することにした。MUJI当たりのケースが軽くてよさそうだったが、サイズが合わず、別の所で機内持ち込み用最大サイズを買った。果たして今回はいつまでもつだろうか。

 

宿の近くまで戻ってきた。明日から地方回りに備えて、やはりここはとんかつだ、と思い、以前も行ったことがある店を探したが見つからない。ようやく見つけたその店、以前は流行っていたと思うのだが、今はお客も少ない。そして出てきたとんかつが油過ぎて、美味しくない。このようにして、店というのは淘汰されていくのだな、などと勝手に考えてしまった。

沖縄を旅する2019(5)お茶会

7月7日(日)
お茶会

長いようで短かった沖縄滞在も今日が最終日。荷物を持って宿を出なければならないが、やはり雨が降っている。沖縄は梅雨明け宣言が出てから、完全に梅雨に逆戻りしたようだ。窓から外を何度も見てみるが、チェックアウトのタイミングは図れない。どうしようか。

 

10時前雨がかなり小降りとなった。この機会を逃してはならない、と外へ出た。チェックアウトと言っても、支払いは昨日済ませたので、鍵は部屋に置いておくだけで、挨拶もしない。何だかな、昭和の下宿は最後まで素っ気ない。傘をささない程度の雨の中、とぼとぼ歩いてバスターミナルへ向かう。

 

まだ時間的には早かったので、図書館で過ごしたいと思ったが、この大きな荷物をどうするべきか。取り敢えず図書館で聞いてみると、何と預かってくれるという。小さな荷物はコインロッカー(無料)に入れておけばよい。こういう行政サービス、何とも有り難く、助かる。図書館で2時間ほど、昨日の反省をしながら本を読む。

 

 

今日は与那原まで向かうのだが、昨日乗ったバスと全く同じバスに乗り込む。既に一度経験しているので気持ちは非常に楽になっており、緊張感はなかった。それがいけなかったのだろう、ふと考え事をしているうちに、目的地に到着したと思い、慌てて荷物を持ってバスを降りてしまった。ところがそこは『与那原』ではなく、何と『与那覇』という場所。与那まで一緒だったので、つい間違えてしまった。こんなこともあるのだろうか。

 

さて、どうしたものか。与那原まで迎えに出てくれているUさんに連絡を入れると、近いのですぐ来てくれた。地元の人は間違うことなどないのだろうが、なぜこんなに似た地名なのだろうか。きっと何か意味があるに違いない。そんなことを考えているとUさんの車にピックアップされ、茶房一葉に向かった。

 

茶房一葉、こちらも1年半前に紹介されて訪れた場所だ。ただ突然お店に行ったのでUさんが大変驚いていたのは、とても印象に残っている。それからFBなどで近況を相互に見て、コメントなどももらい、交流していたことが、今回の会に繋がった。これも茶縁であろう。このお店は、とても居心地の良い空間であり、またここに戻れたことは何とも幸せだ。

 

今日は10人程度のお茶会が開催され、台湾茶について、雑談しながらご質問を受けるというスタイルで行われる。皆さんが来る前に、Uさんが美味しいお昼ごはんを用意してくれており、有り難く頂戴した。やはり喫茶店を経営するような人は、なんでもうまく作れるということだ。お菓子なども手作りするそうだ。

 

取り敢えず2時間、お話しした。急に質問と言っても難しいと思うので、勝手に話題を見つけて話してしまった。これが皆さんにとって良かったのかどうかは全く分からないが、私個人は結構楽しく過ごしていた。何の筋書きもない話、それは私の茶旅そのものであり、これが本来私のやりたい講座の形ではないかとも思った。特に厳しい質問が出るでもなく、和やかに終了。

 

参加者はかなり遠くから来られた方もおり、満足されたかは心配だが、仕方がない。お茶会後も残られた人の中に、何と栃木の隣町の出身で、あの女優、山口智子とも同級生だった(うちの弟が山口智子と中学の同級であることを、先日息子たちに話したばかりだった)ので、とても驚いた。沖縄には県外から移ってきた人も多い。そのような人々は、本当にお茶の歴史がどうなっているのかを見て、お茶を通じて沖縄の歴史を考えていくのもよいのでは、と思ってしまった。

 

今晩は夜便でバンコックへ行く。最後はUさんが車で空港まで送ってくれた。那覇市内を通らない、日曜日の夜は空港まで30分ちょっとついてしまう。それでも雨が降ってきたので、何とも有り難い。そして何より、今回の一連の主催者として、動いていただき、とても感謝している。

 

未だ出発まで2時間以上あるのに、既にピーチには長蛇の列ができていた。ただよく見ると、ほぼ同時刻に台北行きもあり、そちらが先にチェックインをスタートしたところだった。台北行きとバンコック行き、作業速度に明らかな差があった。台湾人はちゃんと準備しているが、タイ人はそこに行ってから書類を探し、荷物が重量オーバーしているからだ。沖縄ですでに、タイを感じる瞬間だった。いずれにしても日本人より外国人が圧倒的に多い。

 

出国審査を終えると、ホッとして少し腹が減る。ところが何と、ご飯を食べるところはほぼ閉まっていた。商売熱心じゃないな、日本は。深夜便の乗客が入ってきたところで店を閉めるなんて、と言っても仕方がない。日頃の食べ過ぎを是正する良い機会だ。だが、飛行機が飛んでも腹が減っていて眠れない。機内食を買おうとしたが、何と搭載していなかった。この時間に食べ物を購入する人がいないのだろう。ひもじくバンコックに向かった。

 

沖縄を旅する2019(4)沖縄茶の歴史を報告する

7月6日(土)
報告会

翌朝は朝方に雨が止んだ。まずは県立図書館で再度調べものをして、それから先日休館だった那覇市博物館に行ってみた。土曜日ということか、見学者はそこそこいた。受付で荷物をコインロッカーに預けられると教えてくれた。今日は報告会のため、荷物が多いので助かる。那覇の歴史変遷などが展示されているが、勿論お茶に直接関わるような歴史は展示されていない。ついでに例えば沖縄と福井の繋がりを示すものなども探したが出てこない。一部尚家の展示の部分で、興味深い内容があったが、全体的には私が知りたいこととはマッチしていなかった。

 

一応早めに昼ご飯を食べようと思い、図書館近くでステーキを食べた。最近は話しの直前にはあまり食べられないのだが、やはり2時間も話すとかなり疲労するので、出来るだけ事前に多く食べるようにしている。そこからバスターミナルに向かう。南風原方面に行くバスはいくつも出ており、よくわからなかったが、係の人が検索して教えてくれた。

 

12時半にバスに乗り込む。もし乗り間違えたりしたら、遅刻になってしまう。そんな感じのバスの本数なのだ。沖縄には電車がないのでバスが発達しているとは聞いているが、初めて乗ると緊張してしまう。何とか指定されたバス停で降りようと、Google片手に眠りもせずにジッとしていた。乗客はそれなりに乗り降りがある。料金はどんどん変わるので、小銭の用意が大変だ。

 

バス停に着くと、少し雨が降っていたが、迎えの人が来てくれて、車で会場まで向かった。南風原公民館、図書館も併設された、立派な施設だった。今日は土曜日のせいか、いくつかのセミナー会場として使われていた。2階の会場に行くと、靴を脱いで入る洋室?よく分からないがこれまた立派なお部屋だった。

 

そして様々な方が準備をしてくれ、30名近くの方が聞きに来てくれた。これは代表して、今回の仕掛人Uさんにお礼を言わなければならない。私としては、昨年色々と勉強させて頂いたので、ご興味のある方に簡単にご報告するつもりでいたのだが、まさかこのような大きな会になっているとは思いもよらなかった。

 

お話しの内容は、球磨茶を訪ねて熊本県人吉に行ったこと、ちんすこうの故郷を訪ねて福建省福清に行ったこと、さんぴん茶の由来、中でも台湾の包種茶が使われていたことなど、最後にブクブクー茶とバタバタ茶、ぼてぼて茶に関連することを一気に述べてみた。皆さん、恐らくはかなり混乱されたことだろう。『そんな話、今まで聞いたことない』という声が聞こえてきそうだが、私の旅の成果としては、そのようになっているのだ。

 

後は地元の皆さんが、皆さんの歴史を検証して、フィードバックしていて頂けると、有難い。セミナー後、さんぴん茶などを飲む懇親会でも数人の方から、更に有益な情報を頂いた。『昔おばあちゃんから聞いた話なんですけど』などというのは、一見理屈もないように見えるが、意外と真実を突いていることがある。

 

全てが終わり、外に出るとなんと晴れていた。これは今日のセミナー、それなりに上手く行ったという証だろうか。また車でバス停まで送ってもらい、バスに乗って那覇に戻った。折角雨が降っていないので、またお散歩に出た。とまりん付近の若狭町を歩き、気が付くと久米のあたりに出ていた。そこには何と孔子廟まであった。これは新しいものではあったが、横には福州園という名前の場所まであった。既に門は閉められており見学は出来なかったが、中国、特に福建省との繋がりについては、さらに調べを進めるべき課題である。

 

夕飯は昨日食べたいと思って食堂は閉まっていた、なかみー汁を食べに行った。この内臓の入った汁、何とも言えず美味く、好物になっているが、なかなかありつけない。この食堂も働いていたのはバングラあたりから来た青年だったが、一生懸命対応してくれて好感が持てる。安い料金で食事を提供してくれる中で、彼らの存在も大きいのだろうと思う。

 

この畳部屋で寝るのも今日が最後となった。住めば都という感じで少し愛着が出てきた。今日は週末なので、さすがにすべての部屋に人がいるようだ。それでもトイレなどではかち合わず、結局どんな人が泊まっているかも知らずに終わった。ウインブルドンテニス、錦織の順調な試合運びを見て、明日に備えた。夜半からまた雨の音がする。