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スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(6)チャイナタウンを探して

8月30日(金)
チャイナタウンを探して

翌朝もまずはスタバに行く。宿ではなぜか2人分の朝食券をくれるので、これでコーヒーとアイスティーを頼み、クロワッサンを2個ゲットできるので、ちょっと豪華な気分になる。これを部屋で食べてから、すぐに出掛ける。今日は昨日聞いたチャイナタウンの夜市を探しに行く。夜市だから夜行けばいいのだが、夜道を探す自信はないので、昼間に行く。

 

実は駅の横に大きな建物がある。そこは何とお寺だった。入って行こうとすると、数人が手を伸ばしてくる。ここに来る信心深い華人を当て込んだ物乞いだった。廟は真新しく、線香の煙がたなびく。マイノリティーである華人のプレゼンスの高まりにより、建てられたのかもしれない。

 

更に歩いて行くと、トイレに行きたくなり、繊維関係の店がたくさん入っているビルに紛れ込む。売り子はインドネシア人が殆どだが、オーナーに華人の顔が見られる。よくよく見ていると、漢字もチラホラみられる。華語を学ぶ学校の宣伝などもみられるのは、やはりニーズが出てきたからだろう。ドリンクスタンドでは抹茶飲料などが売られている。

 

2㎞以上歩くと、街から離れた感覚になる。するとその辺に漢字が増えてくる。個人の廟が出てきたり、最近できたと思われるお寺が出現したりする。恐らくは2000年以降、スハルトの呪縛が解かれた後に中国大陸辺りから進出してきた寺なのだろう。元々いる華人は嵐が過ぎ去ってもそのトラウマに苦しみ、簡単に看板を出したりしないように思われた。

 

ようやく夜市が開かれる場所まで到達する。勿論午前中なので、屋台は全て閉まっている。仕方なく、その横の食堂に入って、汁なし麺を頼んだ。この味は福建とあまり変わらない。飲み物として中国茶をオーダーしたが、ウエートレスにはそれが通じなかった。華語が話せない華人にも数人遭遇する。一方で、華語でカラオケを楽しむ老人たちも見た。華人も世代により分断されているという現実がここにある。この周辺、立派なマンションなども建っており、財力のある華人たちがいるのだろうと思わせる。

 

スラバヤで買ったシムカード、なぜかスマホの動きが鈍くなっている。もしここでスマホ地図が使えなくなると大変なので、急いで携帯ショップを探して、何とか補充を計る。その方法は分からなかったが、店に行くと若い店員が英語を普通に話し、3GBを4万ルピアで購入できた。どうやら地図を使い過ぎてしまったことが原因らしい。

 

宿に帰る時、さっきとは違う道を通ってみた。すると突然華人的雰囲気のある横道を見つけた。そこには古い観音廟があり、広福亭と書かれた同郷会館らしきものもあった。これぞ私が探していたものだったが、会館は閉まっており、情報を得ることは出来なかった。この付近がその昔、華人が多かった場所かもしれない。いや、今でもひっそりと住んでいるのだろう。

 

曇りだったとはいえ、往復6㎞以上を歩いたので、午後は完全に休息した。結局宿は臨時のつもりのステーションホテルに留まる。まあ住めば都、という感じだろうか。予約はネットがかなり安いのでそれで取ると、クレジットカード決済となり、手持ちのルピアを使機会はない。

 

夕方、また外をフラフラしている。既にほぼ今回の目的(取り敢えず雰囲気を味わう)は達成しており、一方それ以上の成果を得られる感触もないので、正直時間を持て余す。ただひたすら街を歩くのは深夜特急スタイルだろうか。すると、突然狭い横町に、華人食堂が並んでいるところに出た。

 

これまでこれほど纏まって中華食堂がある場所はなかった。こういうところをチャイナタウンと呼ぶのかもしれない。時刻は未だ5時前だったが、目に入った海南チキンライスの店に入る。ここの飯、チキンだけではなく、卵や豆腐なども付いており、かなり豪華な一品で満足だった。おばさんに聞いたら、客家だという。その昔からここで商売しているらしい。

 

この付近を歩いてみると、実は華人系の店ばかりだった。ここが昔からのチャイナタウン、午前中行ったのが、新興のチャイナタウンと言えるだろう。ここにもスラバヤ通という道があった。スラバヤに行く時、私もまず思い浮かべたのは、ユーミンの名曲、『スラバヤ通の妹へ』だった。だがあれはジャカルタにあるスラバヤ通が舞台で、スラバヤは関係ないと言われた。スラバヤにはスラバヤ通はないのだろう。インドネシアと日本の関係、これは簡単には理解できないほど複雑な過去がある。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(5)何とかメダンに到着したが

8月29日(木)
メダンで

振替便は朝8時半出発だったので、6時過ぎに起きて、ゆっくり朝食を食べて、40分前に宿を出た。もしこれがマレーシアに入国していたら、空港までの足を確保して出国審査に並び、ゲートまで来なくてはならないので、どうみても1時間以上節約できたと思う。ところが搭乗ゲートまで行くと長蛇の列。最後の荷物検査が非常にチンタラしているので驚く。

 

ちょうど私の後ろに来た人、昨日乗り継ぎゲートで同じ手続きをしていた。華語で話が通じたので話ながら待つ。彼はメダンの華人で、商売をしており、出張でスラバヤへ行った帰り。『インドネシア政府は本当に何も考えない。自国内移動に外国のエアラインを使われて平気なんだから』と至極まっとうなことをいう。

 

お茶について聞いてみると『メダンは華人も多いが、中国茶を飲む人は多いだろうか。郊外に茶畑があると言ってもあまりピンとこないし』という残念な回答だった。そんな会話をしている間に、荷物検査が終わり、ようやく搭乗できた。さすがに機内は空いており、ゆったり。約1時間でメダンに着いてしまうのだが、この1時間のための待ち時間は実に長かった。

 

メダンの空港に着くと、また入国審査がある。今回はスラバヤで買った帰りのチケットを差し出し、難なくビザ免除となった。それにしてもやはり出入国は面倒だ。インドネシアの国内線充実に期待したい。スラバヤと比べると、メダン空港は新しいのか、かなりきれいに見えた。

 

この空港には市内に向かう列車が走っていると聞いていたので、乗ってみることにした。ルピアは持っているので切符を買おうとした。係員の女性が英語で説明してくれるが、何と現金では買えず(現金の場合は別途カードを購入、このカード代として2万ルピア取られるという)、クレジットカードを使って機械で買うようにと言われる。インドネシアで現金が使えないとは。10万ルピアのチケットをカードで購入。

 

車両はきれいで座席もゆったりしているが、ドアは後ろの1両目しか開かなかった。乗客が少ないということだろう。発車すると、いきなり田舎の畑が広がる。駅はいくつかあるが乗ってくる人はあまりいない。約1時間かけて列車は市内に入り、メダン駅に到着した。この駅には古いローカル列車が停まっている。

 

実は初めての都市だったので、ホテルの予約をしていた。が、昨日の騒動で、泊ることは出来なかった。だが、朝の10時過ぎに駅に隣接したこのホテルに辿り着いたので、一応ノーショーにはならずに済んだ。そしてもう1泊予定していたので、そのままチェックインした。

 

すると、朝食が付いていますがどうしますか、と聞かれる。その朝食とはスタバのコーヒーとパンらしい。下の階にあるスタバに急いで行っていると、まだ朝食提供時間であり、もらうことが出来た。何となくうれしい。こちらのホテル代は支払ったが、KL空港では無料で泊っている。採算はどうなっていると考えるべきだろうか。この朝ごはん分が儲かった、ということだろうか。クロワッサンが意外とうまい。

 

部屋は掃除中だったが、一番奥だけが空いていたので、そこに入る。決して広くはなく、設備が整っているとも言えないが、寝るだけなら十分だろう。朝ご飯を食べて、ちょっと休んだ後、街の散策に出かける。取り敢えず駅周辺でいいホテルはないか探したが、一長一短で、決められない。

 

突然古めかしい洋風のがっしりした建物を見つける。そこに漢字を発見して思わず入っていく。Tjong A Fie’s Mansion、張躍軒という大物華人の家だったようで、博物館になっており、入場料を払って中に入ってみた。かなり立派な2階建ての屋敷であり、調度品なども豪華で、展示品の数も相当多く、勉強になる。やはりスラバヤに比べ、メダンは華人が目立つ。

 

受付の女性に『チャイナタウンはどこにあるのか』と聞いてみると、すぐ近くにあるが、夜市が立つ場所はここから3㎞ぐらい離れているという。まずはこの付近を散策してみる。だが、なぜか漢字の看板には出会わない。中国風の建物も見られない。この辺はスハルトの影響なのだろうか。

 

ずっと歩いて行くと、きれいなモスクや宮殿などが出てきた。取り敢えず宮殿の中を見学したが、特に目ぼしいものはなかった。モスクは外から写真を撮るだけにした。帰り掛け、漢字が少し見えた。どう見てもうまそうな食堂だったので入ってみた。華語は通じ、おばさんが珍しそうに話をしてくれた。焼そばがとてもいい味出している。これで食べるところも見つかったので一安心だ。

 

 

宿に帰ってゆっくり休む。早起きした上に暑い中を歩いたので相当に消耗した。夕方、駅の反対側にあるモールへ行く。かなりきれいで大きい。地下はロッテモールになっていたが、特に食べたい物もなく、ドリンクだけ買って宿に帰る。部屋にはなぜか無料のカップ麺が置かれていたので、それを食べて寝る。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(4)どこの国でもない一夜

8月28日(水)
どこの国でもない一夜

翌朝は早起きして6時にホテルをチェックアウト。頼んでいたタクシーに乗り込み空港に向かう。渋滞の激しいスラバヤ、飛行機に間に合うようにするには何時間前に出発すればよいのか分からず、4時間前にホテルを出た。案の定、途中でかなりの渋滞に巻き込まれたが、何とか1時間ちょっと空港まで辿り着いた。

 

今日は何とマレーシア航空でKLに飛び、そこからメダンを目指す。何故そんなことになったのか。それはそのルートが一番安かったからだ。インドネシア国内を旅するのに国際線に2回乗って行く。もうネタとしか思えないルートだがちょっと興味はあった。それにしても第2の都市から第4の都市に行く国内線直行便がないインドネシア。広すぎると言うべきか。

 

チェックインを済ませて、出国手続きに向かう。何と審査官は、あの3日前に長時間やり取りしてビザをくれた人だった。彼も私に気が付き、『なぜ3日で出国するんだ』と聞いてきたので、『安いから』と答えると、心底不思議そうな顔をしながら、出国スタンプを押してくれた。確かにこの行動、普通は理解できないだろうな。

 

そこまでは順調だったが、予定時間になっても搭乗のコールがない。どうやら飛行機の到着が遅れているらしいのだが、何のアナウンスもないので事態は掴めない。ようやく飛行機に乗ったのは予定時刻を1時間も過ぎていただろうか。そしてまた延々3時間もかけてKLを目指す。機内食を食べると眠りこける。

 

ふと気が付いてみると、すでにかなりの時間が経っており、よく考えてみると、KLでの乗り継ぎに間に合うのだろうか、心配になる。実は乗り継ぎ時間は1時間ちょっとしかないのだ。CAに聞いてみたが、空港でスタッフがアレンジしてくれる、としか言わない。どうみてもメダン行きの便に間に合いそうもない。それでも後続の便に乗ればよいと気楽に考えていた。

 

KLに着いた時にはすでに私が乗るべきメダン行きは出発してしまっていた。乗り継ぎカウンターに行くと、『明日の朝便に振替です』とあっさり言われ、唖然とする。『エアアジアなどの便があるだろう』と食い下がると、『他社便への振替はできません』と淡々と言われる。確かに空港も違うので面倒だが、ではどうするんだ。

 

係員は本当に淡々と、『あなたにはホテル1泊と食事3食が提供されます』という。そこで『私はマレーシアに入国したくないので、エアポートホテルに泊めてくれ』と言ってみるとすぐにアレンジしてくれたので、今晩は空港に泊まることになった。こんな経験できるものではないし、第一メダンの予定は何もないのだから気楽なものだ。因みに同じフライトで11名がここに泊め置かれたらしい。

 

そのエアポートホテルは空港の隅の方にあった。入ってみるときれいなところで、部屋は勿論個室、それなりに整っており、これまで私が泊まってきたホテルより良いのではと喜ぶ。Wi-Fiが若干弱かったが、マレーシアのシムカードも持っているので、問題は特に何もない。

 

設備の整ったマレーシアの空港でWi-Fiが弱かったのは、実は10日以上前に空港のシステムが全てダウンして、数日手作業で空港業務を回すという異常事態があった余波らしい。私がスラバヤに行く時も懸念されたが、既に治っていたので気にならなかったが、こんなところに影響があるとは。これはテロだったのだろうか。

 

ちょっと腹が減ったので、まずは1枚目のクーポンを使う。空港内のショップで20リンギ以内のご飯が選べる。麺からご飯まで様々な店があったのだが、貧乏性な私はぴったり20リンギの食べ物を探し、結果バーガーキングのセットになってしまった。まあ偶にはコーラにポテトも良いか。

 

それを食べていると、インド系の乗客が10人ほど入って来て、飲み物だけを頼み、自分たちが持ち込んだ食べ物を食べている。これ、良いのだろうか、と思ったが、食べられるものが限られているのなら、仕方がないということか。寛容な国マレーシア、店の採算はどうなるのか。しかし外食で苦労する人は多いのだろうな。

 

空港内を散策する。広いことは広いが特にすることもなく、夕日が落ちるのを眺めていた。私は今一体どこの国にいるのだろうか。インドネシアを出国したが、マレーシアには入国していないぞ。真空地帯に放り込まれているのか。推理小説に使えそうだな。夕飯はホテル内の食堂で食べる。ちょうどサッカー中継などがあり、それを見ながら黙々と済ませ、早めに就寝する。特に飛行機の音がうるさいなどはない。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(3)チャイナタウンに突撃

8月27日(火)
再び安渓会館、そしてチャイナタウンへ

翌日もう一度安渓会館を訪ねるべく、昨日と同じ道を歩く。道が分かっていればかなり早く着ける。この会館の向かいは墓地だった。きれいに墓石が並んでいる。昨日と違い、門は開いていたので、中に入って華語で呼びかけた。すると華語で返事があったので、それだけでもうホッとする。

 

ここの世話人さんが、相手をしてくれた。ただこの会館も20年ほど前にできた(その昔は別にあったかもしれないが)ということで、その歴史は古くはない。そして予想した通り、会員に茶を商っている人はいない、との答えが返ってきた。元々スラバヤは華人比率が低く、茶荘は成り立たなかったのではともいう。老人に聞いてみれば、もう少し昔のことが分かるかもしれない。日曜日の午前中に集まりがあるので参加してみれば、と言われたが、私にはその時間はなかった。

 

もう一度福建会館の場所を聞くも、昨日と同じ場所を言われたので、諦めた。これまでシンガポールやマレーシア、タイなどでは、同郷会館に行けば、なにがしかの情報は得られたのだが、ここインドネシアは様子が全く違うことを改めて思い知り、私の挑戦は終了した。

 

これまで聞いた限りにおいては、やはりスハルト時代の影響が大きく、華語禁止などにより昔の資料は何も残っておらず、華人自身も華人の歴史に関心を持つことはなかったと言ってよい。その中で120年前の華人茶商の足跡を追うことは、研究者などがいない限り困難だとはっきり言える。

 

昨晩、パサールアトム辺りがいわゆるチャイナタウンだ、と教えられたので、そこまで歩いてみる。ホテルからはどんどん離れていく。その市場、前面は古い感じで、後ろは新しく付け足されたモールのようだった。特に華人色が強いとは感じられない。昨日教えてもらった地元料理、食堂で名前を言い食べて見るとどれもおいしい。侮れない、インドネシア。

 

別の道をトボトボ歩く。どこかからバスで帰れないか探したが、どれに乗れば良いか全くわからない。運転手に聞いてみても、私が行きたい場所が通じない。ふらふら歩いて行くと、昨日と同じような路地があり、そこはなぜかオアシスのように心地良い。本当に不思議な空間だ。

 

更には鉄道の線路も見えてきた。駅があるだろう方向に歩き出すと、線路沿いは低所得者が住むバラックのような家が多かった。庶民の暮らしといっても、この国には信じられないほどの格差があるのだろう。駅が見えてきたが、列車に乗るわけでもないので、また宿の方向に歩き出す。何とカメラのカードが満杯になり、写真も撮れなくなる。

 

かなりの疲れを覚えながら帰路に就いたが、途中で疲れがピークに達する。そこにリキシャーの運転手が声を掛けてきたので、遂に乗り物に乗ってみることにした。ホテル名は分かったようなのであとは料金交渉だ。向こうが指を3本出したので、こちらは1本だし、最後は2本で折り合った。これが高いのか安いのか分からないが、乗ってみるといい風が顔に当たり快適で、もう歩く気がしない。

 

午後気を取り直して出掛ける。ネットで検索したところ、チャイナタウンはあの市場の更に向こうにあることが分かり、リキシャーに乗ればさほどの労力もいらないことを知ったので、再チャレンジに出た。リキシャーがなかなかいなくて、少し歩いて拾う。やはりかなり遠い。

 

ようやく川を渡り、それらしい感じが出てくる。橋の所で車を降りた。赤い橋、ジュンバタン・メラ。確かインドネシア独立戦争の火ぶたが切られた歴史的な場所だ。その向こうには門が見え、ここがチャイナタウンだと分かる。古い建物が続き、港が近いためか、商店や倉庫が立ち並び、かなり活気がある。これぞ私が求めていた場所だった。

 

更に歩いて行くと、いつの間にか雰囲気がかなり変わり、アラブ人街に入っていた。狭い路地に店がひしめき、人の往来も多い。通りに車が列をなし、歩く人々も滞る。まるで映画のワンシーンのような光景だった。ここスラバヤが往時、貿易で栄えたと実感できる雰囲気がここにはある。

 

そこから大人しくリキシャーを探して帰ればよかったのだが、またフラフラ歩き出してしまう。かなり長い距離をひたすら歩いた。途中に沢山モスクがあり、英雄記念塔などもあった。何だか楽しくなり歩いてしまったのだが、かなりのダメージだった。最後はホテルマジャパヒまで歩きつく。日本軍占領時代の旧大和ホテル。歴史的な雰囲気はあり、かなり格調高くて、きれい。次回はここに泊まりたい。夜はフードコートで地元料理を満喫。疲れたのですぐに寝る。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(2)福建会館はいずこに

8月26日(月)
福建会館はいずこに

翌朝は天気も良かった。スラバヤにある安渓会館の住所という、ほんの僅かな情報、を基に調べを開始した。交通機関は全く分からないので、スマホ地図に住所を入れて歩き始める。道はかなり広く、横断は難しい。途中にA&Wがある。見るのは沖縄以来か。20分以上歩いたが、目的地は見つからない。地図上では着いているのだが、ここスラバヤでは漢字の看板が殆どない。英語もないので、この建物が安渓会館かどうかもわからず、しかも鍵がかかっていて、聞くこともできなかった。

 

周囲を歩いてみると、何だかお寺があるらしい。行ってみると、鄭和基金会と鄭和清真寺いう文字が見えて驚く。なんでここに鄭和が出てくるのだろうか。入り口から入ると、老人がいたので、華語で話しけると華語で返事があり、ホッとした。ここの創設者だという老人が、話をしてくれたが、このお寺と基金会は2000年頃に創設された比較的新しいものだった。

 

インドネシアにおける華人のプレゼンスは僅か5%程度で非常に低く、しかも何度も華人排斥運動が起こり、アジア通貨危機後の混乱でも、様々な困難があった。スハルト政権は30年以上に渡り華語を禁止したため、漢字の看板は極めて少なく、また今の30-50代の華人は華語を学習していないという。

 

そんな中でスハルト後にインドネシアのイスラム教徒との融和を図るために作られたのが、この施設だという。因みに鄭和とは明代に大航海をした人物だが、ここスラバヤに寄ってはいないらしい。ただ彼は雲南の回族出身で、イスラム教徒ということで、ここに名前が使われたという。

 

お茶について尋ねてみたが、ここスラバヤに中国茶を扱う茶荘は全くないという。恐らくは1960年代スハルトの弾圧があった頃までには、全ての個人の茶荘は無くなっていただろうともいう。現在華人、特に老人が飲んでいる茶は、スーパーなどで売っている中国茶になる。この茶もスラバヤで作られているものはない。

 

この付近一帯には、ほんの少し中国語の看板が見られる。中国語学習の場もあるようだ。だがそれ以外には漢字がない。先ほどの安渓会館について聞くと、恐らく明日は誰かいるだろうという。そして福建会館の場所を聞くと、正確な位置を教えてくれたので、今日はこちらを当たることにした。

 

だがこれもまた困難を極める。最初は道を間違えて路地に入り込んでしまう。そこで英語ができる人に言われて、その先の道を探す。教えられたとおりの建物の前まで来たが、こちらも看板はなく、門も閉ざされており確認しようもない。近所のおじさんに聞くと確かに華人の集会所だとは言うのだが、それ以上踏み込む余地がない。疲れ切って、宿の方へ歩いていく。

 

途中で、道端にあったファーストフード店のようなきれいな店に入る。スラバヤには屋台もいつも出ているが、どうも入る気になれない。この店、やはり言葉は通じずに、写真でメニューを選び、片言英語で何とか店員との意思疎通を図る。向こうもまさかここに外国人が来るとは思っておらず、かなり慌てていた。食べ物は意外に美味しく、甘いドリンクは無料で提供された。

 

そこから博物館があるというところまで歩いて行った。かなりの距離があるが、乗り物に乗れないので仕方がない。博物館は立派な建物の中にあったが、今日は閉まっているようだった。それでも囲いがないので大体の展示物は見えてしまう。あまり必要な物はなさそうだと判断して去る。

 

その後路地に紛れ込む。これがなかなか楽しい。意外と清潔なのはイスラムの伝統だろうか。鉢植えの植物が多く置かれ、鳥かごが掛けられているのは中国的かな。何となく風までさわやかに感じられてくる。インドネシア第2の都市であるスラバヤだが、やはり首都ジャカルタとは大きな違いがある。

 

一度宿で休息して、午後4時前に宿を出た。今日は先日KLで出会ったMさんの昔の同窓生を紹介してもらい、郊外のショッピングモールで待ち合わせていた。だが路上にタクシーはなく、向かいのモールの警備員に頼むと親切にも一生懸命探してくれて有難かった。

 

夕方のスラバヤ、かなりの渋滞になっていた。指定されたモールまで、約1時間もかかる。それでも車代は空港から来た時の半額だった。それにしても名前からしてでかいこのモール。本当に広くて驚く。2つのモールが繋がっており、ただ歩いても端まで2㎞ぐらいある感じだった。何とか落ち合うことが出来たのは奇跡的だ。

 

彼女はここで台湾人学校に勤めているという。台湾人学校といっても台湾人より現地華人の子弟が多いらしい。フードコートで地元の名物、ビーフボールとカレー、油条などをご馳走になる。これは確かにうまい。その後ご主人も合流して、スーパーで売られているお茶などを観察する。華人の雰囲気を出しているパッケージだが、中身はどうだろうか。更には実際にドリンクスタンドで薬用茶を買って飲んでみる。

 

ご主人が態々、宿まで車で送ってくれた。この夫婦は郊外に住んでおり、別々の車で通勤し、夜ここで落ち合って食事・買い物してから帰るらしい。ご主人からは現在のインドネシア情勢やスラバヤのことなど、非常に有意義な話を車中でたっぷり聞いた。こういうことがないと、現地に来ても何も分からないな、ということがよく分かった。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(1)スラバヤ空港の珍事

《スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019》  2019年8月25日-9月1日

インドネシアを訪ねたのはもう6年も前のこと。ジャカルタの渋滞に嫌気がさし、言語の通じなさを嘆いて、それ以来脚が遠のいていた。だが、台湾茶の歴史には必ずインドネシアが出てくる。今回は何の足掛かりもないまま、取り敢えずビザ免除にもなっているので、第2の都市スラバヤと、第4の都市メダンを訪ねてみることにした。かなり困難な旅が予想されるが、果たしてどうなるのか。

 

8月25日(日)
スラバヤで

KLを離陸したエアアジアに乗っていた。スラバヤまでの飛行時間は約3時間。そんなに遠いのかと思い地図を広げると、確かにジャワ島の東の端だから、遠いのだ。6年前は香港人のトミーの後ろに付いて、ジャカルタ入りしたのだが、今回は一人。しかも何の情報もない中を行く。ただ一つ、日本人はビザ免除になっているのが救いだった。

 

だがインドネシアはそれほど甘くはなかった。スラバヤ空港は大きくなく、すぐにイミグレに辿り着く。パスポートを出したところ、『帰りのチケットは?』と聞くではないか。『これからメダン経由でKLに戻るので帰りは未だ手配していない』というと、すぐに別室に案内されてしまった。これは恐ろしいことになるかもしれない。最悪KLに戻ることになるかも、と悪いことが頭を過り、緊張が走る。

 

それからさんざんすったもんだの挙句、ビザ免除のスタンプを得たのは1時間後だった。預けていた荷物も無事に回収できた。昔のインドネシアなら、わいろを要求されるところだろうが、今はきちんと正規の要求、手続きをしてくれたのは良かった。まあ、旅にはトラブルが付きものであり、また何とか解決法があるのだ、と久しぶりに旅の醍醐味を感じる。

 

出口を出て、まずはスマホシムカードを探す。色々と手続きがあるとか聞いていたのだが、あっという間に購入完了。すぐにスマホは起動した。そしておじさんがタクシー要るかと聞いてきたので、一応料金を聞くと、15万ルピア。ちょっと高そうだったので、断って背を向ける。するとすぐに言い値が下がり、見事にタクシーゲット。スラバヤ空港も市内行バスはないとのことで致し方ない。

 

スラバヤ郊外は緑豊かで快適だった。日曜日のせいか、道は比較的空いており、1時間弱で市内に予約しておいたホテルに入った。大型の古めのホテル、料金はそれほど高くなかったが、何だかビジネススイートという部屋に通される。入口に机があり一部屋だが、使うことはない。それでも居心地は悪くなさそうだ。

 

隣にショッピングモールがあるというので行ってみる。かなり小さな店が入っている、タイなどによく見られるタイプだ。両替所でもあれば、と思ったのだが、何とエスカレーター故障で上の階に登れず。ATMの機械に銀聯カードなどを差し込んでみたが、空港同様現金は出てこない。

 

急激に空腹を覚えたので、そのビルにあった吉野家に駆け込む。インドネシアで牛丼か。メニューを見ると、チキンやベジもある。私は迷わず、マヨ玉牛丼をチョイスした。ここでこれが食べられるとは何だか幸せだ。このメニュー、日本にはあるのだろうか。マヨ玉、やはり美味い。インドネシア入国初日にこれはないだろうか。

 

ホテルのフロントに聞くと、両替は1㎞ほど歩いたショッピングモールにあるというので、散歩がてら出掛けてみる。すでに日は暮れていたが、交通量は多く、信号などはないので歩行者にはかなり厳しい環境だ。それでもライトアップされた古い建物もあり、歴史を感じさせる。ようやくたどり着くと、そこは立派なモールで、日本関連の店もいくつもあった。

 

ただ両替所では『米ドルの旧札は両替しない』と言われてショック。空港では両替してくれたのになぜと聞いても取り合ってくれない。取り敢えず持っていたマレーシアリンギを両替した。さっきのモールでドリンクを買おうとしたが、レジが大行列だったので、こちらのスーパーで買う。既にインドネシアの国民飲料となっているポカリスエットは勿論、ビタミンウオーターなど日本製のドリンクが並んでおり、日本より安いのがよい。きっと生産はインドネシアで行われているのだろう。

 

部屋に帰って何気なくテレビを点けると、バドミントンの世界選手権を生中継で放送していた。昔バドミントンはインドネシアの国技とも呼ばれていたが、最近は日本の方が上回っている。男子の桃田は圧勝、女子の奥原はなぜかインド選手には勝てない。女子ダブルスは日本勢同士の対決となり、最後の男子ダブルスでインドネシアペアーが日本を下して、実況席も大騒ぎになった。こんなのをインドネシアで見られるとは面白い。

マレーシア老舗茶荘探訪2019(8)KLをフラフラ

他に当てもないので、バス停に戻ろうとしたが、途中にショッピングモールがあり、タクシーがいたので、クラン港まで乗せてもらった。今やマレーシアでも普通の人はGrabでタクシーを呼ぶので、彼らもその料金を念頭に請求してくる。運転手は日本に行きたい、などと言いながら陽気に運転する。港まで5㎞もあった。そして港はほとんど見えない。観光船が出るターミナルで降ろされる。

 

何だかフェリーに乗って海鮮食べに行く、という感じらしいが、どうも今日はそんな気分でもない。天気も曇りで心も晴れない。取り敢えず腹が減ったので付近を歩いていると、マレー料理があったので、そこでチキン麺を食べた。これが意外とうまく、またマレー系は優しいので、ちょっと癒された。

 

クラン港駅はすぐそこにあったので、列車で帰ることにした。一応バスターミナルも見たのだが、KLまで行くバスはここからは出ない。というより、この付近、殆ど人家もなく、何とも寂しいのだ。列車は朝も乗ったので、途中で地下鉄に乗り換えて、別ルートで帰ったが、路線図が頭に入っていないので苦労した。初めてのクランの旅は完全に空振りに終わった。

 

今晩は、以前台湾で一度会っただけの知り合い、Iさんと会う約束になっていた。彼女は台湾の後、メキシコで働いているとばかり思っていたが、いつの間にか、KLにいたようで、連絡があり、再会した。場所はKLセントラル駅。何だか丁度良い店がなかったので、華人系の麵屋に飛び込む。麺をすすりながら気が付けば3時間近く話しており、店の客も全員帰っていた。メキシコからKLに移り住む、凄い。更には行ったことがない南の島に移住するとか、彼女の話は面白過ぎる。

 

宿へ戻る時、前を盲人が歩いていた。実はここに来てからずっと気になっていたのが、盲人が沢山歩いていることだった。しかも必ず誰かが肩を貸すなど、ごく自然にサポートに入っているのがよい。日本はなかなか優しくなれない社会であるが、ここには優しさがある。盲人が多い理由は、どうやらこの付近に盲人按摩の店がいくつもあるかららしい。それで夜も出歩いていることが分かる。

 

8月24日(土)
KL散歩

今日は午前中特に予定がなかったので、適当に動いてみることにした。まずは博物館に行こうと思い、パサールスニの先でバスを降りたが、なかなか見つからない。観光客向けの道があり、更に行くと大きな広場があった。そこに博物館はあったのだが、何とそれは繊維博物館?のような専門的な物だった。

 

ここで無料バスに乗り、国立博物館に向かおうとしたが、バスの乗り場が分からず、結局歩くことになった。2駅ほど行くと、古めかしい建物が登場する。元々鉄道局のビルだったようだ。その向こうにはマジェスティックホテルがある。KLの老舗ホテルで恰好がよい。

 

晴れてはいなかったが、汗だくになってようやく博物館に到着した。ここも敷地が広く、入り口を探すのも苦労した。入場料10リンギ、先日のシンガポール博物館の5分の1以下だ。中の展示はかなりまとまっており、マレーシアの歴史の外観は掴めた。1階では子供向けの絵画教室が行われており、皆楽しそうだった。

 

無料バスを見つけて乗り、駅の反対側まで来た。腹が減ったので、そこにあったケンタッキーに入ったが、そのサービスは良くなかった。マレーシアのファーストフードにサービスを期待する方が間違いだろうか。午後は地下鉄でKLCCまで行く。旧知のHさんとの待ち合わせは、紀伊国屋。

 

だがそこから延々歩いてブキビンタンまでやってきた。以前も行った肉骨茶屋に入る。以前ミャンマーにいたHさん、そこのミャンマー人店員と親しくなっていた。やはり肉骨茶はうまい。実は昨日行ったクランが発祥と言われているが、食べなかったので、ちょうどよかった。帰りはモノレールで帰る。夜は腹一杯で食べず、早く寝ようとしたが、何と外でお祭りのパレードが始まる。鳴り物の音がすごい。

 

8月25日(日)
スマトラへ

今日はインドネシアに向けて出発するため、宿をチェックアウトした。空港へはバスが安いのでそれに乗る。1時間ほどで到着。エアアジアのチェックインと預け荷物の処理は全て機械化されている。最初は戸惑うが、慣れると早い。ただイミグレはとても混んでいて、30分以上通れなかった。シンガポールほどではなかったが、それでもなかなか機能的な空港ではある。これから6年ぶりのインドネシア、そして初めてのスラバヤへ行く。どうなるのか、ちょっとワクワクだ。