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広島・岡山・大阪ぶらぶら散歩2019(1)尾道を歩きまくる

《広島・岡山・大阪散歩2019》  2019年9月24日-27日

ウラジオストクから帰って中二日で、また旅に出た。今度は国内旅行だから気は楽だったが、正直体力的にはかなかしんどい。それでも面白いことも数々あり、やはり旅を止めることは今のところ出来ない。今回は広島尾道から鞆の浦、岡山、美作、大阪と行く。

 

9月24日(火)
尾道へ

今年の3月に島根横断の旅をした際、何となく山陽道も歩きたい衝動にかられた。それで何気なく広島行きのチケットを予約する。広島市には以前に行ったことがあったので、今回の目的地は以前から気になっていた尾道と鞆の浦。尾道のお茶屋さんにちょっと寄ってみたい、それだけだった。

 

羽田空港国内線は便利でよい。荷物も軽いのでカウンターにも行かず、するっと中に入る。修学旅行生が沢山いる。修学旅行って、楽しいのかなと思ってしまう。誰もが旅行に行けるこの時代に、なぜ修学旅行が必要なのか。先生の負担も軽くない。いや旅行会社の生き残り戦略だろうか。

 

飛行機はするっと飛び立ち、あっという間に広島空港に着陸した。この空港、広島市内からも結構遠い。私は広島ではなく、尾道を目指しており、インフォメーションでその行き方を聞くと、バスでJR駅まで出て、そこから電車で行く。なぜか広島空港は風が吹き、9月にしてはかなり涼しいので驚く。

 

バスは30分ぐらいするとやってきた。広島行きもほぼ同じだったので、フライトに合わせて来るのかもしれない。20分ほど行くと、JRの白市駅という如何にもローカルな駅に着いた。ここで尾道への行き方を再度聞くと、若い駅員さんが丁寧に教えてくれるので好感が持てる。

 

車窓から田んぼを眺める。田植えが行われていないところもチラホラみられ、後継者問題が頭を過る。三原で乗り換え、尾道に着いたのは11時過ぎていた。三原で乗り換えると、同じホームに岡山行きが来るよ、というアドバイスは荷物がある者には助かる。駅からすぐのホテルを予約しており、そこに荷物を預けて歩き出す。

 

駅の目の前が川?内海?なので、そこを歩いてみると、何だかとても心地よい。この街は映画東京物語の舞台にもなっており、そんな展示がされている。如何にも映画の舞台になりそうな街並みではある。昔ながらの商店街もあり、ちょっとレトロな雰囲気に浸る。

 

その商店街のアーケードが無くなった先、少し入ったところに目指す今川玉香園茶舗はひっそりとあった。店主のIさんとは3年前広島のお茶会で知り合ったが、その後FBでお互いの近況を見ており、今年2月のボルネオでも、『サバティーガーデン』へ行くように勧めてくれていた。

 

Iさんとお父さんから話しを聞く。このお茶屋さん、記録では明治初期の創業だが、実際には江戸時代から茶業をしていたらしい。尾道でもっとも古い茶舗の一つ。尾道という山陽道の主要都市だから、海運を使った人の往来もあり、茶の流れもあったのだろう。長崎から中国系商人がこの街に陶器を売りに来た、などという話が普通に出てくる。

 

茶葉も地元の物もあったようだが、京都や九州からも取り寄せていた。現在でも静岡、宇治、鹿児島茶をブレンドして、地元民に合う味にしたものがよく売れるという。Iさんは世界の茶産地を回っており、スリランカの紅茶や阿里山烏龍茶なども取り扱っている。イベント活動にも力を入れており、地域の文化の中心に位置している、と感じられるお店だった。

 

少し話しているともうお昼を過ぎており、近所の小さなお好み焼き屋さんに連れて行ってもらった。席は3つしかなく、目の前の鉄板でおばさんが丁寧に焼いてくれるのを見ながら、話を続ける。ソースは自分で好みの量をかけてね、と言われる。食べるとまさに『普通に美味しい』。

 

午後は一人で尾道を歩き回った。初めに尾道水道の渡し船に乗ってみたが、帰りに別の船着き場から乗ろうとしたら無理だと分かり、10分で往復する。このゆっくりと動く船からの眺めは悪くない。それから歩いてお寺巡りが始まる。まずは千光寺を目指して登る。道が整備されていて歩きやすい。

 

石段の途中に志賀直哉旧居と見えるので曲がる。今日は火曜日でどこも閉まっているが、取り敢えず外観を見る。千光寺からは尾道の街がきれいに一望できた。鎖を伝って登る奇岩があった。その下には鎌倉時代創建の天寧寺の三重塔が見られる。更にずっと歩いて行くと西園寺という寺があった。ここになると奈良時代の創建らしい。尾道の街の古さがよく出ている。

 

それからもいくつかの寺を訪ね歩いた。姿三四郎の像があった。人形浄瑠璃の文楽の墓がなぜかここにある。図書館も休館日で尾道の歴史全般を知る機会はなかったが、実に興味深い街であることは確かだ。最後に夕日が沈むのを水辺で眺めた。何だか動きたくないような気分が続く。夜はIさんに新鮮な海の幸をご馳走になりながら、更にお茶の話や旅の話をした。そして駅前のホテルまで約20分、ふらふら歩いて帰った。

ウラジオストクを歩く2019(4)ウラジオふらふら

9月20日(金)
ウラジオふらふら

今日は実質ウラジオ最終日だが、もう大体行くべきところには行ってしまっていた。さてどうするか、と考えながら、ホテルの朝食を食べる。これまでは韓国人か中国人が多かったが、このホテルには日本人も泊っていた。食事内容はどこも同じような物だった。この辺はヨーロッパ的?

 

取り敢えず多くの観光客が訪れるという鷹の台展望台を目指す。基本は歩きで、ケーブルカーに乗る気もない。スマホ地図を見ながら、途中までは昨日歩いた旧東洋学院方面を行く。その辺から登り始め、高台の住宅地を抜けていく。だがどうも道がない。住宅の警備員に聞いたが、言葉は通じない。でも行きたい場所は分かったらしく、住宅内を突っ切って行けるよ、と笑顔でジェスチャーをしてくれた。しかし残念ながら、その入り口は閉ざされており、元に戻らざるを得なかった。

 

地図で見ると今来た道を一度下まで降りて、更に道路をぐるっと回って行かなければならなかった。その道路は広い自動車道で、歩くのは大変。何とか入り口に辿り着くと観光客が沢山いるではないか。上に登ると、確かに手前の黄金橋からウラジオストクの港がよく見えた。

 

帰り道をトボトボと行くとまた古い建物に出くわす。特に気になった建物があったのだが、果たしてこれが元々なんであったか、それはロシア語でしか書かれておらず、判然としない。また近所の壁には古い建物の写真が貼られており、ちょっと興味深いものも混ざっていた。この近くに骨董屋があるに違いないが、場所が分からなかった。

 

更に歩いていると、腹が減ってくる。ちょうどカフェが見えたのでメニューを見ると英語があった。しかもペリメニと書かれていたので、迷わず入ってみる。何とこのカフェのメインはペリメニであり、10種類ものペリメニが用意されていて迷う。ゆっくり茹でて出てみたペリメニはかなり美味だったので、じっくり味わった。カフェなので食後にコーヒーを飲むと、何だか新しい感覚になる。

 

 

最後に噴水通りの周辺を丹念に歩いてみた。この通りはとてもきれいなのだが、そこから一歩裏に入ると、昔の雰囲気がいくらか残っている。勿論ここにも観光客目当ての店が出てはいるが、何だかここらあたりを100年前に日本人が歩いていたかな、と思うと複雑な気分になる。

 

一度宿に帰り休む。なぜかまた腹が減り、早めに夕飯を食べてしまう。それから夕陽が落ちてくるのが見えたので、ビーチの方に向かう。先日のホテルと違って、ここからは夕陽がよく眺められたので、しばしそれに見とれる。周囲ではビールを飲みながら騒ぐロシア人たちがいた。

 

宿へ帰り、部屋にあるLG製のブラウン管テレビを点けてみる。普通テレビなど見ないのだが、今日はラグビーワールドカップの開幕戦、日本対ロシアの試合が日本である。もしやと思い探すと、ロシアでもちゃんと注目されており、生放送されているではないか。その実況にはかなりの熱が入っていたが、試合はガチガチの日本が勝利したので、かなりがっかりしているようだった。まあそれにしても、ブラウン管テレビはこんなにも見難かったかと実感する。

 

9月21日(土)
ウラジオストクを離れる

ついに日本へ帰る日が来た。本当は空港まで列車に乗って行きたかったが、昨日駅で確認してみて、私のフライトにちょうど合う列車はなかった。朝7時の列車に乗れば確実なのは分かっていたが、空港に着いても3時間半、何もやることがない。それならばホテルで朝食を食べてから、またバスで行くことにした。

 

バスは特に混んでおらず、時刻表通りに出発した。終点だから寝過ごすこともないので目をつぶる。途中で何人かが乗ってくる。そしてある程度行ったところで渋滞になる。よく見ると斜め前の方で煙が上がっている。何と火事に遭遇した。それもかなり大きな火事だ。後で検索した放送局だったらしい。日本語のニュースにもなるほどの規模だったので、驚いた。

 

1時間ちょっとで空港に到着したが、まだチェックインは開始されていなかった。20分後に開始という表示になっており、皆並び始めたが、いつになっても始まらない。その前に韓国行きの便が終わらないからだろうか。そこへ後から来た子供連れの家族がカウンターに何か言うと、なぜか彼らの処理が始まったので、後ろのロシア人が怒り出す。

 

すると横のカウンターが開き、私の後ろのロシア人がそこへ滑り込み、手続きを始めた。それなら私の方が先だろうと、そのカウンターへ行くと『ここはビジネスクラスだけ』というではないか。何の表示もなく、外国人は勿論、ロシア人にも不可解な処理が行われて困る。

 

まあそんなこともあったが、今回のウラジオストクの旅は順調だったと言ってよい。何より天気が素晴らしく、気持ちがよかった。これからここを訪れる日本人も増えていくだろうが、出来れば歴史にももう少し目を向けてもらいたいと思った。確かに日本から最も近いロシアだから、歴史的繋がりは相当ある。

ウラジオストクを歩く2019(3)モルグン先生と会って

9月19日(木)
モルグン先生と

前日早く寝たので、早めに起きた。気温が相当下がっている。厚手の服を着こんで、食堂に行く。広めのスペースにそれほど人はいない。簡単な食事を取って食べる。まあロシアはどこも同じようなメニューなのだろう。せめて、コーヒーや紅茶がもう少し熱いとよいのだが。

 

今日は今回のメインイベント、極東ロシア交流史に詳しい、ゾーヤ・モルグン先生と会うことになっていた。彼女も前回のハバロフスクでポボロツキーさんから紹介を受けた。モルグンさんには第2次大戦前までのウラジオストク在住日本人達に関する著書があり、その中で可徳については触れられていないが、日本人茶業者についても書かれているので、とても興味を持っていた。先生は日本とロシアの人的交流にも常に尽力している。

 

まずは海辺のホテルをチェックアウトする。やはり手続きになんでも時間を要する。手際よくやる、という感覚はない。ソ連時代の名残だろうか。それから荷物を持って、先日泊まったホテルの近くに歩いて行き、荷物を預かってもらった。こちらの方が良さそうには見えるが、それでも建物は国営時代そのものであり、その雰囲気をかなり残していた。

 

待ち合わせ場所はあの横浜正金が入っていた博物館だ。博物館とはご縁が深いモルグンさんはここに用事があり、まずはそれを済ませてから、カフェに移動する。だがちょうど斜め前に昨日見た可徳のオフィスと思われる建物があったので、まずはそこを見てもらう。にこやかだった先生の顔が厳しくなり、専門家に変身する。この建物については、別の専門家がもし分かれば、聞いてみるとのことだった。心強い。

 

現地の人が普通に飲む紅茶などを注文してもらう。甘いケーキも出てきた。そしてこちらが聞きたかったことをどんどん質問していく。長年研究を続けてきた人だけあって、当然ながら色々と詳しく、非常に勉強になる。ただ中にモルグンさんにとっても初耳だったこともあったようで、こちらの話にも非常に興味を持ってくれ、話が弾んで面白い。70歳を過ぎても現役で日本語を教えている(場所は昨日行った旧東洋学院)という先生は、やはりパワフルだ。

 

カフェを出て、少し散策した。観光客でにぎわう噴水通りを見て先生は『ここは100年前日本経営の女郎屋さんが多かった』というので驚いてしまう。今の我々には全く分からない残酷な歴史がそこには存在しているのだ。そして旧日本総領事館などの周辺を回り、更に色々と教えてもらう。NHKのファミリーヒストリーを見て、さだまさしの祖父がスパイだったことを思い出したが、何と先生はこの番組に出演していた。ゆっくりと先生は広場からバスで帰っていった。また教えを請いたいと思う。

 

戻って博物館を見学した。まずは建物のレトロ感がよい。そして土偶から甲冑まで、実に様々な展示がなされており、実に興味深い。日本との繋がりも十分に感じられる。先住民族の歴史もかなり展示されており、勉強になる。先住民族の地に、ロシア、中国、そして日本人も入って来て、街が形成されていった。

 

遅い昼ご飯は、近くの食堂へ行く。先日行ったところよりかなりきれいで客も多いのだが、店員の対応は更にひどい(店員の方も待遇などに不満があるのかな、とも思う)。観光客など外国人は来なくてよい、ということかもしれないが、観光で売り出す街としては、サービス業に弱点があるのではないか。モルグン先生と行ったきれいなカフェの店員もずっとスマホを触っていて、遊んでいるようにしか見えなかった。そしてスープも今一つだったのでがっかり。

 

今日のホテルに戻り、チェックイン。初日より高い料金を払ったが、設備などは良くない。昔の一流ホテル。だから部屋が空いていたのだと納得する。午後は裏側の海を見に行く。遊園地があり、船着き場がある。実にクリアーな天気で気持ちがよい。恐らくウラジオストクの秋、最高の季節なのだろう。平日だが多くの人々が午後の散歩をしている。ビーチがあり、何とこのひんやりとした中、水着で泳いで人、日光浴にいそしむ人もいた。

 

そのまま1時間ほど市内散歩を続け、宿に帰って休息する。ウラジオストクの歩ける範囲はほぼ歩いた気分になる。ちゃんとした机もない部屋で、PCを開いて今回の旅のまとめを始めるが、腰が痛くなる。夜までそうしていると、やはり腹が減るも、余り歩きたくなかったので、先日の食堂へ行き、まあまあだったスープを飲むことにした。急速に秋から冬になろうとしている雰囲気が嫌いではない。

ウラジオストクを歩く2019(2)歴史の街を歩く

9月18日(水)
ウラジオストク歴史散策

今朝も晴れて気持ちがよい。ただ夜中の気温は急激に低下したようで、起きるとちょっと肌寒く感じた。ホテルに朝食が付いていたので、パンなどを食べてから出掛ける。まずはとにかく可徳が120年前に開いたオフィスの場所を確認したいと思い、歩き出す。住所は3月のハバロフスクでお世話になったポボロツキーさんからもらっていたので、簡単に辿り着いた。

 

但しオフィスは2か所あったという。何故途中で引っ越したのだろうか。スヴェトランスカヤ街の緩やかな登り、そこに立つ古い建物。それが引っ越した後の事務所ではなかったかと思われる。今はカフェと革製品を売る店が1階に入っているが、ここの2階に事務所が置かれていたのでは。斜め向かいにはアルセーニエフ沿海地方州立博物館という立派な建物が角を占めている。ここはその昔、横浜正金銀行の支店が入っていたらしい。

 

そこから少し歩くと、アレウーツカヤ街に大型のショッピングモール、クローバーハウスがある。ここが元々の事務所があった場所らしいが、今やその面影はない。ただ道の向かいには日本の商店がいくつも入っていたという如何にも古い建物が保存されており、往時の雰囲気が少し味わえる。この2つの場所を確認し、写真を撮ったことでかなりホッとする。

 

そのまま北の方に歩いて行くと、日本時代に本願寺のあった場所まで行く。今は碑が建っているだけで寺院はない。その先にはなぜか仏像が置かれているところがあり、その横にはなんと与謝野晶子の歌が刻まれた碑がある。彼女は燃えるような思いを持って、ヨーロッパに旅だったようだ。更には素敵な教会もある。

 

そこから南下すると、いい感じの建物がどんどん出てきて、気分が乗る。最後の方には旧日本総領事館などの建物があり、この周辺が当時の中心だったことがよく分かる。日本人関連の商店などもこの付近に集中しており、ほんの少し行くと、先ほどの可徳のオフィスがあったところに出るから、可徳もこの辺を行き来しているのだろう。ただ彼はハバロフスクにも行き、日本にも帰っているから、どの程度この地にいたのかは疑問ではある。

 

今日はホテルを代わらなければならない。折角なので海の見えるホテル、に行ってみることにした。そこは地図で見ると近かったのだが、かなりのアップダウンがあり、また細い道を行くと木造の古い家があったりする。何とか通り抜けて、今度は海まで下り、ようやくたどり着く。

 

このホテル、何だか映画に出てきそうな海辺の大型ホテル。勿論廃墟ではないが、バルブ崩壊のような、かなり寂しい感じだ。国営ホテルの匂いもぷんぷんしており、とても満室とは思えないが、2時まではチェックインできないというので、荷物を預けて出掛ける。実は海の方からでなくても、上の階に出口があり、こちらの方がかなり近い。

 

また駅に行き、その先に泊まっている大型客船に見入る。駅と港がくっついており、実にコンパクトだ。その向こうには大きな広場があり、教会が見える。更に先には市立博物館がある。この場所に二葉亭四迷が住んでいたことがあるらしい。その横は、ニコライ二世の凱旋門だ。

 

海沿いに歩いて行くと、橋が架かっており、そこを越えた所には、なぜか嘉納治五郎の像もある。ロシア柔道発祥の地ということらしい。そこでエネルギー切れを起こし、スタンドでホットドックとコーヒーを買って食べる。かなり風がよい中でも、外で食べるのは気持ちがよい。

 

更に進んでいくと、東洋学院(現極東連邦大学)の赤いレンガの建物が見えてくる。これもかなり古く、入り口には何となく日本を思わせる石が置かれている。1899年に設立されたこの学校は日本研究なども行われており、日本とのゆかりは深い。その建物を抜けていくと、裏の道路の反対側にはプーシキン劇場がある。ここはバレーなどが今も上演されているようだが、戦前は松井須磨子が舞台に立ったこともあるらしい。

 

あまりに歩いてしまい、へとへとになって、宿まで戻った。部屋に入ると確かに海は見えたが、結構遠い。窓も汚い。このホテル、Wi-Fiはほぼ使えない。部屋数はかなり多いのだが、一体どれだけ泊っているのか。やはり一晩でおさらばしよう。夕方、夕日を見ようと海辺に行くも、フェンスで覆われて入れない。

 

仕方なく、ちょうどFBでTさんに教えてもらったピロシキ屋に向かう。駅のすぐ近くの小さな店で、テイクアウト専門。何と日本語メニューが登場したので驚く。おかずパンの定番、チキンレバー入りと煮キャベツ入りを注文、合わせて暖かい紅茶もテイクアウトして、駅が見える場所でゆっくり味わう。これは予想以上のうまさ。しかもとても安いので有難い。

 

帰り道を行くと、日がどんどん落ちて行くので、色々な角度から見てみた。海は風が強く、非常に荒れているので、空はきっくり見える。日が落ちてしまうと真っ暗になり、風の音だけが聞こえて本当に寂しい。如何にも北の海という感じだ。まあ一晩なら耐えられるかと、早めにシャワーを浴びて寝込む。

ウラジオストクを歩く2019(1)日本から一番近いヨーロッパへ

《ウラジオストクを歩く2019》  2019年9月17日-21日

2か月におよぶ東南アジアの旅。久しぶりにカバン一つでフラフラ歩き回り、自分もまだまだできるじゃん、と思ったのだけれど、やはり体へのダメージは相当なもので、おまけに家のごたごたに巻き込まれ、日本の行政システムの後進性をいやという程味わい、疲れ果てていた。

そんな中、3月のハバロフスクに続いて、今回はウラジオストク訪問が実現した。3月同様目的はただ一つ。可徳乾三の足跡を追うことだけだったが、今や『日本から最も近いヨーロッパ』を売りに、日本からの観光客も増えていると聞き、ちょっと興味を持って出掛けてみた。ビザは前回同様電子ビザで簡単に取得する。

 

9月17日(火)
ウラジオストクまで

前回のハバロフスク同様、成田から出る。今回はS7ではなく、アエロフロートの子会社、オーロラ航空で飛ぶ。オーロラと言えば、3月、突然ハルピンに飛ぶ飛行機となったが、特に悪い印象はなかった。チェックインカウンターに2時間40分前に着いたが、日本人は自動チェックインが出来ませんと言われて待つ。今回は預け荷物無し、10㎏以内に荷物を抑えたので、問題ないと思っており、機械で搭乗券を打ち出したのに。

 

結局ビザなどの要件を確認している。最初からちゃんと伝えていればよいのに。後に搭乗ゲートで何人もが呼び出されていたのはこのためだったのだ。中にはビザ要件不十分の外国人がおり、かなり揉めていた。そういえば、出国審査終了後の場所に、セブンイレブンがあったのは新鮮だ。ドリンク1個買うのに搭乗券を要求される。広い共有スペースでPCをいじることもできて快適な待合室。

 

機内はS7とほとんど変わらない雰囲気だったが、3月は日本人が5人しか乗っておらず、完全なアウエー状態だったのに、今回は日本語がかなり聞こえてきて、最後は後ろの女性が日本語で話しかけてきた。これはウラジオとハバロフスクの違いなのか、それとも季節の違いなのか。機内食もパサパサのサンドイッチ。隣の人がジュースとコーヒーをもらったので私も習った。

 

結局2時間もならないうちに、定刻前にウラジオに到着。空港の入国審査は早かった。係員の女性は『幼稚園のお迎えが間に合わない』のかと思うようなイライラした表情で、あっという間にスタンプを押した。預け荷物もないから、そのまますぐに外へ出た。だがやはりATMに銀行カードを差し込んでもルーブルは出なかった。

 

それでも両替所もあり、私の場合は既に手持ちのルーブルがあるので、問題なくシムカードを購入できた。シムカードを売っていた若い女性は英語も堪能で、かなり親切、しかも笑顔だった。この国際空港は当然ながら、ハバロフスクよりかなり環境がよい。

 

この空港には市内行の列車があると聞いているが、1日に5本しかなく、既に今日は終了していた。バスもあるが、ミニバスはいつ出るのか聞いても言葉は通じない。そのうちに乗客が沢山乗り込んできたが、その殆どが日本人で、地球の歩き方などを持っていて驚いた。初老の夫婦は『どこ行くかわかんないけど、何とかなるよね』などと会話している。やはりウラジオ観光はプチブームなのか。

 

結局午後6時にバスは出た。市内まで40㎞以上あり、渋滞もあったので1時間以上かかった。料金は200ルーブルで、大きな荷物は別途1つ100ルーブルらしい。ハバロフスクのトロリーバスが35ルーブルだったことを考えると市内へのアクセスは断然高い。終点はあのシベリア鉄道の起点、ウラジオストク駅だ。

 

未だ周囲は明るかった。取り敢えず今日泊まろうかと思っている宿を目指す。思っていたよりきつい坂を上り、何とかそこに辿り着く。特に予約はしておらず、部屋はあるかと聞くと、間髪を入れずに『1泊だけならね』と言われてしまい、ちょっとびっくり。まあまずは1泊してみることにした。部屋は広くはないが、整っていて、居心地はよさそうだ。

 

暗くなり始めたので、急いで外へ出て夕飯を探す。すぐ近くにスーパーがあり、まずはドリンクなどを買い込む。韓国人観光客などが沢山いた。続いて駅へ行き、中を少し見学。これがシベリア鉄道の出発駅かと思うほど小さい。駅の周辺も思ったほど食堂がなく、かなり歩き回る。

 

メインストリートでようやく大衆食堂を発見して、列に並び、好きな物を選ぶ。若者が横入りするし、会計のおばさんの態度は悪いしと、ハバロフスクに比べて、印象は良くなかった。それでもスープが飲めて、サラダが食べられたことはよかった。それから明日の夜泊まるところを何となく探してみたが、どうもしっくりこない。周辺には日本の居酒屋があり、おしゃれなバーもあったが、私には無用の長物だ。

マレーシア老舗茶荘探訪 その後2019(3)鬼門マラッカの老舗茶荘

9月4日(水)
久しぶりにマラッカへ

翌朝も昨晩のパンをかじっていた。今日は実質マレーシア最終日、いやこの2か月に及ぶ東南アジア旅の締めくくりの日と言ってもよい。目指すはあの鬼門、マラッカである。6年前、私がその前後も含めてただ一度だけ窃盗被害に遭った場所であり、そのショックはずっと引きずっていた。

 

マラッカ行きの高速バスに乗るにはKLセントラルから列車に乗り、TBSを目指さなければならない。ここに行くのは何と3本の列車が走っているようで、私は一番安いのを選んだ。乗っている間に、6年前も同じ道を辿ったことが蘇ってくる。列車を降りてもかなり歩かないとTBSには着かなかった。

 

このターミナルにはバス会社がいくつも入っているのだが、切符売り場は統一されており、一番早いバスの切符が買えるのがよい。ただ料金はバス会社により若干違う。それは車体によるのかもしれない。バスは頻繁に出ているので、すぐに乗り込み、すぐに出発する。料金も15リンギ以内だから安い。

 

バスはスイスイと走り、高速道路を経て約2時間で、マラッカ郊外のバスターミナルに着く。ここからバスに乗れば市内に行けるのは分かっている。何しろこのバスの車内でスリにあってしまったのだから忘れられない。だが乗り場が分からずまごまごしているうちにバスは行ってしまい、かなり長い時間待たされた。日本人女性の姿も何人かあり、皆バスを待っていた。マレーシアのバスは安いがタクシーは比較的高いのだ。

 

ようやくバスに乗り込むと2リンギだった。それから30分ほど乗って、市内中心部で降りた。ここは観光客が一番多い場所だ。ここから住所は分からないがチャイナタウンにあると思われる茶荘を探しに行く。真ん中付近から数本北に行くと、ほぼ外れかと思われる道が広い。そこに目指す高銘發を無事発見した。

 

入って声を掛けるとオーナーの高さんが親切に話をしてくれた。ここも1930年頃、シンガポールの支店としてできた店舗で、そのうちにオーナーがこちらに移住して、シンガポールの店はなくなり、今はこちらだけが残っていた。マラッカでは唯一の中国茶を扱う茶荘らしい。

 

マラッカは華人も多いので常連さんがおり、今も中国茶中心に小売している。店舗もかなり趣があり、レトロな雰囲気のマラッカにもマッチしている。だが後継者はいないので、いつまで続けられるかは分からない、と寂しそうに言われてしまい、こちらも寂しくなってきた。

 

これで今回探そうと思っていた老舗茶荘、全てに当たりがついた(すでに無くなっているものもほぼ確認できた)。これは意外とすごいことではないかと自分を褒めてしまった。一応の達成感があると、やはり腹が減る。チャイナタウンをフラフラと歩いているうちに、海南チキンライスを見つける。

 

マラッカの特徴はライスがボールになっていることだ。これは6年前にも味わっているので、特に目新しくはない。もうすることもないので、先ほど降りた場所でバスを待つがバスは一向にやってこない。花をつけたリキシャーに中国人観光客が乗り込んでいるのをずっと見ているだけだった。

 

40分以上待ってついにバスが来た。だがこのバスは循環ルートなので、街をぐるぐる回って、なかなかバスターミナルにはいかない。物凄く時間をロスした思いだ。KL行バスは15分も待てばさっと乗れるだけに、この差はあまりにもデカイ。帰りも目をつぶっているとTBSに着いてしまった。

 

また同じルートで帰ろうとしたが、なぜか私の交通カードはゲートに反応しない。いや私だけではなく、誰もゲートが通れない。何と停電だった。仕方なく、もう一つの路線に乗る。交通カードはチャージしていなかったので、現金で切符を買う。途中でモノレールに乗り換え、KLセントラルの一駅前で降りたが、ゲートが開かない。係員を呼んで聞くと、あと1リンギ払えと言う。

 

おかしいだろうと抗議すると、元々あなたはKLセントラルへ行くのだから、というからまたモノレールでKLセントラルまで行ってみてが、やはり出ることは出来なかった。今度は少し頭に来て係員に聞くと『別路線の切符を買っているから出られない』というではないか。地下鉄からモノレールに乗り換えると料金体系が別だと初めて知るが、それなら乗り換えの所でチェック掛けろよ、と言いたくなる。

 

最後の晩はそんな感じでちょっとイライラ。そろそろ日本モードかな。夕飯は焼きそばと肉団子スープにしたが、これが当たりで気分がよくなる。結局宿も最後まで同じ部屋で、窓がなく、ぐっすり眠れた。

 

9月5日(木)
2か月ぶりに日本へ

翌朝はついに日本に戻る日だった。朝はカヤトーストを食べて支度を整える。空港までのバスにも慣れており、エアアジアのチェックインももう問題はなかった。すっかりホームグランド化している。空港もきれいで居心地は良いので、ゆっくりとネットでもやりながら休む。

 

エアアジアは羽田行きなので便利だった。荷物を預けると一応セットで機内食も出てくる。それを食べるとあとはひたすら寝るだけ。ただ前回、確かフライトが遅れて、終電を逃して、深夜バスで辛うじて家に辿り着いたのを思い出す。今回はそれもなく、楽しいマレーシアの思い出のまま、家に帰り着いた。

マレーシア老舗茶荘探訪 その後2019(2)再びクランへ

9月3日(火)
再びクランへ

リベンジの日がやってきた。先日訪ねたクランだが、結局目的を果たせず、むなしく撤退した。だがその際に今日の約束を取り付けたので、もう一度出向く。しかも訪ねる場所は前回と同じ、自宅だ。場所の位置関係はもう分っているので、特に悩むこともなく、列車に乗り込む。

 

やはり1時間かかってクラン駅に到着し、少し待つと無料バスがやってきた。全く前回と同じ運びだ。だが降りるところが違う。前回はスマホ地図に間違った住所を入力してかなり歩く羽目になったので、今回は一番近いバス停で降りるため、地図を注視して、その場所を探った。残念ながら、前よりは近いとはいえ、歩いて2㎞ぐらいの場所にしか停まらなかった。まあやむを得ない。

 

そこからフラフラ歩いて見知った住宅地に入った。今回はパスポートの提示を求められなかった。そして門の前に着き、ベルを鳴らすと人が出てきた。有り難い。楊さん、楊瑞香の3代目だ。招き入れられ、お茶を振る舞われた。茶荘は20年以上前に畳んでしまい、現在は紅茶粉の工場が離れた場所に残っているという。

 

2代目のお父さんが出ていて話に加わる。楊瑞香は元々シンガポールで始まり、後にクランにも支店を出し、今はある意味ではどちらも無くなってしまったブランドだ。クランは福建系が多い街であり、楊家も安渓人であった。そんな話をしているとお父さんが『肉骨茶を食べに行こう』と誘ってくれる。肉骨茶はクランが発祥地、ここまで2度も来たら、やはり食べたいと思い、連れて行ってもらった。

 

車はクラン駅の近くまで戻って止まった。駅から歩いてすぐのところに創業80年の老舗肉骨茶屋があった。まだ11時台だというのにお父さんは急いでやってきた。『売り切れたら閉まる』からだという。店にはお客がパラパラ座っている。オーナーは忙しそうに働いている。やはり福建人だという。

 

突然こちらに向かって『どの肉食べる?』と聞いてくる。まさか肉の部位が指定できるのか。出てきた肉骨茶、スープが何とも濃厚で、素晴らしい。肉も厚みがあり、柔らかい。何だか肉骨茶を食べている感想ではない。だが、この店が始まった当初は、とてもこんな良い材料で、作られていたわけではあるまい。そこには華人の努力が詰まっているように思えた。

 

お父さんが、『是非連れて行きたいところがある』と言って、また自宅の方に戻っていく。実は自宅に上がった時、不思議な物を見た。日本の仏壇のようなもの。『僕は創価学会会員』と言われて、ビックリした。ここクランにも相当数の会員がおり、会館まで建てられているという。日本人の私のその活動を知って欲しいと会館にやってきた。

 

かなり大きな会館だった。これを会員の寄付で建てたというからすごい。今も月に1度、皆が集まるという。向かい側にはかなりの敷地を持つ池田平和公園まである。クランでこの規模だから、マレーシア全体では、相当の勢力になっているはずだ。日本の宗教法人、アジアでの勢いはすごい。

 

駅まで車で送ってもらった。次の列車まで30分ほどあったので、駅周辺を歩いてみた。まずは楊瑞香の店舗があったという場所へ。しかし今は完全にインド人商店街になっている。更に歩いて行くと古い教会が見える。駅の方へ戻るとヒンズー寺院もある。さすが港町クランだ、と思ったところで、列車が来た。

 

実はクランは昔の州都だが、現在セランゴール州州都は、シャーアラムだという。KLに向かうとすぐにこの駅があるので、ちょっと降りてみた。美しいスルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・モスク、通称ブルーモスクがあると聞き、是非見てみたいと思ったわけだ。

 

ところが駅を出た所で、スマホ地図を使おうとしたところ、何とも動かない。約1か月使って、遂に容量が無くなったらしい。駅前には何と店の一つもなかった。少し歩きだしては見たものの、方向も分らず、シムカードのトップアップが出来そうなところは全くない。これでは完全にお手上げだ。シャーアルム見学は次回として、次の列車でKLに帰った。

 

宿に戻る途中、シムカードの処理をした。10リンギで2GBとか言っていたけど、翌日使うとまたすぐに無くなってしまった。新しいものを探したほうが良かったのだが、何しろ後2日内だから我慢した。夕飯は疲れていたので簡単に済ませようと思い、目玉焼きの乗った焼きそばを食べる。

 

腹ごなしに駅のモールを歩くと、美味しそうなパン屋があった。デザート代わりに1つ買うことにしたが、美味しそうなのが2つあったので、それをトレーに乗せて会計に向かう。すると横の女性が『3つ買えばサービスがあるのよ』と教えてくれ、何となく3つ目を選んでしまう。割引があると期待したらなんと『あと2つ無料ですので、選んでください』と言われ、唖然とする。しかしここまで来たら仕方がないと、なんとパンを5つも抱えて宿に戻る。どうするんだ、これ。

マレーシア老舗茶荘探訪 その後2019(1)王室への道は遠い

《マレーシア老舗茶荘を訪ね歩く(2)2019》  2019年8月31日-9月5日

 

8月31日(土)
メダンから戻って

メダンから乗ったエアアジアはあっという間にKLに戻ってきた。正直インドネシアよりKLの方がホッとする。ホッとすると腹が減ってしまい、空港内の食堂に足が向く。カフェテリアには各種の食べ物がズラッと並んでいたが、私はすぐに海南チキンライスの店に前に立つ。わざわざここで食べなくても、とは思うのだが、食べたい物を食べたい時に食べるのが幸せ、ということだろう。

 

バスを探してKLセントラルまで戻る。今日は前回とは違う宿を予約していた。いつも満室で人気だったので、泊ってみることにしたのだ。このホテルはかなりきれいでその割には安い。私が予約した一番安い部屋は窓がない。だがこの窓がない部屋、というのが、よく眠れるので偶に泊まるとよいのだ。電球が切れていたが、すぐに直しに来てくれたのでサービスも良い。

 

まずは洗濯に取り掛かる。明日はどうしようかとその間に考える。だが皆さん明日は忙しいという。私は全く気が付かなかったのだが、何とマレーシアでは昨日(8月31日)は独立記念日、そして今日はイスラムの新年、それで明日は月曜日ながら振替休日になっていたのだ。3連休の真ん中に戻っていてしまった不幸。これも長旅では仕方がないこと。

 

取り敢えずゆっくり休む。夜は近所をウロウロして、中国系の店で定食を食べてみたが、味も美味しくなく、サービスも悪く、料金も安くないという悲劇に遭う。隣の海鮮の方が良いかと思ったが、一人で海鮮は面倒なので、この選択になった。やはり一人旅は食事には不向きかな。

 

9月2日(月)
KL散歩

窓のない部屋でゆっくり寝た。今日は本当にやることがないので、また無料バスに乗って当てのない旅に出た。レッドからブルーのバスに乗り換えて、市内中心部を通る。シャングリラホテルなど、90年代に泊まったホテルは何とも懐かしい。何となく肉骨茶が食べたくなり、その専門店を検索して降りる。

 

だがなぜか歩く方向を間違えてしまい、一向に辿り着けない。そのうち思いっきり腹が減ったので、やむなくモール地下のフードコートで焼きそばを食べて終わる。なんでそうなったのだろうか。それからまたフラフラ歩くと、KLツインタワーが見えてきた。ここは20年以上前にKLに来た頃完成したビルで、日本と韓国が半分ずつ請け負っていたと記憶している。前にあるきれいな公園から写真を撮ってみる。観光客がとても多い。

 

疲れてきたのでバスに乗り宿へ帰る。何だか体力が無くなってきている感じがする。さすがに2か月の長旅での消耗はかなりあり、疲れるのだ。それでも窓のない部屋に居ると昼間は寂しくなる。ちょっと検索すると宿の近くに王室博物館があるではないか。歩いて行けそうなので歩き出す。

 

ところが、川を渡ったあたりで地図がかなり怪しくなる。大きな道路があるのに、示す方向は、人が一人歩けるだけの細い道。突然山歩きかと思う。仕方なく歩いて行くと、何とか通り抜けて廟がある所に出た。しかしそこも博物館の裏側なので、ぐるっと回らなければ入れなかった。

 

一体どうしてこんな構造になっているのだろうか。それはこの広い道がほぼ自動車専用道であり、この博物館には原則車でないと来ないからだ(しかもバスも通っていない)と、正門の前に立ってようやくわかる。入場料を払って中に入るときれいな庭があり当然ながら敷地も相当に広い。

 

靴を脱いで室内に入ると、そこは王様が日常生活を送る場所。決して宝石などが並ぶのではなく、洗濯機があったり、歯医者の設備があったりする。こういう王族の日常が見られる博物館は珍しいのではないだろうか。ふつうは王様の偉業などについての展示が多いはずなのだが。更に行くと、別の建物で特別展として、王様の写真が飾られ、歴史が書かれ、玉座が置かれ、剣などが展示されているスペースがあった。こちらが普通の展示に見える。

 

帰りは無謀にも自動道を何とか渡って帰ろうとする。が、どこへ行っても徒歩では閉ざされてしまい、一般道に出られない。バスもない。仕方なくそのチャレンジを中止して、また山道?をトボトボ帰る。こんなところにさりげなく王様の権威が出ているのだろうか。貴重な体験だった。

 

夜は昨日閉まっていた(祝日だから?)中国系の屋台で食べてみた。ここの人は昨日と違ってとても親切で、テキパキしていた。チキンライスも美味しく感じられ、おまけに料金も安い。こういう店が普通にあると、私のような旅人には本当にありがたい。でもマレーシアの美食を味わおうとすれば、もう少し出掛けて行かなければならないのだ。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(7)メダン散策

8月31日(土)
メダン散策

今朝はもう行くところもないので、適当に歩いてみる。当然これまでは違う道を歩くのだが、何だか引き寄せられるものがある。ずるずると歩いて行くと、マーケットがあり、何だかヒンズー寺院が見えてきた。そしてその横にはゲートもあり、リトルインディア、という文字も見えている。ここにもリトルインディアがあるのか。しかしこれは最近政府が観光誘致か何かで作ったゲートらしい。

 

ちょうどMさんからメッセージがあり、インドネシアの華字新聞を探してほしいと言われたのだが、これまで新聞を売っているところを見かけた覚えがない。ところがここには英字紙が普通に売られており、何とその横には華字紙も並んでいるではないか。その意味は一体なんだろうか、と考えながら歩く。

 

まあ先日のペナン島のようなインド感はなく、リトルインディアは過ぎていく。折角なので大回りして帰ろうと迂回すると、かなり立派な邸宅が数軒見える。やはり華人が住んでいるようだ。高級住宅街はこの辺か。更に歩くと、お墓が見えてくる。華人のものもあるが、インドネシア系もここに埋葬されている。イスラムのお墓の習慣はよく分からない。

 

一昨日行った華人の食堂にもう一度行く。やはりここがうまいと思う。調理中の鍋の音がよい。炒飯を食べていると、おばさんが、『故郷福州の餃子』と言って、スープ餃子が登場する。これは常連のお客にしか出さないもので、冷凍してあったのを解凍したようだ。確かに福建の味がする。どのようにして故郷の味を守っているのだろうか。因みに息子はドライバーなので、次回は使ってやって、と言われる。そこは如何にも華人らしい。

 

午前中散策して午後は休む、これはもう日課となっている。その日課も今日でお終いだが、名残惜しいわけでもない。夕方また外へ出て、スーパーのお茶コーナーを当たるも、目新しいものはなかった。更には昨日も行った旧チャイナタウンへ出向き、見つけておいた1930年創業という老舗食堂へ踏み込んだ。

 

ここもウエートレスはインドネシア人などで華語は通じなかったが、おばあさんが理解してくれ、注文は出来た。鶏の細切り肉が乗った汁なし麺。これはあっさりとしていて、とてもいい味が出ているが、量はかなり多い。その分普通の麺より代金は2倍ぐらいしたが、一度食べる価値はある。豆腐の入ったスープもうまい。

 

メダンの街はスラバヤと比べて大きくはないが、何となく安心できる雰囲気がある。古い建物の壁には若者が書いたと思われるアニメなどがあり、かなり目を引く。インドネシアにはある意味で独特の文化もあるが、一方で日本のカルチャーがかなり取り入れられて、漢字の看板がなくても、ホッとできる部分なのかもしれない。

 

9月1日(日)
KLへ

今日はKLに戻る日になっていた。あのスラバヤの初日に買ったフライトにようやく乗る日がやってきたわけだ。僅か1週間のインドネシア滞在だったが、あまりに色々なことがあり、今や記憶のかなたとなっている。ただ今日は駅に泊まっているので、空港まで列車に乗れば着くという安心感は大きい。特に渋滞の多いインドネシアでは、このアドバンテージは絶大だ。

 

しかしこの空港鉄道、料金が高いわりにやはりなんとも使いにくい。機械だけを入れてしまい、乗客はついて行けていないため、係員がずっと横について、チケット購入を指導している。既に1年前に機械化され、『Manless』という見慣れない英語が掲げられているのだが、誰も信じてはいないだろう。それでも空港鉄道があるだけで有り難いと思わなければいけないだろうか。

 

1時間弱で空港に着いた。空港はかなり混んでおり、思ったよりチェックインに時間がかかる。マレーシア航空なら荷物を預けなくてよいサイズだが、LCCではそうもいかない。先日KL空港で、空港内ホテルに簡単に泊まれたのも、荷物を持っていたからであり、もし預けていたら、一度入国して荷物を取らなければならなかったかもしれない。

 

それでも空港に早く着き過ぎた(ちょうどよい時間の列車がなかった)ため、1時間前のKL行きフライトを見送ることになった。あれに乗れれば楽なのに、と思うが、空港に早めに着くのは鉄則なので、遅れるよりはずっと良い、と思うようにしている。今回のインドネシアの旅、まるで初めてきた国かのように混乱し、また稀有な体験もした。次はいつ来るだろうか。ルピアの現金が余っているから、早めに来ようか。いや、言語問題など、この国の壁は高く、解決しなければ成果は出ないことを肌で知る旅となった。

スラバヤ・メダン 突撃インドネシアの旅2019(6)チャイナタウンを探して

8月30日(金)
チャイナタウンを探して

翌朝もまずはスタバに行く。宿ではなぜか2人分の朝食券をくれるので、これでコーヒーとアイスティーを頼み、クロワッサンを2個ゲットできるので、ちょっと豪華な気分になる。これを部屋で食べてから、すぐに出掛ける。今日は昨日聞いたチャイナタウンの夜市を探しに行く。夜市だから夜行けばいいのだが、夜道を探す自信はないので、昼間に行く。

 

実は駅の横に大きな建物がある。そこは何とお寺だった。入って行こうとすると、数人が手を伸ばしてくる。ここに来る信心深い華人を当て込んだ物乞いだった。廟は真新しく、線香の煙がたなびく。マイノリティーである華人のプレゼンスの高まりにより、建てられたのかもしれない。

 

更に歩いて行くと、トイレに行きたくなり、繊維関係の店がたくさん入っているビルに紛れ込む。売り子はインドネシア人が殆どだが、オーナーに華人の顔が見られる。よくよく見ていると、漢字もチラホラみられる。華語を学ぶ学校の宣伝などもみられるのは、やはりニーズが出てきたからだろう。ドリンクスタンドでは抹茶飲料などが売られている。

 

2㎞以上歩くと、街から離れた感覚になる。するとその辺に漢字が増えてくる。個人の廟が出てきたり、最近できたと思われるお寺が出現したりする。恐らくは2000年以降、スハルトの呪縛が解かれた後に中国大陸辺りから進出してきた寺なのだろう。元々いる華人は嵐が過ぎ去ってもそのトラウマに苦しみ、簡単に看板を出したりしないように思われた。

 

ようやく夜市が開かれる場所まで到達する。勿論午前中なので、屋台は全て閉まっている。仕方なく、その横の食堂に入って、汁なし麺を頼んだ。この味は福建とあまり変わらない。飲み物として中国茶をオーダーしたが、ウエートレスにはそれが通じなかった。華語が話せない華人にも数人遭遇する。一方で、華語でカラオケを楽しむ老人たちも見た。華人も世代により分断されているという現実がここにある。この周辺、立派なマンションなども建っており、財力のある華人たちがいるのだろうと思わせる。

 

スラバヤで買ったシムカード、なぜかスマホの動きが鈍くなっている。もしここでスマホ地図が使えなくなると大変なので、急いで携帯ショップを探して、何とか補充を計る。その方法は分からなかったが、店に行くと若い店員が英語を普通に話し、3GBを4万ルピアで購入できた。どうやら地図を使い過ぎてしまったことが原因らしい。

 

宿に帰る時、さっきとは違う道を通ってみた。すると突然華人的雰囲気のある横道を見つけた。そこには古い観音廟があり、広福亭と書かれた同郷会館らしきものもあった。これぞ私が探していたものだったが、会館は閉まっており、情報を得ることは出来なかった。この付近がその昔、華人が多かった場所かもしれない。いや、今でもひっそりと住んでいるのだろう。

 

曇りだったとはいえ、往復6㎞以上を歩いたので、午後は完全に休息した。結局宿は臨時のつもりのステーションホテルに留まる。まあ住めば都、という感じだろうか。予約はネットがかなり安いのでそれで取ると、クレジットカード決済となり、手持ちのルピアを使機会はない。

 

夕方、また外をフラフラしている。既にほぼ今回の目的(取り敢えず雰囲気を味わう)は達成しており、一方それ以上の成果を得られる感触もないので、正直時間を持て余す。ただひたすら街を歩くのは深夜特急スタイルだろうか。すると、突然狭い横町に、華人食堂が並んでいるところに出た。

 

これまでこれほど纏まって中華食堂がある場所はなかった。こういうところをチャイナタウンと呼ぶのかもしれない。時刻は未だ5時前だったが、目に入った海南チキンライスの店に入る。ここの飯、チキンだけではなく、卵や豆腐なども付いており、かなり豪華な一品で満足だった。おばさんに聞いたら、客家だという。その昔からここで商売しているらしい。

 

この付近を歩いてみると、実は華人系の店ばかりだった。ここが昔からのチャイナタウン、午前中行ったのが、新興のチャイナタウンと言えるだろう。ここにもスラバヤ通という道があった。スラバヤに行く時、私もまず思い浮かべたのは、ユーミンの名曲、『スラバヤ通の妹へ』だった。だがあれはジャカルタにあるスラバヤ通が舞台で、スラバヤは関係ないと言われた。スラバヤにはスラバヤ通はないのだろう。インドネシアと日本の関係、これは簡単には理解できないほど複雑な過去がある。