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ちょっと北京散歩2019(1)天安門へ

《ちょっと北京散歩2019》  2019年10月20日-24日

昨年12月の香港及び北京、今年4月の香港そして武夷山でお世話になった香港のお茶屋さんのイベントに関して、またお声がかかった。ただ今回は何と12月に北京で行われるビックイベントの下見として、日本人Hさんのお供をするという、ちょっと変わった旅となる。久しぶりの天安門に北京飯店、何となく新鮮で不思議な体験だった。

 

10月20日(日)
北京へ

台北から北京に行く。初めての試みだ。航空会社はエアチャイナ。まずはバスで桃園空港に向かう。中華航空やエバ空港と同じ第2ターミナルから出発する。エアチャイナはエバ航空と同じスターアライアンスグループだが、ラウンジは中華航空の場所を使うらしい。搭乗ゲートが近いからという理由だったが、如何にも中国人のニーズに応えた対応だと思われた。

 

エアチャイナには何度も乗っており、機内はいつもと何ら変わらない。3時間ちょっとで北京に到着する。ところが空港の入国審査、外国人が殺到しており、審査場に入るのが制限されるほどだった。ようやく審査の列に並んだが、長蛇の列でいつ辿り着くのかも分からないほどだ。こんな北京空港、見たこともない。何かあったのだろうか。旅行シーズンということか。

 

列に並びながら、周囲をキョロキョロした。ほぼ同じ時間に香港からやってくるHさんを探してみたのだが、人が多くて見付からない。フライトもちゃんと着いているのか分からない。そんな時、Hさんの姿が目に入り、無事合流できた。そしてダラダラと1時間ほどかかって何とか入国する。ちょうど直前に北大の准教授が中国で拘束される事件もあり、少し緊張したが、何事もなく過ぎた。

 

出口には、迎えの運転手が待っていた。昨年12月と同じ人だった。Hさんは北京が約20年ぶりだと言い、何から何まで見たこともない風景だという。今日は日曜日ではあるが、三環路のホテルに着くまでには、かなりの渋滞があった。空気は以前に比べるとかなり良くなっており、気候も10月の秋の北京で気持ちがよい。

 

ホテルに着くと、香港から来た老板が我々を待っていてくれた。早速レストランの個室で、夕飯が始まる。蒸し魚、茹でエビ、北京ダック、そして極めつけは季節の上海ガニ。それも1杯、300gもある特大の蟹で、これまで食べた中で最大だったと思う。しかも一人3杯も用意されてあり、残念ながら2杯しか食べられなかった。何だか全てが超高級なメインデッシュだけで構成された夕食で、驚いてしまった。Hさんは麻婆豆腐が食べたいと言ったが、結局出てくることはなく、腹は完全に一杯となり、すぐに部屋に戻り休む。シャワーを浴びて寝ようとしたところ、バドミントンの男子シングルス決勝に桃田が出ており、それを見ながらそのまま眠りにつく。これは何とも幸せな夜だった。

 

10月21日(月)
北京散歩

朝は快晴だった。まさに北京秋天。朝ご飯をホテルで食べると外へ出てみた。気持ちがよい。近くのセブンイレブンに行くと、若いサラリーマン、OLが朝ご飯を買っていた。私以外は全員スマホ決済で、現金を出した私を見て、『どこの田舎から来たおじさんか?』といった顔をしているのがよく分かった。

 

午前中は、ちょっと打ち合わせがあり、今回北京に来た目的の一部を早々に果たした。私の役割は、こちらの秘書とHさんの通訳をすることになった。また同時に中国の習慣などをHさんに伝えることも必要となる。このホテルでは今晩、映画の新作発表会があるらしく、その準備が進んでいた。若い二人の主演俳優の写真や映画ポスターなどが展示されており、ファンなのか若者が盛んに写真を撮っていた。

 

昼ご飯は公寓のレストランで特別にスパゲッティーを食べた。こちらも12月にちょっとしたイベントをやる予定で、打ち合わせした。併せて2階のプライベートティールームにて、私の小セミナー開催も決まった。北京でお茶の話、一体何を話せばよいのだろうか。でも日本語でよいというのでかなり気は楽だ。でも誰が聞きに来るのだろうか。

 

午後はHさんの北京散策に付き合った。地下鉄に乗って天安門広場へ行く。地下鉄カードを忘れてきてしまい、一々切符を買うのがとても面倒だったが、いずれにしてもHさんの分は買わなければならなかったから、手間は一緒だ。昔は大混雑だった1号線、車両もきれいで心なしか空いている。

 

天安門東駅で降りると、警備は以前より厳しかった。広場へ向かう道もかなり制限されている。つい20日前に建国70周年の記念式典があったのだから、その名残だろうか。広場に行ってみても以前に比べて観光客が少ない。特に中国の地方から来た人、お上りさんがそれほど多いと感じられない。これだけ天気の良い10月、昔なら観光客で埋まっていたはずだが、何か制限でもあるのだろうか。天安門の下を潜り、門の上に登れるかと思って見てみると、切符売り場はきれいに無くなっていた。

 

ごく一部の人が横からひっそりと登っていくのが見える。どうやらここを登るには事前予約が必要らしい。更には故宮に入るにも、QRコードの読み込みなど、面倒な作業が必要らしい。しかも月曜日は休館日で閉鎖されており、結局入ることは出来なかった。本当に外国人にとっては、不便な国になったと言わざるを得ない。

ある日の台北日記2019その3(4)台湾映画を見る

10月19日(土)
台湾映画を見る

数日前に、盟友のBさんからメッセージが来た。『出演した映画をロータリークラブ社長が映画館を借り切って上演してくれる』というのだ。まさにBさんの人徳であり、Bさんの応援のために人が集まるのだという。『江湖無難事』、主役ではないが、今日のスクリーンでは間違いなく彼が主役だ。

 

ちょうど1週間前の連休中に、彼といつものように食事をした。場所は前回同様、ミャンマー人が経営する和食屋だった。ここのミャンマー人の足跡については、今回も聞くことは出来なかった。いつか聞いてみたい、なぜ東京へ行き、そして台北にやってきたのかと。彼とは異業ながら共通するところが多くて、話がしやすい。今後のお互いの方向性なども、軽い感じで話し合う。二人とも随分歳を取った。そしてフラフラしながらも、何だかかんだでご飯が食べられ、今日を生きている幸せがここにある。

 

実はほとんど映画を見ない私だが、こういうご縁の上でのお誘いであれば、偶には台湾の映画館に行ってみるのも悪くないと思い、出掛けてみることにした。その映画館は西門町にあるという。地下鉄駅から歩き出すと、土曜日の午後で若者を中心に人が多くて歩きにくい。10分ほど行くと、そこには映画館街が出現する。基本的に映画を見ない私にとっては、映画館が競うように並んでいる風景は、何とも新鮮な場所だ。古いビルも建っており、その処理に困っている様子も見て取れる。

 

ロータリークラブ主催のため、入り口付近で受付をしてチケットをもらう。先日ロータリークラブで数年ぶりに再会した林さんが仕切ってくれたので助かる。私以外の日本人は、俳優を目指す若者の男性と、雑誌の編集者で映画好きの女性だった。残りは皆台湾人で、Bさんの大応援団とその友人たち、といった雰囲気が漂う。

 

俳優志望の日本人は、北京で留学し、台湾でのチャンスを求めてきていた。息子が留学した学校にもそういう若者がいて、そのうちの数人をその後テレビドラマなどでみていたが、その世界は思うよりずっと厳しいようだ。編集者さんも上海から台北に移って来た人で、異常に台湾・中国・香港映画に詳しいオタク系。

 

館内は100席以上あったが、ほぼ満員の盛況。無料だからと言って、ここまで人が集まるとも思えず、本日のスポンサー及びBさんの人柄が思われる。映画はブラックコメディーと書かれており、内容的には、コメディー要素が強い構成になっていた。舞台は台湾と日本?Bさんは日本人やくざの親分役で結構出演時間が多かったが、最後は呆気なく??

 

普段映画をあまり見ない私にとって意外だったのは、この台湾映画、全編基本的に台湾語が使われており、字幕スーパーはあるものの、台湾人観客が笑っているところで、字幕を追い切れずに笑えない自分がいた。いや字幕で見ても国語では笑いのツボが分からない可能性もある。

 

やはり台湾語は台湾において重要だと痛感するものの、今から勉強するのは難しい。大学時代は授業に3回行っただけで投げてしまった(先日恥ずかしながらその恩師のお嬢さんと出会ったことは既に書いた)。30年前の台北駐在時にも、個人的な家庭教師をお願いしたが、残念ながら一向に上達せずに、いつの間にか、勉強しなくなっていた。どこが難しいのかはよく分からないが、なぜか生理的に?覚えられないのだ。

 

 

映画が終わって、周囲を少し歩いてみた。私が初めて台湾に来た35年前、確か最初の宿は西門町だったと思う。その頃も相当賑やかな場所だったが、その面影は徐々に見られなくなってきている。その時は若かった私も随分と歳をとり、昔を回顧する日々になっている。

 

映画がテーマの公園があり、古い建物の壁にはきれいなペインティングが施されていた。そして若者たちがスケートボードなどを楽しんでいる。日本のアニメ、ワンピースの専門店もあり、また様々なアニメ関連グッズの店があり、そこには若者が列をなしていた。このアニメに向けられるエネルギーが日本向けに良い方向を保ってくれることを期待したい。映画もそうだが、文化というのは、国境を越えていくので、今後更に有効な交流手段となるだろう。

ある日の台北日記2019その3(3)台湾世界遺産登録応援会と南投茶博

10月15日(火)
台湾世界遺産登録応援会

ご縁というのは繋がるものだ。13日に辛さんのお店に行った際、『明後日ロータリークラブの会合に、台湾世界遺産登録応援会のメンバーが10名程度参加されるので来ませんか?』とのお誘いを受けた。台湾世界遺産登録応援会は以前、『日本から台湾の世界遺産候補地を応援する会』という名前で聞いたことがあった。現在会の代表は、あの平野久美子さんだという。平野さんとは前から一度お会いしたと思っていたので、辛さんのお誘いに乗ってみることにしたのだ。

 

旭ロータリークラブでは、今年1月末に一度『台湾茶と日本』について、お話をしたことがあったので、馴染みがあったことも幸いした。会場はかなりの人々が集っており、盛況だった。台湾には世界遺産に成り得る観光地がいくつもあるが、それが登録されることはなく、現在に至っている。我々もそのような目線で観光地を見てみると、ちょっと面白いかも、と今回の話を聞いて思う。そこに茶関連は入ってくるのだろうか。

 

応援会のメンバーとして台湾南部を回って来られた平野さんとも初めて顔を合わせた。既にFBでお友達ではあったので、私の活動も多少見て頂いていたようで、初対面とは思われないお話なども出て嬉しかった。平野さんは20年近く前から台湾茶に関する著書もあり、現在は更に広がって台湾全体の歴史を丹念に調べて書いている。今回は1874年に起きた牡丹社事件について執筆され、ゆかりの地を巡ったという。

 

会のメンバーには、烏山頭ダムを造った八田与一氏(台湾では教科書にも載っている有名人)のお孫さんもおり、お話しする機会を得た。また数日前に茶業者から名前が出ていた徳光さん(前台湾加賀屋支配人)とも面識を得た。一度にこれだけのメンバーと会えたのはラッキーだったと言えよう。更にはロータリーメンバーの台湾人からも貴重な情報を得るなど、時にはこのような場に出る必要もあるな、と感じた。

 

10月17日(木)
南投茶博へ

今日は朝早起きして、高鐵に乗る。目的地は台中だ。午前9時前に高鐵台中駅で降りると、いつもの場所にトミーの車があった。彼も親族にけが人が出て、色々と大変であるらしいが、平日の日中だけなら時間があるというので、今回は中興新村で開催されている南投茶博を見学することにした。

 

40分ほど走ると中興新村に着く。ここはその昔台湾省議会が開かれていた街であり、20年前の議会停止以降は、どんどん寂れていく。今では古めかしい住宅が多く残っているが、住んでいる人は少ない。この古い家を改造してカフェでも始めれば人気が出るかもしれない、との話もあったが、役人の住宅だけにその権利関係と使用制限が邪魔をしているらしい。

 

駐車場所を探すのに苦労した。この南投茶博は何と11日間連続開催で、今日は後半に入った平日。まさかこんなにお客さんが来ているとは正直信じられなかった。だがそれは現実であり、車は相当遠くに停め、会場までかなりの距離を歩いていく。台北の茶博でも4日間なのに、なぜ11日間もあるのだろうか。そしてなぜこんなにお客が来るのだろうか。

 

会場に入ると驚いてしまった。茶荘のブースだけで200以上あるという。主催団体の鹿谷農会の林さんと出会ったが、忙しそうに動き回っていた。茶荘もテーマ別に分かれていくつもの会場に分散していた。そこを一つ一つ覗いて行くと、魚池や鹿谷の旧知の人々に出会い、旧交を温める。

 

国際茶席館などもあり、ペルシャやインド、そして日本の茶席もあった。日本茶席にはIさんがいたようだったが、挨拶せずに通り過ぎてしまった。日月潭紅茶専門の会場もあり、南投茶の特徴がよく出ていた。芝生の広場では千人茶会なども行われたようで、様々な茶イベントが続くのもすごい。

 

聞くところによると、連日お客が多く、茶葉の売れ行きも好調という店が多かった。特に入場料を取らない、というのが、来客数の増加、茶葉の購入に繋がっているという。また南投県の茶農家の出店が多く、宿泊など余計なコストがかからず、収支がよいとの話もあった。このあたりが、11日間も連続で茶博が開かれている主因だろうか。やはり儲けがなければ続かないはずだ。日本でこの規模の茶博が開ける可能性は殆どないだろう。さすが台湾の茶業界にはまだまだ力がある。

 

トミーの車で高鐵台中駅まで送ってもらう。まだちょっと早いので、台中駅まで行き、自強号で台北に帰ることにした。これだと2時間以上かかるが、料金は高鐵の半額で行けるのがよい。更には台鉄が好き、というのもある。台北駅に着くと、すぐに誠品書店に行き、『南投茶業誌』を探すが、中山店にあるというので、そこまで歩いて行き、確保した。これから少しずつ南投の歴史を学んでいこう。

ある日の台北日記2019その3(2)坪林と天母で

10月11日(金)
連休に坪林へ

実は私は極めて間の悪い時に台湾に来てしまっていた。双十節の祝日の認識はあったが、実質的に木曜日から日曜日まで休みだとは思っていなかったのだ。だから台湾の知り合いに声を掛けてもここ数日は忙しい、と言われ、色よい返事はなかった。一昨日会ったTさんも連休を持て余しているというので、今日は一緒に坪林に行ってみることにした。

 

昼の12時のバスに乗るため、新店駅で待ち合わせた。だがTさんは地下鉄に乗る人ではなく交通カードすら所持したことがないという。そしてタクシーで坪林へ行こうと、運転手に声を掛けたが、ひと声『1000元で行く奴いるかな?』と言われて、バスの方に向かうことになる。バスなら一人30元なのだから。

 

連休中ながら、昼のバスは満員にはならず、無事乗車できた。朝ならハイキングに行く年配者などが多いのだが、むしろ連休で家族と過ごしているのかもしれない。連休なので、道が混んでいるのかと思ったが、途中の宜蘭方面の高速以外はそれほどでもなく、1時間かからずに坪林に着く。

 

初めてのTさんを案内して、老街を歩く。連休とは思えぬ人の少なさ。坪林はやはり観光地ではなく、むしろ隠れ家的でよいともいえる。それから改装されてから初めて茶葉博物館へ入る。展示が充実したとの話もあり、期待して行ったのだが、予想と違って一般人向けの基礎的な展示が多くなりがっかり。包種茶の里なのに、その歴史はカットされており、代わりに一般的な世界の茶の歴史の展示がなされており、学ぶ者にとっては誠に物足りない。80元の入場料がむなしい。

 

いつもの祥泰茶荘に行くと、お父さんがお茶を淹れてくれた。長男の馮君は台北から戻ってくる途中らしく、バスに乗っているという。やはり連休なので車は確実に渋滞する。バスは早いということは我々も体験済みだった。ここで台湾花茶の歴史について基礎知識を得る。私の理解では初期の花茶は包種茶に花を燻製したものだったように思う。

 

Tさんと通りをフラフラした。今や坪林に来ても祥泰茶荘にしか行かなくなっており、街歩きなど久しぶりだ。茶荘の数はそれほど変わっていないように見えるが、茶荘の傍ら、レストランや土産物屋などを開いている店が多くなっているのが気になる。やはりお茶だけで食べていくには限界があるのだろうか。しかし連休なのに観光客の姿はまばらだ。最近できたという旅遊センター、新しくてきれいだが、どれだけ活用されているのだろう。

 

Tさんはバスで台北に帰って行き、私は祥泰茶荘に戻る。馮君が台北から戻って来て、ここから本格的なお茶の歴史談義が始まる。花茶については『台北の全祥茶荘に行けば分かるよ』と言われ、紹介してもらった。とにかく何も分からない時には、ひたすら人と話をすることだ。そうすれば自ずと道は開かれる。他のお客が来たのを潮に、バスで台北に戻った。

 

10月13日(日)
天母へ

連休最終日、実に久しぶりに天母に行く。実は多くの知り合いから『一度辛さんの新しい店を訪ねるとよい』とアドバイスされていたので、行ってみることにしたのだ。そこは宿泊先からバス一本でかなり近くまで行けるので、意外と便利な場所にあった。朝早めに出て、バス停近くで朝ごはんを食べる。さすが住宅街、朝ご飯を食べるところは沢山ある。

 

辛さんのお店、東京彩健茶荘は、住宅街にひっそりとした、実にデザイン性があるお店だった。茶荘や茶館という表現よりはサロンというのがふさわしいだろうか。ちょうどお店にはこのデザインをした台中在住日本人も家族で来ており、賑やかだった。子供たちにも心地よい空間なのだろう。

 

辛さんとは初対面ながら、色々と話が弾んだ。台南人だが日本生まれで、ずっと日本で暮らし、最近台北に移住してきたと言う経歴も面白い。お母様は有名な料理研究家。知り合いのTさんが初代を務めたロータリークラブの会長も引き受けている。非常に多彩で広い交友関係を持っている人だった。このお店も、良質な高山茶などを扱っているが、お茶の専門というより、サロンとして使われるのが好ましいと考えているようで、今後人が集う場所になっていくだろう。

 

お店に入ってきた女性を紹介された。何と大学時代、台湾語の授業を3回だけ受けた時の先生、王育徳氏(日本に亡命した台湾民主化運動家)のお嬢さんだと聞いて驚いた。先方も『父の学生さんですか』と言い、ご存命のお母さまに見せると言って、一緒に写真に収まってしまったが、とても王先生の学生と呼ばれる資格がないのが恥ずかしい。それでもこんな出会いがサラッと実現してしまう、まさにサロンだろう。

 

 

一度帰り、夕方また出掛ける。Tさんに広東料理をご馳走になる。さすが連休最後の日、お客で満員だった。最近は香港あたりか移住してくるシェフも増えたのか、台湾における広東料理の質が進化しているように感じられる。それは果たして香港にとって良いことなのかどうかは分からないが、食べる方としては有難い話だ。

ある日の台北日記2019その3(1)台北に戻って

《ある日の台北日記2019その3》  2019年10月8日-11月21日

今年3回目の台湾滞在。今回は花茶の歴史を調べてみたいと思っているが、どうなるだろうか。また懐かしい人々、会いたかった人々とも会うことが出来て、有意義ではあった。来年の方向性も考える時期に来ていた。

 

10月8日(火)
台北へ

今年何度台北に降り立ったことだろうか。台湾茶の歴史を本格的に訪ねて3年、初歩的な調べはある程度終わったかもしれない。ただ学べば学ぶほど疑問は出てくるし、資料は出て来ないし。益々『謎は深まるばかり』という決め台詞もすでに使い古してしまっている。さてどうするか。

 

桃園空港からいつものバスに乗りながら、そんなことを考える。今回は6月に台北を離れる際に鍵を持ったまま出てきたので、すぐにいつもの部屋に入ることができ、なんともスムーズな台北入りとなった。だがどうしても食べたいと思っていたいつも行く牛肉麺の店がまさかの休業中。なかなか世の中上手くは運ばない。台北も夜はちょっと涼しいので、鴨麺を食べて満足する。

 

10月9日(水)
旧知の人々と

今日は旧知のTさんと会うことになった。いつもは夜、彼の家の近くで食事をするのだが、今回はなぜか彼のオフィスのあるビルで待ち合わせ、昼ご飯を食べることになった。いつもと違うパターンは大歓迎だ。そして待ち合わせ場所にはいつも本屋に行く時に乗るバスで行けるので楽だった。

 

早く着いてしまったので本屋に立ち寄ろうとしたところで、メッセージが来たので急いで移動したが、よく見てみると『着いたら連絡してくれ』とのことで、何と30分も早く待ち合わせてしまった。そしてビルの地下の韓国料理屋で、なぜかビビンバを食べた。台湾で韓国料理、最近は流行りのようだが、30年前を思い返すと、焼き肉屋も殆どなかった。韓国に対する台湾人の感情変化と言ってよいのだろうか。世代は確実に変わっている。

 

その後、コーヒーを飲むところもないというので、かき氷などのスイーツを食べる店に移動した。Tさんはかき氷を食べていたが、私はさすがに冷たい物を食べる雰囲気ではなかったので、メニューに唯一あった汁粉のような物を食べた。この汁粉1つが、私が食べる牛肉麺より高い、というのが、今のおしゃれな台北だろうか。

 

帰りに本屋に立ち寄ると、やはり何かしら買いたくなるものだ。1冊持ってレジに行くと、いつものように会員カードはあるかと聞かれたので、『ないけど作りたい。外国人も作れるのか』と聞いてみた。すると店員は『日本パスポートは何年かで番号が変わるでしょう。番号が変わらない身分証はないのか』と聞いてくるので、驚いた。

 

そこまで日本の事情に詳しいなら、日本人には身分証がないことも知っているだろう、というと、黙ってカードを作ってくれた。あれは何だったのだろうか。そして海外では面倒が多いので、日本も統一身分証を早く作って欲しい。パスポート番号を変更しないというのでもよい。

 

一度部屋に戻り、勉強を始めた所で、Rさんから『今晩空いている?』との連絡をもらう。彼とは茶の歴史について色々と話したいこともあったので、指定されたレストランに向かった。何とそこは、昨日空港から乗ったバスの中から見たレストランで懐かしいな、と思ったところだったので驚いた。

 

モンゴル焼肉、行ったことはあったが、その内容は全く覚えていなかった。席に着くと、テーブルでは鍋が暖められ、既にRさんの息子が何か食べていたので、私もそれを取りに行った。生の野菜と肉を取って戻ってくれると、『それは向こうで焼いてもらうの』というではないか。よく見ると一番端に大きな石焼用の機材があり、コックが二人で焼いていた。調味料をどの程度入れるかが、美味しく食べられるかどうかのポイントらしい。

 

それから鍋に羊肉など入れて食べた。焼餅も出てくる。ここは基本的に食べ放題らしいが、代金を支払ってもらったので、その仕組みはよく分からなかった。それから地下鉄でRさんの家に移動して、お茶を飲みながら雑談した。そこではお茶の話から客家のことまで、様々な話題が飛び交い、気が付くと日付が変わりそうな時間になっている。そこからトボトボ部屋まで歩いて帰る時、何となく充実感を味わえるのが嬉しい。

広島・岡山・大阪ぶらぶら散歩2019(3)美作番茶、そして大阪へ

9月26日(木)
美作番茶から大阪まで

朝はさわやかに目覚めた。ここ二日間、かなり歩いたので筋肉痛はあったが、疲れがちょうどよく、眠りの質が改善された。日頃如何に歩いていないかが分かる。今日は美作というところへ行く。岡山駅に到着するとすぐに『この駅(目的地)、スイカ使えますか?』と駅員に確認すると『使える訳ないでしょ』と軽くあしらわれた。まあ想定の範囲内だが、そういう場所へ行くのだ。

 

朝8時過ぎに岡山から電車に乗った。JR津山線で津山まで約90分、車窓からの眺めが秋の雰囲気だ。津山駅には一両電車が待っており、20分で林野という駅に着く。途中は田んぼや畑が多く、林も見られた。一両電車はワンマン車で、運転手の横に料金箱がある。確かにスイカなど使えないわけだ。同じ岡山県内だが、2時間10分以上かかった。

 

駅にはKさんが迎えに来てくれていた。この地で美作番茶を作っている若者だ。昨年のティーフェスティバルで、誰かの紹介があり、お茶を少し買った。それを台湾茶業界の重鎮に上げたところ、面白いね、と言われたので、一度産地を訪ねたいと考えていた。ちょうどそこに知り合いのWさんが訪問するというので、橋渡しを頼み、今日が実現した。

 

美作と言えばまず思い浮かぶのは剣豪宮本武蔵だろう。武蔵も飲んだお茶、との広告も見られたが、果たしてそんなに古くからお茶作りがあったのか、それはちょっと疑問だった。そんなことを考えているうちに車で、番茶作りの工場に案内された。何となく茶葉を摘む時期(夏)、大きな茹で釜などの設備、製法などは四国の阿波晩茶などを想起させる。ただ茶葉を煮出した汁を茶葉に掛けるところが、決定的な違いかもしれない。色味がよくなるという。

 

次に店舗に連れて行ってもらい、そこで古い製茶道具や写真などを見せてもらう。勿論この地域でも番茶以外に煎茶などを作っており、戦後は活発な時期もあったという。また写真には昨日訪れた後楽園の茶園が写っており、何とここ美作の人々が茶作りをしていることも分った。古い茶箱にその歴史が感じられる。番茶を飲ませてもらうと、やはりすっきりしていて飲み易い。

 

お昼も過ぎてしまい、次の電車までは時間があるので、ランチを食べに行く。近くに湯郷温泉がある。湯郷と言えば、女子サッカーの湯郷ベルがあるところだ。あの日本代表キャプテン宮間が所属しており、覚えている。温泉もあるなら、ちょっとした観光地とセットでお茶も売り出せそうな感じはする。

 

温泉街に焙じ番茶ソフトクリームやドリンクを出す店があり、繁盛しているとのことで、2号店は何と倉敷にあるそうだ。その後食堂に入りご飯。このあたりの名物、ホルモンうどんは自分で炒める。意外に大きな内臓系が入っており、私は好きなタイプだった。若いKさん、お茶の話しをしていても将来が楽しみだ。

 

また林野駅まで送ってもらい、窓口で大阪までの切符を買う。一番早く行く方法は意外と乗り換えが多かったが、言われたとおりにした。JRで佐用まで行き、そこで智頭急行に乗り換える。それから上郡まで行き、また少し離れたJR駅に戻って、下校の高校生と一緒に相生まで行く。そこで新快速に乗れば大阪まで一本だった。

 

相生で座ることができ、後は寝ているだけと安どしていたら、何と事故で姫路から先に行けないという。姫路駅で聞くと振替輸送があると言い、ちょうど姫路城がみえるところから、また別の電車に乗る。しかし振替は三宮までらしく、またJRに戻り、ようやく大阪に着いた時は疲れ果てていた。更に地下鉄で心斎橋まで行く。

 

大阪のホテルは高い、と思い込んでいたが、今回検索すると5000円ぐらいで普通のホテルが取れるようになっていた。心斎橋を歩くとそんなホテルが沢山出来ていることに気が付く。予約したホテルもロビーは豪華な感じだが、中国人観光客に占拠されていた。ただ部屋の装備はアジア仕様であり、欲しい物は皆あったのでこれで十分。

 

ワールドカップラグビーを見るために、すぐに夕飯を済ませに外へ出た。歩いて2分のところに、トンテキがあり、1000円で美味しく食べられてよかった。ラグビーはイングランドが圧勝した。

 

9月27日(金)
大阪で

今日は1年ぶりに梅田でお話しした。午前午後と2講座あったが、また沢山の人に来て頂き感謝だ。ただその中にあれ、と思う二人がいた。東京でお茶イベントを主催するMさんと、大阪で茶文化を教えているOさんだった。この二人とは3月に四川旅行に一緒に行き、楽しく過ごしていた。

 

講座終了後、主催者のMさんが突然サプライズで二人の婚約を祝い、花束を渡した。実は薄々そうではないか、とは思っていたが、まさかここで二人に会うとは思っていなかったので驚いた。これもまさに茶のご縁だろう。その後、場所を移して食事会があったが、そこでも話題の中心はMさんだった。私はひっそりと新幹線で東京へ戻った。

広島・岡山・大阪ぶらぶら散歩2019(2)鞆の浦から後楽園へ

9月25日(水)
鞆の浦から岡山へ

日本の地方都市に泊まって一番驚くことの一つが、ネット接続。このホテルもサービスは悪くないが、Wi-Fiは基本的に使えない。わざわざルーターを持ってきてもらって繋ぐのだから、アジアから来た観光客もびっくり。朝ご飯はホテルに付いていたので頂く。それはとてもいいご飯だった。

 

今日は鞆の浦に行ってみる。尾道からなら近いと思ったのだが、フェリーは週末しか出ておらず、直通のバスもないとはこれまた驚いた。まずは福山までJRで20分乗り、駅前からバスに乗って行く。荷物が邪魔なのでコインロッカーに預けようとしたが、100円玉両替機が故障。500円玉は入らない。隣のコーヒーチェーンでも断られ、駅の改札まで行く羽目になる。おかげでバスを一本乗り損ねた。それでも20分後にバスが来る。

 

バスで30分、鞆の浦に着く。海風が吹き、さすが汐待の港、何だかいい所に来てしまった、と感じる。海を見ていると、如何にも異国船という形の遊覧船が出航して、観光客を乗せている。坂本龍馬も登場する、あの紀州藩から莫大な補償金を取った、いろは丸事件にちなんだ船だそうだ。

 

すぐ近くに対潮楼があるので、上って見に行く。福禅寺内に江戸時代に建てられたもので、朝鮮通信使の宿としてもつかわれたとある。建物前面からは瀬戸内が一望でき、絶景スポットして名高い。室内にはなぜか上野彦馬が撮影した幕末の志士たちの写真もある。この鞆の浦、往時の位置づけが少し読み取れる。

 

そこから街歩きに入る。古い商家の家並みがかなり残っている。港にはシンボルとなっている常夜灯がある。この辺はかなり風が強い。そこから丘を登っていく。鞆城跡と書かれており、石垣がある。ここからは鞆の浦がよく見える絶景スポットだった。天気が良く、幼稚園児が散歩に来ていた。

 

その上に歴史民俗資料館があったので入ってみた。ところが展示品の写真撮影禁止と聞いて『えー、それじゃあ』と言ったら、係員の女性は『それでは』と言ってさっさと引っ込んでしまった。まるで資料館を見せる気もないお役所仕事、これには呆れて、本当に見ないで立ち去る。

 

太田家住宅、と書かれた古い家もある。ここは幕末に都を追われた公家が長州に落ち延びる途中に立ち寄ったらしい。いわゆる七卿落ち。汐待するのは商船ばかりではない。また別の丘を登る。平賀源内生祠というもあった。長崎帰りの源内がここに立ち寄り、源内焼を伝えたとある。

 

医王寺まで登ると、これまたいい景色が拝める。天気が良いのでついフラフラしてしまう。いくつもの寺があったが、その中には何となく中華風の門や窓なども見える。異国の影響を受けることもあっただろうか。山中鹿之助の首塚などもあり、歴史感は満載だ。半日ゆっくりと見て回り、またバスで福山に戻った。

 

電車で岡山へ向かうが、まだ時間的には早い。ちょうど駅の横にある福山城が見えたので、そこだけ見てから行くことにした。まずは城の横を通り、歴史博物館へ。取り敢えず広島の歴史を一通り勉強したが、特に1階にあった資料コーナーで座りながら、冊子を眺めて時間を過ごす。

 

それから城へ上る。建物自体は、第2次大戦の空襲でほぼ焼失してしまっており、現在は再建された天守閣が見られる。何ともきれいな作りのお城だ。だがなぜかここでカメラのキャパが一杯となってしまい、写真は撮れなくなる。それを潮に、駅に戻り、電車に乗る。

 

岡山行きは沢山あると思っていたが、昼下がりは1時間に一本しかなく、慌ててロッカーから荷物を出して、まさにダッシュでホームに駆け上がり、出発寸前の電車に乗り込んだ。そこからおよそ1時間で、岡山駅に到着した。駅近くのホテルを予約していたが、なぜか迷ってしまい、イオンの中をぐるぐる。何とか着いたホテルはサービスがとても良い、感じの良い場所だった。

 

まだ日も高いので、取り敢えず岡山後楽園に行くことにした。恐らくは30年ぶりだが、何も覚えていない。駅前まで戻り、路面電車に乗る。タイ人が何人も乗ってくる。電車を降りると地下道を通るのだが、そこがとてもきれい。上ってかなり歩くとようやく後楽園の入口へ。

 

後楽園は天気が良かったせいか、思っていたよりきれい。その広大な敷地に配置された池など、その風景は美しかった。更にはかなりの茶園があったのには驚いた。なぜここに茶樹が植えられているのだろうか。昔はお殿様が飲むためとあったが、誰が茶を摘んで、製茶するのだろうか。

 

1時間以上歩き回り、一度外へ出て、今度は岡山城へ向かう。お殿様の時代は、城から船で来たらしいが、今は立派な橋が架かっており、夕方の風景はきれいだ。城にも入ってみる。宇喜多家の歴史、今やアニメにも描かれているようだ。日本は城ブームでもあり、若い女性も見に来ている。

 

路面電車の中で『野村のかつ丼』の宣伝が流れていたので、行ってみた。ちょっと高級感のある入り口だが、中では食券を買う。デミグラスソースと玉子とじかつ丼のセットを注文した。1000円と庶民的。ホテルまで帰る道すがらも、何となく風情があり、久しぶりの岡山を瞬間的に満喫。