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ある日の台北日記2019その3(9)新書発表会へ

11月3日(日)
新書発表会へ

ブランチに、近所にできたきれいなレストランに初めて行く。チェーン店だからとフラッと入り、何気なくサンドイッチセットを頼んだら、何と飲み物は別料金で、いつも食べているサンドイッチ+紅茶の倍の料金を取られた。正直そこまでの価値は見出せないので、もう行かないと思うが、地価の高い台北ではコストを考えた料金設定で、物価を押し上げている。

 

先日映画のお誘いのあったBさんから、今度はトークショーの案内があった。何気なく見ると、その対談相手は一青妙さんだったので、出掛けてみることにした。妙さんは、元々歯医者さんだというが、現在は作家、女優もこなし、更には交流活動のため、頻繁に日台を往復して活躍している。妹は歌手の一青窈さんであり、お父さんは台湾五大財閥の一つ、基隆の顔家出身という、何かと話題の多い人だ。

 

会場は、ニニ八国家紀念館。実は台北には2つのニニ八紀念館があるが、平和公園内にあるのは台北ニニ八紀念館で、例の王添灯関連の人々のサポートもあって作られている。今日行くのは国家の方だ。ここにも以前一度来ており、1931年に建てられた立派な建物だな、と感心した覚えがある。

 

今日のイベントは、一青妙さんの新刊書発表会だった。これまでも多くの作品を送り出しているが、今回はエッセイ集らしい。その対談相手に日本人のBさんが選ばれるというのも何とも不思議な気がするが。入り口を入り、階段を2階に上がる。時間的に早かったので、まずはニニ八関連の展示で、確認したいところを見て回ることにした。

 

それが終わって1階に戻り、受付をしていると、横を妙さんが通りかかったので、思わず声を掛けた。実は初対面だったが、既にFBでお友達になっており、埔里時代に東邦紅茶の件で、お尋ねしていたりしたので、何だか初めてという気はしない。彼女もそのことを覚えてくれており、『おばあさまは元気でしょうか?』などと、気さくに話をしてくれた。

 

おばあさまとは東邦紅茶の創業者、郭氏の奥様で101歳。実は妙さんのお婆様はこの郭さんの妹さんだから、相当にご縁は深い。おばあさまは一時入院していたが、今は元気に埔里で暮らしている。更にはBさんの所に行きましょう、と言って、控室に案内してくれた。妙さん、Bさんと3人、何となく繋がりがあり、面白い。

 

会場の方へ行くと、既に聴衆が集まってきているが、その中には日本人も混ざっていた。旧知Tさんを見つけて横に座る。出版社の社長や紀念館の館長の挨拶があったが、何だか日本人との結婚が話題の林志玲のお父さんもいたようで、『結婚おめでとう』などと言っている人がいる。式は台南で2週間後らしい。

 

妙さんが中国語で話し始めた。彼女は11歳まで台湾で過ごした経験があり、当然ながら中国語は流ちょうだ。話慣れているという部分と、何となく日本人に分りやすい言葉遣いなのがとても聞きやすい。この辺がハーフの強みであろうか。だがニニ八事件で顔家にも相当な被害があったことなどを話し出すと、思わず涙ぐんでしまい、台湾に、そして一族に対するその思いの強さも見られた。

 

いよいよBさんとの対談が始まった。二人とも控室では普通に日本語を話していたのに、ここでは中国語を使っている。Bさんなどは、一緒に留学した上海や北京の言葉を面白おかしく使い、笑いまで取っている。そして話題は日本から見た台湾。まあそれがエッセイにも散りばめられているから、新書の宣伝的要素もあっただろうが、なるほどと思う内容もかなり含まれており、楽しく聞いた。

 

対談後は記念写真、新書の販売と続いていく。やはり台湾の人々にとって、日本は特別なのかな、と思う。そして常に日本を知りたいと思っており、妙さんのような感性で書かれたものを中国語で読めるというのは貴重なのではないだろうか。妙さんを囲む人の列は絶えず、挨拶もしないままに会場から失礼してしまう。

 

Tさんと地下鉄駅に向かって歩き出す。来た時は違う駅を目指すことになったが、この辺りには歴史的な建物が沢山あるようで、楽しい。そしていつの間にか台北市植物園に迷い込む。こんな都会に、木々が生い茂る。日本時代に作られた植物園で、その当時の建物も残っており、市民が楽しそうに散策している。台北市内でも行ったことがない場所がまだまだたくさんあると知る。

ある日の台北日記2019その3(8)新竹関西、そして総統府へ

11月1日(金)
新竹関西へ

昨日に続いて遠出した。今日は羅さんの車で、彼の故郷、新竹関西へ行く。午前10時に羅さんの家の近くまで待ち合わせ、出発。途中で早めの昼ご飯を頂く。やはり客家料理だ。内臓系がたっぷりで本当にうまい。当然ながら客家の羅さんとは、『客家とは』という命題で話し続ける。

 

関西の羅家は、茶業で財を成した一族。そして新竹には義民廟という客家の廟があり、毎年祭りが開かれるという。新竹各地15の代表が持ち回りで幹事を務めるが、関西の代表は羅家であり、羅さんのお父さんが10年前に祭りを取り仕切り、その時羅さんも手伝いで参加、この祭りに強い関心を持ったらしい。お父さんは高齢であり、5年後の仕切りは彼の仕事だ、と今から頭にあるという程、重要な行事だった。

 

初めて羅さんの実家に行った。関西の街から少し離れた、何とも言えないいい感じの田舎だった。そこに大きな家があり、お父さんの兄弟がワンフロアーごとに使っているらしい。お墓もすぐ近くにあり、最近改修して、新しくなっていた。客家の先祖に対する意識は他より強いと感じる。そして伝統を重んじる姿勢、行事を守っていく意識は高い。

 

先に横山の許さんを訪ねる。許さんと羅さんは仲良しなので連れて行ってもらう。この大きな工場に来るのは何回目だろうか。大体はいつもお客さんが沢山いて、ゆっくり話を聞く時間などないのだが、今日は三人だけだから、工場の外で風に吹かれながら、和紅茶を頂く。最近許さんは日本との交流を一層進めており、今年2月には台湾人茶業者を大勢連れて静岡に研修に行っている。

 

花茶のことを聞くと、ここの庭にも樹蘭の木があるよ、とそれを指す。意外と背の高い木だった。基本的に花茶を作る意味は、烏龍茶としては物足りない品質の物を売り物にするために施す、ともいう。それは恐らく正しいだろう。特に輸出用においては質よりも量だった時代が長く、安い茶に付加価値を付ける必要はあったと推察できる。

 

 

台湾紅茶へ向かう。今日の目的は羅さんのおじさん(台湾紅茶社長)に会うためだった。以前も2度ほど話を聞いているが、その後体調を崩されたとのことで、その回復をお待ちしていたところ、今回の面談に繋がった。確かに羅社長は以前より痩せていたが、元気そうで何よりだった。

 

今回の質問は紅茶や緑茶ではなく、林馥泉や林復について、その思い出を聞くことだった。広い展示室には沢山の写真が飾られていたが、何気なく見たその一枚に、羅社長と林馥泉氏が一緒に写っていたのには驚いた。しかも日本考察団の写真であり、煎茶製造を模索している頃のものだった。歴史がそこにあった。

 

更には台湾に釜炒り緑茶を持ち込んだ唐季珊の写真も目を引いた。何故この写真を大きく飾っているのかと聞くと『彼が光復後の台湾茶業の貢献者だから』と明快に答えられた。今や殆どの人が知らないこれらの人物が、光復後の台湾茶業を復興させ、支えていったことがよく分かる。

 

客家についてもいくつか質問したが、例えば『客家の伝統文化である擂茶』という表現は正しいか、という質問には、即座に『擂茶は伝統文化ではなく、後から取り入れたもの』ときっぱり。客家に対しては、色々と誤解も多いようだが、現代台湾では政治なども絡んでおり、解明するにはなかなか難しい課題のようだ。

 

11月2日(土)
総統府見学

一度行ってみたいと思っていた総統府の公開日。月に一度土曜日と確認して出掛けてみた。混んでいるのではとの不安から、早朝に行くことにした。午前8時開門、地下鉄に乗り、8時10分前に現地に到着した。既に10人以上が並んではいたが、それほどの混雑もなく、いつでも入れそうな感じだった。

 

8時に開門されると、荷物検査などはあったが、入場料無料。正面に行き、写真を撮り中へ入る。今年100周年とは思えない、きれいな内装。殆どの部屋が開放されているのではないかと思われるほど、執務室やら会議室など、どんどん入って行けるのが面白い。更には2階、3階まで登ることもでき、歴代総統や総統府、台湾の歴史なども勉強することができる。

 

廊下の窓から、あの特徴的な塔の部分を見ることもできる。中庭を歩くこともでき、そこには大きな木が植わっている。この木はいつからあるのだろうか。郵便局があり、土産物ショップまである。1階廊下では農産物の即売まで行われているから、台湾産の食べ物のアピールはここでも行われている。

 

1時間ちょっと見学してもまだ午前中だったので、併せて台北賓館の見学に向かう。ここは元々総督官邸、また迎賓館として昭和天皇(皇太子時代)も滞在したという場所。総統府からは歩いて10分もかからない。こちらも総統府と日時を合わせて一般公開しているので、中に入ることができるが、荷物検査などはなく、人も少ない。

 

建物はやはり100年ほどの古さがあるが、展示物は総統府に比べると少なく、見るべきものはあまりない。気にかかったのは、ここが出来るまでの官邸などの変遷が写真で展示されていたことだろうか。裏には思ったより大きな庭があり、ちょっと日本的なところも見られた。建物からして、住居としての使い勝手は良くなく、総督は別邸に住んでいたらしい。昔偶に行った蛋餅屋で朝ごはんを食べて帰る。

ある日の台北日記2019その3(7)三峡の花茶

10月30日(水)
カレー屋へ

今日はいつも会うSさんとカレー屋に行くことになった。私は全く知らなかったが、比較的宿泊先に近く、歩いていくことが出来る場所に人気のカレー店がオープンしていた。12時開店で予約はできないとのことで、少し早めに行ってみたが、既に店の外に行列が出来ており、その中にSさんも混ざっていた。まさかカレー屋がこんなに混んでいるとは思いもよらない。

 

何とか店に入ると、中は至ってシンプルな作りで、カウンター席が8つしかない。だから並ぶわけだ。そして多くの人がテイクアウトしていく。テイクアウトの場合は、料金はちょっと安い。合理的な経営方法だ。我々は豚と鶏のカレールーを半々でオーダーした。味噌汁と漬物が付いてくる。

 

お味は何とも濃厚でかなりうまい。聞けば日本のカレーが好きになり、自分たちで研究して作り出したというのだ。カウンターと店の人との距離が近く、何ともアットホームな雰囲気で面白い。ルーをちょっとだけお替りで乗せてくれるのもよい。セットメニューが230元、というのは、案外安いのかもしれない。また来よう、今度はテイクアウトで。

 

それから近くのカフェに入って話し込む。いつものパターンだ。このカフェの女性店主は日本語が少しできるようだった。コーヒー以外にも烏龍茶や紅茶なども用意されており、ちょっと面白そうだ。最低消費150元とあったが、腹一杯だと告げると、100元のアメリカンで勘弁してくれた。こちらもまた機会があれば来よう。

 

それにしても近所に色々な店があることに気づかされて驚く。一人で簡単に食べるとなると、どうしても決まったいくつかの店しか行かなくなるのが難点だ。やはり偶には人と会って、見識を広げる必要もある。因みに帰りに歩いていると、何とやはり近所に名古屋のコメダ珈琲まで出来ていた。目玉のモーニングもあるようなので、今度朝行ってみることにする。

 

10月31日(木)
三峡へ

何だか小雨が降っている。前回三峡を訪ねた時もそうだったと記憶している。何か行いが悪いのだろうか、それとも三峡は鬼門?取り敢えず地下鉄で新店駅まで向かう。そこで前回同様黄さんの車に乗せてもらい、軽い山越えをして、三峡に入る。本当に車で20分ぐらいの距離にあり、その近さが実感できる。100年以上前、この山道を農民が茶葉を担いで行く風景が何となく見える。

 

前回台湾緑茶の歴史を知るために訪れた場所にまた車を停める。だが今回訪ねたのは隣の家だった。同姓であり、親戚なのだろうが、花茶の歴史を知っているということで、今回は道路に面して店を構えている黄さんと会った。日本統治時代にはこの付近にも日本人が多く来ており、彼らとの交流もあったと語る。

 

光復後、三峡は外省人向けの緑茶、三峡龍井茶を生産していたが、その過程で、夏茶に花をつけたことはあるという。花茶というのは、下級の夏茶に付加価値を付けるために作られた、と考えられる。だが以前は花茶の製造法自体を知らなかったので、緑茶を原料として台北に送るだけだったらしい。1980年代、茶農家が直接茶葉販売をできるようになった際、製法を学んで自分たちでも作ったということだろうか。だがその期間は長くなかった。恐らくは中国などから大量に安価な花茶が流入したからだろう。

 

そして現在、夏茶で作るのは、価格が高い蜜香紅茶や東方美人になっている。そして最近高値で売れる桂花茶も作り出してはいるが、桂花を摘むのに手間がかかり過ぎ、また摘み手の高齢化などもあり、コスト面から言っても、決して安い花茶は出来ないという。この辺りは南港でも聞いた話だ。

 

帰りに裏の黄さんの所に寄ってみたが、寄り合いに出ているというので、会うことは出来なかった。一応『台湾緑茶の歴史』を書いた雑誌を奥さんに手渡して去る。日本語だから読めないだろうが、写真が掲載されているので、何となく分かるだろう。三峡には緑茶はあるが、花茶の歴史はあまりないことを確認して、車で新店駅に戻った。

ある日の台北日記2019その3(6)花茶の歴史を追って

10月26日(土)
ステーキから試飲へ

週末は外へ出ないで部屋でお勉強、それが一応の決まり事だった。わざわざ人が多い時に出ていくのは、折角平日に時間がたっぷりある人にとってはあまり意味がないと考えている。アドバンテージを生かせない、ということだろうか。今日も朝から昨日聞いた花茶の歴史を追っていた。

 

夕方どうしても腹が減る。いつも行く魯肉飯屋を目指したが、少し先に安いステーキ屋が出来ているのに気が付き、覗いてみると席があった。思わず中に入る。ステーキセット150元と宣伝していたのに、中のメニューは200元。これは騙されたのだろうか。既に席に着いてしまったので、取り敢えず頼んでみた。

 

スープとサラダはビュッフェ形式でいくらとっても良い。店内は出来たばかりできれいだった。家族連れが続々と入ってきたが、隣のおじさんは一人黙々とスープをお替りしている。出てきたステーキは、うーん、まあ食べられるか、というもの。肉は柔らかくもなく、味がよいとも言えないが、何となく昔の屋台ステーキを思い出す。会計すると150元だった。急にコスパは悪くない、と思えてしまう自分を笑う。

 

部屋に帰ると葉さんがやってきた。実は今回お世話になっていながら、殆ど会うことがなかった。彼らは色々なイベントに出店しており、非常に忙しそうに見えたので、敢えて声を掛けなかった。もう一つの大きな理由は、葉さんのお父さんが亡くなってすぐだったこともある。お父さんには何度か茶の歴史の話を聞いており、先日交流協会に書いた『東台湾茶の歴史』の雑誌を渡すと『お父さん、これ見られなかったね』と寂しそうだった。

 

折角だからと、久しぶりにお茶を飲みながら話をした。上の階に住む葉さんの同級生も参加して、賑やかに話す。私は北京でもらってきた花茶などを渡してみる。花茶の歴史、今や台湾では花畑自体が減っているらしい。彰化の花壇も一時の勢いはなく、数軒の花農家があるだけという。

 

10月28日(月)
製茶公会から台湾大学へ

また黄顧問に連絡してしまった。困った時は製茶公会へ行く。これが私の原則になってしまっていた。公会に行くまで時間が少しあったので、付近を散歩した。有記銘茶の横を通ると、その先に福興宮という廟があり、その寄付者の名前を何気なく見ていると、林華泰の林家の先祖の名前が見られた。この辺の歴史も知りたいな、と思う。

 

花茶全体の歴史を把握するには黄顧問に聞くのがよい、と思われたのでやってきたが、今回顧問以上には話をしてくれたのは、総幹事の范さんだった。彼は実際に花茶に関わっていたようで、流れるように整理されたその歴史を話してくれた。基本的には光復前の包種花茶、光復後の外省人向け花茶(緑茶の製造も)、そして現在の化学香料入り花茶の3段階だろうという。

 

花は基本的に茉莉花であり、それ以外に樹蘭、桂花などが加わる。中国の改革開放が始まるまでは、台湾での花茶製造は盛んだった。だが今や台湾での製造コストは高く、輸入花茶もどんどん増えている(現在中国からの花茶の輸入は禁止項目)。政府は危機感を深めているようだが、花畑の減少は著しく、止めようはないという。

 

お昼に近くの鍋屋さんに連れて行ってもらった。一人一人の前に鍋があるタイプ。お店は満員盛況。和牛肉を扱っているが、オーナーは30年以上も店をやっており、『これはオーストラリアの和牛だよ』と教えてくれる。柔らかくて美味しいオーストラリア和牛、もう日本の和牛は要らないな、との声が聞こえてきたようにも思う。ご馳走様でした。

 

そのままU-bikeに乗り、台湾大学まで行く。バスに乗って地下鉄駅まで行くより、こちらの方が遥かに早い。そして快適で安い。ここでもいつものようにたくさんの資料を見つけて、読み込んだり、コピーを取ったりして過ごす。特に花茶に関する日本時代の資料があったのは、有り難い。日本人も相当花茶の研究をしている。午前中の話に加えて、日本時代の緑茶製造に関して更に詰める必要がある。

 

夜、近所の刀削麺屋が復活しているのを発見した。ここの麺が好きだったが、今回戻ってから一度も店は開かれていなかった。ここは家族でやっており、親子喧嘩が原因ではないかと危惧していたが、何とか仲直りして?復活した模様だ。早速牛肉湯肉糸麺を頼み、スープをすする。1か月も店をやっていなかったせいか、スープのコクがあまり感じられなかったが、今後徐々に回復していくだろう。期待しよう。

ある日の台北日記2019その3(5)全祥茶荘へ

《ある日の台北日記2019その3》  2019年10月24日-11月21日

10月24日(木)
台北へ

3時間ちょっと飛行機に乗ると、北京から台北に戻ってきた。朝早いフライトなので、基本的には目をつぶっていれば着いてしまう。フラフラと空港内を歩いて行くと、入国審査より前に検査台がある。先日東京から来た時は、飛行機を降りる時に『検査不要』のカードをもらい、それを提示して、検査なしで通過したが、今回は中国大陸からなので、機械に荷物を通した。

 

すると、私の荷物に何か反応した。日本人だと分かると、日本語を話す若い女性職員が対応する。バッグの中に果物が2つ入っており、廃棄されてしまう。肉類がダメとは聞いていたが、果物もダメとは知らなかった。ただその時に職員の日本語と対応がとてもお茶目で感心した。

 

宿泊先に戻ると、いつもの果物売りのおばさんが挨拶してくれた。さっき空港でバナナを没収されたことを思い出し、すぐに台湾産バナナを買った。バナナに関しては台湾の方が中国よりはうまい、のは当たり前か。今後の中台関係はどうなっていくのか、そんなことを考えながら、バナナを頬張る。

 

10月25日(金)
全祥茶荘へ

北京から戻り、日常の歴史調査を再開する。今回の目的は台湾花茶の歴史であるが、果たしてどこから手を付けたらよいだろうか。先日訪ねた坪林の馮君が、『全祥茶荘に行けばきっと何か分かるよ』といい、そこの3代目を紹介してくれた。折角なのでネット検索して全祥茶荘本店に行ってみる。

 

そこはニニ八公園から歩いてすぐ、近くの角には日本時代、辻利茶舗が店を構えていた(現在はスタバ)いい場所である。以前フラフラしている時に、このお店を見つけて興味を持っていたが、古めかしいその作りに慄いて、入ることはなかった。今日は紹介があるので、堂々と入っていく。

 

ところが3代目はもう一つの忠孝店に方にいるとのことで、あえなく店を出ることになった。西門町から地下鉄に乗って、忠孝復興駅で降りる。SOGOの目の前に店があった。既に連絡が本店からあったようで、林さんが出迎えてくれ、早々花茶の歴史の話に入る。勿論数種類の花茶が用意され、試飲もしてみる。全祥は光復後、台北で開業した。そして外省人を相手に茶を売る店となった。今でもお客は外省人が多いと聞くと、ちょっと不思議な感じがするが。

 

そして一番驚いたこと、それは全祥の創業者はあの林華泰と兄弟だというのだ。石碇から出てきた林家のメンバーがそれぞれ店を構えたらしい。顧客を分けるため、林華泰は台湾人向け、全祥は外省人相手に商売した。なぜ全祥が外省人を対象にしたのか、それは光復前、日本時代、全祥の創業者(今の林さんの祖父)は何と天津で茶葉を売っていたのだという。だから中国人の好みなどが分かっていたのだろう。そして言葉も通じたに違いない。これはまさに歴史だ。

 

肝心の花茶については、毛峰香片などの商品が並んでおり、中国から来た人々に受けが良い名前を付けたという。品質により5層ぐらいの料金体験になっている。今は、茉莉花、桂花などが多く使われている。花は彰化の花壇などから、緑茶は三峡などから来るらしい。その昔は台北郊外に花畑が沢山あり、ここの創業者の奥さんも、蘆州の花農家から嫁いできたというから、その結びつきも想像できる。

 

林さんには初めて会ったが、実に気さくに何でも話してくれ、また飲ませてくれた。更には昼ご飯まで取り寄せてくれ、お店で作ったお粥と一緒に食べた。これも馮君の紹介のお陰だろう。馮君の世代は、茶の歴史に関心がある人も多く、単なる商売ではなく、とても頼もしい。今度は本店に行き、お父さんに話を聞こうと思う。

 

SOGOは30年前、よく来た場所だったが、最近は寄ったことはない。今や台北にはどれだけの百貨店があるのだろうか。その裏の方に、昔偶に行った和昌という茶荘があったのを思い出す。7-8年前に行った時は、既にお父さんが亡くなり、息子さんの時代になっていて、たくさんの日本人観光客がお茶を買いに来ていた。折角なので最近の様子を見ようかと思い、店の前まで行ったが、なぜか入らずに帰る。

 

少し休んでいたら、無性にとんかつが食べたくなる。そこで百貨店地下のとんかつ屋へ行き、食べる。午後5時代なのにお客が多くビックリ。ある意味で日本のサボテンや和幸で食べるよりは、コスパがよいかもしれないな。それにしても、台湾人女子が一人で来て、とんかつとご飯お替り、そしてもう一品ペロッと食べている姿はすごい。

 

帰りに気になっている本を探しに本屋へ。検索してもらうと残念ながら売切れ。どこかにないか、と聞いてみると、別の本屋ならあるだろうと言い、場所を教えてくれた。そこはバスで30分ぐらい離れた場所だったが、流れで行ってみる。だがそこで『うちも売切れだよ。他の本屋がうちの在庫が分かるわけがない』と言われて思わず納得。しかしなぜ別の本屋を紹介したのだろうか。因みにこの本屋では出版元まで電話で確認してくれたが、無い、の一言であった。後日国家図書館でこの本を見つけて読んでみたが、必要な個所はごく一部で買うほどのことはなかったと分かる。

ちょっと北京散歩2019(3)苦節5年、ついに決着

10月23日(水)
ついに決着

今日は午前中、ティールームで旧知のMさんと会った。Mさんとは今年3月、四川の旅をご一緒し、団体さんが帰った後も、本格茶旅に付き合ってもらった。彼女も北京滞在20年を越える人だから、一応Hさんにも紹介する。Mさんが気功、薬膳の話をすると、サックスを吹いているHさん、呼吸の話に大いに興味を持ったようだ。

 

今や殆ど見られなくなった武夷山の白鶏冠のサンプルをもらい、Mさんが淹れてくれた。驚いたことに、彼女は来月住み慣れた北京を離れ、上海に引っ越すらしい。自分の決断ではないようだが、偶には環境を変えてみたい、ということだろうか。上海に行けば、きっと北京を懐かしむことになるだろう。Hさんは途中で香港に帰って行き、今回の私の任務は全て終了した。

 

昼は隣のビルに勤務する、元同僚の中国人と会う。これまで会う時は、出来るだけ彼の家のある、中関村方面にしていたが、今回はランチしか空いていないというので、珍しく職場付近になった。年度末ということもあり、彼はとても忙しく、食事の途中で職場から電話があり、あっという間に呼び戻されてしまった。やはり職場の近くではゆっくりできない。そして現在中国経済が置かれている状況についても何となく分かる感じがした。

 

午後はまた西の方へ行く。もう5年以上前に銀行カードを失くしてしまい、そのために現金も引き出せないし、口座の解約もできない状態がずっと続いていた。既に10年前に北京を離れており、5年前に北京を旅した時からこの戦いは始まった。簡単に再発行できるだろうと思っていたら、何と口座開設時に登録したパスポートが更新されており、古いパスポートも持ってこないと手続きできないと言われたことに始まる。

 

その1年後に行っても、『お前の口座は見つからない』とか、『カード再発行には1週間かかる』とか、言い訳をさんざん言われ、どんどん手続きは厳しくなり、ようやく2年前に再発行の手続きをしたが、1年前に取りに行く時、何と間違えて隣の支店に行ってしまい(大手銀行の支店は多すぎる)、らちが明かず。そしてついに今日、全てをそろえて万全の態勢でカードを取りに行った。

 

しかしやはり、2年前に申請したカードをきちんと管理しているほど、中国の銀行は甘くない?ただ彼らも私の事情は十分に分かってくれ、懸命に探しているようだったが、最後は本店に電話を入れて、カードなしで口座を解約して、口座残高を現金で渡してくれた。ああ、苦節5年、中国の銀行とは何と面倒なことか。いや日本でも対応は親切だろうが、手間はかかるだろうな。ただ中国で今から外国人が口座を作るのは大変だとも聞いており、口座を残しておけば、何かに使えるかもしれず、ちょっと残念だった。

 

それから東の方に戻り、昔住んでいた辺りを散歩していると辺りが暗くなる。そのまま歩いてホテルまで帰ることにしたが、今晩は予定もなかったので、その辺で夕飯を軽く食べてから戻ろうと思った。が、オフィス街では一人でサクッと食べられる店は多くはなく、結局ホテル裏のモールで麺を食べた。このモール、夜もレストランは意外と混んでいる。仕事帰りのOLが一人で食事をしている姿も見られた。今やデリバリーフード全盛の中国だが、勿論外で食べる若者もいるのだ。

 

夜は部屋でサッカーACL準決勝、浦和対広州恒大の試合を見た。今季リーグ戦不調の浦和だが、この試合に賭けていたのか、第一線のアドバンテージも生かして何とか競り勝つ。その後NHKでニュースを見ていたが、香港騒動のニュースはきれいにブラックアウトしていた。ウイグルと香港は見られない。

 

10月24日(木)
台北へ

今朝は5時に起きて、6時前にホテルを出た。朝8時半のフライトで台北へ帰るためだ。私はこんな朝早いフライトを選択することはないが、今回はスポンサーが選んでくれたので、仕方がない。そもそも昨日変えるべきところを1日延長してくれたのだから有り難いと思わなければいけない。そしてちゃんと運転手が空港まで送ってくれるのだから尚有り難い。

 

朝の空港は相変わらず混んでいたが、それでも比較的スムーズに通り抜けた。既に9月末より大興空港が開港したとニュースでは聞いているが、まだ殆どのフライトは北京空港を使っているらしい。巨大空港の試運転はいつまで続くか分からない。北京市内からも相当に遠いようで、利用者は大変だ。私は今後も安全なエアチャイナを使うことにしよう。今回は自分の旅ではないので、あっという間に過ぎてしまった。目をつぶっていると台北に着いてしまう。

ちょっと北京散歩2019(2)新旧北京を巡る

そこから王府井に歩いて出た。ここも以前に比べれば歩いている人は多くない。既にかなり疲れてきたので、ここから地下鉄で帰ろうと思ったが、ちょうどそこに北京飯店があり、Hさんの希望で見学することにした。入ってみると、昔の面影はあまりなく、ロビーはすっかりきれいになってしまっていた。

 

コーヒーショップでコーヒーを飲もうと注文すると、ウエートレスがいきなり『今日はシステムに不具合があり、現金は使えませんが、大丈夫でしょうか?』と訳の分からないことをいう。現金しか使えない、の間違いではないのか。私が支付宝を持っているというと、ウエートレスはホッとした顔でコーヒーを提供する。外国人が利用するホテルで一杯63元もすると飲み物の支払いさえも、難しくなってきている。最後にシステムが治り?Hさんが現金で支払って、ご馳走になることが出来たのはよかった。

 

ホテルに戻って休む。夜は知り合いのMさんとKさんに来てもらい、昨日の夜と同じレストランの同じ個室で食事をした。目的は昨今の北京情勢を聞いて、12月のイベントに備えることだった。この二人とはもう10数年の付き合いになるが、こんなフォーマルな席を共にするのは初めてであり、何だか緊張する。オーナーからは高級ワインの差し入れもあり、いつもと様子が違う。それでもHさんが質問を連発して、かなり長い時間を付き合わせてしまった。まあ、偶にはいいか。

 

10月22日(火)
北京散歩2

今朝も天気が良い。朝飯の後、テレビを見る。このホテルではNHKワールドプレミアが映るので、便利ではある。今日日本は祝日、雨の中、新天皇の即位の儀式が行われており、生中継を見ることが出来た。この儀式については賛否あると思うが、色々とものを考える節目にはなる。

 

大戦後、昭和天皇はなぜ退位しなかったのか、とても疑問に思っている。そしてその流れが平成天皇の生前退位となったような気がしてならない。皇后など皇族の服装などに関心が集まるのは、正直ちょっと頂けない。ワイドショーとは、『話を広げる』という意味なのだろうか。

 

快晴の北京で外に出た。茶荘の店長に連れられて、三里屯に行ったのは意外だった。そこには、何と高級車のショールームがあったのだ。我々とは無縁に思われる高級車だが、そこにも高級茶として岩茶が置かれ、スタッフが派遣されて、上客に茶を振る舞っているという。写真を撮ることを遮られた車、聞けば1台日本円で1億円ぐらいするらしい。ショールームと言っても既にほぼ予約済みの車が飾られているようだ。やはり中国経済の勢いは未だ全て止まったわけではない。

 

その後早めのランチを食べに行く。店長と運転手は共に北京人だといい、かなり力を入れて?伝統的な北京料理をオーダーしてくれた。この店は最近流行っていると言うだけあって、店内もきれいで、料理の盛り付けなどもインスタ映えする内容だった。私は久しぶりに濃厚な味付けの腰花が食べられて、満足する。Hさんも初めての北京料理に『意外にうまい』と言って手を伸ばしている。

 

一度ホテルに戻り、ホテル裏にあるショッピングモールを見学する。昼時は近所のオフィスビルからOLなどが大量にランチにやってくる場所で、それ以外の時間は閑散としているらしい。もしイベントをするなら、ランチタイムしかないな、と感じる。今北京にはモールが多過ぎて、お客も相当に分散している。

 

午後はHさんの希望で、什刹海へ地下鉄で向かう。ここにジャズクラブがあるので行って見たということだったが、確かに東岸という名前のクラブが存在した。北京にもジャズ好きがいるのだな、と初めて認識する。そしてここに出演している人の中に、日本人もいるのに驚く。活躍の場を中国に求めた人々なのだろうか。いずれにしても昼下がりに演奏はなく、お客もおらず、その雰囲気は掴めないが、建物の古めかしい感じは悪くない。

 

そのまま歩いて南羅鼓巷まで行く。ここは昔大好きな場所だったが、今は新しい土産物屋や食べ物屋が並び、大勢の観光客の波が押し寄せ、完全に浅草のようになってしまっていた。ここが初めてのHさんには、ちょっとした北京下町散歩で良かったようだが、昔を知る者からすればかなり残念な状況だと言わざるを得ない。

 

夜は西側まで地下鉄に乗って行く。旧知のWさんと会うためだ。10号線に乗って行ったが、やはりそれほどの混雑がない。駅を降りてから、大きなモール付近にあるレストランを探すのに苦労した。北京でも珍しい南京料理の店で、美味しい魚をご馳走になった。Wさんは更に精力的に活動しており、頻繁に日本にも行ってようだ。Hさんとも話が合い、楽しい夜を過ごした。