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九州茶旅2019(3)佐賀で講座、そして福岡経由で

12月1日(日)
佐賀で

朝はゆっくりと起き上り、ゆっくりと宿の朝ご飯を食べた。ここのご飯はかなりの種類があった。食べている人を見ていると、中国人やら他の外国人も何人かいた。中国人が納豆を食べる姿はちょっと不思議。何故鳥栖に外国人が泊まるのか、それは謎だった。どこか見るべきところがあるのだろうか、それとも何か買うのか。

 

10時前に宿を出て、佐賀に向かった。駅舎はかなり古く、小さかった。昨日の事故の影響は既になく、定刻に出発し、30分で佐賀に着く。残念ながら今回も吉野ケ里遺跡にはご縁がなく通り過ぎた。と言ってもここの駅から遺跡入り口まで歩いて20分以上かかると聞くと、簡単には行けない。

 

駅には講座の主催者、Oさんが待っていてくれており、車で会場である彼の店に行く。店の周囲ではイベントがあり、駐車場が満員で遠くまでに停めにいく。まずは簡単に準備してから昼ご飯に行く。その店には期間限定のラーメンがあり、今はなすとカボチャラーメンだったので、それを注文する。思ったよりずっとカボチャが合っており、美味しくてちょっと感激する。

 

今日は昨日の熊本と同様、可徳乾三について話をした。午後から雨になり、生憎の天候の中、皆さん熱心に集まってくれた。正直同じ九州でも熊本と佐賀は違うので、どこまで興味を持ってくれるのか心配したが、それは杞憂に終わり、かなり反応は良かった。参加者はお茶関係者が多かったが、かなり意識の高い方がおり、同じ九州人ということもあってか、多くの質問が出た。

 

講座終了後、有志で懇親会も開かれ、その席ではさらに活発な茶の歴史談義が繰り広げられた。わざわざ熊本から来てくれた茶農家さんもいて、驚いた。お酒を飲まない私でも、話題が興味深ければ楽しく過ごせる。お茶を作るにも、販売するにも、歴史や文化を知っている方が有利である、ということは間違ないだろう。ただそれを学ぶ心の余裕が持てるかどうかであろうか。

 

今晩は駅の近くの以前も泊ったホテルに投宿した。明日も講座があるので、その準備もあり、部屋でPCを開いていると、かなり大きな音がした。雷が鳴っている。季節のはずれの嵐か。それとも明日の波乱の予兆か。

 

12月2日(月)
佐賀から福岡経由大阪へ

翌朝は雨だった。宿の朝ご飯は昨日よりさらに充実していたので、ゆっくりと味わう。それにしても毎日朝からコメを食い、おかずをたらふく食べているから、どんどん太っているように感じられ、体は重い。そろそろどこかでダイエットが必要だと突き出した腹が言っている。

 

雨が止んだので、とにかく腹ごなしに散歩に出た。昨年も散歩しているので、特に目的なく歩いていく。道路に水が溜まっているから、昨晩はかなり降ったのだろう。ふと見ると横をバスが通り過ぎたが、そこには福岡空港行と書かれているではないか。今日は講座終了後、福岡空港経由で大阪に行くのだが、このバスでいくのがよいのではないかと思い、駅まで行って時間を確認した。やはり電車を乗り継ぐより早くて便利らしい。お土産に佐賀名物のぼうろを買う。佐賀はなぜか菓子がうまい。

 

今日もOさんが迎えに来てくれ、お店に行く。月曜日は定休日だが、講座のためだけに使用する。この付近は古い昔の街並みが残されており、雰囲気がよい。近所に古い建物を利用した映画館があり、そこでランチもできるというので行ってみたが、ご飯は食べられなかった。すぐ近くのラーメン屋で食べる。佐賀ラーメンというのは、高菜?食べ放題で、あと生卵を入れるのが特徴だと言われ、食べてみる。

 

午後の講座は昨日に続いて参加してくれた人もおり、またタイで知り合った人、四川で知り合った人など、熊本や福岡からも来てくれ、平日にもかかわらず有難い。今日は『台湾茶と日本の深い繋がり』について話をする。特に日本統治時代の茶業の取り組みや、昨日の可徳も係わった初期台湾紅茶の歩みなど、台湾でも知られていない内容が多かったが、果たしてどの程度、関心は得られただろうか。

 

講座終了後は、車で駅まで送ってもらい、朝調べておいた福岡空港行バスに乗り込む。乗客は少なかったが、途中数か所でお客を拾ってから高速道路を通って、特に渋滞もなく、約1時間20分で空港までやってきた。これなら確かに荷物を持って電車を乗り継ぐよりは便利だ。

 

空港には福岡在住で、昨日の講座にも来てくれたYさんが待っていてくれた。午後9時の最終便を予約しているので、まだ3時間ほどあり、夕飯を一緒に食べてもらうことにしていた。博多は食べ物が美味しく、毎年一度は必ず来ると誓っていたが、今年は空港だけになってしまった。

 

空港内にも飲食店はいくつもあったが、博多名物と言われるものは多くはなかった。それでもYさんともつ鍋を食べると、笑顔になれる。次回は福岡でも講座が出来ないだろうかと真剣に思うのだが、なぜかご縁は訪れない。国内線なので食事をしても時間はあまり、更に珈琲を飲みながら話をする。

九州茶旅2019(2)三友堂、そして合志で

11月30日(土)
三友堂へ

久しぶりに泊まった東横イン。昔はあまりよい印象がなかったが、最近はいくつか改善したようで、悪くはなかった。無料で提供される朝ごはんも以前はおにぎりとみそ汁だけだったような気がするが、今日はいくつか選択の余地があった。何よりここは駅の横にあるのが便利だった。

 

今日は合志市で行われる講座に出掛ける訳だが、最後の最後まで調べようと思い、可徳乾三が130年前に設立した茶舗を訪問することにしていた。熊本駅前からバスに乗れば一本で行けるらしい。ただその本数は多くはなく、もし乗り間違えると訪問できなくなるので結構緊張する。駅前のバスは思ったより多く走っているので、目を凝らす。

 

何とかバスに乗り込む。30分ほどでバスを降り、少し歩くとお寺があった。見性寺、そうか、ここが可徳乾三の法要が行われた寺だと知る。そのすぐ近くに三友堂はあったが、その店舗は思ったより小さかった。店主のKさん夫妻が迎えてくれる。聞けば熊本地震で仮店舗での営業を余儀なくされているという。

 

ここ三友堂は1887年(1889年の説もあり)に可徳乾三他2人により設立された老舗茶荘で、往時はシベリア向けの茶を大量に輸出していた。球磨地方などから沢山の茶が運び込まれていたという。可徳はシベリアビジネスに失敗した1908年頃には経営から手を引き、Kさんの祖先が引き継いだが、その後も発展を続けていた。

 

以前の店舗の写真を見ると間口も広く、従業員も沢山いたが、昭和28年の大洪水で茶葉を失い、その補償のために店舗を売り、縮小したらしい。可徳の名前が入った看板があるとのことだったが、残念ながら今は見せられる状態にないとのことだった。戦後宮本常一もこの店を訪れ、民族学の研究をしていた。現在の店主は茶商だけではなく『茶葉の鑑定』などで有名だという。

 

もっとお話を聞きたかったが、講座の時間が迫っており、ここから熊本鉄道に乗り、終点の御代志という駅まで行く。駅は本当に簡易で、その昔の江ノ電を思い出してしまった。二両編成の電車が何とも良い。天気が良いので、車内は温かく、転寝しそうになる。30分ほど揺られていく。

 

合志で講座
駅に着くと今回の主催者市議会議員のUさんが迎えに来てくれ、会場である合志図書館に移動した。ここは前回もつれてきてもらったが、立派な施設であり、今日はその一角を使い、可徳乾三の話をさせてもらう。会場には歴史好きの方やお茶関係者などが集まってくれた。中には台湾埔里でお世話になった日本人Yさんのお知り合いも駆け付けてくれていた。Yさんは熊本出身だったので連絡してみたところ、声を掛けてくれたようで、何とも有り難い。

 

可徳乾三はここ合志の生まれであるが、完全に歴史上は埋もれてしまった人物。その生涯とゆかりの地を追った話は地元の人にはどう映っただろうか。講座終了後、参加者から『合志の人々が戦前多く外国に出ていたことは聞いているが、具体的な話を知ることが出来た』などと言ってもらえたのは良かったが、もっと詳しい話を期待されていたかもしれない。

 

そして昔、熊本ではロシア語や中国語が出来る人は沢山いたという話も出るなど、こちらも色々と勉強になった。次回は可徳本家などから話が聞けるとよいのだが、どうだろうか。因みにほとんどお話もできなかったが、会場で紅茶を淹れてくれたのは、人吉出身の女性で、手作り菓子とお茶のお店をやっている方だったが、何とトルストイ翻訳の第一人者、北御門二郎氏のお孫さんだという。この方は就農しながら翻訳したと言うが、お茶も作っていたのだろう。やはりご縁がある。

 

帰りは高校の先生の車に乗せて頂き、上熊本駅まで行った。車中でも様々な歴史の話が出てきて面白かった。やはり私の対象はお茶好きではなく、歴史好きとの会話ではないだろうか。話も広がるし、各地方の知らないことも沢山けるのがよい。駅からJRの在来線で、一路鳥栖を目指す。

 

この路線は以前も乗っていたので、安心して寝落ちる。いつの間にか冬の田園風景が暗くなっていく。荒尾あたりに着くと、ちょうど台湾紅茶に投資した日本人の末裔からメッセージが来た。彼の先祖も荒尾の出だったことを思い出す。この車両は長距離用ではないので、ずっと座っていると腰が痛くなってくる。1時間半の旅、最後は久留米で急行に抜かれるというので乗り換えて態勢を変えた。

 

鳥栖駅に着くと、長蛇の列が出来ていた。何と佐賀、長崎方面の電車が止まっており、払い戻しなどを求める列だと分かった。普通なら佐賀に泊まるのだが、今晩は禁煙部屋が確保できず、ちょうど鳥栖に泊まることにしていたので、助かった。駅のすぐ近くの宿を予約してもらっていたが、そこの設備・サービスは料金の割にはちょっと・・??とても腹が減っていたので、近所のモールでかつ丼を食べたが美味しいとは思えない。ちょうどサガン鳥栖は残留争いをしており、ホーム最終戦がここのスタジアムで行われていたようだが、どうなったろうか。

九州茶旅2019(1)阿蘇で突然通訳を

《九州茶旅2019》  2019年11月29日-12月3日

九州には1年に一度は行きたいと思っている。昨年6月に熊本、佐賀を旅したが、今年は7月に沖縄に行った。そしてここ3年間でまとめた『九州茶をシベリアに売り込んだ男』の話をついに地元熊本で話す機会を得た。ついでに佐賀でも話す。そして何だか福岡経由で大阪まで飛んでしまった。いつもながら予測不能な旅だった。

 

11月29日(金)
熊本へ

偶にはマイレージを使って国内線に乗ってみようと思った。羽田‐熊本の片道だからそれほどマイルを食うわけでもない。そしてよく見てみると、私には毎年アップグレードポイントなるものが付与されているのだが、今まで一度もアップグレードしたことがなかった。国内線だとちょうど持っているポイントでアップグレードできたので、プレミアエコノミーというのに初めて乗る。

 

座席は一番前。少なくてもここ10年、飛行機の一番前の席に乗った記憶はない。座席もまあまあ広くて快適。そのうえ、国内線エコノミーではドリンク一杯しか出ないのに、軽食まで登場した。乗り込んだらすぐに寝ようと思っていたのに、眠れなくなる。だが実はもう一つ眠れない要因があった。

 

若いCA二人が、私の斜め前でずっとおしゃべりしていたのだ。これまであまり見たことのない光景だった。カーテンの陰というならまだ分かるが、私が見える位置でだから驚いた。そして年配CAが来たので収まるかと思ったが、止めさせようともしない。確かにプレミアム席は空いていたから、やることはなかっただろうが、日本の航空会社もアジア化が始まったか。

 

ほぼ定刻に熊本空港に着いた。先日のウラジオストクのフライトと時間はほぼ変わらない。この空港、3年前に台風直撃の中、成田に向かって飛び立ったことはあるが、降り立ったのは初めてだ。そしてここで35年ぶりの再会が待っているはずだった。大学の1年先輩のTさんは熊本出身で卒業後は地元に帰ったとは聞いていたが、その後全く連絡を取っていらず、今回電話番号を聞いて連絡したところ、わざわざ空港まで迎えに来てくれるというのだ。

 

事前に最近の写真ももらっていたので、問題なく分かるだろうと思っていたが、何と出口で通り過ぎてしまったらしい。その原因の一つは、明日からちょうどハンドボール女子の世界選手権が熊本で開催されるそうで、私のフライトにもフランス語を話す選手たちが乗り込んでおり、彼女らを歓迎する人々が多かったからだろう。電話をかけてようやく再開にこぎつける。

 

Tさんの車に乗り、お互いの35年を埋めようと話し始めたが、それは簡単な作業ではなかった。卒業後のTさんの波乱万丈の展開だけでも今日中に終わりそうもない。それほど長い時間会っていなかったのに、一瞬にして昔に戻れるのはすごいと言わざるを得ない。下宿で一緒にご飯を食べたことなど、色々と思い出して、若かりし自分が蘇る。

 

周囲は既に暗くなりかけていたが、折角だからと阿蘇方面を走り、写真を撮ろうとしたが、残念ながら暗すぎて見えなくなっていた。それから田楽を食べようと、高森というところにある雰囲気の良いレストランに入った。囲炉裏がいくつかあり、そこで肉を焼いて食べた。向こうでは中国語も聞こえてきており、観光客もいるようだった。

 

いつの間にかお客は皆帰ってしまい、我々だけが話を続けていた。話しは尽きないのだ。ところが突然店の人が騒ぎ出し、こちらに向かって『車をぶつけられたみたいです』という。意味不明ながら急いで駐車場へ行くと、暗がりの中で、Tさんの車に別の車が微かにこすったらしい。

 

その運転手は日本人ではなかった。顔を見てすぐに中国語で話しかけると、相手は台湾人であり、彼らも店の人も言葉が通じたのでホッとしている。台湾人は高齢の両親を連れており、お父さんの具合が悪いので、一度宿に送ってから戻ってくるというが、律義に一人は残っていた。私は車を運転しないので、こういう処理には全く疎く、言葉が出来てもなかなか捗らない。

 

警察もやって来て現場検証と確認が始まった。若いお巡りさんは『いやー、助かります。多いんですよ、外国人の事故が』と言い、いつもは携帯アプリで会話していると告げた。レンタカー会社もちゃんと中国語対応の体制は出来ており、様々あったが何とか解決した。事故を起こした台湾人の方は、実にきちんとしたいい人たちで、『今度高雄に来たら寄ってくれ』などと言いながら分かれた。

 

思えば熊本辺りは戦前台湾に渡って仕事をした日本人も多かったはずだ、などと思っていると、店のおばさんも『うちの主人も台湾生まれで、その両親は花蓮で・・』などと話し出す。明日の講座で話し内容にも、熊本ではロシア語や中国語が話せる人が戦前は沢山いた、というくだりがある。

 

Tさんに熊本駅前に予約した宿まで送ってもらった。何とも有り難い。もっともっとその後の出来事を聞いていたかったが、それは次回にしよう。そういえば、明日の夜、東京では大学の同じクラブのOB会が開かれるので、早々にTさんについて報告を入れておいた。

ある日の台北日記2019その3(16)チョコイベントへ

11月17日(日)
茶展からチョコイベントへ

今日はゆっくり起きて、また茶展に向かう。まだ挨拶していない茶業者も沢山いるので、この機会に纏めてご無沙汰を詫びる所存だった。日曜日なので人出は多いが、業界人は来ない日なので、余り直接的な商売にはならないらしい。どちらかというと一般人向け宣伝の日という位置付けかもしれない。

 

人だかりができているブースに行ってみると、Aさんたちが手もみの実演をしていた。その横では、以前お世話になったNさんたちが和服でお茶を点て接客に忙しい。こういうブースは非常に分かりやすくて人が集まる。その場で茶葉の販売もしており、日本茶普及への貢献度は高い。

 

少し離れた所に行くと、陽光茶園のブースが見えた。ふと覗くと楊さんもやはり来ていた。既に98歳だが、先日の南投茶博にも姿を見せており、霧社からここまでやってくる体力はすごい。魚池の李さんを見つけ、そこでお茶を飲んで休む。新しい茶工場もできたというので、次回は是非訪ねてみたい。三峡谷芳のブースも久しぶり。なぜかスペイン人の若者がここの緑茶に興味を持ち、あれこれ聞いている。

 

折角なので、横の食べ物コーナーも一通り見学する。食品卸しのブースが多いせいか、その場で食べられる場所は多くはない。私はいくつかサンプル品をつまんで腹が一杯になってきた。台湾には美味い物が一杯ある。更には反対側の酒コーナーもふらつく。酒を飲まない私には無縁の場所だが、お茶コーナーより多くの人が試飲などをしている。コンパニオンが酒を勧めるなど華やかさがある。日本酒のブースも人気だ。

 

確か夕方、知り合いが来るとか言っていたので待とうかと思っていると、葉さんが『今からチョコレートイベントに行かないか』という。茶展にも飽きてきたので、その誘いに乗ると、会場は市政府近くの百貨店であり、地下鉄で移動した。特設会場に着くと大勢の観衆がいた。そして驚いたのは、葉さんの茶葉をチョコレートやドリンクに混ぜて使っていたシェフは日本人だったのだ。

 

お茶とチョコのコラボ。そして台湾特産品とのコラボ、いわゆるペアリングだが、これを日本人シェフがアレンジして、台湾で提供するのは、実に面白い。実際には銀座の店で提供が始まっているらしい。非常に工夫されており、多彩で観客ウケもよい。お茶の扱い方を見直す時期が来ていることを感じさせる。

 

11月18日(月)
南港の茶農家へ

茶展最終日。昨日途中で抜けてしまったので、今日も行こうと地下鉄に乗る。鹿谷からUさんが出てきており、南港で待ち合わせることになっていた。ちょうど2年前Uさんと南港の茶農家に行ったのだが、彼は今日もそこへ行くというのでバスの時間を確認していた。ところが今日は大雨だった。

 

Uさんのお義父さんが車で送ってくれるというので、南港茶展に寄らず、駅で拾ってもらい、そのまま茶農家へ直行した。ここはいつ来ても懐かしさを感じさせる場所だった。そして素朴な農家が、昔ながらの茶作りをしているのが、何とも好ましい。数種類の包種茶を並べて試飲していると、その発酵度も若干高く、心地よい。ほぼ今年の茶は作り終えており、常連さんがどんどん買って行ってしまう。

 

奥さんは茶摘みのプロ(ご本人は長年やっているだけと言っているが)であり、全国茶摘みコンテストで準優勝するなど、その実力を発揮している。今や茶の摘み手不足が深刻化する中、貴重な存在だ。果たしてこの茶農家、いつまで続くのだろうか。台北市内から車であっという間なのに、この山の中。環境的にも面白い。

 

一度宿泊先に帰り、夜はTさん主催の浙江の会に参加させてもらった。先日は四川の会だったが、Tさんは昔から会を作って人を集めるのが得意なのだ。今晩も6人で杭州料理を食べた。奥さんが浙江人という方が中心だが、近々江蘇との合同会に発展するとか。台湾にも中国関係者が増えているということだろう。

 

今回の台北滞在1か月半も無事に終了した。茶の歴史はいくらでも広がっていくが、調べることの限界も見えてきている。そしてその広がりは台湾に留まらず、中国、そして東南アジアへと繋がっている。来年は少し台湾滞在が減り、東南アジアシフト及び中国への本格調査が始まるのかもしれない。

ある日の台北日記2019その3(15)坪林の絶景茶畑

11月16日(土)
坪林へ

翌朝は早く起きて、新店駅へ向かった。今日は知り合いと共に坪林を散策する予定となっている。坪林行バス、週末なのでハイキング客で混んでいるかと思い、早めに集合したところ、何とか乗車することができてよかった。ここから1時間弱で坪林に到着する。ちょっと朝早かったが、祥泰茶荘は開いており、お父さんがお茶を淹れてくれた。因みにお父さんの趣味の一つが急須を集めることであり、ものすごい数の急須を所蔵していることに初めて気が付く。

 

それから馮君が包種茶について色々と説明をしてくれ、勉強する。その後、天気が良いので茶畑を見に行こうと言って、近くの川沿いの畑を見学する。最近は茶農家と一緒に茶畑を見ながら基本的な話しをする機会は無くなっており、ちょうどよかった。もう街の近くには茶畑は殆どない。

 

馮君は他に予定があったので、そこで分かれて、早めの昼ご飯に向かう。勧められた食堂に行くと、店先に珍しい野菜が置かれており、自分で選んで調理してもらう方式になっていた。この野菜が色味はワイルドだが、新鮮でなかなか良い。それに乾麺やスープ、魯蛋などを注文して腹を満たす。味がとても良く満足。

 

腹がくちると散歩するが、何しろ暑い。通りをフラフラしていると、店先で茶葉のてんぷらを作って売っていたので、興味本位で食べてみることにした。これもサクサクしてなかなか美味しい。日本でも是非茶葉天ぷらを茶産地の名物にして欲しいと思う。このお店、勿論お茶屋でもあり、茶箱には達筆な文字が書かれている。今や茶葉を売るにも個性が必要な時代だろうか。

 

その後もフラフラと歩き、茶葉博物館の前まで来た。前回既に見学していたので、今回は単に待ち合わせ場所に使った。午後は白青長工作坊を訪問する予定となっており、白さんがわざわざ迎えに来てくれたのだ。私は2年前に一度訪ねてことがあったが、昨日偶然茶展で再会し、急遽今日の訪問が実現した。これも茶縁だろう。

 

『坪林で一番高い所にある茶畑を見に行こう』と連れて行ってもらったのは、山道をかなり上った標高800mの茶畑。その風景は絶景で、遠くには太平洋も望めた。だが台風などが来れば、畑は直撃を受け、強い風で葉は育たないともいう。ほんのちょっと離れた場所でも生育状況がかなり異なることを知る。自然環境とは実に恐ろしいものである。

 

白さんの家は高祖父の代から茶を作っているらしい。この付近の茶畑は、福建の安渓から渡ってきた先祖が開拓し、今も親族が所有して、何軒かが茶を作っているという。白さん自身は33歳で、大学を出てから茶業を継ぐため郷里に戻った5代目、青年茶農だ。ちょうど2年前我々が訪ねた時に結婚し、既にお子さんがいた。台湾ではイケメン茶農家としても有名だと聞く。

 

白さんの茶工場に向かった。ここには最新鋭の製茶機械が揃っており、包種茶を中心に、東方美人茶、白茶、鉄観音茶など様々な茶を作っている。ちょうど摘まれた生葉が到着し、お父さんが室内萎凋を行っていた。今や坪林では日光萎凋は行わず、いきなり萎凋槽に茶葉を入れて、熱風萎凋を行うのが普通になっている。これなら天候に関わらず、茶作りができる。

 

数種類のお茶を試飲した。あの800mの茶畑に植えられていた鉄観音で作られた茶もあった。焙煎機も最新の設備を備えている。何度も言うが、台湾茶の歴史の中で、一番重要なのは包種茶だと思っている。現在は坪林の文山包種茶だけが有名であるが、日本時代はどこでも作っていた。坪林の、それもこれほどの山の中であれば、その伝統もかなり残っているかと思ったが、今や技術は進み、若者は最先端の茶を作っていく。

 

茶工場の前にある茶畑、雰囲気がとても良い。何でも台湾茶飲料のCMのために使われたらしい。しかもそこに出演したのが、何と日本の俳優、阿部寛だというから驚いた。先ほど隣でお茶を飲んでいたカップルも、この茶畑でポーズを決めて写真を撮っている。私もイケメン君の写真をパチリ。

 

帰りに車で街まで送ってもらう。ちょうど車がバス停に着いた時に、新店行のバスがやってきたので、急いで乗り込むと、何とか席を確保できた。お世話になったのに挨拶もできぬまま、お別れとなってしまったのは残念だ。まあまたどこかで会うこともあるだろう、きっと。

ある日の台北日記2019その3(14)南港茶展始まる

11月15日(金)
南港茶展始まる

翌朝、茶展に出掛ける葉さん夫婦に同行して、南港に向かった。開場は10時だが、9時に到着。皆さんは準備に精を出すが、私はやることもないので、一度会場を後にして、近所を散策する。すると、ロイヤルホストの看板が見え、何やら朝食を提供しているとあったので、思わず入ってみる。

 

朝定食は2種類あり、どちらも190元だった。鮭和風定食はよいが、和牛ハンバーグ定食は、日本の朝に、出て来るものだろうか?取り敢えず鮭を選択してみたが、そこはファミレス。当然ながらチンして作った食事だから、何とも味気ない。海苔が一番良いかな。ハンバーグの方がよかったかと後悔する。因みに午前9時台に食事している人はほとんどいなかった。

 

会場に戻ると既に沢山のお客さんが入場している。葉さんの所では、冷蔵庫が壊れたようで、ジェラートが提供できずに困っていた。私はブースを回り始める。まず目に入ったのが、埔里で高山茶を作っている原住民のところ。以前一度訪問したことがあったが、今は息子が販売に力を入れている。

 

鹿谷の連山とは、先日南投でも会っており、既に顔なじみになった。花蓮の嘉茗茶園も毎年出店している。先日東台湾茶の歴史を書いたので、その冊子を渡す。花茶の歴史関連では、三峡で先日訪ねた天芳が出店している。息子が来ており、お父さんと会ったことを話すと喜んでくれた。そしてこれから是非行くべきと言われた茶業者も出店していたので、奥さんにあいさつした。来年訪ねる時、果たして覚えていてくれるだろうか。

 

あっという間に昼を過ぎてしまった。知り合いが来ていたので、一緒に近くにあった台湾料理の欣葉に行く。欣葉は懐かしい店だが、最近は大発展を遂げ、支店を幾つも出しており、ここもきれいな店舗だった。茶展関係者が沢山食事をしていたが、何とか席を確保して、定番料理を食べた。

 

実はこの知り合い、夜も台湾人の招待で、別の欣葉で食事をすることが分かり、何だか申し訳なかった。その話を聞きつけたこの店のマネージャーが『夜はどこの欣葉に行くのですか?予約のお名前は?』といい、何と我々が昼に食べたメニューを夜の店に伝達しておくので、重ならない食事ができるでしょう、というではないか。この辺のサービス概念は素晴らしい。

 

午後もまた、ブースを回った。ただ1階のお茶コーナーではなく、4階にある珈琲コーナーを見学した。4階の方が規模は遥かに大きく、来場者も遥かに多い。各ブースでは、新しいコーヒーの売り込み、淹れ方や豆の紹介などを競って行っている。やはりお茶よりはコーヒーかとも思ってしまうが、よく見ると4階の隅には空きスペースが結構あった。さすがに台湾のコーヒーブームも一段落かなと思われるスペースだった。

 

午後4時過ぎに南港を出た。葉さんから『中山の店とコラボして、お茶が飲めて、アイスが食べられるスペースがある』と聞いたので、予約してもらったのだ。その店は中山駅からすぐの所にあり、畳があるなど和のテースト満載だった。そこで何と、ジェラート、お茶ポップコーンなどのセットが無料で体験できたのには驚いた。

 

聞けばこの店は、食事も提供する予定だったが、火の取り扱いが禁止されてしまい、やむなく閉店するところで、葉さんたちが1か月だけそのスペースを借りて、プロモーションに使っていたのだ。日本人観光客からは、『こんな店があったら是非行きたい』との要望もあるようだが、ある程度の料金を取っても、家賃との比較では割に合わないのだろうか。

 

既に暗くなりかけていた。中山からトボトボ歩いて、長安東路に向かった。夜は『32年ぶりの再会』が待っていた。32年前に一緒に上海に留学していたBさんから、『あの時院生だったSさんが来るので会いませんか?』と誘われたのだ。正直Sさんとはそれほど親しく話した記憶はないが、言われた瞬間、彼のフルネームを思い出し、急に懐かしくなっていた。

 

会うと、その面影は十分に見て取れた。彼は九州の大学で中国文学を研究しながら、中国語を教えているのだという。留学中、似非文学班だった私とは違い、Sさんは既に明確な目的で留学しており、その後も巴金や余華などの文学作品を研究、紹介していた。今は台湾の日本時代文学にも興味を持ち、台湾に来る機会も増えているらしい。

 

久しぶりの熱炒で、何だかたくさん食べて、たくさん話してしまった。酒を飲まない私は熱炒に来る機会も少ないが、偶にはこういう空間で食事をするのもよいものだ。何となく熱気があると、人はハイになるらしい。急に思い出した懐かしい記憶、ご縁も繋がり、いい一日だった。

ある日の台北日記2019その3(13)花茶から広がる意外な歴史

11月10日(日)
再び全祥茶荘へ

土日は動かないとの原則が崩れていく。土曜日は気になっていた花茶資料探索のために、永和図書館へ行く。ここでひたすら日本時代の新聞記事を検索して時を過ごす。それに疲れたら、日本時代の書籍を斜め読みする。午後一に出掛けても閉館の5時近くまでいることになる。

 

帰りがけに1階奥のスペースを何気なく見ると、写真が数枚飾られていた。近づいてみると、古寧頭戦役70周年記念の写真展だった。古寧頭戦役と言えば、国共内戦で国民党が金門島を死守した戦役だと記憶している。そうか、中国人民共和国が建国70周年なのだから、その裏には70年前に幾多の歴史が起こっているのだ。ただこの展示には、根本中将などについては全く触れられていない。

 

翌日もまた出掛けてしまった。知りたいことが出てくると、どうしてもすぐに動きたくなる性格なのだ。先日一度訪れた、全祥茶荘、その衡陽路の本店にもう一度行ってみる。今回は林さんのお父さんに話を聞く。日本時代、林家は天津で商売していたということで、そのあたりの事情を聴いたのだが、お父さんも台湾生まれであり、伝えられているトピックスを参考までに聞く。

 

その中には、あの民主活動家で、先ごろ亡くなった呂明さんの名前などが出てきて驚く。後日呂明伝記を読んでみた。彼もまた、大陸から引き揚げた一人であり、その引き上げの際に頼った親戚というのが、私が今調べている王添灯の兄、王水柳だと書かれているではないか。ここでも繋がったお茶の歴史、本当にすごい。

 

お父さんの話は引っ切り無しにお客が来るので、途切れ途切れになる。花茶の歴史としては、外省人がキーになると思われるが、この店の裏は台湾銀行本店、その向こうは総統府という位置関係を考えるだけでも、そのレトロな店舗と相俟って、その歴史の一旦は十分に見て取れるのではないだろうか。

 

このすぐ近所には、兄弟である華泰茶荘もある。そして西門町まで歩けば、紅楼のすぐ近くに全泰茶荘もある。ここも先々代は兄弟である。一応歩いて行ってみたが、特に中には入らなかった。お客は観光客がメインなのだろうか。私はあまり各家のファミリーヒストリーを調べるつもりはないのだが、この辺の棲み分けには興味がある。

 

帰りがけに、店先でいい匂いをさせている食堂があったので、フラッと入り、肉粽と魚丸湯を食べてみる。たまに食べるとこういう食事は実にうまく感じられる。しかもサックと食べられるのが何とも私の今のリズムに合っている。宿泊先の近くにこんな店がないのは残念だ。

 

11月14日(木)
茶業者の宴会へ

今日から何となく南港茶展のムードが高まってくるが、なぜか朝部屋の電気が点かなくなる。停電かと思ったが、電球が切れたことが判明。すぐさま近所の雑貨店に行き、替え電球を買い求める。こんな時、台北はすぐ近くに何でも売っている店が何軒もある。コンビニでは間に合わない物を簡単に買えるのは良い。そして電球を交換したので、部屋が急に明るくなり、眩しいほどで、ちょっとやる気が出る。

 

午後は知り合いがやってくるので、松山空港に迎えに出た。ちょっと時間があったので、空港展望台に行ってみる。今やどこの空港にもある展望台だが、ここは飛行機との距離がやけに近い。やはり小さな空港なのだ。そういえば、飛行機に乗っていると、『空港上空からの写真撮影は禁止』とのアナウンスが流れるが、ここからは何の規制もないのか。

 

今回日本から来た人はちょっと変わっており、ホテルではなく、民泊するという。タクシーでその住所へ向かったが、本当に住宅街で、探すのは大変だ。しかも古い住宅で、5階までエレベーターもなく、重い荷物を自分で持ち上げなければならない。宿泊スペースは快適そうだが、私には向かないタイプだ。オーナーは流ちょうな英語を話し、近隣紹介もちゃんと英語で書かれていた。『鼎泰豊まで歩いて行けるぞ』がウリらしい。

 

夜は明日の南港茶展の前夜祭か、茶業者の集まりに顔を出す。日本から手もみのAさんが来ており、彼を囲む夕食会に私も飛び込んだ形になる。行ってみると3卓もあり、非常に盛況な会だった。主催者の許さんの人徳だろうか。明日の茶展に出展する台湾中の茶業者の顔が見られた。

 

Aさんは非常に社交的で、言葉が通じなくても、酒を酌み交わし、誰とでも仲良くなれる人だった。何だか昔の日本の宴会がそこにあって、酒を飲まない私でも、ちょっと懐かしい気分に浸る。海鮮料理の店なので、海の幸がふんだんに出てきたが、途中から何を食べているのかも分からなくなってしまい、笑い声が絶えないまま、夜は更けていった。

ある日の台北日記2019その3(12)茶業関係者の末裔と

11月7日(木)
茶業関係者の末裔と会う

2日間、中部に行ったので、今日はゆっくりしようと思っていた。ところが突然微信で連絡が入る。1年以上前に茶商公会の紹介で知り合った呉さんだった。彼は当時上海で働いているということで、会う機会はなく、その後私も上海に行くことが全くなかったので、完全に忘れていたのだ。

 

メッセージでは今台北にいるとのことだったので、急遽会うことになり、30分後には部屋を飛び出した。待ち合わせ場所は大稲埕に近い地下鉄の駅だった。現れたのは、私の息子と同じ歳の青年だったので、ちょっと驚いた。そして茶商公会からは『日本時代初期に有名だった茶商、呉文秀の末裔』とのことだったが、聞いてみると少し違っていて、これまた驚く。

 

彼の案内で迪化街にある同安楽という名の店に入った。店名からして厦門の向こうにある同安である。店は最近はやりのきれいなものだが、奥行きがあり、かなり心地よい空間になっていた。よく見ると以前はお茶屋だったようで、『陳悦記』という文字も見える。店の女性も我々の歴史話に興味を示し、自らの一族の歴史を少し話す。店には日本時代、悦記が大稲埕で包種茶の茶商として活動していたことを示す新聞記事もあった。

 

呉さんの先祖は呉文秀ではなかったが、やはり茶業界の人で、100年ほど前に茶商公会で働いていたらしい。彼もその辺の歴史が知りたくて以前茶商公会を訪ねていたのだ。ちょうど私が持って行った茶商公会の本の中にも、ちゃんと彼のご先祖の名前はあった。1922年の茶業コンテストの際の実行委員会のメンバーだった。

 

そしてその息子は、台湾茶共同販売所に関連しており、日本時代は茶業を中心に発展した一族だと思われた。元は福建の泉州付近から出てきたようで、これまでは安渓中心に調べてきたので、これを機会に泉州茶商の足跡も当たってみたい。何しろ現在調べている林馥泉も泉州出身であり、呉さんの親戚はまだそこに住んでいるようなので、訪ねてみたいと思うようになる。

 

それにしても、若者が自分の一族の歴史に興味を持つことはとても良いことであり、また彼は予想以上に調べていた。そしてこういう話はいくら話も尽きることはない。茶を飲みながら話していたが、昼食もそこで取る。同安の昔の料理が定食で出てくる。なかなかうまい。そしてまた話し続け、結局初対面にも拘らず4時間以上にもなってしまった。

 

それでも別れがたくて、一緒に新芳春の博物館まで行った。ここも大稲埕の大茶商だったが、今は立派な博物館だ。これまで何度か来ていたが、いつの間にか完全リニューアルされており、展示内容は格段に分かりやすく、そして興味深

 

呉さんの一族に歴史に更に興味が沸いてきた。今回はここまでだが、ネタはいくらでもあるだろう。その後も彼からは、様々な資料が送られてきて、それを眺めている。直接的なものではなくても、いずれは役に立つ物だ。再会と新たな発見に期待している。年齢は異なるが、同じ話題で盛り上がれる同士は得難いものだ。

 

一度帰り、疲れをとる。若者と長時間話していたら、やはり疲れてしまった。夜はTさんからのお誘いで、四川の会に行ってみる。これは四川ゆかりの人が集まり、四川料理を食べる会らしい。私も今年、久しぶりに四川に行き、茶旅したばかりだったので、入れてもらった。

 

中山にある四川料理屋、何となく日本的な雰囲気があった。当然ながらそこまで激しい四川料理は出て来ない。なぜか他のお客も日本人ばかりで、店員も日本語で応対する。昔の台北の料理屋の雰囲気がある。参加者も急用などで、4人だけとなっており、和やかな雰囲気で、食事をした。

 

80年代の四川を知る大先輩と、懐かしい話に花が咲く。あの頃は本当に痺れる辛さで、日本人はとても食べられない四川料理が沢山あったことを思い出す。泊まれるホテルは錦江賓館だけ。そして言葉の訛りも強く、何を言っているのか分からないことも多かった。全てが既に歴史の域に入っている。

ある日の台北日記2019その3(11)車埕から鹿嵩へ

11月6日(水)
水里から魚池へ

何だかかなりよく眠れた。急いで宿をチェックアウト。台湾人の団体さんが大勢ロビーにおり、道路にも大型バスが数台停まっている。そこを掻い潜ってトミーの車に乗り込んだ。元々台中に泊まる気はなかったのだが、ちょうど魚池の石さんと連絡を取ったところ、有益な情報があったので、寄っていくことにした。

 

訪問は午後だったので、午前中はトミーの案内で動くことになった。まず高鐵台中駅へ行き、トミーの知り合いを拾う。洪さんは、実は有名人。企業向けのコンサル業をする傍ら、台湾ローカルの良い物を掘り出し、町興しなどに繋げる活動をしているという。その一環で茶も出てくるらしい。突然こういう人物と知り合うのも面白い。

 

以前トミーから聞いていた、水里へ行く。集集線というローカル鉄道の終点、車埕駅に着く。2年ぐらい前に一度、この鉄道に全区間乗ってみたことがあり、その際車埕駅にも10分ほど降りたことがある。何となくテーマパークのような施設があったので気にはなっていた。

 

駅は行き止まり。その先は山に囲まれ、木々が茂り、池があり、見事な自然が広がっていた。平日で人もいないので、ここを散策するだけでも良い。紅葉のシーズンがあれば、是非歩いてみたい光景だ。ここは日本時代、木材の集積所だったらしい。その輸送のために鉄道も敷かれている訳だ。近所にダムもでき、水力発電も行われた。

 

古い駅舎が建っている。日本人でここに来る多くは、鉄道ファンだという。駅前には木業展示館もある。明治神宮の鳥居にも使われた、いわゆる台湾ヒノキはここから運び出されたらしい。日本時代の展示はあまりないが、光復後も日本企業の係わりは大きかったようだ。日本家屋もいくつか保存されているが、これは再建されたものだろうか。

 

池の横にお茶が飲める場所がある。雰囲気の良いここでゆったりとお茶を頂くのもよい。いい風が吹いているので、外で飲めるのも良い。洪さんは過去ここをすでに取材しており、その変化などを計りながら、盛んに写真を撮っている。お土産物屋も地元の物を使って、充実してきているという。ランチもここの食堂で頂く。ファミリーで1日遊べる場所となっていた。

 

水里から日月潭を経由して、魚池の鹿嵩に向かった。先日も伺った和果森林に着いた。入口で石さんと出会った。同席して話をしてくれるのかと思ったら、泳ぎに行くのだという。水泳とジョギング、それによって91歳の石さんは益々若返って、元気になっている。お茶の影響もあるとは思うが、これはすごいことだ。

 

店内には、石さんのお嬢さんと旦那さんが待っていてくれた。彼らとは8年前に知り合ったが、その後はご縁がなく、最近茶の歴史の件で、連絡が復活した。今回も、何と二日前に、日本時代に魚池で紅茶を作った持木家の子孫が訪ねてきたというので、その状況を聞きにやってきたわけだ。石お父さんは、光復後台湾茶業に接収された持木茶廠で工場長を務めたご縁がある。

 

来訪したのは、持木家の次男の娘さんとその子供、孫らしい。台湾から引き上げた後は、茶業にはかかわらなかったという。最近大学生の孫が自分の祖先に関心を持ち、湾生だった祖母と共にやってきたということらしい。私の台湾茶の歴史調査にとっても大変役に立つ話なので、今後繋いでいけると良いな、と思う。

 

和果森林はこの辺りでは先駆的に個人旅行者向けDIY(紅茶作り体験)などを取り入れて、日月潭紅茶を売り出してきたが、ここにきて、少し状況が変わっているようだ。茶の卸しや、新しい茶の飲み方などを指向し、それを他業者にも伝えていく方向性を持っているように見えた。こういう話は洪さんの得意分野であり、かなり突っ込んだ話が行われていた。が、商売の話に関心のない私は、外を眺めていた。

 

現在『日本時代、魚池でアッサム紅茶に投資した日本人』について調べを進めている。その中の一人が、持木壮造であり、これまで知られてこなかった日月潭紅茶のルーツを含めて興味深い歴史が浮かび上がってきている。まずは持木、渡辺、中村三氏について、勉強を深めたい。

 

帰りはトミーの車で高鐵台中駅まで運んでもらい、洪さんと一緒に高鐵で台北に帰った。車中ゆっくり話を聞こうかと考えていたが、何と高鐵は満員で、隣に座ることはできなかった。彼は実は非常に忙しい人であり、講演や企業とのミーティングが詰まっているという。次回いつ会えるのかは分からないまま、台北駅で分かれた。

ある日の台北日記2019その3(10)松柏嶺へ

11月4日(月)
コメダで朝食を

前日の夜、いつもの麵屋が閉まっていたので、ちょっと歩いて、とてもきれいな新しい麵屋に入ってみた。だがこの麵屋も、先日のサンドイッチと一緒で、牛肉麺が240元もした。こんな高い麺を食べるなら、他の物を食べようかとも思ったが、物は試しにと頼んでみた。

 

どんなにすごい麺が出てくるのかと期待していたが、特に特徴もなく、スープも今一つ。そしてなんと、スープをすすったら、中からビニールまで出てきてしまった。さすがに高い料金を取って、これはないよなと思い、店員のおばさんに告げると、『いや、それは大変申し訳ない』と謝った上、お代もいらない、という。

 

そして『日本人に悪い印象を与えてしまったのは、大変残念だ』と頭を下げた。店は新しくても、おばさんは昔気質の人。きっと以前やっていた麵屋は、家賃高騰か再開発で追い出され、子供たちと一緒に新しい店でもやっているのだろう。台北は今、古い店がどんどん無くなり、その人情も薄れていく。

 

今朝はそんなことを考えながら、先日見付けたコメダへ向かう。名古屋に行ってもなかなか行かないコメダだが、折角近所にあるのだから、一度入ってみることにした。ここも店はきれいだ。店員は若者が多く、接客はかなり雑だった。お一人様用席がいくつもあり、よく見るとかなり奥まで席が続いていて、大きな店だった。

 

メニューは、ドリンクを頼むと無料でトーストなどが付いてくる、日本と全く同じだと思われる。コーヒーが110元だからその値段な訳で、日本より若干安いかもしれないが、台湾の朝ご飯より、明らかにボリュームはない。コーヒーの味は特に変わらない。ただ店は若者や主婦層でほぼ満員の盛況。落ち着いてPCなどを使う雰囲気もなく、早々に退散する。やはり残念ながら、私に向いているカフェではないということだろう。

 

11月5日(火)
松柏嶺へ

今日は朝から台中へ向かう。初めて外国人旅行者専用の高鐵割引チケットを購入してみる。700元が560元になるのだから安いのだが、自動改札を通れない。また帰りの時間が読めないので、行きしか買えない。この不便さはJR東海の『ぷらっとこだま』という商品を想起させる。

 

先月と同様、トミーが車で迎えてくれ、松柏嶺へ向かった。今回の目的は花茶の歴史を学ぶことだ。松柏嶺と言えば、低地でどんな茶でも作っていると言われる場所。ここにはどんな歴史があるのだろうか。などと考えているうちに、いつの間にか大地を登り、松柏嶺に入った。

 

まず行ったのは、先月の南投茶博でも会った陳さんの家。お父さんによれば、松柏嶺では1920年代に包種茶を作っていたらしい。陳家では光復後すぐに茶作りを始めたという。武夷や青心烏龍で発酵茶を作っていたが、その後四季春や金萱が中心になり、今日に至っている。花茶は、低級品ということもあり、特に作らなかったという。

 

陳さんが知り合いの茶農家に連れて行ってくれた。こちらではその昔は果物を作っていたが、1950年代に茶を作り始めた。そして70年代に花茶作りが始まった。花は彰化の花壇から取り寄せ、発酵茶と合わせて作った。花は茉莉花の他、樹蘭、黄枝などがあり、その用途に合わせて使った。

 

現在でも色々な花茶を作っており、飲ませてもらった。正直花茶を美味しいと思うことはあまりないのだが、こちらで作られた樹蘭四季春などの花茶は、実に味わいがあり、花の香りもしとやかで、私でも楽しめた。こういう花茶が台湾で作られているとは知らなかった。コストが高いので、値段も高いとは思うが、この商品はありだな。

 

我々が現在普通に口にしている花茶はどこで作られているのだろうか。台湾で売られている8-9割は外国産らしい。値段が安いものは先ず間違いなくベトナム産などだという。ヨーロッパではフレーバーティーはむしろ常道であり、何の問題もないと思われるが、台湾では自然な香りがよいだろう。

 

午後、陳さんの茶畑を見学に行く。仏手を植えているというので、興味を持つ。この品種、実はその由来が中国大陸でも30年ほど前に話題になり、専門家が論争を繰り広げたという。その中に日本に渡った品種、という話も出てくるので、出来ることなら、仏手の歴史を少し調べてみたいと思っている。

 

その後、焙煎を専門に行っている若者の工房を訪ねた。プレハブの簡易な建物だが、炭焙煎も行える設備を持ち、本格的だ。焙煎技術を師匠から習い、自分たちで色々と挑戦しているようだ。台湾茶の特色の一つはやはり焙煎だろうから、今後付加価値を付けていく有効手段ではないか。焙煎の歴史ももう一度洗い直したい。

 

トミーに台中駅まで車で送ってもらい、初めての宿に投宿する。何時も泊る所よりも随分と安い(朝食付きでない)が、寝るだけなら特に問題はない。しかも一人なのになぜか3人部屋で無駄に広い。この宿、団体客が多いから、このような作りになっているのだろうか。夜は少しお茶の歴史を整理しながら寝落ちる。