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京都ぶらり茶旅2020(4)遂に満福寺、そして鴨川を歩く

午後は暑い中、宇治から一駅電車に乗り、黄檗駅で降りる。今まで何度も通り過ぎてきたが、遂に満福寺を訪ねることになった。駅前にあると勘違いしていた満福寺まで歩いて5分ほどあった。誰もいない山門を潜ると池がある。反対側には木庵和尚ゆかりの場所もあった。

入り口で拝観料を払い、満福寺内のお茶関連の場所について尋ねてみたが、『基本的に何もない』と言われ驚いた。僅かに売茶翁の記念碑と堂があるだけで、あとは年に1度、煎茶道の大会が開催されるだけだという。確かに隠元禅師が日本の持ってきたのは茶だけではなく、生活にかかわる様々な物であったので、満福寺が殊更に茶だけを強調することはないように思う。

境内は非常に広く感じられ、木造の建物がいくつもあり、雰囲気は良い。随所に隠元や木庵直筆と言われる額などが掛かっている。黄檗宗といえば、あの木魚もちゃんとある。一通り歩いて回り、門の外へ出ると、そこには『駒蹄影園碑』があった。これは宇治に茶が植えられた頃、高山寺の明恵上人がその植え方を教えたとの故事に倣って建てられたらしい。明恵と茶に関する話はどの程度真実なのだろうか。周囲を見ると何軒か『普茶料理』という看板も出ており、黄檗宗を感じさせる。

暑いので、電車に逃げ込んだ。夕方は京都市内四条まで戻るので、京阪電車に乗ってみる。思っていたよりずっと近いのでビックリ。これは特急だからだろうか。四条にはアーケードがあるので歩くのは楽だ。今日は急遽福寿園に向かった。本を入手するため、お知り合いのIさんを訪ねた。

さすがにコロナ対策が徹底されており、お茶の試飲は出来ず、Iさんとの会話も2m以上離れて行われた。それでもお茶の話ができるのはやはり嬉しく、話が弾む。お客さんも常連さんが断続的にお茶を買いに来るが、長居する人はいない。福寿園の歴史も知りたいところだが、長居は無用。

疲れたので宿へ帰る。今日も湯が出ずに、さすがに部屋を変えてもらうことにした。日本の普通のホテルで湯が出ないとはびっくりだ。黙っていても客が来ることをいいことにメンテを怠り、コロナで休業期間に入ってしまい、問題が発生したのだろう。この機会にメンテを実施すべきと思うが、その費用が賄えるのか。今日も残念ながらほぼ泊り客に会わない。

夜は疲れたので、京都駅の地下で夕飯を済ませることにした。洋食が食べたかったので検索して店に向かったが、まさかの満員。駅は普段の半分以下しか人がいないのに、なぜここだけ満員なのか。仕方なく、カツカレーうどんを食べたが、わざわざカツをカレーうどんに入れる必然性はあるのだろうか。

6月24日(水)鴨川

一応京都市内を歩き、宇治にも行ったので、今回の旅の目的はほぼ果たしていた。因みに目的というのは、連載中の雑誌の原稿締め切りに合わせて、隠元と煎茶を追い求めることだった。今朝は今まできちんと訪ねたことがなかった京都御所に行ってみた。修学旅行でも行った記憶はない。

御所が今のように公園となり、解放されたのは明治に入ってからのようだ。それまでは公家屋敷などが立ち並んでいた。ちょっとミーハーだが、蛤御門を探した。幕末の歴史、面白い。御所内部の参観は制限されており、塀に沿って歩く。蛤御門のちょうど反対側に仙洞御所があった。後水尾上皇やその妻徳川和子ゆかりの御所であり、ここでは多くの茶会が開かれたという。参観するには事前申し込みが必要で中を見ることは叶わなかった。

その後旧九条邸のいい雰囲気の庭などをチラッと見た。明治になり、公家の多くも天皇と共に東京へ向かったのだろう。私も地下鉄に乗り、次の目的地、北大路橋に向かった。その東側に売茶翁顕彰碑が建てられていた。この碑は比較的最近建てられたものだが、売茶翁に繋がる場所はやはり鴨川かもしれない。

何となく鴨川沿いを歩きだす。コロナ下ではあるが、多くの年配者が歩き、また犬の散歩などが行われていた。記念碑もいくつも建っており、歴史的な場所だとの認識も出てくる。ちょうど空が曇り、眼前の山も少しかすんでみえる。川沿いのせいか、暑さが和らいでおり、とても歩きやすい。

川から離れ、かなり歩いていた。神光院という寺まで行く。この辺りは住宅街で、観光スポットは全くない。何故私がここに来たのか、自分でもよく分からない。金閣寺の方を目指すつもりが、少し道を間違えたのだろう。寺に入ると、実に静かで古めかしく、落ち着きがある。時代劇の撮影などにもよく使われた場所らしい。

この寺は幕末の歌人で陶芸家、知恩院ゆかりの大田垣蓮月が晩年を過ごしたという。境内には「蓮月尼旧栖之茶所」と刻まれた石碑、そして茶室(蓮月庵)が残されている。蓮月という人は才能があったようだが不幸で、何度も子供や旦那と死に分れており、出家後最後はこの地で亡くなった。蓮月が生活のために作った陶器は蓮月焼という名で残されている。

京都ぶらり茶旅2020(3)東福寺から宇治へ

さすがに長旅だったので、今日の散歩はここまでとして京都駅前に戻ることにした。近くの地下鉄駅まで歩いて行くと、ちょうど近所の高校から生徒が下校してきており、駅は混雑していた。まさに密な状態があちこちで見られたが、注意する者もない。マスクを外している者もおり、学校の感染予防、ちょっと心配になる。外出が久しぶりだったこともあり、かなりビックリした。ただ地下鉄自体はそれほど混んでおらず、何となく安心感が広がる。

駅前のホテルに戻り、預けた荷物を受け取ってチェックイン。部屋は普通で特段の良し悪しはない。ただすぐにシャワーを浴びたのだが、何と湯が出て来ない。歩き疲れてあまりに暑かったので、そのまま水シャワーで気持ち良く流した。そしてベッドに寝ころび、気だるい至極の時間を過ごす。

今晩は、ご連絡したMさんから先斗町に来るようにとのメッセージがあったので、また地下鉄で先ほどのルートを戻っていく。鴨川の橋を渡って左に折れると、よく京都撮影の刑事もので出てくる風景に出会う。そこをサクッと歩いていると、立派な建物の前に説明書きが見える。土佐藩低跡と書かれているが、建物の前には『角倉了以翁顕彰碑』という文字も見える。更には日本映画発祥の地、という説明もあり、何だか歴史が凝縮されているようで、妙にワクワクしてしまった。

先斗町の狭い路地、人影はまばらでコロナの影響は相当に出ているように思われた。店を閉めているところも多い。そんな中、6年前にも一度行った長竹さんに行く。既にMさんは何か食べながら、ご主人と話し込んでいた。このお店のカウンターに座ると、何となく不思議な安心感があるのはなぜだろうか。酒を飲まない私だが、お茶関係の本が沢山置かれているからだろうか。

Mさんと紅茶の歴史の話を始めるとご主人も加わり、更にはお客さんまでが関心をもってくれ、どんどん茶の歴史話が飛び火し、相当に話が弾んだ。そしてご主人から抹茶パフェの由来などを聞くと、やはり本を読むだけではだめで、実際に旅して分かることもある、と再認識する。そして何より、生の情報に触れることが楽しく、また疑問が湧き、更に調べを進めようという、いい循環が起こってくる。勿論食事も重要で、焼き魚、京野菜などを美味しく頂き、デザートのアイス、あんこ、そしてお茶と満足して、夜が暮れていった。こういう時間を大切にしたい。

6月23日(火)宇治へ

翌朝は天気が良かったので、暑くならないうちに宿を出て、先ずは京都駅前から30分ほど、東福寺まで歩いて行く。この付近、伏見街道沿いにもいくつか寺院があるようで、風情がが感じられる場所だ。東福寺は静岡茶の祖ともいわれる聖一国師が開祖のお寺で、それだけでもお茶関係と言えるが、境内でお茶に関するものを目にすることはほぼない。

ここに来た理由、それはここでも売茶翁が店を開いていたと言われているので、どんなところか、その通天橋と呼ばれる橋を見に来たのだ。入場料600円は少し高いなと思っていると、3月までは400円だったらしい。これもコロナ対策なのだろうか。客殿は改修中で、その費用の捻出だろうか。

中はきれいな小渓谷、そして橋があるが、橋の全貌を撮影できる場所がない。帰りに外を通ると、そこからは全貌が撮れたので、何となく損した気分になるが、まあほぼ人がいない、気持ちの良い庭を歩けることは貴重だろう。敷地は広いので、ゆっくり回っているとかなり時間がかかる。


JR東福寺駅まで行き、電車で宇治を目指す。宇治で降りると、辻利本店が見えたが、ここは昨日の祇園辻利とは同族だが別経営。京都に限らないが、老舗の経営は複雑で部外者にはよく分からない。取り敢えずフラフラと平等院まで歩いて行く。平等院には、宇治茶の碑と辻利の創業者、辻利右衛門の像があると聞いていたので、探しに行ったのだが、入り口の外側に二つともあったので、入らずに写真を撮り、目的を達した。宇治茶の碑は、明治の昔、この建立式典で小学生の三好徳三郎が学校総代で言葉を述べたと言われるものである。

後は宇治歴史資料館へ行って、資料を探そうと考えたのだ。グーグルマップで見ると近道ルートがちょっとした山越えで難儀する。正直かなり暑いし、坂もきつかった。須磨夫のマップには高低差や坂道のきつさは反映されないので、時々困ることになる。何とか資料館に辿り着き、お茶関連の資料をお願いすると、コロナ下にもかかわらず、快く探し出してくれたので、コピー取りに勤しむ。永谷宗円とはどんな人だったのか、宇治茶の歴史は、など、さすが宇治だけに様々な資料があり、色々と勉強になった。

京都ぶらり茶旅2020(2)徒歩で行く京都観光

最後にきつい階段を登りきると、清水寺に出た。ここに来たのは恐らく高校の修学旅行以来ではないか。ただ目的は寺の見学ではなかったのでスルーして、参道に出る。いつもであれば多くの店が観光客を呼び込んでいるはずだが、残念ながら今日は閉まっている店が多く、また歩いている人もまばらだ。学生服も全く見かけない。

三年坂を探す。ここも売茶翁が店を開いた場所と言われているので、一応チェックする。こういう機会でもなければ、わざわざ訪ねることはないだろう。または気が付かないうちにその坂を下りてしまうことはあっても、意識はしないだろう。この辺は如何にも京都に来た、という雰囲気のある場所だが、一方観光客向けになり過ぎてきているともいえる。三年坂とは別名、『産寧坂』(安産祈願)『再念坂』(清水参拝後ここでもう一度祈願)などと書かれているのが面白い。

高台寺に突き当たる。秀吉の正妻おね様のお寺というイメージがあり、お茶会なども開かれている寺だが、今は当然ながら休止中だった。庭が見事な場所だが、スルーして階段を下りていく。ここの階段の風情が好きだ。そして八坂神社までフラフラと歩いて行くのは悪くない。普通はここから賑やかな一帯を散策するのだが、今日はまっすぐ?建仁寺へ向かう。

5年ぶりの建仁寺で桑の碑を眺める。栄西の喫茶養生記、もう一度読んでみようか。この本は喫茶というより薬として効能が書かれているはずだ。その横には平成の茶苑と書かれ、茶樹が植えられている。その前には栄西禅師、茶碑が建立されている。後ろを見ると建立者は祇園辻利の三好さんになっている。台湾から引き揚げた後、作られた祇園辻利の歴史にも興味が沸く。

境内を歩いていると、曹洞宗の開祖、道元禅師がここで修行したとの看板も見える。この当時の宗教については、よく知らないので、各宗派の繋がりなどを含めて改めて勉強する必要性を感じる。お茶の観点だけから栄西を、そして禅宗を見ていても、何も分からないかもしれない。

そのまま四条通へ出た。先ほどの祇園辻利が気に掛かり、その本店を訪ねてみた。店員さんに店の歴史を訪ねてみたが、ほぼ何も知らないようだった。『先代が昨年亡くなりまして、歴史を知る人もいなくなりました』という言葉が、まさに歴史を感じる。戦後の混乱期、着の身着のまま台湾から引き揚げてきた人々の苦労は既に忘れ去られようとしている。

急に腹が減る。元々ランチを探すはずがいつの間にかこんな所まで歩いてきてしまっている。目についた焼肉屋に飛び込み、焼肉定食を食べる。腹が減っており何ともうまいのだが、なぜ京都まで来て、焼肉を食べているのか、自分でも分からない。ランチ1080円と書かれていたので、てっきり税込みだと思っていたら、税別だった。こんなことが新鮮に感じられる。

特に雨も降って来ない。ホテルに帰っても仕方がないので、更に歩きだす。正直これだけ長い距離を歩いたのは数か月ぶりで、足がパンパンに張り、嬉しさにあふれている。やはり旅をしないといられない体になっているのだ。目指すは知恩院。恐らくここも高校の修学旅行以来ではないだろうか。40年前のその時、静かでよい印象を持ったお寺だった。

かなり厳しい階段を上ると、やはり静けさがあった。自分がここへ来た理由など、完全に忘れて、ただボーっとしていた。いつもなら修学旅行生などで賑わっているのかもしれないが、これが私の知恩院だと思う。門を出てフラフラ歩き出す。すると寺の外壁の植え込みがなぜか目に入る。

そこには何かの碑が建っていたが、よく読めないので、植え込みの中へ入りこんだ。そして驚いた。『前田正名君』という文字が見えたのだ。私が知恩院に来た理由は、この前田正名の碑を探すことだったのだ。しかもまさか境内ではなく、こんなひっそりした場所にあるなど思いもよらない。前田正名は明治期の偉人の一人だと思っているが、今や完全に忘れ去られた人物だ。この碑が現在の彼の評価を物語っていた。

更に行くと『大谷本願寺故地』や『蓮如上人御誕生の地』などという碑が見えてくる。花園天皇陵もあり、『ここはお国の何百里』などという軍歌の碑まで現れる。何とも不思議な道を歩き終えると、そこには平安神宮の赤くて大きな鳥居があった。何だか旅が終わった気分になるも、今日最後の目的地へ向かう。

西福寺、そこは南禅寺の参道をちょっと脇に入った、とても小さな寺だった。なぜそこへ行ったのかと言えば、そこに雨月物語で知られる作家、上田秋成の墓があると聞いていたからだ。上田秋成は江戸時代、数寄者として名があり、煎茶にもかなりのめり込んだという。ちょっと意外な人物が煎茶と関連していたので検索してみると、墓は大阪ではなく京都にあると分かった訳だ。ただこのお寺、門のところに説明書きはあるものの、中に入ることは叶わず、墓に参ることは出来なかった。

京都ぶらり茶旅2020(1)ステイハウスからの脱却

《京都ぶらり茶旅2020》  2020年6月22日-25日

バンコックから戻った3月23日以降、私は自主的に14日間、外に出ず自宅で過ごした。その間に東京五輪は1年延期となり、緊急事態宣言が出て、週に1度、1時間以内の買い物以外、外へ出ることもなく5月まで過ごした。6月に入ってもコロナは収まったのか、事態はどう推移しているのか、はっきりしない状況が続いていたが、ベトナムやタイなどでは感染者がほぼいなくなり、次のステップに進むような動きとなっていた。

そんな中、2か月以上体を動かさずにいたところ、体調不調に陥り、やはり散歩ぐらいはしなければと、徒歩訓練と称して近所を歩き始めた。東京アラートなる奇怪な警報も出されていたが、いつの間にか解除されていた。そしていよいよ連載している原稿の都合上、京都だけはどうしても行かなければならない事態となり、県跨ぎ自粛の解除(6月19日)とともに、意を決して新幹線に乗って徒歩訓練遠出に出発することとなった。

6月22日(月)京都まで

京都まで行くには、昔は安い夜行バスなどに乗ったものだが、今回はとにかく蜜を避けるために、一番早い新幹線を利用することにした。新宿あたりで見てみると、いつもは安いチケットを売る販売店で、なぜか『自由席券は売切れ』と書かれているのが目を惹いた。そろそろ出張者などが動き出す頃だが、皆どの程度混んでいるのか分からないため、指定席ではなく、席を自由に選択できる自由席に乗ろうとしたのではないだろうか。

実際品川から新幹線に乗ってみると、指定席でも3席の真ん中はさすがに空いていたが、それなりに乗客はいた。自由席もやはりそれなりに混んでいる。午前10時前の新幹線、いつもなら乗っているはずの観光客の姿がほぼ見られない。勿論外国人は皆無だった。スーツ姿の男性が殆どで、乗りたくないのに無理して乗っているといった感じか。

いつもなら昼時には駅弁を買って食べるのだが、マスクを外すべきかどうかも分からず、食べるのも憚られた。周囲でも誰も食べている人はいない。マスク率は100%で、寝ているか、スマホやPCをいじっており、声も全く聞こえてこない。静まり返った車内が、コロナを感じさせた。

京都駅で降りると、まず目を惹いたのは観光客の少なさ。駅前のバスターミナルには、いつも長い列が出来ていたはずだが、今は殆ど人がない。バスも乗っているのは地元の人なのか、その数も極めて少ない。予約した駅前のホテルでも、お客はあまり見かけなかった。いつもならその便利さから予約が取りにくい宿のはずだが、何とも寂しい。そしてその料金も通常の半額程度ではないだろうか。貧乏旅行の私としては有難いが、如何に異常事態であるかを示していた。この宿の営業は6月1日より恐る恐る再開した、ということで、アクリル板が目新しい。

三十三間堂から清水寺を回り

取り敢えず荷物を預けて外へ出た。このビルの1階には、辻利が入っており、喫茶スペースも設けられていたが、ソーシャルディスタンスで座席が減らされており、お客は一人もいなかった。雨が降りそうだったが、腹も減ったので、フラフラ歩いてみる。以前泊ったことがあるゲストハウスも閉まっており、外国人バックパッカーで賑わっていた宿も廃業したのかもしれない。

鴨川を越えていくと、蓮華王院が見えてきた。三十三間堂とも呼ばれており、宮本武蔵を思い出す。チケット売り場にも人影はなく、前を通り過ぎた。煎茶道の祖とも呼ばれる売茶翁はここに店を出して茶を売ったというが、どうなのだろうか。勿論その痕跡はない。向かいには国立博物館もあったが、月曜日は休館日で入れなかった。

暫く長距離を歩いていなかったこともあり、何となくそのまま歩きたい気分となる。曇りで暑さも厳しくないのでちょうどよい。北の方角に歩いて行くと、大谷本廟に出た。徳川幕府により改葬された親鸞聖人の廟堂だった。ちょっと気になってお参りしてみたが、人影はなく、厳粛な感じであった。

その先を清水寺へ向かうのに、近道として坂を上った。かなりきつい坂だったが、両脇は墓で、ちょっと面白い。『肉弾三勇士の墓』など、日清日露から太平洋戦争まで、戦死した人々の墓が目立っている。『陸軍伍長』など肩書が書かれているものも多く、中には亡くなった場所や経緯が彫り込まれているものもある。確かに無念の戦死を遂げた親族を弔うために、このような方法になったのだろう。高台から街がよく見えた。

ある日のバンコック日記2020(24)緊張状態で帰国したが

花屋が並ぶ一角、よくよく見てみると、その合間に茶を売る店が2軒は見つかった。王陽春という店などは、あの安渓華僑誌にも名前が記されているので、ある意味では大発見だった。パイナップルの商標が何ともかわいらしい。店員はタイ人(いやカンボジア人?)だったが、奥から華人女性が出てきてくれた。店や一族の詳しい歴史は母親に聞いてほしいと言われたが、生憎今日は不在だった。

彼女とは華語で話せたので、後日再訪すると伝えたが、何とこれが今回最後の茶旅となり、コロナ避難となってしまった。このお店の歴史、非常に興味深いのに、何とも残念だが、既に外出制限がかかりそうで、無理して訪ねる訳にも行かなかった。とにかくバンコックにもまだまだ隠れた茶荘があり、その歴史に踏み込む余地はある、ということだろう。

それからMRTに乗って、ファランポーンまで行き、ランチを探す。汁なしワンタンメンがうまいと評判の店に入ったが、いつも満員の店内がガラガラ。すでに外国人観光客の姿は激減しており、チャイナタウンもひっそりとしていた。この麺、美味いが量が少ない。次回は大盛りやら、汁麺やらを食べてみたいと思うのだが、それが叶うのはいつのことやら。

3月22日(日)帰国

帰国の便が決まり、急に慌ただしくなってきた。2か月半も同じところにいると、なんだかんだで物も溜まり、捨てるか持って帰るかの決断を迫られてしまう。今回は予想外の成果もあり、資料や本なども多く持ち帰ることとなる。この宿には1か月分の家賃を納付済みだったが、最後は半月で出るになってしまった。もったいないとは思うが、まさに自己都合、文句は言えないし、宿の方も収入減で困っているはずだから、ある種の支援と考える。

そんな中で、借りていた本を発見し、前日急遽返しに行ったりもした。バスでアソークへ出たが、人が本当に歩いていなかった。週末だが閉まっている店も増えてきている。いよいよバンコックのロックダウンの噂も本格化し、不要不急の外出はしなくなっているようだった。

私は2日分の食料を買い込み、部屋で食事をしていたのだが、買い置いたサンドイッチかおにぎりが悪くなっていたようで、急に腹痛を起こしたのにはかなり焦ってしまった。何しろ発熱は致命的、飛行機にも乗れなければ、この宿にいることもできなくなるのだから、絶対に避けなければならない。

幸い熱は出なかったのでホッとしながら相撲を見ていた。白鵬が勝ってしまい、つまらない幕引きであった。こんな時期でも日本のニュースではまだ『東京五輪』が開催できるかのような論調が流れており、狂っているとしか思えない。世界のアスリートが東京に集まるわけがないだろう。プロ野球もJリーグも開催延期となっているにもかかわらず、オリンピックは開催するというのだから、恐ろしい国だと言わざるを得ない。

フライトは今日の深夜発なので、時間はたっぷりあったし、ホテルで1泊しているわけではないので、チェックアウトは午後9時にしてもらった。空港まで行くタクシーがあるのか心配したが、すぐにやってきた。運転手は厳重にマスクしており、我々より彼らの方がよほど高いリスクの中で仕事をしていると感じられた。

空港に入っても(入り口で体温チェック)人影はまばらだった。ヨーロッパ線のどこかの航空会社のカウンターの前にだけ、白人の団体がいたが、その他は基本的に人が少なく、蜜の状態はなかった。出国手続きもいつものような混雑はなく、スムーズ過ぎる。免税店には少しだけ人がいた。私と同じように帰国する人々が最後に土産を買っている。

時間が余ったので、ラウンジを使おうと思ったが、多くのラウンジは閉鎖されていた。タイ航空のラウンジも一番端の一か所に絞られており、そこに入るとかなりの人がいたので、緊張してしまった。体調もそれほど良くはないので、何も食べずに紅茶だけを飲んでいたが、居心地も悪く、すぐに出てしまった。空港内のベンチの方が人はいなくてよい。

フライトは定刻に出発。乗客は半分ぐらいだろうか。白人が意外と多いのは、バンコックのロックダウンに備えて東京へ移動するのか、いや東京経由で帰国するのか。深夜なので機内ではお茶が一杯出ただけですぐに暗くなる。そして朝日が射しこんで起き上がると到着だった。思いの外眠れたのは良かった。

羽田空港もさぞや緊張しているだろうと思っていたが、何と飛行機を降りても、検疫所カウンターもノーチェック。入国審査も自動で、どこから帰国したのかも尋ねたれることはなかった。どうやら特定国から来た乗客だけ別扱いにしていたようだが、あまりにあっけなく、驚いてしまい、そしてバンコック入国とのあまりの違いに、怖いと感じてしまう。

朝早いこともあるが、新宿行きリムジンバスの乗客は4人でホッとする。新宿からも普通に電車に乗って帰った。こんなことで良いのだろうかと思ったが、翌日帰国した人への対応はかなり厳しかったという。バンコックは翌日ロックダウンとなり、空港便の減便も続いていった。私の帰国は全てがギリギリだったのかもしれない。ここから約2か月半、週に一度1時間以内の買い物以外全く外へ出ない完全籠城生活が始まった。

ある日のバンコック日記2020(23)まだあった老舗茶荘

3月19日(木)再会

状況はどんどん厳しくなり、遂にバンコックもロックダウンに入ることとなった。私はあまり難しいことを考えずに、日本に帰る道を選択し、航空券の手配を行った。既にLCCなどの運休が発表され、1週間先の東京行は料金が跳ね上がっていたが、その前であれば、片道4万円ぐらいでタイ航空に乗れるので、それを選んだ。エアチャイナから片道の返金があれば、ある程度カバーできると諦めた訳だ。

事態はそれほどに切迫している。知り合いのMさんは、逆にバンコック籠城を決めたという。彼は住むところもあるし、仕事にも支障がないので、一つの選択だなと思う。確かにこんな稀有な光景を見られることはないだろう。寧ろいまだにオリンピックを開催すると言っている東京の方がどれだけ危険なことか。それでも家族がいるから私の場合は帰るのが原則だろう。

そんな中、2月初めにチェンマイで再会したOさんが、その後チェンマイを離れ、放浪していることが分かった。彼も沖縄へ向かおうとしたが、既に直行便は閉ざされていた。ちょうどバンコックに来たというので、会いに行ってみる。

場所はプロンポーンの蕎麦屋。こんな時期に開いているのかと思ったが、席の間隔が開けられた店に、お客はそれなりに居た。この蕎麦屋の特徴は、1玉でも3玉でも料金が同じということらしい。折角なので、3玉頼んでしまった。更にはかつ丼をセットにするのだから、胃袋もたまらない。バンコックの和食の競争激化は相当なものだ。

お茶会のMさんも加わって、発酵談議に花が咲く。私はお茶の発酵のみに関係があるのだが、お二人は味噌など発酵食品を作っている。東京に戻ったら、改めて小泉武夫の『発酵』という本を読み返したいと思った。タイのミエンももう一度見たいがいつになることやら。

Mさんはご主人が日本へ行っており、既にPCR検査の陰性証明が得られなければ、バンコックに戻れない状況だという。これからは往来が難しくなり、当分の間、全てがストップする。だが日本では、全てを止めずに解決を図ろうとしていた。普通に考えれば無理な話だが、日本を信じて帰るしかない。

夕方先ほどOさんに教えてもらったデリバリーアプリをインストールして、注文する実験をした。タイ語中心のアプリは無理なので、英語アプリを入れ、馴染みのマクドナルド商品を選んでみた。ビックリしたのは、店舗に行くよりかなり安く、しかもデリバリー料金も安い。これは日本ではとてもできないサービスだ。

ところが注文しても、商品が運ばれてこない。スマホで位置関係を確認するとすぐ近くまで来ており、電話が掛かってきたが、当然タイ語なので応対が出来ずにお互い困ってしまった。仕方なくフロントに頼んで連絡してもらい。何とか受け取ることができた。アプリ上の住所が間違っていたらしいが、そこはタイ語だったので私には確認ができなかったわけだ。まあ、このサービスが使えるのであれば、多少の籠城戦は戦えるでは、と思った。

3月20日(金)老舗訪問

実は2週間ほど前に、フラフラと王宮近くを歩いていると、以前も訪ねた例の王有記茶荘の北側に、もう一つ老舗茶荘があることに気が付いた。そこは店の前にドリンクスタンドがあり、暑かったので冷たい飲み物を頼んで、店内で飲んでいた。よく見るとこの店の名が王瑞珍であったので、思わず反応してしまった。というのは、台北とマレーシアのイポーでこの名前の茶荘を見たことがあり、恐らくは親戚であろうと考えられた。そうであれば、ちょっと面白い。

だが店を預かる女性は華人の顔はしているが、華語は全く分からないと頭を振り、通訳してもらっても自らの茶荘の歴史は分からないという。ただ王姓であるから福建の安渓出身であることは分かった。彼女の父親は健在だというので、後日改めてということで、今日の日を迎えた。

日程のアレンジ及び通訳はHさんにお願いして出掛けた。お店に着くと、80歳を越えた王天慶さんご夫妻が迎えてくれた。やはり王さんの祖父は福建安渓西坪堯陽の出身で、タイに渡ってきた人物。台北の王瑞珍も親族が経営していることが分かった。ただマレーシアの店については、親戚はいると思うが、茶荘をやっているとは聞いていないとのこと。

この店は娘さんに任せて、王さんは普段、息子とともに川向うのクディチンに住んでおり、茶工場もそこにあるという。中国やタイ北部から茶葉を持ってきて、この工場で加工して売っているようだ。クディチンと言えば、アユタヤから移住した福建人が多く住んだ場所。何となくこれまでのバンコック歴史散歩が鮮やかになっていく印象がある。今度機会があれば、茶工場にもお邪魔しよう。

王さんの話の中で興味深かったのが、この近くにまだ数軒、老舗茶荘が残っているはずだという証言。言われたとおり歩いて行くと、かなり遠かったが、MRTサナムチャイ駅近くの花市場付近に辿り着く。この辺りは先日も散歩した場所だが、茶荘があったという記憶は全くない。

ある日のバンコック日記2020(22)バンコックに戻る

3月14日(土)空港で

ビエンチャンからのフライトはいつものように呆気なく着陸した。そして前回同様、タラップを降り、バスに乗り込む。1台に全員を詰め込むので、かなりの密度になっている。走り出すと隣の若い女性、突然気分が悪くなり、座り込む。過呼吸ではないだろうか。友達が世話していたので、周囲は心配しながら見守り、降りる時は若者が手を貸していた。

今回も先月同様、空港内には殆ど人がいなかった。ただ入国審査のところには、意外と人がいたのでその後ろに並んだ。前の方の白人たちを見ると、皆係員に何か聞いており、戸惑っている。中にはアルゼンチンから来たといっただけで、空港内の保健室に案内されている人もいた。一体何が起きているのか、全く分からない混沌とした状況が出現し、にわかに不安になる。

ただよく見てみると、列の横にQRコードが見え、何か説明書きがある。どうやらこれをスキャンして、情報を打ち込む必要があると分かり、トライしてみると、空港アプリが出てきた。名前や搭乗便など入れていく。最後にパスポートを写メしてアップロードすると、OKがでたので、係員にそれを告げると、好きなところへ並べという。

ようは皆入力に慣れていないことから進まないだけで、審査ブースは暇にしているのだった。ここでも何か聞かれるかと身構えたが、スマホを見せると、帰国チケットや保険の提示も求められず、すぐに入国スタンプが押され、全くの拍子抜けだった。やはりラオスからの入国にはこの時点では、何の制限もなかったのだ。ただ入国者の追跡のためにスマホ入力を求められたまでだ。これで私も監視対象だ。

ターンテーブルにも、出口を出ても、相変わらず殆ど人はおらず、思っていたほどの緊張感はなかった。取り敢えずバンコックに戻れたので、ホッとしてゆっくり歩く。ただこのままでは終わりそうもない。これから何かが始まるので、それに備えなければいけない。そんなことを考えながら、エアポートリンクに乗り込む。さすがに皆マスクをつけている。乗客は先月より少ない。MRTも同様だ。白人は母国では基本的にマスクをしないと聞いていたが、さすがにこの事態では対応せざるを得ない。

部屋に戻ると、また相撲を見て過ごす。既に多くのスポーツが中止となる中、相撲が見られるのは本当にありがたいことだ。しかも昨日はビエンチャン、今日はバンコックで見られるのだから、嬉しい限りだ。ただ白鵬が強すぎるのはどうだろうか。先場所のように両横綱不在の方が面白い相撲が多いように思う。

そのままボーっとテレビを見ていると、ブラタモリが始まる。今度は長崎が舞台で、行ってみたい場所が次々紹介される。林田アナがまたピアノ?を弾いている。見終わると、パンを買いに外へ出る。これからは食料の備蓄も必要になってくるだろう。いつも行くパン屋だが、時間が遅いせいか、普段必ず買うぶどうが一杯入ったブドウパンはなかった。ただ念のため聞いてみると、ちょうど奥で作っており、作り立てのパンを買うことができた。今はこういう小さな幸せを積み上げるしかない。

3月16日(月)ご紹介で

既に2か月以上泊っている定宿だが、ついにロビー入り口で検温が始まった。もし体温が37.5度以上であれば、中に入ることはできず、そのまま病院送りとなるらしい。迂闊に発熱は出来ず、外出にも注意を払う必要がある。毎日緊張状態が続くことになる。予定されていたバンコックでのコラボイベントもすでに中止となっており、ここに留まる理由は正直無くなっていた。

更には『バンコックロックダウン』という言葉が聞かれ始め、もしそうなれば買い物などにも不便をきたすことになり、さすがにここにいる理由は完全に無くなる。折角ラオスでビザを更新したのだが、帰国の決断が迫られてきた。宿のオーナー夫人は特製の洗えるマスクを発注しており、私も家族分譲ってもらって、東京へ3つ郵送した。いよいよ臨戦態勢に入ってきた。

そんな中、先日偶然にも再会したシアヌークビルのSさんから、Iさんをご紹介頂いた。タイ北部などで少数民族の茶業支援をしており、ちょうど先月訪ねたパクセーでも行っているということなので、このような時期ではあるが、会えるときに会いましょう、ということで、早々面会する。

アソークのホテルで待ち合わせたが、繁華街は火が消えたようになっており、店もかなりが閉まっていた。ホテルでもマスク、消毒が徹底されており、人と人との距離にも注意が払われ、かなりの緊張感があった。そこでIさんから話を聞く。今日からチェンマイに行くとのことで、タイ北部のミエン造りを見てみたいという。Iさんはタイに20年以上おられ、共通の知人も多くいる。ホテルのビュッフェでランチを食べたが、さすがに客は少なかった。

サクッとビエンチャン旅2020(3)ビエンチャンからバンコックへ

3月14日(土)ビエンチャンからバンコックへ

昨夜は蚊に刺されて眠りが浅かった。バンコックなどの宿では蚊に刺されることも減り、無防備だったのが災いした。朝起きてロビーに行ってみたが、朝食を食べている人はおらず、泊り客はほとんどいないと分かる。ここの朝食は以前はフランス風でいいなと思っていたが、今や簡素なコンチネンタルブレックファーストに思えてしまうのが悲しい。

昨日街を歩いてみても、開いていないホテルがいくつもあった。観光業が主力のビエンチャンに外国人が来ないことは死活問題であろう。今泊まっている宿も、泊り客が来るとは思っておらず、何となく投げやりに運営しているようにしか見えない。次回ここに来た時、どこのホテルが残っているのだろうか。

食べていると、なぜか誰もいないのにわざわざ私の後ろの席に座る夫婦がいた。どうみても中国人だ。こんな時期だから遠く離れた席に着けよ、と思わず言いたくなる。そしてさらにやってきたおじさんも中国人で、現地の華人と何やら商売に話をしている。ラオスは一部の中国人にとってはコロナの避難場所となっているのだろうか。

ちょっと不愉快な気分のまま、外を散歩する。特に見るべきものもなく、ふらふらと歩く。以前は沢山いた観光客の姿は少なく、どこの宿も店も開店休業状態に見えた。バトゥサイ方面を歩いても、地元の人さえ、ほとんどいない。寺でゆっくり休もうかと思ったが、開いていないところもある。いよいよ世界的にコロナが広がりつつある。後一週間経てば、ここに来ることもできなくなるかもしれない。

飛行機までには時間があったが、外も見るところがなく、部屋に帰って涼む。テレビを点けると、バドミントンの全英選手権をやっており、日本選手と台湾選手の試合を放送している。こういう試合、日本ではなかなか見られないよなあ。それにしてももし東京五輪が開催されれば、バドミントンのシングルスは男女とも台湾が金メダルという可能性があるな、と思ってしまう周天成の動きだった。

11時になったので、宿をチェックアウトして、空港へ向かう。相変らずバスは整備されえおらず、トゥクトゥクを探して料金交渉して乗り込む。運ちゃんも苦しい時間を過ごしていると思うので、ハードな交渉はなしだ。まあ観光客も少ないから、トゥクトゥクもあまりいない。

空港まではわずか10分。ここは何度も来たのでよくわかっている。先月行ったパクセーの空港に比べればさすがに大きいが、それでも首都空港としてはかなり小さい方だと思う。ボードを覗くと、中国と韓国へ向かう便は軒並みキャンセルが出ており、バンコックへ向かう白人などがチェックインをしていた。

カウンターでは少し緊張する。係員はバンコックからどこへ行くのか、と聞いてきたので、東京へ帰ると答えると、案の定帰りのチケットを要求してきた。一応これも想定内で準備していたので、難なく通過した。一番恐れていた10万ドルの海外保険提示要請がなかったのは有難い。勿論熱がないことは入り口で測られていた。

2階に上がると、レストランなどもあり、食事ができるようになっていたが、腹も減っていなかったので、そのまま出国審査を通り過ぎた。乗客のほとんどいないガランとしたベンチでPCを開けて、旅日記を書いていた。すると近くで急にけたたましい話声が聞こえてきた。中国語でこんなうるさい会話を聞いたのは2か月ぶりだろうか。若者が10人以上いるのだが、彼らはどうしてここにいるのだろうか。そしてどこへ行くのだろうか。

推測するに、彼らはラオスに働きに来ていたのではないか。そしていよいよ帰国することになったのだ。ラオス人の係員が突然中国語で『広州行きはあっちのゲートだ』と叫ぶと、数十人がぞろぞろ動いて行き、その中に若者たちもいた。非常に減便されている中、貴重な広州行きだったということか。それにしてもいつもうるさいと思って避ける中国人の団体が何とも懐かしく思えるのは、コロナのせいだろうか。

タイスマイルは最低1日2便、今もバンコック-ビエンチャンを飛んでいるようだった。搭乗すると乗客は半分以下。それでも意外と乗っているなと感じる。一応食べ物も出てきたが、あまり食べたいとは思わない。ドリンクだけを飲んで、目をつぶっていく。果たしてバンコックの空港はどうなっているだろうか。万が一トラブルに巻き込まれたらどうなるのだろうか。昨日離れたばかりのバンコック、たった1日でガラッと状況が変わりかねない中、かなり不安な状況が続いていた。

サクッとビエンチャン旅2020(2)観光客の去ったビエンチャンで

ようやく出たバスは、すぐに橋を渡りラオ側に到着する。ラオス入国の際にも何のチェックもなく、ただパスポートにスタンプが押されただけだった。かなりの緩さと言わざるを得ない。自分の中ではかなりの緊張感があったが、それと相反する国境ののどかさ、このギャップの凄さに驚く。イミグレを出ると、タクシーの運転手が声を掛けてきたが、ビエンチャン市内までの料金は一律200バーツだと言って譲らない。ネット情報ではもう少し安いはずだが、最近は客がいないせいか、タクシーも少ないらしく、交渉はまとまらない。

向こうを見るとバスが停まっているので、そこへ行くと市内へ行くようだったので、バスに乗り込んだ。荷物が少ないので何とも身軽だ。タイバーツを車掌に渡すと、30バーツぐらいの料金のようだった。ビエンチャン市内まではそう離れておらず、何よりタイとは川を挟んでいるだけなので、タイのシムで何とか拾えるので、スマホで地図を見ることもできた。

30分ぐらい走っていると、市内へ入り、結局終点で降りた。この付近、何となく見覚えがあるので、そのまま歩きだした。特に予約はしていないが、ネットで調べておいた宿まで歩いて1㎞ちょっと。その間には以前訪れたことがある寺院などもあり、暑いが安心感がある。

ところが中心部のその宿へ行ってみると、隣のワンブロックが大規模工事中で、騒音がかなりするので、避けることにした。そして昔何度か泊まった宿へ向かったが、ここは何ら変わっておらず、お客もいなかったのに、料金も変わっていなかった。ネット予約の料金も全く同じでつまらない。

靴はロビーで脱いで部屋に上がるスタイルだ。昔はいい宿だと思っていたが、部屋ではネットが繋がりにくく、電気ポットがないのでお茶やコーヒーも飲めず、テレビの画像も悪かった。それでもNHKが映ったので、取り敢えず相撲を見てしまう。朝乃山と御嶽海の取り組み、朝乃山は大関になるだろうか。

午後4時になると腹が減る。今日は殆ど物を食べていないことに気が付く。いつもならビエンチャン名物を探すところだが、取り敢えず近所の麵屋で麺を食べてしまう。腹が朽ちたら散歩だ。華人の様子なども知りたいと思い、華人廟などを探して歩いたが、なかなか見つからない。ようやく川沿いに新しく建てられた廟を見つけるのがやっとだった。

実は今回のビエンチャン訪問は、華人調査の一環であり、以前からのお知合いMさんと連絡を取り合っていたのだ。彼の奥さんは客家だというので、色々と面白い話が聞けるのではないかと思い、楽しみにしていたのだが、コロナの影響で、先日日本から戻ったMさん自身が2週間の自宅待機することになり、直前に会えなくなってしまったのだ。勿論こちらも華人調査よりビザ目的なので、今回は致し方ない。

一度宿に戻ったが、のどが渇いたので、また外へ出た。折角なのでメコンの夕陽を眺めようと川へ向かったのだが、以前と違い、河川敷が開発対象となり、近づけなくなっている。その昔は川辺でガイヤーンを食べた記憶があったのだが、今はかなり奥に引っ込んで道沿いに屋台を集中させている。

屋台では、魚など海鮮を中心に、いい匂いをさせて焼かれていた。私はさっき麺を食べてしまったが、ここはどうしてもガイヤーンぐらいは食べようと探す。だが鶏は大きくて、一人ではとても食べきれない。じっとぐるぐる回っている鶏肉を見ていると、おじさんが私を一人とみて、半分でも売るよ、と言ってくれたので、80バーツでガイヤーンを手に入れ、後ろのテーブルでかぶりついた。やっぱりうまい。大満足で食べつくして立ち去る。

ビエンチャンにはタイのようなコンビニは見当たらなかったが、いつの間にかBigCエクスプレスが出来ており、コンビニの役割を果たしていた。中で売られているものも、タイとそうは変わらない。きっとタイから運び込まれているのだろう。ラオスは人口も少なく、自国生産には向かない国だ。こんな国はコロナだから鎖国する、というは簡単ではないだろう。

今日ビエンチャンの街を歩いてみたが、いつもは観光客で溢れるような場所は、軒並み閑古鳥が鳴いている。白人なども僅かに見られるが、中国・韓国系はほぼいないようだった。ただ地元のラオス人でマスクをしている人の率はそれほど高くなく、コロナに対する意識が高いとは言えないようだった。

サクッとビエンチャン旅2020(1)ウドンタニーから

《ビエンチャン旅2020》  2020年3月13日-14日

元々タイには2か月のつもりでやって来ていたが、その2か月は既に過ぎていた。ここ9年、ひたすら旅を続けてきたが、これほどまでに情勢が変わっていくのは、あまり記憶にない。とにかくどこにいるのが自らの旅にとって一番良いのか、安全か、動きやすいか、などと考えなければならないことはかなりの異常事態である。取り敢えず決めたことは、日本の方が危険なのですぐには帰らないということだけだった。

ただ問題はタイ滞在のビザ免除がもう少しすると切れることだ。昨今の情勢下、どこの国に行って戻ってくるのが利巧なのか。いや、事態が急変してもタイが受け入れてくれる国はどこなのか、を考えて、先月同様ラオスを選択した。だが先月のパクセーは多分に旅行であったが、今回はできるだけ早くバンコックに戻ってくるのが目的、という、私の旅としては珍しいものとなる。

3月13日(金)ウドンタニーからビエンチャンへ

一番簡単なのは、バンコック‐ビエンチャンを飛行機で往復することだが、さすがにそれではあまりに芸がない、ということで、ウドンタニーまで飛行機で行き、バスで国境を越えて、ビエンチャンから飛行機で戻る、というルートを選択した。当日戻るのはちょっと、ということで、ビエンチャンに1泊することになる。

フライトはタイスマイルを選んだ。先日ミャンマー行の国際線に乗ったが、今回は国内線に乗ってみる。少しでも変化をつけないと、旅が余りに単調になってしまう。タイスマイルは国内線でもスワナンプームから出る。MRTからエアポートリンクと乗り継いで空港へ向かった。さすがに車内は空いている。そして空港もガラガラだった。これはほぼ予想通りだ。

国内線にチェックインするのは何年ぶりだろうか。カウンターで『明日ビエンチャンからバンコックに戻るが、何は要求されるものはないか?保険とか?』と聞いてみたが、皆ポカーンとしている。そして空港インフォメーションで聞いてみたらというので、今度はそちらへ回ったが、『それは各航空会社が要請するものだから航空会社に聞け』と言われ、全く埒が明かない。この辺は如何にもタイ的な対応だった。 荷物検査前にはきちんと検温される。

国内線の搭乗ゲート付近には、意外ときれいなお店が並んでいた。でもタイ国内に行くのに、ここで買い物する人がいるのだろうか。田舎の親戚にお土産でも買うのだろうか。フードコート的な物もあるが、料金は国際線のところとあまり変わらず高い。賃料は国際、国内ともに変わらないのだろうか。

機内に乗り込むとCAはマスクに手袋の重装備だった。乗客は半分ぐらいか。殆どがタイ人のように見えた。知り合い同士は隣に座っているが、一人客などは間を空けた席が指定されている。一応パンなども出たが、飲み物もペットボトルの水だけだった。まあ1時間はあっという間だった。

ウドンタニーには数年前、ビエンチャンからバスで来て、そのまま空港から飛行機に乗ってしまったので、街の印象はない。そして今回もまた、街に寄ることはなく、そのまま国境へ向かう。因みに2週間ほど前にビエンチャン行きを思い立った際に、ウドンタニーに1泊するつもりで、キャンセル可能なホテルを予約していた。

だが予約日は16日であり、今回は泣く泣くキャンセルする。ところがキャンセル無料なのは1週間前までだったことに突如気が付き愕然としたものの、実際キャンセルボタンを押すと、その後全くキャンセル料を取られることはなかった。このご時世、ホテル側も仕方がないこととして扱っているのだろうか。

ラオス国境まではミニバスが出ている。カウンターで200バーツ払うと、バスまで案内された。いつ出るのかと聞くともうすぐとのことで好都合だった。だがその後乗ってきたのは3人だけで、いずれもタイ人。結局4人しかいないのであればと、別のタクシーに詰め込まれ、狭い思いをしながら国境を目指す羽目となる。タイミングは金曜日の午後、いつもなら外国人のビザラン希望者が乗ってくるはずだが、週末はビザ申請もできないので、空いているようだ。いや、元々ビザランする人ももういなくなっているのかもしれない。

車は国道に出た。いい道だ。意外と車が走っている。何となく1時間ほど走っていくと、国境に着く。まず一人がその手前で降り、次に私が国境の入り口付近で降ろされた。ということは、ラオスに向かうのは私だけということだ。タイ側イミグレに繋がる道で、『ビエンチャン行くか』とタクシー運転手に声を掛けられた。500バーツで行くというのだが、無視してタイ国境を歩いて通過した。

出た所で通行税を支払うゲートがあったが、今日は無料開放。バスに乗るには15バーツ。ボロボロのバスには既に結構人が乗っていた。かなりの荷物を持って乗り込んでくるので、ラオス人かな。バスはなかなか出発しないので暑かったが、時間はあるのでゆったりと構える。